照明を落とした廊下を足音を立てないようにシンタローは進んだ。
靴音で目指す病室の主が起きてくれるのならうれしいけれども、生憎と2日ほど前に行われた定期検査で脳波の結果は変わらないものだった。
一族特有の青い眼の威力と暗殺やら誘拐やらを考慮に入れてこのフロアにほかの入院患者はいない。
戦地で傷を負った団員や病んだ団員はこの階より下のフロアに入院している。
気にすることはないのだが、シンタローの足音はいつも微かなものでしかない。
足元を照らすわずかな灯りを頼りにエレベーターホールを抜け、角を曲がる。
白い壁は暗い中でも目立つが、角を曲がった少し先の弟のいる病室からひかりが漏れていて視界がさっきよりも数段明るく感じられた。
誰か見舞いに来てるんだろう。だが。
(――こんな遅くに誰だ?)
家族の誰かか叔父のどちらかか、と考えながらシンタローは歩んだ。
できれば、父親であって欲しくはない。
いや、父親が弟の看病をするのは喜ばしいことなのだけれども。
(顔、合わせるの気まずいんだよな)
ため息を吐くと、思いのほかその息遣いが廊下に響いてしまった。
もとより気配に敏感な父のことだ。気づかれだろう、と思ってシンタローは自身に舌打ちしたくなった。
今年の夏を境にシンタローの周囲は一変した。
それまでシンタローは、自分を溺愛し、弟のコタローに冷たく当たる父親のことを曖昧にしか理解できていなかった。
両眼が秘石眼だということだなんだというのだろう。
俺の前ではコタローはあどけない幼児でしかない。危険性なんてまったくない。
父親へ理不尽だと詰ったりもしたが、シンタローの望みをいつも叶えてくれる父はこればかりは譲ってくれなかった。
頑ななまでの父親の態度と周囲の腫れ物にでも触るかのような対応。
すべてに苛立ちと幻滅を感じて、家宝の石を持ち出して逃亡したのは今考えると子どもじみた行動でしかない。
辿りついた南国の島で、雁字搦めに囚われていた一族の因縁が解かれたのは結果としてはよかったけれども。
昔、ずっと幼い頃父親と過ごしてきたような毎日をみんなで手に入れることは叶わなかった。
意を決して、半開きになったコタローの病室へとシンタローは体を滑り込ませた。
「来てたのか?」
声をかけても、眠る弟のベッドの傍にある椅子に座る人は背を向けたままだった。
短めの金髪は従兄弟にもいるが、背を向けた人は彼のような白衣を羽織っていない。
こっくりとした葡萄酒色のセーターを着たその人は出来れば会いたくなかった父親だった。
「おい、親父?」
なぜ答えない、とシンタローは父へと近づく。
軍靴を鳴らしても振り返る様子も、飛びついてくる様子もない。
もっとも、今年の夏を境に父親がシンタローへ過剰なスキンシップを取るのは見られなくなっていたけれど。
無視かよ、とシンタローはムッとした。
24年間、顔を合わせればべたべたと抱きつき、愛情を口にしていた男だったというのに、最近は素っ気無い。
別にそれが嫌なわけじゃない。
うざったいくらいだったんだ、これなら普通の親子らしくていいじゃないかと思っていたけれど無視することはない。
聞いているのかよ、と腰を屈め、父親の顔を覗き込むと彼は眠っていた。
(……寝てる)
眉と閉じられた瞼はぴくりとも動かない。
すうすうと微かな息を立てた父親の顔には疲労が滲み出ている。
いつから看病していたんだ、と思ったがシンタローは声をかけて起こすことをしなかった。
「……このまんまじゃ風邪引くからな」
俺にはアンタは運べねぇし、と自身を納得させるように呟き、シンタローは抱えていた軍用コートを広げた。
季節はもう秋だ。夜になれば夏とは違う少し冷たい風が肌を冷やす。
空調が完備された病室だから、寒くはないだろうけれどもシンタローは広げたコートをそっとマジックへとかけ、その場を後にした。
*
夏を境に変わったことはもう一つある。
目覚ましを止め、洗顔やら歯磨きやら身支度を整えた後袖を通すものがそうだ。
ようやく着慣れてきた赤い軍服をきっちりと着込み、シンタローはダイニングへと向かう。
いつもより早めに部屋を出たから、父親の手伝いが出来るだろうと思ったが、ダイニングには朝食がすっかり並んでいた。
「よお」
すでに着席している従兄弟に視線を向けると、彼は朝には不似合いな剣呑な眼差しでシンタローを見た。
「……今日は早いな」
それでも返ってきた答えは出会った頃よりすっかりとマシになっている。
きっちりとスーツを着込んだ従兄弟、キンタローは髪も丁寧に撫で付けて紳士然としているが顔を合わせると殺意を向けてくる。
それでも少し前までならばともかく、今では人目がある場所や朝っぱらからやりあう気はないようだった。
「おはよ~!」
キンタローへの返答をシンタローが考えあぐねているうちにもう1人の従兄弟の元気な声が響いた。
「……よお、グンマ」
助かった、とこの場を持て余していたシンタローはほっとため息を吐いた。
キンタローはといえば、とくに変わった様子はない。
2人の従兄弟の微妙な空気をものともせず、グンマは「みんな早いね~」と明るく言う。
まあな、と応じるうちに、手伝いをすることもなく父親がトレイに朝食を載せてダイニングへと来る。
手早く並べ始めるキンタローに出し抜かれた格好となったシンタローはその場に立ち尽くした。
コーヒーの用意もキンタローと父親にされて、すっかりとやることがない。
「お父様。おはよう!ほらシンちゃんも座って」
とグンマに言われ、シンタローはあとの2人と共に着席した。
いつもどおり、食卓の話題は昨日あったことや今日の予定で占められている。
サラダにヨーグルトベースのドレッシングをかけ、それらに相槌を打ちながら食べ始めると会話の途切れたときに父親が口を開いた。
「そういえば昨日私にコートをかけてくれたのはどっちだったんだい?」
マジックはキンタローとシンタローの両方に視線を向けて尋ねた。
軍用の黒いコートはグンマは着ない。
叔父たち2人もそれぞれ特徴のあるものを持っている。
「俺だけど。コタローのとこ行ったら親父寝てたから」
トーストを裂きながら答えると父は目を細めた。
「悪かったね。うっかり寝てしまったから。ありがとう」
それでも返ってくる反応は前とは違う。
以前は食卓に身を乗り出して「うわ~。ありがとう。シンちゃんはやっぱりやさしい子だね。パパは感激だよ!」などとテンションも高く口にしていた。
それが今はありがとうの一言で終わっている。
なんだか釈然としない気分でシンタローはトマトをフォークで突き刺した。
「そういえば来月だよね。お父様の誕生日」
コートの話からコタローのことへと話題が移り、それからグンマが11月を捲ったばかりのカレンダーを見ながらそう言った。
「今年はどうするの?どんなパーティ?」
にこにことグンマがカフェ・オ・レに口をつけながら父親に目を向ける。
シンタローの誕生日も盛大なものだが、父のもやはり毎年華やかなものだ。
ガンマ団総帥だったこともあるが、団を上げて催され、各国からの賓客も多い。
それに毎年この時期になるとプレゼントの催促だとか、誕生日くらいパパのお願いを聞いて!とシンタローはねだられていた。
しぶしぶながら毎年、それに付き合っていたのが。
「え?今年?今年はやらないよ。引退した身だからね」
やらない、ときっぱり言った父にグンマがすかさずええ~!と声を上げる。シンタローも声を上げそうになった。
秘書たちにはそのつもりでいるように言ってあるから、と口にする父に誰もそれ以上言えない。
気を取り直して、グンマが
「じゃあ、家族だけでお祝いなんだね」
と言ったが、父親は表情を曇らせた。
「いや。ちょうどその日はイベントが入っていて帰れないんだよ」
だから、パーティはいいよと父親が微笑む。困ったようなその笑みにグンマはため息を吐いた。
「せっかくのお誕生日なのに……残念だね」
それきり、食卓から会話は途切れ、朝の時間が進むと共にみなばらばらに仕事へと向かった。
周囲は南国の島から戻ってきて以来、不自然なまでにぎこちない親子に気づかないでいる。
無理もない。
シンタローがマジックの実の子でないという事実は伏せられている。
それを知る人物は一族以外では特戦部隊の人間とシンタローが懇意にしている4人の団員だけだ。
ハーレムを恐れる特選の人間がそれを漏らすことはなく、また4人の元刺客も友情からそれを言うはずもない。
彼らは皆それぞれの任地へと赴いている。
シンタローも島から帰って以来新総帥として忙しい毎日を送っていた。
今までべったりとした関係だった親子がすれ違いの生活を送っていても誰も不審に思わない。
マジックの傍にいる秘書たちもプライベートには立ち入らないから、最近は本部がガンマ砲で壊されなくてよかった、と思っているくらいだろう。
だが、いつもどおりだと思っているのは彼らや一般の団員だけだ。
子どもの頃からシンタローに過度の愛情を注いでいたマジックを見てきたグンマからすれば今のような状態は不自然というよりも異常だといった方が正しい。
朝な夕な食事を共にするたびに彼らのよそよそしい態度に疑問を持ったし、それとなく喧嘩でもしているのかと探りを入れてみたが二人とも否定する。
なら、どうして?と詰問したくなったが、グンマはそれとなく訪ねたときに二人の間に走った緊張感から聞けないでいる。
ついさっき、夕食を共にしたときも食卓の話題は仕事や天気の話などと無難なものでグンマは退屈していた。
もう1人の従兄弟は何も思わないのか相槌を打っていた。
時折、シンタローと父の視線が交差したとき彼らの表情を看過できずにグンマがさりげなく話題を転じてもキンタローは眉ひとつ動かさない。
キンちゃんは2人の様子が気にならないのかな、と思ってグンマは食事後、研究を理由にラボへとキンタローを誘った。
自室と違い、ラボへとは連絡なしにシンタローも父も訪れはしない。
座ってて、とデスクの椅子を引きキンタローをグンマは少しの間待たせた。
数分かけてふわふわに泡立てたカフェ・オ・レへキャラメルソースをかけたものを出すとキンタローは怪訝そうな表情でグンマを見た。
「……騙してごめんね」
「研究のことじゃないのか」
就寝前の時間に無理やりに誘ったと言うのにキンタローは気分を害した様子は見られなかった。
「うん。あのね……シンちゃんとお父様の事なんだけれど」
聞いてくれる?とグンマは小首を傾げてキンタローへ尋ねた。
かわいらしい仕草はいつもの事だけれども、青い目は不安で揺れている。
頼りなげなグンマの様子にキンタローは、
「……とりあえず話してみろ」
と促した。
「最初はね。二人のことだから喧嘩でもしたんだと思ったんだ。
お父様がシンちゃんにちょっかい出して、シンちゃんが怒って。
謝ってもシンちゃんが許さなくて、そんなシンちゃんにお父様が気を使ったりしてああいう態度だと思ってたんだ。
シンちゃんが今更許すのは格好悪いとでも思って引っ込みがつかなくなるのはよくあることだから」
知ってるよね?とグンマはキンタローに聞いた。
秘石が施した呪縛が解かれるまでキンタローはシンタローの内に在った。
つい最近までシンタローのことを一番近くで見てきたキンタローは昔のことを思い出しながらそれに頷く。
意地っ張りだからね、シンちゃんは、と言って生真面目に頷いたキンタローにグンマは微笑んだ。
「でも2人に尋ねても喧嘩じゃないって言うし、2人を見てたら僕も喧嘩じゃないなって思ったの。
キンちゃん、気づいた?いつもなら謝りたいお父様から視線を逸らしたり逃げ出すのがシンちゃんでしょ?
でもね、さっきもだったけれど逃げているのはお父様の方なんだよ」
こんなのはじめて、とグンマは嘆息した。
甘いカフェ・オ・レに口をつけても心は軽くならない。
食事のたび、顔を合わせるたびに何か言いたげなシンタローの眼差しと辛そうな表情で眼を逸らすマジックにグンマは悲しくなっていた。
「シンちゃんはなんだかんだ言ってたけど、あんなに仲良かったのにさ。
それにね、キンちゃん。お父様、最近シンちゃんを抱きしめたりしないんだよ」
おかしいでしょ、とまだ湯気の立つカップを両手で握り締め、グンマが言う。
キンタローはその言葉に目を見張った。
「……なんとなくよそよそしいとは思っていたんだが」
グンマはそんなキンタローの反応に笑った。
まだ実生活の浅いキンタローは人の機微を分からなかったり、また自分自身の理解度を深めるのに夢中で周囲の空気を眼中に入れてないことも多い。
僕はここのところずっとご飯のとき針のむしろだったのになあ、とグンマは苦笑した。
「まあ、フツーの親子だったらさ。シンちゃんが独立したし、親離れ、子離れなのかなあと思うけどあの2人はフツーじゃないじゃない?」
「そうなのか?」
「うーん。なんていったらいいのか分かんないけどコタローちゃんとお父様の関係はやっぱり普通じゃないよ。
年の離れた末っ子でも溺愛しない親もいるからね。僕は……最近になってお父様が出来たけれどそもそも親がいなかった人生だったし」
「高松が親代わりだろう」
互いの後見人のドクターの存在をキンタローは指摘した。
けれども、グンマは首を振る。
「高松はたしかに僕を育ててくれたし、可愛がってくれてるけどね。やっぱり"お父さん"じゃないよ。
子どもの頃は僕には高松がお父さんなんだなあってシンちゃんを見て思ったりもしたけれど、高松はやっぱり一線を引いてたから」
「……」
高松は違う、と言われてキンタローは眉を寄せた。そんなキンタローにグンマが、じゃあと今度は問いかける。
「キンちゃんにとってお父さんは誰?」
グンマに問われてキンタローは怪訝そうな表情を浮かべた。
何を言っているんだ、といった表情のまま
「俺の父はルーザーだ」
と答える。するとグンマは口元に笑みを浮かべた。
「そうだよね。ルーザー叔父様だよね。
僕とおんなじでキンちゃんに色んなことを教えてくれるのは高松だけれど、高松はお父様じゃないでしょ?
それにシンちゃんの中で見ていたマジックお父様でもないでしょ?」
「ああ」
分かった、とキンタローは頷く。納得した様子にグンマは、話題を元に戻した。
「ええと、どこまで話したっけ?……ああ、そうだ。あの二人が普通じゃないってことだったよね?」
「ああ、そうだ」
キンタローはこってりと甘いキャラメルに閉口しながらも、グンマに視線で先を促した。
「僕とシンちゃんはガンマ団を束ねている一族の子だからあまり外へは出たことがなかったんだ。
お誕生日に遊園地へ言ったり、たまに外食する日はあったけれどね。
遊び相手だってシンちゃんと僕以外の子どもはいなかったから他のおうちがどうなのか知らなかったんだ。
たまに来る叔父様たちにも子どもはいなかったからね」
今もだけれど、と残念そうにグンマは肩を竦める。
「お父様はシンちゃんをべたべたに甘やかしてたし、僕だって過保護な高松に育てられたでしょ?
保護者ってああいうタイプだと思ってたんだ。士官学校に入るまではさ」
士官学校、と言われてキンタローは考え込んだ。
グンマがカップに口をつけている間に記憶の中に残るシンタローの過去を思い出していく。
幼い頃と同じで入学式にも父でなく末の叔父に駆け寄るシンタロー。
桜の舞い散る風景。制服。寮。それから帰省したときの……。
「……たしかに士官学校で親の話になったときシンタローは愕然としていたな」
キンタローが思い出した過去を口にするとグンマは微笑む。
「……僕もだよ。周りのみんなは大抵、あんな風な態度を親に取られていないようだったからね」
元気だった?寂しかったよ、と抱きつかれたり。
何かあったらどうしようかと思っていました、と滂沱の涙を流したり。
2人の保護者たちはそれぞれ近くにいるというのに帰省したとき過剰な反応をしていた。
シンタローにいたっては、南国の島に行くまで、一緒に風呂へ入ろうと誘われたり、あまつさえ人形を作られたりもしていた。
「シンちゃんがさあ、コタローちゃんを可愛がるのはいいんだ。
……まあ、ちょっと行き過ぎてるかなとは思うけどあのお父様の行動がベースになっているから納得できるし。
でもね。普通の親子関係って割りにドライなものだと思うんだ。僕とお父様みたいにね。お互い心配しあったりはするけど、あそこまでべたべたしないよ。
世の中、親子の数だけ色んな関係があるかもしれないけど……」
グンマは言葉を濁した。一定いものかどうか、悩んだままの従兄弟にキンタローは続きを促す。
「ああいうしつこいアプローチの仕方ってさ。親子のスキンシップって言うよりつれない年下の恋人に言い寄るオヤジみたいじゃなかった?」
「……」
「ねえ?どう思う?キンちゃん」
尋ねられてキンタローは瞠目した。
しばらく考え込んだ後、キンタローは躊躇いがちに口を開いた。
グンマの視点から見た2人だけでは状況が正確に掴めない。
納得しうる部分はあったが、2人の関係がおかしいというのもグンマに指摘されてから思い当たったのだ。
今、答えを出さずに色々と調査してからにしようとキンタローは考える。
「その……伯父貴のアイツに対する対応がなんなのかは俺からはなんとも言えない」
「うん」
「おまえの意見を仮定するとして、それで一体あの2人はどういう状態なんだ?
普通じゃない親子がよそよそしい、それはおかしい、けれどもこのまま一般的な親子関係になるのもおかしいと言いたいわけなんだろう?」
「うん」
僕とお父様みたいな関係にならないと思うよ、とグンマはきっぱりと言う。
「僕の意見、お父様の態度は恋人にするものだってやつを仮定するよ。
そもそもあの2人がおかしくなったのって最近じゃない?それもキンちゃんが来てから……あ、キンちゃんが原因じゃないよ。
つまりあの島を後にしてからだよね。島の中では相変わらずべたべたしてたし」
確かに、そうだとキンタローは思った。
「で、島から帰ってきて変わったことがあるよね。キンちゃんが従兄弟になったこと、コタローちゃんが眠ってること。
それから、僕にも関係することだけど一番重要なのが……」
グンマが自分にも関係することだと口にしたことでキンタローは彼が言いたいことが掴めてきた。
「シンタローがマジック伯父貴と血が繋がっていないということだな」
「そう。そういうこと。2人とも血が繋がってなくても親子だと考えているし、僕もそう思っていたけれどね」
思っていた、と過去形にされてキンタローは驚く。
思わず疑問を口にしようと口を開けるもグンマはそれを手で押し止めた。
「そもそもお父様は異常な愛情をシンちゃんに注いでいるよね。子どもが可愛いとかそういうレベルじゃないのはキンちゃんも理解したでしょ。
パパはシンちゃんが好きなのに~とかパパは何でも言うこと聞いてあげるよ、とかシンちゃんに対するとき、お父様は自分のことパパって呼ぶんだ。
スキンシップを取るときだけじゃなくて、例えばカレーを作ったときもね。"冷凍庫の中のタッパーはパパ作ったカレーだからね"とか。
ともかく自分のことはパパって呼ぶ。僕やコタローちゃんに対してはパパじゃなくていつも私って言うよ。パパって言うのはシンちゃんにだけなんだ。
それってさ、明らかにお父様はシンちゃんの父親って言うことを強調していない?」
そう思わない?とグンマはキンタローに畳み掛けるように言う。
「恋人にするような態度って言ったでしょ。お父様って、シンちゃんが好きで好きで仕方がないからそういう態度をとるんだ。
でも、親子だからやっぱり恋人にするようなことを実行しちゃいけないわけじゃない?
シンちゃんは息子!って自分を言い聞かせるためにパパって口にしてたのかなあって思ったんだ」
「自分への戒めのつもりか」
ため息を吐いてキンタローは温くなったカップに口を付けた。頭の中が色々なことが渦巻いてごちゃごちゃになっている。
「でも、シンちゃんはお父様と血が繋がってないのが分かったじゃない。ということは、今まで我慢してた先にも進めるんだよ」
それがいいのかはわからないけどね、とグンマは言う。
だって、血が繋がってなくても親子なわけだし、世間的にも養子に手を出す人間なんて認められないもの、とグンマは言う。
「倫理的には問題があるが、実の親子よりはハードルが低いと言いたいわけだな。
ガンマ団で伯父貴に苦言を言うようなヤツもいないし、実行には問題がないわけだ」
キンタローがグンマの言を引き継ぐとグンマは大きく頷いた。
「で、僕が考えた仮説は……お父様はシンちゃんへの気持ちに悩んでいてシンちゃんから遠ざかっている。
シンちゃんはいつもと違うお父様に納得がいかなくて、でも自分じゃ聞けないから2人ともぎこちない、って言うことなの。……合ってるかな?」
どう思う、キンちゃんと問いかけられキンタローは考え込んだ。
靴音で目指す病室の主が起きてくれるのならうれしいけれども、生憎と2日ほど前に行われた定期検査で脳波の結果は変わらないものだった。
一族特有の青い眼の威力と暗殺やら誘拐やらを考慮に入れてこのフロアにほかの入院患者はいない。
戦地で傷を負った団員や病んだ団員はこの階より下のフロアに入院している。
気にすることはないのだが、シンタローの足音はいつも微かなものでしかない。
足元を照らすわずかな灯りを頼りにエレベーターホールを抜け、角を曲がる。
白い壁は暗い中でも目立つが、角を曲がった少し先の弟のいる病室からひかりが漏れていて視界がさっきよりも数段明るく感じられた。
誰か見舞いに来てるんだろう。だが。
(――こんな遅くに誰だ?)
家族の誰かか叔父のどちらかか、と考えながらシンタローは歩んだ。
できれば、父親であって欲しくはない。
いや、父親が弟の看病をするのは喜ばしいことなのだけれども。
(顔、合わせるの気まずいんだよな)
ため息を吐くと、思いのほかその息遣いが廊下に響いてしまった。
もとより気配に敏感な父のことだ。気づかれだろう、と思ってシンタローは自身に舌打ちしたくなった。
今年の夏を境にシンタローの周囲は一変した。
それまでシンタローは、自分を溺愛し、弟のコタローに冷たく当たる父親のことを曖昧にしか理解できていなかった。
両眼が秘石眼だということだなんだというのだろう。
俺の前ではコタローはあどけない幼児でしかない。危険性なんてまったくない。
父親へ理不尽だと詰ったりもしたが、シンタローの望みをいつも叶えてくれる父はこればかりは譲ってくれなかった。
頑ななまでの父親の態度と周囲の腫れ物にでも触るかのような対応。
すべてに苛立ちと幻滅を感じて、家宝の石を持ち出して逃亡したのは今考えると子どもじみた行動でしかない。
辿りついた南国の島で、雁字搦めに囚われていた一族の因縁が解かれたのは結果としてはよかったけれども。
昔、ずっと幼い頃父親と過ごしてきたような毎日をみんなで手に入れることは叶わなかった。
意を決して、半開きになったコタローの病室へとシンタローは体を滑り込ませた。
「来てたのか?」
声をかけても、眠る弟のベッドの傍にある椅子に座る人は背を向けたままだった。
短めの金髪は従兄弟にもいるが、背を向けた人は彼のような白衣を羽織っていない。
こっくりとした葡萄酒色のセーターを着たその人は出来れば会いたくなかった父親だった。
「おい、親父?」
なぜ答えない、とシンタローは父へと近づく。
軍靴を鳴らしても振り返る様子も、飛びついてくる様子もない。
もっとも、今年の夏を境に父親がシンタローへ過剰なスキンシップを取るのは見られなくなっていたけれど。
無視かよ、とシンタローはムッとした。
24年間、顔を合わせればべたべたと抱きつき、愛情を口にしていた男だったというのに、最近は素っ気無い。
別にそれが嫌なわけじゃない。
うざったいくらいだったんだ、これなら普通の親子らしくていいじゃないかと思っていたけれど無視することはない。
聞いているのかよ、と腰を屈め、父親の顔を覗き込むと彼は眠っていた。
(……寝てる)
眉と閉じられた瞼はぴくりとも動かない。
すうすうと微かな息を立てた父親の顔には疲労が滲み出ている。
いつから看病していたんだ、と思ったがシンタローは声をかけて起こすことをしなかった。
「……このまんまじゃ風邪引くからな」
俺にはアンタは運べねぇし、と自身を納得させるように呟き、シンタローは抱えていた軍用コートを広げた。
季節はもう秋だ。夜になれば夏とは違う少し冷たい風が肌を冷やす。
空調が完備された病室だから、寒くはないだろうけれどもシンタローは広げたコートをそっとマジックへとかけ、その場を後にした。
*
夏を境に変わったことはもう一つある。
目覚ましを止め、洗顔やら歯磨きやら身支度を整えた後袖を通すものがそうだ。
ようやく着慣れてきた赤い軍服をきっちりと着込み、シンタローはダイニングへと向かう。
いつもより早めに部屋を出たから、父親の手伝いが出来るだろうと思ったが、ダイニングには朝食がすっかり並んでいた。
「よお」
すでに着席している従兄弟に視線を向けると、彼は朝には不似合いな剣呑な眼差しでシンタローを見た。
「……今日は早いな」
それでも返ってきた答えは出会った頃よりすっかりとマシになっている。
きっちりとスーツを着込んだ従兄弟、キンタローは髪も丁寧に撫で付けて紳士然としているが顔を合わせると殺意を向けてくる。
それでも少し前までならばともかく、今では人目がある場所や朝っぱらからやりあう気はないようだった。
「おはよ~!」
キンタローへの返答をシンタローが考えあぐねているうちにもう1人の従兄弟の元気な声が響いた。
「……よお、グンマ」
助かった、とこの場を持て余していたシンタローはほっとため息を吐いた。
キンタローはといえば、とくに変わった様子はない。
2人の従兄弟の微妙な空気をものともせず、グンマは「みんな早いね~」と明るく言う。
まあな、と応じるうちに、手伝いをすることもなく父親がトレイに朝食を載せてダイニングへと来る。
手早く並べ始めるキンタローに出し抜かれた格好となったシンタローはその場に立ち尽くした。
コーヒーの用意もキンタローと父親にされて、すっかりとやることがない。
「お父様。おはよう!ほらシンちゃんも座って」
とグンマに言われ、シンタローはあとの2人と共に着席した。
いつもどおり、食卓の話題は昨日あったことや今日の予定で占められている。
サラダにヨーグルトベースのドレッシングをかけ、それらに相槌を打ちながら食べ始めると会話の途切れたときに父親が口を開いた。
「そういえば昨日私にコートをかけてくれたのはどっちだったんだい?」
マジックはキンタローとシンタローの両方に視線を向けて尋ねた。
軍用の黒いコートはグンマは着ない。
叔父たち2人もそれぞれ特徴のあるものを持っている。
「俺だけど。コタローのとこ行ったら親父寝てたから」
トーストを裂きながら答えると父は目を細めた。
「悪かったね。うっかり寝てしまったから。ありがとう」
それでも返ってくる反応は前とは違う。
以前は食卓に身を乗り出して「うわ~。ありがとう。シンちゃんはやっぱりやさしい子だね。パパは感激だよ!」などとテンションも高く口にしていた。
それが今はありがとうの一言で終わっている。
なんだか釈然としない気分でシンタローはトマトをフォークで突き刺した。
「そういえば来月だよね。お父様の誕生日」
コートの話からコタローのことへと話題が移り、それからグンマが11月を捲ったばかりのカレンダーを見ながらそう言った。
「今年はどうするの?どんなパーティ?」
にこにことグンマがカフェ・オ・レに口をつけながら父親に目を向ける。
シンタローの誕生日も盛大なものだが、父のもやはり毎年華やかなものだ。
ガンマ団総帥だったこともあるが、団を上げて催され、各国からの賓客も多い。
それに毎年この時期になるとプレゼントの催促だとか、誕生日くらいパパのお願いを聞いて!とシンタローはねだられていた。
しぶしぶながら毎年、それに付き合っていたのが。
「え?今年?今年はやらないよ。引退した身だからね」
やらない、ときっぱり言った父にグンマがすかさずええ~!と声を上げる。シンタローも声を上げそうになった。
秘書たちにはそのつもりでいるように言ってあるから、と口にする父に誰もそれ以上言えない。
気を取り直して、グンマが
「じゃあ、家族だけでお祝いなんだね」
と言ったが、父親は表情を曇らせた。
「いや。ちょうどその日はイベントが入っていて帰れないんだよ」
だから、パーティはいいよと父親が微笑む。困ったようなその笑みにグンマはため息を吐いた。
「せっかくのお誕生日なのに……残念だね」
それきり、食卓から会話は途切れ、朝の時間が進むと共にみなばらばらに仕事へと向かった。
周囲は南国の島から戻ってきて以来、不自然なまでにぎこちない親子に気づかないでいる。
無理もない。
シンタローがマジックの実の子でないという事実は伏せられている。
それを知る人物は一族以外では特戦部隊の人間とシンタローが懇意にしている4人の団員だけだ。
ハーレムを恐れる特選の人間がそれを漏らすことはなく、また4人の元刺客も友情からそれを言うはずもない。
彼らは皆それぞれの任地へと赴いている。
シンタローも島から帰って以来新総帥として忙しい毎日を送っていた。
今までべったりとした関係だった親子がすれ違いの生活を送っていても誰も不審に思わない。
マジックの傍にいる秘書たちもプライベートには立ち入らないから、最近は本部がガンマ砲で壊されなくてよかった、と思っているくらいだろう。
だが、いつもどおりだと思っているのは彼らや一般の団員だけだ。
子どもの頃からシンタローに過度の愛情を注いでいたマジックを見てきたグンマからすれば今のような状態は不自然というよりも異常だといった方が正しい。
朝な夕な食事を共にするたびに彼らのよそよそしい態度に疑問を持ったし、それとなく喧嘩でもしているのかと探りを入れてみたが二人とも否定する。
なら、どうして?と詰問したくなったが、グンマはそれとなく訪ねたときに二人の間に走った緊張感から聞けないでいる。
ついさっき、夕食を共にしたときも食卓の話題は仕事や天気の話などと無難なものでグンマは退屈していた。
もう1人の従兄弟は何も思わないのか相槌を打っていた。
時折、シンタローと父の視線が交差したとき彼らの表情を看過できずにグンマがさりげなく話題を転じてもキンタローは眉ひとつ動かさない。
キンちゃんは2人の様子が気にならないのかな、と思ってグンマは食事後、研究を理由にラボへとキンタローを誘った。
自室と違い、ラボへとは連絡なしにシンタローも父も訪れはしない。
座ってて、とデスクの椅子を引きキンタローをグンマは少しの間待たせた。
数分かけてふわふわに泡立てたカフェ・オ・レへキャラメルソースをかけたものを出すとキンタローは怪訝そうな表情でグンマを見た。
「……騙してごめんね」
「研究のことじゃないのか」
就寝前の時間に無理やりに誘ったと言うのにキンタローは気分を害した様子は見られなかった。
「うん。あのね……シンちゃんとお父様の事なんだけれど」
聞いてくれる?とグンマは小首を傾げてキンタローへ尋ねた。
かわいらしい仕草はいつもの事だけれども、青い目は不安で揺れている。
頼りなげなグンマの様子にキンタローは、
「……とりあえず話してみろ」
と促した。
「最初はね。二人のことだから喧嘩でもしたんだと思ったんだ。
お父様がシンちゃんにちょっかい出して、シンちゃんが怒って。
謝ってもシンちゃんが許さなくて、そんなシンちゃんにお父様が気を使ったりしてああいう態度だと思ってたんだ。
シンちゃんが今更許すのは格好悪いとでも思って引っ込みがつかなくなるのはよくあることだから」
知ってるよね?とグンマはキンタローに聞いた。
秘石が施した呪縛が解かれるまでキンタローはシンタローの内に在った。
つい最近までシンタローのことを一番近くで見てきたキンタローは昔のことを思い出しながらそれに頷く。
意地っ張りだからね、シンちゃんは、と言って生真面目に頷いたキンタローにグンマは微笑んだ。
「でも2人に尋ねても喧嘩じゃないって言うし、2人を見てたら僕も喧嘩じゃないなって思ったの。
キンちゃん、気づいた?いつもなら謝りたいお父様から視線を逸らしたり逃げ出すのがシンちゃんでしょ?
でもね、さっきもだったけれど逃げているのはお父様の方なんだよ」
こんなのはじめて、とグンマは嘆息した。
甘いカフェ・オ・レに口をつけても心は軽くならない。
食事のたび、顔を合わせるたびに何か言いたげなシンタローの眼差しと辛そうな表情で眼を逸らすマジックにグンマは悲しくなっていた。
「シンちゃんはなんだかんだ言ってたけど、あんなに仲良かったのにさ。
それにね、キンちゃん。お父様、最近シンちゃんを抱きしめたりしないんだよ」
おかしいでしょ、とまだ湯気の立つカップを両手で握り締め、グンマが言う。
キンタローはその言葉に目を見張った。
「……なんとなくよそよそしいとは思っていたんだが」
グンマはそんなキンタローの反応に笑った。
まだ実生活の浅いキンタローは人の機微を分からなかったり、また自分自身の理解度を深めるのに夢中で周囲の空気を眼中に入れてないことも多い。
僕はここのところずっとご飯のとき針のむしろだったのになあ、とグンマは苦笑した。
「まあ、フツーの親子だったらさ。シンちゃんが独立したし、親離れ、子離れなのかなあと思うけどあの2人はフツーじゃないじゃない?」
「そうなのか?」
「うーん。なんていったらいいのか分かんないけどコタローちゃんとお父様の関係はやっぱり普通じゃないよ。
年の離れた末っ子でも溺愛しない親もいるからね。僕は……最近になってお父様が出来たけれどそもそも親がいなかった人生だったし」
「高松が親代わりだろう」
互いの後見人のドクターの存在をキンタローは指摘した。
けれども、グンマは首を振る。
「高松はたしかに僕を育ててくれたし、可愛がってくれてるけどね。やっぱり"お父さん"じゃないよ。
子どもの頃は僕には高松がお父さんなんだなあってシンちゃんを見て思ったりもしたけれど、高松はやっぱり一線を引いてたから」
「……」
高松は違う、と言われてキンタローは眉を寄せた。そんなキンタローにグンマが、じゃあと今度は問いかける。
「キンちゃんにとってお父さんは誰?」
グンマに問われてキンタローは怪訝そうな表情を浮かべた。
何を言っているんだ、といった表情のまま
「俺の父はルーザーだ」
と答える。するとグンマは口元に笑みを浮かべた。
「そうだよね。ルーザー叔父様だよね。
僕とおんなじでキンちゃんに色んなことを教えてくれるのは高松だけれど、高松はお父様じゃないでしょ?
それにシンちゃんの中で見ていたマジックお父様でもないでしょ?」
「ああ」
分かった、とキンタローは頷く。納得した様子にグンマは、話題を元に戻した。
「ええと、どこまで話したっけ?……ああ、そうだ。あの二人が普通じゃないってことだったよね?」
「ああ、そうだ」
キンタローはこってりと甘いキャラメルに閉口しながらも、グンマに視線で先を促した。
「僕とシンちゃんはガンマ団を束ねている一族の子だからあまり外へは出たことがなかったんだ。
お誕生日に遊園地へ言ったり、たまに外食する日はあったけれどね。
遊び相手だってシンちゃんと僕以外の子どもはいなかったから他のおうちがどうなのか知らなかったんだ。
たまに来る叔父様たちにも子どもはいなかったからね」
今もだけれど、と残念そうにグンマは肩を竦める。
「お父様はシンちゃんをべたべたに甘やかしてたし、僕だって過保護な高松に育てられたでしょ?
保護者ってああいうタイプだと思ってたんだ。士官学校に入るまではさ」
士官学校、と言われてキンタローは考え込んだ。
グンマがカップに口をつけている間に記憶の中に残るシンタローの過去を思い出していく。
幼い頃と同じで入学式にも父でなく末の叔父に駆け寄るシンタロー。
桜の舞い散る風景。制服。寮。それから帰省したときの……。
「……たしかに士官学校で親の話になったときシンタローは愕然としていたな」
キンタローが思い出した過去を口にするとグンマは微笑む。
「……僕もだよ。周りのみんなは大抵、あんな風な態度を親に取られていないようだったからね」
元気だった?寂しかったよ、と抱きつかれたり。
何かあったらどうしようかと思っていました、と滂沱の涙を流したり。
2人の保護者たちはそれぞれ近くにいるというのに帰省したとき過剰な反応をしていた。
シンタローにいたっては、南国の島に行くまで、一緒に風呂へ入ろうと誘われたり、あまつさえ人形を作られたりもしていた。
「シンちゃんがさあ、コタローちゃんを可愛がるのはいいんだ。
……まあ、ちょっと行き過ぎてるかなとは思うけどあのお父様の行動がベースになっているから納得できるし。
でもね。普通の親子関係って割りにドライなものだと思うんだ。僕とお父様みたいにね。お互い心配しあったりはするけど、あそこまでべたべたしないよ。
世の中、親子の数だけ色んな関係があるかもしれないけど……」
グンマは言葉を濁した。一定いものかどうか、悩んだままの従兄弟にキンタローは続きを促す。
「ああいうしつこいアプローチの仕方ってさ。親子のスキンシップって言うよりつれない年下の恋人に言い寄るオヤジみたいじゃなかった?」
「……」
「ねえ?どう思う?キンちゃん」
尋ねられてキンタローは瞠目した。
しばらく考え込んだ後、キンタローは躊躇いがちに口を開いた。
グンマの視点から見た2人だけでは状況が正確に掴めない。
納得しうる部分はあったが、2人の関係がおかしいというのもグンマに指摘されてから思い当たったのだ。
今、答えを出さずに色々と調査してからにしようとキンタローは考える。
「その……伯父貴のアイツに対する対応がなんなのかは俺からはなんとも言えない」
「うん」
「おまえの意見を仮定するとして、それで一体あの2人はどういう状態なんだ?
普通じゃない親子がよそよそしい、それはおかしい、けれどもこのまま一般的な親子関係になるのもおかしいと言いたいわけなんだろう?」
「うん」
僕とお父様みたいな関係にならないと思うよ、とグンマはきっぱりと言う。
「僕の意見、お父様の態度は恋人にするものだってやつを仮定するよ。
そもそもあの2人がおかしくなったのって最近じゃない?それもキンちゃんが来てから……あ、キンちゃんが原因じゃないよ。
つまりあの島を後にしてからだよね。島の中では相変わらずべたべたしてたし」
確かに、そうだとキンタローは思った。
「で、島から帰ってきて変わったことがあるよね。キンちゃんが従兄弟になったこと、コタローちゃんが眠ってること。
それから、僕にも関係することだけど一番重要なのが……」
グンマが自分にも関係することだと口にしたことでキンタローは彼が言いたいことが掴めてきた。
「シンタローがマジック伯父貴と血が繋がっていないということだな」
「そう。そういうこと。2人とも血が繋がってなくても親子だと考えているし、僕もそう思っていたけれどね」
思っていた、と過去形にされてキンタローは驚く。
思わず疑問を口にしようと口を開けるもグンマはそれを手で押し止めた。
「そもそもお父様は異常な愛情をシンちゃんに注いでいるよね。子どもが可愛いとかそういうレベルじゃないのはキンちゃんも理解したでしょ。
パパはシンちゃんが好きなのに~とかパパは何でも言うこと聞いてあげるよ、とかシンちゃんに対するとき、お父様は自分のことパパって呼ぶんだ。
スキンシップを取るときだけじゃなくて、例えばカレーを作ったときもね。"冷凍庫の中のタッパーはパパ作ったカレーだからね"とか。
ともかく自分のことはパパって呼ぶ。僕やコタローちゃんに対してはパパじゃなくていつも私って言うよ。パパって言うのはシンちゃんにだけなんだ。
それってさ、明らかにお父様はシンちゃんの父親って言うことを強調していない?」
そう思わない?とグンマはキンタローに畳み掛けるように言う。
「恋人にするような態度って言ったでしょ。お父様って、シンちゃんが好きで好きで仕方がないからそういう態度をとるんだ。
でも、親子だからやっぱり恋人にするようなことを実行しちゃいけないわけじゃない?
シンちゃんは息子!って自分を言い聞かせるためにパパって口にしてたのかなあって思ったんだ」
「自分への戒めのつもりか」
ため息を吐いてキンタローは温くなったカップに口を付けた。頭の中が色々なことが渦巻いてごちゃごちゃになっている。
「でも、シンちゃんはお父様と血が繋がってないのが分かったじゃない。ということは、今まで我慢してた先にも進めるんだよ」
それがいいのかはわからないけどね、とグンマは言う。
だって、血が繋がってなくても親子なわけだし、世間的にも養子に手を出す人間なんて認められないもの、とグンマは言う。
「倫理的には問題があるが、実の親子よりはハードルが低いと言いたいわけだな。
ガンマ団で伯父貴に苦言を言うようなヤツもいないし、実行には問題がないわけだ」
キンタローがグンマの言を引き継ぐとグンマは大きく頷いた。
「で、僕が考えた仮説は……お父様はシンちゃんへの気持ちに悩んでいてシンちゃんから遠ざかっている。
シンちゃんはいつもと違うお父様に納得がいかなくて、でも自分じゃ聞けないから2人ともぎこちない、って言うことなの。……合ってるかな?」
どう思う、キンちゃんと問いかけられキンタローは考え込んだ。
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!警告!
女体化ネタです。展開によっては成人向けな描写も入りかねません。 例の如くまだ未完です。無計画です。
「ったく、人使い荒いんだもんなあ、あのヒト……」
パプワハウスから蹴りだされた際の腰の痛みをこらえて、リキッドは両手の水桶を抱えなおした。
今日も今日とて、朝一番から独楽鼠のように働かされ、疲労感はすでにピークに達していた。朝食、蒲団干し、掃除に昼食とすませ、やっと少しの休息を得られるかと思えば、「おら、怠けてないでとっとと洗濯用の水汲んで来い!」と労わりの言葉すらないまま鬼姑に追い出されたのだ。
ああ、報われない俺の人生。幸せの青い鳥は現れないんだろうか(薄幸の鳥人バードの加護なら十分に受けているかもしれない)――つらつらとそんなことを考えていると、ふと、頭上を小さな影が過ぎったのに気付いて、リキッドは立ち止まった。
「――?」
羽音のした方向へと顔を向けてみるが、逆光に遮られ、音の正体まではわからない。
あの羽の形からすると、テヅカくんかもしれない。
ついでとばかりに空桶を下ろして、リキッドは額に伝った汗をぬぐった。
入り組んだ森の中では、潮騒もどこか遠い。じっと耳を澄ましていれば、遠くからナマモノたちのいつもの喧騒が聞こえてきそうだった。
今は自分の荒い息遣いだけが、沈黙の中でやけに響いて聞こえる。ガンマ団にいた頃と比べて、少しばかり体力が落ちてきたのかもしれない。そう考えて、いや、あの頃と負けず劣らずタフな毎日なんだけど、と思い直す。
「……四年かぁ」
改めて言葉に出してみれば、どこか寂しいような、こそばゆい感慨が胸をくすぐった。この島に来てから、もうそれだけの時が経ったのだ。日々の苦労こそ絶えないが、小生意気なちみっ子と、夢の国顔負けの喋る動物達に囲まれた生活は、楽しくて時を忘れさせられる。
前の番人は二百年近く、ほとんど一人で秘石を守ったと聞いていた。
青の秘石が持ち出されてからは、島では存在を知られることもなく、独りぼっちでいたというが――いまは隊長の弟さんと、楽しくやっているんだろうか。
あたりに生い茂る木々をぼんやりと眺めながら、リキッドは視界に入ったあるものに、目を瞬いた。道端の草陰に、見覚えのない花が咲いている。パプワ島の植物にしては珍しく、淡い単色のものだ。
ここの道に、こんな植物があったろうか。
地味な色と相まって芳香も薄いためか、南国独特のけばけばしい植生の中では、いささか埋もれがちな印象をうけた。けれど、儚げで凛とした風情は、見ていてどこか心惹かれるものがある。
花瓶にでも生けてみれば案外、見栄えがするのかもしれない。
指先で薄い花弁をつつきながら、余裕があれば帰り道に摘んでいこうかな、と、リキッドは咲いている場所をもう一度確認する。
それにしても不思議なものだ。
しょっちゅう行き来する道だというのに、今の今まで気付きもしなかったなんて。
ドクター高松でもあるまいし、リキッドもなにも、島中の生態系を把握しようなどという酔狂な考えを持ったことはなかったが、炊事洗濯をこなす仕事柄、動植物についての知識はそれなりにあるつもりだった。
それでもまだ、こんなに歩きなれた道ですら、知らず通り過ぎていたものに、今ごろのように気付かされる。
――まだ、たったの四年なんだ。
新しい道を歩いたならば、それこそ数え切れないほどの新しい発見があるに違いない。子供じみた安堵とともに、リキッドはひとり微笑んだ。思えば、かつての仲間であった特戦部隊のメンバーのことですら、自分はちゃんとは理解していなかったように思う。この島で望まずも再会を果たして、改めて、彼らの強さと温かさを知らされたのだ。
だから――シンタローさんに関してもきっと、同じことなのだろう。彼の知らない一面を、自分はまだまだ、これから見出していくのだ。それがいつまでの事かは、分からないけれども。
まあ意外性という意味では、すでに十分知ってるのかもしれない、とリキッドは男前な新総帥の姿を頭に思い描いた。ブラコンで、動物に好かれて、徹頭徹尾抜かりなく家事をこなすあの人が、泣く子も黙る天下のガンマ団総帥だなんて、いったい誰が想像するだろう。
……あれでせめて、もうちょっとだけでも、優しくなってくれれば良いのだが。
「つーかもっと他の意味で、女性的だったら良かったのになぁ」
ぼそりと呟いた言葉は、限りなく本心から出たものだった。
しかし、だからこそ、その時は別に、深い意味などなかったのだ。
パプワハウスの外から、夜明けを告げるものであろう、鳥の囀りが聴こえる。
美しいメロディに呼び起こされるように、リキッドは、ぼんやりとまどろみから目覚めた。常夏の島の朝は、いつだって適度に清々しくて気持ちが良い。
「ふぁ~あ……ん?」
間延びした欠伸をしながら、唸りながら伸ばしたリキッドの指先が、得体の知れない何かに触れた。予想だにしなかった感触に、リキッドは夢うつつのまま眉根をひそめる。
なんだこれ。
ふわふわと温かく、指で押せば、妙に心地よい弾力を返してくる。触れている先をまさぐると、掌に少し余るほどの柔らかな膨らみが確認できた。
……なにか新手のナマモノでも入り込んだんだろうか。
眉間に皺を寄せながら、歓迎できない自体を思い浮かべる。姑目当ての鯛かカタツムリかもしれない。だが目を開くのはどうも億劫に感じられる。結果として、半端な好奇心だけが先走ることになった。
夢に片足を突っ込んだまま、リキッドは果敢にも、その膨らみをむんずと掴むという暴挙に出たのだ。
「――ってぇ!!」
「へ?」
なんだ、いまの耳慣れない甲高い悲鳴は。
薄目を開けたリキッドの左手首は、つぎの瞬間、骨が軋むような強さでがしっと拘束された。
「ぁにすンだよ、このヤンキーが……」
「え? あ、あの――ちょ」
気の動転からすぐに覚醒できたのは、不幸中の幸いだったといえる。
そのまま、朝一番に放たれたタメなし眼魔砲は、ギリギリで避けたリキッドの髪先を二センチほど消滅させると、パプワハウスの壁に大穴を空け、「愛しのリッちゃんへのモーニングコール」五秒前待機中だったウマ子もろとも、水平線の彼方へと散ったのだった。
涼しい風とともに、差し込んでくる朝日がまぶしい。
自分の髪の先端から漂うこげ臭い煙が風にまかれるのを感じながら、リキッドは、卒倒したヒキガエルがごとく腰を抜かしてのけぞった。
「んなっ、ななな……っ!!」
「避けやがったか」
チッ、と心底残念そうな舌打ちを聞いて、恐々と後ろを振り返ると、仁王立ちする人影から、どす黒い殺気混じりのオーラが立ち上っていた。
普段なら即座に三途の川への日帰り旅行を覚悟するほどの、不機嫌最高潮な鋭い眼光が、リキッドを射抜く。しかし彼はただ唖然と、口を開けて固まっている事しかできなかった。
「し……シンタローさん……?」
「ああ? テメー朝っぱらから人様の胸揉むたぁいい度胸してんじゃねぇかこの変態ヤンキー!!」
普段よりも細く高い声。さらに、目前で揺れるその大きな膨らみは、リキッドの声を驚愕で裏返らせるのに十分な効力を持っていた。
「どっ、どうしたんスか、その身体っ!?」
「は? なに寝ぼけていやがる。俺の身体がどう……」
闇色の瞳が、訝しげに自身の身体を見下ろす。
途端。
――ぶっ。
「ぎゃああああッツ!! なんじゃこりゃあーーーーっ!!」
「し、シンタローさん、落ち着いてっ!!」
「……お前たち、うるさいぞー」
叫んでいる両者の足元でそのとき、あまりの喧騒に目覚めたらしいパプワが、不機嫌そうに目をこすった。チャッピー餌、と起き抜けにぴっと騒音の原因を指差す。
容赦ない号令を合図に、わうん!と跳び上がったチャッピーはしかし、その場の明らかな異変に気が付くと、困惑したように鼻を鳴らして少年を振り返った。
見慣れぬ人影の存在に、勝気につり上がった少年の眼がわずかに見開かれる。
「シンタローなのか?」
子供の単純な問いかけは時として、大人を冷静にしてくれるものだ。
「あー、パプワぁ……」
胸元の双丘を持て余すように両手で支えながら、シンタローと思わしきその人物は、ぽつりと呟いた。
「俺、女になっちまったみてーだ」
「ったく、なんで突然こんなことに……」
普段通りに、朝の食卓を囲みながら、しかし一人だけ普段とは異なる空気をはなつ人物が、ぶつくさと洩らしつつ頭をかきむしった。
「青玉の野郎が何かしやがったんじゃねーだろうな?」
胡乱げなシンタローの視線に、チャッピーに乗り移った青の秘石が、心外そうに反論する。
『失礼な。いくら面白そうでも、人の肉体を勝手に作り変えたりはせんわ』
「人の死体は勝手にいじくりまわしたくせに……」
そりゃあ一体どういう道徳観念だよ。顔をひきつらせるシンタローの横で、リキッドが恐る恐る口を開く。
「これって、異空間を移動してることの影響とかじゃないんですよね?」
『さーな。さっぱり分からん』
「いい加減叩き割るぞテメー」
ぷるぷると拳を震わせるシンタローをなだめて、一同は顔を見合わせた。
青の秘石の仕業ではないのだとしたら、原因は他にあるという事になる。
「この忍者ワールドって、とんでも怪現象を引き起こしそうなもの、ありますっけ……?」
「いや、ないだろ……住人の人間性を除けば、少なくとも俺には、いたって普通の世界に見えるぞ」
忍者屋敷の建築もあと一息というところで、とんだ災厄に見舞われたものだ。
「シンタローさん、昨日の晩飯になんか、変な食材とか使ってませんよね?」
雌雄同体の赤ちゃんとか、しめじに見せかけた毒キノコとか。考えられる原因は、むしろパプワ島の生態系にありそうなものだ。
しかし案じるリキッドを尻目に、完全無欠の姑は、ありえねえよ、と顔を顰めた。
「俺がンな阿呆なミスするか」
「ですよねー」
熟練の先輩に断言されてしまっては、反論の余地もない。
朝食を終えて一息ついたところで、パプワとチャッピーは日課の散歩に出かけた。相変わらずマイペースなちみっ子たちだ。
汚れた食器を重ねながら、これからどうしたものだろうかと、リキッドは内心、途方に暮れる。 奇怪な現象なら何でもござれのパプワ島だが、完全な性転換というのは歴史になかった(と思われる)。
女ッ気のない孤島で、生態系を維持するための不思議パワーが働いたのだろうか。
「――って、何してんスかアンタ!?」
「あ?」
シンタローは恥辱の欠片もない顔で、平然と自らのパンツの中を覗き込んでいた。仮にも妙齢の女性が、しかも美女が、男の前で取るべき行動ではない。
真っ赤になって悲鳴をあげたリキッドに、シンタローは、いやよぉと暢気に首をかしげる。
「俺、一体どこまで女になってんのかと思ってヨ。残念だな、これキンタローがいたらさぞかし研究したがるだろーに」
「な、何言っちゃってんスか! 仮にも女性なんですから、男にんなモン見せちゃダメッス! いくらお気遣いの紳士でも、絶対にダメ!」
「るせーな、なにムキになってんだよ、ヤンキーが」
女扱いされるのが気に食わないのか――中身は男なのだから、当然といえば当然だ――面倒臭そうに口を尖らせる。
そもそも、お気遣いの紳士どころか、今リキッドの目の前にいる出で立ちにすら十分に問題があると言えた。
今までまともな成人女性が滞在したことなどないパプワハウスには、当然、女物の服など常備されていない。シンタローはとりあえず、いつものクンフーパンツとタンクトップを着てはいるが、どちらも現在の体系にはとうてい合っていなかった。タンクトップは脇も胸元も大きく抉れている上に、白という致命的な色のおかげで、下手をすれば胸の膨らみまでバッチリ見えてしまうのだ。
これは絶対によろしくない。ちみっこ達への教育上も、俺の精神衛生上も。
「シンタローさん、とりあえず俺の上着貸しますから、これ着てて下さいよ。あと、包帯出すんでサラシにして巻いて、胸元ちゃんと隠してっ」
今のシンタローには、リキッドの服の方がまだサイズが合うだろう。幸い、首元まで閉まるジャージのトップがある。ただ、唯一の問題はといえば――。
「……お前の服かよ……」
「えぇもう分かってますからそんなすんげぇ嫌そうな顔で汚物を摘むように持たないでっ! ファブりたかったら存分にして良いからっ!」
涙ながらの悲痛な叫びがシンタローの同情の琴線に触れたのかはともかく、とりあえずはファブリーズを引っ張り出すこともなく、“彼女”はサラシと上着を身に着けてくれた。
ようやく身体の力が抜けたリキッドの気も知らずに、シンタローはいまだに自分の肉体検分に忙しい。
「サラシで抑えてこのサイズじゃ、動くとき明らかに邪魔だよな。自分についてるんでさえなきゃ大歓迎なのによー」
ご尤もな意見に、リキッドは苦笑いしながらも内心で思う。いや、他人――それもシンタローさんほどまともな人間に――ついてるという点では、今の俺には眼の保養ではあるんですけど、ええ。
「ちくしょー、筋肉がかなり落ちてやがる……まーこれでナマモノどもに纏わり付かれずに済むならある意味、儲けモンだが」
「わーすごい前向き思考」
だが実際、シンタローが女性になったところで、差し当たって深刻な問題はないのかもしれない。
女として不利な点といえば、主に力仕事や戦闘が挙げられるが、しかし多少筋力が落ちたとしても、その分身軽さは増しているだろうし、シンタローほどの格闘センスがあれば、パワー不足もスピードで補える。そもそもパプワ島に、女性に乱暴を働くような不届き者はいないのだし。力仕事にしても、リキッドや、それこそスーパーちみっ子のパプワがいれば、すでに十二分に事足りているに違いない。
カラクリ屋敷の建築なら、あとは連帯責任で心戦組の方達にでもお任せしておけば、とりあえずは万事解決だろう。
眼魔砲も、朝一番に快調にぶっ放してたしなぁ。ていうか……うわぁ。
改めてシンタローを眺めていると、リキッドは耳の先まで熱くなるのを感じた。いささかワイルドな印象こそあれ、目の前にいるのは、立派な美女である。たとえ中身は俺様でも。
肉体の変化に伴って背丈も縮んだらしく、いつも見上げていたはずの頭はいま、リキッドよりも少しだけ低い位置にあった。それがますます現状への実感を生んで、知れず、ドキドキと胸が高鳴ってくる。
うわ、どーしよ。
芯の通った、媚びない感じの迫力美人だ。おまけに超グラマラス。こんな女性と同じ空気を吸ってるのって、もしかして、かなりの僥倖なんじゃ――。
「オラ、あんまジロジロ見てっと見物料取っぞ変態ヤンキー」
幸か不幸かはいざ知れず、とりあえず男であろうと女であろうと、シンタローがシンタローである事だけは確かだった。
靴の踵で頭をぐりぐりと踏みつけられて地面とお熱いキッスを強いられたリキッドは、塩ッ辛い涙と鼻血の水溜りに顔をうずめ、がくりと肩を落とした。
さすがはロタローのお兄様といったところか。
……俺様転じて、筋金入りの女王様だよ、この人。
一通り取り乱したり騒いだりした後、けっきょく二人は普段のルーティーンに戻り、チャキチャキと皿洗いに勤しんでいた。
「でも、これからどうします、シンタローさん?」
横目で窺ったリキッドの問い掛けに、シンタローは怪訝そうに一方の眉を上げた。
「どーするって、一刻も早く元に戻る方法を探すに決まってんだろ」
「あ、そうなの……」
「なんだよその期待外れみたいな顔は」
じと目で睨まれ、リキッドはアハハと乾いた声で笑った。
「いやその……どうせなら、ガンマ団の迎えが来るまで待つとか」
そんな、急いで男に戻る必要もないのでは。
そう提案したのはなにも、下心からばかりではなかった。
リキッド達は今ただでさえ、秘石探しと家事の両立に四苦八苦している身なのだ。新たな異世界を訪れるたびに聞き込みや探索でそこら中を駆けずり回り、それでいてちみッ子らの要求する生活水準を調えるというのは、容易なことではない。そこに更なる課題が加わるというのは正直、ご勘弁願いたいのだ。
いずれ、シンタローがガンマ団本部に戻れば、それこそお気遣いの紳士か、ドクター高松か、はたまた名古屋ウィロー辺りの人材が、元に戻るための薬でもなんでも開発してくれるに違いない。今、あてのない解決策を無理に探すよりは、とりあえず気長に迎えを待つほうが、負担も減るのではないだろうか。
しかし、そう告げるとシンタローは、苦い顔で首を振った。背中の黒髪がその動きにともなってさらりと揺れる。
「高松の実験台になる気は毛頭ねえし、トップのこんな姿、部下の奴らには見せられねえよ。それに、いつ来るかも分からない迎えを待つんじゃ女の面倒事まで体験することになりかねん」
「え?」
不思議そうに問い返したリキッドに、シンタローが白い眼を向けた。
「オメー義務教育受けてるか」
「しっ失礼っすね、これでもちゃんと高校まで行ってましたよ!」
あんたの叔父に誘拐されるまでは! 忌まわしい記憶に思わずトリップしそうになる精神は、続くシンタローの冷静な声に引き戻された。
「なら保健体育で習ったろ。何事も経験とはいえ、俺はそんなモンまで経験したかねえ」
「え。あ、ああ……」
はい、それまたご尤もです。
言うところを察すれば、さすがに男としては同意するしかない。シンタローの肉体がもし、完全な女性体になっているとすれば、遠からず月経がくる可能性もあるだろう。いくら血に耐性があるといえ、慣れない場所からの出血には別の恐怖がありそうだ。
「でも、戻る方法って言ったって、原因もわからないんじゃあどうしようも……」 言いかけて、あっとリキッドは手を打った。
その道のエキスパートならば、この島にだっているではないか。
「そうだ、シンタローさん! タケウチくんとテヅカくんならきっと、元に戻る薬を作ってくれますよ」
しばらくして、ちみッ子達も散歩から戻ったところで、一行は早速、沙婆斗の森へと向かうことになった。心戦組にこの事態が知れるのは好ましくないという事もあって、周囲にやたらこまめに気を配りつつ、鬱蒼と木々の生い茂る道を進んで行く。
「へえ、あのテヅカくんがな……」
「そうか、シンタローはまだちゃんと会ってなかったんだなー」
さも意外そうなシンタローの言葉に、パプワが扇子を広げて頷いた。
かつてアラシヤマと戯れていたコウモリも、その後ウィローから得た魔法薬学の知識を上手に活かして、今では図太く逞しく島に店舗をかまえている。助手の性格とその商法にいささか問題があるのは否めないが、困った時にすがる相手としては十分に頼もしい存在だ。
「けどよ、性転換の薬なんてそう簡単に作れんのか?」
「うーん、かなりあくどい所はありますけど、あの二人の腕は確かだと思いますよ。俺も以前、『モテナイ薬』作って貰ったことありましたし」
「は?」
モテるの間違いじゃねえの、というシンタローの疑問に、リキッドは哀愁漂う瞳で遠くの空間を見つめる。
「ハハハ……この島の常軌を逸した生態系の中じゃ、モテることに何のメリットもないって俺、気付いたんス」
「お前ってけっこう、不憫な奴だよな……」
強く生きろよ。呟いたシンタローの手がリキッドの肩を軽く叩いた。それだけで、リキッドの鼓動はわずかに駆け足になる。いやに珍しいシンタローからの――それも女性の――スキンシップに、驚きとともに、喜びまで感じてしまうとはつくづく単純だ。
もしかしたら、あの時モテナイ薬を飲まなくて正解だったのかもしれないと、そんな事さえ考える。
ウマ子による被害は今も減らないが、シンタローが女性になった今、どんな事情であれ彼に毛嫌いされるのには耐えられない気がした。
苛められ、こき使われる事はあっても、いつも肝心のところで、シンタローは自分を認めてくれるのだ。
劣等感や、ほんの少しの嫉妬、気まずさ。そんなものでしかなかった気持ちは僅かの間で、羨望と憧憬にほとんどが取って代わられた。
パプワ達とシンタローの間にある親密な信頼関係を、いまだに羨ましく思うことはある。けれどもその嫉妬心ですら、今となっては、誰に抱いているのかも分からなくなっていた。
もし今、リキッドが『モテる薬』を飲んだとして、女性であるシンタローは、万が一ほんの少しでも、自分に優しくしてくれるのだろうか。
さすがにコタローのように、鼻血を垂らしてまで甘やかされたいとは思わないが、そのアイデアは少しだけ魅力的に感じられた。
『性転換の薬ですね。作れますよ』
いざ店につき事情を説明すると、ラヴリーアニマルのタケウチくんは、くりくりとつぶらな瞳を店内の照明で輝かせながら、いともあっさりと頷いた。シンタローもリキッドも、半ば拍子抜けした気持ちでしぱしぱと瞬く。
「そりゃ助かったけど……そう簡単に出来るもんなのか?」
『はい、準備に少し時間がかかりますが、薬の調合自体には問題ありません。代金は念のため先払いでお支払い頂ければ、三週間以内には元の身体に戻してあげられます』
「良かったじゃないですか、シンタローさん!」
とりあえず、血生臭いお客さまの到来までには、ギリギリ間に合うと考えて良いのだろう。
「で、その代金って、いくらぐらいなんだ?」
『800万円です』
「高ッ!!」
いやちょっとまて、性転換の相場なんぞ聞いたこともないが、この値段は流石にボッタクリではないのか。でも、傷も残らず完全な性転換が可能というのなら、良心的な値段と言えないこともない……のかなぁ?
思わず考え込むリキッドをよそに、当のシンタローが、すぱっと否定の声を上げた。
「ちょっと待った。俺いまそんな大金、持ってねーぞ」
「ええっ!? だって、仮にもガンマ団総帥なんじゃないんスか? カードとかでちゃちゃっと……」
「アル中と同じ物差しで俺を測るなっての。組織のトップであるのと、金を浪費するのとは別問題なんだよっ」
確かに、ギャンブル狂いの叔父とは違い、普段の倹約主婦ぶりを見ていると、財布の紐は固いタイプなのだろう(ただのケチなんじゃと思わない事もないが)。金を金とも思わなさそうな青の一族に育った人間としては、唯一まともな神経の持ち主と言えるのかもしれない。
「もーちょっと安くなんねーのか? せめて後払いとかさ」
頭をかきながら訊くシンタローに、タケウチくんは無情にも両手で大きくばってんを作った。28歳は子供のように唇を尖らせる。
「ちぇー」
本来ならここで、「身売りしてでも払います」と言わせるはずであったラブリーチワワの眼力も、ナマモノの扱いに熟練したシンタローには、さして効力を持たなかったらしく、シンタローは今度は、平然とリキッドを振り返った。
「おいヤンキー、オメーヘソクリの少しでも貯めてんじゃねーのか」
主夫の基本だろ、基本。支払いの矛先を向けられ、リキッドはまな板に乗せられた魚がごとく憐憫をさそう表情でさっと蒼褪めた。
「そ、そんな、無理ッスよ! 俺、父の日祝いでちみっ子達に浪費された分のローン、ようやく払い終えたとこなんスから!」
「ふーん、オマエ家政夫の分際で、コタローに父の日なんか祝ってもらったの……」
いや、あれは嫌がらせ以外の何でもありませんでしたけど。シンタローの殺気立つ気配に、あわてて言葉を重ねる。
「シンタローさんもそのまま帰れば、母の日祝ってもらるじゃないスかっ」
「するかぁッ! そーいう問題じゃねえんだよっ!!」
「――シンタロー」
いきりたつシンタローの服の裾を、それまで傍観していたパプワが、ふいにちょんと引いた。
「どうせならオマエ、この島でバイトでもしてみたらどうだ」
チャッピーとパプワに見上げられて、シンタローは迷うように首をかしげる。
「えー、バイトぉ?」
「そ、そうですよ! せっかく女になったんだから、この際、保母さんでもしてみるとか!」
「めんどくせーなぁ……」
三週間で八百万も貯められるバイトが、果たしてこの世に存在するのかは謎だが。アイデア自体はそう悪くもなかったらしく、しばしの逡巡の末に、シンタローはぼそりと呟いた。
「ま、せっかくだし、この際バカな野郎どもに金品貢がせてみるってのも悪くはねぇか」
「まあ女性って恐ろしい」
この人は結構世話好きだ。
何だかんだと言いつつも、パプワ達の世話をやいている。
家事に何かと口出しするのも、俺の世話をやいてくれてるんだ……と思いたい。
……それなら、
例えば、俺が小さかったら、もっと優しかったんだろうか……。
……なんて、とてつもなくくだらないことを考えていたら、
「……何でだよオイ……」
縮みました。
「……小さい……」
というか周りが大きい。
台所に立てないんだけど……。
……って! そうじゃなくて!
いやいやいや! おかしいだろって! おい!
夢だろ夢。
さっきちょっとうとうとしたのがいけないに違いないっ。
……あ、頬痛いや。
ああ、でも、頭のどこかで「まあこの島だしな」とか思ってる自分がいるよママ!
はっ! こんな時に万が一UMA子が来たら俺死ぬんじゃ……!
瞬間、ガチャリと音を立てて扉が開く。
ウマ子か、違う誰かか……。
まさに生きるか死ぬか。
「ったく、あのナマモノどもめ……」
……シ ン タ ロ ー さ ん で す 。
ありがとう神様!!
そして早く気付いてシンタローさん!
何だか機嫌悪そうに帰宅したその人は、俺を見るなり思い切り怪訝そうな顔をした。
「…………」
「ど、ども……」
いや、そんな見つめないで下さいよ。
照れますって。
「ついに人攫いにまで手を出したか、あのヤンキーは」
……酷っ! 俺はアナタみたいに美少年好きじゃないですから!!
……って言ったら殺されるよな。たぶん。
「……? なんかその髪色は見覚えが……」
気づかれてないんだ……?
「シンタローさん、その……わかりません?」
「…………リキッドか?」
遅いです。
「何小さくなってんだてめぇ」
すんません、気付いたとたんになんでそんな態度変わるんっスか。
「その、俺にもよくはなんて言うか……小さいけれど頭脳は大人?」
「てめぇは頭脳もガキだろ」
その通りといえばその通りなんですけどね。
「いつかの放電現象と同じで原因不明、か」
「はい……。ご迷惑かけます」
あの時は一晩で治ったけど。
今度はどうなることやら。
「なら、前みたいにほっときゃ治るだろ」
「で、でも家事が……!」
「お前、それで台所立つ気か?」
確かに、この姿じゃあ台所まで届かない。
「いいからその辺座ってろ」
昼飯の準備を初めながら、言い切られて、そうなると俺は座ってるしかないわけで……。
……気まずい。
「あ、あのっ、手伝……」
「いい」
何か怒っている様で、心臓が締めつけられる。
「怒ってるんすか……?」
番人として無防備過ぎる俺に。
「違ぇ」
ああ、やっぱ怒ってる。
「すんません」
「違ぇって言ってんだろ」
「だって声が怒ってるじゃないですか!」
「怒ってるんじゃねぇ!」
てっきり尖った目線を向けられると思っていたその顔は、意外なくらい赤くて、一瞬、とうとう俺の目が駄目になったのかと思った。
「シンタロー、さん?」
「っ……!」
直ぐに顔をそらしはしたものの、赤みが引くことはなくて、バツが悪そうに俯むいたまま黙り込んだ。
「どうしたんっすか?」
言いながら原因を辿る……。
一体何……あ。
「あの、もしかして、照れてます……?」
「ばっ……!違ぇよ!」
ビンゴ。
美少年好きだもんなぁ、この人。
え、俺美少年? ……あー金髪だから?
この金髪美少年好き!
普段がそうなら良いのに……。
こんな風な姿なんて、そうそう見れるもんじゃないから、今の内に見ておこう、うん。
可愛いなぁ、この人。
「シンタローさん」
「……ぁんだよ」
赤くなった顔を隠す様に顔をそらしたまま、機嫌悪そうに答える。
「キスしてもいいっすか?」
「ばっ、いっ……良いわけあるか!」
普段なら殴られかねないけど。特権はフルに活用して、ね?
「何でっすか?」
「な、んでって……」
あぁ、もぅ、誘ってる様にしか見えませんよ?
「キスだけですから」
「~っ、勝手にしろっ」
じゃ、遠慮なく。
この身長差だから、屈んでもらうしかないんだけど。
とても子供らしくとは言えないよな。俺も。
「んっ……」
すっかり小さくなってしまった手で、両頬を包む。
子供特有の体温がやたらに高い、弾力のある掌がくすぐったいのか、身じろぐ彼も可愛いだなんて……?
卑怯だなぁ俺。
「んだよ、早くしろ」
命令口調です。
全くこの人は……。
絶対素直になんかならないんだから。
「何笑ってんだ」
だって……ねぇ?
「……止める」
「うわっ、すんませんっ!」
しばらく見てたいとか言ったら絶対怒るだろうから、これ以上機嫌が悪くなる前にしてしまおうとか、俺も大分慣れてきた感じ。
不意をついて頬に置いた手ごと引き寄せ、深く交わす。
「んんっ……」
不意をついたからか、酸素が取り込めないらしく、苦しそうに眉を寄せる。
「っ……はぁっ」
いや、そういう顔はヤバイですって。
は、歯止めが……。
ぼんっ
やたらわざとらしい爆発(と呼ぶのも大袈裟な)音とともに、目の前がチカチカと点滅した。
「な、何だっ?」
まだはっきり見えない目で、正面にいた筈のシンタローさんを見る。
「……」
え……何その不機嫌そうな顔。
「戻ってんぞ、お前」
「へ……」
慌てて自分の手を見る。いつものごつい手だ…。
「ぅわっ! 戻ってる!」
ああ、あれですか?
姫のキスで魔法が解けたみたいな……?
メルヘンだよな。
「遅ぇよ。オラ、退け」
あ、あの……扱い違くありません?
「……退けよ」
いや、今更退けと言われても……。
「すんません、ちょっと、歯止めが……」
効きません。
いや、やっぱり無理でした。
「っおい!止……!」
何か言おうとする口を重ねて塞ぎ、押し戻して来た腕を重力任せに押し返す。
「っ……おいって!」
抵抗を示しつつも、本気じゃない彼が愛しくて、そのまま行為を進める。
とりあえず、眼魔砲が来ないことを祈っておこうと思います。
それは蒸し暑い午後で、あまりの暑さにイラついて俺様度が大分上がっている(いつもの三割増くらいには小言が多かった)彼に、パプワが提案したのが始まり。
「よし! 水浴びに行くぞ」
汗一つかいてない涼しい顔だったが……。
パプワだって暑いものは暑いんだろう。
それで今に至る。
ジャングルの奥のほうにある水場は、木々が太陽を遮り、風通しも良くて、結構涼しい。
「キャー!! タンノちゃん! シンタローさんの水浴びよー!」
「イヤーン! 男の人の筋肉ってステキー!」
「眼魔砲。」
……向こうの方で、焦げたナマモノたちが変な匂いさえさせてなけりゃ、平和な時間だ。
「ったく、油断も隙もねぇな。ナマモノ共め」
いや、気持ちはすごくよくわかる気がする。
ようは行動に移すか否かの問題で、惹かれていることに変わりはない。
……ナマモノと同レベルか……。
足だけ水に入れて、岸に腰掛けながら、ボーっとそんな光景を眺めていた。
髪とか見てるだけなら綺麗なんだけど、かなりしっかりとした体つきとかは、やっぱ格好良い。
容姿もそうだけど、どっか惹きつけるモンがあるって思う。
って、変態じみてるよ。
しっかり! 俺!
――――ゴンッ。
「なぁに見てんだコラ!」
痛っ!
何でそう何かと殴るかな?! この人。
グーは止めて欲しいって言ってんのに……!
「変な目つきで見てっからだろうが」
……変って……言い返せないけど。
っていうか思考意識にツッコミ入れないでくれます?!
「……お前はいいのか?」
水遊びが、ついには水球にまで発展しはじめたパプワたちの方を、顎で指しながら言われる。
……あれに入って行けと……?
きっとボールは150kmは越えている。
「あ、いえ、俺は」
たまにはのんびりしたいんで。
今くらいが丁度いい。
つーか、あそこに入ってったら死ぬかもしれない。
「ふぅん」
濡れた髪を掻き揚げて、シンタローさんはつまらなそうに呟いた。
うわぁ、この人「入っていったら面白かったのに」と言わんばかりです。
扱いが酷ぇ……。
俺のことなんだと思ってんだ全く!
……たぶん「ヤンキー」とか、そんな答えが返ってきそうだけど……。
今日こそは何か言い返そうと顔を上げた瞬間に――――。
――――『それ』を、見つけた。
見つけてしまった。
ほんの数cmのその痕、腹部に縦に走る、痕を。
「だから、見るなって言って……」
「……あの」
「あぁ?」
もしかして、と思った。
見るまで忘れていたのに。
「それ……」
「あん?」
俺の視線の先に気付いたのか、小さく息をついて、それをなぞった。
「ああ、あの元番人にな」
「そう……ですよね……」
やっぱりあの時の傷だ。
彼を殺した……――――。
あの傷が、消えずに今もそこにある。
俺じゃなかったとか、彼は今更そんなこと気にしていないだとか、分かっているけど。
それでも、少し怖くて。
「痛く……ありません?」
聞いてみる。
当時は、そんなこと思ってもみなかったのに、
身体だけじゃなくて……。
あなた自身を傷つけたような気までして。
今更そんなこと思っても、遅いかもしれない。
例え痛みを感じていても、俺にホントの事なんて言ってくれないんだろうけど。
「はぁ? あれからどれだけ経ってると思ってんだよ?」
返ってきたのは、あまりにサラリとした答え。
「んなこと、お前が気にしてんじゃねぇ」
この人は……、俺を気遣ってくれてるのか、無意識なのか……。
どうして簡単に、こういう事を言ってくれるんだろう。
「そっすか……へへっ、良かった」
「んだよ、気色悪ィなぁ」
怯えを拭い去ってくれる、惹かれていってしまう言葉を。
「いえ、何でも! 俺、パプワ達のとこ行って来ます!」
嬉しくて顔が緩むのを見られたら、また拳骨が降ってくるだろうから、俯いたまま立ち上がって、彼の横をすり抜ける。
こういうところに、惹かれてしまうんだ。きっと。
「リキッド君何笑ってるのー?」
「変なのー」
二匹に言われて初めて気付く、微笑ましい光景を前に、頬の筋肉が大分緩んでる。
だって仕方ないじゃんよ。大好きなもん前にすると。
「あいつはいつもああだからなー、気にしなくていいぞ、二人とも」
「「はーい。」」
別にいつもへらへらしてるわけじゃないんっスけど……。まあそんな扱いにも慣れてしまったわけで。
気持ちがそのまま顔に現れる。
可愛いって言うか、ほのぼのって言うか……?
とにかく眺めてるだけで幸せな気分。
この人、自分じゃぜってぇ気付いてないだろうけど、パプワとか、チャッピーとか、この二匹とか相手にしてるとき(たまに、悲しい事に極たまーに俺にも)すげぇ柔らかい表情すんの。
普段、眉間に皺ばっか寄せてるせいか、そういう顔されると本当ヤバイ。
知らず知らずに口元は緩むし、顔は赤くなるし。
ここは耐えるんだ俺っ!
つーか、いつも耐えてるけどね!
……うぅっ、報われたいよパパ、ママ……。
「お前さ、構って欲しいのか?」
「え……?」
かけられたのが、何だか優しげな声のような気がするのは、気のせいじゃないですよね?
やっと俺の想いが通じたんでしょうか神様!
「エグチ君、ナカムラ君、この可哀相なファンシーヤンキーと遊んでやってくれねぇか?」
「「うん。わかったー」」
……そっちっスか。
いや、嬉しいと言えば嬉しいんですけどー……。
何か違わない? ねぇ?
「リキッド君遊んであげるー」
「遊ぼー」
「……そーだな」
胸キュンアニマルにまで憐れまれてる俺って何。
本当に構って欲しい人は、とっとと家事に戻ってしまった。
寂しい……。
「どーしたのー?」
「したのー?」
「ん、ああ、何でもないよ」
そう言って撫でてやると、二匹はくすぐったそうに笑った。
ああ、くそぅ! 癒されるなぁっ……!
胸キュンだよオイ!
俺の数少ない至福の時間ー!
「……お前、ナマモノ相手に犯罪は起こすなよ……?」
しません。
いくらなんでも……!
そうか。そういう風に見られてるわけか。
だいたい、ナマモノ相手に犯罪に走るほど、癒しに飢えてないっつーか……!
「シンタローさん相手ならまだしもっ……!」
「…………」
……あれ……?
「…………」
「…………」
あ……いや、今のは……その……。
口に出すつもりはなく――――。
言葉のあや……?
い、いやぁー、日本語って難しーなぁー。
「本当、リキッド君ってば、シンタローさんのこと見てばっかりだよねー」
「見てばっかー」
「なっ!! ふ、二人とも何ヲ言ッテイルノカナー?」
み、見てるとこは見てるもんだなぁ……。
でもね、そういうことは、分かってても本人の前で口に出しちゃいけませんよ?
ていうか、この状況で言わないで!!
空気読んで!
それとも読んだ上でこの仕打ち?!
「すげぇ片言になっとるぞ、ヤンキー」
「うおあっ!? き、急に後ろに立たないで下さいよっ!!」
だ、だだだ、だからっ! 心臓に悪いんですってば! そういう行動は!
分かってくださいよ、寿命縮みますから……。
いや、もう特戦時代とかで、充分寿命は縮んでるかなー……。
あ。俺、年とらないんだっけ?
「なぁ」
関係ないことを考え始めた俺の脳に、シンタローさんの声が響いた。
話し掛けられる声と共に、肩に手を置かれて、身体が硬直する。
掌の重さとか、体温とか、妙に意識しちまうし。
う、うわ、うわぁ、逃げたいっ! じゃないと理性が持たない!
「リキッド」
どうしてこういう時だけ、名前で呼ぶんっすかー! ひ、卑怯だっ……!
おどおどしつつ、首だけで振り返る。
……あれ?
その爽やかな笑顔は……。
どっかでみたような……?
「とりあえず、身の危険を感じるから、水でも浴びて頭冷やして来い、この馬鹿ヤンキー」
「……え?」
背中に強い衝撃を感じたと思ったら、次の瞬間には家の外に蹴り出されていた。
ついでと言わんばかりに、頭上にタライと大量の洗濯物が舞う。
洗って来い、ってことね……。
慣れてしまったそんな扱い。
「それにしても……」
直前のすごく爽やかな笑顔が頭から離れません。
ああ。そういえば、人を利用する時とか、相手に欠片の同情すら抱いてない時とか、ああゆう顔するよね。あの人。
それでも、その顔にすら赤くなる俺も俺。
……うん。頑張ろう。
とりあえず、頭冷やして洗濯っすか。