ざわっ…。
頭上の枝が波打つようにしなる。芽吹いたばかりの若葉が掠れ合い、柔らかな音を奏でる。誘われるように頭上を見上げたシンタローは、そのままの姿勢で止まった。
「あッ」
思わず声をあげる。その声に、一歩先に進んでいた相手が振り返った。
「どうした、シンタロー。…ああ」
問いかける声。けれど、すぐに納得がいったとばかりに頷かれた。
「髪が絡まっているな」
目の前の事実を率直に述べられ、シンタローは、恥ずかしさを誤魔化すように苦笑した。
ガンマ団敷地内にあるA棟からD棟までの距離。いつもならば車に乗っての移動だけれど、天気のいい今日は、時間の余裕もあるために、歩いて移動することにした。
初夏を思わせる暖かさ。触れる風も、爽やかで、のんびりと散歩気分で歩いていたのだが、うっかりと髪を木の枝に絡ませてしまったのだ。
「ちょっとまってくれ、すぐにとるから」
絡まった髪を手に取る。
「まて! シンタロー。俺が――」
すぐに重なるキンタローの声。だが、それは遅かった。
「ッ!」
髪を取ろうと枝に触れたとたん、鋭いものにシンタローの指先を突かれた。反射的に身体を引いて、しかし、髪が未だに絡まったために、二重の痛みを味わう羽目になった。
「ッ~~~~~~」
「シンタロー!?」
慌てて駆け寄ってきたキンタローを前に、不覚だが、シンタローは涙目になっていた。
「いってぇ~」
指の痛みと頭皮の痛みに苦しんでしまう。
「指を刺したのか?」
キンタローの問いかけに、シンタローは痛みで歪む顔のまま頷いた。
「ああ…この木、棘がある」
「ボケだな」
眉を顰め神妙な顔で言ってくれた相手に、シンタローは、ギロリと睨みつけた。
「ボケだぁ? 喧嘩売る気かよ、キンタロー」
確かに、そんなことにも気付かないというのは、ボケているかもしれないが、こちらが痛みで泣いているのだ。にもかかわらず、そんなことを言われてしまえば、ムカついてくる。
しかし、そんなシンタローに、キンタローはぷるぷると首を横に振った。
「違う。お前に言ったわけではない。いいか、お前が『ボケ』なのではない。その木の名前が『木瓜(ぼけ)』というのだ」
「…………」
きっちり説明してくれた相手に、誤解をしてしまったシンタローは、気まずさから口をへの字に曲げて、視線をそらした。
確かに、そんな樹が存在していることは、シンタローも知っていた。しかし、これが木瓜だとはわからなかった。というか、こんなところになぜ植えているのだろうか。
(植えた奴をボコりてぇぜ!)
完全なる八つ当たりである。
「……ったく、薔薇じゃねぇのに、棘なんか生やしやがって」
ぶつぶつと文句を言えば、それを聞きとめたキンタローは、また律儀に答えてくれた。
「いや、ボケも薔薇科だ。棘があるのはおかしくはないが……シンタロー、刺した指を見せてみろ」
「え? ああ、別にたいしたことはねぇぜ」
実のところ、しゃべる合間に指を吸っていたら、痛みはほとんどひいていた。もともと指先をわずかに突き刺しただけなのだ。
痛がったのは、それが不意打ちだったからである。自覚してみれば、たいした痛みではなかった。
「……って、おい。何してんだ」
自分の手をとったと思えば、あっという間に、トゲを刺した指は、キンタローの口に入っていた。
「消毒だ」
「俺が散々やっていただろうが」
「念には念を入れろというだろうが」
「……こういう時に使うのは明らかに間違いだろう」
念を入れたところで、これ以上の消毒がなされることはない。キンタローの唾液の方がより消毒効果があるわけではないのだ。絶対に。
それでもがっちりと掴まえられているために、好きなようにさせていれば、ようやく満足したのか、指から離れていってくれた。
「――シンタロー」
「なんだ?」
名を呼ぶキンタローの顔は真剣である。思わず身構えたシンタローに、キンタローは重々しく訊ねた。
「これも間接キスというのだろうか?」
「知るかッ!」
真面目な顔して呼ぶから何事かと思えば、あまりにもくだらない発言に、シンタローは、思わず大声で怒鳴っていた。 こいつには付き合ってはいられない。キンタローを置いて、さっさと行こうと一歩前を進んだシンタローは、即座に身体は引っ張られ、頭皮に痛みを感じた。
「ッ~~~~~~!」
忘れていた。まだ、髪は木瓜の枝に絡まったままだったのだ。
「素でボケるな、シンタロー」
「……お前に言われるとはな」
もちろん今のボケは、木の木瓜ではなく、こちらに対する罵詈だ。
髪が未だ枝に絡まっていることに気付かなかったこちらも、確かにボケているだろうが、キンタローにだけは言われたくない言葉である。しかし、反論ももちろん出来なかった。
「待ってろ。すぐに取ってやる」
「いい! 俺が――」
しかし、伸ばした手は払われた。
「身動き取れないお前がやるより、俺の方が早い」
確かに、その通りである。ぶすっと不貞腐れたような表情で、じっとしていれば、ふっと頭皮が引っ張られる感覚が消えた。
「とれたぞ」
「サンキュ」
ようやく自由を取り戻せた頭を振る。その開放感に浸っていれば、それをぶち壊すようなキンタローの言葉が聞こえてきた。
「まったく、お前は危なっかしくて見ていられない」
「――お前には言われたくねぇよ…」
身体を手に入れて、まだ幾年も経ってない、まだまだ経験地不足のお子様には言われたくない言葉である。それでも、先ほどまでの自分の行動を振り返れば、確かにその通りなのだから、余計腹正しい。
(絶対に認めねぇからな!)
自分の方が、年を重ねている分大人であることは譲れない。
「行くぞ!」
ここで随分と時間をロスしてしまった。次の会議に間に合わせるために、ずんずんと足早に大股で歩くシンタローの後ろを、キンタローはかすかな笑みを浮かべながらついていった。
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