産声
一枚の、薄っぺらい紙。
それがこの世界に存在する証。
彼のために製作された書類はとてもファイル一冊では済まされないだろう。
しかし、彼が生きていたという証明である書類だ。重要であり、なおかつ本来ならばそれ以上の量でなければならないはずだ。
何故、そのようなことになってしまったのか。
彼は帰ってきてからというものの、何もすることが出来ずにいた。
理由は二つある。
ひとつは、彼は自分がしたいことというものがわからずにいた。
彼にとって日常というものは不慣れなものであり、まったくの無縁のものだった。
今まで自ら行動することがなかった分、いざ好きなことをしてもいいといわれてもただ混乱するだけで、何をしようと考えているうちに日が暮れてしまう。
そして、第二に彼の存在がガンマ団にとって馴染みが薄いものであるからだ。
彼は存在こそ有名になったが、今まで何をしていたか知っているものはいない。
また、本当のことを公表しても誰も納得するものではない。
そのため事実を知る者たちが彼の過去を改竄するべく、躍起になっている。
だからそれまでの間、キンタローは人の目にさらされることがないようにと出歩くことを止められていた。
居間にあるソファに何をするでなく、ぼんやりと日が過ぎるのを待つ。
そんな自分にとても違和感を持ちながらも、何をしてよいのかわからず、困惑していた。
昔から憧れていた世界。
もう自分の意思で動くことができるというのに、なにをしていいのかさっぱり見当がつかない。
また、当分の間は人前に出るなと言われたため、外に出ることも出来ずにいる。
ほかの誰かに言われたならばともかく、保護者でもある高松に言われたならば仕方がないと思ってしまう。
現在休養中の高松の怪我は順調に回復に向かっているものの、まだまだ退院できるものではない。
そんな人間の頼みを断れるほど、今のキンタローを動かせるものはない。
けれども、ほっとしているのも事実。
唐突にドアが開く。
「いたのか?」
「――ああ」
彼も同じように暇を持て余しているはずだった。
突然、彼の父であるマジックが引退を宣言し、その後について何も語らなかったのはつい最近。
そして、一部の地域を除いてすべての団員を本部に帰還させた。
ガンマ団は上から下まで大騒ぎだ。
後継者についても語られてはいるが、それを公の場で発するものはいない。
彼は未だに辞退している。
総帥となることを。
キンタローにしてみれば、あれほど望んでいたものを拒む理由がわからない。
けれども、あの島にいたときのシンタローはあまりガンマ団にこだわっていなかったことも覚えている。
だからといって、知っていても何かをいうつもりもないし、なんといっていいかわからない。
そんなキンタローの思惑をよそに、シンタローもまた暇を持て余していた。
外に出れば、視線が今まで以上に痛い。
この一年ほどにどこにいたのかを知るものはいない。
否、もし知ったとしてもそれを事実と納得できるものはいないだろう。
父は言った。
公表する準備は出来ていると。
それは何もシンタローのことだけではない。
グンマのこと、キンタローのこと。
お前も息子だよ、と笑ってくれたが今のままでは進めずにいた。
戸惑いは消えず、頭上の光への足がかりが掴めずにいた。
ここにきたのは暇つぶしのつもりだった。
部屋にいても気が滅入るだけだし、習性なのか午後のこの時間には台所につかなければ落ち着かない。
そしてお茶を点てるか、もしくはお菓子を焼いてグンマの元へと向かう。
以前と同じように研究室に篭り、何かを作っているその姿を見るのは久し振りだ。
グンマもシンタローと同じくらい、いやな視線を受けているだろうに、楽しそうに笑っていた。
だから迷う。
居間から巨大な庭が見えた。
日当たりのよい窓からは、どの季節でも美しい華が咲き誇る様が見えるよう手入れされた庭園が望める。
そして庭園の終わりには広場。
そこでよくグンマと遊んだものだ。
果ての見えることがないと昔は思ったものだが、実際団に設けられているトレーニングルーム並みの広さは誇っている。
入ってきたときに一度だけこちらを見た奇妙な関係の男に声をかけた。
「暇ならちょっと付き合ってくれよ」
あの島以来、体を動かす機会に恵まれることはなかった。
互いの強さは理解している。
不利があるとすればシンタローのほう。
戦うときの癖もタイミングも、キンタローは知っている。
しかし、それを応用するほど実践慣れしていないのも確か。
直線的な攻撃は読むまでもなくシンタローは避ける。
反対によけた反動で仕掛ければ、キンタローが防ぐ。
決着はつくことがなく、日が翳るころにどちらからともなく構えを解いた。
そのまま立ち去ろうとする背に、タオルが投げつけられた。
「ちゃんと汗拭けよ」
久し振りの運動に満足したのか、笑いながら首もとの汗を拭きながらシンタローは横に並ぶ。
言われるがまま、シンタローと同じようにタオルを首に押し当てる。
汗が吸い取られる感触が気持ちいい。
同じように汗を吸い取らせていれば、こちらを見る視線を睨み付ける。
「…頭出せ」
ついでにタオルも、といわれるが早いが引き寄せられる。
口を挟むまもなく頭をごしごしと拭かれた。
「そんなんじゃ風邪引くじゃねえかよ」
夕暮れに吹く風は火照った体に優しいが、いつまでもあたっていれば体を壊す。
もっともこれほど鍛えられた体で風邪を引こうとなると並大抵のことではおきそうもないが、用心に越したことはない。
「そうなのか」
だからいつも汗を拭いていたのかとは、流石に言わずにただ納得しておく。
されるがままのその様子に不気味に思いつつも、拭き終わった頭をぽん、と叩く。
「終わったぞ」
そして先に進む彼の顔をキンタローは見ることが出来なかった。
それから二人はその広場でよく組み手をしていた。
時々何が楽しいのかグンマがついて来る。
あからさまに何かを言いたげにしているが、シンタローは取り合うこともなく、キンタローは聞くことに慣れていない。
それはまるでモラトリアム。
考えることを放棄できる時間。
誰もが感知しているからこそ、グンマはここに来る。
いつものように笑うこともなく、ただ見ていた。
グンマの目には、ここだけが違う世界のように映っていた。
自分がここでは異端であると気がつくのは十分すぎるほどで、だからこそあえていつものようにいることを止めた。
口の挟めることではないから、ただじっと見ていた。
いつか彼らが気がつけるように。
息の上がる時間が短くなった。
一度二度休憩を挟むようになってからどれくらいになるだろう。
キンタローの攻撃にフェイクが混じるようになった。
シンタローは彼の癖を察知できるようになった。
呼吸をわざとずらしても対処され、動きを制限される。
ただの組み手に少しずつ真剣味を帯びるようになってきた。
それで、気がついた。
タオルが渡される。
少しだけ早く切り上げられたのは、もしかしたらシンタローもわかっていたからかもしれない。
否、決断を下したのかもしれない。
「俺は、俺の道を進む」
「ん」
目を合わせることもなく、屋敷への道を辿る。
同じ空間で、同じことをするのはこれが最後。
「どうするんだ」
「まだ決めていない」
それでも、宣言しなくてはならなかった。
気がついてしまった。
今と昔と変わらないということに。
ずるずると一緒にいるだけでは、彼の中にいたときと変わらないということに。
そして、組み手を続ければ続けるほど、わかってきた。
自分と彼が違うものだということに。
はっきりとした認識は、急速にベクトルを別へと導いた。
「お前は、どうするんだ?」
彼の道はたとえ自分がどの道をとろうと思ってもかぶらないことを知っているがあえて聞いた。
「…さーな」
まだ高い位置にいる日を手で遮りながら答える。
肩にかかったタオルは大量の汗を吸ってその重さを主張している。
隣にいる彼にとって、汗を拭くという行動はどのように映っていたのだろう。
火照った体に風が心地よいなんて、体を分かつまで知らなかっただろう彼のことをとっさに見ることが出来ずにいたあのとき。
自分に何かを思う資格などないと心に蓋をした。
それは、グンマにも同じで。
彼が継ぐべきガンマ団を告ぐことに躊躇をしていた。
継いだとしても、自分の手に余ってしまうのではないかと危ぶんでいた。
そう、ただ逃げていた。
けれども、日に日に少しずつ変化する彼を見て、そして何も言わずにこちらを見ている従兄弟の視線を受けて。
変わらぬ自分を知った。
居間からは変わらず庭と、その先にある広場が見渡せる。
書き記されてはいないけれども、彼が確かに生まれた場所は確かにそこにあった。
<後書き>
甘くもないけど、痛くもない。
なんか淡々とした話で申し訳ないです。
きちんとした決別みたいのが書きたかったのですよ。
たまにはもう少しいちゃついたのを書いてみたい…
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