「我慢するのもええ加減にしておくれなはれ」
「…………関係ねえだろ、お前には」
「せやけど…」
躊躇いがちにアラシヤマの手が、目の前にいるシンタローに向かって伸びる。
だが、その手を一瞬睨みつけると、シンタローは、振り払うように、アラシヤマに背中を向けた。
「お前には関係ない」
そのまま、振り返らずに、キッパリ拒絶の言葉を吐かれる。
全てを拒否する態度。
アラシヤマは、行き場の無くなった自分の手を眺め、仕方なくそれを元に戻すと、向けられた背中に視線を向けた。
自分と変わらない体格と広い背中。どうみても逞しい男の背中だ。
それでもそれを愛しいと感じるのは、自分が恋という病にわずらっているためだろうか。
けれど、今はそんなことはどうでもいい。
ただ、まるでヤマアラシのようにトゲを出して自分を威嚇しているかのように見えるその背中を、アラシヤマは、やんわりと言葉を向けた。
「――――シンタローはん。ほんまにそう思うとりますの?」
関係ないと、その一言で、自分をそう跳ね除けるのだろうか。
確かに、それは自分とは関係ないことだった。
総帥として、彼の責任であり、負うべき任務でもあった。そこに、自分が介入することは許されてない。それでも、全てを彼が背負う必要もないはずだった。実際の仕事面では無理でも、心情的に自分に頼ることは、決して許されないことではない。
彼の意に添わない、それでもやらなければいけなかった嫌な仕事をした時に、その気持ちを少しばかり吐露したところで誰が、彼を攻めるというのだろうか。
なのに、一度たりとも彼は、そんな弱音を吐いたことはなかった。ずっと……どれほど願っても、彼は自分の内に全てを押し込んで、なんでもないフリをする。
「ああ、そうだ」
自分の思いなど気づかずに、彼は、トゲを含んだ冷たい言葉で返してくる。
傍に近づけさせないように、必死でトゲをむき出し、距離を置こうとしているのが分かる。
その頑固な性格や意地っ張りな性格を嫌いではない。けれど、今はその性格が歯がゆさを覚える。
なぜ、自分にまでそのトゲを向けるのか。
「わての存在なんてその程度ですのん?」
「……………」
哀しくなる。
自分が必要とされてない気がして。
自分の存在すらも否定される気がして。
なんのために、自分がここにいると思っているのだろう。
「わてがシンタローはんを心配するのもいけへんといいますの?」
「………………」
「また我慢する」
何か言いたいことがあるのだろうに、黙って背中を見せるだけだ。
小さな溜息をこれみよがしについて見せるが、反応は何もない。
今日は、かなりの頑固を見せてくれる。
頑なな相手の態度はくずれそうになかった。
それが必死の虚勢だとしても、自分にはどうしようもなかった。
そのトゲトゲの背中を眺めることしかできなくて、アラシヤマは、切なさをにじませ瞳を緩ませた。
「シンタローはん。もう、ええどす」
苦い笑みを一つ浮かべると、その背中に、そう言い放った。
その台詞とともに、一歩、シンタローの傍から離れる。
(もう、ええ…か)
頑張ってトゲを出す姿は、見ているこちらも痛い。
それならばいっそ彼の望むどおりにして、楽にしてあげようとすら思えるほど。
「わてが必要でないといわはるんなら…………もう、ええどす」
突き放すような声。
たぶん、こんな風に言うのは、彼と出会ってからは、初めてのことだろう。相手の方からは何度もあったけれど、自分からは、彼から離れようとしたのは初めてのことだ。
けれど、そう決意したら、躊躇いはなかった。
靴音を響かせ、後ろに下がる。
彼の背中がその音を聞いて、震えた。
けれど、振り返りもしなかった。何の言葉も言わない。
本当にその我慢強さには呆れてしまう。
それが彼なのだと言い切ってしまえば、それで終わりなのだけれど、少しだけ自分には違うのではないかと期待をしてしまっていた。
でも、彼は他の人と変わらぬ態度で自分に接する。
それならば、これも仕方ない結果であった。
「シンタローはん。さいなら…」
そう呟くとアラシヤマは、シンタローに背中を向けて歩いていった。
後ろは一度も振り返らなかった。
けれど、相手も振り返る気配は見せてくれなかった。
胸を直接つかまれるような痛みに耐えながら、アラシヤマはシンタローに別れを告げた。
ポタリ。
シンタローの足元に雫の跡がつくられた。
それは一つだけではなかった。
ポタリ。ポタリ。ポタリ。
断続に落ちる雫。
一つの点が大きな沁みになって床に広がっていく。けれど、シンタローはその場から動かなかった。
じっと何かに耐えるように、その場に立ち尽くす。
両側の手が握り拳をつくり固く握られる。それが、細かに震えていた。
ゆっくりと唇が開いた。小さくわななく。
「ア………っ」
何かを叫ぶように声がこぼれたが、すぐにそれを飲み込むように閉じられた。
そして、閉じた唇が開かないように、きつくそれを噛みしめた。血がにじんでも緩むこともなく、それを噛みしめ続ける。
瞳からこぼれる水は、まだ止まらなかった。
全てを押し殺したまま、俯いた頭を小さく振る。
耐えられない何かを必死になって耐えるように。
それでも、決して後ろを振り返ることはなかった。
「―――――――負けましたわ、あんさんには」
シンタローは、行き成り暖かなぬくもりに包まれた。
「っ!?」
驚いて顔を上げれば、柔らかな笑みを浮かべたアラシヤマの顔が目の前にあった。
信じられないといった表情のシンタローに、アラシヤマの目がいさめるように、細められた。
「もう、ええどす。わての負けどすから。もう…こんなことはやめてくれなはれ」
アラシヤマは、シンタローの固く閉ざされ、血を滲ませる唇に指を這わした。
「…っ」
その指先が傷口に当たり、痛みに口を開くと、すかさずその唇がふさがれた。
指ではなく、それよりも暖かく柔らかなものに。
それは、激しいものではなくて、優しい口付けだった。癒すような口付け。その最後に、そっと傷口を舐められた。
それも離れ、目を開くと悲痛な表情のアラシヤマの顔が間近にあった。
「自分で自分自身を傷つけるのはやめなはれ。あんさんだけでなく、見ているこっちも痛いですわ」
「な………んで」
信じられないといった顔を向ける相手に、アラシヤマは小さな笑みを浮かべてみせた。
「あんさんも意外に阿呆どすなあ。わてが、あんさんを見限ることなんてあるはずないでっしゃろ? 帰ったのはただのフリどす」
別に意地悪をするつもりはなかった。
ただ、そこにいれば、彼はトゲを出した背中しか向けてくれないことがわかったから、アラシヤマは、いったんそこから離れたのだ。
離れるフリをしただけのこと。
けれど、こっそり中を覗いても、こちらを振り返ることもなく、その場で耐え続けるシンタローを眺めることしかできなくて、アラシヤマは、降参するしかなかった。
ここまでされれば、自分が折れない限りどうしようもないだろう。
「っ…」
シンタローの唇が震えた。
その顔が一瞬泣きそうにゆがみ、その手が、アラシヤマの服を握り締める。
俯き、何かに耐えるように震えるその身体に、アラシヤマは優しく包み込んだ。
「シンタローはん……我慢したければ、我慢すればいいですわ」
素直に自分の気持ちを放出できないというならば、無理をさせるわけにはいかなかった。
それでも、自分にできることは、やってあげたかった。
真正面から、彼を見つめ、その身体を抱きしめる。そうして、手を背中に向けた。
トゲのある背中。
けれど、前から抱きしめれば、そのトゲで傷つけることもできない。
どれほど拒絶しようとも、その身体を抱きしめることが出来る。
それは、比喩でしかないのだけれど、こうして、拒絶を見せないところを見ると、案外正解だったのかもしれない。
そう言えば、自分はちゃんと彼の目の前で、告げたことはなかった。
いつも、向けられた背中に言葉を投げつけただけだった。
「けど、哀しい時は、ちゃんと泣きなはれ。そうせんと、いつか身体だけでなく、心も壊れてしまいますわ」
一体何度、どのくらい、彼は我慢し続けたのだろうか。
一人で、それに耐えることを覚えた彼。誰にも、その辛さや悲しみをぶつけないようにと、必死にでトゲを出して相手を拒絶していた。
けれど、もうそれをする必要はないのだ。少なくても、自分には。耐える必要はない。
ヤマアラシのようなトゲを出していた彼の背中を優しく撫でる。
何度も何度も、もうそれは必要ないのだと教え込むように。
融通のきかない彼には、時間をかけないと無理なのだと悟ってしまったから。
「わてには関係ないと言うなら、別に何を言ってもかまいはしまへんやろ? 愚痴も文句も、関係ないわてに八つ当たりしなはれ。わてならかまいまへんから」
だから、自分を必要として欲しい。
切なる思いを込めて、アラシヤマは告げた。
ギュッと再び服を掴まれる感触が伝わってきた。
いつしか、彼の瞳にあたる部分に触れていた服が熱い雫で濡れだした。
「アラ…シヤマ」
小さな嗚咽に混ざりながら、自分を呼ぶ声。
「はい」
返事をすれば、自分の背中に回していた彼の腕の力が強くなる。
その存在を確かめるために。
「ここに…いろ」
命令的なのに、弱々しい口調。
それが切なくて、愛しくて、何よりも恋しい存在をアラシヤマはしっかりと抱きしめ、誓いを口にした。
「―――はい。ずっと、お傍におりますわ」
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