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BIRTHDAY CHASE


「ねえ、パパ」
「ん? 何だい、シンちゃん」
「あのねぇ……」
 マジックに抱き上げられた幼いシンタローは、にこっと笑った。
「おたんじょうびおめでとう、パパ」


 ――――――――………





 ザ…… ゴォ―――

 海の中を征く艦。
 マジックはシートに座していた。部下の声が彼のもとに届く。
「総帥、まもなく島に到着いたします」
「判った。着艦準備せよ!」
 マジックは、冷厳たる口調で命じた。次の瞬間、彼は、個人的な幸福にひたっていた。
「シンタロー……」
 夢見る瞳。本人の主観はどうあれ、端から見たら、ただのあぶねーおっさんである。ここら辺の茶々入れから既に、この話の運命は決まっているのであった。
「待っておいで、シンちゃん、今パパが行くよ……」




<1>


「シンタロー! 飯はまだか?」
「だーっ。今作ってっだろッ! ちったあ我慢ってもんを覚えんかい!」
 シンタローは鍋の中身をかき混ぜながら、パプワに言い返した。
 パプワとチャッピーは食卓につき、シンタローの後ろ姿を眺めている。
「ったく、この欠食児童が」
 彼がパプワ島に流れ着き、南国少年の、お母さんだか妻だか使用人だか判らない立場に甘んじるようになって、はや一年半以上。
 口ではぶつくさ言いながらも、最近では結構楽しそうに家事をこなしているところを見ると、主夫の素質があるのらしい。
 シンタローは小皿に取ったスープの味をみた。
「ん、パーペキ♪」
 そこで浮かれる辺り、既に末期症状である。
「できたぜ、パプワ」
「わーい、飯メシーっ!」
 鍋を下ろし、食卓に置く。椀にそれをよそいながら、ふとシンタローは考えた。
 とはいえ、考え込んでいても、それでも手は止まらない。プロの域だ。やっぱりダンナに欲しいかもしれない。
 それにしても……今朝は変な夢をみちまったぜ。ガキの頃の思い出なんて。なぁーにが、おたんじょうびだよ。……って、あれ? 誕生日?
「……ちょっと待てよ……」
「どうした、シンタロー?」
「なァ、パプワ……今日って、何月何日だ?」
 なぜかシンタローはひくついている。それまで暦などないに等しかったこの島に、太陽暦を浸透させたのはシンタローだ。もっとも、何月であろうと、ここは常夏の楽園である。
「十二月十二日! それがどうかしたのか?」
 朝食をぱくつきながら、パプワはあっさり答えた。
「じゅうにがつじゅうに……」
 すーっと、シンタローの顔から血の気が引く。笑いが乾いていた。
「なーんか、すっごく嫌な予感……」
 人間、悪い予感に限ってやたら的中するものである。
 たらぁりと、冷汗が伝う。その時、
「ヤッホー、シンちゃん!」
「げっ!」
 どんがらがっしゃーん!
 シンタローはのけぞった。パプワハウスの窓から、マジックが手を振っている。いつものごとく潜水艦で来たのらしい。後ろに幾人もの団員を引き連れていた。
 世界最強とも言われる暗殺者組織、ガンマ団の総帥ともなれば、多忙という言葉では追い付かないほど忙しいはずだが、どうもマジックに限っては暇をもてあましているとしか、シンタローには思えない。
 これが自分の父親とは……。
「やっぱり来やがったか、クソ親父!!」
 カタン、と茶碗を置き、シンタローは立ち上がった。
「パプワ、そのまま飯食ってろ」
 シンタローは外に出、マジックと向かい合った。この父親でどうして自分のような息子ができたのか、いまひとつ謎だ。それがヨタでなく、真実、一族の謎と秘密である辺り、冗談になっていない。秘石が企む、裏の裏の事情は更に秘密だ。
「湧いて出るんじゃねえかと思ってたぜ」
「あれ? ひょっとしてシンちゃんてば、パパが来るのを待っててくれたのかな? 嬉しいよ」
「待ってねェよ、誰も! とっとと帰りやがれ!」
「相変わらず照れ屋さんだなぁ。何か他に言うことがあるんじゃないかと思って、足を運んであげたのに」
「な・ん・に・も・あ・り・ま・せ・んッッ!!」
 一音ごと、シンタローは区切って答えた。マジックの表情が、ふっとすり変わる。
「ふ~ん、そう……」
 ビシュッ!
 呟きざま繰り出されたマジックの拳は空を切った。
「やるな……」
 一歩下がった位置で、シンタローは父親を見据えていた。その瞳が、むしろ娯しげにきらめいている。
「ふん! てめーの考えなんざお見通しだぜ!!」
「なるほど……では、こうしよう。おまえが逃げ、私が追う。捕まえられたら、おまえは私の言うとおりにするんだ。この際、秘石の話は今日は無しにしてやる。今日の私の望みはそれではないからな」
 マジックの提案を、シンタローは鼻で笑った。
「はん! えらく一方的な提案だな。俺が逃げ切るにしろ何にしろ、結局貴様との鬼ごっこに付き合えってか。ちょっと虫が良すぎるんじゃねぇの? 俺は忙しいんだよ! 遊んでる暇は――」
「……これではどうだ? おまえが勝ったら、一度だけコタローに会わせてやる。約束しよう。それでも嫌か?」
「えっ!?」
 一瞬、シンタローの顔が弛む。コタローに逢える? コタローに?
『お兄ちゃん(ハートマークつき)』……弟の笑顔が脳裏で乱舞した。
 半ば陶酔状態で頷きかけ、シンタローは慌ててぷるぷると頭を振った。
「……てめーの約束なんざ信じられるかよッ!」
 世にも珍しいことが起こっていた。シンタローの理性が弟への一念に勝るなど、明日のパプワ島地方は雪一時あられ、ところにより隕石、血の雨降水確率90パーセントである。
 シンタローは、ぐっと拳を握り締めた。
「断る、と言ったら?」
 パキッとマジックは指を鳴らした。シンタローの周囲を、団員が取り囲む。
「拒否できんよ、おまえは」
 マジックの瞳が妖しげに光る。互いに間を取りながらの牽制。さらに一歩引き、シンタローは大きく息を吐いた。結局マジックには適わないのだ。
「……パプワや島の連中には絶対手を出さないと、誓えるか?」
「勿論。私は平和主義者だからね」
 おお、すごいぞ、シリアスだ。
「その言葉……忘れんなよッッ!!」
 言いざま、自分を包囲している元味方を蹴り飛ばし、シンタローは駆け出した。
「……よかろう。契約成立だ」
 瞬間的な空白。
 ――バゥン!
 マジックの眼魔砲が背後の地面をえぐる。
「でーっ! マジかよッ!!」
 間一髪で避けながら、シンタローの背中を冷たいものが走り抜けた。
 あんなもの、自分が放つ分にはいいが、食らうのはごめんである。
「これじゃ、捕まる前に殺されちまうぜ」
 この一種の『ゲーム』が今日一日限りのものであることを、シンタローは知っていた。何故なら――。
 ……付き合ってやるさ。死にたくねえからな。
 森の方までシンタローは逃げていた。障害物が多い方が有利だ。
「待て、シンタロー!」
 どっかーん!
 三十センチ横の樹の、どてっぱらの風通しがよくなっていた。
「どわっ!」
 しーん…… そんな擬音が降ってくる。
 畜生、マジックの奴、やたら張り切ってやがる。これを否応なしのプレゼントにさせる気かよ! じょおっだんじゃねえ!!
 シンタローは心の中で毒づいた。だが、逃げなくてはあの世行きである。
「誰が待てるかーっっ!!」
 怒鳴り返して、シンタローはジャンプした。



 マジックはぐるりと森を見回した。
「……見失ったか」
 まあいい。息子がのってくれただけでも幸運なのだ。
 単なる『狩り』と『鬼ごっこ』では、気分的に大きな隔たりがある。やっていることは同じなくせに、自分の罪悪感を棚上げできる方を選ぶ、あこぎというか随分なマジックだった。
「絶対におまえを捕らえて、おめでとうと言わせてみせるぞ、シンタロー!」
 握り拳を掲げあげ、マジックは燃えていた。
 何やら、目的と手段がもはやチャンポンになっている感がある。
 父と息子のチキチキマシン猛レース……じゃなかった、チェイスは、まだ始まったばかりであった。



「今日もええ天気どすなぁ、テヅカくん 」
「キィ♪」
 アラシヤマは肩にコウモリを乗せ、散歩していた。彼にとっては幸福そのものの時間だ。それを遮ったのは、割と近くで起こった爆発音だった。
「ん……? 何や?」
 瞬間的に、テヅカくんをかばうように抱え込む。辺りの様子を窺ったアラシヤマの前に、
 ガサ…… ザザザッッ!
 突如落ちてくる人影。
「……ってぇー……目測誤っちまったぜ」
「シンタローはん!?」
 アラシヤマは、しゃがみこんでいる青年の名を呼んだ。はっとして、シンタローが顔を上げる。
「奇遇どすなァ。何をやっとらはるんでっか? こないなところで、散歩にも見えまへ――むぐっ」
 アラシヤマが目を白黒させる。シンタローは同僚の口元を押さえ、自分に引き付けた。
「なッ……何しはるんどす!!」
 シンタローの手を引きはがし、アラシヤマは噛みつくように叫んだ。顔が真っ赤なのは完璧に照れているからである。一歩間違えば山火事寸前だった。
「大声をたてるなっ」
 アラシヤマの耳元で、シンタローはささやいた。
「見つかっちまうじゃねえかよ」
「かくれんぼでもしてはるんどすかいな。よろしおすなぁ、楽しそうで。そや、テヅカくん、わてらも今度二人で遊びまひょな」
「キイキィ!」
 再びテヅカくんを肩に乗せるアラシヤマを、組織の一員時代、唯一実力で凌駕していた青年は睨みつけた。
「ばっきゃろー! 呑気な面しやがって。こちとら命懸けだぜ」
 シンタローは辺りの物音に耳を澄ました。どうやら大丈夫のようだ。大きく息をつき、彼は樹の陰にすとんと腰を下ろした。
 その様子に、アラシヤマの表情が硬くなってゆく。これは、ことによるとヤバい状況かもしれない。
「何やら、えろう……きな臭い話みたいどすな」
 ちらりと、シンタローはアラシヤマを見た。
「マジックが――来てる」
 聞いた途端、アラシヤマは真っ白になっていた。酸素を求めてぱくぱくと口が動く。
 ……マジック総帥が島にいる?
「な……な……な、何どすてぇ~~~っっ!?」
「わっ! バカ! 大声を出すな!!」
 慌てて、もう一度シンタローがアラシヤマの口を塞ぐ。同じようにその指をはがしてから、額とバックに縦線をしょった笑みをアラシヤマは浮かべた。
「……そ……そりゃ、えらい災難どしたなあ。ははは。わ……っ、わては急ぎの用事を思い出しましてん。ほな、さいなら」
「待てぇーいッ」
 アラシヤマのマントの首根っこをひっつかんで、シンタローは引きずり戻した。
「何でわてまで巻き込まれなあかんのどすっ」
「筆者の趣味――もとい、もののついでだ」
 もののついでで、総帥親子のバイオレンスなかくれんぼに付き合わされてはかなわない。……鬼ごっこにかくれんぼ、次は缶蹴りだろうか。何だかノスタルジーの世界である。
「せやかて……。いや、それより、なしてまた総帥がこないな――」
「あ……」
 その問いに、答えづらそうにシンタローは口篭もった。
「? 何どす?」
「だから……」
「だから?」
「今日は――奴の誕生日なんだよっ」
 聞いた瞬間、アラシヤマの顔に理解の色が広がる。この辺り、既に染まっている彼であった。
「あァ……そーゆーことねェ~……」
 余計に、とばっちりはごめんだとアラシヤマが考えたかどうかは定かではない。
「とにかく今日一日逃げなきゃならねえ……畜生、昼飯の支度も、掃除も洗濯もしなきゃいけないってのに、あんのアーパー親父が!」
 それでも家事一般を忘れないところが、パプワ島の住人としてのシンタローの彼たる所以だった。
「何とかして食事だけでも…… ―――ッッ!!!」
 ……閃光に近いエネルギーの塊。
 ちゅどーんッツッ!!
「どしぇーっっ!」
「うぎゃあァァ~!」
 なぎ倒された木々と一緒に、二人は爆風で吹き飛ばされた。
 ズサッ!
 彼らは残った樹に打ちつけられた。瞬間、息が止まりそうになる。
「~~ッ!!」
 歩み寄る人物。その威圧感。
「こーんなところに隠れてたのかい、坊や! 随分と捜したよ……?」
 悪魔の微笑みを湛えて、マジックはゆっくりと近付いてきた。
 ごくり、とシンタローは唾を飲み込んだ。アラシヤマに到っては、しきりに後ろに下がろうとしながら、腰が抜けて動けない。
 危うし、シンタロー!(とアラシヤマ) このまま彼はマジックに捕らえられてしまうのか!? 以下次号!!
 ――というわけにはいかないので、話を続ける。
「さあ、意地を張らないであきらめなさい」
 マジックはなおも息子の傍へ近寄る。
 あと数歩で触れようとする時、シンタローは爆発の名残で散乱している瓦礫を掴み、マジックに投げつけた。
 ピシッ!
 マジックが、手をあげて顔をかばい、目を細める。
「何を今更悪あがきを――」
「逃げるぞ、アラシヤマ!!」
「あ……あわわ……」
 腰を抜かしたままのアラシヤマの腕を取り、引っぱるようにしてシンタローは走りだした。
「あっ、こら、シンタロー!」
 マジックは追った。
 森の中の、全力疾走障害物競争。
 もはや体力勝負に近いものがあった。齢の差は歴然としている。あとはテクニックと邪道だ。
「待ちなさい! 紳士的に話し合おう!」
 眼魔砲の構えをしながらそう言っても、説得力はまるでない。トーゼンである。
 ……ドガッ!
 前方の地面に大穴が開く。シンタローと、どうやら自力で走れるようになったアラシヤマは、それをぎりぎりで跳び越えた。
「待てといわれて待つバカはいねーよ!」
「わーっ! 何でわてまでーっっ!!」
「うるせー、ゴチャゴチャ言わずに走れッ!」
「そないなこと言うたかて、元はといえばシンタローはんのせいやおまへんかーっ!」
「じゃあ、あのまま木の根元んとこに置いてきてほしかったのかよ!? 何なら今から戻るか? えぇ!?」
「嫌どすッッ! マジック総帥に即死させられてしまいますがな!! わてはまだ死にとうあらしまへん!」
「だったら黙って走れっ!」
「ひぇーん!」
 ほとんど掛け合い漫才のノリで、シンタローとアラシヤマは叫び合いながら獣道を駆け抜けてゆく。
 それを追跡するマジックは、
「を!?」
 ……自分のえぐった大穴で足を踏み外していた……。



「あー、スイカがうめェべー! ほれ、トットリももっと食うだよ」
「もっと、って、僕達これしか食べるものはないんだっちゃが!」
「いちいち言わんでも判っとるべ! ……いつか花咲くときもくるべさ。オラ達、貧しくてもたくましく生きるべ、トットリ」
「ミヤギくーんっ」
 スイカ畑で、トットリとミヤギは、涙ぐみながら互いの手を取り合った。
 そこに、すさまじい勢いで転がってくる二つの物体。その上をコウモリがぱたぱたとついてきていた。
「何だべ!?」
「誰だわいや!」
 誰何の声を飛ばす。土埃の中に影が映った。
「何しやがんだよ、アラシヤマ! 走ってる最中に、いきなり他人の腰紐を引っぱんじゃねぇ!! バランス崩しちまったじゃねーかよッ!」
「不可抗力どすがな! ちょっと足がもつれて、転びそうやったんや! それで、とっさに前におったシンタローはんの紐を掴んでしもうただけどす!!」
「足がもつれた、って、てめー、足腰弱ってんじゃねーのか!? 俺より年下だろーがッッ!!」
「あーっ、シンタローはん、あんさんには関係あらへんことどっしゃろっ!」
 やたら元気に人影は怒鳴り合っている。この、嫌になるほど聞き覚えのある、嫌になるほど聞き慣れた声。その名前……。
 土埃の霧が薄くなり、いつしか晴れていた。その中にいたのは、無論――
「……シンタロー!」
「それにアラシヤマっ!」
 ミヤギとトットリは、以前の同僚の名前を呼んだ。
 呼ばれた方は、そこで初めて二人に気付いたという風に、目をしばたたかせた。本当は転げる前に一応視界に入っていたはずなのだが、ずっと喚き合い続けていて、スイカ畑の中の人の姿など、その意識の隅にすら残っていなかったのだ。
「あれ? ミヤギにトットリじゃねぇか」
「あんさんら、こないな場所で何しとらはるんどす?」
 シンタローとアラシヤマはあっけらかんと問う。
「それはこっちの台詞だべ!」
「そげだわやっ」
 むくれたように、ローカルコンビは突然の闖入者をねめつけた。
「なーんでおめ達が一緒に走っとったんだべ」
「運動会はとうに済んどるし……んー……マラソン大会の練習か何かだらあか?」
「何マヌケなこと言うとるだよ、トットリ!」
「ミヤギくんがいぢめる……」
 じとーっとした目で、トットリは親友を見た。シンタローは痴話喧嘩には構わず、ほぅっと呼気を漏らした。
「……取り敢えずは撒けたか」
「そのようどすな。でもすぐに来まっせ」
 アラシヤマは、姿勢を変えて座り込むシンタローに恨みがましい視線を投げた。
「まったく、あんさんのせいでわてまで逃亡者や。せっかく巻けたことどすし、わてはうまいこと戻らせてもらいますよってな」
「できると思ってんのか? あいつ相手に、本気で。剛毅なことだな」
 たとえ騒ぎに巻き込まれただけだとしても、マジックはアラシヤマをも追い詰めるだろう。ただでさえ、刺客としての任務に失敗した脱落者なのだから。
 アラシヤマはあっさり返答した。
「……言ってみただけどす」
「変わり身の早ぇ奴……」
「こら、シンタロー! オラの質問に答えるべっ!」
 ミヤギは詰め寄った。シンタローは口元を歪め、ぐしゃりと前髪をかきあげた。
「楽しいたのしい、鬼ごっことかくれんぼだよ。おめーらも混ぜてやろうか?」
 話が見えない。ミヤギは首をひねった。
 島の連中相手にそれをしている、というなら、まだ判らないでもない。だが、よりにもよってコウモリだけが友達のアラシヤマと一緒に?
「ところでシンタローはん……」
 アラシヤマはこそりと耳打ちした。
「これも巻き込む気どすか……?」
「ものにはついで、って言葉が日本語にゃあるんだよ。この際だ、居合わせた不幸を呪ってもらう」
 ……悪魔であった。この親にしてこの子あり、やはり血は争えない。
 もっとも、それを聞いて、たしかにどうせ不幸になるのなら、自分だけでなく他人の足元もすくってやった方がいい、と同意思考をかました京都出身の青年がいたところからすると、これはガンマ団構成員全てに共通することなのかもしれない。さすがは悪の組織、マインド・コントロールは徹底していた。
「ミヤギ、トットリ! おまえらに手伝ってほしいことがある」
「手伝い……?」
 話をもちかけられた方は顔を見合わせた。
「一体、僕達に何をしろって言うんだっちゃ」
「時間がねえ。……急いで、罠をつくるんだ」



「迂闊だったな……」
 マジックは着衣に付いた土をはたいた。
「この私が、こんな目に遭わされるとは」
 キッと、マジックは何もない空間を睨みつけた。
 ……こんな目もそんな目も、自分のせいである。どんなに渋く決めようと、所詮、自分で掘った穴に自分で転がった事実がある以上、恰好付けが完璧にすべっていることに、当人は気付いていない。
「だが、今度こそ逃がさんぞ、シンタロー!」
「総帥! あちらの方に、シンタロー様らしい人影が」
 分散させた部下の報告に、マジックは首肯した。
 お日さまはとっくに高くのぼっていた。



「……にしても、誰が追っ手か知らねえだども、落とし穴なんか作っとらんと、何処かに早く逃げた方がええんでねえだか?」
 ミヤギの言葉に、シンタローは土をならしながら、あさはかなと言いたげな顔をした。
「何処に逃げても隠れても同じなんだよ! 一日中ずっと走りづめるわけにもいかねえ以上、休息のついでに敵を足止めする手をとった方が得策だろうが」
 その通りだった。体力の温存が優先事項だ。決して筆者が手を抜いたわけではない、念の為。
「シンタローはん、こんなもんでっか?」
 アラシヤマは網を差し出した。
「即興にしちゃ、上出来上出来! マジックだったら引っかかるぜ」
 落とし穴にスイカの蔦を編むようにかぶせながら、シンタローは頷いた。
 看過しえぬ、一つの名前に、ミヤギとトットリがかちんと固まりかける。
「……え……? マジック……??」
「マジックって……総帥……?」
 硬直を解こうとする二人の全身から、音を立てて血の気が引いていた。
「来とりんさるのは総帥なんだっちゃか!?」
「シンタロー! おめ、嘘こいたべなッ!」
「……嘘なんかついてねえよ。黙ってただけだぜ」
 ビビる気持ちはよく判る。黙っておいて正解だった、と、シンタローは心の中で呟いた。
「冗談でねえだ! オラ達は抜けるべ!」
 ミヤギは叫んだ。悲鳴寸前である。そのままダッシュして去ろうとするのを、
「――アラシヤマ!」
 シンタローの声に、アラシヤマが行手に立ちはだかる。
「ここまで加担しといて、あきまへんえ、お二人はん。地獄に堕ちる時は一緒どすわ!」
 前門のアラシヤマ、後門のシンタロー……。ミヤギとトットリは、ネコに狙いを定められたネズミと化していた。窮鼠猫を噛む、という格言は、彼らの場合、地球の反対側であった。
 がっくりと、二人は膝をついた。その瞬間、
「……っっ!?」
 ―どっげーん!!
 四人めがけて、景気よく無形爆弾が飛ばされた。マジックの撃った眼魔砲だ。
「うわぁーっ!」
「ぎゃ~~~ッッ!!」
 まともに受けて、トットリとミヤギはふっとんだ。毛布と布団がもうふっとんだ――懐かしい駄洒落である。
 アラシヤマとシンタローはすんでのところで直撃を避け、身をかばった。
「……っ!」
「来やがった、か」
 仁王立ちしているマジックの姿が、土煙の向こうに見える。
「また仲間を増やしてるのかい? 懲りない子だな。この際だ、全員まとめてお仕置きしなきゃいかんな……」
「懲りねえのはてめえの方だぜ、マジック!」
 ちら、と、地面と親交を深めているトットリたちを、シンタローは一瞥した。
「何をぼさっと寝てやがる! 死にてえのか!」
 その一喝に、身を起こし、ミヤギとトットリが泡を食って逃げ出す。それに合わせてシンタローも身をひるがえした。
 アラシヤマは行きかけて、後方を振り返った。
「テヅカくん!」
「キィーッ!」
 爆風に飛ばされたテヅカくんが、その場には残されていた。置いてゆくことなどできない。アラシヤマは方向を変え、駆け戻った。
「……アラシヤマ!?」
 シンタローは叫んだ。
「アラシヤマ、よせ! 戻るんだ!!」
 現場に屈み込んで、コウモリを抱き上げるアラシヤマ。マジックが、ついと腕を伸ばす。
 完全な射程距離。――絶好の、標的……。
「――危ねえ! アラシヤマッッ!!」
 テヅカくんをぎゅっと抱き締め、アラシヤマが目をつぶる。絶体絶命の、一瞬。
 ……その時初めて、シンタローは自ら眼魔砲を放っていた。
 ドウッ!
 頭髪一筋分を外してかすめる技。マジックはわずらわしげに手をかざして余波を蔽う。
 おや、おかしいぞ、なぜ緊迫するんだ。
「……今だ!! こっちに来い!」
 はっとして顔を上げ、アラシヤマは走りだした。すぐに救済者に追いつく。
「おおきに、シンタローはん!」
「別にてめぇの為じゃねえっ! あいつがテヅカを巻き込もうとしたからだっ。……貴様が生きようが死のうが俺の知ったことじゃねえが、一人だけ見殺しにしたら後味悪いだろーがよ!!」
 不本意そうにシンタローは答えた。その間も、無論疾駆は止まることはない。
 彼とアラシヤマは、たちまち先をゆく二人と並んだ。
「……テヅカくーんっ、こないな思いをさせてもうて堪忍なぁーっ!」
「キイィー!」
 アラシヤマは今度はしっかりテヅカくんを抱え、すったかすったか走っている。
「シンタロー! まだ逃げる気か!」
 態勢を立てなおしたマジックが、スイカ畑に踏み入ってきた。
「……ったりめーだッッ!」
 父親に叫び返して、シンタローは疾走した。
 ドーンッッ!
 畑で次々と爆発が起こる。当然、なっていた実はぐちゃぐちゃである。
「わ~~! 僕達のスイカ~っ!!」
「どうしてくれるべ、シンタロー!」
 トットリとミヤギの食糧事情が切迫していた。
 ……さようなら、日々の糧。明日から自分たちは飢えて路頭に迷うのだろうか。マジックに殺されるのも嫌だが、栄養失調で昇天するのも嫌だ。ああ、生きているうちにもう一度、故郷の二十世紀梨を、ササニシキを腹一杯食べたかった。父ちゃん母ちゃん、先立つ不幸を許してくれ、涅槃で待つ……。
 もはや思考が訳が判らない。
「我慢しろ! 今度夕飯に呼んでやる!」
「……ほんとだべなァ!?」
「シ、シンタローはん、総帥があぁ~ッ!!」
 ――どげんっ!!
 十センチの差で頬をすり抜ける眼魔砲。マジックが追いすがる。
「うわーん! 僕達無関係だっちゃがないやーっ!!」
「今更遅うおますがな! どわーっ!」
「そうだ、一蓮托生って四字熟語を知らんのかッ! ぎゃあァッッ」
「知っとるのと判るのは別物だべーっ!!」
「うわーっははは、後の祭りだ、後の祭り!」
 半分以上ぶち切れた精神状態でにぎやかに喚きつつ、四人は逃げ回った。
 やはり若さがものをいう。追撃するマジックは息切れを起こしかけていた。齢は取りたくないものである。
「無駄な抵抗はよしなさい、シンタロー!」
「貴様は警察かよ!」
 シンタローは落とし穴の上を飛び越えた。
「ここまで来てみろ、クソ親父!!」
 そのまま、一目散に猛ダッシュする。まっすぐそれを追おうとして、
「をおっ」
 ……ものの見事に、マジックは落とし穴にはまっていた。はっきり言って大たわけである。
「シンタロー! よくもッ!」
 穴の中からマジックが吠える。
「バ~カ! そこで当分寝てやがれっ!」
 その頃には遥か彼方まで離れていたシンタローは、手をメガホン代わりにして言い捨て、他の三人と共に逃げ去った。
「……やるな、シンタロー!」
 こうでなくては面白くない。マジックは拳をつくった。部下が駆けつけてくる。
「ごっ……ご無事ですか、総帥ッ!」
「今お救け申し上げます! ……総帥?」
 覗き込んだ穴の中で、彼らを統べる存在は、ひたすら自分の世界を形成していた。




<2>


 シンタローは深呼吸した。いる場所は、森と草原との境目だ。
「あー……えれェ目に遭っちまったぜ」
「何言うとりさるんだっちゃ! 僕らぁはただの巻き添えだわや!」
「そうだべっ。寿命が十年縮んじまっただよ、責任とってくれるんだべな!?」
 言いつのる者達に、シンタローはぼそりと返事をした。
「……マジックが帰ったら善処してやる」
「シンタローはん、わても忘れんといておくれやす」
「何言ってやがる、片棒担いだのは誰だよ。第一、先刻救けてやったろ!」
「……あんさんがおらなんだら起こらへんかった騒動どっしゃろっ!」
 アラシヤマは大事そうにテヅカくんを胸に抱き、口を尖らせる。
「あぁ、はいはい、わたくしが悪うございました! みんな一緒に責任をとらせてもらいますです!」
 シンタローは、投げやりに答えた。だが、このような表現ではあれ、彼が刺客連中に謝罪するなど、滅多にあることではない。
「あっらぁ~、シンタローさん♪♪」
「こんなところで、何を皆さんとお喋りなさってるのかしらん♪」
 ずるり、と、シンタローは精神的に滑った。ざわざわと背筋が粟立つ。
「……げっ! イトウ、タンノ!! どっから湧いて出やがった!」
「やーね、ひとを温泉かボウフラみたいに……」
「おまえらはヒトじゃねえッ」
「細かいことは言いっこなしにしましょうよ。ねえ、ほんとに何をしてたの?」
「何だか楽しそうよねぇ♪ アタシたちもお話しに混ぜてくれないかしら」
 ぬめぬめピチピチすりすりと擦り寄ってくる二人(?)に、シンタローは一転して地の底を這うような声で告げた。
「……あのなァ……俺は、今、とてつもなく機嫌が悪いんだよ――」
 ズガッ、バキッ、ドカッ、ゲシッ!
「――あっちに往ね! ナマモノッッ!!」
 激しい音と共に空を飛翔してゆく二つの塊。
「ああ、いつにも増して力強いあなたの拳ッ」
「……これも愛なのね~~っ!」
 ひゅ~ん……ドスンッ
「……ふんっ」
 シンタローはパンパンと手をはたいた。同行者はひそひそと囁きを交わし合った。
「本当に機嫌悪いっちゃね……」
「仕方あらしまへんわなぁ」
「……オラ達までとばっちり食っちまうべ」
 シンタローは、腰に手を当てて鼻白んだ。
「ったく、気色悪いったらねえぜ。ミヤギ、トットリ、アラシヤマ! 移動するぞ!」
 既に別行動を許可しない、有無を言わせぬ口調でシンタローは命じ、先にたって歩きだした。



「腹減ったナ、チャッピー!」
「わう」
 パプワとチャッピーは家の外に出てきた。
 お昼ごはんどころか、もうおやつの時間さえはるかに過ぎている。朝食の途中で姿を消したシンタローは、戻る気配を見せない。
「シンタローの奴、家事もほったらかして何処をうろついてるんだ。帰ってきたら、よォーく言い聞かせてやらんとな」
「わうあう!」
 それでも、木の実も保存食糧でしのぐこともせずに、パプワはシンタローを待ち続けていた。結局のところ、彼はシンタローになついているのだ。双方共に意識の概念からは外れていたけれど。
 ガサ……
 草を踏みしだく音。
「………?」
 パプワは、こちらにやってくる人物を仰いだ。それは……。



「いい加減、パプワの飯を作らねえと……」
 シンタローは焦りがちに呟いた。こうまでしても主夫業を忘れないところが、それが細胞レベルまで染みついているいい証明だ。ネタ探しと原稿書きと締切間際の浮気を染みつかせている『骨の髄まで同人屋』と、似ているかもしれない。ちょっと嫌である。
 強引に連れてこられた元同僚たちは、近くの樹にもたれていた。
「で……結局原因は何なんだべ?」
「……総帥の誕生日なんやそうどすわ」
「まさか、総帥にお祝いの言葉を言うか言わないかでこうなった、とかじゃないっちゃね……?」
 三人はそろぉりとシンタローを見た。当初の時点でそれに到達したアラシヤマも含め、その予測が完璧に的を射ていることを彼らは悟らざるをえない。
「一言言えば済んだんだわいや! そのせいで、なんで僕達まで……」
「せやけど、したら、このお話は最初っから存在しまへんがな」
「……何をわけの判らんことを口走っとるんだべ、アラシヤマ」
「誰ぞの代弁どす」
 シンタローは仲間の様子など眼中にない。ただただ、ほっぽってきた家事一般が彼の頭を占めていた。
「……腹減らしてるだろうなぁ、あいつ」
 だが、作っている途中でマジックに乱入でもされたら、一巻の終わりだ。ここまで逃げ続けているのがまったくの無駄になる。かといって、支度をしなかったら……。
 マジックも恐ろしいが、パプワはもっと恐ろしい。チャッピーまで加わったら命がいくつあっても足りない。ねこまたじゃあるまいし、命のスペアの心当たりはない。
 パプワの怒り>マジックの襲撃
 シンタローの脳裏で不等式が成り立っていた。
「……仕方ねえ、一旦家に戻る」
 シンタローは宣言した。何処かほっとしたように、他者が力を抜く。
「そうだべか、じゃあ、オラはこれで……。いやあ、今日は疲れただなやー。行くべ、トット――うげっ」
「待たんかっ!」
 ミヤギのタンクトップの首元をシンタローは掴んだ。引き戻された方は宙で足を空回りさせた。
「だァーれが帰っていいと言った」
「いっ嫌だべ! オラ達は部外者だべッ!」
「往生際の悪い! これならアラシヤマの方がよっぽどマシだぜ――」
 シンタローはアラシヤマを斜に見た。当の相手は、おどろ線をしょって、何やらぶつぶつとテヅカくんに話しかけている。
「……ええんどす……この騒動が治まったら、わてなんかもう声もかけてもらえへんのどすよってに……どうせわては嫌われもんなんどす……テヅカくん……あんさんだけがわての友達や……終わったら、森で、ふたり仲良う暮らしまひょなぁ……」
「――性格に、すっごく問題あるけど」
 シンタローはひくつきながら付け加えた。その間にトットリはこそこそと逃げかけていた。
 抜き足、差し足、忍び足……忍者なのだからお手のものである。
「あっ! ずるいべ、トットリ!!」
「甘いわッッ!」
 ミヤギを捕らえていた手を離すと同時に、シンタローは、身に付けていたナイフを投げつけた。
 カツッ!
 樹に刃が突き刺さる。はらりとトットリの髪の毛が数本散った。
 頭上を掠めたそれに、そのままぺたっと腰を抜かしてトットリは尻をついた。
「あぅ……だわおで……えうわ……」
 何を言っているのか自分で判っていない。シンタローは刺さったナイフを抜き取ると、トットリをずるずると引きずった。
 ここまできて、彼らの足並みは揃うどころか、むしろばらけていた。
 ――そんなことでどうする! 五人……もとい、四人と一匹の戦士達よ、今こそ心を一つに合わせて戦うのだ!!
 ……彼らは幼少期、戦隊ものに心をときめかせた世代だった……。
「……行くぞ」
 シンタローは、右手にトットリ、左手にミヤギをしっかり捕まえ、パプワハウスの方角へ歩を進めはじめた。その三歩後ろを、まだおどろ線同伴で、コウモリごとアラシヤマが随っていた。



「シンタローの、お父さん」
「やあ、坊や」
 自分を見上げるパプワに、マジックは笑いかけた。
 今朝ここに来た時に比べて、何処となくやつれたように見えるのは、気のせいではあるまい。……いい齢をして走り回るからである。急な運動による中高年のポックリ死が、あまり他人事ではないかもしれない。
「シンタローを、知らないかい?」
 遂に他力本願に出たか、マジック! いや、元々部下に探らせていたっけ、他者依存は今更だったか。
「あいつなら朝出ていったきりだぞ」
 殆ど反っくり返らんばかりにして、パプワは、おまえのせいだろう、と言いたげにマジックを見つめた。空腹のせいで、たたでさえいいとはいえない目付きがすわっている。最強のお子様に直視されて、マジックは頬の筋肉を痙攣させながら冷汗を拭った。
「お……お菓子でも食べるかい?」
 マジックは箱に入ったクッキーを差し出した。砕けまくっている辺りに、チェイスの激しさが偲ばれる。ただ単に自分がずっこけて砕いただけだという事実は、マジックの記憶辞書からは勿論削除済みである。
 ここで隠れて待っていれば、いずれシンタローは戻ってくるだろう。――名付けて、アリ地獄作戦!! サイテーのネーミングセンスだった。
「パパは負けないよ、シンちゃん!」
 ここに至って、否応なく、親子の激烈なゲームは最終局面を迎えようとしていたのであった。



「いいな、おまえらは囮だ。もしマジックが来るようだったら撹乱するんだぞ! どんな手を使っても構わねえ」
「……死にたくないっちゃ~……」
「かないっこねえだ! 絶対に殺されちまうべっ……」
「テヅカくん……もしもの時にはあんさんだけでも逃げとくれやす……時々は墓参りに来てぇなあー……」
 ……彼らに任せるには、いささか後顧の憂いがありすぎて心配かもしれない。
 シンタローは物陰から家の様子を窺った。
 外に出ているパプワとチャッピー。その傍に立っているのは――マジック?
「親父っ!?」
 小声でシンタローは叫んだ。なぜマジックがパプワといるのだ。部下まで連れて。
「え?」
 三人が血の気を失う。もしかして、もしかしなくても既にマジックとご対面……?
 地獄の釜が開く音が聞こえたような気がしたのは幻聴だろうか。
 シンタローは、ギリ、と歯を食いしばった。握り締めた両拳は、力の入り方を如実に表すように、指先の食い込んだ掌が白くなっていた。
 むかむかむかむか…… シンタローの怒りの水位が上昇してゆく。
 ぶつっ!
「――マジック!」
 打ち合わせも何もかも無視して、シンタローは飛び出していた。
「シンタローはんっ?」
 スタッとシンタローはマジックの前に降り立った。父親をすさまじい形相で睨みつける。マジックは、微妙に驚愕の表情を混ぜた。
「マジック、貴様ッ!」
「シンタロー……おまえの方から出てくるとは」
 マジックはふっと笑った。
「やっとあきらめる気になったか。最初からそうしていれば、ひどい目に遭わなかったものを。まあいい、私は寛大なんだ、潔さに免じて許してあげるよ、シンちゃん 」
 ひどい目に遭っていたのは、どちらかといえばシンタローよりマジックの方である。
「……ふざけるな!! よくもパプワに手を出したな!」
「……へ?」
「パプワには手出ししないと誓っておきながら、ぬけぬけとっ! そいつから離れろ!!」
「……は?」
「わずかでも貴様を信じた俺がバカだったぜ! 関係ねえ奴を人質にとるなんて、やっぱり貴様は最低なヤローだったなッ!!」
 関係ないというなら、刺客連中だってこの上ないほど無関係である。物陰で、恐怖のあまり足を竦ませぼーだー泣きしながら、該当者の複数がそう考えたかどうかは未確認だ。自分を棚に上げることにかけては比肩するものとてない親子であった。
 人質……パプワが、人質? マジックは慌てて両手を突き出した。眼魔砲ポーズではない。
「待て、シンタロー! 誤解だ!」
「ゴカイもイトミミズもねえ! てめえのくだらねぇ暇つぶしでそいつを巻き込みやがって! ここで決着をつけてやるっ!!」
「だから誤解だっっ!」
 マジックは訴えた。さすがにここで『やだなあ、シンちゃん、パパがそんなことするわけないじゃないか』と言うほど愚鈍ではない。
 キレた長男は全く聞く耳を持っていなかった。
「問答無用ッッ!」
 シンタローは完全にマジックに狙いを定め、両手を構えた。それまでたゆたっていた遠慮が消えていた。
「よけろ、パプワ! ……眼魔砲――――ッツッ!!!」

 ――ちゅっどおォ~んっ!!

「うぎゃあぁぁーっっ!」
 マジックは吹き飛ばされた。シリアスなら、片手で軽くシンタローの技を受けとめ、握り潰すところだが、いかんせんこの話はギャグであった。
 一方、
「そらおまへんえ、シンタローはーんっ!」
「なんでオラ達まで……っ」
「最後まで巻き添えになるんだっちゃかーっ」
 爆風の反動で、後方のアラシヤマたちもふっ飛ばされていた。殆ど小さな核爆弾である。放射能が出ない分、環境に優しいかもしれないが――って、それは別の話だ。
「「さよーならーっ」」
「おー達者でーっっ」
 ひゅるるるる……
 散々っぱら引っぱり回された挙句の、あまりといえばあまりの、ムゴい退場だった。……さらばだ、縁があったらまた会おう。
 煙が消えた時、そこに立っていたのは、パプワと彼に抱えられたチャッピー、そして眼魔砲を撃ったシンタローだけだった。
 シンタロー自身はともかく、この破壊の真っ只中で何の影響も受けていないパプワは、ただ者ではない。やはり世界最強のお子様なのかもしれなかった。
「わーいわーい、大爆発ー!」
 日の丸扇子を持って、パプワは下ろしたチャッピーと共に踊っている。
 シンタローは、片膝をついているマジックに、じり、とにじり寄った。南国の太陽は夕日に移行しつつあった。
「……そろそろ終わりにしようぜ、親父!」
 マジックが、くっと唇を歪め、立ち上がる。
「よかろう、これが最後だ……」
 再び、父と息子の力がぶつかり合おうとしていた。今度こそ、お互いただでは済むまい。もはや当初の目的から完全にずれていた。確か、祝いの言葉を言わせるかどうかで鬼ごっこをしていたのではなかったのだろうか、力比べをしてどーする。
 張り詰めた空気が二人の間に流れる。
 それを縫って、同じく巻き込まれたガンマ団員が、マジックの傍に這うように近付き、耳打ちした。
「総帥……お取り込み中の処恐縮ですが、そろそろ本部にお戻りになりませんと、その……未決済書類が――」
 マジックが一瞬固まる。悲しき支配職だった。
「……と言いたいところだが、シンタロー! 勝負は一度預ける」
「な……っ!」
 思わず絶句するシンタロー。何もこの場で撤退しなくても……。してくれた方が嬉しいが、タイミング的にひどく腹が立つ。
「だったら、最初から思いっきし無駄なことすんじゃねえよ、父親!」
「よんどころない事情だ。安心しろ、また来るよ、シンちゃん♪」
「二度と来んでいいッッ!」
 精神的に中指を突き立てながら、シンタローは怒鳴った。……間違っても己れの親相手にするポーズではない。
「今度来やがったらコンクリ詰めにしてやっかんな!! 覚えとけッ!」
 シンタローの剣幕に、マジックは肩をすくめた。親子の溝はまだ深い。退却したほうがいいようだ。
「じゃあね~っ」
 すったかたったー……
 手を振り、あっという間に、マジックは部下ともども逃げ足を発揮していた。まったくうちの艦隊は逃げる演技ばかり上手くなって――おっと、これは銀○伝。
 シンタローはマジックの消えた方角に蹴を入れた。
「けっ。一日振り回させやがって」
 指を頭の後ろで組み、これも無事だったパプワハウスに身を返す。シンタローの力のコントロールがうまかったのか、はたまた家が丈夫なのか。
「あーあ、骨折り損のくたびれ儲けだぜ。――腹減ったろ、パプワ。今、飯の支度するからな」
「……シンタロー」
「あんだよ?」
「いいのか?」
 パプワの問いかけに、シンタローは眉をひそめた。
「どーゆー意味だよ」
「親は大事にせんとばちがあたるぞ」
 子供に言われても、いまひとつ説得力がない。もっとも当の親が言ったら、いまみっつくらいない。幼児が一錠、成人三錠、何だか薬の分量みたいである。
「はん! 知ったことかよ」
 すねているようにも見えるそぶりで、シンタローは更に足を運ぶ。
 ……まだ、間に合う。心の奥底の、小さなささやき。
 ドアに手を掛けかけて、
「――パプワ」
 ためらいがちに、シンタローは訊ねた。
「食事……もう少し待てるか……?」
「別に僕は構わんゾ。さっきお菓子をもらったしな」
「わうわうわう!」
 シンタローは把手から手を離した。
「すまねぇ、パプワ!」
 タッとシンタローは駆け出した。その後を、パプワがチャッピーと一緒に追いかけてゆく。
 マジックが艦を着けた場所は、地形からいっておそらく前に押しかけてきた時と同じだ。
 その附近に出る、海岸への近道をシンタローは走った。心の中で、自分同士が喧嘩している。
「間に合ってくれ……!」
 道の両脇の茂み。増えてくるヤシの木。
 ここを抜ければ――…



「動力系統、異常ありません。いつでも発てます」
「……総帥、そろそろ――」
 幾分控えめに、部下が促す。マジックは島を見つめ、頷いた。
「ああ……」
 結局目的は果たせなかったが、充実した一日だったのは確かだ。今回はそれでよしとせねばなるまい。次の機会を伺うことにしよう。……つくづくはたメーワクな壮年であった。
「シンタロー、今日は見逃してあげるよ」



 ……突然、視界が開けた。鮮やかな夕陽に赤く乱反射する海。
 眩みそうになり、シンタローは目を細めた。
「到ちゃぁーくっ」
 パプワが代わりに言った。シンタローは瞬間的に頭をめぐらした。逆光だ。
 どうやら、ぎりぎりセーフだったらしい。
「――親父!」
 ザッ! シンタローはジャンプして、シルエットの前に着地した。
「シンタロー……」
 マジックは驚きと戸惑いをないまぜにした瞳で、最愛の息子を見やった。
「どうした。わざわざ見送りにきてくれたとも思えんが……。どうしても決着をつけなきゃならないかい?」
「あ……えっと、その……」
 シンタローは言いよどんだ。この期に及んで踏ん切りのつかない、決断力の無さが恨めしい。
「総帥、もう時間が――」
 促す声。マジックはシンタローに背を向けた。
 パプワはシンタローを仰ぎ見て、服の裾をきゅっと掴んだ。シンタローはそれを見下ろす。
 これを逃したら、もう言えない。
「……親父っ」
 マジックは再度シンタローを振り向いた。
「先刻から、何だ?」
「親――。父さん」
 シンタローは、こめかみを照れ臭げに掻き、思いきり息を吸い込んだ。
「……誕生日、おめでとよ」
 結局言うのか、シンタロー。初めからこうしていれば、ふっとばされていったきりの被害者も出ずに済んだものを、親子揃って迷惑なシンタローとマジックだった。あまり迷惑迷惑言っていると、昔懐かしアークダーマが出るかもしれない。要注意である。
 不思議そうに、マジックが息子を見つめなおす。シンタローはぶっきらぼうに言い足した。
「大サービスだ! ……本っ当に、おまけでついでに言ってやったんだからな!!」
 マジックは微笑を刻んだ。――僅かにして鮮やかな、笑み。
「――何処に隠してあるのかは知らんが、今度来る時は、秘石を返してもらうからな」
 カムフラージュなしで一日そのままにして、秘石の在処がばれなかったのが謎である。やはりガンマ団というのはマヌケ揃いかもしれない。
「……だぁーっ! 二度と来るなって言ってっだろーがっっ! 用は済んだろ、早く帰れよッ!!」
 半ば照れ隠しの怒鳴り声。
「そうしよう。――出るぞ」
 マジックは艦の中に消えた。ハッチが閉まる。
 潜水艦は次第に海中に沈んでいった。
 それを見送って、シンタローは大きく息を吐き出した。
「終わったな……。さてと、帰るか、パプワ」
 シンタローは傍らのパプワを眺めやった。ぎろりとパプワがねめつける。
「ところでシンタロー。おまえ、今日家事さぼったな」
「……え……」
 突然の豹変に、シンタローは状況を把握できなかった。それについては了承済みだったのではなかったか?
「飯も作らんと、何をこんなところでだらけてる! さっさと夕飯にせんかい!」
「ち……ちょっと待てよっ。だっておまえが、構わないって言っ……」
「言い訳するのか! まァーだ自分の立場を本気で判っとらんようだな。――チャッピー!!」
「あおーん!」
 がぷっ
 チャッピーの牙の間にシンタローの頭はあった。
「うっぎゃあぁ~~っっ!! すみませんごめんなさい、ご主人様、わたくしが悪うございましたぁぁ~~~ッ!」
 流血しながら、シンタローが右往左往する。たとえどんな不条理な事由でも、決してパプワに逆らうことは許されないということを、身体で理解させられたシンタローだった。
 ――冒頭の答え。結局、彼の立場は召使いであるらしかった。
「……申し訳ございません! 許してください、今すぐ支度させていただきますーッッ!!」
 陽の沈みかけた海岸を、二人と一匹の影が駆け去っていった。



「マジック総帥、取り敢えずこちらの書類にサインをお願いいたします」
 帰途の潜水艦の中で、早速マジックは書類責めに遭っていた。
「………」
「――総帥?」
『誕生日、おめでとよ』
 おめでとよ……おめでとよ……おめでとよ………
 別れ際のシンタローの言葉が、マジックの頭の中をこだましていた。
「ふっ……ふふふふふ……」
「あのォ~……もしもぉーし、総帥……?」
 恐る恐る呼びかける団員の声など、マジックの耳には届いていなかった。
 じーん…… 感動に、シンちゃん人形を抱き締めたまま、マジックは浸りきっている。呼ぶだけ無駄であった。正気に戻る頃には、書類の山で窒息死すること受け合いである。
「ふふふ……。シンちゃん♪ また行くからね♪♪」
 紆余曲折の末、この年の十二月十二日は、ちょっと幸福なままに終わったマジックだった――。





「おたんじょうびおめでとう、パパ」
「ありがとう、シンちゃん。とっても嬉しいよ」
「ほんと? じゃあね、ぼく、大人になっても毎年パパに言ってあげるね! ずっと、ずーっと!!」


 ……遠い、記憶の涯の約束――


 ――HAPPY BIRTHDAY!




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<4>


 アラシヤマは総帥室の扉の外で深呼吸した。
 ようやくマジックから解放され、一気に憑物が落ちたような気分だった。勿論、たかだか数時間後には会議でもう一度顔をあわせなくてはならないわけだが、とりあえずは自由の身である。
 アラシヤマは、唇の端に滲んだ血を拳でぐいっと拭った。
「――ウィローはん、待ってはるやろな」
 ここからなら、書庫へは、βエリアに移動して第四エレベーターで行くのが最も手っ取り早い。
 しみる傷に僅かに顔をしかめ、アラシヤマはその場を立ち去った。



「……砒素 arsenic、窒素属元素、原子番号三三、原子量七四・九二。天然では硫化物となりやすく、化合物は単体より毒性が強まる……」
 机の上には、カボチャのぬいぐるみ。
 シンタローはウィローを膝の上に乗せ、ページを開いた『最新劇毒物事典・1』を読み上げていた。彼にとっては面白くもなんともない。
 当のウィローは何が楽しいのか、きゃあきゃあ笑いながらシンタローの髪で遊んでいる。
「こら! 引っぱるなっ。コタローはそんなことしねえぞ! おとなしくしてねぇと読んでやらんっ!」
「嫌だぎゃあーっっ!!」
 ウィローは、もみじの手でシンタローの頬をむにっとひっつかんだ。同時に、壁に掛かっていた額縁がシンタローの後頭部をしこたまひっぱたき、またもとの場所に戻った。
「てめえッ!!」
 シンタローが手を引き剥がそうとした時、アラシヤマが閲覧室に入室してきた。
「ウィローはん、おまっとうさんー」
「♪♪♪」
 ぴん、と耳と尻尾を立て――無論比喩である――ウィローはアラシヤマの姿を見て、にこぱっと笑った。
「あれ……? シンタローはん、何であんさんまでおらはるんどす?」
「あのなァ……っ」
 シンタローはウィローを抱いて立ち上がった。保護者が来たことだし、早々に渡して退散してしまうに限る。きゃいきゃいとウィローはシンタローの髪の毛をいじっていた。
「おや、シンタローはんに遊んでもろうとったんどすか、よろしおしたなぁ、ウィローはん」
「違うわっっ!!」
 能天気なアラシヤマの声音に、シンタローは噛みつくように怒鳴った。
「アラシヤマ、お前の目は節穴かっ! これの何処が遊んでやってるように見えるんだよ!」
「……せやけど、そないにウィローはんは楽しそうやし。よう似合うてはりますがな。そうして抱いてはると何やおふくろさんみたいどすわ」
「待てよ、おめー……」
 むにょっ。
 ウィローは満面の笑顔で、シンタローの右耳を掴んでそれを振った。
「でーっ!!」
 手を離し、きゃぱきゃぱと打ち合わせる。少なくともウィローが喜んでいるのだけは事実である。
 ひくひくとシンタローは引きつっていた。我慢の限界だ。
「アラシヤマぁ~~?」
「……何どすか?」
「保護者はお前だったよなァ? こいつを拾ったのはお前、だったよな……?」
 訊ねる声がうねっている。
「そうどす」
 アラシヤマは首肯した。シンタローはずいっとウィローを突き出した。
「……やる。」
「ああッ、そんな、シンタローはん!」
 しっかりウィローの身柄は受け取ってかき抱き、アラシヤマは叫んだ。
「見捨てはるんどすかっ!! 子供には母親が必要どす!」
「誰が母親だ! 誰がッッ!!」
 ごく近い将来、シンタローが南国少年の『お母さん』をやることになるとは、知るはずもない彼らであった。
「うおぉ~~~っ! 男手ひとつで育てろなんて、あんさんは冷たいお人やーっっ!!」
「だから何で俺が母親にならなきゃいけないんだっ! 父親ならまだしも!」
 心なしか会話が脱線しかけている。
「せやかて、わてがお母さんになるよりマシどっしゃろ。シンタローはん、料理得意やし」
「けど、お前の方がぱっと見、母親だぞ?」
 ……完全に脱線していた。
 シンタローは突然はっと息を飲んだ。
 漫才になっていたことに気付いたらしい。彼は拳を振り下ろした。
「とにかくっ! 保護者はお前なんだからな! 責任持って面倒みろよ!!」
 言い捨てて、シンタローは身を翻した。追いすがる間もない。 書庫を出ていきざま、言葉を投げる。
「十五時からの会議、忘れんじゃねえぞ! そいつを連れて出てきやがったらぶん殴るぜ!?」
「……判っとりますがな」
 一拍後、既にシンタローの姿は視界から消えていた。
「やれやれ、気の短いお人や」
 アラシヤマは、ページが開きっぱなしになっている本の置かれた机の方へ近付いた。引かれたままの椅子にウィローごと腰を下ろす。
「さてと、他にも仕事がたてこんどるんで長居はできまへんけど、読書の続きにしまひょかいな?」



 ウィローは自分に与えられている研究室に立っていた。
「……どえりゃあやっとかめみてゃあな気がするなも(すごく久しぶりのような気がするな)」
 ぬいぐるみを机の上に乗せ、彼は半ば無意識に呟いた。
 考えてみれば、一昨日までは、ドクター高松の研究助手を務めるか、稀に軍隊の出征に同行する以外、殆どここに籠もりっきりの生活をしていたのだ。こんなにこの部屋を離れて過ごすことになるとは思いもよらなかった。
 アラシヤマは今、緊急会議中である。そうすぐに終わるものでないことは自分自身経験しているので、ウィローは待ち時間に自分の研究室を訪れたのだった。
 心持ちひんやりした、独特の空気。雰囲気とでも称すべき匂い。やはりここが一番落ち着く。
 高松に、自分が誤って服用してしまった薬の中和薬の調合を依頼したものの、ウィローは相手任せにしておくことができなくなっていた。高松を信用していないわけではない。その反対だ。
 自分自身でも努力しなければ、相手に申し訳が立たない。そうウィローは考えていた。もっとも、無差別にその申し訳を発揮するつもりはさらさらないところが、彼の彼たる部分である。
 そのままでは届かない為、木組みの椅子を使って、一冊の本を取り出す。あちこち擦り切れ、ページをめくるだけでも一苦労のような古書だ。
 ウィローは左綴じのその本の、前から三分の一程のページを開いた。
 ちょうど、魔力を持った薬の作り方の項だ。それらを基に、独自の実験を重ね、彼は新しい薬を生み出していたのである。
 ここでもう一度いくつかの魔法薬を作ってみれば、もしかしたら忘れてしまった中和薬の必要材料と調合法を思い出せるかもしれない。かけらでも記憶を喚び戻すことができれば、あとはそれに則って逆作用に対比させてゆけばなんとかなる。そう思ってのことだった。
 ウィローは本を置いた。軽く目を閉じ、精神を安定させるためにゆっくりと深呼吸する。
「ラゥ・フォルカ・キリア……我、幽幻の現し身にして彼の地を繋ぐ。あまねく在りし者、杳き光纏いし同胞、我が言の葉を請けよ――」
 ウィローは抑揚を絞った声音で唱えた。ふわりと、異種の空気が彼の周囲にまとわりつく。一種の防御のようなものだった。そうしないと背反する魔力の反発を受けることがあるのだ。
 ウィローは材料を手に取った。
「……まずは痺れ薬だぎゃあ」
 一転して、音符を飛ばさんばかりに楽しそうな口調である。
 ヒヨスの汁を水を満たした壷に垂らし、ウィローは乾燥したコウモリの羽根を放りこんだ。
「火にかけて……と。ここで宮きしめんの粉末……」
 一掴み加え、しばらく待つ。ときどき掻き混ぜながら、ウィローは幾度かに分けて粉をふるった。
 どろりとしてきたら八割方できたも同然である。あとは沸騰直前に仕上げだ。
「最後に守口漬……」
 ウィローは切れ端をぽとりと落とした。瞬間的に吹きこぼれそうになった液体は、すぐに鎮まり、代わってぷつぷつとした小さな泡を出しはじめた。
 これで完成である。効力には自信があった。
「水に混ぜてまや、判れせんぎゃあ。何処で使ったろみゃあか(水に混ぜてしまえば判らないぜ。何処で使ってやろうか)」
 何が何でも他人を使って実験したがる性癖は健在であった。はた迷惑、という言葉は、彼の辞書には載ってはいるが塗りつぶされているらしい。とはいえ、師である高松のように、自分に都合の悪い単語を根本的に削除していないだけ、まだましと言うべきだろうか。
 ウィローは壺を火元からおろした。
 今度はトカゲに変えた人間を元の姿に戻す薬だ。対象者がいない以上、実際に作っても材料を無駄にするだけなので、思考シミュレーションするにとどめる。妙なところで名古屋人の倹約性分が出てしまう彼であった。
 ネズミの尻尾を煮立てて、なごやんの皮だけを入れ、火を止める。冷めたら味噌カツの黒焼きを一つまみ。そして仕上げはないろ。
 口の中で復唱する。これも完璧だ。試すまでもなく効果は確実だった。
 ウィローは大きく息をついた。この調子なら大丈夫そうだ。
 己れの作った変化薬の組成をもう一度思い返す。……をちこちとなごやんとゆかりときしめんパイときんさんぎんさんのブロマイドを、カエルの足を『名古屋の水』で煎じたものに入れ、必要成分が抽出されたら、ういろう。それは確かである。
 では、自分が大人に戻るには……?
 をちこちに対比するもの――。
「――……」
 ウィローは言葉を失った。
 何一つ、確かな記憶が出てこない。
「あ……あれ……。おかしいぎゃあ。ワシ、まんだ焦っとるんか……? まっぺん勘考して――」
 声がうわずってかすれる。頭の中が真っ白だった。膝ががくがくと震える。
「………」
 焦りすぎて自分を追いつめたせいで思い出せなかっただけ、のはずなのに。何故まだ記憶が蘇らないのだろう。
「何で……覚えとれせんの……?」
 自失に近いほど茫然と独語し、ウィローは力が抜けたようにしゃがみこんだ。
「……っ!」
 涙がこぼれてくる。抑えたくても止められなかった。
 ウィローは膝を抱え、丸まった形に身体を縮めた。涙の粒が床に跳ねた。
 一切声をたてず、彼は泣いていた。それは、これまでの無遠慮な幼児の泣き喚き方とは正反対に位置していた。
 独りっきりの部屋の中、誰もいないのに、声をおし殺して泣く―。
 それこそが本来の彼の、名古屋ウィローの泣き方であるのかもしれなかった。淋しがり屋の、けれど誰も傍にいてはくれない孤独な子供の涙の流し方。
「……元に戻りてゃあぎゃあー……」
 ほんのわずかに嗚咽の呼吸だけを洩らしながら、ひたすらにウィローは涙を溢れさせていた。



「すっかり遅うなってしもたなぁ」
 アラシヤマはひとりごちた。
 午後九時、一日の仕事を終え、団員宿舎へ戻る途中である。ウィローはアラシヤマにおぶわれていた。
 ぽとりと、ぬいぐるみが落ちる。
「あーあ、あきまへんえ。……ウィローはん?」
 背中のウィローが突然重くなったような気がして、アラシヤマは首を後ろに向けた。
 くー……すぴー……
「なんや、寝てしまいはったんか……」
 ウィローは、アラシヤマに体を預け、無防備に寝入っている。疲れたのらしい。アラシヤマはぬいぐるみを拾い、ウィローを背負い直した。
「それにしても……ウィローはん、いつまでこのまんまなんどっしゃろなぁ……」
 ふと、悪魔の誘惑にかられる。
「いや、待てよ……いっそのこと、ずっと子供のままでもええかも――」
 それなりに苦労は多いだろうが、このままならウィローを完全に自分に懐かせ、友達にすることができる。自分好みに育てることもできるかもしれない。プリンセスメーカー逆バージョンである。
 ……そこまで愛に飢えているのか、アラシヤマ。哀れを誘う思考だった。
「――はっ、あかん! わてはなんちゅうことを考えとるんや」
 アラシヤマはぷるぷると頭を振った。
 幼児化が進行しているとはいえ、中身はあくまで『ガンマ団団員・名古屋ウィロー』なのだ。自分のさもしい考えが通用するはずがなかった。
 彼の不穏な思考回路を知らず、ウィローは安心しきって熟睡していた。
 アラシヤマは小さくため息をつき、宿舎の門扉をくぐった。



 ――ボンッ
 白々と明ける光がカーテンの隙間から漏れてくる研究室で、薄煙が上がった。
「ふっ……ふっふっふっ……」
 高松は満足そうに笑った。丸二日の夜を徹しての実験と調薬の疲れの翳りは微塵もない。
「遂に完成できたか……」
 彼の握り締めた試験管の中で、何色ともつかない液体が小さな泡をたてていた。



 早朝、突然響いたエマージェンシー・コールに、アラシヤマは跳ね起きた。
「……警報!?」
 第二級臨戦警戒警報。いったい何が起こったのか。敵襲でもあったというのだろうか。
 睡魔は一瞬で消し飛んでいた。傍らで眠っていたウィローに目をやる。ウィローは部屋中に響きわたる――全部屋、防音設備は完璧だ――コールに、ぬぼーっと上半身を起こしていた。本人は起きているつもりなのだろうが、身体がついていっていない。
 アラシヤマは素早く身仕度をととのえた。一分の隙もなく、いつでも動ける状態まで、その間百五十秒。だてに何度も実戦の修羅場をくぐり抜けてきたわけではない。
 彼が、まだ目を覚ましきっていないウィローの着替えを手伝ってやろうと手を伸ばしたところで、急に、ぷっつりと音が止まった。
「………?」
 普通なら延々鳴り続ける筈の警報音が途切れたことに不審を抱いて、アラシヤマはドアを開け、廊下の様子を覗いた。
「え?」
 そこには誰もいなかった。何事もなかったかのように、静まり返っている。まだ誰一人身仕度を終えていない、ということではあるまい。他の部屋には警報は鳴らなかったのだ。
「どうゆうことや……?」
 アラシヤマが戸惑って呟いた途端、今度は、各部屋に設置されている電話回線のベルが鳴った。
 ドアを閉め、アラシヤマは四コール目で受話器を取った。
 彼がまだ一言も口を開かないうちに、回線の向こうから聞き覚えのある声が流れ出てきた。
『しっかり目は覚めているようですね。さすがに、今やガンマ団有数の能力の持ち主と呼ばれるようになっているだけのことはありますねー』
「どっ……ド……ドクターッ!?」
 アラシヤマは送話口に向かって叫んでいた。明るい声が肯定してのける。
『そうですよ』
「……まさか……ひょっとして……わての部屋だけにエマージェンシー・コールを流しはったのは……っっ」
『無論、私です。いい目覚ましになったでしょう?』
 受話器を握り締める手に力が篭もる。相手が目の前にいたら、極楽鳥の舞で黒焦げにしてやりたいところだ。目覚まし時計代わりに警戒警報を鳴らすなど、非常識以前の問題だった。
「一体全体何の用どす!」
『御挨拶ですねぇ。わざわざ君に直接連絡をとる必要のある用件なんて、決まっているじゃありませんか』
 アラシヤマは、反射的にウィローを見た。やっと本格的に目を覚ましつつあるらしい。
 受話器の向こうで、高松は声の調子を少し真面目なものに変えた。
『――中和薬ができました。名古屋くんを連れて本部まで来て下さい。そうですね……検診も行ないたいので、私の研究室ではなく、医務室の方にお願いします』
「はいっっ!!」
 力強く、アラシヤマは返事をした。
 通話を切り、ウィローに向き直る。
「ウィローはん、喜びなはれ! 薬が完成したそうどすわ!」
 ウィローはぱちぱちとまばたきした。一瞬、何を言われたのかが判らない。
「……薬……? 中和薬ができたんきゃあも?」
「その通りどす!」
 アラシヤマは、ウィローをぎゅっと抱き締めた。
「ほんまによろしおしたなぁ……」
 腕にすっぽりと納まって、ウィローはむしろぼんやりとした口調でひとりごちる。
「ワシ……本当に元に戻れるんきゃあ……?」
 アラシヤマは手を離し、ウィローを促した。
「さ、支度しまひょ。ぼけっとしとる暇はありまへんえ。本部に行かなあかんのどすよってに」
 ずっとこのままで、と内心願い続けていたアラシヤマにとっては、少し物寂しい思いがなかったと言えば嘘になるだろう。だが、最も良い結末を純粋に祝う気持ちの方が、はるかに多くを占めていたのだった。



「……早かったですね」
 医務室に入ってきたアラシヤマと抱かれたウィローに、高松はゆとりの笑みを見せた。カルテをデスクの上に置く。
 かたわらには、吐きそうな表情の、シャツの胸をさらけだした武者のコージがいた。子供の姿ではない。
「コージはん?」
 アラシヤマはコージをしげしげと眺めた。完成した薬で元に戻れたのだ。
 ちょうど検査を受け終わったところなのだろう。コージは制服のボタンをとめているところだった。時々さすっている手枷の痕が痛々しい。
 アラシヤマは傍に歩み寄り、ウィローを下ろした。あくまで執着するので、ハロウィンカボチャも一緒である。
 ウィローはぬいぐるみを両手で抱えて高松を見た。
「ドクター……」
 高松は微笑み、杯ほどの小さなコップを差し出した。そこに陽炎のように揺らめく薬が満たされていた。
「試作薬No.9……これが頼まれていた中和薬です。やっとできましたよ、名古屋くん」
 ウィローは左手で薬を受け取った。高松が自信を持って渡す以上は、危険性は殆どないはずだ。
「これが……中和薬……」
 容器の中味を見つめる。甘い香りのする液体にウィローは口を付けた。
 こっくんっ
 ウィローは薬を飲み込んだ。これで全てが終わるのだ――これで……。
 瞳に映る世界が瞬間的に揺らいだ。
 高松達が息を詰めて自分に視線を向けているのが判る。彼らの姿が閃光の中に融けた。
「………・」
 ――ぽんっ
 煙がウィローの全身を霞のように取り巻いた。
 薄煙が拡散した時、発生の中心にいたウィローは、床に膝をついていた。
「ウィローはん!」
 アラシヤマの感極まった声。ウィローは自分の身体を眺めまわした。まとったマント。上衣の袖。スラックスの裾。布地が余りすぎていたはずの自分の服は、身ごろ幅以外正寸だ。
 ウィローは恐る恐る立ち上がった。目線の高さが違う。そうだ、これは本当の自分がいつも目にしていた視界……。
「戻っ……た?」
 同席者を見回したウィローは、飛び跳ねんばかりになって声を上げた。
「ワシ、元に戻れたんだぎゃあーっ!!」
 ウィローは高松に目を止め、その手を握り締めた。
「ドクターのおかげだがや! どんだけ感謝しても足りーせんくりゃあだて! ワシ……ワシ……っっ!!」
「どういたしまして」
 高松はにっこりと微笑した。嫌味な嗤いではない。信頼している相手の礼を受けとめる笑い方だった。アラシヤマはすっとウィローの肩に手を置いた。
「よろしおしたな」
 いささか見上げる位置から、ウィローはアラシヤマを見た。破顔する。
「おみゃあさんにもえれえ世話になってまったなも」
 高松はウィローのカルテを引き出し、ボールペンの後ろ側でとんとんと叩いた。再検査の前に聞いておかねばならないことがある。
「さて……。名古屋くん、中和薬の調合の仕方、思い出しましたか?」
 言われて、ウィローは一瞬目を細めた。この薬の組成は――。 頭の中にかかったままだった靄が晴れていた。
「……イモリの舌を煎じて、千なりときよめ餅とかしわとダイナゴンとわかしゃち国体のメモパッドを加えて、ないろを仕上げに一切れ入れるんだがや」
「う……っ」
 原料名を聞いた瞬間、コージは屈み込んで口を押さえた。飲んだ薬の異様な甘さの正体はこれだったのだ。急激に嘔吐感がよみがえる。
「ぐ……」
 コージはよれよれと洗面台の方に這っていった。アラシヤマは下からくぐらせるようにして肩を貸し、連れていってやった。
「大丈夫どすか、コージはん」
 アラシヤマは、洗面台に突っ伏して吐いているコージの背中をゆるく撫でさすった。
「……げ……」
「コージはん……気持ちは判るんどすけど、少し我慢した方がええのとちゃいますやろか……。あんまりもどすと、その――薬の効果が……」
 コージはぴたりと動きを止めた。
「………」
 襲い来る吐き気を懸命にこらえ、コージは肩で息をしていた。アラシヤマはずっと背中をさすってやっている。
 最初からコージのことなど眼中にないらしい高松は、ウィローの返答に満足気に頷いた。彼自身はそのものを使ったわけではなく、成分合成したのだが。
「記憶も戻ったようですね。では、問診を行いましょうか。椅子に腰掛けてらっしゃい」
「判ったがや。……あ、待ってちょー」
 ウィローは床に落ちたぬいぐるみを見やった。静かに拾い上げる。笑っているカボチャの顔をしばし注視していたウィローは、小さく微笑んだ。
 彼はアラシヤマの前に立った。
「……返すぎゃ」
 ようやく吐き気の治まったらしいコージから手を離し、アラシヤマは首を振った。
「ええんどす。あんさんにあげますわ」
「そうじゃ、もらっとけ。他人の好意は素直に受けるものじゃけんのー」
 まだ少し顔色は悪いが、普段の声調でコージは同意した。
「ほんじゃ、受け取らせてまうわ(それじゃ、受け取らせてもらうよ)」
 ウィローはにこっと笑った。その表情は、子供になっていた間を彷彿させるものだった。アラシヤマは腕の中に抱いていた幼いウィローの面影を見たように思った。
 ウィローはマントを翻し、高松のもとに引き返した。
 もう自分の『保護』はいらない。アラシヤマはコージと連れ立って医務室の扉の方に向かいかけた。
 その耳に、浮き立ったウィローと高松の不穏な会話が飛び込んでくる。
「……おかげで元に戻れたがや。これで安心して新しい薬を作れるぎゃあ 」
「そうですか、私もなかなか楽しませていただきましたよ。近いうちに二人で共同して新薬開発にあたってみましょうか?」
「そらええ考えだなも。今から歯が鳴るて(今から待ちどおしいよ)」
「本当に楽しみですねぇ♪」
「作ろみゃあ、作ろみゃあ♪」
 ぷつりとアラシヤマの神経の糸が切れた。アラシヤマは燃え盛らんばかりの勢いで怒鳴った。
「まーだ懲りとらんのどすか、あんさんはーっっ!!」
 こうして、さまざまな思い出を残して、ちび騒ぎの二日半はそこそこ大団円に幕を閉じたのだった。
 そう、一部の例外を残して……。


 その頃、高松の研究室では例外が肩を寄せ合っていた。
 トットリとミヤギは囚われたまま泣き叫んだ。
「それにしても……僕達……」
「いつになったら元に戻れるんだべーッッ!!」
 二人の叫びは部屋にこだまし、虚しく消えた――。


<3>

 カチャカタ チャカ
 パサッ ガタン カタ……ピィーッ
「んー……」
 ウィローは音と限局性の灯りに薄目を開けた。
 深夜三時――
 大騒ぎの一日が過ぎ、その夜、ガンマ団の団員宿舎でのことである。ウィローがいるのはアラシヤマの部屋のベッドだ。本来は二人部屋なのだが、人数の都合と、誰も同室希望を出さないという二点に於いてアラシヤマは個室扱いとなっていたから、他人の邪魔にはならない。
 先だってアラシヤマはウィローに夜は自室に戻るよう勧めたのだが、必要なものだけ取ってくると、アラシヤマの部屋に強引にウィローは居据わったのだった。
「うにゃ……?」
 ウィローは寝ぼけまなこをこすりこすり、むくりと起き上がった。抱えている、枕にもなりそうな大きなジャック・オ・ランタン――ハロウィンカボチャのぬいぐるみは、何故かアラシヤマの所有物である。今年のガンマ団新年パーティーで引き当てたのだ。捨てるわけにもいかず、部屋の置物になっていたのだった。
「な……に?」
 アラシヤマは備え付けのライティングデスクに向かい、真剣な顔をしている。
 袖と裾を何重にもまくりあげたパジャマ――自前である――姿のウィローは、制服の襟元のボタンを二つほど外しただけで昼間と変わらぬ格好のアラシヤマをぽやーっと見やった。
「起こしてしもたんか。堪忍してや。まだ寝とってええんどすよ」
「何しとりゃあすの?」
「……報告書の作成どす。提出するはずやった書類が水浸しになってしまいよったんでな。バックアップデータは完成の時点で破棄する規則やし、一から打ち直しどすわ」
 まだ半分眠っているウィローに律儀に答えながら、アラシヤマはノートパソコンのキーを叩いた。
「まあ、フォーマットも文章も、今あるとおりに写せばいいだけましどすけど――、……ああ、まちごうたっ」
 決してできないわけでも性に合っていないわけでもないが、日頃戦場を飛び回っているアラシヤマにとって、こういった事務系の入力作業は勝手が違う。時々不意に押すべきキーの場所を見失ったり、罫線を引き損ねたりの連続で四苦八苦することになるのだった。
 おまけに内容が出征に際してのものであるから、余計に気が重くならざるを得ない。実感を伴わない単なる数字で表されてゆく出兵費用、損害額、そして敵味方の戦死者・負傷者数……。
 彼が自ら手を下した敵兵。血の泥濘の中でこときれていた幾人もの部下。……記憶はあまりにも鮮明であるのに、その結果はただの数字に置き換えられてしまうのだ。
 ガンマ団に籍を置いている者にとって、例外なく、戦闘は空気と同じで……。戦うことは簡単だったけれど、そこに隠れている部分に目をつぶることはアラシヤマにはできなかった。
「第二中隊生還率八七パーセント……うち軽傷者数……。げ、また打ち間違いや」
 アラシヤマは舌打ちして削除キーを押した。途端に、どう失敗したものか、三行分ばかり一気に消してしまう。
「わーっ!!」
 悪戦苦闘するアラシヤマの背中を、ようやく覚醒したらしいウィローはあきれ顔で眺めていた。
「とろくせゃあ……(ばかばかしい……)。ほんなことでは朝までかかっても終われせんがや」
 アラシヤマはくるりと振り向いた。
「慣れとらんのどす!」
「……だったら部下にやらせやええが。どうせそれを作ったのはおみゃあでねゃあんだろ?」
 その言葉に、アラシヤマの脳裏に、いつも二人一組で行動している凸凹コンビ、中村と南が浮かぶ。この書類の作成担当は彼らの筈だ。
「濡らしたのはわての責任どす。関係ないものをやり直しさせられしまへん」
 ウィローは姿勢を変え、机の上のバックライト液晶画面に目をやった。
「しゃあねゃあな。ワシが手伝ったろみゃあか」
「はぁ?」
 ウィローはベッドから降り、アラシヤマの傍まで行った。
「その水浸しにはワシも噛んどるぎゃあ。関係者が手を貸すのはええんだろ?」
 アラシヤマの発言を逆手に取ったウィローであった。
「退きゃあ。打ち込みしたるでよ」
 アラシヤマは不得要領なまま、言われたとおり椅子から離れた。ウィローはよじ登るようにその椅子に腰掛ける。
「でも、ウィローはん、あんさん、キー打ちできるんでっか……?」
 ウィローは気分を害した様子で、発言者をはすに睨んだ。
「打てるに決まっとるがや。おみゃあさんたらあと一緒にしやあすな(お前達と一緒にするなよ)」
 おそらくはコージたちも含めているらしい複数形で、ウィローはアラシヤマに文句をつけた。せっかく親切心を出してやったものを、技術に疑いを持たれて嬉しい筈がない。
「せやけど……」
「まあ、見とりゃあ。……あ、書類の内容を読むのは許いたってちょ」
「それは構えしまへんけど……今更どすし」
 ウィローはパソコンの表示画面に視線を戻した。小さな手ゆえにキーのカバー範囲がいささか苦しそうな感はあるが、両手をホームポジションに置く。
 画面と、キーボードの左側に置かれている皺が寄って反り返った報告書を交互に瞳に映しながら、ウィローは的確に文書を入力していった。キーボードなど殆ど見ていない。
 それこそ魔法のようにウィローの指が動くのを、アラシヤマは感嘆の眼差しで見やった。
「すごいもんどすな……。ウィローはんにこないな特技があらはったなんて知りまへんどしたわ」
 別に得意げな表情を浮かべるでもなく、ウィローは一段落打ち終えたところで一旦手を止め、返事をした。
「特技のわけあらすか。これくりゃあできねゃあようでは、作戦案が立てれーせんて(特技のわけあるかよ。これくらいできないようでは、作戦案が立てられないぞ)」
 言われてみればそうである。大抵の場合は本部に残ったまま己れの研究に没頭しているとはいえ、一応、立場上は軍の参謀なのだ。出兵計画や細部の作戦など、文書の形で作成し上層部に提出したことの一度や二度ないはずがなかった。得体の知れない魔術を執り行っている印象が強すぎて、ウィローの役職を忘れていたアラシヤマであった。
 ウィローは書類のページを繰り、再び入力作業を開始した。背後に立ってそれを見物していたアラシヤマに、彼は鋭い言葉を投げた。
「邪魔だぎゃ。離れとってちょーすか(離れていてくれ)」
「はいはい……」
 部屋の主はすごすごとベッド脇に引き下がった。
 しかし、結構生真面目なところのあるアラシヤマは、自分がすべき仕事を他人にさせていることに申し訳なさを感じていた。まして、『子供の夜更かし』を奨励する気にはなれない。
「……けど、ウィローはん、三時半になったら寝とくれやす。あとはわてがやりますよってに」
「ワシが全部やったるぎゃあ。おみゃあに任いたるとほんとに終わりそうもねゃあで」
「ええんどす。今日――もうとうに昨日どすな――はいろいろあって疲れはったやろ? よう眠らなあきまへんわ。中途半端に起こしてしまってすんまへん」
「別にもう眠くねゃあわ」
「駄目どす!」
 アラシヤマが語気を強める。ウィローは不承不承といった雰囲気で頷いた。これだけは譲ってもらえそうもない。ならばそれまでに一行でも多く打ち込んでおこうと、彼はキーボードに神経を集中した。



 一方その頃――
「うーむ……やはり不確定要素が多いか」
「ドクターっ!」
 高松は、ウィローから受け取った薬と試験管の中の試作薬No.1の分析結果を注視していた。そこにかぶさるもはや悲鳴のような声音に、彼は声の主をじろりと横目で見た。
「何です、夜中に。寝ていればいいものを」
 視線の先に、子供に変えられた三人がいた。
「寝られるわけねぇべ! この鎖を外してけろ!!」
「なんで手枷足枷を付けるんじゃッ」
「これじゃ監禁みたいだわいや!」
 鎖をじゃらじゃら鳴らす彼らに、高松はうざったいと言わんばかりの表情で言葉を返した。
「みたいじゃなくて監禁してるんですよ」
 高松はデータ用紙を机上に置き、かすかに椅子にきしみをたてさせて向きなおった。
「そうでもしなきゃ逃げだすでしょうが、あんたら。……私は捕えた獲物はのがさない主義です」
 すっと、試験管を手に取り、椅子から立ち上がる。
「さて、と。どうデータを見ても失敗作ですが……せっかく三人とも起きていることですし、一応試してあげましょうか」
 無駄な抵抗とは知りつつも、歩み寄る高松から逃れようと、コージたちは後ずさった。ぴん、と、つながれた鎖が一杯に引っ張られる。
「まっ……待っちゃりい!」
「僕は飲みたくないっちゃー!」
「オラは嫌だべッッ!」
 真っ青になっている、自分の遥か後輩を、高松は却って優しいほどの目付きで眺め回した。
「遠慮しなくてもいいんですよ。さあ、誰に第一号の栄誉を担ってもらいましょうかねぇ……ふっふっふっふっ……」
 その十秒後、高松の研究室から、この世のものとも思えない叫び声が響き渡った――。


 午前三時五十分、机についていたアラシヤマは指を組み合わせて身体を伸ばし、己れのベッドを振り返った。
 ぬいぐるみを大事そうに抱え、ウィローは完全に眠りに落ちている。
 アラシヤマは満足気な吐息を残し、パソコン画面に再度目を戻した――。



「……まだ眠いぎゃあ……」
 ウィローはぽてぽてとアラシヤマの数歩前を歩いていた。よほど気に入ったのか、ぬいぐるみのカボチャを離さずに引きずっている。
「せやから、寝とって構えへんて言いましたやろ? 帰ってもええんどすよ?」
 事情が事情であるから、別にウィロー自身はガンマ団本部に出てこなくても許されるのだが、アラシヤマの出勤に彼はくっついてきたのだった。
「やーっ! ワシはおみゃあさんとおりてゃあんだぎゃあ」
 アラシヤマは結局完徹だったのだが、特に眠そうでもない。徹夜には慣れているのだ。むしろ一日二日の徹夜で寝不足を訴える者の方が少ない。
「やれやれ……」
 アラシヤマは右目を覆う前髪を手櫛で軽く後ろに流した。
 ぽてぽてぽ……ずるっ
 そういう擬音を伴って、前にいたウィローが転ぶ。履いていたブーツが脱げてしまったのである。
「~~~っっ……」
 床にうつぶせになって、ウィローは行き場のない怒りを循環させていた。
 アラシヤマはさもありなんと言いたげな表情で、ウィローを起こしてやった。ウィローのアラシヤマを見返す瞳がじんわり潤んでいる。
「やっぱりわてが抱いとった方がよろしおすなァ……」
 呟いて、アラシヤマはひょいっとウィローを抱え上げた。前日ずっと抱いていたこともあり、すっかりだっこに馴染んでしまった彼であった。ウィローはぬいぐるみごとおとなしく抱かれている。
「それにしても……。その恰好のままでは、歩くに歩けまへんわな。ウィローはんに合ったサイズの服があればええんどすけど……」
 いくら何でも子供の頃の衣服を未だに保管してあるわけもなく、ウィローはいつもの自前の魔法使いルックである。アラシヤマは寸法を直してやろうとしたのだが、マントから何から、それ自体に魔力を宿しているという、服の持ち主の強硬な反対に遭い、断念せざるをえなかったのだった。
「……とにかく報告書を届けんとあかんな。はよ総帥室に行かんと。ウィローはん、この封筒を持っとってや」
「任いてちょ」
 アラシヤマは両手でウィローを強く抱きかかえ、早足で歩きだした。
 彼らの通る先、何か恐ろしいものでもやってきたかのように、団員たちは皆、通路の端にへばりついて避けまくってゆく。まるでウィローとアラシヤマの全身に犬猫忌避剤でも振り撒かれていたかのような、見事な避けっぷりである。
 前日一日で彼らの脅威は知れ渡っていた。あえて余計な面倒ごとに巻き込まれたくないと思う気持ちは判らないでもない。
 邪魔をする→アラシヤマが怒る→黒焦げ
 ウィローが泣く→騒霊現象→直撃で昏倒
 ……そのいずれか一方、ないし両方が己れを襲う可能性があるとなれば、さわらぬ神に祟りなしを決め込みたいのも無理もなかろう。世界最強の殺し屋集団といえど、構成員も所詮人の子である。
 まるで海を二つに割ったモーゼのように開かれてゆく道を、ウィローを抱えたアラシヤマは鉄面皮のまま歩き過ぎていった。
 総帥室のあるエリア――各ブロックごとにいざという時には隔壁が下りるようになっているのだ――まで来たところで、不意にアラシヤマは後頭部をはたかれた。
「おい!」
「なっ……?」
 アラシヤマは力の加わった方面をキッと向いた。
「何をしはりますのん!」
 凶器らしい分厚いファイルを掴んだ黒髪の若い男が、左手を腰に当て、面白くもなさそうな顔で立っている。
「わては急いで――……シンタローはん!」
 見返していたのは総帥の長男であるシンタローだった。軍のナンバー2であるアラシヤマに唯一能力的に勝る人間――彼以外に、報復措置を気にせずアラシヤマに手を出せる存在がいる筈もなかった。
 シンタローはアラシヤマも含めてウィローを一瞥した。
「こいつがグンマが言ってた奴かよ」
「……珍しゅうおますな……」
 二重の意味でアラシヤマは独語した。
 一つは、存在そのものを無視することはあっても、シンタローがアラシヤマに声をかけるなど日頃はありえないということ。もう一つは――。
 父親であるマジックと半ば断絶状況にあるシンタローが、この辺りにいることはまずないということ。よほどのことでもなくては近付こうとはしないのだから。
 シンタローは敏感に双方の意味を感じ取ったらしい。
「けっ! うっせーよ。誰が好きでこんなところにいるかよっ。第一、用がなきゃてめぇなんざと関わりゃしねえ! ……十五時から、総帥直々に出席の緊急会議だ。九階第一会議室! 遅れたら減俸ものだぜ!」
 神妙にアラシヤマは頷いた。やけにシンタローの虫の居所が悪い理由がなんとなく推察できる。シンタローは、ウィローがぬいぐるみと一緒に大切そうに持っている報告書の封筒に目を止め、付け加えた。
「それと! ついでだから……あくまでついでだからな! 教えておいてやる。親……マジックが、未提出書類があるってんで、青スジ山程立てながらやたらめったらニコニコしてたぞ。せいぜい覚悟しとけよ」
 ざーっとアラシヤマの顔から血の気が失せた。
「うわー……」
 やばいなどというものではない。人間、一見機嫌が良さそうに思える時ほどえてして怖いのだ。マジックの秘められた怒りの程度が想像できる。
 がっくりと肩を落としたアラシヤマの頭を、ウィローはぽちゃっとした手で慰めるように撫でた。
 シンタローは言うだけ言っておいて、ズカズカと歩み去りかけた。逆行しようとしたアラシヤマは、そこでふと思いついた。その頭上に白熱電球が点灯する。古典的手法である。
「……そうや、シンタローはん!」
「何だよ!?」
 長居は無用とばかりに遠のきつつあったシンタローは、足を止め、自分を呼んだ者を睨んだ。
「あんさん、子供服って持ってはりまへんか?」
「子供服ぅ~?」
「そうどす。ウィローはんに着せてやりとうおましてな」
 シンタローは呆れたようにアラシヤマを見る。
「お前……俺がガキの頃の服をいつまでも保存してあるとでも思ってんじゃねえだろうな。とうの昔に捨てたぜ、そんな物」
「そうやあらしまへん! 弟さんのとか……手に入るんとちゃうかと思っただけどす。ウィローはんとそんなにサイズは変わらんやろし……。少々大きめなのの都合がつきまへんやろか」
 アラシヤマは腕の中にいるウィローと、自分の上位に立つ人間を見比べた。シンタローの表情に戸惑いが見え隠れする。
「コタローのか?」
 シンタローは困惑をにじませて呟いた。
「そりゃ……なくはないけど……」
 現在進行形で兄弟一緒に暮らしている、というならともかく、別離させられた弟の服を大事にとってある辺り、筋金入りのブラコン兄貴だ。それを見越して訊ねるアラシヤマもアラシヤマである。
「だけど、何でおめーに……」
 溺愛している弟、コタローの想い出の品を、シンタローがそう簡単に渡すはずがないのは、予測の内だ。アラシヤマは下手に出た。
「あんさんの大事なもんを借りようなんて、無理は承知の上どす。せやけど、ここは一つ、うんと言うてもらえまへんか」
 よしッ、もう一押し!
 妙に口車の発達している奴であった。独りぼっちの自分の部屋で鏡を相手に話し込んでいるという噂は、誇張こそあれ、あながち嘘ではないらしい。
「……コタロー……の―? でも……コタロー……」
 弟の名を繰り返すシンタローの目付きがいつのまにかどっかりと胡坐をかいていた。いや、体操座りか、はたまた横座りかもしれない。
「シンタロー、はん?」
「うおおぉぉ~~~ッツッ!! コタローッッ!!!」
 吠えるようなシンタローの声がフロアにこだました。
「コタロォー! お兄ちゃんは……お兄ちゃんはっ!」
「あ~……あのー、シンタローはん……」
「待ってろ!! お兄ちゃん、いつかきっとお前を迎えにいくからなーっっ!! ざけんな、クソ親父ッ!!」
 もはやあっちの世界の人だ。アラシヤマは頭を抱えてうずくまりたい衝動にかられた。
「……あかんわ、こりゃ」
 くるぅりと方向転換して、アラシヤマは本来の目的地をめざした。
「行きまひょか、ウィローはん……」
 立ち去るアラシヤマとウィローの背後で、シンタローの叫びが壁に響き渡っていた。
 総帥室の前で、アラシヤマはウィローを降ろした。
「なるだけ早う出てくるつもりどすけど、ちょっと時間がかかるかもしれまへんな……」
 マジックの怒りの度合いによっては、延々お説教か、場合によっては厳罰を食らわなくてはならないかもしれない。ウィローにここでじっと待たせるのは酷だ。
「行き先さえはっきりしとれば、どっかで遊んどってもええどすえ」
「だったら、ワシ、書庫に行っとるぎゃあ。ちーと読みてゃあ新刊が入っとるでよ」
「そうどすか。じゃあ、わてが送って――いく余裕はあらしまへんどしたな……」
 この期に及んでウィローの足代わりを務めようという辺り、一日で完全に保護者が染みついてしまったらしい。
「書庫で待っとっておくんなはれ。あとで迎えに行きますよってな」
「判ったぎゃ」
 扉の前を衛る、マジック直属の団員に敬礼し、アラシヤマは入室した。ウィローは小首を傾げて、保護者の消えた扉を眺めやっていた。
 それからウィローはぬいぐるみのカボチャと自分のマントで半分床掃除しながら図書閲覧室へむかった。



「……では、No.4にいってみましょうかね」
 高松は焦茶色の液体の入った試験管を揺すった。彼の前には目を白黒させながらぐったりと座り込んでいる被験体がいた。
「どうしました、三人とも。今はおやすみの時間じゃありませんよ」
「……き……気違い科学者だべ……」
 丸一日でげっそりとやつれたミヤギの独り言に、高松はきらりと目を光らせた。
「何か言いましたか?」
 ぶんぶんぶんっ
 ミヤギは脳みそが遠心分離器に掛かったのと同じ状態になるのでは、というほど頭を振った。ただでさえ憔悴しているところへやったために、目を回してぐらぁりと倒れかける。
「空耳とは思えませんでしたがね。……どうせですから君に飲ませてあげましょう。運が良ければ元の姿に戻れますよ。まあ、十中八九無理でしょうけど」
 判っているなら飲まさなければいいようなものだが、これもより完璧な中和薬を完成させるための大事なデータサンプル――もしくは単なる趣味であった。このバイタリティーは一体何処からくるのか。
 高松はミヤギの顎を掴み、強引に薬を流し込んだ。
「うぎゃらべれぬだげ~~~っ」
 日本語になっていない叫び声をあげて、ばったりとミヤギはぶっ倒れた。すぐ後ろにいたトットリが下敷きになる。
「おや、気絶してしまいましたねぇ。軟弱な。もう少し試し甲斐のある人間だと思っていたのに」
 コージはひくりと引きつりながら、逃げ腰に移動した。武士の誇りも何も、生きていればこそである。じゃらりと枷につながっている鎖が鳴った。
「たーか松っ」
 研究室のドアを開けた隙間から、淡い金髪を下の方で結わえた若者がひょこりと顔を覗かせる。ただ一人、この部屋に無許可で立ち入ることのできる人間だ。
「グンマ様」
 グンマは中に入ってきた。
「調子はどう? あまり無理しないでね」
「大丈夫ですとも♪ グンマ様に気遣っていただけるとは、光栄の至り」
「何言ってるのさ! ぼくが高松を心配するのは当然のことじゃないか♪♪」
「ああ、なんとお優しい……この高松、グンマ様を誠心誠意お育て申し上げた甲斐があったというものです」
 今の今まで地獄の使いのような嗤いをミヤギたちに向けていたくせに、高松はころりと態度を変えていた。『グンマオタクの変態科学者』の名がまかり通る所以である。
 取り敢えずコージの危機は先に延ばされたようだった。



 昨日独りでうろついていた時には不安が先立って、とても周囲を見る余裕がなかったのだが、いざ落ち着いてみると、この視界レベルというのもそれはそれで滅多にできない体験かもしれない、とウィローは考えた。既に開き直りの境地だった。
 すっ転ぶのは判りきっていたから、歩調はさして早くはない。ウィローは相変わらず通行者に自主的に道をあけさせながら、進んでいった。
 階段を一段ずつ昇る。ごく幼い子供がよくやる、一段ごとに両足で立つ昇り方である。
 踊り場までもうあと数段、というところで、
「わっ……」
 ぐらりと、ウィローの身体が後ろにかしぐ。
 子供というのは頭が重いので、重心が後方にかかりがちなのだ。幼児が急な階段の昇降を四つんばいですることがあるのは、転げ落ちないための自然の知恵である。もっとも、幼い頃さんざん落っこちたせいで、いい齢をして未だに、家庭内の階段は両手をつかないと昇れない筆者のようなトンマも時にはいるが、そういうのは例外にしておいてもらいたい。
「危ないっ!!」
 空中を自由落下しかけたウィローを、がしっと抱き止めた腕があった。
 目をぱちくりさせて、ウィローは救い主を仰ぎ見た。落ちながらもぬいぐるみを手放さなかったのはいっそ称賛に値するかもしれない。
「大丈夫かよ?」
 いつの間にあっちの世界から帰ってきたものか、シンタローが抱いたウィローを見下ろしていた。ウィローはシンタローの顔を直視した。
「………」
 息を詰めて、じぃっと見つめる。あまりにまっすぐな視線を向けられて、シンタローは眉間に皺を寄せた。
「何だよ!? 別にどこか打ったわけでもねえだろ」
 こっくん。
 ウィローは肯定した。その無防備な表情に、シンタローは軽く舌打ちの音を立てた。たとえ中身が何歳であれ、『子供』には弱い。
「ちっ、仕方ねぇ。また上から降ってこられても困るから連れていってやる。お前、何処に行くつもりなんだ? ……誤解するなよ! 俺は別に親切で言ってるわけじゃねえからな!」
「書庫だがや」
「図書室? ……なんだ、すぐそこじゃねえか」
 シンタローは片手でウィローを肩にかつぎ上げ、二段跳ばしで階段を上っていった。
「おもしれーぎゃあっ」
 ウィローは歓声をあげた。アラシヤマの壊れ物を扱うような抱き方も甘えられて好きだが、幾分乱暴なシンタローの動作も遊園地で遊んでいるような気分で結構楽しい。
「だーっ! 静かにしてろ! 地上まで投げ落とすぞ!!」
 シンタローは怒鳴った。びっくりしたように、ウィローがひゅっと息を飲む。
「ぶっ殺されてぇのかッ!!」
「う……うぇっ……」
 脅し文句に、ウィローはたちまち泣きだしそうに顔をぐしゃぐしゃにした。
「ふ……うぅ……ぴえぇ……」
 爆発寸前の嗚咽。
 景気よくウィローが泣き落とし戦法に出かけた時、肩に引っ掛けた彼をシンタローは慌てて揺さぶった。
「わーーっっ!! 泣くんじゃねぇ!」
 泣かれては分が悪い。焦った様子でシンタローはウィローをあやした。目線を合わせる。
「ほっ……ほーら、もうすぐ閲覧室だぞー! そうだ、俺が本を読んでやる! なっ!?」
「……ひゅぐっ……おぶおぶ」
 ぬいぐるみを抱えていない右手の指をくわえて、ウィローは涙をいっぱいにためた目でシンタローを見た。
「よーし! 行くぜ」
 シンタローは、一旦停止していた踊り場から更に階段を昇りだした。これを上がれば書庫フロアだ。
「いいか、男ってのはそう簡単に泣いちゃいけねぇんだぞ」
 誰に言うともなくシンタローは呟いた。
 ウィローはぽふっとジャック・オ・ランタンの目鼻の部分に顔をうずめた。いつも笑っているカボチャとにらめっこ、である。
 シンタローは最後の段差を三段跳ばしで飛び上がり、曲がり角を折れた。子供の扱いにはたけているガンマ団ナンバー1であった。
「ほれ! 着いたぞ」
 図書閲覧室内に足を踏み入れる。
 ウィローは身をよじり、シンタローの腕の中からぴょいっと飛び降りた。
 ……ずべしゃっ
 バランスを崩して、ウィローは、そのまま床に顔面衝突した。めりこまなかっただけ幸運である。
「をい?」
「うー……」
 ウィローはむくっと身を起こした。ぶつけた鼻の頭が赤い。
「ったく、マジに運動神経未発達なヤローだな。気をつけろ」
 ウィローの両脇の下を支えてぶら下げ、つかつかと机の方に近付いて、シンタローはそのお荷物を椅子に乗せた。転がっていたぬいぐるみを拾い、ウィローの膝の上に置いてやる。
「……で? 何を読みたいんだ? 絵本か?」
 果たして絵本がガンマ団に存在するかどうかは謎である。
「おみゃあさん、たーけたことこいてかんわ! 最新劇毒物事典だぎゃあ」
「あ……あぁ、そう……」
「それと『続・簡単に造れる中性子爆弾』が先週入っとるはずだでよ」
 がんっと、シンタローの顎が落ちる。
「そんな本読んでんじゃねェッッ!!」
 そんな本入れてんじゃねェッッ!! 思わずそうつっこみたくなるのは筆者だけだろうか。いやない(反語)。
 さすがに殺しのプロが集結する組織、本の品揃えも普通ではなかった。もっともそれ以前に、よくそんな本が発行可能だったものである。
「子供は子供らしく、素直におとぎ話とかのりもの図鑑とか見てろ! コタローは童話が好きだぞ!?」
「……ワシの勝手だがや」
 シンタローはこめかみを押さえた。無意識に弟の残像とウィローをすり替えていた彼にとっては、由々しき事態だった。
「俺……帰ろうかな」
 シンタローは背を向けた。
 一歩目を床に降ろす前に、無造作に束ねた黒髪が、ぎゅん、とひっぱられる。
「いてっ!」
 存外強い力に、シンタローは仰け反った。ウィローは掴んだ頭髪をあくまで離さない。
「……判ったよっ!」
 苦虫を噛みつぶしたような顔で、シンタローは吐き捨てた。シンタローのついた諦めのため息は、ケルマデック海溝最深部一万とんで四十七メートル級のものであった。




<2>

高松はふぅっと息を吐き出した。
「もう起きて結構ですよ」
 ウィローは検査台から身を起こした。頭をぷるぷると振る。
「……こんなもん、長ゃあこと受けとらんかったがや。ちーとびっくりこいてまったて」
「そうですね。年二回の総合健康診断はともかくとして、精密検査は――確か、君がガンマ団の団員候補生になってまもない頃以来ですか」
 当時、まだ子供の域を脱していなかったウィローを、連日連夜の研究実験に付き合わせ、過労で寝込ませたことのある高松である。もっともそれは、彼がウィローを半人前扱いせず、対等な研究仲間としてみていたということでもあったから、ウィローは負の感情は抱かなかった。むしろそこで、高松の絶対的な信奉者となったのだ。
「ほうだったなも」
「さて……そろそろアラシヤマくんが血相を変えて飛び込んでくる頃ですねぇ。一旦出ますか。ああ、グンマ様、また戻りますから機械はそのままにしておいて構いませんよ」
「うん、判った」
 グンマはモニターの傍を離れた。当然のように、高松に寄り添う。
「……名古屋くん、ひとつ訊きますが」
「?」
 高松に呼ばれて、検査台から降りようとしていたウィローはそちらを仰いだ。
「随分とアラシヤマくんのことを気に入っているようですが、何か特別な理由でもあるんですか?」
 ウィローは春の野原のような笑い方をした。
「内緒だぎゃ」



「あああ……ウィローはんどないなことされとるんやろ」
 律儀に壁拭きしてからぐしょ濡れの制服を替え、アラシヤマは医局フロアに引き返してきた。
 彼が室内に入ろうとするのと、検査室の扉が開くのとは同時だった。
 出てきたウィローはアラシヤマの姿を認めると、満面の笑顔になり、飛びついてきた。
 不安でどうしようもないまま本部をうろついた挙句に目にしたアラシヤマは、実はウィローにとって刷り込みに似た状態を催させる存在であったのだ。無論、親と思ったわけはないが、安心できる存在、保護してくれる存在として、ウィローの中では位置付けられていたのだった。
「ウィローはん! 何ともあらしまへんか!?」
 アラシヤマはウィローを抱き上げた。
「平気だぎゃあ。ドクターは名医だでよ」
「……そうですとも。本当に君には信頼されてませんねぇ」
 後から出てきた高松は不満そうな顔をしていた。もっと不満そうなのは傍らのグンマであったが。グンマにしてみれば、高松がパーフェクトなのだから。
「高松に失礼だろ!」
「かまいませんよ、グンマ様」
 むくれるグンマをなだめ、高松はウィローの方に目線をスライドさせた。
「もう少しで総合結果が出せますから、お茶でも飲んできて結構ですよ。……ところで、名古屋くん。例の薬はまだ残っているんですか?」
「ワシの研究室にあるぎゃあ」
「では、後で持ってきてもらえませんか。中和薬を作るのに、成分分析が必要ですから……」
「判ったがや。持ってくるて。行こみゃあかあ(行こうよ)」
 ウィローは自分を抱いているアラシヤマを促した。既に足代わりである。
 アラシヤマと彼に連れられたウィローの姿が見えなくなったところで、高松は吐息した。
「それにしても厄介ですねぇ……」
「どうしたの、高松?」
 きょんと、グンマは高松を見た。
「いえ……。別に安請け合いしたつもりはありませんが、名古屋くんの薬の作り方というのはかなり特殊ですから、私が再現するには少々苦労するかもしれないと思いまして」
 真面目な顔で、高松は答えた。たしかに、黒魔術に基づいた魔法薬を科学的見地から作り出すのは、いささか骨の折れる作業になるだろう。
 グンマはくすっと笑った。
「大丈夫だよ。僕の高松にできないことがあるわけないじゃないか」
「グンマ様……」
 部外者侵入不可の二人の世界。そこだけ空気は薔薇色に染められていた。



 とぷんと、全ての元凶の薬を小さな壺ですくう。
 背の高さが足りずに椅子に乗って甕の中に手をつっこんでいたウィローは、今度こそは失敗すまいと、きっちり蓋をしてから床に下りた。
 アラシヤマは薄ら寒そうに首をすくめ、ウィローの研究室を眺め回していた。
 飾り付けが不気味なだけではない。本棚に並んでいるのは、どれも怪しげな黒魔術の手引書である。古ぼけ、あちこち補修してあるところからいって、年代物なのは間違いない。
「それは爺っさまからもらったんだぎゃあ。ワシの爺っさまは大魔道士なんだて。いつかワシも、偉ぇ魔法使いになりてゃあんだわ」
「そ……そうなんどすか……。おきばりやす……」
 魔女狩り、中世ヨーロッパ、黒猫――そういった単語がアラシヤマの脳裏ではぐるぐると回転していた。所詮彼の想像力ではこれが限界である。
「あ~、えーと、ウィローはん、その薬はどんな材料でできとるんどすか?」
 ウィローをこの姿に変えてしまう効力をもつ薬だ。一体何が使われているのか。
「これきゃあ?」
 ウィローは薬壷をたぽんと揺らした。
「これはカエルの足を煎じた中に、をちこちとなごやんと坂角ゆかりときしめんパイときんさんぎんさんのブロマイドを入れて、最後にういろうで仕上げたんだぎゃあ。……それぞれを入れるタイミングがうまくいかんくって、なかなかできーせんかったんだけどよ」
 ……なるほど、黒魔術名古屋風である。
「もう用は済んだぎゃあ。出よみゃあ」
 ウィローの言葉に、アラシヤマはあからさまにほっとした表情を浮かべた。初めてこの部屋を訪れることになったわけだが、これを最後にしたいと彼は切実に思っていた。
「そうどすな、出まひょ出まひょっ」
 すったかすったか先にたって退出しようとするアラシヤマを、ウィローはその場に立ったまま仰ぎ見た。
「……おんぶ」
 アラシヤマは一呼吸のあいだ一時停止し、ウィローの方を振り向いた。
 元からかなり甘えん坊な性格が、子供化することで助長されたものらしい。
「はいはいはいっ」
 渋々といったていでしゃがみこみながら、結局ほのかな幸せをアラシヤマは感じていた。
 ウィローをおぶってやり、すっくと立ち上がる。重さなどないも同然だった。弾みをつけるように背負いなおして、アラシヤマは扉に手を掛けた。
 通路のつきあたりにある研究室を出、歩きだす。その髪の毛を、ウィローはくいっとひっぱった。
「腹減ったがや!」
 髪を掴まれたことに文句も言わず、アラシヤマは腕時計を見た。その間だけウィローを片手で支えることになってしまったが、それは致し方ない。
「ああ……もう昼をだいぶ回っとるんやな。そうどすな、ドクターがお茶にしてきてええて言うてはったことどすし、何か食べまひょか」
 アラシヤマの返事に、背中でぴょいぴょい跳ねるようにウィローが身動きする。
「あきまへんて、ウィローはん! 暴れたら危険やてさっきも注意したでっしゃろ?」
「……ん」
 ウィローは、アラシヤマの首にしっかりしがみついた。
「そうそう。したら、食堂に行きましょなァ」
 アラシヤマはウィローをおぶった状態で階段を昇っていった。ちびウィローが人混みにつぶされるのを懸念して、最初から、エレベーターを手段から排除する辺り、とことん他人を優先する彼であった。



「何か食べたいものはおますか?」
 アラシヤマは空いていたテーブルの一つに陣取り、帽子を膝の上に抱えたウィローに訊いた。
「お子さまランチーっ!」
「ウィローはん、ウィローはん……」
 アラシヤマは額を押さえた。
「そないなもんあらしまへん」
「嫌だぎゃあ! ワシ、ぜってゃあお子さまランチを食べてゃあんだがや! 味ねゃあもんは食わーせんぎゃあ!!(まずいものは食べないぞ!!)」
「ないもんはないんどすっ」
「ううぅ……」
 すねて、ウィローは上目遣いにアラシヤマを見た。アラシヤマは深いため息をついた。
 子供っぽい言動をするかと思えば意外と元のままで、大人としての態度を示しているかと思うと突然幼児性が顔を覗かせる。一体どちらが本物なのだろう。
「……だったらこうしまひょ」
 アラシヤマは、胸ポケットから支給品の手帳を取り出し、未使用のページを一枚破った。更にそれを分割しておいて、テーブルに置かれているケースの爪楊枝を抜き取り、縁を巻き付ける。
 その紙にペンで赤丸をかいて、アラシヤマはウィローの目の前にそれを差し出した。
「即興やけど、日の丸の旗どすわ。チキンライスか何か選んで、これを立てたら、少しは気分が出るんやありまへんか? これで我慢してや」
 嬉しそうに笑って、ウィローは頷いた。アラシヤマは安堵の吐息をこぼした。
「じゃあ、チキンライスと、あとオレンジジュースくらいで……わては日替わりランチにしとこかいなぁ……」
「プリンも欲しいぎゃあ!」
「あー、はいはい。デザートもいるんどすな」
「アラシヤマでねえべか」
 オーダーを考えているアラシヤマに、声がかけられた。
「え?」
 人の気配の方に視線を向けると、ミヤギとトットリがテーブルの前にいた。
 彼らがわざわざアラシヤマを呼ぶ。これがどれほど希有な事態に属する事柄であることか。日頃は完全に毛嫌いして無視してのけるのだから。この滅多にない状況を引き起こさせたのは、アラシヤマの隣で床に届かない足をぶらぶらさせているウィローに相違なかった。
「これが、子供にかえってしまったっちゅう、名古屋の外郎売りだべか?」
 ちなみに、知らない方へ。外郎売りとは別に名古屋名物『ういろう』を訪問販売しているわけではなく、一種の薬売りのことである。
「本当に小さな子供になってしまってるっちゃね」
 ウィローはじぃっと二人を見上げた。ずっと視線を揺るがせることがない。
「魔法使いもこうしとればただのガキだべなァ」
 ミヤギは指でウィローの額をつついた。
「なにしはるんどす! ウィローはんに手ぇ出さんでや!」
「ちっとぐらいええべさ」
 ミヤギは更にウィローをつんつくつつきまわそうとした。
 がぷっ。
「ぎゃっ!」
 ミヤギは手を引っ込めた。ウィローが思いきり指に噛みついたのだ。
「何すっべ! このクソガキ!!」
 ミヤギはウィローを怒鳴りつけた。
「人の指を噛むでねえ!!」
 ウィローはまっすぐにミヤギを見つめていたが、彼の握り拳を目にするとびくっと身を縮めた。
「う……う……うぅ……」
 顔をぐしゃぐしゃに歪める。
「ぴえええぇぇーっっ!!」
 ウィローは大きな泣き声をあげた。
 テーブル上の箸立てが突然宙に浮き、ミヤギの頬を掠めた。ふよふよとソース入れが空中で躍っている。殆どポルターガイストであった。
 アラシヤマは瞬時にウィローを抱え込んで、ミヤギをねめつけた。
「ウィローはんを泣かしはったな!」
「うええぇーっ!」
 騒霊現象はアラシヤマに庇護された時点ですぐにおさまったが、ぼろぼろと、次から次へと涙を量産させ、振りまきながら原因のウィローは泣きわめく。まったくよく泣く奴である。
「びえぇーん!!」
「……ミヤギくんが悪いんだっちゃよ」
 トットリはぼそっと呟いた。
「そんなこと言ってもオラは知らねえべ! 泣かそうと思ったわけでねえべよっ!」
「ウィローはんを……泣かしよったな……」
 地面から這い上がってくるようなアラシヤマの声音。ミヤギは硬直した。
「まっ……待つだよ、アラシヤマっ! 話せば判るべ!!」
「問答無用どすッ!! 平等院鳳凰堂極楽鳥の舞ッッ!!!」
「うぎゃあ~~っっ!」
「ふえーん!」
「わーっ! ミヤギくんが燃えちょるー!! ……いでよ、脳天気雲ォーって、しまった! 今、僕、ゲタ履いてなかったわいや!!」
 どうでもいいが、場所は昼日中の食堂である……。
 不幸にもその時そこにいた団員たちは、逃げるに逃げられず遠巻きにするよりなかった。これが、時に要人暗殺を請け負うこともあるガンマ団屈指のエリートたちのいさかいごととは、とても信じられない。
 場所限定で、決して周囲に被害が広がらないのが、特殊能力が完全にコントロールされている証拠なのだが、見ている方にとっては、だからといって心安まるはずもない。
 そんな時、騒ぎの中心部に、恐れる様子もなく悠然として近付いてゆく者がいた。
「うるせぇのー、ぬしら……。せっかくのメシが落ち着いて食えなくなるじゃろうが」
 カキフライ定食の盆を左手に乗せた武者のコージであった。コージは右親指で背後を指した。
「アラシヤマ、ええ加減、火を消しちゃりぃ。みんな怯えとるけんのォ」
「……コージはん」
 アラシヤマはくいっと手首を返した。同時にミヤギを焦がしていた炎が消滅する。
「ミヤギくん、大丈夫だっちゃか!?」
「ア……ア、アラシヤマ……おめ、今度覚悟しとけよ!」
 黒焦げ寸前で、へたりこんだミヤギはぜいぜいと肩で息をした。
「最初に悪いのはあんさんどす!」
 アラシヤマは、まだ燃やし足りないと言いたげな顔でミヤギを睨んでから、ウィローに向き直った。
「ウィローはん、もう怖くありまへんえ」
「うっく……ぐしゅ……ひゅぐひゅぐ……」
 ウィローはしゃくり上げていたが、アラシヤマに頭を撫でられると唇を引き結び、目をごしごしとこすった。
 ミヤギは床との親交を断ち切って立ち上がった。
 事の顛末を見届けてから、一人だけのどかな声をコージは出した。
「よーし、ここの所は丸くおさまったようじゃのぉ」
 これをおさまったといえるのかどうかは定かではないが、一応騒ぎは終息している。別に計算したつもりもなくコージは最良のタイミングで割って入ったのだった。
「ああ、どうせじゃから、みんなでメシにせんかの? わしも入らせてもらうけん」
 彼は盆をテーブルに置いた。さりげなく、さして意図したわけではなしにいざこざの再燃を阻止させる行動をとるコージであった。



「……で、何どすか、あんさんら! なんで医務室までついてくるんどす」
 アラシヤマはぎろりと同行者を睨みつけた。
「別に深い意味はねぇべ」
「僕はミヤギくんと一緒に歩いちょるだけだっちゃわいや」
「なんか面白そうじゃけんのー」
 過去の恐怖は何処へやら、かつてドクター高松のおもちゃにされた面々が、揃いも揃ってその元に向かっているのだった。
「知りまへんえ、どうなっても!」
 ウィローはアラシヤマに抱かれながら、ついてくる三人の顔をきょときょとと見比べていた。どうやら、アラシヤマ以外にだっこされるなら、他より飛び抜けて背の高いコージだな、と考えていたらしい。
 ウィローは身を乗り出して、コージの制服を掴もうとするように手を伸ばした。
「こら! ウィローはん、おとなしくしとりって何べんゆうたら判るんどす」
「だっこーっ!」
「しとるやろ?」
「ほうでねゃあて! あっち!」
 ウィローは左手でコージを指差した。アラシヤマは立ち止まり、腕の中の存在と指された相手とを交互に見た。
「コージはんに抱いとってほしいんどすか?」
 大きくウィローは頷いた。
「わては別にええどすけど……」
 自分にいつも変わらぬ調子で接してくる数少ない人間に、アラシヤマは窺うような目線を投げかける。豪快に笑ってコージは許諾した。
「おお、わしは構わんけん、来いや」
 アラシヤマは、それなら、という表情でウィローを託した。コージはウィローを抱き取ると、たかいたかいの要領でひょいっと掲げた。やっている者の身長が身長なだけに、通路の天井に届かんばかりだ。
「ほーれ、高いじゃろ」
 コージは目をまんまるくしているウィローに笑みを向けた。にこにことしたまま彼は話しかけた。
「ただ抱かれとーもつまらんじゃろ。肩車にするかのぉ? そうじゃ、そのまま肩に担いで座らせちゃろかの」
「肩車がええぎゃあ」
「コージはん、危ないことはやめておくんなはれ。ウィローはんもそんなことをねだらんといておくれやす」
 アラシヤマは渋い顔で豪放な同僚を仰視した。コージは臆した様子はない。
「わははは、アラシヤマ、ぬしも肝っ玉が小せぇのォ」
「そういう問題とちゃいます!」
「肩車、肩車ーっ!」
 ウィローはばたばたと手足をばたつかせた。行動パターンがどんどん本物の子供に近付いている。コージは掲げ上げていたウィローをすとんと両肩の間に下ろしてやった。
「ちゃんと支えてやっとればええんじゃろうが? 安心せい、気はつけとるけんのー」
 きゃいきゃいと喜んでいるウィローのはしゃぎぶりを目にして、アラシヤマは諦めたように呼気を漏らした。今更言っても無駄だ。
「何じゃったら、ぬしも乗せちゃるがの」
 至極何気なさそうなコージの言葉に、アラシヤマはびくぅっとした。うつむいて両手の人差し指の先をつつき合わせる。
「えっ、そんな……わてはっ……その」
 ……もじもじモジ文字明朝文字……
『ドキドキ』に次ぐよく判らない擬音を漂わせ、ちらちらとコージを盗み見る。ちょっと嬉しいかもしれない実は甘えんぼさんのアラシヤマであった。
「でもわては……えぇとォ……」
「何を赤うなっとんじゃ?」
 心底不思議そうにコージは問うた。自分のその言葉で相手がはにかむ、という心情が判らない。
「べっ、別に赤面なんかしとりまへんッッ」
 アラシヤマはそっぽを向いた。ミヤギは嫌味がちなからかい口調をかけた。
「アラシヤマ、おめ、照れとんだべー? ひねくれとるわりに単純だべな」
「……ミヤギはん……あんさん、もっと燃やされとうおますのんか……?」
「冗談だべっ!」
 必殺技の構えをとりかけるアラシヤマに、両手を前に突き出してストップポーズをミヤギがする。
 アラシヤマはちっと舌打ちした。
 彼は構えを解いて、ウィローを肩車した斜め上のコージを見、断りを入れた。
「わては――ええどす。遠慮しときますわ」
「そうか? 面白そうじゃと思ったんじゃがのぉ」
「とにかく急ぎますえ。時間は過ぎとるんどす」
 殊更に硬い声で告げ、複雑な面持ちで先を進む彼がそこにはいた。



「はあぁぁー……」
 医務室の前で、アラシヤマは深呼吸した。
 基本的に各部屋にオートロック機構が働いている中、解除の必要もなく二十四時間無制限に入室可能な、数少ないフロアである。何しろ急患は日常茶飯事なのだ。しかし好きこのんでやってきたくもなかった。
 アラシヤマはコージとその上に乗せられているウィローに向きなおった。
「……で、コージはん、そのまんまやとどんなに体を屈めてもウィローはんが上の壁にぶつかりまっせ」
「おー、そうじゃのォ」
 扉の高さは一・九メートル。常でも頭を低くして通り抜けることになるコージが他人を肩車していたら、相手は完璧に鴨居とでも呼ぶべきドアの上の仕切りに激突してしまう。
「待っちゃりい、今下ろすけん」
 コージは肩の上のウィローを頭の後ろから前へまわし、抱き直そうとした。それをすかさず奪うように、アラシヤマはウィローの身柄を受け取る。
「あ、こりゃ、ぬし……」
「はいはい、ウィローはん、わてがもっぺんだっこしたりましょなァ」
 アラシヤマはウィローを抱え込み、意を決したように扉を開けた。一歩進み出て光景を視界に映して、四半瞬戸惑う。
 瓦礫と浸水にみまわれたはずの室内は、きれいに修復されている。工部担当の団員の有能さがうかがわれた。
「随分とごゆっくりでしたねぇ。おまけに余分な付録まで引き連れて……」
 高松は椅子に深く腰掛け、泰然自若としてアラシヤマを迎えた。既に工作室に戻ったのだろう、グンマの姿はなかった。
「わてが連れてきたわけやあらしまへんっ!」
「まあいいでしょう。邪魔になるわけでもありませんから。……ところで、もう結果は出てますよ」
 アラシヤマは傍までやってきて、ウィローを患者サイドの椅子に下ろした。ぞろぞろと、他の三人も寄ってきた。
「それで、どうだったんきゃあも?」
 ウィローの問いかけに、組んでいた指を解き、高松はプリントアウトした紙を手にした。
「立派なものですね。オール異常なし。……ここまで一気に変化していて、身体的に何ら負担がかかっていないのは見事としか言いようがありませんね。薬の副作用といえるものもないようですし……。さすがですよ、名古屋くん」
 高松は優秀な弟子を誉める師の表情で返答した。用紙に視線を落とす。
「ただ……」
「ただ、何どす!?」
「六歳児基準としてもかなり血圧が低いですねぇ。元からですが、少々ヘマトクリット値に難がありますし。名古屋くん、偏食の癖、直しましょうね」
「……努力するぎゃあ……」
「あとは――運動能力ですが、やはり六歳児平均で少し劣りますか。まあ、体格が全面的にマイナス十パーセント範囲ですから、判らなくもありませんけどね」
 ウィローは首をすくめて、アラシヤマは固唾を飲んで、他の三人は興味半分に、高松の言葉を聞いている。
「それから――。実年齢でみて、IQ一四五……変わってませんねー♪」
「ひゃぐよんずうごォーっ? おめ、そんなに知能指数高かったんだべか!?」
 ミヤギは思わず怪しいものでも見るような目でウィローを見つめた。
 IQ一四五といったら、区分では『天才』にあたる。平均値を一〇〇として九〇~一一〇が普通とされるのだ。測り方によっても同一人で極端に差が出るものではあるが、入団テストに合格した者の平均値からの結果としての数値らしい。
「オラ、一〇〇ちょうどだべ」
「僕は九八だっちゃよ……?」
 ミヤギとトットリが呟いた一拍後に、もう一人の傍観者がぼそりと声を発した。
「……わしは……九一じゃ」
 一瞬空気が凍結した。
「だーっ! あんさんらのIQなんか、この際どうでもよろしおすがな!!」
 アラシヤマは振り返り、憤怒の形相で怒鳴った。
「そういうぬしはいくつなんじゃ」
「そうだわいや」
「教えるべ、アラシヤマ」
 アラシヤマは三人を等分に眺めやり、しばし無言を保った。それからつまらなそうに答える。
「……わては一二〇どす。それがあんさん達に何や関係あるんどすか」
「なんだとォ!?」
 ミヤギは疑わしげな声を出した。このやたら暗くてひねくれ者の京都人が自分の一・二倍の知能指数だとは。嫌っている相手が自分より優秀である時ほど憎いことはない。
「確か、アラシヤマくんは高等課程を二年ほど飛び級してますものね」
 高松はしたり顔で頷いた。ちなみにこれはオリジナル設定なので、本編とくい違っていてもとやかく言ってはいけない。個人的趣味というものである。
「それで、記憶のほうは……?」
「ああ、部分的な記憶の欠落は、薬そのもののせいというより、己れの変化に対する精神的衝撃の為でしょうね。焦れば焦るほど物事を思い出せない、という現象の大規模なものだと考えていいと思います。……検査結果はこんなところですね。そうそう、名古屋くん、例の薬は持ってきてもらえましたか?」
「これだがね、ドクター」
 ウィローは薬壺を差し出した。高松は受け取り、とっくり型のそれをしげしげと見やった。
「これが……。では、やってみましょう。二、三日中にできあがるといいんですが」
 高松は考え込むようなそぶりをした。
「しかし……実際に同条件で試行錯誤してみなくては、本当に中和薬として充分な効果を持つものになっているかどうか判りませんね。飲み直しさせるわけにはいかないし……」
 ……ちらり
 高松の生暖かい視線がミヤギ、トットリ、コージを薄切りハムのようにスライスした。
「え……?」
 音を立てずに高松は椅子から身を起こした。
「感謝しますよォ、アラシヤマくん。『余分な付録まで連れて』なんて言ったりして申し訳ありませんねぇ」
 高松は薬の蓋を開け、三人ににじり寄った。
「な、何だべさ、ドクターっ!」
「どうするんだっちゃか!?」
「何をする気じゃっっ!」
 彼らは後ろに下がろうとした。
「そりゃ勿論――」
 高松はにやりと悪魔の嗤いを刷いた。ちろっとヘビの舌が覗いたように思うのは気のせいだろうか。
「――こうするんですよッ」
 言いざま、高松は神業のごとき素早さで三人に魔法薬を飲ませた。
 ごっくん
 こくんっ
 ごくっ
「げええぇ~っっ!!」
 ムンクの『叫び』を実演するミヤギ。
 顔面蒼白のまま凍りつくトットリ。
 口元を押さえるコージ。
 彼らにとっては永遠にも近かったそれは、二秒に満たない時間だった。
 ……ボンッ ポン ボワンッ
 煙が立て続けに上がる。それが治まった時、そこにいたのは……。
「うーん、おみごと♪」
 高松はにぃーっこりと微笑んだ。完璧かつ速効性の、実に使い勝手の良い薬だ。
 彼の前には、やはり五、六歳児と思われる三人の『子供』がいた。うち一人は、それより年長と見るべきほどずば抜けて体格が大きい。無論、紛うかたなきコージである。そして平均値キープの東北ミヤギ、ちびウィローレベルのトットリだった。
「トットリぃー!」
「ミヤギくんーっ!」
 ミヤギとトットリはがしっと抱き合った。
「僕達……」
「子供になっちまったべーっっ!!」
 二人はおいおいと泣き叫んでいる。コージは高松を仰いだ。日頃は決してありえないアオリである。
「ドクター! なんてことをするんじゃッ!!」
 高松は、余裕の笑みをたゆたわせていた。
「君たちなら、試作薬を繰り返し与えても平気ですね。頑張ってモルモットになって下さい」
 死刑宣告にも似た発言だった。
「何しろ名古屋くんは私の大事な助手ですから、完成品でなくては、飲ませるわけにはいきませんのでね。なァ~に、中和薬完成の暁には君たちも元に戻れますよ」
 その前に怪しい試作薬を立て続けに投与されてこの世とおさらばしていなければ、の話である。
 アラシヤマは襲い来る眩暈と戦っていた。そうだ、高松はこういう人間なのだ……。
 水を得た魚、とはこういうものを指すのだろうか、マッドなドクターは被験体を手に入れて生き生きと楽しそうに眺め回している。この様子なら、無関係の実験にまで使い回すのではないだろうか。
 どうなっても知らない、と同僚三人に言った台詞が、現実のものとしてアラシヤマに重くのしかかっていた。
「ミヤギくーん! 僕、まだ死にたくないっちゃよーっ!」
「オラもだべー! オラたちどうなるんだべかーっ!!」
「早く元に戻さんとキヌガサくんが黙っとらんけんのー!!」
 三人は口々に喚いている。
「薬が完成するまで存分に試してあげますから、どうぞ安心して下さい」
 高松は大事そうにまだ残してある薬に封をして、にたりと嗤った。
「せいぜい期待していてもらいましょうかねぇ~」
「ああ……頭痛が痛い……」
 ウィローは高松の様子に眉をひそめるでもなく、興味深げに眺めやっている。結局いつも自分がやっていることと変わりないのだから、アラシヤマのように頭を痛めるはずもなかった。
「さてと、そういうことですから、名古屋くんとアラシヤマくん、引き取って結構ですよ。何か製薬上訊きたい事が出てくるか、中和薬ができあがったら呼びますから」
「ほうきゃあも。待っとるぎゃあ」
 首肯して、ウィローは椅子から下りた。
「行こみゃあ」
「そ……そうどすな……」
 アラシヤマは、子供の姿にむりやりさせられてしまった三人の同僚を、いたましげな眼差しで見やった。間接的に自分の責任がないとは言えない。
「許しとくれやす……」
 呟いて、入口に歩きだしかける。そこでアラシヤマははたと気付いた。
「あ、あの、ドクター? できあがったら、って、まさか、わて、それまで……」
「何です? 薬の完成まで、ちゃんと名古屋くんの面倒を見てて下さいよ」
「………。やっぱりそうなんどすな……」
 あくまで、高松に託すまでその世話をしてやっていたはずなのだが、最後までそうする羽目になったようだった。もっとも過剰なほどに保護者と化していた自分がいたことは否めない。
 アラシヤマはウィローの肩を押して医務室を出た。
「あ、ほうだったわ!」
 ウィローは退出したところでくるりと振り返った。
「ドクター、ワシ、いつも変化パターンの薬はういろう、元に戻すもんにはないろを使うんだがや。……役に立つかなも?」
「ないろ……」
 ほんの僅かな間高松は顔をこわばらせていたようだったが、すぐに笑みを浮かべた。
「判りました。試してみますよ。……しかし、ガンマ団購買部にありますかね……」
 ウィローとアラシヤマを見送ってから、高松は残った三人に獲物を見るような視線を向けた。
「さぁ~て、君たちをどう料理しましょうかねぇ……?」
 彼らの運命は風前の灯かもしれなかった。




<1>

 三十分後、ウィローは、よろめいた足取りで本部の中をうろつき回っていた。姿勢のバランスがとりにくくて、歩きづらいこと甚だしい。
 彼が歩を進める度、周りからは、奇異なものでも見るような視線が降りそそぐ。
「おみゃあさんた、何見とらっせるの! おきゃあせ!(おまえ達、何を見てるんだよ! 放っとけ!)」
 不愉快極まれり、といった口調で、ウィローは一喝した。ただでさえ機嫌の悪いところへもってきて、見せ物状態なのだ。苛立ちはもっともだった。たとえその原因が自分にあろうとも、である。……それでも言葉遣いそのものは敬語的表現である辺り、律儀かもしれない。
「……ああ、ごがわくがや! 何で今日に限って顔見知りに会わーせんのきゃいも(ああ、腹が立つぜ! 何故今日に限って顔見知りに会わないんだろうな)」
 ぶつぶつと文句を言いながら、ウィローは衆人環視の中を通り抜けていった。
 殆ど傲然として、けれど……。
 進んでゆけばゆくほど、不安ばかりが増大する。
 ……もう自分は元の姿には戻れないのだろうか?
 せめて知人を呼び止めることができればいくらか状況は改善されるのだろうが、困ったことに、遭遇するのは先刻から見ず知らずの者ばかりである。資料として記憶しているかどうかは別問題だ。
「ワシ……ずっとこのままなのきゃあ……?」
 ウィローは涙ぐみそうになって立ち止まった。いい加減息もあがってしまっている。これ以上さまようことはできそうになかった。
 立っていられなくなって、ぽてっと膝をつく。その時、
「――あ……」
 ウィローのぼやけかけた視界に、一つ向こうのエリアを横切る同僚の姿が映った。
「見つけたぎゃあ……」



 アラシヤマは書類束を抱えて通路を歩いていた。
 若いと言えど、既にガンマ団実戦部隊ナンバー2の実力者である。戦場にいる間の責任者としての立場はまだしも、帰還すればさまざまな報告書と関わらなくてはならない。もっとも事実上の作成は部下の仕事であり、彼はそれに目を通して修正してから更に上に提出するだけではあるのだが。
「やれやれ……こないなことなら、戦うとるほうがよっぽど気が楽や」
 ぼやきが口をついて出てしまう。ぼさついた髪の毛をぐしゃっとかきまわして、アラシヤマは角を曲がりかけた。その途端、
 くんっ
 服の袖が斜め下からひっぱられる。
「………?」
 アラシヤマは不自然な重力の元凶を見下ろした。視線の先にいるのは……。
「あんさん、誰や?」
 息を乱した五、六歳の男の子が、アラシヤマの上衣の袖を握り締めたまま彼を見上げていた。ただでさえ華奢な身体つきの上に紳士物の服をそのまま着ているらしく、ぶかぶかを通り越して生地が半分くらい余っている。帽子はともすればずり落ちかけ、まとっているマントなど、床を、男児の身の丈分ほどずるずると引きずっていた。
「やっとこさ知り合ぁに会えたわ……。ワシだぎゃ」
「は?」
 ボーイソプラノで、男の子はとんでもない喋り方をした。
「どえりゃあ、すたこいてまったて。……作った薬を、うっかり飲んでまったんだぎゃあ。助けたってちょー(すごく難航してしまったぜ。……作った薬を、うっかり飲んでしまったんだ。助けてやってくれよ)」
「へ?」
 状況が掴めず、アラシヤマはまじまじと男の子を見つめた。どう見ても幼稚園だ。この年頃で本部にいるということは、既に殺し屋としての命を受けていることになる。よほど優秀なのか、訳のある任務なのか―何にせよ、普通このような場所で見かけるはずのない子供だった。
「あきまへんえ、坊。……ここは、あんさんの来るところやおまへん」
 言葉に、ぶんぶんと、男の子は首をしきりに振る。殆ど脳味噌はシェイク状態ではなかろうか。
「違いますのんか? ほんなら……わてに何か用どすか?」
 どこかで見覚えがあると思いつつ、アラシヤマは訊ねた。サイドの髪だけ伸ばしてカールさせた男の子は、目に見えてむっとした。
「………」
「何処かで会うたことがありましたやろか」
「おみゃあさん、たーけきゃあも! ちーとにすねゃあ? まんだわっかーせんのきゃあ!?(おまえ、バカかよ! ちょっと鈍いんじゃねえの? まだ判らないのか!?)」
 その爆発的な口調に、アラシヤマは思わずしげしげと男の子を見やった。
「待っとくれやす。この外見……この服装……この喋り方……。まさか……ひょっとして、名古屋ウィローはん――」
 こくこくこく。
 男の子は何度も頷いた。シェイクされた脳味噌が流れ出すのではないかと思われる勢いである。
「――の隠し子……」
 ピシ……ッ
 空間に亀裂の入る音がする。男の子の、アラシヤマの服の袖を掴んだ拳はふるふると小刻みに震えていた。
 アラシヤマは気付かず、しきりに妙な感心をしている。
「……ウィローはんも隅に置けまへんな。こんな大きな隠し子がおらはったとは。それにしても、すると幾つの時の息子はんなんでっしゃろ……」
 てんてんてん……ぶつっ!
 怒りのオーラを背負った男の子から、革紐をぶち切ったような効果音が聞こえた。彼はアラシヤマの制服から手を離して一歩離れた。
 地鳴りが周辺で起こったかと思うと、突如、空間に綺麗に入ったひび割れの、その次元のはざまから、魔術師御用達の杖が出現した。
 げんっっ!
 触れる者もないまま、魔法使いの杖はアラシヤマの後頭部をしたたか殴りつけた。
「………っ!! ☆$@※#っっ!!」
 声にならない悲鳴。昏倒しなかっただけ、日頃の鍛え方がものを言ったというところである。
「なっ、何どすか?」
 頭を押さえて、アラシヤマは凶器を見た。杖は宙を飛んで、男の子の手の中に納まった。
「たーけたこと言っとりゃあすな! 本人だて!(バカなことを言ってんじゃねえよ! 本人だ!)」
「ほ・ん・に・ん?」
 身長差のせいで上目遣いにアラシヤマを睨みつける男の子。
 アラシヤマはまじまじと見なおした。
 目付きといい顔立ちといい髪型といい、あまりに幼くはあるが、血縁ではすまされないほど確かにそっくりである。
「ほんまのほんまにウィローはん……?」
「……最初からそう言っとるがね」
 アラシヤマは叫びだしそうになるのをこらえ、ひざまずいて、男の子――ウィローと目線の高さを合わせた。
「一体どうしはったんでっか!? 薬を飲んだ……て、どないなもんなんどす」
「大人を子供に変える薬だがや。ワシ、ずっとそれを作っとったんだわ」
「それを飲まはったんどすか?」
 ウィローは首肯した。
「それで、そないな姿に……。せやけど、いつもやったら誰ぞ実験台にしはるのに、今回は自分で試したんどすなァ。ええことどすわ」
「違うて! 間違えてまっただけだなも。薬を自分で飲むわけねゃあがや。ほんなおそぎゃあことしやあすか(間違えてしまっただけなんだ。薬を自分で飲むわけないじゃないか。そんな怖いことするかよ)」
 ウィローは心底不本意そうに否定した。自分で飲むのが恐ろしいような薬を、他人には平気で使う辺り、やはりガンマ団の人間の思考回路は常人のものではない。
「不可抗力どすか。……それにしても、いつまでも子供の姿でおるわけにはいきまへんやろ。元に戻る薬を作りはったらどないどす? ウィローはんやったら簡単にできますやろに」
 アラシヤマが深い心づもりもなくそう口にした途端、彼を見上げていたウィローの目にじわぁーっと涙が浮かび上がった。
「う……」
 今にも泣きだしそうに、しかし必死にこらえているらしいウィローの様子に、アラシヤマは泡を食った。
「ウ……ウィローはんっ!!」
「忘れたんだぎゃ……」
 小さな声でウィローは呟いた。涙声寸前である。
「忘れたって、何を――」
「……中和薬の作り方だぎゃあ……」
「えええぇぇーっっ?」
 思わずアラシヤマは大声を出した。何事かと、通行人がじろじろと彼を見てゆく。見かけない小さな子供と、しゃがみこんでいる実戦部隊幹部。目立つことは必至であった。
「まるきり覚えとれせんのだがや。ワシ……ワシ……」
 見る間に、溜まった涙が決壊しかける。
「……もう元に戻れーせんのだぎゃあーっ!」
 遂にウィローは泣きだしてしまった。左手にマジックワンドを握り締めたまま、抑えがきかないように声をあげている。
「うえぇーんっ。えぐえぐ」
「ウィローはん!」
「わぁーん! ひっく。ふえぇぇーん!」
 その泣き方は、幼児そのものだった。元から決して大人びた性格ではないが、少なくともこんなふうに泣くはずはなかった。外見年齢と共に、その意識も幼児退行を起こしているのかもしれない。
「ウィローはん、泣かんといてや……ウィローはんっ」
「うわあぁーん!」
 アラシヤマとウィローの周囲には人垣ができつつあった。
 このまま通路にとどまっていることはできない。盛大に泣きわめいているウィローを置いて立ち去ることは簡単だが――またわけの判らない攻撃がくることがなければ、の話だが――、アラシヤマの性格上、義理人情にもとる行為は不可能だった。
 子供になってしまい、中和薬の成分組成も忘れてしまって、おそらくウィローは、どうしたらいいのかパニック状態でガンマ団本部をさまよい歩いたのだろう。そしてその果てに知人であるアラシヤマの姿を見つけるまで、どれほど彼が心細かったことか……。そう思い、アラシヤマはいたわりを篭めてウィローの肩に手をかけた。
「わてにできる限りのことはさせてもらいますよって、泣きやんでおくれやす」
「……ほんときゃあ?」
 まだぼろぼろと涙をこぼしながら、ウィローはアラシヤマの顔を見た。
「ほんまどす。……そうや、ドクターのところに行きまひょ。あのお人やったら何とかしてくれはるかもしれまへんえ。それに、急激に若返ったことによる身体の拒否反応とか、薬の副作用とか、調べてもらわなあきまへんし。な?」
 アラシヤマは促した。こくん、と頷いて、ウィローは布地の余っているシャツの袖でごしごしと目をこすった。
「決まりや。ほな行くとしまひょか」
 アラシヤマはついと立ち上がった。
「しかし……この亀裂、何とかならんもんでっしゃろか」
 ウィローは持っている杖に目をやった。嗚咽の余韻を残す声で呪文を唱える。
「……ラゥ・シュゼア・グルス……幽き地よりいでし、魔に属するあまたのもの達よ、我が名、WILLOW――惑わせし幻影・Will-o'-the-wispの名のもとに命ずる。おのが地に還りてすべきことを為せ。然らざれば盟約に於いて、その身その魂は永劫の束縛を受けんものとせり。我が命に従え。さすれば暝闇の安息を与えん――」
 確かにその時、幼い彼の姿には『魔法使い名古屋ウィロー』の面影が重なっていた。
 ウィローがマジックワンドで次元の断層を指し示すと、空気の流れのようなものに応じて亀裂が少しずつ閉じていった。完全に裂け目が見えなくなったとき、彼の手にした杖も消滅した。
「……消したぎゃあ」
 術を行っている時の、元の姿を彷彿させる妖々とした雰囲気から一転して、ウィローは再び幼児と化していた。自分のいたずらの後始末をして親の裁定を待つ子供のような表情で、彼はアラシヤマを仰ぐ。アラシヤマはしばし悩んだ末、礼を述べた。
「……おおきに。さて、医務室に行きまっせ」
 ぽん、とウィローの頭をたたき、アラシヤマは目的地の方向へ足を向けた。
「ほらほら、あんさんら、邪魔どすえ! 退いてんか」
 アラシヤマは、周囲を取り囲んでいた団員たちを蹴散らすように道をつくった。そのままつかつかと通り過ぎる。
 ウィローは小走りにそのあとを追いかけようとして、大きすぎる着衣と靴に足をとられ、つんのめった。アラシヤマの姿を見つけるまでも散々繰り返して、実は既にボロボロである。
「………。」
 べしゃっとすっ転んだ状態のまま、ウィローは起き上がらなかった。何メートルか先に行ったところで振り返ったアラシヤマは、額を押さえ、深いため息をついた。出会った時ズタボロで荒い呼吸をしていた理由が痛いほど理解できる。
「よう判りました……わてが抱いて連れていかしていただきますわ」
 アラシヤマは一旦引き返し、ウィローをひょいと抱き上げた。
転んだ拍子に落ちた帽子を、拾ってかぶせ直してやる。
 まだその場に残っている者たちに、アラシヤマは鋭い視線を投げた。
「いつまでおるんどすか、ここは持ち場やあらしまへん。ちゃっちゃと仕事に戻りなはれ!」
 それから彼は、重さを感じていないような歩調で再び歩きだした。



「……でーれーたきゃあなも(すごく高いな)」
 医務室への道中、ウィローはアラシヤマに抱えられながら、はしゃいでいた。まだまつげが濡れているのがご愛敬である。
「ほらほら、ウィローはん、あんまり動くと危のうおまっせ」
 アラシヤマはたしなめるような口調をつくった。腕力には自信がある。五、六歳児がちょっとやそっと暴れたくらいでは、その身体をささえてやるのに何の支障もないのだが、彼はつい、ウィローの最上級の安全性を追求してしまうのだった。
 途中で、アラシヤマは直属の部下に出会った。嫌な予感を覚えつつ、相手の敬礼に答礼する。
「ア……アラシヤマさん、その子はっ?」
「もしかしてあなたの息子……!」
 やはり、であった。かけられる声にひくつきながら、アラシヤマは部下をねめつけた。
「ちゃうっ!」
 これで三回目だ。その度に否定しながら、疲労感だけが積み重なってゆく。何故、誰もかれも誤解してくれるのか。そう思いつつ、真っ先にちびウィローの存在を誤解したのが自分であることは、綺麗に忘却の彼方に追いやっているアラシヤマだった。
 アラシヤマの腕の中で、ウィローはまだきょろきょろと辺りを見回している。抱かれた180センチ相当の目線の高さというのは、幼児サイズになるまでもなく、彼にとって物珍しい光景であるのらしい。
「これは薬で子供になってしまった名古屋ウィローはんや! ええどすなっっ」
 強調しておいて、アラシヤマは片腕にウィロー、もう片手に書類封筒というさまで、すたすたと歩き去った。
「あれがウィロー参謀……。なるほどね、アラシヤマさん、本当はお人好しだから、ほっとけなかったんだろうな」
「子持ちだなんて……。オレ、密かにアラシヤマ副隊長に憧れてたのにーっ」
「……おい、おまえ、ちゃんとあの人のおっしゃったこと聞いてたか? でもいいなァ、ウィローさん、副部隊長にだっこされて……」
「ああ、子供がいたなんていたなんてーっっっ」
 まるで話を聞いていない平団員の嘆きは、無論アラシヤマの耳には届いていなかった。同僚からは嫌われ者でも、目下の人間には結構慕われている彼だった。ちなみに余談だが、この団員の名字が南と中村でありウィローと同郷であることは、ここだけの秘密である。
 二人から遠ざかってゆくアラシヤマの肩越しに、羨ましかろうと言いたげに、思いっきりウィローは彼らに向かって舌を出していた。
「何やっとらはるんどすか、ウィローはん?」
「何でもねゃあわ。……ほれより、肩車してほしいぎゃあ」
「駄目どす、ほら、ちゃんと掴まっとってや」
 置かれている状況を考えなければ、それはほのぼのとした光景だった――。



「さあ、着きましてん」
 医務室の前でアラシヤマは足を止めた。
 扉を開け、入室する。アラシヤマ一人であればまず間違いなく訪れたくはない恐怖の館だったが、ウィローのことがあっては尻込みするわけにはいかない。
「失礼します……」
 椅子に腰掛けていた医師は、来訪者に目を向けた。
 マッドサイエンティスト、スプラッタドクター、変態中年――さまざまな呼び声の高い、花も恥じらう四十三歳、もとい、当時四十一歳、素敵に無敵な我らが師匠、ドクター高松であった。この説明文の辺りに無駄なボンノーが見え隠れしているという説もあるが、気にしてはいけない。
「ああ、アラシヤマくん。ご無沙汰ですねぇ」
 ずずず……
 反射的にあとずさりそうになるのに耐え、アラシヤマはウィローを抱いたまま歩み寄った。
「ドクター、彼のことなんどすけど……」
「おや、君の隠し子ですか」
 ひくっ。
 アラシヤマは口元を痙攣させた。いい加減、言われるのも回数を重ねたが、どこをどう取ったら、このウィローが自分の子供に見えるというのだ。まるで似ていないではないか。
「これはウィローはんどす!」
 強調しながら、アラシヤマはウィローを下におろした。高松は、ほぅ、という表情になった。
「名古屋くんの子供? それにしてはまたかなり大きな……」
「違ぁーう!!」
「嘘はいけませんよ、アラシヤマくん。素直に自分の息子と認知してあげなくては。――青春時代の過ちは往々にしてあるものです、現実を認めなさい」
 ボ……ッ
 アラシヤマは燃え上がった。湯沸器でも点火までにはもう少しかかるだろう素早さだった。……次の瞬間、
 バシャッ!
 金属製の洗面器に満たされた手洗い用消毒液が、アラシヤマに浴びせられていた。
 一瞬で炎は消えた。逆に炎が大きくなりそうなものだが、特別配合であるらしい。
「ここは火気厳禁ですよ」
「ドッ……ドクター……」
 ぷすぷすとくすぶりながら、アラシヤマは高松を見返した。手にしたままの書類束はぽたぽたと雫を落としている。減菌処理はできただろうが、報告書としては使いものにはなるまい。先に提出しておけばよかった、とアラシヤマは心の片隅で思った。何にせよ、再作成で今夜は徹夜決定である。
「何しはるんでっか!」
 高松は不愉快そうな面持ちで手首を翻し、洗面器を傍らの台に戻した。
「まったく、冗談の通じない人ですね。これだから、最近の若者は……。隠し子でないことくらい最初から判ってますよ、名古屋くん本人でしょう」
「判っとらはるんやったら、そないなたちの悪い冗談はやめてんか! なあ、ウィローはん……。あれ? ウィローはん?」
 アラシヤマは医務室の中を見回した。
「名古屋くんならそこで、壁に絵を描いてますよ」
 アラシヤマは、高松のすらりとした指が差し示す先に目をやった。
 備品のサインペンを握り締め、ウィローは白い壁に楽しそうに落書きしていた。片腕に、ぬいぐるみのようなものを抱えている。
「何だかえらく可愛らしいオオコウモリを抱いてますねェ」
「……うおおぉぉーっ、わてのテヅカくん!!」
 アラシヤマは駆け寄った。
「キィーッ?」
 驚いたようにコウモリはウィローの腕の中から抜け出し、開け放されている窓からぱたぱたと飛び去っていった。
「あかんやろ、ウィローはん! 勝手にわてのテヅカくんを……あれ? テヅカくんて誰どしたかな」
 白昼の予知夢だった……。
「とにかく、ウィローはん、ここはお絵描きしてええ場所やありまへん。ほら、ドクターと話しまひょ」
「……判ったぎゃ」
 渋々ウィローは高松のもとに引き返した。
 向かい合う椅子に、ちょこんと腰を下ろす。
「ドクター、ワシ、こんなんなってまったんだぎゃあ」
「随分と若返りましたね。取り敢えず記憶の方はそのままのようで、いや重畳重畳。まあ、少々性格の幼児化は進行しているようですが――。……ああ、アラシヤマくん、その落書き、名古屋くんと話している間に消しておいて下さいよ」
「なしてわてがっ!」
「うるさいですよ、外野は黙ってて下さい。名古屋くん、君が新薬を開発していたのは知ってましたが……こういう効果を持つものだったとは」
 既にアラシヤマを無視して、高松はウィローと喋るつもりのようだった。アラシヤマはため息を洩らし、清掃道具入れから雑巾と液体洗浄剤を取り出した。生真面目ゆえに貧乏くじを引く青年の哀愁がそこにあった――。
「それにしても、自分の身で試すとは思い切ったことをしましたね。私はてっきり、新入りか学生の一人や二人、モルモットにするものだと……」
「……手違いだがや」
 ぼそりとウィローは呟いた。高松はカラカラと笑った。
「でしょうねぇ。でなきゃ、君が自分をサンプルにするはずがないと思いましたよ。実験データは他人でとってこそ意味があるものですからね」
「あたりこだわ(当然だ)。自分で自分の観察レポートをつけて何が楽しいんだて。薬は他人に試すで面白いんだがね」
「そうでしょうとも。私もバイオプラントの餌食を見つくろうのがまた愉快で……」
 要は二人とも同じ人種ということである。さすが世界に冠たるガンマ団、すばらしい性格の持ち主ばかりであった。壁の拭き掃除をしながら、二人の会話を聞き流そうとして、背筋にはしる悪寒を抑えきれなくなっていた京都出身者がフロアの一隅にいたことは言うまでもなかろう。特異体質はともかく、結構常識人の青年である。
 高松はふっとシニカルな嗤いを刻んだ。
「――さて、本題に移りましょうか。私にデータ記録をしてもらいたくて来たわけではないでしょう。用件は何です?」
「……中和薬の製造」
 初めて高松の表情に困惑の影が覗く。
「中和薬? 何故自分で作らないんです。君が調合できないわけは――」
「作り方を忘れてまったんだがや」
「忘れた――?」
「ほうだ。作ろうと思ったら、綺麗さっぱり忘れとったんだぎゃあ」
「それは……」
 高松は口ごもった。大人に戻る方法を忘れてしまっているとはご都合主義の極みである。しかし、そうでなくてはこの話自体が存在しないのだから仕方あるまい。
 高松は、確認を取るように訊ねた。
「記憶が欠如しているのはそれだけですか?」
 ウィローは肯定し、うつむき加減に答えた。
「どんだけ勘考しても、まるでわかれせんのだわ(どれだけ考えても、まるで判らないんだよ)」
 ようやく乾いたそのまなじりに、じわあっと涙がせりあがっている。
「ワシ……本当に困ってまって……ひっく……それで……えぐっ……ドクターに……」
 数秒間の沈黙。嵐の前の静けさとはこのようなものを指すのかもしれない。
「うわあぁーんっっ!」
 再びウィローは大泣きしだした。
「わーっ、ウィローはん!!」
 先刻までの悪寒もなんのその、壁をこすっていたアラシヤマは雑巾を放り投げ、慌ててとんできた。既に父性愛に目覚めつつあることに、本人は幸か不幸か気付いていない。
「泣かはったらあかん!」
 アラシヤマはかばうように手を伸ばした。ウィローはそれにぎゅっとしがみついた。
「うえぇぇ……っ」
「我慢しいや。きっと元に戻れますわ、せやから……なっ?」
「ううう……ぐすぐす……」
「よしよし、強いお人どすな」
 アラシヤマは、制服のポケットから出したハンカチでウィローの涙を拭ってやった。自作の手刺繍入りである。
 彼らの間に横たわるのは、殆ど保父と園児の関係かもしれなかった。
 早業でバックがパステルカラーに塗り替えられている上に、レインボーのシャボン玉まで飛び交っている。目の錯覚や見間違いという言葉に頼りたくなるほのぼの空間が、医務室に展開されていた。いつでもどこでもそれを出現させる特技が、南の島でコウモリ相手に活かされることになるとは、未だ知る由もないアラシヤマであった。
「……落ち着いたようですね」
 高松は、部屋を侵食しかねない空間をぐいっと押し開いて声をかけた。ウィローはべったりとアラシヤマに抱きついたまま、顔だけ高松の方に向けた。
「……事情は判りました。他ならぬ名古屋くんのためですから、この高松、一肌脱ぎましょう」
 その言葉を聞いた途端、アラシヤマは胡散臭そうな視線を高松に固定した。
「ちょっと待ってんか、ドクター。もしや、その白衣を脱いで、『五億でOK♪』とか言うんとちゃいますやろな」
「……失礼な。私がそんなことを言う筈がないでしょう」
 むっとした顔で高松は否定した。昂然と胸を張る。
「最低、十億はもらいます」
 お約束どおりのパターンであった。
「まあ、冗談はさておき――。いつまでもそのままでは、こちらも困りますしね」
 高松の生物兵器開発の際の助手の役目を、ウィローは負っているのだ。彼らの通った跡には怪しげな動植物しか蠢いていない、と恐れられる悪魔のコンビである。
「方面は微妙に違いますが、一応専門範囲ですから善処してみましょう」
「助かるぎゃあ」
 アラシヤマの制服にすっかりうずもれていたウィローは、身体を離した。
「では、取り敢えず精密検査といきましょうか。せっかくだからデータを集めなくては。自ら望んだことでないとはいえ、サンプルが一つあるんです。無駄にする気は初めからないんでしょう、名古屋くん?」
「決まっとるがや」
 さすがに転んでもただでは起きない連中である。
 高松はすっと立ち上がった。ウィローもぴょんと椅子から下りる。
「一時間で検査結果まで出ますよ。――こちらです」
「……待ちぃな! 結果どころか、精密検査の行程が一時間やそこらで終わるわけあらへんやろ!」
 もっともなアラシヤマの叫び。ああいうものは最低でも一日がかりにはなる筈である。高松は、ちらりと青年を一瞥した。
「私の伎倆とガンマ団医療機器開発スタッフが造り上げた新機器群があればそれくらい可能です。まあ、実際に作動させるのはこれが初めてですけどね」
「そんな信用の置けんもん、ウィローはんに使わんといてや!」
「本当にうるさいですねぇ。安全性の確立していないような機器を、私が名古屋くんに使用するわけないでしょう。君相手じゃあるまいし……。幾度にもわたる試験済みだから大丈夫ですよ。第一、この私の頭脳と技術が信用できない……と、君は言うんですか?」
 性・癖・が! というばかでかい書き文字をアラシヤマは背負った。
「ワシはドクターを信頼しとるぎゃあ」
 にぱっとウィローは笑顔を見せた。すっ転びそうになりつつも高松の後についてゆこうとする。
 アラシヤマは怒鳴った。
「あかんーっっ! 駄目駄目駄目駄目だめー!! ウィローはんをそないな危ない目には遭わせへんで!! 絶対に阻止したる!」
 最初に高松に頼ることを勧めたくせに、己れのトラウマが先立ってしまうアラシヤマである。
「……ふん。そんな偏狭なことだから、あんた、友達いないんですよ」
 高松は振り向きざまうっとうしそうに言葉を投げた。
 ぴきっ。
 ――ゴオォーッ
 再びアラシヤマは全身炎に包まれた。完全に頭に血が昇っている。
 その身から発する紅蓮の焔が、医務室の天井を焦がさんばかりに燃え上がった。炎は一直線に高松に襲いかかった。まさにその時、
 ドカッ!
 ばきっっ! ガラガラガラ!
 どんがらがっしゃーん!!
 すさまじい地響きと倒壊音が起こった。
 バシャン! ドドドドド……ッ!
「ぐぎゃっ!」
 圧倒的な水量がアラシヤマを打つ。水圧に、彼は壁に叩きつけられた。
「高松! 無事!?」
 消防車の放水ホースを掴んだ試作品ガンボットが、医務室の反対側の壁をぶち破って乱入してきたのである。
 そこから、まだ少年といった方がよいような幼さを残す若者が現れた。
「グンマ様」
 高松は名を呼んだ。グンマは水を止めて駆け寄ってきた。
「高松、大丈夫だった? 怪我はない?」
「勿論ですとも、グンマ様……。あなたがいらっしゃる限り、この高松は不滅です」
「わーい、高松ーっ♪」
 グンマは高松にひしっと抱きつく。空気がローズピンクに染まっていた。
「……あんさんら……」
 アラシヤマはげほがほと咳き込みながら、めりこんだ壁から身をはがした。
「人を無視して二人の世界を作らんといておくれやす!」
「……まだ生きてたんですか、あんた」
「当然どす!!」
 くすぶった煙をたてながら、アラシヤマは、殺されてたまるか、という表情でグンマ付きの高松を睨みつけた。
「剖検用死体が一つできたと思ったんですがねぇ。それはともかく、先刻も言ったでしょう、ここは火気厳禁です」
 この世に怖いものはないといった傲然とした雰囲気を漂わせ、高松は青年を見据える。根負けして、アラシヤマは目をそらした。力関係に弱い奴である。
 全身、びしょぬれなどという可愛らしい表現法では追いつかない濡れ鼠状態で、アラシヤマは頭髪からぼたぼたと水をしたたらせている。普段から隠している右目にかかる髪は貼りつき、おばけもかくやというおどろおどろしさであった。柳の下で、うらめしやぁ~~……とでもやったら、本物の幽霊が逃げてゆくかもしれない。
 対する高松は、羽織った白衣に水滴一つしみさせていなかった。
 アラシヤマは化け物を見た思いになった。いくら目標設定から外れていたとはいえ、どうしたらこの状態を保てるのだろう。
 そこまで考えて、はたと思い当たる。
「あ、そや! ウィローはん!」
 アラシヤマは近くを見回した。自分がふっとばされたくらいだ。小さな体のウィローが、医務室じゅう浸水するあの人為的鉄砲水に呑まれないはずがない。
「ウィ……ローは……ん?」
「何でゃあ?」
 口をぱくぱくさせるアラシヤマの視線の先で、ウィローは平然として立っていた。髪の毛一筋にすら水跳ねは見当たらない。
「何で濡れとらんのどす……」
 床に目を向けると、ウィローを中心として半径五十センチ内が乾いたままだった。
「ラゥ・ヴァルザ・リェイダ……我が元に再びあるべき姿を作り出せ」
 ウィローは口の中でそう唱え、軽く右手を振った。
 しゅるん……
 目に見えない防護壁のようなものが、どうやら消滅したらしい。床の水たまりがそこで初めてウィローの方に流れた。
「初歩の結界魔法だがや。おみゃあも護ったろうと思ったんだけどよ、触れとらんと他人は包みこめんのだわ。悪いなも」
「い……いや、それは別にええんどすけど……」
 結局、水の洗礼を受けたのはアラシヤマ一人ということである。自分だけ鈍かったといわれているようなものだ。
 彼は貼りついた右前髪をかきあげた。
「……まあ、何事ものうてよかったどすわ」
「へーえ……」
 グンマはようやく高松以外を眼中に収める気になったらしく、ウィローに目をやった。ウィローは大きな目で真っすぐにグンマと高松を見返した。専門分野は違えど、同じ頭脳派の団員として、先輩後輩にあたる。
「彼が名古屋ウィローくんの幼児バージョンなんだ……。結構可愛い……」
「私にとっては、グンマ様が宇宙一お可愛らしゅうございますよ」
「ほんと? 高松」
「当然です、グンマ様♪ それにしてもよくご存じですね、彼が名古屋くんだということを」
 また二人の世界に突入しながら、高松は問いかけた。
「だって、本部内でもう結構噂になってるもの」
 医務室まで来る間に、アラシヤマとウィローは散々他人の目に触れているのだ。噂の伝播は必然だった。
「ああ、なるほど。しかし、グンマ様、あまり下賤の者の風説に耳を傾けたりなさいませんよう。グンマ様はいつまでも清らかでいらっしゃらなくては」
「やだな、高松、大丈夫だよ♪♪」
「もしもォ~し……」
 いちゃいちゃという擬音が聞こえそうなアナザー・ワールドに、地の底を這いずる声が割り込む。高松は不快そうに発言者を目線で串刺しにした。
「邪魔するのが好きですね、あんた」
 声が行動できるのなら、げしっとアラシヤマに蹴りを入れていそうな口調である。高松はぽんと手を打った。
「ああ、そうだ、騒ぎで忘れるところだった。名古屋くんの精密検査をしなきゃいけませんでしたね。検査室は濡れていませんから、行きましょうか」
「判ったぎゃ」
「じゃあ、僕が機械の作動を担当するね。高松は指示とデータの読み取りをしてて」
「やっぱりグンマ様はお優しいですね。助かります」
「高松の役に立てるなら嬉しいな」
 そのまま行きかける三人に、とり残されたアラシヤマは声をぶつけた。
「こら! わてを無視して行かんといてや! ウィローはん、戻りなはれっ」
 高松は足を止め、肩越しにアラシヤマに冷たい視線を放り投げた。
「わめいてる間に服を着替えてきたらどうです? 検査室は水濡れ厳禁ですよ。それと、名古屋くんの落書き、まだ消し終わってませんね」
「………」
 アラシヤマの背後には、白い旗がぱたぱたとはためいていた……。



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