告白 ~クリスマスの話~
1.リキッド
(あ・・・・・・)
暖かそうな光に照らされたショウウィンドゥ。ガラスケースの中に浮かび上がったマネキンは、冬物の服を着て優雅なポーズをとっている。
買い物途中にふと目に止まったそれに、思わず見入る。足が止まり同行者との距離が開いた。それに気付いたのだろう、前を行く子供が振り返って声を上げた。
「おい、何してるだキッド!」
「・・・・・・ああ、悪ぃパプワ」
言葉を返しつつも、両手に買い物袋を下げたりキッドは、そちらを振り向きもしない。その様子に少しむっとした表情をしたものの、何をしているのかも気になったのだろう。パプワは開いたぶんの、数メートルの距離を引き返してきた。
「なに見てるんだ?」
ひょいと視線の先を見上げると、そこには婦人物の服を着たマネキンがいた。しばらく眺めてから、マネキンと保護者を見比べる。
「女物の服なんて見て、どうした? 着るのか?」
「ああ・・・・・・って、え!? 違う、違う! 着ねぇよ! 妙なこと言うなって!」
一瞬、同居人の言葉を肯定してしまったリキッドは、慌ててそう申し開きをする。が、はっきりと向けられる不審気な目が痛い。
「じゃ、何で見てたんだ?」
「え・・・あ・・・いや、えっと・・・・・・・」
とたんにしどろもどろになった。不審げに見られる以上に、痛いところを突かれたせいなのだが、答えないのは明らかに不自然だ。そもそもこの冷静な子供に、家庭での主導権を握られている彼にとって、これ以上立場が下がるような事態は避けたい。そうそう言いふらしはしないだろうが、女装癖があるなどと思い込まれては困る。
(つーか嫌。カンベン、やめてくれって)
そんな噂が耳に入れば、からかわれそうな顔(おもに年齢30代以上の面々)を思い浮かべ、ニヤニヤ笑いながら親しげに力いっぱい首を絞めてくるところまでを想像し、一気に血の気が引く。
頭を勢いよく振ると、開き直ったようにまくし立て始めた。
「この服さ、シンタローさんに似合うんじゃないかと思って。ホレ、よくあの人にはお世話になってるだろ? もうすぐクリスマスだし、お返しにあげるのもいいかなー・・・・・・って」
「シンタローに? ・・・ふうん・・・・・・」
少し驚いたように言ってから、パプワの視線はショウウィンドゥに戻った。慌てて正直に言ったのものの、急にリキッドは恥ずかしくなる。
(バカじゃないか、俺? いくらお世話になってるお返しとはいえ、クリスマスに男からプレゼントなんて・・・・・・。誤解されちまうかも知れねぇじゃねぇか。あの人もてるから・・・)
本人には自覚がないようなのだが、とリキッドは嘆息する。数年前に教室でもみあって以来ずっと(その前からもだが)、シンタローの男に対する態度は、一貫して変わっていない。
いつも代わらず男のような性格の自分はもてないと思い込み、女の嫉妬の視線を浴びていることすらも気付かない。
それは仕方のないことなのだ。
彼女は、思いが伝わらない男や、妬む女以上の大勢の人に、好かれている。ごく一部の、より近くにいる人々には愛されているといってもいいだろう。そんな人々の努力(?)により、それ以外の人々の意思は届きづらくなっているのだ。特に男の好意は、過保護な父親を初めとする親族の鉄壁のガードで、完全にシャットアウトさせられていた。
(・・・・・・クリスマスプレゼントとかもすごそうだよなー・・・。ま、大半は届かないだろうけど)
そこで、自分の行動にふと思い至る。いくら同居人の子供の親友とはいえ、相手は学園長の娘。本来なら近付くこともないような、お嬢様なのだ。
(・・・・・・知り合いだって知れたときも、あいつらにあれこれ言われたもんなー・・・)
転校してきて間もない頃の友人とのやり取りを思い出す。当時高校生だった彼らの間でもシンタローはアイドルで、知り合いだとわかると友人だけでなく、クラス中のものから(女子含む)うらやましがられ、もみくちゃにされたものだった。あの人と話したんだー、とリキッドを憧れの目で見てくるものさえいた。
(そんな人にいまさら俺が贈り物すんのも、な)
もう一度、マネキンの着ている白いセーターを見て、苦笑いする。小さく鼻でため息をつくと、その場からきびすを返した。
「さ、もう行こうぜ、パプワ」
「買わないのか?」
「え?」
意外そうな子どのもの言葉に思わず足を止めると、今度は不満そうな口調で言ってきた。
「プレゼントするんだろ? この服ならシンタローに似合うと思うぞ」
「いや、でも・・・」
「何を急に嫌がってるんだ? お前があげればシンタローは喜ぶだろう」
「・・・・・・そっかぁ・・・? 逆に迷惑じゃ・・・」
何が迷惑か、は省略したが正直な気持ちを告げると、パプワは呆れたような目で見上げてきた。
「あいつのせこさはお前も知ってるだろう。迷惑だなんて思うものか」
そうかなぁ・・・と、口の中でつぶやくものの、シンタローが行う節約術にはよく感心し、時のはあきれていることを思い出したりキッドは、それもそうかと思い直す。
「・・・・・・じゃあ、買っちまおうかな・・・。パプワ、夕飯もうちょうっとまっててくれな」
「うむ。仕方がない、待ってやろう」
ややためらいがちにだが、いそいそと店に入ってゆくリキッドを、パプワは少しだけため息をつき、微笑んで見送ったのだが、当の本人がそれに気付くことはなかった。
たとえ気付いたとしても、その理由にまでは思い至らなかったろう。
「うまくいくといいな、シンタロー」
2 シンタロー へ
1.リキッド
(あ・・・・・・)
暖かそうな光に照らされたショウウィンドゥ。ガラスケースの中に浮かび上がったマネキンは、冬物の服を着て優雅なポーズをとっている。
買い物途中にふと目に止まったそれに、思わず見入る。足が止まり同行者との距離が開いた。それに気付いたのだろう、前を行く子供が振り返って声を上げた。
「おい、何してるだキッド!」
「・・・・・・ああ、悪ぃパプワ」
言葉を返しつつも、両手に買い物袋を下げたりキッドは、そちらを振り向きもしない。その様子に少しむっとした表情をしたものの、何をしているのかも気になったのだろう。パプワは開いたぶんの、数メートルの距離を引き返してきた。
「なに見てるんだ?」
ひょいと視線の先を見上げると、そこには婦人物の服を着たマネキンがいた。しばらく眺めてから、マネキンと保護者を見比べる。
「女物の服なんて見て、どうした? 着るのか?」
「ああ・・・・・・って、え!? 違う、違う! 着ねぇよ! 妙なこと言うなって!」
一瞬、同居人の言葉を肯定してしまったリキッドは、慌ててそう申し開きをする。が、はっきりと向けられる不審気な目が痛い。
「じゃ、何で見てたんだ?」
「え・・・あ・・・いや、えっと・・・・・・・」
とたんにしどろもどろになった。不審げに見られる以上に、痛いところを突かれたせいなのだが、答えないのは明らかに不自然だ。そもそもこの冷静な子供に、家庭での主導権を握られている彼にとって、これ以上立場が下がるような事態は避けたい。そうそう言いふらしはしないだろうが、女装癖があるなどと思い込まれては困る。
(つーか嫌。カンベン、やめてくれって)
そんな噂が耳に入れば、からかわれそうな顔(おもに年齢30代以上の面々)を思い浮かべ、ニヤニヤ笑いながら親しげに力いっぱい首を絞めてくるところまでを想像し、一気に血の気が引く。
頭を勢いよく振ると、開き直ったようにまくし立て始めた。
「この服さ、シンタローさんに似合うんじゃないかと思って。ホレ、よくあの人にはお世話になってるだろ? もうすぐクリスマスだし、お返しにあげるのもいいかなー・・・・・・って」
「シンタローに? ・・・ふうん・・・・・・」
少し驚いたように言ってから、パプワの視線はショウウィンドゥに戻った。慌てて正直に言ったのものの、急にリキッドは恥ずかしくなる。
(バカじゃないか、俺? いくらお世話になってるお返しとはいえ、クリスマスに男からプレゼントなんて・・・・・・。誤解されちまうかも知れねぇじゃねぇか。あの人もてるから・・・)
本人には自覚がないようなのだが、とリキッドは嘆息する。数年前に教室でもみあって以来ずっと(その前からもだが)、シンタローの男に対する態度は、一貫して変わっていない。
いつも代わらず男のような性格の自分はもてないと思い込み、女の嫉妬の視線を浴びていることすらも気付かない。
それは仕方のないことなのだ。
彼女は、思いが伝わらない男や、妬む女以上の大勢の人に、好かれている。ごく一部の、より近くにいる人々には愛されているといってもいいだろう。そんな人々の努力(?)により、それ以外の人々の意思は届きづらくなっているのだ。特に男の好意は、過保護な父親を初めとする親族の鉄壁のガードで、完全にシャットアウトさせられていた。
(・・・・・・クリスマスプレゼントとかもすごそうだよなー・・・。ま、大半は届かないだろうけど)
そこで、自分の行動にふと思い至る。いくら同居人の子供の親友とはいえ、相手は学園長の娘。本来なら近付くこともないような、お嬢様なのだ。
(・・・・・・知り合いだって知れたときも、あいつらにあれこれ言われたもんなー・・・)
転校してきて間もない頃の友人とのやり取りを思い出す。当時高校生だった彼らの間でもシンタローはアイドルで、知り合いだとわかると友人だけでなく、クラス中のものから(女子含む)うらやましがられ、もみくちゃにされたものだった。あの人と話したんだー、とリキッドを憧れの目で見てくるものさえいた。
(そんな人にいまさら俺が贈り物すんのも、な)
もう一度、マネキンの着ている白いセーターを見て、苦笑いする。小さく鼻でため息をつくと、その場からきびすを返した。
「さ、もう行こうぜ、パプワ」
「買わないのか?」
「え?」
意外そうな子どのもの言葉に思わず足を止めると、今度は不満そうな口調で言ってきた。
「プレゼントするんだろ? この服ならシンタローに似合うと思うぞ」
「いや、でも・・・」
「何を急に嫌がってるんだ? お前があげればシンタローは喜ぶだろう」
「・・・・・・そっかぁ・・・? 逆に迷惑じゃ・・・」
何が迷惑か、は省略したが正直な気持ちを告げると、パプワは呆れたような目で見上げてきた。
「あいつのせこさはお前も知ってるだろう。迷惑だなんて思うものか」
そうかなぁ・・・と、口の中でつぶやくものの、シンタローが行う節約術にはよく感心し、時のはあきれていることを思い出したりキッドは、それもそうかと思い直す。
「・・・・・・じゃあ、買っちまおうかな・・・。パプワ、夕飯もうちょうっとまっててくれな」
「うむ。仕方がない、待ってやろう」
ややためらいがちにだが、いそいそと店に入ってゆくリキッドを、パプワは少しだけため息をつき、微笑んで見送ったのだが、当の本人がそれに気付くことはなかった。
たとえ気付いたとしても、その理由にまでは思い至らなかったろう。
「うまくいくといいな、シンタロー」
2 シンタロー へ
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酔っ払い編
扉が開き、ぐったりとした一人と、それを支えるもう一人が入ってくる。ひどく酒臭く、どちらからにおっているのかももう解らない。二人ともかもしれない。
今は新年会シーズンで、そのあおりを食らったのか、支えられている黒髪は、もうぐでんぐでんだ。支えている黒地に金メッシュも、それなりのようではあるが。
「しっかりしてくださいよ、シンタローさん!」
「あ・・・ああ・・・あう・・・」
支えられたシンタローは、そんな返事しか返さない。目はもう開いているのかいないのか、本人もよく解ってはいないだろう。
「参ったなぁ・・・ほら、そこのソファまではちゃんと歩いてください! 靴も脱いで・・・」
支えたリキッドの指示にどうにか従い、ソファに倒れこむ。その振動も気分に響いたらしく、まだ彼女はうめいている。うつぶせているために表情はわからないが、長い黒髪がものように広がっているのは、見ているほうも気分が悪くなるような風景である。
部屋は暗く、酒のにおいさえしなければ、まるでホラー映画のワンシーンだ。
「大丈夫ですか? だから無茶だって・・・」
「・・・・・・う・・・」
男が背中をさすった。ついでに近くにあるテーブルのものをどかしたりしている。ここは彼の部屋なのだ。ならば片付ける前に明かりをつければいいものだと思われる。
ともかく机を片付けた(はじに寄せただけのようにも見える)リキッドは、数回女性の背中をさすってから、奥に消える。水音がしてからコップを手に戻ってきた。台所に行ってきたのだろう。
「はい、シンタローさん水です。飲めますか?」
「あ・・・ぁ・・・」
のろのろと頭を起こして、どうにかといった様子でコップを手に取り、のどに流し込む。
「・・・・・・」
水を飲んでどうにか落ち着いたのか、しばらくしてシンタローはソファに上半身を起こし、だるそうに男を見た。
「リキッド・・・」
「はい?」
「・・・・・・悪ぃな・・・。お前だって・・・っう、きついだろ・・・つ・・・うに・・・」
「あなたほどじゃありませんよ・・・」
「・・・・・・」
苦しそうに言葉をつむぐ様子に、リキッドは苦笑い気味に答えるが、シンタローのほうにそれを聞く余裕は内容で、だんだんと体が傾き始めている。
「わわっ! ちょ・・・! 寝るんすか? いや、別にいいんすけど、今かけるもん持ってきますから! あ、上着くらい脱いでくださいね」
「・・・・・・ぉぉ・・・」
走り去ってゆく音の中、かすれた声でそんな返事ともつかない音を返して、シンタローはしばらく固まっていた。やがて、どうにかといった様子で立ち上がると、コートを脱いでジャケットを脱いでジーンズを下ろしてその下のストッキングまで脱いで、再びソファに沈んだ。
仕方のないことなのだが、脱いだものは全てその場に放置されている。どう考えても妙齢の女性が他人の家ですることではない。
やがて、ばたばたと戻ってきたリキッドが、ぐったりとした人影に毛布をかける。ようやく思いついたのかここで一度壁際により、電気のスイッチを入れた。
「!?」
「・・・・・・うう・・・」
うめき声に慌てて我に返り、明度を落とすが、それからの行動がない。シンタローはうめきながらも眠りに落ちかけているようだが・・・。
「・・・・・・どうしろって?」
成人したばかりの若い男が、脱ぎ散らかされた女性の服を目の当たりにしたときの感想としては、ごく平凡なものだろう。そんな機会に出くわすことが、果たしてそう回数があるかどうかはともかく。
(や、やっぱ片付けなきゃ、だよな。そうだよ、この人もともと言動とか男っぽいし、それほど抵抗ないだろ俺! これは不可抗力なんだよ、うん。しょうがない状況なんだ)
心中で言い訳をつぶやきながら、服を拾い上げ始める。一つ一つ手にとっては、妙にゆっくりたたんでいるのは、音で起こさないためだろうか? 無論、いまだためらいも残るためもあるだろう。ストッキングに手を差し出しかけたときは、直前でしばらく固まり、考えているようだった。
「・・・・・・・・・・・・」
そっとたたんだものを床に重ねると、すばやい動作でストッキングをつかみ、3秒ほどでたたんで服の上に乗せた。つまんで触る面積を少なくする方法もあったろうが、それではまるで汚れ物を扱うようなので、気がとがめたのだろう。実際、洗濯が必要な汚れ物なのだが。
一連の動作を終えると、リキッドは毛布をかけなおし、ため息をつきながら出て行った。シンタローのほうはもう夢うつつの状態らしく、何の反応もない。
このシンタロー、実はリキッドに惚れている。が、それを口に出さないどころか態度にもあらわせないので、まったく気付かれてはいないのだ。古くから彼女を知っている同僚や、リキッドの先輩でもあるシンタローの叔父らには、ある程度理解されているが。
当の本人に通じている可能性は0だと、少なくとも彼女は思っている。それどころか女として見られているかという自信すらなかった。
だが今、明らかにリキッドの反応は、女性に対するものだ。だからこそ起きていないのは非常にもったいない。起きていたところで互いに何かをする度胸もないだろうが。ただシンタローの心は少し晴れたかと思う。
そんなかすかな逢瀬の機会を逃した二人だったが、リキッドにとってはもったいないどころか、非常に困った状況になっているらしい。出てきた部屋の扉を閉めると、それにもたれかかる。そのままずるずると滑り落ちていった。
よく見ずとも顔が赤い。頭をぐしゃぐしゃにかき回して呼吸を整えているのが、なにやら若々しくて微笑ましかった。
「参ったな・・・」
呟きが暗い部屋に響く。何に対して参っているのか、非常に興味がもたれるところだ。酔っ払いに居座られてなのか、女性と一つ屋根の下に二人きりな事なのか、それとも・・・
「どーすっかなー・・・」
リキッドの視線の先には電話。おそらくシンタローの家に連絡するべきかどうか迷っているのだろう。
「こんな時間に電話かけんの、非常識だよな・・・。でも、いくら二十歳こえてるとはいえ、一人娘が無断外泊しちゃあ、心配するだろうし・・・」
一般論をつぶやく。
「・・・・・・でも、俺がかけたら・・・つーか今、ここにいる時点で俺の身って危うい? いやいやでもこれは不可抗力だし事故だよ事故うんただ・・・それを解ってもらえるか・・・・・・?」
と、本音が続く。彼女の父親であるマジックや叔父で上司のハーレムが電話に出れば、からかわれたりいじめられたり、下手すれば問答無用の眼魔砲で容赦なく撃墜され、果ては退学になってしまうかもしれない。それは彼の(いろいろな意味で)今後の人生を左右する事態だった。
同じ身内でも従兄弟のグンマやキンタローならば命には関わらないだろうが・・・。彼らもシンタローを大切にしていることには変わりない。先ほどから嫌な予感が離れなかった。何か、長期的で精神的な負担がかかりそうな予感がする。
「ああ・・・どっちにしろ電話の相手が選べないんなら、どうしよもねぇじゃねえか!」
頭を抱えてのた打ち回るリキッドだったが、きっとはっきり言ってどうしようもない。誰に知らせようとシンタローのことだ、彼が想像した全ての人に、連絡は行くだろう。
「・・・やっぱ、これっきゃないか・・・」
しばらく考えていた男は、やがてそう言うとゆっくりと上体を起こす。
「明日、黙っておいてもらえるように頼もう・・・」
情けのない結論に達した。若輩とはいえ男が、自ら連れ込んだ女性に頼るとは。下心は皆無にせよ。
実際リキッドはシンタローをどう思っているのだろう。先輩として慕ってはいるのだろうが、生来人懐っこい彼のことである、基本的に誰に対しても親しげだ。まあ、そのせいでよくからかわれたりもしているが、シンタローは比較的その度数が弱い。そのためか、彼らはシンタローが卒業してからも、個人的な付き合いを続けている。
しかしそれは2人の間のみではない。やはり基本的にリキッドの体質によるものなのだろう。彼を知る年長者は、からかったりしつつも放っておけないという感情を抱いているようで、本人もそういう者達になついているのだろう。
その本人は、ようやく女性の眠る部屋のドアから離れると、自分の部屋へと入っていく。
「明日は大変そうだなぁ・・・」
彼もシンタローほどではないにしろ酒を飲んでいる。いろいろな意味でそうだろう。
部屋の明かりが消え、その日二人は別々の部屋で眠りについたのだった。
「っ!?」
目を覚ましたシンタローはまず、自分の状況に驚き、ついで頭痛とともに記憶が戻ってきてから落ち着きを取り戻した。
(そっか・・・夕べ・・・)
ブラウスと下着しか身につけていない姿に、一瞬ひやりとしたようだが、自分で脱いだ記憶がおぼろげながらもよみがえり、安心する。近くにたたまれた服が置いてあるが、たたんだ覚えはない。
「悪ぃこと、しちまったなぁ・・・」
酔っ払っていたとはいえ、ほぼ全体重を預けながらここまで連れてこられ、一泊し、一言もなく帰るというのは気分が(シンタロー的には)よろしくない。ここは一発心意気を見せないとな、と立ち上がる。
かすかにふらついたものの、その後は二日酔いなど感じさせない足取りで、服を身に着け外の様子をうかがう。
「おーい・・・起きてるかー?」
扉越しに声をかけても返事はない。時計を見ると朝食にはやや早いかな、という時間。
「・・・・・・・よし」
シンタローは一言つぶやくと寝室の扉に背を向け、台所へと足を向けた。そこへ向かうとしたら、することはひとつだ。
一方リキッドはいまだにベッドの中だった。まだ目覚めてはいないようだが、そのほうが幸福だろう。けれどもカーテンも引いていない部屋には、朝日が容赦なく差し込み、ベッドを照らす。その光にやがて部屋の主も目を覚まさざるを得なくなった。
「う・・・つ・・・くぅ・・・って・・・? あぁ・・・」
こちらもしばらくうめいてから状況を思い出したらしい。シンタローよりも長い時間をかけ、とにかくどうにか起き上がろうとしている。
「あ・・・れ・・・?」
気付いたようだ。不思議そうに空気のにおいをかいでいる。布団をかぶったままのぼんやりとした頭ながらの、漂う匂いのもとくらいはわかったらしく、大慌てで身を起こす。その拍子にどすん、ばたんと大きな音が響いた。
隣から壁を叩く音がした。リキッドは瞬時にそちらを凝視する。
「おい、起きたのか? だったらさっさと着替えてこっち来いよ」
声の主が壁際から去る気配がしても、硬直してしまったりキッドはしばらく動けないでいた。信じられない、という感情をその表情は表している。だが状況は、彼にそんな表情で固まっていることを許してはくれなかった。
「おい! さっさとしろよ! 二度寝してんじゃねぇだろうな!!」
「は、はい・・・!」
先ほどよりも大きく壁を叩かれ、ようやく我に返ったようだ。早くしないとあの年長者は気分屋だ。自分の願いを聞いてくれなくなってしまうかもしれない。
身支度を終えたリキッドが居間に出ると、予想通りそこには、朝食が用意されていた。純和風のちゃぶ台に似合いそうな、暖かな景色。
「やっと来たか。おはよーさん。勝手に使わせてもらってるぜ。お前も二日酔いなら和食がいいだろうと思ってな。みそ汁はいいんだぜ? ・・・つーか食えるか? 気分悪いっつーんなら、もっと食い易いおかゆとかにするけど・・・」
「・・・・・・い、いえいえいえいえ! いただきます! ・・・っていうかすいません! こんなことしてもらっちゃって・・・・・・!」
平然とした風なシンタローに、リキッドは大慌てで答えるが、本当は彼女も緊張しているはずなのだ。何せ好きな男の部屋に一泊したのだから。そんなことは微塵も感じさせない鉄面皮は、本当に見上げた自意識だ。・・・・・・本人も嫌気がさしているらしく、苦い表情が見え隠れしているが。
「・・・・・・こっちのせりふだ、そりゃ。昨夜は迷惑かけたみてぇだな。だからこれはその礼だ。これで互いに相殺って事で、手を打とうぜ」
我ながらかわいげのない物言いだ、とでも思っているのだろう。ますます苦い顔でシンタローは席に着く。しかしリキッドのほうはそんな態度には慣れているようで、内容を理解するとぱっと顔を輝かせた。
「そうですか? そうしていただけると、ありがたいっす!」
「いいからとっとと席、着けよ」
「はい!」
ぶっきらぼうな言葉にも笑みを向けてくるのに、知らず知らずシンタローは赤面している。はっと肩を震わせると、それを振り払うかのように頭を振った。
「・・・どうかしましたか?」
「・・・・・・なんでもない。それよりお前ん家、意外と食材そろってんな」
「そりゃ、育ち盛りがいますからね」
「・・・・・・そういや、パプワは?」
「子ども会の旅行っすよ。コタローも行ってませんでしたっけ?」
「ああ・・・・・・」
なんてことのない会話の続く朝の風景。このようなことが日常的に続けばと、ひそかに願ったのは果たしでどちらだったのだろうか。
ちょっとだけ違った感じのリキシン学園。
三人称が変わっただけなんすけどね。誰かの視点。
ちょみっと進展。ちなみにリキッド君はもう大学生です。シンタローはもう社会人。結局企業に残ってます。
ぶっちゃけ総帥になるんでね。
次でとりあえず一区切りですこの話。
次へ
雨の日の接近
水滴が降り注いでいる。顔に、肩に、髪に、全身に――。
水音に耳を傾けていると、一定のリズムが心地よい。だからただ、こうしていたいと思う。
何も考えず、このまま――
リキッドがそれを見つけたのは、本当に偶然だった。たまたま教室に忘れ物をして、普段は使わない近道を通ったときに、目に入ったのだ。
雨の中、傘もささずに立ちすくんでいるシンタローを。
「・・・・・・?」
当然のごとく驚き、なぜこんなところでこんな姿に? と疑問に思い、そちらに走り寄り――
ふいに、足が止まる。
彼女はこちらに背を向けているのだが、どうしてかその背が、近寄りがたい空気をまとっていた。
(でもこの人いつも偉そうで、そういう意味では近付きずらいし・・・)
だがそれとも違う気がする、と自分で自分の考えを否定する。なぜだか今のシンタローは、人を拒否しながらも、寂しくて仕方がない、とそういっているような、そんな気がした。
(何か・・・)
普段は堂々としていて人に囲まれ、自分中心に世界は回っている! と言わんばかりの態度の人なのに、今はとても頼りない。どうしてか、駆け寄って行き抱きしめたいような、そんな気分さえした。
「・・・・・・って、何考えてんだよ、俺!」
と、つい声に出していってしまうが、雨音がかき消したのか、黒髪に覆われた背中は、微動だにしなかった。このままでは風邪を引いてしまうと思い、止めていた足を再びゆっくり動かしだした。いつもより小さく見える、自分より大きな背中は、すぐに近付いてくる。
「・・・・・・シンタロー、さん・・・・・・」
さすがにこの距離で聞こえないことはないだろう、というくらい近くで言ったのだが、彼女は反応しなかった。しばらくためらったが、ぐっしょりとぬれた服が気にかかり、傘を差し掛ける。
「風邪、引いちまいますよ? どうしたんすか?」
この間といい今日と言い、この人の考えていることはよく解らないな、と思っていると、雨がさえぎられたことでようやく気付いたかのように、シンタローはゆっくりを振り返ってきた。体からは、滴がぽたぽたと垂れる。
「・・・・・・!」
いつもはまっすぐな強い漆黒の瞳が、頼りなげにこちらを向く。なぜか心臓がおかしな位に高鳴った。見てはいけないものを見た気がしたのだ。
そう結論付けると、濡れた服が肌に張り付きなんともいえず色っぽく見えることに気付く。
「な、何してたんすか? 傘は?」
ごまかすような大声で、再び問う。そうでもしないと妙なことを考えてしまいそうだった。
そんなリキッドをシンタローは不思議そうに見下ろすと、問いを返してきた。
「何でいるんだ・・・? もうとっくに家に帰ってる時間だろ・・・・・・」
「忘れ物取りに来たんす! っていうかそれはこっちのセリフッすよ! こんなところで雨ん中ぼぉっと突っ立ってたら危ないし、風邪引いちまいますよ!」
パタパタと雫を落とす様子に、ポケットを探っていたリキッドはようやくハンカチを取り出して、それを使おうと手を伸ばしたが、シンタローは驚いたように身をよじり、避けた。
「・・・・・・っ、いいよ! それよりお前、学校に戻るんだろ? 早く行かねぇと閉まっちまうぞ」
「・・・・・・そりゃ、行きますけど・・・」
「じゃあ、さっさと行けよ」
「でも、あなたは・・・・・・」
ためらいがちに見上げるリキッドに、シンタローをいらだったような舌打ちをもらした。
「行けっつってんだろ!? オレのことはほっとけよ!!」
「オレ・・・・・・」
呆然としたりキッドの言葉に、シンタローは息を呑む。このところ一人称はいつも「私」だったのだが、気が緩んでいたのかつい、言い慣れた言葉を使ってしまったらしい。
リキッドは先日のケンカ騒動で、シンタローの一人称の変化を知ってはいたが、女性の口から出るには聞きなれない言葉だったので、とまっどったようにシンタローを見るしかない。だがひたすらそうしているわけにも行かず、それはひとまず置いておいて、と口を開いた。
「ほっとけって・・・・・・・そんなわけに行きません。知り合いが雨の中にいたら、普通心配します。傘がないんだったら、送ってきますよ?」
こういっても彼女は顔を背け、返事をしてくれない。それどころかさらに拒絶するように、傘の陰から出ようとしている。
「ちょっ・・・」
とっさに腕をつかむと、ものすごい勢いで振り払われた。
「しつけぇぞ、お前! いい加減どっか行きやがれ!」
「行けるわけないでしょう!!」
親切をことごとく拒否され、理由のわからないその態度に、とうとうリキッドも堪忍袋の尾を切らし、怒鳴り返した。
「何ですかさっきから! 何があったのか知りませんけど、人に当たらないでくださいよ!」
「うっせーな! 当たられたくないっつーんなら、どっか行けよ! そうすりゃ済むことだろ!」
「済みません! そんなあなたらしくない態度ばっかりとられたら、気にするなって方が無理ですよ!」
二人の間に、突然沈黙が落ちる。その間には、やや切らし気味のリキッドの息使いと、うるさいほどの雨の音が響いていたので、静寂というわけではない。
「オ・・・私らくない?」
呆然とシンタローがつぶやく。
「そうですよ。そりゃ、あなたはしょっちゅう俺に当たりますけど、そんな暗い感じでじゃありませんでしたよ! 殴って終わり、はたいて終わりで次の瞬間にはもう忘れてる! それが俺の知ってるシンタローさんです! ・・・・・・こんな、うじうじしたやつじゃ、ありません・・・」
彼はしょっちゅう八つ当たりを受けながらも、それをいつまでも引き面ないシンタローの態度には好意を持っていた。彼女のそういうところは他人にも適応され、周りのものの失敗も繰り返さない限りはすぐに忘れ去っていたのだ。
しかし、今はそれが崩れつつある。本人は意識していないのだろうが、だからこそ、これほどこの相手に突っかかっていっているのだ。普段はどうしたって逆らおうとしないような相手に。
・・・・・・逆らわずとも、不快にならない相手に。
言いたいことを言ってしまうと鼻息も荒く、うつむいた相手を睨みつけた。
「えっ・・・・・・・!!??」
突然、肩を両手で固定され、その上に頭がかぶさってきた。驚きのあまり、傘を落としてしまう。
「ち、ちょ・・・シ、シンタロー・・・さん・・・・・・?」
あせって声をかけたが、再び反応が返ってこなくなった。肩から伝わってくるぬくもりにどぎまぎしながら、目の前のうなじを見ているしかない。
自分より背の高い彼女のその部分を見るは、この角度では初めてだと思っていると、その背が震えていることに気付く。
「・・・・・・っ!?」
見れば触れた手も頭も、全身が震えている。寒さのせいかとも思ったが、すぐにそうでないと気付いた。
泣いているのだ。
「・・・・・・シンタロー、さん・・・」
信じられずに硬直する。なぜ? どうして? と言葉は頭を回るが、口に出すことはできなかった。
普段は強気で、どんなつらい状況にあっても平気な顔をして立ち向かい、成し遂げてい行くこの人からは、想像できない姿で・・・だからこそ、どうしていいか解らない。
(この人が、弱い姿をさらしているなんて・・・しかも、俺の、前で・・・)
胸に迫るものがあった。
嬉しい、とか優位に立ってざまあ見ろとか、この人も普通の女性だったのだなとかそんなことよりもまず、切なさを感じた。
(この人は・・・こんな風にしか、泣けないのか・・・・・・?)
初めは独りになろうとしていた。大げさなくらい乱暴な態度で、怒らせて追い払おうとしていた。
・・・・・・そうしなければ泣けないから。誰かの前にはさらせないから。
高いプライドと周りの目が、良くも悪くもシンタローを強くする。強く、作り上げてしまう。
(そっか、俺も・・・・・・・)
強さを押し付けていた一人かと、思う。だからいつもと違うところを見て、腹が立ったのだ。けれどもそれは彼女を追いつめ、結果として泣かせることになってしまう。
(これは、俺が責任取るべきだよな・・・)
心を決めてシンタローを見下ろす。
ぬれてつやを増した髪に手を這わせ、ゆっくりとなでた。雨のせいで水の感触がほとんどだけれども、体のぬくもりがわずかに伝わってくる。
「・・・・・・っ!」
体を震わせた腰にもう一方の手を添えて、軽く抱き寄せた。一瞬固まった体は、だが徐々に力が抜けていっていた。
「雨が、降ってますから・・・解りませんよ」
誰にともなく言い訳を。涙するシンタローを抱いて慰める理由を口にする。そうでもしないと、強情で優しいこの人は、決して自分を頼ってきてはくれないだろう。
「暗いですし、人もいませんし。それにほら、俺も寒いですから、くっついてても不思議じゃありません」
「・・・・・・」
腕の中の人は、笑おうとしたようだった。しかしそれは叶わず、ますます強くリキッドの肩に額を押し付けてくる。肩口に、雨ではない温かい水がしみこんでくるが、彼はそれを不快とは思わなかった。
いっそうやさしく体を抱きしめる。
「・・・・・・っふ・・・」
細い腕が首へと回り、二人の距離はますます近付いている。
地面に落ちた傘の緑が、風に吹かれて地面に揺れていた。
ちょっぴり意味不明な作品。自分的には雰囲気重視な感じなんですが。
ちょっと前と矛盾することあるかもしれないなー・・・。アップ順に書いたわけじゃないし。
わりとお気に入りなお話です。短いし(笑)
ご感想などいただけたら嬉しいです(これ言ったの初やも)
水滴が降り注いでいる。顔に、肩に、髪に、全身に――。
水音に耳を傾けていると、一定のリズムが心地よい。だからただ、こうしていたいと思う。
何も考えず、このまま――
リキッドがそれを見つけたのは、本当に偶然だった。たまたま教室に忘れ物をして、普段は使わない近道を通ったときに、目に入ったのだ。
雨の中、傘もささずに立ちすくんでいるシンタローを。
「・・・・・・?」
当然のごとく驚き、なぜこんなところでこんな姿に? と疑問に思い、そちらに走り寄り――
ふいに、足が止まる。
彼女はこちらに背を向けているのだが、どうしてかその背が、近寄りがたい空気をまとっていた。
(でもこの人いつも偉そうで、そういう意味では近付きずらいし・・・)
だがそれとも違う気がする、と自分で自分の考えを否定する。なぜだか今のシンタローは、人を拒否しながらも、寂しくて仕方がない、とそういっているような、そんな気がした。
(何か・・・)
普段は堂々としていて人に囲まれ、自分中心に世界は回っている! と言わんばかりの態度の人なのに、今はとても頼りない。どうしてか、駆け寄って行き抱きしめたいような、そんな気分さえした。
「・・・・・・って、何考えてんだよ、俺!」
と、つい声に出していってしまうが、雨音がかき消したのか、黒髪に覆われた背中は、微動だにしなかった。このままでは風邪を引いてしまうと思い、止めていた足を再びゆっくり動かしだした。いつもより小さく見える、自分より大きな背中は、すぐに近付いてくる。
「・・・・・・シンタロー、さん・・・・・・」
さすがにこの距離で聞こえないことはないだろう、というくらい近くで言ったのだが、彼女は反応しなかった。しばらくためらったが、ぐっしょりとぬれた服が気にかかり、傘を差し掛ける。
「風邪、引いちまいますよ? どうしたんすか?」
この間といい今日と言い、この人の考えていることはよく解らないな、と思っていると、雨がさえぎられたことでようやく気付いたかのように、シンタローはゆっくりを振り返ってきた。体からは、滴がぽたぽたと垂れる。
「・・・・・・!」
いつもはまっすぐな強い漆黒の瞳が、頼りなげにこちらを向く。なぜか心臓がおかしな位に高鳴った。見てはいけないものを見た気がしたのだ。
そう結論付けると、濡れた服が肌に張り付きなんともいえず色っぽく見えることに気付く。
「な、何してたんすか? 傘は?」
ごまかすような大声で、再び問う。そうでもしないと妙なことを考えてしまいそうだった。
そんなリキッドをシンタローは不思議そうに見下ろすと、問いを返してきた。
「何でいるんだ・・・? もうとっくに家に帰ってる時間だろ・・・・・・」
「忘れ物取りに来たんす! っていうかそれはこっちのセリフッすよ! こんなところで雨ん中ぼぉっと突っ立ってたら危ないし、風邪引いちまいますよ!」
パタパタと雫を落とす様子に、ポケットを探っていたリキッドはようやくハンカチを取り出して、それを使おうと手を伸ばしたが、シンタローは驚いたように身をよじり、避けた。
「・・・・・・っ、いいよ! それよりお前、学校に戻るんだろ? 早く行かねぇと閉まっちまうぞ」
「・・・・・・そりゃ、行きますけど・・・」
「じゃあ、さっさと行けよ」
「でも、あなたは・・・・・・」
ためらいがちに見上げるリキッドに、シンタローをいらだったような舌打ちをもらした。
「行けっつってんだろ!? オレのことはほっとけよ!!」
「オレ・・・・・・」
呆然としたりキッドの言葉に、シンタローは息を呑む。このところ一人称はいつも「私」だったのだが、気が緩んでいたのかつい、言い慣れた言葉を使ってしまったらしい。
リキッドは先日のケンカ騒動で、シンタローの一人称の変化を知ってはいたが、女性の口から出るには聞きなれない言葉だったので、とまっどったようにシンタローを見るしかない。だがひたすらそうしているわけにも行かず、それはひとまず置いておいて、と口を開いた。
「ほっとけって・・・・・・・そんなわけに行きません。知り合いが雨の中にいたら、普通心配します。傘がないんだったら、送ってきますよ?」
こういっても彼女は顔を背け、返事をしてくれない。それどころかさらに拒絶するように、傘の陰から出ようとしている。
「ちょっ・・・」
とっさに腕をつかむと、ものすごい勢いで振り払われた。
「しつけぇぞ、お前! いい加減どっか行きやがれ!」
「行けるわけないでしょう!!」
親切をことごとく拒否され、理由のわからないその態度に、とうとうリキッドも堪忍袋の尾を切らし、怒鳴り返した。
「何ですかさっきから! 何があったのか知りませんけど、人に当たらないでくださいよ!」
「うっせーな! 当たられたくないっつーんなら、どっか行けよ! そうすりゃ済むことだろ!」
「済みません! そんなあなたらしくない態度ばっかりとられたら、気にするなって方が無理ですよ!」
二人の間に、突然沈黙が落ちる。その間には、やや切らし気味のリキッドの息使いと、うるさいほどの雨の音が響いていたので、静寂というわけではない。
「オ・・・私らくない?」
呆然とシンタローがつぶやく。
「そうですよ。そりゃ、あなたはしょっちゅう俺に当たりますけど、そんな暗い感じでじゃありませんでしたよ! 殴って終わり、はたいて終わりで次の瞬間にはもう忘れてる! それが俺の知ってるシンタローさんです! ・・・・・・こんな、うじうじしたやつじゃ、ありません・・・」
彼はしょっちゅう八つ当たりを受けながらも、それをいつまでも引き面ないシンタローの態度には好意を持っていた。彼女のそういうところは他人にも適応され、周りのものの失敗も繰り返さない限りはすぐに忘れ去っていたのだ。
しかし、今はそれが崩れつつある。本人は意識していないのだろうが、だからこそ、これほどこの相手に突っかかっていっているのだ。普段はどうしたって逆らおうとしないような相手に。
・・・・・・逆らわずとも、不快にならない相手に。
言いたいことを言ってしまうと鼻息も荒く、うつむいた相手を睨みつけた。
「えっ・・・・・・・!!??」
突然、肩を両手で固定され、その上に頭がかぶさってきた。驚きのあまり、傘を落としてしまう。
「ち、ちょ・・・シ、シンタロー・・・さん・・・・・・?」
あせって声をかけたが、再び反応が返ってこなくなった。肩から伝わってくるぬくもりにどぎまぎしながら、目の前のうなじを見ているしかない。
自分より背の高い彼女のその部分を見るは、この角度では初めてだと思っていると、その背が震えていることに気付く。
「・・・・・・っ!?」
見れば触れた手も頭も、全身が震えている。寒さのせいかとも思ったが、すぐにそうでないと気付いた。
泣いているのだ。
「・・・・・・シンタロー、さん・・・」
信じられずに硬直する。なぜ? どうして? と言葉は頭を回るが、口に出すことはできなかった。
普段は強気で、どんなつらい状況にあっても平気な顔をして立ち向かい、成し遂げてい行くこの人からは、想像できない姿で・・・だからこそ、どうしていいか解らない。
(この人が、弱い姿をさらしているなんて・・・しかも、俺の、前で・・・)
胸に迫るものがあった。
嬉しい、とか優位に立ってざまあ見ろとか、この人も普通の女性だったのだなとかそんなことよりもまず、切なさを感じた。
(この人は・・・こんな風にしか、泣けないのか・・・・・・?)
初めは独りになろうとしていた。大げさなくらい乱暴な態度で、怒らせて追い払おうとしていた。
・・・・・・そうしなければ泣けないから。誰かの前にはさらせないから。
高いプライドと周りの目が、良くも悪くもシンタローを強くする。強く、作り上げてしまう。
(そっか、俺も・・・・・・・)
強さを押し付けていた一人かと、思う。だからいつもと違うところを見て、腹が立ったのだ。けれどもそれは彼女を追いつめ、結果として泣かせることになってしまう。
(これは、俺が責任取るべきだよな・・・)
心を決めてシンタローを見下ろす。
ぬれてつやを増した髪に手を這わせ、ゆっくりとなでた。雨のせいで水の感触がほとんどだけれども、体のぬくもりがわずかに伝わってくる。
「・・・・・・っ!」
体を震わせた腰にもう一方の手を添えて、軽く抱き寄せた。一瞬固まった体は、だが徐々に力が抜けていっていた。
「雨が、降ってますから・・・解りませんよ」
誰にともなく言い訳を。涙するシンタローを抱いて慰める理由を口にする。そうでもしないと、強情で優しいこの人は、決して自分を頼ってきてはくれないだろう。
「暗いですし、人もいませんし。それにほら、俺も寒いですから、くっついてても不思議じゃありません」
「・・・・・・」
腕の中の人は、笑おうとしたようだった。しかしそれは叶わず、ますます強くリキッドの肩に額を押し付けてくる。肩口に、雨ではない温かい水がしみこんでくるが、彼はそれを不快とは思わなかった。
いっそうやさしく体を抱きしめる。
「・・・・・・っふ・・・」
細い腕が首へと回り、二人の距離はますます近付いている。
地面に落ちた傘の緑が、風に吹かれて地面に揺れていた。
ちょっぴり意味不明な作品。自分的には雰囲気重視な感じなんですが。
ちょっと前と矛盾することあるかもしれないなー・・・。アップ順に書いたわけじゃないし。
わりとお気に入りなお話です。短いし(笑)
ご感想などいただけたら嬉しいです(これ言ったの初やも)
ちょっとした変化 ~パプワとケンカと髪の毛の話~
水滴と湯気で曇ってまったく見えない鏡にシャワーを浴びせると、ぬれた黒髪から水を滴らせている姿が見える。腰まで伸びた髪は、水を含んでずしりと重い。シャワーを元の位置に戻すと、水で固まりになった髪が、横手をさえぎる。
「・・・・・・」
髪を搾ると大量の水が流れ落ちる。束ねて全て上にあげると、暖かい湯船に沈み込んだ。
「っあー・・・・・・」
年に似合わない吐息が、血色のよくなった唇からもれる。
風呂から上がると、タオルで丹念に水気をぬぐってからブラシを通し、再び髪をぬぐう。長さがあるため、そんなことを繰り返しているうちに、タオルはすっかり湿ってしまった。新しいものに取り替えて、肩にかける。
しばらく放置してから、ドライヤーを当てるつもりだ。
「・・・・・・」
鏡の前に立ち、移った自分の姿をまじまじと観察する。長く伸びた真っ黒な髪。つややかな、だが枝毛もちらほらあるまったく手入れのされていない髪。
「・・・・・・ちったぁ何かした方がいいかな・・・」
一房つまんでそう一人ごちる。同級生は、染めたりウェーブをかけたり、きれいにカットをしたり、さまざまなヘアアクセサリーを使って、凝った髪型にしていたりする。それに比べて自分は――
鏡台には白い髪留め紐がひとつ。彼女の日常で髪を飾ってきた、唯一のものがそれだ。何度か友人に「せっかくきれいなんだから、ちゃんとすればいいのにー」といわれたり、その場の流れで結われたりもしたが、自分の意思で変えたことはない。
これまでは。
つまんだ髪を離すと、まだ湿っているのでぼたっと落ちる。その反応に、なぜかやる気がそがれた。
髪にこだわるようになったのは、あの男に出会ってから――正確には男というにはやや若い、彼女より4つ下の高校生の男子――だ。
ぶっちゃけ恋をしたので、自分の見た目がやたらと気になり出したのだが、まだそこまでは気付いていない様子。
「・・・・・・何ができるかな・・・」
長年放置し、結い方もほとんど知らないシンタローに選べるものは、ごくごく限られていた。
「あれぇ? シンちゃん髪形変えた?」
「・・・・・・グンマ・・・」
「・・・え? へ!? ええ?」
顔をゆがめてかすかに目を潤ませたシンタローに、首に腕をかけられ抱きつかれ、いくら従妹とはいえ、ここしばらくそんなことはされていなかったため、思わずグンマは狼狽した。
「ちょ、ね、どうしたの? 何かあったの?」
「髪型が・・・」
そのままの姿勢でシンタローはいう。
「変わったこと気付いたの、お前が初めてだ」
「・・・・・・? あー・・・・・・」
時刻はすでに日が落ちる頃。もう授業も終わるくらいのころあいである。おそらくシンタローは朝から、髪型をひとくくりから今のみつあみに変えていたのだろう。それを誰にも指摘してもらえず、落ち込んでいた、というわけだ。
それでこの反応か・・・となんだかかわいそうになったグンマは、背中をぽんぽんと叩いてやった。
「あのさぁ、みんな気付いてたと思うよ。きっと、ただ言うチャンスがなかっただけでさ」
「・・・・・・そっかなー・・・そうかなぁ・・・」
つられてかシンタローもぽんぽんと、抱いた相手の背中を叩きだす。そのままなんとなく、ぽんぽんぽんぽん叩き合いながら会話を続けた。
「だとしたら・・・気付いても言うほどオレに関心がないって事だよな・・・」
「う・・・うん? それって誰を示して言ってんの?」
ぽんぽん、が一瞬止まり、シンタローは硬直する。その様子にグンマは正直かなり驚く。
(え、え? ひょっとしてもしかして、これって・・・・・・)
「シンちゃんそれって・・・男の人?」
「・・・・・・」
「それじゃ、それって恋?」
シンタローはぎゅーっ回した腕に力をこめた。それは照れ隠しにしがみついているというよりは、嫌がらせに締め付けているという感じだ。現にグンマは苦しんでいる。
「ち、ちょ・・・シン・・・ちゃん・・・! 苦しいよ~!!」
「うるさい、黙れ」
悪態をつきながらも、本気で苦しんでいるのが解り気が収まったのか、力を緩めて再びぽんぽんに戻った。
「あーもー、シンちゃんってば相変わらず・・・。で、相手は誰なの?」
「・・・・・・」
懲りずに問うグンマに再び沈黙が返ってくるが、今度は締め付けられることはなかった。
「誰にもいわないよ? 僕も知ってる人?」
「・・・・・・どうだろうな・・・」
かろうじて吐き出された言葉に、もっといろいろ引きだそうと、あれこれ考え実行してみる。
「ってことは伊達集のみんなや、叔父様たちじゃないよね?」
「・・・・・・・・・・・・」
「まさか、キンちゃん!? ・・・って違うね。えーと、んじゃー・・・まさか、パプワ君とか・・・・・・」
「・・・・・・オレは犯罪を犯すつもりはねぇ。何だよその人選は!! ほとんど身内じゃねぇか、オレをなんだと思ってやがる!」
今度は呆れて声のなかったらしいシンタローは、そう怒鳴りつける。耳元で大声を出されたグンマは、思わず従妹から手を離して耳を押さえた。
「っあー・・・そんな大声出さなくても・・・。でもだとしたら誰? 同じクラスの人とか?」
「違う。この学園のやつだけどな。・・・・・・つか、もういいだろ、そんなこと」
「でもその人に髪形変わったこと気付いてもらえなかったの、ショックだったんでしょ?」
「・・・・・・」
シンタローは顔を背けたまま沈黙する。
確かにこの話をしだしたのは彼女だ。それを一方的に終わらせるというのは、いくら俺様な性格でも後味が悪いらしく、顔をしかめている。
そもそも、ほとんど人が通らない校舎の隙間の抜け道とはいえ、いつまでも男女が抱き合っているというのも、問題ありだ。いかに互いに恋愛感情が皆無とはいえ。
「あー、だからよー、そのショックっつーか、結果としてそいつのためにしてやったみたいな気分なのに、反応がないっつーのは、一人芝居みたいでむなしいっつーか、何つーか・・・」
語尾を濁しつつしゃべるシンタローの、赤くなった顔を、グンマは意外さとほほえましさを感じながら見守っていた。
「・・・・・・けどまあ。考えてみれば、気づかれて指摘されたとしても、こっぱずかしいだけだろうし、第一いまさらこんなことしても変だよな・・・」
「え・・・? 何が変なの?」
きょとんとした声で問い返され、シンタローは大きくため息をつく。解らないだろうとは思ったが、やはり少しも理解してもらえないと、寂しいものがある。
「・・・・・・今までちっとも女っぽいことしてこなかったのに、いまさら飾ってみても、お笑いなだけだと」
「そんなことないよ!」
ぱっと体を離して、シンタローと向き合った。離れたといってもうでは相手に絡めたままで、相変わらずくっついてはいるのだが。
「シンちゃんは女の子なんだから、女の子らしくするのは、ちっともおかしくない。そりゃいきなりだったらちょっとはびっくりするけど、今さらとかそんな風に言うのはそっちのほうがどうかしてるよ!」
シンタローは目を見開き、まじまじと従弟を見つめていたが、目が合うとなぜか吹き出した。何で笑うのさ、と言うと、自分より大きな従妹で兄妹の女性は、肩に寄りかかってくすくすと息を吐き続けた。
「そっか。じゃ、オレはおかしいって事だな」
「え、ちょ、ちが、そういうことじゃなくってさー」
どこか意地悪そうな笑みを浮かべながら言われ、グンマは慌ててシンタローを離した両手を振った。何気ない一言で彼女を怒らせたことは数知れないが、そのたびに痛い思いをしたことは身にしみている。励まして殴られるのは割に合わないし、勘弁してほしかった。
「解ってる、解ってるよ。気にするほうが変なんだよな。うん。ところでお前はどう思う?」
「え?」
「この髪型」
シンタローの表情がやさしくほころんでいるのを見て、グンマは緊張を解いた。そうなれば元来素直な彼のことだ。お世辞など言えるはずもなく、思ったままを口にする。
「いつもと大差ないよー。後ろ向かなきゃ解んないし」
「・・・・・・ほーう」
とたんに冷ややかになった声に、危険を感じたグンマが逃げ出そうとしたときにはすでに遅く、硬く握られたこぶしが頭上に振り下ろされた。
グンマは頭を押さえて泣き出した。
「ひどいよー、シンちゃーん! だって本当にそうなんだもん!」
「・・・まだ言うか、お前は・・・・・・・」
さらに激したシンタローは、冷たく低い声ですごむ。その様子に顔を引きつらせたグンマは、一目散にそこから逃げ出したのだった。
一日が終わって疲れているところに、ちょっぴり重たい買い物袋を両手に提げながら、リキッドは家路を急いでいた。
(あー、あいつら腹空かしてんだろうなぁ・・・。きっと気ぃ立ってるだろうから、もう一品増やせとかいわれるんだろうな。・・・たく、あいつがよく食うから食材がなくなって、しょっちゅう買い物に行くはめになってるつーのに・・・・・・・)
帰れば遅いと怒鳴られる自分を、ありありと脳裏に浮かべながらも、足を速めてゆく。怒られるのは嫌だが、あの子供は嫌いではないし、世話を焼くのもけっこう楽しい。そんな思いが、迫害を受ける事実とのバランスをとっていた。
ほとんど小走りになりながら、寮の近くの角までたどり着く。この時間にここを通るものは寮生ぐらいなので、今は人の気配はないはずだった。
「・・・とわっ! 気ぃつけ・・・・・・・じゃなくって、すいません」
その角から飛び出してきた人物とぶつかりそうになり、ついついヤンキー口調で難癖をつけかけて、慌ててやめる。もうヤンキーは卒業したのだ。いつまでもこんなことを続けていてはいけない。
自分にそう言い聞かせて見た相手は、返事もせずに無言で脇をすり抜けていく。そんな態度に再び昔の血が騒ぎ出すが、長いひとつのお下げを垂らした後姿を目にして、思い留まる。
(・・・・・・ヤンキーだろうがパンピーだろうが、女に手ぇ出すのだけは、だめだよな)
どこかで見たような感じだな、とは思ったが、思い出せなかったので、そのことにはそこで区切りをつけ、再び道を急ぐ。すぐに自分に割り当てられた寮についた。
「あれ、パプワどうした? 遅くなったんで待ってたのか?」
「違う」
寮といっても平屋の借家だが、その庭には同居人であるパプワがたたずんでいた。普段からあまり表情を変えない顔が、今は少し怒っているようだった。目はつり上がり、口はへの字だ。
「遅くなったのは謝るって。すぐ晩飯作るから、そんなに怒んなって。さ、中入ろうぜ」
「・・・・・・別に、お前に腹を立ててるわけじゃないし、飯の支度もしなくていいぞ」
「え、て・・・・・・・うお!」
パプワの様子を訝しみながらも中に入ったりキッドは、目の前の光景にまず目をむき、呆然と呟いた。
「どーなってんだ、こりゃ・・・・・・」
今のちゃぶ台には食事の用意がされており、部屋は出かけたときとは見違えるほどぴかぴかだ。覗きに行ってみると台所も磨き上げられ、食器類も整頓されて、使いやすい位置に収まっている。
わぉん、と足元からした泣き声に目をやれば、チャッピーの毛並みもいつもより整っているようだ。
という事は・・・
「シンタローさん、来てたのか?」
「ああ」
「でも帰っちまったみたいだな。せっかくだから、食ってきゃよかったのに。何か用でもあったのかな?」
「知らん」
いつも通りのようだが、いまだにどこか不機嫌な様子の子供に、リキッドは戸惑いながら顔を覗き込む。
「何でまだ怒ってんだよパプワ。そんなに――」
くいっ、とズボンを引っ張られる感覚に、思わず言葉を止める。チャッピーが何か言いたげにこちらを見上げていた。
「え、何? 何だよ?」
茶色の犬はリキッドを見上げ長らくぅーん、た甘えた声を上げ、一瞬パプワに目をやり、再びこちらを見上げた。
「うえ? 何だよ? 何が言いてぇんだ?」
しゃべれないチャッピーが相手なので、どうにも話が要領を得ないが。しばらくそんなことを繰り返すうち(というかその前に、パプワに聞くという選択肢は思いつかなかったのだろうか?)どうやら自分に対して怒っているわけではない、ということが言いたいらしいというのが、解ってきた。
「じゃ、一体何で・・・」
「リキッド」
思考をさえぎるように、パプワが口を挟んだ。子供はすでにちゃぶ台の前に、でんと鎮座していた。
「とっとと飯にしろ。僕は腹が減っているんだ」
「あ、ああ・・・」
リキッドはそそくさと買ってきたものを所定の場所に片付けると、食事にすることにした。
改めて目を見張る思いだが、ちゃぶ台に茶碗などは人数分伏せられているし、おかずは品数が多く、色のバランスも取れている。口の中で感嘆の言葉を呟きながら、ご飯と味噌汁をよそり、箸を進め始める。準備をしなくラッキー、と思う反面、まだまだ至らないなと落ち込みもする。
それならば勉強させてもらおうと、何がどんな風に使われているのか気にしながら食べ進めていると、パプワは不機嫌そうな顔で味噌汁をすすっていた。
「・・・・・・まだ、んな顔してんのかよパプワー。どうしたのか知らねぇけど、せっかくうまい飯なんだから、それっぽい顔したらどうだ?」
「・・・・・・うまいのが気に入らないんだ」
「え?」
意外な言葉に思わず、聞き返すともなく声を上げる。
「あんなこと言っておいて、あいつの作った飯がうまいと思うのが、気に入らない!」
「は・・・・・・」
ここでようやく、この子供が不機嫌な理由に思い至った。おそらくこの食事を作った相手――親友のシンタローとケンカをしたのだろう。
そう予測してチャッピーを見ると、悲しそうにくぅんと泣いた。信じられずに再び子供を見る。
パプワとシンタローは彼がパプワと出会う前からの友人で、とても仲がよかった。四六時中一緒にいるわけではないのだが。ここぞという時には息がぴったり合っていることで、それが解る。
リキッドは二人がケンカをしているところなど、見たこともないし聞いたことも(一方的に命令されていたり、じゃれあいのような殴り合いならしょっちゅう目にしていたが)なかった。それなのに、その二人がケンカ――
「え、な、何でまた、ケンカなんかしたんだよ!?」
「・・・僕が知るか。普通に話してたら急に「お前も同じなんだな」とか行って一人で黙り込むから、訳が解らなくて別の話をしようとしたら、怒り出した。何でかと聞かれても、僕のほうが知りたいくらいだ」
「あ・・・そうなのか・・・・・・・」
具体的なことを質問していって、原因を探ってみようかとも思ったが、嫌な思いをしただろう子供に、それ以上掘り返させるのはためらわれたし、チャッピーも困ったような表情を浮かべていたので、今はやめておこうと思った。
唯一の目撃者であるチャッピーが口を利けないとなると、シンタローに聞いてみるしかないか、ともぼんやりと考える。
(パプワも寂しいだろうしな・・・)
窓に何かが当たる音がして、意識をそちらに向けると雨が降ってきていた。洗濯物を入れていないことを思い出したのはその瞬間で、慌てて立ち上がったリキッドは、ちゃぶ台の縁に思い切り足をぶつけてしまった。
2
大学部の校舎は、高等部以上に解りにくかった。そもそも上級学校は専門家が進み、クラス分けなどあってないに等しいので、人を探すには、わざわざ聞いてまわらないとならない。
リキッドは、シンタローが何を専攻しているのかなどそもそも知らないので、名前と学年、外見的特長で探すしかない。幸いなことにシンタローは学園内では有名で、大抵の人が知っていた。だが、現在の所在までを知る人は少なかった。
「ああ、あの方なら部室よ」
ようやく得た情報は、五人目に聞いた女生徒からだった。慇懃無礼とも取れる言い方に少々カチンと来たが、おとなしく礼を言って3階の部室――音楽室へと足を進める。
階段を上がるたび(高等部にはエレベーターもあったが、制服を着てそれに乗るのはためらわれた)人の声が減ってゆき、リキッドの立てる音だけが、大きく響いてくる。階段を上りきり、廊下に出ると、辺りを見回しながら歩を進める。程なく音楽室と書かれた教室が見えた。
もう授業は終わっているらしく、人のいる気配はない。
「・・・・・・どこにいるんだろうな・・・」
音楽室は第1と第2、準備室、個人練習室がそれぞれある。とりあえず、と一番大きな教室である第1音楽室のドアを開けた。
ガキッ!
「・・・・・・」
鍵がかかっていたようで、数センチで突っかかってしまう。ばつの悪い思いで、静かに開いた分を戻した。
「・・・・・・ん?」
横手にある楽器室からイスを引く音が聞こえた気がして、そっと覗き込んでみる。すると、その狭く薄暗い室内には、彼の探し人がいた。彼女はテーブルの上で仰向けに寝転がり、足を地面に投げ出した姿で。
「! シ、シンタローさん!? 何やってんすか!」
「・・・・・・お前か」
むくりと上半身を起こしたシンタローは、突然入ってきた男にも驚いた様子はなく、気だるげにそんなことを言う。そもそも窓か少なく、光量のない部屋だが、今はさらに逆光になっていて、顔つきがはっきりしない。
「危ないですよ、こんなところで寝てちゃ!」
「あ・・・あ~、平気だよ。壊れるもんは端に寄せてあるし、熟睡はしねぇし」
「そういうことじゃありません!」
確かに、小さな楽器やらリード、ステレオなどは長テーブルの隅に寄せられていたが、リキッドの言った危機はそのことではない。
「そんな格好してて、変なおじさんとか来たらどーすんですか!!」
「・・・・・・小学生か、お前は。そんなオッサンは普通、校舎内まで入れるかよ。ここはセキュリティ厳しいんだから」
「・・・・・・それは、そうですけど・・・・・・・」
校内こそ危ない、と彼は思っている。それは別に、シンタローが言うような変態がここには多いといっているのではない。
シンタローは多くの男子に好かれている。今日聞いてまわっていてそう思ったのだ。そんなやつらにこんな無防備な姿を目撃されたら、何が起こるかは言わずともがなだ。
それに、今ようやく理解できたのだが、女性とも安全とは言えないだろう。それだけもてれば、逆恨みしているものもいそうだ。
「襲ってくるような物好きもいねぇし、ここは家よか安全だ」
「・・・・・・」
まったく自覚のない様子に、人ごととながら心配になってきた。けれどもそんなことを口にしたら、気をつけてくれるどころか怒られかねない。命は惜しいし用事もあったので、とりあえずは黙っていることにする。
「ところで」
何かに気付いたように、鈍い女性とはリキッドを見た。
「何でお前はこんなことろにいんだ?」
「あ、はい。あの、あなたを探していたんです」
「私を?」
とたんにシンタローは眉を寄せるどうしてこいつが自分を探すのかと思っているのだろうが、なぜかこちらと目が合うと顔を赤くした。
「そうです。昨日、これ見つけたんすけど、あなたのでしょう?」
「あ。・・・・・・ああ」
リキッドが差し出したのは、銀色のブローチだった。シンタローがコートの飾りにつけていたものだったが、機能性がないからか今の今まで忘れていたらしい。
細長い葉っぱを燃したデザインのもので、ダイヤのような小さいガラス球が3つ並んでついている。シンプルだがちゃちなつくりではなく、大きさもそれなりで、贋物にしてはいい出来のものだろうと思われた。
互いに手を伸ばしてそのブローチを受け渡そうとしたのだが、どうしてかそれは双方の手を離れ、地面に落ちてしまう。
カシャーン・・・と、軽い音がして、ノリウムの地面に落ちたブローチは、あっさりと分解した。
「あ・・・・・・す、すんません!」
「何やってんだよてめぇは! 気ぃつけろ!」
冷や汗をたらしながら、本当に自分が悪いのかは定かではないが、怒鳴られたリキッドは頭を下げる。その足元へとかが見込み、シンタローは破片を広い集めた。しばらくそのかけらを凝視していたが、終わったらしくほっと息を吐く。
「よかった・・・基礎は壊れてない・・・・・・」
大事そうにブローチのかけらをティッシュにくるむと、そっと鞄に入れた。
「それ、大事なものなんすか・・・?」
「ああ。忘れてっちまったけどな。母さんにもらったんだ」
「・・・・・・・あ・・・・・・・」
シンタローには母がいない。彼女が18のとき、弟を生んで他界してしまったのだ。つい最近友人からその事実を聞いたばかりだったリキッドは、自分のしでかしてしまったことに青ざめる。
「す、すんません、本当に・・・」
「まったくだぜ、ぼけっとしてんな」
悪態をつくが、いつもと変わらない様子に再び申し訳ありませんと謝ってから、そろそろと相手をうかがった。
「あの・・・」
「ん?」
やってしまったものは仕方がない。せめて始末くらいは自分でつけようと、口を開くと彼女は不思議そうに見返してきた。
「それ、よかったら俺が直します。手先は器用なんすよ、これでも」
「は? いや、別にそこまでしなくとも・・・」
「いえ、やらせてください。俺のせいで壊れたんすから!」
「そりゃそうだが・・・。直せんのかよ、お前」
シンタローは実に疑わしそうな目を向けてきている。どう考えても素人にしか見えないものに、大切なものを預けていいものかと悩んでいるのだろう。しかし、譲らないぞという気迫をこめて見つめていると、それが通じたか、あきらめたか、頭をかきながらブローチを差し出してきた。
「まあ、どうしてもっつーんならいいけどよ・・・・・・」
「はい! ありがとうございます!」
今度こそ両手で注意深く受け取ると、修理する側にもかかわらずそんなことを言う。
パーツを見落とさないように、ティッシュを開いて確認していると、頭上から声がかかる。
「パプワの前ではやんなよ。刺さったらあぶねーから」
「え? あ、はい」
意外な言葉に思わず相手を見返すと、すぐに顔をそらされてしまった。不思議に思いながらもブローチをしまっていると威風堂々な口調が振ってくる。
「んだよ変な面して。私が心配しちゃ、おかしいか」
「いえ、そうじゃなくてですね。・・・ケンカしたって聞いたんですけど、もう仲直りしたんすか?」
「・・・・・・」
シンタローの顔が朱色に染まる。鋭くなった目つきに一瞬後ずさりかけるもどうにか踏みとどまり、おずおずとその表情の中にある感情をうかがった。
「パ、パプワに聞いたんすよ。急にシンタローさんが怒り出したって。・・・だから、そっちはまだ怒ってんのかなって・・・」
「怒ってねーよ」
ふん、と明らかに不機嫌な様子でそっぽを向きながら言われても、まったく説得力はない。
「何が原因だったんすか?」
そんなシンタローの行動とパプワの不機嫌そうな様子を思い出して、聞いてみる。そもそも彼がここに来た理由に、ブローチを渡すというのの他に、二人のケンカのいきさつを知る、というものもあった。
口を出すべきではないのかもしれないが、二人には少なからず関わらなければならない立場にいる以上、何も知らないのは都合が悪い。
目撃者もいなかったので、当事者に聞くしかないが、機嫌の直ったパプワにも、よく解っていないようだったので、本人のほうへ来てみたのだが・・・
「別に。ケンカなんかしてねーし。お前にゃ関係ねぇだろ」
「嘘つかないでくださいよ。昨日怒ってたじゃないっすか。俺とすれ違ったみつあみの人って、シンタローさんでしょ? あの時返事もしなかったのは、怒ってた証拠っすよ」
「え・・・・・・・」
シンタローの目が丸くなる。すぐには気付かなかったが、確かにそのときすれ違ったのも、返事をしなかったのも彼女だと、リキッドは確信していた。。
「気付いてたのか・・・?」
なぜか、続くその声は震えていた。
「そりゃ、あれだけ近くで・・・」
リキッドの言いかけた言葉は、そこで途切れてしまう。さすがに声だけでなく全身も震えていることに、不信感を覚えたのだ。顔をうつむけてこぶしを握っているシンタローを、2、3歩の距離を置いて恐る恐る覗き込む。
今日はいつもどおり、ひとつにくくっている髪から零れ落ちた横紙が、さらりと面長な頬を覆って流れている。
「シンタローさん? ・・・・・・って、うわ!」
突然シンタローは手を振り上げ、リキッドに襲い掛かってきた。とはいっても狭い部屋である。正確には平手ではたきかかってきただけど、ほとんどの痛みは制服に吸収されたのだが、あまりにも唐突だったために、彼はよろめき、雑貨の入った棚に肩をぶつけてしまう。
「いって・・・! なんなんすか、いきなり!」
「うるせえ! お前何なんだよ! いったい何様だよ! 何考えて生きてんだ!? いっつもへらへらしてやがって!」
「な・・・・・・・」
脈絡のない罵倒に、訳がわからず混乱したが、それより何より沸き上げって来る怒りのほうが強かった。いくら普段から蔑まれているようだとはいえ、彼にだって自意識というものはある。理由もなく暴力を受け、怒鳴りつけられ、さすがのリキッドも相手が学園町の子であるということも、年長とはいえ女性であるということも吹き飛んでしまう。
「あんたこそ、いつも人のことばかにして見下して! 俺はあんたの部下じゃないんだ!」
「・・・・・・っ、テメッ・・・!」
頭に血が上っているのはシンタローも同じことだったらしく、リキッドの襟首につかみかかってきた。彼もそれに抵抗し、逆に腕をつかんでひねる。
「っ・・・・・・く・・・」
固められた腕を振り払うと、力任せに平手を打ってきた。その腕をがっちりと捕まえ、襟元をつかんでいた手を払う。
「・・・・・・っ!」
「・・・・・・ふっ」
二人は互いにつかみ合いもつりあっていた。原因すら忘れてしまうくらいに熱くなり、机を蹴り飛ばしほこりを巻き上げ、子供のケンカかと思われるほど、髪も服も乱れ放題になった頃、ついにシンタローが疲れに我を忘れてしまったのだろう。狭い室内にもかかわらず、力の加減もせずに、物の詰まった棚にリキッドを突き飛ばした。
「うわっ!! ・・・・・・っつ」
したたか体を打ちつけたことにより、一瞬息が詰まり目の前が暗くなった。足からも力が抜け、ぼんやりとした意識でずるずると座り込む。
「あ・・・・・・」
曇った視線の先に、棚の上の黒い物体があった。なんだろうかと考えるが、リキッドにはよく解らない。ただ、それがとてつもなく大きなものだということは知れた。
「――リキッド!!」
体の上に、暖かく柔らかい官職が触れた直後、鈍い音と重い振動が伝わってきた。
「え・・・・・・?」
とっさに目をつぶっていたらしく、その瞬間は見えなかった。それが幸いだったのかどうか、ともかく気付いたときに黒い楽器ケースが床に転がり、落ちた衝撃でなのだろう。ふたが開いて、中身が床にぶちまけられていた。
「あ・・・・・・」
ケースの中身は、空だった。正確には掃除用具やねじなどのパーツが入っており、それらが床に広がっていたのだが、肝心の楽器は入っていなかったのだ。見えるのは、その形にくりぬかれた柔らかい布のみ。
リキッドはほっと力を抜け、ずしりと体にかかる重みにようやく意識を向けた。気付かなかったわけではない。ただ見るのが恐ろしかっただけだ。だからこそ原因であるケースが軽いものであることを、先に確認したのだろう。
「シ、シンタロー・・・さん?」
怒鳴られることを覚悟で、そろそろと声をかけるが、さっきまでもみ合っていた女先輩は、反応を返してこない。そんなに怒ってるのか、徒も思ったな、そのわりに体に力がない。
「・・・・・・」
うつぶせた顔にそうっと手を伸ばして髪を掻き分けると、閉ざされた瞳が目に入ってきた。一瞬どきりとするが、それは気絶させてしまった罪悪感からなのか、無防備な姿を見てしまったことに対する緊張感だったのかは、解らない。というか、そんなことを考えてしまったこと自体に、かなり慌ててしまう。
「んっ・・・・・・」
髪を引かれた感触に反応してか、シンタローが身じろいだ。驚いてとっさに手を放すと、あまり確かでない視線が、こちらを向いてくる。
「あれ・・・えっと・・・・・・?」
しばらく二人は意味もなく、互いの目を見合っていたが、不意にシンタローが我に返った。
「あ、そっか・・・大丈夫かお前。・・・つーかなんであんま痛くねぇんだ?」
「あの・・・・・・」
上に乗られたままで動けないリキッドは、顔を赤らめながら転がるケースを指差した。
「ああ、空だったのか。・・・・・・そーだよな、いくらなんでも人がぶつかったぐれぇで重い楽器は落ちねぇな」
「そ、そうっすね」
「・・・ん? お前ほんとに大丈夫かよ。頭でも打ったのか?」
「い、いえいえいえいえ! 大丈夫です! ですから・・・・・・!」
心配そうに頭に触れられ、逃げようにも逃げ場のないリキッドは、大慌てでそう言って手を避ける。その行動でシンタローのほうも今の体制に気付いたのだろう。一瞬息を呑むと、勢いよく体を離して立ち上がった。
「っと・・・」
瞬間、バランスがとれずに机に手をつく。リキッドはそれを見ているだけで助けることも出来ず、ただ同じように立ち上がった。
「あの、大丈夫っすか?」
「ああ? 空ホルンケースが当たったぐれぇでまいるほど、やわじゃねぇよ。・・・・・・私が暴れたのが悪いんだし。・・・・・・えーっと、それで、悪かったな」
言い終わると背を向け、散らばったケースの中身を拾い始めた。
「あ、て、手伝います!」
「・・・・・・こっちはいいから、机を直してくれよ。お前、パーツとゴミの区別つかねぇだろ?」
「・・・・・・」
確かにそれはそのとおりだったので、リキッドはおとなしく大人二人分の暴力でずれてしまった机を垂直に直した。よくもまあ上のものが落ちなかったなと思いながら、落ちかけていたものも直す。
いまや落ち着きを取り戻した頭で、何でこんなことしちゃったかなー、と考える。いくら向こうから手を上げてきたとはいえ、この人に対してここまで頭に来るとは・・・と、リキッドは背後へと意識のみを向けた。
落ち着いた様子の片付けの音が繰り返されているので、あちらも冷静さは取り戻しているのだろう。この人も、なぜあれほどまでに怒ったのかと考え、ふと、ひとつの可能性を思いついた。
「あの・・・・・・」
「ああ? 終わったのかよ」
「はい・・・。けど、そうじゃなくて・・・・・・」
言いかけるリキッドを無視して、シンタローは机の様子を確かめる。さすがに無視されることは気に食わないが、先ほど反省したばかりだ。おとなしく背を向けた姿に声をかけた。
「あの、シンタローさん。パプワともこんなケンカをしたんすか?」
瞬時に鋭い視線が返ってくる。・・・かと思いきや、黒髪の垂れ下がった背中に動く気配はなかった。覚悟を決めて言っただけに、拍子抜けしてしまう。予想と違う反応をされてしまっては、早々言葉を続けられず、一言だけが宙に浮かんだ、気まずい沈黙がしばらく続いた。
「あいつ・・・・・・」
どうしようかと困りきり、もう帰りたいとまで思い始めた頃、ポツリとシンタローが口を開く。
「あいつ、怒ってたか・・・?」
「あ、ええっと・・・」
静寂が破られ、救われたような思い出顔を上げたのだが、彼女の問いがすぐには理解できず、一言置いてから思いをめぐらす。あいつとは、この場合一人しかいないわけで・・・・・・
「パプワでしたら、怒ってるつーか、不機嫌ですよ。まあ今はそれほどでもないみたいっすけど」
「そうか」
軽く、安堵とも落ち込みとも取れるため息をつくと、ホルンケースに近付いていって、棚の上に押し上げた。
「あ・・・」
瞬間手伝おうかともお思ったが、シンタローより身長の低いリキッドが手伝えることは何もない。ましてケースは軽いのだ。
「・・・・・・・気になるんだったら、早く仲直りしてくださいよ」
とりあえず気を取り直して、そう口にしてみる。
「パプワ怒っちゃないし、もうそれほど不機嫌でもないっすけど、つまんなそうっす」
「・・・・・・」
「チャッピーもそうですし、コタローも心配してましたよ? 何か言ってたでしょ?」
「・・・・・・」
「俺もそうっす。二人が仲悪いのは変っすよ。おかしいっす。なんか落ち付かねぇし、コタローもいらいらしてるし・・・そっか。さっき俺が頭に来たのも、二人が仲悪くていらいらしてたからかな・・・。シンタローさんもそうなんでしょ? いつもと違うんで、おかしくなってるんっすよね?」
リキッドはたたみかけるように言葉をつむぐ。自分で言って自分で納得し、そこから力を得ているようで、その表情には自信が見え隠れしている。
そして、どこか必死さも。
「皆、心配してるんす。仲直りすれば全部解決するんすから、してくださいよ」
「・・・・・・」
シンタローの瞳は揺れていた。動揺しているのが見て取れてリキッドは少し気まずくなる。だが同時に彼は奇妙な満足感も感じていた。
傾いていた日がだんだんと姿を隠してゆき、部屋が暗さを増してくることも気にかかる。心臓が不安げに脈打ち始めた。
(あんま長居しちゃまずいよな)
それもこれも、全てシンタローの返答にかかっているのだ。期待をこめてじっと黒い瞳を見つめていると。困ったようにその口が開かれた。
「オレ、あんまケンカとかしたことねぇんだよ。特に子供相手にゃ初めてだしな。しかもすっげぇくだらねぇ理由で・・・。たぶんパプワは、何がなんだか解ってねぇだろう。勝手に怒って勝手に帰ったんだ。いまさら何か言うのも、こっぱずかしいんだよ」
「それは・・・解ります」
子供の頃のケンカで、自分が悪いと解っていながら素直に謝れなかったこと、父親相手に子供じみた八つ当たりをし、その後何も言えずにただにらみつけていたこと、自分でなくさないようにと置いたものを自分で忘れ、パプワに指摘されて赤っ恥をかいたこと・・・などを思い出し、心から言うとそれが伝わったのか、彼女の表情が和らいだ。
「ほんとくっだんねぇことなんだよな。あいつが、オレの一族と同じ力を持ってるって知って、でもオレは持ってねぇから・・・やつあたって、でもあいつそーゆーところは大人じみてるから、なだめられて余計にむかついてよ、後はもう・・・泥沼」
苦笑いを浮かべながら、今にも泣きそうな表情でため息をつく。その姿は今の時間帯もあいまって、とても切なさをかもし出していた。横顔のほとんどは髪で覆われていても、それだけは大いに伝わってくるのだ。
「早く出てぇよ、ここから。でも謝んのも・・・・・・なんか違う気がする」
「・・・・・・じゃ、それでいいんじゃないすか?」
驚いたような顔がこちらに向けられた。ひらひらと舞う髪は光の中で見たら、さぞかし艶めいてきれいなのだろうなと、何となく思う。
「謝れないんなら謝らなくとも、会えばきっと今まで通りになりますよ。そうなれば、シンタローさんのもやもやもきっと晴れると思いますよ?」
二人が仲たがいをしているのが嫌なのだ。それさえ解決すれば、もう問題はなくなると、単純だが思う。気持ちの問題はそれからどうにかしていけばいいのだ。それは確かにある意味では、正しい選択ではある。
「・・・・・・そうかな?」
「そうっすよ」
はっきり言ったリキッドに、シンタローがパプワとけんかをした根本的な原因も、先ほど平静を失った確かな理由も、よくわからない。聞き返して突き止めたい気持ちは大いにあるが、それよりもまず二人を仲直りさせるほうが先決だ。
彼がここに来た目的は、ひとつにはそれがあったのだから。自信を持って断言する。
シンタローもリキッドの態度に心動かされているようで、落ち着かない行動を繰り返している。ふとここで先ほどからシンタローの人称が、“オレ”に変化していることに気づいた。
(いつも”私”だったのに・・・ひょっとして、自が出てる?)
疑問に思って年上の女性を見つめると、泳いでいた黒い瞳が、そのときぴたりとこちらに定まった。
「・・・・・・そうかな・・・」
言葉は先ほどのものと同じだが、調子がだいぶ違う。もっとずっと穏やかで、顔にはうっすらとした笑みさえ浮かんでいた。
その表情に一瞬リキッドは意表を突かれ、呆然とするが、すぐに暖かい気持ちが湧き上がってきて、思わず笑みを返していた。
「いつでも来てくださいよ、会いに。この間の飯のお礼もしたいですし」
「・・・・・・ああ」
そういえばそんなこともしたっけな、とつぶやきながら外を見たシンタローは、目の前に広がる暗闇に目を見開く。つられて外を見たリキッドも、とたんに慌てふためいた。
「げ、もうこんなに暗い! 早く帰んねぇと・・・!」
家で待っている子供が何を考えるかなど、リキッドでなくとも理解できる。その慌てぶりが痛いほど伝わったのだろう。シンタローはリキッドに早く帰るよう促した。
「はい・・・! て、あ・・・シンタローさんは・・・」
「私も帰るよ。けどお前、急ぐだろ?」
そりゃそうですけど・・・とつぶやきつつも、このままこの先輩を放っていくことはできそうもなかった。なんといってもシンタローは女性で、しかも先ほどまで数秒とはいえ、気を失っていたのだ。
「送ってきます! シンタローさん家近いですし、一人じゃ危ないですよ!」
言ってはみたものの、怒られる呆れられるかどちらにしろ断られると思っていったのだが、意外にもシンタローは承諾した。
「言葉が矛盾してる気がするが・・・・・・ま、お前がそこまで言うのなら、しょうがねぇから送られてやってもいい」
「はい!」
照れながら言われたその言葉が、妙に嬉しかった。それだけでリキッドは、今日あったさまざまな出来事が、全ていいことのように思えてきたのだった。
後日、シンタローがリキッドの寮部屋に姿を現した。しばらく席をはずしてパプワたちだけにしたので、彼らがどんな対話をしたのかは解らない。確かなのは、リキッドが目にした二人はいつも通りのやり取りをしていた、ということだけだ。
もっとも、それだけ解れば十分なのだが。
「シンタローさん」
「あ?」
騒がしさの戻った部屋の中で、シンタローがパプワから離れたときを見計らって声をかける。それはそれは偉そうな、いつも通りの返事が返ってきた。
「これ、直しときました」
リキッドの差し出したものを見て、一瞬目を丸くするが、すぐにうっすらと笑って手を伸ばし、それを受け取る。
「サンキュ、リキッド」
髪を編んだシンタローの手の中で、ブローチがきらりと輝いた。
日常生活
携帯電話の着信音が鳴った。昼下がりの学校のカフェテラス。それほど回りには迷惑にならないだろうが、すぐさま鞄から電子音を響かせるものを取り上げ、音を切る。
着信はメールだったようで、耳には当てずに画面を眺め、しばらく読んでゆく。
「・・・・・・」
確認を終えると鞄に戻し、立ち上がってわき目も振らずにテラスを後にする。その颯爽とした後姿を、テラスにいた学生達は一人残らず注目していた。
そのうちの一人が友人に聞く。
「すっげぇきれいな人だな・・・・・・大学生? ボーイッシュだけどスタイルいいよなぁ・・・・・・」
「何、お前知らねぇの? あの人はこの学校一の有名人なんだぜ?」
信じられないもののように言われ、思わず反論する。
「そのくらい知ってるさ! 見るたびに皆、騒いでるし・・・・・・」
「そうじゃねぇって、あの人青の一族なんだぜ」
隣の席から別の生徒が入ってきた。彼らと同じく高校生のようだが、学部が違うらしく見覚えはない。同席していた相手からやめなさいと止められ、不満そうにだがしぶしぶ乗り出していた身を引いた。
「へえ・・・でもあの一族って皆、金髪碧眼の西洋人色素じゃなかったっけ?」
はじめに話していた二人組みのうち一人が、そう友人に聞くと、一度は呆れられたものの、おもむろにうなずかれた。
「そうなんだ。だからこそあの人は目立ってる。まあ、いまんとこ一族唯一の未婚女性で、周りをがっちり固められてるせいもあるんだけど・・・・・・」
「げ、そうなの?」
「そうそう。だからこそいろんな意味で・・・・・・狙ってるやつは多いけど、いまんとこフリーなんだ」
「はー・・・・・・」
二人はテーブルごしにこっそり目を見交わすと、申し合わせたわけでもないのに、同時に同じことを言った。
『全く、惜しいよな・・・』
それは、このカフェテラスで彼女の姿を目にしたもの全てが、思ったことでもあっただろう。
その人物シンタローだが、大学部の校舎に入り、階段を最上階まで上がると、廊下の突き当たりにある部屋を目指した。そこには数人の男女がたむろしていたが、一人が気付いて振り返ってくる。
「あ、来ましたよ! シンタロー様!」
「遅れたか? 悪ぃ」
「大丈夫ですよ、まだ・・・・・・」
その女生徒と会話しながら、シンタローは生徒達の顔をなんとなく見回していたが、ふとあることに気付く。
「あれ・・・・・・? ジーンは? メールくれたのあいつなのに・・・・・・」
「あいつなら、楽譜忘れたって戻ったぜ」
集団から頭ひとつ抜けて背の高い男(ここにいるのがほぼ女性のため)が言う。彼は続けて、だいぶ集まったからもう入ろうぜ、とも言い、集団はそれに従った。
彼らはまずその部屋にめいめいの荷物を置いてから、机を一箇所に集めて、ある程度のスペースを空ける。それに参加しなかった背の高い男が、黒板に予定を書き付けていった。
「あれ、ぶっちょー! 今日は合奏ないの?」
「先生がいないんだよ。それにこないだ新譜配ったばっかで、個人練習も必要だろ?」
「だからこそ、一回やってみたいのにー!」
ねー、と隣の女子と申し合わせる様子、部長と呼ばれた男は困ったように苦笑う。
「指揮振れるやつがくればしてもいいけど・・・・・・。集まり次第だな。ひとまず今は、個人かパートで。振り分け場所はいつも通りだ。いいか?」
『はい!』
小学生のような返事をし、イスの準備を終えると、彼らは隣のもっと狭い部屋へ流れ込んでゆく。そこには楽器室という札がかかっていた。今いる音楽室の、おまけのような小さな場所だ。
彼らはこの学園の吹奏楽部員だ。
この学校は中、高、大を通じて基本的には一括した部活を設立しており、名目上は同じ名前の部は存在しない。学園祭などの学校行事は合同で行うが、各大会などは各学校で出ているので、実質は中、高、大にひとつづつ存在していることになり、練習場所も分かれている。
それでも同じ敷地内にあり、ひとつの学校という意識のためか各部の結びつきは強く、楽器や楽譜の貸し借り、互いの情報交換などはかなり頻繁に行われていた。
大学部まで来ると、大抵が顔見知りだが、同時にほとんどのものが自分の楽器を所有してもいた。なので、大学部の楽器室にほとんど学園の楽器はない。あるとしたら、大きなものか高いもの、あるいは卒業生の置き土産ぐらいのものだ。
「お、遅くなりました!」
「おー、来たかジーン」
「楽譜取りに行ったにしては、ずいぶん遅かったね。また迷ったの?」
「いえ、今回はさすがにもう・・・・・・」
なにやら言いながら直に楽器室に入ってきた女――ジーンは、数少ない楽器を借りているものの一人だ。
彼女の楽器はファゴット。大きさはそれほどでもないのだが、値が張るために、購入にはいたっていないらしい。
「ジーン、メールサンキューな」
「あ、はい。どういたしまして、シンタロー様!」
自分の楽器を引っ張り出しながら言うシンタローに、ジーンは思い切り頭を下げ、脇に抱えていた楽譜をぶちまけてしまう。
「もー! 何やってんの!」
呆れた声に慌てて紙を拾い集めるジーンに、周りの者達も腰をかがめた。なんだかんだ言いながら、和気藹々としたこの部の者達が、シンタローは好きだった。
彼女は中学からこの部へ入り、楽器もずっと変わっていない。だが自らの楽器を持ったのはつい最近、大学に入ってからである。
学校を含んだ企業の長の娘である彼女に、金がないわけはないし、望めば中学の頃から楽器は持てた。だが、彼女は高校に入ってからバイトをし、小遣いをため、自力で安くはない買い物をしてのけた。
「自分のことは自分でする」
これがシンタローのモットーであり、この件も自分の信念を貫いたためだったのだが、理由はそれだけではない。
父親に借りを作りたくなかったのだ。
親子で貸しも借りも普通はないのだろうが、この親子は少しばかり他と事情が異なった。中学校当時は親子ではないということは知らなかったから、それは関係ない。ただ、常日頃から自分を甘やかす父親に頼りたくなかったのだ。
「親の七光り」とは言われたくはなかった。
やっとの思いで買ったシルバーの楽器を準備しながら、当時を思い出してため息を付くと、周りの後輩達が何事かと見上げてくる。笑ってなんでもないと返しながら、音出しへと向かった。
管楽器の者達のほとんどが、彼女と同じようにベランダに出て、大きな音を出し始める。吹奏楽器は息を吹き込まないと音は出ない。つまりこの集団がどんなにうるさかろうとも、おしゃべりをしているわけではない。中学の頃はクラスメイトに、うるさくしてても怒られない、とうらやましがられたものだった。
無言なのに騒がしいという奇妙な人々の中で、長身のシンタローは目立っている。何か言いかけていたがタイミングを逃してしまったジーンでなくとも、自然と目が行ってしまう存在だった。
新しい友人とともに、ふざけあいながら校舎を後にしたりキッドは、耳に届いてきた音に顔をしかめた。
「あんだようっせーなー。毎日毎日ピューピューピューピュー」
悪態をつくと、友人達もどっと笑って同意する。いくら広い敷地とはいえ、放課後にはどこかしらから必ず音が聞こえてくるのだ。興味のないものには、雑音にしか思えないだろう。
「全くだぜ。やるんなら防音の聞いた部屋でやればいいのに・・・・・・」
「何を言うんだ、もったいない!」
リキッドに同意した男子に反発したのは、中学から学園にいたものだった。彼らのほとんどは高校からの編入生で、だからこそ学年の途中から入ってきたリキッドとも意気投合したのだが、唯一この男だけは変わり者で、彼らの集団と気が合ったのである。
「常に挑戦は必要だからね」
偉そうにそういっていた男を、はじめは馬鹿にしていたものの、気付けば新入生達になじみ、仲良くやっていた。
だからこそこの集団は、転校してきたリキッドも、あっさり仲間に入ったわけだが。
「何がもったいないんだ?」
進入組の男子が聞くと、持ち上がりの男子は怪しい笑みを浮かべる。
「中に入ってしまったら、顔が見えないだろ? 吹奏楽部にはあのお方が所属しているんだ。こんな機会はめったにない」
言葉を聞いた男子達は、一瞬顔を見合わせてから徐々に歓声を上げ始める。あの人が!? とか、そりゃ確かに、とか、ならとっとと行こうぜ、などと盛り上がる。提案した男は満足げな様子だ。
「なあ・・・・・・」
その仲間にも加われず、一人きょとんとしているしかなかったリキッドは、おずおずと言葉を挟んだ。
「何の話してんだ? あのお方って誰だよ?」
「オメー、知らねぇかよ!」
一人が答えると、よってたかって言葉が浴びせられる。
「そうか、リキッドはまだ来てから日が浅いもんな」
「しかも変な時に来たからなぁ・・・。入学当時は噂がすごかったんだぜ」
「そのせいか、今じゃあ一族が睨みを効かせて、統制してるからな」
「また来年になれば同じことなのにな。毎年やってんのかね、あの一族・・・」
最後の言葉にリキッドを除いた一同は、生ぬるい笑みを浮かべる。やりかねない、という意味の笑みだったが、除かれたほうはさっぱり解っていない。
「一族って、青の一族? ここを牛耳ってるっていう・・・・・・。じゃあ、あのお方って、一族の誰かなのか?」
「おうよ!」
と説明を始めかけたのだが、こらえ性のない一人はすでに、音に向かって足を進め始めていた。早くしないと中に入ってしまうという意見には、誰もが賛成だったので、全員でそちらに向かいながら話すことになった。
それによると・・・
今から見に行くのは、一族唯一の女性であり、一族の外見的特徴を唯一受け継いでいない人だと言う。
「とにかく美人でよー。性格はちときっついんだが、面倒見のいい姉さんって感じで、金髪じゃないせいか、近寄りがたさもないし・・・・・・」
後半はすでに説明というより、自慢のような感じになっていたが、友人達がこれだけ言うのだからたいそうな人なのだろうなと、リキッドの胸も期待で膨らんでいった。
ブレザー姿の高校生達は、あっという間に音源の下に集った。そこに固まって2階分ほど上のベランダを見上げる。上の方は気付いているのか気にしていないのか、こちらに注意を払うものはいない。
「っておい、どれなんだよ。このいっぱいいる中の、どれがそれなんだ?」
「ばかやろう! あのお方を“それ”呼ばわりするんじゃねー!」
突っ込みというよりは力のこもったこぶしに頭を殴られ、リキッドは不満気に頭をさすった。知らない人なんだから仕方ないじゃないか、理不尽だ、という感想を抱えながら、それでもとりあえず上を見上げる。
ベランダにいる人数は、当初よりも少なくなっていたが、来たばかりの彼らにそれは分からない。そもそも下から見上げている者達からは、楽器のせいで顔がよく見えない人物もいるのだ。その中から特定の人物を探し出すというのは、熟知しているわけではない人物なだけに、彼らには至難の業だった。
リキッドをはたいた後も、彼以外の高校生達はじりじりしながらかの人を探していたが、程なく室内から集合の声がかかり、扉に近いものから一人、また一人と室内に消えていってしまう。
ああー、と彼らが悲壮な声をユニゾンで上げると、帰りかけていた学生の一人が、彼らに気付き注意を向ける。
銀の、一抱えほどもある楽器を持った人物は女性で、黒いロングヘアをたらして、手すりにもたれて下を覗き込んできた。
「お」
『あ!』
リキッドを除く男子生徒と黒髪の女生徒は同時にそんな声を上げたが、先手を打ったのは上座にいた人物のほうだった。
「リキッドじゃねぇか!」
「え?」
『ええ!?』
突然名前を呼ばれ、きょとんとしたリキッドとは裏腹に、友人達は驚きと疑問の表情で、横手と頭上を交互に見比べた。
「え? え? え?」
そんな友人達に、明らかに狼狽した様子で辺りを見回す2色の髪の男を、女生徒は面白そうに見下ろした。
「ずいぶん慣れたみてーじゃねぇか。もう迷わないか?」
「は・・・。え・・・?」
「覚えてねぇのか? ・・・そんな記憶力でよくここに入れたな。・・・・・・オッサンのコネか?」
なぜかしみじみと感心する女性と呆然と見上げたのは、リキッドだけではない。隣の友人達も同様だった。頬杖を付いてこちらを見下ろす女性の後方を、順々に学生が通り過ぎ、室内へ入ってゆく。ロミオとジュリエットのような状況を興味深そうに見るもの、通路を半ばふさいだ彼女を迷惑そうに避けるもの(人一人だけならたいした邪魔ではないのだが、互いに楽器を持っている分、とる幅が広いのだ)など、反応はさまざまだったが、そのうちの一人が、彼女の後方で足を止める。
「あの、シンタロー様・・・・・・」
「ん? あんだ、ジーン」
地面を見下ろす女生徒シンタローは、茶色く細長い楽器を両手と、首にかけた紐で支えたジーンを振り返る。
「誰です、その人たち・・・?」
やや心配そうに言う友人を、シンタローは首だけ振り向いた姿勢のまま、わしわしとなでる。その動きに楽器通しがぶつかりそうになったが、二人して申し合わせたような巧みな動きで、避けた。
「知り合いの高校生だよ。ほれ、うちの学校の制服着てるだろ?」
「・・・・・・」
「?」
促して下をのぞかせたジーンが、疑問を貼り付けた表情のままで振り返るのを、シンタローは首を傾げて見やったが、やおらポンと手を打った。
「そっか。お前大学からここ来たから、高校の制服知らないんだよな」
「・・・そうですよ。シンタロー様に誘っていただかなかったら、大学にはいけませんでした」
「また、そんな大げさな・・・。ま、うちの学校に途中から入る奴って、誘われてってのが多いみたいだけどな。あいつもそうなんだぜ」
と、突然指差されたリキッドは、さらにまじまじとシンタローを見つめる。上の二人はそうなんですかー、などと会話を続けていたが、彼は必死になって記憶の糸を手繰っていた。
(シンタローって名前で、大学生で長い黒髪で、どっかで会ったはずなんだけど・・・・・・)
「って、あー!!」
思わず大声を上げると、常会の女性人と地面の高校生がいっせいに注目したが、かまわず銀の楽器を持つ女生徒を指差す。
「あんたは確か、ここに来た初日に理事長室まで案内してくれた人――!?」
「そうだぜ」
たっく、ようやく思い出したか、とシンタローがつぶやくと、地面の高校生達がなぜかリキッドに飛びついた。
「な、何だよ・・・」
「バカ! 指差すなんて失礼だろ!?」
「あ、」
気付いて慌てて手を引っ込めるが、友人の罵声は止まらない。
「理事長の娘を指差して、さらに知らないなんてお前、非常識だぞ!」
「へ・・・・・・? じゃ、お前らが言ってたのって・・・」
一人一人、友人達の顔を見回す。あるものは重々しく、あるものは非難めいてあるものは哀れみをこめて、それぞれうなずいた。一人だけ知らなかった立場のなさに赤面したのは一瞬だけで、すぐに彼の顔からは血の気が引いた。
(ど、ど、どどどどどうしよう――!!)
現状を理解したとたん、大きな混乱がやってきた。シンタローのことこそ知らなかったものの、リキッドはハーレムのスカウトでこの学校に来たのだ。理事長の人となりは実弟であるその男からよく言い聞かせられているし、彼が娘を溺愛している問いうのは、学校中の誰もが知っている。
あくまで噂なのだが、幼い頃彼女を誘拐しようとした犯人を、警察より先に捕まえ、私刑にかけたとか、親しくなったものは必ず身辺を洗いざらい調査されるだとか、言い寄っていった男は問答無用で退学処分だとか・・・・・・・
もちろんただの噂なのだが、それだけの話を聞かされていれば、一生徒である彼におびえるなというほうが無理だろう。青ざめた顔のまま、必死の思いでかの人を見上げる。
「すいま――」
「・・・・・・悪かったな、すぐ言わねぇで。言ったらお前、緊張しそうだったからよ」
「は・・・・・・?」
出鼻をくじかれ、逆にすまなそうな顔で謝られてしまうと、こちらとしてはぽかんと立ち尽くすしかない。
「あんときはがちがちだったから・・・でも今はもうここには慣れたみてぇだな。そんだけ友達いるし」
「え・・・あ・・・ま・・・・・・・」
「その調子でオッサン――ハーレムとはとっとと縁切れよ。それと何かあったら言えな。放課後は大抵ここにいるから」
「は・・・あ・・・」
リキッドからは確かな返事は発せられなかったが、中から呼ばれでもしたのだろう。シンタローとジーンは一度室内を振り返ってから、こちらに手を振りベランダから去って行った。
「・・・・・・シンタロー、さん・・・」
そこまで経って、ようやくかけられた言葉を理解し、気に欠けてくれたことに感激していると、突然後ろからタックルを仕掛けられた。
「うわ!・・・・・・っぐ!」
そのまま腕が首に回り、ぎゅうぎゅうと締め上げられる。息が苦しくなってたまらずもがいたが、友人は放してくれない。
「おいおいおいおい、抜け駆けとは許せねぇな・・・」
「ちょ・・・マジ苦し・・・! 何の話だよ!」
「シンタロー様とお知り合いとは・・・いったいお前は何をした!」
「つーかそれなら、とっとと俺らを紹介しろよ!」
「は、え? あ! ちょ・・・勘弁してくれよ、俺は・・・」
『問答無用!!』
それ、とばかりに友人達に飛び掛られ、訳の分からぬままリキッドはもみくちゃにされ、情けない悲鳴を上げたのだった。
一方、音楽室では・・・
(あ、悲鳴。まーたシンタローの被害者が出たなぁ・・・)
(本人が無自覚なのが、いっそ哀れよね)
(ま、そんなんだから厭味がなくていいんだけどね、シンタローの場合)
(でもここまで鈍いと、相手だけでなく本人もかわいそうよ)
(もてないって思ってるからなぁ・・・)
(自分は結婚できないだろうって、おっしゃってましたよ)
(本当、ジーン!? あーあ、知らぬは本人ばかりなり・・・)
(あの一族に生まれたのが、運のつきかな・・・)
(そこまで言ったら・・・・・・)
「ほら、次! 音合わせて!」
指揮者に示され、おしゃべり部員達は慌てて練習に戻る。全ての楽器の音をそろえると、彼らの望んでいた合奏練習が始まった。
「だ、か、ら、何にもないんだってぇーのぉ!」
その音にかき消されたリキッドの叫びが、当の本人であるシンタローの耳届くことは、ついになかった。
日常生活編、というか部活編です。私の趣味がもろだし。シンタローの楽器は私のやっていた楽器です。たぶん誰も知らないでしょうから、あえて名前は出しません。
リキッドとシンタローセカンドコンタクト。でもまだ互いに恋のこの字もありません。
自覚するのはいつの日か・・・
他人事のようですが、次からいきなりシンタローは自覚しちゃってますので。彼女(?)の自覚編も考えんとなぁ・・・
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