「好きどす」
「やめろ」
告白したとたん、0.2秒で拒絶された。
けれど、相手の顔に、自分の告白を嫌がる表情は伺えなかった。もっとも喜んでいるとも思えない、無表情に近い顔であったが、それでも嫌悪は見られなかった。
「なんででっしゃろ?」
なんとなく―――もしかしたら、目の錯覚かもしれないが―――そこに、何かに怯える子供のような表情を見つけて、アラシヤマはそう問いかけた。
拒否されたことは、もちろん痛かったけれど、それでも、自分が相手に嫌われているとは思えなかった。
「嫌いだからだ」
それでも、あっさりとそう言い放ったシンタローは、けれどアラシヤマに視線を向けることはなかった。
その視線は、らしくなく下に向けられたままだ。
「わてがどすか?」
「…………」
そう訊ねれば、相手に沈黙される。
素直ではないことは最初から分かっている。
時に、子供のような幼い感情や態度をとるを彼を、自分は好いているのだ。
「違うようどすな。―――ほなら……好きな人があんさんの前からいなくなってしもうことどすか?」
「っ!」
ビクッと震え、そして怯えるように自分の方へと視線を走らせたシンタローに、アラシヤマは、唇を歪め、苦笑した。
「どうやら、図星のようどすなあ」
「違っ……」
「どう違うとりまっか?」
即座に否定する相手に、さらに自分は問いかける。
意地悪だとはわかっていても、それでも相手の心が知りたいと思うのだ。
彼が、あまり人といる姿を目にしたことはない。
いつだって、一線を置いて、人と付き合っていた。それは、ガンマ団総帥の息子だからという理由かと思っていたが、そうではなかった。
彼は、好きな人を何度か手放している。
幽閉された弟。
ろくに別れの挨拶も交わせず離れ離れになった友。
もしかしたら、他にも親しい者が何人か戦いの中で消えていったかもしれない。
そんな過去が、彼を怯えさせるのだ。
―――好きな人が傍からいなくなる恐怖。
(けど、そない経験をしておるのは、何も彼一人ではないでっしゃろに………)
だから、怯えるなというのは、間違ってはいるけれど。
それでも、それを理由に否定されたくもなかった。
誰もが、彼の前から消えてしまうということはありえないのだから。
「シンタローはん。わては、弱いでっか?」
「アラシヤマ?」
真剣な眼差しを向けたまま、アラシヤマは、一歩シンタローに近づいた。
近づいたアラシヤマをシンタローはおずおずと見上げる。まるで、捨てられた子犬のような眼差しに、どれほど自分が胸を痛ませているか、相手はわからないだろう。
そんな瞳など、させたくないのに。
アラシヤマは、近づいたために触れることのできたシンタローの頬に、指を這わす。嫌がるそぶりを見せないことに、内心安堵をしつつも、触れる指先から伝わるぬくもりに、愛しさがます。
「あんさんを一人置いていってしまうほど、弱い人間だと思うとりまっか?」
「そんなの……わかんないだろう。強くてもすぐに死んじまう人間もいれば、そうでない人間だって………」
怯えるよに震える眼差しが切なくて、アラシヤマは、その身体を包み込むように抱きしめた。
震えなくてもいい。
怯えなくてもいい。
自分はちゃんとここにいることを示すために。
「わては、強いどすえ。せやから……あんさんも遠慮なくわてを好きになってくだはれ」
その耳元で、確固とした思いを呟く。
「なっ……なんだよそれ」
その思いは相手にとっては、衝撃的なものだったのか、腕の中で突如暴れる身体を逃がさぬように力強く抱きしめた。
「ちゃんとここにおりますよって……だから、シンタローはん」
怯える必要はないから、自分を好いてください。
腕の中で暴れていたシンタローは、けれど、不意に大人しくなった。
「シンタローはん?」
訝しげに下を向いたアラシヤマに、いつもの彼らしい挑戦的な眼差しが向けられた。
「アラシヤマ。約束だからな。その約束違えたら、怒るぞ」
「はいv」
決して、あんさんを置いてどこかに行くようなことはあらしまへんから。
身体を離し、シンタローと向かいあったアラシヤマは、笑みを浮かべて頷いて見せた。
「それじゃあ、シンタローはんも、わてのことを好きということどすな!」
これで、晴れて恋人同士☆ と浮かれた調子で言ったアラシヤマだが、けれど、刹那のうちに、その思いは打ち砕かれた。
「違う」
「ええっ!! そ、そんな…そんなん嘘でっしゃろ?」
「いいや、嘘じゃない」
0.1秒で否定され、ズーンと落ち込んだアラシヤマの耳に、くつくつと楽しげに笑うシンタローの声が聞こえてきた。
「まだに決まっているだろう。いったじゃねえかよ、お前だって。好きになってくれって。だからといって、そんなに早く好きになれるわけねえだろ。もう少し気長にまってろ」
「もう少しっていつのことどすか~」
「もう少しは、もう少しだ」
急激に高まった感激から、あっさりと一気に落とされてしまい、がっくりと膝を折り、打ちひしがれるアラシヤマの耳元に、その声は聞こえてきた。
「どうせ、それほど時間はかかれねぇよ」
「!?」
驚いて顔をあげたアラシヤマに、意味ありげな笑みを一つ浮かべたシンタローは、子供のように、舌を出してみせた。
「その時は覚悟しとけ」
そう告げる未来の恋人(すでに確定☆)を見上げながら、アラシヤマも、ニヤリと笑みを返してやった。
(望むところどす)
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「……何、笑ってんだよ」
しまったと思った時には、すでに遅かった。
ぶすっとした表情。その唇から漏らされる低く唸るような、機嫌の悪さが即座に感じられる声を出され、すぐ傍にいたアラシヤマは、思わず漏れていた笑みをすぐに消した。
とはいえ、浮かべてしまったそれは、すでに見られており、そればかりは取り返しのつかないことである。それ故に、彼の質問を無視することは出来なかった。
「気ぃ触ったんならすんまへん。つい気が緩んでしもうたんですわ」
まっすぐに前だけを見つめてそう告げる。必要なことを言ってしまえば、後は口は真一文字に結んだ。
相手の気に障るようなことは極力避けたい。折角の好機なのだ。これをあっさりと失いたくはなかった。
相手はかなりの気分屋で気紛れ屋、いつ笑みをもらす原因であるこの状態を崩すか知れない。しかし、こちらが平素な表情を保ってみたところで、機嫌の方は直る見込みはなかった。
「ちっくしょ~。ムカつくな。なんで、あそこにお前しかいねぇんだよ。あ~あ、運が悪ぃぜ」
心底嘆くその言葉に、ほんの少し………いや、結構グサッと胸にくるものがあったが、それでもひっそりと思ってしまう。
(わては、幸運だと思いましたわ)
それは言葉には決して出してはいけないことであった。うっかり口にしてしまえば、眼魔砲は必至。けれど、黙っていれば、さらにぶつくさと言葉が重ねられた。
「その上、アラシヤマなんかに笑われるし。ついてねぇ~」
自分を憐れむシンタローに、慌てて言い繕った。
「わてが笑うたのは、そんな意味ではありまへんで!」
それだけは、否定しておきたかった。あれは、そんなつもりの笑みではない。
「んなら、なんだよ」
こちらからでは見えないが、剣呑な眼差しが送られたのを肌で感じる。しかし、だからといってすぐには言えなかった。言えるぐらいなら、あんなひっそりと笑わない。
「…………」
「いわねぇと眼魔砲」
ぼそりと呟かれたそれに、本気を感じさせられる。やはり沈黙は許されないようだった。
後頭部あたりからもほのかに温もりが伝わってくる。これが「はぁ~あ、ちょうどええ温度で、極楽極楽ですわ」と言っていられるまではいいが、うっかりすれば、頭部喪失の危機である。
それでもたっぷり一分は躊躇った後、アラシヤマは覚悟を決めて口を開いた。
「その……シンタローはんが背中にいて幸せのあまりニヤケてしもうたんどすッ!」
シンタローはんを背負えるなんて、そんな好機に出会えた幸福に感謝していたんどす。
とうとう言ってしまった自分の幸せに、言葉どおり背中に背負っていたシンタローが、急に押し黙った。
「…………」
「えーと、シンタローはん?」
これは、想像に反した行動だった。てっきり、その場で眼魔砲をくらわされると思ったのである。逃げる用意は出来ていたアラシヤマだったが、相手の沈黙に、足を止めた。
「…………」
「あの……わての正直な気持ちを言うたんどすえ?」
それでも相手は何も言わない。気に障ったことを言ったのは自覚はあるものの、それで沈黙へと繋がるとは思ってもおらず、どうするべきかとその場でオロオロしていれば、
「…………降ろせ」
一言そういわれた。
「えっ?」
「今すぐ降ろせッ!」
「せやかて、シンタローはんの足は…」
降ろせといわれても、素直に降ろせるものではない。それが出来ないから、自分がここまで背負ってきていたのである。
「這って歩ける」
「そないなことできるはずありまへんやろ。景気よぉ、くじいてくだはりましたし」
実際、見ていたアラシヤマも蒼ざめてしまうほどのくじけっぷりだったのである。ちょうど階段を下りてきていたシンタローが、何の弾みか、段を踏み外し、上から転げ落ちてきたのである。あちらもとっさだったためか、ろくに受身も取れずに、そのまま一気に下の踊り場まで転がってしまった。
アラシヤマが、慌てて駆け寄った時には、骨が折れなくて重畳だと言ってしまうほど、足首がありえないほど捻じ曲がってたのだ。
あのシンタローが、十分以上、その場から動けなかったのである。しかも、悲鳴こそあげなかったものの、苦痛の声は喉からしきりに漏れていたし、脂汗など額にびっしりと浮いていた。この状況で、自分の力で歩けるはずはなかった。
それゆえに、自分が背負って医務室まで連れていっている途中なのである。
うっかり機嫌を損ねさせてしまったのは失敗したが、たったそれだけのことで、彼をこの場に置いていけるはずがなかった。
「もっとわてを頼ってくだはれ」
「ヤダッ」
「やだって…そないきっぱりに―――」
駄々っ子のような言葉で、一言言われてしまった。
(はぁ~)
胸中で思わず溜息がついてしまう。
意地っ張りも大概にして欲しい。
実際、ここまで背負ってくる前もひと悶着があったのだ。自分の背中に素直に乗るような人ではなく、切ないかな他の部下を呼ぼうとすれば、恥ずかしいからヤダだの格好悪いからヤメロだの駄々をこねて、結局自分が運ぶことで、落ち着いたのだ。
素直に自分を選んでくれたわけではなかったものの、それでも、大事な人が、自分に身を預けてくれる幸せに、浸ってはいたものの、ここで拒絶されれば、いい加減ムカついてもくるというものである。
アラシヤマは、止まっていた足を動かした。
「うわッ」
それは、シンタローも思わず背中の上でバランスを崩してしまうほど唐突で、しかもハイスピードを伴っていた。行き成りのことで、背中から転げ落ちそうになっていたが、どうにかバランス感覚を駆使して、体勢を整えてくれる。それはこちらとしてもありがたかった。シンタローが背中から落ちるようになれば、それをしっかり抱えている自分も一緒に倒れていたからだ。
「まてよッ、俺は降ろせっていっただろうがッ」
どうにか自分の安全を確保してから、耳元でがなりたてられる言葉。だが、アラシヤマはそんなものは無視した。
どちらにしても、あそこでいつまでも言い合ったところで、無駄でしかないのである。怪我した箇所は即座に直るものではない。シンタローの言うような、這って医務室にいけることなどできないのだ。結局は、シンタローが折れて自分が運ぶか、他のものにシンタローを預けるしかない。それならば、自分が運んでいく方を、アラシヤマは選んだだけだった。
「こらッ、てめぇ! 言うこときかねぇと――」
「わてを殺しますか?」
「ッ!?」
ここで本当に眼魔砲など打たれてしまえば、自分は間違いなく死んでしまうだろう。まだ、殴るという方法も残っているかもしれないが、不安定な今の状態で殴ったぐらいで、自分をどうこうできる相手だとも思ってはいないだろう。
脅しのためだとすぐに分かる眼魔砲の熱を頬の辺りで感じながら、冷ややかにそう言い放てば、相手は喉を詰まらすようにして、押し黙ってくれた。
(ほんまに……こん人は)
決してそんなことをしないことは分かっている――自分を殺すなど出来はしない――だからこそ、それを逆手にとっての脅し文句だったのだが、思わぬほど効果的だったようである。
すっかり背中の上で大人しくなってしまった。
(―――甘過ぎますわ)
黙るよりも、さらに強気に圧力をかけるなり、自分の頬辺りを傷つけて、言うことを聞かせる方法はいくらでもあるだろう。何よりも、彼は自分の上司なのだ。その権力を盾に取ることも可能である。しかし、そんなことは思いつかないのか、彼は、脅しのつもりで蓄えていた右手の眼魔砲のエネルギーさえも開放してしまっていた。
もちろん完全に大人しくするつもりはなく、代わりに髪の毛を思い切り引っ張ってくれた。
それで一応先ほどの言葉に対する、反撃のつもりなのだろう。
あまりにも可愛らしい行動だ。
(ほんま、かないまへんわ)
だからこそ、愛しく思うのだろう。
意地っ張りで頑固で。なのに、相手へ接するその態度は、例え誰であろうとも―――うわべの態度でごまかせる時はあるけれど―――優しいと思わずにはいられないもので、仕方がないとは思うけれど、それが彼なのである。
決してガンマ団という組織の中で、トップに立つ人に必要なものであるとは思えないが、誰も何も言わずに、彼の中にあるそれを認めてしまっている。
それに、こういう人だからこそ、皆が、彼の元に集い、力を貸すことを躊躇わないのだ。自分もその数多の一人であることは、悔しいのだけれど、その悔しさを押し殺させてまでも、仕える価値があるのだから、本当に仕方ないとしかいえない。
彼に関わってしまったのが、運の尽きか、幸運だというべきか―――いまのところ、後者だと信じている。
だから、言えるのだ。
「シンタローはん――わての命はもうあんさんのものやから、好きにしてもええんどすえ?」
気にいらなければ、滅してくれてもかまわない。捨て駒にされても、恨みはしない、と告げる。
それは本心として、相手に捧げられる言葉。
もしも、殺したいと願ったのならば、殺せばいい。自殺しろと言われても、自分は躊躇わず、その命を自分で絶つことが出来るだろう。
彼のために、命をかけたことがあるから、それは確信を持って言えることである。
自分が言った言葉に、どんな言葉を返してくれるかと思って待っていれば、たっぷりと一分ぐらいの間が空いて、ささやくほどの声音で、聞こえてきた。
「それなら、余計殺せねぇだろが。―――俺のためにもっと役立ってくれねぇと困るんだからな」
「…………くくっ」
本当にこの人は―――。
(なんて愛しい存在だろうか)
自分のようなものには、触れるだけでももったいない気がしてしまう。
だけれど、もうしばらく……、後数十メートル先の医務室につくまでは、この背中にいて欲しい。
「な、何笑ってんだよ! てめぇは」
こみ上げてきた笑いを抑えることが出来ず、身体全体で震えるように笑えば、憤怒の声が聞こえてくる。
「やっぱりあんさんが、好きですわ」
「なッ!?」
息を呑む相手を尻目に、アラシヤマは思う存分身体を揺らして笑い続けた。
一生忠誠を誓ってもええどすか?
一生逃れられないように。
一生貴方を縛り付けられるように―――。
「アラシヤマ……アラシヤマアラシヤマアラシヤマアラシヤマアラシヤマッッ!」
何度呼ぼうとも、心は満たされない。どれほど求めても、望むものはいない。
傍にいない。声が聞こえない。何も感じられない。
忘れられてしまったのだろうか。そうなのかもしれない。きっとそうに違いない。
あれほど約束したのに…何度も誓ってくれたのに…ここにいないのだから。
それは仕方のないことで―――自分には魅力などない。
それは当前のことで―――自分には良いところなどない。
彼に相応しい人ではなかったのだから。
横暴で、我侭で、迷惑ばかりかけて困らせる存在でしかなかった。
それでも……自分が無茶な言葉を言うたびに、『ずっと傍にいろ』と強制するたびに、時に微笑みながら、時に真摯な態度で、誓ってくれたのに。
(どうして……ここにいない?)
なぜ…なぜ…なぜ?
同じ疑問を繰り返す。本当は、分かっているはずなのに――自分は飽きられて、見捨てられたのだ――それを拒否して拒絶を起こして、ここにいない相手の言葉を求めてしまう。
なぜなら、彼は理由もいわずに姿を消してしまったのだ。いや、それともここに戻ってこれないのだろうか。
何かがあったのだろうだろうけれど、ここに彼がいないのは事実である。
もっと早く自分から求めなければいけなかったのだろうか。何を捨てても、何を捨てさせても、ここへ来ることを欲するべきだっただろうか。
それでも――その姿が目の前から消えるその前に、遠くから眺めたその姿は、幸せそうだった。自分は、そこへいないのに、穏やかに微笑んでいて、それを近づいていって、壊すことなど出来はしなかった。
自分がいなくても、彼は幸福なのだと気付いてしまえば、自分の勝手な気持ちひとつで、彼を望むことなどできなかった。
自惚れていた。
自分こそが彼を幸せにできるのだと―――そんなことは、決してないのに…。
彼は、きっと自分がいない場所で幸せを見つけている。それは喜ぶべきことなのだろう。けれど―――今の自分は不幸過ぎて、祝福の言葉をあげられない。
「アラシヤマ……」
溢れる想いに胸が詰まる。ぎゅうぎゅうに押し込められた想いが悲鳴をあげている。こんなにも彼を必要としているなんて気付かなかった。『傍にいて欲しい』と望むのは、ただ、一人が怖かっただけだ。誰でもよかった。そこにいてくれれば―――そう思っていたのに。なぜ、気付いてしまったのだろう。『誰でも』…なんてありえなくて、『アラシヤマだけ』だったことを。気付いた時には、もう彼は自分から離れてしまった後だった。
「アラっ……んくっ」
喉が詰まる。目元が焼けるように熱い。
抑えきれずに零してしまった涙が、みっともなく流れ落ちてきた。溢れる涙が頬を伝い、顎の先からいくつも落ちていき、床をぬらす。後から後から込み上げてくる涙に、誰もいない空間を見つめ、顔を濡らした。
誰もいなくて助かった。こんな姿は、誰にも見せられない。
女々しく泣くなど、それは自分ではない。
そう。これは自分ではない。
こんなに辛く苦しい思いをするのは、自分でなくていい。
押込めばいい―――恋心を。
封じればいい―――愛する気持ちを。
捨てればいい―――彼を欲する想いを。
忘れればいい―――アラシヤマという存在を。
存在全てを殺してしまえばいいのだ。
そうすれば、自分は元へ戻れる。
全ては元通りで、いつもの自分の戻れる。
だから……大丈夫だ。
怖がることも恐れることもない。
ゼロへ。
全て―――消エ失セロ。
「シンタローはん!」
「? 誰だよ、てめえは――」
リセット――――終了。
何度呼ぼうとも、心は満たされない。どれほど求めても、望むものはいない。
傍にいない。声が聞こえない。何も感じられない。
忘れられてしまったのだろうか。そうなのかもしれない。きっとそうに違いない。
あれほど約束したのに…何度も誓ってくれたのに…ここにいないのだから。
それは仕方のないことで―――自分には魅力などない。
それは当前のことで―――自分には良いところなどない。
彼に相応しい人ではなかったのだから。
横暴で、我侭で、迷惑ばかりかけて困らせる存在でしかなかった。
それでも……自分が無茶な言葉を言うたびに、『ずっと傍にいろ』と強制するたびに、時に微笑みながら、時に真摯な態度で、誓ってくれたのに。
(どうして……ここにいない?)
なぜ…なぜ…なぜ?
同じ疑問を繰り返す。本当は、分かっているはずなのに――自分は飽きられて、見捨てられたのだ――それを拒否して拒絶を起こして、ここにいない相手の言葉を求めてしまう。
なぜなら、彼は理由もいわずに姿を消してしまったのだ。いや、それともここに戻ってこれないのだろうか。
何かがあったのだろうだろうけれど、ここに彼がいないのは事実である。
もっと早く自分から求めなければいけなかったのだろうか。何を捨てても、何を捨てさせても、ここへ来ることを欲するべきだっただろうか。
それでも――その姿が目の前から消えるその前に、遠くから眺めたその姿は、幸せそうだった。自分は、そこへいないのに、穏やかに微笑んでいて、それを近づいていって、壊すことなど出来はしなかった。
自分がいなくても、彼は幸福なのだと気付いてしまえば、自分の勝手な気持ちひとつで、彼を望むことなどできなかった。
自惚れていた。
自分こそが彼を幸せにできるのだと―――そんなことは、決してないのに…。
彼は、きっと自分がいない場所で幸せを見つけている。それは喜ぶべきことなのだろう。けれど―――今の自分は不幸過ぎて、祝福の言葉をあげられない。
「アラシヤマ……」
溢れる想いに胸が詰まる。ぎゅうぎゅうに押し込められた想いが悲鳴をあげている。こんなにも彼を必要としているなんて気付かなかった。『傍にいて欲しい』と望むのは、ただ、一人が怖かっただけだ。誰でもよかった。そこにいてくれれば―――そう思っていたのに。なぜ、気付いてしまったのだろう。『誰でも』…なんてありえなくて、『アラシヤマだけ』だったことを。気付いた時には、もう彼は自分から離れてしまった後だった。
「アラっ……んくっ」
喉が詰まる。目元が焼けるように熱い。
抑えきれずに零してしまった涙が、みっともなく流れ落ちてきた。溢れる涙が頬を伝い、顎の先からいくつも落ちていき、床をぬらす。後から後から込み上げてくる涙に、誰もいない空間を見つめ、顔を濡らした。
誰もいなくて助かった。こんな姿は、誰にも見せられない。
女々しく泣くなど、それは自分ではない。
そう。これは自分ではない。
こんなに辛く苦しい思いをするのは、自分でなくていい。
押込めばいい―――恋心を。
封じればいい―――愛する気持ちを。
捨てればいい―――彼を欲する想いを。
忘れればいい―――アラシヤマという存在を。
存在全てを殺してしまえばいいのだ。
そうすれば、自分は元へ戻れる。
全ては元通りで、いつもの自分の戻れる。
だから……大丈夫だ。
怖がることも恐れることもない。
ゼロへ。
全て―――消エ失セロ。
「シンタローはん!」
「? 誰だよ、てめえは――」
リセット――――終了。
バサバサッ。
手元から大量の紙が落ちていく。床の一面を白と黒い点の羅列の模様が覆い、重ねられる。辺りに積もった幾枚もの紙。けれど、それを拾おうとする動作は、シンタローには出来なかった。
「……なんのつもりだ」
押し殺した声。非難の眼差しが、眼前の相手に向けられていた。それも当然のことだろう。綺麗に閉じていたファイルを、全て床にばら撒いてしまった要因を作ったのが、この男なのだから。
(ったく、この忙しい時に。相変わらず場を読めねぇ奴だよな)
行きなり執務室に乱入してきたと思えば、棚からちょうど必要なファイルを取り出した自分を囲むようにして、両腕を突き出してくれたのだ。不覚だが、それがあまりにも唐突過ぎて、うっかり手に取ったばかりのファイルを床にぶちまけてしまった。
いったい何をしたくて、こんなことをしたのか―――考えるまでもなく、わかってしまうのも、どうかと思う。
(えーっとこれで、通算何度目でしょうねぇ)
こんな状況でありながらも、頭の片隅では、つらつらと考えてしまう。毎度とは言いたくないが、とりあえず、片手では収まりきれないぐらいの数は、こなされているのだ。
「シンタローはん」
「あん?」
鬱陶しさしか感じられない前髪に片方の目は隠されているために、さらされたひとつの瞳が、こちらを貫くようにまっすぐに見据えられる。真剣な表情。決意を込めた面持ちで、唇が開く。
「あんさんが、好きどすえ」
決まりきった言葉。
予想通り過ぎて、もうなんの感慨もない。
「ああ、わーったわーった。わーったから、さっさと退け」
それ故に、あっさりとそういうと、犬猫を追い払うように、シッシッと手を振ってみせた。
本当ならば、ここで眼魔砲を食らわせたいのだが、ここは自分の執務室だ。一応耐眼魔砲の防壁で囲まれているが、棚に収められたファイル類、机の上の未処理書類などは、もちろん耐え切れるはずがない。うかつに発動させるわけにはいかなかった。
ここにキンタロー辺りがいれば、こいつをあっさりと追い出してくれるのだが、あいにくあちらは現在研究室篭り中だった。ここ数日は、遠征や出張の予定がないために、自身の知的好奇心を満たす研究へと没頭しているのだ。邪魔する理由もないので、本部にいる間は、他の秘書官らがこまごましたことはやってくれるものの、こういう場面では役には立たない。
確か、一人秘書官が部屋にいたはずだったが、今は影も形もないのだから呆れるばかりだ。もっとも、ここにいたとしても、たいした抑制力になってくれないので、この状況を見られないだけマシと思わなければいけないのかもしれない。
「何を考えとりますのん? シンタローはん」
つい気がそれてしまったが、それをすぐさま指摘された。指摘されたからといって、気にかけることでもないのだが、それでもシンタローは、わずかばかりバツの悪げに表情を歪めた。一応、特殊な状況下である――傍目から見れば、自分は逃げられぬよう囲われている身だ――そこで、気をそらしてしまうのも、危機感がなさ過ぎる。もっとも、この相手が、自分に何かをしでかすことなどありえないのだが。
そう――何もしないのだ、この相手は。これ以上は。
「仕事のことに決まってるだろうが。わりぃーけど、言いたいこと言ったら、とっとと出てけよ。俺を睡眠不足にさせる気か?」
仕事が遅れれば、その分直接睡眠時間に響くことは、この相手も知っていることである。上層部では、自分の仕事内容は、話の種にもなっているのだ。
大体この男が、ここに来たのは、先週命じていた任務に対する結果報告書を提出するためである。別にわざわざ持ってこなくてもいいのだが、部下もいなければ――こいつの下で働きたいと望むものがいないので、いつも単独任務のみである――頼む相手もいないために、一応ガンマ団幹部の肩書きを持っていながらも、こんな雑用も自分ひとりでやる。とはいえ、嬉々として、この部屋にやってくるのだから、苦にはしていないのだろう。
それはいい。それはいいが、部屋にくるたびに、こんな風に、自分に迫ってくるのは、いい加減やめて欲しいものである。意味のないこと、とは言わないが、時間の無駄は確かなことだ。
鬱陶しさを見せ付けるように半眼にし、これ見よがしにため息をついてみせる。その姿に、相手は嫌な顔ひとつせずに、にっこりと笑ってみせてくれた。
「それはすんまへん。ほな、わてはもう行きますわ。あんさん、あんま無理せぇへんで頑張っておくれやす」
それだけ言うと、スッと身体を引かれた。自分を囲っていた腕が、遠ざかる。
そのとたんに、空調完備のこの部屋にいながら、寒さを感じた気がした。こいつの特異体質のせいだろう。炎を出現さえるのは抑えているもの、その余熱でか、傍にいればほんのり暖かい。わずかな間に、その温もりに、身体がなれていたのだ。
それに気付いてしまい、シンタローは、チッとわずかに舌打ちをした。そのぬくもりを心地よいと感じ、そうして消えたことに、残念だと思ってしまったからだ。
ふっと相手が視界から消えた。しゃがみこんだのだ。何をするかと思えば、床に散らばった紙を集めていた。
自分のせいで、落ちてバラバラになったことは、分かっていたようである。けれど、やっていることは、ただ無造作に散った紙を集めるだけだった。
「すんまへん、シンタローはん。これ、どないしましょ?」
ノンブルも何もない、その紙の束を、元に戻せというのは、どうやら無理のようである。
先ほどの強気な表情は掻き消えて、困ったような表情を浮かべる相手に、シンタローは、気を緩めるように後ろの棚に身体を持たれかけさせ、腕組した状態で、言い放った。
「全部集めて机においとけよ。後で他の奴らに片付けさせとく」
その言葉に、ほっと安堵したように頷き、相手は手早く紙を集めると、こちらの言葉どおりの行動をした。それでどうするかと、そのままの状態で見守っていれば、一言去り際の言葉として残すと、退出していった。
あっさりとしたものである。
先ほど自分に迫った態度とは思えないほど、淡々としてきたもんだった。入室の時は、乱入と思えるほどの勢いで入ってきて、こちらが身構えるよりも先に、自分を捕らえる。けれど、目的を果たしてしまえば、あっさり開放されるのである。
けれど、いつもそうだ。
いつもいつも同じことの繰り返し。
飽きもせずに、自分を捕らえ、告げる言葉は、自身がどれほど『シンタロー』という存在を愛しているかだけである。
(言いたいこと言いやがって)
こちらの答えなどはなから期待していないのだ。自分の気持ちが、決して同じように返ってくることなど、まったく信じていないのである。
だからいつも同じことばかりである。
自己満足だけで、帰っていく。
だからこちらも何もしない。相手の言いたいことを言わせておいて、言い終われば、さっさと追い出す。
相手がそういうつもりならば、こっちも負けてはいられない。相手が自己満足だけで終えているまでは、こちらの本音を告げる気はなかった。
すでに勝負である。
相手は、知らないだろうけれど、シンタローの中ではすでに闘争心が湧き上がっている。
追い詰められた方が負けなのだ。
今の状況が苦しくなり、違う行動に出た時こそ、勝敗の分かれ道なのである。
「ったく。あいつもしぶといからな」
こちらがどれほど冷淡な行動をとろうとも、相手はこりずに同じことを仕掛けてくる。こちらがよりよい反応を見せるまで、続ける覚悟なのであろう。
けれど、あちらが代わらぬ態度を取り続けるうちは、自分も同じような態度をとると決めている。
追い詰めらるのは、果たしてどちらか。
けれど、まだだ。
まだ、どちらも余裕がある。
否―――。
「あ~、俺の方がヤバイか?」
少しずつ…少しずつだが、今の状況に耐えられなくなっている気がする。なぜなら、自分の指は、先ほどから机の上をコツコツと叩いている。それは抑えきれない苛立ちを表しているのだ。
追い詰められたのはどちらの方か。
それは、まだ不明で。
お互いの関係も、まだ不明のままで。
―――――どっちが先にギブアップするか、賭けてみるか?
シンシンシン……。
雪が降る。
降り始めはいつだったのだろうか。気付けば外の景色はうっすらと雪化粧がほどこされていた。
大粒の雪が絶え間なく降り積もる。音もなくただ、白に白を重ね、全てを覆いつくし飲み込んでいく。
その色は、穢れなき色。
無垢を象徴する色。
気がつけば、シンタローは外にいた。
吐く息が凍りつくように、白い塊となって生まれて、溶けていく。風がほとんどないためだろうか、大気は凍て付くほどの冷たさを帯びているものの、思ったほど寒さは感じなかった。
それでも半ば衝動的に部屋から出たその姿は、部屋着のままで、防寒はされてはいない。けれど、上着を取りに戻ろうとは思わなかった。
雪が降り積もる。
頭に肩に……白へ染めよと言わんばかりに、雪が覆いかぶさってくる。それを払いのけることはしなかった。むしろ、望むように手を広げ、その手のひらに落ちる雪を受け止める。けれど、手に触れる雪はすぐに溶けていき、なかなか積もることはできなかった。
広げられた手は、変わらぬ色を保っている。
「―――白く染めることもできないほど汚れているとか…な」
思わず呟かれた言葉。
そんなはずはなく。それがわずかな熱にも溶けやすい雪の性質だとわかっているのだけれど。それでも自分の手を見ていると、染められぬことが哀しみとなって胸の奥に滲む。
天にかざすその手は、皮膚の色そのままだけれど、シンタローの目には、それとは違った色に見えていた。
(何度、この手を鮮血で染めたっけ)
もう覚えてなどいない。……多すぎて。
一番最初の時は、嫌になるほど鮮明に覚えてはいるのだけれど―――とろりと手首に伝う自分以外の血に、情けなくも悲鳴を上げて振り払った。振り払っても地面にこすり付けても、綺麗に落ちないその赤い色に、涙を流した。救いは誰もそれを聞くものがいなかったということだろう。人の形をしたものはいたが―――それ以降は、曖昧の中にあった。それは、忘れることを願った結果か、それとも思い出すのも煩わしいほど日常であったせいか、どちらとも言えないままに、記憶の澱となって沈んでいた。
それでも、この手の色が何色であるかは、間違えることはなく、聞かれれば、正しく『赤』だと答えられる。
雪は止むことはなかった。それどころか、夜が深まることで、さらに激しさをまし、闇すらも染め上げるがごとく、留まることなく降り注ぎ、地上を一色に塗りつぶしていく。
頭や肩に落ちた雪は、かなりの厚みを帯びていた。
けれど、相変わらずこの手に雪は積もらない。すでに感覚がなくなるほど、冷え切っているにもかかわらず、それでもまだ、雪は透明な水へと変わる。
罪の色に染まりきったその手を今更に白に染め替えたところで、犯した過去から逃れることはできないのだけれど、それでも心は救われるのだろうか―――救って欲しいと願っているのだろうか。
(今更だよな…)
そんな虫がいいことを考えるだけ愚かである。けれど、それならばなぜ、自分はここから動けないのだろうか―――。
「何しとりますのん、シンタローはん」
凍て付いた大気を震わす声が、不意に聞こえてきた。寒さのために身体の機能はかなり麻痺をしており、ぎこちなく振り返ってみれば、そこに人影が見えた。
「……アラシヤマ?」
薄暗い視界、しかも雪のために視界はほとんどゼロに等しい。それでも、その独特な言葉使いや抑揚は、彼以外しかいないだろう。ほとんど朧しか見えない姿だったが、それは、雪を踏みにじるように、どかどかとこちらへ向かってきた。なんとなく怒っている様子である。実際その通りで、後一歩で自分にぶつかるというところで足を止めた相手は、低く唸るような声を発した。
「そない姿で、何をしとりますのん」
再び重ねられる言葉。
「何って、雪見だろ」
それに、シンタローはそうそっけなく応えた。
それ以外に、ここにいる理由はない。当たり前のことを当たり前のように言えば、相手の手がこちらに向かってきた。
「こない冷とぉなって、何が雪見どすえ」
アラシヤマの手は、自分を殴るためでもなく、優しく両頬に触れてきた。その手は意外なほど温かみを帯びていた。冷え切った身体に血の気を失いかけていた頬に、確かな血の通いを感じさせてくれた。
「阿呆なこと、言わんといてくだはれ」
怒っていたはずの顔が、辛そうに歪められていた。こちらに憐れみすら感じさせるその視線に、シンタローは、両頬をはさまれたまま、ふいっと横へと向いた。
いたたまれない。
そう思った。アラシヤマ相手に、そんなことを思う必要はないのだけれど、なんとなく、親に悪戯を見咎められてしまった子供のような気分になってしまう。
(なんだって、こんなとこに来るんだよ)
わざわざこんな時間に、こんな空模様の中で、ここに来る者がいるとは思わなかった。それなのに、やってきた相手が、よりもよってアラシヤマである。
だからこそ、失敗だった。常ならば、ここまで傍になど近寄らせないのに、油断してしていて、ここまで距離を縮めさせてしまった。
(こいつだけは、こんなに至近距離にいて欲しくねぇんだよ)
なぜなら、自分を見透かしてしまうからだ。上手く隠しているはずの感情も、アラシヤマはあっさりと見抜いてしまう。だから普段は、傍に近寄らせない。折角隠した感情を露にして欲しくないからだ。
けれど、ここまで近寄られれば無駄だ。逃げればいいのかもしれないが、それは自尊心が許さないし、追い払うにも、相手もここまで近寄れば、簡単には追い払われてはくれない。それにもう―――気付かれている。自分がここにいる理由を。
「シンタローはん」
強い語調で名前を呼ばれ、そらしていた視線を少しだけ戻した。
「んだよ、煩ぇな。俺のことなんて、放って置けよ」
バツが悪く、ぶすっとした顔で、そう言い放てば、相手は未だに離さない両頬を挟むように、ぐっと力を込めた。
「そないなこと、できるはずがあらしまへんやろ」
まっすぐな視線がこちらを貫く。片目だけ露となっているその瞳に、こちらの両の目が集中する。二つ分の視線を、しっかりと受け止めて、アラシヤマは、肩に積もっていた雪を払いのけていった。
「こないに、雪を積もらせて」
頬が冷たい。アラシヤマの手は、肩に触れ、そうして、頭に伸ばされていた。
目の前を、ぱらぱらと雪の欠片が落ちていく。それを手で受け止めれば、溶けて水となった。
「シンタローはん?」
「……………」
先ほどから黙ったままの相手に、アラシヤマは、小さくため息をついた。
「あんさんは、もう…また、妙なことで悩みはっとるどすなぁ」
分かりきったその溜息と言葉がむかつくけれど、しっかりと的確に読み取られているのは間違いなかった。
「シンタローはん、温もりを持ってはるんは、人やからでっせ」
アラシヤマの手にも雪が触れ、溶けて、水となっていく。その手にも、いくつもの血がこびりついていた――共に戦ったことがあるために、それは確実だ―――赤く染められる手を、けれどアラシヤマ、誇るように空に向かって広げた。
「あんさんは、この手を白に染められたら気がすむんどすか?」
空を仰いでいた視線が、こちらへ向けられる。
どうだろうか。白い手を取り戻せれば、自分の中の罪悪感は全て消え去れるのだろうか。
そんなことはありえない。
即座に出てきた答えに、シンタローは、顔をゆがめた。それは、本人は意識していなかっただろうが、幼子の泣く一歩手前の顔のように無防備で、アラシヤマは、右手を空から外すと、シンタローの頬に触れさせた。雪を何度も掴み、溶かしたはずの手は、けれど、冷え切ることなく、温もりを保っていた。それを、シンタローに感じさせる。
「せやけどな。あんさんは生きているんどすえ」
この暖かさは、生きている証だと伝えるアラシヤマに、けれど、シンタローの瞳は、暗く淀んだままだった。
「多くの命を吸い取って、だからこの手は熱を持ち、こうして雪を溶かしているんだ―――なんてことをあんさんは思ってはるんどすか?」
そうかもしれない。
こんなに手が暖かいのは、あの熱い血潮に触れたためなのかもしれない。
「せやったら、赤子でも人を殺してはることになりますわなぁ」
その言葉に、シンタローは、ハッと瞳を開いた。
(そう…か)
「間違ったらあきまへん。この手は、赤にも白にも染まりまへんのや。手は、ただの手どすえ。せやから、人の命を奪った贖いは、自分自身でせなあきまへんのや」
雪には、その罪を雪ぐことは、不可能だと告げられる。
けれど、それでよかった。愚かな想いに囚われていた自分を目覚めさせるには、十分だった。
「ああ、そうだな」
馬鹿な思い違いをしたものである。
アラシヤマの言う通り、この手にかぶった罪を背負うのも償うのは、自分以外いないのだ。他の何かに消してもらうことなど、できることではなかったのである。
「大丈夫ですわ。それが辛うとも、あんさんには、わてがついてますやろ? それに―――言うのも悔しいけんど、キンタローもグンマはんも、マジック元総帥やて、あんさんをいつでも支える準備は出来とりますわ。だから、大丈夫どすえ。シンタローはん」
そういうと、両腕が回され抱きこまれる。抗う隙など、与えてくれなかった。それよりも先に、暖かな身体が、冷え切った身体を温め行く。その心地よさに、シンタローは、その場に留まることを選んだ。
雪は変わらず、二人に降りかかる。けれど、触れるたびにそれは溶けていく。
決して白には染められないのは、生きているためだ。罪をその身に背負いつつも、それでも生きることの証である。
「そっか―――そうだな」
大丈夫だと、あいつが言うならば、大丈夫なのだろう。
自分は、まだ罪を背負いながらも生きていける。罪を贖いつつ生きていける。
(大丈夫……か)
何度も赤く染められた手を、雪に触れさせる。変わらず水となって溶けていくその光景をかみ締めて、シンタローは、暖かなその身体にしばし身を預けた。
シンシンシンシン……。
雪はまだ止むこともなく降り続いていた。