幼い頃。
俺と親父は、遊園地に行った。
4歳の誕生日、そのお祝いだったのだ。
あいつも俺も、やけに張り切って、その日を指折り数えて待ったのを覚えている。
ジェットコースターに乗って、回転木馬に乗って、観覧車に乗って、それからそれから。
パパと一緒に乗ろうよ、ヤだよ、もう一人で乗れるもん、いいじゃない、楽しいよ、それからそれから。
当日、華やかな花火が上がって、遊園地は貸切で、親戚その他大勢が俺を祝うために集まって、世界各国の要人までもが押し寄せて、何もかもが予想以上に豪華絢爛で、俺は嬉しくて、結局、遊具になんか何一つ乗らないまま、あいつは人殺しのために立ち去った。
時は過ぎる。
すぐに帰ってくると言った男が戻ってきたのは、とっぷりと日が暮れてから、誰も彼もが消えてから、昼間の喧騒が嘘のような静寂が、辺りを包み始めた頃。
俺付きのSPが、あの場所で総帥がお待ちですと、俺に指し示した。
それはこの遊園地を見下ろすことのできる、小高い場所。
夜の闇が立ち込める中を。
あいつは、赤いペンキが塗られた観覧車前の、赤いベンチに、座って俺を待っていた。
長い脚を組み、首を少し傾けて、遠い空の向こうを眺めていた。
俺は、すぐ側まで行ったのだけれど、そんな男の姿を目にして、つい立ち止まって、それから近くの茂みに隠れた。
がさがさと葉が揺れた。
待たせた分、俺もあいつを待たせ返してやろうとしたのだ。
葉の間から覗く、赤い観覧車、赤いベンチ、赤い総帥服。
茂みの中から長く見つめていると、その色はいつしか、てらてらとぬめって、男の住む世界を思わせる。
血の色を、思わせる。
俺から隠したつもりになっている、あいつの世界。
今、俺の視界の中で、戦場から戻ってきたばかりなのに、何でもない顔をしたあいつ。
その内、びゅうと冷たい夜の風が吹いて。
それでも、あいつは、身動き一つしないのだった。
風が男の金髪を揺らして、頬を打ったけれども、それは風のゆらめきであって息遣いであって、彼自身は決して、息なんかしていないように、生きてなんかいないかのように俺には見えたのだった。
その横顔に落ちる光の陰影は、男の顔の彫りにあわせて鋭利で、深くて。
まるで俺の知らない顔を、あいつがしているように、見せたのだ。
俺は、長い間茂みの中でじっとしていた。
男の顔を、見つめていた。背筋に冷たいものを、感じていた。
所詮は子供の感覚だから、実際の時間は解らないけれど、とにかく、長い、長い、間。
そして風が両手の指なんかでは数え切れないぐらいに、男を打ちすえてから。
不意に俺は電流にうたれたように立ち上がって。
茂みから出て、男に近付いたのだ。
白い顔が振り向いて、見下ろして、『ああ、シンちゃん』とだけ言って、初めて表情を崩して、微笑んだ。
もういつもの顔だった。
親父は、俺が隠れていたことなんて、とっくの昔に気付いていたのだろうと思う。
俺に触れた男の手は、いつにも増してぞっとする程に冷たかった。
抱き上げられて、ひやりと俺の額に触れた金髪も、冷たかった。
ああ、この男の身体を冷たくしたのは、俺なのだなと。
その時、俺は、悟ったのだ。
――夜の遊園地――
「ひどい! ずっと前から約束してたのにっ! ひどいよシンちゃん!」
「仕方ねーだろうが! 仕事入っちまったんだよ!」
「仕方なくない! どうして! 私の誕生日、一緒に遊園地に行ってくれるって、言ったのに――――ッ!」
「ああ――――ッ! もう! じゃあ日程ずらせばいーだろ!」
「駄目だよ! 今日じゃなきゃ! 私の誕生日じゃなくっちゃ、ダメ!」
俺は耳を塞ぎ、口をひん曲げ、仏頂面。
出勤前のこの忙しい時間。
姿見の前で、自分の赤い軍服の襟元を、せっせと直しているその背後で。
「シンちゃんってば!!!」
延々と俺に訴えかけてくる男。マジック。
俺の前に後ろに、左に右に。構って攻撃の、なんて激しさ。
ある意味いつもの光景なのだが、今日は特に酷い。しつこい。粘りやがるなと。
俺は、がっくりと首を垂れて、溜息をつく。
「ひどいよっ! パパ、楽しみにしてたのにっっ!!! そうだ、今日こそハッキリさせてもらいます!」
ばん、とマジックが、朝の食卓の並ぶテーブルを、勢いよく叩く音が聞こえた。
渋々振り向いた俺に、ずずいと迫る真顔。
「シンちゃんは、パパと仕事、どっちが大切なの!?」
「ぬお~~~ッ…アンタがそれを言うか!」
ワナワナ震える、俺の腕。これから出勤。耐えろ、俺。
「ねえ、どっち! 答えて! 答えて、シンちゃん!」
「仕事」
どかーん。
ヤツの両眼が光って、壁に大穴が開いた。
「ああもう、うっせえええええ――――ッッッ!!!」
我慢できん!
どかーんずがーんぼかーん!
お約束で、数発、俺も眼魔砲をお見舞いしてから。
とっくの昔に仕事に向かった、グンマとキンタローの後を追いかけようと、俺は玄関へと向かう。
「シンちゃん! 待ってよ、シンちゃん!」
しかし追ってくる。
煩いワガママ男が追ってくる。
俺はスタスタ早足で長い廊下を歩きながら、振り向かずに怒鳴りつける。
「うるせえなあ! 誕生日くらい、夕メシの時にケーキ買ってロウソク立てて吹き消して、そんでいいじゃねーかよッ! いい大人がダダこねてんじゃねえ――――ッ!!!」
「だって! だって! シンちゃん、だって~~~~~~!!!」
俺が総帥一年目の冬。
あの南国の出来事から迎える、初めての冬。
12月12日。マジックの誕生日の、朝の会話。
俺は、この男と遊園地に行くという約束を反故にしたことを、ひたすら責められている。
なんとか空けた(空けさせられた)今日の午後。
そこに、今朝早く、新規の仕事が入ってしまったのだ。
ちなみに行く予定であった遊園地は、俺の4歳の誕生日を祝ったあの場所。すべてが、マジック・セレクション。
「シンちゃん! ひどいよ、シンちゃんってば! こっち向いてよ!」
イライラしながら、俺は頑張って足を速める。
「たまには断ればいいでしょ、最近は依頼された仕事は全部引き受けてるみたいだし! それかその予定を相手にずらして貰えばいい!」
「ダメに決まってんだろうがああ!」
なんせ俺は、新任一年目。この正義のお仕置き稼業はなかなかに厳しく、仕事を断っていては、後に響くのは明白だった。
しかも、相手は大口契約、超VIP。できることなら確保しておきたい客だから、逃すことはできない。
「じゃあいいよ! その相手の所にパパが行って、交渉してきてあげるから! サクっと黙らせてくるよ!」
「だああ――――ッ! 威力業務妨害! ンなコトしやがったら、もう口きいてやんねーからなああああ!!!」
「それはやめて。シンちゃんが口きいてくれなかったら、パパは寂しくって死んじゃうよ! シンちゃんはパパが死んでもいいの? ねえ、死んでもいいのってば!!!」
俺は地団太を踏む。
あああ! このバカ! アンタいくつだ! 小学生かよッ!!!
「なんでそんなにアンタはガキっぽいんだァ――――! アンタが我慢すれば全部丸く収まるんだよ、このワガママ親父ッ!!! くっそ、俺ぁ、仕事行くぞ!!!」
俺は玄関ホールの扉に向かって、駆け出した。
スーパーダッシュ。
俺に憧れる団員たちは、俺様のこの鍛え上げられたナイスバディが、日々のマジックとの抗争から生み出されていることを知らない。
ヒーローの陰の努力、陰の事情は、表に出せないものであることが多い。
「シンちゃん! パパがどうなっても、知らないから!」
「あーあー、うっさい、勝手にしやがれ!」
最後は喧嘩別れの形で、その朝、俺は家を出た。
腹が立つ。
その日の俺は、執務中にペンを3本折って駄目にし、団員訓示で『前総帥の跡を継ぎ』と言うべき所を『前総帥のアホ過ぎ』と言ってしまい、書類のサインがやたら右上がりになってしまった。
全部あいつのせいだ。
俺は、思い出す度、ギリギリと唇を噛み締める。
なんであいつは、ああなのだろう。
他に対しては基本的に正常だと言えなくもないが、俺に対しては異常極まりない。
どこのガキだ。俺はあいつの親か。保護者か。
あんな手のかかる巨大な子供が、生まれた時からオプションってどうよ!
俺って可哀想。めっちゃ可哀想! なんて運命、どんな運命。
ひとしきり自分を慰めた後。
溜息をついて俺は、こうも思った。
それにな。
…あんな変なダダのこね方をしなければ、もっと普通に…例えば他の日に埋め合わせをするとか…そんな約束だって、取り付けたり…してやらないことも、なかったのに。
こっちだって、少しは悪いと思ってるんだから…な。
いつもあいつのやることは、逆効果なのだと思う。
俺が怒るのも、優しくなれないのも、全部あいつのせいなのだと。
俺はそこまで考えてから、くにゃりと自分の手の内で姿を変えた、ガンマ団総帥印の印鑑を、切ない目で眺める。
また、罪のない文房具を成仏させてしまった。
経費節減の苦労が、水の泡。
それもこれも全部、あいつのせい。
午後からの俺は、くだんの臨時出張。
飛び立つ飛空艦。待ってろ、依頼者。
正義の味方にゃ休みはない。カッコ良さの背後に潜む、世知辛さ。わかっちゃいるが、やめられねえ。
東にヤンキーがガンをつけてくれば、行って退治してやり。
西にヤクザがいれば、眼魔砲でお仕置きしてやり。
遠い南に最強ちみっこや犬がいれば、食事を作ってやったことを、そっと思い出したり。
北にコタロー似の美少年がいれば、無償で力になってやって住所を聞いたり。
そんな正義のヒーローに、俺はなりたい。
これが新生ガンマ団総帥である俺の生き方。
悪いヤツにゃあ、眼魔砲をお見舞いするぜ。
安心しやがれ、命は取らねえ。見逃してやるから、せいぜい更生するんだナ。
今日もこんな調子で、悪者のお仕置きに精を出し、俺はくるりと踵を返して、帰途につく。
艦橋で、黒い革コートを、翻す。
そんな俺が、緊急発信を受け取ったのは、コートを翻して三歩進んだ頃。
任務達成の充実感に浸っていた瞬間のことだった。
キンタローがいつも通りに眉間にシワを寄せて、差し出してきた書面。
『ガンマダン ソウスイドノ オマエノ チチオヤハ アズカッタ』
「何ィッ!」
その文字が目に入った時、俺は一瞬呆然として、それから身を乗り出したのだけれど。
後に続く文章を見て、どっと脱力して、イヤになった。
『…ランドニ コラレタシ カイトウ マジカルマジック<ハアト>』
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そして俺は、結局。
あの遊園地、その正門前に、突っ立っている。
夜遅く、とっくに閉まっている時間であるのに、門は開いている。人気はない。
冬の風が吹いて、はたはたと色とりどりの布を靡かせて、夜に極彩色のイルミネーションをきらめかせていた。
ファンシーな装飾とヤンキーなざっくばらんさが、絶妙にミックスしたこの空間。
俺は、懐から携帯を取り出し、短縮ボタンを押して。
呼び出し音を鳴らし、舌打ちをして、それをもう一度懐に押し込んだ。
何度マジックに連絡しても、出ないのだ。
家に電話しても、グンマが『おとーさま、出て行ったきり、帰ってこないんだよぉ~』と言うばかりだ。
ええい、ちくしょう。めんどくせえ。
俺が遊園地まで迎えに行かないと、帰らないつもりかよ。
あいつは意固地な所があるから、一度言い出したら、三日経っても四日経っても帰ってこないに決まってるんだ。
そして、俺が無視し続けたままだと、世界中のメディアを使って、大々的に誘拐劇を仕立てあげるに決まってるんだ。
俺は、押し寄せるマスコミを思い、嫌な映像が世界中のスクリーンに垂れ流される光景を思った。
家庭内喧嘩を世界的事件にまでエスカレートさせるのは、ごめんこうむる。
でも、あいつなら平気でやりかねない。
恥ずかしい男。
だから、こんな時は経験則上、こっちが初期段階で折れておかなければならないのだ。
ああ、俺って、
最悪。どうして俺はこんな男に、取り憑かれているんだ。
一体どうして。
このまま、帰っちまおうか。
だが、帰っても家で悶々として、腹を立てるばかりなのは解りきっていたから。
結局、どんな手段をとっても最後には俺は、あいつを迎えに行くことになる状況な訳で。
イヤな園児め!
自問自答しながら、俺は遊園地の門を、しぶしぶ通り抜ける。
門の内には、微かに、音楽が流れていた。
「…」
俺は、その耳に触れる旋律を、どこか懐かしいと感じた。
そういえば。
この場所に来るのは、20年と…あの南国の地で一回り季節が巡って、あと幾許か振り、だった。
でも、こんなにこの門は小さかっただろうか。柵はこんなに低くて、塔はこんなに素朴な建物で、煉瓦は煤けていただろうか。
踏み出すアスファルト。あの時は、駆けると優しい足音がしたはずだったのに。今は、冷たい軍靴の音。
歳月を経たこと以上に、4歳の頃に眺めた景色は変貌を遂げていて、俺は、それは自分が変わってしまったということだろうかと、瞬きをして思う。
大人の世界と子供の記憶の、隔絶感が、押し寄せてくる。
夜の遊園地は、まるで異世界に迷い込んだように、すべてが青褪めて、ほの白く、余所余所しさに覆われていた。
ひどく静まり返っている。だが時折、風で揺らめく幟が乾いた音をたてる。そして無機質な自分の足音。
遊具は自動機械化されているのだろうか、係員すらも整備員すらも、人っ子一人、見当たらないのだった。
空はちょうど新月の頃で、満天の星だけが呼吸をするように光芒を放つ。
そして地上の輝き。
きらめく遊具は、自分たちだけのために動きを止めない。
回転木馬は輝きを振り撒いて回り、小型列車は光のトンネルを潜り抜けて闇をうねる。
フライングカーペットは舞い上がり、降下し、ただ主人に命ぜられたことを淡々とこなしているように見えた。
真鍮の柱が、じっと静けさをたたえている。
ここは、昼間の子供にとっては、夢の世界であるのだ。
だが、夜は?
夜の遊園地は、俺にとっては、夢の果ての寂しい世界を想わせた。
夢が行き着いた先の、その先の宛てのない世界。
「…あいつ、どこに、いるんだろ…」
ふと、冬の寒さを感じて。
俺は身を震わせてコートの襟を寄せながら、小さく呟いた。
声は、ぽつんと唇から飛び出て、側の看板に弾けて地に落ちて、すぐに消えた。
その瞬間だった。
俺に向かって、輝く物体が襲い掛ってきたのは。
「…ッ!」
不意をつかれて俺は、背後に飛び退ってその物体を避ける。
姿勢を低くし身構えた所に、ブーメランのような楕円軌道に乗って、再びそれが突進してくる。
今度は前方に倒れ込んで、俺は一回転すると。
反撃体勢をとってから。
「…」
それから、静かに立ち上がった。
その俺の身体を。
すうっと物体は、すり抜けていった。
輝きの残像は、揺らめきを残して、アーチの向こうに消えた。
俺はその正体を悟る。
イリュージョン。
よくよく辺りを見回せば、ペガサス、シードラゴン、フェニックス…といったおとぎ話の中の生き物が、七色の輪郭に彩られて、闇の中を駆け回っているのだった。
幻想の輝き。
人工的に作られた、夢の世界。
幼い頃の俺だったら、きっと手を打って喜んだだろうに。
戦闘態勢なんか取っちまって、俺は何をピリピリしてるんだ。
幼い頃は…俺は戦いなんか、知らずに。
…ただ…去っていくあの男の背中から、抱きしめられた時の上着から。
その匂いだけを敏感に嗅ぎ取っていた…
もう、俺は夢の世界には戻ることは叶わないのだろうか。
俺は、夜空を見上げて、ほうと溜息をつくと。
また歩き出した。
――幼い頃は…?
もう、向かう場所は解っていた。
遊園地の最奥、なだらかな丘陵に沿った長い坂を上った先に、それはある。
大きな観覧車の前で、男は俺を待っていた。
暗がりに、遠目に、その姿が見えて。
その時の俺の側には、あの時と同じ姿をした、茂みがあった。
幼い頃、俺がずっと隠れていた、あの葉の繁り。
遠い距離の記憶。
そして今。同じ夜の中で。
俺は、あの時と同じ場所から、男を見つめていたのだ。
立ち尽くす。どうしてか、背筋を染みとおる何かが通り抜けて、俺の力を奪う。
俺の視界の中で、いつだって、何でもない顔をしたあいつ。
どんな瞬間にも、俺からすべてを隠したつもりになっている、あいつ。
その内、びゅうと冷たい夜の風が吹いて。
それでも、あいつは、身動き一つしないのだった。
風が男の髪を揺らして、頬を打ったけれども、それは風のゆらめきであって息遣いであって、彼自身は決して、息なんかしていないように、生きてなんかいないかのように見えるのだった。
きっと、俺があの時と同じように側に駆け寄るまで。
男は、このままずっと身動きしないのだ。
「…ッ…!」
そう感じた瞬間、身体中に力が蘇って、俺は。
かすかに躊躇したものの、そんな自分を振り切るように、長い道を駆け出した。
俺の、一族とは違う黒い髪が、なびいた。
走る度に、俺とあいつの距離が、狭まっていくのを感じた。
自分の息遣いが、煩い。
もう、隠れたりなんか、しない。
男の顔に落ちる光の陰影は、あの時と同じで、その顔の彫りにあわせて鋭利で、深くて。
だけど今の俺は、もうその顔を知っている。
その、酷薄な表情を知っている。
隠されていた罪悪の顔を、知っている――
昔、俺は、冷たい風に一人吹かれているマジックを、見ているだけだった。
風に打たれて冷えていく彼の姿を、見つめること。それだけしかできなかった。
でも今の俺は、同じ風に吹かれたいと。
そこから助け出すことはできなくても、せめて冷たさに共に打ちすえられていたいと。
どうしようもなく思っているのだ。
「ここで待っていれば、来てくれると思っていたよ」
全速力で走って、はあはあと息を切らしている俺に、マジックは何でもない顔をして言う。
俺は、キッと男を睨みつけた。
それでも、相手はこう言うのだ。
「お前は、絶対来てくれるってわかっていたから」
「…チッ」
何を、いけしゃあしゃあと。
とりあえず俺は、まず怒らなければと思い立ち、懐から通信文を取り出して側のベンチに放り出す。
「アンタ! これ、どーいうつもりだよッ!」
しかし依然飄々として、あっさりと返ってくる答え。
「ああ、それ。いやあ、危なかったよ! パパ、一回さらわれたんだけれど、縄を切って逃げてきちゃった」
「うっそつけ――――ッ!!!」
「嘘じゃないんだな、これが。ほら、ここに縛られた痕が」
「あああ? どっ、どこにだよ!」
「ほら、ここ。腕の…」
「見えねえよ」
「ここ。ここだって」
マジックが袖口をずらして、手首を見せようとするから。
つい、俺は、どれどれと身を乗り出したら。
「つかまえた!」
「!!!」
覗き込んだ顔を捉えられて、首に腕を回されて、ぎゅっと抱きつかれてしまった。
ベンチに座ったままの男に、たよりなく引き寄せられてしまう。
ばふっと俺の顔は、マジックの胸に押し付けられてしまう。
俺は叫んだ。
「騙しやがったなあああ!!!」
「はは、まさに愛の手管だねえ、今のは。ああー、パパ、シンちゃんとギュッ!ってできて、幸せ~」
「くっ…俺はシアワセじゃね――ッ! 離しやがれぇぇ!!!」
「暴れない、暴れない。どうどう」
俺を抱きしめ慣れている相手は、すでに反撃のかわし方も心得たもので、この腕からは逃げることはできないのだと俺はわかっている。
わかっているけど、身をよじる。これは習性。
相手もわかっているけど、逃げられたら大変だという素振りをする。これも習性。
習性で、俺とあいつの関係は、成り立っているようなものだ。
「助けに来てくれて、ありがとう」
そうウインクしてくる男に、俺は舌を出して答えた。
…マジックの、香りがする。
お決まりの諍いがあった後に。
今夜のマジックは俺を図々しく抱きしめたまま、でもちょっと違って、こんな言葉を囁いてきた。
「…観覧車に、一緒に乗ってくれたら。離してあげる」
そして大きな円形のそれを、感慨深く見上げている。
ゆっくりゆっくりと、空を巡る、赤い観覧車。
「あああ?」
俺は、そう乱暴に返事をしたものの、先刻一人待つマジックの姿を見た瞬間から、この男は観覧車に乗りたいのだろうと気付いていたから、それ以上は続けずに、そのまま身を固くしていた。
抱きこまれている耳元に、低音が響く。
「観覧車。お前と一緒に、乗りたいなあ」
「…」
俺は、再びあの日を思い出している。
戦場から帰ってきたこの男を、観覧車の前でひどく待たせた日。
幼い俺は、こんな風に同じように、この場所で抱きしめられて、そのまま寝入ってしまったのだ。
だから、あの日。
俺たちは観覧車にさえ乗らなかった。
この男と俺の遊園地は、楽しい事前計画の記憶と、場所の記憶だけで終わった。
俺を抱きしめている男も、あの日を、俺と同じ過去を思い出しているのだろうか。
だったらいいと、俺は感じた。
その瞬間、俺と男とは、確かに同じ何かを共有していた。
抵抗をやめて。
そっと睫毛を上げて、俺はマジックを見上げた。
青い瞳が俺を見下ろして、その薄い唇の端が、わずかに上がって、俺たちは至近距離で見詰め合って、そのまま無言の会話を交わしていた。
喧嘩する時は、あんなに言葉を交錯させあって、それでも解り合うことはできないというのに。
こんな時は、いつも静かに目配せするだけで、一瞬だ。
一瞬で、決まる。
そして、俺たちは観覧車に乗ることにしたのだ。
自動錠の音がし、扉は閉まって一つの箱となり、俺たちは閉ざされた空間で息をする。
中の一枚板の座席に、並んで腰掛ける。
かたかたと獣が凍えて歯を鳴らすように、観覧車は夜に回り始める。
暗闇に、頼りない小さな箱が、回転していくその不確かさ。
大地は遠くなり、無人の遊具たちが眼下に小さくなっていく。
嵌め込まれた窓ガラスが、俺の息で、白く曇った。
夜は、暗い。
目を凝らすとずっと先の方で、遠い山の稜線がおぼろげに浮かんでいるのが見えた。
闇の海の中に、黄金色に輝く街の灯火、港の明かり、光を連ねる高速道路。
イルミネーションが一際美しいのは。そうだ、クリスマスが近いから。
俺はそう思いついて、目を細めた。
コタローの誕生日が、近いから。
「…あんまり側に寄るな」
「仕方ないでしょ、狭いんだから」
「いや、絶対アンタの方、もっと隙間がある! ずれろよ! くっついてくんなって!」
「もう、この子は細かいことに拘るなあ。いいでしょ、だいたい、だいたいで。ぴとvvv」
「うお――ッ! アンタの『だいたい』は、ぴったり密着状態かぁっ! ああもう!」
「誰も見てない、見てない。私たちだけだよ。ねえ、だから」
ああ、もう、もう。
そういう問題じゃ、ないっての。
それもこれも習性。
そして…俺の胸に沸き起こるこの感情も、習性。
俺はマジックといるのは、苦手なのだ。
肌がざわめく。平静ではいられなくなる。
いつも、悲しくなる。
切なくなる。
自分の一番醜い部分が、暴かれていくような気持ちになる。
特に、こんな、しんとした空間では。
必死に築き上げている自分が、崩されていく。
そのことが…悔しくてならないのだ。
そんな俺の気持ちなんて知りもせず、マジックは暢気に、俺に言う。
「あれ。シンちゃんったら。黙っちゃった」
「…黙って、悪いかよ」
図々しい男は、俺の肩に、こつんとその金髪を乗せてきた。
寄りかかってくる。
「重い! アンタ、重いんだよっ!」
嬉しそうな白い顔が、至近距離から俺を見つめてくる。
「でもパパ、シンちゃんとこうすると、凄く落ち着くんだ」
「く…っ! い、今だけだからな! 調子に乗んな!」
俺は、ぷいとソッポを向く。
…だけど、認めたくないのに。
苦手なのに――同時に、この男の側では。
側で目蓋を閉じれば、俺は。
ひどく、安心してしまうのだ…
今度は、少し間があって。
「シンちゃんったら。目、つむっちゃった」
そんな声が聞こえたから。
「つむって、悪いかよ!」
そう叫んで、ギッと目を開けたら、ここぞとばかりに『ん~』とキス寸前の相手の顔があって、俺は思わず飛びのく。
暴れる俺、ぎゅうぎゅう近付いてくるマジック、押し返す俺、少し笑っているマジック。
「もーう、シンちゃんったら、きかん坊だなあ! あんまりつれないと、この観覧車、天辺までいったら止めちゃうよ! 24時間密室ラブラブ事件の始まりだね!」
「もっと有益なことに使えよ、そのフザけた超能力っ!」
「さあ、ラブの犯人は誰かな! パパかな? それともシンちゃん?」
「あーうっさいうっさいうっさい! これ乗ったら帰るぞ! いいか、俺ぁ、帰るからなッ!!!」
狭い箱がきしんで揺れて、はめ込まれた窓ガラスが少し曇って、また何事もなかったかのように観覧車は回る。
夜の風を張らんで、ゆっくり、ゆっくりと立ち昇っていく。
やがて静かになった二人は、その振動を感じている。
再び抱き寄せられて、俺は仏頂面で、そのまま黙っていた。
腰に手を回されたから、お返しに俺は肘でその手に、ぐいぐい圧力をかける。
でも相手は、堪えない。
俺はその顔を見ながら、思った。
――共犯じゃねえのか。
そのままずっと、そうしていた。
不意に、小さな声が聞こえた。
「…さっきは、ごめんね。お前は忙しいのに、無理を言って」
珍しいと、俺は驚く。
マジックが、自分の我侭を反省するなんて。そしてそれを俺に言うなんて。
「ケッ! なーにを今更…明日は季節外れの台風でも来ねえだろーな」
「でも今日は、この場所に…お前と、来たかった」
マジックがこんな話をするのは、初めてだった。
「ずっと昔のこと、お前が生まれる前のことだよ。私が幼い頃…よく家族で、この遊園地に来たんだ。忙しい父と来たのは一度きりだったけど、それからすっかり気に入ったハーレムやサービスが、何かにつけて行きたがってね。だから幼い私たちは、兄弟の誕生日毎に、遊園地に来ていた」
マジックの父親――つまり俺の祖父にあたる人――が亡くなったのは、彼がごく幼い頃だという事実は、勿論知っていた。
そしてその幼いまま、おそらく男は総帥となった。
俺が今、ずっと年長の俺が今、苦しみ悩んでいる責務を、幼い身で男はこなしていた。
「…年の初めに、双子の誕生日、年の半ばに、ルーザーの誕生日、年の終わりに、私の誕生日…」
歌うように、男は呟いた。
「その儀式も、父が亡くなって、あっさりと終わった。それから長い年月が経って…今度は幼いお前の誕生日に、この場所に来たんだったね」
「…ああ」
「あの時、あんなにお前も私も楽しみにしていたのに。何も乗ることができずに、それっきりになってしまっていた。それが、ずっと…気になっていたよ」
俺も、とは言えなかった。
「だから、一つの区切りがついた今…昔来た、誕生日の日にね。お前と一緒に、この場所に来たかったのさ」
男の話を聞いて、何でもない顔をしながら、俺は。
心の奥で、衝撃を受けている自分を、感じていた。
マジックにとって、この遊園地は、俺の関係ない思い出の住む、特別な場所であったのだ。
マジックの愛する父親、幼い頃の兄弟たち、その他たくさんの、俺の手の届かない過去たちの住む場所。
自分と遊園地に行った時も、この男は別のことを考え、別のものを見ていたのだろうと思うと、俺は悔しくなる。
側にいる人には俺がどうやっても追いつけない過去があって、絶対に同じものを見ることができない。
そして今も。
さっきは、確かに俺たちは、同じ想いを共有していると感じていたのに。
また、遠くなる――
「ねえ、シンちゃん」
俺の想いを他所に、声は囁き続ける。
「お願い、パパを甘えさせてよ」
俺は、ちらりと相手の顔を見た。
その青い瞳は、うっとりしたまなざしで、俺を見つめてくるのだった。
熱い色。
この熱は、俺だけに向けられているのだろうか。
「…私のこと…好きになってよ」
「…」
「いつも、ごめんね。でも…私はお前に子供扱いされたいんだと、思う。『バカヤロー!』って、怒られたい。誰も私を怒ってくれる人なんて、ずっと…ずっと、長い間、いなかったよ。お前に出会うまで」
「…バカ」
「そう。そうやって、怒られないと…私は、また道を間違えてしまうのだと思う…」
「脅迫かよ」
「ああ、その通りかもしれないね。脅迫だって何だってして、私はお前に怒られたい」
男は息を止めた。
それから微かに息を吐いて、俺の首筋に、その息がかかった。
俺の肌は緊張して、次の相手の言葉を待つ。
その言葉は、闇に溶け込んでいくような甘い響きを含んでいるのだった。
「私はお前に、側にいて欲しい」
答えない俺に、男は言葉を続けた。
かたかたと揺れる観覧車の音に、沈んでいくようなその声。
幼い頃、いつも眠る前に耳元で囁かれていた、その声。
――こんな話があるよ。
不思議な回転木馬の話さ。
回転木馬が一周する度に、木馬に乗った少年は年を取っていくのさ。
逆に回転すれば、一つ若返る。そんな、夢の世界の話を、お前は知っている…?
「観覧車でも、同じことが起きたら、素敵だと思わないかい」
俺は、男を見つめた。
「観覧車が一つ回る度に、私は一つ若返って、お前に近付いていくとしたら」
…回り巡って、私は子供になりたい。
幼い子供に戻って、お前に抱きしめて貰いたい。
幼い頃から、私はずっとお前に会いたかった。
寂しい時、こんな風に側にいてほしかった。
だから、今。
私を抱きしめて。
そうしたら…後で、私もお前を抱きしめ返してあげるから。
お前といるとね。お前は私を子供っぽいと言うけれども。
私はいつも、やり直しているのだと思う。
失われた、子供時代を。
「大丈夫」
何故か。
そんな言葉が、俺の口から、飛び出していた。
夜を巡る観覧車。
この観覧車が一つ回れば。
俺はこの男へと一つ近付くことができるとしたら。
…回り巡って、俺は。アンタの場所へと、近付きたい…
「アンタはきっと幸せになる」
アンタが、幸せになったら。
そうしたら…
「…そうしたら…きっと俺も、幸せになる…」
いつの間にか、外には粉雪が待っていた。
空高く白い花弁は舞って、12月の夜を華やかに描く。
白と黒と輝きの世界。
俺の夢の世界は、今、ここにある。
夢の世界は、失われてはいない。
ひとつひとつ、やり直して、新しく作り上げていくものなのだろうと、思う。
「…きっとクリスマスは、ホワイトクリスマスだね」
窓の外を、眺めていたら。
マジックがそう言うから。
俺は、黙って次の相手の言葉を待った。
そんな俺を見つめて、男は、微笑んで言った。
「コタローの誕生日には。きっと美しい銀世界が広がっているね。世界は、あの子が目覚めるのを待っている。私も、お前も、そして家族も…あの子を待っているんだ」
俺は、初めて自分から、相手に身を寄せた。
金髪の頭に手をあてて、強く引き寄せる。
胸元に、男を抱きしめた。
そして囁き返す。
「…アンタ、もう…何かを奪う生活なんて、やめろよ」
相手は、俺の胸の鼓動を聞いているのだと思う。
この男の、あの血を思わせる赤い軍服は、今は俺が身に着けている。
この男の代わりに、身に着けている。
アンタから、引き受けた…業の象徴。
「何かを奪う生活より…何かを生み出す生活、しろよ」
破壊から、再生をめざすために。
夜の狭間から、俺の腕の中から、声がした。
「シンタロー。『何か』なんて曖昧に言わないで」
俺は息をつく。
観覧車が回る。
「愛でしょ。私は愛を生み出す人になりたい」
――私はいつも、やり直しているよ。
また、声が聞こえた。
――すべてを、ね。
いつもいつも、私たちは喧嘩しては、やり直しだね。
繰り返している。
そしてそのことが、私には嬉しい。
「私は、お前の手で、生まれ変わりたい」
――本当は観覧車になんか、乗らなくったって。
――お前といれば、私は。
ねえ、シンタロー。
私と一緒に、いてくれる?
そうすれば、それが新しい私の誕生日になる。
静かな問いかけと共に、男の手がそっと近付いてきて、俺の頬に優しく触れた。
俺は目を閉じたのだけれど、同時に自分の肌が、びくりと驚きに震えたのを感じていた。
俺の腕と腰とに挟まれていたせいか、マジックの手は、ひどく熱かった。
あの時、冷たくなっていた、その過去の手が。
ああ、この男の身体を熱くしたのは、俺なのだなと。
その時、俺は、再び悟ったのだ。
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