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 静まり返った室内に響くのは、一つだけともされた行灯の傍で紙を手繰る乾いた音のみであった。行灯の灯りはマジックの周りを照らすのみで、数尺も離れれば墨を流したかのように昏い。
 したためられた文字をすべて読み終わったのか、帳面を閉じたマジックは相対する闇に向かって声を掛けた。
 「これが、お前の報告かね」
 「……そうどす」
 と、闇の中、気配が動いた。
 「理由は花魁への怨憎による殺人、使用された刀は備前三郎国光の業物であり、百姓身分出身ながら生来剣術を好んでいた下手人次郎右衛門が懇意の浪人都築武助から譲り受けたものである、と」
 「何か、不審な点がおますか?」
 「不審なところはないよ。確かにあの刀は備前国光だしね。――ただ、お前は次郎右衛門が剣術を嗜んではいないと見立てたはずではなかったか?」
 「わての勘違い、どしたら?」
 相手の様子を探るような物問に、マジックは腕を組み、闇を見据えた。
 「一体、何が云いたい?……これは何の筋書きだ?」
 静かな声音に、闇の中の気配は少し乱れたがすぐに治まった。
 「……次郎右衛門の太刀筋は、怨みが強すぎたあまりあのような素人離れしたものとあいなったかと思われます。御奉行様、何とぞ、次郎右衛門の刑を獄門ではなく下手人としてはいただけませぬか?」
 と、絞り出すような声が聞こえた。
 「刑を下手人とするよんどころない事情とは、報告書に書いてあったいきさつか?」
 「左様でござります。万一、刑の変更の事由を問われました際には、刀は備前国光ではなく天下に仇なす妖刀村正であった、次郎右衛門はその魔力に惑わされ今回の事件を引き起こしたと……。どれほど馬鹿馬鹿しい筋であっても、公儀と関わること。それ以上追求はされへんはずどす」
 「獄門は、変えられない」
 マジックははっきりとそう告げた。
 「なんでどすかッツ!!獄門にしろ下手人にしろ、どちらにしろ次郎右衛門が死ぬことには変わりはないんどすえ!?同じ死ぬんやったら、これ以上人前にさらして恥辱を与えんでも充分ですやろ!?」
 ほんの一瞬、殺気が走ったが、マジックは動じなかった。
 「――次郎右衛門は、何の罪もない下女をも斬った。次郎右衛門と同様、下女にも家族がいたであろう。お前も重々分かっているとは思うが、償いとはそう簡単なものではないんだよ」
 応ずる声はなかった。
 「ただね、お前やトットリからの報告から考えると、次郎右衛門は斟酌されるべきところもある。獄門には変わりはないが市中引き回しはやめておこう。ただし、千住に首はさらすよ」
 「――御厚情ありがとうございます」
 そろそろ行灯のろうそくも燃え尽きかけているのか濃度が増した闇の中、低く声がした。
 しばらくのち、室内は完全に闇になった。
 呆れた様子でもからかう様子でもなく、
 「それにしても、お前は少し変わったね。でも、情というものはそう悪いものでもないよ」
 マジックはそう呟いて部屋を退出した。
 ずいぶんと時が経ってから、
 「……別に、情にほだされたわけやおまへん。ただ、とんでもない阿呆やとあきれかえっただけどす」
 部屋に取り残された闇が、ポツリと言葉を発した。
 

 「――今日で、わてがあんたはんの不細工な面を見るのも最後どす」
 穿鑿所の床に座ったアラシヤマがそう云うと、次郎右衛門は深々と頭を下げた。
 「そないにかしこまらんでもええわ」
 そう声をかけても、次郎右衛門はこれまで同様いっこうに体を起こさないのでアラシヤマは溜め息を吐いた。
 「――お役人様、今までわしにご親切にしてくださりまして本当にありがとうございました」
 「別に、礼を言われるような筋合いはおまへんし、頭をあげなはれ」
 そう言うと、次郎右衛門は真面目な顔で体を起こした。
 「あんさん、顔色が尋常やおまへんけど、やっぱり死刑のことが心配どすか?一応、死ぬ前にさらしもんにはなりまへんからナ」
 次郎衛門はくしゃりと顔を泣きそうに歪ませた。
 「――御温情、いたみいります」


 「何やまだ言いたいことがあるんとちゃいますの?この際、言わはったらどうどす?」
 去り際、アラシヤマがそう声を掛けると、次郎右衛門は躊躇したが、
 「――夢を、見るんです」
 と、おずおずと言葉を口にした。
 「夢どすか?」
 「はい。わしが殺した下女や迷惑をかけたお方々が、恐ろしい顔で毎夜わしを責め立てにまいります。ですが、八橋だけは、わしの夢には現れない」
 次郎右衛門は憔悴した痘痕面に、笑顔を浮かべ、
 「恐ろしい夢でも幽霊でもいい、死ぬ前にもう一度、八橋に会いたかったナァ」
 といった。


 アラシヤマが小伝馬町の牢屋敷を出たころ、時刻は宵五つを過ぎており、あたりはすでに暗かった。
 (なんや、えろうすっきりしまへんなぁ……。後味が悪い、とはこんな感じでっしゃろか)
 うつむき加減にアラシヤマはのろのろと本石町を歩いていたが、いつしか川辺に出た。
 立春はすでに過ぎているとはいえ寒い夜半、御堀の周りに涼みに出ようとする酔狂者などいるはずもなく、先ほどからすれ違う人影も見当たらなかった。
 暗い川沿いを南へと進むと、香ばしいにおいが風に乗って漂ってきたので、アラシヤマは自分が空腹であることにはじめて気づいた。
 (日本橋で、何か食うて帰ってもよろしおすな)
 顔を上げると、一石橋かと思われる方向に明かりが見えた。
 近づいてみれば、よしずを立て巡らせた簡素な居酒屋のようである。少し焦げたような香ばしいにおいはいよいよ強くなり、どうやら何か焼物を食わせる店らしい。
 (面倒どすし、ここでええわ)
 と、よしず張りの入り口を一歩入ると、若い男客が一人縁台に腰かけ、熱燗をのんでいるようであった。
 アラシヤマは何の気なしにそちらに目をやると、心臓が止まりそうになるほど驚いた。
 よくよく見知った、人物であった。
 「し、シンタローはん……」
 思わずしゃがれた声でそう呼ぶと、長い黒髪を一つに括った青年も顔を上げた。
 不審そうに深編み笠を被ったアラシヤマを見た後、
 「なんだ、テメェか」
 と言った。


 「なに食べてはんの?」
 ちゃっかりとシンタローの隣に腰かけたアラシヤマがそう聞くと、
 「田楽」
 と、ことば短かにシンタローは答えた。
 「美味そうどすな。ほな、わてもそれにしよ」
 油紙を揉んだかのようなしわくちゃ面の親仁にアラシヤマが田楽を注文すると、ほどなくして大ぶりの豆腐と蒟蒻にそれぞれ青竹の串を二本ずつ刺し、味噌を塗って焼いたものが出てきた。味噌には擂った柚子の皮が練りこんであり、口中に柚子のさっぱりとした風味の広がる田楽は、店の親仁が一工夫こらしたものらしい。
 どちらから話し出すというわけでもなく、シンタローは黙って燗酒を飲み、黙々とアラシヤマは田楽をほおばっていたが、シンタローはいつもと違って軽口をたたかないアラシヤマを不審に思ったらしく、
 「なんかオマエ、いつもにもまして陰気だナ」
 といった。
 アラシヤマは串を置いた。
 「あの、シンタローはん。遅うなりましたが、明けましておめでとうございます。今年は新年の挨拶周りにも行けへんでまことにすみまへん。もちろん、今年もよろしゅうお願いしますえ」
 「明けましてもなにも、今は如月じゃねーか」
 「あっ、もしかして、あんさん寂しゅうおましたか??」
 「いや、全然。つーか、鬱陶しいテメーの面を見なくてすんで、むしろ清々しい正月だったけど?」
 「はぁ、そうなんどすか…」
 いつものように騒ぐわけでもなく、アラシヤマは一瞬苦く笑んだだけで、ふたたび無言で豆腐の田楽を食べ始めた。


 「……あの、もしあんさんやったら、自分の嫌いな相手のとこへは例え夢にでも出とうない、って思いますか?」
 と、アラシヤマは茶が半分ほどになった湯飲みを置き、口を開いた。
 (さっきから何なんだ、コイツ!?)
 シンタローはそう思ったが、アラシヤマはひたすら答えを待っているようである。
 仕方なしに、
 「――どんだけソイツを嫌ってよーが、夢は見る側の勝手で、俺がどうこうできるモンでもねぇダロ?まぁ、ムカつくかもしんねーけど」
 と、云うと
 「――ああ、あんさんの云わはるとおりどすナ」
 そう、アラシヤマは呟いた。
 ふと、シンタローは隣に座っている男が自分の知るアラシヤマとは全く別の人間のような気がした。酒のせいかと思いつつ、確かめるようにアラシヤマの方を見ると、
 「……シンタローはんが、潤んだ目でわてのことを見つめてはる~vvv」
 と、しまりのない笑顔で嬉しそうにアラシヤマが言ったので、気のせいだとシンタローは了解した。
 自分はシンタローに会えなくてものすごく寂しかったなどと調子にのった様子で力説するアラシヤマを見ていると、
 (すげー、ムカつく)
 と、だんだん腹が立ってきたので、シンタローはアラシヤマを殴ろうかと思ったが、狭い店の中では迷惑がかかるかと思い直し、
 「あっ、何しはるんどすかッ!?シンタローはん!」
 アラシヤマがどうやら手をつけずにとっておいたらしい、豆腐の田楽を皿からとって頬張った。
 「それ、わての……。わざわざ楽しみにとっといたんどすえ??」
 なんだか非常に情けなさそうに肩を落として言うアラシヤマを見て、シンタローは少しは溜飲が下がる思いがした。
 「バーカ!油断する方がわりぃーんだヨ!」
 笑いながらシンタローがそういうと、
 「まったく、あんさんには敵いまへん」
 アラシヤマもつられて苦笑した。


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 アラシヤマは奉行所を出て、小伝馬町の牢屋敷へと向かっていた。
 本銀町のあたりでは、襤褸着を身につけ編み笠にウラジロの葉をさした節季候二人が、家々の前で大いに騒いでいた。
 竹製のササラをすり合わせ、太鼓を打ち鳴らしながら
 「エー、せきぞろせきぞろ、さっさござれやさっさござれや」
 とがなりたてるもので、銭をもらうまで一向に帰らない。
 (五月蝿うおます……)
 アラシヤマは、一本筋を変えた本石町に足を向けた。本来なら春の訪れを告げる十二月恒例の一風景であったが、浮かない心持では癇に障った。
 ほどなくして小伝馬町牢屋敷に着いた。高い練塀には鉄製の忍返しがつけられ、周囲には6尺ほどの堀がぐるりとめぐらされており、いかにも物々しい。
 すでに奉行所から話は伝えられてあったらしく、アラシヤマが名乗ると穿鑿所に通された。
 (尾羽打ち枯らした、といった案配どすな。この前は獣みたいやったけどまだ生気がある分マシどしたわ)
 部屋の中に座っている痘痕面の男の着物は垢じみ、月代も伸び放題の薄汚れた風体であった。ひどく殴られたようなアザもあり、吉原にてお大尽ともてはやされた面影はもはやどこにも見あたらない。
 アラシヤマが部屋に入ると次郎右衛門は平伏したが、
 「別に、そないかしこまらんでもよろしおますえ?」
 と声を掛けられると、のろのろと顔を上げた。目は目前にいるアラシヤマを捉えている様子はなく虚ろである。しだいに首がうなだれ、下を向いた。
 どれほどの時間が経過したものか、穿鑿所の板の間には茜色の西日がじわりと差し込み始めた。
 「もうあんたはんに残された時間はそうはおまへん。わてはどうあっても真相を聞きださなあかんのや。…何度でも来ますさかいな」
 そう言ってアラシヤマは立ち上がった。
 次郎右衛門は、依然としてそのままの姿であった。


 (何を聞いてもなしのつぶてどすなぁ……。拷問の方が手っ取り早いんとちがうやろか?いや、やっぱりあれは拷問でどうにかなるものやない。次郎右衛門は生を諦めている)
 いよいよ年の暮もさしせまった頃、穿鑿所の玄関を出たアラシヤマは息を吐いた。マジックからいわれたものの、一向に事態が進展する様子はなかった。
 表門をくぐると、門番と何やらもめている商人らしい男がいた。地方から出てきたものか、言葉になまりがある。
 「どうか、兄に合わせてくださいまし!」
 男は必死で門番に取りすがっていたが、とうとう邪険に振り払われた。
 (一体何の騒ぎどすの?愁嘆場には関わりとうおまへんなァ)
 アラシヤマはなるべく急ぎ足でその場をとおりすぎようとしたが、勢いあまって地面に転がった男は門から出てきたアラシヤマを見ると、跳ね起きて駆け寄った。
 「お役人様!お聞きくだされッ!わたくしの兄が花魁殺しで捕まるとは何かの間違いでございます!!」
 アラシヤマが振り返ると、顔面に痘痕こそないものの、次郎右衛門に良く似た面相の男が立っていた。
 「兄とは佐野屋次郎右衛門のことか?そのもと、次郎右衛門の縁者か?」
 「左様でございます……」
 男は、大慌てで居住まいを正し、地面に平伏した。
 「―――ほなまぁ、十軒店の蕎麦屋ででも話を聞きまひょか。あっ、言っときますけど、勘定は割り勘どすえ?」
 京言葉がめずらしかったものか、武士がくだけた口調で話したことに驚いたものか、男は深編み笠を被ったアラシヤマを胡散臭げに見上げた。


 正月も明け往来もすっかり通常の賑わいを取り戻した頃、アラシヤマは穿鑿所におもむき次郎右衛門と対面した。
 「あけてもめでとうはおまへんやろけど、あんさん、こざっぱりしましたナ」
 アラシヤマのいうとおり、次郎右衛門は月代も剃り全体的に身ぎれいな格好をしていた。何より、目に生気が戻っていた。
 「ありがとうございます。お役人様におかれましては、よいお年となりますよう」
 手をつき、頭を下げた。
 しばらく次郎右衛門は迷っている様子であったが、
 「……弟に会わせてくだすったり弟にご助言いただきましたのは、お役人様のおはからいでございましょうか」
 とアラシヤマにたずねた。
 「わての、というわけやおまへんけど。あんたの弟はんはいらちどすなぁ。蕎麦、三口で呑み込みましたえ?」
 「弟は昔から落ち着きのない子どもでしたが、今では立派に佐野の炭屋の主人をつとめております」
 「佐野の炭屋はあんたはん一代で築き上げたものやそうどすな。やっかみや妬みもそらぎょうさんあるやろけど、土地での評判はええもんやて聞きましたえ?どうして、分別も道理も十分にわきまえたあんさんが、傾城を殺さはったんどすか?」
 次郎右衛門は目を閉じ、しばらく考えた末、
 「わたしが狂人だから、ということでご納得できませぬか?」
 と言った。
 「納得できへんナ。アンタは狂うてはいない。自分自身、よう分かってますやろ?」
 アラシヤマは、声低く、男を見た。
 次郎右衛門は、答えなかった。



 
 朝の間に降った牡丹雪が穿鑿所の屋根に薄く積もっていたが、ようやく雲間から出た日に照らされ、軒先からは雫が数珠球のように連なって落ちている。
 穿鑿所の玄関では深編み笠の侍が高下駄を脱いでいた。


 「あんたはんの弟どすが、また江戸に出て来てますえ?今度は奉行所に押しかけてきたそうや」
 すっかり見慣れた痘痕面の対面に腰を下ろすなりアラシヤマが苦々しげにそう言うと、次郎右衛門は困った表情を浮かべた。
 「店の主人が商売を放ったらかして、大丈夫なんどすか?商売はそないに甘いもんやないんとちゃいますの?」
 アラシヤマは懐から帳面のような紙の束を取り出し、次郎右衛門の前に投げた。次郎右衛門がアラシヤマを見るとアラシヤマが頷いたので、彼は紙の束を手に取った。
 「これは……」
 「あんたはんを助けるための嘆願書どす。佐野の連中に頼んで書いてもろうたみたいどすが、あんたはんの死刑は正式に決まったことで、今さらどうにもならんことどす」
 次郎右衛門は穴の開くほど嘆願書を見つめていたが、アラシヤマの方へ嘆願書を押しやり、深々と頭を下げた。
 「弟がご迷惑をおかけいたしまして、まことに申し訳ございません」
 「ほんまどすな」
 とは言ったものの、それぎり間が持たず、アラシヤマも困った様子であった。
 「まぁ、あんたはんの不細工な面でも髷と会話するよりはマシどすから、体を起こしたらどうどすの?」
 次郎右衛門が座りなおすと、アラシヤマは顔を少しゆがめ、 
 「――そろそろ、梅が咲き始めてますナ」
 と、居心地悪そうにいった。
 「わたしは佐野の梅しか観たことがございませんが、江戸の梅も綺麗でございますか」
 「そうどすなぁ。わては行ったことはおまへんけど、亀戸の梅屋敷の臥龍梅は見事なもんやとさるお人から聞いたことがおます。わては、梅といえばやっぱり京の天神さんどすが」
 「そのお方とは、お役人様の想い人でございましょうか?」
 「なっ、何でどすかッ?」
 「いえ、お顔がお優しかったものですから。……わしも、惚れた女と年毎に咲く花を観とうございました。ですが、うまくいきませぬものですなぁ。こちらが惚れてはいても、向こうがそうとは限らない。当の女は間夫と幸せになることを夢見るばかり。滑稽きわまりない」
 次郎右衛門は歯をくいしばってこぶしを握り、項垂れた。しばらくそうしていたが、アラシヤマが、
 「――今でも、あんたはん、傾城を恨んではるんどすか?」
 と、聞くと、ゆるゆると頭を上げた。
 「――おかしいと思われるでしょう。本来なら、女の幸せを願って潔く身を引くのが男の道理。だがわしは、仲間の前で馬鹿にされ、花魁から認めてもらえず悔しかった。あの笑顔がすべて嘘のものだったのかと寂しかった。殺してもいまだに気持ちが治まらない」
 アラシヤマは、じっと次郎右衛門を見ていた。
 「……わしも花魁のあとを追えばよかったんだろうが、てめえ自身で死ぬ意気地もない。怖いんです」
 次郎右衛門は目から溢れる涙を拭おうともしなかった。水滴が海老茶色の着物地にしたたり落ち、じわじわと暗褐色の染みが布の上に不規則な輪を広げた。
 「お役人様は、わしが狂うてはいないといわっしゃったが、それは違う。わしは、」
 「身勝手なもんやな」
 相手の言葉を断ち切るようにそう断言すると、アラシヤマは次郎右衛門から目をそらした。
 「……俺は同情はできへん。けど、あんたのいうことが一寸だけ分かる。あんた、どえらい阿呆どすえ」
 逡巡の末、
 「別に、その傾城をずっと憎んでてもかまいまへんやろ?幸せになって見返してやったらよかったんどす。教えるつもりはなかったんやけど、九重という傾城は、本気であんたはんに惚れてはったみたいどしたえ?」
 と、アラシヤマはいった。
 「九重さんが……」
 次郎右衛門は目蓋の腫れあがった目をみはった。
 「そうどす。でも無駄なんでっしゃろ?」
 ぐしゃり、と、次郎右衛門の顔がゆがんだ。
 「―――お役人様、九重さんが綺麗で誠のあるお方だということは身にしみてわかっております。ですが、わしが惚れていたのは、八橋だけでございます」
 「ああ、やっぱり阿呆や。……わても、全然人のことは言えへんけどナ」
 アラシヤマが疲れたようにそう云うと、
 「八橋……!」
 次郎右衛門は、声をあげて哭いた。



 その日、シンタローは高田の阿部伊勢守の屋敷を訪ねた帰り道であった。
 先日の試合への出場はシンタローの本意ではなかったが、勝ちすすんだ。
 ちょうど試合を見ていた伊勢守がシンタローを剣術指南役として召抱えたいと熱望し、その申し出に対する断りのあいさつに行ってきた帰りである。
 伊勢守のかえすがえすも残念そうな顔を思い返し、シンタローは、
 (面倒くせぇ……)
 ため息をついた。
 江戸の郊外であるこのあたりは田畑がひろがり、のどかな風景であった。護国寺への参道の活気とくらべると、下高田村を通る道はそれほど人通りも多くはない。
 シンタローは何の気なしに歩んでいたが、ふと、気になって後ろを振り返ると、数間後ろで菅笠の武士らしき男が飛び上がるように立ち止まった。シンタローが男をじっと見やると、いかにも慌てた様子で向きを変え、もときた道を数歩もどった。
 (なんだ?……アイツじゃねーし、この前の試合の意趣返しか?それにしちゃぁ、殺気がねぇ。尾行も下手すぎるよナ)
 歩きだすと、男は安心したかのようにふたたび後をつけはじめた。
 シンタローは、ふいに左に曲がり、椿山八幡宮の階段を上った。椿山という名の由来なのか、椿の木が生い茂っている。
 ほどなくして男が境内に入ってきたが、シンタローの姿があたりに見えないのであわてた様子である。
 気配を消したシンタローが、賽銭箱に手をついて本殿の中をのぞきこんでいる男の背後から近づき、
 「おい、」
 と声をかけると、男は腰を抜かし尻餅をついたので、シンタローは呆れた。
 どうやら武家のようであり腰に脇差を差してはいるが、とてもではないが刀を扱えるとも思えなかった。
 「てめぇ、いったいどういう仔細があって俺の後をつけてきやがった?」
 「貴公、シンタロー殿であらっしゃられるか!?」
 バッタのように跳ね起きた男は一尺ほど近くまで勢いよく詰め寄ってきたので、シンタローは数歩あとずさり、間をとった。
 「拙者、青木弥之助と申します。本日は折り入って頼みがござりまして、無礼、お許し願いたい」
 弥之助は笠をとり、深々と頭を下げた。
 シンタローも笠をはずしたが、渋面であった。
 「アンタ、阿部家の使いか?」
 「そうではござらぬ」
 いくばくかの時がすぎたが、一向に彼は面をあげようとしない。
 埒が明かない、とシンタローは軽く息を吐いた。
 「――何だよ?言っとくけど、一応聞くだけだからナ」
 急いで体を起こした男はシンタローを見上げ、一瞬見惚れた。
 すぐにわれにかえり、そして何事かしばし考え込んだ様子であったが、大きくひとつうなづくと、
 「シンタロー殿!」
 と叫んだ。
 「早苗どのの件、お考え直してはくださらぬか!?」
 「何のことだ」
 「何のこと!?先日の御縁談でござるが、どうかご再考をお願い申す!!早苗どのは、気立てがよいうえ頭もよく、花のように可愛らしいお方でございます。会えば、貴公のお考えも」
 「縁談は断ったんだ」
 シンタローがすげなくそう言うと、
 「何卒、なにとぞご再考を……」
 弥之助は地面に手をついた。
 「アンタが何者だか知んねぇが、俺は、考えを改める気はねェ」
 シンタローは笠を被るとその場を後にし、石段を下った。
 「拙者は、あきらめませぬぞ!」
 という声がかすかに聞こえた気がしたが、椿の群生の中を歩くシンタローは振り返りもしなかった。



 昼八つの頃、アラシヤマは江戸町奉行所の廊下を歩いていた。
 (この前、報告は済みましたやろ?何やえらい嫌な予感がしますナ……)
 ふすまを開けると、上座にはすでにマジックが座していた。
 「座りなさい」
 どうやら声を掛けた様子を見た限りでは、機嫌は良さそうであった。
 「面をあげていいよ」
 アラシヤマが礼の位置から起き直った直後、一息の動作でマジックは右足をふみだした不居の姿勢を取り、手に持った刀を下から逆袈裟切りに切り上げた。しかし、すべて皮一枚、といったところでの所作であったらしく、端座したままマジックを見据えているアラシヤマには傷一つついてはいない。
 「――わて、始末される心当たりが何一つおまへんのやけど」
 アラシヤマが感情のこもらない平坦な声音でそう言うと、
 「この刀、よく切れるんだよね」
 と、立ち上がったマジックは刀を鞘に納め、もとどおりに座した。
 「ミヤギはすっごーく驚いてくれたのに、本当にお前は面白くないヨ」
 「……そういう問題やないと思いますけど。しかも、さっきは冗談ごとやのうて本気でわてを斬るつもりやったんと違いますか?」
 「疑り深い男は嫌だねぇ!」
 マジックはアハハと笑うと、急におももちをあらためた。あごの下に手をやり、しばらくアラシヤマを見ながら無言であった。
 塀の外からは、手習い帰りと思われる子ども達が騒ぐ声が近づき、だんだんと遠ざかっていった。ふたたび部屋の中が静かになると、
 「アラシヤマ、どうしてミヤギを手伝わなかったんだい?」
 と、彼は訊いた。アラシヤマは、畳の上に置かれた刀を見ながら
 「云わせてもらいますけど、わてはあの時の判断は間違うてないと思いますえ?」
 眉を寄せた。
 「確かに、お前のとった行動は間違ってはいないんだけどね……」
 ふむ、とマジックは腕を組むと、少し思案してから口をひらいた。
 「今回の事件は腑におちないところがある。お前はどう思う?」
 「剣をたしなんでいない素人が、あれだけ刀を遣えるものですやろか。それに、刀の気配も尋常ではおまへんな」
 「なるほど。確かにこの刀は剣術の心得のない次郎右衛門とは不釣合いだ。今トットリを下野にやっているが、次郎右衛門は佐野では炭屋を成功させた分限者で悪い噂は聞こえてこない。それに、牢内での様子とも考え合わせると、一寸ね、気になったんだヨ」
 アラシヤマが目を細め、
 「なぜ次郎右衛門が今回の事件を起こしたか、刀は一体何なのか、ということどすか?」
 と問うと、
 「まぁ、大筋は合ってるよ」
 マジックは頷いた。
 「忍者はんは、いつ帰って来はるんどす?早い方がええんとちゃいますの?」
 「何を言っているんだい?お前が次郎右衛門を調べるんだ」
 それを聞いたアラシヤマの顔が、一挙に曇った。
 「……わてがどすか?」
 「そうだ」
 「どうも、わて向きの仕事やないみたいどすけど……」
 「つべこべ言わずにやってみなさい。何も、闇に紛れるばかりがお前の業というわけでもない」
 「へぇ」
 いかにもやる気がなさそうに生返事をよこしたアラシヤマを見ながら、
 「あ、そうそう。お前も隅におけないねぇ……」
 突然、マジックは表情を一変させ、人が悪そうな笑いを浮かべた。
 「……何のことどすか?」
 アラシヤマは胡散臭げに彼を見遣ったが、
 「ミヤギが悔しがってたけど、花魁から呼び出されたそうじゃないか。このこと、シンちゃんに面白おかしく教えちゃおうっとv」
 マジックの言葉をきいたとたんアラシヤマの血相が変わり、思わずといった様子で腰を浮かし、身を乗り出した。
 「ひ、卑怯どすえ!あることないこと言わはって、シンタローはんが誤解しはったらどないしてくれはるんどすかッ!?わては何に誓ってもよろしおますが、一切潔白どす!」
 「別に心配しなくてもいいヨ。そもそも、シンちゃんは根暗男が嫌いみたいだしネ」
 「……親馬鹿親父のことも、ものすごく鬱陶しがってはるんちゃいますの?」
 マジックは明らかに自分を睨みつけているアラシヤマを見て、ニヤニヤと笑いながら、
 「ふーん。まだまだ、青いねぇ」
 と、ひとこと言った。
 その瞬間、アラシヤマは苦虫を噛み潰したような渋面となり、
 「わかりました。下手人を調べればええんでっしゃろ!」
 低くことばを吐き捨てた。
 「言っておくが、責め問いや拷問はだめだよ?」
 「お奉行はん、一体わてを何や思うてはりますんや……」
 「まぁいい。まかせたぞ」
 マジックはもう一度頷いた。
 アラシヤマが退室した後、マジックは傍らの飾り気のない刀を取り上げてつくづくと眺め、
 「どうにも、ややこしい」
 とつぶやいた。



 同心に引き立てられたアバタ面の男は、表情なくややうつむきかげんに首を落としていた。
 いつの間にやら周りに客らしい男達や妓楼から様子をうかがいに使いにやられた禿など野次馬たちが集まり、無言で遠まきに男を見ている。
 不意に見物人の隙間から男の背めがけて何かが投げつけられたが、それは握りこぶしよりもやや小さいほどの大きさの石であった。
 その場の空気が凝縮したかのように密度を増し、何か些細なきっかけ一つで膨張し爆発するのではないかと思われた。
 「裁きの下ってねぇ下手人に手を出すことは許さねぇ、てめぇら散れッツ」
 年配の同心の鋭い声が飛ぶと、張り詰めた異様な雰囲気は徐々にしぼんでいった。納得がいかない様子ながらもお互い隣にいる者と顔を見合わせると一人二人とその場から離れいなくなった。
 「面番所へのご同行、願います」
 同心は、ミヤギに向かって頭を下げた。
 「おめさは、どうするべ?」
 アラシヤマはかぶりを振り、
 「わては一寸気になることがあって今から仏さんを見に行きますさかい、そっちはあんさんにまかせますわ」
 と言った。


 (あの商人は剣術経験のない素人ということは間違いおまへん。でも刀を遣って花魁を惨殺した。それにあの刀痕は素人がつけられるようなものやない・・・)
 まだ検分が済まないうちに、アラシヤマは蔦屋の入口を出た。
 仲の町を数歩も歩かないうちに、彼は立ち止まった。大門の方に向かっていたが、角から走りよってきた少女が怒った風情できっと唇を噛み締めて数歩前で止まり、自分を見仰いだからである。
 (なっ、なんどすか!?)
 非常にうろたえながらもアラシヤマがおそるおそるその子どもを見やると、少女は十歳ほどで、深緑に竹もようの振袖を着ていた。どうやら、遊女屋の禿かと見当がついた。
 「お武家さま、万字屋のここのえおいらんから話がありィす。いっしょにきてくんなんし」
 怒っていると見えたのは緊張のためだったらしく、かわいそうにも声が震えていた。
 (万字屋と言うと、殺された傾城の見世やな。丁度ようおます)
 「よろしおます」
 頷くと、かむろは小走りに駆け出し、アラシヤマはその後をついて行った。


 万字屋の店内に入ると中は静まり返っていた。奥では楼主とおかみ、遣手などが集まってボソボソと今後の相談をしているらしい。
 かむろは入り口脇の階段を上がると廊下をパタパタと駆け、戸を引きあけた。
 「おいらん、おつれもうしィす」
 「これさ、騒々しい」
 まず、アラシヤマは虎と目が合った。窓の外を見ていた花魁の深緑色の仕掛けに刺繍された虎であった。
 花魁の脇には、先程アラシヤマを案内してきたかむろと全く同じ竹もようの着物、切り髪の少女が座っていた。二人の違いといえば、髪に差している花簪の花の形が異なる程度である。
 アラシヤマは一瞬逡巡したが、被っていた深編笠を取った。
 根下がり兵庫に髪を結った花魁はゆったりと振り向き、
 「――昼間っから吉原に来ている浅葱裏かと思いきや、存外いい男だねぇ」
 からかうように口角をあげた。キセルで火鉢の前をさししめし、
 「そこに、お座りなんし。うきょう、さきょう。おまえたちは下がっていいよ」
 と言った。
 双子のようなかむろ達は、襖を開け、礼をして出て行った。


 室内には金縁漆塗りの箪笥やら、梅がのびやかな筆致で描かれた屏風やらが置かれていたが、華やかな雰囲気をアラシヤマは居心地悪く感じた。
 花魁は思案気な様子で中々話し出さず、たまりかねたアラシヤマが、
 「傾城、ところで、わてに話とは何事どすか?」
 と問うと、
 「八丁堀の檀那、上方者でおざりィすね。わっちは先程、窓からぬしたちの大捕物を見てござりやした」
 花魁は煙管を深く吸い、煙をゆっくりと吐きだした。
 「ほな、下手人の佐野屋次郎右衛門か死んだ傾城のことどすな」
 「八橋さんでござんすよ」
 九重は、煙管で軽く火鉢を叩き、灰を落とした。
 「――死んだ人のことを悪くいっちゃあバチが当たりぃすけど、わっちは八橋さんが嫌ぇでござんした。でも、一つだけ云わせておくんなんし。今回のことは、佐野のお大尽が悪いわけでも八橋さんが悪いわけでもござんせん」
 「あんたはん、下手人をかばうんどすか?一体何があったんどす?」
 「身請けの披露で、八橋さんが佐野屋さんに愛想尽かしをしんさった」
 「それで恨みに思って、ということどすか?」
 「それはわっちにもわかりやせん。ただ、佐野屋さんは誠実のある優しいお方。そして八橋さんに惚れ抜いておざりやした。でも、八橋さんには栄之丞という間夫がいんさった。ゴロツキと組んで『身請けを断らねぇと手前とは切れる』と八橋さんを脅すなんざ、わっちから見りゃあ、たいした男じゃぁなかったさね。
 だからと云って、間夫を失うのは身を切られるよりもつらいこと。佐野屋さんに愛想づかしをしんさったのは、わっちらは身請け話をどうあっても断りきれねぇ身の上だから、色々覚悟の上だったんだとは思うよ。ただし、期待を持たせるだけ持たせておいて、最後に裏切るなんてことはあんな優しい人に対してしちゃあいけねェことだったんだ」
 「……あんたはん、あの男に惚れてはったんどすか?でもわてにそう言われても、どうすることもできまへんえ?」
 九重は煙草を詰め替え、火をつけると、
 「どうこうしてほしいというつもりはわっちにはござんせん。ただ、吟味なさるにしろ二人のことを少し知っておいてほしかったんですよ。それにしても檀那、ぬしはホンニ野暮でありんすねぇ」
 と言って笑った。
 「野暮、どすか……」
 「まぁ、生可通でないだけいいさね。これで、わっちの話はお仕舞ぇでござんす」
 「はぁ、おおきに」
 どうにも釈然としない表情でアラシヤマは立ち上がり、廊下に出て引き戸を閉めたが、深編笠の紐を結ぶ間、
 「――次郎右衛門さんも馬鹿だねぇ。わっちに惚れりゃあこんなことにはならなかったのに……」
 引き戸の向こうで、そう低く呟く声が聞こえた。


 番町の入り組んだ道をすたすたと若い武士が歩いていた。いかにも頑固そうながっしりとしたあごと広い額をもち、四角い面構えであった。お世辞にも美男とはいえないが、生真面目で一本気な調子で全体が構成されていた。
 彼はある武家屋敷の前でつと足を止めた。
 屋敷門をくぐり、玄関で
 「修理どのはおられるか?」
 と大声で呼ばわると、
 「あら、弥之助様。兄はただいま不在でございます。ごめんくださいまし」
 くすくすと笑いながら、年の頃十六ほどの少女が姿を現した。思いがけなかった相手が応対にでたからか、弥之助は赤面し、頭を掻いた。
 「あっ早苗どの・・・。その、本日はまことによい日和で。こ、この度の御縁談、まことにおめでとう御座います。もし祝言の日取りなどお決まりでしたら、それがしも祝いの準備をと考えておりますが」
 一気にそう言い切り、息を吐いた。冬だというのに弥之助はこめかみに汗を掻いている。
 「――こんなところで立ち話も失礼ですから、どうぞお上がりくださいまし」
 少女はくるくるとよく動く丸い目で、その様子を面白そうに見ていたが、彼は
 「いえ、お父上や修理どのがご不在の折、それがしが勝手に上がりこむわけには……」
 と言葉を濁した。
 「それじゃ、縁側にお座りくださいな。ただいまお茶をもってまいりますので」
 青木弥之助が返事をする暇も与えず、早苗は身軽に奥に消えた。弥之助は、途方にくれた顔をしたが仕方がないので、庭の方へと向かった。
 弥之助がぼんやりと庭を見ていると、早苗が茶を運んできて弥之助の前に置いた。
 濡れ縁に腰掛けた彼は、碗が割れそうになるほど出された茶碗を睨みつけていたが、ようよう、
 「ところで早苗どの、ご縁談の件は……」
 と口にした。彼にとってはかなりの覚悟を要したようである。
 向かいに座った早苗は、
 「ああ、あれ。向こう様からお断りのお返事がまいりましたよ。ご縁がなかったのでしょうね」
 と、あっけらかんとした口調で言った。
 「はぁ、いよいよ早苗どのもご新造様となられるのですな……」
 対する弥之助は暗い表情でボソボソと言った。
 「だから、断られましたって!」
 早苗が少し声を大きくすると、彼はあっけにとられた様子で、
 「い、今なんて?」
 といい、目を白黒させた。
 「もう、何度も言わせないでくださいな。縁談は白紙になったんです」
 そう言うと、早苗は小首を傾げてにっこりと笑い、
 「ねぇ、弥之助さま、今から一緒に囲碁を教えてくださいません?私、この前よりも上達したような気がするんですよ」
 といった。
 弥之助は、顔つきを改め、
 「早苗どの!」
 と言って居住まいを正した。つられて早苗が座りなおすと、
 「それにしても、相手方には見る目がない。貴女がどれほど素晴らしい女性か存じていないのだ」
 きっぱりと言葉を切った。
 「弥之助さま……」
 頬を染め、恥ずかしげに早苗はうつむく。一輪の花のような風情であった。
 「だから、それがしが相手方に掛け合って、なんとか縁談をまとめましょう!!」
 彼が力強くそう言うのを聞いた瞬間、早苗の顔がみるみる曇った。
 「破談になったのですから、もういいではありませんか」
 「いや、貴女は幸福にならなければならない。それにしても貴女に恥をかかせたとはけしからぬが、妹御が馬鹿にされたというのに修理は一体何をしておるのだ!?」
 「弥之助さま、お考え直しくださいまし。私、顔も知らない人のところへ嫁ぐのなんて嫌なんです」
 と早苗は言ったが、当の弥之助は何か考え込んでおり、彼女のことばを聞いている様子はなかった。
 「心配御無用。それがしが、なんとかいたします!!」
 思いがまとまったのか、茶碗の茶を一息に飲み干して気色ばんで出て行く弥之助を見送り、
 「弥之助様……」
 少女はため息をついた。


 ほどなくして、座敷の方から半裃を着た初老の男が濡れ縁に姿を現した。
 「お父様」
 と、早苗が言ったところを見ると、彼のゴツゴツとした岩のような顔と細面の早苗と似たところはないが、どうやら彼女の父親らしい。彼は、重々しく口を開いた。
 「またあの男が来ていたのか。嫁入り前の娘の家に軽々しく訪問するとは一体何事だ」
 「お父様、私、弥之助様以外とは夫婦になりませんので」
 キッパリと早苗がそう言うと、彼女の父親は気の毒かと思われるほど取り乱した。
 「気でも違ったか早苗!?あやつは当家よりも家格が低いのだぞ!それに、お前の幸せを願ってわしは苦労して縁談を探してきているのではないか!?」
 早苗は、唇を噛んで父親を見据え、
 「もしも今後勝手に縁談をまとめたりなさいましたら、私、自害をいたしますのでそのおつもりで」
 と言った。
 「早苗、何ということを……。あの若造め、許せぬ!!」
 「家はお兄様がお継ぎになられますから、ご心配はございませんでしょ?今はお父様の顔も見たくもありません。あっちへ行ってください」
 彼女がそっぽを向くと、うろたえながらも娘をうかがいつつも彼はその場を後にした。
 「あーあ、お父様も弥之助様も、男ってわからずやばかりだわ」
 彼女は空になった茶碗と茶が満たされている茶碗を片付けつつ、
 「でも、好きなんだもん。しょうがないか……」
 と、再びため息をついた。


 深編笠をかぶった浪人風の男と、菅笠をかぶった武家風の男が鳥越橋を渡っていた。
 橋の上には歳の市へ向かう老若男女や今から帰ろうと家路を急ぐ連中がひしめき、人の頭が連なって黒い波を作っていた。めいめい買い求めた荷物を胸に抱えたり背負ったりしており、うかうかしていると、あっという間に人波に呑まれて行方がしれなくなるような混雑振りであった。
 深編笠は特に菅笠を気遣う様子も見せず、どういった術なのかさっさと人込みの中を歩いていくので、それを追いかける菅笠の方はたまったものではなかった。
 人の波にもまれながら路なりに北へと向かうと、壮麗な風雷神門が姿を現す。普段は夕刻になると閉ざされるが、歳の市の日だけは一晩中開いていた。
 蓑市が開催される日には門前に仮小屋が立ち並び、田舎から出てきた百姓達が蓑や笠を所狭しと並べて売っている。
 深編笠はある店の前でようやく立ち止まって振り返ると、
 「ちょうどええわ。あんさん、深編笠を買いなはれ。わてについてくるつもりやったら、顔は極力見られへんようにしておくれやす」
 そう、菅笠をかぶったミヤギに言葉をかけた。
 特に欲しいとも思わなかったが、ミヤギは仕方なく店の親父から真新しい深編笠を購入した。
 風雷神門から境内に入り、アラシヤマは人込みでごった返す中を時間をかけてくまなく一巡した後、浅草寺を出て山之宿町の茶店の床机に腰掛けたので、ミヤギはやっと休めると安堵の息をついた。
 「オラ、一度は浅草寺に来てみたかったんだけんども……」
 茶を一口飲むと、ミヤギは苦虫を噛み潰したような顔をした。茶が渋かったというわけではないらしく、アラシヤマは平気な顔をして飲んでいた。
 「ほな、念願が叶ってようおましたな」
 「何もわざわざこの人の多いクソ寒い時季に、しかも根暗男とは来たくはなかったべ。オラが一緒にきたかったのは可愛い女の子だべ!なんつーか骨折り損のくたびれもうけだっぺ……」
 「嫌やったら、帰らはったらどうどすか?」
 「えっ、いいんだべか!?」
 ミヤギが急に明るい顔になって身を乗り出してきたのを目を眇めて眺めつつ、アラシヤマは、
 「あんさんなァ、暢気すぎるんちゃいますの?……あの煮ても焼いても食えへん奉行の性格からして、単純に八つ当たりだけや思います?甘うおす。おそらく、帰ったらわてのやり方や市の様子、兇状持ちが紛れてへんかったか、何か気づいたことはなかったか等々、一通りのことは絶対聞かれますえ?一種の試験どす」
 そう、淡々と言った。
 「ええっ!?試験なんて全然聞いてねぇべー!?もしかして、冗談だべか??おめさ、性格が悪いからオラをだますつもりだべ!!」
 「わざわざ頭の悪いあんさんに親切にも教えてあげましたのに、何どすかその態度は?頭が痛うなってきましたわ……。わては、暮六つからもう一度見廻りに行く。あんたはんは、自由にしはったらええ」
 ミヤギはしばらく考え込んでいたが、アラシヤマの言葉に反駁する証拠を考えつかなかったらしく、
 「……オラも一緒に行ぐしかねぇべさ」
 と泣きそうな表情になって言った。そして、やけになったのか湯飲みに残っていた茶を一気に飲み干した。
 「あーあ、浅草の観音さまが助けてくれねーがなぁ……」
 「そら、間違いなく助けてくれまへんやろ。神仏に頼らず自分で何とかしはったらどうどす?あんさん、つくづく阿呆どすな」
 「――つくづく、オメさは嫌な奴だべ。それにしても暮六つまで退屈だっぺ」
 「大体、いつも見廻りはこんなもんどす」
 アラシヤマは茶をすすった。
 ミヤギは懐から、真新しい切絵図を取り出し眺めていたが、
 「アラシヤマ、大変だべ!浅草って、吉原にこげに近ぇんだべか!?」
 何やら発見したらしく、驚いたように言った。
 「……当たり前でっしゃろ?今まであんさん一体どこや思うてはったんどすか」
 「じゃあ、今から時間までちょっくら見物に行ってみんべ!?オラ、有名な吉原にも一度は行ってみたかったんだ!!」
 「――そんな金も持ち合わせてまへんし、真昼間っから花街に行く暇人も中々おらんと思いますけどナ。しかも、今は任務中どすえ?」
 「そんなこと言われなくても分かってるべ!何も客になって遊ぶというわけでねぇし、外からちょっと花魁を見るだけだから別にいいっぺ?そうと決まったら出発だべさ!」
 何やら急に元気になって茶代を支払っているミヤギを見て、
 「これやから、田舎もんは……」
 アラシヤマは、かぶりなおした編笠の内で舌打ちした。


 女は、静々と廊下を歩んでいた。
 久方ぶりに万字屋へ顔を出した男との再会場面を思い返し、密かに安堵の息をもらした。
 何も、男に嫌悪の気持ちを抱いていたわけではない。いい人、だとは思っていた。しかし、それ以上の気持ちにはなれなかった。
 自分の愛想尽かしによって、下手をすると男は川に身投げでもするのではないかという不安が彼女の胸中を去来しここ数日は気持ちが晴れなかったが、先程訪ねてきた男ははさっぱりとした態度で彼女の仕打ちを恨みに思っていないことを告げた。
 彼女は、男の取った態度を実に立派だと思った。
 愛情が湧いてくるわけではなかったが、尊敬に似た気持ちを田舎くさいが誠実な目の前の男に抱いた。
 恩のある男に対し酷い仕打ちをした自分を心から悔やみ、
 「次郎右衛門さん、わっちを許しておくんなんし……」
 白い指先を揃え、女は頭を下げた。
 男は慌てたように、手を振った。
 「花魁、顔をあげておくれよ。許すも何も、そうまでされてはわしの立つ瀬がない」
 女が面を上げると、男は彼女を励ますように頷いた。
 「わしは、江戸での商売をひきあげることになったんだ。もう吉原に来ることはないだろう。一度あんたにあげたものだ、身請け金は一切返さなくてもいい。花魁に差し上げましょう。惚れた男と幸せになるも花魁の自由。しかし後生だ、花魁。国許に帰る前に余人を交えず二人だけでわしと少し話をしてはくれますまいか」
 彼女が頷くと、男は嬉しそうな笑顔になり、
 「蔦屋で、待っていますよ」
 と言って腰を上げた。
 

 供の新造や禿達と別れ、女が襖を開けると男はすでに膳の前でかしこまって座っていた。
 女を見て微笑み、
 「ああ、やっぱり花魁は花のようだなぁ……。佐野で一番綺麗に咲いていた牡丹に似ている」
 と、呟いた。
 「次郎右衛門さん」
 女が少し困ったように男を呼ぶと、
 「花魁、」
 男は膳の上の杯を取り上げ、
 「この世の別れだ、飲んでくりゃれ」
 杯を差し出した。
 女が目を瞠り、動けないままで居ると、男は醜く顔を歪め、
 「――恨みに、思っていないとでも思うたか?」
 畳の上に杯を置き、押しつぶしたような声で言った。




 「男一度は伊勢と吉原!やっぱり、観音様より生き弁天様だべなぁ!」
 見返り柳を左に曲がり、衣紋坂を下りながらミヤギは上機嫌であった。
 「弁天いうよりも、居るんは海千山千ばかりでっしゃろ?どちらかといえば化け物の一種どす」
 「……おめさ、そげなことばかり言ってると、全っ然!女にもてねーべ?」
 「余計なお世話どす。別にわては、もてたいとも思いまへんしナ!」
 「あっ、今のって絶対負け惜しみだっぺー!顔よし性格よしで非の打ち所のない色男なオラにおめさが嫉妬する気持ちはよーく分かるけんども、もてないのは事実だから仕方ないべ!」
 「取りえが顔だけで頭に石が詰まったような阿呆よりは、格段にマシなつもりどすけど?」
 険のある声で皮肉っぽくアラシヤマは言ったが、
 「あーあ、細見を持ってくればよかったなァ」
 浮かれた様子で歩を進めるミヤギは、一向にどこ吹く風といった様子であった。
 いよいよ大門が見えてきたが、何やら悲鳴やら怒号が聞こえ、尋常な様子ではない。
 ミヤギは真顔になり、
 「何だか、変でねぇべか?」
 と、言った。


 左手の番所には常に同心や岡引が詰めているはずであったが、二人が立ち寄ると皆出払っていた。
 昼間ということで人通りの少ない仲之町の大通りをアラシヤマとミヤギが駆けぬけると、騒ぎの元は揚屋町の辺りであるようであった。店の前には数十人の野次馬が群がり、一様に首仰向け、事態の成り行きを見守っていた。
 天水桶が並ぶ屋根の上に、刀を握った男が一人、それに5間ほどの間合いを取って揚屋の若い衆や同心、岡引が対峙していた。何かに憑かれたような目の色をした男は、尋常な様子ではない。
 男の暗色の着物には大量の血が付着して染みになっており、追っ手が近づこうとすると次の屋根に飛び移ってしまう。
 「乱心者やろか。どうも埒があかへんみたいどすな」
 「大変そうだべなァ。よし、オラたちも手伝うべ!」
 「何言ってはるんや、目立つ行動は極力控えるべきどす」
 男を捕らえようと近づいた岡引らしき男が刀で腕を傷つけられ、物干し台に落ちた。
 下で見ていた野次馬たちが、口々に恐怖と安堵の混じりあったような悲鳴を上げる。
 上方の騒ぎを見上げながら、ミヤギはこぶしを握りこんだ。
 「――オラは行く」
 「あんさん、そこまで軽率やて思いまへんどしたわ」
 「別に、アラシヤマは来なくていいべ!」
 そう言うとミヤギは被っていた深編笠を投げ捨て、目前の揚屋に駆け込んだ。階段を駆け上がり、窓から屋根の上によじ登った。


 「オラは町奉行所の同心、ミヤギだ。この騒ぎは一体どうしたべ?」
 中年の浅黒い顔をした同心は捕物術の稽古場で時々顔を合わす程度の間柄であり、話したことはない。しかし、ミヤギを見て彼の顔には明らかに安堵が広がった。
 「ああ、ミヤギどのでございますな。どうやら女郎屋の客が乱心したようで、花魁と下女を斬り殺したんです」
 「わかった」
 ミヤギは、息を一つ吸うと、
 「おめさ、どうしたんだべ」
 と、血のついた刀を持つ男に声をかけた。
 男は刀を構え、瓦の上をじりじりと後退って間合いをとっている。
 「話さ聞いてやっから、まずはその刀を離さねぇべか?そげなものを振り回してたら危ないべ」
 男の顔に、一瞬逡巡が走った。
 しかし、次の瞬間、獣のような雄叫びをあげ、ミヤギめがけて突進してきた。
 (コイツ、剣術は素人だべ。でも破れかぶれになってっから気をつけねぇと)
 ミヤギは後ろ腰に差していた十手を引き抜いた。
 男は、胸を狙った突きを凄まじい速さで打ち込んできた。十手の先端を軽く右に傾け待ち受けていたミヤギは上体を左下に沈めてかわし、刀身にすべらせた十手の鉄鉤で鍔元をひねり上げた。
 一瞬、男と目が合った。男が、
 「殺してくれ」
 そう言ったような気がしたが、
 「そういうわけにもいかねぇべ」
 と、右手と柄を一緒に掴み、いったん外した十手で左手を突いた。
 たまらず、左手を離した男の右手を片手で捻り上げたミヤギは男の両足首を打ち払った。
 刀から手を離した男は、屋根の上にいきおいよく叩きつけられた。そして、傾斜した屋根の上を転がり落ちていった。
 ミヤギの手の中には、血に塗れた刀が一振り、残った。
 「しまった、ここは屋根の上だったべ!」
 十手を仕舞い、空いた手でガリガリと頭を掻くと、端のほうで固唾を呑んで見守っていた同心たちのもとへと戻った。


 一方、屋根の上から転げた男は、桜が植えられている植え込みに落ちた。
 見物人たちはおそるおそるその様子を見守っていたが、不意に男がよろめきながら立ち上がると、蜘蛛の子を散らすよう、散り散りに逃げた。
 ただ一人その場に立ったままその様子を見ていたアラシヤマは、
 (あほらしいぐらい、頑丈なもんやな)
 と呆れたが、周りに誰もいないのを見て取ると溜息ひとつ、捕縄を手に持った。
 男はまだ、足取りもおぼつかないままと大門の方へ逃げようとしている。
 アラシヤマは男の前に回りこむと、男の横っ面を殴り、糸が切れたように膝をついた男を数秒も要さず縛り上げた。
 「下手人は!?」
 息をせききって、ミヤギと同心、揚屋の若い衆連中が駆けてきた。

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