思ひ出アルバム3
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「行けません! お待ちください」
扉の向こう側が騒がしい。
「何かあったのかな?」
時刻は五時。
そろそろ仕事に一区切りをつけ、可愛い息子のために夕飯を作りにいかねばならぬ時間だ。仕事をしつつも今日の献立を考えていたマジックは、総帥席から扉の方へと視線を向けた。
「駄目です、シンタロー様っ!!」
「シンちゃん!?」
その言葉を耳にしたとたん、マジックは超特急で扉の前に移動すると、バン! と両手でそれを押し広げた。
「シンちゃん!」
「あっ、パパぁ」
扉の少し前で、ガンマ団団員の一人に抱きとめられていたシンタローが、扉を開けて出てきた父親の姿を見ると、にぱぁと愛らしい天使の笑顔を浮かべる。
ガンマ団総帥の顔などあっさりと脱ぎ捨てたマジックは、蕩ける笑顔をシンタローに向けた。だが、即座に顔を引き締めると、自分の息子に許可無く触れている団員を睨みつける。
「それで、君は私の息子に何をしているんだい」
返答しだいでは即刻死刑、といわんばかりのその表情に、団員の顔は引き攣った。
「あ、あの、わたしは…」
震える団員の手が、シンタローから離れる。そのとたんシンタローは一直線に父親の元に駆け寄ってきた。そのまま両手を広げて万歳するようにしてぴたりとマジックに抱きついた。
「ああっ!」
その団員の悲鳴じみた声が聞こえるが、もちろんマジックの耳にはそれは遮断された。
「シンちゃ~んvvv 元気にしてたかい?」
「うん!」
「…………あの、総帥」
「なんだ」
親子の語らいを邪魔する団員に、睨みつけるが、その団員が、こちらを指した。
「制服が」
「おやっ…」
自分の姿を省みると土の上に転んだように汚れた自分の姿があった。
「あっ、ごめんなさい、パパ。僕、パパのお洋服汚しちゃった」
その言葉を聞く前から、犯人は誰だか即座に気づいた。息子は、ものの見事に泥んこ状態だった。いったい何をしていたのか、手や顔はもちろん向き出しの腕や足まで泥がこびりついている。もちろん服は、洗濯機にいれれば泥水ができそうなほどの凄まじい汚れ具合だ。
「なるほど」
これでは部下も制止させたくなるのもわかる。
「パパ、ごめんなさい」
「いいんだよ、シンちゃん。どうせこれは、クリーニングに出すもんだしね」
シュンと萎れた表情になった息子に、マジックは優しい笑顔を向け、頬についた泥を手で撫でる様に落とした。
もっともこれだけ泥をつけられれば、クリーニングでどれだけ綺麗になるかはわからないが、その時は、捨てればいい。替えなのはいくらでもあるのだ。
「あの……」
まだ、先ほどの部下がそこに情けない面で立っている。
彼も悪気があってシンタローを制止させたわけではなかったのだ。ただ、こちらを思っての行動だろう。息子の手前でもあるし、きつく咎めるわけにはいかなかった。
マジックは、軽くそれに向かって手を振った。
「かまわん、気にするな。行け」
「はっ。失礼しました」
その言葉に、頭を下げると逃げるに行ってしまった。が、そこまでマジックは見てはいなかった。すでにその視線は、泥だらけの天使ちゃんに奪われ中である。
「今日もいっぱい遊んでたみたいだね、シンちゃん」
「うんっ。今日は、ずーっとお外にいたの」
「それじゃあお腹がすいただろ。パパと一緒にご飯食べに帰ろうねv」
「はーいっ!」
良い子のお返事とともに、ぎゅっと首に抱きついてきてくれた息子に、あっさりそのまま昇天しそうになったマジックだが、土俵際の粘りを見せて、そこはぐぐっと耐えて見せた。
「パパ、それでね。明日、ヒマ?」
「どうしたんだい?」
「あのね。僕と外でお散歩して欲しいの。ダメ?」
きゅるんと黒目がちの瞳を揺らし、おねだりをする息子に、先ほど昇天行きを拒んだマジックだが、またしてもふわふわと天へ登りかける。
(ああ…迎えの天使が見えるよシンちゃん………って、シンちゃんと一緒じゃなきゃ、パパはどこにも行きたくないよっっっ!!!)
勝手にこちらに呼び寄せた天使を邪険に追い返したマジックは、再び地上へと舞い戻り、愛しの息子を抱きしめた。
「いいよ、シンちゃん。明日はパパとお散歩しようねv」
「ありがとう! パパ大好きv」
チュッv
食べちゃいたいぐらいの愛らしい唇が可愛らしい音を立てて、マジックのホッペにキス一つ落とす。
(ああ………パパ…ちょっと天使さんと一緒に上に行ってるよ、シンちゃん………)
器用にも息子を抱いたままマジックパパは、しばらく天国の花畑にまで少しお出かけしに逝った。
その次の日。
「パパ~! こっちだよ~v」
「あははっ。待てぇ~、シンちゃん♪」
無邪気な笑顔を振りまき、前を走るシンタローにマジックは、捕まえようと手を伸ばす。だが、するりと上手く抜けられてしまった。
(チィィ! …シンちゃんって意外にすばしっこいな)
捕まえたv と言って、ギュゥ~と抱きしめようとした目論見はまんまと外れてしまった。
それでも、またしばらく緑萌える野原に駆け回る可愛い息子の姿を見れるのだから、ヨシッ! と力拳を握り締める。
結局、シンタローがいれば、なんだっていいのだ。現金パパである。
「こっちだってば、パパ!」
「まてまてぇ~」
そうして再び追いかけっこは再開された。
今日は、昨日の約束をはたすために、午後からの仕事を全て中断させ、息子との散歩に時間をあてていた。
そのおかげで、シンタローが眠りについてからは、今日中に仕上げねばならぬ書類と格闘するはめになるが、もちろん後悔などない。
飛び跳ねる仔ウサギのような息子を見られただけで、その価値はあるのだ。
(だが、次こそは捕まえてみせるよっ!!)
実は結構本気で息子と追いかけっこをしているマジックだった。
「こっち! こっちだよ」
「はははっ。シンちゃんは速いなー」
「ここまでおいでー」
小さな背中を見つめつつ、マジックは、再びシンタローを捕まえようと手を伸ばした。
ぴょん!
同時にシンタローが大きく飛び跳ねた。もっとも幼い子のジャンプ力だ、少し足を伸ばせば、すぐに捕まえられる。
マジックはそうふんで、シンタローに手を伸ばしつつ、大きく足を踏み出した。
だが。
「はっ」
ずぼっ!
耳を疑うような地面を踏みしめる音。
ぽっかりと口を開いた地面。
同時に、万有引力にしたがって下降する体。
「おお゛ッ!!!!」
マジックは、間一髪で、その落とし穴の縁に腕をかけて、落下を防いだ。
下を見れば、信じられないものの存在に、くらりと眩暈がする。
ジャキーン!!
底にたまった暗闇に見え辛いが、なにやら先の鋭いものが覗けた。
そこはただの落とし穴ではなかった。背よりも深い穴の中に、上を鋭く尖らせた竹やりが無数に突き出ている。落ちれば、素敵に串刺し状態だ。
(こ…これは、あの…………)
「やーいやーい、ひっかかった、ひっかかったv」
穴の外で、無邪気に喜ぶ息子に、マジックは精一杯の笑顔を向けた。
うっかりあの世へと行くかもしれない状況だったが、そんなことは毎回のこと(シンちゃんの愛らしさのおかげで)なので、今更である。
「ベトコン戦法パンジステークを仕込むなんて…。や、やるなぁ、シンちゃん」
(って、一体誰に教わったのっ、シンちゃん!!)
それはベトナム戦争でゲリラ達が行っていた罠の一つだ。
けれど、これで昨日の泥だらけの原因が分かった。この穴を掘っていたために、あれだけの泥んこ状態になったのだ。
昨日散歩に行こうと誘ったのも、この罠をためしたかったからだろう。
(それにパパを選んでくれたのは………パパが好きだからだよね?)
ちょっぴり息子を疑ってしまう一瞬である。
とりあえず、よっこらせっと親父臭い掛け声とともに、落とし穴からよじ登ると、得意顔の息子を抱き上げてあげた。
「ははは。パパ、あやうく死に掛けちゃったよ」
「ごめんね、パパ!」
無垢な笑顔が自分の頬に摺り寄せてくれる。
(シンちゃん………大好きだよっ!!!!!)
それだけで、先ほどのうっかりご臨終もありえた恐怖も霧散する。お手軽パパだ。
「それにしても、よくこんなものが作れたね、シンちゃん。誰から教えてもらったのなぁ?」
こんな戦法を息子に教えた覚えはないし、教えさせろと指示したこともない。
「ハーレムだよ」
「…ほぉう。あいつか」
あっさりと白状してくれたシンタローに、マジックは微笑みを浮かべつつ、その裏で、愚弟の顔を思い浮かべ、即座に眼魔砲で粉砕させた。
(後で、マジに眼魔砲2、3発食らわせとかないといけないねぇ。あのやんちゃ坊主には。ははははっ)
息子の所業は、あっさり許せても、それに関連した弟の行動には、手厳しいマジックである。大人のようで大人気ないのが彼なのだ。
「うんv 事前に罠をしかけて、相手を誘い込めば、僕みたいに力がなくても敵にやられないんだって!」
「そうか。でもね、シンちゃんの敵は、パパの敵だよ。そんな輩がいれば、パパが全部殺してあげるからね」
不穏な言葉を笑顔で、さらりと告げる。
「ん~…でも、パパ忙しいもん。僕だってパパに守られてるばかりじゃダメなんだよ! ハーレム叔父さんも言ってたもん。自分でやれることはやれって」
(余計なことを……)
そんなことをすれば、早くに自立心が養われて、シンちゃんが親離れしてしまうじゃないか。
完璧に親失格な考えをしっかりしつつ、マジックは、シンタローの頬に自分の頬をあててスリスリした。
「シンちゃんは、パパから離れたいのかな?」
「違うよ! パパと離れ離れになるのはイヤっ」
ぎゅぅ~と力いっぱい抱きついてきてくれる息子に、うっかり鼻血を出してしまったが、気づかれる前に、すすっとハンカチでそれを拭い取る。手馴れた作業は、わずか一秒の出来事である。
(シンちゃん。パパも一生シンちゃんを離さないからねっっっ!!!)
余計なことに決意を固めたマジックである。
「ねえ、パパ」
抱き上げていたシンタローが、顔をこちらに向ける。
「ん? なんだい?」
ずいっと間近によってくる顔。それが、にこっとお日様が雲の合間から顔を覗かせたような笑顔に変わった。
「パパ大好きv」
(最高だよ…グッジョブ! シンちゃん)
天下無敵のエンジェルスマイルに、伝家の宝刀匹敵する言葉。
ぷっつん。
あっさりとマジックの理性の糸を断ち切った。
「あれ? なんの音?」
そんなシンタローの疑問を掻き消し、マジックは、真剣な顔で、息子に囁いた。
「シンタロー、今すぐ、パパと結婚―――」
しよう!
と、プロポーズの言葉は、けれど不意の人物の登場で遮られた。
「おっ、何してんだ? お前ら」
「眼魔砲」
ドゴンッ!
「のお゛っ!? 行き成りなにするんだよ、兄貴っ」
マジックたちの前方で爆発音が鳴り響く。もちろんそれはマジックの仕業だった。
狙いは、突然に現れた獅子舞である。
「はっはっはっ。ハーレムの肩にハエが止まっていたので、殺してやろうと思ったんだよ」
「嘘つけ!」
危うく命をとられそうになったハーレムは、力一杯突っ込みを入れた。
(まったくしぶとい奴め)
せっかくの一世一代の告白場面を―――間違ってます、マジックさん―――ジャマされた当然の報いとして、眼魔砲をぶちかましてみたが、惜しいことに間一髪で交わされてしまった。
やれやれと溜息をついていれば、その隙に、シンタローが腕の中から飛び降りた。
「ハーレムッ!」
「シンちゃんっ」
連れ戻そうにも、それよりも先にシンタローは、その場にしゃがみこんだハーレムの前にいた。
「よぉ、元気かガキんちょ」
ぽんと頭に手が乗せられ、くしゃくしゃと髪をかき回される。
それを嬉しげに受けながら、シンタローは、ハーレムを見上げ、自慢げに言った。
「あのね。僕、ちゃんと叔父さんの言うとおり罠作ってみたよ。そしたらね、パパがちゃんとひかかってくれたの♪」
その言葉に、一気にハーレムの顔が蒼ざめ始めた。
「お前…まさか、あれを兄貴で試したのか?」
その言葉に、シンタローは得意げに頷いて見せた。
「うん! だって、僕の知ってる中では一番パパが強いんだもん」
(冗談じゃねぇ!)
ハーレムが、あの罠を教えたのは、ちょっとした遊び心からだ。ハーレムもシンタローの年齢のころ、兄貴達に教わったことを、この甥に、暇つぶしで教えてあげただけである。
しかし、まさかそれを自分の父親に使うとは、ハーレムの計算外である。
(このままここにいれば殺られる)
すでに、マジックがいながら、シンタローがこちらへと駆け寄ってきたことに、内心嫉妬の嵐のはずである。神経をとがらせれば、殺気すら感じられる。
「…………悪ぃ。俺、用事を思い出したからかえるわ」
ハーレムは、そそくさと立ち上がると後退した。
背中は向けない。向けたとたん、攻撃をしかけられる恐れがあるからだ。
「えーっ、次の罠教えてくれるんじゃなかったの?」
けれど、シンタローは、素早くハーレムの足にすがりついた。
「次に会った時に教えてくれるっていったじゃんか。約束守ってよ」
「なしだ、なしっ! 離しやがれ、シンタロー」
このまま足蹴にしてとんずらしたいが、万が一シンタローにケガでもさせれば、地獄のはてまで追いかけられて、何倍…いや何百倍の復讐をされることは必須である。
どうにかして、ここは穏便にさらなければいけなかった。
だが、事態がそれほど簡単に終えるわけが無かった。
足にしがみついたままのシンタロー。そうして、目の前にいたマジックが、明らかに偽りの笑みをその顔にはりつけ、こちらに向かって歩き始めた。
「ははははっ。ハーレム。ちょっと話があるから待ちなさい」
「嫌だっ」
ブンブンと横へと大きく首を振って拒絶を示す。
だが、長男にそんなものが通用するはずが無かった。
さきほどよりもスピードアップした歩みが、こちらへの距離を縮める。
「いいからこっちに来―――ぬおおお゛っ!!」
だが、不意にマジックは前につんのめり、その刹那。
バコーンッ!
「「あっ」」
シンタローとハーレムが同時に声をあげた。
「ベトコン戦法スパイクボール……」
ぼそっともらしたハーレムの言葉に、シンタローは、こくりと縦に頷いた。
これもまたハーレムに教わったトラップだ。
マジックの足が、低く貼られた細い糸にひっかかると同時に、どこからともなく飛んできたスパイクボールが、勢い良くマジックの頬にヒットしていった。
トゲのついた大きな泥の塊をしなる枝の先に作り上げ、ひっぱられた糸に連動するようにしかけられていたのだ。
思い切りそれがぶつかったマジックの身体は、軽く空を舞った。
「………お前、あれもつくってたのか」
「うん、凄いね。パパ、二つともひっかかってくれたよv」
笑顔で答えてくれるが、教えた方としては、出来のいい生徒を褒める―――わけには、当然いかなかった。いかんせん、トラップをひっかけた相手が悪すぎる。
ギクシャクと体を動かし回れ右をしたハーレムは、遥か前方を見据えた。
「俺は知らん!! じゃあなっ!」
長居は無用だ。
運がいいのか悪いのか、敵は倒れてくれたのだ、この隙に逃亡することが正しい。三十六計逃げるが勝ちだ。
「あっ、まってよ。ハーレム」
だが、諦めの悪いシンタローは、新しい罠を教えてもらおうと、叔父の後をついていく。
「ついてくんな」
「イヤだっ」
逃げるハーレムに追いかけるシンタロー。それが永遠続けられ、結果、広い原っぱの中、ぽつんと残されたのは、だらだらと顔という顔から血を流すマジックのみ。
ひゅる~りと通り過ぎる風が、じんじんと痛みを覚える頬を心地よく冷やしていった。
「つーか、誰も助けてくれんのか…………がくっ」
ちょっぴり目から血以外の液体を流しつつ、マジックは柔らかかな草の上で、意識を手放した。
BACK
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思ひ出アルバム2
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「パパーv」
とてとてとてと駆け寄ってきた愛息に、厳しい顔つきで仕事をこなしてマジックは、けれど即座に相好をくずして、その場にしゃがみこんだ。
近づいてきた息子と同じ目線になるようにだ。
「なんだい、シンちゃん?」
悩殺必須の満面の笑顔で駆け寄ってきた可愛い息子に、鼻血を噴出す一歩手前のマジックは、それでも気力体力時の運を駆使して、父親面を息子に見せた。
「どうかしたのかなぁ?」
「あのね、はいっ」
父親の前で立ち止まったシンタローは、ここまで転ばずに、両手でもっていた物を差し出した。
「これ、パパにあげるねv」
「おや、美味しそうなリンゴだね。どうしたんだい?」
シンタローが手にしていたのは、熟れ頃の真っ赤なりんごであった。
おやつにしては、まだ少し早い時刻。なぜ、息子がそんなものを自分の元に持ってきたのかわからずにそう尋ねれば、シンタローは、照れくさそうに笑みを浮かべながら、父親の手に、それを落とした。
「ん~とね、お仕事頑張ってるパパのためにね、僕もらってきたの。食べてくれる?」
重たい荷物を父親に手渡したシンタローは、自由になった両手を前に組み、くいっと小首を傾げてみせてくれる。
その愛らしい動作は、くらくらと貧血を起こさせるぐらいの威力をもっていたもので、
(グッ! シンちゃんナイス表情だよ。パパは、ノックアウトだね★ 青いリンゴはすっぱいけれど、シンちゃんなら、いつでも食べごろOKだよ!!)
なにがOKなのか、常識人にはさっぱり分からないが(腐女子は除く)、そんな願望とも本望ともつかぬ思いが脳裏にひしめきあう中、マジックは、そのリンゴを口元に運んだ。
「ありがとう、シンちゃんvvv いただきまーす!」
シャクッ。
小気味良い音が響き、マジックの口の中に、甘酸っぱい果肉の味が広がる。
だが、しかし。
「………………ぐっ………こ、これは」
二口目を口に運ぼうとしたその瞬間、ころん、とマジックの手から食べかけのリンゴが転げ落ちた。
異変を感じた時にはすでにとき遅し、マジックは、そのまま両膝をついて、地面に両手をつけた。
(このリンゴは……)
「どうしたの、パパ?」
「シ、シンちゃん、これ誰からもらったの?」
崩れ落ちそうになる体をひっしにこらえ、シンタローに顔を向けると、状況をまったく把握してないシンタローは、きょとんとした顔で、けれど正直に答えた。
「高松からだよ。今度グンマと幼稚園で『白雪姫』やるっていったら、高松がリンゴをいっぱい作ってくれたから、それをもらったの♪」
(犯人はあいつか…)
真相は解明された。だからといって、状況は好転するどころか悪化するばかりである。
「高松………マジに毒リンゴ作ったな……………がくっ」
最後の気力を振り絞り、そう告げると、マジックは昏倒したのだった。
それから一時間後。
「……………何をしている?」
「貴方の検死ですが?」
仮死状態から目覚めたマジックの前に、検死解剖をいそいそと行う高松とばっちりと目があったのだった。
その後一ヶ月集中治療室入りを果たした高松がいたとかいなかったか…………。
BACK
「そろそろだな」
時計を見上げたマジックは、手にしていたペンをペン立てに置く。
書類にサインするのは止め、一時休憩である。
グッとその場で手を伸ばし、硬直していた身体をほぐしていると、しばらくすると、インターフォンから声が聞こえてきた。
「パパ。3時だよ。一緒におやつを食べよっ!」
聞こえてきたのは、幼い声。
マジックはふっと眦を緩ませ、そうして、立ち上がった。
「はーい。シンちゃん。すぐ行くよv」
マジックは、瞬間移動のごとく素早く扉の前に立つと、そしてそれを開いた。
「お疲れさま、パパv」
「いい子にしてたかい、シンちゃん♪」
扉の向こうにいたのは、愛息のシンタローである。
相変わらずメロメロのなるほどの愛らしい笑顔を振りまき、父親を見上げるその姿に、思わず鼻血を吹きそうになったマジックだが、そこはぐっとガマンして、シンタローの身体を抱き上げた。
「あ、自分で歩くよ」
そのとたん、腕の中で暴れだしたシンタローを落とさないように、マジックは、しっかりと固定させる。
5つになった息子は、以前のように、抱っこを自分からせがむことはなくなってしまったが、マジックはことあることに、息子の身体を抱き上げ、スキンシップをはかっている。
「いいんだよ、シンちゃん。パパがシンちゃんを抱っこしたいんだよ。それとも、シンちゃんは、こうされるのが嫌なのかい?」
「ん~。赤ちゃんみたいで嫌だけど。でも、パパにこうしてもらうのは好き!」
にぱっと笑みを浮かべ、さらにぎゅっと首に抱きつく息子に、マジックは、そのまま卒倒しそうになるのを根性で耐えた。
とりあえず、ちょっとばかり鼻血は噴出してしまったが、それは、息子に気づかれぬうちに、服でぬぐった。
赤い総帥服は、こういう時には、ひどく便利なのだ。
「それより、パパ。早くおやつを食べに行こうよ」
「ああ、そうだね(でも、パパはシンちゃんを食べたいぞぉv←腐れ)」
育ちざかりの息子の声に、相好を崩しながら、ガンマ団トップにたつ総帥は、スキップをしながら、おやつを食べる専用の部屋へと足を向けたのだった。
「今日のおやつは何かな?」
ガンマ団総帥室からそれほど離れてない場所にある小さな部屋の扉を、マジックは、息子を抱く腕とは反対の手で開く。
総帥権限で設けた、自分と息子のおやつを食べる専用の部屋は、扉を開いて真正面に大きな窓があり、明るい光が注ぐ気持ちの良い部屋である。
「あのね、あのね。今日のおやつはね、とっても冷たいやつなんだよ」
部屋につくと同時に、マジックの腕からおろしてもらったシンタローは、えへへっと笑いながらマジックに報告する。
(シンちゃ~んv)
そのあまりの可愛さに、あっさり悩殺されて、思い切り背後にのけぞってしまうマジックだが、素早く驚異的な背筋をくしして、立ち直った。
ちなみに、一連の行動は、部屋の奥へと駆けていったシンタローは、見らずにすんだようである。
「冷たいものか。アイスかな? それともゼリーかな?」
「あのね、これっ♪」
とことこと部屋に入り、中央のテーブルにすでにセッティングされていたそれをシンタローは掴むと、嬉しそうにマジックに見せた。
「今日は、ペンギンさんか」
「うん。カキ氷なの」
シンタローが抱えているのペンギンさんの形をしたカキ氷機である。去年の夏、マジックが買い与えてからお気に入りの一品なようで、まだ、夏には少し早い時期にもかかわらず、今年はすでにご登場のようであった。
「僕がパパの分も作るね」
すでに氷とシロップ等は、テーブルの上に置かれている。
このテーブルは、シンタローにも楽々届くように低めに作られているから、カキ氷機を回すのに何の問題もない。
「ありがとう。パパ、嬉しいなv」
んしょんしょ、と一生懸命自分の分のカキ氷を作ってくれる息子の背中を見ながら、マジックをまた垂れだした鼻血をそっとぬぐった。
「シンちゃん。どうして器が三つなんだい?」
ガリガリガリ、とカキ氷機の音が部屋に響く。しかし、シンタローが三杯目のカキ氷を作っているのに気づくと、マジックは、そう訊ねた。
ここには二人しかいないのだから、二人分で十分である。
そんなマジックの疑問に、シンタローはカキ氷機を回す手を止めると、くるりんと振り返った。
「これは、サービスおじさんの分なの」
その言葉に、マジックの頬がひくりと引き攣る。
「サービスの? 彼も呼んだのかい」
「うん。パパを呼びに行く前にね、見つけたから、一緒にカキ氷食べようって言ったの。あとで、来るって言ってくれたから、作っておくの」
(サービスのやつめ。一家団欒を邪魔するとは…)
一生懸命サービスの分まで作る息子の様子を眺めつつ、マジックはそっとハンカチを口にくわえ、キーッとばかりにそれお噛み、引っ張る。
悔しさを存分に表現しているのである。
(それにしても…)
マジックは、うっすらと微笑みつつその三杯目のカキ氷を見る。
来た時に作らないと氷が溶けてしまうのだとは思うのだが、まだまだお子様のシンタローには、そこまで気づかないようである。
教えてやればいいのだが、せっかくの二人っきりのおやつの時間を弟に邪魔されたことに機嫌をそこねたマジックは、溶けかけのカキ氷を食わせてやれ、と大人気ないことを思ったために、それは黙っていた。
「おしまい♪ パパは、シロップなにをかける?」
ガリガリという音が止まったかと思うと、シンタローが振り返る。
思い切りカキ氷機を回せて満足したのか、幸せ一杯の息子の表情を『シンちゃん専用:心のアルバム byパパ』にいそいそと収めつつ、マジックは、ソファーに座ったまま、シロップをさした。
「パパは、メロンをお願いしようかな」
「うん、分かった。メロンだね」
その言葉に大きく頷くと、シンタローは、各種色鮮やかに取り揃えられたシロップの中で緑色をした容器を掴むと、山盛り一杯もられたそれにたっぷりとかけた。
「僕は、イチゴ。あと、れんにゅうも…………うわぁっ!」
「どうしたの、シンちゃん……うっ!」
突然聞こえてきた息子の悲鳴にがばっと身を起こし、駆けつけたマジックは、けれど次の瞬間、鼻を押さえて後退した。
「パパぁ。べとべと~」
半泣きの状態で振り返った息子は、どろりとした白い液体にまみれていた。
練乳をかけようとしたシンタローだが、誤ってそれを自分の顔にかけてしまったのである。
それが、顔だけでなく頬を伝い、ぽたぽたと落ち、あらわになっている膝小僧などに落ちていく。
「し、シンちゃん…」
その姿に、即効卑猥な映像に変換してしまったマジックは、抑えた鼻の間からぼたぼたと鼻血がこぼれている。
「もったいないなあ。…あ、甘いや」
すでに鼻血を止めることは出来ず、がっくりと膝をついたその下で、血溜まりを作っているマジックの前で、シンタローは、ぺろりと手にこぼれた練乳を舐めとった。
「はぅっ! それは…ちょっと………」
なぜか前かがみになるマジックの前で、シンタローは無防備に手や腕についた白いものを小さな舌をちろちろと出して舐めとっていく。
美味しい。
美味しすぎる光景である。
しかし、これではマジックの理性が持ちそうになかった。
プチッ!
「あれ? 何の音だろう」
ふと、妙な音に気づき、顔をあげたシンタローに、マジックはがばりと立ち上がった。
「シンちゃん! パパの白いのも舐め……ぐはっ!」
ドォン!!
突然、ドア付近から、何かが発射され、マジックの身体がふっとんだ。
「あ、おじさん!」
驚いた顔でシンタローが見たものは、手を前に突き出した状態で立っていたサービスの姿だった。
「大丈夫か、シンタロー」
「うん。平気。れんにゅうがかかっただけだもん」
何も知らない無垢な笑顔でそう言うシンタローに頷きながら、サービスは「間一髪」と小さく呟いた。
もちろん、マジックを吹っ飛ばしたのは、サービスが放った眼魔砲である。
「そうか。それじゃあ、綺麗にしに、お風呂に行こうか」
「うん。…あっ、でもパパは?」
部屋の奥に吹っ飛ばされたうえに、焦げ臭さまでもが漂う父親を省みたシンタローに、サービスは、気にするな、とその背を押して、外へ出るように促す。
「これくらい平気だよ、彼は。それよりも、お前がいつまでもここにいるほうが危ないからね。さあ、お風呂場に行こう」
「? うん!」
サービスの言葉の意味を理解してないまでも、大好きなおじさんと一緒にお風呂ということで一杯になったシンタローは、あまり深く考えずに、サービスと一緒に部屋を出て行く。
後に残ったのは、眼魔砲をくらったマジックのみ。
もちろん、彼は、ちょっぴり焦げたりしているが、とりあえず生きていた。
最愛の息子と弟が部屋を出て行く姿に、悲哀を感じつつ、マジックは、最後の力を振り絞って言った。
「し、シンちゃん………お、お風呂ならパパといっしょに………がくっ」
丁寧に、効果音までつけたしたマジック総帥は、部下達に発見されて、大騒ぎになるまで、そこに倒れ臥していたのだった。
注意
この先にあるお話はマジ×ちみシンなうえに、シンちゃんがかわいそうなことになっています。
そういったものに嫌悪感がある方はそのままブラウザバックをお願いします。
内容を理解してそれでも読むというかたはそのまま下にスクロールなさってください。
あらしのよるに
小学校に入ってからちょっとおかしいなって思ってたの。だって普通の子は父さんとキスはあんまりしないんだって。してもほっぺとかおでことか。口は父さんと母さんがするものなんだって。
あと、お風呂もおトイレも父さんと一緒にはしないんだって。
でも父さんにきいたら「そんなことはないよ。みんなホントはしてるんだよ」っていってた。
パパのほうが正しいにきまってるよね。
その日は風がびゅうびゅう吹いてて怖いから早く寝たんだ。サービスおじさんがもう一人で寝れるからって僕にベッドをプレゼントしてくれたから、寝るのは嬉しくてたまらないんだ。父さんは鼻血と涙を流して一緒がいいっていったけど父さんが仕事で居ない時に一人で大きな父さんのベッドにいると涙がでてくるって話したら父さんはしぶしぶ了解してくれたんだ。
僕は眠っていたんだけど、なにかのいきものの気配とベッドのきしむ音がして、目を覚ましたんだ。
そしたら、そしたら僕の上に大きな黒い影があって、僕の肩をガッチリつかんで被いかぶさっていたんだ。僕はびっくりして体が動かなくて、そのうちに黒い怪物は僕のパジャマをビリビリにして僕の喉元にかぶりついてきたんだ。
僕は怖くて怖くて泣きそうになりながら心の中で(助けて父さん!!助けて!)って叫んだんだ。必死に体をよじって首を振って助けがくるのを待ったんだ。
でも暫くしても父さんは助けにきてくれなかったんだ。
だって
そ の 怪 物 の 正 体 が 父 さ ん だ っ た か ら !!
もう何がなんだかわからないまま口を塞がれて、体中嘗め回されて、あっという間に僕は貧り尽くされた。
恐怖で声もでない僕にいままでしらなかった(知りたくなかった)マジックという男の雄性が無遠慮にたたきつけられて、それ以降はあんまり覚えてない。
ただ怖くて、大きくごつごつした手のひらが肌に触れてくる度に気持ち悪くて涙がでた。強烈な圧迫感と痛みが体中をものすごい勢いで駆け回って僕の意識は遠のいていったんだ。
意識がなくなっていくなかでこれはきっと夢なんだって思った。
目が醒めたら僕はちゃんとパジャマを着ていて、大好きな優しいパパが「シンちゃんおはよう」っていってドアを開けてはいってくるって。
信じてたんだよ。
翌朝目を覚ましたらやっぱり僕はちゃんとパジャマを着ていて、ドアをノックする音が聞こえたよ。
大好きな優しいパパが笑ってる。
「シンちゃんおはよう。昨日はごめんね。」
「今夜は優しくするから。」
2004/
BACK
愛をしるひと
心の表面を薄いうすい氷で覆って、何者にもそれを支配されることもなく、白く凍てついた覇王の道を、ひたすら歩み続ける。
緋色の服に袖を通したその時に、自分は選んだ。
世界を欲しいと願うなら、他のものは捨てなければならない。
特に心を。
あの父でさえ、それのためにすべてを失ったのだ。
自分たちに対する愛情が、咄嗟の判断を鈍らせて、致命傷を負うことになってしまった。
「ご子息と重なってしまわれたんでしょう」と震える声で父の部下が告げた時、撃てばよかったのに、と、自分は思った。
他の兄弟は知らないが、自分なら、父の夢のためなら喜んで死んだ。だから、迷うことなど何もなかったのに。
この道を歩いていく人間にとって、必要以上の『情』は足枷にしか過ぎない。
愛することも愛されることも、総帥である時はそれは封印しなければならない。
整列する使用人達に見送られ、玄関のドアへ向かっていた彼は、「ぱぱ」という幼い声に相好を崩して振り返った。
「シンちゃん、おはよう。」
水色のパジャマ姿の息子が、眠い目をこすりながら、ほてほてと階段を降りてくるのを、待ってやって抱き上げる。
子供の細い髪がもつれてくしゃくしゃになっているのを、手で直してやりながら、「ごめんね、起こしちゃったかい?」と尋ねる。
朝、真っ先に子供部屋に行って、キスをしたときに、熟睡していたことは確認していた。
「ううん、起きてよかった。パパと会えたもん。」
起き抜けの舌っ足らずの愛らしい口調に、とろけそうになりながらも、父親の胸は少し痛んだ。
ここのところ、マジックの仕事が忙しくて、一つ屋根の下にいるにもかかわらず、二人は顔を合わせることすらままならない日々が続いていたのだ。
もっとも、父親の方は、帰宅すると、どんなに疲れていても子供部屋に直行して、息子の寝顔で疲れた心を癒していたりしていたのだが。
「ごめんね、シンちゃん、パパが忙しくて、ご飯も一緒に食べられないし、お風呂も一緒に入ってないね。」
自分はその飢えを、撮りだめしていたビデオで満たしていることは、おくびにも出さず、彼は寂しい想いをさせている息子に謝った。
「いいよ。僕、もう大きいから平気。ひとりでできるよ。」
ああ、なんて健気な子なんだろう、と、じーんと胸を熱くするマジックだったが、時間が無いことを思い出して、もう一度抱きしめてから、シンタローを床に下ろした。
「それじゃあ、パパ行って来るから、いい子にしているんだよ。」
「うん。パパ、いってらっしゃい」
それでも、やはり寂しいのかしゅんとうなだれるシンタローの頭をひとつ撫でて、父親は優しく言った。
「大丈夫、すぐ終わらせるからね。」
周りで聞いていたその言葉の意味をよく知る者達は、内心ぞっとすくみあがったが、賢明にもそれを押し隠した。
しかし、年端もいかない息子は、「ほんと?」と単純に嬉しそうな顔になる。
「やくそくするよ。なんなら指切りしようか。」
「するするー。」
ゆーびきーりげんまーん、と元気よい歌声が、早朝のしん、と静まりかえった玄関に響く。
子供は知らない。
父親が、仕事を終わらせるということは、すなわち、多くの血と嘆きが、どこかで生まれる日が近いということなのだということを。
指切りが終わると、待ちかねたように玄関の扉が開かれる。
「じゃあ、いってくるよ、シンちゃん。」
吹き込んでくる風に、思わずコートの前を合わせた父親は、付け加えた。
「今日は寒いから、外に出るときは、ちゃんとコートを着て、マフラーと帽子をつけるんだよ。」
「うん、わかった。」
「いい子だ。」
父親は息子に頷いてみせると、迎えに来ていた車に乗り込んだ。
『さんすうドリル』を放り出して、シンタローは椅子の上に持ち上げた両足の膝に顎を乗せた。
「シンちゃん、おぎょうぎわるいよー。」
一緒に勉強をしていた従兄弟が咎めると、彼の手元のそれまで取り上げた。
「やーっ、かえしてよお。」
「へーんだ。くやしかったら取り返してみろ。」
「ひどいよ、日記につけてやる!」
二人とも、椅子の上に立ってドリルの取り合いをしているうちに、それが遠くへと飛んでいってしまった。
放物線を描いて落ちた先は、見慣れた靴のすぐそばで、二人がぎょっとして動きを止める。
「………お二人とも、何をなさってるんですか。」
グンマの教育係である、高松が両腕を組んだ姿勢で口元をわずかにひきつらせていた。
「たかまつー、シンちゃんがひどいんだよお!」
「グンマがいいこぶるから悪いんだ。」
「だって、シンちゃんがおぎょーぎ悪かったんだもん。」
「うっさい! バカっ!」
「シンちゃんの方がもっとバカ!」
「じゃあ、それのもっとバカ!」
「あー、はいはいおおよそのことは、分かりました。シンタローさまが、お勉強に飽きたのですね。」
そして、おおかたグンマがそれを注意して、最終的にこの展開になったのだろう。グンマは一人にしても、おとなしく勉強をしているが、従兄弟と一緒になるといつもこうなってしまうのだ。
確かに、同じ年頃の子供を一つの部屋に閉じこめておいては、遊ぶなというほうが無理だが。
「それでも、来年は小学生でしょう。ちゃんと予習していないと、恥をかくのはあなたですよ。」
「恥なんてかかないもーん。」
実際、これもまた落ちていたシンタローのドリルを取り上げると、かなり難易度の高い問題でもきちんと解けている。
確かに頭は悪くない方だろうとは思う。しかし、勉強という『習慣』をつけるのが、そもそもの目的なので、理解度の高さがどうこういう問題ではない。
「とにかく、子供のおしごとはお勉強です! とっとと席について、鉛筆を持ってください。」
一括されて、シンタローはしぶしぶ椅子に座った。
しかし、なかなかやる気にならないようで、まだぐずぐずとしている。
「早くおっきくなりたいなー。」
シンタローの愚痴に高松は意地悪い笑顔を向けた。
「おや、大人になったら、本当にお仕事しないといけませんよ。言うことをきかないクソガキにお勉強させたり、上司の愚痴につきあったり。」
「違うもん。僕は大きくなったらパパのお手伝いするんだもん。そうしたら、ずっといっしょにいられるから。」
「じゃあ、ぼくも高松のお手伝いするー。」
はりあってそう宣言するグンマのかわいらしさに、高松は溢れ出す鼻血を押さえた。
それにしても、と、ハンカチを探しながら考える。
確かに、マジックが彼を後継者に指名するだろうということは、ガンマ団内部では間違いないだろうと言われている。
けれど、この子供に耐えられるのだろうか。
人々の怨嗟と嘆きを、その肩に背負うことに。
――父親に守られているだけの、この異端の子供が。
トップというものは、すべからず孤独と戦わねばならない宿命を背負っている。
恐怖と畏敬を他者に植え付けるためには、決して弱みをみせてはいけない。
それこそ、家族の死とあっても、涙を流すことも許されない。
その点、マジックは非常に『優秀』な指導者であるといえるだろう、と高松は皮肉っぽく思った。
彼は弟の訃報を聞いた時、眉一つ動かさなかったと言う。
サービスは「あいつらは、穏和で戦闘に向いていないルーザー兄さんが邪魔だったんだ」と、泣いて兄たちを非難したが、それもまた違うだろうと、高松はそう思っていた。
サービスという友人は、彼にとって受け入れがたい現実からは、目をそらす傾向にある。
あの人の、無邪気な残酷さも、脆い精神も、何も知らなかった。知ろうとさえしなかった。
けれど、マジックはすべて知っていた。
自分以外に、あの人のそのすべてを受け入れたのは、きっと彼だけだっただろう。
だからこそ、自分は許せなかったのだ―――。
「でもー、シンちゃん、おじさま、とっても強いし、なんでも出来るから、お手伝いなんていらないんじゃない?」
子供達の声に、暗い淵に思考が落ちかけていた高松は、我に返った。
グンマの無邪気な指摘に、シンタローは、黒い瞳を大きく見開いている。
「おとなのひとたちが、『そーすい』はかんぺきだって言ってたもん。『そーすい』っておじさまのことだよね、たかまつ。」
「そうですねー。でも、完璧かどうかは私は存じませんがね。」
「違うの?」
「側近を顔で選ぶような安直なとこありますし。」
「だって、自分一人で平気なんだから、飾り程度でいいんじゃないの?」
「それにしても……。」
そうやって現総帥の能力について、勝手な批評を二人が繰り広げている間、シンタローは黙りこんで、何かを考え込んでいた。
なんとか、勉強を終わらせ、やっと許しが出た二人は遊び場に向かって、手をつないで歩いていた。
喧嘩をしていたことなどすっかり忘れ、機嫌よく歌など歌いながら歩いていたグンマだったが、黙り込んでいるシンタローの様子に気づいて、手を強く引っ張った。
「ねぇねぇ、シンちゃん、どうしたの?」
「なんでもないよ。こっち、行こう。」
「ええっ! ダメだよ、決まった道じゃないと、高松が怒る。」
近くの細い道に入っていこうとするシンタローを、グンマは止めたが、言い出してひっこむような相手ではなかった。
「こっちの方が近道なんだもん。高松が怖いならグンマ一人で、あっち行けよ。ブランコも滑り台も、ぼくが先に遊ぶから。」
そう言って、ふりほどかれそうになった手を、慌てて掴んでグンマは涙目で頷いた。
「わかったよ~。でも、高松にはナイショだよ。」
「あったりまえじゃん。」
おまえこそ言うなよ、とシンタローは釘を差し、ガンマ団の中枢に位置する施設が多くひしめくエリアへと入っていった。
何度かこっそり通ったことがあるので、人気の無い道は分かる。
人が来れば物陰に隠れてやり過ごすのも、スリルがあってわくわくする。
最初は渋っていたグンマも、探検ごっこもどきを楽しみ始め、あと、少しという場所まで来ると残念そうな顔つきにさえなった。
「あの階段を上って、降りたらすぐだよね。」
「うん。誰もいないし、行こう。」
周りを注意深く見回してから、ふたりはたっと、階段に向かって走った。
とことこと登ると、冷たい突風が顔に吹きつけてきて、二人は首をすくめた。
「さむーい。」
「高ーい。」
こそっと手すりから下を覗くと、行き交う人々の姿がちらほら見えた。
それを観察していた二人は、見覚えのある赤い服に「あ」と声を出しかけて、しーっ、しーっとお互いに唇を尖らせた。
「パパだ。」
「おじさまだ。早く降りないと、見つかっちゃうよぉ。」
グンマはシンタローの手を引っ張ったが、まったく動こうとしなかったので、グンマは諦め、見つからないようにその場にしゃがみこんだ。
見つかったら叱られると思いながらも、外で見る父親がめずらしく、シンタローは必死で目をこらす。
数人の大人をひきつれて、歩いている姿が子供の目から見てもかっこよくて、それが自分だけのパパなんだと思うと、誇らしくてちょっと嬉しい。
彼らの進行方向がたまたまこちらの建物だったらしく、どんどんその距離は近くなり、シンタローは背伸びした。
今日は一段と風が強い。
マジックは、コートが風にあおられて飛んでいこうとするのを片手で押さえた。
背後にいた部下が、預かろうとするのを手で制止し、肩に羽織り直す。
「それで、A地区の戦況は?」
「はっ、……一進一退といったところです。今、我が軍と対峙しているのはあの国の精鋭部隊の中の、特に選りすぐられた戦士のチームだという報告が情報部からも入っています。
また、あの地区の気候も影響し、作戦の遂行に支障をきたしているものと思われます。」
「そうか。」
マジックは、頷いた。
「なら、あのミサイルを使え。」
その言葉に、部下が青ざめる。
確かに最近開発されたばかりの、それを使えば、一気に戦局はこちらに傾くだろう。
A地区の制圧さえしてしまえば、あの国は落ちたも同然だ。
しかし。
「あの兵器は、現段階で効果が広すぎます。その影響を及ぼす地域は半径50kmは優に超えて―――。」
「だから?」
青い冷ややかな瞳に射抜かれ、彼は自分が分を越えた発言をしてしまったことに気づき、蒼白になった。
「……も、もうしわけありませんっ!」
「構わん、言ってみたまえ。」
「はっ…その、しかし……。」
彼は口ごもったが、このまま黙っていた方が、余計総帥の怒りを煽ることは分かっていた。
「……自軍に与える被害も甚大なものがあると……。」
「甚大を通り越して、全滅だろう。」
マジックはあっさりと訂正した。
「期間内に終わらせられない無能さに対して、査問会を開く手間も省けてちょうどよい。」
部下達の目に恐怖が浮かぶのを、マジックは何の感慨も覚えず見下ろした。
彼らがどう思っているかなど、手に取るように分かる。
自分が持つ禍々しい力、では無く、この内に潜む闇に彼らは怯えているのだ。
冷酷で、非道の限りを尽くす魔王。
今更のことだ。
そして、彼らは自分の中のそれを恐れながらも、ありえないものに焦がれる人間の性からそれに惹きつけられている。
実の弟たちもそうだ。
彼らは自分に反発しながらも、自分から離れられない。
ひとつのものを求めて、それに対して揺るぎない心を持つことの必要性を、自分は知っているが、彼らは知らない。
だからこそ、目的のための選択を容易に行える自分を恐怖し、そして、崇拝するのだ。
「すぐに、手続きを済ませろ、報告は後で構わない。」
今日は、あと会議が数件有り、その間をぬって他国との話し合いもしなくてはならない。
すでに終わったことの報告など聞いている暇はない。
「はっ! かしこまりました。」
部下が一礼をして、速やかに立ち去った後、ふと、視線を感じて顔を上げた。
「シンタロー……。」
前方上部にある通路の手すりの隙間から、見下ろしている大きな黒い瞳を見つけて、マジックは呆然とした。
目が合った瞬間、子供の小さな肩が遠目でも分かるほどびくりとはねた。
そして、手すりから手を離すと、くるりと背中を向けて走っていった。
「あっ、シンちゃん! 待ってよお…お、おじさま、ごめんなさいっ!」
一緒に隠れていたらしい甥が慌ててその後を追う。
ぴょこんと頭を下げたものの、いつもと変わりないのは彼が見ていなかったからだ。
自分の本当の顔を。
知らず、自分の顔を指でたどる。
かすかに、歪んだ口元、ひそめられた眉。
冷酷な、鬼のような、そんな笑みを自分は浮かべていた。
すべての者を圧倒し、ひれ伏させる恐るべき男の顔を、幼い息子に見られてしまったことに、自分でも意外なほどに動揺していた。
誰でも知っていることなのに。
いつか、彼も知らなければいけないことなのに。
「総帥?」
凍ったように立ちすくむ自分の様子を不審に思ったのか、部下が声をかけてきた。
「なんでもない。」
なんでもないことだ。
「次の予定は、第4棟の会議室だったな。急げ、時間がおしている。」
そう言って、歩調を早めた。
休む暇はない。
彼を待っている未来を前にしては、なにをもそれを止める存在にはなりえないのだから。
仕事を終わらせ、家に向かう車の中でマジックは彼に電話をかけた。
数回のコールの後、やっと出てきた男の声は不機嫌そうでした。
「どうなさったんです。こんな遅くに。」
「どうした、とはこっちの質問だ。何故、シンタローが中央エリアの中に入ってきていたんだ。」
総帥の詰問にも、彼はまったく動じる様子が無かった。
「はぁ、そうだったんですか。確かにあそこを突っ切った方が、遊び場に近いですからねぇ。」
「危ないから、入らないようにと二人には言ってあるはずだろう。」
のほほん、とした彼の口調にマジックは苛つきを隠せず、ついきつい声を出してしまったが、高松は鼻で笑い飛ばした。
「危険? お言葉ですが、ここは貴方の『お城』でしょう。そんなところでご子息にどんな危険がふってくるとおっしゃるんです?」
「高松。」
「それとも、『お仕事中のパパ』を見られたくなかったんですか?」
電話で幸いだったな、とマジックはひっそりと思った。
こんなことで動揺している自分を誰にも知られたくはなかったからだ。
一番触れられたくない話題に、高松という男はへらへらと笑いながら触れてくる。
「まだ、早い。」
「早い……ねぇ。承知しました。ご子息がご自分で判断できるようになられるまでは、お父上の職場には入らないように、気をつけておくことにしますよ。」
そこで、彼は一旦言葉を切る。
芝居がかった間などとって、高松は言った。
「お父さまの仕事を『理解』した後、シンタロー様がどうするかは私が関知すべきことじゃありませんから知りませんが。」
マジックは返事をせずに、電話の電源を切った。
窓にうつる自分の顔をちらっと見たが、多少不愉快そうな表情にはなってこそすれ、とりたてて動揺している様子はなかった。
残念だったな、とマジックは、高松を密かに憐れんだ。
彼は別に馬鹿な男ではない。
よく自分を観察しており、ぎりぎり許される範囲を見極めて、彼にとって痛手になるだろうと、ああしたことを口にする。
それが、彼なりの復讐なのだろう。
高松が何より、愛し、崇拝した『彼』を死に送り出した自分に対しては。
冷静で、何事にも流されたりしない心が、このことに関してはどうにも抑えきれないらしい。
けれど、怒りに任せて自分の身を滅ぼすこともできないのだ。
遺された『彼』の子供と、『彼』の仕事を放棄することは高松にはできない。
やっかいなものだ、愛情というものは。
「おかえりなさいませ。」
「食事はすませてきた。……シンタローは?」
「しばらく前にお休みになられました。」
「そうか。下がっていい。」
深々と一礼して使用人が立ち去ると、マジックは廊下に作りつけてある時計に目をやった。
その針は、子供の就寝時間がとっくに過ぎていることを指し示している。
もちろん、そんなことは百も承知だった。
わざと仕事を増やして、帰宅する時間を遅らせたのだから。
子供のことだから、一晩間を置けばあんな些細なことは忘れるだろう。
そんな姑息な己の思考をマジックは自嘲した。
観られたから、知られたからどうだっていうのか。
あの距離で自分たちの会話を聞きとれたとも思えないし、そもそも頑是無い子供に話の意味など分かるはずがない。
それでも一旦は子供部屋へ向かいかけた足を止め、マジックはまっすぐ自室へ向かった。
冷えきった部屋に入ると、灯りもつけないでベッドルームへ入った。
少し休んでから、シャワーを浴びようと、ベッドに腰掛けた時、小さなふくらみに気づいた。
よくよく見ると、ベッドカバーがはずされて床に落ちている。
驚いて羽布団をめくると、そこには小さく丸まって眠っている息子の姿があった。
「シンタロー……。」
何故ここにいるのか不思議だったが、起こしてはいけないと、そおっと布団を戻したところで、子供の目がぱっちり開いた。
「う~~……。」
目をこすって、闇に目をこらしていた様子のシンタローだったが、すぐに父親だと気づき、ぱすっと抱きついてきた。
「パパ、おかえりなさい。」
子供の体温は温かく、冷たい外から帰ってきた身には心地よいものだった。
「ただいま、シンちゃん、どうしたの? ……なにかパパにお話したいことでもあったのかな?」
マジックの心中を知ってか知らずか、シンタローはじいっと父親の顔を見上げている。
しばらくして、ほっとしたように笑う。
「……いつものパパだぁ…。」
マジックの肩がかすかに強張る。
しかし、表情はあくまで穏やかな様子を崩さずに、彼は息子に尋ねた。
「いつもの、って? パパはいつでもシンちゃんのパパだよ。」
すると、シンタローはもじもじとして、顔を俯かせた。
禁止されたことをして怒られると思ったのだろう。けれど、どうやら覚悟をきめたのか、えーとね、と口を開いた。
「今日ね、パパがお仕事しているところを見たの。……パパ、とっても怖いお顔してた。」
話すことに一生懸命になっているせいか、自分の髪を撫でていた父親の手が止まったことに、シンタローは気づいていない。
ずっと、午後から考えていたことを、どうやって父親に伝えようかと必死だったのだ。
「あのね、それで、僕思ったの。きっと、今日、とっても寒かったから、パパ、怖いお顔してたんだって。だからね、おふとんあたたかくしてようと思ってねちゃったの。」
たどたどしい説明は、父親にぎゅっと抱きしめられたことにより中断してしまった。
「パパ?」
「シンちゃんは、本当にいい子だね。」
その言葉にシンタローは、戸惑ったようだった。
「ぼく、いい子じゃないよ。言いつけやぶったし、グンマを泣かせたし、高松の本にらくがきしたし………青い目じゃないし。」
小さな声で付け足された言葉に、父親は腕の中の息子の顔をのぞき込んだ。
「金色の髪じゃないから、『かんぺき』じゃないから、大きくなってもパパを助けてあげられないの。ごめんね。黒くてごめんなさい。」
しゅんとしている息子に、マジックは他の誰にも与えないような微笑みを向けた。
「パパは黒い髪の方が好きだよ。たとえ、神様が百人の金髪で青い目の子供のかわりにシンちゃんを欲しいっていっても、パパは交換なんか絶対しない。」
そう言って、顔を近づけて瞼の上にキスを落とす。
「さあ、だから、そんなことは忘れてしまいなさい。シンちゃんはずっとパパの側にいて、パパを助けてくれるんだよ。……忘れるんだ。」
おまえが見た『私』など、覚えていてはいけない。
シンタローが知っているのは、優しく子供を見守る父親の瞳だけでいい。
世界で一番彼を愛している男の瞳だけでいい。
『青の瞳』など、覚えていないくてよい。
やさしく頭を撫でながら、そう低い声で囁き続けると、子供はうとうととしだした。
腕の中の子供がどんどん重くなる。
それにうっとりとするような幸福感を覚えつつ、完全に眠りに落ちる寸前の子供に、一つだけ質問した。
「シンちゃんは、パパが怖い?」
シンタローはたくましい腕に頭を預けながら「こわくないー」とあっさりと答えた。
「だって、パパ怖い顔してただろう。シンちゃん、さっきそう言ったじゃない。」
しつこくそんなことを言う父親に、息子は重ねて答える。
「こわくない。昼間のパパの顔は……怖かったけど、『パパ』は……怖くないの。……だって、…パパだも…ん。」
とぎれがちになる言葉の代わりに、シンタローは父親の服をきゅうっと握りしめる。
離れないことを誓うかのように。
深い眠りに落ちた子供を、マジックは腕の中に抱え直した。
こうやって、腕に伝わってくる熱や、小さな呼吸、そのひとつひとつに、愛おしさを感じる。
けれど、そんな気持ちも自分を変えることはできない。
目指したものを諦めて、家族を愛し、穏やかな……無為の日々を甘受する人間など自分はなれない。
この先、シンタローが成長して、今度こそ本当に、彼が父親と呼ぶ人間が、何者であるかを知るだろう。
嫌悪するかもしれない。
……恐怖するかもしれない。
それを、何より自分は恐れているのに……それでも、変えることはできないのだ。
そして、この子を手放すこともできないだろう。
いや、手放す必要がどこにある?
この子は、私のもので……私だけのもので、だから、彼の意思など関係ない。
くっ、と、彼は嗤った。
本当に……どこの誰が『愛は貴いもの』など言ったのだろう。
これほど、醜くエゴに満ちた感情が他にあるというのか。
囚われ、縛り付け、そんな欲望を、すべて正当化してしまう言葉。
知らなかった。
こんな感情は生きてきた中で、知ることはなかった。
これが、『愛情』だと言うのなら、自分は誰も愛したことがないということになる。
―――そして、おそらく、これから先も他の人間に対して、こんなふうには想うことはないだろう。
愛しているふりはできる。優しくすることもできる。
けれど、こんな感情は他の誰にも持てない。
ああ、そうだ。
愛することを、己に禁じてきたわけではなかった。
ただ、誰も愛せなかっただけなのだ――――――――。
ベッドに横たわらせ、柔らかい髪を撫でてやる。
寒かったから、顔をしかめていたという、シンタローの解釈はそう間違っているわけではない。
ずっとずっと、凍えてきた自分の中のそれを温めてくれたのは紛れもなく、この子の存在だ。
麻痺していた心に、恐れと痛みを与えたのも。
けれど、自分は変わることはできないから。
だから、この子を自分の世界へ引き入れるしかない。
愛しているから。
この世のなによりも―――この子だけを唯一愛しているから。
なんて醜い。
グロテスクなエゴイズムな理由。
「大丈夫だよ、パパと一緒なら……二人なら、きっと、冷たくないからね。」
そう、寄り添って氷の城の中で生きていこう。
この子が苦しさに耐えきれず泣いたり、外に行きたいと叫んだら、抱きしめて慰めてあげよう。
――――――――それが、『愛』というものだろう?
end
2005/07/30
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心の表面を薄いうすい氷で覆って、何者にもそれを支配されることもなく、白く凍てついた覇王の道を、ひたすら歩み続ける。
緋色の服に袖を通したその時に、自分は選んだ。
世界を欲しいと願うなら、他のものは捨てなければならない。
特に心を。
あの父でさえ、それのためにすべてを失ったのだ。
自分たちに対する愛情が、咄嗟の判断を鈍らせて、致命傷を負うことになってしまった。
「ご子息と重なってしまわれたんでしょう」と震える声で父の部下が告げた時、撃てばよかったのに、と、自分は思った。
他の兄弟は知らないが、自分なら、父の夢のためなら喜んで死んだ。だから、迷うことなど何もなかったのに。
この道を歩いていく人間にとって、必要以上の『情』は足枷にしか過ぎない。
愛することも愛されることも、総帥である時はそれは封印しなければならない。
整列する使用人達に見送られ、玄関のドアへ向かっていた彼は、「ぱぱ」という幼い声に相好を崩して振り返った。
「シンちゃん、おはよう。」
水色のパジャマ姿の息子が、眠い目をこすりながら、ほてほてと階段を降りてくるのを、待ってやって抱き上げる。
子供の細い髪がもつれてくしゃくしゃになっているのを、手で直してやりながら、「ごめんね、起こしちゃったかい?」と尋ねる。
朝、真っ先に子供部屋に行って、キスをしたときに、熟睡していたことは確認していた。
「ううん、起きてよかった。パパと会えたもん。」
起き抜けの舌っ足らずの愛らしい口調に、とろけそうになりながらも、父親の胸は少し痛んだ。
ここのところ、マジックの仕事が忙しくて、一つ屋根の下にいるにもかかわらず、二人は顔を合わせることすらままならない日々が続いていたのだ。
もっとも、父親の方は、帰宅すると、どんなに疲れていても子供部屋に直行して、息子の寝顔で疲れた心を癒していたりしていたのだが。
「ごめんね、シンちゃん、パパが忙しくて、ご飯も一緒に食べられないし、お風呂も一緒に入ってないね。」
自分はその飢えを、撮りだめしていたビデオで満たしていることは、おくびにも出さず、彼は寂しい想いをさせている息子に謝った。
「いいよ。僕、もう大きいから平気。ひとりでできるよ。」
ああ、なんて健気な子なんだろう、と、じーんと胸を熱くするマジックだったが、時間が無いことを思い出して、もう一度抱きしめてから、シンタローを床に下ろした。
「それじゃあ、パパ行って来るから、いい子にしているんだよ。」
「うん。パパ、いってらっしゃい」
それでも、やはり寂しいのかしゅんとうなだれるシンタローの頭をひとつ撫でて、父親は優しく言った。
「大丈夫、すぐ終わらせるからね。」
周りで聞いていたその言葉の意味をよく知る者達は、内心ぞっとすくみあがったが、賢明にもそれを押し隠した。
しかし、年端もいかない息子は、「ほんと?」と単純に嬉しそうな顔になる。
「やくそくするよ。なんなら指切りしようか。」
「するするー。」
ゆーびきーりげんまーん、と元気よい歌声が、早朝のしん、と静まりかえった玄関に響く。
子供は知らない。
父親が、仕事を終わらせるということは、すなわち、多くの血と嘆きが、どこかで生まれる日が近いということなのだということを。
指切りが終わると、待ちかねたように玄関の扉が開かれる。
「じゃあ、いってくるよ、シンちゃん。」
吹き込んでくる風に、思わずコートの前を合わせた父親は、付け加えた。
「今日は寒いから、外に出るときは、ちゃんとコートを着て、マフラーと帽子をつけるんだよ。」
「うん、わかった。」
「いい子だ。」
父親は息子に頷いてみせると、迎えに来ていた車に乗り込んだ。
『さんすうドリル』を放り出して、シンタローは椅子の上に持ち上げた両足の膝に顎を乗せた。
「シンちゃん、おぎょうぎわるいよー。」
一緒に勉強をしていた従兄弟が咎めると、彼の手元のそれまで取り上げた。
「やーっ、かえしてよお。」
「へーんだ。くやしかったら取り返してみろ。」
「ひどいよ、日記につけてやる!」
二人とも、椅子の上に立ってドリルの取り合いをしているうちに、それが遠くへと飛んでいってしまった。
放物線を描いて落ちた先は、見慣れた靴のすぐそばで、二人がぎょっとして動きを止める。
「………お二人とも、何をなさってるんですか。」
グンマの教育係である、高松が両腕を組んだ姿勢で口元をわずかにひきつらせていた。
「たかまつー、シンちゃんがひどいんだよお!」
「グンマがいいこぶるから悪いんだ。」
「だって、シンちゃんがおぎょーぎ悪かったんだもん。」
「うっさい! バカっ!」
「シンちゃんの方がもっとバカ!」
「じゃあ、それのもっとバカ!」
「あー、はいはいおおよそのことは、分かりました。シンタローさまが、お勉強に飽きたのですね。」
そして、おおかたグンマがそれを注意して、最終的にこの展開になったのだろう。グンマは一人にしても、おとなしく勉強をしているが、従兄弟と一緒になるといつもこうなってしまうのだ。
確かに、同じ年頃の子供を一つの部屋に閉じこめておいては、遊ぶなというほうが無理だが。
「それでも、来年は小学生でしょう。ちゃんと予習していないと、恥をかくのはあなたですよ。」
「恥なんてかかないもーん。」
実際、これもまた落ちていたシンタローのドリルを取り上げると、かなり難易度の高い問題でもきちんと解けている。
確かに頭は悪くない方だろうとは思う。しかし、勉強という『習慣』をつけるのが、そもそもの目的なので、理解度の高さがどうこういう問題ではない。
「とにかく、子供のおしごとはお勉強です! とっとと席について、鉛筆を持ってください。」
一括されて、シンタローはしぶしぶ椅子に座った。
しかし、なかなかやる気にならないようで、まだぐずぐずとしている。
「早くおっきくなりたいなー。」
シンタローの愚痴に高松は意地悪い笑顔を向けた。
「おや、大人になったら、本当にお仕事しないといけませんよ。言うことをきかないクソガキにお勉強させたり、上司の愚痴につきあったり。」
「違うもん。僕は大きくなったらパパのお手伝いするんだもん。そうしたら、ずっといっしょにいられるから。」
「じゃあ、ぼくも高松のお手伝いするー。」
はりあってそう宣言するグンマのかわいらしさに、高松は溢れ出す鼻血を押さえた。
それにしても、と、ハンカチを探しながら考える。
確かに、マジックが彼を後継者に指名するだろうということは、ガンマ団内部では間違いないだろうと言われている。
けれど、この子供に耐えられるのだろうか。
人々の怨嗟と嘆きを、その肩に背負うことに。
――父親に守られているだけの、この異端の子供が。
トップというものは、すべからず孤独と戦わねばならない宿命を背負っている。
恐怖と畏敬を他者に植え付けるためには、決して弱みをみせてはいけない。
それこそ、家族の死とあっても、涙を流すことも許されない。
その点、マジックは非常に『優秀』な指導者であるといえるだろう、と高松は皮肉っぽく思った。
彼は弟の訃報を聞いた時、眉一つ動かさなかったと言う。
サービスは「あいつらは、穏和で戦闘に向いていないルーザー兄さんが邪魔だったんだ」と、泣いて兄たちを非難したが、それもまた違うだろうと、高松はそう思っていた。
サービスという友人は、彼にとって受け入れがたい現実からは、目をそらす傾向にある。
あの人の、無邪気な残酷さも、脆い精神も、何も知らなかった。知ろうとさえしなかった。
けれど、マジックはすべて知っていた。
自分以外に、あの人のそのすべてを受け入れたのは、きっと彼だけだっただろう。
だからこそ、自分は許せなかったのだ―――。
「でもー、シンちゃん、おじさま、とっても強いし、なんでも出来るから、お手伝いなんていらないんじゃない?」
子供達の声に、暗い淵に思考が落ちかけていた高松は、我に返った。
グンマの無邪気な指摘に、シンタローは、黒い瞳を大きく見開いている。
「おとなのひとたちが、『そーすい』はかんぺきだって言ってたもん。『そーすい』っておじさまのことだよね、たかまつ。」
「そうですねー。でも、完璧かどうかは私は存じませんがね。」
「違うの?」
「側近を顔で選ぶような安直なとこありますし。」
「だって、自分一人で平気なんだから、飾り程度でいいんじゃないの?」
「それにしても……。」
そうやって現総帥の能力について、勝手な批評を二人が繰り広げている間、シンタローは黙りこんで、何かを考え込んでいた。
なんとか、勉強を終わらせ、やっと許しが出た二人は遊び場に向かって、手をつないで歩いていた。
喧嘩をしていたことなどすっかり忘れ、機嫌よく歌など歌いながら歩いていたグンマだったが、黙り込んでいるシンタローの様子に気づいて、手を強く引っ張った。
「ねぇねぇ、シンちゃん、どうしたの?」
「なんでもないよ。こっち、行こう。」
「ええっ! ダメだよ、決まった道じゃないと、高松が怒る。」
近くの細い道に入っていこうとするシンタローを、グンマは止めたが、言い出してひっこむような相手ではなかった。
「こっちの方が近道なんだもん。高松が怖いならグンマ一人で、あっち行けよ。ブランコも滑り台も、ぼくが先に遊ぶから。」
そう言って、ふりほどかれそうになった手を、慌てて掴んでグンマは涙目で頷いた。
「わかったよ~。でも、高松にはナイショだよ。」
「あったりまえじゃん。」
おまえこそ言うなよ、とシンタローは釘を差し、ガンマ団の中枢に位置する施設が多くひしめくエリアへと入っていった。
何度かこっそり通ったことがあるので、人気の無い道は分かる。
人が来れば物陰に隠れてやり過ごすのも、スリルがあってわくわくする。
最初は渋っていたグンマも、探検ごっこもどきを楽しみ始め、あと、少しという場所まで来ると残念そうな顔つきにさえなった。
「あの階段を上って、降りたらすぐだよね。」
「うん。誰もいないし、行こう。」
周りを注意深く見回してから、ふたりはたっと、階段に向かって走った。
とことこと登ると、冷たい突風が顔に吹きつけてきて、二人は首をすくめた。
「さむーい。」
「高ーい。」
こそっと手すりから下を覗くと、行き交う人々の姿がちらほら見えた。
それを観察していた二人は、見覚えのある赤い服に「あ」と声を出しかけて、しーっ、しーっとお互いに唇を尖らせた。
「パパだ。」
「おじさまだ。早く降りないと、見つかっちゃうよぉ。」
グンマはシンタローの手を引っ張ったが、まったく動こうとしなかったので、グンマは諦め、見つからないようにその場にしゃがみこんだ。
見つかったら叱られると思いながらも、外で見る父親がめずらしく、シンタローは必死で目をこらす。
数人の大人をひきつれて、歩いている姿が子供の目から見てもかっこよくて、それが自分だけのパパなんだと思うと、誇らしくてちょっと嬉しい。
彼らの進行方向がたまたまこちらの建物だったらしく、どんどんその距離は近くなり、シンタローは背伸びした。
今日は一段と風が強い。
マジックは、コートが風にあおられて飛んでいこうとするのを片手で押さえた。
背後にいた部下が、預かろうとするのを手で制止し、肩に羽織り直す。
「それで、A地区の戦況は?」
「はっ、……一進一退といったところです。今、我が軍と対峙しているのはあの国の精鋭部隊の中の、特に選りすぐられた戦士のチームだという報告が情報部からも入っています。
また、あの地区の気候も影響し、作戦の遂行に支障をきたしているものと思われます。」
「そうか。」
マジックは、頷いた。
「なら、あのミサイルを使え。」
その言葉に、部下が青ざめる。
確かに最近開発されたばかりの、それを使えば、一気に戦局はこちらに傾くだろう。
A地区の制圧さえしてしまえば、あの国は落ちたも同然だ。
しかし。
「あの兵器は、現段階で効果が広すぎます。その影響を及ぼす地域は半径50kmは優に超えて―――。」
「だから?」
青い冷ややかな瞳に射抜かれ、彼は自分が分を越えた発言をしてしまったことに気づき、蒼白になった。
「……も、もうしわけありませんっ!」
「構わん、言ってみたまえ。」
「はっ…その、しかし……。」
彼は口ごもったが、このまま黙っていた方が、余計総帥の怒りを煽ることは分かっていた。
「……自軍に与える被害も甚大なものがあると……。」
「甚大を通り越して、全滅だろう。」
マジックはあっさりと訂正した。
「期間内に終わらせられない無能さに対して、査問会を開く手間も省けてちょうどよい。」
部下達の目に恐怖が浮かぶのを、マジックは何の感慨も覚えず見下ろした。
彼らがどう思っているかなど、手に取るように分かる。
自分が持つ禍々しい力、では無く、この内に潜む闇に彼らは怯えているのだ。
冷酷で、非道の限りを尽くす魔王。
今更のことだ。
そして、彼らは自分の中のそれを恐れながらも、ありえないものに焦がれる人間の性からそれに惹きつけられている。
実の弟たちもそうだ。
彼らは自分に反発しながらも、自分から離れられない。
ひとつのものを求めて、それに対して揺るぎない心を持つことの必要性を、自分は知っているが、彼らは知らない。
だからこそ、目的のための選択を容易に行える自分を恐怖し、そして、崇拝するのだ。
「すぐに、手続きを済ませろ、報告は後で構わない。」
今日は、あと会議が数件有り、その間をぬって他国との話し合いもしなくてはならない。
すでに終わったことの報告など聞いている暇はない。
「はっ! かしこまりました。」
部下が一礼をして、速やかに立ち去った後、ふと、視線を感じて顔を上げた。
「シンタロー……。」
前方上部にある通路の手すりの隙間から、見下ろしている大きな黒い瞳を見つけて、マジックは呆然とした。
目が合った瞬間、子供の小さな肩が遠目でも分かるほどびくりとはねた。
そして、手すりから手を離すと、くるりと背中を向けて走っていった。
「あっ、シンちゃん! 待ってよお…お、おじさま、ごめんなさいっ!」
一緒に隠れていたらしい甥が慌ててその後を追う。
ぴょこんと頭を下げたものの、いつもと変わりないのは彼が見ていなかったからだ。
自分の本当の顔を。
知らず、自分の顔を指でたどる。
かすかに、歪んだ口元、ひそめられた眉。
冷酷な、鬼のような、そんな笑みを自分は浮かべていた。
すべての者を圧倒し、ひれ伏させる恐るべき男の顔を、幼い息子に見られてしまったことに、自分でも意外なほどに動揺していた。
誰でも知っていることなのに。
いつか、彼も知らなければいけないことなのに。
「総帥?」
凍ったように立ちすくむ自分の様子を不審に思ったのか、部下が声をかけてきた。
「なんでもない。」
なんでもないことだ。
「次の予定は、第4棟の会議室だったな。急げ、時間がおしている。」
そう言って、歩調を早めた。
休む暇はない。
彼を待っている未来を前にしては、なにをもそれを止める存在にはなりえないのだから。
仕事を終わらせ、家に向かう車の中でマジックは彼に電話をかけた。
数回のコールの後、やっと出てきた男の声は不機嫌そうでした。
「どうなさったんです。こんな遅くに。」
「どうした、とはこっちの質問だ。何故、シンタローが中央エリアの中に入ってきていたんだ。」
総帥の詰問にも、彼はまったく動じる様子が無かった。
「はぁ、そうだったんですか。確かにあそこを突っ切った方が、遊び場に近いですからねぇ。」
「危ないから、入らないようにと二人には言ってあるはずだろう。」
のほほん、とした彼の口調にマジックは苛つきを隠せず、ついきつい声を出してしまったが、高松は鼻で笑い飛ばした。
「危険? お言葉ですが、ここは貴方の『お城』でしょう。そんなところでご子息にどんな危険がふってくるとおっしゃるんです?」
「高松。」
「それとも、『お仕事中のパパ』を見られたくなかったんですか?」
電話で幸いだったな、とマジックはひっそりと思った。
こんなことで動揺している自分を誰にも知られたくはなかったからだ。
一番触れられたくない話題に、高松という男はへらへらと笑いながら触れてくる。
「まだ、早い。」
「早い……ねぇ。承知しました。ご子息がご自分で判断できるようになられるまでは、お父上の職場には入らないように、気をつけておくことにしますよ。」
そこで、彼は一旦言葉を切る。
芝居がかった間などとって、高松は言った。
「お父さまの仕事を『理解』した後、シンタロー様がどうするかは私が関知すべきことじゃありませんから知りませんが。」
マジックは返事をせずに、電話の電源を切った。
窓にうつる自分の顔をちらっと見たが、多少不愉快そうな表情にはなってこそすれ、とりたてて動揺している様子はなかった。
残念だったな、とマジックは、高松を密かに憐れんだ。
彼は別に馬鹿な男ではない。
よく自分を観察しており、ぎりぎり許される範囲を見極めて、彼にとって痛手になるだろうと、ああしたことを口にする。
それが、彼なりの復讐なのだろう。
高松が何より、愛し、崇拝した『彼』を死に送り出した自分に対しては。
冷静で、何事にも流されたりしない心が、このことに関してはどうにも抑えきれないらしい。
けれど、怒りに任せて自分の身を滅ぼすこともできないのだ。
遺された『彼』の子供と、『彼』の仕事を放棄することは高松にはできない。
やっかいなものだ、愛情というものは。
「おかえりなさいませ。」
「食事はすませてきた。……シンタローは?」
「しばらく前にお休みになられました。」
「そうか。下がっていい。」
深々と一礼して使用人が立ち去ると、マジックは廊下に作りつけてある時計に目をやった。
その針は、子供の就寝時間がとっくに過ぎていることを指し示している。
もちろん、そんなことは百も承知だった。
わざと仕事を増やして、帰宅する時間を遅らせたのだから。
子供のことだから、一晩間を置けばあんな些細なことは忘れるだろう。
そんな姑息な己の思考をマジックは自嘲した。
観られたから、知られたからどうだっていうのか。
あの距離で自分たちの会話を聞きとれたとも思えないし、そもそも頑是無い子供に話の意味など分かるはずがない。
それでも一旦は子供部屋へ向かいかけた足を止め、マジックはまっすぐ自室へ向かった。
冷えきった部屋に入ると、灯りもつけないでベッドルームへ入った。
少し休んでから、シャワーを浴びようと、ベッドに腰掛けた時、小さなふくらみに気づいた。
よくよく見ると、ベッドカバーがはずされて床に落ちている。
驚いて羽布団をめくると、そこには小さく丸まって眠っている息子の姿があった。
「シンタロー……。」
何故ここにいるのか不思議だったが、起こしてはいけないと、そおっと布団を戻したところで、子供の目がぱっちり開いた。
「う~~……。」
目をこすって、闇に目をこらしていた様子のシンタローだったが、すぐに父親だと気づき、ぱすっと抱きついてきた。
「パパ、おかえりなさい。」
子供の体温は温かく、冷たい外から帰ってきた身には心地よいものだった。
「ただいま、シンちゃん、どうしたの? ……なにかパパにお話したいことでもあったのかな?」
マジックの心中を知ってか知らずか、シンタローはじいっと父親の顔を見上げている。
しばらくして、ほっとしたように笑う。
「……いつものパパだぁ…。」
マジックの肩がかすかに強張る。
しかし、表情はあくまで穏やかな様子を崩さずに、彼は息子に尋ねた。
「いつもの、って? パパはいつでもシンちゃんのパパだよ。」
すると、シンタローはもじもじとして、顔を俯かせた。
禁止されたことをして怒られると思ったのだろう。けれど、どうやら覚悟をきめたのか、えーとね、と口を開いた。
「今日ね、パパがお仕事しているところを見たの。……パパ、とっても怖いお顔してた。」
話すことに一生懸命になっているせいか、自分の髪を撫でていた父親の手が止まったことに、シンタローは気づいていない。
ずっと、午後から考えていたことを、どうやって父親に伝えようかと必死だったのだ。
「あのね、それで、僕思ったの。きっと、今日、とっても寒かったから、パパ、怖いお顔してたんだって。だからね、おふとんあたたかくしてようと思ってねちゃったの。」
たどたどしい説明は、父親にぎゅっと抱きしめられたことにより中断してしまった。
「パパ?」
「シンちゃんは、本当にいい子だね。」
その言葉にシンタローは、戸惑ったようだった。
「ぼく、いい子じゃないよ。言いつけやぶったし、グンマを泣かせたし、高松の本にらくがきしたし………青い目じゃないし。」
小さな声で付け足された言葉に、父親は腕の中の息子の顔をのぞき込んだ。
「金色の髪じゃないから、『かんぺき』じゃないから、大きくなってもパパを助けてあげられないの。ごめんね。黒くてごめんなさい。」
しゅんとしている息子に、マジックは他の誰にも与えないような微笑みを向けた。
「パパは黒い髪の方が好きだよ。たとえ、神様が百人の金髪で青い目の子供のかわりにシンちゃんを欲しいっていっても、パパは交換なんか絶対しない。」
そう言って、顔を近づけて瞼の上にキスを落とす。
「さあ、だから、そんなことは忘れてしまいなさい。シンちゃんはずっとパパの側にいて、パパを助けてくれるんだよ。……忘れるんだ。」
おまえが見た『私』など、覚えていてはいけない。
シンタローが知っているのは、優しく子供を見守る父親の瞳だけでいい。
世界で一番彼を愛している男の瞳だけでいい。
『青の瞳』など、覚えていないくてよい。
やさしく頭を撫でながら、そう低い声で囁き続けると、子供はうとうととしだした。
腕の中の子供がどんどん重くなる。
それにうっとりとするような幸福感を覚えつつ、完全に眠りに落ちる寸前の子供に、一つだけ質問した。
「シンちゃんは、パパが怖い?」
シンタローはたくましい腕に頭を預けながら「こわくないー」とあっさりと答えた。
「だって、パパ怖い顔してただろう。シンちゃん、さっきそう言ったじゃない。」
しつこくそんなことを言う父親に、息子は重ねて答える。
「こわくない。昼間のパパの顔は……怖かったけど、『パパ』は……怖くないの。……だって、…パパだも…ん。」
とぎれがちになる言葉の代わりに、シンタローは父親の服をきゅうっと握りしめる。
離れないことを誓うかのように。
深い眠りに落ちた子供を、マジックは腕の中に抱え直した。
こうやって、腕に伝わってくる熱や、小さな呼吸、そのひとつひとつに、愛おしさを感じる。
けれど、そんな気持ちも自分を変えることはできない。
目指したものを諦めて、家族を愛し、穏やかな……無為の日々を甘受する人間など自分はなれない。
この先、シンタローが成長して、今度こそ本当に、彼が父親と呼ぶ人間が、何者であるかを知るだろう。
嫌悪するかもしれない。
……恐怖するかもしれない。
それを、何より自分は恐れているのに……それでも、変えることはできないのだ。
そして、この子を手放すこともできないだろう。
いや、手放す必要がどこにある?
この子は、私のもので……私だけのもので、だから、彼の意思など関係ない。
くっ、と、彼は嗤った。
本当に……どこの誰が『愛は貴いもの』など言ったのだろう。
これほど、醜くエゴに満ちた感情が他にあるというのか。
囚われ、縛り付け、そんな欲望を、すべて正当化してしまう言葉。
知らなかった。
こんな感情は生きてきた中で、知ることはなかった。
これが、『愛情』だと言うのなら、自分は誰も愛したことがないということになる。
―――そして、おそらく、これから先も他の人間に対して、こんなふうには想うことはないだろう。
愛しているふりはできる。優しくすることもできる。
けれど、こんな感情は他の誰にも持てない。
ああ、そうだ。
愛することを、己に禁じてきたわけではなかった。
ただ、誰も愛せなかっただけなのだ――――――――。
ベッドに横たわらせ、柔らかい髪を撫でてやる。
寒かったから、顔をしかめていたという、シンタローの解釈はそう間違っているわけではない。
ずっとずっと、凍えてきた自分の中のそれを温めてくれたのは紛れもなく、この子の存在だ。
麻痺していた心に、恐れと痛みを与えたのも。
けれど、自分は変わることはできないから。
だから、この子を自分の世界へ引き入れるしかない。
愛しているから。
この世のなによりも―――この子だけを唯一愛しているから。
なんて醜い。
グロテスクなエゴイズムな理由。
「大丈夫だよ、パパと一緒なら……二人なら、きっと、冷たくないからね。」
そう、寄り添って氷の城の中で生きていこう。
この子が苦しさに耐えきれず泣いたり、外に行きたいと叫んだら、抱きしめて慰めてあげよう。
――――――――それが、『愛』というものだろう?
end
2005/07/30
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