外は暗闇に包まれていた。いつもなら夜闇に散りばめられた宝石のように輝く月や星が空に姿を見せない。分厚い雲に隠れているのだろう。自然の光源は一切見つからず、ただ暗い闇が無限に広がっているように見えた。
キンタローはベッドに横たわりながら、暗闇以外何も見えない窓の外を眺めていた。ベッドサイドに置かれた病人食は手をつけられることもなく、とうに冷めてしまっている。
『こんなところで寝ている場合ではないのだが…』
薬のおかげで熱はすっかり下がったようであった。更に、点滴を打たれたおかげか体も幾分軽くなったような気がする。早朝に味わった苦痛は何処へ行ったのやら、思わず苦笑がもれるほど回復をしていた。結構なことである。
ただ、沈んだ気持ちだけは薬でどうすることも出来ず、いまだに暗い気分なキンタローであった。傍にあるデジタル時計に目をやると、夜の八時を回ったところである。
『シンタローはまだ仕事だな…』
こんなところで倒れているようでは全然役に立っていない。自己嫌悪などとっくに通り越して、憎くすら思えた。キンタローにとって役に立てない自分は、シンタローの傍に居る意味がないのだ。
キンタローは重い溜息を一つ吐いた。
途端に、部屋の電気が付いて驚く。いきなり明るくなった部屋に、眩しさで青い眼が細められた。
「お前って何か考えごとしてると、こんなに近くに俺が来ても気付かないのな」
まだ仕事をしているだろうと思っていた半身がベッドルームの入口に立っていた。それにも驚いたキンタローだ。
「シンタロー…何故こんな時間に…」
「ん?来ちゃ迷惑だった?」
「いや…お前ならいつでも歓迎だ」
真面目な顔をしてそう言うキンタローにシンタローはイタズラじみた笑みを浮かべる。
「じゃぁ、浮気の最中でも堂々と入ってってやるヨ」
「……俺は浮気などしたことない」
「冗談だって」
シンタローはそう言って笑いながら部屋の中へ入ってきた。
キンタローは己を心配してきてくれた半身を嬉しく思い、上半身を起こす。それからベッドから降りようとして、シンタローが慌てて制した。キンタローは不満げな顔を向ける。
「んな顔すんなって。いーから寝てろヨ」
そう言ってキンタローをベッドの中に押し込めると、己はその端に腰を掛けた。
納得いかないキンタローはシンタローに向かって抗議の意味を込めて手を伸ばした。シンタローはその手を掴むとしっかりと握り返す。すると、手を繋がれたことに気を良くしたのか、それともその手の温もりに安心したのか、キンタローは大人しくなった。そんな半身の様子に、シンタローはクスリと笑う。
「現金なヤツ。まだ熱あんのか?」
「もう下がったと思うが…」
「でも何か手が熱い」
「先程まで寝ていたからだろう…」
握りしめた手を離さないでいてくれるシンタローに、キンタローは己のささくれ立った心が落ち着きを取り戻していくのがよく判った。これでは現金なヤツと言われても仕方がない。
キンタローは心の中で『役に立たない』ということは『いらない』ということだと思い込んでいた。だが、こうやってシンタローが傍にいてくれるとその思考を否定してくれているように思えて気持ちが軽くなっていく。随分と己を卑下していたようであった。半身が傍にいてくれることが純粋に嬉しい。
シンタローは繋いだ手はそのままに、もう一方の空いた手でキンタローの額に触れて熱を確かめた。キンタローが言ったとおり熱はきちんと下がっているようである。それから金色の髪に触れる。シンタローは暫く頭を撫でていた。キンタローはその手の心地よさに目を閉じ、されるがまま大人しくベッドで横になっている。
「キンタロー…気付かなくてゴメンな…」
静かで穏やかな時間が流れていたがのだが、突然、シンタローが一言ポツリともらした。その台詞に今まで閉じられていたキンタローの双眸が開く。青い眼が疑問を顕わにしてシンタローを見つめた。何故ここで謝られるのか全く判らないからだ。
「お前を倒れさせたからサ…」
「俺が勝手に倒れたんだ、お前が謝ることなどどこにもない…」
「あるんだよ。一番傍にいたつもりなのに…全然お前のこと判ってなかった」
そう言ってもう一度「ゴメン」と謝って頭を下げるシンタローに、キンタローは胸が苦しくなった。
「お前は何も悪くないのに謝るのは止めてくれ、シンタロー…」
勝手に悩んでオーバーヒートしたのは自分の所為だとキンタローは判っている。シンタローが悪いわけではないのだから、謝罪の言葉が胸に突き刺さる。自分のことで責任など感じてほしくないのだ。
「でも、お前…何か上手くいかないこと抱えて悩んでただろ?」
シンタローのその台詞に、キンタローは驚き目を見開いた。言い当てられたことに心底驚いたのだ。自分の胸の内を話したことはなかったはずである。
「俺も上手くいかないことがあると、無茶やらかすからさ…。お前はそれに気付いてちゃんと止めてくれるのに、俺は出来なかった。結果、お前は今ベッドで寝ている羽目になっちまって…」
「俺はお前に何もしていない。それに、俺が今ここで寝ているのは自業自得なはずだ…」
何故いきなり高熱を出して倒れる羽目になったのか、キンタローは己の事ながら原因が皆目検討つかなかった。だが、シンタローが原因でないことぐらい判る。
「何もしてなくねぇって。偶にスゴイ剣幕で怒るじゃねーか」
「……………あれは、上手くいかないことからきていたのか?」
「他に何があんだよ?」
「いつも通り調子に乗っているだけだと思っていた…」
「ヒドイ言われよーだな、オイ…」
シンタローは何とも言えないような目を向けた。調子に乗っているだけと思われていたとは考えもしなかった。
『まぁ、なきにしもあらず───調子こいてるときもあるか…』
半々ぐらいかな、などと遠い目をしながら思う。
「そうか…お前でも上手くいかないことで悩んだりするのか…」
「何を今更。ンなの、当たり前だろ?」
「お前は基本能力が高いから、きちんと己を把握してやっているものだと思っていた…」
「その言葉そっくりそのまま返してやるヨ。まぁ…そりゃ自分に関しちゃ、どのくらいの無理がきくかってのは大体判るから、粗方のことはその範囲でやるけど…やっぱ、どーしても納得いかないことが出てくると、一線越えそうになっちまうのは人間の心理っちゃ心理だろ?」
至極尤もなことを言われて、キンタローは頷いた。
「お前には自覚がねーのかもしんねーけど、そういうとき、ちゃんとお前は止めてくれてたんだよ」
「…役に立っていたのなら、いいんだが…」
キンタローはポツリと呟いた。シンタローはそんなキンタローの顔を下から覗き込んで笑顔を見せる。
「役に立たないわけねーだろーが」
その台詞が本当なら、嬉しいとキンタローは思った。自分の行動が、一番役立ちたいと思っている人のためになるのならそれ以上のことは求めない。それで充分だ。
だが、まだ何処かネガティブな思考が払拭されず、キンタローは沈んだ気持ちから抜け出せない。
「お前がいつも仕事漬けなのもその所為なのか?」
「や…あれは単に終わらねーだけだな…」
学生がやるレポートのような口調でシンタローは言葉を返した。実際はそれで巨大な組織が動くのだから、そんな軽いものではないのだが───。
「そこは…───俺が口を挟んでも良いところ…なのか?」
「ん?口を挟むって?」
「いや……終わらないとはいえ、度を超えてやっているように思える…」
「そりゃお前だろ」
シンタローは断言した。キンタローの真面目な性格は必要以上に思い詰めることが度々あるのだ。今回倒れたのもそれでオーバーヒートしたからであろう。シンタローは半身がそういう性格なのを知っていたのに、何も出来なかった自分に腹を立てているのだ。
「俺は………少しでもお前の役に立てたらいいと思って手伝っているだけだ。もっとも先に倒れてしまっては意味がないんだが…」
「俺が無茶させてたのか?」
「違う…そうじゃない…俺よりお前の方が非常識な無茶をしている」
「非常識って…オイ」
それが専売特許のガンマ団新総帥だ。無理と無茶は常にバーゲンセールで大売り出しなのである。
「何か違った形で助けになれたらいいと思ったんだ。日頃の仕事ぶりは、お前が自分で大丈夫だと思った範囲でやっているのだろうから、他人にとやかく言われる筋合いはないだろうし…」
キンタローはそう言って項垂れた。顔を覗き込んだ姿勢のままだったシンタローはキンタローの落胆した顔がよく判る。見ているこっちが辛くなるほど悲嘆に暮れた顔であった。
随分な煮詰まり方をしている半身を可哀想になり、またこの原因は自分かと思うと、シンタローは己を殴り倒したくなってきた。思い切り溜息をつきそうになるのを何とか堪える。自分よりも溜息で埋もれてしまいそうな人間が目の前にいるのだ。
シンタローは体勢を変えてもっとキンタローに近づくと、そっと半身を抱き締めた。キンタローはされるがまま大人しく肩口に頭を乗せる。
「お前さ、この間の夜、総帥室で何か言いたそうにしていたことって、それか?」
シンタローの問いかけに、キンタローは静かに頷いた。この半身にどれだけ気遣わせていたのだろうか。そりゃ倒れるわな、と納得してしまったシンタローである。高松に指摘されたことがしっかり当たっていて言い訳も出来ない。
「俺の仕事に口を挟めねぇーってのは?」
「挟めないというか……お前の役に立ちたいだけなんだ」
「充分すぎるほど助けられてるゾ、俺は」
「まだまだだ。自分が納得できない…もっとお前の役に立ちたいのに…」
そう言いながらキンタローは縋り付き腕に力を込める。シンタローは強く抱き締めてくるキンタローをあやすように背中を軽く叩いた。そして、優しい響きを持った静かな声で問いかける。
「キンタロー…あのさ、役に立つとか立たないとか、そんなんじゃなくて…もっと根本的な部分で俺はお前から離れないから、安心しろよ?」
シンタローの台詞にキンタローがピクリと動いた。
『やっぱり原因はここか…』
役に立ちたいと繰り返し言う心を考えれば、恐らくシンタローに必要とされたいということなのだ。思考が堅いこの従兄弟のことだ、必要とされなければ、いる意味がない人間だと考えたのだろう。必死に存在価値を得ようとして己を省みないほど頑張りすぎたのだ。
『今でも充分なのに…っつーか、離れないっつーよりも…もう離れらんないし……そもそもこれ以上役に立つって、コイツの理想はどんだけ高いんだよ…』
キンタローが追い求めるものを計り知れず、どんな山よりも高そうな理想像を思ってシンタローは溜息をついた。
「シンタロー…?」
そんなシンタローの様子をどう捉えたのか、キンタローは肩に埋めていた顔を上げると、不安が表れた声で半身の名前を呼んだ。シンタローに視線を合わせると、少し困ったような笑みを浮かべてキンタローを見ている。
「ったく、お前は…俺に捨てられるかも知れないとか思って悶々としてたのか」
「そこまでは思っていないが…」
「似たようなことは思ってただろ?」
「……………」
沈黙は肯定のようであった。
『俺がどんだけお前に惚れてると思ってんだよコノヤロー…』
シンタローは心の中で悪態をついた。だが、口に出しては絶対に言えない。態度や声色で相手を思う心はしっかりと顕れているのだが、如何せん気質が根っから俺様な上に極度の恥ずかしがり屋なシンタローだ。言葉で好きだ、愛してる、といった愛情表現の類は余程のことがない限り口から出てこない。余程のことといえば───。
『お前に抱かれる度に俺が言ってることはちゃんと聞いてんのかよコンチクショーッ』
こんな感じなのである。己に一切の余裕がなくなり、感情が高ぶって限界に来ないと、心の内を明かすことが出来ない不器用な男なのだ。
『しかも…お前相手じゃ絶対少ない回数じゃねーだろーがキンタローッ』
心の中で散々叫んでみたシンタローだが、それらは全て飲み込まれた台詞であった。いくらキンタローの寝室で二人きりだと言っても、やはり素面では言えないものだ。もっとも酒を飲んだからと言って言えるようなシンタローでもないのだが───。
「キンタロー、コレに限ってはくだらないことで悩むなって言うからな。もっと俺を信用しろヨ…」
「……………」
シンタローの台詞にキンタローは無言だったが、少ししてからしっかりと頷いた。
「大体から、使い捨ての人間に俺が…その……許すかってのッ!!」
「…………?」
『あぁ…疑問符が付いた…』
思わず言葉を濁してしまったら意味が通じなかったようである。意味を聞かれて冷静に説明出来る自信がないシンタローは、慌てて他の話題に移る。
「シンタロー…今の意…」
「わかんなかったらそれで良し。次───お前が倒れたことなんだけど…」
「………すまない…」
「怒ってるわけじゃねーよ。あのな、お前と俺の生活の違いで決定的なもんってどこにあんのかな?って考えたんだけどサ……」
そう言うと、シンタローはキンタローから視線を外した。黒い瞳に今度は何を映しているかといえば、ベッドサイドに置かれた既に冷め切っている病人食である。
「どんなに仕事が忙しくても食事はちゃんと摂れ、キンタロー」
「…食事?」
予想外の所を指摘されたキンタローはきょとんとした顔をシンタローに向けた。シンタローは保護者よろしく、少しお説教モードである。
「今日、研究棟まで行って他の研究員達から色々聞いてきたんだよ。お前が飯食ってる姿を見たことがねぇーって言われたぞ、オイ。それ以前に休憩も摂らねーんだって?」
「そうだったか…?」
「疑問符が付いてる時点でダメだぞ。今だってコレ食ってねーし…」
シンタローは全く手をつけられていない冷え切った食事を指した。
「食欲がない」
対するキンタローはそんな一言で片付けてしまった。これではだめだとシンタローは思うのだった。
ガンマ団は方針が変わったとは言え、荒事に関わることには変わりない。体があって全てが成り立つのだ。資本となる体の健康を維持する上で、基本の一つである食事の大切さをこんな一言で片付けるようでは、この先何回だって倒れるようなことをやらかすであろう。
「キンタロー…そうやって食事を疎かにした結果、お前はどうなった?対する俺はどうしてる?」
そう言われるとキンタローに反論する余地はない。自分は倒れてベッドの上で、シンタローは昨日の騒ぎにも関わらず元気にピンピンしているのだ。
「共有している記憶にもあんだろ?士官学生時代に学校で散々言われたの覚えてねぇ?」
「覚えていない」
即答されてしまっては立つ瀬がないシンタローだ。どうでもいい事は鮮明に覚えているくせに、肝心なところは何故抜けるのだろうか。
『俺の下世話な話なんかよりこっちの方を覚えてろっての』
またもや心の中で悪態を付いてしまったシンタローであった。
「やることが多いと充分な睡眠とか摂れなかったりすんだから、その分どこかで補ってやらねーと体に負荷ばっかかかっちまうだろ?きちんと栄養を与えないと体も回復しねェーんだからさ」
「確かにそうだが…」
「が、じゃねーよ。そーなの。俺が頑張って鍛え上げた体はお前ンとこにいったんだぞ?ちゃんと栄養与えて休んでやれば、直ぐに回復するはずだから…」
シンタローがサービスとの厳しい修行に耐え、更に自分自身の努力で鍛え上げた強靱な肉体が、キンタローの体なのだ。シンタローが言ったとおり、短くともきちんと休息をとり、体を維持するための基本的な努力を怠らなければ、ちょっとやそっとでは壊れたりしないはずである。その一番の例が、シンタロー自身なのであるから───。
「───判った…以後、気を付けるようにする…」
「よし。っつー訳でだ。どーせお前のことだから用意されたもんは食ってねェだろうな…って思って、俺様お手製のものを作ってきたから、きちんと食えよ?」
「……非常にありがたいが、今は食欲がない」
この期に及んでまだ言うかと思ったシンタローだが、後一息と思って言葉を飲み込む。まだ半分くらいは納得していないのだろう。ここで頭ごなしにあれこれ言ったら逆効果だと思ったシンタローは、だだをこねるキンタローに有効だと思うような台詞を口にした。
「俺がせっかく作ってきたものを食わねーっての?」
「気持ちは嬉しいが…」
「あっそーぉ。別にいーけど……そうやっている間にも筋力は落ちて俺と差が付いていくって訳だな」
「……………」
シンタローは沈黙するキンタローの腕を掴むと、容赦なく捻りあげた。病人相手に何をするといった感じだが、反撃をする隙を与えず一気に乗り上げて相手の動きを封じる。
「おーおー…いとも簡単に組み敷かれたな、キンタローさん」
「…痛いぞ、シンタロー…」
顔を蹙めて抗議をするキンタローに、シンタローは無情にも一言言い放った。
「軟弱な男に抱かれる趣味はねぇからな。次からお前が『下』決定ー。しっかり俺の腕枕で寝ろよ」
目がマジなシンタローに、キンタローは「食べる」と反射的に返事をした。
今の『関係』は、シンタローがキンタローを甘んじて受け入れてくれているから成り立っている関係だ。反撃に出られるとこの漆黒の獣の動きを封じることは至難の業である。ましてや、筋力が少しでも落ちていようものなら、確実に組み敷かれるのはキンタローになる。
まさかそんな方向から攻撃を仕掛けてくるとは微塵も思わなかったキンタローは真顔で即答してしまった。上手く引っかかってくれた半身に、シンタローは声を上げて笑いながら用意した食事を取りに部屋から出ていった。
キンタローはベッドに横たわりながら、暗闇以外何も見えない窓の外を眺めていた。ベッドサイドに置かれた病人食は手をつけられることもなく、とうに冷めてしまっている。
『こんなところで寝ている場合ではないのだが…』
薬のおかげで熱はすっかり下がったようであった。更に、点滴を打たれたおかげか体も幾分軽くなったような気がする。早朝に味わった苦痛は何処へ行ったのやら、思わず苦笑がもれるほど回復をしていた。結構なことである。
ただ、沈んだ気持ちだけは薬でどうすることも出来ず、いまだに暗い気分なキンタローであった。傍にあるデジタル時計に目をやると、夜の八時を回ったところである。
『シンタローはまだ仕事だな…』
こんなところで倒れているようでは全然役に立っていない。自己嫌悪などとっくに通り越して、憎くすら思えた。キンタローにとって役に立てない自分は、シンタローの傍に居る意味がないのだ。
キンタローは重い溜息を一つ吐いた。
途端に、部屋の電気が付いて驚く。いきなり明るくなった部屋に、眩しさで青い眼が細められた。
「お前って何か考えごとしてると、こんなに近くに俺が来ても気付かないのな」
まだ仕事をしているだろうと思っていた半身がベッドルームの入口に立っていた。それにも驚いたキンタローだ。
「シンタロー…何故こんな時間に…」
「ん?来ちゃ迷惑だった?」
「いや…お前ならいつでも歓迎だ」
真面目な顔をしてそう言うキンタローにシンタローはイタズラじみた笑みを浮かべる。
「じゃぁ、浮気の最中でも堂々と入ってってやるヨ」
「……俺は浮気などしたことない」
「冗談だって」
シンタローはそう言って笑いながら部屋の中へ入ってきた。
キンタローは己を心配してきてくれた半身を嬉しく思い、上半身を起こす。それからベッドから降りようとして、シンタローが慌てて制した。キンタローは不満げな顔を向ける。
「んな顔すんなって。いーから寝てろヨ」
そう言ってキンタローをベッドの中に押し込めると、己はその端に腰を掛けた。
納得いかないキンタローはシンタローに向かって抗議の意味を込めて手を伸ばした。シンタローはその手を掴むとしっかりと握り返す。すると、手を繋がれたことに気を良くしたのか、それともその手の温もりに安心したのか、キンタローは大人しくなった。そんな半身の様子に、シンタローはクスリと笑う。
「現金なヤツ。まだ熱あんのか?」
「もう下がったと思うが…」
「でも何か手が熱い」
「先程まで寝ていたからだろう…」
握りしめた手を離さないでいてくれるシンタローに、キンタローは己のささくれ立った心が落ち着きを取り戻していくのがよく判った。これでは現金なヤツと言われても仕方がない。
キンタローは心の中で『役に立たない』ということは『いらない』ということだと思い込んでいた。だが、こうやってシンタローが傍にいてくれるとその思考を否定してくれているように思えて気持ちが軽くなっていく。随分と己を卑下していたようであった。半身が傍にいてくれることが純粋に嬉しい。
シンタローは繋いだ手はそのままに、もう一方の空いた手でキンタローの額に触れて熱を確かめた。キンタローが言ったとおり熱はきちんと下がっているようである。それから金色の髪に触れる。シンタローは暫く頭を撫でていた。キンタローはその手の心地よさに目を閉じ、されるがまま大人しくベッドで横になっている。
「キンタロー…気付かなくてゴメンな…」
静かで穏やかな時間が流れていたがのだが、突然、シンタローが一言ポツリともらした。その台詞に今まで閉じられていたキンタローの双眸が開く。青い眼が疑問を顕わにしてシンタローを見つめた。何故ここで謝られるのか全く判らないからだ。
「お前を倒れさせたからサ…」
「俺が勝手に倒れたんだ、お前が謝ることなどどこにもない…」
「あるんだよ。一番傍にいたつもりなのに…全然お前のこと判ってなかった」
そう言ってもう一度「ゴメン」と謝って頭を下げるシンタローに、キンタローは胸が苦しくなった。
「お前は何も悪くないのに謝るのは止めてくれ、シンタロー…」
勝手に悩んでオーバーヒートしたのは自分の所為だとキンタローは判っている。シンタローが悪いわけではないのだから、謝罪の言葉が胸に突き刺さる。自分のことで責任など感じてほしくないのだ。
「でも、お前…何か上手くいかないこと抱えて悩んでただろ?」
シンタローのその台詞に、キンタローは驚き目を見開いた。言い当てられたことに心底驚いたのだ。自分の胸の内を話したことはなかったはずである。
「俺も上手くいかないことがあると、無茶やらかすからさ…。お前はそれに気付いてちゃんと止めてくれるのに、俺は出来なかった。結果、お前は今ベッドで寝ている羽目になっちまって…」
「俺はお前に何もしていない。それに、俺が今ここで寝ているのは自業自得なはずだ…」
何故いきなり高熱を出して倒れる羽目になったのか、キンタローは己の事ながら原因が皆目検討つかなかった。だが、シンタローが原因でないことぐらい判る。
「何もしてなくねぇって。偶にスゴイ剣幕で怒るじゃねーか」
「……………あれは、上手くいかないことからきていたのか?」
「他に何があんだよ?」
「いつも通り調子に乗っているだけだと思っていた…」
「ヒドイ言われよーだな、オイ…」
シンタローは何とも言えないような目を向けた。調子に乗っているだけと思われていたとは考えもしなかった。
『まぁ、なきにしもあらず───調子こいてるときもあるか…』
半々ぐらいかな、などと遠い目をしながら思う。
「そうか…お前でも上手くいかないことで悩んだりするのか…」
「何を今更。ンなの、当たり前だろ?」
「お前は基本能力が高いから、きちんと己を把握してやっているものだと思っていた…」
「その言葉そっくりそのまま返してやるヨ。まぁ…そりゃ自分に関しちゃ、どのくらいの無理がきくかってのは大体判るから、粗方のことはその範囲でやるけど…やっぱ、どーしても納得いかないことが出てくると、一線越えそうになっちまうのは人間の心理っちゃ心理だろ?」
至極尤もなことを言われて、キンタローは頷いた。
「お前には自覚がねーのかもしんねーけど、そういうとき、ちゃんとお前は止めてくれてたんだよ」
「…役に立っていたのなら、いいんだが…」
キンタローはポツリと呟いた。シンタローはそんなキンタローの顔を下から覗き込んで笑顔を見せる。
「役に立たないわけねーだろーが」
その台詞が本当なら、嬉しいとキンタローは思った。自分の行動が、一番役立ちたいと思っている人のためになるのならそれ以上のことは求めない。それで充分だ。
だが、まだ何処かネガティブな思考が払拭されず、キンタローは沈んだ気持ちから抜け出せない。
「お前がいつも仕事漬けなのもその所為なのか?」
「や…あれは単に終わらねーだけだな…」
学生がやるレポートのような口調でシンタローは言葉を返した。実際はそれで巨大な組織が動くのだから、そんな軽いものではないのだが───。
「そこは…───俺が口を挟んでも良いところ…なのか?」
「ん?口を挟むって?」
「いや……終わらないとはいえ、度を超えてやっているように思える…」
「そりゃお前だろ」
シンタローは断言した。キンタローの真面目な性格は必要以上に思い詰めることが度々あるのだ。今回倒れたのもそれでオーバーヒートしたからであろう。シンタローは半身がそういう性格なのを知っていたのに、何も出来なかった自分に腹を立てているのだ。
「俺は………少しでもお前の役に立てたらいいと思って手伝っているだけだ。もっとも先に倒れてしまっては意味がないんだが…」
「俺が無茶させてたのか?」
「違う…そうじゃない…俺よりお前の方が非常識な無茶をしている」
「非常識って…オイ」
それが専売特許のガンマ団新総帥だ。無理と無茶は常にバーゲンセールで大売り出しなのである。
「何か違った形で助けになれたらいいと思ったんだ。日頃の仕事ぶりは、お前が自分で大丈夫だと思った範囲でやっているのだろうから、他人にとやかく言われる筋合いはないだろうし…」
キンタローはそう言って項垂れた。顔を覗き込んだ姿勢のままだったシンタローはキンタローの落胆した顔がよく判る。見ているこっちが辛くなるほど悲嘆に暮れた顔であった。
随分な煮詰まり方をしている半身を可哀想になり、またこの原因は自分かと思うと、シンタローは己を殴り倒したくなってきた。思い切り溜息をつきそうになるのを何とか堪える。自分よりも溜息で埋もれてしまいそうな人間が目の前にいるのだ。
シンタローは体勢を変えてもっとキンタローに近づくと、そっと半身を抱き締めた。キンタローはされるがまま大人しく肩口に頭を乗せる。
「お前さ、この間の夜、総帥室で何か言いたそうにしていたことって、それか?」
シンタローの問いかけに、キンタローは静かに頷いた。この半身にどれだけ気遣わせていたのだろうか。そりゃ倒れるわな、と納得してしまったシンタローである。高松に指摘されたことがしっかり当たっていて言い訳も出来ない。
「俺の仕事に口を挟めねぇーってのは?」
「挟めないというか……お前の役に立ちたいだけなんだ」
「充分すぎるほど助けられてるゾ、俺は」
「まだまだだ。自分が納得できない…もっとお前の役に立ちたいのに…」
そう言いながらキンタローは縋り付き腕に力を込める。シンタローは強く抱き締めてくるキンタローをあやすように背中を軽く叩いた。そして、優しい響きを持った静かな声で問いかける。
「キンタロー…あのさ、役に立つとか立たないとか、そんなんじゃなくて…もっと根本的な部分で俺はお前から離れないから、安心しろよ?」
シンタローの台詞にキンタローがピクリと動いた。
『やっぱり原因はここか…』
役に立ちたいと繰り返し言う心を考えれば、恐らくシンタローに必要とされたいということなのだ。思考が堅いこの従兄弟のことだ、必要とされなければ、いる意味がない人間だと考えたのだろう。必死に存在価値を得ようとして己を省みないほど頑張りすぎたのだ。
『今でも充分なのに…っつーか、離れないっつーよりも…もう離れらんないし……そもそもこれ以上役に立つって、コイツの理想はどんだけ高いんだよ…』
キンタローが追い求めるものを計り知れず、どんな山よりも高そうな理想像を思ってシンタローは溜息をついた。
「シンタロー…?」
そんなシンタローの様子をどう捉えたのか、キンタローは肩に埋めていた顔を上げると、不安が表れた声で半身の名前を呼んだ。シンタローに視線を合わせると、少し困ったような笑みを浮かべてキンタローを見ている。
「ったく、お前は…俺に捨てられるかも知れないとか思って悶々としてたのか」
「そこまでは思っていないが…」
「似たようなことは思ってただろ?」
「……………」
沈黙は肯定のようであった。
『俺がどんだけお前に惚れてると思ってんだよコノヤロー…』
シンタローは心の中で悪態をついた。だが、口に出しては絶対に言えない。態度や声色で相手を思う心はしっかりと顕れているのだが、如何せん気質が根っから俺様な上に極度の恥ずかしがり屋なシンタローだ。言葉で好きだ、愛してる、といった愛情表現の類は余程のことがない限り口から出てこない。余程のことといえば───。
『お前に抱かれる度に俺が言ってることはちゃんと聞いてんのかよコンチクショーッ』
こんな感じなのである。己に一切の余裕がなくなり、感情が高ぶって限界に来ないと、心の内を明かすことが出来ない不器用な男なのだ。
『しかも…お前相手じゃ絶対少ない回数じゃねーだろーがキンタローッ』
心の中で散々叫んでみたシンタローだが、それらは全て飲み込まれた台詞であった。いくらキンタローの寝室で二人きりだと言っても、やはり素面では言えないものだ。もっとも酒を飲んだからと言って言えるようなシンタローでもないのだが───。
「キンタロー、コレに限ってはくだらないことで悩むなって言うからな。もっと俺を信用しろヨ…」
「……………」
シンタローの台詞にキンタローは無言だったが、少ししてからしっかりと頷いた。
「大体から、使い捨ての人間に俺が…その……許すかってのッ!!」
「…………?」
『あぁ…疑問符が付いた…』
思わず言葉を濁してしまったら意味が通じなかったようである。意味を聞かれて冷静に説明出来る自信がないシンタローは、慌てて他の話題に移る。
「シンタロー…今の意…」
「わかんなかったらそれで良し。次───お前が倒れたことなんだけど…」
「………すまない…」
「怒ってるわけじゃねーよ。あのな、お前と俺の生活の違いで決定的なもんってどこにあんのかな?って考えたんだけどサ……」
そう言うと、シンタローはキンタローから視線を外した。黒い瞳に今度は何を映しているかといえば、ベッドサイドに置かれた既に冷め切っている病人食である。
「どんなに仕事が忙しくても食事はちゃんと摂れ、キンタロー」
「…食事?」
予想外の所を指摘されたキンタローはきょとんとした顔をシンタローに向けた。シンタローは保護者よろしく、少しお説教モードである。
「今日、研究棟まで行って他の研究員達から色々聞いてきたんだよ。お前が飯食ってる姿を見たことがねぇーって言われたぞ、オイ。それ以前に休憩も摂らねーんだって?」
「そうだったか…?」
「疑問符が付いてる時点でダメだぞ。今だってコレ食ってねーし…」
シンタローは全く手をつけられていない冷え切った食事を指した。
「食欲がない」
対するキンタローはそんな一言で片付けてしまった。これではだめだとシンタローは思うのだった。
ガンマ団は方針が変わったとは言え、荒事に関わることには変わりない。体があって全てが成り立つのだ。資本となる体の健康を維持する上で、基本の一つである食事の大切さをこんな一言で片付けるようでは、この先何回だって倒れるようなことをやらかすであろう。
「キンタロー…そうやって食事を疎かにした結果、お前はどうなった?対する俺はどうしてる?」
そう言われるとキンタローに反論する余地はない。自分は倒れてベッドの上で、シンタローは昨日の騒ぎにも関わらず元気にピンピンしているのだ。
「共有している記憶にもあんだろ?士官学生時代に学校で散々言われたの覚えてねぇ?」
「覚えていない」
即答されてしまっては立つ瀬がないシンタローだ。どうでもいい事は鮮明に覚えているくせに、肝心なところは何故抜けるのだろうか。
『俺の下世話な話なんかよりこっちの方を覚えてろっての』
またもや心の中で悪態を付いてしまったシンタローであった。
「やることが多いと充分な睡眠とか摂れなかったりすんだから、その分どこかで補ってやらねーと体に負荷ばっかかかっちまうだろ?きちんと栄養を与えないと体も回復しねェーんだからさ」
「確かにそうだが…」
「が、じゃねーよ。そーなの。俺が頑張って鍛え上げた体はお前ンとこにいったんだぞ?ちゃんと栄養与えて休んでやれば、直ぐに回復するはずだから…」
シンタローがサービスとの厳しい修行に耐え、更に自分自身の努力で鍛え上げた強靱な肉体が、キンタローの体なのだ。シンタローが言ったとおり、短くともきちんと休息をとり、体を維持するための基本的な努力を怠らなければ、ちょっとやそっとでは壊れたりしないはずである。その一番の例が、シンタロー自身なのであるから───。
「───判った…以後、気を付けるようにする…」
「よし。っつー訳でだ。どーせお前のことだから用意されたもんは食ってねェだろうな…って思って、俺様お手製のものを作ってきたから、きちんと食えよ?」
「……非常にありがたいが、今は食欲がない」
この期に及んでまだ言うかと思ったシンタローだが、後一息と思って言葉を飲み込む。まだ半分くらいは納得していないのだろう。ここで頭ごなしにあれこれ言ったら逆効果だと思ったシンタローは、だだをこねるキンタローに有効だと思うような台詞を口にした。
「俺がせっかく作ってきたものを食わねーっての?」
「気持ちは嬉しいが…」
「あっそーぉ。別にいーけど……そうやっている間にも筋力は落ちて俺と差が付いていくって訳だな」
「……………」
シンタローは沈黙するキンタローの腕を掴むと、容赦なく捻りあげた。病人相手に何をするといった感じだが、反撃をする隙を与えず一気に乗り上げて相手の動きを封じる。
「おーおー…いとも簡単に組み敷かれたな、キンタローさん」
「…痛いぞ、シンタロー…」
顔を蹙めて抗議をするキンタローに、シンタローは無情にも一言言い放った。
「軟弱な男に抱かれる趣味はねぇからな。次からお前が『下』決定ー。しっかり俺の腕枕で寝ろよ」
目がマジなシンタローに、キンタローは「食べる」と反射的に返事をした。
今の『関係』は、シンタローがキンタローを甘んじて受け入れてくれているから成り立っている関係だ。反撃に出られるとこの漆黒の獣の動きを封じることは至難の業である。ましてや、筋力が少しでも落ちていようものなら、確実に組み敷かれるのはキンタローになる。
まさかそんな方向から攻撃を仕掛けてくるとは微塵も思わなかったキンタローは真顔で即答してしまった。上手く引っかかってくれた半身に、シンタローは声を上げて笑いながら用意した食事を取りに部屋から出ていった。
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