「シンちゃん、いるの? 入るよ?」
異母兄の声に、転寝していたシンタローは、もたれかかっていた脇息からはじかれたように身を起こした。未だ開ききらない視界に、几帳をめくって顔を覗かせたグンマの、呆れたような表情がぼんやりと映る。
「誰もいないの? シンちゃん、無用心すぎるよ! こないだ、伊達衆のナントカってのに襲われたばっかりなのに!」
「人聞きの悪いことを言うな。この俺が昼間っからそう簡単に襲われるかってんだ」
起き抜けに嫌なことを聞いた、と蘇芳の小袿を着崩したシンタローは欠伸を噛み殺しながら言う。一方、内裏から下がってきたばかりなのか、未だ深緋の束帯姿のグンマは、「わかってないな」と言いたげにため息をついた。
「本当だったら、女の人ってことになってるシンちゃんの部屋に、僕だってこんなふうに入ってきちゃいけないのに……取次ぎどころか、女房の一人もいないなんて。──ティラミスとチョコレートロマンスはどうしたのさ?」
グンマの小言に、シンタローは億劫そうに返す。
「お前は特別だろ。兄弟なんだから、水臭いこと言うなよ。……ティラとチョコは、こないだその、アラシヤマが入ってきた築地の崩れを直しに行ってる」
「そんなこと……僕に言ってくれれば、仕丁の一人や二人、すぐ貸したのに」
不満そうなグンマに、シンタローは肩をすくめた。
「俺がやれって言ったんだよ。まあ、こっちに不用意に他人を近寄らせたくないってのもあるが……いろいろばれると面倒だからな。別に俺は一人でも大丈夫だし、それにあいつらだって、たまには『自分は男だ』って、実感したいんじゃねえかと思ってさ。──ちゃんと狩衣を着て、力仕事してってな。俺が言うのもなんだけど、親父の馬鹿な遺志のせいで、女装して、自分が男だってばれないように、それこそ女みたいに屋敷に閉じこもる生活させられてるんだぜ? 女房装束を着せられてるってだけでも恥なのに、なんにも知らない奴らにちょっかいかけられたり、言い寄られたりまでして……男としての面目なんて、あったもんじゃねえ。たまには開放してやらないと、おかしくなっちまうだろ?」
「シンちゃん……」
表情を曇らせるグンマに、シンタローは苦笑する。
「そんな顔すんなよ。しょうがねえだろ。親父が娘だって吹聴してた俺が実は男だ、なんて今さら知られるわけにはいかねえんだから。巻き込んじまったティラミスとチョコレートロマンスには悪いが、こういう秘密は、人が関わるほど漏れやすくなるからな。……とりあえず、一族の権力基盤が落ち着くまで、なんとか我慢してやってもらうさ。ルーザー叔父さんやコタローの不利になるようなことは、したくねえからな」
「だけど……本当にいいの? シンちゃんは、それで?」
勧められた茵にふてくされたように座るグンマを無視して、シンタローは手渡された文箱を覗き込んだ。マジック亡き今、屋敷の主であるグンマがわざわざ文使いのようなまねをすることもないのだが、シンタロー側の事情が事情で、本来ならば大勢いるはずの女房も信用できる者を厳選して数を極端に制限しているため、なにか間違いがあってはいけないと、直々に出向いてきたものらしかった。
「……オッサン、また来るのか」
文箱の中に不似合いな酒壺を見つけ、シンタローが忌々しそうに言う。
「うん。僕のところにも別に文が来たよ。月見酒だって」
酒好きのハーレム叔父が、月見にかこつけてグンマとシンタローの住む二条院にやってくるようになったのは、三ヶ月ほど前からのことだ。
それは、二人の父であるマジックの喪が明け、改めて一族の長の座に就いたルーザーの意向で、血族の誰かとシンタローを娶わせることが決まった矢先の出来事だった。都の口さがない野次馬たちは、絶大な権勢を振るったマジック亡き後、さっそく高貴なる一族の権力闘争が始まったのかと、興味津々でハーレムの動向に注目した。マジック最愛の娘を娶るということは、すなわち、マジックの持っていた力の全てを受け継ぐということを意味したからだ。シンタローを男と知る者はごく近い血縁の者と、シンタローの傍近く仕える二人の従者に限られており、マジックの生前からその周囲に近づくものは厳しく制限されていたため、当の二条院に仕える者にとってすら、シンタローは実在するのかどうかさえ定かではない、謎めいた深窓の姫君であった。シンタローが誰と結ばれるかによって、主であるグンマの行く末も変わりかねないと、都中の誰よりも二条院の使用人たちこそが、この訪問のもたらす結末について、固唾を呑んで見守っていたのだ。──その青の一族自体が、当初からこの茶番劇にいささかうんざりしていたことも知らずに。
だが、渦中の人物の一人であるシンタローはと言えば、自分の素性を知っているはずの叔父が、微妙な時期に微妙な行動に出たために、その真意を測りかねて右往左往していた。
常に行動が型破りでとらえどころのない叔父のすることである。単純に酒を飲みに来ただけなのかもしれないが、なにか別の考えがないとも言い切れない。ルーザーとハーレムの関係が良好とはいえないものであることも周知の事実だったから、今回の決定に対して、なにか一悶着起こすつもりではないかとも思われた。
とにかく相手はなにをするかわからない酔っ払いだ。用心するに越したことはないとの結論に達し、ティラミスとチョコレートロマンスを見張り役に、シンタロー自身はこんなときのためにあらかじめ立てこもりやすいように改造しておいた塗籠に身を隠したのだった。
しかし、それはただの杞憂だったと言うべきか──結局のところ、酒宴で酔いつぶれたハーレムが、シンタローのところにやってくることはなかった。
都一の酒豪と評されるハーレムが酔いつぶれるなど、考えられないことだったが、もしかしたらグンマか、グンマの後見役の高松が、気を利かせてなにか薬を盛ったのかもしれないと、シンタローは勘繰っていた。──あえて確認はしていないので、真相は謎のままだが。
拍子抜けするような思わぬ結末のおかげで、奇妙な緊張感をはらみつつも、日常は今までと一見変わりなく続いていくかのように思われた。最初のハーレムの行動が印象的だったせいか、その後の叔父や従兄弟との手紙のやりとりなどは、取り立てて人目を引きもしなかったのだ。──ただ、なにもなかったことの代わりのように、シンタローの心に奇妙なしこりが残ったこと以外は。
……あえて言うならば、それは、さんざん思い悩ませられておいて、結局は肩透かしを食らったことへの、恥ずかしさや苛立ちといったものであろうか。
別にハーレムの方でなにかはっきりしたことを言ってきたわけでも、二人の間に暗黙の了解があったわけでもなく、シンタローが一方的に心配して気をもんだだけのことで、逆恨みと言われればそうなのだが、だからといって簡単に納得して気持ちを収められるわけでもなかった。
少なくとも、シンタローにしてみれば、あんなろくでなしの叔父に対して、少しでも期待めいたものをかけてしまった自分が許せないのである。この先の見えないうんざりするような状況を、あの叔父ならなんとかしてくれるのではないかとかすかな望みを抱いて裏切られた、その八つ当たりも兼ねて、あのときのことをずっと根に持っていたのだ。
「ハーレム叔父様、よく来るよね。この前遊びに来てから、まだ三日もたってないんじゃない?」
三ヶ月前の酒宴以降、ハーレムは頻繁に二条院を訪れるようになったが、毎回飲んで騒いで帰るだけである。警戒することがかえって馬鹿らしいと思えるほどに、ハーレムはシンタローのことを気にしていないように見えた。
「……どうせ、酒目当てなんだろ。でなきゃ、俺の財産目当てか。……一体何回月見するつもりなんだろうな、あのオヤジは」
今日は新月だっつうの、とシンタローは悪態をつく。
この時代、親の財産は娘が相続するというのが普通であった。ゆえに、生前、位人臣を極めたマジックの莫大な財産も、長男のグンマではなく、世間的に一人娘ということになっていたシンタローが全て受け継いでいる。ルーザーがシンタローを一族の者と娶わせようとするのも、実は男であるという秘密もさることながら、この莫大な財産を他の者の手に渡したくないという思惑ゆえでもあるのだ。
「サービス叔父様とキンちゃんからも手紙来てるからね。忘れずにちゃんとお返事書いてよ? あと一応こっちの二人にもね」
榊と松の枝にそれぞれ結び付けられた文を見て、シンタローは呆れたようにため息をつく。
「……あいつらもよく懲りないよな……」
おそらく榊が有力貴族の一人であるアラシヤマのもので、松が青の一族と同等の勢力を持つ赤の一族の一人、リキッドのものなのだろう。
この二人、いつどこでどうシンタローを垣間見たのか知らないが、もうずいぶんと前から言い寄っていて、未だに諦めるということを知らない。シンタローを溺愛して、言い寄る者たちを秘かに闇に葬っていたとされるマジックが、絶大な権力を誇っていたころから生き延びているのだ。代替わりして未だ権力を掌握しきれていないルーザーが一族との婚姻を決めた程度で、引き下がるはずもなかった。
「こっちの二人のは、適当でいいから、今すぐ書いてくれるかな? あとで高松が害虫撃退の薬をふりかけて送るから、先に欲しいんだって」
「……あ、そう……」
明日の二人の惨状を思うと今から気が遠くなるシンタローだったが、ここで情けをかけてもさらに泥沼化するだけである。なるべく二人のことは考えないようにして、手近な紙にどうとでもとれるような曖昧な歌を書きつけ、さっさとグンマに渡した。
「サービス叔父様とキンちゃんのは、また後ででいいから。ティラミスかチョコレートロマンスに持たせてよこしてね」
「……オッサンのはいいのかよ」
「ハーレム叔父様には、今夜の宴のこともあるから、僕の方から出しておくよ。シンちゃんは、前のときに返事書いたばっかりだから、今回はいいんじゃないかな?」
頻繁に返事を書いて、こちらが気のあるような素振りをするのもどうかとグンマは言う。
「別に、ハーレム叔父様に対してどうこうっていうんじゃなくてさ……。どうせ、これは全部世間の目を欺くお芝居なんだから、変に野次馬を喜ばせるようなことするのも、癪だなって思わない?」
「……そうだな……」
シンタローはため息をつきながら、サービスの手紙を取る。
「うちの馬鹿親父のせいでサービス叔父さんにもいらん迷惑かけちまって、本当申し訳ないよな……」
サービスの手紙は、一応恋文の体裁を取ってはいるものの、中身はこちらの様子を心配し、気遣うような内容のものだ。
マジックの死後、信頼していた長兄が堂々と隠していたとんでもない事実が明るみに出、ひどく驚き、動揺もしただろうに、シンタローのため、なにくれとなく心を砕いてくれるサービスを思うと、自分の置かれたこの異常な状況のことなど、実に些細なことであるかのように感じられてしまう。
ルーザーは、懇意にしている弟のサービスや、自分の息子であるキンタローとの婚姻を望んでいるようではあるが、シンタローは、少なくともサービスにはこれ以上の心労はかけられないと考えていた。
「……あの繊細な叔父さんに、俺と結婚してくださいなんて言えるわけねえだろ……」
「そんなこと気にしないで言うだけ言ってみたら? サービス叔父様も、意外とまんざらでもないかもよ?」
「……いや、あの美貌の叔父様の御尊顔が連日傍近くにあったりしたら、俺の神経が持たない」
「じゃあ、キンちゃんにするの?」
「……キンタローねえ……」
シンタローは、それぞれが季節の植物に結び付けられた恋文とは違う、いやに慇懃な雰囲気の立て文を手に取った。
立て文とは、手紙を礼紙で縦に包んだもので、正式な文書という面がある一方、恋文であることを隠す場合などにも使われる。だが、キンタローがシンタローに恋文をこっそり送る必要はない──むしろこの状況では、その方がおかしい──わけで、キンタローの性格から察するに、正式な結婚の申し込みの手紙という考えからの立て文なのだろうが、この場合のそれは、かえってよそよそしい態度と思われかねなかった。──言うなれば、シンタローと結婚などしたくないのだが、世間体もあるし父親にも言われたので、とりあえず形だけ手紙を出してみる、というような。
手紙の内容も、使っているのは恋文に使われる仮名ではなく真名で、これは公文書かと勘違いしそうな硬い文章が続く。これを仮に普通の女性に出すのだとしたら、十中八九、最初の手紙で断られるのがオチだ。
「……なあ、キンタローは、なにを考えてこの手紙を書いてんだろうな……?」
「ああ、キンちゃんはね、一族の義務とか責任とか背負い込んだ気になってんじゃないの? シンちゃんが本当は男だって知ったときと、それなのに女の子の成人式である裳着をするって聞かされたとき、すごくびっくりして落ち込んでたもん。大好きなシンちゃんが大変なことになってるから、自分がなんとかしなきゃ、って思っちゃったんじゃない。ルーザー叔父様もいろいろ発破かけてるみたいだしさ」
「……それはそれで気が重いな……」
一族の者との婚姻が一番無難なのはわかっているのだが、どの相手も一長一短で決め手に欠ける。
「いっそのこと、ルーザー叔父様と結婚しちゃえば? そもそも言い出したのが叔父様なんだしさ。そうすれば、シンちゃんが受け継いだお父様の財産もルーザー叔父様のものになって、当主としての基盤も磐石になるだろうし、ちょうどいいんじゃない?」
「……そうすっと、俺がキンタローの義理の母親で、なおかつお前の義理の叔母になるんだぞ? オッサンや叔父さんと義理の姉弟ってことになるんだぞ!?」
それでいいのかよ、とシンタローはグンマを睨む。
「……んん、僕や叔父様たちはともかく、キンちゃんは承知しないだろうね」
「そうだろう?……それよかむしろ、俺としてはお前と結婚するのが一番手っ取り早いんじゃないかと思ったりもするんだけどな──」
思っても見なかった申し出に、グンマは驚いて目を見張った。
「ええ? 僕と!? だって僕たち、兄弟だよ?」
「だからかえって気安いんだよ。要するに、俺が男だって世間にばれなくて、親父の遺産も他所に渡らなけりゃいいんだろ? だったら親父の長男で、ずっと一緒に暮らしてたお前が一番の適任じゃないかよ。他の血縁の奴らとだと、遺産はともかく、どうしたって人の出入りが激しくなって、秘密を守るのも難しくなりそうだし──それにお前なら、ルーザー叔父さんの信用もなぜかあるし、一応後見人の高松もいるしな」
いざとなれば、気心の知れた使用人も含め、大きな力になるだろうと言うシンタローに、グンマは難しい顔で考え込んだ。
「……でも、兄弟──世間的には兄妹か──ってのを、どう言い訳するのさ?」
「そこをなんとか……実は養女で、とかさ」
どうせお芝居なんだから、なんとかならないかな、と言うシンタローに、グンマは首を傾げる。
「んん……そりゃあ、『実は男でした』ってのよりは衝撃は少ないかもしれないけどさ」
「そうだろ?」
「でも、シンちゃんが世間的に女だって思われてるってことは、変わらないんだよ? 僕は、結局のところ、そこが一番の問題じゃないかと思うんだ。自分勝手なお父様が生きてたころならともかく……こんなこと、いつまでも隠しておけるものじゃないって。一時的に隠せはしても、この先、絶対に綻びができるよ。だから早めになんとかして、シンちゃんが男として、堂々と皆の前に出て、暮らせるようにした方がいいって思うんだ」
「……」
「それに、養女ってことになると、血筋とか、遺産相続とか、どうなるのかなあ……。それに今更、そんな余計に事態をややこしくするようなこと、ルーザー叔父様が許すと思う? とりあえず世間体第一で、シンちゃんに裳着までさせて、一族の者と結婚させるって決めちゃったのに?」
「……ああ、もう、面倒くせえなあ!」
グンマの反論に、シンタローは苛立ったように髪をかき回した。
「……いっそのこと、俺が本当に女だったら良かったのにな」
本当の女だったなら、こんな一族の厄介者ではなく、もっといろいろ役に立つことができたのに、とシンタローはつぶやく。
「……そう言えばさ、シンちゃん」
「ん?」
「シンちゃんって、どうして女の子として育てられたちゃったわけ?」
「……あれ、お前、知らないんだっけ?」
「知らないよ。そんなの全然、聞かされてないもん。シンちゃんが男の子だって初めて知ったのだって、お父様が亡くなったときだよ?」
そもそもの原因を確かめずにいたと言うグンマに、シンタローは唖然とする。
「……その割には、お前、当たり前みたいに受け入れたよな。キンタローなんて、驚きすぎてしばらく音信不通になったのに」
シンタローが感心したように言うと、グンマは首を傾げた。
「だって、シンちゃん、裳着したの遅かったからね……だから、あんまり『女の人』っていう認識がなかったっていうか……。その裳着だって、男だってわかった後にしたわけだし」
この時代、高貴な女性は人前に姿を現すことは決してない。例え兄弟でも、話をするときには間に几帳を立てたり、場合によっては女房に取り次がせたりする。女性の姿を見られる者は、異性では、親や夫、恋人に限られるのだ。
だが、それはあくまで成人した男女に関してのことで、子供にはその禁忌はない。その区別は男ならば元服、女ならば裳着と呼ばれる成人式にある。言うなれば、その成人式を終えていないのなら、いくつになろうが子供のままということで、だれに顔を見られようがかまわない、という理屈が成り立つ。
「これが、もしお父様が存命中で、僕がなにも知らないうちにシンちゃんが裳着をしてさ、昨日まで気軽に顔を見せていたのが急に見られなくなったりしたら、シンちゃんを『女の人になっちゃったんだ』って意識したかもしれないけど。でも実際はそんなことにはならなかったし、裳着を終えた今だって、『どうせ男同士なんだから』って平気で顔突き合わせているわけでしょ? ティラミスとチョコレートロマンスも『どうせ兄弟なんだから』って全然気にしないし。……だから僕としては、そんなに前と変わったことがあるような気がしなくて……」
「……そんなもんなのかな」
「でもまあ、僕の場合、シンちゃんと一緒に暮らしてるからね。キンちゃんとは話が違うよ。キンちゃんはずっと、シンちゃんのことが好きだったんだから」
「……キンタローの趣味も悪いけどよ、奴には本当、可哀想なことしちまったよな……」
いくら女の子として育てられたからと言って、シンタローの中身までがそのように成長したわけではない。むしろ女の子らしからぬがさつな乱暴者で、事情を知らなかった叔父たちに、グンマと中身が入れ代わって生まれれば良かったのにと言わせたくらいだ。
シンタローにしてみれば、そんな女に惚れるなよ、と言いたいところなのだが、事実を知ったときのキンタローの落ち込みようを見てしまえば、そんなことを軽々しく口にするわけにもいかない。
「……それで、結局、シンちゃんはなんで女の子でいることになったわけ?」
昔を思い出して遠い眼をするシンタローを、グンマが引き戻した。
「あ、ああ……その話だったな。……グンマ、お前、俺の母親がすげえ迷信深い人だったってこと、知ってるだろ?」
シンタローの言葉に、グンマは頷く。シンタローの母親は二人が物心つくころにはすでに亡くなっていたが、その奇矯な人となりは数々の昔話からなんとなく聞き知っていた。
「その母さんがさ、俺を産んだとき、お告げがあったって言うんだ」
「お告げ?」
突拍子もない言葉にグンマが驚くと、シンタローも決まり悪そうな顔をした。
「ああ。……なんか胡散臭い感じがするんだけど……とにかくそうだったらしい。俺を女の子として育てなくてはいけないって」
「……ふうん……それで?」
「親父は、最初は信じなかったって言うんだ。どっちかって言うと、そういうの嫌いな方だし」
「うん、そうだね」
「だから、母さんの言うことを無視して普通に育てようとしたらしいんだけど──そのことで、母さんとずいぶん口論になったりもしたらしいんだけど、聞かないでいたら、そのうち母さんが産後の肥立ちが悪くて死んじゃって」
「……」
「親父は、そのことがよっぽど堪えたとかで……。こんなことになるんだったら、母さんの最後の望みくらい、叶えてやればよかったって思って──もしかしてそのお告げのことを無視したから、母さんが死んだんじゃないかとまで思いつめたらしくて。それで──」
「それでシンちゃんのことを、改めて女の子として育てることにしたってわけ?」
「そう、らしい」
「……」
「……」
「……シンちゃんには悪いけどさ、この話にはなんだかすごく、裏があるような気がするんだけど」
「……やっぱり……? 実は、俺もそう思う」
二人は顔を見合わせて渋い表情をした。
「あの計算高いお父様がだよ? そんな絵物語みたいなこと、すると思う? 絶対なんか戦略立ててたに違いないよ」
「だよな。むしろ、母さんの迷信深さを、かえって利用してそうだよな。母さんの異常な物狂いの半分──いや、三分の二くらいは、親父が捏造して都合のいいように使ったものなんじゃねえの」
もはや故人となった実の親に対し、見も蓋もないことを二人は言う。極端な話、没落貴族の姫と大臣家の子息の恋という、当時有名だった両親の御伽噺のようななれそめに対してすら、身寄りも後ろ盾もない女を妻にして他家の余計な干渉を避けるためだろう、とか、相手の女に恩を着せ、文句を言わせないようにするためだろう、とすら思っていた。
「僕が思うにさ、お父様は、一族に姫がいないことを気にしてたんじゃないかな」
この時代の権力とは、娘を天皇に嫁がせて皇子を産ませることにある。だが、グンマやシンタローが生まれた当時、天皇家には直系の男子がおらず、女帝による一代限りの皇位継承が続いていた。
「天皇家は男系だから、いくら青の一族が男子に恵まれていて、女帝と結婚できても、その権力は次に続かない。女帝がお隠れになったり、代替わりしちゃえばそこで終わり。それに、女帝擁立は一時的なもので、いつまでも続くわけがない。──でも、一族には天皇に嫁がせるための姫がいない」
「……それで、賭けにでたって?」
「そう。……ええと、ちょっと待って……そのときのことを整理してみると……。シンちゃんが産まれたとき、帝は女性で、青の一族の男性がその伴侶だった」
「そして、天皇家には当分、男子が産まれそうな様子はなかった」
「お父様は、先のことを考えて、今度産まれてくる子──シンちゃんが、女の子であればそれでよし、よしんば男の子でも、女の子として育ててみるべきかどうか、検討し始める。でも、この無茶な計画を実行するにあたり、さすがのお父様にもかなりの躊躇いがあった」
「……その決心がつかないうちに、俺が産まれ、母さんが死ぬ」
「そのときにお父様は決めたのかもしれない。青の一族には女は滅多に産まれない。天皇家にも今は男子の産まれる気配はない。そしてシンちゃんはまだ産まれたばかりで、その性別を知る者はごく限られた者だけだ」
「……それが、どうして俺を女として育てようということになる?」
シンタローの言葉に、グンマは奇妙に悟り済ましたような微笑を浮かべた。
「……結果的には、お父様は賭けに勝った、というべきだろうね……お父様が死んで、全ては無駄になってしまったけど」
「……親父が生きてたら、俺はやがてパプワのとこに入内することになったろうって?」
「そう」
グンマが頷くと、シンタローは不快そうに眉をひそめた。
「……年齢差を考えてみろよ。パプワが元服するころ、俺はどう少なく見積もっても三十にはなってる。それでもか?」
「その年齢差こそが、重要なんじゃないかと僕は思うんだ。パプワくんは赤の一族の血を引いているから、権力を保持し続けるためには、青の一族はどうしても姫を入内させなければならない。シンちゃんは実際は男で、本当ならとうてい入内なんかできっこないんだけど、一方のパプワくんは子供で、入内したからってすぐに男女の関係になるわけじゃない。シンちゃんは入内するんなら女御として遇されるから、人前に姿を現すこともない。それなら信用できる女房さえきっちりそろえておけば、事実は絶対にばれない」
「……最初のうちはそれで誤魔化しても、パプワが大人になったら、どうするんだ?」
「そのときには、シンちゃんの年齢がものを言うんだよ。『もう齢だから、添い伏しはできません』って」
「……それで上手くいくと思うか……?」
「お父様なら平気で口出しもするだろうからね。無理やりにでも思い通りにしただろうね。……もっとも、パプワくんを見てると、さすがのお父様でも難しかったかもなっては、思うけど」
「……その計画が実行に移されなくて、本当に良かったと思うぜ」
もしものことを想像してか、げんなりとしてシンタローは言った。
近い将来、元服と同時に即位することになるだろうパプワは、今はまだ袴着を終えたばかりの子供ではあるが、すでにしてその非凡の才の片鱗を見せ、周囲を驚かせているという。
「……でも、惜しいのは惜しいんだよな。パプワの次はコタローが帝位に就くんだろ? 俺が入内できたんなら、それまでの橋渡しにもなったのに」
「それはもう、言ってもしょうがないね……ルーザー叔父様にはたぶん、そんな度胸はないよ」
「あの人、頭はいいんだけどなあ」
「お父様の死も、突然のことだったからね。今は一族を取りまとめるので、一杯一杯なんじゃないの。だからシンちゃんのことも、一族内でこっそり片付けちゃうことに決めたんじゃないかと思う。叔父様らしからぬ胆略的な考えだったよね。上手くすれば、赤の一族との均衡を保つのに使えたのにさ」
「……グンマ……お前って」
「赤の一族で、シンちゃんに言い寄ってるやつ、いたよね。ナントカっての。あいつ馬鹿っぽいから、上手く言いくるめてシンちゃんと結婚させちゃえばさ、赤の一族との伝手もできて、いろいろ便利だったのに。ねえ?」
「……俺は時々、お前が一番当主に向いてるんじゃないかと思うときがあるよ……」
親父そっくり、とシンタローが呟くと、いやだなあ、とグンマは顔をしかめる。
「僕は権力なんてものに興味はないよ。あんなののどこが面白いのか、ちっともわからないもの」
「……いいよ、お前は別に、そのままで……。好きな学問でもやっててくれよ。その方が平和だから」
シンタローが投げやりに言うと、その意味を理解しているのかいないのか、グンマは柔らかく微笑んだ。
「そうだね。早くいろんなことが落ち着いて、前みたいに皆でのんびりすごせるようになるといいのにね」
お父様がいなくなってからこっち、つまらない人付き合いばかりが増えて、すごく面倒なんだ、とぼやくグンマには、栄華の頂点にある一族の面影は、ほとんどない。
自分たち兄弟は、結局父親のようには、父親の望んだようにはなれなかったな、とシンタローは思う。二人を溺愛していたマジックが、そのところを実際にどう思っていたのかは、もはや知りようがないのだけれども。
とはいえ、一族のこれ以上の繁栄は望まずとも、その凋落を招きたくないのは二人とも同じだった。叔父たちや従兄弟が悩み苦しむ姿など見たくもないし、それ以上に何百人といる使用人たちを路頭に迷わせるわけにはいかない。
だが、それを防ぐ手立てがあるのだろうか、と思うと、シンタローは押し黙るしかなかった。ルーザーのするように、自分が一族の誰かと結婚して済む問題ではない分、不安は余計に募る。
いつの間にか、世間話や中断している学問の話をし始めているグンマに適当に相槌を打ちながら、先の見えぬ現状に対し、シンタローはこっそりとため息をついた。
--------------------------------------------------------------------------------
(05.12.15.)
PR