『相思華』――――葉は花を想い、花は葉を想う。
決して合間見えることは出来ない愛しき片割れ。
「彼岸花がもう咲いているのか」
道の脇に揺れる赤い焔――― 一般的に彼岸花と呼ばれる花だ。細い茎の先に艶やかな赤い花びらが踊っている。
いったい、いつ芽を出すのか、気がつけばその赤が目に付く。
近づいて、それに手を伸ばす。だが、触れる間際に躊躇うように指先が揺れた。
よく考えてみれば、この花に触れたことは、ほとんどなかった。
小さい頃から、この花には毒があると教えられたせいだろう。確かに、茎や球根には毒性がある。口にすれば、吐き気や下痢を催すことがあるという。
だが、それを知ってからも、触れる機会はなかった。
その姿が、燃え盛る炎に似ているためだろうか。
だが、実際それは、熱い火ではなく、ただの花。触れたところで、傷などは負わない。
危惧すべきことは何もない。
ならば、なぜ触るのを躊躇うのだろうか?
「アラシヤマ……」
思わず漏れた自分の言葉に、シンタローは、ぴくりと身体を揺らす。危うく、彼岸花の花びらに指先が触れそうになり、慌てて引っ込めた。
そうする必要はなかったのだけれど、けれど、やはりなぜか触れられぬ雰囲気をそれを持っていた。
それがなぜなのか………気付いていながら、シンタローは気付かないふりをする。
目の前には、赤く燃える炎の花。
それに連想されることなど、たったひとつで、だからこそ、シンタローは目をそむける。自分の気持ちと共に。
それは、誰にも―――自分自身ですらも気付いてはいけない気持ちだ。
シンタローは、立ち上がった。
もう瞳には、焔の花は映らない。
ただ、その背後で、ゆるりとそれは揺れていた。
『彼岸花』―――花言葉は想うは貴方。
ただ、貴方だけ。
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『相思華』は、韓国語での『彼岸花』の名前らしいです。
それから、『彼岸花』の花言葉のひとつが『想うはあなた』だそうです。
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心の友と書いて、『心友』。
どこぞのガキ大将が、自分の都合のいい時ばかり使う一方的な言葉として印象があったそれ。
本気の思いで――もっとも、一方的なのは代わりないが――実際に自分に使われるとは思ってもみなかった。
「なあ、俺とお前って『心友』なわけ?」
「な、な、なななな何をいまさらなことを言うておりますの、シンタローはんッ!」
何気なく言い放った言葉を、この世の終わりかのように蒼白な顔してこちらに詰め寄るのは、自称―――以外何ものでもない、俺の心友(らしい)―――アラシヤマだ。
珍しくヒマだったこともあり、幹部連中に与えている個室の仕事場の、アラシヤマの部屋に足を運んで、だらだらとしていたシンタローだったが、先ほどの言葉は、退屈しのぎにもらした言葉だった。
入れてもらったお茶と用意されたお菓子両手に、ソファーの上に寝そべっていた状態でくつろいでいたのだが、鼻と鼻がくっつくぐらいに詰め寄られたおかげで、半分ほど残っていたお茶をこぼさぬように注意しつつ、その場から逃げ出さなければいけなくなった。
「シンタローはんッ! わてを捨てる気どすか」
いや、どうしたらそうなるんだか―――というか、捨てられるものならとっくに捨てています。
そう突っ込みたいものの、逃げる最中に豆大福を口に放り込んだために、口は塞がれたままである。とりあえず、お菓子を処分し、残りのお茶も流し込んで、一段落ついたところで、再びにじり寄ってきた相手を制するように手をあげた。
「捨ててねぇから、仕事に戻れ、アラシヤマ」
大体、どうやったら捨てられるのか、一回本気で相手に問いただしてやろうか、と思ったことは、実のところ一度や二度ではない。というか、今、聞きたい。だが、そうなると余計ややこしくなるため、シンタローは、賢明にも、その質問は飲み込んだ。
「シンタローはん……」
それで納得してくれたのかどうか、恨みがましげにじとりと見つめられるが、それを鷹揚に受け止めたフリをして、そっと流した。
「わかったなら、仕事してくれ、な? アラシヤマ」
こちらが、だらだらできるのは、あちらが、今日までの仕事にかかりっきになっているお陰である。でなければ、こんなところにヒマをつぶしにはこない。美味しいお茶とお菓子目当てできているだけなのだ。
まだ、テーブルの上には、豆大福が残っているし、お茶も代わりのものを入れて欲しい。だからこそ、シンタローは、アラシヤマを宥めるように、仕事に戻るように、手をふって追い立てる。その仕草が、野良犬を追い出すような動作とまったく一緒なのだが、このさい、どうでもいいことである。
しかし、相手はやはりしつこかった。
「わて……わてとあんさんは、あのパプワ島で、熱い友情を確かめあった仲やあらしまへんか」
「………そうだっけ?」
「シンタローはんッ!!!」
「いや、ああ……まあ、うん……そんなこともあったかなぁ」
だが、宙を睨む眼差しは胡乱なものを孕んでいる。
あの頃の記憶は、鮮明なのだが、どうもアラシヤマと友情を確かめたうんぬんの記憶は、曖昧というか、おぼろげというか……ぶっちゃけない。
あちらの勝手な妄想かもしれない、という疑いもあるが、こちらの思い出したくない過去に入ってしまっている可能性もなきにしもあらずである。
「あの時、わてとシンタローはんの友情パワーで、敵を倒せたんどすえ!」
「そうかそうか。よかったなぁ」
やはり、さっぱり覚えていない。
アラシヤマの迸る友情パワーとやらの片鱗が、向けられる瞳からうかがえるが、こちらとしては身に覚えのないものである。それにしても、相変わらずの特異体質である。もうちょっと煽ってみれば、炎を噴出しそうである。しかし、暑苦しい。というか、すでに部屋の温度は上昇している気がする。
そろそろ、自室にもどろうかな、という気にさせてくれた。
「それじゃあ、そう言うことで、俺は、もう失礼させてもらうわ」
どういうことか、言ってる自分でもわからないが、思い立ったら吉日。シンタローは、ドアの前へと向かった。面倒なことになるまえに、さっさと退散である。
「ええっ! なしてどすか!」
その後から、追いすがるような声が聞こえてくるが、部屋が暑すぎる上に、お前が鬱陶しいから、というのは、一応黙っておくことにした。これ以上喚かれて、炎を出されでもしたら、こっちの身が危険である。
しかし、もう手遅れのようだった。
「シンタローはん、わてとあんさんは、心友でっしゃろ」
「いーや」
「シンタローはんッ!?」
きっぱりとそう言い放てば、全身から炎を噴出し、そのまますがり付こうとしている相手から、慌ててするりと逃げた。上手い具合に入り口の方へとより近づける。後一歩で、この部屋ともさようならの距離。
仕事があるから、アラシヤマはこの部屋から出て行かないことはわかっている。なんだかんだいっても、自分が命じた仕事だ。きちんとこなしてくれる。
だから、そのまま出て行ってもよかったのだが、シンタローは立ち止まった。
「なあ、アラシヤマ」
「へえ」
振り返って、アラシヤマの方へにっこり笑って見せた。
「俺にとっては、心友に向けるのはあくまで友情なんだよ。―――ちなみに、俺とお前の関係は?」
問いかける言葉に、一瞬にして、まとっていた炎が消えた。
「……………」
色のない顔が面白い。
「だから俺は、別にお前を心友だとは思ってねぇよ」
それは、嘘偽りのない言葉だ。アラシヤマと友情を交わした覚えは、やはり一度もない。
ただ、友情以外の思いならば―――また、別だ。
ごちそうさん、という言葉ひとつ落とし、手のひらをひらひら振って、シンタローは部屋を後にした。
その後、アラシヤマの部屋が火事騒ぎを起こして、罰も兼ねて二ヶ月以上の長期遠征に出動したのは、次の日のことだった。
どこぞのガキ大将が、自分の都合のいい時ばかり使う一方的な言葉として印象があったそれ。
本気の思いで――もっとも、一方的なのは代わりないが――実際に自分に使われるとは思ってもみなかった。
「なあ、俺とお前って『心友』なわけ?」
「な、な、なななな何をいまさらなことを言うておりますの、シンタローはんッ!」
何気なく言い放った言葉を、この世の終わりかのように蒼白な顔してこちらに詰め寄るのは、自称―――以外何ものでもない、俺の心友(らしい)―――アラシヤマだ。
珍しくヒマだったこともあり、幹部連中に与えている個室の仕事場の、アラシヤマの部屋に足を運んで、だらだらとしていたシンタローだったが、先ほどの言葉は、退屈しのぎにもらした言葉だった。
入れてもらったお茶と用意されたお菓子両手に、ソファーの上に寝そべっていた状態でくつろいでいたのだが、鼻と鼻がくっつくぐらいに詰め寄られたおかげで、半分ほど残っていたお茶をこぼさぬように注意しつつ、その場から逃げ出さなければいけなくなった。
「シンタローはんッ! わてを捨てる気どすか」
いや、どうしたらそうなるんだか―――というか、捨てられるものならとっくに捨てています。
そう突っ込みたいものの、逃げる最中に豆大福を口に放り込んだために、口は塞がれたままである。とりあえず、お菓子を処分し、残りのお茶も流し込んで、一段落ついたところで、再びにじり寄ってきた相手を制するように手をあげた。
「捨ててねぇから、仕事に戻れ、アラシヤマ」
大体、どうやったら捨てられるのか、一回本気で相手に問いただしてやろうか、と思ったことは、実のところ一度や二度ではない。というか、今、聞きたい。だが、そうなると余計ややこしくなるため、シンタローは、賢明にも、その質問は飲み込んだ。
「シンタローはん……」
それで納得してくれたのかどうか、恨みがましげにじとりと見つめられるが、それを鷹揚に受け止めたフリをして、そっと流した。
「わかったなら、仕事してくれ、な? アラシヤマ」
こちらが、だらだらできるのは、あちらが、今日までの仕事にかかりっきになっているお陰である。でなければ、こんなところにヒマをつぶしにはこない。美味しいお茶とお菓子目当てできているだけなのだ。
まだ、テーブルの上には、豆大福が残っているし、お茶も代わりのものを入れて欲しい。だからこそ、シンタローは、アラシヤマを宥めるように、仕事に戻るように、手をふって追い立てる。その仕草が、野良犬を追い出すような動作とまったく一緒なのだが、このさい、どうでもいいことである。
しかし、相手はやはりしつこかった。
「わて……わてとあんさんは、あのパプワ島で、熱い友情を確かめあった仲やあらしまへんか」
「………そうだっけ?」
「シンタローはんッ!!!」
「いや、ああ……まあ、うん……そんなこともあったかなぁ」
だが、宙を睨む眼差しは胡乱なものを孕んでいる。
あの頃の記憶は、鮮明なのだが、どうもアラシヤマと友情を確かめたうんぬんの記憶は、曖昧というか、おぼろげというか……ぶっちゃけない。
あちらの勝手な妄想かもしれない、という疑いもあるが、こちらの思い出したくない過去に入ってしまっている可能性もなきにしもあらずである。
「あの時、わてとシンタローはんの友情パワーで、敵を倒せたんどすえ!」
「そうかそうか。よかったなぁ」
やはり、さっぱり覚えていない。
アラシヤマの迸る友情パワーとやらの片鱗が、向けられる瞳からうかがえるが、こちらとしては身に覚えのないものである。それにしても、相変わらずの特異体質である。もうちょっと煽ってみれば、炎を噴出しそうである。しかし、暑苦しい。というか、すでに部屋の温度は上昇している気がする。
そろそろ、自室にもどろうかな、という気にさせてくれた。
「それじゃあ、そう言うことで、俺は、もう失礼させてもらうわ」
どういうことか、言ってる自分でもわからないが、思い立ったら吉日。シンタローは、ドアの前へと向かった。面倒なことになるまえに、さっさと退散である。
「ええっ! なしてどすか!」
その後から、追いすがるような声が聞こえてくるが、部屋が暑すぎる上に、お前が鬱陶しいから、というのは、一応黙っておくことにした。これ以上喚かれて、炎を出されでもしたら、こっちの身が危険である。
しかし、もう手遅れのようだった。
「シンタローはん、わてとあんさんは、心友でっしゃろ」
「いーや」
「シンタローはんッ!?」
きっぱりとそう言い放てば、全身から炎を噴出し、そのまますがり付こうとしている相手から、慌ててするりと逃げた。上手い具合に入り口の方へとより近づける。後一歩で、この部屋ともさようならの距離。
仕事があるから、アラシヤマはこの部屋から出て行かないことはわかっている。なんだかんだいっても、自分が命じた仕事だ。きちんとこなしてくれる。
だから、そのまま出て行ってもよかったのだが、シンタローは立ち止まった。
「なあ、アラシヤマ」
「へえ」
振り返って、アラシヤマの方へにっこり笑って見せた。
「俺にとっては、心友に向けるのはあくまで友情なんだよ。―――ちなみに、俺とお前の関係は?」
問いかける言葉に、一瞬にして、まとっていた炎が消えた。
「……………」
色のない顔が面白い。
「だから俺は、別にお前を心友だとは思ってねぇよ」
それは、嘘偽りのない言葉だ。アラシヤマと友情を交わした覚えは、やはり一度もない。
ただ、友情以外の思いならば―――また、別だ。
ごちそうさん、という言葉ひとつ落とし、手のひらをひらひら振って、シンタローは部屋を後にした。
その後、アラシヤマの部屋が火事騒ぎを起こして、罰も兼ねて二ヶ月以上の長期遠征に出動したのは、次の日のことだった。
「ああ?」
なんでこんなところにいるのだろうか。気晴らしのつもりでガンマ団本部に作られた広大な公園内を歩いていれば、藤棚の下で小山のように盛り上がった物体を見つけた。
藤棚は、憩いの場として作られた本部の公園の中でも少し奥まった先にある。あまり人のこない場所なのだが、だからこそ、穴場としてちょくちょく訪れていたのだが、ここに自分以外の存在を見たのは初めてである。
大体、少し前まで、この藤棚は味気ないものだった。藤は、落葉してしまうために、ただ太い藤の蔓が棚に巻きついているだけで物寂しいというか、そっけない。冬の最中は、シンタロー自身、ここに訪れることはないが、春が来れば違った。5月に入る頃になれば、ここは劇的に変わるのである。
最初は、何かヒモのようなものがいくつもぶらさがっているだけのようなのだが、それが徐々にふっくらと膨らんできて濃紫色の花となり、さらに新しい若葉も芽吹き、数週間前とは見違えるほど鮮やかなものになるのだ。満開となる頃には、その華やかさを堪能するために、その下に設置されている背もたれのないベンチに寝転がって、眺めるのが楽しみだったのだが、今日は、残念なことに先着がいた。
しかし、それは意外な人物でもあった。
「………なんで、こんなとこにおっさんが?」
そう。そこにいたのは、叔父であり特戦部隊の隊長でもあるハーレムだった。確かに、今現在、特戦部隊には仕事を与えておらず、ヒマであることは間違いなかった。本部にいることも知っていた。しかし、こんなところで花を眺めるような風流さなど持ち合わせてはないはずである。
首を傾げつつ近寄れば、目を瞑ったまま、ベンチに転がっている姿を眺めることになった。いったい、いつからここにいるのか、見た目には気持ちよさそうに眠っている。
(あ~あ)
小さく溜息が漏れる。
これでは自分は寝られなかった。ベンチは幅広いが、それでも大の大人が寝転がればはみ出すぐらいで、他の者が座る余裕すらない。
蹴り飛ばしてどかすこともできるけれど、そんなことをすれば、報復されるのは間違いなかった。こんなところで争うほど、自分は馬鹿ではない。
傍まで近づいたのはいいものの、起こすことなど出来ずに、せめて花見でもしようと頭上の花を見上げれば、不意に右手首がつかまれ、下へと強く引っ張られた。
「うわっ!」
思わず声をあげた時には、すでに視界はぐるりと変わり、見上げなくても藤の姿があった。一瞬のうちにベンチの上に寝そべる格好となったのだ。だが、視界に映るのはそれだけではない。キラキラと金色に輝く眩しいもの。そして、さらに視界に割り込んできたのは、藤棚からかすかに見える空よりも青く深い瞳だった。
「………行き成りなにしやがる」
寝転がったままでは迫力がないとはわかっていても、相手を睨みつければ、そこには金髪に碧眼の叔父が、にやにやとした笑みで見下ろしてくれていた。
「お前こそ、こんなところで何してんだよ」
「俺は、ただの息抜きだ」
「俺も、息抜きだよ」
「こんなところで?」
「こんなところだからな」
あっさりと答えてくれた後に、ハーレムは、ふっと空を見上げるようにして藤へと視線を向ける。意外だが。本当に意外だが。ハーレムもまた、藤が咲いているのを知っていて、ここへ来たようである。
(似合わねぇ)
思わず本音が浮かんだが、口には出さない賢明さは持ち合わせている。
「で、お前も昼寝をしに来たのか?」
そう訊ねられれば、シンタローは首を振った。
「そこまでヒマじゃねぇよ」
実際のところ本当にただ、この藤を見に来たのだ。休憩は、一時間ほどしかなく、軽い昼寝ぐらいならできるかもしれないが、うっかり寝入ってしまえば、後々仕事に影響が出てしまうし、他の者にも迷惑がかかってしまう。だから、一休みするぐらいの気持ちでここに来たのである。
「あんたはヒマでいいな」
「お前が、仕事を回してくれないからな」
嫌味のつもりで言ったが、さらりと返され、さらに楽しげにニヤリと笑ってくれた顔に、ムカついてしまう。逆効果だ。腹立たしいことこの上ない。出来れば、ハーレムが率いる部隊も、使えるならば使いたい。人手が足りないほどではないが、それでも特戦部隊の戦力は惜しいのだ。けれど、使えない理由ははっきりしている。
「あんたが、やり過ぎなきゃ、いつでも使ってやるよ」
「そりゃ、無理だ。俺は俺の好きなようにしか力は使えねぇ」
「………役立たず」
「そうだな」
笑って肯定されるのが、また悔しい。
これ以上何を言っても苛立ちが増すばかりだと、口をつぐんでいれば、何を思ったのか、ハーレムの指先が動き、すっと目元に指先が触れた。びくっと震える自分を安心させるためなのか、小さな笑みを零し、やんわりと告げた。
「―――隈ができてるな」
その指摘は、言われなくてもわかっていることで、シンタローはうざったけに、その指を払うように叩いた。
「寝てないのか?」
「忙しいからな」
そっけなく返し、顔を横へと向ける。起き上がればいいのだが、一度そうしかけたら、肩を押さえつけられて妨害された。抵抗するのも疲れるから、寝転がったままでいるのだが、こちらの表情を全て見られてしまうのは、腹立たしい。
顔をそらしたところで、むくれた顔を見られている。隈もそうだ。最近、仕事が立て込んでいて、ろくに睡眠をとれない日が続いていたために、くっきりと目元に浮かんでいるのである。それはどうしようもない。
だが、その後に意外な言葉が続いた。
「ふぅん。じゃあ、寝ろ」
さらりと告げられた言葉に、シンタローは、目を見開いて見上げた。
「はっ? ……ここで?」
「ああ」
「………俺、あと30分したら、もどらねぇといけないんだけど」
「それじゃあ、それまで寝てろ。起こしてやるから」
そう言われたからといって、『はい、そうですか』と簡単には寝れない。じとりと相手を見上げれば、機嫌を損ねたのか、眉間にシワがよせられた。
「なんだ、その目は」
「いや……気持ちぐらい優しいな、と思って」
そう言うと、ぐいっと鼻をつまみあげられた。
「ばーか。甥っ子の心配ぐらいして当然だろうが」
ぐいぐいっと摘み上げるその手の甲を思い切りひっぱたく。
「あーもう、苦しいだろ!」
簡単に離してくれはしたが、結構強く摘んでくれたために、ひりひり痛む鼻を両手でこすっていれば、ギロリと相手から睨まれた。
「いいから寝ろよ」
「ヤダ」
そんな風に命令口調で言われては、従う気にはなれない。即行で拒否れば、鼻をさすっていた両手をつかまれ、頭上へと持ち上げられた。
「わがまま言うと―――――襲うぞ」
身動きとれない状況のまま、重なるように身体を倒してくるハーレム。抵抗するヒマもなく、それを受け入れるしかない。
「ッ!」
だが、触れたのは唇だけだった。
「ハーレムッ!」
それもすぐに離れてくれたものの、両手は不自由のままで怒鳴れば、相手はいまだ凄みをもった表情で、言い放った。
「これ以上されたくなかったら、大人しく眠れ」
何を考えているのか真剣な眼差し。そこに本気の色を見つけて、気勢を弱めさせられる。
なぜ、そこに固執するのかはわからないものの、間近に見下ろされた相手の瞳の中に、盛大に真っ赤にした顔の自分が映るのが見えた。ただのキスに、羞恥と怒りに染まる顔。それ以上それを見たくなく、シンタローは、ギュッと眼を閉じた。
「………おやすみッ!」
相手の言うことを聞くのはかなり癪だが、これ以上抵抗すれば、本気で襲われる気がする。とりあえず、目を閉じてじっとしていれば、ごそごそと服を探る音がする。かすかに紙がこすれる音の後、カチッと火を灯すライターの音。だが、すぐに盛大な舌打ちとともにそれをしまわれる音がした。
「……吸っていいぜ」
ぱちりと目を覚まし、自分の頭の上のわずかなスペースに腰掛けていたハーレムに告げれば、苦々しい顔をされた。その手には、しまいかけたタバコの箱がある。
「いい。吸う気がなくなった」
嘘だ。あそこまでして、タバコをやめる理由はない。無意識にタバコを取り出したのはいいが、近くで寝ている自分に気付いてやめてくれたのだ。
「なあ……」
「寝ろっていっただろ」
「そんなにすぐには寝れねぇよ―――――っていうか俺を眠らせたい理由でもある?」
なんとなくそんな気がした。自分の隈に触れた時のハーレムの顔が、どこか遠くを眺めるような目線だった。だが、それは過去を懐かしむというよりは、何か痛い記憶を思い出してしまったような顔だった。
目を開けたまま、じっと相手の顔を見つめていれば、観念したのか、困ったように髪をかきあげた後、藤の方へと視線を向け、口を開いた。
「兄貴が………親父が死んだ後、まだお前よりずっと早くに総帥になったマジック兄貴がよ。お前のように、隈を作ってた」
「親父が?」
驚いて、その反動で起き上がろうとしたが、すぐにハーレムの視線が自分に戻り、それを制せられた。
だが、ハーレムの言葉は初耳だった。自分の知っている父親は、無駄なほど元気な上に、いつ仕事をしているのかと思うほど自分の傍にいてくれていたのだ。だからこそ、今の自分の状況に不甲斐なさを覚えていた。自分は、まだまだだと、過去の父親の姿を思い出すたびに打ちのめされていた。けれど、親父も―――マジックも、自分のように目元に隈を作っていた時代があったのだ。
「―――俺はなんとかしてやりたいと思ったけど、その頃はまだ子供だった兄貴よりもずっと幼かったからな………ただ、見ていることしか出来なかった」
ハーレムの口から語られる父親の姿は、意外すぎて想像し難く、ただ後悔しているのか苦い表情を浮かべたままのハーレムに、ふと思い浮かんだ言葉を口に乗せ告げた。
「俺は、親父の変わりか?」
「ばーか」
とたんに大きな手の平が、瞼の上におかれる。戦うもの手特有のごつごつした無骨な、けれど温かな手が視界を覆う。
「それとこれとは別だ。あの時の兄貴がどれだけ大変だったかわかってるから、お前の苦労も知っているっていうだけだよ。………悪いな、こんくらいしか力になれんで」
視界を塞がれたために、彼がどんな顔をして言っているのかわからないが、きっと、照れ臭そうな顔をしているだろう。珍しいその表情を見れないことが残念だった。
自分もそれほど器用な人間ではないが、彼もまたかなり不器用な人間なのだ。
「いいや。十分役立ってるよ。時間がきたら……よろしくな」
理由がきけたせいだろうか、ハーレムの好意に甘えようと思えた。時間がくれば起こしてくれる。そう思えるから、素直にそれを受け入れる気になった。
「ああ―――お休み」
瞳は温かな闇に覆われたまま。めったに聞けない優しい声を耳にしつつ、すっと全身の力を抜けば、睡眠不足が祟ってすぐに睡魔が訪れる。だが、今はそれに抗うことなく受け入れた。
さわさわ、とかすかな音がする。優しい春風を受け、藤の花と花が互いに擦れ合う音。それを聞きながら、ゆっくりと深い眠りについていった。
あんな約束するんじゃなかった………。
後悔先に立たず。口約束でも、約束は約束。しかもすでに履行されている。取り消し不可能だ。
「はぁー」
胸の奥底にわだかまる想いを吐き出すように、溜息をつけば、シンタローの目の前で、ファイル整理をしていたキンタローが、目線だけ持ち上げ、こちらを見やった。かすかに浮かぶ眉間の皺。こちらの溜息について、困惑というよりは呆れと苛立ちを持っていることがよくわかる。ついでに、彼が何をいいたいのかもわかっていた。
「悪ぃ。すぐにコイツは仕上げるから」
溜息ばかりで、仕事をなかなか進めない自分に対して、咎める言葉はなくとも、視線だけでわかる。だから、まだ、未決済の書類の束を指差してから、シンタローは、最上の紙を手にとった。しかし―――。
「邪魔するぜッ」
唐突に乱入してきた訪問者に、手にした書類はひらりと飛んでいってしまった。その行方が、机の先から消えていったのを確認したまでで、その後は、呼ばれもしない訪問者の方を睨みつけることに変わった。
「何しにきやがった!」
「あん? 来たら悪ぃのかよ」
ずかずかと部屋に入り込み、さらにこちらへとやってきた。
「悪ぃに決まってるだろうがッ。ここは、総帥室だ。用事の無い奴は出て行け」
退場を示すように、手をドアへと突きつけるが、その手など、見てはいなかった。
「用事があるからここに来てやったんだろうが」
「どんな用事があるっていうんだ。仕事してぇなら、今すぐやるぜ」
「んなもんは、今は、いらねぇよ。俺の用事っていうのはな―――」
ハーレムの手が伸びる。シンタローは、素早くそれを避けるようにして、後方へ下がった。
「チッ。逃げやがったな」
「てめぇが、酒臭せぇからだろ! 近づくな」
「ああ?」
脅しをかけるように、下方からねめつける相手に、シンタローは挑むように黒曜石の瞳を光らせた。
「なんか文句あんのかよ」
「………いい加減にして欲しいのだが」
冷ややかに落とされる声。
「あ、キンタロー」
ぎこちなく、視線をそちらへ向ければ、そこには、無表情な顔のキンタローがいた。凄みがプラスされている。
「仕事が進まない。出て行ってくれ、ハーレム」
「用事があるっていっただろうが、それを片付けられねぇ限りは、出ていけねぇな」
にやにやとこちらを見やるハーレム。彼が何を狙っているのか、シンタローには、分かっていた。
(あんな約束しなければよかった―――)
それは、昨日の他愛のない約束。
ここ一ヶ月仕事が忙しく、恋人の相手をすることが出来なかったことに、不満を露わにしめしてくれた相手へ、こちらが無理難題をふっかけてあげたのだ。
こちらだって、ヒマではない。恋人とゆっくり過ごしたいと思っているが―――もちろん口に出しては言わないが―――そんなことは、出来るはずが無い。それでも、彼がそれだけ自分のことを思ってくれているのならば、その時間を頑張って作ってもいいかな、と思ってしまったのが間違いだった。
条件をクリアすれば、次の日は、仕事を休んで付き合う。
そう言ってしまったのだった。
しかも、その条件というのが―――自分の望みもたぶん出ていたのかもしれない―――もちろん、できるはずがないだろう、とは思っての条件だったが。
『明日、俺にキス3回出来たら、その次の日は仕事休んで、お前に付き合ってやる』
馬鹿な約束をしてしまった――と思ったのは、日付が変わったとたんに、唇を奪われた後だった。
そして、現在されている、キスの回数は2回。
そう。もう二度目のキスも奪われてしまったのだ。
一度の目のキスが、不意をつかれたため、次からはそんなことはないように、常に気を張っていた。少なくても、彼の気配を感じたとたんに、警戒心は最大限に高めていた。
まさか、それが罠だったとは―――。
やはり年齢差による経験の差というものだろうか。それとも、ただ単に自分が騙され易い馬鹿なだけだろうか。
どちらにしても、悔しいが、さらに悔しかったのは、二度目のキスを奪われた時だった。
またもや、不意打ち。
つまらないものの重要な会議が終わり、その帰り道の廊下。緊張など緩みきったまま、ひとりで歩いているところを、行き成り廊下の影から腕をとられて引っ張られた。
気配を綺麗に消しているうえに、こちらの視界には入らない場所で待ち伏せしての、奇襲。
二度目のキスもあっさりと奪われてしまった。
そして、今度キスされれば、明日は仕事を休んで一日中、相手に付き合うこと決定である。
だが、キンタローには、明日休ませてくれと、告げてなどいないのである。
「それならば、その用事をとっととすませろ」
「だ、そうだ。シンタロー」
こちらへ向かって、意味ありげにニヤリと笑ってくれる。
「俺は、お前に用はねぇ!」
そっけなく跳ね除けるものの、そんなものが相手に通用するはずもなかった。
「ああ、そうだな。けど、俺はある。だから、逃げるな」
「っ……」
ヘビに睨まれたカエル状態。胸に銃を突きつけられている状態だ。
しかし、ここでその用件を果たされるわけにはいかなかった。
「……キンタロー! とっととこの害虫を摘み出せッ」
「いいのか? そんなことしやがると――――ここで、無理やりヤるぞ?」
「なッ!」
「約束したてめぇが、悪い。観念しな」
一度目は速攻。二度目は奇襲。三度目強硬手段だ。
けれど、キンタローの前でキスされるなどという羞恥プレイだけはされるわけにはいかない。仰け反った体勢から、ちらりと見えたのは、床に落ちていた書類。とっさに、シンタローは叫んだ。
「キンタローッ! 机の下に落ちた書類を取ってくれ――――んっ」
ゲームオーバー。
胸に押し付けられた銃に撃ち抜かれた。
「―――どうしたんだ、シンタロー? 顔が赤いぞ」
その手にあった、書類を俯き加減で受け取った。
「いや……なんでもない」
何かあったのは、先ほどまでだ。
「熱があるみたいだな」
「何! 本当か、ハーレム。それは大変だ! ――そうか、最近働きづめだったからな。わかった、シンタロー。明日は休め。いや、何も気にするな。この俺がなんとかしてやる。いいか、この俺が、お前のために明日休みを作るというのだ、心配せずに、お前は養生してくれ」
「……ああ、サンキュ」
破顔一笑している恋人を横目に、シンタローは、少しばかり引き攣った笑顔とともに、頷いた。
もちろん、この後ご丁寧にお持ち帰りされたのは、言うまでもないことだった。
<平安パラレル物です>
ぽとり…。
桜の花が地面にひとつ落ちた。
西の庭にある桜である。この屋敷の中でただひとつだけ植えられたそれは、待ちに待った春の訪れを告げてくれたもので、こちらの期待に応えるように、天へと向かって伸ばされた枝の先には、すでにいくつもの薄紅色をした花をつけていた。
今が盛りというには少し蕾が目立つ、七分咲き。けれど地面に落ちたその花に、簀子(すのこ)の上を通っていたシンタローは、ぴたりと足を止めた。それと同時に視線は、スッと細められ、険しさを帯びる。見つめる先は、落ちたばかりの桜の花。
「何をしてる?」
シンタローは誰にもいないはずの庭に向かって、そう言葉を発した。
地面に落ちた花は、花びらではなく、五枚の花弁をつけたまま落ちていた。それは、あまりにも不自然で、シンタローは、落下地点よりも上へと視線を定めた。そこで、それを見つけたとたん、シンタローの視線はさらに剣呑さを増し、そうして、無意識のうちに頬を引きつらせていた。
「そこでいったい何してるんだよ、アンタは!」
もう一度同じことを繰り返せば、そこにいた相手が、ようやくこちらへと顔を向ける。
「チッ。煩っせぇーな。黙って見過ごせよ」
いいとこを邪魔しやがってとごちる声。
そこにいたのは、野性味溢れた風貌をした男だった。金色の髪は、手入れをあまりしていないのかと疑うってしまうほど、無造作に伸ばされており、まるで獅子の鬣のようである。その髪をうざったそうに、掻きあげて、面倒臭そうに視線を向けてきた。
「がたがた言うんじゃねぇーよ」
「ふざけんなッ! 見過ごせないから言っているんだろうが。んなとこで、何してやがる」
すでにシンタローの身体は、簀子から乗り出さんばかりである。
(まったく、相変わらずだな、このおっさんは)
人の家に不法侵入しておきながら、横柄な態度。しかも、彼の片手には、明らかに酒入りと思われる瓢箪が握られていた。しゃべる合間にも、それに口付けて、喉を上下に動かしている。無礼極まりないそれを、無視できるはずがない。
「花見に決まってるだろうが、馬鹿が」
あっさり言われたその言葉に、プツンとシンタローの中の何かがはじけた。
「馬鹿は、どっちだッ! お尋ねものの盗賊のくせに、んなとこにいるんじゃねぇよ、おっさんッッ!!」
そんな彼が、なぜこんなところにいるのか、という疑問よりも、こんな場所で堂々と酒を飲める相手の神経をまず疑ってしまう。
もしもその姿を見咎められれば、捕縛され、命すらも危うい状況に陥るというのにも関わらず、彼は、飄々と桜の木に登り、暢気に花見をしているなどといっているのである。正気の沙汰とも思えぬ行動だ。
いつのまにか、シンタローは素足で、地面に降り立っていた。遠くから叫ぶだけではらちがあかない。
動きにくい女性の装束を身にまとっていたことも忘れ、裾が汚れるのもかまわずに、相手に向かって突き進む。それでも、誰か人がいないか、気遣うように、辺りを見回すことを忘れない自分が、嫌だった。
なぜ、自分がこんな奴を気にかけなければいけないのだ、という気持ちなのだ。
それでも、見つけたのが自分でよかったと、ホッとしているのも事実だった。自分以外ならば、すでに彼は矢の的になっている。
「さっさと帰れよ」
桜の木の根元まで行くと、シンタローはそう言い放った。
いつ自分以外のものが、ここを通るか分からないのだ。桜の花に隠れているとはいえ、それでも、その大きな身体が、まったく見えないわけではない。
「いいじゃねぇかよ、もう少しぐれぇ。誰も来ねぇし。第一俺は、ここの桜が一番気に入ってるんだよ」
ぐいっと再び、瓢箪の中の酒を煽る。
「勝手だろうが」
そうほざく相手に、シンタローは、相手の昇っている桜の幹を拳の裏で叩いた。
「馬鹿が……それで捕まったらどうするんだよ」
「捕まらねぇよ」
堂々と言い放つそれは、自信に溢れている。けれど、それになんの根拠もないことをシンタローは、分かっていた。
確かに、彼の腕っ節の強さは認める。腰にはちゃんと太刀も下げている。けれど、ここには彼ひとりしかいない。人海戦術でこられれば、さすがの彼とて、無事ではすまない。
何よりも、この屋敷の周りには、彼を捕らえるための人材は事欠かないほどいるのだ。こんな――内裏の中に進入してくる馬鹿など、彼ひとりである。
「……本当に馬鹿」
心配するのが馬鹿らしくなる。
「早く帰れよ――」
いつのまにかその声音は、懇願するようなものに変わっていた。
たぶん、自分は見たくないのだろう。彼が捕まる姿など。彼が、誰よりも自由が似合うものだと認めているがゆえに。
じわりと目頭が熱くなる。涙目など見せたくなくて、頭を下に傾けた。
ぽとり…。
視界の端に何かが落ちる。それに視線を留めれば、桜の花であることがわかった。それと同時に、枝が大きく揺れ、人が降りてくる。
「ハーレム……?」
あれほど言っても聞かなかった相手が、桜の木から下りてきた。
「あ~あ、酒が切れたから、そろそろ帰るわ」
驚いていれば、そう一言漏らされた。
花見に酒はつきものだと、いっていたが、その酒が切れてしまえば、花見も終わりだというのだろうか。
なんであれ、帰ってくれるなら、一安心である。このまま誰にも見咎められずに帰ってくれればいい。
「そっか…じゃあな」
名残惜しさを感じないわけでもないが、それでも彼の無事の方が大事である。
「あばよ!」
帰る動作をした相手の腰から、ちゃぽんと液体がたてる音がした。
(酒……まだ、残っていたのか?)
一瞬だけ聞こえたその音に、けれどシンタローは何も言わなかった。言う必要などない。
「シンタロー」
「なんだよ」
その背中を見送っていれば、急に名を呼ばれた。
「忘れるなよ」
そう言うと、立ち去りかけていたその身体が、反転して、こちらに向いた。
相手との距離が、一気に縮まる。背をそらそうとしても、間に合わなかった。それよりも早く、相手の手が後頭部に回して引き寄せられる。
ザワッ。
正面から風が吹きぬけ、髪が大きくうねる。
「んッ」
その直後に、唇に何かが触れた。
一瞬息を止めて、けれど、風が通り抜けて行ったのと同時に、それは唇からはがれていった。
シンタローは、唇に指を這わした。先ほどのそれは、ひんやりとした冷たさと滑らかさがあった。触れたはずの唇とは違う感触。
「チッ。とんだ邪魔が入ったな」
ハーレムは、恨めしそうに顔を顰めて、舌打ちをした。
ハーレムの口には、桜の花びらがあった。先ほど降りてきた時に、折られた名残だろう。風に煽られて、落ちてきたのだ。
なんの偶然だろうか。
桜の花びら越しに唇が触れたのである。
忌々しげに、唇に張り付いた桜の花びらをはがし、ハーレムは、それを足で踏みにじる。綺麗な薄紅色が、柔らかい土の中に埋まる。
「……日ごろの行いが悪いせいだろ」
「ぬかせッ! ったく」
自分へまともに口付けが出来ないことで、本気で悔しがっている相手を前に、そう言い放てば、不貞腐れるように返される。けれど、再び彼が、こちらに触れることはなかった。
いつもそうだ。
彼との交わりは、一瞬だけしか許されないかのように、刹那の間だけで終わる。お互いにそれが暗黙の了解であるかのように。
それはある意味正解なのだけれど―――今は、もう互いの立場が違うのだから。
「じゃあな」
そう言った相手の姿は、すぐに視界から消えた。
シンタローに残ったのは、口付けを邪魔され、散り散りにされた憐れな花びらが地面に一つ。
「……忘れるわけないだろう」
もう、姿も見えぬその相手へと告げるように、シンタローはそう呟いた。
忘れることは出来ない。
かつてここで交わした約束を。自分のためにしてくれた約束。
けれど、ただそれだけでもあった。そこに含まれた約束も願いも叶えられることはない。
「また、会えるよな?」
それがどれほど儚い願いであるかは分かっていても、それでも―――また会えることを願って、しばしの邂逅の時を与えてくれた桜の木をシンタローは見上げた。
ぽとり…。
桜の花が地面にひとつ落ちた。
西の庭にある桜である。この屋敷の中でただひとつだけ植えられたそれは、待ちに待った春の訪れを告げてくれたもので、こちらの期待に応えるように、天へと向かって伸ばされた枝の先には、すでにいくつもの薄紅色をした花をつけていた。
今が盛りというには少し蕾が目立つ、七分咲き。けれど地面に落ちたその花に、簀子(すのこ)の上を通っていたシンタローは、ぴたりと足を止めた。それと同時に視線は、スッと細められ、険しさを帯びる。見つめる先は、落ちたばかりの桜の花。
「何をしてる?」
シンタローは誰にもいないはずの庭に向かって、そう言葉を発した。
地面に落ちた花は、花びらではなく、五枚の花弁をつけたまま落ちていた。それは、あまりにも不自然で、シンタローは、落下地点よりも上へと視線を定めた。そこで、それを見つけたとたん、シンタローの視線はさらに剣呑さを増し、そうして、無意識のうちに頬を引きつらせていた。
「そこでいったい何してるんだよ、アンタは!」
もう一度同じことを繰り返せば、そこにいた相手が、ようやくこちらへと顔を向ける。
「チッ。煩っせぇーな。黙って見過ごせよ」
いいとこを邪魔しやがってとごちる声。
そこにいたのは、野性味溢れた風貌をした男だった。金色の髪は、手入れをあまりしていないのかと疑うってしまうほど、無造作に伸ばされており、まるで獅子の鬣のようである。その髪をうざったそうに、掻きあげて、面倒臭そうに視線を向けてきた。
「がたがた言うんじゃねぇーよ」
「ふざけんなッ! 見過ごせないから言っているんだろうが。んなとこで、何してやがる」
すでにシンタローの身体は、簀子から乗り出さんばかりである。
(まったく、相変わらずだな、このおっさんは)
人の家に不法侵入しておきながら、横柄な態度。しかも、彼の片手には、明らかに酒入りと思われる瓢箪が握られていた。しゃべる合間にも、それに口付けて、喉を上下に動かしている。無礼極まりないそれを、無視できるはずがない。
「花見に決まってるだろうが、馬鹿が」
あっさり言われたその言葉に、プツンとシンタローの中の何かがはじけた。
「馬鹿は、どっちだッ! お尋ねものの盗賊のくせに、んなとこにいるんじゃねぇよ、おっさんッッ!!」
そんな彼が、なぜこんなところにいるのか、という疑問よりも、こんな場所で堂々と酒を飲める相手の神経をまず疑ってしまう。
もしもその姿を見咎められれば、捕縛され、命すらも危うい状況に陥るというのにも関わらず、彼は、飄々と桜の木に登り、暢気に花見をしているなどといっているのである。正気の沙汰とも思えぬ行動だ。
いつのまにか、シンタローは素足で、地面に降り立っていた。遠くから叫ぶだけではらちがあかない。
動きにくい女性の装束を身にまとっていたことも忘れ、裾が汚れるのもかまわずに、相手に向かって突き進む。それでも、誰か人がいないか、気遣うように、辺りを見回すことを忘れない自分が、嫌だった。
なぜ、自分がこんな奴を気にかけなければいけないのだ、という気持ちなのだ。
それでも、見つけたのが自分でよかったと、ホッとしているのも事実だった。自分以外ならば、すでに彼は矢の的になっている。
「さっさと帰れよ」
桜の木の根元まで行くと、シンタローはそう言い放った。
いつ自分以外のものが、ここを通るか分からないのだ。桜の花に隠れているとはいえ、それでも、その大きな身体が、まったく見えないわけではない。
「いいじゃねぇかよ、もう少しぐれぇ。誰も来ねぇし。第一俺は、ここの桜が一番気に入ってるんだよ」
ぐいっと再び、瓢箪の中の酒を煽る。
「勝手だろうが」
そうほざく相手に、シンタローは、相手の昇っている桜の幹を拳の裏で叩いた。
「馬鹿が……それで捕まったらどうするんだよ」
「捕まらねぇよ」
堂々と言い放つそれは、自信に溢れている。けれど、それになんの根拠もないことをシンタローは、分かっていた。
確かに、彼の腕っ節の強さは認める。腰にはちゃんと太刀も下げている。けれど、ここには彼ひとりしかいない。人海戦術でこられれば、さすがの彼とて、無事ではすまない。
何よりも、この屋敷の周りには、彼を捕らえるための人材は事欠かないほどいるのだ。こんな――内裏の中に進入してくる馬鹿など、彼ひとりである。
「……本当に馬鹿」
心配するのが馬鹿らしくなる。
「早く帰れよ――」
いつのまにかその声音は、懇願するようなものに変わっていた。
たぶん、自分は見たくないのだろう。彼が捕まる姿など。彼が、誰よりも自由が似合うものだと認めているがゆえに。
じわりと目頭が熱くなる。涙目など見せたくなくて、頭を下に傾けた。
ぽとり…。
視界の端に何かが落ちる。それに視線を留めれば、桜の花であることがわかった。それと同時に、枝が大きく揺れ、人が降りてくる。
「ハーレム……?」
あれほど言っても聞かなかった相手が、桜の木から下りてきた。
「あ~あ、酒が切れたから、そろそろ帰るわ」
驚いていれば、そう一言漏らされた。
花見に酒はつきものだと、いっていたが、その酒が切れてしまえば、花見も終わりだというのだろうか。
なんであれ、帰ってくれるなら、一安心である。このまま誰にも見咎められずに帰ってくれればいい。
「そっか…じゃあな」
名残惜しさを感じないわけでもないが、それでも彼の無事の方が大事である。
「あばよ!」
帰る動作をした相手の腰から、ちゃぽんと液体がたてる音がした。
(酒……まだ、残っていたのか?)
一瞬だけ聞こえたその音に、けれどシンタローは何も言わなかった。言う必要などない。
「シンタロー」
「なんだよ」
その背中を見送っていれば、急に名を呼ばれた。
「忘れるなよ」
そう言うと、立ち去りかけていたその身体が、反転して、こちらに向いた。
相手との距離が、一気に縮まる。背をそらそうとしても、間に合わなかった。それよりも早く、相手の手が後頭部に回して引き寄せられる。
ザワッ。
正面から風が吹きぬけ、髪が大きくうねる。
「んッ」
その直後に、唇に何かが触れた。
一瞬息を止めて、けれど、風が通り抜けて行ったのと同時に、それは唇からはがれていった。
シンタローは、唇に指を這わした。先ほどのそれは、ひんやりとした冷たさと滑らかさがあった。触れたはずの唇とは違う感触。
「チッ。とんだ邪魔が入ったな」
ハーレムは、恨めしそうに顔を顰めて、舌打ちをした。
ハーレムの口には、桜の花びらがあった。先ほど降りてきた時に、折られた名残だろう。風に煽られて、落ちてきたのだ。
なんの偶然だろうか。
桜の花びら越しに唇が触れたのである。
忌々しげに、唇に張り付いた桜の花びらをはがし、ハーレムは、それを足で踏みにじる。綺麗な薄紅色が、柔らかい土の中に埋まる。
「……日ごろの行いが悪いせいだろ」
「ぬかせッ! ったく」
自分へまともに口付けが出来ないことで、本気で悔しがっている相手を前に、そう言い放てば、不貞腐れるように返される。けれど、再び彼が、こちらに触れることはなかった。
いつもそうだ。
彼との交わりは、一瞬だけしか許されないかのように、刹那の間だけで終わる。お互いにそれが暗黙の了解であるかのように。
それはある意味正解なのだけれど―――今は、もう互いの立場が違うのだから。
「じゃあな」
そう言った相手の姿は、すぐに視界から消えた。
シンタローに残ったのは、口付けを邪魔され、散り散りにされた憐れな花びらが地面に一つ。
「……忘れるわけないだろう」
もう、姿も見えぬその相手へと告げるように、シンタローはそう呟いた。
忘れることは出来ない。
かつてここで交わした約束を。自分のためにしてくれた約束。
けれど、ただそれだけでもあった。そこに含まれた約束も願いも叶えられることはない。
「また、会えるよな?」
それがどれほど儚い願いであるかは分かっていても、それでも―――また会えることを願って、しばしの邂逅の時を与えてくれた桜の木をシンタローは見上げた。