書斎で、残っていた仕事を片付けていれば、躊躇いがちなノック音が聞こえてきた。かすかなそれは、シンとした静寂が支配する部屋でなければ、拾うことも出来なかっただろう。ひとつ音立てて、一拍置いた後、みっつ、それは続いた。
それを耳にしたとたん、マジックは、壁にかけられていた時計を見やり首を傾げ、それから外にいる相手に聞こえるように声を出した。
「入っていいよ、シンちゃん」
そう告げると、オーク材の重厚な扉がゆっくりと開いた。扉の向こう側から感じた気配は間違いはなく、そこからちょこんと顔を出したのは、マイスイートハニー――もとい、愛息シンタローであった。
こっちへおいで、というようにマジックは手招きしてあげる。お許しをもらったため、マジック手製の黒ねこさんパジャマ姿で、とてとてと傍へと近づいてきた。
「どうしたんだい? シンちゃん」
ここへ来ているシンタローは、けれど二時間も前にベッドの上でマジック自身が寝かしつかせたはずであった。ぐっすり寝ているのを確認してから、ここへ戻ってきたのだ。しかし、どうやらあれから起きてしまったようである。
寂しくないように、という思いで作った、マジック人形を腕にしっかり抱いて、愛らしい黒ねこさんが、じっとマジックを見つめたまま、ことりと首を傾げて問いかけた。
「パパは、まだ寝ないの?」
「ん?」
それはどういう意味だろうか。時計の針は、深夜0時をそろそろ指す時刻である。しかし、マジックにとってはこの時間帯は、まだ眠り時刻ではない。もちろん、10時就寝のシンタローは、知らないだろうが、それでも父親が夜遅くまで起きていることは分かっているはずである。
とりあえず、マジックは椅子から立ち上がると、息子の前へとしゃがみこんだ。しっかりと目線を合わせると、綺麗な漆黒の瞳が、こちらの様子を伺うように見ていた。
何か言いたいことがあるのだろう。
それを言わせるために、柔らかく微笑んで見せれば、シンタローは、おずおずと言葉を紡いだ。
「あのね………パパ。僕と一緒に寝て?」
「ッ!」
その言葉を聞いた瞬間、マジックは大量の鼻血を噴出しかけたか、そこは、さり気なく鼻を摘んで――さり気なくなっていたかどうかは突っ込んではいけない――ごくりと飲み込んだ。
「一緒に…かい?」
思いがけない言葉に震えた声で訊ね返せば、
「……うん」
作り物の猫ミミが上下にゆれ、躊躇いがちに頷かれた。その恥らう姿は、あまりにも初々しく、マジックは再び鼻を摘んで、鼻血を飲み込んだ。
(シンちゃんからお誘いなんて、なんて大胆なんだい、シンちゃん!! パパ、信じられないよッ!)
信じられないのは、マジックの思考回路である。どこでどう接続されると、そういう解釈ができるのだろうか。しかし、今更そこを指摘したところで、どーしようもないことである。
表面上は優しい父親の顔を見せながら、内では大興奮なパパを前に、シンタローは、甘えるように父親の服の一部をそっと掴んだ。
「怖い夢見たの…だから、一緒に寝て欲しいの」
その言葉と仕草に、さらに妄想の高みへとトリップしてしまったマジックだったが、怯えたシンタローの顔に、すぐさま現の世界へと戻ってきた。
妄想パパでも、息子第一には変わりないのである。
(シンちゃんの大胆発言は、怖い夢を見たせいか…)
なるほど、そういう理由があれば、先ほどの言葉も頷けた。シンタローは、怖い話や本というのがとても苦手なのだ。それなのに、そんなものを夢で見てしまえば、怯えるのも無理はなかった。
しっかりとパパ人形を抱きしめているのも、夢の怖さを紛らわすためなのである。だが、それがさらに息子の可愛さを強調させてて、パパに強烈パンチを食らわせていることは、もちろん本人は永遠に知らなくてもいいことであった。
「そっか。怖い夢見ちゃったんだね」
安心させるように優しい笑みで、そう告げれば、こくりと可愛く頷かれる。同時に抱いていたマジック人形をさらにギュッと強く抱きしめる仕草に、思わず、脳天を貫かれたようにのけぞってしまった。
(ああ、なんて可愛いんだい、君は。私を悩殺させられるのは、君だけだよ!)
まことにもって、迷惑極まりない事実である。
その海老反りになった背中は、シンタローが顔を上げる前に、常に鍛え上げられている――当然シンタローがらみで――背筋によって元に戻された。そうして、何事もなかったかのような顔をしてマジックは、シンタローを見つめた。
「それで、おねしょはしなかったかい?」
そういうこともよくあるから、ちょっとばかりからかい口調で訊ねてみれば、とたんにシンタローはむっと口元をへの字に曲げた。
「しなかったもん! 僕は、もう6歳だよ!」
きっと鋭い視線を投げつけられるが、マジックにとっては、流し目や上目遣いと同じぐらい、誘っているような視線に見えて仕方がなかった。もちろん、シンタローにそのつもりは、欠片もないのは、地球が丸いのと同じくらい当然のことである。網膜にあるマジックフィルターが、勝手にそう改変するだけだ。仕方がないというものである。
「そっか、ごめんね。シンちゃんは、もう赤ちゃんじゃないもんね」
二週間ほど前に、おねしょを一回してしまったのは、言ってはいけないことだ。案の定、そんなことは忘れているシンタローは、両手に拳を作って力いっぱい否定してくれた。
「違うもん!」
その仕草も、とても可愛らしく、パパはまたしても鼻血である。すでに総帥服の袖は、色は変わっていないにもかかわらず、ぐっしょりと濡れていた。
「うん。ごめんごめん。パパが悪かったよ……それじゃあ、一人でも寝れるよね?」
息子があんまりにも可愛くて、ついつい悪戯心が湧き上がり、そんなことを言ってしまえば、とたんにその顔が泣く一歩手前にように、くしゃくしゃに歪んでしまった。
「………パパぁ」
すがり付くような声と眼差し。うるっと涙を溜めた瞳で、一心に自分を求めるその姿に、マジックはぐらりと傾ぎ、がくりと両膝を床につけた。そのまま、床をバンバンと叩く。
(くぅ~~~~!! どーして、君はこんなに可愛いんだい? この地球上で…いや、宇宙の中でも君ほど可愛い子はいないよッ!! パパ、保障するからねッ!)
必要ない保障である。
床も、あまりに力いっぱい叩いたために、わずかながらだが凹んでしまった。普段ならば、ここまでの力は出せないだろうが、シンタローの威力は絶大である。
まったく必要ないところで出る力である。
「パパ? どうしたの」
「いや、茶色の虫がいたんだよ」
さすがに、その突然の奇行に息子が突っ込めば、爽やかに誤魔化して、マジックは一呼吸つき内なる興奮を宥めた。
真夜中でも、シンちゃんのためなら一気にボルテージが上がるパパなために、静めるのも大変である。
ようやく落ち着きを取り戻すと、マジックは、ぽふっと愛息の形のいい頭に手を乗せた。猫耳の間を、ひと撫ぜする。
「それよりも、さっきの言葉は冗談だからね? シンちゃん。パパも、シンちゃんと一緒に寝たいよ。今日は、一緒に寝てもいいかな?」
片付けるべき仕事は残っていたが、そんなものはどうでもいいことである。シンタローと共寝の前にそれは瑣末な事柄でしかなかった。
「うん!」
潤んだ瞳と薔薇色に上気させた頬で、嬉しそうに頷くその姿に、マジックは決意を固めた。
(シンちゃん……今夜、お互いひとつになろうね。そして、夜明けのコーヒーを一緒に飲もう――)
本当に、どーしようもないパパである。
再びあっさりと妄想世界へ行ってしまった父親は、今回はなかなか戻ってくる気配はなかった。
「ふふっ…初夜か――」
すっかり遠くまで行ってしまったようである。
(今晩は優しくするよ、シンちゃん)
めくるめく薔薇色の世界を夢見ているマジックを前に、幸いというべきか、その妄想世界を見ることが出来ないシンタローは、素朴な疑問を口にした。
「パパ、『しょや』って何?」
子供は知らなくてもいい言葉である。しかし、マジックにとっては重要な言葉だった。
「ん? それは、後でじっくりと教えてあげるからね、シンちゃんv」
そう焦らずとも、まだ夜はたっぷりと残っている。にこやかに笑みを浮かべつつ、今夜の花嫁を抱き上げようとしたマジックだが、その手は空気を抱くだけだった。
「ぬぉッ!?」
驚くマジックの前で、美貌の主がシンタローを抱き上げていた。
「それはね、『しょーがない奴』の略だよ、シンタロー」
「サービス叔父さん! こんばんわ」
突然現れた叔父を前に、シンタローは満面の笑みを浮かべた。さらに嬉しそうにキュッとその首に抱きついくシンタローに、サービスもやんわりと笑みを浮かべた。
「こんばんわ、シンタロー」
マジックから、シンタローを攫ったのはサービスだった。さらに、仲の良い様子を見せ付けられたマジックは、ジェラシーで悶えつつ、末の弟に言い放つ。
「サービス、一体いつからここに! 入る時はノックしなさい!」
せっかくの親子団欒(?)を邪魔されて、憤慨を露にすれば、呆れた顔のサービスが言葉を返した。
「したけど、兄さんが気付かなかっただけだろ。随分前から僕はここにいたよ」
その通りである。もう五分ほど前からここにいるのだが、頻繁に妄想の世界へ飛んで行っていたマジックが、気付かなかっただけだ。シンタローが気付かなかったのは、背後に立っていたためである。
「仕方がないじゃないか! シンちゃんの可愛さにメロメロになっていたんだからな。―――それで、何しに来たんだ」
本当に呆れるしかない理由を告げて、当たり前の質問をしてみれば、サービスは、やれやれと言わんばかりの溜息をひとつ落として、言った。
「いや、シンタローがこの部屋に入っていったのが見えたからね。何か起こるだろうと思って不安にね――案の定だし――ついでに、お休みを言いにきたんだ。―――お休み、兄さん」
すっと持ち上げられる右手。即座にその手の中心に集まる膨大な熱量。
「眼魔砲」
ちゅどーんッ!!
「お前は、永遠に私を眠らせる気かぁ~~~~~~~!!」
タメ無しMAX眼魔砲を放ったサービスのそれをまともに受けたマジックは、部屋の壁もろとも、錐もみ状態で外へと飛んで行った。
「叔父さん。また、パパを飛ばしたの?」
もうもうと立ち上がっていた砂煙も落ち着き、あたりに静寂が取り戻されると、シンタローはぴょんと、猫のようにサービスの腕から飛び降りた。それから、ぽっかり空いた書斎の穴を眺める。そこはすっかり風通しのいい部屋になっていた。
しかし、シンタローの顔に驚きはない。それは、別に珍しいことではないせいだった。週一ぐらいで、起こっていることなのだ。心配することはなかった。
「ああ。必要だからね」
さらりと恐ろしいことを告げるサービスだが、否定する相手がいないので、問題はない。もちろん、シンタローは、それを素直に受け入れた。
心残りは、吹き飛ばされる前に、パパにお休みなさいを言い損ねたことだが、一度、怖い夢で起きる前に言ったので、諦めることにした。それに、朝になってから改めて「おはよう」の挨拶をすればいい。今は、いないけれど、すぐに復活してくる不死身のパパなのである。シンタローにとっては、それも自慢のひとつだ。
「そっか! パパには必要なことなんだね。だったら、早く僕も出来ないかなぁ」
サービスの放つ『眼魔砲』というのは、蒼白い光を放っていて、とても綺麗なのである。自分の手からそれを出せれば、とても気持ちいいに違いなかった。それに何よりも、『マジックに必要』という部分が重要だった。
「大きくなったら、君も打てるようになるよ」
その言葉に、シンタローは、顔を輝かせた。
「ほんと? そうしたら、今度は僕がパパにそうしてあげたいな」
パパには『眼魔砲』が必要なのだと、サービスが言うのならば、きっとそうなのだろう。そう信じ込んでいるシンタローが、嬉しそうにそう言えば、サービスもうっすらと笑みを浮かべて頷いた。
「そうだね。そうしてあげるといい」
無責任な言葉を言い放つサービスに、シンタローは大きくしっかりと頷いた。
「うん♪」
絶対に、大きくなったらパパに眼魔砲を打つことを決めたシンタローである。本当に十数年後には、全然違う意味で、眼魔砲を父親に放つことになるとは―――もちろん知る由もないことである。
「早く眼魔砲を打てないかな!」
はしゃぐように、そう言うシンタローの肩をぽんと叩いた。
「そうだね。すぐ打てるようになるよ。でも、今晩はもう遅いから、寝ようかシンタロー。今晩は、叔父さんが付き添ってあげるよ」
「うわぁ~い。ありがとう、サービス叔父さん!」
大好きな叔父さんと寝れば、今度こそ悪夢などは見なくてすむだろう。
シンタローは、サービスと手をつなぎながら、大きな穴の開いた書斎を後にした。
一方、マジックは―――。
「ふふっ……ああ、私を迎えに来た天使が見えるよ。……でも、シンちゃんの方が何倍も…いや、何万倍も可愛いよ。っていうか、シンちゃん…お願い、パパを迎えに来て――しくしくしく」
どこぞの木の枝に引っかかったまま、朝露よりも先に緑の葉に塩辛い雫を落としていたのだった。
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