日付が変わって、もうかなりの時間が経つ。深夜と言うよりはもはや明け方に近いこの時間、あたりはひどく静かで、ただキーボードをタイプする音だけが耳に届く。
書きかけの文書を仕上げ、誤字脱字のチェックを兼ねてプリントアウトした用紙に目を通す。ミスの部分に朱を入れ、データを修正した後、用紙をシュレッダーにかける。
低いモーター音とともに原型を失っていく書類を見ながら、大きく伸びをする。用紙が数ミリ四方のチップ状にカットされたのを確認して、ディスクにデータを保存させたところで、ドアの向こうに人の気配を感じて、アラシヤマは振り返った。
間をおかず、部屋のインターフォンが鳴った。
「どちらはんどすか?」
返事はない。いや、なくても分かると言うべきか。こんな時間、しかも自分の部屋を訪ねて来る者など、一人しか心当たりがない。
もう数回、苛立ちを込めて連打された機械音に、相手を確信して腰を上げる。
「よォ」
「シンタローはん…」
開けたドアの向こうに見えた顔は、やはり想像したとおりの男のものだった。必要以上に目立つ赤いブレザーに、長い黒髪は今は無造作に後ろでひとつにまとめられている。
あの島にいたときのそれと同じ姿だ。そういえば、自分もいつの間にやら、あの島にいた頃の髪型に戻ってしまっていた。思い出してすぐに、それが酷く見苦しい感情だと気付いて自嘲する。そんなことを考えている場合ではないのに。
シンタローを招き入れ、椅子を勧め、自らはベッドに腰を下ろす。ちょうどいいタイミングで仕上がったばかりのディスクを、憮然とした表情の彼に手渡した。
「とりあえず、今回の件の顛末と始末書どす。あの――怒ってはる?」
問うた言葉に、男の眉間の皺が深くなるのがわかった。
「怒ってないわけねェだろ。前線から山ほどタグが届いて、その中からお前らの名前が入ったタグが見つかったって聞いて、それが手違いだったって分かるまで、俺がどんな気持ちでいたか」
しかもよくよく事情を聞いてみれば、原因はあいつらの初歩的な勘違いだって言うし、おまけにコージに睡眠薬盛られて生死の境さまよったって聞いて、もうどうしてくれようかと思った、と静かな口調で言われれば、もはや返す言葉もない。言葉を失って黙するアラシヤマを一瞥して、数瞬だけ躊躇する仕草をみせて、男は本題を切り出した。
「――お前、体調はどうなんだ?」
「へ、へぇ、おかげさまで。ドクターも異常あらへん、て言わはって」
残りの三人とともに総帥からこってりしぼられ、更に詳細な事実確認が行われた後、アラシヤマは医療班によって精密検査を受けさせられていた。何ごとにも大雑把な同僚が幸いにも記憶していた薬の特徴から、飲まされたのがかつて団員に支給されていた、強力な睡眠薬であることが判明したためだ。薬物に慣らされた人間向けに開発されたが、あまりにも強力すぎるうえに常用するとすぐに効果が薄れ、しかも中毒量と薬用量の差が小さく事故の起こる可能性が高いと言うことでしばらく後に使用が禁止され、回収・廃棄された薬剤だった。
それが、何をどう間違ったか、遠征用の薬品に紛れ、このたび運悪く使われてしまったらしい、とかつての保健医はアラシヤマの不運を笑いながら説明してくれたのだった。
「ならいい。現地の混乱も薬の方も、明日中には何とかなるらしいし、仕事も終わった」
「あ…」
こんな遅い時間までこの姿でいたのは、事後処理のためだったか、と気づいて急に申し訳なくなってくる。言われてみれば、いつもきちんと整えられていたブレザーは皺だらけで、目の下にはうっすら隈までできている。
「すんまへん、わて――。何でもしますさかい、堪忍え…」
なんでも?と、男は組んだ片ひざを抱えた体制で聞き返した。真っ黒な両の瞳に、心の中まで見透かされているような錯覚を覚えたまま、頷けば、男は口の端だけで微笑んだ。
「じゃあ、減給」
「はぁ?」
気の済むまで抱かせろだとか、かねてからやりたいと騒いでいた執務室でやらせろだとか、なにやら無体なことを言われるのではないかと身構えた肩の力が一気に抜けて、間の抜けた声が口をついて出た。
「減給80パーセント、6ヶ月」
が、やはりこの男の出す条件が無体なことに間違いはなかった。
「――本気どすか…?」
「だってオメー、何でもするって言ったじゃねぇか」
確かに言った。そして、自分たちが減給数ヶ月でも軽すぎるほどのことをしでかしたことも十分理解している。事実関係はどうあれ、結果的に命令を誤認し、友軍を混乱に陥れたのだ。普通なら良くて降格、悪ければ解雇、場合によっては軍法会議送りとなる場合もあることだって知っている。
「せやけど――」
それではあんまりだ、とアラシヤマは瞑目した。「一応」であっても幹部なのだから、見苦しくない程度に体裁を整えろと日頃から口うるさいのはどこの誰だ。そうするには、支給される衣食住の他に、幾ばくかの金は絶対に必要なのだ。
「せめて40パーセント12ヶ月くらいにまかりまへんやろか…」
「しょーがねぇなぁ、じゃあ50パーセント10ヶ月」
「減給総額、微妙に増えとらしまへん…?」
問えば、当然といわんばかりの口調で「俺に心配かけた分の慰謝料と、利子」と言い放たれて、言葉に詰まる。男の目が、にんまりと弧を描いた。
「――嘘だよ。始末書と二週間の謹慎。それと本部勤務に異動。体調のこともあるし、お前はそれで勘弁してやる」
キンタローにはもう承認を貰った、と言われて、思わず我が耳を疑った。
前回の異動からまだ半年。日々戦場を駆け回り命がけの毎日を送っていてさえ、総帥直属だというだけでお気に入りだの何だのと散々揶揄されてきたのに、更に安全な部署に引きこもることになれば、周囲はまた騒ぎ立てるに違いない。
身体を使って今の地位を手に入れたのだ、などとありもしないようなことを吹聴されるのも真っ平だし、己で勝ち取ったこの役職に、実力以外の何らかの要素が介在していると思われることすら我慢できない。さらに総帥が一部の人間を特別扱いしていると噂にでもなれば、今後組織を動かしていく上で、支障になるであろうことは容易に想像がつく。望んでいるのは、女のように守られることでも庇われることでもない。今回のことで既にこれだけの迷惑をかけているのに、これ以上この男の足を引っ張るのは嫌だ。
「嫌や」
シンタローの、弧を描いていた瞳に鋭い光が宿る。機嫌を損ねたと知っても、言葉は止まらなかった。
「わては、嫌や。謹慎はともかく、内勤は勘弁しとくれやす。戦えんわてに、何の存在価値がありますの? それに来週のK地区の件かて、わてやないと――」
「なら解雇だ」
「な! そないにいきなり殺生な!」
「うっせぇな。そんな勝手な部下手元に置いておけるか。退職金満額払ってやるから何処へなりと行っちまえ」
シンタローの口調は素っ気なく、とりつく島もない。
「せやかて、わての能力が役に立つんは戦場だけどす。それはシンタローはんかてご存じのはずや。わてはわての能力がいかせる場所で働きたいだけなんどす」
せめて、少しでも役に立てるように。
「ッざけんな!」
縋りつくように食い下がれば、低い怒鳴り声とともにシンタローの拳が壁を打った。
響く鈍い音に、アラシヤマは首をすくめる。一応の防音はしてあるとはいえ、隣室の人間には迷惑なことだろう。もっとも、隣室の住民は顔すら思い出すことができないけれど。
「副作用がいつ出るか分かんねェんだろ!?」
そんな言葉も、ドクターからの文書にはあったかもしれない。だがそれだって、ただ可能性があると言うだけのことだ。規定を大幅に越える二倍量の臨床試験なんて、当然行ってもいない一昔前の薬だ。副作用の症状だってはっきりとは分からない。意識障害か臓器不全か単なる発熱か悪寒か、或いはもっと別の症状か。それがおこるのは今なのか明日なのか来週なのか、それとも永遠にそのときは来ないのか、それすら定かではない。
そんな頼りないものを頭から信じ込んでいたら、ここではやっていけない、とアラシヤマは思う。この組織で生きることと生命の危機は、ほぼ同義だ。己のような戦闘要員であれば、なおのこと。
「そんな状態で戦場に出たい、だァ? それで前線で昏倒でもしたらどうする? お前の自己満足でいたずらに部隊を混乱に陥れるつもりか!? 何でもかんでも自分の好きなようにできると思うな! お前の指揮ひとつで部下が動くんだぞ!」
「ほな、わてにこの先二度と戦場に出るな言わはるん?」
「そんなこと言ってねぇだろ!」
「言わはったんと同じやあらしまへんか。はっきり言わはったらどうどすか? こんな間抜けな部下は恐ろしゅうて使われへん、て!」
「アラシヤマ!」
「ああ、総帥がそないにご心配なら、懲罰大隊に編入してくれはってもよろしおすえ。あそこならいっそ死んでも誰にも迷惑はかからへんし、勤務地は必ず前線やさかい!」
「てめぇ…ッ!」
怒りにまかせて同じようにアラシヤマが怒鳴り返せば、頬を紅潮させ、声を荒げる彼の片頬に一筋の涙が伝った。
「シンタローはん…?」
「触んな!」
予想外の反応に驚き、思わずさしのべた手が、子供のような仕草で払いのけられる。その拍子に、水滴が赤いブレザーにいくつもの染みを作る。
「人が心配してんのに、何なんだよテメェは! いつでもいいッつったのにこんな時間までこんなモン書いて、あげくに来週には戦場に出たい!? ああ、じゃあもう好きにすればいいだろ!」
ディスクがシーツの上に投げつけられるのを視界の端に見ながらアラシヤマは、耳に届いた単語のひとつを頭の中で反芻していた。たった4文字の単語が意識の全てを支配し、頭の中でぐるぐる回る。
理解しようと必死の意識とは裏腹に、理性がそれを認めようとしない。
「心配…?」
聞き取った単語の意図を、結局納得できないままに鸚鵡返しに復唱すれば、黒い瞳が射るような視線を向ける。
「ひょっとして、心配してくれはっとったん?」
「――それ以外にどうして欲しいんだ、お前は」
突っぱねたような物言いは、照れているせいだと長いつきあいから理解している。濡れた頬に手を伸ばし、水滴を指の腹でぬぐえば、その腕をつかまれ引き倒された。シンタローを押し倒すようなかたちでベッドに転がされ、抱きすくめられる。
「つ…ッ、シンタローはん!」
両腕に痛いほど力を込められ、身じろぎすることも許されない。
「お前が死んだって聞かされて、頭ン中が真っ白になった。いったい何をしていいのか、何をしたらいいのか、何をしてやれるのか、まるで分からなくなって――ただ、恐いと思った」
シンタローの顔はアラシヤマの肩口に埋められ、呟く表情は見えない。しかしそれは明らかに怯えの色を孕んでいた。普段の、自信に裏打ちされた力強さでもって言葉を紡ぐ総帥の面影は今はない。
「足が震えて、もう立てないんじゃないかと思うくらい膝に力が入らなくて、自分に何もできないことが歯がゆくて…俺には、自分を無力だと罵ることしかできなかった」
「……堪忍え、シンタローはん。そこまで心配してくれはったやなんて…わて、てっきり呆れられとるもんとばっかり…」
「いいから…だから――側にいろ。ここにいてくれ。何処にも行くな」
頼む、と呟く声は頼りない子供のようにも思えた。唯一自由になる片手で、アラシヤマは長い黒髪を撫で、耳元で囁いた。
「シンタローはんの命令以外では、二度と何処へも行かへんし――もちろん死んだりもしまへん。わてが従うのはあんさんだけやさかい」
「――嘘ついたらただじゃおかねぇからな」
「へぇ。覚悟しときまひょ」
布地越しにシンタローの体温を感じながら、アラシヤマは小さく微笑んだ。総帥の身が安全である限りは、と胸の内で呟きながら。
翌朝、秘書官から渡された「士官学校付き教官」の辞令を目にした伊達衆がパニックに陥る姿が複数の下士官達によって目撃されたが、その詳細は不明である。
書きかけの文書を仕上げ、誤字脱字のチェックを兼ねてプリントアウトした用紙に目を通す。ミスの部分に朱を入れ、データを修正した後、用紙をシュレッダーにかける。
低いモーター音とともに原型を失っていく書類を見ながら、大きく伸びをする。用紙が数ミリ四方のチップ状にカットされたのを確認して、ディスクにデータを保存させたところで、ドアの向こうに人の気配を感じて、アラシヤマは振り返った。
間をおかず、部屋のインターフォンが鳴った。
「どちらはんどすか?」
返事はない。いや、なくても分かると言うべきか。こんな時間、しかも自分の部屋を訪ねて来る者など、一人しか心当たりがない。
もう数回、苛立ちを込めて連打された機械音に、相手を確信して腰を上げる。
「よォ」
「シンタローはん…」
開けたドアの向こうに見えた顔は、やはり想像したとおりの男のものだった。必要以上に目立つ赤いブレザーに、長い黒髪は今は無造作に後ろでひとつにまとめられている。
あの島にいたときのそれと同じ姿だ。そういえば、自分もいつの間にやら、あの島にいた頃の髪型に戻ってしまっていた。思い出してすぐに、それが酷く見苦しい感情だと気付いて自嘲する。そんなことを考えている場合ではないのに。
シンタローを招き入れ、椅子を勧め、自らはベッドに腰を下ろす。ちょうどいいタイミングで仕上がったばかりのディスクを、憮然とした表情の彼に手渡した。
「とりあえず、今回の件の顛末と始末書どす。あの――怒ってはる?」
問うた言葉に、男の眉間の皺が深くなるのがわかった。
「怒ってないわけねェだろ。前線から山ほどタグが届いて、その中からお前らの名前が入ったタグが見つかったって聞いて、それが手違いだったって分かるまで、俺がどんな気持ちでいたか」
しかもよくよく事情を聞いてみれば、原因はあいつらの初歩的な勘違いだって言うし、おまけにコージに睡眠薬盛られて生死の境さまよったって聞いて、もうどうしてくれようかと思った、と静かな口調で言われれば、もはや返す言葉もない。言葉を失って黙するアラシヤマを一瞥して、数瞬だけ躊躇する仕草をみせて、男は本題を切り出した。
「――お前、体調はどうなんだ?」
「へ、へぇ、おかげさまで。ドクターも異常あらへん、て言わはって」
残りの三人とともに総帥からこってりしぼられ、更に詳細な事実確認が行われた後、アラシヤマは医療班によって精密検査を受けさせられていた。何ごとにも大雑把な同僚が幸いにも記憶していた薬の特徴から、飲まされたのがかつて団員に支給されていた、強力な睡眠薬であることが判明したためだ。薬物に慣らされた人間向けに開発されたが、あまりにも強力すぎるうえに常用するとすぐに効果が薄れ、しかも中毒量と薬用量の差が小さく事故の起こる可能性が高いと言うことでしばらく後に使用が禁止され、回収・廃棄された薬剤だった。
それが、何をどう間違ったか、遠征用の薬品に紛れ、このたび運悪く使われてしまったらしい、とかつての保健医はアラシヤマの不運を笑いながら説明してくれたのだった。
「ならいい。現地の混乱も薬の方も、明日中には何とかなるらしいし、仕事も終わった」
「あ…」
こんな遅い時間までこの姿でいたのは、事後処理のためだったか、と気づいて急に申し訳なくなってくる。言われてみれば、いつもきちんと整えられていたブレザーは皺だらけで、目の下にはうっすら隈までできている。
「すんまへん、わて――。何でもしますさかい、堪忍え…」
なんでも?と、男は組んだ片ひざを抱えた体制で聞き返した。真っ黒な両の瞳に、心の中まで見透かされているような錯覚を覚えたまま、頷けば、男は口の端だけで微笑んだ。
「じゃあ、減給」
「はぁ?」
気の済むまで抱かせろだとか、かねてからやりたいと騒いでいた執務室でやらせろだとか、なにやら無体なことを言われるのではないかと身構えた肩の力が一気に抜けて、間の抜けた声が口をついて出た。
「減給80パーセント、6ヶ月」
が、やはりこの男の出す条件が無体なことに間違いはなかった。
「――本気どすか…?」
「だってオメー、何でもするって言ったじゃねぇか」
確かに言った。そして、自分たちが減給数ヶ月でも軽すぎるほどのことをしでかしたことも十分理解している。事実関係はどうあれ、結果的に命令を誤認し、友軍を混乱に陥れたのだ。普通なら良くて降格、悪ければ解雇、場合によっては軍法会議送りとなる場合もあることだって知っている。
「せやけど――」
それではあんまりだ、とアラシヤマは瞑目した。「一応」であっても幹部なのだから、見苦しくない程度に体裁を整えろと日頃から口うるさいのはどこの誰だ。そうするには、支給される衣食住の他に、幾ばくかの金は絶対に必要なのだ。
「せめて40パーセント12ヶ月くらいにまかりまへんやろか…」
「しょーがねぇなぁ、じゃあ50パーセント10ヶ月」
「減給総額、微妙に増えとらしまへん…?」
問えば、当然といわんばかりの口調で「俺に心配かけた分の慰謝料と、利子」と言い放たれて、言葉に詰まる。男の目が、にんまりと弧を描いた。
「――嘘だよ。始末書と二週間の謹慎。それと本部勤務に異動。体調のこともあるし、お前はそれで勘弁してやる」
キンタローにはもう承認を貰った、と言われて、思わず我が耳を疑った。
前回の異動からまだ半年。日々戦場を駆け回り命がけの毎日を送っていてさえ、総帥直属だというだけでお気に入りだの何だのと散々揶揄されてきたのに、更に安全な部署に引きこもることになれば、周囲はまた騒ぎ立てるに違いない。
身体を使って今の地位を手に入れたのだ、などとありもしないようなことを吹聴されるのも真っ平だし、己で勝ち取ったこの役職に、実力以外の何らかの要素が介在していると思われることすら我慢できない。さらに総帥が一部の人間を特別扱いしていると噂にでもなれば、今後組織を動かしていく上で、支障になるであろうことは容易に想像がつく。望んでいるのは、女のように守られることでも庇われることでもない。今回のことで既にこれだけの迷惑をかけているのに、これ以上この男の足を引っ張るのは嫌だ。
「嫌や」
シンタローの、弧を描いていた瞳に鋭い光が宿る。機嫌を損ねたと知っても、言葉は止まらなかった。
「わては、嫌や。謹慎はともかく、内勤は勘弁しとくれやす。戦えんわてに、何の存在価値がありますの? それに来週のK地区の件かて、わてやないと――」
「なら解雇だ」
「な! そないにいきなり殺生な!」
「うっせぇな。そんな勝手な部下手元に置いておけるか。退職金満額払ってやるから何処へなりと行っちまえ」
シンタローの口調は素っ気なく、とりつく島もない。
「せやかて、わての能力が役に立つんは戦場だけどす。それはシンタローはんかてご存じのはずや。わてはわての能力がいかせる場所で働きたいだけなんどす」
せめて、少しでも役に立てるように。
「ッざけんな!」
縋りつくように食い下がれば、低い怒鳴り声とともにシンタローの拳が壁を打った。
響く鈍い音に、アラシヤマは首をすくめる。一応の防音はしてあるとはいえ、隣室の人間には迷惑なことだろう。もっとも、隣室の住民は顔すら思い出すことができないけれど。
「副作用がいつ出るか分かんねェんだろ!?」
そんな言葉も、ドクターからの文書にはあったかもしれない。だがそれだって、ただ可能性があると言うだけのことだ。規定を大幅に越える二倍量の臨床試験なんて、当然行ってもいない一昔前の薬だ。副作用の症状だってはっきりとは分からない。意識障害か臓器不全か単なる発熱か悪寒か、或いはもっと別の症状か。それがおこるのは今なのか明日なのか来週なのか、それとも永遠にそのときは来ないのか、それすら定かではない。
そんな頼りないものを頭から信じ込んでいたら、ここではやっていけない、とアラシヤマは思う。この組織で生きることと生命の危機は、ほぼ同義だ。己のような戦闘要員であれば、なおのこと。
「そんな状態で戦場に出たい、だァ? それで前線で昏倒でもしたらどうする? お前の自己満足でいたずらに部隊を混乱に陥れるつもりか!? 何でもかんでも自分の好きなようにできると思うな! お前の指揮ひとつで部下が動くんだぞ!」
「ほな、わてにこの先二度と戦場に出るな言わはるん?」
「そんなこと言ってねぇだろ!」
「言わはったんと同じやあらしまへんか。はっきり言わはったらどうどすか? こんな間抜けな部下は恐ろしゅうて使われへん、て!」
「アラシヤマ!」
「ああ、総帥がそないにご心配なら、懲罰大隊に編入してくれはってもよろしおすえ。あそこならいっそ死んでも誰にも迷惑はかからへんし、勤務地は必ず前線やさかい!」
「てめぇ…ッ!」
怒りにまかせて同じようにアラシヤマが怒鳴り返せば、頬を紅潮させ、声を荒げる彼の片頬に一筋の涙が伝った。
「シンタローはん…?」
「触んな!」
予想外の反応に驚き、思わずさしのべた手が、子供のような仕草で払いのけられる。その拍子に、水滴が赤いブレザーにいくつもの染みを作る。
「人が心配してんのに、何なんだよテメェは! いつでもいいッつったのにこんな時間までこんなモン書いて、あげくに来週には戦場に出たい!? ああ、じゃあもう好きにすればいいだろ!」
ディスクがシーツの上に投げつけられるのを視界の端に見ながらアラシヤマは、耳に届いた単語のひとつを頭の中で反芻していた。たった4文字の単語が意識の全てを支配し、頭の中でぐるぐる回る。
理解しようと必死の意識とは裏腹に、理性がそれを認めようとしない。
「心配…?」
聞き取った単語の意図を、結局納得できないままに鸚鵡返しに復唱すれば、黒い瞳が射るような視線を向ける。
「ひょっとして、心配してくれはっとったん?」
「――それ以外にどうして欲しいんだ、お前は」
突っぱねたような物言いは、照れているせいだと長いつきあいから理解している。濡れた頬に手を伸ばし、水滴を指の腹でぬぐえば、その腕をつかまれ引き倒された。シンタローを押し倒すようなかたちでベッドに転がされ、抱きすくめられる。
「つ…ッ、シンタローはん!」
両腕に痛いほど力を込められ、身じろぎすることも許されない。
「お前が死んだって聞かされて、頭ン中が真っ白になった。いったい何をしていいのか、何をしたらいいのか、何をしてやれるのか、まるで分からなくなって――ただ、恐いと思った」
シンタローの顔はアラシヤマの肩口に埋められ、呟く表情は見えない。しかしそれは明らかに怯えの色を孕んでいた。普段の、自信に裏打ちされた力強さでもって言葉を紡ぐ総帥の面影は今はない。
「足が震えて、もう立てないんじゃないかと思うくらい膝に力が入らなくて、自分に何もできないことが歯がゆくて…俺には、自分を無力だと罵ることしかできなかった」
「……堪忍え、シンタローはん。そこまで心配してくれはったやなんて…わて、てっきり呆れられとるもんとばっかり…」
「いいから…だから――側にいろ。ここにいてくれ。何処にも行くな」
頼む、と呟く声は頼りない子供のようにも思えた。唯一自由になる片手で、アラシヤマは長い黒髪を撫で、耳元で囁いた。
「シンタローはんの命令以外では、二度と何処へも行かへんし――もちろん死んだりもしまへん。わてが従うのはあんさんだけやさかい」
「――嘘ついたらただじゃおかねぇからな」
「へぇ。覚悟しときまひょ」
布地越しにシンタローの体温を感じながら、アラシヤマは小さく微笑んだ。総帥の身が安全である限りは、と胸の内で呟きながら。
翌朝、秘書官から渡された「士官学校付き教官」の辞令を目にした伊達衆がパニックに陥る姿が複数の下士官達によって目撃されたが、その詳細は不明である。
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