幸福の定義が分からない
きっと誰も不幸せではないんだろうに
ひとはいつも
星のように届かないものばかりに手を伸ばす
桃 李
心配なのでしょうとその男は言った。
シンタロー様のことが。
あの島にいる、赤の番人のことが―――。
俺は目の前の男を見据えた。
「・・・どういう意味だ」
長身の中国人は薄墨色の瞳で俺を見返した。
「あそこには私の元同僚がいます。四年前赤の秘石の番人として島に残った」
「知っている」
「子供のような男でした。鬼神と言われ、ガンマ団の癌細胞と疎まれたハーレム隊長の心さえその明るさで溶かしてしまった。私から見ても可愛い坊やでした」
「それが?」
「考えたことはないとは言わせませんよ、キンタロー様」
―――今シンタロー様の眼に映っているのは、一体誰なのでしょうね?
風が、ざあっと吹き抜けた。
誰もいない屋上で、俺はマーカーと二人きりで向き合っている。
「・・・何が言いたい」
「あなたは知っているはずだ。ひとたびリキッドがシンタロー様を愛したら、その結果がどうなるかを」
「・・・」
「何故ならあなたはあの島に行き、その目でリキッドを見たのだから」
(確かに俺は見た)
力の差など気にも留めずにシンタローに食ってかかったあの男は、誰よりも強い眼をしていた。
秘石眼であるはずもないのに、その眼はきらきらと輝いていた。
(あの青い瞳で凝視められたらきっと)
そうだ―――俺はもうずっと前から知っていたのだと思う。
シンタローはあの男と恋に落ちるだろう。
そして俺から離れてゆくだろう。
それはたぶん、俺にはどうしようもない二人の運命だった。
俺は特戦部隊の炎使いを見据えた。
「俺を、嘲笑いに来たのか」
「いいえ」
切れ長の瞳がふっと伏せられる。
「私にそんな資格はありません」
「マーカー・・・・?」
「私も、愛する者を遠く時空の彼方に奪われた人間ですから。―――」
春の風が吹いて、マーカーが着ている中国服の長い裾を乱す。
黒絹の服に刺繍されているのは、白と薄紅の桃の花だった。
(愛する者を)
「おまえにも・・誰か大事な人が?」
(遠く時空の彼方に奪われた人間)
「ええ」
マーカーは初めて微笑んだ。
年齢の分からない東洋人の微笑はどこか曖昧で、そして悲しげだった。
「あの方は・・桃の花なのですよ、キンタロー様」
「桃の・・花?」
――― 桃李不言
下自成蹊 ―――
(桃李もの言わずとも下自ずから小道を成す)
歌うように呟かれた中国語が、鮮やかに俺の心に沁みた。
「何を語らずとも、シンタロー様のような方は人を惹きつけてしまう。好むと好まざるに関わらず多くの人間を引き寄せてしまうのです」
そう、青の一族がシンタローを求めてやまぬように。
俺がシンタローに焦がれてやまぬように。
きっと今頃は少年のような瞳をしたあの男も、シンタローを愛してしまっている。
「変えることは・・・出来ないのだろうな」
「では」
俺は顔を上げた。マーカーは静かに俺を見ていた。
「譲るおつもりですか?―――リキッドに、シンタロー様を」
眩しいばかりの笑顔を思った。
夜ごと抱いたしなやかな肢体を思った。
共有してきた二十四年の日々を思った。
数え切れないほど交わした儚い約束を思った。
「いいや」
震える拳を握りしめる。
「シンタローを諦める訳には、いかない。―――」
(たとえあの漆黒の瞳に俺が映っていなくとも)
「・・・俺はあいつを愛している」
(誰に抱かれていようとも)
「必ず見つけ出してみせる」
シンタローは俺の命だった。
あいつの笑顔だけが俺を満たしてくれた。
俺に生きる力を与えてくれたのはあいつの優しい微笑みだけだった。
(人の心は縛れないけれど)
俺は必ずあの島への道を見つける。
そして何度でもおまえを口説けばいい。
おまえが欲しいと。
だからおまえを俺にくれ、と。
命の限りにおまえを口説いて、それでも想いが叶わぬ時は―――・・・シンタロー。
―――どうかおまえのその手で、俺を殺して欲しい。
「またずいぶんと魅入られてしまったものですな」
「仕方がない。桃の花とはそういうものだ」
「・・・哀れなお方だ」
それでも俺は幸せだったんだ。
おまえだけを凝視めていられれば、それで良かった。
携帯が鳴る。画面を確かめてマーカーは溜息をついた。
「やれやれ、また出撃命令です」
「次は何処へ?」
「知りません」
「暢気な男だな」
「何処でも同じです。あれのいない世界など、私にとっては何の価値もありませんから」
桃の花を縫い取った黒い中国服が背を向ける。
落ち着いた足音が遠ざかるのを聞きながら、俺は遠い空へ視線を投げた。
(シンタロー)
おまえは今何をしているだろうか。
おまえの心の中に、まだ俺の居場所はあるか。
(たとえあの男を好きになってしまっていても)
時には俺のことを思い出して泣いてくれればいいと思う。
俺はこの場所で、今でもおまえだけを愛しているから。
きっと誰も不幸せではないんだろうに
ひとはいつも
星のように届かないものばかりに手を伸ばす
桃 李
心配なのでしょうとその男は言った。
シンタロー様のことが。
あの島にいる、赤の番人のことが―――。
俺は目の前の男を見据えた。
「・・・どういう意味だ」
長身の中国人は薄墨色の瞳で俺を見返した。
「あそこには私の元同僚がいます。四年前赤の秘石の番人として島に残った」
「知っている」
「子供のような男でした。鬼神と言われ、ガンマ団の癌細胞と疎まれたハーレム隊長の心さえその明るさで溶かしてしまった。私から見ても可愛い坊やでした」
「それが?」
「考えたことはないとは言わせませんよ、キンタロー様」
―――今シンタロー様の眼に映っているのは、一体誰なのでしょうね?
風が、ざあっと吹き抜けた。
誰もいない屋上で、俺はマーカーと二人きりで向き合っている。
「・・・何が言いたい」
「あなたは知っているはずだ。ひとたびリキッドがシンタロー様を愛したら、その結果がどうなるかを」
「・・・」
「何故ならあなたはあの島に行き、その目でリキッドを見たのだから」
(確かに俺は見た)
力の差など気にも留めずにシンタローに食ってかかったあの男は、誰よりも強い眼をしていた。
秘石眼であるはずもないのに、その眼はきらきらと輝いていた。
(あの青い瞳で凝視められたらきっと)
そうだ―――俺はもうずっと前から知っていたのだと思う。
シンタローはあの男と恋に落ちるだろう。
そして俺から離れてゆくだろう。
それはたぶん、俺にはどうしようもない二人の運命だった。
俺は特戦部隊の炎使いを見据えた。
「俺を、嘲笑いに来たのか」
「いいえ」
切れ長の瞳がふっと伏せられる。
「私にそんな資格はありません」
「マーカー・・・・?」
「私も、愛する者を遠く時空の彼方に奪われた人間ですから。―――」
春の風が吹いて、マーカーが着ている中国服の長い裾を乱す。
黒絹の服に刺繍されているのは、白と薄紅の桃の花だった。
(愛する者を)
「おまえにも・・誰か大事な人が?」
(遠く時空の彼方に奪われた人間)
「ええ」
マーカーは初めて微笑んだ。
年齢の分からない東洋人の微笑はどこか曖昧で、そして悲しげだった。
「あの方は・・桃の花なのですよ、キンタロー様」
「桃の・・花?」
――― 桃李不言
下自成蹊 ―――
(桃李もの言わずとも下自ずから小道を成す)
歌うように呟かれた中国語が、鮮やかに俺の心に沁みた。
「何を語らずとも、シンタロー様のような方は人を惹きつけてしまう。好むと好まざるに関わらず多くの人間を引き寄せてしまうのです」
そう、青の一族がシンタローを求めてやまぬように。
俺がシンタローに焦がれてやまぬように。
きっと今頃は少年のような瞳をしたあの男も、シンタローを愛してしまっている。
「変えることは・・・出来ないのだろうな」
「では」
俺は顔を上げた。マーカーは静かに俺を見ていた。
「譲るおつもりですか?―――リキッドに、シンタロー様を」
眩しいばかりの笑顔を思った。
夜ごと抱いたしなやかな肢体を思った。
共有してきた二十四年の日々を思った。
数え切れないほど交わした儚い約束を思った。
「いいや」
震える拳を握りしめる。
「シンタローを諦める訳には、いかない。―――」
(たとえあの漆黒の瞳に俺が映っていなくとも)
「・・・俺はあいつを愛している」
(誰に抱かれていようとも)
「必ず見つけ出してみせる」
シンタローは俺の命だった。
あいつの笑顔だけが俺を満たしてくれた。
俺に生きる力を与えてくれたのはあいつの優しい微笑みだけだった。
(人の心は縛れないけれど)
俺は必ずあの島への道を見つける。
そして何度でもおまえを口説けばいい。
おまえが欲しいと。
だからおまえを俺にくれ、と。
命の限りにおまえを口説いて、それでも想いが叶わぬ時は―――・・・シンタロー。
―――どうかおまえのその手で、俺を殺して欲しい。
「またずいぶんと魅入られてしまったものですな」
「仕方がない。桃の花とはそういうものだ」
「・・・哀れなお方だ」
それでも俺は幸せだったんだ。
おまえだけを凝視めていられれば、それで良かった。
携帯が鳴る。画面を確かめてマーカーは溜息をついた。
「やれやれ、また出撃命令です」
「次は何処へ?」
「知りません」
「暢気な男だな」
「何処でも同じです。あれのいない世界など、私にとっては何の価値もありませんから」
桃の花を縫い取った黒い中国服が背を向ける。
落ち着いた足音が遠ざかるのを聞きながら、俺は遠い空へ視線を投げた。
(シンタロー)
おまえは今何をしているだろうか。
おまえの心の中に、まだ俺の居場所はあるか。
(たとえあの男を好きになってしまっていても)
時には俺のことを思い出して泣いてくれればいいと思う。
俺はこの場所で、今でもおまえだけを愛しているから。
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