SSS.67「Chupa Chups 」 キンタロー×シンタローコーヒーを淹れ替え、席に戻ってくると隣でレポートを書いていた従兄弟がにこにことバッグに手を入れているところだった。
ガンマ団のエンブレムが付いたスポーティなバッグは見かけとは違って中身はジムに行くための運動着でもなく、色とりどりな菓子がいつも入っていた。軽い休憩や食事の時間になると従兄弟のグンマはそこから気に入りの菓子を取り出す。
「今日は何だ?」
カップをデスクに置くとグンマは俺を見上げた。
今日はね、と笑顔を浮かべて従兄弟は選んだ菓子を見せびらかすように上へと向けた。
白い短い棒に丸い玉。形状からキャディの類だと見て取れる。
「……ずいぶんカラフルな包装だ」
キャンディのヘッドは花形をくりぬいたような形を黄色で塗りつぶされている。下の方は紺色だ。赤いラインがうねうねと走っている。
思わずそんな感想を呟くとグンマは「きれいでしょ」と笑った。
「これはグレープ味で、こっちはプリン!グレープは今日初めて食べるんだ~」
「そうか」
それは楽しみだな、と答えるとグンマは頷いた。
「キンちゃんにもあげようか?コーヒー味はないけどね、キャラメルならあるよ」
「キャラメル?いや……」
「ミルクより甘くはないけど」
首を傾げるとグンマはバッグを漁りはじめた。俺はあわてて断ろうとグンマの手を引く。
「グンマ。俺は……」
別にいらないんだが、と断る前にグンマは目当てのキャンディを見つけ出してしまった。
「はい、これあげるね」
「……ああ」
すっごくおいしいよ。ハマる味だから、とにっこり笑うグンマに退路を立たれて俺はキャンディを受け取った。
いらないと断るのは簡単だけれどもグンマがむくれるのは面倒だ。
もう一人の従兄弟にでもやろう、と思いながら俺は席に着く。グンマはカラフルな包み紙を外してキャンディを口に入れた。
今日初めて食べるというグレープ味のキャンディ。
「うまいか?」
なんとなく感想を聞くとグンマは満面の笑みを浮かべた。
「もちろん!すっごい幸せな気分だよ~」
甘くておいしい、とグンマはふわふわと夢見るような顔で答えた。
キンちゃんも食べたら、と微笑まれて俺は「……後で」と返事するに留めた。咎められないうちにキャンディをそそくさと上着のポケットへと仕舞いこんだ。
机の上には淹れたてのコーヒーがある。それに。
グンマの持っている菓子はたいてい歯の浮くような甘さのものばかりだから性質が悪い。
*
日が沈むのがだんだん遅くなってきた気がする。
研究室から総帥室へと移動するとき窓の外を見て俺はそう思った。夏が近づいている。
今年もシンタローはあの島での夏を思い出すんだろうか。
そんなことを考えながら俺はドアをノックした。
「入れ」
ノブを回すといつも控えている秘書たちがいなかった。
デスクワークに勤しむ従兄弟は口にペンを咥え、頬杖を付いていた。
「行儀が悪いぞ、シンタロー」
従兄弟の口からペンを取り上げると彼はうるせえなあという表情を浮かべた。
「ちょっと煮詰まってるんだよ」
きしっと椅子の背をしならせてシンタローは伸びをした。背もたれがぐっと角度を広げている。
伸びをするのをやめてシンタローの体勢が元に戻ると椅子はまた軋んだ音を立てた。
「コーヒーでも淹れるか」
立ち上がり、シンタローは読んでいた書類をばさっとひとつに重ねた。
「俺がやる」
「来たばっかだろ。いいって」
座ってろと、シンタローは俺にソファを勧めた。
「いや。だが、おまえは休憩した方がいいだろう。俺が」
「いいって」
ひらひらと手を振りながらシンタローは俺の横をすり抜けようとした。
すっと給湯室まで行くのか、と思っていたがシンタローが不意に足を止めた。
「なんだ?」
「いや……それなんだよ?」
車のキーじゃねえよな、結構膨らんでるし、とシンタローは呟いた。
「膨らんでる?」
「ああ、ほら。それだよ。ジャケットの。何入れてるんだ?」
実験器具なら戻しとかねえといけねえんじゃねえの、とシンタローは指差した。
「ジャケット……ああ、これか」
ほら、と俺はポケットから取り出したものをシンタローに渡した。グンマから貰ったキャラメル味のキャンディだ。
「これ、グンマのヤツか?」
「ああ」
「懐かしいな」
甘いんだよな、これ、としげしげと黄色いパッケージをシンタローは覗き込んだ。
「おまえにやろうと思って」
「俺に?おまえ舐めねえの?」
「ああ」
ほら、とシンタローの手の中に俺はキャンディを渡した。
「それでも舐めて待っていろ。コーヒーは俺が淹れてくる」
俺の言葉にシンタローは頷くとソファへと足を引き返した。歩きながら従兄弟の指はパッケージをはがすのに苦心していた。
カップを2つ抱えて戻ってくるとシンタローはソファから慌てて足を下ろした。
寝そべってキャンディを舐めているとはこれもまた行儀が悪い。
ため息を吐きたくなったが、俺は大目に見ることにした。
「時間かかったな」
「ああ。新しい豆を探すのに苦労した」
誰か場所を移動させていた、と答えながら俺はテーブルにトレイを置く。
「キャンディはどうだ?うまいか」
白い棒を咥えたままのシンタローに尋ねると彼は「まあ。普通だな」と答える。
顔を顰めないところを見るとどうやら糖度は一般的なものらしい。グンマの気に入る菓子にしてはめずらしいことだ。
「それとは違う味だが、グンマは幸せな気分だといっていた」
「ふ~ん。幸せな気分ねえ」
アイツらしいぜ、とシンタローは肩を竦める。シンタローの横に座りながら俺は従兄弟のそんな仕草に笑った。
「おまえにも幸せをお裾分けしてやろうか?」
にやっと笑うシンタローの言葉に俺は首を傾げた。
「どうやって?」
「こうやってだよ」
笑いながらシンタローがキャンディをがじっと音を立てて噛み砕く。
「ほら」
腰を浮かせたシンタローは俺に口唇を合わせてきた。
何の行動を取るまもなくするりと砂糖で漬けたような舌が侵入してきた。
僅かなかけらが舌の上に乗せられるとシンタローは体を離した。それから口から離していた棒を従兄弟は咥えなおした。
白い棒には噛み砕かれた後のキャンディの残骸がまだある。
「どうだよ?幸せか」
にやっと笑ったシンタローに俺は口中の甘いかけらを舌で転がしながら眉を顰めた。
「……甘い」
俺の言葉にシンタローはキャンディを離して笑った。
ガンマ団のエンブレムが付いたスポーティなバッグは見かけとは違って中身はジムに行くための運動着でもなく、色とりどりな菓子がいつも入っていた。軽い休憩や食事の時間になると従兄弟のグンマはそこから気に入りの菓子を取り出す。
「今日は何だ?」
カップをデスクに置くとグンマは俺を見上げた。
今日はね、と笑顔を浮かべて従兄弟は選んだ菓子を見せびらかすように上へと向けた。
白い短い棒に丸い玉。形状からキャディの類だと見て取れる。
「……ずいぶんカラフルな包装だ」
キャンディのヘッドは花形をくりぬいたような形を黄色で塗りつぶされている。下の方は紺色だ。赤いラインがうねうねと走っている。
思わずそんな感想を呟くとグンマは「きれいでしょ」と笑った。
「これはグレープ味で、こっちはプリン!グレープは今日初めて食べるんだ~」
「そうか」
それは楽しみだな、と答えるとグンマは頷いた。
「キンちゃんにもあげようか?コーヒー味はないけどね、キャラメルならあるよ」
「キャラメル?いや……」
「ミルクより甘くはないけど」
首を傾げるとグンマはバッグを漁りはじめた。俺はあわてて断ろうとグンマの手を引く。
「グンマ。俺は……」
別にいらないんだが、と断る前にグンマは目当てのキャンディを見つけ出してしまった。
「はい、これあげるね」
「……ああ」
すっごくおいしいよ。ハマる味だから、とにっこり笑うグンマに退路を立たれて俺はキャンディを受け取った。
いらないと断るのは簡単だけれどもグンマがむくれるのは面倒だ。
もう一人の従兄弟にでもやろう、と思いながら俺は席に着く。グンマはカラフルな包み紙を外してキャンディを口に入れた。
今日初めて食べるというグレープ味のキャンディ。
「うまいか?」
なんとなく感想を聞くとグンマは満面の笑みを浮かべた。
「もちろん!すっごい幸せな気分だよ~」
甘くておいしい、とグンマはふわふわと夢見るような顔で答えた。
キンちゃんも食べたら、と微笑まれて俺は「……後で」と返事するに留めた。咎められないうちにキャンディをそそくさと上着のポケットへと仕舞いこんだ。
机の上には淹れたてのコーヒーがある。それに。
グンマの持っている菓子はたいてい歯の浮くような甘さのものばかりだから性質が悪い。
*
日が沈むのがだんだん遅くなってきた気がする。
研究室から総帥室へと移動するとき窓の外を見て俺はそう思った。夏が近づいている。
今年もシンタローはあの島での夏を思い出すんだろうか。
そんなことを考えながら俺はドアをノックした。
「入れ」
ノブを回すといつも控えている秘書たちがいなかった。
デスクワークに勤しむ従兄弟は口にペンを咥え、頬杖を付いていた。
「行儀が悪いぞ、シンタロー」
従兄弟の口からペンを取り上げると彼はうるせえなあという表情を浮かべた。
「ちょっと煮詰まってるんだよ」
きしっと椅子の背をしならせてシンタローは伸びをした。背もたれがぐっと角度を広げている。
伸びをするのをやめてシンタローの体勢が元に戻ると椅子はまた軋んだ音を立てた。
「コーヒーでも淹れるか」
立ち上がり、シンタローは読んでいた書類をばさっとひとつに重ねた。
「俺がやる」
「来たばっかだろ。いいって」
座ってろと、シンタローは俺にソファを勧めた。
「いや。だが、おまえは休憩した方がいいだろう。俺が」
「いいって」
ひらひらと手を振りながらシンタローは俺の横をすり抜けようとした。
すっと給湯室まで行くのか、と思っていたがシンタローが不意に足を止めた。
「なんだ?」
「いや……それなんだよ?」
車のキーじゃねえよな、結構膨らんでるし、とシンタローは呟いた。
「膨らんでる?」
「ああ、ほら。それだよ。ジャケットの。何入れてるんだ?」
実験器具なら戻しとかねえといけねえんじゃねえの、とシンタローは指差した。
「ジャケット……ああ、これか」
ほら、と俺はポケットから取り出したものをシンタローに渡した。グンマから貰ったキャラメル味のキャンディだ。
「これ、グンマのヤツか?」
「ああ」
「懐かしいな」
甘いんだよな、これ、としげしげと黄色いパッケージをシンタローは覗き込んだ。
「おまえにやろうと思って」
「俺に?おまえ舐めねえの?」
「ああ」
ほら、とシンタローの手の中に俺はキャンディを渡した。
「それでも舐めて待っていろ。コーヒーは俺が淹れてくる」
俺の言葉にシンタローは頷くとソファへと足を引き返した。歩きながら従兄弟の指はパッケージをはがすのに苦心していた。
カップを2つ抱えて戻ってくるとシンタローはソファから慌てて足を下ろした。
寝そべってキャンディを舐めているとはこれもまた行儀が悪い。
ため息を吐きたくなったが、俺は大目に見ることにした。
「時間かかったな」
「ああ。新しい豆を探すのに苦労した」
誰か場所を移動させていた、と答えながら俺はテーブルにトレイを置く。
「キャンディはどうだ?うまいか」
白い棒を咥えたままのシンタローに尋ねると彼は「まあ。普通だな」と答える。
顔を顰めないところを見るとどうやら糖度は一般的なものらしい。グンマの気に入る菓子にしてはめずらしいことだ。
「それとは違う味だが、グンマは幸せな気分だといっていた」
「ふ~ん。幸せな気分ねえ」
アイツらしいぜ、とシンタローは肩を竦める。シンタローの横に座りながら俺は従兄弟のそんな仕草に笑った。
「おまえにも幸せをお裾分けしてやろうか?」
にやっと笑うシンタローの言葉に俺は首を傾げた。
「どうやって?」
「こうやってだよ」
笑いながらシンタローがキャンディをがじっと音を立てて噛み砕く。
「ほら」
腰を浮かせたシンタローは俺に口唇を合わせてきた。
何の行動を取るまもなくするりと砂糖で漬けたような舌が侵入してきた。
僅かなかけらが舌の上に乗せられるとシンタローは体を離した。それから口から離していた棒を従兄弟は咥えなおした。
白い棒には噛み砕かれた後のキャンディの残骸がまだある。
「どうだよ?幸せか」
にやっと笑ったシンタローに俺は口中の甘いかけらを舌で転がしながら眉を顰めた。
「……甘い」
俺の言葉にシンタローはキャンディを離して笑った。
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■SSS.66「賭け事」 キンタロー+シンタロー叔父上がお喜びでしたので、とこの国の人間は俺とシンタローを競馬場へと案内して来た。
叔父であるハーレムがガンマ団から離脱してもう数ヶ月余り経つ。
この国はかつて叔父にクーデターを依頼したこともあって有事のたびに本部を介してではなく叔父の部隊に直接依頼していたらしい。
ハーレムの影響下にある国はほかにもいくつかあるようだったが、これは見過ごせない事態だった。
叔父は団からリタイアして悠々自適の生活を送っている、と俺とシンタローはこの国の役人に言った。
以降の依頼は本部で引き継ぐので、と求めたがすでに叔父の方で手回しがしてあったようだ。
ガンマ団を抜けるに当たって用意周到に準備をするのはよく考えれば当たり前だろう。
飛行戦の燃料の補給、食料を行く先々で略奪すればどこからか本部かあるいは敵対組織に依頼が入る。
好戦的な叔父とその部下の性質から考えれば向かってくる敵も大歓迎だろうが、それでは苦労する割合が高くなる。
名の知れた特戦部隊に歯向かうヤツはそうはいないとはいえ、後々の禍根や毒物の混入などのリスクを考えれば縁のある国で出稼ぎした方が楽だ。
この国の要人たちは誰もが曖昧な笑みを浮べるだけで俺とシンタローの要求に回答を出さなかった。
有耶無耶に誤魔化して、俺たちが帰国したらとりあえずハーレムに指示を仰ぐつもりなのかもしれない。
繊維工場の視察も申し入れた俺たちは回答は三日後でよいと告げた。
彼らは一様に微笑を浮べながら頷くとそのうちの1人が俺たちを競馬場に案内してきたのだ。
視察を頼んだ繊維工場ではなくて。
工場どころかたいていこういうときに案内される公共機関ではなく競馬場に連れてこられたことにシンタローは最初、腹を立てていた。
「そりゃあ、この国のレースは観光資源だし、王族も来るから変じゃねえけどよ」
と従兄弟は俺に囁く。俺もシンタローの言いたいことは分かる。
この国の人間は日程を調整する時間を作るためと少しでも俺たちの機嫌が良くなるよう接待のつもりでここへ連れてきたのだろう。
けれど、「叔父上がお喜び」はない。
あのアル中でギャンブル狂いのハーレムと一緒くたにされるとは……。
「ハーレムと一緒にされてもな」
肩を竦めてみせるとシンタローは俺に「まったくだ」とため息を吐いた。
ブザーが鳴り、馬たちが位置に着く。きっとハーレムはこの状態からも大騒ぎしていただろう。
それに金も賭けていたはずだ。部下の小遣いも巻き上げて大分注ぎ込んでいたに違いない。
一斉にスタートする馬はVIP席からだと小さく見える。
シンタローははじめから用意されていたオペラグラスを手にした。
なんだかんだ言って彼も興味があるらしい。手を握りしめて芝を駆ける馬に熱中し始めたシンタローに俺は心の中で「似たもの同士じゃないか」と思った。
ハーレムが離脱したのは他国にも知れている通り、新総帥であるシンタローとの確執が原因だ。
確執と言っても戦闘におけるスタンスの違いから生じた口喧嘩の応酬で伯父貴が出て行ったというのが正しいかもしれない。
アイツの邪魔をしてやる、とシンタローはさっきまで意気込んでいた。けれども。
「よっしゃあ!行け!まくれ!まくれ!抜いちまえ!」
従兄弟の頭の中はハーレムの顔がすっぱりと消え去っているらしい。
他の客はいないから興奮したシンタローが多少騒いだところで恥をかく心配はない。しかし……。
「あー!ちくしょう!馬券買えばよかったぜ!」
黒毛の馬がゴールするなりシンタローは髪を掻き毟った。
どうやら目をつけていた馬が1着のようだ。VIP席にいる俺たちに飲み物を給仕した後も控えていた係員をシンタローが手招きする。
「なあ、次のレースあの茶色いヤツに賭けたいんだけどさ」
金ならあるけどどうすりゃいいんだよ、と生真面目に係員に尋ねるシンタローに俺はため息を吐いた。
……きっとこの国の人間は青の一族は競馬が好きだと思うだろう。
*
オペラグラスを片手にしたシンタローが片手に握っていた馬券を放り投げる。
外れたことに悔しがるシンタローに俺は散らばった馬券を拾い集めてから渡した。
「外れたからといって放り捨てるのは止めろ」
ハーレムと同じで行儀が悪い、と俺が忠告するとシンタローは眉を顰めた。
「ついやっちまっただけだ」
ちゃんと拾うつもりだった、と弁解するシンタローは本部の家でマジックに「吸殻と空になったお酒は片づけなさい」と怒られたときのハーレムと同じ表情だった。
「それに賭け事は叔父貴と同じで向いていないようだな」
ハーレムの横領した金のほとんどがなんとかホイミという馬に注ぎ込んだ裏づけがあったな、と俺は従兄弟に言った。
「……ツいてなかっただけだ!」
おまえだってやってみりゃ当たるのが難しいの分かるぜ。そりゃハーレムは行き過ぎだけどな、とシンタローは口を尖らせる。
「俺は別に団の金まで賭ける気はねえよ。ただゲームをおもしろくするスパイスみたいなもんだろ」
せっかくここへ案内されたのに昼寝を決め込むわけにもいかねえし、とシンタローが言う。
「何も賭けなくても」
いいだろう、大人しく見ていればと俺が言い返そうとするとシンタローが遮った。
「賭けでもしねえと馬が走ってるの何回も見たってつまらねえだけだろ」
あんまりうるさく言うなって、とシンタローは言った。
「おまえだってあと2回もレースを見れば退屈になるぜ」
にやっとシンタローは笑った。
だが、そういわれても俺は賭ける気にはならない。プライベートで来たならともかく来賓なんだから大人しくするべきじゃないのか、とシンタローに言うと従兄弟は「つまんねえヤツ」と鼻を鳴らした。
「……馬に賭ける気はないが」
「なんだよ」
「おまえがあと3回とも予想を外すのは賭けてもいい」
認めたがらないだろうがこの従兄弟はハーレムに似ている。きっと外す。ビギナーズラックなんて言葉も無縁に決まっている。
いやビギナーズラックは金の賭けていない最初のレースだっただろう。きっと。
俺の言葉にシンタローは立ち上がり「言ったな!」と人差し指を突きつけてきた。
「俺が当てたら吠え面かくんじゃねえぞ!」
「それはおまえの方だ」
「俺が勝ったら親父がファンに貰ったとかいう勝負パンツを履いてもらうからな!」
高松の鼻血で溺れてもらうぜ!とシンタローが背を逸らす。
「そっちがその気なら俺は……」
そうだな、と考えて俺はマジック伯父が片時も離さないシンタロー人形の存在を思い出した。
「マジック伯父貴の人形をリビングで作ってもらおう」
見られた瞬間、伯父貴の熱い抱擁が待ってるぞ、と俺が言うとシンタローは「やったろうじゃねえか」と乱暴に椅子に座りなおす。
次のレースを賭けようと係員を呼んだ従兄弟に俺はどうせ外れる、とほくそ笑んだ。
シンタローとハーレムはよく似ている。
いくら馬に注ぎ込んだところで……当たるわけがない。
叔父であるハーレムがガンマ団から離脱してもう数ヶ月余り経つ。
この国はかつて叔父にクーデターを依頼したこともあって有事のたびに本部を介してではなく叔父の部隊に直接依頼していたらしい。
ハーレムの影響下にある国はほかにもいくつかあるようだったが、これは見過ごせない事態だった。
叔父は団からリタイアして悠々自適の生活を送っている、と俺とシンタローはこの国の役人に言った。
以降の依頼は本部で引き継ぐので、と求めたがすでに叔父の方で手回しがしてあったようだ。
ガンマ団を抜けるに当たって用意周到に準備をするのはよく考えれば当たり前だろう。
飛行戦の燃料の補給、食料を行く先々で略奪すればどこからか本部かあるいは敵対組織に依頼が入る。
好戦的な叔父とその部下の性質から考えれば向かってくる敵も大歓迎だろうが、それでは苦労する割合が高くなる。
名の知れた特戦部隊に歯向かうヤツはそうはいないとはいえ、後々の禍根や毒物の混入などのリスクを考えれば縁のある国で出稼ぎした方が楽だ。
この国の要人たちは誰もが曖昧な笑みを浮べるだけで俺とシンタローの要求に回答を出さなかった。
有耶無耶に誤魔化して、俺たちが帰国したらとりあえずハーレムに指示を仰ぐつもりなのかもしれない。
繊維工場の視察も申し入れた俺たちは回答は三日後でよいと告げた。
彼らは一様に微笑を浮べながら頷くとそのうちの1人が俺たちを競馬場に案内してきたのだ。
視察を頼んだ繊維工場ではなくて。
工場どころかたいていこういうときに案内される公共機関ではなく競馬場に連れてこられたことにシンタローは最初、腹を立てていた。
「そりゃあ、この国のレースは観光資源だし、王族も来るから変じゃねえけどよ」
と従兄弟は俺に囁く。俺もシンタローの言いたいことは分かる。
この国の人間は日程を調整する時間を作るためと少しでも俺たちの機嫌が良くなるよう接待のつもりでここへ連れてきたのだろう。
けれど、「叔父上がお喜び」はない。
あのアル中でギャンブル狂いのハーレムと一緒くたにされるとは……。
「ハーレムと一緒にされてもな」
肩を竦めてみせるとシンタローは俺に「まったくだ」とため息を吐いた。
ブザーが鳴り、馬たちが位置に着く。きっとハーレムはこの状態からも大騒ぎしていただろう。
それに金も賭けていたはずだ。部下の小遣いも巻き上げて大分注ぎ込んでいたに違いない。
一斉にスタートする馬はVIP席からだと小さく見える。
シンタローははじめから用意されていたオペラグラスを手にした。
なんだかんだ言って彼も興味があるらしい。手を握りしめて芝を駆ける馬に熱中し始めたシンタローに俺は心の中で「似たもの同士じゃないか」と思った。
ハーレムが離脱したのは他国にも知れている通り、新総帥であるシンタローとの確執が原因だ。
確執と言っても戦闘におけるスタンスの違いから生じた口喧嘩の応酬で伯父貴が出て行ったというのが正しいかもしれない。
アイツの邪魔をしてやる、とシンタローはさっきまで意気込んでいた。けれども。
「よっしゃあ!行け!まくれ!まくれ!抜いちまえ!」
従兄弟の頭の中はハーレムの顔がすっぱりと消え去っているらしい。
他の客はいないから興奮したシンタローが多少騒いだところで恥をかく心配はない。しかし……。
「あー!ちくしょう!馬券買えばよかったぜ!」
黒毛の馬がゴールするなりシンタローは髪を掻き毟った。
どうやら目をつけていた馬が1着のようだ。VIP席にいる俺たちに飲み物を給仕した後も控えていた係員をシンタローが手招きする。
「なあ、次のレースあの茶色いヤツに賭けたいんだけどさ」
金ならあるけどどうすりゃいいんだよ、と生真面目に係員に尋ねるシンタローに俺はため息を吐いた。
……きっとこの国の人間は青の一族は競馬が好きだと思うだろう。
*
オペラグラスを片手にしたシンタローが片手に握っていた馬券を放り投げる。
外れたことに悔しがるシンタローに俺は散らばった馬券を拾い集めてから渡した。
「外れたからといって放り捨てるのは止めろ」
ハーレムと同じで行儀が悪い、と俺が忠告するとシンタローは眉を顰めた。
「ついやっちまっただけだ」
ちゃんと拾うつもりだった、と弁解するシンタローは本部の家でマジックに「吸殻と空になったお酒は片づけなさい」と怒られたときのハーレムと同じ表情だった。
「それに賭け事は叔父貴と同じで向いていないようだな」
ハーレムの横領した金のほとんどがなんとかホイミという馬に注ぎ込んだ裏づけがあったな、と俺は従兄弟に言った。
「……ツいてなかっただけだ!」
おまえだってやってみりゃ当たるのが難しいの分かるぜ。そりゃハーレムは行き過ぎだけどな、とシンタローは口を尖らせる。
「俺は別に団の金まで賭ける気はねえよ。ただゲームをおもしろくするスパイスみたいなもんだろ」
せっかくここへ案内されたのに昼寝を決め込むわけにもいかねえし、とシンタローが言う。
「何も賭けなくても」
いいだろう、大人しく見ていればと俺が言い返そうとするとシンタローが遮った。
「賭けでもしねえと馬が走ってるの何回も見たってつまらねえだけだろ」
あんまりうるさく言うなって、とシンタローは言った。
「おまえだってあと2回もレースを見れば退屈になるぜ」
にやっとシンタローは笑った。
だが、そういわれても俺は賭ける気にはならない。プライベートで来たならともかく来賓なんだから大人しくするべきじゃないのか、とシンタローに言うと従兄弟は「つまんねえヤツ」と鼻を鳴らした。
「……馬に賭ける気はないが」
「なんだよ」
「おまえがあと3回とも予想を外すのは賭けてもいい」
認めたがらないだろうがこの従兄弟はハーレムに似ている。きっと外す。ビギナーズラックなんて言葉も無縁に決まっている。
いやビギナーズラックは金の賭けていない最初のレースだっただろう。きっと。
俺の言葉にシンタローは立ち上がり「言ったな!」と人差し指を突きつけてきた。
「俺が当てたら吠え面かくんじゃねえぞ!」
「それはおまえの方だ」
「俺が勝ったら親父がファンに貰ったとかいう勝負パンツを履いてもらうからな!」
高松の鼻血で溺れてもらうぜ!とシンタローが背を逸らす。
「そっちがその気なら俺は……」
そうだな、と考えて俺はマジック伯父が片時も離さないシンタロー人形の存在を思い出した。
「マジック伯父貴の人形をリビングで作ってもらおう」
見られた瞬間、伯父貴の熱い抱擁が待ってるぞ、と俺が言うとシンタローは「やったろうじゃねえか」と乱暴に椅子に座りなおす。
次のレースを賭けようと係員を呼んだ従兄弟に俺はどうせ外れる、とほくそ笑んだ。
シンタローとハーレムはよく似ている。
いくら馬に注ぎ込んだところで……当たるわけがない。
■SSS.64「独占欲」 キンタロー→シンタロー遅咲きの桜が緑色の芝を埋め尽くそうとはらはらと花びらを風とともに落としていく。
花びらを落とす風はまだ春が本格的に訪れていないことを示すかのようにキンタローの首筋をひんやりと撫でるようにそよぐ。
木陰をゆっくりと抜けて、やわらかい日差しが注ぐテラスへと着くと車椅子を押していた黒髪の同行者がほうっとため息を吐いた。
「きれいだろ?コタロー」
シンタローは車椅子に座らせた子どもにそう問いかけた。
問われた子ども、シンタローの弟のコタローは何も答えない。
当然だ。この子どもが意識を手放し深い眠りに着いてからすでに1年が経つ。
方々手を尽くして最新の医療を注ぎ込んでもコタローは目覚めてはくれなかった。
病棟の最上階に隔離したこの子を兄のシンタローは暇をみては見舞った。玩具や花、ぬいぐるみを携えたシンタローと同行する度にキンタローは兄馬鹿振りを微笑ましいと思うよりも痛ましい気持ちを感じていた。
今だってそうだ。
患者の脳波に刺激を与えるのによいと聞いて散歩に連れ出した従兄弟にキンタローはやりきれない気持ちを感じている。
「いい天気だよ。目が覚めたらお弁当作ってくればよかったって思うぞ」
絶好の花見日和だ、とシンタローは弟へと微笑みかけた。
お兄ちゃんなんでも作ってあげるよ。ケーキでもハンバーグでも、とシンタローは弟の淡い金髪を梳きながら口にする。
目が覚めたら何をしてあげようか、とシンタローが口にするのはいつものことだ。
はらはらと落ちるピンク色の小片を手のひらに受けながらキンタローは眉を寄せた。
緑の芝を隠すのを飽きない桜は立ち止まる兄弟にもゆっくりと落ちていく。
淡い金色の髪に落ちた花びらをつまみあげるとシンタローは顔を上げた。弟の洋服を払いながらシンタローは笑う。
「本当、すげえよなあ。おまえにもついてるぜ、キンタロー」
くすりと笑いながらシンタローは指差した。指摘されてキンタローはスーツの肩を払う。
髪にもついてるぜ、と言われて頭を振ると噴出す声が聞こえた。
「なんか、おまえ犬みてえ」
笑うシンタローにキンタローはムッとした。
自然と歪む口元にシンタローはますます笑う。ほころびる花のように笑うシンタローの目には間近の弟は映っていない。
黒い目に揺らぐ金色がコタローのものではなく自分の髪であることにキンタローは安堵した。
髪が乱れるのにもかまわずに手でかき上げる。その仕草を「ムキになんなよなあ」とシンタローは呆れた様に言った。
キンタローを見る彼の表情はいつもどおりで、さっきまでのコタローを見つめるやわらかで切ない顔ではない。
きっと他愛無いこの会話が途切れれば、散歩を切り上げて病室へと戻ればまたシンタローは胸が締め付けられる様な顔をする。
そう思うとキンタローはもう少しだけ彼の視線を自分へと止めておきたかった。
従兄弟が愛する弟と過ごす時間は自分といるときよりもずっと少ないというのに。
「うるさい。おまえにも付いてるぞ、シンタロー」
ほら、とキンタローは躊躇いつつも手を伸ばした。
大人気ないかもしれない。
従兄弟の視線を小さな弟から奪ってしまうのは。
ただの自己満足だ。俺が目覚めないコタローに話しかけるシンタローを見たくないからというのは。
けれど。
黒い瞳が映す存在は他の誰よりも自分だけであってほしいとキンタローは思った。
性質の悪い独占欲だと感じてはいたけれど触れた指を引っ込めることは出来なかった。
「ああ……ここにもあるぞ」
うすいピンクの花びらは払い落としてもまた振ってきてきりがない。
どこだよ、と髪に手をやろうとする従兄弟をキンタローは押し止める。
「片手で車椅子を支えるわけにいかないだろう。じっとしてろ、俺が取ってやる」
おまえもすごいぜ、と散らばる花びらを見ながらシンタローはキンタローに言った。
そうか、と答えながらキンタローはゆっくりと長い髪から花びらを掬い取る。
悪いな、適当でいいからさ、と振り散る花を見上げながらシンタローは肩を竦めた。
きっと彼はキンタローの行動を親切心から出たものだと思っている。
混じり気のない純粋な気持ちからでなく、あってはならない感情がこもったものだというのに。
触れていたいから、自分を見てほしいからだというのが本当の理由だと知ったら俺たちの関係はどうなるんだろう。
木々がそよぐ音に紛れるようにキンタローはため息を吐いた。
好きだと言ってしまえば、楽だけれど……。
そんなこと言えるわけがない、と黒い髪に触れながらキンタローは眼下の小さな従兄弟を見た。
幼い従兄弟は眠りから醒める様子がまったくない。
子どものやわらかな頬に花びらが落ちるのを認めながらキンタローは従兄弟の髪から指を離した。■SSS.65「サングラス」 キンタロー←シンタロー飛行場の電光掲示板は1時間も前から同じ文字しか表示していない。
秘密裏に入国してくれと頼まれて、観光客を装ってきたのが悔やまれる。
こんなことなら部下たちと同じようにジープで隣国から入ればよかった。
この地域では飛行機だの電車だのの乗り物の時間が正確でないことは理解しているつもりだったけれども、こんなに暇を持て余すなんて思っても見なかった。
飛行場にはこじんまりとした土産物屋が一軒しかない。
「……ちくしょう。暇だー」
暑いしうぜえ、と俺は何度目になるか分からない言葉を吐いた。言いながらさらにこの状況が嫌になってくる。
隣に座っていたキンタローが顔を上げることすらせずに「そうか」と返してきた。
そうか、じゃねえよ。おまえは暇じゃないからいいだろうけどなッ!
時折、外から吹き込んだ熱風が肌を炙るというのにキンタローは涼しい顔をしている。
もちろん、俺と同じように汗をかいているけれどこいつはちっともヘバらない。
キンタロー。おまえ、よく平気だな!馬鹿みたいに体力はあるよなあ、と嫌味を言えば「おまえは髪が長いから余計暑いんじゃないか」とさらっとかわされた。
そのキンタローは、飛行機が来ないと言われても俺と同じように暇を持て余すことはなかった。
俺が暇だと文句を言ってもたまに口を挟むだけでずっと手元の本に集中している。
俺も何か本か携帯ゲームでも持ってくればよかったとキンタローを見るたびに思う。
そうしたら、少なくとも無駄な時間にはならなかった。大体、この空港のヤツらは補給に何時間かけるつもりなんだ。
(……クソッ)
イライラして余計に暑く感じる。水でも飲もうとガンマ団を出るときから携帯してきたペットボトルに手をやる。
触れた瞬間、軽いペットボトルが爪に弾かれて横に転がった。
……どうやらいつのまにか飲みきっていたらしい。
キャップを開けて逆さまにしてみると手のひらにぬるい水滴がふたつばかり落ちた。
「……そこの店で水買ってくる」
おまえもいるだろ、と立ち上がるとキンタローが僅かに顔を上げた。
頼む、と短い返事が返ってきたのを俺は背中で受けた。
*
足音を立てて戻ってきたのにキンタローの姿勢は変わらない。
相変わらず手元の本に集中している。驚かせてやろうと思ってたからちょうどいい。
「買ってきたぞ」
にやけてくる口元を抑え込みながら俺はキンタローの肩を叩いた。
キンタローの目線に合うように膝を少し落とす。伸ばした髪が前へと落ちていくのを片手で押さえながら、俺はペットボトルを突き出した。
読書を邪魔されたキンタローが顔を上げる。
「シンタロー。……なんだ?サングラス?」
どうしたんだ、とキンタローが目を丸くしながら言った。
「そこの土産物屋で買ったんだよ。日差し強いだろ。どうだ?似合うか」
サングラスの縁を指で軽く叩いてみせる。なんか言えよ、とキンタローに重ねて言うと従兄弟は褒めるどころか思いもかけない言葉を口にした。
「……そうだな。似合うというか……ハーレムみたいだな」
「は……」
ハーレム?どういうことだ、それは。
あのアル中の団の金を横領したロクデナシみたいだと?ちょっと待て、キンタロー!
「おい、待てッ!どういうことだよ!ハーレムみたいって!?」
聞き捨てならねえ、と掴みかかるとキンタローは「落ち着け」と手を挙げる。
「どういうことも何も……。単純に叔父貴のような風体というか、一般人には見えないと思っただけだ」
競馬場にいる叔父貴を想像してみろ、とキンタローは言った。おまえはその横にいてもおかしくないぞ、と断言されて俺はキンタローの肩を掴んでいた手を緩める。
「……あ、そう」
つまり俺はそっちの筋の人みたいってことか、と理解する。
それはある意味似合っているということなのか。どうなのか、と考えて俺は混乱した。
俺があのおっさんみたいな危険人物と同類だとするとコイツはどうなんだよ……。
「じゃ、おまえは……」
キンタローをじっと見ると彼は首をかしげた。おまえと同じだと思うが、と淡々と言われて俺は確かめたくなる。
「ちょっとかけてみろよ。おまえ、俺と違って根っからの軍人っつーわけじゃねえし」
白衣着てるとグンマと同じで強そうには見えないしな、と俺はかけていたサングラスを渡した。
キンタローはため息を吐いてしぶしぶサングランスをかける。
「……」
「……どうだ」
似合わないだろう、と言われて俺は沈黙する。
「シンタロー?」
「……まあ、観光客には見えねえな」
俺が答えるとキンタローはそうだろうと頷いてサングラスを外した。
それから、キンタローはペットボトルを取り上げると再び本に向かってしまう。一連の行動を見て、俺は一瞬、もったいないと感じた。
(……さっきの見て科学者だと思うヤツはいねえだろうな)
観光客どころかカタギには見えないタイプだけれど、うさんくささは感じない。
ハーレムと同じタイプの人間には見えなくて、そういうことよりもむしろ。
(……ちょっとカッコイイなんて思っちまったじゃねーか)
花びらを落とす風はまだ春が本格的に訪れていないことを示すかのようにキンタローの首筋をひんやりと撫でるようにそよぐ。
木陰をゆっくりと抜けて、やわらかい日差しが注ぐテラスへと着くと車椅子を押していた黒髪の同行者がほうっとため息を吐いた。
「きれいだろ?コタロー」
シンタローは車椅子に座らせた子どもにそう問いかけた。
問われた子ども、シンタローの弟のコタローは何も答えない。
当然だ。この子どもが意識を手放し深い眠りに着いてからすでに1年が経つ。
方々手を尽くして最新の医療を注ぎ込んでもコタローは目覚めてはくれなかった。
病棟の最上階に隔離したこの子を兄のシンタローは暇をみては見舞った。玩具や花、ぬいぐるみを携えたシンタローと同行する度にキンタローは兄馬鹿振りを微笑ましいと思うよりも痛ましい気持ちを感じていた。
今だってそうだ。
患者の脳波に刺激を与えるのによいと聞いて散歩に連れ出した従兄弟にキンタローはやりきれない気持ちを感じている。
「いい天気だよ。目が覚めたらお弁当作ってくればよかったって思うぞ」
絶好の花見日和だ、とシンタローは弟へと微笑みかけた。
お兄ちゃんなんでも作ってあげるよ。ケーキでもハンバーグでも、とシンタローは弟の淡い金髪を梳きながら口にする。
目が覚めたら何をしてあげようか、とシンタローが口にするのはいつものことだ。
はらはらと落ちるピンク色の小片を手のひらに受けながらキンタローは眉を寄せた。
緑の芝を隠すのを飽きない桜は立ち止まる兄弟にもゆっくりと落ちていく。
淡い金色の髪に落ちた花びらをつまみあげるとシンタローは顔を上げた。弟の洋服を払いながらシンタローは笑う。
「本当、すげえよなあ。おまえにもついてるぜ、キンタロー」
くすりと笑いながらシンタローは指差した。指摘されてキンタローはスーツの肩を払う。
髪にもついてるぜ、と言われて頭を振ると噴出す声が聞こえた。
「なんか、おまえ犬みてえ」
笑うシンタローにキンタローはムッとした。
自然と歪む口元にシンタローはますます笑う。ほころびる花のように笑うシンタローの目には間近の弟は映っていない。
黒い目に揺らぐ金色がコタローのものではなく自分の髪であることにキンタローは安堵した。
髪が乱れるのにもかまわずに手でかき上げる。その仕草を「ムキになんなよなあ」とシンタローは呆れた様に言った。
キンタローを見る彼の表情はいつもどおりで、さっきまでのコタローを見つめるやわらかで切ない顔ではない。
きっと他愛無いこの会話が途切れれば、散歩を切り上げて病室へと戻ればまたシンタローは胸が締め付けられる様な顔をする。
そう思うとキンタローはもう少しだけ彼の視線を自分へと止めておきたかった。
従兄弟が愛する弟と過ごす時間は自分といるときよりもずっと少ないというのに。
「うるさい。おまえにも付いてるぞ、シンタロー」
ほら、とキンタローは躊躇いつつも手を伸ばした。
大人気ないかもしれない。
従兄弟の視線を小さな弟から奪ってしまうのは。
ただの自己満足だ。俺が目覚めないコタローに話しかけるシンタローを見たくないからというのは。
けれど。
黒い瞳が映す存在は他の誰よりも自分だけであってほしいとキンタローは思った。
性質の悪い独占欲だと感じてはいたけれど触れた指を引っ込めることは出来なかった。
「ああ……ここにもあるぞ」
うすいピンクの花びらは払い落としてもまた振ってきてきりがない。
どこだよ、と髪に手をやろうとする従兄弟をキンタローは押し止める。
「片手で車椅子を支えるわけにいかないだろう。じっとしてろ、俺が取ってやる」
おまえもすごいぜ、と散らばる花びらを見ながらシンタローはキンタローに言った。
そうか、と答えながらキンタローはゆっくりと長い髪から花びらを掬い取る。
悪いな、適当でいいからさ、と振り散る花を見上げながらシンタローは肩を竦めた。
きっと彼はキンタローの行動を親切心から出たものだと思っている。
混じり気のない純粋な気持ちからでなく、あってはならない感情がこもったものだというのに。
触れていたいから、自分を見てほしいからだというのが本当の理由だと知ったら俺たちの関係はどうなるんだろう。
木々がそよぐ音に紛れるようにキンタローはため息を吐いた。
好きだと言ってしまえば、楽だけれど……。
そんなこと言えるわけがない、と黒い髪に触れながらキンタローは眼下の小さな従兄弟を見た。
幼い従兄弟は眠りから醒める様子がまったくない。
子どものやわらかな頬に花びらが落ちるのを認めながらキンタローは従兄弟の髪から指を離した。■SSS.65「サングラス」 キンタロー←シンタロー飛行場の電光掲示板は1時間も前から同じ文字しか表示していない。
秘密裏に入国してくれと頼まれて、観光客を装ってきたのが悔やまれる。
こんなことなら部下たちと同じようにジープで隣国から入ればよかった。
この地域では飛行機だの電車だのの乗り物の時間が正確でないことは理解しているつもりだったけれども、こんなに暇を持て余すなんて思っても見なかった。
飛行場にはこじんまりとした土産物屋が一軒しかない。
「……ちくしょう。暇だー」
暑いしうぜえ、と俺は何度目になるか分からない言葉を吐いた。言いながらさらにこの状況が嫌になってくる。
隣に座っていたキンタローが顔を上げることすらせずに「そうか」と返してきた。
そうか、じゃねえよ。おまえは暇じゃないからいいだろうけどなッ!
時折、外から吹き込んだ熱風が肌を炙るというのにキンタローは涼しい顔をしている。
もちろん、俺と同じように汗をかいているけれどこいつはちっともヘバらない。
キンタロー。おまえ、よく平気だな!馬鹿みたいに体力はあるよなあ、と嫌味を言えば「おまえは髪が長いから余計暑いんじゃないか」とさらっとかわされた。
そのキンタローは、飛行機が来ないと言われても俺と同じように暇を持て余すことはなかった。
俺が暇だと文句を言ってもたまに口を挟むだけでずっと手元の本に集中している。
俺も何か本か携帯ゲームでも持ってくればよかったとキンタローを見るたびに思う。
そうしたら、少なくとも無駄な時間にはならなかった。大体、この空港のヤツらは補給に何時間かけるつもりなんだ。
(……クソッ)
イライラして余計に暑く感じる。水でも飲もうとガンマ団を出るときから携帯してきたペットボトルに手をやる。
触れた瞬間、軽いペットボトルが爪に弾かれて横に転がった。
……どうやらいつのまにか飲みきっていたらしい。
キャップを開けて逆さまにしてみると手のひらにぬるい水滴がふたつばかり落ちた。
「……そこの店で水買ってくる」
おまえもいるだろ、と立ち上がるとキンタローが僅かに顔を上げた。
頼む、と短い返事が返ってきたのを俺は背中で受けた。
*
足音を立てて戻ってきたのにキンタローの姿勢は変わらない。
相変わらず手元の本に集中している。驚かせてやろうと思ってたからちょうどいい。
「買ってきたぞ」
にやけてくる口元を抑え込みながら俺はキンタローの肩を叩いた。
キンタローの目線に合うように膝を少し落とす。伸ばした髪が前へと落ちていくのを片手で押さえながら、俺はペットボトルを突き出した。
読書を邪魔されたキンタローが顔を上げる。
「シンタロー。……なんだ?サングラス?」
どうしたんだ、とキンタローが目を丸くしながら言った。
「そこの土産物屋で買ったんだよ。日差し強いだろ。どうだ?似合うか」
サングラスの縁を指で軽く叩いてみせる。なんか言えよ、とキンタローに重ねて言うと従兄弟は褒めるどころか思いもかけない言葉を口にした。
「……そうだな。似合うというか……ハーレムみたいだな」
「は……」
ハーレム?どういうことだ、それは。
あのアル中の団の金を横領したロクデナシみたいだと?ちょっと待て、キンタロー!
「おい、待てッ!どういうことだよ!ハーレムみたいって!?」
聞き捨てならねえ、と掴みかかるとキンタローは「落ち着け」と手を挙げる。
「どういうことも何も……。単純に叔父貴のような風体というか、一般人には見えないと思っただけだ」
競馬場にいる叔父貴を想像してみろ、とキンタローは言った。おまえはその横にいてもおかしくないぞ、と断言されて俺はキンタローの肩を掴んでいた手を緩める。
「……あ、そう」
つまり俺はそっちの筋の人みたいってことか、と理解する。
それはある意味似合っているということなのか。どうなのか、と考えて俺は混乱した。
俺があのおっさんみたいな危険人物と同類だとするとコイツはどうなんだよ……。
「じゃ、おまえは……」
キンタローをじっと見ると彼は首をかしげた。おまえと同じだと思うが、と淡々と言われて俺は確かめたくなる。
「ちょっとかけてみろよ。おまえ、俺と違って根っからの軍人っつーわけじゃねえし」
白衣着てるとグンマと同じで強そうには見えないしな、と俺はかけていたサングラスを渡した。
キンタローはため息を吐いてしぶしぶサングランスをかける。
「……」
「……どうだ」
似合わないだろう、と言われて俺は沈黙する。
「シンタロー?」
「……まあ、観光客には見えねえな」
俺が答えるとキンタローはそうだろうと頷いてサングラスを外した。
それから、キンタローはペットボトルを取り上げると再び本に向かってしまう。一連の行動を見て、俺は一瞬、もったいないと感じた。
(……さっきの見て科学者だと思うヤツはいねえだろうな)
観光客どころかカタギには見えないタイプだけれど、うさんくささは感じない。
ハーレムと同じタイプの人間には見えなくて、そういうことよりもむしろ。
(……ちょっとカッコイイなんて思っちまったじゃねーか)
■SSS.59「aromatic」 キンタロー×シンタロー軽くタオルドライをしたものの髪はまだ水気を持っている。
パジャマの上からタオルを引っ掛けた状態でとりあえず水分補給をしようと向かったキッチンから水音が聞こえた。
「誰かいんのか?」
ドアを開ける前に呼びかける。いるのが父親だとすると髪を乾かしきっていないことを小うるさく咎められる。
がしがしと拭き取りながら俺は「おーい」と叫んだ。できれば俺が強い態度を取れるグンマであって欲しい。
けれども水音が邪魔をして相手に聞こえなかった。
「親父~ぃ?」
グンマだといいな、と思いつつ室内に踏み入れると短めの金髪が見えた。
髪の長さは父親と同じくらいだけれども微妙に違う。金色だけれども父よりは色合いがうすく、それに空色のスーツを着ていた。
父親はイイ年をして未だにピンク色のジャケットを羽織る男だけれども、この色は着ない。
シンクの前に立っていたのはもう一人の従兄弟、キンタローだった。
「なんだ、おまえか」
タオルから手を離して呟くと背を向けていたキンタローが蛇口を止める。
平たい皿を拭きながら、キンタローは俺に向かって「シンタローか」と言った。
「ナニ?おまえ今メシ食ったのかよ」
「ああ」
夕食の席に着いたときに確かグンマからキンタローは研究室にこもっていると聞いていた。
こんな時間まで、と咎めるような視線を送ると仕方がないだろうとばかりに肩を竦められる。
「今日中に片づけたいことがあったんだ」
そう言いながらキンタローは食器棚に皿を仕舞う。それから、彼は横にある冷蔵庫を開けた。
「これでいいのか?」
炭酸水のボトルを掲げられて俺は頷いた。
「ああ。風呂入ってノド渇いちまったからな」
相変わらず従兄弟は自分のことは何でも分かるらしい。
礼を言いつつ、受け取るとキンタローはパタンと冷蔵庫のドアを閉めた。
「なんだよ?」
キッチンの電気は俺が消すぜ、とスーツのジャケットを着たままでいるキンタローに俺は言った。
ボトルの蓋がきゅぽんと小気味のいい音を立てて、それから炭酸の泡が浮き上がる小さな音が耳に入ってくる。
しゅわっと立った音を楽しみつつ、口をつけると口腔へと気持ちのよい冷たさが満たされた。
寒くなってきたけれども、やはり風呂上りには冷たいもののほうが美味い。
「キンタロー?」
いいんだぜ、とボトルから口を離して部屋に引き上げるよう促す。
だが、彼は俺に従うのではなく違う言葉を口にした。
「何のにおいだ?」
「はあ?」
キンタローは俺に近づいて、ボトルを手にする俺の手首を掴んだ。
「なッ!おい、ちょっと待て!零れるだろッ」
なんなんだよ、とボトルに慌てて蓋をする。
キンタローはといえば、身を屈めて俺の手に鼻を寄せていた。掠めるように吹きかかる息がくすぐったく、変な気分になる。
「レモン……?いや違うな」
石鹸を変えたのか、それともバスオイルかなどとキンタローは考え込みながら呟く。
「レモンって……ああ、分かった。このにおいいは柚子だぜ。冬至だろ」
風呂に柚子を浮かべたんだよ、と掴まれた手を払って説明してやるとキンタローは納得したような顔をした。
「そうだったな。おまえは昔から日本式で過ごすのが習慣だった」
日本支部で暮らしてたからか、とうんうんと頷く従兄弟に俺はそうかもなと投げやりな返事を返す。
「柚子湯に入りてえんなら、まだ何個か冷蔵庫にあるぞ」
キッチンペーパーに包めば掃除も楽だ、と教えてやるとキンタローはそうなのかと感嘆したように言った。
それから俺は炭酸水の残りを飲み干しながらキンタローに柚子の包み方をレクチャーしてやった。
適当にすればいいのに真剣な顔で柚子を包むキンタローの表情は見ていてなんだかくすぐったい気がする。
そのうちコタローが起きたときにはこうやって冬至の日を過ごすのかな。
そんなことを思い描いていると2個目の柚子に切れ込みを入れたキンタローが不意に問いを発した。
「伯父貴とグンマは使わなかったのか?」
何でこんなに買っておいたんだ、と不思議そうに聞く。
「残りは明日柚子釜にする……ああ、親父とグンマ?あいつらはやらねえよ」
「柚子釜、か」
「そ。たまには手の込んだもん作ってみたいし。
親父とグンマはバラとかバニラとか甘ったるいもんがすきだろ。柚子はミカンの入浴剤とかよりにおいがキツイからな。
いい柚子だと次の日まで体に香りが染み付いてるし」
だから柚子湯に入るのは俺とおまえだけ、とキンタローが包丁を洗い終わったらボトルを軽く水洗いしようと思いながら答える。
キンタローのほうも俺の行動が分かっていて、洗い終わっても蛇口は閉めなかった。
「そこ閉じたら出来上がりだからな」
ちゃぷちゃぷとボトルを揺すりながら水で洗う。
するとキンタローはできたぞと袋仕立てにしたキッチンペーパー俺に見せながら口を開いた。
「これで今日は俺も柚子湯だ。……そうすると俺とおまえだけが明日同じにおいなんだな」
キンタローの言葉は思いついたまま口にしたものでとくに含むような響きはない。
だから、普通に相槌を打てば言いだけのことなのにそうだな、と答えた俺の声は思いもかけず上ずった。
「シンタロー、それは」
「え、ああ?」
柚子の入った袋を手にしたキンタローが怪訝そうに俺を見る。
「いつまで洗ってるんだ……捨てるぞ」
変なヤツだな、と言いながらキンタローが俺の手からボトルを取り上げる。
一瞬だけ触れた指先が不意に先ほど手首を掴まれたときに感じた呼気を思い出させ、冷めたはずの肌が風呂上がりのように火照り始める。
(ちくしょう。これから寝るのに考えちまうじゃねえかよ)
この後、キンタローの肌が自分と同じ香りがするのだ、と意識して俺はどうしようもなくどきどきした。
誤魔化すようにかき上げた髪の先からも柚子の香りがして、どうしていいのか分からない。■SSS.60「可愛くない」 キンタロー×シンタロー渡された紙は5枚もあって俺はうんざりした。
ターゲットの部隊に潜入するくらい士官学校生の時分からもう何度もやってるのだ。
それでも生真面目にペンを持ってチェックしようとするキンタローには逆らえず、俺はしぶしぶテストを受けるはめになる。
5枚にわたってびっしりと潜入組織のデータやら俺の偽名での設定、この場合はどういう行動をとるべきか、などといった問題が印刷されている。
とっとと終わらせてコタローの顔でも見に行こうと俺は1問目に目を走らせた。
*
「その発音は綺麗過ぎる」
俺だって口に出してから気づいたんだ。
もっと乱暴にクチを聞けって言うんだろ。分かってるっつうの。さっきまで出来てたんだからな。
ちょっと間違っただけじゃねえか、うるせえな。
「俺は指摘をしたまでだ。ボロを出して捕まりたくなかったら気をつけろ」
現地の発音に近づけろ、と笑みを浮かべながらキンタローは俺を見た。
くそっ。むかつくヤローだぜ。
だいたいなんでコイツが監督するんだよ。
他にもいるだろ、他にも。
「そこの発音は正しくはこうするべきだ……分かったか?シンタロー」
ちくしょう!その口、止めろ。自分が優位だからって笑いやがって!!
あーホントむかつくヤツだ!本当になんでコイツなんだよ!!
「……手の開いてるのが俺で残念だったな」
次の問題はまだか、とキンタローはチェック表にバツをつけながら俺を見る。
やってやろうじゃねえか。
「――で、どうだよ?合ってるか?」
間違っていないはずだ。めちゃくちゃ自信がある。ほら、とっとと言えよな。
睨みつけるとキンタローは息を吐いて、
「……正解だ。次もそうだといいな、シンタロー」
と言った。
いちいち気に障るやつだぜ。
まあいい。とっとと終わらせるか。コタローが待ってるんだ。俺の可愛い弟のコタローが。
「顔が緩んでるぞ、シンタロー。コタローのことは後で考えろ」
……うるさい。なんでもかんでも俺のこと分かりやがって。
24年間観察してたからって言われりゃおしまいだけどな、いちいち指摘すんじゃねえよ!
コタローと違って可愛げのないヤツだぜ。
「コタローのことは後にしろ」
次も間違えるつもりなんだな、と笑われて俺は本気で腹が立った。
ああ、ホントうるせえヤツだな!可愛くねえ!
「間違える気なんてねえよ。ほら、次だ。次」
チェックしろと言ってキンタローを睨むと笑った。
「――どうだよ?合ってるだろ。完璧な発音だし、これ以上ない答えだと思うぜ」
正解だという自信はさっきよりある。
得意気にキンタローに宣言すると従兄弟はふっと口元を緩めた。
さっきまでの俺の失敗を指摘するような笑い方とは違う。どちらかといえばやわらかい印象の笑みだ。
「……おまえのそういう、俺に対してむきになるところは可愛いな」
ああ、それは正解だ、と付け加えてキンタローは俺を見た。
次はどうなんだ、と問いかけるキンタローに俺はぐっと詰まる。
慌てて紙を1枚捲ると笑い声を噛み殺す気配が伝わってきて、俺は照れくさいと同時に苛立ちも感じた。
むかつく。ほんとむかつく。
なんでそういうこと言い出すんだよ。
「次は……ちょっと待ってろ」
集中しろ、集中。これが終わったら
パジャマの上からタオルを引っ掛けた状態でとりあえず水分補給をしようと向かったキッチンから水音が聞こえた。
「誰かいんのか?」
ドアを開ける前に呼びかける。いるのが父親だとすると髪を乾かしきっていないことを小うるさく咎められる。
がしがしと拭き取りながら俺は「おーい」と叫んだ。できれば俺が強い態度を取れるグンマであって欲しい。
けれども水音が邪魔をして相手に聞こえなかった。
「親父~ぃ?」
グンマだといいな、と思いつつ室内に踏み入れると短めの金髪が見えた。
髪の長さは父親と同じくらいだけれども微妙に違う。金色だけれども父よりは色合いがうすく、それに空色のスーツを着ていた。
父親はイイ年をして未だにピンク色のジャケットを羽織る男だけれども、この色は着ない。
シンクの前に立っていたのはもう一人の従兄弟、キンタローだった。
「なんだ、おまえか」
タオルから手を離して呟くと背を向けていたキンタローが蛇口を止める。
平たい皿を拭きながら、キンタローは俺に向かって「シンタローか」と言った。
「ナニ?おまえ今メシ食ったのかよ」
「ああ」
夕食の席に着いたときに確かグンマからキンタローは研究室にこもっていると聞いていた。
こんな時間まで、と咎めるような視線を送ると仕方がないだろうとばかりに肩を竦められる。
「今日中に片づけたいことがあったんだ」
そう言いながらキンタローは食器棚に皿を仕舞う。それから、彼は横にある冷蔵庫を開けた。
「これでいいのか?」
炭酸水のボトルを掲げられて俺は頷いた。
「ああ。風呂入ってノド渇いちまったからな」
相変わらず従兄弟は自分のことは何でも分かるらしい。
礼を言いつつ、受け取るとキンタローはパタンと冷蔵庫のドアを閉めた。
「なんだよ?」
キッチンの電気は俺が消すぜ、とスーツのジャケットを着たままでいるキンタローに俺は言った。
ボトルの蓋がきゅぽんと小気味のいい音を立てて、それから炭酸の泡が浮き上がる小さな音が耳に入ってくる。
しゅわっと立った音を楽しみつつ、口をつけると口腔へと気持ちのよい冷たさが満たされた。
寒くなってきたけれども、やはり風呂上りには冷たいもののほうが美味い。
「キンタロー?」
いいんだぜ、とボトルから口を離して部屋に引き上げるよう促す。
だが、彼は俺に従うのではなく違う言葉を口にした。
「何のにおいだ?」
「はあ?」
キンタローは俺に近づいて、ボトルを手にする俺の手首を掴んだ。
「なッ!おい、ちょっと待て!零れるだろッ」
なんなんだよ、とボトルに慌てて蓋をする。
キンタローはといえば、身を屈めて俺の手に鼻を寄せていた。掠めるように吹きかかる息がくすぐったく、変な気分になる。
「レモン……?いや違うな」
石鹸を変えたのか、それともバスオイルかなどとキンタローは考え込みながら呟く。
「レモンって……ああ、分かった。このにおいいは柚子だぜ。冬至だろ」
風呂に柚子を浮かべたんだよ、と掴まれた手を払って説明してやるとキンタローは納得したような顔をした。
「そうだったな。おまえは昔から日本式で過ごすのが習慣だった」
日本支部で暮らしてたからか、とうんうんと頷く従兄弟に俺はそうかもなと投げやりな返事を返す。
「柚子湯に入りてえんなら、まだ何個か冷蔵庫にあるぞ」
キッチンペーパーに包めば掃除も楽だ、と教えてやるとキンタローはそうなのかと感嘆したように言った。
それから俺は炭酸水の残りを飲み干しながらキンタローに柚子の包み方をレクチャーしてやった。
適当にすればいいのに真剣な顔で柚子を包むキンタローの表情は見ていてなんだかくすぐったい気がする。
そのうちコタローが起きたときにはこうやって冬至の日を過ごすのかな。
そんなことを思い描いていると2個目の柚子に切れ込みを入れたキンタローが不意に問いを発した。
「伯父貴とグンマは使わなかったのか?」
何でこんなに買っておいたんだ、と不思議そうに聞く。
「残りは明日柚子釜にする……ああ、親父とグンマ?あいつらはやらねえよ」
「柚子釜、か」
「そ。たまには手の込んだもん作ってみたいし。
親父とグンマはバラとかバニラとか甘ったるいもんがすきだろ。柚子はミカンの入浴剤とかよりにおいがキツイからな。
いい柚子だと次の日まで体に香りが染み付いてるし」
だから柚子湯に入るのは俺とおまえだけ、とキンタローが包丁を洗い終わったらボトルを軽く水洗いしようと思いながら答える。
キンタローのほうも俺の行動が分かっていて、洗い終わっても蛇口は閉めなかった。
「そこ閉じたら出来上がりだからな」
ちゃぷちゃぷとボトルを揺すりながら水で洗う。
するとキンタローはできたぞと袋仕立てにしたキッチンペーパー俺に見せながら口を開いた。
「これで今日は俺も柚子湯だ。……そうすると俺とおまえだけが明日同じにおいなんだな」
キンタローの言葉は思いついたまま口にしたものでとくに含むような響きはない。
だから、普通に相槌を打てば言いだけのことなのにそうだな、と答えた俺の声は思いもかけず上ずった。
「シンタロー、それは」
「え、ああ?」
柚子の入った袋を手にしたキンタローが怪訝そうに俺を見る。
「いつまで洗ってるんだ……捨てるぞ」
変なヤツだな、と言いながらキンタローが俺の手からボトルを取り上げる。
一瞬だけ触れた指先が不意に先ほど手首を掴まれたときに感じた呼気を思い出させ、冷めたはずの肌が風呂上がりのように火照り始める。
(ちくしょう。これから寝るのに考えちまうじゃねえかよ)
この後、キンタローの肌が自分と同じ香りがするのだ、と意識して俺はどうしようもなくどきどきした。
誤魔化すようにかき上げた髪の先からも柚子の香りがして、どうしていいのか分からない。■SSS.60「可愛くない」 キンタロー×シンタロー渡された紙は5枚もあって俺はうんざりした。
ターゲットの部隊に潜入するくらい士官学校生の時分からもう何度もやってるのだ。
それでも生真面目にペンを持ってチェックしようとするキンタローには逆らえず、俺はしぶしぶテストを受けるはめになる。
5枚にわたってびっしりと潜入組織のデータやら俺の偽名での設定、この場合はどういう行動をとるべきか、などといった問題が印刷されている。
とっとと終わらせてコタローの顔でも見に行こうと俺は1問目に目を走らせた。
*
「その発音は綺麗過ぎる」
俺だって口に出してから気づいたんだ。
もっと乱暴にクチを聞けって言うんだろ。分かってるっつうの。さっきまで出来てたんだからな。
ちょっと間違っただけじゃねえか、うるせえな。
「俺は指摘をしたまでだ。ボロを出して捕まりたくなかったら気をつけろ」
現地の発音に近づけろ、と笑みを浮かべながらキンタローは俺を見た。
くそっ。むかつくヤローだぜ。
だいたいなんでコイツが監督するんだよ。
他にもいるだろ、他にも。
「そこの発音は正しくはこうするべきだ……分かったか?シンタロー」
ちくしょう!その口、止めろ。自分が優位だからって笑いやがって!!
あーホントむかつくヤツだ!本当になんでコイツなんだよ!!
「……手の開いてるのが俺で残念だったな」
次の問題はまだか、とキンタローはチェック表にバツをつけながら俺を見る。
やってやろうじゃねえか。
「――で、どうだよ?合ってるか?」
間違っていないはずだ。めちゃくちゃ自信がある。ほら、とっとと言えよな。
睨みつけるとキンタローは息を吐いて、
「……正解だ。次もそうだといいな、シンタロー」
と言った。
いちいち気に障るやつだぜ。
まあいい。とっとと終わらせるか。コタローが待ってるんだ。俺の可愛い弟のコタローが。
「顔が緩んでるぞ、シンタロー。コタローのことは後で考えろ」
……うるさい。なんでもかんでも俺のこと分かりやがって。
24年間観察してたからって言われりゃおしまいだけどな、いちいち指摘すんじゃねえよ!
コタローと違って可愛げのないヤツだぜ。
「コタローのことは後にしろ」
次も間違えるつもりなんだな、と笑われて俺は本気で腹が立った。
ああ、ホントうるせえヤツだな!可愛くねえ!
「間違える気なんてねえよ。ほら、次だ。次」
チェックしろと言ってキンタローを睨むと笑った。
「――どうだよ?合ってるだろ。完璧な発音だし、これ以上ない答えだと思うぜ」
正解だという自信はさっきよりある。
得意気にキンタローに宣言すると従兄弟はふっと口元を緩めた。
さっきまでの俺の失敗を指摘するような笑い方とは違う。どちらかといえばやわらかい印象の笑みだ。
「……おまえのそういう、俺に対してむきになるところは可愛いな」
ああ、それは正解だ、と付け加えてキンタローは俺を見た。
次はどうなんだ、と問いかけるキンタローに俺はぐっと詰まる。
慌てて紙を1枚捲ると笑い声を噛み殺す気配が伝わってきて、俺は照れくさいと同時に苛立ちも感じた。
むかつく。ほんとむかつく。
なんでそういうこと言い出すんだよ。
「次は……ちょっと待ってろ」
集中しろ、集中。これが終わったら
■SSS.52「Why?」 キンタロー×シンタロ+ハーレム視界を横切った金色に思わずハーレムは駆け寄った。
焦り、足がもつれそうになるのを必死で押さえ込んで回り込むとそこにいたのは思い描いた人物ではない。
似ているが、脳裏に浮かんだ人の忘れ形見だった。
「ハーレム?」
何か用か、と眉を顰めた様子は兄のルーザーによく似ている。
今朝、食卓を囲んだときには長かった鬣のような金色の髪も丁寧にカットされていて、生前の兄を写し取ったかのようだった。
「あー、いや……髪切ったんだな」
何を言っていいのか分からなくてしどろもどろ口にすると、目の前の甥が微笑んだ。
うすい口唇を上げるその仕草がやはり兄によく似ている。
じろじろと見つめると口角になにか赤いものが付いているのが見えてハーレムは訝しげに思った。
「キンタロー、なんか口についてるぞ」
ここらへんに、と己の口元で指し示すとキンタローは不思議そうな顔をした。
「ついている?」
「ああ、なんか赤い。ジャム……じゃねえよな。なんだ」
赤い、とハーレムが言うなり、キンタローはああ、と納得したような顔をした。
「それは俺の血だ」
ごく普通にそういってキンタローが口元を手で拭う。
けれども言われたほうのハーレムは普通にはしていられなかった。
「おまえの?」
どういうことだ。殴られては、いねえようだし。いや、こいつがそうなら相手は……あのガキしかいねえよな。
本気で殺し合いをおっぱじめたにしちゃ爆発音は響いていねえし。
ガキの喧嘩か、とぐるぐると悩んでいるとキンタローは小首を傾げた。
「なにかおかしいか?ああ……まだとれていないのか」
言って、再び口元を拭うキンタローにハーレムは何も言葉が浮かばない。
幾度か拭って気が済んだのか、
「まだついているか?」
と言われてようやく我に返る。
「ん……ああ、取れたけどな」
けどな、とハーレムが言うとキンタローはまだ何かあるのかとでも言いたげな表情を浮かべた。
「殴られたわけじゃあねえよな?」
口の端が切れた様子も痣が出来た様子もない。
聞きたくねえけど、と恐る恐る疑問を呈したハーレムに甥は父親譲りの笑顔を浮かべた。
「殺してやろうと思って口を塞いでやったら抵抗されてな。
舌を噛まれた。噛み切られてはいないのに意外と血が出るもんだな。
それに、もう大分経つのにまだ舌の先がひりひりして……どうした?ハーレム?」
具合でも悪いのか、と覗き込む甥にハーレムはなんともいえない気分に陥った。
その殺し方は間違ってるだろうが、と思ったが兄譲りの容姿で訝しむ甥の姿を見るともう何も口には出せなかった。■SSS.54「ロッドの忠告」 キンタロー×シンタロー+ロッド×リキッド?火事を告げるアラートが鳴り止まない。
朝食の席で伯父が貴賓室で友好国の大統領と会談するとキンタローは聞いていた。
和やかな会談であるはずなのに、本部棟の静寂が打ち破られた。
その事実が何を示すのかはっきりしないまま、研究室で報告を受けるのを待たずにキンタローは現場へと急いだ。
足音を立てて、濛々と立つ煙の中を抜けると焦げ臭い臭いが鼻を突く。
マスクをした団員が消化剤を撒いているが、あまり緊迫した空気はない。
どちらかといえば、シンタローと伯父の親子喧嘩で棟が破壊されたときの後始末と同じような雰囲気だ。
アフロヘアーの秘書たちに状況を尋ねるとこの惨状を引き起こしたのが伯父本人だと言われる。
詳しい事情を聞いて、キンタローは眼魔砲を撃ったマジックよりも一番の原因であるハーレムとその部下たちを呪った。
友好国に裏切られたのか、暗殺かと一瞬でも考えてしまったことが厭わしい。
元凶の特戦部隊は遠征の準備に入っていると聞いて、その場は秘書たちに任せて滑走路へと赴く。
整備班が嫌そうな顔をしながら作業にあたるのを見て、キンタローはため息を吐いた。
飛行船のタラップを上がり、室内に入るとそこは4年前に訪れたときと同じ光景だった。
ところどころアルコール類のボトルが転がっているが、一応は片付いている。
めずらしい。掃除でもしたのか、と思いながらキンタローがハーレムを呼ぶと現れたのは彼の部下1人だけだった。
「ロッドか」
「……キンタロー様。何か御用で?」
垂れ気味の目元を殊更緩ませてロッドは聞いた。へらへらと笑う態度にむっとしたが、キンタローは口にはしなかった。
「叔父貴はどうした?貴賓室のことで話がある」
貴賓室とキンタローが口にするとロッドが盛大に笑う。
「マジック様にお仕置きされてるとこじゃないすかね。他のメンバーは寝てますよ。
戦地に行くってのに、俺だけ寝ずの番で……ああ、それは隊長から言いつけられた罰のひとつですけどね。
ま、日が差してるってのにそう寝られるわけじゃないですけど」
御用があるのなら、総帥室へ行かれたらどうですか、とロッドが笑う。
「ハーレムの処遇をマジック伯父貴が決めてるのなら俺が行くには及ばないだろう。
一言俺からも忠告しようと思っていたがな。おまえたちもあまり叔父貴の悪ふざけに付き合わないことだ」
おまえのミスが原因だそうだな、と貴賓室の方向を顎でしゃくってキンタローはロッドを見据えた。
「ミス……ねえ。それが故意だったらどうします、キンタロー様」
ロッドはジャケットの内側から数枚の写真を取り出した。
黒いレザーのジャケットは特戦部隊だけの制服だ。
一時期これを着ていたな、と少し懐かしく思う心を打ち消してキンタローは写真を受け取る。
「なかなかよく写ってるでしょ?俺が撮ったんですよ」
隊長に命令されてね、と笑う彼が寄越した写真は新しい番人のあられもない姿を写し取っている。
「かわいい息子さんのこんな姿見ちゃったら坊やの復帰は難しいですよね」
可愛い息子さんを持つ親に俺からのやさしい忠告ですよ。
でも、まさか坊やのパパがアメリカ大統領とはね、とロッドは大仰に肩を竦める。
「俺はね、キンタロー様。坊やには幸せな人生を歩んで欲しいわけ。
でも、獅子舞の傍じゃあそうはいかない。だから坊やのパパに写真を披露しただけのことですよ」
隊長のことは尊敬してますけどね、とロッドは写真をキンタローから取り上げながら付け加えた。
「……ロッド」
「リキッド坊やじゃなかったら俺も反対しないっすけどね。
まあ、さっきの坊やのパパの様子じゃ金輪際、獅子舞は近づけられなくなるでしょうけど」
そう思いませんか、と垂れた目を片方閉じてロッドはウィンクした。
その仕草が癇に障ってキンタローはロッドの胸元を掴みあげた。
しばらく視線を交えたまま、キンタローはロッドの胸元を掴んでいたが手を出さずに離した。
今はそんなことをしている場合じゃない。一刻も早く、シンタローを救出しないと。
そう思ってキンタローは踵を返そうとした。だが。
「キンタロー様」
ロッドに呼び止められ、キンタローは振り返る。
にやついていたはずのイタリア人がすっと真剣みを帯びた表情でいるのを見てキンタローは一瞬緊張した。
殺気ではない張り詰めた空気が2人の間を漂う。
「俺たち、特戦が帰還してるのは不思議じゃないですか?」
「……?」
何を言っているとキンタローが怪訝に思うとロッドは続きを口にした。
「本部を盗聴するのはわけないんですよ。
団員はみんな遠征か、あの島へ行く装置を開発するのにかかりきりですからね」
壬生のやつらが紛れ込んでたら情報は駄々漏れですね、とロッドに言われてキンタローは言葉に詰まった。
「新総帥を助けたい気持ちは分かりますけど周りを見たらどうですか?」
「……ロッド」
「そこまで送りますよ」
タラップにいたるドアを開けてロッドは表情を緩めた。
真剣味はもうない。いつもの緩んだ表情だ。
近づき、ロッドはキンタローの耳に口唇を寄せた。
「新総帥とあんたの関係ばらすよりよかったでしょ?」
マジック様にばらしたら坊やの騒ぎどころじゃない。
現状を忠告してやったのを感謝してくださいよ、と揶揄いまじりに口にされてキンタローはなんとも言えない気分になった。
タラップを降りれば、煙が空へと流れていくのが見える。
自分と従兄弟の関係がどこまで漏れているのか考えて、キンタローは首を振った。
そんなことは後でもいい。
焦り、足がもつれそうになるのを必死で押さえ込んで回り込むとそこにいたのは思い描いた人物ではない。
似ているが、脳裏に浮かんだ人の忘れ形見だった。
「ハーレム?」
何か用か、と眉を顰めた様子は兄のルーザーによく似ている。
今朝、食卓を囲んだときには長かった鬣のような金色の髪も丁寧にカットされていて、生前の兄を写し取ったかのようだった。
「あー、いや……髪切ったんだな」
何を言っていいのか分からなくてしどろもどろ口にすると、目の前の甥が微笑んだ。
うすい口唇を上げるその仕草がやはり兄によく似ている。
じろじろと見つめると口角になにか赤いものが付いているのが見えてハーレムは訝しげに思った。
「キンタロー、なんか口についてるぞ」
ここらへんに、と己の口元で指し示すとキンタローは不思議そうな顔をした。
「ついている?」
「ああ、なんか赤い。ジャム……じゃねえよな。なんだ」
赤い、とハーレムが言うなり、キンタローはああ、と納得したような顔をした。
「それは俺の血だ」
ごく普通にそういってキンタローが口元を手で拭う。
けれども言われたほうのハーレムは普通にはしていられなかった。
「おまえの?」
どういうことだ。殴られては、いねえようだし。いや、こいつがそうなら相手は……あのガキしかいねえよな。
本気で殺し合いをおっぱじめたにしちゃ爆発音は響いていねえし。
ガキの喧嘩か、とぐるぐると悩んでいるとキンタローは小首を傾げた。
「なにかおかしいか?ああ……まだとれていないのか」
言って、再び口元を拭うキンタローにハーレムは何も言葉が浮かばない。
幾度か拭って気が済んだのか、
「まだついているか?」
と言われてようやく我に返る。
「ん……ああ、取れたけどな」
けどな、とハーレムが言うとキンタローはまだ何かあるのかとでも言いたげな表情を浮かべた。
「殴られたわけじゃあねえよな?」
口の端が切れた様子も痣が出来た様子もない。
聞きたくねえけど、と恐る恐る疑問を呈したハーレムに甥は父親譲りの笑顔を浮かべた。
「殺してやろうと思って口を塞いでやったら抵抗されてな。
舌を噛まれた。噛み切られてはいないのに意外と血が出るもんだな。
それに、もう大分経つのにまだ舌の先がひりひりして……どうした?ハーレム?」
具合でも悪いのか、と覗き込む甥にハーレムはなんともいえない気分に陥った。
その殺し方は間違ってるだろうが、と思ったが兄譲りの容姿で訝しむ甥の姿を見るともう何も口には出せなかった。■SSS.54「ロッドの忠告」 キンタロー×シンタロー+ロッド×リキッド?火事を告げるアラートが鳴り止まない。
朝食の席で伯父が貴賓室で友好国の大統領と会談するとキンタローは聞いていた。
和やかな会談であるはずなのに、本部棟の静寂が打ち破られた。
その事実が何を示すのかはっきりしないまま、研究室で報告を受けるのを待たずにキンタローは現場へと急いだ。
足音を立てて、濛々と立つ煙の中を抜けると焦げ臭い臭いが鼻を突く。
マスクをした団員が消化剤を撒いているが、あまり緊迫した空気はない。
どちらかといえば、シンタローと伯父の親子喧嘩で棟が破壊されたときの後始末と同じような雰囲気だ。
アフロヘアーの秘書たちに状況を尋ねるとこの惨状を引き起こしたのが伯父本人だと言われる。
詳しい事情を聞いて、キンタローは眼魔砲を撃ったマジックよりも一番の原因であるハーレムとその部下たちを呪った。
友好国に裏切られたのか、暗殺かと一瞬でも考えてしまったことが厭わしい。
元凶の特戦部隊は遠征の準備に入っていると聞いて、その場は秘書たちに任せて滑走路へと赴く。
整備班が嫌そうな顔をしながら作業にあたるのを見て、キンタローはため息を吐いた。
飛行船のタラップを上がり、室内に入るとそこは4年前に訪れたときと同じ光景だった。
ところどころアルコール類のボトルが転がっているが、一応は片付いている。
めずらしい。掃除でもしたのか、と思いながらキンタローがハーレムを呼ぶと現れたのは彼の部下1人だけだった。
「ロッドか」
「……キンタロー様。何か御用で?」
垂れ気味の目元を殊更緩ませてロッドは聞いた。へらへらと笑う態度にむっとしたが、キンタローは口にはしなかった。
「叔父貴はどうした?貴賓室のことで話がある」
貴賓室とキンタローが口にするとロッドが盛大に笑う。
「マジック様にお仕置きされてるとこじゃないすかね。他のメンバーは寝てますよ。
戦地に行くってのに、俺だけ寝ずの番で……ああ、それは隊長から言いつけられた罰のひとつですけどね。
ま、日が差してるってのにそう寝られるわけじゃないですけど」
御用があるのなら、総帥室へ行かれたらどうですか、とロッドが笑う。
「ハーレムの処遇をマジック伯父貴が決めてるのなら俺が行くには及ばないだろう。
一言俺からも忠告しようと思っていたがな。おまえたちもあまり叔父貴の悪ふざけに付き合わないことだ」
おまえのミスが原因だそうだな、と貴賓室の方向を顎でしゃくってキンタローはロッドを見据えた。
「ミス……ねえ。それが故意だったらどうします、キンタロー様」
ロッドはジャケットの内側から数枚の写真を取り出した。
黒いレザーのジャケットは特戦部隊だけの制服だ。
一時期これを着ていたな、と少し懐かしく思う心を打ち消してキンタローは写真を受け取る。
「なかなかよく写ってるでしょ?俺が撮ったんですよ」
隊長に命令されてね、と笑う彼が寄越した写真は新しい番人のあられもない姿を写し取っている。
「かわいい息子さんのこんな姿見ちゃったら坊やの復帰は難しいですよね」
可愛い息子さんを持つ親に俺からのやさしい忠告ですよ。
でも、まさか坊やのパパがアメリカ大統領とはね、とロッドは大仰に肩を竦める。
「俺はね、キンタロー様。坊やには幸せな人生を歩んで欲しいわけ。
でも、獅子舞の傍じゃあそうはいかない。だから坊やのパパに写真を披露しただけのことですよ」
隊長のことは尊敬してますけどね、とロッドは写真をキンタローから取り上げながら付け加えた。
「……ロッド」
「リキッド坊やじゃなかったら俺も反対しないっすけどね。
まあ、さっきの坊やのパパの様子じゃ金輪際、獅子舞は近づけられなくなるでしょうけど」
そう思いませんか、と垂れた目を片方閉じてロッドはウィンクした。
その仕草が癇に障ってキンタローはロッドの胸元を掴みあげた。
しばらく視線を交えたまま、キンタローはロッドの胸元を掴んでいたが手を出さずに離した。
今はそんなことをしている場合じゃない。一刻も早く、シンタローを救出しないと。
そう思ってキンタローは踵を返そうとした。だが。
「キンタロー様」
ロッドに呼び止められ、キンタローは振り返る。
にやついていたはずのイタリア人がすっと真剣みを帯びた表情でいるのを見てキンタローは一瞬緊張した。
殺気ではない張り詰めた空気が2人の間を漂う。
「俺たち、特戦が帰還してるのは不思議じゃないですか?」
「……?」
何を言っているとキンタローが怪訝に思うとロッドは続きを口にした。
「本部を盗聴するのはわけないんですよ。
団員はみんな遠征か、あの島へ行く装置を開発するのにかかりきりですからね」
壬生のやつらが紛れ込んでたら情報は駄々漏れですね、とロッドに言われてキンタローは言葉に詰まった。
「新総帥を助けたい気持ちは分かりますけど周りを見たらどうですか?」
「……ロッド」
「そこまで送りますよ」
タラップにいたるドアを開けてロッドは表情を緩めた。
真剣味はもうない。いつもの緩んだ表情だ。
近づき、ロッドはキンタローの耳に口唇を寄せた。
「新総帥とあんたの関係ばらすよりよかったでしょ?」
マジック様にばらしたら坊やの騒ぎどころじゃない。
現状を忠告してやったのを感謝してくださいよ、と揶揄いまじりに口にされてキンタローはなんとも言えない気分になった。
タラップを降りれば、煙が空へと流れていくのが見える。
自分と従兄弟の関係がどこまで漏れているのか考えて、キンタローは首を振った。
そんなことは後でもいい。