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 紅の液体を注がれたグラスが目の前に、掲げるように見せ付けられた。
 その液体の中に、小さな錠剤がぽとんと落ちる。
 その衝撃に、たぷんと波打つそれに、目を奪われる。
「何を入れはったんどすか? シンタローはん」
 その錠剤は、あっと今に液体に混ざり、消えてしまっていた。
「ん? 【毒】だ」
 さらりと告げられたその言葉に、アラシヤマはすっと目を細めた。
 冗談にしてはきつすぎるそれ。だが、相手を見れば、それが冗談なのか本当のことなのか分からない。
 口元に笑みを浮かべている彼は、けれどその眼は笑ってはいない。
 自分の手で入れた、それが、その液体の中でしっかりと溶け込んでいくのを確認していた。
「それをどうするつもりでっか?」
 その液体をもしもその場で煽ると言うならば、たとえそれで相手が傷つくとしても、それを阻止するだろう。
 だが、相手はそれほど愚かではない。
 確実に止める相手がいる前で、死を選ぶことなどありえない。
 ならば―――――。
「お前にやる」
 もう随分と前から変化のなかった互いの距離が、その言葉で縮まった。
 一歩足を進め、さらにもう一歩前に出れば、そのグラスが、自分の手に届く範囲まで来てしまった。
「これをわてにくだはって、どうしろと?」
「んー、飲めよ」
 今、考え付きました、とばかりに提案されたその言葉に、なるほど、と頷く。
 確かに、【毒】入りということを抜かし、これを渡されたなら、中に入っている液体を飲むしかない。
 洋酒は詳しくないが、それでもその紅色の液体は、上物と呼ばれる品であったはずである。
 酒が嫌いではないし、味見するのも悪くはない。
 ただし、それは確実に【毒】入りだ。
 命をかけての味見をする価値があるものかどうか―――考えるわけでもなく答えは出る。
「それで、わてが死んだろどうするんどすか?」
「えっ? 死ぬだろ。だって【毒】入りだし」
 当たり前のように言われて答えに、アラシヤマは、憮然とした表情をしてしまった。
「無駄な殺生はあきまへんで、シンタローはん」
「うん。そうだな。でも、俺がお前を要らないといったら? いらないから、これ飲んで死ねっていったらどうする?」
 どうするも何も、実際、今の状況がそれではないのか、といいたいが、言ったところで、別に何も変わりはしないから―――どちらにしても、自分は【毒】を飲んで死ぬのだ―――アラシヤマは、シンタローの質問に答えた。
「死にますえ。シンタローはんが、わての存在を消したいというならば、それならそれで従いますわ」
「そっか。じゃあ、はい。これをやる」
 笑顔を浮かべて、差し出されたそのグラスを受け取った。
 【毒】入りの液体がゆらゆらとその中で揺れる。
 飲めば死がおとずれる、魅惑の液体。
 アラシヤマの手にそれは存在した。 
「もう一度聞きますえ。シンタローはんは、今ここで、わてに死んで欲しいんどすな?」
「ああ、そうだ」
 躊躇いもなく答えられたそれに、アラシヤマは嘆きとも安堵ともつかぬ溜息を非一つつき、グラスを顔の前に近づけた。
「それなら―――――」

 

 パリンッ………。



 手の中で、グラスが砕け散った。
 キラキラと輝きながら、ガラスの破片が散っていく。
 同じように、真紅の液体が、自分の体内から零れた同じ色あいのそれと混じりあい、飛散し、床に赤い滲みを点々と作る。
 

「このっ馬鹿っっっっ!!!」


 刹那、空気を震わせ、シンタローの身体が自分の身体に絡みついた。
「っ!」
「行き成り飛び出さんといてくだはれ、シンタローはん。ああ、もう。手に傷をつけてしもうたじゃありまへんか」
 慌てて、手にもっていたそれを投げ出し、アラシヤマは、傷ついたシンタローの手の甲に唇を寄せた。
 チャリンと小さな音を立てて、血をつけたグラスの欠片が、床に落ちた。
「てめぇが悪いんだろっ。何、ガラスで首掻っ切ようとしてんだよっ!」
 飲めと差し出したワイングラス。
 なのに、相手はそれを手の中でくだき、手ごろな大きさのガラスの破片をつかむと、自分の頚動脈をめがけて、切りかかった。
 それに気付いて自分が止めていなければ、今頃は、辺り一体血の海である。
 自分の手の甲を少しばかりかすっただけで事なきを得たのは重畳だった。
「そないなこと言わはっても、死ねっていうたのはシンタローはんでっせ」
 血が止まったのを見計らい、アラシヤマが唇を離せば、シンタローは、むぅと唇を曲げたまま、こちらを見ていた。
「本気で死ねっていったわけじゃない!」
「それならそうと先に言いなはれ。わては確認しましたえ、わてに死んで欲しいかどうかと」
「うっ………あれは、成り行きだ」
「まったく、こういう後先考えずに行動する癖は、まだなおっとりまへんのやな」
 あからさまに呆れたような溜息一つついてみれば、一気に顔を赤らめて相手が、機嫌を損ねた顔をして、怒鳴りだした。
「冗談の通じないお前が悪いっ!」
「責任転換どすか?」
「煩ぇ。こういう時は黙って飲んで、『僕は死にませーん』って言うぐらいユーモアを見につけろ」
「そのネタ古すぎますわ、シンタローはん。知っとる人ほとんどいないと違いまっか?」
「うっ…煩い、いいんだよ。とにかく、俺のやったワインを素直に飲まないお前が、悪い」
 てめぇだって傷ついてるじゃねぇか。
 握りつぶした時に、ガラスの破片で手のひらの中は、かなり傷ついている。
 シンタローがその手を伸ばすのを察すると、アラシヤマは、さっと手をひいた。その行動に、機嫌を損ねてみせるが、先ほどの自分の行動と同じことはさせられなかった。
「これは、今から治療しに行きますわ。汚した床は後で掃除にきますよって、そのままにしておいてくだはれ」
 ガラスの欠片が残っているかもしれない手を舐めてもらうわけにはいかない。 
 その手を抱えるようにして、ドアへと向かう。だが、その足をぴたりと止めた。
(………泣いてますやろうな)
 あちらが勝手にしかけたことで、こちらが思惑を無視してしまったから、結果こんなことになったことを、彼が後悔していないわけがない。
 どちらが悪いかと言えば、無茶な行動をとった自分にも非はあるけれど、冗談に思えない状況を作ったあちらが事の発端で、元凶である。 
 そうは思っているのだが。
(なんで、わては怒れないんでっしゃろ)
 いらぬケガさえしたというのに、怒りはちっともわいては来ずに、逆に愉悦さえ感じてしまうのだから、困ってしまう。
 もちろんその理由もちゃんと分かっている。
 アラシヤマは、ドアの前で立ち止まり、けれど振り返らずに、その場で声を発した。
「シンタローはん。わては、全然気にしてまへんから、後で、飲みそこねたワインを飲ましておくれやす――――毒入りでもええですから」
 たぶん泣きたいぐらい傷ついてて、でも、それを見せないために必死でそれを押し隠そうとしている彼の努力を無駄にしないためにも、顔を見ずにそう言えば、しばらく間を置いて、言葉が返ってきた。
「ちゃんと用意する。―――――アラシヤマ、悪かったな」



 その言葉を聴いてから、ドアを開いてパタンとしめる。
 その顔には、笑みが灯っていた。
 
 こっちこそすみまへん。
 本当の本当に悪いのは、実は自分の方なんです。  

 シンタローの自分に対する思いを知りたくて、【毒】入りだと嘯くワインを飲んだところで、相手のそれを知ることなどできないことはわかっていたから、わざとグラスを砕いて、もっと確実に自分の命がとれるような行動をしてみせた。
 本気でやってたら、彼の止める暇など与えなかっただろう。
 彼の手を傷つけてしまったことは誤算だが、後は思惑通りだった。
 さきほどからジンジンと痛む傷に、アラシヤマは、満足げに笑った。
「ま、この程度の傷で、あん人のわてへの執着を見せてもらえたなら、上々ってとこどすな」

 



 ―――――それでも、わてはあんさんのためならいつでも死ねるって知っておりまっか?

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ak
 絶対という言葉がありえないというのならば、きっとという言葉に言い換えよう
 きっと貴方の元へ―――――参ります。






「認めまへん………」
 ざらざらに乾いた舌先から漏れた言葉は、自分以外誰も聞き取れないほどの掠れたかすかな声。
 その思わぬ頼りなさに、発した自身が、眉を顰めて見せた。
 心まで気弱になりそうな声を自分が出したとは思いたくない。
 今の状況でそれは、あまりにも絶望的なものを得てしまうからだ。
(そんなこと認めまへんで)
 声に出すことは拒絶して、心中でしっかりとその言葉を刻む。
 言霊に誓うように、願うように、その言葉に思いを込める。
「………っぅ」
(ふざけんで欲しいわ)
 どうしようのない苛立ちがこみ上げる。
 少し動くだけで、脳天突き破るほどの激痛。
 どうして、自分がそこまでのケガを被い、さらに悲壮なほど危機的状況におかれなければいけないのだろう。
 その思考は、すでに八つ当たりの部類に入っているのだが、仕方ない。

 味方ゼロ。
 救援未定。
 敵多数。
 
 くらくらしそうなほどの素敵な状況。
 任務はかろうじて成功というところが、まだしも慰めになるだろうか。
 否、なるはずがなかった。
 生きるか死ぬかのこの状態では、そんなものは何も役には立たない。
 役に立つのは、仮に自分がここで命を落とした後だ。それも、無駄な死ではなかったと讃えられるだけである。
 そんなもの、どうでもよかった。
 今の自分が願うのは、未来への生命。
 今のところ敵に見つかってないからこそ、かろうじて生き延びられているという状況に、感謝だけはしている。
 それでも、硬直状態が続いており、状況の悪化もなければ好転もありえてないのは否めなかった。 
(帰られへんかも―――――って、そんなこと認めまへん、言うといりますやろっ!) 
 自分の中で生まれる気弱を即座に突っ込み入れて、怒鳴り返す。
 そうでなければ、最悪の結果ばかりが脳裏をかすむ。
 はあ、と苦しげにもらされた吐息。
 同時に伝う血の苦味。
 外側に受けた傷だけでなく、内側もかなり傷ついているのがわかる。
 じくじくと痛む内の傷とズキズキと痛む外の傷。
 区別するのも面倒なのだが、それでも両方とも感じてしまうその痛みが心底むかつく。
 いっそ、痛みで意識を飛ばしてしまいたいのだが、そうなると自分の死期が早まるだけだ。そんなことは、ごめんである。
(わては、帰るんでっせ。あの人の元へ)
 約束したのだ―――――戻ってくると。
 約束は、破るためにするものではない。必ず守りとおすために、されるものだ。
 相手を信頼しているからこそ結ばれる誓い。
 何があろうとも、その約束を貫き通せる隙があるのならば、どれほどの困難が待ち受けよとも、叶えなければいけない。
 少なくても、自分が愛する人は、それを実行し、実現させている。
 ならば、自分もそれに準じなければいけない。
 決して相手に引けをとらないために。
 相手に見くびられないために。
 相手に相応しい人間になるために。
 約束は必ず守る。
「わては、生きて帰りますえ。あんさんのところへ―――きっと」
 だから、今は生きる。
 大切なのはそのことで、アラシヤマは、状況を十分判断してから立ち上がった。
 戦場は、まだ続いていて、巻き起こる砂煙でかすむ大地の中を、確実に一歩ずつ進む。
 血を大量に流れたせいで、かすむ視界の中で、必死に大地を踏みしめる。
「きっと…………きっと、わては…………あんさんのところへ」
 ――――戻るから。

 願いは空へ。
 思いは風に。
 身体は前に。

 全ての力を振り絞り。
 かすむ未来を確かに掴んで。
 望む先はあの人の元。 



 ――――だって、待ってくれてますやろ?

kl

 自分が生まれた意味なんて、考えるだけ無駄。
 生まれたいから生まれたわけではなく、ただ、生まれる過程を踏んだから、ここに存在するだけ。
 そんな風に思っていた時があった。

 けれど、ある日突然知ってしまった、自分の生まれた意味。 
 それを知った時、生まれなければよかったのにと心から思えた。





「っ……」
 シンタローは目覚めると同時に側頭部を手のひらで押すように抑えた。
 ズキリと頭の奥で、痛みが起こる。それも一度だけではなく、断続的に痛む。
「うぅ…」
 呻きつつ、顔を顰めるシンタローの寝覚めは、最悪のものだった。
「酒くさ」 
 けだるげに半身を起こし、息を吐けば、酒の匂いが濃密に残っているのが分かる。
 ちらりと視線を部屋の真ん中に向ければ、小さなテーブルの上に溢れんばかりに酒のビンが転がっていた。
 昨日、いや、今日になっていたかもしれないが、両手では足りない数の酒瓶は、全て自分が開けたものだった。
 のろりとベットの上から這い出すと、シャワーを浴びるために移動する。
 一歩一歩歩くたびに、頭の奥がキリキリと痛み、苛立ちを産むが、それは自業自得であるから我慢するしかない。
 完全に二日酔いだ。
 重苦しさを感じる身体を動かしつつ、無意識に胃を撫でる。丈夫な胃だと自負しているが、その調子もどうも悪いようであった。
 吐き気はないが、一歩ずつ歩くたびに気持ち悪さがこみ上げてくる。無理やり吐けば、少しはすっきりするだろうか、とぐらぐらする頭でぼんやりと考えながら、部屋を横切っていく。
 窓に下がっているカーテンは閉められたままだった。けれど、そこから入り込む陽光は、かなり明るかった。
 たぶん、時刻は午後を回っているのだろう。
 部屋を横切る時に、その光が一筋目をさし、そのまぶしさに視界を細めた。
 総帥としての仕事があれば、完全に遅刻である。が、今日は休みで、全ての業務は休止だった。
 だからこそ、こんなにもゆっくりとしていられるのである。
 バスルームにようやく辿りつくと、シャワーのコックをひねり、肌が痛いほど熱い湯を浴びる。5分をほど、そうしていれば少しは頭が機能していく。
 ざっとバスタオルで水気をふき取り、下だけ身につけ部屋に戻ると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し口に含んだ。
 冷たい清涼水が喉を通過する。
 その時ようやく自分が喉が渇いていたことを知り、500mlのペットボトルをあっというまに空にした。
「2時か」
 棚の上に置かれたデジタル時計を見ると、時刻は2時10分をさしている。
 いつ眠ったかわからないから、寝すぎたという感覚はないものの、昼過ぎに起きるなんてことは、もう随分と久しくなく、なんとなく奇妙な感じはする。 

「どうしようかな」
 再びベットの上に戻ったシンタローは、髪がぬれているにもかかわらず、背中から倒れるように、身体を落とした。
(何もすることがないな)
 本日の予定は、一件のみ。それも夕方、一族で集まり夕食を一緒にとるというものだけだ。
 だが、それまで時間はたっぷりとあった。
 日ごろ怠っているトレーニングをするのもいいかもしれない。けれど、ズキズキと痛む頭を抱えて、そんなことはしたくはなかった。
「今日は…………」
 天井をぼんやりと見上げたまま、シンタローは、苦い笑みを作る。
「俺の誕生日か」
 何の感慨もなく吐かれた言葉は、むなしく大気に霧散する。
 今日は自分の誕生日である。
 だからこそ、いつも休みなしで働くガンマ団総帥のシンタローに休みが与えられていたのであった。
 特別休暇というやつである。
 けれどシンタローは、総帥になってからは、誕生日の日には、いつも昼過ぎまで眠り、夕飯を一族でとるだけで終えていた。
  昼過ぎまで寝るのは、いつもは忙しくて睡眠不足だから、という言い訳をしているが、気づいている奴もいるのだろう。
 自分が、今日という日を嫌って、眠むることで時間を潰していることを。
 昔は、そんなことはなかった。
 誕生日を祝うという年でもなくなっても、それでもなんとなく、嬉しさを覚えていた。けれど、そうではなくなったのは、パプワ島から帰ってきてからだった。
 自分の出生の秘密が全て明らかになった後、シンタローは自身の誕生日を祝うことはできなくなっていた。
  今まで24年間、自分は本来ならば祝ってもらえるはずのものを押し込めて、誕生日祝ってもらっていたのである―――――自分の誕生日だと信じて。
 いや、確かに、誕生したのは、その時だろう。
 けれど、自分は本当の『シンタロー』ではない。マジックの息子でも、ルーザーの息子でもなかった。
 そして、真実はどうであれ、マジックの息子の『シンタロー』として祝ってもらうものは、自分ではなかったのだ。
 別に罪悪感があるわけではない。
 それは、シンタロー自身が望んだことでもなく、知っていて行ったことでもなかったのだから。 
 ただ、24年間信じていたものが崩されるということは、思った以上に堪えていた。

 誕生日おめでとう――――生まれてきててれて、ありがとう。

 その言葉を自分がもらえるのかどうか、考えれば考えるほどわからなかった。
 もし、自分がいなければ、何かが違っていて、もっといい方向にいっていたのかもしれない、と考えてしまうから。
 自分が生まれたことを喜べないのだから、誕生日を祝うことなんてできるはずがなかった。

 トントントン。

 突然、ドアをノックする音に、シンタローは跳ねるように、上半身を起こした。
「誰だ?」
 機嫌の悪そうな低い声で誰何の声をあげる。
「俺だ」
 その声に、シンタローは驚いたように目を見晴らした。
 ドアの外にいるのは、自分が24年間全てを奪っていた奴だった。
「どうぞ」
 その短い応えに、ドアが静かに開かれる。 
 そこにいたのは、やはり『シンタロー』だった。
 従兄弟の……いや、パプワ島に戻ってからは、もう兄に変わったのだが、グンマあたりには、キンちゃんとかキンタローと呼ばれているその男は、部屋に入ってきた。
 酒臭さが不快なのか、顔を一瞬顰めてみせたが、すぐに元の表情に戻る。
 彼は、表情が乏しい。
 それもこれも、経験が足りないからだ。24年間の空白がそうさせる。
「どうしたんだ?」
 酒瓶が転がっているテーブルの前のソファーの方に座るように促すが、キンタローは首を振って断った。
「いや、いい」
「そうか。で、何の用事だ?」
 シンタローの方は、二日酔いで体がだるいので、酒瓶が転がっているソファーの上に腰をおろす。
 足を組むと、長身のキンタローを見上げた。
 彼が、ここに来るのは珍しかった。しかも、一人だというのは、初めてではないだろうか。
 いつもは、グンマか高松が一緒なのである。
 彼が自分のところに来る用事が思いつかず、彼の言葉を待っていると、キンタローはおもむろに口を開くと一言、言葉を発した。
「誕生日おめでとう」
「へっ?」
 シンタローはそれを耳にしたん間抜けな表情をさらした。
 自分が今、聞いた言葉が信じられないものだったから。
 驚いて、背もたれに預けた背中を起こし、中途半端に立ち上がるような姿勢となったまま、呆然とキンタローを見上げる。
 彼は、先ほどから表情をまったく変えずに、シンタローを見下ろしていた。
「な、んで?」
 ぽつりと出た言葉に、キンタローは片眉を持ち上げ、怪訝な表情をわずかに見せる。
「おかしいことなのか? 今日はお前の誕生日だろう。だから『おめでとう』を言いに来たんだ」
「あ、ああ。それは、どうも………」
 当然のように告げるキンタローの言葉に、呼吸をするのも忘れて、それを聞いていたシンタローは、けれど、あえぐように息を吸い込むと、ぼそぼそと礼を告げる。
「でも、なんで今?」
 誕生日が今日なのはお互い当然のことで、だから、夕飯の時、一族全員で食事を取るときに、もちろん彼も皆から祝ってもらえるのである。
「………俺は、まだ一度もお前に『おめでとう』といってないことに気づいたからな。グンマに言ったら、言ってこいと言われたから来たんだ」
「そう…だったな」
 皆に『おめでとう』という言葉はもらっていても、まだ、互いにそれを言い合ったことはなかった。
 キンタローの心中はわからないが、シンタローは、後ろめたくてそんなことは口に出せなかったのである。
 
 誕生日おめでとう。
 生まれてきてありがとう。
 
 そんな言葉を言えるはずがなかった。
 なのに―――――。
「本当に『おめでとう』と思っているのか?」
「? そう思っているが。まずいのか」
「いや、その………」
 はっきりと理由を告げることはできなくて、口ごもるシンタローに、察したようにキンタローは頷いた。
「俺は別に気にしてない。前は、そうではなかったかもしれないが、だが、今はこれでよかったと思っている」
 まっすぐに向けられた視線に、シンタローは、受け止めそこねて、視線をそらす。
「俺は、お前がいてくてれよかったと思っているぞ。他の奴らだってそうだろう。だから、『誕生日おめでとう』と言えるんだ」
 あっさりと、なんでもないように告げられる言葉が、酷く嬉しいと感じるのはどうしてだろうか。
 その言葉を信じてもいいという気持ちにさせてもらえるからかもしれない。
 キンタローの言うとおり、自分の誕生を祝ってくれる人がいてくれるということを。
 シンタローは視線をあげた。
 本来ならば『シンタロー』という名前と存在を与えられるはずだった男を見据える。
 全ては自分が生まれたことで、それを奪った。
 けれど、彼がいたからこそ、自分はここにいる。
 自分の誕生を祝ってもらえるならば、自分もまた祝ってもいいのだろうか。
「―――――俺も言っていいか? お前に、『誕生日おめでとう』と」
 躊躇うように告げた言葉に、キンタローは肯定するように頷いた。
「当然だ。俺がいなければ、お前は生まれてこれなかったんだからな。感謝しろ」
 言いたいことは言い終えたのか、キンタローはくるりと踵を返し、シンタローに背を向ける。
 それを黙ってシンタローは見送る。
 先ほどの彼の言葉が、耳に残る。

 『感謝しろ』

 その言葉に、自分の存在が許された気がした。
「――――ありがとう………生まれてきてくれて」
 部屋を出て行くキンタローに向かって、シンタローは小さく唇を動かした。
 自分には、言う資格がないと思っていた言葉を口にする。
 けれど、最後の言葉は、ドアが閉まる直前になってしまっていた。
 自分の言葉は、聞こえなかったかもしれない。
 それでも、その隙間から、手をあげたのを見え、シンタローは小さく微笑んだ。


「誕生日おめでとう…」
 久しぶりに、自分の誕生日を祝う言葉を吐き、その唇に深い笑みを刻んだ。


cx
「終わった終わった」
 今日も一日働いて、ようやく帰宅となったシンタローは、リビングルームに入るとバサッ、と重苦しいジャケットを脱ぎ捨てた。上手く、ソファーの背もたれにかかったそれにはもう視線をそらし、ポケットからがさこごとタバコを引っ張り出すと、反射的に開いていた口に放り込み咥え、火をつけた。

 ポッ。

 灯る明かりと同時に、深呼吸するように、それを吸い込む。
 煙が喉から肺へと行き渡り、一回転したぐらいで、再び吐き出した。
 紫煙がゆるゆると天へ上る。ぼぉと緩んだ表情でそれを見つめ、テーブルの上に置かれてあった灰皿を片手に、リビングの床に行儀悪くべたりと座り込んだ。
 ソファーはもちろんあるのだが、すでに先客が床の方に座っていたので、そちらにする。
 その行動に、すでにいた先客はちらりとこちらに視線を走らせた。
 けれど、何も言わない。
 手には、厚い書類の束があって、視線はすぐそちらに戻っていた。
(仕事か?)
 自分の分の仕事は、全て片付けてきた。
 今日は、相手は、研究室の方へ顔を出していたから、たぶん手にしているそれも、それ関係のものだろう。
(俺には、家にまで仕事を持ち帰るなって怒るくせに、自分はいいわけね)
 もちろんそれは自分の身体を気遣っての言葉だと知っているけれど、こちらだって相手を心配するのだということは分かっているのだろうか。
 先客に視線を向けたシンタローは、そんなことを思いつつ、子供のように少し拗ねたような顔をして、彼の後ろを陣取った。
 文句はいいたいが、とりあえずそのまま、ゆっくりとその背を相手の方へと傾けた。
「疲れたぁ~」
 間の抜けた声を出し、相手の背中に乗りかかる。
 自分の体は決して軽いものではない。
 けれど、相手は、しっかりとその重みを受け止めてくれた。
 分かっているから、安心して預けられる。
「お疲れ様」
 そうして返してくれた律儀な返事に、口に咥えていたタバコをはずし、ニヤリと笑みを浮かべる。
「ああ、そっちもお疲れ」
 言葉を投げかけ、シンタローは、タバコを灰皿の上でもみ消した。
 それを察したように、相手の背中がこちらの背中を押して、その反動とともに、こちらを振り返った。
 シンタローも同じタイミングで振り返る。
 不思議なことに、そう言うところは互いに決してはずさない。
 互いに好きな道を歩いているのに、それでもタイミングよく交差し、その点で丁度出会う―――そんな感じで。
 視線がひたりと合わされた。

「お帰り」
「ただいま」

 当然のようにいつもの挨拶を互いに告げて。
 当然のように顔を寄せ合って。
 当然のように唇に触れ。
 当然のようにキスを交わした。






 ―――――けど、キスするタイミングがいつも同じだというのも考えものか?

sdf

「空っぽなんだろうか…」
 そう呟く視線の先には、自分の従兄弟がいた。
 彼を従兄弟と称することに慣れたのはつい最近のことだけれど、そのポジションを得た男が、それに気付いたのか、落としていた青の瞳をこちらに向けた。
「何がだ?」
 自分の質問の意味が理解できないという表情を素直に顔に出している従兄弟を、じっくりと観察するように眺め、シンタローは唇の端を舐めた。
(空っぽだったらおかしいよなあ)
 さっきまで相手のど真ん中に向けていた視線を空中にほうり投げて、くるりと一回転させる。
 ついでに首もくいっと曲げて、
「もう詰まってるんだろうな」
 そう結論つけてみる。
(ふむ。それが当たり前だろう)
 空っぽのはずがない。
 それならば、相手が黙っているはずがないのだ。 
「……一体何の話だ?」
 その相手は、先ほどから不可思議な言葉をぽんぽんと飛び出させる黒髪の従兄弟に、眉間に皺を寄せ、唇を曲げていた。
 相手の考えが分からないことに苛立っているのだ。
 当然のことだけれど、自分もそうだが、相手もこちらの考えをある程度読み取ることができる。
 同じような物の考えをしているせいだけれど、だからこそ、こういう意思の疎通が出来てないと、金髪の従兄弟殿は、特に不機嫌そうな面になる。
 こちらの考えてることなどわかって当然だという自信をもっているのだから、仕方ない。
 その自信の持ち方に、少しばかり呆れも入ってしまうのだけれど、実際、相手はこちらの考えなどお見通しで、先回りもできる頭脳をもっているおかげで、相手の度肝を抜くなどということは、めったにできないのだけれど、どうやら、今の時点では、それに近いものが出来ているのだろう。
 自然と生まれた笑みは、ニヤリと音立てそうなほど意地の悪いもので、その笑みに、さらに相手が、むっとしたのは放っておいて、
「だから、その中にあった空間は、もう空っぽじゃないだろな、ってことを言ってたんだよ」
 相手の胸の辺りを指差して、肩をすくめて見せた。
「はあ? ――――悪い、シンタロー。俺には、何がなんだか理解できないのだが」
「そうか?」
(頭がいいくせに、想像力が足りん奴だな)
 空っぽは、空っぽだ。
 キンタローの中にある空っぽかもしれない部分といえば、あそこだろう。
「いや、その体って前に俺が使っていたじゃねぇか」
「ああ」
「んでもって、お前は、その中にいただろ?」
「ああ」
「で、俺の代わりにお前がその体を使い始めたんだよな」
「ああ。……シンタロー何がいいたいんだ?」
 まだ、分からないのだろうか。
 困惑気味な表情となってしまった従兄弟に、軽く唇をとがらせる。
「だからさ。元々お前がいた場所っていうのは、空っぽのまま放置されているのかな、って思ったんだよ」
 今のキンタローの身体に自分がいた時は、は気づかなかったが、中にはキンタローという存在がちゃんといて、身体の中の幾分かを占めていたのだ。
 けれど、自分はそこから追い出され、キンタローは、元々自分がいた場所へと出てきてしまった。
 だが、それならば、元いた場所はどうなっているのだろう。
 そんなことをついさっき思いついてしまったのだ。
「――――そう言うことか」
 ようやく納得したと頷いてくれる相手に、こちらは身を乗り出す勢いで、すかさず尋ねた。
「そう言うこと。で、どうなんだ?」
「どう、とは?」
「空っぽか?」
 興味深々という眼差しで、相手を見つめていたのに、出てきた答えは、あまりにもつまらないものだった。
 淡々とした声音で、相手は告げる。
「いや、消えてる」
「消えてる?」
「ないぞ、もう。そんな空間は」
「少しも?」
「少しも」
「ちっとも?」
「ちっとも」
「まったく?」
「まったくだ」
「あっ、そう」
「そう」
「ふ~ん」
(そういうもんなんだ)
 疑問が解決したら、とたんにくだらないものに時間を費やしてしまったと思えてくる。 
 別にたいして悩んでいたわけでもないし、聞きたかったことでもない。ただ、思いついたことだから、答えが得られたとたん、一抹の寂寥感を感じてしまう。
 あっさりと消えてしまった疑問に、心の中にぽっかりと生まれた空間。
「今度は、俺の中に空っぽが生まれたじゃねぇかよ」
 溜息まじりでそうぼやけば、呆れた顔をしたキンタローが、こちらを睨む。
「馬鹿なことを言ってないで、仕事をしろ。いいか、くだらない質問をせずに、真面目に仕事に専念してくれ」
「二度言うなっ! わーってるから」
 まったくつまらないことに時間を費やしてしまった。
 ガリガリと頭を掻いて、仕事へと眼を向ける。
 現実は、目の前に埋まっている。

 空っぽ。
 空っぽ。

 この机の上に盛り上がった書類が全部空っぽだったら、どれだけ楽か。



 ――――――現実はそんなに甘くはありませんってか?

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