兄はん……
兄はん……
どこか遠くで幼い子供の声が聞こえる。自分を呼んでいるのだろうか。
『お兄ちゃん』。昔、屈託のない声で呼んでくれた弟の声とは随分と違うが、それでもその声に導かれるようにして、波間を漂うようなまどろみとは別れを告げ、現実に引っ張られるままに、意識を浮上させていった。
「――はん……兄はん、起きなはれ。そんなとこで寝とったら邪魔どす」
邪険に感じる声が、上の方から、降り注ぐように聞こえてくる。それは、先ほどまどろみの中で聞こえていた声に重なった。
「寝はるのは自由やけど、ここは人通り少ないゆうても一応往来の真ん中どすえ。誰かに踏み潰されんうちに早う起きはったらどないどすか」
何度も聞こえてくる子供の声に、なぜか頭が酷く重たく感じながらシンタローがゆっくりと目を開けた。とたんに、差し込む無数の鋭い光の矢。
「んっ……あぁ? 外?」
目を覚ましたシンタローの目に映ったのは、ちらほらと色づき始めた葉とその葉の合間から差し込む日の光だった。体に感じるのは、冷房ではない自然の風。さらりと乾いた風が、漆黒の前髪を撫でるように吹き抜けていった。
瞳に映る目に優しい緑の風景。しかし、シンタローは信じられないといった驚愕の表情で、その光景を瞳に映した。
「え? ここどこ?」
驚愕の次に現れたのは、狼狽だった。反射的に身を起こすために、頭を持ち上げようとしたが、ズキンと鈍い痛みが頭部を貫いた。気持ちが悪い。荒波にもまれ、身体を酷く揺さぶられ、悪い酔いした感じだ。とりあえず、無理に起き上がるのをやめ、寝転がったまま、シンタローは、自分のおかれている状況を知ろうと、頭の中をさぐった。
「俺は、さっきまで何してた……?」
柔らかな日差しを顔に受けながら、必死で目覚める前のことを思い出す。
シンタローには、こんな避暑地に来た覚えが欠片もなかった。というか、あるはずがない。自分はつい先ほどまで、ガンマ団本部内にいる総帥室にいたのだから。
(ああ、そうだ)
徐々に明確に思い出す。確か自分は執務中だった。けれど、連日ほぼ徹夜状態で仕事をしていたために、あまりにも眠気がひどくて、一休みという名目で、誰もいない執務室の机の上でうつ伏せになるようにして、目を閉じたのだ。
しかし、目を開けてみれば別天地。ここはどう見ても総帥の執務室ではなかった。
一体どういう理由と原因で、自分はこんな場所へワープしてきたのだろうか。
シンタローがいるのは、夏から秋に移ろうとし始めた森の中。状況がわからず混乱したまま、青天井を映すシンタローの視界に、幼さを多分に含んだ高い声とともに他のものがわりこんだ。
「やっと起きはったん?」
頭上から覗き込むようにして、自分を見下ろすのは、小さな子供だった。顔半分を覆う長い前髪と白い肌をした京訛の少年。
(えっ! アラシヤマ?)
その顔を見た瞬間、シンタローは、頭の痛みも忘れて、バネ仕掛けの人形のように起き上がった。
ゴツンッ!
鈍い音が頭の中に響く。同時に、眼前に火花が散り、くらくらと眩暈がする頭と痛みを訴える額を抱え込んだ。しかし、それは相手も同じだったようで、同じように地面を蹲る少年がチカチカする視界の端に映っていた。
「周り見て起き上がりなはれ!」
十数秒の空白後、痛むのだろう何度も額をさすりつつ、子供がシンタローに向かって怒鳴った。
真後ろから、自分を覗き込んでいた相手の額とそれを忘れて立ち上がろうとした自分の額が、ものの見事にぶち当たったのだ。
確かに、先ほどのは自分が全面的に悪いとわかっているためシンタローも素直に侘びた。
「悪ぃ。急にお前が縮んでるからびっくりして」
まさか、こんなところにアラシヤマがいるとは、思わなかったのだ。しかも、かなり小さくなっていたのだから、驚かずにはいられないだろう。
「何して、そんな身体になったんだよ。思い切り縮みやがって」
そう言うシンタローに、しかし、返って来たのは、呆れたような冷ややかな視線だった。
「何言うてますの? 頭打って、おかしくなりはったんどすか? わては元々この大きさどすえ。大きく成長はしても人間が縮むわけあらへんやろ」
「え?」
その言葉に、シンタローは、まじまじと目の前の少年を見つめた。
長い前髪も、しゃべり方も、目つきも少年はアラシヤマとそっくりである。違うのは見た目の年齢で、シンタローの知っているアラシヤマは今年二十八になるが、こちらはまだ少年で、十歳にもならない小さな身体だった。確かに、現実的には辻褄があわないが、そこはそれ、てっきりマッドサイエンティストのドクター高松の怪しい実験か何かで幼児化したのだと思っていたのだ。
しかし、どうやら違うらしかった。
(ま、普通に考えればそうだよな。いくらドクターといえども、人の身体を若返らせたりはできないか)
シンタローの日常は、知らぬものの非日常をはるかに超えているが、通常は人が幼児化するなんてありえないのだ。そのことを考えれば人違い、他人の空似という結論が出る。そもそもアラシヤマが子供でもこんな美少年にはならないと納得し、シンタローは子供にもう一度謝った。
「ごめん、人違いだ」
「まぁ、そうでっしゃろな」
こちらの発言は、どうやら頭を打ったせいの混乱ととられてしまったようである。さらりと応えると、アラシヤマによく似た少年は、シンタローにこれ以上取り合う気がないように、傍らに置いてあった、天秤を担いで立ち上がった。随分と時代錯誤な代物である。けれど、しっかりと水が入っているようで、ちゃぷん、と音立てるそれは、随分と重そうであった。
「ちょーっと待った!」
シンタローはそのまま立ち去ってしまいそうな少年の肩を掴んで、足を止めさせた。嫌そうに振り向いた顔はやはりアラシヤマに似ていた。昔、心友だなんて叫びだす前、お互い士官学校の学生だった頃にシンタローが声をかけるといつもアラシヤマはこんな顔をしていたのだ。
「なにしますん」
取り付くしまも無い、つっけんどんな態度。しかし、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
「帰り道邪魔して悪い。けど、すまないが、帰る前にここがどこだか教えて欲しいんだよ」
そんな初歩的な知識さえも、今のシンタローには欠乏していたのである。口を真一文字に結び、こちらを睨みつけてくれる少年に、手は離さないまま質問すると、すぐに答えが返ってきた。
「ここは鞍馬どす」
味もそっけもない返事。
「くらま? ……ってどこ?」
その顔に、胡散臭そうな表情が浮かぶ。確かに、普通はそれで大方検討がつくだろう。しかし、ここまで来た経路も状況もわからないシンタローには、行き成り耳慣れない地名だけを言われても、どこだが予想がつかなかった。少なくてもガンマ団本部の敷地内でないことだけはわかった。だが、分かったのはそれだけで、ここがどこの国であるかもわからないのだ。いや、大方予想はついているのだが―――。
とりあえず、じっと少年の答えを待っていると、こちらが手を離さないこともあってか、ぶすっとした表情のまま答えてくれた。
「京都市左京区の鞍馬といえば、わかりますやろか」
「京都……鞍馬…?」
幸いなことにその地名は聞いたことがあった。京都ということは、まず間違いなくここは日本である。『鞍馬』と言われても、どこであるかはピンと来ないが、いきなり未知の世界に飛ばされてしまったわけではないことがわかり、シンタローはほっと安堵した。
「ありがとう。助かった。えぇっと、君、名前は?」
「名乗る必要はあらしまへんやろ」
やはり態度は頑ななまま。しかし、シンタローはにっこりと笑って言った。
「俺はシンタロー。お前は?」
その言葉に、少年の鼻の頭に皺がよる。だが、先に名前を名乗られては、礼儀として名乗らないわけにはいかない。しぶしぶといった感じで少年も名乗った。
「……アラシヤマどす」
「え? なんだって?」
聞き間違えかと思い訊ね返せば、今度はもう少し語調を強め、ゆっくりと名前を告げた。
「『アラシヤマ』が、わての名前どすえ」
……マジ?
こんな偶然は、ありえるのだろうか。目の前の『アラシヤマ』をシンタローはじっと見つめた。
「そっか。すげぇな。さっき俺が君に似てるっていったやつも『アラシヤマ』って名前なんだ」
「そうどすか。ほな、わてはこれで」
シンタローの言葉に、何の感慨も覚えなかったらしい、少年アラシヤマは、冷ややかに立ち去ろうとする。また、水を溜めた天秤を担ぐ。肩に担いだ天秤の棒が、小さな肩にキツク食い込んだ。
「あ、ちょっと待って!」
「まだ、何かありますの?」
鬱陶しげに振り返るアラシヤマに、シンタローは笑みを浮かべながら、さり気なく天秤に手をかけた。
「起こしてくれたのと、教えてくれたお礼。それ、重いだろ? お兄ちゃんが運んであげるよ」
少年の了承を取るよりも先に、シンタローは、小さなアラシヤマから天秤を取り上げると、勝手に自分の肩へ担ぎなおした。そして、アラシヤマの前を歩き出す。すたすたと淀みなく歩く姿は、天秤の重さなど感じられない。その後ろ姿を、アラシヤマは呆れたように見やった。
「―――わてより先行ってどないしますの。阿呆とちゃうか、あの兄はん」
けったいな人である。道の中央で寝ているので、親切心出して起こしてみれば、随分ととんちんかんなことをしゃべっていた。もしかしたら、頭の方がいかれているのだろうかと疑ってみたが、発言のおかしささえ、目を瞑れば、言動はしっかりとしていた。何よりも、自分を見る目はまっすぐで―――邪険にするには躊躇うほど人懐っこいものである。だからだろう。冷たい態度をとってみたものの、最後まで抵抗できずに、水の入った天秤は、シンタローという青年の肩に乗せられてしまった。
「そっちやあらしまへん。わての家は、こっちどす」
反対方向へと歩いていく青年の背中にそう呼びかけて、アラシヤマは後ろを見ずに歩き出した。
PR