ピンポンパンポーン、とマヌケな案内音が寮内に響く。
『250号室のシンタロー君、電話が入ってるよー』
電話なんて珍しいと思いながらシンタローは部屋を出た。
この寮の電話は管理人室の横にしかない。
携帯電話を持てば、いちいち呼び出されなくてはならない煩わしさから開放されるが、一度父にプレゼントされた携帯をぶち壊してから、シンタローは携帯を持つのを拒否していた。
ちなみに携帯を壊したのは、ストーカー並に入ってくる父からの電話とメールに切れたからだ。
父には、寮の電話は皆の共有物だから滅多なことではかけるなときつく言ってある。くだらないことでかけたら絶交だとも。
誰だろう?と思いながらシンタローは受話器を取った。
「もしもし?」
『やあ、シンタロー。久しぶりだね』
親父によく似た声だけど、声質はもっと若い。
「…サービス叔父さん!?」
『そうだよ。元気だったかい?』
「うん、スッゲー元気!」
久しぶりの叔父の電話に、シンタローは声を明るくした。
サービスはシンタローが身内では唯一心から信頼し、尊敬している人物だ。
いつまでもシンタローを子ども扱いするマジックとは違い、サービスは自分を対等なひとりの人間として扱ってくれる。
シンタローは幼いころから大勢の大人に囲まれて育った。
そのほとんどがシンタローを「マジックの息子」として扱う中、サービスだけが特別な存在だった。
「どうしたの、電話なんて。なんかあった?」
『実は今度急に日本に行くことになってね。お前の顔を見て行こうと思うんだが、食事でもどうだい』
「マジで!超嬉しいよ!」
シンタローの声が思わず弾んだ。
気になることもあるし、サービスになら相談できるだろう。
「いつ来んの?」
『今週の土曜だよ。そうだな、3時くらいに銀座まで出て来れるかい?』
「ん、大丈夫。やったぁ!何食わしてもらおうかな~」
『何でも好きなものを。何を食べたいか考えておいてくれよ。じゃあ、土曜日に』
耳障りのいい微かな笑い声を残して、サービスは電話を切った。
大好きな叔父に会える、ということが自然にシンタローの顔を緩ませる。
スキップしそうなキモチで部屋に戻ろうとしたところ、廊下でばったりとアラシヤマに出くわした。
「…どうしましたん?ニヤニヤしはって気持ち悪いわ」
「…っせぇナ、テメーに関係ねーよ」
「それもそうどすな」
すごみを効かせたつもりだったが、アラシヤマは平然と受け止めて歩き出した。
スタスタと向かって行く先は寮のエントランスだ。
「…おい、どこ行くんだよ」
あのアラシヤマの電話を聞いた日以来、シンタローはそれとなくアラシヤマの動向を気にするようになっていた。
例の、言った覚えの無いシンタローの家の事情について問いただしても、『誰ぞ話してたんを聞きましたんや。有名なことでっしゃろ』というばかり。
アラシヤマに対して、何かがおかしい、とは感じていても、決定的な証拠は見つけられなかった。
「…ちょお、忘れ物しましてん。ガッコに取りに行くんですわ」
ふと時計を見るとすでに10時を回っている。
「この時間じゃ空いてねーよ」
アラシヤマの言うことが本当かどうかはわからなかったが、できる限りアラシヤマに不審な行動はさせたくないと思った。
「でも、リキッドが図書室の窓の鍵が壊れてて、そっから入れる言うてましたえ?」
確かに、それは事実だった。
この学校の図書室は、校舎の一番寮に近い位置にあり、『緊急事態』用として生徒だけが知る出入り口となっているのだ。
あのヤンキー小僧め。余計なことを…。
シンタローは短く舌打ちした。
「…忘れモンて何だよ?」
「明日提出の化学のレポートどす。ジャンのペナルティーはきついて聞きましたえ」
化学は明日の1限だ。
化学教師のジャンは、クラス担任としては甘いが、教科担任としてはすこぶる厳しい。
レポートを忘れたのなら、今取りに行かなければ間に合わないだろう。
「…わかった。俺も行く」
シンタローの申し出に、アラシヤマは不快そうに眉間にしわを寄せた。
「別に、一人で行けますわ」
ほな、とアラシヤマはシンタローに背を向けて歩き出した。
「でも、オメーどの窓が空いてるか知ってんのかよ?」
ぴた、とアラシヤマの動きが止まる。
「図書室の窓は10コ近くある。[当たり]の窓以外に異変があるとセコムに通報されるぜ?」
ゆっくりと振り返ったアラシヤマは、ハアと大袈裟にため息をついた。
「…あのヤンキーの情報はあてになりませんわ…」
「俺がついていってやるよ。感謝しな」
シンタローは靴を履き替えて、アラシヤマとともにひんやりと冷たい夜の森に向かった。
* * * * *
夜の森は肌寒く、夜気がしっとりと体にまとわりつくようだ。
湿った落ち葉を踏みしめると、布製のスニーカーに夜露が滲みた。
「チクショー、さすがに夜は寒ぃな」
シンタローは両腕を組んで体を縮こませた。
吐く息がわずかに白い。
「そんな薄着してくるからや。何年この森ん中に住んではるん?」
アラシヤマはちゃっかりとウィンドブレーカーを着込んでいる。
アラシヤマの物言いにカチンと来たが、指摘されたことは事実だ。
シンタローは部屋着代わりにしているパーカーのまま。
上着のひとつでも取ってくれば良かったと後悔した。
何か言い返すのも分が悪く、シンタローは憮然とした表情のまま、赤くなった指先に息を吹きかけた。
「……ホレ」
シンタローの目の前に、アラシヤマのウィンドブレーカーが差し出された。
「えッ…?い…いらねーよ、テメーが着てろよ」
アラシヤマの突然の行動に驚いて、思わずどもってしまう。
「わては、風邪ひいたことないんや。こんくらいの気温はどうってことあらしまへん」
アラシヤマはぐいぐいとウィンドブレーカーを押し付けてくる。
いらねぇ、と返したかったが、すでに入浴を済ませたあとで、寒さがかなり身に凍みていた。
アラシヤマはウィンドブレーカーを脱いでも平然とした顔をしている。
これ以上突き返すのも子供っぽい気がして、シンタローは素直にウィンドブレーカーを受け取った。
「…サンキュ」
小さく礼を言うと 、アラシヤマは短くフンとだけ答えた。
校舎の図書館は、寮の裏手を回って数分ほどの距離にある。
あとから増築されたため、図書室だけが校舎から飛び出たような形になっていた。
シンタローは、凸型に飛び出した校舎の右端の窓に近づいた。
観音開きタイプの木枠の窓は、古いが頑丈な造りになっている。
しかし、鍵部分にトントンと振動を与えると、差込式の窓の鍵が、周りの金具ごとゴトリと外れた。
「こんな風に、こいつだけ付いてる振りしてるわけよ」
「…セキュリティは万全て聞いとったんやけど…」
アラシヤマはぼそりと呟いた。
「まあ、でもココは何年か前の先輩が必死でセキュリティ破ったんだってヨ。一応全部の出入り口にセコムしかけてんのはホントらしいぜ」
シンタローは鍵の外れた窓を左右に開くと、窓枠に足をかけてよじ登った。
図書室の中は、火災報知器の明かりでぼんやりと赤く浮かび上がっている。
シンタローは床に着地する前に、窓枠につかまりながら器用に靴を脱ぎ、靴底を上にして机の上に置いた。
ひらりと窓枠に飛び乗ったアラシヤマも、同じようにシンタローにならって靴を脱ぐ。
「そんなわけで、ここが非常口。鍵は中からしか戻せないから、使った奴が朝一で戻すってのが暗黙のルールになってる」
シンタローは中に落ちていた鍵と金具を拾った。
「だからオメー、明日朝一で鍵戻しに来いよナ」
鍵と金具をアラシヤマに手渡すと、アラシヤマは嫌そうにうなづいた。
しかし、 いくら[非常口]があるとはいえ、夜の学校に入ろうと思う奴はそう多くいない。
シンタローもこの非常口を使うのは2度目で、中学のときにやった肝試し以来だった。
「…オメー、懐中電灯なんて持ってきて…ねーよな…」
アラシヤマはこくりとうなづいた。
図書室を出ると、目の前に続くのはそのまま闇の世界に続いているように見える真っ暗な廊下。
「今は月が雲に隠れてるんやろ。しばらくしたら目も慣れますわ」
そういえば、森の中は月明かりがあった。
廊下の窓の方角からすると、雲が晴れれば月の光が入ってくるはずだろう。
アラシヤマは闇に臆することなく、スタスタと歩き出した。
「あッ…、オイ、待てよ!」
シンタローが慌てて追いかけると、少し先で待っていたアラシヤマにドカッとぶつかった。
「…ッたぁ…、気ぃつけなはれ」
「悪ィ、そんな近くにいたのかヨ」
しかし、一寸先は闇といえるくらいに、周りがほとんど見えない。
「なあ、月が出るまでちょっと待とうぜ。これじゃ何にも見えねーじゃん」
おそらくほんの数センチ先にいるのだろう、アラシヤマの顔すら見えない。
「わては夜目が効くさかい、多少は見えてますえ」
「マジかよ?目に赤外線でもついてんじゃねーの?」
シンタローが手を前に出すと、アラシヤマの手にぶつかった。
「…ホンマ、窓の場所だけ言うてくれりゃ良かったんに…」
アラシヤマがハァとため息をつく。
足手まといだと遠まわしに言われて、カッと頭に血が上った。
「連れてきてやったのに、その言い方はねーだろーがよッ!!」
「ああ、もう。ホンマ、短気なお人でんなぁ」
アラシヤマの手がシンタローの手をつかんだ。
繋いだ手が、ぐっと引っ張られる。
「たぶん、月が出るのはしばらく後や。こうして行くしかないやろ?」
不本意だが、仕方がない。
シンタローはアラシヤマに手を引かれて歩き出した。
繋いだ手は、驚くほどに熱かった。
* * * * *
「おい、あったかヨ?」
「そうせかさんといておくれやす。これだけの明かりじゃなかなか…」
アラシヤマは携帯電話の液晶画面の明かりで、周囲を調べている。
ようやく化学室までたどりついたものの、セコムに通報される恐れがあるため、電気をつけるわけにいかない。
アラシヤマは携帯をチカチカさせながら、ガス管のついた机の下を這い回っていた。
…結局、ついて来ても意味なかったかもしんねーなぁ…。
シンタローはわずかな携帯の明かりを目で追いながらそう思った。
こんなに暗いんじゃ、アラシヤマが何かしててもわかんねぇし。
それに…。
シンタローは少しずつ、アラシヤマに対する警戒心が解けはじめていた。
否、「解きたい」と思い始めていた。
アラシヤマが、一般人ではないことは確かだろう。
アラシヤマの身のこなしは、かつてシンタローが教えを受けたSPや元軍人、武術家などのどれとも違っていたが、「特別な訓練を受けた人間」であることは間違いない。
一切足音を立てない歩き方は、一朝一夕で身につくものではないだろう。
けれど。
上着を貸してもらったからというわけじゃねぇけど。
アラシヤマはシンタローに、少なくとも敵意は持っていないように思えた。
それとも、俺がそう思いたいから、気がつけないだけなのか?
アラシヤマはたぶん何かを隠してる。
そしてたぶん、「一般人」じゃない。
でも、俺とはなんの関係もねぇかもしれねーじゃん。
そうだったらいいのに。
そうしたら、俺とこいつはただの隣人でクラスメイトだ。
「あ、あった。ありましたえ」
アラシヤマが嬉しそうに携帯を振った。
「うし。帰ろーぜ」
化学室を出ると、窓には月明かりが戻ってきていた。
アラシヤマの白い輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
アラシヤマはノートを大事そうに抱えて笑っていた。
「…そんなに嬉しいことかヨ?化学好きなのか?」
「え?や、そんなことはないんやけど、何か楽しゅうて…」
初めて見る、アラシヤマの表情。
いつもの、無愛想で何を考えているのかわからないのとは違う。
それは、同じ17歳の少年らしい表情だった。
「わて、今までほとんど学校行かずに育ったんどす。ベンキョはみんな家庭教師で…。せやから、夜の学校忍び込むなんて、小説の中だけのことやと思うてましたわ」
「え!?ソレ、マジで?」
今まで学校に行ったことがないというのは、そうとうに特殊な環境だろう。
シンタローもマジックに『家庭教師をつけるから学校に行くな』と言われたことがある。
猛反発し、ハンストまでして何とか学校に通うことができたが、アラシヤマも似たような事情なのかもしれなかった。
「そーいや、オメーがココに来て、もう1ヶ月近く経つのに、オメーのこと何にも知らねーな」
「別に、特別話すようなこともあらしまへんえ」
アラシヤマはさらりと流すと、あごをしゃくって廊下の先を促した。
歩き出したアラシヤマの後を慌てて追う。
「でも、ガッコ行ったことねぇっつーのはかなり特殊だろ?何で?」
「…家の事情どす。…育ての親が…船乗りみたいなもんで、世界中転々としてたんですわ」
育ての親、ということは本当の親ではないのか?
気にはなったが、そこをこちらから突っ込んで聞くのはあまりに無神経な気がした。
「じゃあ、何でわざわざこんな時期にココに来たんだよ?」
「…親の知り合いのコネや。知ってはります?ココ入学するんには、学力や寄付金以外にも、学校関係者や卒業生の紹介状が要るんどすえ」
そうだったのか。親がココの卒業生という奴が妙に多いのはそういうわけだったのか。
「まあ、単にタイミングが良かったんどす。全寮制なんも好都合やったし」
そのとき、また雲が月を隠してしまった。
わずかにあった明かりが、重い闇に溶けていく。
「あーくそ、また見えねぇじゃん…」
まるで目をつぶっているのと変わらない。
「あんさん、鳥目なんとちゃいますの?」
アラシヤマの手が、シンタローの手をつかむ。
「さ、またお手てつないで帰りますえ」
「…ちぇ、ふざけろよ」
暗くてアラシヤマの顔はわからない。
けれど、きっと笑っているのだろう。
「なあ、アラシヤマ」
手をつないで闇の中を歩き出す。
ほとんど周囲の見えないシンタローを気遣ってか、歩調はゆっくりだった。
「お前さ、もっと色んなこと話せよ。話したくねぇことは言わなくていいからさ。好きな食べモンとか、趣味とかでもいいから」
お前のことを、教えてくれよ。
そう言うと、アラシヤマはしばらく間を置いた後で、「せやなぁ」と短く答えた。
* * * * *
寮に着いたときには、すでに12時をまわっていた。
出掛けに開けて来た非常階段のドアから、こっそりと中に入る。
「あ!お前達どこ行ってただ!?」
シンタローが顔を出すなり、ミヤギが怒ったような表情で駆け寄ってきた。
寮生が無断で外出するときは、いつもこの2階の非常階段が出入り口になる。
ミヤギはシンタローとアラシヤマがいないことに気がつき、ここから戻ってくることをふんで見張っていたのだろう。
「勝手にいなぐなられちゃ困るべ!出るなら出るでオラに一言言っとぐれって、いつも言ってるでねぇが!」
「悪ぃ悪ぃ。点呼までに戻ってこれると思ってたんだよ」
シンタローはミヤギを拝むように手を合わせた。
「…A定おごってもらうかんな。寮監には上手ぐ言ってあるさけ、早ぐ部屋さ戻れ!」
本当に面倒見のいい寮長に感謝しつつ、シンタローは逃げるように部屋に駆け戻った。
ほぼ同時に、隣でもバタンと扉を閉める音が聞こえる。
アラシヤマもミヤギに文句を言われる前にと、部屋に入ったのだろう。
「…あ」
部屋に入ってしまった後で、シンタローはアラシヤマのウィンドブレーカーを着たままだったことに気がついた。
…まあ、明日返せばいいか。
あいつももう今日は外に出ねぇだろうし。
シンタローはウィンドブレーカーを脱ぐと、壁のフックにかけた。
とたんに寒くなった気がして、慌てて布団に入り込む。
あいつの手ぇ、熱かったな…。
アラシヤマと、こんなに長い時間二人でいたのは初めてだった。アラシヤマは学校にいても寮にいても、いつも一人で消えてしまうからだ。
無愛想で嫌味な奴だけれど、少年らしい一面が見えたことにシンタローは安堵していた。
初めて、アラシヤマの個人的な話を聞いた。
学校に行ったことがないというのも、あの性格や今までの行動が裏づけしているような気がした。
……あいつは一体、何者なんだろう?
シンタローは布団を頭まで被って、少しだけ体を丸めた。
アラシヤマと繋いだ右手が、いつまでも熱を持って熱かった。
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