深夜。そろそろ寝ようかと思うような時間帯に、いつもシンちゃんはやってくる。
今日も、シャワーを浴びて日記をつけて、ひとつ伸びをしたところでノックの音が聞こえて、慌ててドアを開けた。
綺麗にプレスされた軍服で、コートを羽織ったシンちゃんが廊下に立っていた。茶色のチェックにクマ模様の入ったお気に入りのパジャマに、ガウンを引っかけただけの僕の格好を、普段は散々馬鹿にするのに、今日は何も言わない。
「入る?」
聞いたら、黙って首を横に振った。今から仕事に行くのだ、と直感した。出かける前のシンちゃんは、無口だ。
「何?」
「本、返しに来た」
「ああ…」
一年くらい前、シンちゃんに貸した本だ。
古い童話集。お父様――当時はまだ伯父様だと思っていた――が、4歳のクリスマスにシンちゃんと僕に、それぞれ一冊ずつ贈ってくださったものだ。初めて貰った本は、幼児が読めるような内容のものではなく、整然と並んだアルファベットの意味が分かるようになったのは、それからずっと後のことだったけれど、それでも嬉しくて、しばらくどこへ行くにも手放さなかった覚えがある。
だから、と言うわけではないけれど、部屋の本棚が電子工学の専門書で埋まるようになってからも、この本だけはずっと手元に置いてあった。それを、部屋に遊びに来たシンちゃんが見つけて、あんまり懐かしそうにしてるものだから、貸してあげたのだ。
あれから一年間で、この本は5度、シンちゃんと僕の間を行ったり来たりしている。これで、6度目。
「読み終わるまで、返さなくていいんだよ?」
同じことを言うのは、もう何度目だろう。これまでと同じように、シンちゃんは黙ってそれを断って、本はまた、僕の手に押しつけられた。お父様好みの重厚な革張りの本は、ずしりと重い。
「帰ったらまた借りるから。栞、動かすんじゃねーぞ」
この言葉も、何度目だろう。頷いて肯定の返事を返すと、シンちゃんは安心したように笑って、それから口元を引き結んだ。従兄弟のシンちゃん、が一瞬で有能な指揮官に変わる。
数秒間の沈黙の後で、シンちゃんは踵を返した。「行ってらっしゃい」も「気をつけてね」も、かけるにはふさわしくない言葉のように思えて、本を抱えたまま、僕は遠ざかるシンちゃんの背を見つめることしかできなかった。
部屋へ戻ると、飲みさしのホットミルクはすっかり熱を失っていた。ソファに座り、冷たくなったミルクを一口すすって、改めて本を眺めた。
子供の頃にやたらと持ち歩いたせいか、深い焦げ茶だった表紙の革はところどころ色褪せて、金で箔押しされたタイトルも掠れている。表紙を開けるとメリークリスマス、とお父様の署名。本文の縁は黄ばんでいるけど、ところどころに入れられた挿絵は、鮮やかなままだ。
森の中のお菓子の家やカボチャの馬車、美しい海を泳ぐ人魚、雲の上の巨人の家。小さな子供だった自分には何もかもが魅力的で、ひとりで文字が読めるようになるまでは、よく挿絵を眺めて高松の仕事が終わるのを待っていた。あんまり物語の世界に入れ込みすぎて、お菓子の家を探してシンちゃんとふたり、士官学校の演習場に迷い込み、お父様を慌てさせたのもその頃だったはずだ。
けれど今になってみれば、どれもありきたりなおとぎ話。英文と言うことを差し引いても、大人が何ヶ月もかけて読む本ではない。なにかシンちゃんが気に入るような話があっただろうか?
表紙と同じ深い茶色の栞紐が挟まったページをめくると、南国の風景の隙間から、数枚の紙が、空中に滑り出して、床に舞い落ちた。
「うわ、…って――え?」
印字面を晒して落ちた紙に既視感を感じて、僕は慌てて紙を拾い上げた。この書式には見覚えがある。報告書だ。それも、研究員が実験や調査内容を報告するときに使うもの。今日はずっと研究室で、これと同じものとにらめっこしていたのだから、間違うはずがない。
署名の主は知っている。直接の部下じゃないから顔と名前は一致しないけど。
シンちゃんに渡る調査報告書は全て、一度僕のところに来てから総帥室に回されるけど、これは見たことがない。内容も、書式がいくらか変更されたり省略されている。
「非公式の調査?」
うっかり本に挟んだのを忘れたまま、僕のところに持ってきてしまったんだろうか。悪いとは思いつつも目を通せば、報告書の日付はシンちゃんの総帥就任直後から始まっていて、その後きっかり半年ごとに調査が繰り返されている。
調査範囲は地球上の全ての海域。捜索対象は、半径数キロ以内の小島。海域ごとに調査が書かれてあり、最後の7枚目には南氷洋の調査結果とともに、総合所見として捜索対象が地球上に存在する可能性は限りなくゼロに近く、対象の発見は不可能、と書き添えられていた。
「この島…」
捜索の対象は、パプワ島だ。提示された条件は、あの島の特徴とよく似ている。総帥に就任して、仕事に忙殺されて、島のことなんか忘れたように振る舞っていたけれど、シンちゃんはずっとパプワ島を捜していたのだ。おそらくは――今も。
どうしてもっと早く気づかなかったんだろう。シンちゃんがあの島のことを忘れるはずなんてないのに。シンちゃんがどれほどパプワくんと島の仲間たちのことを好きだったか、僕は知っていたのに。
もう一度、最後の一枚に目を通す。不可能の文字に、無性に腹が立った。ひょっとしたら、今までシンちゃんがパプワ島を捜していたことに気づかなかった自分に、腹を立てているのかもしれない。最初から僕が調査していれば、何年も無駄な時間を費やさなくて済んだのに。動物が喋り、得体の知れないナマモノが存在するあの島が、正攻法で見つかるわけがない。
「――うん」
自分に言い聞かせるように、僕は頷いた。
決めた。僕がやる。
報告書を元あったとおりに本に挟んで隣に置いて、僕はソファから立ち上がった。
デスクに向かい、コンピュータを立ち上げる。今まで通りのやり方では、多分島は見つからない。そもそも「今のパプワ島」の特徴を僕は知らないし、あの島には秘石がある。上空から姿を隠すくらい、あの石ころはやってのける。別の方法が必要だ。
机上に並んだディスクから数枚を選び出し、順番にコンピュータに読み込ませる。キーワードを入力して検索すると、数秒も待たずにコンピュータが候補をいくつかはじき出した。一番日付の新しい物を、迷わずクリックする。低いうなり声とともにウインドウが開き、設計図が表示される。
――これだ。
シンちゃんが秘石を持って本部を出た後、お父様の指示で作った秘石追跡装置の設計図。破棄してしまわなくて良かった。あのときは装置が完成する前にシンちゃんが見つかって、結局日の目を見ることはなかったけど、これを改良して完成させればチャッピーくんの首輪に付いた秘石の所在地を特定できる。チャッピー君は必ずパプワくんと一緒だから、最低でも彼らの居場所だけは把握できる。うまくいけば、シンちゃんが帰ってくるまでに新しいパプワ島を見つけられるかもしれない。考えるだけで、うきうきしてくる。
遠征から帰ったシンちゃんに、パプワ島が見つかったよ、って言ったら、どんな顔をするだろう。驚いて、笑って、少しは僕のことも褒めてくれるかな?
いつかコタローちゃんが眠りから覚めたら、シンちゃんとキンちゃんとお父様と、みんなであの島でバカンスを過ごすのもいいかもしれない。今度の島がどんなものかは知らないけど、パプワくんたちと過ごす時間は、きっと楽しいに決まってる。ちょっと癖のある住人ばかりの島だけど、コタローちゃんにもキンちゃんにも、気に入って欲しい。シンちゃんの大好きな島だから。
南国の湿り気を含んだ暖かい空気を思い出しながら、僕はコンピュータに向かった。
いつか――そう遠くないいつか。行こう、みんなで。
数週間後、その「いつか」が訪れることを、このときの僕は、まだ知らない。
今日も、シャワーを浴びて日記をつけて、ひとつ伸びをしたところでノックの音が聞こえて、慌ててドアを開けた。
綺麗にプレスされた軍服で、コートを羽織ったシンちゃんが廊下に立っていた。茶色のチェックにクマ模様の入ったお気に入りのパジャマに、ガウンを引っかけただけの僕の格好を、普段は散々馬鹿にするのに、今日は何も言わない。
「入る?」
聞いたら、黙って首を横に振った。今から仕事に行くのだ、と直感した。出かける前のシンちゃんは、無口だ。
「何?」
「本、返しに来た」
「ああ…」
一年くらい前、シンちゃんに貸した本だ。
古い童話集。お父様――当時はまだ伯父様だと思っていた――が、4歳のクリスマスにシンちゃんと僕に、それぞれ一冊ずつ贈ってくださったものだ。初めて貰った本は、幼児が読めるような内容のものではなく、整然と並んだアルファベットの意味が分かるようになったのは、それからずっと後のことだったけれど、それでも嬉しくて、しばらくどこへ行くにも手放さなかった覚えがある。
だから、と言うわけではないけれど、部屋の本棚が電子工学の専門書で埋まるようになってからも、この本だけはずっと手元に置いてあった。それを、部屋に遊びに来たシンちゃんが見つけて、あんまり懐かしそうにしてるものだから、貸してあげたのだ。
あれから一年間で、この本は5度、シンちゃんと僕の間を行ったり来たりしている。これで、6度目。
「読み終わるまで、返さなくていいんだよ?」
同じことを言うのは、もう何度目だろう。これまでと同じように、シンちゃんは黙ってそれを断って、本はまた、僕の手に押しつけられた。お父様好みの重厚な革張りの本は、ずしりと重い。
「帰ったらまた借りるから。栞、動かすんじゃねーぞ」
この言葉も、何度目だろう。頷いて肯定の返事を返すと、シンちゃんは安心したように笑って、それから口元を引き結んだ。従兄弟のシンちゃん、が一瞬で有能な指揮官に変わる。
数秒間の沈黙の後で、シンちゃんは踵を返した。「行ってらっしゃい」も「気をつけてね」も、かけるにはふさわしくない言葉のように思えて、本を抱えたまま、僕は遠ざかるシンちゃんの背を見つめることしかできなかった。
部屋へ戻ると、飲みさしのホットミルクはすっかり熱を失っていた。ソファに座り、冷たくなったミルクを一口すすって、改めて本を眺めた。
子供の頃にやたらと持ち歩いたせいか、深い焦げ茶だった表紙の革はところどころ色褪せて、金で箔押しされたタイトルも掠れている。表紙を開けるとメリークリスマス、とお父様の署名。本文の縁は黄ばんでいるけど、ところどころに入れられた挿絵は、鮮やかなままだ。
森の中のお菓子の家やカボチャの馬車、美しい海を泳ぐ人魚、雲の上の巨人の家。小さな子供だった自分には何もかもが魅力的で、ひとりで文字が読めるようになるまでは、よく挿絵を眺めて高松の仕事が終わるのを待っていた。あんまり物語の世界に入れ込みすぎて、お菓子の家を探してシンちゃんとふたり、士官学校の演習場に迷い込み、お父様を慌てさせたのもその頃だったはずだ。
けれど今になってみれば、どれもありきたりなおとぎ話。英文と言うことを差し引いても、大人が何ヶ月もかけて読む本ではない。なにかシンちゃんが気に入るような話があっただろうか?
表紙と同じ深い茶色の栞紐が挟まったページをめくると、南国の風景の隙間から、数枚の紙が、空中に滑り出して、床に舞い落ちた。
「うわ、…って――え?」
印字面を晒して落ちた紙に既視感を感じて、僕は慌てて紙を拾い上げた。この書式には見覚えがある。報告書だ。それも、研究員が実験や調査内容を報告するときに使うもの。今日はずっと研究室で、これと同じものとにらめっこしていたのだから、間違うはずがない。
署名の主は知っている。直接の部下じゃないから顔と名前は一致しないけど。
シンちゃんに渡る調査報告書は全て、一度僕のところに来てから総帥室に回されるけど、これは見たことがない。内容も、書式がいくらか変更されたり省略されている。
「非公式の調査?」
うっかり本に挟んだのを忘れたまま、僕のところに持ってきてしまったんだろうか。悪いとは思いつつも目を通せば、報告書の日付はシンちゃんの総帥就任直後から始まっていて、その後きっかり半年ごとに調査が繰り返されている。
調査範囲は地球上の全ての海域。捜索対象は、半径数キロ以内の小島。海域ごとに調査が書かれてあり、最後の7枚目には南氷洋の調査結果とともに、総合所見として捜索対象が地球上に存在する可能性は限りなくゼロに近く、対象の発見は不可能、と書き添えられていた。
「この島…」
捜索の対象は、パプワ島だ。提示された条件は、あの島の特徴とよく似ている。総帥に就任して、仕事に忙殺されて、島のことなんか忘れたように振る舞っていたけれど、シンちゃんはずっとパプワ島を捜していたのだ。おそらくは――今も。
どうしてもっと早く気づかなかったんだろう。シンちゃんがあの島のことを忘れるはずなんてないのに。シンちゃんがどれほどパプワくんと島の仲間たちのことを好きだったか、僕は知っていたのに。
もう一度、最後の一枚に目を通す。不可能の文字に、無性に腹が立った。ひょっとしたら、今までシンちゃんがパプワ島を捜していたことに気づかなかった自分に、腹を立てているのかもしれない。最初から僕が調査していれば、何年も無駄な時間を費やさなくて済んだのに。動物が喋り、得体の知れないナマモノが存在するあの島が、正攻法で見つかるわけがない。
「――うん」
自分に言い聞かせるように、僕は頷いた。
決めた。僕がやる。
報告書を元あったとおりに本に挟んで隣に置いて、僕はソファから立ち上がった。
デスクに向かい、コンピュータを立ち上げる。今まで通りのやり方では、多分島は見つからない。そもそも「今のパプワ島」の特徴を僕は知らないし、あの島には秘石がある。上空から姿を隠すくらい、あの石ころはやってのける。別の方法が必要だ。
机上に並んだディスクから数枚を選び出し、順番にコンピュータに読み込ませる。キーワードを入力して検索すると、数秒も待たずにコンピュータが候補をいくつかはじき出した。一番日付の新しい物を、迷わずクリックする。低いうなり声とともにウインドウが開き、設計図が表示される。
――これだ。
シンちゃんが秘石を持って本部を出た後、お父様の指示で作った秘石追跡装置の設計図。破棄してしまわなくて良かった。あのときは装置が完成する前にシンちゃんが見つかって、結局日の目を見ることはなかったけど、これを改良して完成させればチャッピーくんの首輪に付いた秘石の所在地を特定できる。チャッピー君は必ずパプワくんと一緒だから、最低でも彼らの居場所だけは把握できる。うまくいけば、シンちゃんが帰ってくるまでに新しいパプワ島を見つけられるかもしれない。考えるだけで、うきうきしてくる。
遠征から帰ったシンちゃんに、パプワ島が見つかったよ、って言ったら、どんな顔をするだろう。驚いて、笑って、少しは僕のことも褒めてくれるかな?
いつかコタローちゃんが眠りから覚めたら、シンちゃんとキンちゃんとお父様と、みんなであの島でバカンスを過ごすのもいいかもしれない。今度の島がどんなものかは知らないけど、パプワくんたちと過ごす時間は、きっと楽しいに決まってる。ちょっと癖のある住人ばかりの島だけど、コタローちゃんにもキンちゃんにも、気に入って欲しい。シンちゃんの大好きな島だから。
南国の湿り気を含んだ暖かい空気を思い出しながら、僕はコンピュータに向かった。
いつか――そう遠くないいつか。行こう、みんなで。
数週間後、その「いつか」が訪れることを、このときの僕は、まだ知らない。
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