勢い良くシンタローの部屋のドアを開ける。
愛息子の姿を両目で捉えて、マジックは飛び切りの笑顔で抱きかかえていたクマのぬいぐるみを差し出した。
「シンちゃんただいま!今日のプレゼントは――…」
シンタローの表情が暗いのに気付いたマジックは言いかけた台詞を途中で切らせて慌ててシンタローの傍へ寄る。
しゃがみ込んで小さな肩に手を掛けようとしたその時、可愛らしい手でピシャリと叩かれた。
いつもは笑顔で『おかえりなさい、パパ!』と言ってくれるのに。
シンちゃんどうしちゃったのかな?と優しく聞くと「そんなものいらない!パパ出てって!」と言われてしまった。
マジックはショックが大きすぎて身動きがとれない。
そんな彼を、シンタローはぐいぐいと部屋の外へ引っ張り完全にそこから追い出すと
バターン!と大げさな程音を立ててドアを閉た。
その音で我に返ったのかマジックは「何で!?どうして!?パパに至らない所があったなら教えてシンタロー!」
とドアにへばり付きながら泣き喚く。
至らない所だらけだったんじゃねーの、と聞き覚えのある声がして涙でぐちゃぐちゃの顔を向けるとそこには
煙草を口の端に咥えながら立つ弟がいた。
「ハーレム!」
名を呼ばれて、‘お~こわッ’とハーレムが肩を竦める。
その仕草が気に食わなかったらしい。
マジックは強い口調で何の用だと尋ねた。
「オレがここに来る用事なんて、一つしかないんじゃねーの?」
「また金か。まったくオマエは幾つになってもそうやって…ちゃんと自立しなさい!」
「冷てぇなぁ兄貴。ま・苛立つ気持ちも解かるけど落ち着けよ。」
「五月蝿い!シンちゃんに‘パパ出てって!’なんて言われた私の気持ちがオマエに解かるか!」
「あーもー全然解からないし解かろうとも思わねーな。」
ボリボリと頭を掻いて、鬱陶しそうにマジックから眼を逸らす。
子供を持つと途端に性格が変わるヤツがいるって話は聞いたことはあるが兄貴のこれは酷すぎる。
ため息をついて視線を落とすと床に転がっている大きなヌイグルミが眼に入り、ハーレムはそれを拾い上げた。
「何だ?このクマ。」
「最近スイスで流行ってるテディベアだよ。可愛いだろう?
シンちゃんにプレゼントしようと思って取り寄せたのが今日届いたんだ。」
「っかー!アンタ、馬鹿じゃねぇの。あんなガキにこんな高価なモン与えて価値が解かるもんかよッ」
「ちょっと!返しなさい。」
「コレはオレがありがたーく貰っておくぜ。
・・・兄貴、言っておくけど向こうが欲しがる前に与えちまうのは優しさでもなけりゃあ愛情でもねぇよ。」
こんなモンよりも、シンタローが欲しいものはもっと他にあるんじゃねーの?
そう言い残して、ハーレムはヌイグルミを小脇に挟んで何処かへ行ってしまった。
暫くしてドアを静かに開けて中を覗くと、シンタローが部屋の真ん中で蹲っていた。
シンちゃん…と呼ぶと、シンタローはマジックの方へ振り返り、
立ち上がって駆け寄ると彼の腰にしがみ付いた。
「シンちゃん、シンちゃん。ごめんね。
パパ、気が付かない内にシンちゃんを怒らせちゃったのかな?」
シンタローの小さな頭を大きな手で撫でながら問いかける。
シンタローはやはり、‘パパの馬鹿!’と言った。
馬鹿、と言われてまた涙が零れそうになるのをマジックは必死で耐えながら‘どうして?’と聞くと
シンタローも目を潤ませながら
「プレゼントなんていらない!いらないから、パパもっと家にいてよ、僕と一緒にいてよ!」
僕、パパがいないと寂しくて泣いちゃうんだ!と叫んだ。
その言葉でマジックの顔がぱぁああと一気に明るくなる。
彼はぎゅう、とシンタローを抱き締めた。
「ごめん!ごめんね!シンちゃん!」
「今日はもうどっか行くの禁止!!パパはここにいなきゃダメなの!」
「解かった!今日はもーずっとシンちゃんの傍にいるよパパは!」
シンタローの隣にいなきゃいけないのは、クマのぬいぐるみよりも『自分』なんだと、それを教えられて
マジックは嬉しさで胸があたたかくなるのを感じたのだった。
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子供にとってその叔父は、とても「叔父さん」とは思えない叔父だった。
もう一人の叔父の方は、知的な喋り方や身のこなし、そして完璧とも言える容貌の持ち主で、子供心に十分尊敬に値する叔父だった。
父親やそんな叔父と同じ兄弟なのが信じられないほど、もう一方の叔父はがさつで乱暴で、容貌も獅子舞そっくりだった。いつも父親に金をせびっている姿しか見ていないせいもあるかもしれない。とにかくあまり良い印象ではないことは確かだった。
とは言っても子供は人見知りする性格ではない。子煩悩とは言え、仕事が忙しい父親が構ってくれない時にその叔父が本部にやってくると、勝気だが人懐っこい笑顔を浮かべながら、叔父と一緒に遊ぼうとする。
子供を見るたびに、叔父の目に何か影のようなものが走るのに、子供自身は気が付いていない。
それは好ましいものの類では無いのだが、敏感な子供が気付かないよう隠しているあたり、子供が思っているほど叔父はがさつではないようだ。
「おーじーさん」
「あんだクソ餓鬼」
叔父を発見した子供は小走りに駆け寄って、その足元に飛びついた。
父親不在の暇を持て余した子供にとって、大人気ない親戚は絶好の遊び相手と言える。総帥の子供だからと壊れ物を触るように扱うことは無く、忙しいからと煙に巻いたりもしない。最初はぶつぶつ言いながらも、最終的には本気になって遊んでくれる叔父に、子供は何だかんだで懐いていた。
「遊んでよ」
「俺はそんな暇ねぇんだよ」
子供に纏わりつかれた叔父は、少々鬱陶しそうな表情で、それを振り払おうと努力している。
「嘘ばっかり、暇そうにしてたじゃない」
不服そうに見上げると、子供の黒い目に苦虫を噛み潰したような顔の叔父が映った。
「うっせぇな。俺はお前の親父に用があって来たんだよ。親父はどこだ、親父は」
「パパはお仕事だって。電話があってどこかに行っちゃった」
どこか諦めたような口ぶりでそう述べる子供に対し、叔父は一瞬憐れむような目を向け、すぐにふいっと逸らした。
「ちっ。入れ違いかよ」
忌々しそうな舌打ちに負けずと、子供は叔父の裾を引く。
「暇になったんなら遊んでー」
ぐいぐいと引っ張られて根負けしたのか、目線に合わせてしゃがみこんだ叔父に、子供は嬉しそうに笑った。笑顔を返されtが叔父は、居心地悪そうに眉間に皺を寄せ、ふと思いついたように子供に尋ねた。
「なぁお前、自分ちの稼業のこと知ってるか?」
思いがけない内容の質問に、子供は記憶を掘り返しているのか、ぐるりと目を上にやって考え込む。
「ううん、知らない。前にパパって何してるのって聞いたら、まだ知らなくて良いって」
「ふうん、兄貴も子供にゃ甘ぇな」
「叔父さんは知ってるの?」
「知ってるも何も、俺も一応部下だからしな。…教えて欲しいか?」
叔父の青い目に睨まれて、子供は一瞬怯んだが、勝気な性格がそうさせるのか「うん」と勢い良く頷いた。叔父は同情のような嫌悪のような感情を覗かせて、そんな子供の様子をじっと観察している。いつもと違う雰囲気を感じ取ったのか、子供は叔父の目を見つめ返すことをせず、うろうろと視線を彷徨わせた。
「やっぱ、やめた」
「…けち」
どこかほっとしながら、子供は一応文句を言ってみせる。何故だか理由は知らないが、父親がまだ知らなくて良いことなら、きっと知らなくて良いのだろう。子供は叔父の真面目な視線に不吉なものを感じた。
「おい、まだかガキ」
「まーだだよ。ちゃんと十数えてよー」
一族のみに開放されている広場のような場所で、二人はかくれんぼをして遊んでいた。遊びたがる子供に逆らえば、後で子供の父親に何を言われるか分からないと観念し、叔父はやる気無さそうに数を数えている。
子供はかくれんぼについていつも不満を持っていた。父と遊べば鼻血の痕ですぐ分かるし、従兄弟と遊べば中々見つけてくれず結局泣き出してしまうので、いつもまともにかくれんぼで遊んでくれる相手がいない。
やっとまともなかくれんぼが出来る、と子供はわくわくしながら出来るだけ発見されにくそうな場所を探し、小さな身体をより小さく縮めて隠れた。
幼い子供の目線は大人よりかなり低く、思いもよらない場所に隠れるものだ。絶対に見つからないと自信満々で子供は叔父がうろたえる様子を思い描き、にやりと笑った。
だが子供の予想は大きく外れ、五分も持たずに発見されてしまった。猫の子のように首根っこを持ち上げられて、叔父の得意げな顔が子供の眼前に広がる。
「甘いな」
大人気なく勝ち誇る叔父を見て、子供の勝気な性格が遺憾なく発揮された。隠れる側と見つける側を交代することなく、次こそは絶対見つからない、と意固地になって、必死で隠れる場所を探索した。
三回連続であっさり発見され、子供の苛立ちは限界に達した。
「何でそんなにすぐ見つけるんだよ!」
「すぐに見つかるお前が甘ぇ」
「一生懸命かくれたのに…」
ふて腐れて不満を漏らす子供の頭の上に、ぽんっと叔父の手が乗った。
「お前の隠れてる場所な、俺がガキん時使った場所と同じなんだよ」
「えーそれって、目のつけどころがハーレム叔父さんと似てるってこと?」
「じゃねぇの?光栄に思え」
「…サービス叔父様なら嬉しいけどナマハゲに似てるって言われても嬉しくない」
ぐしゃぐしゃと乱暴に髪をかき回されて、子供は抗議の悲鳴をあげた。慌てて叔父の手の下から逃げ出す。
「ほんっとーに可愛くねー甥っ子だな、お前。もう帰るぞ」
「もう?まだあそぼーよ」
「ガキは日が暮れたら家に帰れ。飯食って寝ろ」
「はーい」
不承不承肯いた子供を引き連れて、二人は帰路に着く。夕日を照り返しきらきらと輝く叔父の金髪を、子供はうっとりと見上げた。親戚の中でも特に黄色味が強い金髪を、子供は内心気に入っていた。
「叔父さん、髪の毛の色だけはキレイだよね」
「だけ、は余計だろ」
心底面白くなさそうな大人気ない返答にくすくすと笑いながら、子供は自分の真っ黒な髪の毛をつまんだ。
「僕もおっきくなったら、叔父さんみたいなキレイな色になるかなぁ」
叔父は顔を顰めて子供の方に振りかえり、何か言いたそうに口を開いたが、出てきたのは和やかなその場に似合わない重苦しい溜息のみだった。
「さぁな、知らね」
怒ったような物言いに子供がきょとんとしていると、叔父は乱暴に手をつなぎ、引っ張るように歩いた。子供の手をすっぽりと包みこむ大きな手はやけに冷たくて、その体温に子供は目を丸くしていた。
(2007.7.4)
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ひらり…ひらり……。
舞い散るその姿が美しかった。月の光を浴びながら、淡い白の光を纏い、散り行くその姿に目が放せなかった。
「きれぇ~」
稚拙で簡素な、けれど一番真実に誓い純粋な言葉で、その姿を賞賛する。
今年の年明けとともに十になったシンタローは、何度目になるだろうか、その言葉を呟きながら、庭に佇む桜の木を眺めていた。すでに盛りを過ぎたその桜は、心得ているかのように、絶えることなくはらはらとその花形を崩していく。今宵の風は少し強く、それ故に散らす花びらの数も多かった。さらに天空の望月が煌々と庭を照らし、その様を幽玄の美へと仕立て上げていた。
ここは、平らかに安らかに穏やかな都であるように、と願いを込めてその姿を形にされた平安京。その中でももっとも尊き高貴な者が住まう内裏の中の一画。
「んんっ」
しばらくその姿を魅入っていたが、それも飽きてきたのか、シンタローは腕を伸ばし、小さな手をいっぱいに広げた。風に誘われ遠くまで流れてくるその花びらを、どうにか受け止めることは出来ないかと、欄干の上に身を乗り出す。
そんなことをしなくても、すぐ横には地面へと降りる階がある。そこを降りればもっと近くにいけた。だが、履物もない上に、勝手に外へ出ては叱られる。そのため、部屋の外側にある渡り廊下として作られた簀子の位置がシンタローにとっては精一杯だった。
板張りの簀子の上には、すでに花びらが点々と床に落ちていた。風に乗ってここまでやってきた花びらもあるのだ。けれど、シンタローは舞い落ちる花びらが欲しかった。
床に落ちているのとは、そう大差はないと思うのだけれど、自分の手のひらに掴んだ桜の方が、何倍も美しいものだと信じているように、シンタローは、一生懸命手を伸ばして、薄紅色の欠片を手にいれようした。地面に落ちていない、汚れてない綺麗な花びらを手に入れたかったのだ。だが、
「あっ…ああッ!」
身を乗り出しすぎた身体は、不意にバランスを崩し倒れ込む。気付いた時は、すでに遅かった。
すってんころりん…。
欄干を飛び越え、見事シンタローは、前のめりして転げ落ちてしまった。
「いったぁ~」
「……痛いのはこっちだ、チビ」
あれ?
つい口から零れた言葉。けれど、思ったほど衝撃はなかった。それよりも、おかしなことに、自分の身体の真下から声が聞こえてくる。シンタローの顔が、きょとんとした表情に変わった。
「地面がしゃべった?」
「んなわけねぇだろうが」
低く唸る音。お尻の下の地面が大きく波打ち、そのまま隆起するように盛り上がった―――ように見えたが、実際のところは、シンタローが下に敷いていた相手が、上半身を起こしただけである。
「うわッ!」
驚くシンタローを上に、その下にいた人物は、最初のドスの効いた声とは違い、柔らかい声をかけてきた。
「ったく、あんなところから落ちやがって。怪我はねぇかよ、ちみっこ」
「ん~~と……ないッ!」
その質問に、シンタローは元気良く答えた。
簀子の上から地面までは、一メートル以上の段差がある。けれど、シンタローには傷ひとつなかった。もちろんそれは、たまたま下にいた相手の上に、見事落っこちたおかげである。
「そりゃよかったな――――よッ! と」
すとん。
身体が浮き上がったと思ったら、先ほどまでいた簀子の上に置かれた。そうされて、ようやく自分が何の上に落ちたのか分かった。
そこにいたのは金色の髪に青い瞳を持つ人の形をしたものだった。
黒い髪と黒い瞳を持つ自分とはまったく違う色を持つ相手。けれど、シンタローには、その色を恐れる理由はなかった。なぜなら、自分の父親も自分の叔父も従兄弟も、その色を持っているからだ。むしろ、自分の色の方が異端とも言われる中で、その色は全然怖くない。
威風堂々とした面構えをその人はしていた。まるで獅子のようである。獅子は寝所である帳台の前に災厄を除くものとして狛犬とともに置かれているために、シンタローにとっては親しみのあるものであった。
「でも、だぁれ? ……桜の鬼さん?」
シンタローは、目の前の相手にじっと視線を定め、怪訝そうに言い放った。
獅子のような姿をした相手だが、シンタローは初めてみる人だった。けれど、人であるかどうかをまず疑った。
なぜなら、あのような場所に人がいたことなど今まで一度もなかったのである。不意に現れた人を人と見るよりは、あやかしのモノだと思った方が自然だった。
「桜の鬼だぁ?」
けれど、シンタローの言葉に、今度は相手の方が怪訝な表情になる。言われた意味がまったく通じていない。
「桜鬼じゃないの? 桜鬼はね、桜の木の下にいる鬼なんだよ。だから、花びらいっぱいつけてるの」
ことりと首を傾げて不思議そうに言うシンタローを前に、ハーレムは改めて自分の姿を見やった。
確かに、指摘どおりその姿は桜の花びらだらけである。服の隙間には花びらが、幾枚も入り込んでいた。けれど、それはずっと縁の下で寝転がっていたせいだ。久しぶりに内裏の中を散歩していれば、見事な桜に出会い、そこでひとり花見をしていたのはいいが、ついうっかり深酒しすぎ、そのまま熟睡していたのである。そのために、すっかり桜の花びらに埋まってしまっていた。
その姿に、どうやらこの幼子は勘違いしたらしい。
「それでね、夜になったらお外で桜を見ている悪い子を攫って、バリバリって食べちゃうんだよ。だからね、夜はお外に出たら、いけないの」
「って、お前ぇは出てるじゃねぇか」
それはよくある子供に夜更かしを禁じる教訓である。けれど、その話を知っているこの子供は、平気そうに外へ出ていた。おかげで、わざわざ欄干を乗り越えてまで、簀子の上から転げ落ち、自分の腹の上にご丁寧にも落ちてきたのである。
「…うん。だから―――僕を食べる?」
さっきまで、平気な顔をしていたくせに、自分で言っていて怖くなったのだろうか、行き成りおどおどと、こちらに大きな瞳を向けてくる。その幼さに、桜鬼と称されたハーレムは、その手のひらをすっぽりと収まる頭に置いた。
「誰が、てめぇのようなマズそうな奴を食べるんだよ。大体、食べられたくねぇなら、さっさと寝ろ」
そのままがしがしっと髪をかき混ぜてあげる。それが、荒々しい仕草だったせいか、むぅと顔が不機嫌そうになってしまった。
「いたい……」
「優しく撫ぜてやっただけだろ?」
「……パパは、そんな風に撫ぜないもん」
「パパ?」
そう言えば、こいつの父親は……と、ハーレムは思考を巡らし行き着いた先で、とたんに蒼ざめた。
(やっべぇ……。もしかして、こいつ『シンタロー』か?)
目の前の黒髪黒目のちみっこに、ハーレムはひやりと背筋に汗をながした。
『シンタロー』。その名をこの宮中で知らないものはいないだろう。今上帝であるマジックの子であり、珍しくも帝自らが手元で養っているという異例の子供なのだ。しかも、かなり溺愛しており、他の者の前には、めったに見せないため、その子がどういう姿形をしているのか、性別すらも知るものはほとんどいなかった。年だけは、東宮であるグンマと同じ年ということだけは、伝わっていたが、それだけである。
ハーレムとて、こうして「シンタロー」を見たのは初めてだった。自分の双子の弟は、頻繁に会っていたようだが、自分は興味もなかったために、ずっと会わずにいたのだ。
だが、眼前には愛らしい色合いの女装束に身を包んだ少女がいる。
(女だったわけか……どうりで溺愛するわけだ)
確かに、目の前の実物を見れば、兄の盲愛ぶりも少しは納得できる。生意気な口調が少し鼻をつくが、容姿は文句なかった。形のいい小ぶりの頭に、品よく整った目鼻立ち、真っ赤に熟れた果実のように色付いた愛らしい唇。何よりも、目に惹いたのは、その色だった。闇に染められたような漆黒の髪と瞳。それは、自分達一族では、誰一人持たないはずの色だったが、目の前のシンタローは、その深い色一色に染められていた。
しかし、それに違和感はなかった。むしろ、その色こそ、この幼子に相応しく、その容姿をより深く美しく見せていた。
将来美人になることを約束されたような容姿を持って、春らしい桜襲(表は白・裏は赤)の装束を身に纏った少女は、確かに部屋の奥底に隠しておきたくなるような至宝の玉である。
そんなマジックの愛娘がいる部屋とは知らずに、うっかり目に付いた桜の木の前で花見をしていたのは、少しまずかった。これが、兄に見つかればどれほど叱咤されるか分かったものではない。
幸いなのは、ここにその兄がいないということだった。
「どぉしたの?」
あどけない口調でこちらを問いかけるシンタローに、ハーレムはそろりと一歩後ろに下がった。
「あ~、俺はもう帰るわ」
いつまでもここにいては命が危険にさらされる。バレる前にトンずらすべきだと、心に決めたハーレムは、ゆっくりとあとずさりをしようとしたが、その姿に、シンタローはとたんに眉を顰めて泣きそうな表情を浮かべた。
「……かえるの?」
「はぁ? お前は、鬼が怖いんだろうが」
それならば、引き止められる理由はないはずである。
「でも……僕を食べない…でしょ?」
もちろん自分は鬼ではないのだから、食べることなどしない。しかし、だからと言って、引き止められる理由にもならない。
ぐずぐずしてはいられないのだ。噂しか聞こえてこないが、たぶん兄は毎晩、この子供の元に訪れているはずである。鉢合わせしてしまえば、自分の命など消し飛びかねない。
しかし―――あまり見慣れない漆黒の瞳を潤ませて、ひたりと見つめる幼子を前に、ハーレムは退く足を止めていた。
「なんで帰ったら悪いんだ?」
話し相手が欲しいのだろうか。
確かにそれはありえるかもしれない。見たところ、父親は、話し相手になりそうなものを傍に置いていなかった。普通ならば、高貴な者の周りには、女房と呼ばれる身の回りを世話する女性がいつも何人か付き添っているはずである。幼い子であるシンタローならば、なおさら誰かがついているべきである。しかし、そう言った気配はひとつもなかった。
「パパ……今日はいない…の」
ぽそりと告げたその一言に、シンタローは押し込めていた想いまで零してしまったように、ぎゅっと服を握り締め、その大きな瞳から、涙をぽろりと落とした。
「おい! こら泣くな、んなことで」
せっかく離した距離は、それで、また縮まってしまった。思わず手を伸ばし、自分の袖口で、零れた涙を乱暴にふき取ってしまう。
どうも、自分はこの小さな子供に弱いようだった。
(ったく、何やってんだ兄貴は)
そう言えば、昨日辺りから朝議からして慌しいかった。何か厄介ごとでも起こったのだろう、ぐらいしか興味はなかったが、どうやらそれをさばく帝の方は、こちらへ渡れないほどの忙しさになったようである。
「ひとり…ヤなの」
その言葉で、自分を帰らせたくない理由は分かった。心細かったのだ、この子供は。
確かに、だだっ広い部屋にひとり置かれるのは、この幼い子にとっては怖いと思うものである。見知らぬ―――鬼とも分からぬ相手にすがりつくぐらいに。
(どうすっかなぁ…)
兄貴が、今夜はここに来ないのはわかった。わかってしまえば、ここから即座に退く理由はなくなる。そこまで考えれば、もう答えなど出ていた。
普段の自分なら在り得ないことなのだけれど、その手は伸ばされ、再びさわり心地のいい黒髪の上に乗せられていた。
「わーったよ。お前が寝るまでは傍にいてやる」
自分でもどうかしている、と思わずにはいられない台詞が吐き出されていた。
シンタローに手を引かれるようにして、部屋へと入っていったハーレムは、用意されていた褥の中に、シンタローを入れた。
くすくす……。
小さな笑い声が耳元で聞こえる。
柔らかな温もりが、すぐ傍から伝わってくる。何かがおかしいとは思ったが、ここまで来れば引き下がることなどできずに、ハーレムは、小さなその身体を腕に抱いていた。
(……兄貴)
自分とて、ここまでする気はなかった。ただ、褥に横たわった幼子の横に座って、それが眠りにつくまで傍にいるつもりだったのだ。けれど、「パパと同じように一緒に寝て!」という要求をついつい受け入れてしまったのが悪かった。それでもまだ、シンタローの横に添い寝する程度だと思っていたのだが―――まさか、自分の腕を枕にして、抱き込むようにして眠るのが日常だったとは。
というわけで、ハーレムの腕の中にはすっぽりとシンタローが収まりこんでおり、先ほどから嬉しそうに笑いを零してくれていた。かなりのご満悦の様子である。それはそうだろう。ひとりで寝るのが嫌で、けれど誰もおらず、結局眠れずに夜更かしをしていたのだ。
(しっかし、この光景…兄貴に見られたら確実に殺されるな)
言い訳無用の状況である。
「……おい、ちみっこ。本当に、マジに、絶対に! 今夜のことはお前の父親には言うなよ」
「うん、大丈夫だよ」
そう約束してくれるが、どこまで信用していいのやら…。
そんな心配するぐらいなら、ここまでやらなければいいのだろうが―――どうにも自分は、その瞳に弱いみたいだった。
「お前が、もうちーっと育ってくれてればな」
今の状況も、微笑ましいものではなくなっていただろう。もちろん、そちらの方が自分としては歓迎したい。
このまま順調に育ってくれれば、恐らく都中の貴族達からの噂の的になるに違いない。
その前にツバをつけられただけ幸運ということだろうか。もっともこれほど幼ければ、まったく意味はないだろうが。
ハーレムは腕の中にいる童女に視線を向けた。いつのまにか大人しくなったと思ったら、すでに夢の世界の住人になっている。すやすやと安心しきった顔で眠るその姿は、やはり年相応にあどけない。これに色艶が加わるのは、もう少し先のことで、そうなったら改めて誘って欲しいと願うばかりである。
さらりとその小さな額を撫ぜる。
「早く美人になれよ、ガキ」
冗談交じりでそう呟くとハーレムは、そっとその身を起こした。
ふわっ…と大きく口が開いて欠伸が漏れた。
「いい天気だなぁ~」
目じりに浮かんでくる涙を感じながら、シンタローは、のんびりと言葉を吐く。
頬に触れる日差しは、いつのまにか暑いと感じるほどの温もりをもっている。触れる風は柔らかく、くすぐるようにして、首筋を通り過ぎていた。
春だ。
それをようやく実感できることが出来たのは、ここ数日のことである。それまでは、暦の上では春だといえども、その兆しを探すのは難しかった。しかし、今日は特にその春めいた陽気を感じることができる。
「桜もようやく咲いたしな」
今年は、桜の咲きが遅かった。冬がいつまでも居座ってくれていたせいだろう。けれど、目に入った枝に視線を移せば、見慣れた枝に、淡い衣を纏った花が風に誘われ揺れている。まだ綻んでいない蕾たちも、少しつつけば花開きそうなほどの膨らみである。
それを見つめ、シンタローは思わず顔を綻ばせた。
桜の花は、小さな頃から好きだった。飽くことなく見続けるのは、毎年のことだ。今年も、盛りとなれば見事な光景を見せてくれるだろう予感をさせるその花に、そっと指先を触れせれば、背後から声がかかった。
「そんなところで、何をしているんだ、シンタロー」
「キンタロー?」
その声に振り返れば、そこには見慣れた姿があった。春の日差しを受けて煌く金の髪に、春の青空よりも深い色をした瞳の持ち主は、こちらへ向かって、足早に近寄ってくる。
「まったく、なかなか来ないと思ったら、こんなところでサボっていたのか」
職務怠慢だぞ、と相変わらず口うるさいことを告げられる。
キンタローは、シンタローにとって従兄弟にあたると同時に、職場にて上司と部下の関係でもあった。二人とも、弾正台と呼ばれる警察機関に所属している、シンタローの方はその中のトップ、だんじょういん弾正伊を勤め、キンタローがその次官であるだんじょうすけ弾正弼である。
「仕事、たってたいしたもんねぇし。いいじゃねぇかよ」
弾正台の仕事は、役人の罪悪告発したり、治安維持を勤めたりといった仕事である。そのトップとなれば、仕事がたんまりとありそうだが、実際のところ、今の弾正台はほとんどお飾りに近い職場だった。警察機関といわれているが、その主な職務は、すでに剣非違使の方へ移っている。弾正台の職務についているのは、ほとんどが上流貴族階級のもので占めており、名誉職のようなものだった。
当然そんな職場にシンタローが望むほどの仕事はない。
「ったく、帝の息子っていう肩書きもつまんねぇーよな。ろくな仕事が回ってこねぇ」
シンタローが任じられている弾正伊というのは、親王によく与えられる役職であり、つまり、無能でもかまわない官だった。
もっと面白い仕事をやってみたかったのだが、それは帝であるマジックが決して許してくれなかった。小さい頃は気にしてなかったが、過剰すぎるほどの過保護っぷりを見せるその父親は、愛息子に、危険な仕事など一切させる気はないようで、元服するのと同時に弾正伊の官を与えたのである。
仕方なく、その仕事を受ければ、さらにお目付け役としてキンタローまで直属の部下としてつけられてしまった。これでは、おおっぴらに羽目ははずせない。
「仕事は仕事だ。まったくないわけではないのだからな。いいか、仕事はちゃんとあるのだ。それを片付けてから文句を言え」
「へーいへいへい」
気のない台詞を口にして、シンタローは桜の木から離れた。
まったくつまらないと思う。時折、自分がなぜここにいるのかわからなくなる。他のものに比べれば、確かに自分は恵まれていて、何不自由のない暮らしをしているのだろう。それを分かっていても、不意に息苦しくなることがあった。あまりにも狭い世界に自分が閉じ込められているような気がして、呼吸困難に陥るのだ。
喘ぐように空を眺めてつつ、歩いていれば、隣を歩いていたキンタローが言った。
「そう言えば、シンタロー。あの話を聞いたか?」
「どの話だよ」
宮中では、一言に話といっても、常に真偽交えて数多くの話が飛び交うために断定しづらい。今朝から聞いた噂話などを含めた話題の中で、キンタローがわざわざ自分に告げるような話はどんなものだろうか。そう考えていれば、キンタローは、『あの話』というものをしゃべりだした。
「サービス叔父に双子の兄がいただろ?」
「ああ、いるぜ。ハーレムだろ? どうしたんだ、それが」
キンタローの口から、ハーレムという言葉が行き成り出て、シンタローは驚きつつもそう答えた。キンタロー自身は、とある理由から十三年間ほど都から離れた場所にいたため、自分の叔父であるハーレムとは面会したことがなかった。そのキンタローが、なぜハーレムのことを口にするのだろうかと思っていれば、思わぬことを告げられた。
「俺は会ったことがないから分からないが、そのハーレム叔父貴が帰ってきているらしい」
「え……?」
その言葉に、シンタローは足をぴたりと止めた。そのまま横にいた相手を見やる。
「マジ?」
「ああ。さっきお前を探す途中で高松に会ってな。そう聞いた。一昨日の夜あたりから帰ってきているらしい」
「ふ~ん。あのおっさん生きてたんだ」
久しぶりに懐かしい名前を聞いた。
ハーレムは、自分にとっては父親の弟にあたる人である。大納言と兼任し近衛右大将を勤めているが、その役職などおかまいなしに、自由奔放の見本のごとく、勝手に外へ飛び出しては、何年も行方知れずになることが多々あった。最後にハーレムが内裏にいたのは、もう七年も前のことである。
その叔父が久しぶりにここへ帰ってきているというのだ。にわかに信じられない話であったが、それでも、情報源が、叔父の友人である高松となれば、間違いでもなさそうだった。
しかし、それを知ったとたんにシンタローの胸にもやもやとした感情が生まれていた。
(………帰ってきているんなら、なんで俺のとこにも会いに来ないんだよ)
一昨日の夜で、今日の昼である。会いに来る時間がまったくなかったはずはないだろう。
もしかして、俺のこと忘れてるとか?
それはありえることだった。
自分が彼と出会った回数は、片手ほどでしかない。それでも、あの頃の自分はめったに父親以外の人とは会うことはなく、夜にこっそりと訪れてきてくれたハーレムに、すっかり懐いていたのだ。
ハーレムが、都を出て遠い地方へ行ってしまったと聞かされた時には、しばらくショックでご飯も食べれず、父親を困らせたほどである。
(……でも、今考えるとすげぇよな、俺)
出会った初端から、添い寝をしてもらったうえに、訪れるたびに、抱っこをせがんだり、夜の庭で散歩をねだったりしていたのだ。当時は、父親によくしてもらっていたこともあり、おかしなことだとは思わなかったのだが、今思えば、かなり恥ずかしい思い出である。
それでも、シンタローの中では、ハーレム叔父の存在は、大きなものになっていた。久しぶりに帰ってきているならば、会いたいと思うほどである。
「で、ハーレムは今どこにいるんだよ」
「さあな。そこまでは知らん。俺も一度、ハーレム叔父に会ってみたいと思ったが、高松も昨日の夜に挨拶に来られて知っただけで、どこにいるかは分からないらしい」
「そっか…」
会ってどうするというわけでもないのだけれど、なんとなく無性に会いたい気分になっていた。だが、向こうの方は、自分に会ってくれる気があるかわからない。帰ってきても、報せすらくれなかったのだ。
「どうしたんだ? ハーレム叔父に何か用事でもあるのか?」
なんとなく気落ちした様子を見せるシンタローに、怪訝そうにキンタローが尋ねてきた。
そう言えば、この従兄弟は知らないのだ。自分とハーレムが会っていたことを。
幼い時には、キンタローはこの都にはいなかった。キンタローが生まれる少し前に、両親共に大宰府へと移ったためである。その後、父親はすぐに亡くなったが、母親とともに、そのまま大宰府で暮らしており、その母親も没し、近くに身寄りもないため、四年前、都に呼び戻されたのだった。そうしてその後は、従兄弟として一緒にすごして来たが、ハーレムとのことは、すでに本人がいなかったこともあり、話題にあがらなかったのである。
「いや、なんでもねぇ」
それでも今すぐ探して会いに行くことはやめた。それは単純な理由で、自分のことをすっかり忘れられていたら悲しいからだ。自分にとっては大切な時間であったけれど、相手にとっては、ただの暇つぶしであった可能性も高いのである。
現に、彼が訪れていた期間は短くて、庭の桜の花が、すっかり葉桜に変わったころには、もう訪れることはなかった。
「やる気が出たのはいいことだが、張り切りすぎて失敗はするなよ。お前はおっちょこちょいだからな。いいか、お前はすぐに―――」
「はーいはいはい。二度押しは結構です。いいから、行くぞ!」
やはり小煩い部下を置いて、シンタローはさっさと歩く。
その背後では、春風が、ようやく綻び出したその淡い紅色の花達に優しく触れていた。
舞い散るその姿が美しかった。月の光を浴びながら、淡い白の光を纏い、散り行くその姿に目が放せなかった。
「きれぇ~」
稚拙で簡素な、けれど一番真実に誓い純粋な言葉で、その姿を賞賛する。
今年の年明けとともに十になったシンタローは、何度目になるだろうか、その言葉を呟きながら、庭に佇む桜の木を眺めていた。すでに盛りを過ぎたその桜は、心得ているかのように、絶えることなくはらはらとその花形を崩していく。今宵の風は少し強く、それ故に散らす花びらの数も多かった。さらに天空の望月が煌々と庭を照らし、その様を幽玄の美へと仕立て上げていた。
ここは、平らかに安らかに穏やかな都であるように、と願いを込めてその姿を形にされた平安京。その中でももっとも尊き高貴な者が住まう内裏の中の一画。
「んんっ」
しばらくその姿を魅入っていたが、それも飽きてきたのか、シンタローは腕を伸ばし、小さな手をいっぱいに広げた。風に誘われ遠くまで流れてくるその花びらを、どうにか受け止めることは出来ないかと、欄干の上に身を乗り出す。
そんなことをしなくても、すぐ横には地面へと降りる階がある。そこを降りればもっと近くにいけた。だが、履物もない上に、勝手に外へ出ては叱られる。そのため、部屋の外側にある渡り廊下として作られた簀子の位置がシンタローにとっては精一杯だった。
板張りの簀子の上には、すでに花びらが点々と床に落ちていた。風に乗ってここまでやってきた花びらもあるのだ。けれど、シンタローは舞い落ちる花びらが欲しかった。
床に落ちているのとは、そう大差はないと思うのだけれど、自分の手のひらに掴んだ桜の方が、何倍も美しいものだと信じているように、シンタローは、一生懸命手を伸ばして、薄紅色の欠片を手にいれようした。地面に落ちていない、汚れてない綺麗な花びらを手に入れたかったのだ。だが、
「あっ…ああッ!」
身を乗り出しすぎた身体は、不意にバランスを崩し倒れ込む。気付いた時は、すでに遅かった。
すってんころりん…。
欄干を飛び越え、見事シンタローは、前のめりして転げ落ちてしまった。
「いったぁ~」
「……痛いのはこっちだ、チビ」
あれ?
つい口から零れた言葉。けれど、思ったほど衝撃はなかった。それよりも、おかしなことに、自分の身体の真下から声が聞こえてくる。シンタローの顔が、きょとんとした表情に変わった。
「地面がしゃべった?」
「んなわけねぇだろうが」
低く唸る音。お尻の下の地面が大きく波打ち、そのまま隆起するように盛り上がった―――ように見えたが、実際のところは、シンタローが下に敷いていた相手が、上半身を起こしただけである。
「うわッ!」
驚くシンタローを上に、その下にいた人物は、最初のドスの効いた声とは違い、柔らかい声をかけてきた。
「ったく、あんなところから落ちやがって。怪我はねぇかよ、ちみっこ」
「ん~~と……ないッ!」
その質問に、シンタローは元気良く答えた。
簀子の上から地面までは、一メートル以上の段差がある。けれど、シンタローには傷ひとつなかった。もちろんそれは、たまたま下にいた相手の上に、見事落っこちたおかげである。
「そりゃよかったな――――よッ! と」
すとん。
身体が浮き上がったと思ったら、先ほどまでいた簀子の上に置かれた。そうされて、ようやく自分が何の上に落ちたのか分かった。
そこにいたのは金色の髪に青い瞳を持つ人の形をしたものだった。
黒い髪と黒い瞳を持つ自分とはまったく違う色を持つ相手。けれど、シンタローには、その色を恐れる理由はなかった。なぜなら、自分の父親も自分の叔父も従兄弟も、その色を持っているからだ。むしろ、自分の色の方が異端とも言われる中で、その色は全然怖くない。
威風堂々とした面構えをその人はしていた。まるで獅子のようである。獅子は寝所である帳台の前に災厄を除くものとして狛犬とともに置かれているために、シンタローにとっては親しみのあるものであった。
「でも、だぁれ? ……桜の鬼さん?」
シンタローは、目の前の相手にじっと視線を定め、怪訝そうに言い放った。
獅子のような姿をした相手だが、シンタローは初めてみる人だった。けれど、人であるかどうかをまず疑った。
なぜなら、あのような場所に人がいたことなど今まで一度もなかったのである。不意に現れた人を人と見るよりは、あやかしのモノだと思った方が自然だった。
「桜の鬼だぁ?」
けれど、シンタローの言葉に、今度は相手の方が怪訝な表情になる。言われた意味がまったく通じていない。
「桜鬼じゃないの? 桜鬼はね、桜の木の下にいる鬼なんだよ。だから、花びらいっぱいつけてるの」
ことりと首を傾げて不思議そうに言うシンタローを前に、ハーレムは改めて自分の姿を見やった。
確かに、指摘どおりその姿は桜の花びらだらけである。服の隙間には花びらが、幾枚も入り込んでいた。けれど、それはずっと縁の下で寝転がっていたせいだ。久しぶりに内裏の中を散歩していれば、見事な桜に出会い、そこでひとり花見をしていたのはいいが、ついうっかり深酒しすぎ、そのまま熟睡していたのである。そのために、すっかり桜の花びらに埋まってしまっていた。
その姿に、どうやらこの幼子は勘違いしたらしい。
「それでね、夜になったらお外で桜を見ている悪い子を攫って、バリバリって食べちゃうんだよ。だからね、夜はお外に出たら、いけないの」
「って、お前ぇは出てるじゃねぇか」
それはよくある子供に夜更かしを禁じる教訓である。けれど、その話を知っているこの子供は、平気そうに外へ出ていた。おかげで、わざわざ欄干を乗り越えてまで、簀子の上から転げ落ち、自分の腹の上にご丁寧にも落ちてきたのである。
「…うん。だから―――僕を食べる?」
さっきまで、平気な顔をしていたくせに、自分で言っていて怖くなったのだろうか、行き成りおどおどと、こちらに大きな瞳を向けてくる。その幼さに、桜鬼と称されたハーレムは、その手のひらをすっぽりと収まる頭に置いた。
「誰が、てめぇのようなマズそうな奴を食べるんだよ。大体、食べられたくねぇなら、さっさと寝ろ」
そのままがしがしっと髪をかき混ぜてあげる。それが、荒々しい仕草だったせいか、むぅと顔が不機嫌そうになってしまった。
「いたい……」
「優しく撫ぜてやっただけだろ?」
「……パパは、そんな風に撫ぜないもん」
「パパ?」
そう言えば、こいつの父親は……と、ハーレムは思考を巡らし行き着いた先で、とたんに蒼ざめた。
(やっべぇ……。もしかして、こいつ『シンタロー』か?)
目の前の黒髪黒目のちみっこに、ハーレムはひやりと背筋に汗をながした。
『シンタロー』。その名をこの宮中で知らないものはいないだろう。今上帝であるマジックの子であり、珍しくも帝自らが手元で養っているという異例の子供なのだ。しかも、かなり溺愛しており、他の者の前には、めったに見せないため、その子がどういう姿形をしているのか、性別すらも知るものはほとんどいなかった。年だけは、東宮であるグンマと同じ年ということだけは、伝わっていたが、それだけである。
ハーレムとて、こうして「シンタロー」を見たのは初めてだった。自分の双子の弟は、頻繁に会っていたようだが、自分は興味もなかったために、ずっと会わずにいたのだ。
だが、眼前には愛らしい色合いの女装束に身を包んだ少女がいる。
(女だったわけか……どうりで溺愛するわけだ)
確かに、目の前の実物を見れば、兄の盲愛ぶりも少しは納得できる。生意気な口調が少し鼻をつくが、容姿は文句なかった。形のいい小ぶりの頭に、品よく整った目鼻立ち、真っ赤に熟れた果実のように色付いた愛らしい唇。何よりも、目に惹いたのは、その色だった。闇に染められたような漆黒の髪と瞳。それは、自分達一族では、誰一人持たないはずの色だったが、目の前のシンタローは、その深い色一色に染められていた。
しかし、それに違和感はなかった。むしろ、その色こそ、この幼子に相応しく、その容姿をより深く美しく見せていた。
将来美人になることを約束されたような容姿を持って、春らしい桜襲(表は白・裏は赤)の装束を身に纏った少女は、確かに部屋の奥底に隠しておきたくなるような至宝の玉である。
そんなマジックの愛娘がいる部屋とは知らずに、うっかり目に付いた桜の木の前で花見をしていたのは、少しまずかった。これが、兄に見つかればどれほど叱咤されるか分かったものではない。
幸いなのは、ここにその兄がいないということだった。
「どぉしたの?」
あどけない口調でこちらを問いかけるシンタローに、ハーレムはそろりと一歩後ろに下がった。
「あ~、俺はもう帰るわ」
いつまでもここにいては命が危険にさらされる。バレる前にトンずらすべきだと、心に決めたハーレムは、ゆっくりとあとずさりをしようとしたが、その姿に、シンタローはとたんに眉を顰めて泣きそうな表情を浮かべた。
「……かえるの?」
「はぁ? お前は、鬼が怖いんだろうが」
それならば、引き止められる理由はないはずである。
「でも……僕を食べない…でしょ?」
もちろん自分は鬼ではないのだから、食べることなどしない。しかし、だからと言って、引き止められる理由にもならない。
ぐずぐずしてはいられないのだ。噂しか聞こえてこないが、たぶん兄は毎晩、この子供の元に訪れているはずである。鉢合わせしてしまえば、自分の命など消し飛びかねない。
しかし―――あまり見慣れない漆黒の瞳を潤ませて、ひたりと見つめる幼子を前に、ハーレムは退く足を止めていた。
「なんで帰ったら悪いんだ?」
話し相手が欲しいのだろうか。
確かにそれはありえるかもしれない。見たところ、父親は、話し相手になりそうなものを傍に置いていなかった。普通ならば、高貴な者の周りには、女房と呼ばれる身の回りを世話する女性がいつも何人か付き添っているはずである。幼い子であるシンタローならば、なおさら誰かがついているべきである。しかし、そう言った気配はひとつもなかった。
「パパ……今日はいない…の」
ぽそりと告げたその一言に、シンタローは押し込めていた想いまで零してしまったように、ぎゅっと服を握り締め、その大きな瞳から、涙をぽろりと落とした。
「おい! こら泣くな、んなことで」
せっかく離した距離は、それで、また縮まってしまった。思わず手を伸ばし、自分の袖口で、零れた涙を乱暴にふき取ってしまう。
どうも、自分はこの小さな子供に弱いようだった。
(ったく、何やってんだ兄貴は)
そう言えば、昨日辺りから朝議からして慌しいかった。何か厄介ごとでも起こったのだろう、ぐらいしか興味はなかったが、どうやらそれをさばく帝の方は、こちらへ渡れないほどの忙しさになったようである。
「ひとり…ヤなの」
その言葉で、自分を帰らせたくない理由は分かった。心細かったのだ、この子供は。
確かに、だだっ広い部屋にひとり置かれるのは、この幼い子にとっては怖いと思うものである。見知らぬ―――鬼とも分からぬ相手にすがりつくぐらいに。
(どうすっかなぁ…)
兄貴が、今夜はここに来ないのはわかった。わかってしまえば、ここから即座に退く理由はなくなる。そこまで考えれば、もう答えなど出ていた。
普段の自分なら在り得ないことなのだけれど、その手は伸ばされ、再びさわり心地のいい黒髪の上に乗せられていた。
「わーったよ。お前が寝るまでは傍にいてやる」
自分でもどうかしている、と思わずにはいられない台詞が吐き出されていた。
シンタローに手を引かれるようにして、部屋へと入っていったハーレムは、用意されていた褥の中に、シンタローを入れた。
くすくす……。
小さな笑い声が耳元で聞こえる。
柔らかな温もりが、すぐ傍から伝わってくる。何かがおかしいとは思ったが、ここまで来れば引き下がることなどできずに、ハーレムは、小さなその身体を腕に抱いていた。
(……兄貴)
自分とて、ここまでする気はなかった。ただ、褥に横たわった幼子の横に座って、それが眠りにつくまで傍にいるつもりだったのだ。けれど、「パパと同じように一緒に寝て!」という要求をついつい受け入れてしまったのが悪かった。それでもまだ、シンタローの横に添い寝する程度だと思っていたのだが―――まさか、自分の腕を枕にして、抱き込むようにして眠るのが日常だったとは。
というわけで、ハーレムの腕の中にはすっぽりとシンタローが収まりこんでおり、先ほどから嬉しそうに笑いを零してくれていた。かなりのご満悦の様子である。それはそうだろう。ひとりで寝るのが嫌で、けれど誰もおらず、結局眠れずに夜更かしをしていたのだ。
(しっかし、この光景…兄貴に見られたら確実に殺されるな)
言い訳無用の状況である。
「……おい、ちみっこ。本当に、マジに、絶対に! 今夜のことはお前の父親には言うなよ」
「うん、大丈夫だよ」
そう約束してくれるが、どこまで信用していいのやら…。
そんな心配するぐらいなら、ここまでやらなければいいのだろうが―――どうにも自分は、その瞳に弱いみたいだった。
「お前が、もうちーっと育ってくれてればな」
今の状況も、微笑ましいものではなくなっていただろう。もちろん、そちらの方が自分としては歓迎したい。
このまま順調に育ってくれれば、恐らく都中の貴族達からの噂の的になるに違いない。
その前にツバをつけられただけ幸運ということだろうか。もっともこれほど幼ければ、まったく意味はないだろうが。
ハーレムは腕の中にいる童女に視線を向けた。いつのまにか大人しくなったと思ったら、すでに夢の世界の住人になっている。すやすやと安心しきった顔で眠るその姿は、やはり年相応にあどけない。これに色艶が加わるのは、もう少し先のことで、そうなったら改めて誘って欲しいと願うばかりである。
さらりとその小さな額を撫ぜる。
「早く美人になれよ、ガキ」
冗談交じりでそう呟くとハーレムは、そっとその身を起こした。
ふわっ…と大きく口が開いて欠伸が漏れた。
「いい天気だなぁ~」
目じりに浮かんでくる涙を感じながら、シンタローは、のんびりと言葉を吐く。
頬に触れる日差しは、いつのまにか暑いと感じるほどの温もりをもっている。触れる風は柔らかく、くすぐるようにして、首筋を通り過ぎていた。
春だ。
それをようやく実感できることが出来たのは、ここ数日のことである。それまでは、暦の上では春だといえども、その兆しを探すのは難しかった。しかし、今日は特にその春めいた陽気を感じることができる。
「桜もようやく咲いたしな」
今年は、桜の咲きが遅かった。冬がいつまでも居座ってくれていたせいだろう。けれど、目に入った枝に視線を移せば、見慣れた枝に、淡い衣を纏った花が風に誘われ揺れている。まだ綻んでいない蕾たちも、少しつつけば花開きそうなほどの膨らみである。
それを見つめ、シンタローは思わず顔を綻ばせた。
桜の花は、小さな頃から好きだった。飽くことなく見続けるのは、毎年のことだ。今年も、盛りとなれば見事な光景を見せてくれるだろう予感をさせるその花に、そっと指先を触れせれば、背後から声がかかった。
「そんなところで、何をしているんだ、シンタロー」
「キンタロー?」
その声に振り返れば、そこには見慣れた姿があった。春の日差しを受けて煌く金の髪に、春の青空よりも深い色をした瞳の持ち主は、こちらへ向かって、足早に近寄ってくる。
「まったく、なかなか来ないと思ったら、こんなところでサボっていたのか」
職務怠慢だぞ、と相変わらず口うるさいことを告げられる。
キンタローは、シンタローにとって従兄弟にあたると同時に、職場にて上司と部下の関係でもあった。二人とも、弾正台と呼ばれる警察機関に所属している、シンタローの方はその中のトップ、だんじょういん弾正伊を勤め、キンタローがその次官であるだんじょうすけ弾正弼である。
「仕事、たってたいしたもんねぇし。いいじゃねぇかよ」
弾正台の仕事は、役人の罪悪告発したり、治安維持を勤めたりといった仕事である。そのトップとなれば、仕事がたんまりとありそうだが、実際のところ、今の弾正台はほとんどお飾りに近い職場だった。警察機関といわれているが、その主な職務は、すでに剣非違使の方へ移っている。弾正台の職務についているのは、ほとんどが上流貴族階級のもので占めており、名誉職のようなものだった。
当然そんな職場にシンタローが望むほどの仕事はない。
「ったく、帝の息子っていう肩書きもつまんねぇーよな。ろくな仕事が回ってこねぇ」
シンタローが任じられている弾正伊というのは、親王によく与えられる役職であり、つまり、無能でもかまわない官だった。
もっと面白い仕事をやってみたかったのだが、それは帝であるマジックが決して許してくれなかった。小さい頃は気にしてなかったが、過剰すぎるほどの過保護っぷりを見せるその父親は、愛息子に、危険な仕事など一切させる気はないようで、元服するのと同時に弾正伊の官を与えたのである。
仕方なく、その仕事を受ければ、さらにお目付け役としてキンタローまで直属の部下としてつけられてしまった。これでは、おおっぴらに羽目ははずせない。
「仕事は仕事だ。まったくないわけではないのだからな。いいか、仕事はちゃんとあるのだ。それを片付けてから文句を言え」
「へーいへいへい」
気のない台詞を口にして、シンタローは桜の木から離れた。
まったくつまらないと思う。時折、自分がなぜここにいるのかわからなくなる。他のものに比べれば、確かに自分は恵まれていて、何不自由のない暮らしをしているのだろう。それを分かっていても、不意に息苦しくなることがあった。あまりにも狭い世界に自分が閉じ込められているような気がして、呼吸困難に陥るのだ。
喘ぐように空を眺めてつつ、歩いていれば、隣を歩いていたキンタローが言った。
「そう言えば、シンタロー。あの話を聞いたか?」
「どの話だよ」
宮中では、一言に話といっても、常に真偽交えて数多くの話が飛び交うために断定しづらい。今朝から聞いた噂話などを含めた話題の中で、キンタローがわざわざ自分に告げるような話はどんなものだろうか。そう考えていれば、キンタローは、『あの話』というものをしゃべりだした。
「サービス叔父に双子の兄がいただろ?」
「ああ、いるぜ。ハーレムだろ? どうしたんだ、それが」
キンタローの口から、ハーレムという言葉が行き成り出て、シンタローは驚きつつもそう答えた。キンタロー自身は、とある理由から十三年間ほど都から離れた場所にいたため、自分の叔父であるハーレムとは面会したことがなかった。そのキンタローが、なぜハーレムのことを口にするのだろうかと思っていれば、思わぬことを告げられた。
「俺は会ったことがないから分からないが、そのハーレム叔父貴が帰ってきているらしい」
「え……?」
その言葉に、シンタローは足をぴたりと止めた。そのまま横にいた相手を見やる。
「マジ?」
「ああ。さっきお前を探す途中で高松に会ってな。そう聞いた。一昨日の夜あたりから帰ってきているらしい」
「ふ~ん。あのおっさん生きてたんだ」
久しぶりに懐かしい名前を聞いた。
ハーレムは、自分にとっては父親の弟にあたる人である。大納言と兼任し近衛右大将を勤めているが、その役職などおかまいなしに、自由奔放の見本のごとく、勝手に外へ飛び出しては、何年も行方知れずになることが多々あった。最後にハーレムが内裏にいたのは、もう七年も前のことである。
その叔父が久しぶりにここへ帰ってきているというのだ。にわかに信じられない話であったが、それでも、情報源が、叔父の友人である高松となれば、間違いでもなさそうだった。
しかし、それを知ったとたんにシンタローの胸にもやもやとした感情が生まれていた。
(………帰ってきているんなら、なんで俺のとこにも会いに来ないんだよ)
一昨日の夜で、今日の昼である。会いに来る時間がまったくなかったはずはないだろう。
もしかして、俺のこと忘れてるとか?
それはありえることだった。
自分が彼と出会った回数は、片手ほどでしかない。それでも、あの頃の自分はめったに父親以外の人とは会うことはなく、夜にこっそりと訪れてきてくれたハーレムに、すっかり懐いていたのだ。
ハーレムが、都を出て遠い地方へ行ってしまったと聞かされた時には、しばらくショックでご飯も食べれず、父親を困らせたほどである。
(……でも、今考えるとすげぇよな、俺)
出会った初端から、添い寝をしてもらったうえに、訪れるたびに、抱っこをせがんだり、夜の庭で散歩をねだったりしていたのだ。当時は、父親によくしてもらっていたこともあり、おかしなことだとは思わなかったのだが、今思えば、かなり恥ずかしい思い出である。
それでも、シンタローの中では、ハーレム叔父の存在は、大きなものになっていた。久しぶりに帰ってきているならば、会いたいと思うほどである。
「で、ハーレムは今どこにいるんだよ」
「さあな。そこまでは知らん。俺も一度、ハーレム叔父に会ってみたいと思ったが、高松も昨日の夜に挨拶に来られて知っただけで、どこにいるかは分からないらしい」
「そっか…」
会ってどうするというわけでもないのだけれど、なんとなく無性に会いたい気分になっていた。だが、向こうの方は、自分に会ってくれる気があるかわからない。帰ってきても、報せすらくれなかったのだ。
「どうしたんだ? ハーレム叔父に何か用事でもあるのか?」
なんとなく気落ちした様子を見せるシンタローに、怪訝そうにキンタローが尋ねてきた。
そう言えば、この従兄弟は知らないのだ。自分とハーレムが会っていたことを。
幼い時には、キンタローはこの都にはいなかった。キンタローが生まれる少し前に、両親共に大宰府へと移ったためである。その後、父親はすぐに亡くなったが、母親とともに、そのまま大宰府で暮らしており、その母親も没し、近くに身寄りもないため、四年前、都に呼び戻されたのだった。そうしてその後は、従兄弟として一緒にすごして来たが、ハーレムとのことは、すでに本人がいなかったこともあり、話題にあがらなかったのである。
「いや、なんでもねぇ」
それでも今すぐ探して会いに行くことはやめた。それは単純な理由で、自分のことをすっかり忘れられていたら悲しいからだ。自分にとっては大切な時間であったけれど、相手にとっては、ただの暇つぶしであった可能性も高いのである。
現に、彼が訪れていた期間は短くて、庭の桜の花が、すっかり葉桜に変わったころには、もう訪れることはなかった。
「やる気が出たのはいいことだが、張り切りすぎて失敗はするなよ。お前はおっちょこちょいだからな。いいか、お前はすぐに―――」
「はーいはいはい。二度押しは結構です。いいから、行くぞ!」
やはり小煩い部下を置いて、シンタローはさっさと歩く。
その背後では、春風が、ようやく綻び出したその淡い紅色の花達に優しく触れていた。
久しぶりに、その夢を見た。
それは、青い悪夢。
子供の頃は頻繁にみた。
『青』が自分を追いかけてくる夢。
どんなに一生懸命走っても、それはぴたりと後をついてくる。
足がもつれて何度も転びそうになっては、すんでのところでなんとか態勢を戻す。そして、遅れた分を取り戻そうと、よけい必死に走ることになるのだ。
それは永遠に終わらない無限地獄のようで、いっそ倒れてしまえればきっと楽になれると分かっているのに、そうできない。
苦しさを終わらせたいという欲求より先に、あれに追いつかれたらという恐怖が自分を駆り立てる。
怖くて、辛くて、自分の悲鳴で何度目が覚めたことだろう。
息もうまくできなくなっている自分を、そのたび毎に温かい手が抱きしめてくれた。
「大丈夫ですよ、グンマさま。ほら、高松がきましたよ。」
背中をさすられて、やっと呼吸ができるようになった自分に、保護者はハチミツをたらした温かいミルクを飲ませてくれ、再び寝付けるまで側についていてくれた。
しかし、彼は一度も自分に悪夢の内容を聞くことが無かった。
予想がついていたというより、それを理解することができない自分の限界を知っていたということだろう。
自分も彼に訴えることはしなかった。
うまく説明できなかったし、言葉に出すとそれが夢の中から這い出してきそうだったからだ。
そんなある日、高松が出張で出かけ、グンマは伯父の元に預けられることになった。
高松がいないのは心細かったが、お泊まりは子供にとって年に数回あるかないかのスペシャルイベントで昼間はもちろん、夜も居間やお風呂で、さんざんはしゃぎ回って早々にベッドに入れられた。
楽しかった今日のことを思い出したり、明日の予定を考えてわくわくしている内にいつしか眠りに落ちたのだった。
――――そして、『青』が来た。
「アアア―――ッ!」
いつものように悲鳴で目を覚ましたが、ここには高松がいない。慰めてくれる優しい腕も、ホットミルクも現れない。
毛布を頭から引きかぶったものの、もう目をつむることなどできなかった。
うっかりでも閉じてしまったら、今度こそアレにつかまる。
いや、もうすでにアレは自分の夢の中から出てきて、今、この部屋のどこかのすみっこから自分を見張っているのかもしれない。
グンマは跳ね起きて、枕をお守り代わりにひっつかむとその部屋を飛び出した。
暗い廊下を無我夢中で走って、少し離れた部屋に飛び込むと、シンタローが眠たい目をこすりながら、ベッドから起きあがった。
「どーしたの? グンちゃん」
「しんちゃ………。」
呼ぶ声も言葉にならず、ひっくひっくと泣き出すグンマに、シンタローが、もしかして、と意地悪い顔をした。
「おねしょしたんだ?」
「ちがっも……うっうえぇ……。」
泣きじゃくっていると、シンタローが降りてきて自分のところに駆け寄ってきた。
「あー、もう、泣かないでよ。はい、ハナかんで。」
彼が抱えたティッシュ箱を差し出す。
鼻をかんだ後も、何枚もティッシュを取り出してシンタローはグンマの顔をふいてくれた。
それは高松のような手稲なやりかたじゃなくて、肌が真っ赤になったけど、優しいのはあの手と同じでグンマはなんとか落ち着いて説明した。
「あのね……コワイ夢をみたの……。」
「コワイ? ……おばけ?」
そう口にして、びくびくと周りを見回す。シンタローはお化け屋敷や映画に弱い。
グンマはかぶりを振った。
「おばけじゃないの……。」
「じゃあ何?」
グンマは一生懸命シンタローに伝えた。
今まで高松にすら話せなかった夢の内容を。
「あのね、こわいのがね、おっかけてくるの。つかまったら食べられちゃうからいっしょうけんめい、ボク、逃げてるんだけど、ずっと追っかけてくるの。」
それだけじゃない。
本当に怖いのは追いかけられることじゃない。
「……いつか、ボクつかまっちゃう。きっと。」
グンマはぎゅっと目を瞑った。
どれだけ必死に走っても、あれから逃げることはできないのだ。
だって、あれは……あれがいるのは『自分の中』――――。
「……おばけじゃないんだよね?」
グンマがこっくり頷くと、シンタローはほっとしたように笑った。
「じゃあ、大丈夫。いっしょに寝よ。ボクが見張っててあげる。それが出てきたらやっつけてやるね。」
「ホント?」
「うんっ。」
元気の良い返事と一緒に差し出された手を握ると、温かかった。
毛布に潜り込むと、さっきまでシンタローが寝ていたそのぬくもりが残っていて、それだけで安心できる。
一晩中見張っていると言ったくせにシンタローはものの五分で寝入ってしまったが、グンマはもう怖くなかった。
すりよれば体温を感じ、規則正しい彼の呼吸が聞こえるのだから。
「しんちゃん。」
こっそり名前を呼ぶと、握っていた手にぎゅっと握り返される。
―――その夜はもう怖い夢はみなかった。
その後も、まったく見なかったわけではないけれど回数は明らかに減ったし、前ほどは怖くなくなった。
青に追いかけられている最中も、昔は逃げることしか頭に無かったが今は『シンタローさえ見つければ大丈夫』と思えば、なんとか、がんばれたからだ。
魔法使いみたいだよね、と言えば、『俺は格闘家だ』と的はずれな答えが返ってきそうだけど、本当にそう思う。
あの、心音と体温を思い出せば、悪夢なんて怖くなくなった。
トクン……トクン……。
突然、その音を耳にし、グンマは目を覚ました。
そして目に飛び込んだのは鍛えられた厚い胸板。
「……シンちゃん?」
なんで、真っ裸なんだ。
「ああ、履いてる履いてる。」
思わずベッドに潜り込んで確認してしまうグンマ博士だった。
そういえば、シンちゃん下着一枚で寝てたって言ってたなぁ。
とりあえず、私邸に戻った……あの『お父様』と一つ屋根の下に戻った今はやめておけと忠告しておいたのだが、南国で培った癖はなかなか抜けないらしい。
でも、なんでこんなとこで寝てるんだろう。
酔っぱらって部屋を間違えたってことはない。
総帥の座についてからここ数ヶ月、休みらしい休みもとらずに働いているシンタローが、酔うほどに酒を飲む時間があったとは思えないからだ。
まあ、いいかとグンマが再び目をつむろうとしたその時、控えめなノックの音がした。
そっとドアが開いてそこから顔をのぞかせたのはもう一人の従兄弟だった。
「夜分に悪い。シンタローがここにいるかと思ってな。」
見ると、キンタローはパジャマ姿だ。
それはいいけど、なんで毛布を握ってるんだろうとグンマが疑問に思っていると、彼は部屋の中に入ってきてシンタローの隣に潜り込んだ。
「ええっ! ちょっとちょっと! キンちゃんまでここで寝るつもり?」
本人に確かめないでお泊まり会の会場にしないでよ、というグンマの抗議に、キンタローは素直にごめんと謝った。
「シンタローが部屋にいればグンマにまで迷惑をかけなかったのに。」
その姿が珍しくしょんぼりとしている様子だったので、グンマは言い過ぎたかなと反省してしまったが、よく考えると何かおかしい。
「………なんか、いつもシンちゃんと寝てるみたいな発言なんですけど?」
「いつもじゃない……嫌な夢を見た時だけだ。」
嫌な夢、グンマははっとして身を起こして従兄弟見下ろした。
自分と同じ青い目が天井を見ている。
―――――ああ……そうだよね―――――。
「シンタローが近くにいると、怖くなくなるんだ。」
キンタローの言葉にグンマは少し笑って頷いてみせた。
「そっか、良かった。きっと大丈夫だよ。」
いつか、見ないですむようになるよ、とは保証できない。
けれど、彼がいれば大丈夫だよ、とそういう意味の相づちだと彼はいつか分かってくれるだろう。
けれど。
「なんで、シンちゃんはここで寝てるんだろ………。」
「グンマの方が俺よりはまだ小さいからだろ。」
グンマの独り言に、キンタローが分かり切ったことでもあるかのように答えた。
「なにそれ。」
「体温だってたぶん俺より高い。」
「だから、何それ?」
二度目の問いに返事は無かった。
かわりに、すーすーと安らかな寝息が聞こえてきた。
「ちょっ!」
シンタローの眉がぴくっと動いたのを見て、グンマは口を閉じた。
へたに起こしたら殴られるかもしれないし。
シンタローは眠ったまま手をぱたぱた動かし、シーツについたグンマの手を探り当てぎゅっと握った。
そして、唇の動きを見たグンマはキンタローの言った意味がやっと分かったのだった。
前にあの島に乗り込んだとき、子供に添い寝しているシンタローを見た。
いつもああだったんだもんなぁ。
急に一人でクィーンサイズのベッドは広すぎるのかもね。
でも、僕はあんなに小さくはないんだけど、と苦笑したが手をほどきはしない。
小さい頃、夢から守ってくれた魔法の手。
いや、今も、従兄弟二人を守ってくれているこの手の温度。
あのときの僕や今のキンちゃんと同じように、この手と鼓動と体温は君に安らぎを与えられているのかな。
そうだったらいいんだけど。
―――どうか、三人ともいい夢を見られますように――――。
end
04/03/25
改稿
200/03/19
今日は12月12日。
僕にとっては大切な日で、誰よりも早起きをして、大好きな人に、朝一番に伝えたい言葉がある。
「パパ! 誕生日おめでとうv」
一人で目を覚まして、顔を洗ってお洋服を着て、それからちょっとまだ眠いのを我慢して、ダイニングルームで待っていたら、入り口から赤い服が見えた。その瞬間、僕は椅子から飛び降りて、駆け出して、そうしてその服目掛けて飛びついた。
同時に、朝からずっと言いたかった言葉を告げる。
『誕生日おめでとう』
今日は、僕のパパのお誕生日なのだ。
だから、誰よりも先に、お祝いの言葉をあげたくて、早起きしてパパを待っていたのである。
足に抱きついた僕は――だって、まだ僕の背は小さくて、パパは凄く大きくて、それが精一杯なのだ――そのままキュッと足に腕を回して抱きつく。いつもの感触。安心するっていうのかな。そのまま頬をくっつけて、すりすりして、大好きなパパに甘えちゃう。
本当は、もうそんな年じゃないけれど――今年で5歳になったし――でも、久しぶりにパパに会えたのだから、許して欲しい。パパだって、僕をよく抱き上げて、すりすりしてくれるんだから、おあいこだよね?
パパは、昨日までお仕事で遠くの方に行っていたのだ。でも、誕生日の日だけは、決まって朝はここに来てくれる。絶対にパパに会えるとわかっているから、早起きなんて辛くなかった。
「パパ大好きv」
「Σぶほッ!」
頬をすりすりしていたら、上の方で奇妙な擬音が聞こえてきた。でも、僕は気にしない。だって、いつものことだもん。こういう音って、パパの傍にいると結構頻繁に聞こえてくるんだ。どこの家庭でもそうだよね?
グンマとドクター高松が一緒にいる時も、よくこんな音が聞こえてくるんだもん。
ぽたッ…。
何かが上から落ちてきた。目線を下に落とすと、赤い点が床に描かれている。何が零れてきたのだろう、とよく見ようとしたら、パパの大きな靴で、それは隠されてしまった。
それで、今度はパパの方を見上げたら、いつもの笑顔がそこにあった。格好よくて優しいパパの顔だ。
「ありがとう、シンちゃん。今年も、シンちゃんから最初に『おめでとう』の言葉をもらえて、パパ嬉しいよv」
その言葉と同時に、大きくて優しい手が頭の上に乗せられる。ふわふわと撫ぜてくれるのが、とても気持ちがいい。同時に、ぽた…ぽた…と、水音がどこからか聞こえてくる気がするけど、気のせいだろう。ただ、パパの足は忙しなく動いているようだった。
「あ、そうだ!」
気持ちよくて、ついうっかり忘れていたけれど、まだ、大事なものをパパに渡していなかったのだ。
パパから一歩離れて、ポケットの中に手を突っ込んだ。そうして、ゆっくりとそこに入れていたものを差し出す。
「あのね、パパ。今年のプレゼントはね。これだよv」
両手に持ったそれをパパに差し出した。
それは、青系の粒の大きいビーズで作ったブレスレットだ。もちろん僕の手作りである。
何にしようかと悩んで、大好きな美貌の叔父である、サービス叔父さんに相談して、その時、サービス叔父さんが手首にはめていた綺麗なブレスレットが目に入ってきたのだ。それで、そういうものをパパにあげたいといったら、ビーズで作れることを叔父さんが教えてくれた。
「パパのために一生懸命作ったの!」
これを作るのは、僕には難しくて、ビーズが何度もバラバラになって、内緒だけど、ちょっと泣いたりもしたりした。
それでも、ようやく完成したそれを、パパはそっと大切そうに受け取ってくれた。それを顔に近づけて眺めてくれる。
「上手に作ったね。これ、はめてもいいかい?」
「うん♪」
もちろん、そのつもりで作ったのだ。
青い色ばかりを選んだのは、パパの瞳の色と合わせたかったから。そのブレスレットが、パパの腕にはまった。キラキラと光にあたって輝く。
ちょっとだけ、パパの瞳に似ていると思う。パパの瞳は、ビーズなんかよりもずっとずっと青が深くて綺麗なのだから、少ししか似てないのは仕方ない。それは分かっていたことだから、僕は、それだけで大満足だ。
「どうだい?」
「パパ、似合うよ!」
本当に似合ってて、我ながらセンスがいいと、思わず手を叩いてしまう。そうしたら、パパもにっこり笑ってくれた。
「そうか。それは嬉しいな。素敵なプレゼントを、どうもありがとう。シンちゃん」
また、頭を撫ぜられる。
「えへへ」
喜んでもらえれば、凄く嬉しい。
パパのためのプレゼントが一番悩むけれど、だからこそ、こんな風に喜んでもらえた時が一番気持ちよかった。
悩んだ甲斐がある! というものだ。
「あのね、あのね! でも、最初にグンマに、パパのプレゼントを相談したら、馬鹿なことを言ったんだよ?」
サービス叔父さんに相談する前に、従兄弟のグンマにもパパの誕生日に何を贈ればいいのか、相談にいったのだ。けれど、グンマは馬鹿だから、馬鹿な答えしか返ってこなかった。相談相手を間違えたという奴だ。
「ん? グンちゃんは何だって?」
「ん~とね。グンマの奴、『シンちゃん自身をあげたらいいよ』って言ったの!」
馬鹿だよね?
そう言ったとたん、周りが赤くなった。
「Σブゥ~ッ!!」
「パパッ!? どうしたの?」
行き成りパパは、あらゆる穴から血を噴出して膝をついたのだ。幸い、最初の噴射があまりにも勢いがよかったから、すぐ真下にいた僕にはかからなかったけど、パパは、そのまま膝を床につけてしまった。
「大丈夫?」
そう訊ねてみれば、パパはなんだか虚ろな顔をして、どこか遠い目をして呟いてくれる。
「ああ…花畑に天使達が…笑ってる…ふふっ…」
「パパ?」
意味わかんないよ。
僕には、花畑も天使さん達も見えないけど、パパはどうやらそれらが見えているみたいだ。ちょっと羨ましいな。
でも、なんだか危険な気がしたから、なるべくパパのような見方はしたくない気がする。
「――それにしても、シンちゃんはなぜそれをやめたのかな?」
それから10分ぐらいたって、ようやく復活したみたいな、パパが、そう尋ねてきた。その頃には、僕は退屈していて、傍にあった椅子の上に座って遊んでたりしたんだけど、パパの質問には、きちんと答えてあげた。
「だって、僕はとっくにパパのものだもん!」
パパのためならなんだってするんだから、今更、パパに僕をあげるなんておかしいよ。
にっこり笑って、そう言うと、
「Σぐほッ、がふッ!!」
そんな妙な声がして、あたり一面が赤く染まった。
「うわッ!」
ビックリした。慌てて、椅子の上に登って避難する。反応が早かったために、被害はゼロだ。
赤い海が一瞬のうちに出来ていて、その中に、パパは倒れていた。
行き成り出来た赤い液体の中に浸ったパパが、何か言っていた。
「シンちゃん…パパも永久の愛を君に誓うよ……ジュテーム」
「……パパ?」
パパの言っている意味がよくわからないけれど、とりあえず、パパがそのままぴくりとも動かなくなったから、僕は、靴下が赤く染まって、汚れるのを気にせず、床に下りた。
ぬるぬるして気持ち悪いけど仕方がない。滑らないように、ゆっくりとパパの元へと歩く。そうして、パパに触れると、その顔を思い切り叩いた。
ビシバシッ!
「パパ! パパ!」
反応無し。
「……また?」
だんだん血の気がなくなって冷たくなってきたから、僕は、すぐに立ち上がって、高松を呼びに走った。
こういうことは、初めてじゃない。というよりも、しょっちゅうだったりするから、慌てる必要はないんだけど、高松は、一刻も早く処置しないといけないといってるから、こういうことがあったらすぐに呼びにくるようにしてるんだ。
あ~あ。靴下は、もう脱いじゃおう。
ズボンも少しだけ汚れてしまった。
僕と一緒の時に、こういうことはよく起こるんだ。でも、僕がいない時にこんなふうになったら、誰が、パパを助けてくれるのかな。僕が傍にいる時だけ、そうなってくれればいいけど。
本当に、パパってちょっと困った人だよね。僕がいないと、駄目なんだから!
でも、僕はそんなパパが大好きだよv
『お誕生日おめでとう! パパ★』
……こんな話にする予定だったかしら?