まさか――――――。
誰もそんなことは予想にもしなかった。
苦しげに抑えられた喉。
唇から零れた赤い液体。
崩れ落ちる身体。
異変は即座に皆が知る。
けれど、手遅れだった。
何も出来なかった。
彼に触れた時、それを実感するしかなかった。
わずかな時で、永遠に失ってしまったのだ。
――――――彼はもう、二度と目は覚まさない。
「シンタローはん」
アラシヤマは、白いシーツの上に横たわるシンタローの前に立った。
黒髪に縁取られた精悍な顔立ち。気の強さを示す眉。意思の強さを表す唇。
どれも自分にとっては、見知ったものがそこにある。
けれど、唯一見ることができないのは、その固く閉ざされた瞼の奥に存在する漆黒の輝きだった。
そこにはもうあの輝きはなく、二度と見ることはできない。
「シンタローはん」
大気を微かに振るわせるほどの呼びかけ。
それでも、シンと静まり返った部屋では、躊躇うほどよく通る。
誰もいない部屋のようだった。
ここには、自分の他に、彼も存在しているというのに、それを感じさせてくれないのだ。
それが当然なのだとは、思いたくはない。
「シンタローはん」
何度呼びかけても、相手は、反応を返さない。
わかっていても、呼びかけずにはいられない。
痛みをこらえるように唇を軽く噛むと、アラシヤマは、彼に向かって手を伸ばした。
穏やかな寝顔のそれに触れる。
その輪郭を確かめるように、指先で、ゆっくりとなぞる。
その指先に触れる冷たさが、言いようのない憤りを覚えた。
こんな冷たさなんて、自分は認めない。
人を拒絶するほどの冷たさなど、許せない。
もしも可能ならば、自身の熱を全て彼に移してもよかった。
それでもいいから、彼の中の温もりを返して欲しかった。
ついさっきまでは、確かに彼の中にもあったものなのだから。
「なして…?」
幾度となく呟かれた言葉。
どうして、こんなことになったのだろうか。
わかっていても。分かりたくはなかった。
彼は、毒に倒れたのだ。
誰にも倒されないと誰もが信じきっていた彼は、あっさりと敵対する者の手が盛った毒を飲み、その命を果てた。
「わてがいたのに―――――」
そこには、アラシヤマもいた。
彼の親族もいた。
彼の仲間もいた。
それなのに、誰もがいる目の前で、彼は倒れた。
誰も何もできぬまま、彼は、二度と起き上がってはくれなかった。
強いと呼ばれる人々がそこに集っていても、誰も彼を助けることはできなかったのである。
「あんまりどすわ」
指先が、唇に触れた。
何度も触れたことのあるそれ。
ひかれるように、自身の唇をよせた。
冷たい口付け。
もれる吐息。
だが、相手からの呼吸は感じられなかった。
「白雪姫なら、ここでお目覚めどすえ? シンタローはん」
祈るようにもう一度唇を寄せるが、相手が再び呼吸し始めることはない。
何度口付けをしようとも、固く閉じられた唇からは、何も零れてこない。
『毒リンゴを食べたお姫様は、王子様のキスで目を覚ましました』
それは、御伽噺でしかないのだ。
現実は、そこにある。
こんなにもあっさり行くとは思わなかった。
こんなにも簡単に奪われるとは思わなかった。
「…………目を開けてくれなはれ」
ポトリ。
白い肌に、水滴が落ちる。
ポトリ…ポトリ。
一つ、二つ。
それは、冷たい頬に落ち、すべり落ちていく。
まるで、彼が流している涙のようだ。
「泣きたいのはわての方どす」
実際泣いているのは自分だが。
そうでも思わなければ、やりきれない。
何も言わずに、言えずに、相手は逝ったのだ。
今、何を思っているのかなど、自分には想像することはできても、本心を悟ることはできない。
「シンタローはん」
頬に手を滑らせ、自分の涙で濡れたそれを手でぬぐいとる。
「シンタローはん」
もう二度と応えてはくれない。
どれほど叫んでも、相手は何も言ってくれはしない。
「シンタローはん」
現世(ここ)にいる限り、彼とは出会うことはない。
自分を置いて、彼はもう逝ってしまったのだ。
「酷すぎますわ」
一緒にいると。いつまでも傍にいると誓ったのは、遠い昔の話ではない。
なのに、相手は先にいってしまった。
自分を置いてきぼりにしたまま。
「約束は守りますえ?」
ならば、これからすることは決まっている。
いってしまったのならば、追いかけていけばいい。
自分から、彼の元へ行けばいい。
きっと彼も待っていてくれているはずだ。
アラシヤマは、晴れやかに微笑んだ。
「―――――――待っておくんなはれ」
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