総帥室に足を踏み入れたとき、仄かに甘い薫りがした。
花の薫りのような、薄いけれど、ふわりと漂う甘さ。
だが室内に花の姿は見当たらない。
それはある初夏の日のこと。
『Cherry』
「総帥、なんや香水でもつけてはります?」
普段そういったものを身につけてないと言うことは知っているが、とりあえず。
机に向かっている紅い服の男に問いかけてみる。
だが、彼からの返事はない。
総帥は難しい顔をしたままあさっての方向を見て、なにやらもごもごと口を動かしている。
「・・・・・・シンタローはん?」
再度の呼びかけにも答えずに。
アラシヤマは諦めたように一つため息を吐いて、持ってきた書類をシンタローの前にどさりと置いた。
そして腕組をしたまま待つこと一分ほど。
ようやく発された総帥の言葉は、
「あーーだめだっ!できねぇ」
――だった。
紙に何かを吐き出し足元のゴミ箱に放り込むと、ひどくつまらなそうな顔で机に突っ伏す。
「できないって、なにがどす」
シンタローはその問いに直接的には答えずに、ただ手元に置いていたらしいガラスの器を、どん、と机の上に乗せる。
「ああ。さくらんぼでしたん、この薫り」
「さっき、秘書が実家から送ってきたって、持ってきたんだけどよ」
ボウルほどの大きさのある厚手のガラスの器には、粒の揃った綺麗な朱色のさくらんぼが山と盛られている。
「昔、あっただろ?さくらんぼの柄を口ン中で結べるとキスがうまいって」
「はぁ、そうですの?わてはよく知りまへんけど」
「あったんだよ。で、ソレ思い出して。学生の頃はできなかったけど、今だったら、出来るようになってるかと思って」
やってみたのだが、またもや撃沈した、ということらしい。
その話を聞きながら、アラシヤマはほんの少しだけ考えるような素振りを見せ。
それからひょい、とガラスの器に手を伸ばした。
「一つ、もらいますえ」
実の部分を手でちぎって、柄だけを口に入れる。
かかったのは、ほんの五秒ほど。
べ、と出した舌の上にはきれいに中央に結び目のついたさくらんぼの柄が乗せられていて。
「早っ!」
そのあまりのスピードと正確さに、皮肉を言うのも忘れてシンタローの目が丸くなる。
「思ったより、簡単どすな」
「・・・・・・~~ッッ」
淡々としたその物言いに、それまでかなりの時間を同じ作業に費やしてきたシンタローの顔が、見て取れるほど不機嫌そうになった。
――アラシヤマのくせになんで出来んだヨお前こっそり隠れて練習とかしてたんじゃねぇのキモい。
机に片肘を突いたままブツブツとそんなことを言うシンタローの表情は、まるで子供じみていて。
アラシヤマから見るとなんともかわいらしい。
思わず、シンタローのすぐ隣まで歩み寄って、す、と身をかがめた。
「別に、キスなんて、上手くなくてもええやないどすか」
「・・・・・・フォローにも何にもなってないぞ、オマエ」
「シンタローはんは、いっつも」
ありありと不満げなシンタローの言葉はあえて無視して、その頭上、間近いところで囁く。
「たどたどしゅう応えてくれはるのが、あんまり可愛ゆうて、ドキドキしますえ」
低音でゆっくりと告げられるその言葉の内容に、シンタローの顔が怒りと羞恥で赤くなった。
だが、至近距離で睨みつけるシンタローの双眸ですら、アラシヤマは苦笑で流す。
「せやし、そう拗ねんといて。シンタローはん」
「誰が。拗ねてなんか・・・・・・」
「昔、師匠に言われましたわ。わては舌が普通よりちょっと長いから、器用なんやないかて」
それだけのことどす、と言い、指をシンタローの顎にかけ、顔を自分のほうに向けさせた。
シンタローの瞳はしっとりと、心持ちいつもより潤んでいるように見える。
「なんにせよ、わてにとっては、シンタローはんとのキスが一番、気持ちええんどすさかい・・・・・・・」
「アラシヤマ――・・・・・・」
そしてその指はシンタローの顎から頬へとゆるやかな曲線を辿って滑り――
「――なんでマーカーが、お前の舌が器用だなんて、知ってんの?」
「へ?」
シンタローの問いかけに、ぴたりと止まった。
その行動と、二十センチと離れていないアラシヤマの目から導かれる結論は、明らかすぎるほど明らかで。
シンタローは極上の笑みを浮かべ、ゆっくりと右手をかざす。
「オマエって、ほんとにいっつもツメが甘いよな。――――眼魔砲」
***
ぶすぶすと燻るアラシヤマの残骸を足元に見下ろして、シンタローはつまらなそうに息を吐き、さくらんぼの実を一つ口に入れた。
走りのさくらんぼの甘さは淡く、ほんの少しだけまだ酸味が残っている。
正直、アラシヤマとマーカーの間に、そういったことがあったのかどうかなど知ったことではない―――ただ。
師匠、と口に出すときの、らしくなく穏やかな自分の目の色に。
たとえそれが自分の思い過ごしだとしても、これだけ指摘しているのだから、コイツもそろそろ気付いてもいいはずだ。
了
===================================================
タイトルはそのまんまですが+「経験不足」(スラング)の意味で。
季節はずれのお約束テンプレートでごめんなさい。
でも楽しかったし書くの早かったヨ・・・。ベタな話が大好きです。
花の薫りのような、薄いけれど、ふわりと漂う甘さ。
だが室内に花の姿は見当たらない。
それはある初夏の日のこと。
『Cherry』
「総帥、なんや香水でもつけてはります?」
普段そういったものを身につけてないと言うことは知っているが、とりあえず。
机に向かっている紅い服の男に問いかけてみる。
だが、彼からの返事はない。
総帥は難しい顔をしたままあさっての方向を見て、なにやらもごもごと口を動かしている。
「・・・・・・シンタローはん?」
再度の呼びかけにも答えずに。
アラシヤマは諦めたように一つため息を吐いて、持ってきた書類をシンタローの前にどさりと置いた。
そして腕組をしたまま待つこと一分ほど。
ようやく発された総帥の言葉は、
「あーーだめだっ!できねぇ」
――だった。
紙に何かを吐き出し足元のゴミ箱に放り込むと、ひどくつまらなそうな顔で机に突っ伏す。
「できないって、なにがどす」
シンタローはその問いに直接的には答えずに、ただ手元に置いていたらしいガラスの器を、どん、と机の上に乗せる。
「ああ。さくらんぼでしたん、この薫り」
「さっき、秘書が実家から送ってきたって、持ってきたんだけどよ」
ボウルほどの大きさのある厚手のガラスの器には、粒の揃った綺麗な朱色のさくらんぼが山と盛られている。
「昔、あっただろ?さくらんぼの柄を口ン中で結べるとキスがうまいって」
「はぁ、そうですの?わてはよく知りまへんけど」
「あったんだよ。で、ソレ思い出して。学生の頃はできなかったけど、今だったら、出来るようになってるかと思って」
やってみたのだが、またもや撃沈した、ということらしい。
その話を聞きながら、アラシヤマはほんの少しだけ考えるような素振りを見せ。
それからひょい、とガラスの器に手を伸ばした。
「一つ、もらいますえ」
実の部分を手でちぎって、柄だけを口に入れる。
かかったのは、ほんの五秒ほど。
べ、と出した舌の上にはきれいに中央に結び目のついたさくらんぼの柄が乗せられていて。
「早っ!」
そのあまりのスピードと正確さに、皮肉を言うのも忘れてシンタローの目が丸くなる。
「思ったより、簡単どすな」
「・・・・・・~~ッッ」
淡々としたその物言いに、それまでかなりの時間を同じ作業に費やしてきたシンタローの顔が、見て取れるほど不機嫌そうになった。
――アラシヤマのくせになんで出来んだヨお前こっそり隠れて練習とかしてたんじゃねぇのキモい。
机に片肘を突いたままブツブツとそんなことを言うシンタローの表情は、まるで子供じみていて。
アラシヤマから見るとなんともかわいらしい。
思わず、シンタローのすぐ隣まで歩み寄って、す、と身をかがめた。
「別に、キスなんて、上手くなくてもええやないどすか」
「・・・・・・フォローにも何にもなってないぞ、オマエ」
「シンタローはんは、いっつも」
ありありと不満げなシンタローの言葉はあえて無視して、その頭上、間近いところで囁く。
「たどたどしゅう応えてくれはるのが、あんまり可愛ゆうて、ドキドキしますえ」
低音でゆっくりと告げられるその言葉の内容に、シンタローの顔が怒りと羞恥で赤くなった。
だが、至近距離で睨みつけるシンタローの双眸ですら、アラシヤマは苦笑で流す。
「せやし、そう拗ねんといて。シンタローはん」
「誰が。拗ねてなんか・・・・・・」
「昔、師匠に言われましたわ。わては舌が普通よりちょっと長いから、器用なんやないかて」
それだけのことどす、と言い、指をシンタローの顎にかけ、顔を自分のほうに向けさせた。
シンタローの瞳はしっとりと、心持ちいつもより潤んでいるように見える。
「なんにせよ、わてにとっては、シンタローはんとのキスが一番、気持ちええんどすさかい・・・・・・・」
「アラシヤマ――・・・・・・」
そしてその指はシンタローの顎から頬へとゆるやかな曲線を辿って滑り――
「――なんでマーカーが、お前の舌が器用だなんて、知ってんの?」
「へ?」
シンタローの問いかけに、ぴたりと止まった。
その行動と、二十センチと離れていないアラシヤマの目から導かれる結論は、明らかすぎるほど明らかで。
シンタローは極上の笑みを浮かべ、ゆっくりと右手をかざす。
「オマエって、ほんとにいっつもツメが甘いよな。――――眼魔砲」
***
ぶすぶすと燻るアラシヤマの残骸を足元に見下ろして、シンタローはつまらなそうに息を吐き、さくらんぼの実を一つ口に入れた。
走りのさくらんぼの甘さは淡く、ほんの少しだけまだ酸味が残っている。
正直、アラシヤマとマーカーの間に、そういったことがあったのかどうかなど知ったことではない―――ただ。
師匠、と口に出すときの、らしくなく穏やかな自分の目の色に。
たとえそれが自分の思い過ごしだとしても、これだけ指摘しているのだから、コイツもそろそろ気付いてもいいはずだ。
了
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タイトルはそのまんまですが+「経験不足」(スラング)の意味で。
季節はずれのお約束テンプレートでごめんなさい。
でも楽しかったし書くの早かったヨ・・・。ベタな話が大好きです。
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