「ここが、江戸町奉行所どすか・・・」
ある日の春の午後、アラシヤマは少し離れたところから、黒渋塗りかつ下見板張りの、いかにも質実剛健といった風情の表門を眺め、目を細めた。
彼は、被っていた旅用の編み笠を取ると、門の方に進み、門番と一言二言、言葉を交わし、邸内へと入った。
用人に案内され畳の間で控えていると、ほどなくして、奉行のマジックが部屋に入ってきたのでアラシヤマは頭を下げた。
マジックは上座に座り、
「楽にしてていいよ。長旅ご苦労だったね」
と声を掛けたので、アラシヤマは起き直り、マジックの方を見た。
「お前は、アラシヤマだね。確か、シンタローと同じ13歳だったかな?」
「はい」
「ところで、マーカーは一体どうしたんだい?一緒に京から来ると聞いていたが」
マジックは、少し面白そうな様子でアラシヤマに問いかけたが、アラシヤマは生真面目な調子で、
「わてはもう大人どすし、いつまでも師匠の手を煩わせるわけにはいきまへん。それに、師匠は最近退屈してましたし、旅先で揉め事を起こされるのは迷惑どしたさかい、同行を断って一人で来ました」
と応じた。
マジックは、アッハッハと大笑いし、
「マーカーは、一見冷静そうに見えて、売られた喧嘩は絶対買うからねぇ。しかも血を見ずして解決する事は皆無だし。久々に何か漢籍でも講義してもらおうと思ってたのに、いや、残念、残念」
と言った。
対するアラシヤマは全く笑わず、マジックの方を冷静に見ていた。
「―――さて、本題に入ろうか。時期早尚との声もあったが、お前は文武とも優秀とのことで、合議の結果、お前の死んだ父親の同心株を再興させることが決定した。形としては新規御召抱えということになるがね。本日から同心見習いとして心持を新たとし、しっかりと経験を積んでいくように」
と威厳のある声で告げた。
「有難うございます」
再び、アラシヤマは平伏した。
「あっ、そうそう!」
いきなり、マジックが軽い調子に戻ったので、内心マジックに(流石、江戸町奉行や。威厳があるわナ・・・)と少し感心していたアラシヤマは、拍子抜けがした。
「そういや、聞くのを忘れていたけど、何で同心になろうと思ったんだい?成績は優秀だと聞いているし、マーカーに師事しているのなら、儒者という道も開けていたはずだ」
「・・・師匠を否定するわけやおまへんが、わてには、武士の子やいう自負心がありますさかい」
アラシヤマは、マジックの方を見据え、そう言った。
マジックは、フム、と何事か得心した様子であり、
「明日から、早速働いてもらおう。昼四つの刻に、奥向の方に来なさい」
そう言うと、部屋から出て行った。
アラシヤマは、帰り際、再び表門を振り返り、
「いよいよ、明日は初仕事どすな」
と呟くと、新しい住処である八丁堀の同心長屋へと帰っていった。
アラシヤマが門番に聞いたとおり、奥向の方へ向かって邸内を歩いていると、不意に上の方から、
「オイ、そこのオマエ、今からコイツを投げるからちゃんと受け取れ!落とすなよッツ」
と、子どもの声が聞こえた。
アラシヤマが上方を仰ぐと、木の葉が茂っており、おそらく相手は木に登っているようであったが姿が見えなかった。
どうやら、子猫が枝の先におり、子どもは猫を助けてやろうとしているようであったが、怯えた猫がますます細い枝先に行こうとするので、中々捕まらないらしい。
「痛ッツ!このやろっ、ひっかくなッツ!!―――うわッツ」
子どもは遂に猫を捕まえたが、バランスを崩したようであり、アラシヤマが木を見上げていると、猫を抱えた少年が上から降ってきた。
「邪魔だッツ!どけッツ」
と少年が叫んだが、
(あの高さから落ちてきて、普通、着地は出来まへんわナ。どないしよう・・・。受け止められますやろか?)
アラシヤマは一瞬逡巡したが、覚悟を決めると帯刀していた刀を外し、落ちてきた少年を抱きとめ、彼を抱え込んだまま衝撃を緩和するために地面を数回転がった。
(痛たた。やっぱり、無理がありましたわ・・・)
アラシヤマが、石畳で打ってズキズキする頭でぼんやりとそう考えていると、彼を下敷きにしていた少年が身を起こし、抱えていた猫を道にそっと置いた。猫は、しばらく呆然としていたが、毛を逆立て身を数回震わせると、一目散に植え込みの辺りへと逃げていった。
「・・・重いから、早うどいておくれやす」
少年がまだ上に乗っかっていたので、アラシヤマがそう言いながら地面に両手をついて身体を起こすと、彼は身軽にアラシヤマの上から退いた。立ち上がったアラシヤマが、外していた刀を拾いにいくと、
「おい、テメー、何であの時退かなかったんだヨ!?邪魔だって、言ったじゃねーか!あれくらいの高さからなら自分で降りられるしッツ!」
と、少年がアラシヤマに向かって後ろから言ったので、彼は腹が立ち、帯刀しながら、
「あんさん、人の親切に対して、ようもそんなことが言えますな!?無礼どす。ちょっと頭が足りてへんのやおまへんか?」
「てっめぇ・・・」
少年はアラシヤマを睨みつけていたが、アラシヤマはそれを無視し、歩いていこうとすると、向こうから、
「シンちゃ―――んッツ!!」
と、マジックがものすごい勢いで走ってきた。
(なっ、何どすのんッツ!?)
アラシヤマが思わずギョッとして脇に退くと、マジックはシンタローを抱き上げ、頬擦りしながら、
「シンちゃんッツ!さっき、枝が折れるような音がしたけど、怪我はなかった??」
シンタローは、なんとか逃れようとジタバタと暴れていたが、マジックはシンタローの手の甲に引っかき傷をみつけ、
「あッツ!こんなところに傷がッツ!!パパが舐めて・・・」
「やめろッツ!こんの変態親父ッツ!」
シンタローは、マジックの鳩尾に膝蹴りを喰らわすと、手が緩んだ隙にマジックの腕の中からなんとか脱出した。
「シンちゃーん・・・」
すっかり萱の外に置かれた状態で、一連の流れを冷ややかに見ていたアラシヤマが、呆れたように一言、
「・・・過保護どすなァ」
と言った。
シンタローは赤面したが、マジックには
「だって。シンちゃん、もんのすっごーく!かわいいんだもん」
と、悪びれた様子が全く見られ無かった。
シンタローは、怒った様で、その場を去ろうとしたが、
「シンタロー、お前もここに居なさい」
マジックが、先程とは打って変わって真面目な調子で言うと、渋々その場に留まった。マジックはアラシヤマの方を向き、
「アラシヤマ、お前には今日から毎日、昌平坂の学問所へ通うシンタローの供をしてもらう。そして、お前も一緒に勉強するように。それが任務だ」
「えっ!?ちょっと待っておくんなはれっつ!捕り物の見習いやないんどすかッツ??何でわてがこんな甘えたの供をせなあかんのや?」
思わず語気荒くアラシヤマが詰め寄ると、マジックは動じた様子も無く、
「通常、同心見習いは14歳からなんだよね。ってことで、1年間お前もシンタローと一緒に学問所に通って広い知識を学びなさい」
と言った。
その時、黙っていたシンタローが、
「俺は、嫌だ。何でこんなヤツとッツ!!」
「シンタロー。お前が、供をゾロゾロ連れて外を歩くのが嫌だと言ったから、無理をしてアラシヤマ1人ということにしたんだよ?いくらお前が嫌だと言っても、旗本の子息が1人だけで出歩く事は出来ない相談だ」
マジックは、完全に異論を許さない雰囲気であった。
「2人とも、いいね?明日からアラシヤマは、毎日昼九つの時刻に迎えに来るように」
そうきっぱりと断言した。
どうにも納得が行かない様子の少年達は黙ったままであったが、マジックは、
「私は、お前たち2人がお互いに良い影響を受け合い、高めあうことを望んでいるんだよ」
と諭すように言った。それは、彼の本心からの言葉のようであった。
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