「アラシヤマっ!!」
間近に聞こえる切羽詰った声。
その声と共に、そこにあった身体を深く抱きこんだ。
その刹那、背中に当る強い衝撃と凝縮された熱。
(間に合った)
その想いとともに、
「ぐっ……!」
歯が食いしばられ、それに耐えようと身体が反応する。
背中から迫った痛みと熱さ。
「アラシヤマ! アラシヤマっっ!!」
悲痛な声が、耳元にかかる。
抱きしめていたはずの身体が、いつのまにか反対に抱きしめられたいた。
力は、すでになかった。身体がひどく重く感じる。脳天を突き破るほどの痛感に、発狂しそうなほどだ。
けれど、明確な意識は、まだ残っていた。
「シ…タロー……は、ん。無事……どすか?」
喉の奥からくぐもった声が吐き出される。
(あんさんは、無事だろうか…)
遠征中での出来事だった。
全面降伏に応じた敵に、出撃していた団員達も総帥であるシンタローも、退去する最中のこと。
突如行われた、不意打ちの攻撃。刃物をもって少年の乱入。
狙いは、ガンマ団総帥。
その子供がまだ十五にもならないほどの幼さだったためだろう。誰もが即攻撃を躊躇い、対応が間に合わず、一番近くにいたアラシヤマが、とっさにその身でかばう結果となった。
その刃物は、アラシヤマの背中に深々と刺さっていた。
視界が、かすれている。
意識も、次第にぼやけてくる。
「あっ…ああ。でも、お前が………」
声が、遠い。
聞こえない。
「よかったどす……」
ただ、唇は動いて、それだけは言えた。
本当によかった。
(あんさんが、無事であればそれで十分ですわ)
ほっと安堵した体は、すでに機能することもままならず、そのまま意識を手放した。
草木も生えぬ荒れ野。
どこまで続くかもわからぬ、地平線の果てまで見渡せる世界。
自分は、そこに立っていた。
「ここは、どこどすか?」
気がつけば、そこにいた。
風もない。
音もない。
静寂が支配する地だ。
何も無い。
けれど、寂しさは感じなかった。
心地よさすらも感じられる。
一人には、慣れていた。
慣れすぎるほど慣れてしまっていた。
だから、こんな世界も、自分にとっては煩わしさが一切ない理想の世界の一つに思えた。
「なんや、居心地のええ場所どすな」
立っているのも飽きて、そこに座り込む。
空を見上げると、灰色の薄雲が覆っていた。
陰鬱といってもいい空模様だが、けれど気にはしない。
そんな空の方が、自分らしい気がする。
「でも、なんで、わてはこんなところにいるんやろ?」
何か忘れている気がする。
大切な何かを。
「なんでっしゃろ?」
けれど、思い出せない。
思い出そうとすれば、頭の中に霞がかかる。
イライラともどかしい思いを掻き立てられる。
こんなに居心地のいい場所にいるのに、なぜ自分は、そんなに気にしているのだろうか。
『大切なこと』
違う―――――そうではなくて…………大切な………大事な。
ぽとり…。
「えっ?」
肩に触れたそれに、手をやれば、指先がかすかに濡れた。
「なんですのん?」
上を見上げた。
それは頭上から降ってきたものだ。
(雨?)
雨を降らしそうな雲ではないが、それ以外に水滴が零れてくる要因は見つけられない。
(けど……)
「なんですのやろ。なんか気になるわ」
雨ならば、そのまま放っておけばいい。
まだ、酷くないのだ。
少しばかり雨に打たれても気持ちいいかもしれない。
ぽとり…。
また、水滴が落ちてくる。
今度は頬に触れた。
それをすぐに手でぬぐう。
それはなぜか心の琴線に触れる、気になるものだった。
また、空を仰いだ。
ぽとり…。
水滴が額を打つ。
ぽとり…。
手を伸ばせば、その上にも落ちる。
冷たさは感じずになぜか温もりをもった雫。
それが、荒野に降り注ぐ。
ほとほとと静かに零れ落ちてくる。
天が泣いているようだった。
誰かの涙のような雨。
(誰の……涙?)
自分の前で、泣くような人間などいないはずだった。
そんな人は思い浮かばない。
けれど――――。
「あっ………まさか、シンタローはん?」
不意にその名前を思い出したとたんに、アラシヤマは、すくっと立ち上がった。
急激に頭の中の霞が晴れ、記憶を取り戻す。
少し前までの記憶。
自分が、彼を庇って刃を受けたことを。
「わて、こんなところにいてる場合じゃあらしまへんのやっ!」
きっと泣いている。
誰よりも大切な人が。
この荒野を潤す雫は、彼の涙で間違いなかった。
誰が、泣かしているのか―――――。
(わては大丈夫でっせ、シンタローはん)
アラシヤマは、目覚めるために、荒野の中を一歩足を踏み出した。
ぽとり…。
最初に感じたのは、頬に落ちた暖かい雫。
目を開くよりも先に、
「涙…でしゃろっか?」
かすれた声で、そう呟けば、ぐいっとシーツか何かで濡れた頬をぬぐわれた。
「痛っ」
その痛みに顔を顰めつつ、うっすらと瞼を開く。
光が眩しい。
それでも、徐々に目を開けば、滲む視界に赤色が写る。
像が上手く結ばない。
歪む視界の中で、目を細めれば、赤色が消え、黒いものがぱさりと目の前に落ちてきた。
「馬鹿が。ようやくお目覚めかよ」
そうして間近で聞こえてきたのは、なぜか怒りを含んだもので、アラシヤマは、可笑しくなって笑みを浮かべた。
「何笑ってんだよ」
さらに不機嫌さをました声に、アラシヤマは、くくくっと喉を振るわせる。
乾ききった喉には、それは辛いものだったけれど、なぜか笑いがこみ上げるのだから、仕方がない。
嬉しいのかもしれなかった、この状況をどこかで、喜んでいる自分がいるのだ。
今の状況が、どんな状況であるのかは、まだよくわかっていなかったけれど、けれど、ここに彼がいることに喜ばない自分はいない。
「おいっ! もしかして、頭がどっかイカれたか?」
どことなく焦りを含んだ声に、アラシヤマはようやく笑いを止めて答えた。
「そんなことあらしまへんで」
聞き苦しいガラガラ声で、即座にそう返せば、相手は、一瞬眉間のしわを深くして、それから、後ろを振り返り、用意していたのか水をなみなみと注いだコップを手にした。
もうアラシヤマの目も通常に戻っていた。
そこにいたのが、やはりというべきかシンタローだった。
瞳が潤み、充血しているのに気づいたが、それについては指摘せずに黙っていた。
問いかけなくても、その瞳の赤さが自分のせいだと分かっているためだ。
「……水、飲めよ」
「おおきに」
ぐいっと差し出されたそれを素直に受け取って、アラシヤマは、一気に煽った。
喉が、急激に潤されるのがわかる。
「ふぅ~。生き返ったどす」
「ああ、本当にな」
しかめっ面で告げられるその言葉に、再び笑みがまたこぼれる。
同時にむっと相手の唇がへの字を作り、空っぽになったコップをひったくるように、取って行ってしまった。おかわりが欲しかったが、どうせ言ったところでもらえはしないだろう。彼は、見てわかるぐらい苛立っていた。
「笑うなよ! てめぇ、自分がどんな状況だったかわかってるのか?」
「さあ?」
笑うなと言われために、出てくるそれを噛み殺しながら、アラシヤマは、首をかしげた。
本当に、どんな状況かは、知らない。
自分が目の前の彼を庇って刺されたというとこまでは、覚えている。
状況から見れば、ここは病室だろう。刺されてから治療のために病院に運ばれただろうことあ、すぐに想像はつく。
しかし、痛み止めが効いているのか、痛いという感覚は、今は身体に残っていない。けが人という意識は、自分には、まったくなかった。彼の口ぶりからすれば、命にかかわるようであったが、実感はなかった。
「………あれから、集中治療室で三日。それから、意識が戻るまで二日かかってるんだぞ」
「はぁ、そんなにわては寝てたんどすか」
そう言われれば、どことなく筋肉も体力もぐっと落ち込んでいる気がする。
とはいえ、未はまだ、少しの動作しかしてないために、自覚はあまりない。
後のリハビリが大変やな、とは思うものの、それほど自分の命が危機にさらされていたことには、やはり感慨はなかった。
「お前なぁ………まあ、無事ならいいんだけどさ」
あまりにも平然とした顔をしていたせいだろうか、相手が呆れたような表情で、頭をかく。それから、眠そうにひとつ欠伸をした。
「あんさんは、寝てないんでっか?」
アラシヤマは、手を伸ばし、目の前の顔に触れた。
そっと頬から、目元に指先を触れさせる。
顔色が悪い。そして、触れたその目元には、痛々しいほど深い隈が出来ていた。
「っ!――――仕事が、忙しかったんだよ」
ふいっと顔をそらされ、指先が宙に浮いた。
所在投げに指先が揺れる。アラシヤマは、苦笑を浮かべた。
(シンタローはんらしい、答えやな)
彼の言葉は、真実だろう。けれど、それはたぶん真実の一部。
仕事が忙しいにもかかわらず、たぶん、彼はここに来てくれていたのだ。何度も……それこそ、眠る時間すら削って。
それくらいは、すぐにわかる。
けれど、そのことについては、何も言わなかった。言えば、頑固で照れ屋な彼のこと、必死で否定するに決まっていた。
「そうでっか」
一言だけそう呟くと、その手を自身の方へ戻したアラシヤマは、ふわりと笑った。
「けれど、あんさんが、無事でよかったどす」
そう。それだけで、自分は満足だった。
自分が望んでいたのは、目の前の人物の命の存続。
あの時、身を挺して彼を庇ったのは、そのためだ。
大切な存在は、確かにここにある。
満足げな笑みを浮かべるアラシヤマに、シンタローの顔が歪む。そして、それがアラシヤマの視界から消えた。
「っ!?」
気がつけば、シンタローが、ベッドの上に乗りかかるようにして、抱きついてきていた。
ギシリと二人分の体重がかかったベッドが苦しげに悲鳴をあげる。
けれど、それを気にするヒマなどなかった。唐突なそれに、とっさに身じろぎしようとすれば、それを許さないかのように、ギュッと強く抱きしめられる。
驚いているアラシヤマの耳元で、苦しげな声が聞こえてきた。
「馬鹿が……なんで……なんで、俺なんかを庇うんだよ」
「し、シンタローはん?」
これはどうすればいいのだろうか。
反対の状況は、実のところ結構あったりもするのだが、こうして、彼から抱きついてきたことは、あまりない。
どうすればいいのかわからずに、オタオタとみっともないほど焦ってしまう。
けれど、相手の方はそんなことなどお構いなしである。
「俺は、別にお前なんかに庇って欲しいなんて思っていない。俺のために、命を張って庇うなよっ!!」
怒鳴りつけるように告げられた言葉に、アラシヤマは、カッと身体が熱くなるのを感じた。
ぐいっと抱きつかれた体を離すようにして、彼の両肩に手を置くと、痛々しいほど歪んでいる顔をにらみつけた。
「阿呆なこと言わんといてくだはれ。あんさんの命は、わての命に比べられんぐらい大切なものでっせ? あんさんが死んだら、このガンマ団はどうなると思うとりますのん!」
一気にそう言うと、はあ、とため息を一つつく。
身体が苦しい。息があがる。
体調がまだ戻ってないせいだ。
覗き込んだ顔が、一瞬泣きそうな表情を見せ、伏せられた。
「…………だから、庇ったのか? 俺がガンマ団総帥だから」
部下の役目として当然のことだから。
消え入りそうに呟かれた言葉は、奇跡的に、聞き取ることができた。
はあ、ともう一度ため息をつく。けれど、それはつまらぬ勘違いをする彼に対する呆れまじりのもの。
「それは、喩えどすわ。そんなわけ、あらしまへんやろ。あんさんが、何の肩書きももたない人でも、わては、命はって助けましたわ。あんさんは、わてにとっては、唯一無二の人なんでっから」
何者にも変えられぬ尊い存在。
そんなものを自分が得られるとは思っても見なかった。
夢で見た、荒れ果てた荒野。
それは、自分の心が反映した姿。
そんな中に居た自分に、潤いをくれたただ唯一の人である。
大切で大切で、命よりも大事な存在。
けれど、だからこそ、自分のために、彼にそんな辛そうな表情はして欲しくなかった。
「シンタローはん。すんまへん」
ぺこりと頭を下げる。
「なんで行き成り謝るんだよ」
それに驚いたように顔を上げたあと、顔をしかめた相手に、アラシヤマは笑みを向けた。
「あんさんを泣かしてしまいましたやろ?」
「……そんなこと」
「シンタローはん。おおきに。わてなんかに、涙を流してくれはって」
そう告げたとたんに、彼の手が伸ばされた。襟元をつかまれ、ぐいっと引き寄せられる。
またしても、目の前につきつけられた顔は、怒りを含んだ、泣きそうな顔だった。
「あたっ……当り前だ、馬鹿! 当然だろう。お前が………お前が、死ぬかもしれないと思ったから……意識もなかなかもどらねぇし………」
ぽとり…。
感情が高ぶったのか、綺麗な漆黒の瞳から、雫が零れ落ちた。
ぽとり…ぽとり…。
止められないのか、何度もそこから流れ落ち、その下にある、自分の服をぬらしていく。
アラシヤマは、自由な手を動かして、その涙が落ちる地点に手を広げた。
ぽとり…。
また、一つ零れ、手にはじけるように落ちた。
覚えのある感触。
あの夢で感じた温もりを含む優しい液体。
荒野を潤うしてくれた、雨。
自分のために流される、涙。
それを心地よいと思うのは罪なのだろうか。
止めるのも、なんだかもったいない気がして、頬に触れようとした手を頬の傍を流れる髪へと移動させた。
存外に柔らかな髪を梳くように、掬い上げ、口付けをひとつ、そこに落とす。
「わては、幸せもんどす」
こうやって、自分のために泣いてくれる存在がいる。
それだけで、幸福に包み込まれる気がする。
無神論者であるにもかかわらず、神に感謝したい思いでいると、ぐいっと髪を握っていた手が、引っ張られた。
「?」
むぅと唇を曲げた彼の顔が近づいた。
「一人だけ、幸せになるなよ。俺には………それをくれないのかよ」
なんとなく不貞腐れているような感じがするのは気のせいだろうか。
まじまじと彼を見つめていると、それに恥じ入るように、瞼が落とされ、口内で呟くように、唇がかすかに震えた。
「俺は――――お前が傍にいてくれるだけで、幸せなのに」
それでも、間近であるために、しっかりと聞こえてしまった言葉に、アラシヤマは、目を見開いた。
「シンタローはん……本気でっか?」
思わず、彼の肩に手をかけると、逃げるように引かれる。それでも、本気で逃げる気はないのか、軽く背をそらし、視線を反らされるだけで、そこに留まってくれた。
それから、酷く不服げな顔で、ぼそりと呟かれる。
「………………聞くなよ、んなこと」
(シンタローはんっ!!!)
「わて、その言葉だけで死んでもええどすっ!」
叫んだとたんにギロリと睨まれる。
「あ、嘘どす。嘘でっせ」
慌てて、パタパタと手を振って否定して見せた。
今の状況で、『死』という言葉を使うのはまずい。相手が過敏に反応してしまう。
掴んでいた肩を引き寄せる。
あっさりと自分の胸に戻ってきてくれた彼に、刻み込むように言葉を送る。
「シンタローはん。わては、ずっとあんさんの傍にいますよって、ええどすか?」
こんな風に、彼を泣かしてしまうことがあるかもしれない。
それでも自分のために、彼は必要だった。
あの荒れ果てた地には、潤いをもたらす優しき雨が必要だから。
希うように、問いかける。
「ああ。許してやる」
そうして返ってきたのは傲慢にも思える言葉で、アラシヤマの口元から笑みがこぼれた。
真っ赤になりつつ言われたところで、威厳などあったものではないのだ。
「おおきにどす」
何よりも愛しき存在を胸に抱き、アラシヤマは、感謝の気持ちを込めて天を仰いだ。
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