雪の降り積もった道。
肌を刺す冷気。
どんよりと曇った、鉛色の空。
「オイ」
繰り返される耳に馴染む音が自分に呼び掛けるものだとはなかなか気付かず、覚醒しきらない意識の中、その心地よさにうっとりと耳を澄ます。
ふいに音が止み、寂しい、と思う間もなく、閉じた瞼越しにも天井のライトが陰ったのを認識した、刹那、額に訪れる衝撃。
生暖かいナニカと、小さなさえずりにも、似た。
「っ」
無意識下の状況判断で目を見開けば、同じく目を丸くした愛しい彼の顔が間近に存在し、咄嗟に抱きしめようと腕を持ち上げる。
笑いながらひらりとかわされて、思いは叶わなかったけれど、しかし、それよりも。
「・・・あの~~~シンタローはん・・」
「あン?」
「今、わての上で、なにしとりましたの?」
「早くシャワー浴びてこいよ。身体、冷えてんぞ」
質問には答えてくれない彼の、肩からバスタオルをかけただけ、という、なんとも扇情的な姿に寝起きながら目を奪われて。
ベッドの上で上半身を起こしたまま動けずにいると、軽くではあるが危うく蹴られそうになって、煩悩を振り払いながら風呂場に駆け込んだ。
彼の行動を証明できるものなど残っているはずはないのに、脱衣所の鏡に映る額をまじまじと見つめてみる。
直感が正しければ、ここに。
「たぶん、きっと」
額は身体の一部分でしかない。
そんなことは当然わかっているし、馬鹿みたいだが、滅多にない恩恵を授かった自分の額が恨めしい。
ため息をつきながらシャワーのコックを捻って、勢いよく注ぐ冷たい水を頭から被った。
「あ」
そう、夢を見たのだった。
起き抜けの衝撃に、とりあえず思考の隅に追いやられた珍しい現象。
久しく夢など見ていなかった気がして、どんなものだったか、と、シャワーの温度を調整しながらぼんやりした鈍い記憶を思い返そうとしても、もうその感覚さえも見い出すことは不可能だった。
「シンタローはん?」
バスタオルで適当に頭を拭きながら、寝室のドアを開ける。
しかし、塵1つなくきれいに清掃されただだっ広い総帥のプライベートルームには、ついさっきまでいたはずの総帥自身の姿が見当たらない。
訝しみながら寝室を抜けて、続きの応接室(という名の、総帥に近しい者しか入室できない談話室)に入ると、大きな窓から今まさに身を乗り出さんとしている、探していた人物の姿が、目に入って。
なにをしているのか、と首を傾げたところで、やっと、その目がこちらに向く。
「・・雪だ」
「雪?」
促されて、同じようにガラスの外の光景を見遣る。
確かに、いつの間にやらちらちらと細く、雪が空から舞い落ちている。
まだ降り始めたばかりなのか、積もってはいないけれど。
「雪、好きどすか」
「・・パプワ島でも降ったことがある」
「え?だって、あそこは南の」
言いかけて、ぼうっと雪を見つめる懐かしむような目に気付き、口を噤んだ。
懐かしい思い出など、自分にはない。
だって。
「おまえは?京都の雪景色なら、見事なもんだろ」
「・・いや、わては・・雪は」
「きらいなのか?」
きらいとは、少し違う。
怖いのだ。
幼い頃、雪は恐怖以外のなにものでもなかった。
正体不明の、天から降る白いもの。
手のひらに受け止めれば水に変わり、自分が悪いことをしているような気になった。
怖いからと言って、きらいではない。
美しいと感じ、美しいからこそ、怖いと感じるのだ。
特に、雪道を歩くのはいただけない。
真っ白に続く雪道を汚したくなくて、そうっと静かに足を踏み出す。
しかし後ろを振り返れば、くっきりと泥に塗れた足跡が残っている。
美しいものを汚してしまった恐怖、悲しみ、寂しさ。
「・・ま、そんなわけで。情けない話でっしゃろ」
再びベッドに戻り、苦笑いで話を締めくくる。
いわゆる寝物語の最中であっても、拳数個分の距離をお互いに取ってしまうのは、習慣、のようなものだ。
「進まなくちゃあかんのに、足が震えるんですわ」
「なんで、そうまでして歩こうとしたんだ?」
「え?」
「家ん中に閉じこもってりゃいいじゃねーか」
恐怖の中、それでも歩き出そうとしたのは、なぜか。
なぜ、だったろう。
ちりちりと肌を焦がす、回答を待つ視線を感じる。
焦って髪をかきあげると、真っ白いシーツに水滴が落ちて、じんわりと染み込んでいった。
そして蘇る、記憶。
正確には、思い出せなかった夢を。
夢で見た光景は、ずいぶんと昔の現実だったのだ。
「大事な人が遠くから手を振って、わてのこと呼んどりますのや。だから、怖くても、そこに行こうと・・」
ほんの少しではあるが、黙って耳を傾けていた彼の顔が、おもしろくなさそうな、と言ってもいいように歪む。
「誰か、聞きたいどすか?」
「・・別に」
「京の母どす」
「!?」
「幼い頃、と前置きしましたえ」
「あ」
「もしかして、誤解で妬いてくれはりました?」
ぱっと赤面する様に笑いを隠しきれず、そっと優しい声色で追い討ちをかける。
「さっき、わての上で、なにしとりましたの?」
やけくそ、みたいな口唇が、額に吸い付く。
嬉しくて懐かしくて愛しくて、笑ってしまいながら、ぎゅうと温かな身体を今度こそしっかり抱きしめた。
ともすれば泣いてしまいそうだった。
雪に足跡を残すように、悲しいのだと思った。
雪の降り積もった道。
肌を刺す冷気。
どんよりと曇った、鉛色の空。
笑顔で抱きとめてくれる、愛しい人。
肌を刺す冷気。
どんよりと曇った、鉛色の空。
「オイ」
繰り返される耳に馴染む音が自分に呼び掛けるものだとはなかなか気付かず、覚醒しきらない意識の中、その心地よさにうっとりと耳を澄ます。
ふいに音が止み、寂しい、と思う間もなく、閉じた瞼越しにも天井のライトが陰ったのを認識した、刹那、額に訪れる衝撃。
生暖かいナニカと、小さなさえずりにも、似た。
「っ」
無意識下の状況判断で目を見開けば、同じく目を丸くした愛しい彼の顔が間近に存在し、咄嗟に抱きしめようと腕を持ち上げる。
笑いながらひらりとかわされて、思いは叶わなかったけれど、しかし、それよりも。
「・・・あの~~~シンタローはん・・」
「あン?」
「今、わての上で、なにしとりましたの?」
「早くシャワー浴びてこいよ。身体、冷えてんぞ」
質問には答えてくれない彼の、肩からバスタオルをかけただけ、という、なんとも扇情的な姿に寝起きながら目を奪われて。
ベッドの上で上半身を起こしたまま動けずにいると、軽くではあるが危うく蹴られそうになって、煩悩を振り払いながら風呂場に駆け込んだ。
彼の行動を証明できるものなど残っているはずはないのに、脱衣所の鏡に映る額をまじまじと見つめてみる。
直感が正しければ、ここに。
「たぶん、きっと」
額は身体の一部分でしかない。
そんなことは当然わかっているし、馬鹿みたいだが、滅多にない恩恵を授かった自分の額が恨めしい。
ため息をつきながらシャワーのコックを捻って、勢いよく注ぐ冷たい水を頭から被った。
「あ」
そう、夢を見たのだった。
起き抜けの衝撃に、とりあえず思考の隅に追いやられた珍しい現象。
久しく夢など見ていなかった気がして、どんなものだったか、と、シャワーの温度を調整しながらぼんやりした鈍い記憶を思い返そうとしても、もうその感覚さえも見い出すことは不可能だった。
「シンタローはん?」
バスタオルで適当に頭を拭きながら、寝室のドアを開ける。
しかし、塵1つなくきれいに清掃されただだっ広い総帥のプライベートルームには、ついさっきまでいたはずの総帥自身の姿が見当たらない。
訝しみながら寝室を抜けて、続きの応接室(という名の、総帥に近しい者しか入室できない談話室)に入ると、大きな窓から今まさに身を乗り出さんとしている、探していた人物の姿が、目に入って。
なにをしているのか、と首を傾げたところで、やっと、その目がこちらに向く。
「・・雪だ」
「雪?」
促されて、同じようにガラスの外の光景を見遣る。
確かに、いつの間にやらちらちらと細く、雪が空から舞い落ちている。
まだ降り始めたばかりなのか、積もってはいないけれど。
「雪、好きどすか」
「・・パプワ島でも降ったことがある」
「え?だって、あそこは南の」
言いかけて、ぼうっと雪を見つめる懐かしむような目に気付き、口を噤んだ。
懐かしい思い出など、自分にはない。
だって。
「おまえは?京都の雪景色なら、見事なもんだろ」
「・・いや、わては・・雪は」
「きらいなのか?」
きらいとは、少し違う。
怖いのだ。
幼い頃、雪は恐怖以外のなにものでもなかった。
正体不明の、天から降る白いもの。
手のひらに受け止めれば水に変わり、自分が悪いことをしているような気になった。
怖いからと言って、きらいではない。
美しいと感じ、美しいからこそ、怖いと感じるのだ。
特に、雪道を歩くのはいただけない。
真っ白に続く雪道を汚したくなくて、そうっと静かに足を踏み出す。
しかし後ろを振り返れば、くっきりと泥に塗れた足跡が残っている。
美しいものを汚してしまった恐怖、悲しみ、寂しさ。
「・・ま、そんなわけで。情けない話でっしゃろ」
再びベッドに戻り、苦笑いで話を締めくくる。
いわゆる寝物語の最中であっても、拳数個分の距離をお互いに取ってしまうのは、習慣、のようなものだ。
「進まなくちゃあかんのに、足が震えるんですわ」
「なんで、そうまでして歩こうとしたんだ?」
「え?」
「家ん中に閉じこもってりゃいいじゃねーか」
恐怖の中、それでも歩き出そうとしたのは、なぜか。
なぜ、だったろう。
ちりちりと肌を焦がす、回答を待つ視線を感じる。
焦って髪をかきあげると、真っ白いシーツに水滴が落ちて、じんわりと染み込んでいった。
そして蘇る、記憶。
正確には、思い出せなかった夢を。
夢で見た光景は、ずいぶんと昔の現実だったのだ。
「大事な人が遠くから手を振って、わてのこと呼んどりますのや。だから、怖くても、そこに行こうと・・」
ほんの少しではあるが、黙って耳を傾けていた彼の顔が、おもしろくなさそうな、と言ってもいいように歪む。
「誰か、聞きたいどすか?」
「・・別に」
「京の母どす」
「!?」
「幼い頃、と前置きしましたえ」
「あ」
「もしかして、誤解で妬いてくれはりました?」
ぱっと赤面する様に笑いを隠しきれず、そっと優しい声色で追い討ちをかける。
「さっき、わての上で、なにしとりましたの?」
やけくそ、みたいな口唇が、額に吸い付く。
嬉しくて懐かしくて愛しくて、笑ってしまいながら、ぎゅうと温かな身体を今度こそしっかり抱きしめた。
ともすれば泣いてしまいそうだった。
雪に足跡を残すように、悲しいのだと思った。
雪の降り積もった道。
肌を刺す冷気。
どんよりと曇った、鉛色の空。
笑顔で抱きとめてくれる、愛しい人。
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