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m3


 


      きのう、みた、ゆめ


 


 


 


 



大体、マジックという男は救いようのないバカなのだ。


 


 


フリルの付いたエプロンの裾をはためかせ、ベランダと寝室を何往復かした彼は最後の一つを干し終わると満足げに盛大な伸びをして任務の完了を天に向かってアピールしていた。


手伝おうと思った気持ちは、随分前に挫けている。


彼は家事全般が得意で好きだから、どれほどシンタローが自分で出来ると主張しても一度たりと引いたことがなかった。


二人が共に暮らし始めて、一月が過ぎようとしている。


世話になるばかりでなにも返せないのは辛い。生来がまめで体を動かすことを苦にしない性質なので、座っているだけという状況はありがたくはないし、恩ばかりたまっていくのは承服できない。言えば必ず『シンちゃんは、傍にいてくれるのが仕事』と言い返され、ミルク味のキャンディーを渡されるのが落ちだった。


子供扱いしたいのは分かった。


確かに彼から見れば自分は子供で、養われているのも事実だ。けれど望まぬまでもほぼ自立していた意識がそう簡単に切り替わる訳もなく、あしらわれているような態度には正直腹が立つのだ。


忍耐力はある。我慢強い方だと思う。けれどマジックとの口喧嘩は日常的に起こることで、いまや会話の半分は喧嘩腰になっていると言っても過言ではない。


尤も、そう思っているのはシンタローだけであり、当のマジックは、怒り心頭で文句を並べ立てる唇を『よく動いてかわいいなぁ』と思っているのだから彼にとっては遣りきれまい。


とにかくマジックはシンタローを甘やかすことに命を懸けている。…のだそうだ。


たとえばシンタローが、いますぐ地球の裏側に行って“愛している”と叫べと言えば、間髪いれずに実行できる自信があるという。


誰がそんな馬鹿な要求をするものかと突き放してやっても、なにが嬉しいのか『照れちゃってもぉー』とクネクネされるから最近では文句を言うことも少なくなったがしかし。


 「あー、幸せだよー」


まただ。


ベランダで吼えている。


ここが地上から遥か離れた高層階だからいいものの、二メートル近い大男が両腕を振り上げ叫んでいるところなど目撃されては良心的なシンタローとして恥以外の何物でもない。


ソファーに両足を上げ、コーヒー片手に雑誌を見ていたシンタローは海より深い溜め息を吐いた。幸せなのは結構だ。結構だがいちいち報告してくれなくてもいい。


 「これで今夜はフカフカの布団で眠れるよ」


 「よくもまあ、あんなでかいマットレスまで運び出したもんだ」


 「何事も勢いだよ」


勢いで、トリプルサイズのマットレスを、ベランダまで運び出すバカがどこにいる。続けて口にしようと思った台詞を寸でのところで飲み込み、ついでに温くなったコーヒーも飲み干してしまう。


所謂“せんべい布団”にしか寝た記憶のないシンタローが、必要ないのは分かっていても天日に干した布団の気持ちよさを語ってしまったのがそもそもの間違いなのであって、自分にも非があると認めている話題なだけにこれ以上の突っ込みは不要だった。


ベッドパッドだけ干せば十分だろうに、運び出されたマットも自分が何者なのか悩んでいるに違いない。


間もなく土曜の正午になる。


空は麗らかに晴れていて、油断すると眠くなってしまうような、平和に過ぎる昼だった。


 


 


 


 


 


 


あの夜。


 


身動くことを恐れているようなシンタローを宥めつつカウンターに戻ったマジックは、冷めてしまった料理を手早く温めなおすと再度シンタローに勧めてきた。


隣にかけて、ひとつひとつの料理について説明をしてくる。材料はどこから手に入れたのか、どこに拘りがあるのか、どうやって食べるのが一番美味しいか。シンタローは、どう思うか。


低く、甘みの多い声が耳元をくすぐるたびに切ないような、くすぐったいような気持ちになってどれもまともに答えられはしなかったけれど、大切にされていることが幸せだった。


その反面、もしこのあと手酷く裏切られるようなことになったらと思うと、その度に箸が止まりそうになる。期待して、頼って、けれどその気持ちを“冗談だ”と躱されたら。図々しいと嘲笑われたら。どうしよう。


縋るような目で見ていたのかもしれない。


目が合うと、マジックは自分も傷付いたような目で見返し、それから優しく微笑んだ。なにも言わずシンタローの背を叩いてくれた。遠い記憶の父親の温もりはこんなだっただろうか。


こみ上げるものを飲み込みながら、彼の心尽くしの料理を黙々と食べ続けた。


 


案内された浴室は、当然の如くの広さで思わずきょろきょろ見回してしまう。


大柄な彼が使うのだから、湯船も洗い場もこの程度の広さを要求されるのだろうが、狭い風呂に慣れた身には堂々と真ん中を占める度胸はなく、知らず隅の方へ寄ってしまった。


風呂から上がれば彼が作ったというレモネードが差し出された。


金持ちはこんなものを日常的に口にしているのかと感心しながら、彼のために少し甘めの味付けがされたそれを飲んでいると寝室の用意が出来たからと手招かれる。


浴室で耐性は出来たつもりだった。


けれど寝室と言われたその部屋だけで、シンタローが暮らす狭い戸建て住宅の総延べ床面積はあろうかという規模を目の当たりにした瞬間、素直に思考は停止しその場に立ち尽くす羽目となった。


なんでも、客を招く予定もなく、かといってゲストルームを作らないのもおかしなものだからという理由で作られたその部屋は、家具や装飾品のすべてに至るまで豪奢で、“まるで絵に描いたような金持ちの家”だと固まりかけた思考で辛うじて判断する。


その部屋に自分が泊まるという事実は、たとえそれが目の前にあっても納得できるものではない。なにより、こんなところに通され“さあどうぞ”と言われても眠れるはずがない。


いつまでも入室しないシンタローを訝しげに見ていたマジックは、やがてポンと手を打つと頷きながら彼の手を取りベッドの傍まで連れて行った。


子守唄を歌うのは、人生において初の体験だと言いながら抱えたシンタローを軽々と寝かしつける。固まっていたため反応の遅れたシンタローが我が身に起きたことを理解したときには、既に柔らかな毛布は首元まで引き上げられ、マジック自身は万全の添い寝体勢を整えたあとだった。


これで眠れたら奇跡だ。


そう思った。


実際、照れやら怒りやらの感情が乱れ縺れて眩暈がする。“うー”とか“あー”とか自分でもよく分からない呻き声を上げるのが精一杯で、いよいよ耳元にやたらと響く声音の子守唄が注ぎ込まれるにあたってシンタローの思考回路は一番楽な逃げ道を選択することを余儀なくされた。


眠れない、では通らない。


眠れ。眠るのだ、俺。


これは夢だ。すべてが夢では困るが、この状況だけは夢なのだ。そうに決まっている。


色々と有り得ないことが続き、目が覚めたらいつもの狭く、冷たい自室なのかもしれないけれど、添い寝と子守唄の部分だけを抜き取ればその方がいっそ幸せかもしれない。


いや待て。


この年になって“抱っこ”で“ねんね”で“シューベルトの子守唄”でも、あの暮らしからすれば数百倍もマシなのではないか。色々問題はあるがあっちよりこっちの方が断然幸せだと思う。なにせ寒くない。狭くない。ひもじくない。


諸々の葛藤に押し潰され、思考の許容量はあっという間に満ちてしまう。


まん丸に見開いていた目が力尽きたように緩み、視界が滲むに連れシンタローは眠りの底へと落ちていった。


生涯において、睡眠という人間に課せられたシステムがこれほどまでにありがたかったことはなかった。


 


目が覚めたとき、まずいつもと違う高い天井に首を捻る。


それから、優しく体を拘束する腕に目が点になる。


夢も見ずに眠った気がするし、ひどく安心していたのも確かだけれど、今現在自分のおかれた状況を掴むまでに十数秒も要してしまった。


そして我に返る。


思わず悲鳴を上げたところで、シンタローのことをぬいぐるみかなにかのように抱き締めていたマジックが目を覚ました。固まったまま自分を凝視している彼に気付くと、まるで長く繰り返されたことのような自然さで『おはよう』と微笑みかけてくる。ぎこちなく頷き返せばこれもまた当然のように頬や額に口付けられ、シンタローは再度哀れな悲鳴を上げさせられた。


マジック曰く。


 『私は“外人”だからねぇ。挨拶にキスは当然だよ』


言葉もなく、ふるふると首を振ったが受け入れられはしなかった。その後も挨拶と称されたキスは、朝も昼も夜も、シチュエーションに関わることなくマジックのしたいときに施されることとなった。抵抗したところでこの体格差では高が知れているし、疲れるだけなのだから早々に諦めるしかなく、他の諸々とあわせシンタローは“忍耐”ということを覚える羽目に陥った。


 


一日の基本は朝食からと、昨夜に続いて豪華な食卓が設えられる。


夕べと違う点は洋食でまとめられたということで、なんでも材料が乏しいからだそうだ。これのどこが乏しいのだろうと首を捻りつつ、厚めに切られたハムを齧りながら卵料理だけで三つも乗せられた皿を眺めおろす。


ゆで卵のスライス、スクランブルエッグ、チーズオムレツ。


普段はクロワッサン程度で済ませてしまうというマジックは、シンタローが出されたものを綺麗に片付けていく様を嬉しそうに眺めながら今日の予定を聞いてきた。


嫌なことを聞く。


自分に予定があるとすれば、あの、冷たいばかりの家に戻り課せられた仕事をこなすだけのことだ。今日は休日だからやることは山ほどあって、昨日不在だった分も合わせて機嫌の悪い叔母の相手をしながら働くのは憂鬱以外の何物でもない。


溜め息を吐いたシンタローに、まったく動じることなく微笑んだままのマジックが重ねてどこか行きたいところはないかと尋ねてきた。


テレビや、人の話で聞いた楽しそうな場所はいくつか知っている。けれど実際に自分が行けるはずのないことも知っていたので、どこかと言われても答えようがない。それに食事が済んだらこの家を辞さなければならないのだ。夢などというものは、早々に忘れるに限る。


帰る、と。


両手を合わせ、ごちそうさまと呟いたあとに続けてそう言った。


ありがとう、と。


椅子から降りて、少し躊躇って、それからマジックの隣に回ると頭を下げた。泊めてもらった礼と、食事を振舞ってくれた礼。昨日の分の、助けてもらった礼ももう一度付け加え、突然鉛でも埋め込まれたかのように重くなった体を反転させる。


シンタローのことを黙って見詰めていたマジックは、彼がダイニングを出ようとする辺りで立ち上がり、足早に近付いてきてこう言った。『送っていくよ』、と。


 


送っていく。


ありがたいけれど、嬉しくはない。


あんなところに戻るのは嫌だ。まるで拾われた捨て犬が、飼いきれないからとまた元の場所に戻されるようなもの。一度味わった温もりを忘れるのは容易ではないし、どうせ手放すなら拾ってほしくなどなかった。縋ってしまったのは自分だから、彼を責める資格はないけれどそれでも平気でいられるほどにシンタローは強くない。


首を振って拒んだが、大きな手が肩を抱き歩き出す。


なにも言えなくなって、部屋を出て、エレベーターに乗って、地下駐車場に停めてあるやたらと大きな車に乗せられるまで俯いたままでいた。道案内をするよう言われたから、仕方なく口を開いたけれどそれ以外の言葉はなにも浮かばなかった。


 


見えてきた二階家を指差すと、車は静かに止まった。


道中黙り通したシンタローにマジックもなにも言わなかったので、静寂が耳に痛いほどだった。


小さく、ありがとう、と言ってドアを開ける。足を伸ばし車外に出ると、なぜかマジックも運転席から外へと出てきた。周囲を見回し、それからシンタローに向かって微笑みかけた。


 


友達のところに泊まったことにしてあるから、マジックと連れ立ち戻ったシンタローに嫌味の一つも言ってやろうと待ち構えていたらしい叔母は毒気を抜かれたように妙な愛想笑いを浮かべ取り敢えず立ち話もなんだからと二人を客間へ促した。


なにを言うつもりなのだろう。


予想外の展開に戸惑うシンタローにウィンクをして見せたマジックだが、それまでとまったく変わりのない妙に自信に溢れた態度に感心している余裕はなかった。


叔母に呼ばれ、惰眠をむさぼっていたらしい叔父が慌てて入ってくる。狭い日本の建売住宅の客間は、突然の異国人の来訪におかしな緊張感を張り巡らせていた。


 


開口一番、マジックはシンタローがしようとしていた“バイト”の話を始めた。


これにはシンタローも驚いたが、黙っていろと口止めしなかった自分にも非がある。慌ててマジックの袖を引き、必死の思いで首を振ったが彼が口を閉ざすことはなく、それどころか益々饒舌に、低い声で朗々と語り倒す。


 


未成年がこのような仕事をしようと思い立つ理由は、遊ぶ金ほしさが筆頭に来るのだろうが聞けば彼は学費のために仕方なく、と言った。


どのような経済状態にしろ保護者として子供の育成を法的に任された者であれば責任のある行動を取るのが当然でありこれは明らかに児童福祉法に抵触する事態だ。


奨学金を受けるというような道を示してやることもなく、短絡的に人として踏み外すような行為を選ばせた責任は保護者にあるのだから、知ってしまった以上見過ごすわけにはいかない。


 


たとえば叔父に、『そういうあなたは誰ですか』と尋ねる勇気があれば事態は変わっていただろう。


赤の他人であり、法曹界に従事するものでもない。永住権は得ているのかも知れないが、突如現れたマジックに好き放題言われ、返答次第では児童相談所に通報するぞとまで脅されるのは本来、それこそ不当だろうとも思われる。


けれど彼らは良くも悪くも一般大衆であり、脛に傷持つ身であったがために気の毒なほど恐れ入ってひたすら謝るという加害側へ回ってしまった。


まあ、分からなくはない。


マジックを見て恐れ入らない者はないだろう。彼には無言のうちに人を従わせる空気があり、それは体格であったり蒼い目であったりするのだがとにかく、視線の遥か上からものを言われ屈服しない方が難しい。隣で聞いていたシンタローも思わず納得しそうになる淀みのない、しかも難しげな単語はすっかり二人を萎縮させ、最終的には『ではどうすればいいのでしょうか』という有り得ない言葉を引き出す結果となった。


 


マジックが提示したのは、シンタローを引き取りたいというただそれだけだった。


 


そんなことは初耳だが、彼はシンタローの両親を知っているのだと言う。勿論それが嘘なのは分かっていたが、あまりに堂々と言い放つのでもしかしたら本当なのかも、と思ってしまうほどだった。


息子が一人残された聞き、どうしているだろうと思っているところで偶然にも廻り合えた。これこそなにかの縁だろう。


自分には家族というものがなく、シンタローを養うには余りある財力も、時間もある。友人の息子が哀れに身を持ち崩していくのを黙って見ていることなど出来るはずもないから、すぐにでも引き取り自分の手元で育てると。


 


 『諸々、世間に知れると困ることもあるだろうから、私の方は認めさえすればすべてを不問に処す用意があるが…いかがかな。』


 


 


世の中には騙される人が多く、意志の弱さを責められることもあるが、やっぱり騙す側だけが悪いに違いない。


生きるためのローカルルールを一つ仕入れ、シンタローは少し、大人になった。


そして、昨日までより大きな幸せを手に入れた。


 


運んできたのは大きな人。


その人ですら両手に抱えきれないほどの幸せを、そっと、そっと、贈られた。


 



 

 


      きのう、みた、ゆめ


 


 


 


 



 「やだ!絶対にここじゃなきゃダメ!」


 「行くのは俺だぞ!」


 「ヤダッたらヤダーッ!」


じたばた。


じたばた。


ジタバタ。


 


相手が子供だとしても苛付くに違いない、手足を振り回すという古典的な抵抗を繰り広げるマジックにこめかみが痛くなるシンタロー。


 「やだよぉ、ここじゃなきゃパパ、認めないからねっ」


 「…誰がパパだ」


涙ぐんで、あたかも虐められているような被害者ぶった顔で。唇まで尖らせた彼は間違いなく自分より大人だ。さらに言うなら保護者でもある。


 「シンちゃんの意地悪。ひどいよ、シンちゃんひどいよ」


責める言葉を口にしつつ、立ち上がった彼が向かう先にはソファーに凭れるシンタローがいる。腕を伸ばして、捕まえられて、たちまち抱き込まれる我が身の不運を嘆いてはみるが余計な抵抗をして事を荒立てる愚を冒さない程度には学習した彼である。


こうなったら暫くは、好き勝手にさせておくしか手はない。


 「シンちゃんのおバカ。パパはどーっしても、ぜっ、―――ったいに!認めないよ」


 「あっそ」


ぎゅうぎゅうと締め付けられて苦しいけれど、我慢。


いまはただひたすらに、我慢。


 「毎日ちゃんと車で送るから、遠くたって問題ないよ。ね」


 「………」


 「帰りだって迎えにいくよ。まあ、行けない時もあるかもしれないけど、でもその時はタクシー使っていいから」


 「………」


 「なんならタクシー券を買っておこう。そうすれば安心でしょ」


 「………」


 「あっそれよりハイヤーの契約をすればいいんだ。朝はパパ、帰りはハイヤー。で、パパが迎えに行けるときは門のところで待っててあげる」


名案。


痛んで仕方ないこめかみに口付けられ、シンタローは海より深い溜め息を吐いた。


後悔は後から来るから後悔だけれど、自分の選択は誤りだったのかもしれない。いや、あの時はシンタローに選択の余地はなかったし、なにより選択肢を提示してもらった記憶もない。我に返ったときには決まっていたのだ。


ここで、こうして、彼と暮らすということが。


マジックとともに生活するということが。


 「とにかく座れ。ちゃんと座って、一から話し合おう」


 「一を千まで話したって、私の鉄壁の意志が撤回されることはないよ」


きっ、と表情を引き締め、けれどシンタローと目が合っているという事実にすぐにとろけそうな笑顔に戻る。スキスキ、と繰り返しつつ腕の中に抱えた体をさらに強く抱き締める。


日本には、そんな恥ずかしい習慣はない。


そこをいくら説明したところで彼はこの国の者ではないし、仮に純度百パーセントの日本人であったとしてもこの人格が覆るとは思えない。


ああ。


ああ、嫌だ。


本当に嫌だ。


すっごく嫌だ。


でも。


 「あーもーシンちゃんってどうしてこんなに可愛いのかなぁ」


 「…目が腐ってるんじゃねぇか」


 


隠して見せない、心の一番深いところで、嫌がっていない自分が一番。


イヤダ。


 


 


 


 


 


シンタローの叔父夫婦を、明らかな脅しとはったりで言いくるめたマジックは、彼を自分の手元に引き取ることを強引に決定しその通りにしてしまった。


冷静に考えればおかしなことだが、シンタローとしても彼が自分を騙そうとしている訳ではないと本能で理解していたし、なによりあの家を出て求めてくれる相手と暮らすことに異存はまるでなかった。


いい暮らしがしたい訳ではない。


ただ傍にいたかった。好きだと言ってほしかった。必要だと。


誰にも理解してもらえず、また理解されようとも思わなかった。一人でいいと決めていたし、そうやって生きていくのだと思っていた。


けれどいつでも寂しく、冷たく凍えた体を持て余していたシンタローは、彼に出逢い、ふれあうことで優しさを知ってしまったから。認め合える存在だと逸る心が決めてしまったから。だから“うちにおいで”と改めて言われたとき、黙って頷いてしまったのだ。


彼と生きると、決めてしまった。


だからそれ自体を悔やむことはない。いまだって、彼の言っていることも分かる。譲歩できる部分はしなければならないとも思う。


でも。


それでも!


 


 「公立に入れるのにわざわざ金のかかる私立に行く必要はない!」


 「でもその公立高校に行きたい明確な理由もないんでしょ」


 「それはっ、だから…近いし、滑り止めなくても受かるって言うし」


 「こっちもそうでしょ。合格圏内だよ」


ほら、と言って指し示されたのはテーブルの上の学力調査票で、そこには先日の模擬テストの結果と希望校への合格率が印字されている。


抱きついていたマジックは、なんとかシンタローを膝の上に抱き上げようとしているから、それには無言の抵抗をしながら調査票の隣に広げられたパンフレットを顎で示す。


 「だから、ここから遠い」


 「送っていく」


 「あのなぁ」


 「送っていく。迎えも万全」


パパ完璧。


得意げに、ふふんと鼻で笑いつつえい、とばかりシンタローの脇に差し入れた腕に力を籠める。こうなると抱え上げられるのは必至で、まんまと彼の膝へと座らされた。


こんな姿、誰にも見せられない。


 「あんたが、」


 「パパ」


 「…マジックが、」


 「パパ」


 「…おま、」


 「パ、パ。パパ。父親のパパ。ダディのパパ。パーパのパパ」


 「…ぱっぱらぱーの、パー」


また可愛いこと言ってぇ、チュウしちゃうぞ。


と言いながら実行してくる。唇は死守しているが、頬やこめかみや額などは既に触れられていない部分がないほどに侵略されている。


外国人との接触がなかったゆえにシンタローが知らないだけで、これが一般的なのかもしれない。ふとそう考えてもみたが周囲の基準はどうでもいい。キスをされまくるという事実だけが重要なのだ。


外では一切するなと言い聞かせ、確かにそれは守っているためこれ以上の文句は付けられない。なにかを禁止すればその代替案を必ず提示してくるやつなのだ、マジックという男は。


ご機嫌でシンタローを膝に座らせたマジックは、片手を伸ばしパンフレットを取り上げると彼にも見えるよう一番初めのページをめくった。


 「ほら、まずパパがこの学校に通って欲しい一番の理由はこれだよ!」


ビシッと指先で示されたのは、これは絶対に生徒じゃなくてプロのモデルだろうと言いたくなるような見目麗しい少年が、いかにもお金持ちのご令息だけが通える伝統ある学校に相応しいといった感じの制服に身を包み談笑しているシーンの写真だ。


学年で違うのか、好きな色が選べるのか知らないが、グレー、ベージュ、ダークブルーの三種三色を基準に構成された作りで、ジャケットは無地だがズボンとネクタイはチェック柄になっている。これに冬はショールのようなものがついたコート、夏は基本色をパステルに置き換えたサマーセーターが付属品となるらしい。


身嗜みには気を使うが、おしゃれには無頓着なシンタローにとってお仕着せがましいそのスタイルは敬遠したい出で立ち以外のなにものでもない。


 「シンちゃんがこれを着たら…って想像すると、パパはもう気が遠くなるほど嬉しいよ」


 「だからっ!着ないって。ってその前に誰がパパだ!」


 「私」


 「あア?」


 「私。パパだよ」


 


この男のずるいところを、シンタローは既にいくつか見てきたけれど、一番ずるいと思うのはこれだ。


ふざけて、バカで、大人のくせにガキで、むかついて。


 「私のこと、パパだと思って欲しいんだ」


なのにこうして、突然穏やかに、けれど決して逆らえない威厳のようなものを籠めた眼差しで見詰めてくる。シンタローのすべてを見透かすような蒼い眼で真っ直ぐ覗き込まれるから、だからなにも言えなくなる。飲まれたように、据えた視線がはずせない。


大きくて強い腕なのに、抱き締めてくる指は驚くほど繊細だ。


いまも、まるで大きな蛇が獲物を締め付けるような音のない拘束をどんどん強めてきているのに逃げ出したいという意志すら奪われる。捕らわれる。


子供なのは確かでも、簡単に触れて、愛玩されるような幼さはない。だからシンタローにとってこれは不快なことのはずなのに、相手が彼だと思うだけで許してしまう。失くしてしまった甘えたい心を、小さかった自分を、取り戻せるような気がして。


いつもいつも後悔するのだけれど、それでも彼の腕の中は温かいから。幸せだから。


抱き込まれて、目を閉じてしまうのは、だから仕方のないことだと自分自身に言い訳して。


 


 「ねえ、シンタロー。私たち、親子になろうよ」


 「…おや、こ」


 「そう。私はきみを愛しているよ。その寂しそうな目を見ると心が痛む。なにと引き換えにしても守りたいと思う。私がきみに、一番に幸せを与えられる存在でありたい」


髪を撫でながら、唇は額やこめかみに触れる。


接触自体に不慣れなシンタローはその度に肩が跳ねそうになるけれど、それがマジックだと思うと安心できたし、嘘ではないと信じられた。


なぜたろう、彼は、どうしてここまで自分を愛してくれるのだろう。


なにもかもを認め求めてくれる。


無償の思いは、確かに博愛の域すら超えている。


 「だめかな。私では足りない?家族にはなれない?」


 「…そんなの…分からない…」


 「それは考えられもしないということ?それとも、」


 「分からないって!ここに来てからまだ二ヶ月も経ってないのに、急にそんなこと言われても…分かるわけ、ないだろ…」


マジックとの暮らしはなにもかも順調で、すべてがうまくいっている。自分ではそう思う。彼にしても、こうして親子になろうなどと言ってくるのだから自分を本当に必要だと思ってくれているのは分かる。同情だけではないと信じられる。


それでも。


 「答えは急がなくてもいいよ。でも、私の気持ちは変わらないからね。私はシンタローのことを一番身近に感じている。血の繋がりより強いものがあると思う。だから、嘘は言わないで。逃げないで。どんな答えであっても手放したりしないから、ゆっくり考えて決めなさい」


 「ここに…いていいなら、同じだろ」


 「違うよ」


向かい合うように抱え直され、指先が頬を撫でる。


 「ただ傍にいるだけではだめなこともある。血縁であっても、そんなものにはなんの意味もないことだって、あるんだよ」


 「じゃあ親子になっても、それも意味なんかないかも知れない」


 「そんなことはない。だって私はシンちゃんを愛しているからね。だからこの気持ちを形にしたいと思う」


 「かたち?」


 「そう。私たちは一緒にいるんだよって。心を繋げているんだよって。誰にでも言えるように、見えるようにしておきたい」


微笑むマジックを遣る瀬無い気持ちで見詰める。彼はシンタローを寂しそうだと言ったけれど、彼の蒼い目だって悲しげに見えることがある。まるで氷のように冷たくて、自分自身の冷たさに凍えるような。そんな悲しみが伝わることがあるのだ。


愛されたいと叫んでいる、その声を聞いた気がもう幾度もしている。


 「考えてくれるかな?」


少し、自信のなさそうな笑み。彼には似合わない。


 「分かった。考えておく」


 「ありがとう」


言って、また抱き締める。


彼が好んで使うコロンの香りが、全身に染み込むようだった。


すぐに返事の出来なかったことを詫びる気持ちを籠め、回した両腕で彼の首にしがみついた。ともにありたいと願う心は同じだと分かってほしくて。嘘ではないと信じてほしくて。


嬉しいと、ありがたいと伝えたくて。


 


幸せになる。


きっと、二人で。


 


 


 


 「んー、シンちゃん、いい匂いぃ~」


 「わっ!くんくんすんなっ」


高い鼻が首筋を這い回る感触に背筋が震える。


このバカは。


せっかくの感動的シーンを自分で台無しにしやがって!


心の中で悪態を吐きながら、それでもやっぱり、大して嫌がっていない自分はひたすらに隠しつつ握った拳で彼の頭をポコポコ叩く。


 


この分だと、来春からあの制服を着た自分が誕生するのは間違いないような気がする、ちょっと早まったかな?と思わずにはいられないシンタローであった。 



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      きのう、みた、ゆめ


 


 


 


 


 「学校に…行きたいから」


漸く絞り出した声で呟くと、怪訝そうに眉を潜め首を傾げる。


 「中学生って義務教育だよね?ご両親は?」


 「死んだ」


 「そう…ごめんね」


 「別に、謝られることじゃない」


大きな掌で包まれた肩を優しく叩かれている。そのリズムがとても優しくて、懐かしくて、つい聞かれるままに答えてしまったことを後悔しながら、それでも振り払うことも出来ず俯いたまま。


外は夕暮れから、そろそろ夜へと移っていく。


 「いまはどこにいるの?施設?」


 「親戚の家だけど…娘がいて、大学受験で金が掛かるから俺を高校に行かせるのは無理だって言われた。だから自分で稼いで、せめて高校には行こうと思ったんだよ」


 「遊ぶためじゃなかったんだ。まあ、そんな子には見えなかったから声をかけたんだけどね」


 「…分かんないぜ。こんなの、嘘かも知れない」


 「嘘を言っている目じゃないよ。きみの目は思ってることが全部見えてしまいそうなほど澄んでいるから」


 「外人って、ホント、臭い」


 「あれ、入浴は欠かさないんだけどなぁ」


冗談なのか本気なのか、よく分からない真面目くさった顔で自分の腕辺りの匂いを嗅いでいる。変なやつ。自分のことを良く解釈してくれようとしているのは分かるけれど、初対面だし、あんなところで出逢ったのだから信用するには早すぎるだろう。


シンタローとしては、まだまだこの“変な外人”に心を許すことなど出来なかった。


 「あんたさ、」


 「ダメ。あんたも外人も禁止。ちゃんと名前で呼んで」


 「知らないもんは呼べねぇ」


 「さっき名乗ったよ」


 「その面で“麻鬼水去”なんて名前だったら、俺なんかトム・クルーズで通すぞ」


 「うーん、ちょっと違和感があるね」


ちょっとで済むか。


口に出すと必ず何事か返されるので、突っ込みは口の中へ閉じ込めた。


落ち着いてくると、隣に座られて、肩まで抱かれている状況が気恥ずかしくなってきて、シンタローはモジモジと体を揺らしさりげなく離れようとした。とにかく体格差が激しくて、無理に動けば捕まえられそうで怖かった。


 「じゃあこうしよう。私のことはマジックと呼んでくれればいい」


 「…マジック?」


 「そう。きみはシンちゃんね」


 「勝手に略すな。っていうか馴れ馴れしくすんな」


 「なんでさ。ここで逢ったのもなにかの縁だよ、よければきみの話をもっと聞きたいんだけど」


 「赤の他人のあんたに、なんでそんなことしなきゃならないんだ」


 「あんたじゃなくて、マジック」


笑うと、なんだか可愛い。いままでこんなに近くで異国人を見たことがないし、大人に笑いかけられるなどという経験もなかったシンタローは、少し、少しだけれど警戒心が弛んでいた。優しくされることに不慣れだから、疑いつつも傾いてしまう。


 「シンちゃんは、なんとなく私に似ている気がする。それが理由じゃダメかな」


 「そんな…ヘラヘラして、俺から色々聞き出して、なんかしようとか考えてるんだろ」


 「考えてないけど…うーん、考えて欲しいなら考えないこともない。かな」


 「フザケンナ。とにかく、なんかとんでもないことになりそうだったのを助けてくれたのには礼を言う。でもあんたの所為でバイトもダメになったし、それでチャラな。あ、あとコーヒー。これはそっちが誘ってきたからあんたの奢りだ」


 「コーヒーは奢るし礼は受けるけど、あんな仕事、もうしちゃダメだよ」


 「関係ないって言ったろ」


 「ある。これからもあの事務所の仕事を受けるつもりなら、私が全部止めてしまうからそのつもりで」


 「だから勝手なことすんなよ!」


 「未成年の、しかもほんの子供のきみにさせられることじゃないよ」


 「なーっにが、エラそうに。あんただって同じ穴の狢じゃねぇか」


 「百パーセントの否定は出来ないけど、同じじゃない」


 「同じだろ。俺のこと、演技だろうがなんだろうがあんたがやるはずだったんだろ!」


 「…は?」


は?


 「は、じゃねえよ。そうなんだろ」


 「え、私?」


私、と自分を指さす。骨の太さがよく分かる、大人の造作をしたそれ。


けれど顔は不似合いにきょとん、としていて、思わずシンタローも見詰めてしまった。


 「あんたが、その…相手だった、んだろ」


 「…ああ、そういうこと」


なんだそうか、そういうことね。


うんうんと頷きつつ、一人で何事かを納得している。仕草が一々子供染みて、そういうところには苛つかされた。大人には、とことん大人であって欲しい。特に父親というものに飢えているシンタローとしては、落ち着きのない男など色々と対象外なのだ。


 「えーっと、まあそう…かな」


 「なんだよその言い方。そうなんだろ」


 「はい、そうです」


 「ほらみろ、やっぱりそうなんじゃねぇか」


威張ることではないが、言い負かしたのが嬉しくてつい笑顔になる。


 「あっ!」


 「えっ、なっ、なに?」


大声を出して至近距離に近付いてきた彼に驚き、逃げ遅れたシンタローは両肩を掴まれ動けなくなる。やっぱりこの位置はまずかったと、後悔したところでもう遅い。


大きな手がしっかりと抱えてくる、その力に不快感はなかった。


だって彼は笑っていたから。とても、とても嬉しそうに。


自分を見て、笑ってくれる相手など久しくいないことには気付いていたから。


だから動けなくなった。その笑顔を、もっと間近で見たかった。


 「思った通りだよ。きみは、笑うととても可愛いね。笑っている方がずっとずっと素敵だよ」


 「っ、ばば、バカじゃねぇの」


慌てて憎まれ口を叩いたけれど、頬が赤く染まっている自覚がある。


嬉しいという気持ちを隠せない自分に、どうにも恥ずかしく体が熱くなる。


 「ねえ、きみはもっと笑った方がいいよ」


 「笑って腹が膨れて、笑って学校行けて、笑ってるだけで毎日済むんなら俺だってぜひともそうしたいねっ」


 「じゃあそうしよう」


 「はあ?」


 「そうすればいいよ。笑って済ませよう。全部」


 「えーぶいだんゆうってのは、そんなにおバカさんだったんでちゅかねぇー」


 「彼等がバカかどうかなんて知らないけど、シンちゃんがバカだって言うなら私はバカでもいいよ」


 「侮辱されてるの、ちゃんと理解してますか」


 「シンちゃんなら構いません」


ダメだ。頭が沸いている。


未だに掴まれた両肩を外すため、彼の手の甲に指をかけ力を入れる。爪が、少し刺さっている。


 「猫みたい」


 「バカな上に変態な“マジックさん”、そろそろ子供は家に帰る時間なんで離して下さい」


 「どこに帰るの?」


 「どこって、―――」


急に、現実の世界に投げ込まれても、困る。


非日常の時間が過ぎて、思い知らされる本当の自分。こんなところで、愉快な外人相手に無駄話をしている余裕などあるはずのない状況。


普通の子供のように。


授業が終われば友人と町へ遊びに出たり、親に急かされ塾に通ったり、形は様々でもみんな自分の時間を生きている。自分のために、生きている。


我が儘を言ってみたいとか、今更そんな甘えたことを思ったりはしないけれど、それでもこうして下らない話に興じて無為に過ごす時間というものをもっと味わいたいのは事実だ。なんの心配もなく自分を生きてみたい。


したいことを、したいと言いたい。


安心して眠れる場所に、帰りたい。


 「親戚のおうちは、きみに優しくはないんだね」


優しくはない。


なにもかも。


当たり前に愛される時間など、なくしてしまってから久しすぎて。


 「優しい、とか…そんなん、もう、忘れた」


忘れてしまった。それは本当のこと。でも。


傷付き続ける心は進行形で、その痛みに慣れることはない。壊れてしまえばいいのかと、そう思い詰めるほどに繰り返す。それだけ。それだけの毎日。


 「お友達は?」


 「…付き合い悪いやつは、ノリが悪いって嫌がられるんだよ」


 「ノリかぁ。シンちゃんみたいな子なら、お友達も沢山いそうなのにね」


 「ガキだって、付き合いは学校の中だけじゃねぇんだってことだよ」


離せ。


言って、爪を立てていた彼の手を叩く。


非現実から現実に戻って。戻った以上はまた生きなきゃならない。次のことを考えなければならない。彼にとっては丁度いい暇潰しの相手だったのだろうけれど、自分に待っているのは昨日と同じ今日なのだ。


まして今夜は、本当に帰る家を持たない身の上。どこか泊まれるところを探さなければならないから。


 「コーヒー、マジで奢られとく」


 「うん」


 「あと、…ありがとな。俺に出来ることじゃないってのは初めから分かってたんだけど、それぐらいしかなくてさ」


 「当たり前だよ、まだ子供なんだから」


 「子供でぜーんぶ済むならいいんだけどな。まあ、生きてくってのが簡単じゃないってこと知ってる分、そこらのガキよかマシかもよ」


 「簡単じゃないけど…難しくもない。きみはまだ子供だから、だから難しくてはいけないんだ」


 「バカの割にいいこと言うじゃねぇか」


顔を上げて。


笑ってみせる。


子供だと言われるのはいい気分じゃない。けれど子供の自分を子供だと認めてくれた彼に、笑った方がいいと言ってくれた彼に。


おかしなやつだけど、この時間は嫌じゃなかった。少しだけれど楽しかった。


現実を、忘れられる瞬間だった。


だから。


 「バカだけど、恩人だから。だから笑ってやる。スマイル四百二十円」


テーブルの端に置かれた伝票を指先で叩き、席を立つ。


振り返らないで歩き出した店内のざわめきが遠くなって、自動ドアを抜けるとそれすらも消えてしまう。夜道を行き交うのは大人ばかりで、しかも向かう先があるから誰もシンタローを見たりしない。


一人は嫌いじゃない。


夜も、別に、苦手じゃない。


明るくて、星の見えない空を見上げ溜息を吐く。夜なんだから真っ暗になればいいのに。そうしたら自分の、きっと情けない顔を誰にも見られなくて済む。


見られてすらいないことは知っているけど、それでも、強がりくらいは言わせて欲しい。


 「せっかく手に入れた貴重な一万円だし…大体ホテルに泊まるたって俺一人で泊めてくれるとこなんかあんのかな」


 「あるよ」


 「っ、」


高い位置からかけられる声。


低くて、深くて、静かなそれ。


 「しかも格安、シンタローくん特別パック。一泊二食付きで四百二十円」


蒼い目は、一等星よりもっと強く輝いて。


 「コーヒーは奢るって言ったのに、スマイル売りつけられちゃったからね。だから宿泊の押し売りを仕返すよ」


 


おいで。


 


 


星なんか見えない。


真昼の太陽ですら感じられない。


誰も信じない。


信じてなんか、やらない。


だけど。


 


 


差し伸べられた手の温もりを知ってしまったいま、拒むには心が揺れすぎている。


もう、いい加減、疲れすぎて。


泣きたくて。


どこかに隠れて、泣きたくて。


誰かに。


 


 


 


愛されたい。



 

 

 


      きのう、みた、ゆめ


 


 


 


 


連れてこられた建物は、シンタローの知っているレベルとはかけ離れた、優雅で、上品で豪奢な造りのマンションだった。


世の中間違ってる。


こんなに大きな扉が自動で開くのも間違いなら、マンションなのに受付があって制服を着た男が“お帰りなさいませ”と言うのも間違っている。ここからもう部屋ですかと言いたくなる様な応接間があるのもおかしいし、人工的な川が流れているのも理解の範疇を超えている。


静かな音楽が流れる中、いくつかの自動ドアが開くたびマジックはシンタローを促し奥へ奥へと入っていく。


ドアはオートロックが掛かっているようだが、なぜだか彼は鍵らしきものなど一つも使っていない。不思議に思い、次のドア手前に取り付けられた操作盤らしきものを眺めると、彼の疑問を解くべくマジックが微笑んだ。


 「指紋と声門と顔認識。住人はこの前に立てば鍵がなくても開くように出来てるんだよ」


 「あんた立ち止まってないし。声も出してなかったし」


 「それはほら、コンセルジュがいたでしょ。住人だと分かっているから彼が操作してるんだよ」


 「こん、」


 「コンセルジュ」


なんだその、こんせるじゅって。


そう思ったが曖昧に頷いておいた。金持ちは受付のことをそう呼ぶものなのだろう。


分厚いガラスで出来た自動ドアを抜け右手に折れると、漸くエレベーターホールに到着した。どう見ても高級ホテルのような造りは健在で、毛足の長いふかふかの絨毯に足を取られそうになりながら一番奥のエレベーターまで歩いていった。


マジックは、今度は右手の人差し指を操作盤らしきところに乗せる。すると音もなく扉が開き、シンタローに先に乗るよう促した。


 「これ、最上階直通なんだよ」


後から乗ってきたマジックはそう言うと、なにがおかしいのか小さく噴出しシンタローの肩を叩いた。


 「シンちゃん、目が点になってる」


 「なっ、」


格好をつけたところでなにもならないけれど、それでも貧乏人が別世界に紛れ込んだ違和感を実感していたため恥ずかしさに顔が熱くなる。


 「ここ、一番上は三世帯入るらしいんだけど、いまは私が借り切ってるから誰もいないよ」


 「…今更だけど、あんた一人暮らし…な訳ないよな」


 「ひとりだよ」


 「こんなとこにひとりって…え、えーぶい男優ってそんなにギャラいいのか」


 「さあ?」


ウィンクをされた。


大した年数を生きた訳ではないけれど、日本に生まれ育ったシンタローにとってそんなものを自分に向けられるのは初めてだし、間近に見ることすら初めてだ。


リアクションが取れず、ばかじゃねぇの、と口の中で呟いたところで軽い重力に体が縮む感覚に身を竦める。


上昇を感じられないほど静かだったエレベーターが止まると、これまた静かに扉が開いた。濃紺の絨毯が敷き詰められたフロアは広く、その先にある両開きの扉はばかげて大きかった。どうやらそれが玄関らしく、先に立ったマジックが真っ直ぐ歩いていった。


 「はーい、かわいいお客様一名、ごあんなーい」


ふざけた口調で言いながらドアを開ける。今度は指を使った様子がなく不思議に思い見上げていると、操作盤の上部に小さなセンサーらしきものを視線で示された。


 「目でね、感知するんだよ」


 「ふーん」


操作盤自体ありえない高さに付いている。二メートルはあるだろう彼の身長からすればその位置は当然だろうが、これでは大抵の日本人はこの家に泥棒に入ることは出来ないだろう。


 「お客様なんて初めてだなぁ」


 「嘘つけ」


 「なんで嘘だと思うの?」


 「初めて逢った俺だって、こんなに簡単に連れてきたじゃねぇか」


 「だってシンちゃんは特別だから」


 「は?特別?」


 「うん」


なにが嬉しいのか、本当に楽しそうに笑ってそれから。


 「シンちゃんのことが大好きだから」


 「好き、って、…」


好きって。


 「はい、どうぞ」


開かれたドア。恭しく招かれる。


好きって。


 「あ、と、お邪魔…します」


くすぐったいな。


そこだけでシンタローに与えられた部屋ほどの広さがある玄関へと入りながら、なにか、胸の中がほんわりと温かなものに満たされるのを感じる。


もし、彼が本当は良くない人間で、このあと手ひどく裏切られることになったとしてもいまこの瞬間があるなら構わないとすら思えた。非現実の世界に引き摺られているだけかもしれないけれど、それでも彼が傍にいることを嬉しく思った。


信じられた。


 


 


広いというのは分かっていた。


けれど通されたリビングは象が団体で寛げるほどの空間だし、トイレなど却ってゆとりがありすぎて落ち着ける場所という定説には程遠いものになっていた。


外で食べるのは嫌だしデリバリーも趣味じゃないと言った彼は、シンタローを残しキッチンに向かってしまったので仕方なくテレビのリモコンをいじっていたが、これもまた映画館並みの巨大スクリーンで見ているような映像に慣れず早々に消す羽目に陥った。


室内は華美ではないものの明らかに質がいいと知れる装飾で統一され、花瓶一つ、置物一つに至るまでシンタローでは想像も付かない値段が付いていると思われた。


結局なにもしていないのに一万円もくれる世界だから、きっと相当羽振りがいいのだろう。得心したように頷いていると、彼の体に合わせた大きな扉が勢いよく開いた。


 「はーい、ご飯ですよー」


 「……なんだそのナリは」


 「ん?これ?エプロンだけど…知らない?」


 「俺が知ってるエプロンはそんな色も、ビラビラもしてねぇ」


愛らしいピンク色のそれは、可憐なフリルのあしらわれたどう見ても女物のデザインだった。誰かにもらったのならともかく自分で買ったのだとしたらとんでもないことだし、それ以前にこの長身に合うサイズであることがなによりの問題と言えるだろう。


 「かわいいでしょ。私が自分で作ったんだよ」


 「あんた、そういう趣味なのか」


 「うん」


カミサマッ!


面白外人でえーぶい男優でオカマ!三重苦!


 「洋裁は子供の頃から好きだったけど、日本に来てから覚えた和裁の方がずっと楽しいね。基本が直線というのが少し飽きるけど。そうだ、今度シンちゃんに浴衣を縫ってあげる」


 「ああ、そっちの趣味か」


 「?ほら、冷めちゃうから早く」


おいでおいでーと手招く彼の傍に行くと、当たり前のように背中に手を当てられる。


こういうのをエスコートって言うんだ。


負担にならない力で押されながら歩くのは、不慣れだが悪い気分ではない。触れられたところが温かくて、なんだかとても、気持ちいい。


案内されたのはダイニングで、ここもばかげた広さがある。テーブルセットは八脚だったが、そこは綺麗に片付いたまま使われた形跡すらない。


シンタローの視界に気付いたのか、マジックの視線もそれを捉えたけれどなにも言わず、キッチン前のカウンターへと連れて行った。大理石で作られているらしいそれの上を見て、思わず息を呑む。


 「これ…あんたが作ったの?」


 「そうだよ。ねえ、あんたじゃなくて、名前で呼んでよ」


拗ねた口調で言いながら手では着席を促す。足の長いスツールはこれも彼に合わせたものなのだろう、シンタローには高すぎて仕方なくカウンターに手をつき勢いよく飛び上がった。


 「わー、かーわいいー」


 「…変態め」


いちいち言い返すのも面倒になってきたが、彼が本気で自分のことを“かわいい”と思っているのは確かなようだった。


一体自分のどこがかわいいのか。


環境がそうさせたのだ、自身の責任ではないがひねているし、物事を悲観的に考える癖も付いている。素直になれずまた口に出さないだけで自己主張は人一倍強くしたい方だし、利にならないものは徹底的に排除する。


そうしなければ生きられなかった、だから子供らしさなどというものは無縁に過ごしてきたし今更取り繕ったところで手遅れだろう。見た目だって、そろそろ幼さが抜け生意気な部分だけが際立つ年頃に入っている。


だからシンタローとしては、彼の言う“かわいい”は社交辞令か嫌がらせか変態か、その辺りのどれかだろうと結論付けることにした。ところが。


 「そう言われても仕方ないかもね。でもシンちゃんが可愛いのは事実だから、別に私の責任じゃないよ」


 「は?」


 「こんなに可愛い子、見たことないから」


 「…目が悪すぎるのか、頭が徹底的にいかれてるのか、どっちだ」


 「目が悪いって、視力のこと?」


メガネもコンタクトも必要ないよ。ご機嫌に言って、カウンターの中へと入ったマジックは手元での作業を始めた。


シンタローの前には和食器が並んでいて、彼の日本贔屓度の高さを示している。いくつかの小鉢には佃煮や煮物が入っていて、定食屋というより料亭のような演出が施されていた。尤もシンタローは、料亭などという別世界に存在する店に入ったことはないから想像に過ぎないけれど。


 「はい、温かいうちに食べてね」


言いながら出されたのは大皿に盛り付けられた煮魚だった。赤っぽい色をしていて、分厚い身がとても美味しそうな匂いを発している。


それから青菜の炒め物、豚の角煮、ほうれん草の胡麻和えと次々に並べられ、そのどれもが家庭料理と思えない見事な出来映えでただ驚かされる。因みに茶碗では艶々の白米が湯気を立て、汁碗にはシジミがかわいい口を開けていた。


 「材料があればチラシ寿司が良かったんだけど…好き嫌いを聞いていなかったし、取り敢えず一通り揃えてみたよ。食べられないものがあったら除けておいて」


 「好き嫌いなんて…ねぇよ」


 「それはよかった」


食べられるならそれだけでありがたい。贅沢など言っている余裕がなかったから、出されたものはなんでも口に入れる習慣が付いている。だからこれらの立派過ぎる食事は、見ているだけで妙な緊張と申し訳なさを生じさせ、箸を取り上げることを躊躇わせた。


 「…食べたくないの?おかしなものなんて入ってないよ」


 「ちがう…そうじゃなくて…」


座っているだけで食事が用意される。


温かで、心尽くしで、自分のために作られた席。


忘れていたその優しさを突如目の前に差し出され戸惑うのは当然だけれど、それがどんどん悲しくなって、胸が苦しくて、辛い。考えないようにしてきた境遇、…惨め、という言葉を自分に対して使いたくはなかったから、いつでも意地を張り虚勢を張り堪えてきた痛みが堰を切ったように溢れ出して止まらない。


どうせまたすぐなくすのに。


いなくなってしまうくせに。


ほんの気紛れで拾って、明日にはまた独りになる。少しの優しさを知って、その分だけ弱くなって、そんなことを繰り返していればいずれ自分は立つことも出来なくなる。張り続ける意地なんか、もう擦り切れてぼろぼろだから。


そんなに、強くないから。


 「やっぱり…いい」


 「なにがいいの?」


 「どっか探すから」


 「どこか、って、今夜泊まる場所に心当たりなんかないんでしょ」


 「なくても」


 「だめだよ」


 「いい」


 「シンちゃん」


呼ぶな。


 「いい」


 「シンちゃん」


呼ばないで。


 「シンタロー」


 


見ないで。


 


俯いて、泣いているのがばれないようにしていたけれど、そんなことは疾うに知られていたことくらい自分だって分かってる。


けれど止めようがなくて、こみ上げる感情も涙も、止められなくて。


なんでこんなに脆いんだろう。


昨日まではこうじゃなかった。こんなことくらいで泣いたりしなかった。強がっているのはいつものことでも、それでももっと我慢できた。なんでもない振りで自分自身を誤魔化せた。


それなのに。


 


 「きみは、私に似ているね」


 


小さな、笑いを含んだ声。


寂しそうな。


 


 「とても似てる。ひとりでいるのが、寂しいんだね」


 


 


座ったまま、抱き締められる体がこんなに小さいとは思わなかった。


自分が、こんなに頼りないとは思いたくなかった。


強く、強く回される腕の力に寄り添うことはもう止められなくて、そっと上げた掌を彼の背中に回してみた。


 


探していたものをやっと見つけた。


そんな気がした。



 
 

 


      きのう、みた、ゆめ


 


 


 


 


人生の中において、“抱き上げられる”などという記憶はほぼ持たないシンタローは、彼の行動が信じられず居心地の悪い思いもしていたが、正直、子供扱いという甘い経験のない我が身にとっては非常に恥ずかしいが嬉しくもある。


ほんの小さな子供をあやすような仕草で、抱き上げたシンタローの背を叩く掌は大きく温かい。欧米人は日本人と比べて体温が高いというが、安定感と安心できる温もりに気を抜けば眠気すら誘われることだろう。


身長は高い方だと自他共に認めるシンタローだが、マジックに並ばれるとかなり見上げなければならない。だからこうしていると近くで覗き込まれる瞳の蒼さに飲まれそうになり、それはひどく恐ろしい。


考えを見透かされる。


心の中を読まれる。


臆病に、卑屈に、いつでも身構えている不遇さを知られてしまう。持ったところで辛いだけのプライドを、それでも捨て切れない自分が馬鹿なのだと分かってはいるが、だからといって変われるほどに自分は身軽には出来ていない。


許されない。


使われた跡のないテーブルまで来ると、シンタローを抱えたまま椅子に掛ける。一連の動作があまりに自然で、自分が本当に小さな子供になったような気さえした。


マジックの首の辺りに頭を埋めるような姿勢で抱き込まれ、しくしくと痛んだ胸が速やかに落ち着いていくのが分かる。力が抜ける。


髪やこめかみに当てられるのは、恐らく彼の唇なのだろう。


そのように触れられたことのないシンタローにとって、それは不思議で、けれどとても安らぐ仕草だった。夢でも見ているような、そんな心地にさせられた。


 


それからどれほどの間そうしていただろう。


うつらうつらとした意識の隅に、小さく笑う彼の声を聞き慌てて閉じかけていた目を開くと間近に迫った蒼がまるで子供のような輝きで見詰めていた。


 「本当にシンちゃんは可愛いなぁ」


 「ばっ、お、おま、」


 「んー、どうしよう。取り敢えず抱き締めちゃえ」


えい。


言葉通り、シンタローの体を締め付けてくる彼をどうにか引き剥がそうとするが、力では当然の如く敵わない。とはいえとんでもない失態を犯したシンタローにとっては、まずこの腕から逃れることが先決なのだ。必死に身を捩り、彼の膝の上でバタバタと暴れた。


 「落としちゃうよ」


 「落とせ!落としていい!」


 「ダメ。シンちゃんに怪我なんかさせられないからね」


膝から落ちたくらいで怪我などしない。そう叫びたかったがまず“膝の上にいる”自分というシチュエーションが恐ろしくてなにも言えなくなる。


ああ、なんということだろう。


あれもそれもこれもみな確かに自分が引き起こしたことだが、なんだかどんどん恐ろしい状況に突き進んでいるのではないか。よく考えれば出逢ったばかりの、しかも身元の怪しげなアダルトビデオ男優などの部屋に上がりこみ、あまつさえ膝の上で抱き締められているなんて。


助けられたのではなく、体よく“お持ち帰りされた”のではないか?


今更ながらの事実に行き当たり、意識した瞬間シンタローの体は竦みあがった。


 「…どうしたの?」


カタカタと震え始めた彼を訝しみ顔を覗く。大きな目を見開いたまま、マジックを見ないよう顔を背けようとしているらしいシンタローに首を傾げ、なにがあったのか聞こうと思った、そのとき。


ぎゅっ、と、マジックの襟首が掴まれた。


本人は意識していないのだろうが、抱き締めたときに伸ばした腕が胸元に伸び、まるでしがみつくようにマジックのことを受け入れていた。接触することに不慣れな子供が、それでも救いを求めるような仕草に初めは笑いを禁じえなかったけれど、それが変わっていることに気付く。


初めて逢ったときから気になった。


誰にも興味を持たなかった自分が、今更他人に心を動かすことなど有り得ない。関わることは煩わしいことだし、不用意に傷付けられることなど堪えられない。


誰も要らない。


ひとりでいい。


そう思っていた自分の目の前に、突如現れた少年がなぜこうも気になるのか。


気になって、触れたくなるのか。知りたくなるのか。


 「嫌なことならしないよ。離せというなら離すから。だから私を怖がらないで」


祈るような気持ちで囁く。心に届くよう静かに、そっと、囁きかける。


 「私のこと、見て」


びくり、と肩が跳ねて。


かなり長い間躊躇っていたけれど、やがてぎこちなく廻らされた首がマジックへと向き直る。黒曜の瞳が濡れていて、それを見ただけでいたたまれなくなることを自覚しながら優しく、出来る限り優しく微笑みかけた。


 「ごめんね。怖かったよね。でも嬉しかったんだよ。シンちゃんと出逢えて、私は本当に嬉しかったんだ」


 「今日…初めて、逢ったばかりなのに」


 「うん。でも本当だよ。言ったよね、似ているって。私たちは、とても似ている。だからきっと、その所為だ」


 「…よく、分からない」


 「うん」


分かるよ。


それは分からないのではなく、分かりたくないだけだ。


一度閉ざした心を開くのは簡単なことではない。けれど、だからこそマジックには分かったのだ。彼が怯えるのは初対面だからとか、なにも知らないからとか、そんなことではない。


知って欲しい。


本当は誰より強く願ってる。知って欲しい。知り合いたい。互いのことをなにもかも、一番深いところに隠した醜ささえも曝け出して、それでも繋がりあえる信頼がほしい。


傍にいて欲しい。


ひとりで生きることは、それは、この世に存在するすべての痛みの中で最も耐えがたいものだ。だから同じ痛みを抱えている彼を見て、出逢ってすぐに気付いてしまった。


本能が求めてしまった。


ふたりでいることが傷の舐め合いでしかないと嘲笑われたとしても構わない。捨てることは出来ない、悲しいかな人間の身の上である自分を嘆くことも今日を限りに出来るだろう。


この出逢いがすべてを変える。


なにもかもを変えてくれる。


そう信じる。


信じられる。


賢しい小動物のような目で見上げてくるシンタローを、今度は細心の注意を払い抱き締めた。壊れやすいものを扱うようにではなく、触れさせて欲しい心に直接届くように。なにもかもを見せるから、だから見せて欲しい。その思いが伝わるように。繋がるように。


 


 


 


シンタローの腕がマジックの首に回されたのはそれから随分あとのことだが、その温かさはマジックの中に消えない炎を灯した。


 


なくさない。


離さない。


奪われない。


裏切られない。


決して。


 


決して彼を、失わない。


 


 


この執着こそが人として生きる最後の砦になるだろう。


抱き締める体の確かさを胸に、深く、深く、刻み付けた。


 
M1

  

 


 


自分だけが不幸だなんて思わない。


世の中は、そりゃあ不公平に出来ているけど公平なことだっていくらもある。


どん底にいてもふとした拍子に笑えるし、いつかはみんな、死んでしまうし。


そうやって考えれば自分のような境遇にいる子供はほかにも沢山いる、こんなことなんでもないと思いこめた。思い込んで、堪えられた。


別に、こんなこと、なんでもない。


特別変わったことじゃない。


生きていくために手を染めることは、善悪様々あるうちのひとつだ。


なんでもない。


なんでもない。


なんでも、ない。


 


 


なんでもないよ、こんなこと。


そう思っても、泣けてくるのは自分が弱いからだ。短絡思考のバカだからだ。


バカならバカらしく考えなければいい。考えなければ苦しくない。


誰だってやってる。珍しいことじゃない。


生きているんだから。


 


生きて、いくんだから。


 


 


 


 


 


      きのう、みた、ゆめ


 


 


 


 


シンタローはざわつく周囲に視線を巡らせながら、ぼんやりとこれからのことを考えた。


ギャラは一本単位でもらえるから、今日だけで一年の学資は十分得られる。行きたい学校はあったけれど、私立を受験したいと言い出せる立場に自分はなかったし、なによりそれを求めればこんなもののギャラ程度で済むはずもない。


尤も公立に入学したところで、教材費や通学費用、その他必要な経費を考えるとこれを最後に出来るはずもないことは分かり切っている。


余分な小遣いなどというものは未だ嘗てもらった試しがないので、収入を得てもそれで遊ぶつもりはなかったがそれでも高校生にもなれば付き合いも増えるかも知れない。


余計な心配か。


自嘲して、口元が歪む。


どうせ授業が終われば急いで帰宅しなければならない。口うるさいあの叔母が、自分に余裕のある暮らしをさせるはずがないのだ。広い家ではないがすることは山ほどある。家事は嫌いではないが、パートに出ている叔母が帰宅するまでに片付けておかなければならない仕事は日々あったし、大学受験を控えた従姉妹の為に静かに、速やかに立ち働かなければならない。


彼女はお世辞にも出来がいいとは言えず、自覚している所為か神経質になってもいる。人前で努力する姿を見せないシンタローは成績も優秀と呼ばれる部類にあったため、それが余計なストレスを与えているのも事実であり、だからこそ本人からも、叔母からも当たりがきつくなる要因を増長させていた。


シンタローの両親は、彼の七つの誕生日に事故死している。


父のハンドル操作の誤りで歩道に乗り上げ、通行人を巻き込むという最悪の事態を招いてしまった。あの日は大雨が降っていて、朝、父を最寄り駅まで送る母は早くも梅雨入りだろうかと笑っていた。


往路は父が自ら運転し、復路は母が運転をする。二年前に購入した新居は駅から少し離れていたためそれが日課となっていた。


少し早めだけど、一緒に行く?


母に言われたとき、なぜ頷かなかったのだろう。同乗していれば今頃は自分も、安らかな眠りについていたはずだ。なんの苦労も知らず、幼い子供のまま、幸せに。


唇を噛み、それから小さく首を振る。考えたって仕方ない。そんなことはこれまで幾度も思い返し、その度自分の弱さに、無力さに嫌気が差していただけのことだ。解決はしない。


この春進級し、シンタローは中学三年生になった。


あと一月で十五になる。来年は高校受験を控えていた。


亡くなった両親の保険金は被害遺族に支払われほぼ尽きてしまい、満額に近いローンの残った自宅も早々に手放すこととなった。幼すぎるシンタローにはすべてを眺めていることしか出来ず、気付いたときには叔父の家に引き取られていた。


叔父は優柔不断なところがあり、役所からの勧めで引き受けてしまったらしいが余裕のある生活をしていた訳ではない。当然のように叔母は反発し、だから優しくされた記憶は嘗て一度もなく常に冷たい視線を浴びせられる毎日だった。


高校へは行きたいかと尋ねてきた叔父を、だから責める気にもなれなれず曖昧に答えておいた。


一人娘を大学にやるため叔母はパートを始めていたし、リストラで職を変えたばかりの叔父も焦っているのは目に見えて分かる。公立ですら通えないとなればいまの世の中で上を目指すことは諦めなければならないだろう。シンタローは努力は得意だが奇抜なセンスを持っている訳ではない。夢にかけるなどという危ない端を渡る余裕は自分にはないのだ。


どうしよう。


考えたところでたかが知れている。僅か十五歳で出来ることなど限られているし、それでは無理だというのは初めから分かり切ったことだ。


ではどうしたらいい?あの家を出るには金銭以上に難しい法的な問題もあった。どうして俺は子供なんだろう。思わず本気でそう思ったが、思考の虚しさにすぐやめた。とにかくまずは金だと、それさえあればあとのことはそこから考えればいいと決め、手っ取り早く収入を得る方法を探ることにし繁華街をうろついた。


自分が女であれば、高額収入に直結する仕事が選べるのに。


電話ボックスや電柱に貼り付けられた、派手な彩色の小さな広告を眺め溜息を吐く。年齢的に無理ではあっても、幸いシンタローは年の割に背が高く、少なくとも高校生には十分見えていただろう。いまだってそれを頼りにバイト探しをしているのだ。


履歴書には適当なことを書いてもばれない職を選ばなければならないという点からしても、どうせ真っ当な商売には就けないに違いない。だから、どうせならどんな仕事だって構わない。まとまった金額が一度で支払われるようなそんな率のいいもの。…考えれば考えるほど、まともな仕事からはかけ離れていった。


手伝いをしなければならないので、仕事探しに割ける時間も限られている。今日ももうタイムリミットが近い。電話ボックスに貼られた出張ホストの広告を恨めしく眺め、今日幾度目かの溜息を吐き出したところで、背後に立っている男に気が付いた。


 


 「お金、欲しいの?」


 


きちんとスーツを着込んだサラリーマン風の男に眉を寄せる。


 「最近この辺うろついていたよね?仕事探し?」


 「…はあ」


 「いいのあった?」


 「いえ」


 「まだ若いよね?幾つ?」


 「……十、八」


 「あー、それくらいかなーと思ってたんだ」


そう、十八。


呟いて、男はシンタローの頭の先から爪先までを眺め頷いた。


 「きみさえよければ、結構おいしい話があるけど、どう?」


 「危ないこと?」


 「そうでもないよ。まあ、想像通りの仕事ってとこかなぁ」


笑った顔は、いやらしくは見えなかった。


尤もそう見えたところでどうでもよかったけれど。


 「いくらくれるの?」


 「あはは、そんなスレたタイプに見えないけどね、きみ」


手招かれ、すぐ近くにあった喫茶店に行こうと言われ首を振った。今日はもう時間がないと説明すると、彼は取り出した名刺の携帯番号を示しながら言った。


 「危なくはないけど、まあ人に言えることでもないからね。その気があるなら電話しておいで」


頷いて受け取る。気持ちの中ではもう決めていた。


初めからそれしかないかと思っていたから、躊躇うこともしなかった。


手を振る男は、本当にごく普通のサラリーマンにしか見えない。それも警戒心を緩めさせる作戦なんだろうけれど、仮にありがちな人物であったとしても構わない。声をかけてきたということは、自分にそれだけの価値があるということだろう。もし彼がだめでも、今後はその方向でいけばいい。どうにでもなれ、と投げやりな気持ちで名刺をポケットに押し込んだ。


 


その夜のうちに電話をすると、彼は喜んで待ち合わせ場所を指定してきた。いきなり仕事になっても大丈夫かと聞かれたので、迷わず了承しておいた。躊躇えば、二度と出来ないような気がしたから。


こんなことなんでもない。


目を盗んで使った電話を、細心の注意を払い元に戻すと肩で大きく息を吐く。


なんでもない。特別なことじゃない。どうでもいい。


ありったけの言葉を並べ立て、自己弁護と投げやりさを強調する。自分自身に。惨めに。


生きているんだから、生きなきゃ。


ただそれだけを思う。


 


生きて、いかなきゃならないんだから。


 


それだけのこと。


 


 


 


 


指定されたのは前日誘われた喫茶店で、彼は先に来て待っていた。


てっきり彼と、と思い込んでいたシンタローに告げられたのは、“芸術作品”への出演要請だった。世の中にはそんなものもあったけれど、それこそシンタローには未知の世界であり、聞かされるまでは思っても見ないことだった。


最近では需要が増え、嗜好は別でも金になるならと承諾する者が多いと言い彼は愛想よく笑った。撮影時間も今回のタイプなら二時間程度だし、ギャラは一本固定の支給でこれくらい、と指を二本つきだした。


続けるなら程度によってそれ以上のものもあるし、契約すれば販売数によって歩合が上乗せされることもある。見る人が限られる分、女の子より安全だよ、と締めくくられ、目を見開いたままそれでも幾度か頷いた。


体を売る、という意味は深く考えないようにしていたけれど、これだって近いものがある。けれど行きずりの男相手にそんな商売をするのは安定しないしリスクも高い。その点こういう業界ならばそれなりに保証されてもいるだろうし、組織的なものに加わってしまえばその中にいる限り危険性は少ないのかも知れない。


甘く見れば酷い目に遭うだろう。けれど一度や二度ならなんとかなる。欲しいのは当面の学資といずれあの家を出るための資金だ。高校生になれば出来る仕事の枠は一気に増える。そうなったら地道に、ちゃんとしたバイトを探せばいい。夢を見ない自分だからこそ、現実のために重ねる努力は苦にもならない。


沢山は、出来ない。


今回だけのつもりで、一度だけなら、やってもいい。


そう言うと彼は満足げに頷き、きみは運がいいから、心配しなくていいよと笑った。この状況で心配しない方がおかしいだろうが、震える手はテーブルの下に隠し黙って俯いた。彼がどこかに電話をしている間中、その震えが全身に広がらないよう必死に堪えて身を固くしていた。


愚かだと思う。でも後悔はしない。している隙はない。


一口も飲まないまま温くなってしまったコーヒーを睨み付けていると、このあとすぐに時間が取れるかと確認され頷いた。


今朝、叔母には友人の両親が外泊するので、一人になってしまうから泊まりに来て欲しいと頼まれたと嘘を吐き了承を得ている。勿論嫌味を言われたが、周囲には哀れな甥を引き取った心優しい人物を装っている彼女には断りようのない嘘だった。


今日は、日貸しのマンションの一室で別の撮影してるんだけど、ちょうどいいからきみのもいっちゃうからね。


軽い口調で、本当になんでもないことのような顔で言われ、頷く。間が空くよりはいい。気付いてしまえば動けなくなる。流された方が楽に済む。


喫茶店の前から乗ったタクシーの中でも、ずっとほかのことを考えていた。担任の癖や机の傷、授業中に聞こえる飛行機の翼が空気を切り裂く音。吹奏楽部の、賑やかな、けれどくぐもって響く楽器の音。ごく普通の暮らし。ごく普通の毎日。ごく当たり前の、子供の、自分。


本当は、普通ではなかった。


幸せではなかった。


これからも。


でも。


 


 「着いたよ」


 


幸せにはなれない。


 


 「…はい」


 


 


 


それでも。



 
 

 


      きのう、みた、ゆめ


 


 


 


 


撮影と言ってもテレビドラマとは違うから、大きなカメラがある訳じゃないしスタッフも少ないんだよ。そう言われていた通り室内は照明機材と、カメラや音響機器らしきものを操作する四人の男がいるだけで静かなものだった。


前の撮影が終わったばかりで、少しだけ装飾を変えるからこっちで待っていてくれと指示された部屋のドアを開けると、そこにはシングルより少しだけ幅のあるベッドがあった。寝室を使わないというのも不思議な気がしたが、こうしてベッドを前にすると自分がしようとしていることを無言で突き付けられた気分になり震えが蘇る。


来てしまった以上、逃げることは出来ない。


この部屋のドアを開け、入った瞬間に言われた言葉。


 “暴れないでね。怪我、したくないでしょう”


よくあることだという。同意の上で始めても、途中で怖くなり逃げ出そうとする。相手が慣れているから大抵宥め賺して撮影は続行されるが、あまり長引けば仕方なしに路線を変更することになるという。


つまりは、無理矢理だろうが撮影を続ける方が優先されるというのだ。


恐ろしくて、涙が出そうになったけれどどうにか堪えた。承知で来たのだ、そんなことにはならない。投げ出すくらいなら引き受けなければよかったのだし、頼み込まれたことじゃない。自分で決めたのだ。


ベッドに腰掛け、ぼんやりと自分の手を見る。もう震えてはいない。感情が麻痺したのかも知れなかったが、それは却って都合がよかった。


どうせなら思考停止も起きないかな。気付いたら終わってないかな。雑多なことが浮かんできたが、どれも現実逃避に至るにはほど遠く、隣室の物音は絶えずシンタローの耳に届いていた。


 「死ぬ訳じゃないし…」


 「だれが?」


 「―――っ、」


自分の体が飛び跳ねたのが分かった。


突如かかった声は予期せぬもので、あまりの驚きにシンタローはそのままベッドから落ちて尻餅を付いた。


 「あれ、ごめんね。驚かせたかな?」


手が伸ばされる。


無骨で、大きな手。白い。


 「大丈夫?」


言いながら、固まっているシンタローの手を取り引き上げた。元通りベッドに座らせるとその手は離れていったけれど、温かな感触はなぜか消えずに残っていた。


 「きみかな?ここで待ってるって聞いたんだけど」


 「え、あ、あの、」


 「名乗らなくていいよ。嘘の名前でいいからね」


意味が分からず首を傾げる。


見上げる男は、本当に見上げると言うのがしっくりくる長身を、けれどシンタローに併せて屈め優しく笑っていた。一目見て欧米人だと分かる容貌だったが日本語の発音は随分と流暢だった。


金髪が綺麗だった。そして蒼い双眸は更に美しかった。自分の黒い瞳に対し感慨など持った試しはないが、彼のような瞳を見ると“綺麗”とはこういうものなのだと実感出来た。


がっしりとした体格で、凡そ一般人とは思えない。グレーのスーツを着ていたが、胸板や腕周りの筋肉の発達した様が見えるようで、この腕に捕らわれたら逃げ出すことなど不可能だと言うことを知らしめている。


彼が、相手なのだろうか。


脚本などないし、リードされるままに動けばいいからと言われていたが、いざ対面するとさすがに恐怖心が沸き上がり忘れていた震えが蘇る。


怖い。


こわい。


自分はなにをしているのだろう。


どうしてこんなこと、選んでしまったのだろう。


逃げたい。


帰りたい。


かえりたい。


かえりたい!


 「…初めてなんだよね?」


言いながら隣に腰掛ける。沈み込むベッドに更に恐怖心を煽られ、けれど固まった手足は動きそうにもなく、恐慌状態はひどくなるばかりだった。


 「とてもこんなことに興味を持つタイプには見えないんだけどなぁ」


軽い口調で言いながら、小さな子供にするように、首を傾け覗き込んでくる。


 「怖い…よね?」


素直に頷く。


 「お金、ほしいの?」


頷く。


 「なにか欲しいものがあるの?」


首を振る。欲しいのはものじゃなく、金自体だ。


 「遊びに行きたいところがあるとか」


今度も否定。行きたいのは学校であって、その先の未来だ。


 「なんだか…私が意地悪しているみたいな気分だよ」


そう言って笑うと、彼は立ち上がり部屋を出ていった。呆れられたのか、このあとの打合せでもするのか。あんまり怯えるから中止にしようと言ってくれるかも知れない、いや、そんなことは有り得ない。


怖がりすぎて、もしかしたらそこを追求されるようなことにはならないだろうか。そういう趣味嗜好があることをシンタローも知っている。現に逃げようとすれば無理矢理続行されると聞かされたあとなのだ。自分で自分の首を絞めたかも知れない。どうしよう。


手足を縮め、目は逃げ場所を探し彷徨う。震える体が大袈裟なほど揺れて、極度の緊張に吐き気すらしてきた。


ドアが開くと、その気配に再度飛び跳ねる。情けないと思いながら止めることなど出来なかった。


 「水、持ってきたよ。飲みなさい」


手渡そうとしてくれるコップを、けれど握ることさえ出来なかった。冷え切った指がかじかんだようで、喉からは嗚咽も漏れ始める。


自分はこんなに弱かったのか。もっと強かではなかったのか。


学校では成績もよく、スポーツもそつなくこなし友人にも恵まれていた。尤もそれは弱い自分を見せたくないが為の強がりでもあり、思えば心を開いて誰かにぶつかることなど出来ない性分は既に染み付き久しかった。


見かねたのか、彼はシンタローの手を取ると自分の手を添えながらコップを持たせてくれた。口元で傾けられ、どうにか一口、飲み込む。


 「ゆっくりね」


低い声は穏やかで、急かしているようにも、脅しているようにも聞こえなかった。それが却って自らの情けなさを知らしめるようで眦に涙が浮かぶ。


コップ一杯の水を飲み干すのにかなりの時間がかかった。噎せなかったのは穏やかな声と、いつの間にか回され、優しく背中をさすってくれた掌の所為だろう。


 「…ありがとう」


 「どういたしまして」


空になったコップをサイドテーブルに置き、それからも暫くの間、なにも言わず背をさすってくれる。こんな時なのにそれはひどく優しくて、目を閉じているとまるで記憶の中の父に甘やかされた子供時代に戻っているかのような錯覚を起こさせた。


 「落ち着いた?」


 「…はい」


声を聞けば、それが父ではないことが分かる。現実が蘇る。自分がどこにいて、なにを選んで、これからどうなるのか。


閉じた目を開くのはかなりの勇気が必要だったが、それでもシンタローは一度だけ深呼吸をすると目を開けた。


逃げていては進めない。


自分は決めてしまったのだ。生きるために。


こんなの、なんでもない。


 「…なんでもない」


 「うん?」


呟きを拾われ、居心地悪く身じろぐ。それを感じ、彼は自分の手がシンタローを不快にしていると思ったのか、温かなそれは離れていってしまった。


 「すいませんでした。もう大丈夫です」


 「無理、しなくていいんだよ」


 「平気です。俺、金がいるんです」


顔を上げ、隣の男を見る。真っ直ぐに見詰められるのは目的があるからで、それが疚しいことだと責められようと自分に必要なことであれば後悔はなかった。


誰になにを言われようと、こうするしかなければそれを選ぶ。自らの責任はすべて引き受ける覚悟は出来た。


 「名前はシンタローです。どうしても金がいるから、なんでもするって決めました。だから平気です」


 「そう。でもきみ、嘘を吐いてないかな?」


 「…うそ?」


嘘など沢山吐いている。決意はしても根付いた恐怖心が未だ疼いているのは確かだし、ほかにも幾つかの嘘を重ねここにいるのだ。なにを言われるのだろう。せっかく覚悟を決めたのに、ここまで来て断念させられる訳にはいかない。


 「俺が、どんな嘘を吐いてるっていうんですか」


 「んー、まず、まだ怖いでしょ」


 「はい」


 「素直だね。まあそれは初めてなら当然だろうからいいけど」


楽しげに笑うと、蒼い瞳も一緒に煌めく。綺麗なそれはけれど真摯で、確かに嘘を見抜く力がありそうだった。


 「きみ、シンタローくん。いま、いくつ?」


やっぱり。


 「十八です」


 「こういう仕事は大人にならないと出来ないんだよ。知ってた?」


 「はい」


 「それに、十八以上でも学生はだめなんだよ」


 「…それは、」


 「もう一度聞くね。いま、いくつ?」


たったいままで優しそうだった目が細められ、煌めく蒼が強調される。それは瞬く間に冷たさを湛え、まるでシンタローを凍り付かせるような突き放した色合いへと変わっていった。


 「十、八…です」


それでも繰り返した。繰り返すしかなかった。目を逸らさずに。


 「…そう」


氷の色をした瞳が瞼に隠される。小さな溜息が彼の唇から漏れた。


 「日本人が幼く見えるのは確かだけど、…まあいい」


言って、立ち上がる。


 「そろそろ始まるんじゃないかな。呼ばれたらおいで」


 「はい」


彼が出ていくと全身から力が抜け、思わずベッドに倒れ込んだ。


なんとか切り抜けたが彼は確信しているのだろう。ほかのスタッフに言わないでくれればいいが、耳打ちされれば厄介なのではないだろうか。


 「あの分なら、言わねぇ…よな」


言われたら困る。でも、言って欲しいような。複雑な気持ちで唇を噛む。


 「あー、やめやめ。自分で決めたんだ、自分で!もうどうしようもないのっ、逃げらんねぇの!なるようになる、どうにでもなれってんだ!」


来るなら来い!


ヤケと言われればそれまでだけれど、口に出さずにいられなかった。それに元来の負けず嫌いも作用し始めてきたらしく、だめだと言われれば絶対に引けなくなる。その性格が災いすることも多々あるが、逃げ道を探す隙を自分自身に与える訳に行かないのでいまはこれでいいと思う。


死ぬ訳じゃないし。


もう一度呟き、目を閉じた。例えばこれで、弱みを握られもっと過酷な注文を付けられたとしてやっぱりそれで死ぬ訳ではない。働きに見合う報酬が得られればそれでいいのだ。その先のことはその時になって考えよう。


 「…よし」


拳を握り、とん、と自分の胸を叩く。


 


隣室の物音が、大きくなった。



 
 

 


      きのう、みた、ゆめ


 


 


 


 


 「おいで」


 


ドアが開いて、蒼い目の男が顔を覗かせた。


ベッドに横になったままだったシンタローは、僅かに肩を跳ねさせたが顔は冷静さを装いゆっくりと身を起こした。


笑って、手招いている。


賢しい小動物のような、油断のない目で彼を見詰めながら立ち上がる。帰れと言われないか、そればかりが気になったけれどドアまで、彼の向かいに辿り着くまで言葉を発することはなかった。


安堵と、それ以上の落胆と。


本当は逃げ出したい、まだその気持ちが強く働いている。悔しいけれど簡単に割り切れるはずもなく、唇を噛んだまま彼を見上げた。


 「きみは頭がいいね」


 「…そんなことないです」


 「謙遜は必要ない。愚か者には出来ない目だよ」


 「頭がよければ、いま、ここにいることはないと思います」


遙かに見上げる蒼い双眸が優しく微笑んだ。先ほどの冷たさが潜むと、煌めく蒼は吸い込まれそうなほど澄み切った煌めきで自分を見下ろしている。彼がどう言った人物なのか知らないが、きっと無慈悲ではないだろう。


楽観なのは分かっている。見る者を凍えさせる視線だった。けれどいま、微笑んでシンタローを見下ろす彼は何故かひどく静かで、怯えて竦む体すら溶かすかのようだった。まるで正反対の思いだけれど、確かにそう感じたのだ。


この人は、きっと。


きっと、自分のことを。


その先の言葉は続かなかった。自分でもなにを言おうと思ったのか分からない。それでも信頼出来るような気がしたから、視線は逸らさず見詰め返す。いまの自分に出来ることはそれくらいしかなかった。


ドアの前から体をずらし、シンタローに道を譲る。深呼吸をしてから踏み出した足は、そのまま、寝室をあとにした。


 


 「ああ、ごめんねお待たせ」


 「いえ」


 「えーっとね、待たせついでに悪いんだけど、今日の撮影中止になっちゃった」


 「…え、」


 「ゴメンね、相手役が来られなくなっちゃって。また近いうちに予定組むから、今日のところは帰ってもらえる?」


 「でも、」


 「交通費と、待ってもらった分でこれ。少ないけど取っておいて」


 「でも俺、」


 「こっちから連絡出来ないんだよね?じゃあ…明後日、電話くれる?昼過ぎならいつでもいいよ」


始終にこやかに話ながら、けれど強引に白い封筒を押しつけると、ここまでシンタローを連れてきた男は慌ただしく片付けをしているスタッフの方へと戻ってしまった。


 「取り敢えず臨時収入だね」


ぽん、と肩に手を置かれる。


 「あなたが…なにか、言ったんですか」


 「言ってないよ」


 「だって、相手役ってあなたでしょ」


 「えー、私、アダルト男優に見える?」


それは喜んでいいのか怒ればいいのか。


くすくすと笑っているから、勢いを付けて振り向き、睨む。


 「俺は…どうしても、自分で稼がなきゃならないんだ!」


 「だから私はなにもしてないったら」


 「自分でっ、俺に出来ることならなんだって、っ、」


悔しくて。情けなくて。


 「せっかく、決めたのに…情けなくたって惨めだって、我慢するって、諦めたって、」


決めたのに。


 「まだまだ自分を諦めていいような年じゃないと思うけどなぁ」


苦笑する様が憎らしい。年上だと思って、自分の方が有利だと思って、その余裕。


腹が立ったシンタローは、とっくに自分に対する興味を失っている男たちに一瞥をくれ、未だに笑っている蒼い瞳の男にももう一睨み与えると足音荒くその部屋を出た。


恥ずかしさがこみ上げる。


最低のことをしようとした。それを仕事にしている人々からすればその評価は納得出来ないかも知れないが、シンタローにとっては日の光りの下にあるべきではない行為を人前で、しかも金銭で売り渡してまでも成し遂げると決めたことだ。なにもかも捨て去ることに等しいほどの重みを持ったことだった。


出鼻をくじかれたことで逆上している自覚はある。けれどなけなしの勇気を奮って望んだことなのにあっさり保護にされれば腹も立つ。繰り返すがシンタローは負けず嫌いなのだ。どんなことでも自分の意志を曲げるのはいやだった。負けるのは、もっといやだった。


それなのに。


外に出て、建物を振り返る。


夕暮れが近く、僅かにオレンジがかった日差しが外観を染めていて、それが少し悲しかった。情けない気持ちが寂しさに変わる。


結局、自分には現状を打開する力もないのか。与えられた環境に、どれほど辛くともしがみついていなければならないのか。やりたいことも出来ず進みたい道も選べず、目を閉じ耳を塞がれた状態に甘んじて、これまで通り竦めた首で憧れる世界を眺めていなければならないのか。羨んで。ただ羨んで。


見えるのは、自らの爪先。俯いているから。


そんな毎日を繰り返す、またあの場所に、戻るのか。


 「…くそっ」


建物から視線を外し歩き出す。行く宛はなかったけれど、ここに立ち止まっている訳にも行かない。


友人の家に泊まると言ってしまった手前、帰宅することも出来なかった。それにこんな気分ではどこにも行きたくはない。誰とも会いたくない。惨めすぎて、消えてしまえたら一番いい。消えてしまえたら。


滲む涙を慌てて拭う。なにもしないで泣くなどプライドが許さない。踏みにじられたばかりのそれでも、生きている以上持ち続けなければならないから、だから顔を上げせめて真っ直ぐ歩いていく。どこに向かっているのかは、自分でも分からなかったけれどそれでも真っ直ぐ、真っ直ぐに。


 


 「足、早いね」


背後からかけられた声に一瞬止まりそうになったが、彼のものだと気付いたから意地でも歩みは止めなかった。アスファルトの道をひたすら進む。


 「どこに行くの?家に帰る?」


 「あんたに関係ないだろ」


 「だって、私のこと怒ってるでしょ」


 「当たり前だ」


 「じゃあちょっと話をしない?」


 「話すことなんてない」


 「私にはあるよ。誤解は解いておきたいから」


 「誤解?」


 「怒ってるんでしょ?」


 「別に」


 「いま怒ってるって言ったじゃない」


 「どうでもいいだろう」


 「そうはいかないよ、濡れ衣は晴らさせてもらわないと私も嫌だしね」


なにをゴチャゴチャと。言い返してやりたかったが、どうにもこの男は口数が多い。しかも自分のペースに相手を巻き込む様な空気がある。


歩調は緩めず歩き続けるが、なにぶん彼とはコンパスが違いすぎる。そのうちシンタローの息が上がってきて、しかもいま自分がどこにいるのかも分からなくなり仕方なく足を止め振り返った。


 「何処まで着いてくるつもりだよ」


 「どこまでだろう。あ、そこの喫茶店に入らないかい?」


言ったときには既にそちらに向かって歩き出している。腕は、しっかりと掴まれていた。


 


 


 「あんたみたいに図々しくて強引なやつは初めてだ」


 「私も、きみみたいに強情で可愛い子には初めて逢ったよ」


かわいい?


向かいに座り、嬉しそうに微笑む男はメニューを開きシンタローに勧めながら、自分は既にコーヒーを注文している。長居するつもりはないのでウェイトレスに“ふたつ”と告げるとメニューをテーブル脇のスタンドに戻し窓の外に視線をやった。


仕事を終え、帰宅するサラリーマンの姿が目に付く。我が家へと向かう者がいれば、同僚と飲みに行く者もいるだろう。ごく平凡でありふれた景色。いつかは自分も溶け込む日常。そこに至る道のりは、きっと彼等よりずっと困難なのだろうけれど、本当はそれすら難しい望みだから。


十年後の自分など想像も付かないけれど、ひとつだけ分かっているのはいまより少し、自由になっているだろうということ。あの家を出て、どうにか暮らしているだろうということ。恩を返せと言われ続け、きっとその責務から抜け出せるのはもっと後になるのだろうけれど、それでもいまよりはいい。


いまよりは。


 「いくらもらったの?」


言われて思い出す。ポケットにねじ込んだ封筒は皺が寄っていたが、雑に伸ばしてから中を覗くと一万円札が一枚、入っていた。


 「お金を稼ぐというのは、楽なことじゃないよね」


 「…あんたに言われたくない」


 「うーん、あんた、という呼び名は好きじゃないな」


 「名前も知らないのに呼べるかよ」


 「あれ、名乗ってなかった?」


嘘の名前を名乗れと言った本人がなにを言うのか。


封筒を、本当は捻り潰し捨ててしまいたいそれをけれどそっとポケットに戻す。これは自分にとってはとんでもない大金だ。どんな理由があろうと無駄には出来ない。


 「麻袋のあさ、鬼ヶ島の鬼、水色の水に風と共に去りぬの、去る」


 「………は?」


 「私の名前」


 「随分長い名前でらっしゃるんですね」


 「じゅげむじゃあるまいし」


自分で言って自分で笑っている。流暢な日本語の、蒼い目を持つ男は、なにが楽しいのか本当に嬉しそうに目を細め笑っていた。


ウェイトレスがコーヒーを運んで来ると、嫌味のないさりげなさで礼を言いそれからまたひとしきり笑った。


 「あさき、すいきょ、と読むんだよ」


 「素晴らしい偽名ですね」


こちらは思い切りの嫌味を籠めて言い返す。誘ったのは彼だから、このコーヒー代は絶対に払わせてやろう。そう思いながらカップを手に取り、まだ熱い琥珀の液体をそっと一口だけ啜る。


 「偽名?どうしてそう思うの?」


 「あんたの家に鏡はないのか?」


 「あるよ。身だしなみは大切だからね」


 「それで本気で分からないならいっそすげぇよ」


 「きみ、意外と口が悪いね」


今度も嬉しそうに笑う。白いカップを取り上げる指が繊細に見えた。自分よりずっと逞しいそれが、なぜか優美に見えるのも気のせいではない。


彼の所為で大金が入るあてが消えてしまった。明後日には連絡をしてこいと言われたけれど、果たして自分にもう一度連絡をする勇気があるかと言われれば、正直それは分からない。あれほどの決意を無駄にされたのだ、悲しいけれどかなり挫けた。


 「もうなんでもいいから、誰でもいいから俺のこと買わないかな…」


 「物騒なこと言ってる」


思わず漏れた呟きを拾われ、居心地悪く肩を竦める。本気が半分、嘘が半分。金になるなら本当になんでもするつもりだけれど、世の中は自分が思っているほど甘くはない。それは分かっている。今日、分かった部分も大きい。


 「金がいるんだよ。どうしても」


 「なにに使うの?」


 「なんであんたに教えなきゃいけないんだよ」


 「なんでだろう」


バカにしているのか、本気で考え込んだ男に溜息を吐く。彼は、見かけは紳士だが中身は相当にいかれている。あんな世界にいるのだから仕方ないのかも知れないが、とにかく深入りするのはやめた方がいいだろう。急いでコーヒーを飲み干すと咳払いをし、彼を見た。


 「あんた、さっき俺の年のことしつこく聞いてきたけど」


 「うん」


 「その話、さっきの連中にしたのか」


 「してないよ。どうして?」


 「…別に」


 「私が話していなければ、また連絡して仕事を回してもらおうって?」


 「…関係ないだろ」


 「確かに関係ないけど…十八なんて、嘘だよね」


 「嘘じゃない」


 「嘘だよ。東洋人は私たちから見れば更に童顔に見えるけど、それを除いてもきみの顔はもっと幼いからね。十四か…もっと下か。十三?まさか十二なんてこと、」


 「そんなガキじゃねえよ!」


 「あ、近いね。十一?」


 「下がっていってるじゃねえか!十五だ!―――、あ」


 「やっぱり。その辺りだと思ったよ。中学生だね」


にっこり微笑まれ、浮かしかけた腰が情けなく落ちる。自分が単純なのは知っていたけれど、これほど大きな墓穴を掘ったのは初めてだった。


 「…言いつけるのか」


 「なにを?」


 「俺が本当は十五だって。そしたら仕事、出来なくなる」


 「言わないでくれというなら言わないよ。でも、言ったところで彼等なら聞かなかったことにしてきみを使うだろうけど」


 「え、だって…十八以上じゃないとだめなんだろ?」


 「ああいう業界は違法行為を恐れていては成り立たない部分があるからね。薄々気付いていたって、ばれるまでは“知りませんでした”で通すよ」


 「そんな、」


 「そういうところだよ。きみが考えているような甘いものじゃない」


 「甘くないのくらい分かってる」


 「分かってる?本当?じゃあ今日、きみがさせられるはずだったことがどんなことか本当に分かってるの?」


 「それは、その、…アダルト、ビデオの…」


 「一般的には脚本なんて殆どないけど、今日の撮影には結構しっかりしたシナリオが作られていたんだよ。初めてで、なにも知らなくて、本当は女の子が好きなごく普通の男の子を、薬や道具を使って犯して言いなりにさせて…外にも連れ出す予定があったし、相手は一人じゃなかった」


目が点になる。


 「………うそ…」


 「嘘じゃないよ」


相手役が言っているのだから確かなのだろう。働かない想像力を、それでも少し巡らせ考えてみる。自分がされるはずだったこと。あれも、これも。


 「そ、んな…」


服を脱いで、体を触られて、セックスに近い行為をされる。そう聞いていた。だからきっと最後まで奪われるのだろうという覚悟はしていたけれど、そんなことはまったく聞いていなかった。聞かされなかった。


 「慣れてる子を使うと聞いていたのに初めて見る顔だったし、どう贔屓目に見ても子供だった。確かにシナリオ通りなら初体験じゃないと臨場感は出ないけど、あれだけハードな内容ならベテランじゃないと無理だね。女の子なら本気で再起不能になる」


ペラペラとよく回る口が、かなり残酷なことをなんでもないように語っている。自分の身に起きるはずだったそれを思い、今更ながら震えが蘇ってきた。


 「私が言ったのは年齢のことではなく、まったくの素人のきみを使うことに対する反対さ。作りたいのは娯楽であって、見る側も演技だという余裕と、それをきちんと楽しめる作品だ。この手のビデオではありがちだけど、作り物を如何に本物らしく見せるか、それが出来なければただのアダルトビデオだし、それなら私は手を貸さない」


蒼い瞳が煌めく。冷たくはないけれど鋭いそれに、射竦められたように動けなくなる。


 「子供は子供らしく、自分に出来ることをしなさい。大金を手に入れたい理由はなに?どうしてそんなにお金が欲しいの?」


 「が、…う、」


 「うん?」


 「がっ、こ、う…」


 「学校?」


震えが止まらなくて、唇も、指先も言うことを聞かない。


向かいにいた彼が立ち上がり、隣に腰掛けてきた。そっと回された腕が静かに肩を抱き寄せる。優しく、宥めるようにさする指はやっぱり繊細で見かけとは全然違う。


 「大丈夫。もう大丈夫だから。落ち着いて」


深みのある柔らかな声。


 「落ち着いて。シンタロー」


落ち着いて。


 


 


記憶に残る父の声は、もう随分薄れている。


その笑顔がどんなものだったかも、思い出すまでに時間がかかった。


こんなだったかも知れない。


こんな風に暖かく、自分を包んでくれる人だったかも知れない。


優しく。


しずかに。


 


 


 「大丈夫だから…ね」


 


 


目の前が滲むのは、どうして?


 


 


 


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