そぞろなアフタヌーン
海へ行こう、と誘ってくれたのはシンタローだった。
それなのに従兄弟は俺と一緒にいてくれない。他のヤツらとばかり楽しんでいる。
*
ジムのプールで泳ぐのとは違って、海辺でゆっくり過ごすのはなかなか気分がよかった。
暑い日差しとぬるい潮風とはいただけなかったが、太陽の下でシンタローの眩しい笑顔を堪能できるのはとてもいい。
だが、その笑顔は残念なことに独り占めできなかった。
幹部を慰安するという目的でガンマ団所有の別荘地へ来たので、一般市民はいないものの見知った団員はいる。
ミヤギやトットリ、コージお情けで呼ばれたアラシヤマをはじめ、ここにはたくさんの人間がいた。
(……どいつもこいつもいい気なもんだ。帰還したら仕事を押し付けてやる)
パラソルの下で海辺を眺めれば、水飛沫を上げてシンタローと興じるヤツらの姿が見える。
もともと「ビーチバレーしようぜ!」とシンタローが言い出したことだ。
二人でゆっくりと肌を焼きつつ日光浴でも楽しもうと思ったのに、すっかり当てが外れた。
「おまえもやるか、キンタロー?」とシンタローはビーチから少し離れた露店で購入したボールを抱えながら、笑顔で誘ってくれた。
誘ってくれたのは嬉しかった。だが、俺よりも先に誘ったのだろう、従兄弟の周りを取り囲むヤツらになんとなくおもしろくなく断ってしまった。
それから、俺はシンタローがはしゃぐ様子を見ながら日光浴をしている。
じいっと彼らの方ばかり見ているというのにシンタローはちっとも気づいてくれなかった。
ピィッとボールにオマケとしてついてきた笛が鳴る。吹いたのはトットリだ。
メンバーを交代しよう、とでもいうような動作が遠目にも分かる。
ビーチバレーをはじめたばかりのときもそうだったが、彼らはまた誰がシンタローと組むかで揉めている。
思えば学生時代からシンタローの周りには人が集まっていた。
士官学校でも実習や組み手で彼と組もうとたくさんのヤツが従兄弟に誘いをかけていた。
そのどれもが今と同じで、単に人気者に近づきたいといった行動だからよいものの、誰か一人でも疚しい思いを持つ者がいたのならどうしようと俺は考えた。
だが、疚しくないとはいうものの俺の、いいか、俺のだ、シンタローに必要以上に近づくなんて許せない。
眉間に皺を寄せてシンタローの肩に手を置いたコージを睨みつける。その手をどけろ、と念じるとシンタローが笑いながらコージの胸板を叩いた。
……おもしろくない。
げらげらと笑いあっている二人を囲みながら他のヤツラも話題に入ろうと近づいていく。
波打ち際でバナナボートと戯れていたグンマもいつの間にか陸に上がってきて、「シンちゃ~ん」と濡れた体のままシンタローに抱きついた。
冷てえよ、とシンタローが笑い転げながらグンマの体もろとも砂の上に縺れ込んだ。
子犬の取っ組み合いのようなふざけ合いがおこる。
くすぐったいよ~、と口を尖らせて文句を言うグンマの様子が手に取るように想像がつく。
記憶に残る、従兄弟たちの子どものときのような情景だ。
砂の上でくすぐりあったり、軽く蹴りを入れてシンタローとグンマは長い髪が砂にまみれるのも厭わずにじゃれあい続ける。
仲良くふざけあって楽しそうに笑い声を立てる彼らはとても微笑ましい。
けれども、屈託のない二人の笑顔とそれに便乗して他のヤツラもちょっかいを出し始めるにつれ、俺は鬱々とした気持ちになった。
こんなことなら、はじめから意地を張らずにシンタローと一緒にいればよかった……。
ざざざ、と打ち寄せる波の音とはしゃぐ声が今は恨めしい。
***
ふー、っと鼻先に息がかかるのを感じた。
頬に何かが触れてくすぐったさに身を捩り、薄目を開けると濃く陰を落とした砂が目に映る。
誰か傍にいるのか、と気配の方向へと重い瞼を開けて視線をさまよわせると見知った顔が笑った。
「おはよう、キンタロー。おまえ、ずいぶんよく寝てたんだな」
すっげえ日に焼けてる、とシンタローが笑いながら俺を見た。
上体を起こすと皮膚がひりりと痛む。
どのくらい俺は寝てたんだろうか。
身を起こし、シンタローの手からミネラルウォーターのボトルを受け取る。
一口流し込むと喉は渇きを癒そうとさらに水を求めた。
ごくっ、ごくっ、と一気にボトルの半分を開けるとシンタローが「もっと飲むか?」と俺に聞いた。
「いや。もういい」
ボトルの蓋を閉めて辺りを見回せば、日も翳り始めている。
海の音以外に聞こえるものは何もない。
ガンマ団のプライベートビーチ、ということもあって地元の人間も見られない。
あれだけ騒いでいた他の団員もグンマも見当たらなくて、俺はシンタローと二人きりという事実にどぎまぎした。
「他のヤツラはどうしたんだ?」
気になって尋ねるとシンタローはあっさりと「帰った」と一言言った。
「疲れたから帰ろうって話になったんだけどさ。おまえ探しにきたら寝ちまってるし……。他のヤツラは帰して俺はここで休んでたんだよ」
グンマのヤツは僕もいるって喚いていたけど、とシンタローは付け加えながらパラソルをたたむ。
俺も起き上がり、ビーチサンダルを履いた。
タオルで汗を拭い、バッグからシャツを取り出す。
ハイビスカス柄のアロハシャツはここに来てから購入したものだ。
今はいったい何時だろう、とパラソルを片付けるシンタローを見ながら思い、何の気なしに左腕を上げる。
時間を確認しようと手首に目を向けたが、腕時計はそこになかった。
「……?」
つけたままにしてあったはずなのにどうしてないんだろうか。
それとも時計をつけていたと思っていたのは思い違いで、部屋に置き忘れたんだろうか。いや、そんなはずはない。
ぐるぐると時計の在り処を考えていると、シンタローがパラソルの片づけを終え、俺の横に来た。
そして、そのまま俺の手を取る。
「部屋に帰る前にプール行こうぜ。体冷やしたほうがいいだろ」
ああ、と火照った肌の事を考えて頷く。歩み始めてから、繋いでいない従兄弟の手に俺の時計が嵌められていることに気づいた。
「シンタロー、それは」
俺のか、と尋ねるとシンタローは「やっぱ気づかれたか」と笑った。
「そのまんまだと日焼け痕がくっきり残るだろ?寝ているおまえからそーっと抜き取ってみたんだよ。
けっこうかちゃかちゃ音立てちまったのに気づかないからさ、部屋に帰るまで気づかねえのかもと思って嵌めてみたんだけど」
俺にはあんま似合わないな、とシンタローが俺の腕時計をしげしげと眺めながら言う。
「……全然気づかなかったぞ」
俺はよっぽど疲れていたんだな、と思ったよりも午睡を楽しんでしまったことにため息が出る。
まどろむ前にシンタローを囲んだヤツらに感じていた嫉妬心を夢寐に口にしてしまわなかっただろうか、とも思った。
「時計借りた後もおまえの髪の毛弄ってみたり、色々したんだけどな。
ちっともうんともすんとも言わねえし、眉毛を少し動かすだけでつまんねえの」
手を繋ぎ、海岸を歩きながらシンタローが茶化すように言う。
そうか、と返事をするとシンタローが俺の手をぐいっと引っ張った。
「――!」
砂に足を取られ、途端に俺はシンタローの胸元へと引き寄せられる。
思いのほか強かった力によろめいて、倒れこむとシンタローは砂の上に尻餅をついた。
「あのな、キンタロー」
くすり、と彼の体に乗り上げた格好の俺にシンタローは笑いながら俺の首にかじりつく。
「シンタロー!?」
いくらプライベートビーチだからとはいえ、これはまずいんじゃないかと思う。
泳ぐことをやめて近くを散策している団員でもいたら、と慌てて従兄弟を引き離そうとした。
けれども、シンタローは身じろぐ俺に笑いながら「誰も見てねえよ」と囁いてくる。
「今日のおまえなんかヘンだよな。いつもはうざったいくらい俺と一緒にいたがるのに離れているし。
こんくらいのことでうろたえるし。それに、あんなに無防備に寝てるなんておかしいぜ」
シンタローは俺の鼻を摘んで悪戯めいた笑みを浮かべた。
「おかしいけど……なんかそういうおまえも俺は好きだな」
鼻を摘んだ指をぴんっと弾くようにシンタローが離す。それから彼は俺に噛み付くようなキスをくれた。
「……なにしても起きなかったくせにキスしたら起きたし。なんか、おまえすっげえ可愛い」
シンタローは目に笑いを浮かべている。
どうやら今日一日俺が嫉妬でおかしくなっていたのはバレていたようだ。これが、惚れた弱みというやつなんだろうか……。
そんなことを考えながらも、俺はこれ以上シンタローにからかわれないように、深いキスを仕返す。
俺がかける体重でシンタローの指がざり、と砂を掴んで音を立てても、すぐ傍で波が打ち寄せてきても耳障りだとは思わなかった。
抱きしめ、口吻の最中にシンタローに「明日は一緒にいよう」と囁くと、彼は熱い息を吐きながら「バーカ」と言った。
「明日は、じゃなくて今からだろ?キンタロー」
おまえって頭いいくせに馬鹿で可愛い、となんだか分からないことを言ってシンタローが微笑む。
どういう意味なんだと思いながら、立ち上がり手を差し伸べるとシンタローは体についた砂を落とすこともなく手を預けてくれた。
「帰ろうぜ、日が暮れちまう」
そう言ってシンタローが俺の手をきゅっと握る。
繋ぎなおした手からはさらさらと砂が零れ落ちた。
すぐ傍では、波がやわらかな音を刻んでいる。
初出:2005/01/24
火陰様に捧げます。
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オトナコドモ
それをシンタローに見せてみると彼はなんともいえない表情を浮かべた。
「コレ、俺も持つのかよ」
「使い方は市販のものと同じだ。ただこれならば、電波を他の組織に傍受されにくいから今後支給していくつもりだ」
「ふうん」
とりあえず一族の者には渡してある、と言うとシンタローは素直に受け取った。
「まだ一般団員に支給してないんじゃ説明書ないだろ?使い方教えてくれよな」
「ああ」
俺はごく普通を装ってに返事をした。
本来なら製作段階でもマニュアルくらい作れる。だが、説明書を作らないのはわざとだった。
そんなもの作って渡せば従兄弟は俺を頼らないで勝手に使い始めるだろう。
せっかく俺が作ったのにそれでは寂しい。
グンマの作るファンシーな発明品でなくごく普通の市販製品と似ている俺の発明品が認可されたのだ。
他の一族の人間、伯父はグンマに聞くだろうし、遠く離れた戦地にいる叔父たちにはきちんと取り扱い説明書を郵送してある。
ただ、シンタローだけは俺に聞いてほしかった。
「なんかあったらこっちに連絡来るんだな。まあ、今日はなんもねえよな」
番号変えたの教えねえと、とシンタローは呟いた。
もちろん、あとで団員同士のメールの使い方もちゃんと教える、と言うとシンタローは軍服のポケットへと携帯電話を仕舞った。
「じゃあ、仕事終わったらおまえの部屋行くから」
俺が作ったんだからおまえが片付けとけよ、と笑いながら従兄弟が立ち上がった。
ああ、と了承してシャツを腕まくりするとシンタローが手招きした。
「いってらっしゃいのキスくらいしろよ」
からかい混じりの口調でねだった従兄弟に軽いキスを落とすとシンタローは満足そうに出て行った。
従兄弟を見送ってから、片付けに取り掛かろうとテーブルへと俺は戻った。
テーブルの上には朝だというのに食器が幾枚も出ている。
俺が一人で適当にすます朝食ならばせいぜいがトーストとコーヒーだけで皿とカップ各1つで済んでいた。
けれども、今日はシンタローが作ってくれた朝からバランスの取れた食事だったおかげで洗う量が多い。
(片付けて俺も早く出勤しないとな……)
シンクへと運び、スポンジを手に取る。
手早く済まそうと皿を擦り始めると見慣れぬ皿に気づいた。
***
ドアを開けると室内から香ばしい香りがした。
ジャケットを脱いで、キッチンへと足を向けると案の定シンタローが鍋を振るっている。
「お~。おかえり。メシはもうすぐできるからな」
今夜は中華だぞ、とシンタローは言った。
従兄弟の作る料理はうまい。今日は朝だけでなく2食も楽しめるのか、と思うと気分がよかった。
さっき脱いだジャケットをハンガーにかけて、ネクタイも解く。
カレンダーに予定を追加していると「できたぞ~」という声が届いた。
ペンを置き、キッチンへと向かう。
テーブルにはほこほこの湯気を立てた料理が並んでいた。
エプロンをたたみながらシンタローは「朝と同じで片付けはおまえだからな」と言うのを忘れなかった。
ひとしきり料理に舌鼓を打ち、食後のお茶で喉をさっぱりさせるとシンタローが立ち上がった。
片付けは俺なんだろう、と湯飲みを置いて声をかけると「朝と違って時間があるからな。洗うのはおまえがやれよ。俺が拭いていくから」と提案する。
ご馳走様、うまかった、と言って皿を運ぶとシンタローは喜んだ。
「その皿で終わりかよ?」
「ああ」
泡まみれのシンクと一緒に一番大きい皿を湯で流す。軽く水を切ってシンタローに渡すと従兄弟が不審そうな視線を上に向けた。
「どうした、シンタロー」
手を洗いながら、振り返るとシンタローは水切り台を指をさした。
「あの皿も仕舞うだろ」
よく使うんなら出しっぱなしでもいいけど、と言ったシンタローにそれがなんなのか思い当たる。
「いや。別に使わない」
もともと俺の部屋には、伯父とシンタローが使うキッチンと違ってたいして食器もない。
彼らに返しそびれた皿やなにかで貰った皿が処分されずに適当に置いてあるだけだ。
私室に備え付けた簡易キッチンという意識でしかない。
朝を除けば、ここで料理することなど限られている。
「はあ?それじゃ仕舞っとけよ」
そうは言われても、と俺は思った。
食器棚のスペースはもちろん開いている。
しかし、この皿は従兄弟が今朝出してくるまでどこに仕舞ってあったのかさっぱり見当がつかなかった。
「……仕舞う場所が分からないんだ」
皿をシンタローに渡すと彼は呆れたような目で俺を見た。
「おまえってさあ」
シンタローはテレビのリモコンを弄りながら俺に目を向ける。
「ホント、普段無頓着な生活してるよな」
「そんなことはないと思うが」
「いいや。絶対、そうだな!だって、あの皿だけじゃなくていつもちゃんと料理していたら置く場所覚えてるはずだぞ。
さっきカップ仕舞ってたらワイングラスのところにスープカップが置いてあったし、今朝、適当に入れただろ」
「……」
あれであっていると思ったのだが、違っていたのか。
「まあ、べつに皿の置き方くらいどうでもいいんだけどよ」
まあ、そうだな、と俺は思った。
「おまえが帰ってくる前に叔父さんから電話があったんだけど」
だけど、と打ち切るとシンタローはリモコンを置いた。
ぷちっとテレビが消える音が響く。
叔父さん、と従兄弟が呼ぶのはサービス叔父のことだ。
「おまえ、叔父さんには携帯の説明書送ったんだってな!」
ちゃんと作ったんじゃねえかよ、とシンタローは怒りながら言った。
「作ってないとは言っていない」
はあ?とシンタローが大きい声を上げた。
「おまえ、俺がないだろって聞いたらああって言ったじゃねえかよ」
「その”ああ”は使い方を教えろに対してだ」
「……キンタロー」
従兄弟が俺を見ながらため息をついた。
「あのなあ……ああ、もういい。なんで、俺には説明書くれなかったんだよ」
はあ、と額に手を当ててシンタローは言った。
「そんなのは簡単なことだ。説明書を渡したら俺と一緒にいてくれないだろう」
おまえのことだから夢中になって携帯を弄っていたはずだ、と言う。
せっかく俺の作ったものだから、俺に聞いてくれてもいいだろうとも言うとシンタローがため息を大きく吐いた。
「おまえ、なんつーか」
シンタローは呆れた顔で俺を見る。
「子どもだよな」
「そんなことはない。俺は大人だ」
言い返すと、シンタローはどこがだよと呟いた。
「やっぱ高松が甘やかしてたからかな」
「……」
グンマといいあいつの育て方間違ってるぜ、とシンタローは呟いた。
だが、それは違うと高松を庇うことはできなかった。
従兄弟とこうなる前、まだ日常生活に慣れていない頃、高松は俺の世話を焼いてくれていた。
箸より重いものは持ったことがない、というには語弊があるがたしかに高松の行動は至れり尽くせりだった。
それはシンタローに対して過保護な伯父を凌ぐほどのものである。
俺は確かに高松に甘やかされていたというべきだろう。だが。
それとこれとは別の話だ、と思うとシンタローが諭すように口を開いた。
「ったく。なんでもおまえの思うとおりにしてたら駄目なんだからな」
「そんなことはあたりまえだ」
あ~、と言いながらシンタローは髪をがしがしと掻き回した。
「そうじゃなくてな~!あ~も~!だから公私混同するなってことだよ!説明書渡さないんなら他のヤツにもそうしろ!」
「おまえ以外にやってどうするんだ」
「だから……ああ。ちくしょう」
シンタローが舌打ちをして俺を見た。
「今度からはちゃんと俺にも説明書よこせ。分かんなかったらどうせおまえに聞くけど、叔父さんに『キンタローに意地悪されたのか?』
とか言われて恥かいたんだぞ!」
「叔父貴に?そうか。分かった」
しまった、口どめしておけばよかった、と顔に出すとシンタローにすぐさま小突かれる。
「いいか。よく聞けよ。俺は結局おまえと一緒にいるんだからな。こういう子どもっぽいことはやめろよな!」
分かった分かった、と打ち切る。子どもっぽいと揶揄されたことには文句があったが黙っておいた。
すると、「そういう態度が子どもっぽいんだよ」と言われた。
がしゃがしゃと俺の髪を撫でてシンタローが額にキスを落とす。
「キンタロー」
「……悪かった。これからは気をつける」
「……ならもういい」
ったく。朝もちゃんと食うんだぞ、と食事のことを蒸し返してシンタローが口を尖らせた。
「本当、おまえも親父もグンマも子どもで困るよ」
俺の周りは何でみんなこうなんだか、とシンタローは言った。
あの2人と一緒にするな、とムッとしてシンタローにかじりつくと従兄弟が嫌がって身を捩った。
「うわ!やめろよっ。そういうのが子どもっぽいところなんだぞ」
「うるさい」
他のヤツのことは考えるな、と囁くと「家族だろ」と言われる。
家族でも、納得できないのだ。せっかくの二人きりの時間なのだから。
ソファから逃げ出そうとするシンタローにじゃれながら、抱きしめようとすると腕からするりと逃げられた。
それでも、なんとか隙を突いて彼の膝に頭を乗せて寝そべるとソファが軋んだ音を立てた。
「膝枕……っておまえなあ」
さっきまで俺は怒ってたんだぞ、とシンタローが呆れた声で言う。
そんなことは分かっている、と見上げるとシンタローが眉を顰めた。
「子どもなんだろう、俺は。膝枕させろ」
「なんでそういう逆手に取った行動するんだよ」
言わなきゃよかったとシンタローがため息をついた。
逃げようとしている腰を抱きかかえるように押さえ込むとシンタローが俺の額をつついた。
「やめろよ。重いぞ」
「いやだ」
膝枕くらいしてくれ、と我侭を言う。しばらくシンタローはぶつぶつと文句をいっていたが諦めてくれた。
「俺は子どもなんだからおまえに甘えたっていいだろう」
従兄弟の膝の上から見上げると彼はソファに肘をついて一言、
「馬ー鹿、こんなデカイ子どもなんていらねえよ」。第一、俺だっておまえに甘えたいんだからな
と笑った。
それから俺の髪をかき上げてシンタローは悪戯めいた笑みを浮かべる。
「それに子どもと違っておまえは添い寝じゃすまねえからな」
それとも今日は添い寝だけでいいのか?と笑いながら尋ねてきたシンタローに俺は仕方なく膝枕の続行を諦めた。
ソファに座りなおすと、シンタローがおかしそうに笑う。
「キンタロー、おまえやっぱ子どもだな」
「うるさい」
キスで従兄弟の口を封じるとシンタローが片目を瞑った。
ソファの上にゆっくりと押し倒すと彼が笑いながら俺の背に腕を回す。
「子どもの時間は終わり、だな」
ひそやかに笑うシンタローが小憎らしくて黙らせようと耳朶を噛む。すると俺の背に爪がぎゅっと立てられた。
それでも「子どもっぽいおまえも好きだぜ」と従兄弟は吐息混じりに笑う。
「シンタロー」
顎を捉えると、シンタローの黒い目が揺れた。目じりにくちづけを落とし、口腔への進入を試みる。
こうすれば、もう彼の口から余計な言葉は吐かれない。
震える睫から揺らめく瞳や背に立てられる爪の痛みが俺を刺激する。
それでも合わさる視線は艶めいているというよりもの言いたげな悪戯めいたひかりを宿らせていた。
「シンタロー」
離した口唇をかき上げた従兄弟の髪に落とす。それから肌蹴させたシャツから露になった鎖骨に噛み付くと彼はあえかな喘ぎを漏らした。
長いキスで封じこめて今度こそようやくくぐもったため息だけが吐かれるようになったシンタローにこっそりと笑みをこぼす。
子どもと揶揄されても、それでも俺はシンタローと一緒にいたい。
頬にめぐらせた指をシンタローに噛まれて俺は微かな痛みを感じた。
艶めいた笑みを口元に浮かべ、ぺろりと指を舐めるシンタローに「好きだ」と囁くと彼は片目を瞑った。
それは俺の行動を笑うような仕草だった先程のものとは違う。
艶めいた色を帯びた眼差しに煽られ、圧し掛かるとシンタローが呻いた。
従兄弟の言うとおり、子どもの時間はもう終わりだ。
脱がしたズボンからするりと露になった膝にキスを落とす。
膝枕はまた今度でいい。
子どもだと言いながらもシンタローはいつだって俺を甘やかせてくれるのだから。
初出:2004/12/15
夢で会いましょう
従兄弟が最も敬愛する叔父は、高松にいつもの如く4万円と切り出していた。
そして、それを切り出された高松は、前に言われたときと同様に叔父を褒めて話題を逸らしていた。
*
ベッドに二人腰掛けて、久しぶりに実家へと戻ってきた叔父の土産の酒を嗜む。
シンタローと二人、酒を飲むことはめずらしいことじゃない。
けれども、一番下の叔父が土産にとくれた酒を飲むのは初めてだった。
洒落者の叔父が土産にと寄越しただけあって、サイドテーブルに置かれたボトルは瀟洒なデザインのものだ。
ボトルのネックにはグラスファイバーで編まれたリボンが凝った結び形をされて、美しく飾られている。
口当たりのよい果実の風味といい、申し分のない贈り物だ。
ゆっくり味わいながらボトルに書かれた文字を目で追う。
手に取ったボトルは傾けても零れたりはしない。
栓を空ける前はずっしりと重みを感じたというのに、すでに残り僅かとなっていた。
(シンタローも気に入ってるようだし、貯蔵庫に寝かせておくのも悪くないな。
明日にでも叔父貴に店を尋ねてみよう)
じっくりとボトルの銘を見ながら考えていると、横からじっと視線を感じた。
流麗な文字を追うのをやめ、ちらりと視線の主に目を向けるとシンタローが催促するような顔をしていた。
「もう少し飲むのか?」
「うん。うまいから結構イケるし。キンタロー。おまえ、よく分かったな」
いつものようにシンタローはグラスを俺に向けて差し出した。
おかわりを催促する彼の目元は赤い。
空になったグラスは底の方に残った僅かな水滴で薄紅色に見える。
乞われるままグラスにワインを注ぐと、彼はうれしそうに顔をほころばせる。
ゆるめた頬は少しだけ赤かった。
「暑くはないか?」
酒に酔っているときは体温が上昇する。
風呂から上がった後、パジャマのボタンを閉めることもないシンタローに尋ねるも彼は「別に」と首を振った。
外はきっとうだるような暑さだろう。
だが、この部屋はシンタローが来る前からエアコンによって涼しくされていた。
「ボタン、閉めないと風邪を引くぞ」
「引かねえよ。馬鹿じゃねえからな」
グンマじゃないし、とけらけらと笑うシンタローにため息が出る。
夏風邪は馬鹿が引く?そういう問題じゃない。
まったく。
シンタローのグラスにワインを注ぎ、自分のグラスにも注ぎいれる。
残り僅かだ、と思っていたがぴったりと2人分だったようだ。
空のボトルを置くと、シンタローは「乾~杯」とグラスを重ねてきた。
「うまい!」
一仕事した後、ビールを飲んだときのように言うシンタローに思わず笑みが漏れる。
彼がもう一口味わっているのを見ながら、俺も口をつけると馥郁とした香りが広がった。
たしかにうまい。
「叔父貴に礼を言わないとな」
貰った時に礼は述べたがこれほどとは思わなかった。
「さすがサービスおじさんだよな~」
ふふ、と笑みをはきながらシンタローはワインを楽しむ。
「取り寄せるのも悪くはないな」
「取り寄せ……ってやってんのかな。あー!ちくしょう。ここにおじさんがいれば聞けんのにな~」
シンタローは「おじさんと飲みたかった」とぶつぶつと零す。
サービス叔父は土産をくれただけで、すぐに高松と出かけていってしまった。
シンタローは悔しそうにしていたが……。
「そういえば高松は今回も返さなかったな」
ふと、叔父と出かけた後見人のことを浮かべ、出かける前の騒ぎを口にする。
叔父は高松に会うなり、随分前に貸した金のことを言及していた。
もう何度も見慣れた光景だ。
俺やシンタローが見えていない様子で二人とも少年時代に帰ったかのように言い争いをはじめる。
たいてい、高松がうやむやに終わらせるものだが。
「4万円……というとあの二人には大した額でもないのに飽きないな」
「うん。まあいつものことだよな」
「いい加減、高松も言われるのが嫌なら返せばいいんだが……」
億劫になっているのだろうか。
学生時代からの延長でずるずると惰性のまま続いてるのかもしれない。
「給料から振り込むように手続きをとるよ……」
「やめとけよ。馬に蹴られるぞ」
とるように計らえばいいんだろうか、とシンタローに提案しようとした言葉はかき消された。
「馬……?」
どうして馬なんだ。馬なんか関係あるのか?
高松の専門はバイオだぞ。医者でもあるが、対象は畜体ではない。
「あー、だから、あの二人はあれを楽しんでるんだよ。
本当に返して欲しかったら、それこそお前が考えたとおりにすればいいだろ。
俺に言って高松の給料から天引きしてもらえばいいんだからさ」
「そうか……。そうだな」
「馴れ合いってわけじゃないけどさ。叔父さんも高松も案外楽しんでやってるんじゃねえの?
じゃなきゃ、飽きるだろ?20年以上やってられるかよ。
まあ、俺はサービス叔父さんさえよければいいけどな」
そうだったのか……。
三文芝居のような馬鹿騒ぎをよくも飽きずにと思っていたが。
あれが、二人のスキンシップなら立ち入ることはない。
巻き込まれて、シンタローがサービスにべったりつくのは嫌だしな。
近づかずに、シンタローと二人で過ごせる時間を甘受した方がいい。
「あったまっちまうぞ」
「……?ああ」
促され、ワインを呷ると口腔に甘い果実の香りが広がる。
グラスに残った僅かな液体は手のぬくもりで少しだけぬるくなっていた。
「それより、さ」
「なんだ?」
会話が途切れたのを見計らったようにシンタローがにやっと笑った。
空のグラスを置いて、彼を見つめると黒い瞳が瞬いた。
「俺達、いつまでこうしてんだよ?」
従兄弟は上目遣いで俺に含みを持たせた問いをかける。
暗にベッドへ行こう、と舐めるような視線を投げかけられ、苦笑が浮かぶ。
「そうだな……。もう、ワインは底をついていたな」
「だろ?」
***
片付けは明日!とばかりに手を引っ張られ、寝室へと連れて行かれる。
ベッドへ乗り上げるとどちらともなく互いが引き寄せ合っていく。
ワインに濡れた口唇は果実のように瑞々しく甘かった。
丹念に叔父の土産よりもシンタローの口唇を味わうと彼の黒目が情欲に濡れた。
「明日はおじさんと食事に行くんだからな。加減しろよ」
絡まる腕が、耳元で吐き出される甘い息が熱い。
加減しろ、と言いつつも色づいた声で言う彼がおかしい。
抑えきれぬ笑みを浮かべるとシンタローは口を尖らせた。
「ちゃんと寝かせろよ。じゃないと明日は一日口をきいてやんないからな」
「それは大変だ」
「いつもそう言ってはぐらかすよな」
ふ、とどちらともなく口角がゆるむ。
誘ってきたのはシンタローだというのに毎回毎回そのたびに注文をつける彼がおかしい。可愛い。
「いいか?ちゃんと寝かせろよ」
腕を首に絡ませ、俺を見上げながらシンタローは繰り返す。
痕はつけるな、と怒ったように、いや照れ隠しに肩口へ噛み付きながら言う彼が愛しい。
そんなに言われなくても分かっている。
痕をつけるな、だなんて夜を共にするたびにおまえは言ってるじゃないか
それこそ、叔父貴に言われなくても高松が借金のことを覚えているように。
高松にはぐらかされるのを分かっていても言ってしまうサービスのように。
結果が分かっていても、彼らは、シンタローは何度も言う。
鎖骨にきつく吸いつくとシンタローがきっと睨んだ。
眉根を寄せ、怒っている。
けれども、瞳は濡れている。
体は正直なシンタローに笑いを噛み締めながら、くちづけるとワインの味がかすかに残っていた。
(とりあえず、今日のところはぐっすりと眠らせてやろう。
明日、叔父貴と高松になんともいえない目で見られるのは避けたい。)
あの二人は勘がいい。
シンタローの耳朶に舌を這わすと、彼は身じろいだ。
くすぐったさと僅かな刺激に身をよじり、なにかを懇願するように俺に手を伸ばす。
伸ばされた指にそっと口唇を寄せると安心したように彼はまた首へと腕を回す。
キンタロー、と呼ぶシンタローの額にキスを落とすと彼の黒い目には俺が映っていた。
俺だけが映し出されている。
「キンタロー……?」
じっと濡れた瞳でシンタローは見上げながら俺を呼ぶ。
首に回された腕がぴくりと反応している。
「なんでもない。おまえのことを考えていただけだ」
止めていた愛撫を再開させ、愛しげにキスを落とすと彼の目が細まる。
味わう口唇はワインの味が薄れても甘い。
情欲と愛しさに濡れた瞳は俺だけを映し出している。
甘い視線が俺に注がれている。
夢ではどうだろう。
シンタローの夢でも彼の目には俺が映っているだろうか。
傍らにいるのは俺だろうか。
それとも……。
「キンタロー」
呼ぶ声は甘い。
その声が、視線が向けられるのは夢の中でも俺だろうか。
夢でも俺はシンタローの隣にいたい。
愛している、と囁くとシンタローから掠れた吐息が漏れた。
初出:2004/07/10
目覚めよと呼ぶ声が聞こえ
キンタローと俺が二人揃って遠征に行くのはめずらしくはない。
アイツ一人に任せるときもあるが、難しいヤマだと二人で片付けに行くことが多かった。
ごくたまに、俺が他の幹部と赴くこともあったが、たいていそれはキンタローが研究で手が離せないときくらいだった。
また、そうでないときはこっちが断っても、「シンタローと一緒に行くのは俺だ」と他の団員を連れて行くことを嫌がった。
今回も俺一人で充分だと何度も断ったというのにくっついてきている。
治安が悪いのはどこも同じだ、と言っても聞く耳は持たず、「手が空いてるからいいだろう」と押し切られてしまった。
そして、それは今もそうだ。
宿営地に残っていろ、といくら言っても取り合わずキンタローは俺とともにジープに乗り込んでいる。
この国には、国土に縦横無尽に地下水路が張り巡らされている。
カレーズと呼ばれるそれは、単に水源の確保というだけではなくゲリラ達が潜伏する洞窟の役目も果している。
殲滅したはずのとある組織の生き残りが立てこもっているらしい。
噂に過ぎないかもしれないが確認は必要だ。
何かあったときのためにおまえは残っていろと、キンタローに命令したが彼は俺を押し切った。
仕方なく、あらかたの団員を復旧作業や支援活動へと回し、最後のアジトと言うべき村へ俺とキンタローはと少数の部下とともに向かった。
ジープから砂煙のたつ地面へと降りる。
カレーズの入り口に近づくに連れ、少しひんやりとした空気を感じた。
洞窟の中は静まり返っている。
時折、蝙蝠が羽ばたいたが人間の気配はしない。
水滴が天上から垂れる音と俺たちの靴音だけが響いている。
けれども奥へと進むうちに硝煙のにおいがかすかに鼻についた。
自決でもしたのだろうか。
不審に思いさらに奥へと進もうとすると強い力で突き飛ばされる。
「キンタロー!?」
傍らにいた従兄弟が力いっぱいに押しのけたため、俺の体は吹っ飛ぶ。
酷い硝煙に包まれた爆音とばらばらと岩盤が崩れる音がした。
耳の奥は、きーんと気に障る音が鳴っている。
耳が痛い。鼻にはツンとした刺激臭が届いている。
呻き声や叫び声、俺の無事を確認する部下の声が聞こえた。大丈夫だ、と掠れた声を上げる。
そう、俺は大丈夫だ。
けれども。
俺を突き飛ばしたアイツはどうなったんだ。
アイツは…。キンタローは。
キンタロー、と従兄弟の名を呼び土煙で見えなくなっている辺りを探ろうと立ち上がろうとする。
けれども、名を呼ぶ前にもうもうと立つ土埃に咽た。
煙で閉ざされ、周りが見えない。
どこにいるんだ、キンタロー。頼むから無事でいてくれ。
***
神に祈るような気持ちで復旧作業を行い始めてから数時間が経つ。
時間が経つにつれて、苛立つ気持ちがどんどん大きくなる。
焦りは禁物だ。
市街地から召集した団員の手前もあって、取り乱すことは許されない。
団員だけじゃない。
この騒ぎで少し離れた村からも野次馬が訪れている。そして、それを装った敵国のスパイらしきものも。
本当は率先してスコップを持って崩れた岩盤を堀り、風穴を開けたいのだ。
けれども、そんなことは許されない。
おそらく火薬はすべて引火しただろうが、万が一の場合を考えて総帥自らが救助に乗り出すのは憚られた。
部下達が発掘作業を進めていくのを折りたたみ式の椅子に腰掛けてじっと待っていることしか出来ない。
彼らが汗水を流し、命をかけて作業しているのを見ていることしかできないのだ。
かすかな呼吸しかしていない部下や服毒したと見られるレジスタンスたちの体が掘り出された。
一人一人、あるいはすでに一体と数えるものになってしまった彼らを顔と写真とを照合していく。
けれどもいくら待ってもキンタローはいなかった。
日が沈む。
今日はもう捜索は中止だ。時間が経つごとに生存の可能性は少なくなる。
けれども、キンタローのために部下を酷使することは出来ない。
「総帥、まだ博士が…」と言い募るものもいた。
だが、「いい。今日はもう休め」と命じる。
部下達は釈然としない顔をしていた。
本当は自分だけでも居残って探したい。
しかし、それは許されないのだ。
総帥という枠組みに縛られて何も出来ない自分がただもどかしかった。
***
復旧と捜索に明け暮れる部下を現場に残し、俺は現地の有力者との渉外に当たっていた。
あの場では何も出来ない。
心配であっても自分の指で土を掘り起こし、アイツを探すことは出来ないのだ。
たとえ、アイツを見つけても手当ては俺の役目じゃない。それは医者に任せることだ。
それに、まだみつかっていない部下はキンタローの他にもいる。
あの場にいて俺が誰よりもキンタローのことを考えていたら部下達はどう思うだろう。
従兄弟だから仕方がない、と思われるのはまだいい。
だが、総帥が一個人にかかずりあうのはよくない、団員はすべて平等じゃなかったのかと不満が起こったらどうしようか。
ただでさえ、団の方針も変わり、フラストレーションがたまっているのだ。
そんな気持ちを伝播させたくはなかった。
何もかもが嫌になっていた。
足手まといでいるのは嫌だった。キンタローがいないと何も出来ないと弱みを見せたくもなかった。
アイツが傍にいない、キンタローの生死が分からない事態にとてつもなく不安を感じている。
取り乱して泣きたかった。
俺の所為だと責めたかった。
でも、そんなことは許されない。俺はガンマ団の総帥だから。
敵地であっても、いや敵地だからこそ毅然としていなければいけない。
こんなことで隙を見せるわけにいかない。キンタローは弱みではない。
なにがあっても、俺は総帥として居続けなくてはならない。
不安で仕方がなくても、どうしようもない気持ちであっても俺は己の為すべきことをしなくければならない。
泣きたくなる気持ちを奮い立たせて仕事に打ち込む。
仕事をしている間は、キンタローのことを忘れることができた。
にこやかな営業スマイルで駆け引きを行うこともできた。
交渉が終わり、事故現場に戻るかを促されても俺はそうしなかった。
戻りたかったけれどもずっと書類に取り掛かっていた。
だって、あいつが戻ってきたときに仕事が山積みになっていたらかわいそうだろう。
その言葉は部下には言えなかったけれども、書類の中のキンタローの筆跡を見るたびに涙が零れそうになった。
無事でいてくれよ、キンタロー。
***
キンタローがみつかったのは次の日の夕暮れだった。
カレーズの中のいくつもに分かれている洞窟内を捜索していたときにみつかったのだと報告される。
爆発の際の衝撃で吹っ飛んだ時に、脆くなった土壁を破ったのだろう。
何人かそういった状態でみつかるケースがあったと言われた。
衝撃が脆い土壁に吸収されたことと天井から落ちる水が幾年もかけて水溜りを形成していたのがよかったらしい。
下が泥だったために洞窟内へと打ちつけられた際にクッションの代わりとなって体は保護されていた。
保護したときには意識がなかったがじきに目覚めるだろうと医師に告げられる。
礼もそこそこにキンタローの病室へと向かう。
逸る気持ちを抑えようとしても、駆け出す足は止まらない。
廊下ですれちがった看護婦に怒られてもそんなことはどうでもよかった。
キンタローが生きている。
今の俺にはそれだけが重要なことだった。
眠っているのかもしれない。
ドアを開ける前に医師が言っていたことを思い出し、そっとノブを回す。
後ろ手でドアを閉めると中央のベッドに横たわるキンタローの姿が見える。
そっと近づくと彼はまだ目を閉じていた。
小さな丸椅子に腰掛けてキンタローをじっと見る。
横たわり、眠ったままの彼の頬にはガーゼが当てられていた。
わずかに頬にかかる金色の髪はただでさえ血の気の通っていない顔色を青白く見せている。
鍛え上げられた上半身は喉の辺りまで包帯で巻かれ、両腕にはいくつものチューブが挿しこまれている。
そっとキンタローの手に触れると鼓動が伝わってきた。
それに熱い。
確かに生きている証拠に思わず安堵のため息が出る。
「キンタロー」
と手を握ったまま小さく呟く。
すると、彼は身じろいだ。
どこか痛むのか、苦しいのか。ナースコールを、と立ち上がろうとするとうっすらと彼が瞼を明けるのが見えた。
青い目が揺らぐ。ぼんやりと視界を彷徨わせている。
よかった。目覚めたんだな。よかった。
「キンタロー」
よかった、とか大丈夫かとかいう言葉は言わなくてはならないと思っているのに声にならない。
けれども名を呼ぶ声に彼の目はひかりを取り戻す。
「キンタロー」
もう一度呼びかけるとキンタローはゆっくりと微笑んだ。
口の端が切れて痛いのだろうに俺を安心させるように彼は笑みを浮かべる。
「シンタロー、無事…か…?」
「……馬鹿野郎」
俺はどこにも怪我をしていない。おまえが突き飛ばしてくれたから大丈夫だ。
自分の怪我を心配しろよ、馬鹿。
馬鹿だ、馬鹿。
ついてくるなって言っただろう、と何度も言ってもキンタローは笑みを消さない。
「ああ…でも、おまえ…すこし、痩せたな」
掠れた声を途切れ途切れにキンタローは呟くように言う。
笑みを消して、心配そうに俺を見る彼に胸が締め付けられる。
痩せてなんかいねえよ。
2日しかたってねえだろう。俺のことばっか心配してるなよ、馬鹿。
「シンタロー」
「なんだよ」
「シン……」
もう一度俺の名前を呼ぼうとしたキンタローが不意に咳き込む。
けほけほと寝たまま、苦しげに急きこんだ彼にサイドテーブルにあった水差しから水を与える。
すっと喉を潤す水に次第に荒い呼吸が落ち着いた。
「寝ろよ、なあ。も、いいから」
しゃべるなと静止するとキンタローは再びうすい笑みを浮かべた。
動くこともままならないはずなのにチューブに繋がれている腕を懸命に伸ばし、俺の頬へと指をむける。
ふるふると震えながら伸ばされたが頬を掠る。
いつのまにか流れていた涙を拭うぎこちない仕草に、熱いものが胸に込み上げてくる。
熱く乾いた指先が涙を拭う。キンタローの指に涙が吸い込まれていく。
「シンタロー……泣くな」
制止しても口を開けるのをやめずにキンタローは俺の名を呼ぶ。
キンタローは困ったように涙を拭いながら笑う。
「おまえが呼ぶ声がずっと聞こえていた」
目を細めながら話すキンタローに熱い涙がどんどん溢れていく。止めたいのに目からはどんどん涙が溢れ落ちる。
「おまえの声が聞こえていた」
やさしく拭ってもどんどん溢れる涙を払いながらキンタローは言う。
俺の声が聞こえていた、と話す彼に溢れる涙と熱い想いが止まらない。
「しゃべるなよ……もう」
寝ろ、ゆっくり休めと涙で声にならない言葉を紡ぐとキンタローは笑った。
俺の頬を撫でて、それからようやく彼は静かに目を伏せた。
初出:2004/05/17
黒野犬彦様に捧げます。
惑いの闇
なんとはなしに目が覚めた。
寒さを感じたわけではない。ずっと体を抱きこまれていたから、一人で寝るよりもあたたかかった。
二人分の体温ゆえ、体はわずかに汗ばんではいる。
途切れずに声を響かせたためか、喉はいがらっぽかった。
眠る前に受け止めた熱の残滓も拭われ、起き上がっても不快感は生じない。
でも飲もうと、そっとベッドを抜け出す。
裸足にひんやりと床の冷たさが伝わった。
喉をペリエで潤した後、音を立てずにそっと寝室へと戻る。
薄暗がりに一灯だけついたベッドの明かりを頼りに歩みを進めるとキンタローも目を覚ましていた。
わずかな明かりでは部屋の様子も何も分からない。
カーテンは空いていないから、外の様子も何も分からない。
けれども、仄暗い闇の中で身動ぎもせずにキンタローは虚空を見つめていた。
ぼんやりと視線を彷徨わせていた彼に不信感が募る。
「……キンタロー?」
キンタローはシーツを体に巻きつけ、上体を起こしていた。
呼びかけても彼の視線は定まらないままだ。
「おい、キンタロー」
ベッドに乗り上げ肩を揺すると次第に青い瞳に光が灯り始めた。
「キンタロー」
「……ああ、うん」
生返事のような声であったが、ようやく返った反応に少しほっとする。
「どうしたんだよ?怖い夢でも見た…とか」
からかおうと明るく声を出したがキンタローは笑うこともなく、俺を凝視していた。
張り上げた声が尻すぼみになる。
伺うように「どうしたんだ」ともう一度口にすると、彼はそれに答えることなくただ腕に俺を抱いた。
強い力が腕や背にかかる。
ぎゅっと抱きしめられた驚きと息苦しさに思わず、拒否する声を上げるとキンタローは泣きそうな顔で俺を見た。
肩口に頭を埋め、「もう少しこのままでいてくれ」と囁く。
いつにない真剣なその声音に身を任せると縋るようにかき抱かれる。
離さないといわんばかりに抱きこむ力は強い。
早く解放して欲しかったがどうして彼がこんな行動を取るのは分からなかったゆえ、気になった。
そうだ、と”怖い夢…”と言及したときのキンタローの表情を思い出し、なすがままにされていた体をわずかに動かす。
背に腕を回すと小刻みに震える振動が伝わった。
ゆっくりと、落ち着かせるために子どもをあやすような手つきで背を撫でる。
何も心配はいらないんだ、と伝えるようにゆっくり擦ってやる。
はじめ、キンタローはびくりと肩を揺らした。
だが、手を止めずに撫でていると次第に彼の肩から力が抜け始めた。
俺の背に回された手は、緩めることはなかったが徐々に落ち着きを取り戻していく。
深いため息の後、彼の体の震えが止まった。
回されていた腕が解かれ、肩口に埋めていた頭が離れ、俺の視界に青い目と金色の髪が飛び込んでくる。
わずかにその青い目の端は赤らんでいた。
目じりに涙のしずくがついていた。
指を伸ばして、拭ってやる。軽く目を伏せたキンタローの表情はいつもと違い頼りなげだった。
拭っていた指を髪へと伸ばしても、キンタローは俺にされるがままにしている。
「おまえがいなくなる夢を見た」
俺の胸に顔を埋めたたまま、キンタローはぽつりと漏らした。
髪を梳く感触に目を細めながらもどこか地に足が着いていない表情をしていた。
「ゆめ?」
「ああ」
キンタローの髪を梳く手は休めない。
柔らかな髪を撫でながら先を促すと口ごもりつつも夢の内容をキンタローは口にした。
「最初は一緒にいたんだ。おまえは笑っていた。艦…だったと思う。なぜか、駆け回っていて……。
ああ、そうだ。小さい頃のグンマとおまえみたいに俺たちは駆け回っていた。
そのうちに走るのが飽きたとおまえが言って……なの、いきなり駆け出しながら”俺を見つけてみろ”と言ったんだ。
少し驚いたが、かくれんぼ、というものなのだと認識した。おまえが突拍子もないことを言い出すのは不思議でもないから……」
身を起こし、キンタローは俺から離れた。
自然、彼の紙からは俺の指が離れる。
向かい合ったとき、キンタローの青い瞳は揺れていた。
髪から離した指におずおずと彼は手を伸ばした。
そっと握りこまれる。幼児のようなその仕草はちぐはぐで少しおかしかった。
「それで、どうしたんだ」
握られた手はそのままに夢の続きを促す。
両目を瞬かせた後、キンタローは再び口を開く。
そこからは重い内容だった。
「最初は楽しかった。
楽しかったんだ。いろいろな部屋の扉を開けておまえを探すのは。子どもの遊びだと思っていたが、楽しかった」
楽しかったのだと吐露するキンタローに俺は何もいえない。
彼が子ども時代を送ることは俺によって失われた。
楽しかった、と吐き出したときの冴え冴えとした青い目に胸が打たれる。
その色は涙をためたような色なのに、懐かしさや喜ぶような感情も混じっていた。
「だが……。扉をすべて開け終わってもおまえはどこにもいなかった。
隠れた場所を変えたのかもしれない。飽きてしまって部屋に戻っているのかもしれない。
そう思って元の場所に戻ってもいなかった。
どうすればいいんだと、思って……もう一度探そうと廊下に出ようとしたら扉が開かなかったんだ。
ナンバーを打ち込んでも反応はなくて…しかも段々と暗くなっていった。
夜のように真っ暗な部屋に閉じ込められて、扉を叩いたり、おまえの名前を呼んでも部屋からは出れなかった」
青い瞳が揺らいだ。
握りこまれていた指にわずかに力が込められる。
ここに俺はいるというのに、それでも確かめるようにキンタローは片方の腕を伸ばし頬をなぞる。
「夜の闇は怖くない。真っ暗闇のような世界に俺はずっといたのだから。
一人でいるのも怖くないはずだった。おまえがいなくても今まで俺は平気だった……。
ただ、取り残されてしまっただけなのに、どうせ誰かが気づいてそこから解放してくれるだろうに何故だか怖かった。
おまえと俺がひとつに在ったときのよう闇色の世界なのに明かりがない。
光源ではないんだ。おまえの声も響かない、何も聞こえない、見えない、そんな無音の闇が訪れるのは初めてで…。
それで、何故だかとてつもなく怖かったんだ。
暗闇なんて平気なはずなのに、おまえがいなくても平気なはずなのに何故だか怖かった」
過呼吸に陥ったようにキンタローは早口で捲し立てた。
しゃくりあげて泣くように息をつき、何度も目を瞬かせ、肩を揺らしていた。
涙はまだ流れていない。必死で堪えながら、彼はずっと「怖かった」と口にする。
「起きたらおまえがいなかった…」
そうしたら夢の不安がそのまま大きくなっていったんだ、とキンタローが口にした。
悲痛なその声に心をぎゅっと締め付けられる。
「喩えようのない恐怖だった。夢を見たからだと言い聞かせてもシンタローはいないし、だから……」
青い目が伏せられた。睫を真珠のように涙が縁取る。
必死で泣くことを耐え、息をつくキンタローに俺はどうしていいのか分からない。
彼の不安を、恐怖をすべて取り除いてやりたいのに、ただひとつのことしか思いつかなかった。
握りこまれた指を解き、頬をなぞられていたキンタローの手を外させると彼の青い目は涙に染まった。
昔、コタローをあやしていたときと同じように、改めて彼へと指を伸ばし、乱れた金色の髪を払ってやる。
前髪があらわになった額にこつんと俺の額をくっつけるとキンタローは目を見開いた。
「よく見ろよ。俺はちゃんといる。いるから。おまえの傍にいるだろ?キンタロー。
不安なことは何もないんだ。俺はおまえから離れはしないんだから」
「……本当か」
「ああ」
疑うなよ。俺は約束は守るぞ。
微笑みながら口にすると、キンタローはぎこちない笑みを浮かべた。
「もう、ひとりにしないでくれ」
涙と笑みが張り付いた表情でキンタローは言う。
「ああ、しねえよ。絶対しないから」と言いながら、キンタローをぎゅっと抱きしめると嗚咽が聞こえた。
ひとりになんてするわけないだろう。
おまえは俺の大事な従兄弟で、ずっと一緒に生きてきたんだから。
闇にも孤独にも耐えられた男が、泣く。
ひかりを知ったことでその辛さに耐え切れずに泣いている。
抱きしめた俺よりもずっと強い力で抱き返してくるキンタローに俺は何度も約束した。
「おまえをおいていかねえよ。ひとりになんてしないから」
***
それはそう遠くない記憶だった。
いつだったかは忘れた。
けれどもシンタローが酷くやさしく、愛しむように俺の髪を撫でていたことを強く覚えている。
彼は約束を破った。
それは仕方のないことだったけれど、悲しいことには変わりがない。
一人で眠ることも、一人で仕事をすることもはじめてではない。
それらに不安などは感じていない。
以前、彼がいないことに不安を感じていたときと同じだ。
けれども、消えたシンタローがどう過ごしているのか考えると胸が張り裂けそうになる。
今だってそうだ。
空が白み始め、一日が始まるというのに心は明かない闇色に染まっている。
彼のいない世界に惑い、残されたわずかな希望を灯して過ごしている。
毎日、毎日、彼がもう一度約束をしてくれるのを願って過ごしている。
はやく、迎えに行かないといけない。
はやく、はやく、はやく……。
俺が感じている寂しさや不安のどれだけをシンタローが感じているのは分からない。
あそこには彼にとってかけがえのない友人もいる。
しかし、それでも心配なのだ。
シンタローがどうしているのか。どこでなにをしているのか。
それを思うたびにいてもたってもいられなくなる。
朝は毎日来る。今ここに訪れているように、明日も明後日もそれからずっと先も訪れる。
だが、いくら朝を迎えても、差し込む太陽の光を見ても、俺の心は沈んだままだ。
シンタローのいない事実に心が乱れ、惑う。
いつの日か感じたように、心が悲哀で満たされている。
シンタローを追い求め、不安を抱えたまま心が逸る。
今ある不安が歓喜に染まる日を求めてただ毎日突き進んで生きていく。
足は止めない。
走り出した運命は止まらないのだ。
彼をもう一度この腕に抱きしめるために、もう一度約束してもらうために。
カーテンを開けると目に痛いくらいの明るい光飛び込んできた。
けれども、こんなひかりじゃ闇色に染まったままの心は晴れない。
初出:2004/03/21