昼過ぎから山積みの書類の処理に追われているシンタローは、目の前から向けられる視線に苛立ったように顔を上げた。先刻からずっと気になってはいたのだが、そのうちいなくなるだろうと何も言わずにいたのだ。しかし視線の主は一向に立ち去る気配を見せず、シンタローの気は散るばかりだった。
「さっきから何やってんだ」
態々椅子を持ち出してきてまで向かいに陣取った彼は、机に頬杖をついたまま微動だにせずにずっとこちらを見つめている。シンタローの言葉にも、表情を変えないまま当然のように答えた。
「シンタローを見ているんだが」
「そんなことは分かってんだよ」
何しろこちらはずっとその視線を感じているのだ。見られていることに気付かないわけがない。自分が聞きたいのはそういうことではないのだと思い、シンタローの機嫌は益々悪くなる。
昼食を終えたシンタローが部屋に戻ってきた少し後、同じく昼食を終えたキンタローがこの部屋に姿を現した。何か用かと尋ねても何でもないと答えた彼は、不審そうな顔をするシンタローの視線の先で部屋の隅に片付けられていた椅子を持ち出してくる。そしてそれを机の前に置くと、今までの間ずっとそこに座ってシンタローが仕事をする様子を眺めていたのだ。
大量の書類だけでも充分に機嫌は悪くなっていたのに、目の前に暇そうに座っている他人がいては余計に腹が立つ。シンタローはとうとう堪え切れなくなって、横に積まれている書類を半分ほど掴んでキンタローの前に置いた。
「暇なら手伝え」
けれどキンタローは少しの間も置かず、その書類を元あった場所へと戻す。
「これはオマエの仕事だろう」
言っていることは尤もだ。しかし目の前でそれを見ていて何もしないというのはやはり気に入らない。しかも見られているせいで気が散って能率は下がる一方だ。
「邪魔しに来てんのかよ、オメーは」
「俺はオマエを見ているだけだ。仕事の邪魔をした覚えは無いぞ」
「気が散るんだよ!」
「……そうか」
怒鳴られたキンタローは少しだけ考えるような様子を見せてから、立ち上がって椅子を動かす。漸く立ち去ってくれるのかとシンタローは安心したが、彼はその位置を少しずらしただけで再び座って視線を向けてきた。
「この辺なら気にならないか?」
「そういう問題じゃねえッ!」
結局場所を少し変えただけで同じことを続けようとするキンタローに、シンタローは更に声を大きくして怒鳴る。それでもやはりキンタローは少しも動じなかった。
しかし一体何のためにそうまでしてずっと自分のことを見ているのだろうか。別にきちんと仕事をしているか監視しているというわけでもなさそうだ。尋ねてみてもし納得できる理由があるのならここにいることを許してやろうと、シンタローは疑問を口にしようとする。
が、それよりも早くキンタローが口を開いた。
「24年間、俺はオマエと同じ世界を見ていた」
「……キンタロー?」
突然言われたことの意味が理解できず、シンタローはそれまで考えていたことも忘れて不思議そうな顔をする。キンタローは真意を説明することはせずに、更に言葉を続けた。
「だけどオマエを見ることが出来なかったんだ」
そこで漸く、シンタローはキンタローが言いたいことを推測することが出来た。多分彼は、自分が口にしようとしていた疑問の答えを告げようとしているのだろう。
今まで見ることが出来なかった分、今見ているのだと。
それが分かっても、ずっと見ていたいと思われることに対してまだ疑問は残ったけれど。何故か腹を立てる気だけはすっかり失せてしまった。
「不思議だな、シンタロー」
そう言ってキンタローは小さく笑う。
「同じ身体にいた24年間よりも、今の方がずっとオマエに近い気がする」
そして手を伸ばし、向かいにいるシンタローの頬に触れた。
「見ることも、こうして触ることも出来る」
シンタローは僅かに戸惑った表情を浮かべたが、その手を払い除けることはしなかった。触れられて、何となくだけれど彼の想いが分かったような気がする。
キンタローは指先に触れるシンタローの体温に笑みを深めた。
「幸せだな」
本当に幸せそうな顔をするから、くだらないとは思えなかった。彼のことだから何の計算もない本音なのだろうけれど、それが余計に恥ずかしい。
「……オメーはどこでそういう恥ずかしい物言いを覚えてくるんだよ……」
シンタローは少しだけ視線を逸らして、戸惑いを隠すようにそう呟いた。あとはもう、キンタローを追い返すことは諦めて仕事に専念することにする。
結局その日キンタローは、シンタローが全ての書類を片付け終えるまでそこから動こうとしなかった。
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