久しぶりに、その夢を見た。
それは、青い悪夢。
子供の頃は頻繁にみた。
『青』が自分を追いかけてくる夢。
どんなに一生懸命走っても、それはぴたりと後をついてくる。
足がもつれて何度も転びそうになっては、すんでのところでなんとか態勢を戻す。そして、遅れた分を取り戻そうと、よけい必死に走ることになるのだ。
それは永遠に終わらない無限地獄のようで、いっそ倒れてしまえればきっと楽になれると分かっているのに、そうできない。
苦しさを終わらせたいという欲求より先に、あれに追いつかれたらという恐怖が自分を駆り立てる。
怖くて、辛くて、自分の悲鳴で何度目が覚めたことだろう。
息もうまくできなくなっている自分を、そのたび毎に温かい手が抱きしめてくれた。
「大丈夫ですよ、グンマさま。ほら、高松がきましたよ。」
背中をさすられて、やっと呼吸ができるようになった自分に、保護者はハチミツをたらした温かいミルクを飲ませてくれ、再び寝付けるまで側についていてくれた。
しかし、彼は一度も自分に悪夢の内容を聞くことが無かった。
予想がついていたというより、それを理解することができない自分の限界を知っていたということだろう。
自分も彼に訴えることはしなかった。
うまく説明できなかったし、言葉に出すとそれが夢の中から這い出してきそうだったからだ。
そんなある日、高松が出張で出かけ、グンマは伯父の元に預けられることになった。
高松がいないのは心細かったが、お泊まりは子供にとって年に数回あるかないかのスペシャルイベントで昼間はもちろん、夜も居間やお風呂で、さんざんはしゃぎ回って早々にベッドに入れられた。
楽しかった今日のことを思い出したり、明日の予定を考えてわくわくしている内にいつしか眠りに落ちたのだった。
――――そして、『青』が来た。
「アアア―――ッ!」
いつものように悲鳴で目を覚ましたが、ここには高松がいない。慰めてくれる優しい腕も、ホットミルクも現れない。
毛布を頭から引きかぶったものの、もう目をつむることなどできなかった。
うっかりでも閉じてしまったら、今度こそアレにつかまる。
いや、もうすでにアレは自分の夢の中から出てきて、今、この部屋のどこかのすみっこから自分を見張っているのかもしれない。
グンマは跳ね起きて、枕をお守り代わりにひっつかむとその部屋を飛び出した。
暗い廊下を無我夢中で走って、少し離れた部屋に飛び込むと、シンタローが眠たい目をこすりながら、ベッドから起きあがった。
「どーしたの? グンちゃん」
「しんちゃ………。」
呼ぶ声も言葉にならず、ひっくひっくと泣き出すグンマに、シンタローが、もしかして、と意地悪い顔をした。
「おねしょしたんだ?」
「ちがっも……うっうえぇ……。」
泣きじゃくっていると、シンタローが降りてきて自分のところに駆け寄ってきた。
「あー、もう、泣かないでよ。はい、ハナかんで。」
彼が抱えたティッシュ箱を差し出す。
鼻をかんだ後も、何枚もティッシュを取り出してシンタローはグンマの顔をふいてくれた。
それは高松のような手稲なやりかたじゃなくて、肌が真っ赤になったけど、優しいのはあの手と同じでグンマはなんとか落ち着いて説明した。
「あのね……コワイ夢をみたの……。」
「コワイ? ……おばけ?」
そう口にして、びくびくと周りを見回す。シンタローはお化け屋敷や映画に弱い。
グンマはかぶりを振った。
「おばけじゃないの……。」
「じゃあ何?」
グンマは一生懸命シンタローに伝えた。
今まで高松にすら話せなかった夢の内容を。
「あのね、こわいのがね、おっかけてくるの。つかまったら食べられちゃうからいっしょうけんめい、ボク、逃げてるんだけど、ずっと追っかけてくるの。」
それだけじゃない。
本当に怖いのは追いかけられることじゃない。
「……いつか、ボクつかまっちゃう。きっと。」
グンマはぎゅっと目を瞑った。
どれだけ必死に走っても、あれから逃げることはできないのだ。
だって、あれは……あれがいるのは『自分の中』――――。
「……おばけじゃないんだよね?」
グンマがこっくり頷くと、シンタローはほっとしたように笑った。
「じゃあ、大丈夫。いっしょに寝よ。ボクが見張っててあげる。それが出てきたらやっつけてやるね。」
「ホント?」
「うんっ。」
元気の良い返事と一緒に差し出された手を握ると、温かかった。
毛布に潜り込むと、さっきまでシンタローが寝ていたそのぬくもりが残っていて、それだけで安心できる。
一晩中見張っていると言ったくせにシンタローはものの五分で寝入ってしまったが、グンマはもう怖くなかった。
すりよれば体温を感じ、規則正しい彼の呼吸が聞こえるのだから。
「しんちゃん。」
こっそり名前を呼ぶと、握っていた手にぎゅっと握り返される。
―――その夜はもう怖い夢はみなかった。
その後も、まったく見なかったわけではないけれど回数は明らかに減ったし、前ほどは怖くなくなった。
青に追いかけられている最中も、昔は逃げることしか頭に無かったが今は『シンタローさえ見つければ大丈夫』と思えば、なんとか、がんばれたからだ。
魔法使いみたいだよね、と言えば、『俺は格闘家だ』と的はずれな答えが返ってきそうだけど、本当にそう思う。
あの、心音と体温を思い出せば、悪夢なんて怖くなくなった。
トクン……トクン……。
突然、その音を耳にし、グンマは目を覚ました。
そして目に飛び込んだのは鍛えられた厚い胸板。
「……シンちゃん?」
なんで、真っ裸なんだ。
「ああ、履いてる履いてる。」
思わずベッドに潜り込んで確認してしまうグンマ博士だった。
そういえば、シンちゃん下着一枚で寝てたって言ってたなぁ。
とりあえず、私邸に戻った……あの『お父様』と一つ屋根の下に戻った今はやめておけと忠告しておいたのだが、南国で培った癖はなかなか抜けないらしい。
でも、なんでこんなとこで寝てるんだろう。
酔っぱらって部屋を間違えたってことはない。
総帥の座についてからここ数ヶ月、休みらしい休みもとらずに働いているシンタローが、酔うほどに酒を飲む時間があったとは思えないからだ。
まあ、いいかとグンマが再び目をつむろうとしたその時、控えめなノックの音がした。
そっとドアが開いてそこから顔をのぞかせたのはもう一人の従兄弟だった。
「夜分に悪い。シンタローがここにいるかと思ってな。」
見ると、キンタローはパジャマ姿だ。
それはいいけど、なんで毛布を握ってるんだろうとグンマが疑問に思っていると、彼は部屋の中に入ってきてシンタローの隣に潜り込んだ。
「ええっ! ちょっとちょっと! キンちゃんまでここで寝るつもり?」
本人に確かめないでお泊まり会の会場にしないでよ、というグンマの抗議に、キンタローは素直にごめんと謝った。
「シンタローが部屋にいればグンマにまで迷惑をかけなかったのに。」
その姿が珍しくしょんぼりとしている様子だったので、グンマは言い過ぎたかなと反省してしまったが、よく考えると何かおかしい。
「………なんか、いつもシンちゃんと寝てるみたいな発言なんですけど?」
「いつもじゃない……嫌な夢を見た時だけだ。」
嫌な夢、グンマははっとして身を起こして従兄弟見下ろした。
自分と同じ青い目が天井を見ている。
―――――ああ……そうだよね―――――。
「シンタローが近くにいると、怖くなくなるんだ。」
キンタローの言葉にグンマは少し笑って頷いてみせた。
「そっか、良かった。きっと大丈夫だよ。」
いつか、見ないですむようになるよ、とは保証できない。
けれど、彼がいれば大丈夫だよ、とそういう意味の相づちだと彼はいつか分かってくれるだろう。
けれど。
「なんで、シンちゃんはここで寝てるんだろ………。」
「グンマの方が俺よりはまだ小さいからだろ。」
グンマの独り言に、キンタローが分かり切ったことでもあるかのように答えた。
「なにそれ。」
「体温だってたぶん俺より高い。」
「だから、何それ?」
二度目の問いに返事は無かった。
かわりに、すーすーと安らかな寝息が聞こえてきた。
「ちょっ!」
シンタローの眉がぴくっと動いたのを見て、グンマは口を閉じた。
へたに起こしたら殴られるかもしれないし。
シンタローは眠ったまま手をぱたぱた動かし、シーツについたグンマの手を探り当てぎゅっと握った。
そして、唇の動きを見たグンマはキンタローの言った意味がやっと分かったのだった。
前にあの島に乗り込んだとき、子供に添い寝しているシンタローを見た。
いつもああだったんだもんなぁ。
急に一人でクィーンサイズのベッドは広すぎるのかもね。
でも、僕はあんなに小さくはないんだけど、と苦笑したが手をほどきはしない。
小さい頃、夢から守ってくれた魔法の手。
いや、今も、従兄弟二人を守ってくれているこの手の温度。
あのときの僕や今のキンちゃんと同じように、この手と鼓動と体温は君に安らぎを与えられているのかな。
そうだったらいいんだけど。
―――どうか、三人ともいい夢を見られますように――――。
end
04/03/25
改稿
200/03/19
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