逃げれるものなら逃げてご覧
その梅は、高松がくれたのだと言う。温室に植えてあるものが、一足早く花をつけたから、と。
お前のところにも飾ってあるからね、と微笑む兄貴の部屋の卓には、当然のように白梅の一輪挿しがあった。こんな調子で、家族の部屋一つ一つに梅が置いてあるのだろう。相変わらずまめなことだ、と俺は軽く肩をすくめ、あいさつもそこそこに、戦利品の酒を持って兄貴の部屋を出た。
くわえ煙草で廊下をふらふらと歩きながら、近頃落ち着きの悪かった感情が、あっさり酒をせしめられたからという理由ばかりでなく、少し和んでいるのを俺は感じ取っていた。一族を背負う要職にいる兄貴が、時折見せるこうしたひどく所帯じみた行為を、俺は必ずしも嫌いではない。
久しぶりに自分の部屋へと入る。不在の間もこまめに手入れされているらしい部屋は、いつ帰ってきてもいいように清潔に整えられていた。それは俺が散らかし放題にして出て行った後でも変わらない。普段なら楽だとか便利だとしか思わないそのこと、時折家族の思いやりを感じて面映くなったりもするそのことが、今日に限って素気なく、よそよそしい様子に見えるのは、たぶん俺自身が少し神経質になっているからだろう。──もしくは、部屋に漂う蠱惑的な香りのせいか。
閉め切っていた部屋の中は、今や、梅の香りで一杯だった。いささかきついが、決して不快ではない。むしろもっとその香りを求めたくなるような気にさせられる甘い空気。明かりも点けぬまま、足早に歩み寄った卓には、兄貴のところと同じように、花瓶に活けられた梅の花があった。兄貴のところよりも香りが強いのは、部屋を閉め切っていたせいばかりでなく、花の数の違いだろう。俺の部屋の梅には、二本の枝に十近い花が今を盛りと咲き誇っている。暗闇の中、わずかな明かりすらない状況で、甘い香りと共に、梅の花だけが白々と浮かび上がって見えた。
──それは、まるで花がひっそりと健気に俺を待っていたかのようで、俺は変に落ち着かないような、今すぐここから逃げ出したいような気分になった。
……もし俺が今日帰らなかったなら、なにかの気まぐれでどこか遠くに旅立ってしまい、ずっと戻らずにいたなら、この花はやがて枯れて、最初から存在しなかったように片付けられてしまったのだろうか。──確かにそこにあったことを、俺に欠片も知られることなく、永遠に。
その想像は、妙に俺を寒々とした気持ちにさせた。実際、ほんの数時間前までは、出先からそのままふらりとまたどこかへ行ってしまうつもりでいたのだ。それが家へと戻ってきてしまったのは、どうにも酒が飲み足りなかったからにすぎない。タダ酒を飲みに戻ってきただけの部屋で、俺は今しか咲いていない梅の花を見る。──そこには嫌な偶然があるような気がして、俺は乱暴に長椅子に座ると、持ってきた酒瓶に直接口をつけた。
今だ明かりも点けぬまま、俺は次々に酒を呷る。そして時折、別に見たくもない梅に目をやる。酒の香りに梅のそれが混じる。煙草に火を点けても、煙を掻い潜って梅の香りは届く。その甘く爽やかでいて人の心を蕩かすような香りは、俺の中のなにか穏やかならぬものを呼び覚ましそうで、それを無視するべく、俺は酒を飲み、煙草を吸う。そのくせ、気がつくと梅を見ている。その香りを求めている。
紅梅ほど艶やかでもないくせに、と俺は一人毒づく。香りしか取柄のない白梅のくせに、桜ほど絢爛としてもいないくせに、どうして──
ふと、この場所で、同じように俺を待っていたかもしれない存在のことが頭に浮かんだ。本当ならあいつが俺を待つ理由はない。だが、ほんの数ヶ月前に、俺は自らその理由を作り、うかつにも相手に与えてしまっていた。
駄目だ、と俺は思う。こんなことを思い出しては駄目だ。勢い良く首を横に振る。酒を飲む。酔いに任せて忘れてしまおうとしていたのに、今頃になってそれは逆効果だったのだと気づく。酒のせいで、閉め切っていた記憶の扉がゆるんでいた。あのときの、地味な黒髪が艶やかに照り映えるさま、甘い鬱金色の肌のことも、あいつが誰よりも華やかな表情をすることも、もうとっくに俺は──
いや、駄目だ。そんな考えはらしくない。この梅を飾ったのは兄貴であってあいつではない。あいつがそんな、可愛げのあることをするはずがない。
そもそもあいつにとってすら、あのことは早く忘れ去りたい事実のはずだ。ならば、それが行われたこの部屋へやって来るはずがない。まして梅を飾るなど。──だが。
だが、俺があいつを残したまま闇雲に部屋を出たあと、誰がこの部屋を整えたというのだろう?
俺がこの家へ、まして自分の部屋へと、他人を連れ込むことなどありえない。それは家族の誰もがそうで、昔から暗黙の了解のようになっていた。
もし家政婦の誰かがこの部屋を掃除したというのなら、俺が誰かを連れ込んだことは一目瞭然だろう。最悪、あいつと寝たことも知られてしまうかもしれない。しかし、先程会った兄貴からは、そのことを知っているような様子は微塵もなかった。知っていて隠しているというふうでもなかった。職業柄、いくら弟とはいえ、どんな理由があっても、兄貴は俺が他人を家に連れ込むことを許さないだろう。仮に俺とあいつが寝たことを知っていた場合でも、他のことならいざ知らず、兄貴があいつに関することで知らぬふりをするなど、そんな回りくどい対応ができるとは思えなかった。家政婦が知っていながら黙っているということもない。使用人は兄貴に絶対服従しているし、隠した後のことの方がよほど恐ろしいと、全員身をもって知っているからだ。
そうだとすると、俺の部屋を整えたのは、やはり──?
いや、それよりもなによりも、酒を理由に、俺がこの家に、この部屋にのこのこ戻ってきてしまったのは、それは──
俺のゆるんだ思考回路に、梅の香りが忍び込む。梅の香りが俺を包む。俺の息を詰まらせ、つまらないことばかりを思い出させるその香りは、なにかにとてもよく似ていた。どこかで、梅の香りとしてでなく、楽しんだことがあるはず──
鼻先に、ひやりとした滑らかな感触が蘇るようだった。かつて、艶やかなそれがうねるたびに、梅に似た甘い香りが漂っていた。
……奴の髪の香りは、どんなだっただろうと俺は思い返す。先の情事の際、抱きしめてその髪に顔を埋めた、そのときの香りは──
俺は長椅子から立ち上がった。自分でも驚くような唐突な行動だった。空の酒瓶が絨毯の上に転がり、わずかに残っていた酒が小さな染みを作る。
確かめなければ、と思った。あいつの髪の香りはもとより、身体の奥でくすぶっていた情欲の理由も、あいつがなにを考えているのかも、この先なにをなすべきなのかも──全てを。
そのために帰ってきたのでないなら、俺は今すぐここから立ち去らなければならない。なにもなかったことにして、逡巡も欲望も後悔も捨て、あいつと以前通りの関係に戻らなければならない。──それが不可能であることはわかりきっていたし、逃げるつもりもさらさらなかったが。
たちこめる梅の香りは、もはや紛い物でしかなかった。これが奴の罠なのだとしたら、自分自身に関して、ずいぶんと自信過剰になったものだ、と俺は笑う。
シンタローを襲おう。今すぐに──
もはや用のない梅の香りを振り切るように、俺は足早に部屋を後にした。
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(07.01.19.)
その梅は、高松がくれたのだと言う。温室に植えてあるものが、一足早く花をつけたから、と。
お前のところにも飾ってあるからね、と微笑む兄貴の部屋の卓には、当然のように白梅の一輪挿しがあった。こんな調子で、家族の部屋一つ一つに梅が置いてあるのだろう。相変わらずまめなことだ、と俺は軽く肩をすくめ、あいさつもそこそこに、戦利品の酒を持って兄貴の部屋を出た。
くわえ煙草で廊下をふらふらと歩きながら、近頃落ち着きの悪かった感情が、あっさり酒をせしめられたからという理由ばかりでなく、少し和んでいるのを俺は感じ取っていた。一族を背負う要職にいる兄貴が、時折見せるこうしたひどく所帯じみた行為を、俺は必ずしも嫌いではない。
久しぶりに自分の部屋へと入る。不在の間もこまめに手入れされているらしい部屋は、いつ帰ってきてもいいように清潔に整えられていた。それは俺が散らかし放題にして出て行った後でも変わらない。普段なら楽だとか便利だとしか思わないそのこと、時折家族の思いやりを感じて面映くなったりもするそのことが、今日に限って素気なく、よそよそしい様子に見えるのは、たぶん俺自身が少し神経質になっているからだろう。──もしくは、部屋に漂う蠱惑的な香りのせいか。
閉め切っていた部屋の中は、今や、梅の香りで一杯だった。いささかきついが、決して不快ではない。むしろもっとその香りを求めたくなるような気にさせられる甘い空気。明かりも点けぬまま、足早に歩み寄った卓には、兄貴のところと同じように、花瓶に活けられた梅の花があった。兄貴のところよりも香りが強いのは、部屋を閉め切っていたせいばかりでなく、花の数の違いだろう。俺の部屋の梅には、二本の枝に十近い花が今を盛りと咲き誇っている。暗闇の中、わずかな明かりすらない状況で、甘い香りと共に、梅の花だけが白々と浮かび上がって見えた。
──それは、まるで花がひっそりと健気に俺を待っていたかのようで、俺は変に落ち着かないような、今すぐここから逃げ出したいような気分になった。
……もし俺が今日帰らなかったなら、なにかの気まぐれでどこか遠くに旅立ってしまい、ずっと戻らずにいたなら、この花はやがて枯れて、最初から存在しなかったように片付けられてしまったのだろうか。──確かにそこにあったことを、俺に欠片も知られることなく、永遠に。
その想像は、妙に俺を寒々とした気持ちにさせた。実際、ほんの数時間前までは、出先からそのままふらりとまたどこかへ行ってしまうつもりでいたのだ。それが家へと戻ってきてしまったのは、どうにも酒が飲み足りなかったからにすぎない。タダ酒を飲みに戻ってきただけの部屋で、俺は今しか咲いていない梅の花を見る。──そこには嫌な偶然があるような気がして、俺は乱暴に長椅子に座ると、持ってきた酒瓶に直接口をつけた。
今だ明かりも点けぬまま、俺は次々に酒を呷る。そして時折、別に見たくもない梅に目をやる。酒の香りに梅のそれが混じる。煙草に火を点けても、煙を掻い潜って梅の香りは届く。その甘く爽やかでいて人の心を蕩かすような香りは、俺の中のなにか穏やかならぬものを呼び覚ましそうで、それを無視するべく、俺は酒を飲み、煙草を吸う。そのくせ、気がつくと梅を見ている。その香りを求めている。
紅梅ほど艶やかでもないくせに、と俺は一人毒づく。香りしか取柄のない白梅のくせに、桜ほど絢爛としてもいないくせに、どうして──
ふと、この場所で、同じように俺を待っていたかもしれない存在のことが頭に浮かんだ。本当ならあいつが俺を待つ理由はない。だが、ほんの数ヶ月前に、俺は自らその理由を作り、うかつにも相手に与えてしまっていた。
駄目だ、と俺は思う。こんなことを思い出しては駄目だ。勢い良く首を横に振る。酒を飲む。酔いに任せて忘れてしまおうとしていたのに、今頃になってそれは逆効果だったのだと気づく。酒のせいで、閉め切っていた記憶の扉がゆるんでいた。あのときの、地味な黒髪が艶やかに照り映えるさま、甘い鬱金色の肌のことも、あいつが誰よりも華やかな表情をすることも、もうとっくに俺は──
いや、駄目だ。そんな考えはらしくない。この梅を飾ったのは兄貴であってあいつではない。あいつがそんな、可愛げのあることをするはずがない。
そもそもあいつにとってすら、あのことは早く忘れ去りたい事実のはずだ。ならば、それが行われたこの部屋へやって来るはずがない。まして梅を飾るなど。──だが。
だが、俺があいつを残したまま闇雲に部屋を出たあと、誰がこの部屋を整えたというのだろう?
俺がこの家へ、まして自分の部屋へと、他人を連れ込むことなどありえない。それは家族の誰もがそうで、昔から暗黙の了解のようになっていた。
もし家政婦の誰かがこの部屋を掃除したというのなら、俺が誰かを連れ込んだことは一目瞭然だろう。最悪、あいつと寝たことも知られてしまうかもしれない。しかし、先程会った兄貴からは、そのことを知っているような様子は微塵もなかった。知っていて隠しているというふうでもなかった。職業柄、いくら弟とはいえ、どんな理由があっても、兄貴は俺が他人を家に連れ込むことを許さないだろう。仮に俺とあいつが寝たことを知っていた場合でも、他のことならいざ知らず、兄貴があいつに関することで知らぬふりをするなど、そんな回りくどい対応ができるとは思えなかった。家政婦が知っていながら黙っているということもない。使用人は兄貴に絶対服従しているし、隠した後のことの方がよほど恐ろしいと、全員身をもって知っているからだ。
そうだとすると、俺の部屋を整えたのは、やはり──?
いや、それよりもなによりも、酒を理由に、俺がこの家に、この部屋にのこのこ戻ってきてしまったのは、それは──
俺のゆるんだ思考回路に、梅の香りが忍び込む。梅の香りが俺を包む。俺の息を詰まらせ、つまらないことばかりを思い出させるその香りは、なにかにとてもよく似ていた。どこかで、梅の香りとしてでなく、楽しんだことがあるはず──
鼻先に、ひやりとした滑らかな感触が蘇るようだった。かつて、艶やかなそれがうねるたびに、梅に似た甘い香りが漂っていた。
……奴の髪の香りは、どんなだっただろうと俺は思い返す。先の情事の際、抱きしめてその髪に顔を埋めた、そのときの香りは──
俺は長椅子から立ち上がった。自分でも驚くような唐突な行動だった。空の酒瓶が絨毯の上に転がり、わずかに残っていた酒が小さな染みを作る。
確かめなければ、と思った。あいつの髪の香りはもとより、身体の奥でくすぶっていた情欲の理由も、あいつがなにを考えているのかも、この先なにをなすべきなのかも──全てを。
そのために帰ってきたのでないなら、俺は今すぐここから立ち去らなければならない。なにもなかったことにして、逡巡も欲望も後悔も捨て、あいつと以前通りの関係に戻らなければならない。──それが不可能であることはわかりきっていたし、逃げるつもりもさらさらなかったが。
たちこめる梅の香りは、もはや紛い物でしかなかった。これが奴の罠なのだとしたら、自分自身に関して、ずいぶんと自信過剰になったものだ、と俺は笑う。
シンタローを襲おう。今すぐに──
もはや用のない梅の香りを振り切るように、俺は足早に部屋を後にした。
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(07.01.19.)
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笑うウィルス
「夢の国を馬鹿にした、天罰です」
したり顔で、馬鹿ヤンキーは頷いた。
「これは絶対、メッキー・マッスルの呪いです」
好き勝手に言いたいこと言ってやがる家政夫を、普段なら一秒だって生かしておくもんじゃねえ。それなのに、今日このときに限って、それができないでいるっていうのは──
「はい、シンタローさん、あ~んってしてください。あ~んって」
兎の形に剥いた林檎を、ヤンキーが嬉しそうに俺の口元に押し付けてくる。火照った唇に林檎の冷ややかな感触が心地よかったが、馬鹿の手からそれを食う気にはとてもなれなかった。俺は林檎から逃れるように首を振ると、無理をして身体を横向きに変えた。背を向けられたヤンキーが、不満そうな声を上げる。
「シンタローさん、駄目ですよ。少しでもなんか食べとかないと。せめて水くらい──」
メッキーのコップに入れてあげますから、と言うヤンキーに、俺は絶対にこいつの手からは水も飲むまいと心に決めた。
そもそもの始まりは──馬鹿ヤンキーに言わせると──俺が例の、ヤンキーが心酔しきっている鼠の国について、文句をつけたことがきっかけ、らしい。俺が鼠の国を侮辱したから、すぐさまその翌日に、こうして天罰覿面という形で風邪をひいたのだ、とヤンキーは主張して譲らない。
だがそれは、俺に言わせれば、冤罪もいいとこだった。
確かに俺は鼠の国に関して、なにか誤解されるようなことを言ったかもしれない。しかしそれは、結局はいい歳していつまでも鼠の国に夢中な馬鹿をけなすためのもので、決して鼠の国そのものに対する悪口ではなかった。それを言うなら、むしろ、憧れの鼠の国と取るに足りない自分とを同じものと見なしているこの馬鹿ヤンキーこそが、ずっと天罰に値するだろう。
風邪をひいたのだって、無能なヤンキーの後始末をしていて夕立にあったのが原因だ。夢の国に住む鼠のせいでは、決してない。そう考える俺の方が、よっぽどまともだしあの鼠のことを大事にしていると思う。
──しかし、そう主張しようにも、今の俺にはそれを論理立てて話す思考力もなく、肝心要の声すら出ない。
俺の世話を焼こうと、無駄にうろつくヤンキーの気配を背中で感じながら、俺は歯軋りしたい気分だった。そんな暇があるならさっさと掃除洗濯をしやがれと言いたい。普段なら怒鳴ったり拳の一つや二つ、あるいは《眼魔砲》であっさり片付くはずのことが、声も出せず起き上がれもしない今の俺には一切することができない。それどころか、ヤンキーの好きなように看病(らしきもの)をされている始末だ。この現状に目の前が暗くなるのを覚えたが、ここで気を失ったら、それこそ馬鹿ヤンキーになにをされるかわかったもんじゃない。目が覚めたら鼠グッズに囲まれていたなんてのは死んでも嫌なので、俺は気力を振り絞って意識を保ち続けた。俺の気など知らず、ヤンキーは鼻歌交じりに(もちろん曲は鼠の歌だ)台所でなにかやらかしている。
だが、俺の懸念をよそに、一仕事終えたらしい家政夫は、やがてパプワハウスを出て行った。
俺の風邪が判明してすぐ、パプワとチャッピーはイトウの家へと避難したから、今、この家には、俺以外誰もいない。家政夫も、真面目に仕事をしているならば、しばらくは帰ってこないだろう。
もう安静にしていても大丈夫だろうかと、俺は無理してこじ開けていた目蓋を閉じた。
時折鳥の鳴き声がしたり、風が梢を揺らす音が聞こえるばかりで、家の中も外も静寂に包まれている。イトウのとこにはパプワがいるし、相棒がいないせいか、今日はタンノもやってくる気配はない。
これで褌侍が来なけりゃ万々歳だと思いながら、パプワハウスに稀に訪れる平穏なときを享受すべく、俺は眠りへと落ちていった。
なにかが額に触れる気配に、俺はふと目を開けた。
「……あ、すいません。起こしちゃいました?」
起き抜けに家政夫の顔。いつもなら初っ端に嫌なものを見たと問答無用で殴るところだが、未だだるさの残る身体ではそれをする力もなく、まして気力も尽きかけているとあっては、家政夫の顔の一つや二つ、見たところでなんの感慨も沸くはずがない。
一眠りして少しは良くなるかと思いきや、病状は悪化の一途を辿っているようだ。
リキッドはそんな俺の様子に、あからさまに顔をしかめた。
「今、ちょっと触ってみたんですけど……熱、上がってるみたいですね。なにか冷やすもの、持ってきますんで……他に欲しいものとか、ありますか? あれからなにか、食べました?」
はかばかしい返事もしない俺を気遣わしそうに見ながら、リキッドは台所へと向かった。そしてしばらくの後、両手いっぱいに細々としたものを持ってきて枕元に並べた。
「シンタローさん、生姜湯とか玉子酒とかプリンとか、作ってみたんですけど……食べられます?」
俺の頭の下に水枕を押し込みながら、リキッドが言う。しかし俺はといえば、全身を蝕むこの苦痛から逃れることばかりを考えていて、とてもものを食べられるような状況じゃなかった。
「薬を飲むにしても……せめて水くらいは」
リキッドが水の入ったグラスを手に取る。食欲はなくとも、喉の乾きには耐えられず、俺は水を飲もうと弱々しくもがいた。リキッドがすかさず俺を助け起こして、唇にグラスをあてがう。喉の痛みのせいで、少しずつしか飲み込めなかったが、リキッドは辛抱強くそれにつきあっていた。空っぽの胃に薬を流し込むのは逆効果なので、俺はできるだけたくさんの水を飲み、リキッドにも勧められるまま生姜湯にも口をつけた。
「──熱ッ」
だが、生姜湯は思いのほか熱くて、俺は慌てて唇を離した。
「あッ、す、すみません!」
リキッドは慌てて俺の口元を拭う。布団の上にこぼれなかったのは、不幸中の幸いだった。
ひとしきり誤り倒したあと、リキッドはおもむろに、生姜湯の熱さを確認するように、それを口に含んだ。神妙な顔つきで温度を測り、やがて納得したらしく、軽くうなずく。
熱のせいで普段以上にぼんやりとそれを見つめていた俺は、リキッドの顔が静かに近づいてきたことに、不覚にも気づかないでいた。家政夫の顔がずいぶん近くに見えるなと思った次の瞬間には、なにか柔らかいものに唇をふさがれて、半開きのそこから、舌を刺す生姜特有の風味と、蜂蜜のさわやかな甘さを持つとろみのある液体が、少しずつ流れ込んできていた。咄嗟に息をつめる俺をなだめるように、リキッドの手が俺の背中をさする。それに誤魔化されたみたいに、俺はむせないように慎重に、それを喉の奥へと飲み込んだ。──あまりにも唐突に感じられたその行為に、吐き出すことすら思いつかなかった。
「……生姜、ちょっと入れすぎちゃいましたね」
辛くしちゃってごめんなさい、と悪びれもせず言うヤンキーの表情がいやに満足げなのは、俺の気のせいじゃないはずだ。
……このことは、きっちり覚えておいて後で殴る、と俺は記憶に刻み込んだ。
だが、それはそれとして、どうしてもこの場で決着をつけなければおさまらない苛立ちも、当然俺にはあった。このままあの家政夫の行為を受け入れてしまえば、俺が寝込んでいる間中、奴の好き勝手にされてしまうのだという不快感も。
それに風邪だから、余計に嗜虐心が勝ったのかもしれない──少なくとも、まともな思考回路をしていなかったことだけは確かだ。
「……おい」
かすれた声で呼ぶと、嬉々として「もっと飲みますか?」と言った馬鹿を目にしたとたん、俺の心は決まった。
リキッドの首になんとか手を伸ばすと、元々ごく近くにあったその顔を、好都合とばかりに引き寄せる。咄嗟のことにリキッドが唖然としている間に、俺は乱暴にその唇をふさいだ。
そもそもが苛立ちからの行為で、別にキスを堪能するつもりもなかった俺は、適当にリキッドの口内をかき回すと、さっさと唇を離した。たいしたことないキスなのに、軽く息切れしているあたり、なんだか非常に不本意だ。
「……し、シンタローさん!?」
その唐突な行為に、なにを考えたものか真っ赤になって慌てふためくリキッドを、俺はできるだけ厳しく睨みつけた。
「……リキッド」
「え!? あ、は、はい!」
「お前はこの風邪が鼠の祟りだって言ったよな……?」
「え、ええと……は、はい」
「だったら、鼠好きのお前がこの風邪を引き受けるってのが、本来の筋じゃねえのか?……なあ?」
「え……ええ!? そ、それは──?」
どもるヤンキーに、俺は問答無用とばかりに再び口づける。
「大好きな鼠の国の風邪だ。まさか文句はねえだろ?」
さっさとうつってくたばっちまえ、と繰り返し口づける俺に、リキッドは嬉しいような困ったような、複雑な表情をして、されるがままになっていた。
その後、俺はまた熱が上がって意識を失ってしまったらしい。──そのへんのことはよく覚えていないのだが、翌朝にはすっかり直ったところをみると、風邪はきっちりと家政夫にうつったらしかった。
──そう、今現在、家政夫は風邪でパプワハウスの隅に転がされている。
パプワたちに、もうしばらくイトウの家にやっかいになるよう伝えないとだな、と俺はため息をついた。隅っこから「蜜柑食べたい」だの「花梨シロップ飲みたい」だの呪文のような声が聞こえたが、全部無視した。
大好きな鼠の国の風邪なんだ。しばらくそのままでいたって、少しも苦ではないだろう。
そうして直ったならきっちり《眼魔砲》をお見舞いしてやるから、せいぜい楽しみにしているといい。
しばらくすると、諦めたのか寝たのか、隅っこの芋虫はおとなしくなった。俺は久しぶりの自由で平穏な時間を満喫すべく、パプワハウスの扉を開けた。
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(06.12.26.)
「夢の国を馬鹿にした、天罰です」
したり顔で、馬鹿ヤンキーは頷いた。
「これは絶対、メッキー・マッスルの呪いです」
好き勝手に言いたいこと言ってやがる家政夫を、普段なら一秒だって生かしておくもんじゃねえ。それなのに、今日このときに限って、それができないでいるっていうのは──
「はい、シンタローさん、あ~んってしてください。あ~んって」
兎の形に剥いた林檎を、ヤンキーが嬉しそうに俺の口元に押し付けてくる。火照った唇に林檎の冷ややかな感触が心地よかったが、馬鹿の手からそれを食う気にはとてもなれなかった。俺は林檎から逃れるように首を振ると、無理をして身体を横向きに変えた。背を向けられたヤンキーが、不満そうな声を上げる。
「シンタローさん、駄目ですよ。少しでもなんか食べとかないと。せめて水くらい──」
メッキーのコップに入れてあげますから、と言うヤンキーに、俺は絶対にこいつの手からは水も飲むまいと心に決めた。
そもそもの始まりは──馬鹿ヤンキーに言わせると──俺が例の、ヤンキーが心酔しきっている鼠の国について、文句をつけたことがきっかけ、らしい。俺が鼠の国を侮辱したから、すぐさまその翌日に、こうして天罰覿面という形で風邪をひいたのだ、とヤンキーは主張して譲らない。
だがそれは、俺に言わせれば、冤罪もいいとこだった。
確かに俺は鼠の国に関して、なにか誤解されるようなことを言ったかもしれない。しかしそれは、結局はいい歳していつまでも鼠の国に夢中な馬鹿をけなすためのもので、決して鼠の国そのものに対する悪口ではなかった。それを言うなら、むしろ、憧れの鼠の国と取るに足りない自分とを同じものと見なしているこの馬鹿ヤンキーこそが、ずっと天罰に値するだろう。
風邪をひいたのだって、無能なヤンキーの後始末をしていて夕立にあったのが原因だ。夢の国に住む鼠のせいでは、決してない。そう考える俺の方が、よっぽどまともだしあの鼠のことを大事にしていると思う。
──しかし、そう主張しようにも、今の俺にはそれを論理立てて話す思考力もなく、肝心要の声すら出ない。
俺の世話を焼こうと、無駄にうろつくヤンキーの気配を背中で感じながら、俺は歯軋りしたい気分だった。そんな暇があるならさっさと掃除洗濯をしやがれと言いたい。普段なら怒鳴ったり拳の一つや二つ、あるいは《眼魔砲》であっさり片付くはずのことが、声も出せず起き上がれもしない今の俺には一切することができない。それどころか、ヤンキーの好きなように看病(らしきもの)をされている始末だ。この現状に目の前が暗くなるのを覚えたが、ここで気を失ったら、それこそ馬鹿ヤンキーになにをされるかわかったもんじゃない。目が覚めたら鼠グッズに囲まれていたなんてのは死んでも嫌なので、俺は気力を振り絞って意識を保ち続けた。俺の気など知らず、ヤンキーは鼻歌交じりに(もちろん曲は鼠の歌だ)台所でなにかやらかしている。
だが、俺の懸念をよそに、一仕事終えたらしい家政夫は、やがてパプワハウスを出て行った。
俺の風邪が判明してすぐ、パプワとチャッピーはイトウの家へと避難したから、今、この家には、俺以外誰もいない。家政夫も、真面目に仕事をしているならば、しばらくは帰ってこないだろう。
もう安静にしていても大丈夫だろうかと、俺は無理してこじ開けていた目蓋を閉じた。
時折鳥の鳴き声がしたり、風が梢を揺らす音が聞こえるばかりで、家の中も外も静寂に包まれている。イトウのとこにはパプワがいるし、相棒がいないせいか、今日はタンノもやってくる気配はない。
これで褌侍が来なけりゃ万々歳だと思いながら、パプワハウスに稀に訪れる平穏なときを享受すべく、俺は眠りへと落ちていった。
なにかが額に触れる気配に、俺はふと目を開けた。
「……あ、すいません。起こしちゃいました?」
起き抜けに家政夫の顔。いつもなら初っ端に嫌なものを見たと問答無用で殴るところだが、未だだるさの残る身体ではそれをする力もなく、まして気力も尽きかけているとあっては、家政夫の顔の一つや二つ、見たところでなんの感慨も沸くはずがない。
一眠りして少しは良くなるかと思いきや、病状は悪化の一途を辿っているようだ。
リキッドはそんな俺の様子に、あからさまに顔をしかめた。
「今、ちょっと触ってみたんですけど……熱、上がってるみたいですね。なにか冷やすもの、持ってきますんで……他に欲しいものとか、ありますか? あれからなにか、食べました?」
はかばかしい返事もしない俺を気遣わしそうに見ながら、リキッドは台所へと向かった。そしてしばらくの後、両手いっぱいに細々としたものを持ってきて枕元に並べた。
「シンタローさん、生姜湯とか玉子酒とかプリンとか、作ってみたんですけど……食べられます?」
俺の頭の下に水枕を押し込みながら、リキッドが言う。しかし俺はといえば、全身を蝕むこの苦痛から逃れることばかりを考えていて、とてもものを食べられるような状況じゃなかった。
「薬を飲むにしても……せめて水くらいは」
リキッドが水の入ったグラスを手に取る。食欲はなくとも、喉の乾きには耐えられず、俺は水を飲もうと弱々しくもがいた。リキッドがすかさず俺を助け起こして、唇にグラスをあてがう。喉の痛みのせいで、少しずつしか飲み込めなかったが、リキッドは辛抱強くそれにつきあっていた。空っぽの胃に薬を流し込むのは逆効果なので、俺はできるだけたくさんの水を飲み、リキッドにも勧められるまま生姜湯にも口をつけた。
「──熱ッ」
だが、生姜湯は思いのほか熱くて、俺は慌てて唇を離した。
「あッ、す、すみません!」
リキッドは慌てて俺の口元を拭う。布団の上にこぼれなかったのは、不幸中の幸いだった。
ひとしきり誤り倒したあと、リキッドはおもむろに、生姜湯の熱さを確認するように、それを口に含んだ。神妙な顔つきで温度を測り、やがて納得したらしく、軽くうなずく。
熱のせいで普段以上にぼんやりとそれを見つめていた俺は、リキッドの顔が静かに近づいてきたことに、不覚にも気づかないでいた。家政夫の顔がずいぶん近くに見えるなと思った次の瞬間には、なにか柔らかいものに唇をふさがれて、半開きのそこから、舌を刺す生姜特有の風味と、蜂蜜のさわやかな甘さを持つとろみのある液体が、少しずつ流れ込んできていた。咄嗟に息をつめる俺をなだめるように、リキッドの手が俺の背中をさする。それに誤魔化されたみたいに、俺はむせないように慎重に、それを喉の奥へと飲み込んだ。──あまりにも唐突に感じられたその行為に、吐き出すことすら思いつかなかった。
「……生姜、ちょっと入れすぎちゃいましたね」
辛くしちゃってごめんなさい、と悪びれもせず言うヤンキーの表情がいやに満足げなのは、俺の気のせいじゃないはずだ。
……このことは、きっちり覚えておいて後で殴る、と俺は記憶に刻み込んだ。
だが、それはそれとして、どうしてもこの場で決着をつけなければおさまらない苛立ちも、当然俺にはあった。このままあの家政夫の行為を受け入れてしまえば、俺が寝込んでいる間中、奴の好き勝手にされてしまうのだという不快感も。
それに風邪だから、余計に嗜虐心が勝ったのかもしれない──少なくとも、まともな思考回路をしていなかったことだけは確かだ。
「……おい」
かすれた声で呼ぶと、嬉々として「もっと飲みますか?」と言った馬鹿を目にしたとたん、俺の心は決まった。
リキッドの首になんとか手を伸ばすと、元々ごく近くにあったその顔を、好都合とばかりに引き寄せる。咄嗟のことにリキッドが唖然としている間に、俺は乱暴にその唇をふさいだ。
そもそもが苛立ちからの行為で、別にキスを堪能するつもりもなかった俺は、適当にリキッドの口内をかき回すと、さっさと唇を離した。たいしたことないキスなのに、軽く息切れしているあたり、なんだか非常に不本意だ。
「……し、シンタローさん!?」
その唐突な行為に、なにを考えたものか真っ赤になって慌てふためくリキッドを、俺はできるだけ厳しく睨みつけた。
「……リキッド」
「え!? あ、は、はい!」
「お前はこの風邪が鼠の祟りだって言ったよな……?」
「え、ええと……は、はい」
「だったら、鼠好きのお前がこの風邪を引き受けるってのが、本来の筋じゃねえのか?……なあ?」
「え……ええ!? そ、それは──?」
どもるヤンキーに、俺は問答無用とばかりに再び口づける。
「大好きな鼠の国の風邪だ。まさか文句はねえだろ?」
さっさとうつってくたばっちまえ、と繰り返し口づける俺に、リキッドは嬉しいような困ったような、複雑な表情をして、されるがままになっていた。
その後、俺はまた熱が上がって意識を失ってしまったらしい。──そのへんのことはよく覚えていないのだが、翌朝にはすっかり直ったところをみると、風邪はきっちりと家政夫にうつったらしかった。
──そう、今現在、家政夫は風邪でパプワハウスの隅に転がされている。
パプワたちに、もうしばらくイトウの家にやっかいになるよう伝えないとだな、と俺はため息をついた。隅っこから「蜜柑食べたい」だの「花梨シロップ飲みたい」だの呪文のような声が聞こえたが、全部無視した。
大好きな鼠の国の風邪なんだ。しばらくそのままでいたって、少しも苦ではないだろう。
そうして直ったならきっちり《眼魔砲》をお見舞いしてやるから、せいぜい楽しみにしているといい。
しばらくすると、諦めたのか寝たのか、隅っこの芋虫はおとなしくなった。俺は久しぶりの自由で平穏な時間を満喫すべく、パプワハウスの扉を開けた。
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(06.12.26.)
甘い罠
「はい、シンタローさんも、どうぞ」
そう言ってリキッドが出してきた今日のおやつは、チョコレートプリンだった。
……ちなみに言うならば昨日はガトーショコラで、一昨日はチョコアイスだった。一昨々日はチョコレートムースで、その前はチョコクッキーだった。
……さらに言うならば、おやつにチョコが使われていない場合も、飲み物としてホットチョコレートが必ず供される。時には、夜寝る前にホットミルクの代わりとして出されることもあった。
……これは……あれだな、うん。
家政夫はたぶん、俺が知らないと思ってるんだろうけど、な……。
──馬鹿野郎、主夫の知恵を甘く見やがって。
「……あの……シンタローさん、どうかしました……?」
チョコレートプリンを前に、押し黙ったまま手をつけようとしない俺を気にしてか、リキッドが恐る恐る声をかけてくる。
パプワたちは相変わらず食欲旺盛で、毎日チョコが続こうがあまり気にしないようだった。今もあっさりとチョコレートプリンをたいらげ、お代わりを要求している。
俺は軽くリキッドを睨んだ。まさかパプワたちの前で、問題の核心に触れるわけにもいかない。
「別に。ただ、ここんとこ、似たようなメニューが続いてるからな」
言外に「いい加減厭きた」と言ってやると、心持ち身を引き気味にして俺の様子を窺っていたリキッドは、決まり悪そうな表情で頭を下げた。
「あ……す、すいません。実は……島の女王カカオから、いっぱいカカオを分けてもらっちゃって──あ、その女王カカオとはですね、以前にいろいろあって、そのときから仲良くしてもらってるんですけど、それで──」
「……そうか」
俺はリキッドの言い訳を遮って、匙を手に取った。嘘をつくときやなにかを誤魔化そうとするとき、リキッドはあからさまに眼が泳ぐ。こいつがなにか隠していることは確実だが、この家政夫は案外頑固なところがあって、自分でどうしてもと決めたことにはなかなか口を割らない。もっと過激な手段に出れば、具体的な理由を聞き出すこともできるだろうが、聞かずとも簡単に予想できるその『理由』と、過激な手段に訴えることで発生する手間と被害とを天秤にかければ、いちいちそんな面倒なことをしていられるか、と俺が判断するのも当然のことだった。──最終的には、それをした方が、リキッドのため──いや、俺のためにか──になるのかもしれなくても、だ。
……まあ、なにはともあれ、チョコレートプリンはそれなりに美味かった。リキッドの下心付きの連日のチョコ攻めとはいえ、残したり捨てたり、なんてもったいないことを俺ができるわけがない。パプワの情操教育にも悪い。
……しかしそろそろ、別のおやつを食いたいもんだ。
「シンタローさん、おかわりは?」
チョコ攻めから逃れる手段を画策している俺の気も知らず、リキッドが新たなチョコレートプリンを卓袱台に置く。
「……俺はもういい。パプワにやれよ」
「パプワなら、また遊びに行っちゃいましたよ」
……不覚だ。チョコのせいで、そんなことにも気づけないとは。
「……なら、お前が食っちまえよ」
「いや……俺、作るときに散々味見したもんで……もうお腹いっぱいなんですよ」
この言葉が本当のことなのか、それとも俺にチョコを食わせるための口実なのか、もしくはその両方なのか、考えていると本当に苛々してくる。
──ああ、そりゃそうだろうよ、お前はな。これ以上チョコを食う必要なんて、これっぽっちもないだろうよ! とっくに脳味噌がチョコになっちまってるんだからな!
……しかし目の前のチョコレートプリンを粗末にすることもまた、俺の主夫としての意地が許さなかった。俺は今日このときほど、パプワハウスに冷蔵庫がなかったことを苦々しく思ったことはない。
「……しょうがねえな。……お前も半分食えよ」
渋々と皿を手元に引き寄せると、急に表情を明るくした家政夫が「半分こですね!」と実に嬉しそうに言う。それを横目で見ながら、後で難癖つけて殴ろう、と俺は心に決めた。今すぐそれを実行しなかったのは、美味しく食べているチョコレートに対して、なんだか悪いような気がしたからだ。せっかく女王カカオにわけてもらったものを、ありがたく大事に食べなければ罰が当たる。それに食べ終えてからの方が、ちょうどいい運動にもなるだろう。
隣で嬉々としてプリンを食べる家政夫をなるべく視界に入れないようにしながら、俺はこのチョコ攻めの、そもそもの原因について考えていた。
最初は、リキッドがおやつにナントカっていう繊細なチョコレートケーキを作ったのが始まりだった、ように思う。そのケーキは美しい見た目同様に美味しくて、食べた後しばらくの間、俺もパプワもチャッピーも、いつもより二割増しで機嫌が良かった。気分が良くなったついでに、家政夫に少しばかり優しくしてやった覚えもある。ただ、それは美味しいものを食べたら誰だってそうなるだろうという程度のもので、まして甘いチョコレートともなれば、不機嫌になれという方が無理だ(もっとも、今現在の俺の状態はそれを見事に裏切っているわけだが、これはまた話が別)。
……だが、家政夫は、俺たち──というか、俺か──の上機嫌を、単純に『食欲が十二分に満たされたから』だとは思わなかったらしい。
チョコレートがただのカロリーの固まりではなく、身体にいい各種成分が多量に含まれてもいるというのは、今や主夫の常識だ。それを家政夫が知っているのは至極当然のことであるし、さらに細かい知識を求めるのも、家事を任せられた者の義務と言えるだろう。
──しかし。
ただ一つだけ、家政夫には知っていてほしくなかった──知っていても、家事に応用してほしくなかった成分が、チョコレートにはあるのだ。
その成分とは──
「……これで狙いがパプワやチャッピーだったら、笑えねえよな」
て言うか、犯罪だろ、と呟く俺の声は、幸いと言うかなんと言うか、チョコレートプリンを食べ終えて満足しているらしい家政夫には、よく聞こえなかったらしい。
「え? なんですか、シンタローさん」
「……別に。それよりお前、腹いっぱいなんじゃなかったのかよ」
半分より多めにくれてやったのに、全部綺麗にたいらげやがって。
「え、だ、だって、シンタローさんと半分こなんですもん!」
握り拳つきで力説する家政夫の思考回路は、相変わらず俺にはよくわからない。
「……どうでもいいけどよ──」
俺は、チョコレートプリンの最後の一匙をすくいながら言った。
「お前、あんまりチョコ食いすぎんなよな」
これ以上能天気になられると、面倒だからな──
そうしてプリンの乗った匙を、リキッドの口に素早く突っ込んだ。
突然のことに唖然としたままのリキッドに向かって、俺は唇の端を上げてみせる。
「それに男ならな、こんな回りくどいことしてんじゃねえよ」
すべてはチョコ頼みなんて、馬鹿馬鹿しいだろ?
されるがままのリキッドの口から匙を取り出すと、俺は汚れ物を手に台所へと向かった。
──チョコレートには、フェニルエチルアミンという、恋愛時に急激に増える脳内物質の一つが含まれている。要するに、チョコを食べれば、脳が恋したときと似た状態になる、というわけだ。
でも、だからといって、それだけで恋愛ができるほど、人間は単純なものじゃないだろう。
直接ぶつかった方がはるかに効果的だということに、リキッドはそろそろ気づいてもいいころだ。
リキッドは未だ固まったまま、動く気配もない。
リキッドが正気に戻るのと俺の《眼魔砲》、帰ってきたパプワの蹴りとチャッピーの《餌攻撃》、どれが一番早いだろうかと思いながら、俺は流しの蛇口をひねった。
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(06.11.27.)
「はい、シンタローさんも、どうぞ」
そう言ってリキッドが出してきた今日のおやつは、チョコレートプリンだった。
……ちなみに言うならば昨日はガトーショコラで、一昨日はチョコアイスだった。一昨々日はチョコレートムースで、その前はチョコクッキーだった。
……さらに言うならば、おやつにチョコが使われていない場合も、飲み物としてホットチョコレートが必ず供される。時には、夜寝る前にホットミルクの代わりとして出されることもあった。
……これは……あれだな、うん。
家政夫はたぶん、俺が知らないと思ってるんだろうけど、な……。
──馬鹿野郎、主夫の知恵を甘く見やがって。
「……あの……シンタローさん、どうかしました……?」
チョコレートプリンを前に、押し黙ったまま手をつけようとしない俺を気にしてか、リキッドが恐る恐る声をかけてくる。
パプワたちは相変わらず食欲旺盛で、毎日チョコが続こうがあまり気にしないようだった。今もあっさりとチョコレートプリンをたいらげ、お代わりを要求している。
俺は軽くリキッドを睨んだ。まさかパプワたちの前で、問題の核心に触れるわけにもいかない。
「別に。ただ、ここんとこ、似たようなメニューが続いてるからな」
言外に「いい加減厭きた」と言ってやると、心持ち身を引き気味にして俺の様子を窺っていたリキッドは、決まり悪そうな表情で頭を下げた。
「あ……す、すいません。実は……島の女王カカオから、いっぱいカカオを分けてもらっちゃって──あ、その女王カカオとはですね、以前にいろいろあって、そのときから仲良くしてもらってるんですけど、それで──」
「……そうか」
俺はリキッドの言い訳を遮って、匙を手に取った。嘘をつくときやなにかを誤魔化そうとするとき、リキッドはあからさまに眼が泳ぐ。こいつがなにか隠していることは確実だが、この家政夫は案外頑固なところがあって、自分でどうしてもと決めたことにはなかなか口を割らない。もっと過激な手段に出れば、具体的な理由を聞き出すこともできるだろうが、聞かずとも簡単に予想できるその『理由』と、過激な手段に訴えることで発生する手間と被害とを天秤にかければ、いちいちそんな面倒なことをしていられるか、と俺が判断するのも当然のことだった。──最終的には、それをした方が、リキッドのため──いや、俺のためにか──になるのかもしれなくても、だ。
……まあ、なにはともあれ、チョコレートプリンはそれなりに美味かった。リキッドの下心付きの連日のチョコ攻めとはいえ、残したり捨てたり、なんてもったいないことを俺ができるわけがない。パプワの情操教育にも悪い。
……しかしそろそろ、別のおやつを食いたいもんだ。
「シンタローさん、おかわりは?」
チョコ攻めから逃れる手段を画策している俺の気も知らず、リキッドが新たなチョコレートプリンを卓袱台に置く。
「……俺はもういい。パプワにやれよ」
「パプワなら、また遊びに行っちゃいましたよ」
……不覚だ。チョコのせいで、そんなことにも気づけないとは。
「……なら、お前が食っちまえよ」
「いや……俺、作るときに散々味見したもんで……もうお腹いっぱいなんですよ」
この言葉が本当のことなのか、それとも俺にチョコを食わせるための口実なのか、もしくはその両方なのか、考えていると本当に苛々してくる。
──ああ、そりゃそうだろうよ、お前はな。これ以上チョコを食う必要なんて、これっぽっちもないだろうよ! とっくに脳味噌がチョコになっちまってるんだからな!
……しかし目の前のチョコレートプリンを粗末にすることもまた、俺の主夫としての意地が許さなかった。俺は今日このときほど、パプワハウスに冷蔵庫がなかったことを苦々しく思ったことはない。
「……しょうがねえな。……お前も半分食えよ」
渋々と皿を手元に引き寄せると、急に表情を明るくした家政夫が「半分こですね!」と実に嬉しそうに言う。それを横目で見ながら、後で難癖つけて殴ろう、と俺は心に決めた。今すぐそれを実行しなかったのは、美味しく食べているチョコレートに対して、なんだか悪いような気がしたからだ。せっかく女王カカオにわけてもらったものを、ありがたく大事に食べなければ罰が当たる。それに食べ終えてからの方が、ちょうどいい運動にもなるだろう。
隣で嬉々としてプリンを食べる家政夫をなるべく視界に入れないようにしながら、俺はこのチョコ攻めの、そもそもの原因について考えていた。
最初は、リキッドがおやつにナントカっていう繊細なチョコレートケーキを作ったのが始まりだった、ように思う。そのケーキは美しい見た目同様に美味しくて、食べた後しばらくの間、俺もパプワもチャッピーも、いつもより二割増しで機嫌が良かった。気分が良くなったついでに、家政夫に少しばかり優しくしてやった覚えもある。ただ、それは美味しいものを食べたら誰だってそうなるだろうという程度のもので、まして甘いチョコレートともなれば、不機嫌になれという方が無理だ(もっとも、今現在の俺の状態はそれを見事に裏切っているわけだが、これはまた話が別)。
……だが、家政夫は、俺たち──というか、俺か──の上機嫌を、単純に『食欲が十二分に満たされたから』だとは思わなかったらしい。
チョコレートがただのカロリーの固まりではなく、身体にいい各種成分が多量に含まれてもいるというのは、今や主夫の常識だ。それを家政夫が知っているのは至極当然のことであるし、さらに細かい知識を求めるのも、家事を任せられた者の義務と言えるだろう。
──しかし。
ただ一つだけ、家政夫には知っていてほしくなかった──知っていても、家事に応用してほしくなかった成分が、チョコレートにはあるのだ。
その成分とは──
「……これで狙いがパプワやチャッピーだったら、笑えねえよな」
て言うか、犯罪だろ、と呟く俺の声は、幸いと言うかなんと言うか、チョコレートプリンを食べ終えて満足しているらしい家政夫には、よく聞こえなかったらしい。
「え? なんですか、シンタローさん」
「……別に。それよりお前、腹いっぱいなんじゃなかったのかよ」
半分より多めにくれてやったのに、全部綺麗にたいらげやがって。
「え、だ、だって、シンタローさんと半分こなんですもん!」
握り拳つきで力説する家政夫の思考回路は、相変わらず俺にはよくわからない。
「……どうでもいいけどよ──」
俺は、チョコレートプリンの最後の一匙をすくいながら言った。
「お前、あんまりチョコ食いすぎんなよな」
これ以上能天気になられると、面倒だからな──
そうしてプリンの乗った匙を、リキッドの口に素早く突っ込んだ。
突然のことに唖然としたままのリキッドに向かって、俺は唇の端を上げてみせる。
「それに男ならな、こんな回りくどいことしてんじゃねえよ」
すべてはチョコ頼みなんて、馬鹿馬鹿しいだろ?
されるがままのリキッドの口から匙を取り出すと、俺は汚れ物を手に台所へと向かった。
──チョコレートには、フェニルエチルアミンという、恋愛時に急激に増える脳内物質の一つが含まれている。要するに、チョコを食べれば、脳が恋したときと似た状態になる、というわけだ。
でも、だからといって、それだけで恋愛ができるほど、人間は単純なものじゃないだろう。
直接ぶつかった方がはるかに効果的だということに、リキッドはそろそろ気づいてもいいころだ。
リキッドは未だ固まったまま、動く気配もない。
リキッドが正気に戻るのと俺の《眼魔砲》、帰ってきたパプワの蹴りとチャッピーの《餌攻撃》、どれが一番早いだろうかと思いながら、俺は流しの蛇口をひねった。
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(06.11.27.)
指先にキス
今思えば、自分でも馬鹿みたいだって赤面するしかないんだけど、俺はずっと、初キスってものにすごくあこがれていた。
あこがれと言えば、初恋もその範疇には入っていたのだけれど、馬鹿だから、もっと具体的なキスの方ばかりを夢見てたんだ。
ところが……その初キスを求めるべき俺の青春は、拉致された特戦部隊での無茶な生活にそのほとんどが費やされた。パプワ島で赤の番人として生活し始めてからは、それまでに比べてある程度の平穏こそ手に入ったものの、初キスなど──むしろ初恋すら、望むべくもなかった。島には、俺と主のパプワ以外に、人間など存在しなかったし、これからも存在するはずがなかったから。
そのはずだったのだが……かつて、旧パプワ島を壊滅寸前にまで追い込んだコタローが突然現れて以来、人を寄せ付けないはずのこの島には、様々な人間がやって来るようになってしまった。ガンマ団の刺客の方々然り、心戦組の面々然り、一度は手を切ったはずの特戦部隊の皆様方然り。
そうして──俺はシンタローさんに出会った。
感情ってもんは不思議なものだ、と俺はシンタローさんに会ったことで思い知った。自分のものであるはずなのに、ちっとも思い通りになりゃしない。シンタローさんのことだって、最初は本当に苦手だと思っていたんだ。出会いも出会いだったし、きっと相性だって悪かった。シンタローさんの方でも、決して俺を良くは思っていなかっただろう。間にパプワがいなければ、きっと俺たちは早々に別れて二度と顔を合わせない生活を送ったはずだ。──パプワがいなければ、俺たち二人は、お互い好き合うまで傍にい続けるなんてことは、決して。
その点では、俺はもしかしてパプワに感謝すべきなのかもしれない。俺の甘酸っぱい夢には絶望的なこの場所で、男で年上でしかもガンマ団総帥とはいえ、初恋の相手ができたのだから。
しかし、だからといって、その恋が実るかどうかは、また別問題だ。いくら絶望的な状況下にあっても、その険しい道則には変わりがなかった。むしろ、より険しさを増したと言ってもいい。普通の男女の間でさえ、単純に考えて恋の成功する確率は四分の一。実際はもっと様々な状況が絡み合って、ずっと低い確率になるのだろう。まして、絶海の孤島にいい歳した人間が二人だけ、という状況だけで恋が成立するなら、それこそ運命だとでも言うしかない。
俺は初めての恋に夢中で、それを成就させることに躍起になっていて、その現状のことなんてさっぱり考えもしなかったけれど、後でシンタローさんと両思いになるという、夢みたいな奇跡が起こったとき、ふとそのことに思い当たって、妙に厳粛な気持ちになったものだった。
──これはきっと、運命だったのだろう、と。
だから俺は、この恋を大切にしよう、と思った。俺をこの恋へと導いた運命が、この先どこへ俺を連れて行くのかはわからないけれど、俺は俺の気持ちと、シンタローさんのことを絶対に絶対に大切にしよう、と。
けれど、そう思ったとたん、俺はシンタローさんになにもできなくなった。恋が成就するまで、毎日なんやかやとつきまとっては口説いていたというのに、両思いになったら、あれもしよう、これもしよう、といろいろ思い描いていたというのに、それは実に滑稽な状況だった。
そのくせ、俺はキスに対するあこがれをいつまでも捨てきれなくて、両思いになる前以上に、悶々とそのことを考え続けていた。目を閉じる瞬間はいつがいいのか真剣に考えたり、唇はどれくらいの間合わせているものなのだろうと悩んだり、檸檬をかじっては、これからシンタローさんとするかもしれないキスを夢想したり、それよりもむしろ苺の方がふさわしいかもしれないと、毎日おやつに苺を出したりした。──それこそ馬鹿みたいに。
実際、そのころの俺は自分で思っていた以上におかしかったのだろう。思い返してみれば、パプワとチャッピーはあからさまに不審そうな目で俺を見ていたし、シンタローさんさえもが、時折俺のことを心配そうに窺っていた。
だから、なのだろう。両思いになって、少ししたころ、シンタローさんは俺に言った。
「……なあ、リキッド。……もしあのことを後悔しているんなら……なかったことにしても、いいんだぜ?」
それは、なにかの折に、なにげなく告げられた言葉だった。それこそ、食事の後片付けや掃除洗濯の合間の、世間話のついでみたいに。
俺は一瞬家事の手を止めて、呆然としてシンタローさんのことを見つめた。
「……どうして……どうして、そんなこと……」
「それは、お前が──」
言いかけて、シンタローさんは、自嘲気味に笑った。
「いや……お前のせいじゃない。俺のわがままなんだよ」
今のままだと、お前のこと信じられなくなりそうで、そんなことを考える自分も嫌で、この島での辛い思い出なんか欲しくなくて、だから、とシンタローさんは言う。
「あのときのことは……そうだな。都合のいい、綺麗な夢だったとでも思えば──」
「駄目です!!」
俺は叫んで、シンタローさんを乱暴に抱きしめた。普段なら、こんなふうにおとなしく腕の中におさまってくれる人じゃないのに、シンタローさんは俺にされるがままになっていて、そのことがひどくせつなかった。
「駄目です。……そんな嘘、ついちゃ駄目です。それに──」
俺のこの気持ちを、なかったことになんか、しないでください──
「シンタローさんに……シンタローさんに、そんなこと言われたら、俺は──」
言いながら、シンタローさんを傷つけた、と俺はそのことばかりを考えていた。
シンタローさんのことを大事にしたいと思っていた。でもどうしていいかわからなくて、逆にシンタローさんを傷つけてしまった。俺は、結局自分の気持ちが一番大事だったんじゃないだろうか。自分が傷つきたくなくて、自分のことしか考えてなかったから、結局こんなことになってしまったんじゃないだろうか──
「……ごめんなさい、シンタローさん」
不安にさせてしまって、大切にできなくて、ごめんなさい。
想いが通じたその先に、どうすればいいかわからなくなった、と泣きそうになりながら言うと、シンタローさんは、俺の背をゆっくりと撫でてくれた。
「……馬鹿だな、お前はよ」
まあ、俺も大概馬鹿だけどよ、とシンタローさんは苦笑する。
「そういうのは、難しく考えるもんじゃねえだろう。少なくともお前の場合はな。それで上手くいってたんだ。だからそのままでいろよ。俺は嫌なら、ちゃんとそう言うんだからな」
「……言う前に、殴られそうなんですけど」
「おお、わかってんなら、もう十分だ。馬鹿なお前には、一番手っ取り早い方法だろ?」
そう言って悪戯っぽく笑うシンタローさんの顔が、ひどく近くにあることに、ふいに俺は気づいた。
こんなに顔を近づけたことは、未だかつてなかった──両思いになったときはもちろん、口説いている最中でさえ。
シンタローさんも、そのことに気づいたみたいだった。シンタローさんの眼と俺の眼が合って、唐突に、辺りが一瞬、静寂に包まれたような感覚に陥った。それどころか、シンタローさん以外の全てが、俺の視界から消えた。
シンタローさんの顔が、少しずつ近づいてくる。──いや、近づいているのは、近づけているのは、むしろ俺の方なのかもしれない。それともその両方か。
目を閉じるのと唇が重なるのは、たぶん同時だったと思う。
シンタローさんとキスをする、という認識は、不思議と頭の中から抜け落ちていた。なんの気負いもなく、まるで本能に導かれるように、俺はシンタローさんと唇を重ねた。
時間にして、それは何秒もなかったと思う。だがそれは、永遠にひどく近いところにある一瞬のように感じられた。
シンタローさんとのキスは、その前のやりとりのせいでか、少し塩辛い涙の味がした。
そして、その他にもう一つ──
「……林檎の味がする……」
「あ?……ああ、さっきデザートに林檎食べたからな」
そのせいじゃねえの、とあっさり言うと、シンタローさんは頬に添えられていた俺の手を取って、その指先に口づけた。
「お前の手からも、林檎の匂いがするな」
指先にシンタローさんの吐息を感じて、おれは軽い眩暈を覚えた。その俺の惑乱を見越したみたいに、シンタローさんはもう一度俺に駄目押しのキスをする。林檎の残り香を追い求めるように、俺はシンタローさんの唇に吸いついた。
──きっと、これから先、林檎を食べるたび、眼にするたびに、俺はこのときのシンタローさんとのキスを思い出すことだろう。それはシンタローさんとの甘い呪縛の記憶の、記念すべき最初の一つとなった。
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(06.12.20.)
今思えば、自分でも馬鹿みたいだって赤面するしかないんだけど、俺はずっと、初キスってものにすごくあこがれていた。
あこがれと言えば、初恋もその範疇には入っていたのだけれど、馬鹿だから、もっと具体的なキスの方ばかりを夢見てたんだ。
ところが……その初キスを求めるべき俺の青春は、拉致された特戦部隊での無茶な生活にそのほとんどが費やされた。パプワ島で赤の番人として生活し始めてからは、それまでに比べてある程度の平穏こそ手に入ったものの、初キスなど──むしろ初恋すら、望むべくもなかった。島には、俺と主のパプワ以外に、人間など存在しなかったし、これからも存在するはずがなかったから。
そのはずだったのだが……かつて、旧パプワ島を壊滅寸前にまで追い込んだコタローが突然現れて以来、人を寄せ付けないはずのこの島には、様々な人間がやって来るようになってしまった。ガンマ団の刺客の方々然り、心戦組の面々然り、一度は手を切ったはずの特戦部隊の皆様方然り。
そうして──俺はシンタローさんに出会った。
感情ってもんは不思議なものだ、と俺はシンタローさんに会ったことで思い知った。自分のものであるはずなのに、ちっとも思い通りになりゃしない。シンタローさんのことだって、最初は本当に苦手だと思っていたんだ。出会いも出会いだったし、きっと相性だって悪かった。シンタローさんの方でも、決して俺を良くは思っていなかっただろう。間にパプワがいなければ、きっと俺たちは早々に別れて二度と顔を合わせない生活を送ったはずだ。──パプワがいなければ、俺たち二人は、お互い好き合うまで傍にい続けるなんてことは、決して。
その点では、俺はもしかしてパプワに感謝すべきなのかもしれない。俺の甘酸っぱい夢には絶望的なこの場所で、男で年上でしかもガンマ団総帥とはいえ、初恋の相手ができたのだから。
しかし、だからといって、その恋が実るかどうかは、また別問題だ。いくら絶望的な状況下にあっても、その険しい道則には変わりがなかった。むしろ、より険しさを増したと言ってもいい。普通の男女の間でさえ、単純に考えて恋の成功する確率は四分の一。実際はもっと様々な状況が絡み合って、ずっと低い確率になるのだろう。まして、絶海の孤島にいい歳した人間が二人だけ、という状況だけで恋が成立するなら、それこそ運命だとでも言うしかない。
俺は初めての恋に夢中で、それを成就させることに躍起になっていて、その現状のことなんてさっぱり考えもしなかったけれど、後でシンタローさんと両思いになるという、夢みたいな奇跡が起こったとき、ふとそのことに思い当たって、妙に厳粛な気持ちになったものだった。
──これはきっと、運命だったのだろう、と。
だから俺は、この恋を大切にしよう、と思った。俺をこの恋へと導いた運命が、この先どこへ俺を連れて行くのかはわからないけれど、俺は俺の気持ちと、シンタローさんのことを絶対に絶対に大切にしよう、と。
けれど、そう思ったとたん、俺はシンタローさんになにもできなくなった。恋が成就するまで、毎日なんやかやとつきまとっては口説いていたというのに、両思いになったら、あれもしよう、これもしよう、といろいろ思い描いていたというのに、それは実に滑稽な状況だった。
そのくせ、俺はキスに対するあこがれをいつまでも捨てきれなくて、両思いになる前以上に、悶々とそのことを考え続けていた。目を閉じる瞬間はいつがいいのか真剣に考えたり、唇はどれくらいの間合わせているものなのだろうと悩んだり、檸檬をかじっては、これからシンタローさんとするかもしれないキスを夢想したり、それよりもむしろ苺の方がふさわしいかもしれないと、毎日おやつに苺を出したりした。──それこそ馬鹿みたいに。
実際、そのころの俺は自分で思っていた以上におかしかったのだろう。思い返してみれば、パプワとチャッピーはあからさまに不審そうな目で俺を見ていたし、シンタローさんさえもが、時折俺のことを心配そうに窺っていた。
だから、なのだろう。両思いになって、少ししたころ、シンタローさんは俺に言った。
「……なあ、リキッド。……もしあのことを後悔しているんなら……なかったことにしても、いいんだぜ?」
それは、なにかの折に、なにげなく告げられた言葉だった。それこそ、食事の後片付けや掃除洗濯の合間の、世間話のついでみたいに。
俺は一瞬家事の手を止めて、呆然としてシンタローさんのことを見つめた。
「……どうして……どうして、そんなこと……」
「それは、お前が──」
言いかけて、シンタローさんは、自嘲気味に笑った。
「いや……お前のせいじゃない。俺のわがままなんだよ」
今のままだと、お前のこと信じられなくなりそうで、そんなことを考える自分も嫌で、この島での辛い思い出なんか欲しくなくて、だから、とシンタローさんは言う。
「あのときのことは……そうだな。都合のいい、綺麗な夢だったとでも思えば──」
「駄目です!!」
俺は叫んで、シンタローさんを乱暴に抱きしめた。普段なら、こんなふうにおとなしく腕の中におさまってくれる人じゃないのに、シンタローさんは俺にされるがままになっていて、そのことがひどくせつなかった。
「駄目です。……そんな嘘、ついちゃ駄目です。それに──」
俺のこの気持ちを、なかったことになんか、しないでください──
「シンタローさんに……シンタローさんに、そんなこと言われたら、俺は──」
言いながら、シンタローさんを傷つけた、と俺はそのことばかりを考えていた。
シンタローさんのことを大事にしたいと思っていた。でもどうしていいかわからなくて、逆にシンタローさんを傷つけてしまった。俺は、結局自分の気持ちが一番大事だったんじゃないだろうか。自分が傷つきたくなくて、自分のことしか考えてなかったから、結局こんなことになってしまったんじゃないだろうか──
「……ごめんなさい、シンタローさん」
不安にさせてしまって、大切にできなくて、ごめんなさい。
想いが通じたその先に、どうすればいいかわからなくなった、と泣きそうになりながら言うと、シンタローさんは、俺の背をゆっくりと撫でてくれた。
「……馬鹿だな、お前はよ」
まあ、俺も大概馬鹿だけどよ、とシンタローさんは苦笑する。
「そういうのは、難しく考えるもんじゃねえだろう。少なくともお前の場合はな。それで上手くいってたんだ。だからそのままでいろよ。俺は嫌なら、ちゃんとそう言うんだからな」
「……言う前に、殴られそうなんですけど」
「おお、わかってんなら、もう十分だ。馬鹿なお前には、一番手っ取り早い方法だろ?」
そう言って悪戯っぽく笑うシンタローさんの顔が、ひどく近くにあることに、ふいに俺は気づいた。
こんなに顔を近づけたことは、未だかつてなかった──両思いになったときはもちろん、口説いている最中でさえ。
シンタローさんも、そのことに気づいたみたいだった。シンタローさんの眼と俺の眼が合って、唐突に、辺りが一瞬、静寂に包まれたような感覚に陥った。それどころか、シンタローさん以外の全てが、俺の視界から消えた。
シンタローさんの顔が、少しずつ近づいてくる。──いや、近づいているのは、近づけているのは、むしろ俺の方なのかもしれない。それともその両方か。
目を閉じるのと唇が重なるのは、たぶん同時だったと思う。
シンタローさんとキスをする、という認識は、不思議と頭の中から抜け落ちていた。なんの気負いもなく、まるで本能に導かれるように、俺はシンタローさんと唇を重ねた。
時間にして、それは何秒もなかったと思う。だがそれは、永遠にひどく近いところにある一瞬のように感じられた。
シンタローさんとのキスは、その前のやりとりのせいでか、少し塩辛い涙の味がした。
そして、その他にもう一つ──
「……林檎の味がする……」
「あ?……ああ、さっきデザートに林檎食べたからな」
そのせいじゃねえの、とあっさり言うと、シンタローさんは頬に添えられていた俺の手を取って、その指先に口づけた。
「お前の手からも、林檎の匂いがするな」
指先にシンタローさんの吐息を感じて、おれは軽い眩暈を覚えた。その俺の惑乱を見越したみたいに、シンタローさんはもう一度俺に駄目押しのキスをする。林檎の残り香を追い求めるように、俺はシンタローさんの唇に吸いついた。
──きっと、これから先、林檎を食べるたび、眼にするたびに、俺はこのときのシンタローさんとのキスを思い出すことだろう。それはシンタローさんとの甘い呪縛の記憶の、記念すべき最初の一つとなった。
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(06.12.20.)
Auf die Hande kust die Achtung,
「──ごめんなさい、好きなんです」
言いながら、リキッドは俺の手に口づける。まるでそれが貴重なものででもあるかのように恭しく押し頂き、深く頭を垂れて、何度も。
リキッドの顔は今にも泣き出しそうに歪んでいた。その傍らでこの、いわゆる『愛の告白』に一方的に興奮してもいるらしく、赤くなったり青くなったりを繰り返した。
リキッドは何度も謝りながら、何度も「好き」と繰り返す。百面相と相俟って、それは微妙に滑稽な状況にも見えていた。謝るくらいなら最初から言うなよ、と俺は内心呆れたが、元々が迂闊で考えなしなこの馬鹿のことだ。なにかの拍子に、うっかり普段の物思いが口から出てしまったのだろう。
そのきっかけがなんだったのか、つい先程のことなのに、この突拍子もない状況のせいか、俺にはよく思い出すことができなかった。そもそもが、俺にとっては、気にもならないほど、ごく些細なことだったのかもしれない。でも、リキッドにとってはそうではなかったのだろうなにか。──それとも、リキッドにとっても、やはりそれは些細な、そして思いがけないきっかけだったのだろうか。
一度口にしてしまった後、リキッドはまるで箍が外れたかのように「好き」を繰り返した。呆気に取られた俺がなにも言えないでいるうちに、いつの間にか俺の左手を取って、口づけまで始めていた。その必死さに思わず圧倒されて、俺はいつもの拳も、《眼魔砲》も、怒鳴り声すら出せずにいた。
──正直な話、リキッドの気持ちには、とっくの昔に気がついていたんだ。ひょっとしたら、こいつが自覚するよりも、先に。
元々、俺は周囲から向けられる感情には敏感だった。ただ、それをまともに受け止めることを滅多にしないだけで。むしろ、それらの感情を、意図して避けてきたと言ってもいい。なぜなら、俺に対する感情は、好意や敵意、尊敬や憧憬や嫉妬、侮蔑、愛情等々、幅広く豊富で奥深かったが、そのくせ、そのほとんどが、《ガンマ団総帥の息子》あるいは《秘石眼を持たない一族の出来損ない》という肩書きに向けられたものだったからだ(また、後に知ったことによると、その中の一部は、俺によく似たある死者へと向けられたものでもあったらしい──もう、文句の言いようもないほど昔の話だが)。
幼いころは、父親の愛情がそれらの感情から俺を遠ざけていた。士官学校入学以降は、周囲の感情の雑多さ、煩雑さに、おだてられ、貶められ、反発し、やがて鈍感に振舞うことを覚えるようになった。当然のようにガンマ団に入ってからは、意識してそれらの感情を切り捨ててきた。──最終的に、ガンマ団や青の一族全てを捨てて逃げ出したように。
そうして一時的に逃げ込んだ、かりそめの居場所だったはずのこの島は、しかし、俺が今まで見たことも経験したこともない世界でもって、俺の全てを覆してしまった。
パプワ島とその住人は、それまで重い肩書きやいわれない偏見──それは俺自身の思い込みも含まれていた──で雁字搦めにされ、閉じこめられていた『シンタロー』を、もう一度呼び戻してくれたのだ。
パプワ島にはなんの枷もない。俺はただ、『シンタロー』でありさえすればよかった。パプワとチャッピーの傍にいてやれば、それで十分だった。向けられる人ならぬものの感情もまた、それが良いものであれ悪いものであれ、どれも裏表なく真っ直ぐで、俺はいつも安心していられた。そして、自分の感情を閉じこめずにいられるということが、どれほど心地よいものかということも。
俺がパプワ島で得たものは、島を失ってもパプワと離れても、ずっと心の中に残っていた。だからこそ俺は、パプワとパプワ島のないあちらの世界でも、生きていくことができたのだ。
だがこうして再びパプワ島に戻ることができた今、やはりここは違うな、と思わずにはいられなかった。
リキッドの気持ちに気づいたのも、パプワ島だったからこそ、なのだろう。俺が俺でいられる場所、人の感情に、なんの裏も偽りもなく信じられる場所だからこそ。
最初は憧れや羨望のようなものだろうと思っていた。あいつは番人としても家政夫としても半人前以下だったから、パプワの親友で、なんでもできる俺を羨んでいるのだろう、と。そう思うことは気分が良かったし、なにより自分の手下がいるという状況が気に入っていた。そしてリキッドの努力に主に鉄拳で報いる俺に対して、まさかあんな感情が生まれるなどとは、思いもしなかったのだ。
リキッドの感情が恋に変わっていることに気づいたのはいつだっただろう、とぼんやり思う。それとも、俺が勘違いしていただけで、それは最初から恋以外のなにものでもなかったのだろうか。
間抜けなことに、リキッドはごく最近まで、自分自身のその感情に気づかずにいた。それを知らず、俺が勝手に呆れたり動揺したり困惑したり勘繰ったりしている間に──結局は。
リキッドが自分の気持ちを自覚したことは、すぐにわかった。なぜならそのころには、なんだかんだで俺自身も、また──
パプワ島には他にまともそうな人間がいないから、と自嘲してもいい。相手の健気さに絆されてしまったのだと言い訳するのもいい。だが自分の中に現にあるこの感情を、目の前のリキッドのそれを、否定してなかったことにしてしまうことは、もう決してできはしない。
──パプワ島は人を変える。それがすべからく『いい方向』への変化であるがゆえに、変えられた当人の自覚など微塵も存在しないのだ。
これもまた変化の一部なのだろうか、とリキッドの手の温もりを感じながら思う。心地よいと感じるこの温もりを、遠くない未来に必ず手放さなければならないことを、すでに俺は知っている。──かつて、かけがえのない存在だったパプワに対して、そうしなければならなかったように。
こいつはそれをわかっているのだろうか、と訝しみ、だがすぐさまそれは愚問だなと気づく。──わかっているのだろう、たぶん。リキッドはそんなに愚かではない。だからこそこいつはこのように悔い、謝罪し、泣いているのだ。そして、ほどなく訪れるのだろうつらい結末を、うかつにも招き寄せたことへの懺悔を──
だが、それがいったいなんになるのだろう、と、俺はもはや意味のなさぬ言葉を繰り返すリキッドを見ながら、ひどく冷えた頭で思う。すべてはもう、動き出してしまっていたのだ。リキッドが口をすべらせてしまったのも、俺がその手を拒まないでいることも、全ては一つの流れのうちにあるように思える。
この気持ちの、これから先の関係の結末など、確かに目に見えて明らかなことなのかもしれない。けれど、それが俺たちの心に、どのような影響を及ぼすのかなどということは、それこそやってみなくてはわからないことだ。
だから、告白したことを後悔する必要などないのだ、と俺は思う。もしあの瞬間に告白しなかったのだとしたら、そのことがこの先、別れた後に、俺たちの中に暗い影を落とす、なんてことも、ひょっとしたらあるのかもしれないのだから。
「リキッド──リキッド!」
意を決した俺は、半ば自分の世界に入りこんでしまっているらしい馬鹿を、少しきつい口調で呼び戻した。はじかれるように頭を上げたリキッドの表情は叱られたときの犬にも似て、それだけで俺は済崩し的に全てを許してしまいそうな気持ちになる。
リキッドの眼はいつの間にか涙で濡れていた。俺の手の上にもいくつか、生温い濡れた感触がある。まさか涎や鼻水じゃないだろうな、と思いながら、俺はなるべく冷静に、気をしっかり持ってリキッドの眼を見つめ返した。
「……お前の気持ちはよくわかった。わかったから……だから、最初っからちゃんともう一度やり直せ」
「へっ!?──ええ……え?」
唖然としたリキッドの顔は、なかなか見物だった。
「え……し、シンタローさん、や、やり直すって……え、な、なにを……?」
顔に血を上らせ、どもりながら、やたら人の手ばかり握り締めてくるリキッドに、俺は軽くため息をついた。
「……じゃあな、まずは、手を放せ」
リキッドはそのときになって、ようやく俺の手を握りっ放しだったことに気づいたらしい。赤い顔をさらに赤くして、慌てて手を放した。
「次に、顔を拭け」
リキッドが上着の裾でそそくさと顔を拭いている隙に、俺もさりげなく濡れた手を服にこすりつける。
顔を拭き終えたリキッドが、俺の顔色を窺うように見た。俺はことさら普段どおりに、横柄に傲慢に見える態度を装った。
「終わったか?」
「お、終わりました……」
「なら、さっさと続きをしろ」
「……」
リキッドは押し黙って、物問いたげな眼で俺のことを見ていた。
……きっと、その単純な頭の中では、つまらないことをくどくどと考えているのだろう。どうして拳が飛んでこないのだろうかとか、さっきのいろいろな失態は許してもらえたのだろうかとか、やり直すってなにをどうすればいいのかとか、そもそも告白の返事を期待してもいいものだろうかとか。
こいつは本当に馬鹿だよな、と俺は忌々しいような気持ちで思う。良く言えば気が優しいということなのだろうが、こういう場合、それは相手を苛立たせる要素にしかならないものだろう。この状況での『遠慮』は、相手に対して『お前には恋愛対象としての価値がない』と言っているのと同じことだからだ。
「難しく考えんな。さっきと同じことすりゃいいんだよ」
「……お、同じ、って」
リキッドは落ち着きなく視線を左右に動かした後、つい先程の記憶を探るように考えこんだ。その顔が再び赤く染まっていくのを、俺はどこか投げやりな気持ちで見守る。そしていい加減、普段通り一発殴っておいた方がこいつのためなのかもしれないと俺が思い始めたころ、へたれなりに決心を固めたらしいリキッドが、ようやく顔を上げた。
「しっ、シンタローさん!」
真っ赤な顔でどもりながら、それでも場の勢いでか気合いでか、リキッドは真正面から俺を見つめてくる。そしていつもの優柔不断さが嘘かと思うほど素早く、俺の左手を取った。
「お、俺、おれはっ、あ、あなたのことが──」
「ふざけてんじゃねえぞこの馬鹿たれが」
おそらく一世一代の大告白と当人は思っているのだろうそれをあっさり無視して、俺はその面を思いっきり殴った。無残で間抜けな悲鳴を残して、無防備だったリキッドは軽く横にふっ飛ぶ。
地面に叩きつけられて、しばらくは立ち直れないかと思いきや、なかなかどうして、この馬鹿は意外なところでしぶとかった。
「──……ひ、ひどいやシンタローさん……お、俺の純情を弄んだんですね!?」
悲劇の主人公ぶって横座りの姿勢で頬を押さえ、さめざめと泣くリキッドに、やはり最初から普段通りにやるのだったと俺は少し後悔する。そしてそれをふまえ、俺は一人で奈落の底へと落ち込んでいく鬱陶しい馬鹿の肩を、苛立ちをこめて蹴りつけた。
「俺は『ちゃんとやり直せ』って言っただろうが。聞いてたのか、馬鹿ヤンキー」
その耳は飾りか?と皮肉ると、リキッドは「だって」とか「でも」とか、見苦しい言い訳をし始めようとする。
「言い訳すんな。男らしくねえ」
「で、でも、俺は、ちゃんと──」
潔くないヤンキーの口を塞ぐべく、俺は今度は顔面を蹴った。
「……な、なにすんですか、シンタローさん!」
当人にとっては、理不尽としか思えぬのだろう仕打ちに、さすがのリキッドも真顔になる。それは涙と鼻血がなければ、うっかり惚れても良さそうだと思えるような面構えだった。
「もうッ! いったいなんなんですか! 嫌なら嫌なんだって、はっきり言っちゃってくださいよ!! こんなからかって馬鹿にするみたいなこと、いくら俺が恋の奴隷であんたの下僕で、シンタローさんが暴君だからって、あんまりっす! わかってたんですよ! どうせ最初っから見込みのない恋だってことぐらい、とっくに俺にはわかってたんだから! 本当なら一生言うつもりだってなかったんだ!……それなのに……それなのに……!!」
だが、その素敵な憤りの激しさも一過性のものだったらしく、リキッドはうつむいてまた涙をこぼす。
「し、シンタローさんが……お、俺に希望を持たせるようなこと言うから……言うから……」
だからよけいに辛くなった、とこの世界の中心で愛を叫ぶ馬鹿は言う。俺はため息をついた。
「……本っ当に馬鹿だよな、お前はよ」
「……知ってますよ。でもどうにもならないんですもん。しょうがないじゃないですか、馬鹿なんだから」
だからシンタローさんのことも好きになっちゃうんだ、と開き直ったらしいリキッドは自嘲気味に笑う。
「……お前、それは俺のことも馬鹿にしてんだって、わかって言ってんのか?」
俺が睨むと、リキッドは押し黙った。俺はまたため息をついて、リキッドの前にしゃがみこむ。
「お前がいくら馬鹿で間抜けだからって、俺がこんな繊細な問題でからかうと思うのかよ。ふざけて言ってるんならともかくよ」
「……」
「俺は『最初からちゃんとやり直せ』って言っただろうが。どこの世界に、左手を握って愛の告白をする馬鹿がいるよ?」
少なくとも西洋ではいないはずだ。左には『不吉』だとか『背徳』、『裏切り』、『反逆』等々の、負の印象がこびりついてるからな。そしてリキッドはアメリカ人だ。この常識を知らないとは言わせない。
俺の言葉に、リキッドは唖然としたようだった。
「……だって……利き手を取ったら、不味いかなって、思って……」
「阿呆か。決闘するわけじゃあるまいし。状況を考えろっての」
俺は苛立ちまぎれに、自分の前髪を乱暴にかき回した。本当なら目の前の阿呆面を思いっきり殴ってやりたかったのだが、それをするとまたリキッドがいらんことを考えだしそうだったので、なんとか自重したのだ。
「……じゃあ……シンタローさん」
真摯な声に、不意に顔を上げると、そこには、血と涙にまみれた間抜け面にしては、これ以上ないくらい真剣な顔をしたリキッドがいた。俺がその表情にらしくもなく気圧されていると、その隙にリキッドは今度はちゃんと右手を握った。
「シンタローさん……俺は、あなたのことが、好き、です……」
言いながら、少し困ったみたいに笑って、リキッドは俺の手に恭しく口づける。
「好きなんです……本当に。自分でも、びっくりするくらい」
「……」
「なんか、こんな変な状況での告白になっちゃったけど……俺の気持ち、聞いてくれて、ありがとうございました。……せっかく好きになったのに、シンタローさんのこと、特別に想うようになったのに、状況が悪いとか、未来がないとか、そういう理由を受け入れて否定したり、あきらめてなかったことにしたりするのは、やっぱりすごく悲しいし、寂しかったから」
俺の気持ちを知ってくれて、ありがとうございます、と、リキッドはまた俺の手に口づける。
……言いたいことならいくらでもあった。俺だって自分の気持ちには驚いているんだとか、こいつも馬鹿なりにちゃんと大事なことはわきまえてるんだなとか、そういうこいつを好きになったのは、まんざらでもないのかもしれないとか、今の告白は、正直、かなり効いたよなとか──
だが、それらの言葉は、一つも声にならなかった。俺はただ、つかまえられた右手でリキッドの手を握り返して、軽く引くような仕草をした。
「……シンタローさん……?」
リキッドが不思議そうに俺を見る。
「……違う」
「え?」
「……違う。そこじゃない」
言いながら手を引く俺に、リキッドは戸惑ったような顔をした。
「……シンタローさん……」
「……最後の最後で間違えるな。馬鹿」
呟いて、俺は顔を背けた。頬が火照っているのが嫌でもわかる。……自分の甘ったるい思考回路に、我ながら呆れ果ててしまうほどだ。
……俺にここまで言わせておいて、十数えてもまだ、リキッドの馬鹿野郎が理解しなかったなら、絶対に殴る──て言うか、《眼魔砲》だ。
手への口づけは尊敬──その有名な言葉も、知らないとは言わせない。俺への『好き』が尊敬の『好き』だなんて、絶対に言わせない。
「……シンタローさん」
火照った頬に、今は冷たいとさえ言えるリキッドの手が触れる。
「……シンタローさん、好きです──」
始めて触れたリキッドの唇は、震えていて泥臭くて、生臭い血の味がした。
「……すいません、シンタローさん」
軽く触れ合わせただけの口づけの後、リキッドはまた項垂れて、力なく言う。
「……なんだよ」
「……だって、血の味のするキスなんて、最低……」
初キスに対して、いくらか夢を見ていたらしいリキッドは、あからさまにしょぼくれていた。その原因を作ってしまった俺が、珍しく罪悪感なんてものに駆られるくらいには。
「シンタローさん、後でまた、キスし直してもいいですか?」
口の傷が治ったら、と真面目な顔で言うリキッドを、俺は鼻で笑う。
「……お前が無傷でいる日なんかあるのかよ」
いっつもなんだかんだで血を流しているくせに。パプワとかチャッピーとかウマ子とか……俺とかのせいで。
「努力します。……だからシンタローさんも協力してくださいよ」
なるべく《眼魔砲》はやめて、殴るにしても顔じゃないとこにしてください。
どこまでも『ちゃんとしたキス』を求めて止まないヤンキーに、俺は呆れて──同時に、なんとも言いようのない気持ちで一杯になった。
その感情のままに、俺は未だ繋がれたままの右手を引く。あっさり倒れこんできたリキッドに、今度は自分から口づけた。
「……別に俺は、気になんねえけどな、血の味くらい」
お前の味には違いないから、とからかい半分、これ見よがしに唇の端を舐めて笑えば、リキッドの顔が面白いくらいに赤く染まる。
そして俺が殴ってもいないのに鼻血を出して倒れた家政夫は、今度こそなかなか立ち直りそうになく、ましてやいつになったら望み通りの『ちゃんとしたキス』ができるのか、見当もつかなかった。
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(06.11.26.)
「──ごめんなさい、好きなんです」
言いながら、リキッドは俺の手に口づける。まるでそれが貴重なものででもあるかのように恭しく押し頂き、深く頭を垂れて、何度も。
リキッドの顔は今にも泣き出しそうに歪んでいた。その傍らでこの、いわゆる『愛の告白』に一方的に興奮してもいるらしく、赤くなったり青くなったりを繰り返した。
リキッドは何度も謝りながら、何度も「好き」と繰り返す。百面相と相俟って、それは微妙に滑稽な状況にも見えていた。謝るくらいなら最初から言うなよ、と俺は内心呆れたが、元々が迂闊で考えなしなこの馬鹿のことだ。なにかの拍子に、うっかり普段の物思いが口から出てしまったのだろう。
そのきっかけがなんだったのか、つい先程のことなのに、この突拍子もない状況のせいか、俺にはよく思い出すことができなかった。そもそもが、俺にとっては、気にもならないほど、ごく些細なことだったのかもしれない。でも、リキッドにとってはそうではなかったのだろうなにか。──それとも、リキッドにとっても、やはりそれは些細な、そして思いがけないきっかけだったのだろうか。
一度口にしてしまった後、リキッドはまるで箍が外れたかのように「好き」を繰り返した。呆気に取られた俺がなにも言えないでいるうちに、いつの間にか俺の左手を取って、口づけまで始めていた。その必死さに思わず圧倒されて、俺はいつもの拳も、《眼魔砲》も、怒鳴り声すら出せずにいた。
──正直な話、リキッドの気持ちには、とっくの昔に気がついていたんだ。ひょっとしたら、こいつが自覚するよりも、先に。
元々、俺は周囲から向けられる感情には敏感だった。ただ、それをまともに受け止めることを滅多にしないだけで。むしろ、それらの感情を、意図して避けてきたと言ってもいい。なぜなら、俺に対する感情は、好意や敵意、尊敬や憧憬や嫉妬、侮蔑、愛情等々、幅広く豊富で奥深かったが、そのくせ、そのほとんどが、《ガンマ団総帥の息子》あるいは《秘石眼を持たない一族の出来損ない》という肩書きに向けられたものだったからだ(また、後に知ったことによると、その中の一部は、俺によく似たある死者へと向けられたものでもあったらしい──もう、文句の言いようもないほど昔の話だが)。
幼いころは、父親の愛情がそれらの感情から俺を遠ざけていた。士官学校入学以降は、周囲の感情の雑多さ、煩雑さに、おだてられ、貶められ、反発し、やがて鈍感に振舞うことを覚えるようになった。当然のようにガンマ団に入ってからは、意識してそれらの感情を切り捨ててきた。──最終的に、ガンマ団や青の一族全てを捨てて逃げ出したように。
そうして一時的に逃げ込んだ、かりそめの居場所だったはずのこの島は、しかし、俺が今まで見たことも経験したこともない世界でもって、俺の全てを覆してしまった。
パプワ島とその住人は、それまで重い肩書きやいわれない偏見──それは俺自身の思い込みも含まれていた──で雁字搦めにされ、閉じこめられていた『シンタロー』を、もう一度呼び戻してくれたのだ。
パプワ島にはなんの枷もない。俺はただ、『シンタロー』でありさえすればよかった。パプワとチャッピーの傍にいてやれば、それで十分だった。向けられる人ならぬものの感情もまた、それが良いものであれ悪いものであれ、どれも裏表なく真っ直ぐで、俺はいつも安心していられた。そして、自分の感情を閉じこめずにいられるということが、どれほど心地よいものかということも。
俺がパプワ島で得たものは、島を失ってもパプワと離れても、ずっと心の中に残っていた。だからこそ俺は、パプワとパプワ島のないあちらの世界でも、生きていくことができたのだ。
だがこうして再びパプワ島に戻ることができた今、やはりここは違うな、と思わずにはいられなかった。
リキッドの気持ちに気づいたのも、パプワ島だったからこそ、なのだろう。俺が俺でいられる場所、人の感情に、なんの裏も偽りもなく信じられる場所だからこそ。
最初は憧れや羨望のようなものだろうと思っていた。あいつは番人としても家政夫としても半人前以下だったから、パプワの親友で、なんでもできる俺を羨んでいるのだろう、と。そう思うことは気分が良かったし、なにより自分の手下がいるという状況が気に入っていた。そしてリキッドの努力に主に鉄拳で報いる俺に対して、まさかあんな感情が生まれるなどとは、思いもしなかったのだ。
リキッドの感情が恋に変わっていることに気づいたのはいつだっただろう、とぼんやり思う。それとも、俺が勘違いしていただけで、それは最初から恋以外のなにものでもなかったのだろうか。
間抜けなことに、リキッドはごく最近まで、自分自身のその感情に気づかずにいた。それを知らず、俺が勝手に呆れたり動揺したり困惑したり勘繰ったりしている間に──結局は。
リキッドが自分の気持ちを自覚したことは、すぐにわかった。なぜならそのころには、なんだかんだで俺自身も、また──
パプワ島には他にまともそうな人間がいないから、と自嘲してもいい。相手の健気さに絆されてしまったのだと言い訳するのもいい。だが自分の中に現にあるこの感情を、目の前のリキッドのそれを、否定してなかったことにしてしまうことは、もう決してできはしない。
──パプワ島は人を変える。それがすべからく『いい方向』への変化であるがゆえに、変えられた当人の自覚など微塵も存在しないのだ。
これもまた変化の一部なのだろうか、とリキッドの手の温もりを感じながら思う。心地よいと感じるこの温もりを、遠くない未来に必ず手放さなければならないことを、すでに俺は知っている。──かつて、かけがえのない存在だったパプワに対して、そうしなければならなかったように。
こいつはそれをわかっているのだろうか、と訝しみ、だがすぐさまそれは愚問だなと気づく。──わかっているのだろう、たぶん。リキッドはそんなに愚かではない。だからこそこいつはこのように悔い、謝罪し、泣いているのだ。そして、ほどなく訪れるのだろうつらい結末を、うかつにも招き寄せたことへの懺悔を──
だが、それがいったいなんになるのだろう、と、俺はもはや意味のなさぬ言葉を繰り返すリキッドを見ながら、ひどく冷えた頭で思う。すべてはもう、動き出してしまっていたのだ。リキッドが口をすべらせてしまったのも、俺がその手を拒まないでいることも、全ては一つの流れのうちにあるように思える。
この気持ちの、これから先の関係の結末など、確かに目に見えて明らかなことなのかもしれない。けれど、それが俺たちの心に、どのような影響を及ぼすのかなどということは、それこそやってみなくてはわからないことだ。
だから、告白したことを後悔する必要などないのだ、と俺は思う。もしあの瞬間に告白しなかったのだとしたら、そのことがこの先、別れた後に、俺たちの中に暗い影を落とす、なんてことも、ひょっとしたらあるのかもしれないのだから。
「リキッド──リキッド!」
意を決した俺は、半ば自分の世界に入りこんでしまっているらしい馬鹿を、少しきつい口調で呼び戻した。はじかれるように頭を上げたリキッドの表情は叱られたときの犬にも似て、それだけで俺は済崩し的に全てを許してしまいそうな気持ちになる。
リキッドの眼はいつの間にか涙で濡れていた。俺の手の上にもいくつか、生温い濡れた感触がある。まさか涎や鼻水じゃないだろうな、と思いながら、俺はなるべく冷静に、気をしっかり持ってリキッドの眼を見つめ返した。
「……お前の気持ちはよくわかった。わかったから……だから、最初っからちゃんともう一度やり直せ」
「へっ!?──ええ……え?」
唖然としたリキッドの顔は、なかなか見物だった。
「え……し、シンタローさん、や、やり直すって……え、な、なにを……?」
顔に血を上らせ、どもりながら、やたら人の手ばかり握り締めてくるリキッドに、俺は軽くため息をついた。
「……じゃあな、まずは、手を放せ」
リキッドはそのときになって、ようやく俺の手を握りっ放しだったことに気づいたらしい。赤い顔をさらに赤くして、慌てて手を放した。
「次に、顔を拭け」
リキッドが上着の裾でそそくさと顔を拭いている隙に、俺もさりげなく濡れた手を服にこすりつける。
顔を拭き終えたリキッドが、俺の顔色を窺うように見た。俺はことさら普段どおりに、横柄に傲慢に見える態度を装った。
「終わったか?」
「お、終わりました……」
「なら、さっさと続きをしろ」
「……」
リキッドは押し黙って、物問いたげな眼で俺のことを見ていた。
……きっと、その単純な頭の中では、つまらないことをくどくどと考えているのだろう。どうして拳が飛んでこないのだろうかとか、さっきのいろいろな失態は許してもらえたのだろうかとか、やり直すってなにをどうすればいいのかとか、そもそも告白の返事を期待してもいいものだろうかとか。
こいつは本当に馬鹿だよな、と俺は忌々しいような気持ちで思う。良く言えば気が優しいということなのだろうが、こういう場合、それは相手を苛立たせる要素にしかならないものだろう。この状況での『遠慮』は、相手に対して『お前には恋愛対象としての価値がない』と言っているのと同じことだからだ。
「難しく考えんな。さっきと同じことすりゃいいんだよ」
「……お、同じ、って」
リキッドは落ち着きなく視線を左右に動かした後、つい先程の記憶を探るように考えこんだ。その顔が再び赤く染まっていくのを、俺はどこか投げやりな気持ちで見守る。そしていい加減、普段通り一発殴っておいた方がこいつのためなのかもしれないと俺が思い始めたころ、へたれなりに決心を固めたらしいリキッドが、ようやく顔を上げた。
「しっ、シンタローさん!」
真っ赤な顔でどもりながら、それでも場の勢いでか気合いでか、リキッドは真正面から俺を見つめてくる。そしていつもの優柔不断さが嘘かと思うほど素早く、俺の左手を取った。
「お、俺、おれはっ、あ、あなたのことが──」
「ふざけてんじゃねえぞこの馬鹿たれが」
おそらく一世一代の大告白と当人は思っているのだろうそれをあっさり無視して、俺はその面を思いっきり殴った。無残で間抜けな悲鳴を残して、無防備だったリキッドは軽く横にふっ飛ぶ。
地面に叩きつけられて、しばらくは立ち直れないかと思いきや、なかなかどうして、この馬鹿は意外なところでしぶとかった。
「──……ひ、ひどいやシンタローさん……お、俺の純情を弄んだんですね!?」
悲劇の主人公ぶって横座りの姿勢で頬を押さえ、さめざめと泣くリキッドに、やはり最初から普段通りにやるのだったと俺は少し後悔する。そしてそれをふまえ、俺は一人で奈落の底へと落ち込んでいく鬱陶しい馬鹿の肩を、苛立ちをこめて蹴りつけた。
「俺は『ちゃんとやり直せ』って言っただろうが。聞いてたのか、馬鹿ヤンキー」
その耳は飾りか?と皮肉ると、リキッドは「だって」とか「でも」とか、見苦しい言い訳をし始めようとする。
「言い訳すんな。男らしくねえ」
「で、でも、俺は、ちゃんと──」
潔くないヤンキーの口を塞ぐべく、俺は今度は顔面を蹴った。
「……な、なにすんですか、シンタローさん!」
当人にとっては、理不尽としか思えぬのだろう仕打ちに、さすがのリキッドも真顔になる。それは涙と鼻血がなければ、うっかり惚れても良さそうだと思えるような面構えだった。
「もうッ! いったいなんなんですか! 嫌なら嫌なんだって、はっきり言っちゃってくださいよ!! こんなからかって馬鹿にするみたいなこと、いくら俺が恋の奴隷であんたの下僕で、シンタローさんが暴君だからって、あんまりっす! わかってたんですよ! どうせ最初っから見込みのない恋だってことぐらい、とっくに俺にはわかってたんだから! 本当なら一生言うつもりだってなかったんだ!……それなのに……それなのに……!!」
だが、その素敵な憤りの激しさも一過性のものだったらしく、リキッドはうつむいてまた涙をこぼす。
「し、シンタローさんが……お、俺に希望を持たせるようなこと言うから……言うから……」
だからよけいに辛くなった、とこの世界の中心で愛を叫ぶ馬鹿は言う。俺はため息をついた。
「……本っ当に馬鹿だよな、お前はよ」
「……知ってますよ。でもどうにもならないんですもん。しょうがないじゃないですか、馬鹿なんだから」
だからシンタローさんのことも好きになっちゃうんだ、と開き直ったらしいリキッドは自嘲気味に笑う。
「……お前、それは俺のことも馬鹿にしてんだって、わかって言ってんのか?」
俺が睨むと、リキッドは押し黙った。俺はまたため息をついて、リキッドの前にしゃがみこむ。
「お前がいくら馬鹿で間抜けだからって、俺がこんな繊細な問題でからかうと思うのかよ。ふざけて言ってるんならともかくよ」
「……」
「俺は『最初からちゃんとやり直せ』って言っただろうが。どこの世界に、左手を握って愛の告白をする馬鹿がいるよ?」
少なくとも西洋ではいないはずだ。左には『不吉』だとか『背徳』、『裏切り』、『反逆』等々の、負の印象がこびりついてるからな。そしてリキッドはアメリカ人だ。この常識を知らないとは言わせない。
俺の言葉に、リキッドは唖然としたようだった。
「……だって……利き手を取ったら、不味いかなって、思って……」
「阿呆か。決闘するわけじゃあるまいし。状況を考えろっての」
俺は苛立ちまぎれに、自分の前髪を乱暴にかき回した。本当なら目の前の阿呆面を思いっきり殴ってやりたかったのだが、それをするとまたリキッドがいらんことを考えだしそうだったので、なんとか自重したのだ。
「……じゃあ……シンタローさん」
真摯な声に、不意に顔を上げると、そこには、血と涙にまみれた間抜け面にしては、これ以上ないくらい真剣な顔をしたリキッドがいた。俺がその表情にらしくもなく気圧されていると、その隙にリキッドは今度はちゃんと右手を握った。
「シンタローさん……俺は、あなたのことが、好き、です……」
言いながら、少し困ったみたいに笑って、リキッドは俺の手に恭しく口づける。
「好きなんです……本当に。自分でも、びっくりするくらい」
「……」
「なんか、こんな変な状況での告白になっちゃったけど……俺の気持ち、聞いてくれて、ありがとうございました。……せっかく好きになったのに、シンタローさんのこと、特別に想うようになったのに、状況が悪いとか、未来がないとか、そういう理由を受け入れて否定したり、あきらめてなかったことにしたりするのは、やっぱりすごく悲しいし、寂しかったから」
俺の気持ちを知ってくれて、ありがとうございます、と、リキッドはまた俺の手に口づける。
……言いたいことならいくらでもあった。俺だって自分の気持ちには驚いているんだとか、こいつも馬鹿なりにちゃんと大事なことはわきまえてるんだなとか、そういうこいつを好きになったのは、まんざらでもないのかもしれないとか、今の告白は、正直、かなり効いたよなとか──
だが、それらの言葉は、一つも声にならなかった。俺はただ、つかまえられた右手でリキッドの手を握り返して、軽く引くような仕草をした。
「……シンタローさん……?」
リキッドが不思議そうに俺を見る。
「……違う」
「え?」
「……違う。そこじゃない」
言いながら手を引く俺に、リキッドは戸惑ったような顔をした。
「……シンタローさん……」
「……最後の最後で間違えるな。馬鹿」
呟いて、俺は顔を背けた。頬が火照っているのが嫌でもわかる。……自分の甘ったるい思考回路に、我ながら呆れ果ててしまうほどだ。
……俺にここまで言わせておいて、十数えてもまだ、リキッドの馬鹿野郎が理解しなかったなら、絶対に殴る──て言うか、《眼魔砲》だ。
手への口づけは尊敬──その有名な言葉も、知らないとは言わせない。俺への『好き』が尊敬の『好き』だなんて、絶対に言わせない。
「……シンタローさん」
火照った頬に、今は冷たいとさえ言えるリキッドの手が触れる。
「……シンタローさん、好きです──」
始めて触れたリキッドの唇は、震えていて泥臭くて、生臭い血の味がした。
「……すいません、シンタローさん」
軽く触れ合わせただけの口づけの後、リキッドはまた項垂れて、力なく言う。
「……なんだよ」
「……だって、血の味のするキスなんて、最低……」
初キスに対して、いくらか夢を見ていたらしいリキッドは、あからさまにしょぼくれていた。その原因を作ってしまった俺が、珍しく罪悪感なんてものに駆られるくらいには。
「シンタローさん、後でまた、キスし直してもいいですか?」
口の傷が治ったら、と真面目な顔で言うリキッドを、俺は鼻で笑う。
「……お前が無傷でいる日なんかあるのかよ」
いっつもなんだかんだで血を流しているくせに。パプワとかチャッピーとかウマ子とか……俺とかのせいで。
「努力します。……だからシンタローさんも協力してくださいよ」
なるべく《眼魔砲》はやめて、殴るにしても顔じゃないとこにしてください。
どこまでも『ちゃんとしたキス』を求めて止まないヤンキーに、俺は呆れて──同時に、なんとも言いようのない気持ちで一杯になった。
その感情のままに、俺は未だ繋がれたままの右手を引く。あっさり倒れこんできたリキッドに、今度は自分から口づけた。
「……別に俺は、気になんねえけどな、血の味くらい」
お前の味には違いないから、とからかい半分、これ見よがしに唇の端を舐めて笑えば、リキッドの顔が面白いくらいに赤く染まる。
そして俺が殴ってもいないのに鼻血を出して倒れた家政夫は、今度こそなかなか立ち直りそうになく、ましてやいつになったら望み通りの『ちゃんとしたキス』ができるのか、見当もつかなかった。
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(06.11.26.)