冷静と情熱の間
「ちっくしょー! 耐えられるかっ!」
「仕方ないでしょ。だいたいシンちゃん、昔っから我慢が足りない子なんだから。」
大事に育てすぎちゃったからねぇ、と、うそぶく父親を前に、わなわなと両手を震わせている総帥に、ティラミスがびらっと書類を一通出す。
見れば総務部からの、空調施設修理工事費の見積もりだ。
「う……こんなに。」
「本体の取り替えが終わった後、順次接続となります。総帥が眼魔砲で壊されたのですから、当然、こちらを一番後回しにさせていただきます。」
てきぱきと扇風機を運び込ませながら、優秀なる秘書は決定事項を延べ、総帥の意見を拝聴しようというそぶりすら見せなかった。
決算報告書作成という忙しいさなかに、余計な仕事を増やしてくれたことを相当怒っているらしい。
もちろん、優秀で職務に忠実なこの男が正面切って、文句を言ったりすることはない。
しかし、もう、空気が怒っている。
顔は素だが、声も普通だが……それでも、怒っているのはわかる。
それにしても、あまりに理不尽だと思う。
だって、自分が眼魔砲をぶっ放したのは、この暑いのに父親にべったりと抱きつかれたあげく……思い出したくもないスキンシップという名のセクハラをされたからだ。
それなのに、クーラーもない、部屋の主の立場上セキュリティの厳重な奥まった、つまり、風通しの悪いこの部屋でクーラーなしで過ごせとは酷すぎる。
「まぁまぁ、シンちゃん、なんだったら、私の部屋に来るかい? あそこのエアコンは違う本体につないでいるから無事だったよ。もちろん、パパがずっと側にいて護ってあげるからセキュリティも問題なしだし?」
「ざけんなっ! テメーが一番、俺の身体に害なんだよ!」
「シンタロー、眼魔砲はやめろ。同じ事を繰り返すつもりか。」
キンタローに止められシンタローはぐっと詰まった。
「ちっくしょーーっ! でてけっ! クソ親父ぃいいい!!!」
「ああっ! ひどいよっ! シンちゃん。」
「うっせえっ。」
腹立ち紛れに父親をけり出した後、仕事に向かう。
それでも、やはり、不快感はどうしようもない。
ああ、暑い。
しかし、ふと見ると、キンタローは涼しげな顔をしている。
「なんだよ、おまえ暑くないの?」
「暑いが、耐えられないほどじゃないからな。」
どうせ、俺は我慢強くありませんよ、とふてくされたシンタローだったが、ふとあることを思いついた。
「ちょっと来い、キンタロー。」
さて、数時間後、そろそろ音を上げた頃だろう、と、いそいそとシンタローの元に向かうマジックと、いつものごとく付き従う秘書二人。
「シーンちゃーん。どうだい? そろそろパパの部屋に来る気になったか……い……。」
ドアを開け放って、明るく言ったマジックの声がどんどん尻すぼみになっていく。
脇から除いたチョコレートロマンスも室内の様子に凍り付いた。
シンタローは椅子に座って、書類を読んでいる。
それは正しい。
キンタローも椅子に座っている。
椅子はひとつしかないのだからこれはおかしい。
それから、先ほどシンタローが椅子に座ってと言ったが、正しくいうと、シンタローは椅子に座ったキンタローの膝の上に横座りして、もたれかかっているのだ。
「なっななななななにをしてるんだいっ!!!!!!!」
どもって甲高くなった声で叫ぶ父親を、シンタローは横目でちらっと見た。
「うるせぇなぁ。だって、こいつ、体温低いんだぜ。あー、気持ちいい。」
そう言って、これ見よがしに従兄弟の首筋にすりすりと顔を押しつける。
「そうですか、すばらしい節電対策です。さすが総帥。」
「そう言う問題か? ティラミス。」
秘書ふたりの前でわなわなと震えているマジックだったが、やっとのことで気を取り直して、キンタローに言う。
「そ、そりゃ、シンちゃんはいいかもしんないけど、キンちゃんは暑くてたまんないよねぇ……総帥だからって、遠慮しなくて放り出していいんだよ?」
キンタローは涙目の伯父と、その伯父を冷ややかに見ている従兄弟の顔をじゅんぐりに見て、んーと首を傾げた。
「確かに、暑いが……気持ちいいからかまわん。」
その後、厨房近くの巨大冷凍室の前で、繰り広げられた騒動。
「マジック様! おやめください! 死んじゃいますよ!」
「ええいっ! 放せ、チョコレートロマンス! 私もひやひやの肌になってシンちゃんといちゃいちゃするんだぁぁぁ!」
「たとえ、どんなに冷肌になられても、シンタロー様はマジック様に抱かれるくらいなら、煮え湯で行水した方がマシだとおっしゃられると思いますが……。」
冷静に意見を述べた秘書をマジックは光る目で振り返った。
「ああっ! ティラミスがまたもやアフロにいいいい!」
いやああああっ! ツッコミ役を俺に押しつけて逝かないでぇっ!
と、いうチョコレートロマンスの本音が、その咽からほとばしりそうになる後ろで、呼びつけられたグンマが腰に両手を当てて、ため息をつく。
「もう、おとうさまったら、コックさん達が困ってるじゃない。冷凍庫になんか入らなくても、高松に頼んでいい薬つくってもらうからさー。」
「そ、それもおやめくださいいいいい!」
―――ガンマ団の空調システムの修理は、一週間かかったという。
+++++++++++++++++
たぶん、これを書いた時、実際会社で空調が止まったかなにかあったような気がする。
とりあえず、キンちゃんの肌はひやひやそうだと。
リサイクル日 2005/06/27
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「ちっくしょー! 耐えられるかっ!」
「仕方ないでしょ。だいたいシンちゃん、昔っから我慢が足りない子なんだから。」
大事に育てすぎちゃったからねぇ、と、うそぶく父親を前に、わなわなと両手を震わせている総帥に、ティラミスがびらっと書類を一通出す。
見れば総務部からの、空調施設修理工事費の見積もりだ。
「う……こんなに。」
「本体の取り替えが終わった後、順次接続となります。総帥が眼魔砲で壊されたのですから、当然、こちらを一番後回しにさせていただきます。」
てきぱきと扇風機を運び込ませながら、優秀なる秘書は決定事項を延べ、総帥の意見を拝聴しようというそぶりすら見せなかった。
決算報告書作成という忙しいさなかに、余計な仕事を増やしてくれたことを相当怒っているらしい。
もちろん、優秀で職務に忠実なこの男が正面切って、文句を言ったりすることはない。
しかし、もう、空気が怒っている。
顔は素だが、声も普通だが……それでも、怒っているのはわかる。
それにしても、あまりに理不尽だと思う。
だって、自分が眼魔砲をぶっ放したのは、この暑いのに父親にべったりと抱きつかれたあげく……思い出したくもないスキンシップという名のセクハラをされたからだ。
それなのに、クーラーもない、部屋の主の立場上セキュリティの厳重な奥まった、つまり、風通しの悪いこの部屋でクーラーなしで過ごせとは酷すぎる。
「まぁまぁ、シンちゃん、なんだったら、私の部屋に来るかい? あそこのエアコンは違う本体につないでいるから無事だったよ。もちろん、パパがずっと側にいて護ってあげるからセキュリティも問題なしだし?」
「ざけんなっ! テメーが一番、俺の身体に害なんだよ!」
「シンタロー、眼魔砲はやめろ。同じ事を繰り返すつもりか。」
キンタローに止められシンタローはぐっと詰まった。
「ちっくしょーーっ! でてけっ! クソ親父ぃいいい!!!」
「ああっ! ひどいよっ! シンちゃん。」
「うっせえっ。」
腹立ち紛れに父親をけり出した後、仕事に向かう。
それでも、やはり、不快感はどうしようもない。
ああ、暑い。
しかし、ふと見ると、キンタローは涼しげな顔をしている。
「なんだよ、おまえ暑くないの?」
「暑いが、耐えられないほどじゃないからな。」
どうせ、俺は我慢強くありませんよ、とふてくされたシンタローだったが、ふとあることを思いついた。
「ちょっと来い、キンタロー。」
さて、数時間後、そろそろ音を上げた頃だろう、と、いそいそとシンタローの元に向かうマジックと、いつものごとく付き従う秘書二人。
「シーンちゃーん。どうだい? そろそろパパの部屋に来る気になったか……い……。」
ドアを開け放って、明るく言ったマジックの声がどんどん尻すぼみになっていく。
脇から除いたチョコレートロマンスも室内の様子に凍り付いた。
シンタローは椅子に座って、書類を読んでいる。
それは正しい。
キンタローも椅子に座っている。
椅子はひとつしかないのだからこれはおかしい。
それから、先ほどシンタローが椅子に座ってと言ったが、正しくいうと、シンタローは椅子に座ったキンタローの膝の上に横座りして、もたれかかっているのだ。
「なっななななななにをしてるんだいっ!!!!!!!」
どもって甲高くなった声で叫ぶ父親を、シンタローは横目でちらっと見た。
「うるせぇなぁ。だって、こいつ、体温低いんだぜ。あー、気持ちいい。」
そう言って、これ見よがしに従兄弟の首筋にすりすりと顔を押しつける。
「そうですか、すばらしい節電対策です。さすが総帥。」
「そう言う問題か? ティラミス。」
秘書ふたりの前でわなわなと震えているマジックだったが、やっとのことで気を取り直して、キンタローに言う。
「そ、そりゃ、シンちゃんはいいかもしんないけど、キンちゃんは暑くてたまんないよねぇ……総帥だからって、遠慮しなくて放り出していいんだよ?」
キンタローは涙目の伯父と、その伯父を冷ややかに見ている従兄弟の顔をじゅんぐりに見て、んーと首を傾げた。
「確かに、暑いが……気持ちいいからかまわん。」
その後、厨房近くの巨大冷凍室の前で、繰り広げられた騒動。
「マジック様! おやめください! 死んじゃいますよ!」
「ええいっ! 放せ、チョコレートロマンス! 私もひやひやの肌になってシンちゃんといちゃいちゃするんだぁぁぁ!」
「たとえ、どんなに冷肌になられても、シンタロー様はマジック様に抱かれるくらいなら、煮え湯で行水した方がマシだとおっしゃられると思いますが……。」
冷静に意見を述べた秘書をマジックは光る目で振り返った。
「ああっ! ティラミスがまたもやアフロにいいいい!」
いやああああっ! ツッコミ役を俺に押しつけて逝かないでぇっ!
と、いうチョコレートロマンスの本音が、その咽からほとばしりそうになる後ろで、呼びつけられたグンマが腰に両手を当てて、ため息をつく。
「もう、おとうさまったら、コックさん達が困ってるじゃない。冷凍庫になんか入らなくても、高松に頼んでいい薬つくってもらうからさー。」
「そ、それもおやめくださいいいいい!」
―――ガンマ団の空調システムの修理は、一週間かかったという。
+++++++++++++++++
たぶん、これを書いた時、実際会社で空調が止まったかなにかあったような気がする。
とりあえず、キンちゃんの肌はひやひやそうだと。
リサイクル日 2005/06/27
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私が知らない『昨日』と、あなたも知らない『明日』
時は師走の初め。
どうにも仕事が立て込んでいるので、正月中も働くというガンマ団新総帥の宣言に、前総帥は猛反対した。
というか駄々をこねた。
「お正月返上で仕事、だなんてそんな寂しいこと、パパの目が黒いうちは絶対に許しません!」
「あんたの目は青だろーが。そもそも、とっくの昔に成人した俺の行動にいちゃもんつける権限は親父にもねぇ! だいたい、後継者として日々励んでいる息子を激励するならともかく邪魔するって、前任者としても親としてもどうなんだ。」
とことん正論だった。
しかし、ときとしてまっとうな正論は強い欲の前に無視されがちな傾向にある。
「いつだって、パパはシンちゃんを応援してるよ。本当なら365日本部というかパパの隣にいてほしいのに、我慢してるじゃないか! そんな健気なパパのささやかなお願いを無視して仕事だなんて……ひどいっ、パパはそんな薄情な子に育てた覚えはないよ。」
わあっと泣き真似をする五十歳になったばかりの男を、シンタローは冷たい目で見た。
「……参考までに聞くが、どんな『子』に育てたつもりだったんだ?」
「えー、そりゃ『パパ大好き』って毎日言ってくれて、おはようおやすみそのほかもろもろのキスも忘れなくて、パパにべったりなパパっこに英才教育したのに!!」
「…………失敗したことを天に感謝しろ。」
息子のひきつり笑顔もてんで意に介す様子もなく、マジックはさらにシンタローの神経を逆なですることを言った。
「だいたい、パパも忙しかったけどさ、それでも大事な行事はなるべくシンちゃんと一緒に過ごせるように、仕事調整したのに、シンちゃんがなぜできないんだい?」
シンタローは内心ぶちっと切れる。
(俺が仕事できないってのか!? 第一、なるべくいたって言ったって、八歳の誕生日のときも途中で抜けたし、十二歳のクリスマスのときはイブにいなかったし、十四歳のときは逆に当日いなかったし! ほかにも細かいのがいろいろあったし! 毎回ちゃんと全部いたわけじゃないだろーがっ!)
結構執念深く覚えているシンタローだった。
けれど、それを口にすることはできない。
そんなことを言おうものなら『じゃあ、今からその分を取り戻そうよ』などと言うに決まってるからだ。
記念日やら思い出など、当日でなければ意味がないのに、これでは単に拘束の口実を与えてしまうだけだ。
「キンちゃんも、お正月くらいのんびりしたいよね??」
無言の息子に業を煮やしたのか、側にいた彼の補佐官に水を向ける。
家に持ち込んだ書類のチェックをしていたキンタローは、呼ばれて一応顔を上げた。
しかし、仕事大事の部分まで精神双子の彼の返事はマジックの期待を大きく裏切った。
「仕事が終わってからのんびりした方が、精神的に効率的だと思います。」
「ほーらな。親父もいい加減騒ぐのやめろ。ヒマになったら、構ってやらないこともないかもしれないと思うのもやぶさかではない。」
「……ものすごく、実現性の弱い約束より、お正月を一緒に過ごすために力づくで引き留める道をパパは選ぶね。」
マジックの目が怪しく光る。
しかし、シンタローは余裕綽々とばかり、従兄弟の首に手をかけ引き寄せた。
「ふん、俺たち二人とやりあって勝てるならな。」
「……別に俺は伯父と争う気はないが?」
「おまえ、仕事これ以上遅らせたくないだろ? 第一俺の補佐官だろ? なら、俺の敵はおまえの敵だ。」
「そうなのか。」
納得しかける甥に、マジックはにこやかに呼びかけた。
「キンちゃん、キンちゃんはお正月、初めてだったよね。」
「? はい。」
「おい……。」
きょとんとした顔で素直に頷くキンタローに、マジックは頷く。
「だよねぇ。お正月を一回経験したら何がなんでもゆっくり楽しみたいと思うよ。おせち料理やお雑煮がでるし、『はねつき』とか『カルタ』とか対戦試合もあるし、工作が大好きなキンちゃんならきっと、この中央の塔まで届く凧を揚げることができるよ。それにね、お正月にはシンちゃんが着物を着てくれるし。」
ひとつひとつ並べられていくにつれ、不遇な幼少時代を過ごしたキンタローがだんだん身を乗り出していった。
シンタローは慌てて、キンタローの肩をゆさぶる。
「しっかりしろ! キンタロー! 家族でカルタ大会やってもつまんねぇぞ! それに雑煮くらい作ってやるから!」
「着物は?」
「え……荷物になるし、外に持ってくのはちょっと……。」
「伯父上、俺も正月したいです。」
「待てえええい!!」
(そういや、最近あちこちの民俗学の本を読みあさってたっけコイツ…。)
あっさり寝返った補佐官にシンタローはくらりときたが、なんとか気を取り直し、憤然と二人に背を向けた。
「わかった、勝手に凧揚げでも百人一首でもやってろ! 俺は仕事する!」
「お年玉出すよ。」
「は?」
今にも外へ出ようとしていたシンタローの足がぴたりと止まる。
「だから、一緒にお正月するならお年玉あげるよ。」
……こうして、ガンマ団は正月休みを取ることになったのである。
しかし、だ。
やるとなれば徹底的にやるのが、パプワ島元主夫シンタローなのである。
三十一日の朝、惰眠を貪っていた父親の部屋に乗り込んできて、「起きろーー!」という叫びとともにシーツをひっぺがした。
ベッドから放り出された形のマジックは、サイドテーブルの上にかけてあったナイトガウンを身体に羽織りながら抗議の声を上げる。
「ひどいよ、シンちゃん。夜這いするんならもっとやさしくしてくれなきゃ。」
シンタローはエプロンした腰に両手を当て、父親を睥睨した。
「もう、朝だ……ほらよ。これ。」
渡されたものを目にしてマジックは怪訝そうな顔になる。
「これって……『バケツ』と『ぞうきん』?」
「はい、ご名答~。だから、これ。」
「いや、なんで?」
するとシンタローは、だんっ! と、床を鳴らした。
「正月らしいことしたいんだろ? だったら、『年末の大掃除』も手伝え!」
シンタローの予想外の命令に、マジックは当然抗議の声をあげた。
「ええええええ~!! 掃除なんて、毎日、使用人達がやってるじゃないか。今更どこを掃除しろと言うんだい?」
しかし、シンタローは引き下がるつもりはなかった。
仕事を休みにした以上、前々からやろうと思っていたことをやっつけてしまうつもりなのだ。
それにはまず一日中まとわりつくであろう父親を、部屋に釘づけにしておく必要がある。
「ガラクタの要不要は本人しかわからないから、みんなノータッチだろ。だから、今日を機会にガラクタ全部片づけちまえ。」
「ガラクタ?」
マジックの問い返しに、シンタローは片手をびしっと伸ばしぐるっと周りを指した。
「そ、こういう余計な『コレクション』は捨てろ!! なんなら俺が代わりにやってやる!」
シンタローが指し示したものは、いわずとしれた絵やら人形やらの『シンタローグッズ』。
マジックは蒼白になり、立ち上がって息子にすがりつこうとした……直前にさっと避けられてその場に倒れこむ。
しかし、必死で起きあがりコレクションを背で庇うように手を広げた。
「いくらシンちゃんでもこれだけは許さないよ! これはパパの命と家族の次に大事な宝物なんだからね! いわばシンちゃんとパパの愛のメモリーそのもの。どうしても壊すならパパを押し倒してからにしてくれ!」
「誰が押し倒すか!!!!!!」
シンタローはくわっと口を開いたが、父親の決意が固いのを感じたのか、ふう、とため息を吐いた。
「わかったよ、じゃあ、ここの掃除は親父がちゃんとしろよ。……キンタロー。」
肩越しに振り返って従兄弟を呼ぶと、はたき、洗剤、雑巾など、お掃除グッズを手にしたキンタローが部屋に入ってきた。
「じゃ、頼むぞ。」
「わかった。俺に任せろ。」
シンタローが部屋を出ていきながら、念を押すとキンタローは頷いた。
そして、はたきを手にしてあちこちの埃を払い始めたので、初めは怪訝そうな顔をしていたマジックも合点がいった。
「あ、キンタローに手伝ってもらうよう、頼んでくれたんだね。さすがシンちゃん、パパ想いなんだから。」
「………任務を全うすると、三が日俺が着物を選んでいいということになったんです。」
キンタローの答えにマジックは目を丸くした。
「ええっ。ちゃっかりしてるなぁ、キンちゃんは。ま、いっか。私のアルバムにまた多くの記録が残るわけだし。」
るんるん、と文字通り歌い出しそうな勢いで、マジックがシンタローの肖像画のガラスを拭く姿に、キンタローはちょっぴり罪悪感を覚えていた。
実は、先ほどのキンタローの答えは微妙にずれている。
意図的にずらしたのだ。
なぜなら、本当のキンタローの任務は『掃除の助手』ではなく、『監視』だったのである。
マジックが、ことが終わるまで寝室から出ないように見張ること、これが正月休み中着せ替え人形になることと引き替えに総帥が補佐官に与えた重要任務だった。
「うわ~~~~~~想像はしてたけど、『想い出の品』もこれだけ保存たら、壮観だねぇ。」
おせち料理に激甘二色卵十巻追加することを条件に、手伝いにかり出されたグンマはその部屋の光景に呆れとも感嘆ともつかない感想をもらした。
彼を連れてきたシンタロー自身はといえば、グンマの感想を無視し、がさがさとゴミ袋を広げ始めた。
ここは、先日、シンタローが見つけた父の書斎の隠し部屋の中だ。
かなり広く作られたそこは四方に棚が作られ、過去の機密書類らしきものが隠されていたが、問題はプライベートなものの割合が異常に高く、その内容もちょっぴり異常だった。
「うわっ、シンちゃんが小さい時履いてた靴じゃん……全部とってあるんだ。この分じゃ、服はもちろん、水着やら下着とかも絶対おいてそう。」
手前の小さい棚の引き出しにその言葉通りのものを見つけてしまったグンマは、口を噤んだ。
(見なかったことにしよう。)
即座にそう決断したグンマは、ぱたん、と引き出しを締めた。
シンタローをこっそり振り返ったが、彼はこちらに背を向けていたので恐怖のコレクションには気が付かなかった。
(正月前に身内を病院送りというのは、さすがに縁起が悪いもんねー。あとで、釘打って封印しとこう。それともいっそ部屋毎破壊するよう、シンちゃんをたきつけた方が早いかな。でもそんなことしたらおとーさまが半狂乱になって秘石眼暴走させたりしたら、めんどうだしー。)
「だーーーっ! もうっ!!」
シンタローの叫びに、脳内でいろいろ画策していたグンマはびくっと飛び上がった。
振り向くと、書類の棚の整理をしていたシンタローがそこに無限に並ぶ自分の『成長記録』に苛立ちを爆発させているところだった。
ものがものだけに、シンタローもさっきからなんとか整頓しようと奮闘していたのだが、あまりの量の多さにうんざりしてしまった。
「本部にいるときヒマさえあればカメラとビデオ持ち歩いてたから、想像はしてたけどな。いくらなんでも、これは多すぎじゃねーか。」
「高松もそんなもんだから、普通じゃない?」
「言っておくが、高松も普通じゃないから。」
びしっと突っ込んでおいて、シンタローはばらばらとアルバムをめくる。
なんだかんだいっても、ちょっとは懐かしい気分もあるのだ。
が、次の瞬間『コワイ話を聞いておねしょしちゃいました』写真が目に飛び込んできたので、ばたんとアルバムを閉じる。
「なにー? なんかおもしろいのあった?」
グンマがのぞき込もうとするのを押し戻して、シンタローはそのアルバムをゴミ箱につっこんだ。
「あーーっ! だめだよ、シンちゃん! ほかのものはともかく、アルバムは捨てちゃだめ! 大事な昔の記録なんだから。」
そう言って、ゴミ箱からそれを拾い上げて、シンタローをめっと睨む。
「そんなもん、大事じゃねぇ! 返せ! さっさと捨てる!」
シンタローが伸ばした手からなんとか逃げたグンマが、目を細めた。
「あのねー、シンちゃんだってコタローちゃんの写真山ほど撮ってるでしょ? それはどうなの?」
「うっ……!」
痛いところをつかれて、シンタローが口ごもるのをグンマはここぞとばかりに攻めた。
「おとーさまにとって、これは他のなにより大事な宝物なんだよ。シンちゃんが生まれて一緒に過ごした記録っていうのは。これの一枚一枚に、あのときはああだった、こんなことがあったという想い出の地図があるんだと思う。だから、アルバムの中身はそのままにしておいたげようよ。」
「うん……。」
シンタローが不承不承頷くと、グンマはにっこり笑った。
「よしっ、じゃあ、ボク、あっちを見てくるね。」
そう言って大きな棚の影へ消えていくグンマを見送りながら、シンタローはおいていったアルバムを拾い上げた。
もう一度中をめくると、幼い頃の自分が大好きな叔父に抱き上げられはしゃいでいる写真が出てきた。
その隣はもう一人の叔父と泥団子のぶつけ合いをやっている。庭の芝生を泥だらけの水浸しにしてしまい、ちょうど帰宅した父に見つかってたいそう叱られたことを覚えている。そんな時でもぱちりと一枚撮るのを忘れないのは、怒りを通り越してお見事と言うしかない。
このころは、毎日が楽しかった、とシンタローは思った。
今日よりもっとよいことが明日起こると信じて疑わないくらい一日が満たされていた。
自分が誰にも似ていないという事実がたまに胸を指すことがあるけれど、まだその意味がよくわかっていなかったし、家族の誰かがそのことで自分を非難したりすることもなかった。
従兄弟と一日中遊んだり、たまに叔父が帰ってきたり、毎日がいつもきらきらと輝いていた。
何より、大好きな父親がいてくれたから。
ちらっと、右隣の棚を見る。隅の方にあるそのアルバムは、ほんの数年前の日付が書いてある。ちょうど、コタローと引き離された時代だ。
父親を憎んで許せなくて、それでも離れることもできなくて、もがき苦しんでいた自分はどんな顔で写真に写っているんだろう。
そう思うと、今手にしている写真に写っている自分の無知さが苦々しく思える。
この先、どんなことが待ち受けているか知らず、与えられた幸福が永遠だと信じているこの頃の自分が。
作業に戻ろうと、アルバムを閉じて棚に戻した時、その列の端に並んでいた別のアルバムが十冊ほど床に音を立てて落ちた。
どうやら、場所を詰められたことによってバランスが崩れてしまったらしい。
「あーあ。」
アルバムから落ちた写真を拾い集め、アルバムをめくってそれらしき場所に入れていく。落ちたのは数枚だが、結構な手間だ。
(それもこれも、こんなに写真をとりだめてるあのバカ親父が悪いんだ!)
半分言いがかりのような文句を頭の中で言いながら、しばらくの間、せっせと写真を戻していたシンタローの手が、ぴたっと止まった。
「……誰だ、これ……。」
写真に写っていたのは、まだ少年の父親と、その部下たちだった。
シンタローの視線が集中したのは、父親の左後方に控えている若い男だった。
年の頃は二十代そこそこ、ノンフレームの眼鏡をかけた線の細い蜂蜜色の髪の持ち主だ。
ガンマ団の制服を着ているし、別に取り立てて変な所はない。けれど、一目見て違和感を覚えた。
――――――その男は、父の近くに立ちながら、嬉しそうに微笑んでいたのだ。
「シンちゃん、どうしたの? 美味しくない?」
ぼんやりとフォークでチキンをつっついていたシンタローは、父親に声をかけられて慌てて顔を上げた。
朝の早い内から精を出したおかげで、なんとか作業の目処がたったので、全員で遅い昼食をとっている最中だった。
「そんなことねーよ。」
「でも、さっきから食が進んでいないみたいだが。」
二人の会話に並んで席に着いていたキンタローとグンマも、シンタローの方を見る。
三組の青い目に注目されて、シンタローは誤魔化そうとした。
「……仕事のこと考えてただけだ。」
マジックは腑に落ちないようだったが、グンマは「もう」とむくれた。
「シンちゃんは仕事のしすぎ! 目標があるのはいいことだけど、いそぎすぎると達成する前に身体を壊すよ。」
確かに今年はほとんど遠征に出ていて、休暇など数えるほどしかとっていない。けれど、きっと来年も自分は走り続けるんだろうな、とシンタローは思う。
この世界のどこかにいるはずの『トモダチ』に会ったときに、恥ずかしくない自分でいたいから、自分は立ち止まるわけにはいかない。
この世界にさんざん傷つけられた弟が、夢の世界から安心して戻ってこられるところを自分は作らなければいけないから、何があっても突き進まなければいけない。
けれど、口に出したのはそんな正直な想いより、家族を安心させてやる『嘘』だけだった。
「まあな、今年は思ったより成果が上がったから、来年は少しはゆっくりするさ。」
「そうなの? よかったぁー。キンちゃんは?」
「総帥がそう言うなら俺に依存はない。」
「副官ぽい言い方だねぇ~。」
グンマの軽口に、シンタローははっとした。
(あのメガネ! 『秘書』って雰囲気じゃないとは思ったけど、あの位置から考えるともっと対等に限りなく近い『副官』とかじゃねーのか。)
しかし、その思いつきをシンタローはあっさりと却下した。
自分の知る限り、父親が『副官』という者を側においたことはない。『補佐』なんてものこの父親に必要ないからだ。
なんでも自分の一存で決めて、またそれを押し通す力を持っている男。
それがシンタローの知る『マジック総帥』だ。
誰かの助言を乞うとか、サポートしてもらうとか、そんな発想が頭の中にあるとは思えない。
けれど、あの男がただの部下とはとても思えない。
なぜなら、父の隣に立つその男が笑顔だったからだ。
一族の中でもずば抜けた力を持ち、残酷、冷血と呼ばれた覇王の隣に、こんな気安く立つ人間なんて自分は知らない。
秘書の二人はおろか、実の弟であるサービスやハーレムですら、父の側にいるときはかすかに緊張していた。そう見せないよう振る舞っているが、シンタローには分かる。
叔父達とは違う意味ではあるが、自分だってそうだった時があるからだ。
幼い頃は父を怖いなどと、思ったことは一度も無かった。強くて優しくて、なにより、母親が不在の自分にとって父親はたった一人の家族だった。
それが変わり始めたのは、父の瞳に宿る冷たい輝きを知った頃、けれど、その時はとまどいこそあれ、恐怖など感じなかった。家族であり、慈しんでくれる相手を恐れる理由なっどなかったからだ。
だが、弟を監禁したとき―――――止める自分をも殴ったとき、自分は怒りとともに、はっきりと恐怖を感じていた。
父を誰より理解していると、いや、知らないことなんてないと思っていた。
なのに、目の前にいる男の考えていることがわからない。
家族という絆を自らの手で壊すこの人間は誰なんだ。
二十四年間、自分の父親であり、誰より近しい人間の、その『知らない』部分があるということが怖かった。
今はもう、そんなものは感じないけれど、自分でさえ一度は恐れた男の横で、にこにこと笑っているあの男の存在が信じられなかった。
「……ちゃん…シンちゃん、ねぇっ!」
「あ? なんだ?」
大声を出されてシンタローが顔をそちらに向けると、グンマはため息をついた。
「言ってる側からこれだ。ほんとーに、お正月はゆっくりするんだよ。電話も受けちゃだめだからね。」
「わかったわかった。なら、ゆっくりするため、掃除の続きしてくっか。」
そう言って席を立つと、食堂を出た。
しかし、掃除に戻ったものの、頭からどうにもあの写真のことが離れない。
(髪の色や雰囲気からして、一族の人間だろうな……。)
祖父の代の資料などを見ると、昔はもう少し一族の数も多かったらしい。それが、いつの間にか、かなりの数の人間が減っている。父の代から、さらに力を増してきた……つまり、征服した国の数が爆発的に増えているので、それに伴って犠牲の数も増加したということだろう。
この男も、そうした犠牲の一人になったのだろうか。
その時、父は悲しんだのだろうか、それとも、弱い者はいらん、とあの酷薄な笑みを浮かべたのだろうか。
(……気分わりぃ……。)
後者であることを自分が密かに願っていることに気づき、シンタローは自己嫌悪に顔をゆがめた。
「スチームクリーナーとってくる。」
シンタローが立ちあがると、奥にいたグンマが怪しい着ぐるみの熊をひきずりながら出てきた。
「ボク、とってこようか? ちょうど水飲みたかったし。」
「いや、俺が行く。ついでだから、なんか探してきてやるよ。」
クリーナーを取りに行くのは単なる口実で、本当はこの『過去』がたくさん詰まった部屋にいることが息苦しくなってきたからだ。
自分の過去がしまわれている同じ場所に、自分が会ったことのない父親の過去が共存している。それはその部屋の主の心そのものだ。
それに耐えきれない苛立ちを感じ、シンタローはその場から逃げ出すことによって、その嫌な気分からも逃げようとしたのだった。
とりあえず台所に行き、残っていた使用人にクリーナーを出してもらった。彼らが掃除を申し出てくれたが、あの部屋に他人を入れるわけにはいかず、シンタローは断った。
それに、彼らも今日から休暇に入る。何人かは、もう出発しているし、残っている者たちも殆ど仕事を済ませているようだ。手伝わせるのも気の毒だ。
「俺たちも自室だけだから、手伝ってもらうほどのこともない。一年間、ご苦労さん。来年もよろしくな。」
そうねぎらうと、全員深々と頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いします。」
「じゃ、これ、借りてくぜ。」
シンタローはその掃除機にも似た機械を片手に持つと、もう片方の手にオレンジジュースのペットボトルを掴み、部屋へと戻ろうとした。
しかし、その途中でよりにもよって、苛々の原因と出くわしてしまったのである。
壁にもたれかかって、いかにも自分を待っていたという風情のマジックをシンタローはじろっと睨んだ。
「おい、さぼってんじゃねーぞ。さっさと部屋へ帰れよ。」
「ちゃんと終わらせたよ。キンタローも自分の部屋へ戻った。」
「そうかよ、じゃあ、あんたも部屋に帰っておとなしくしてな。」
素っ気なくそう言って、シンタローはその場を通り過ぎようとしたが、ふいに背後から伸びてきた手に後ろに引き戻された。
「うわっ てめ……!」
仰向けにひっくり返りそうになったシンタローを、広い胸が抱き留める。
「――――倒れてもいいよ。シンちゃん。」
いきなり言われたその言葉にシンタローは、目を見開いた。
両肩に置かれた手は温かく、力強い。
「やりたいようにやりなさい。おまえはそういう子だ。もしそれで倒れるようなことがあっても、私が――家族がいる。ちゃんと支えてあげるから、好きなだけ走りなさい。」
さっきの食堂でのグンマの苦言のことを言っているのだと、シンタローはすぐに気づいた。
胸が詰まりそうになるが、素直に礼を言うのも癪だった。
「えらそーに、なんでも分かってるみたいなこと言いやがって……。」
「知ってるよ。なんていったって、シンタローを二十五年間見守って育ててきたのはこの私なんだから、シンちゃんのことで知らないことなんてひとつもない。」
『シンちゃんのことで知らないことなんてない』、その言葉に、緩んでいたシンタローの頬がびしっと強張った。
「………ざけんな。」
「え?」
地を這うような低い呟きに、マジックは怪訝に思って、よく聞こうと身を乗り出した。
しかし、その行為が彼の命取りになったのだった。
「ふっざけんじゃねぇええ!!」
シンタローが勢いをつけて上体をそらす、容赦のない頭突きが背後にいたマジックの顔面に炸裂した。
「ぐわっ!」
鼻筋を強く打って、後ろによろける父親から素早い動きで数歩離れると、シンタローは振り返って怒鳴った。
「確かに、俺を育てたのはアンタだけどな、俺のことをなんでも知ってるなんてうぬぼれんのもいい加減にしろっ! 俺はもう何もできない子供じゃねーんだよ! どこにだって行けるし、あんたが知らない人間とつきあったりするし、えらそーに言われる筋合いはねぇっ!」
「? シンちゃん?」
鼻を押さえながら、きょとんとした顔をする父親と目があって、シンタローはかあっと顔を赤くした。
(うわ、俺サイテーじゃん。)
これでは単なる八つ当たりだ。
もしくは嫉妬。
理不尽だと分かっているが、自分の知らない人間を側に置いていた父親に腹がたってたまらない。
くるっと踵を返し、大股で部屋へと急ぐ。
(だって、むかつくものはしょーがねーじゃん!)
一族の人間で、他人を信用しない父親の側に平気な顔でよりそうことができて、しかもそれを父が許している
そんな人間は、自分くらいだと思っていたのに。
単なる過去だと分かっていても気に入らない。
記憶の中―――――少なくとも、写真の中に、この男はいまだに残っている。
「くそっ…!」
シンタローは唇を噛むと、力任せにドアを開けた。
「わっ! どうしたのシンちゃん!」
脚立に腰掛けて、アルバムをめくっていたグンマが驚いて顔を上げた。
シンタローはむくれたまま、手に持っていたペットボトルをグンマに放ってやる。
「どうもしない。それより、掃除さぼってんなよ。」
「さぼってないよー。殆ど終わったからシンちゃん待ってたんじゃん。」
確かに、部屋の中はすっきり片づき、後は床を磨くくらいだ。シンタローが処分すると決めた洋服やそのほか一切は、それぞれ分類して袋に入れてある。
「後は処理場に運ぶだけだけど……本当に捨てちゃうの? シンちゃん。」
「何を今更。」
おおかた面倒くさくなったんだろうと、シンタローが呆れるとグンマはんー、と己の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「確かにここにあるものは、『過去の遺物』なんだろうけどさ。おとーさまにとっては、ある意味現在進行形のものなんだよ。」
「どういう意味だよ。」
「アルバム見てて思ったんだけどさ、今も昔も、おとーさまにとっては、シンちゃんは総帥というより大事な『子供』のままなんだ。そりゃ、もうシンちゃんはあひるの帽子なんかかぶらないけど、おとーさまにとってそれはシンちゃんのものだった帽子、じゃなくて、シンちゃんの帽子、なわけ。……だからさー、別にいいじゃん。うち、こんなに広いんだし、わざわざ処分しなくたって。」
「………。」
「ね?」
グンマはなだめるように、シンタローの顔をのぞき込んだ。
しかし、シンタローはそれから目を反らし、スチームクリーナーを床の上に置いた。
「処分しなけりゃ、いつまでたっても片づかない。」
「も~! 頑固なんだから。」
グンマの非難を背中に受けて、シンタローはスイッチを入れた。
独特の臭気を放つ蒸気が勢いよく辺りに広がる。
その白い蒸気の中、顔を伏せシンタローは黙々と床をこすった。
ポケットの中で写真ががさがさと動いて気持ち悪い。
『処分しなけりゃ、いつまで経っても片づかない』
本当は―――――処分したいものは、こんなモノじゃなくて、過去そのものなのだ。
自分のいない父親の二十五年間、生きてきた時間の半分。
父にとっても、あまり振り返りたくない種類のものらしい。
父の父、つまり祖父が若くして戦死した後、父が何を想い、どう生きてきたのか、シンタローは父の口から聞いたことがほとんど無い。
聞いたとしても、おそらくはぐらかされるだけだろう。
自分だって、弟や小さな友人に戦場での経験なんて話したくなかったから、その気持ちは理解できる。
自分でも正視したくない過去。
思い出しても苦しいだけの記憶。
なら、処分してもいいのではないだろうか。
ポケットの中でさっきから身動きするたび、がさがさと存在を主張するそれに指が伸びそうになる。
それから気を逸らそうと、シンタローは一心に床を磨くことに専念した。
熱い蒸気に埃が浮かび上がり、雑巾に水滴毎吸い込まれていく。
染みをすべてこそげ落とそうと、シンタローは腕に力を込めた。
夕食に年越し蕎麦を食べたあと、グンマとキンタローがいそいそと出かける準備をし始めたので、怪訝に思ったシンタローが行く先を尋ねると、顎がはずれそうな答えが返ってきた。
「除夜の鐘を鳴らしに行く。」
「はぁ?」
まさか、日本まで行くのだろうか、とシンタローは不安になった。
いくらなんでもそんな馬鹿な、と思うが、なにせこの二人だ。「面白そうだから」「興味があるから」と、日本の寺まで突っ走っていきかねないことは、経験上よく知っている。
シンタローの心配を読みとったのか、グンマは「ちがうよー」と笑った。
「僕らが日本まで行っちゃうんじゃないかと心配してるみたいだけど、そんなことするわけないでしょ。基地の広場だよ。レンタルの鐘を、残ってる団員たちと撞くんだー。」
「そっか、なるほど……って、その費用はどっから!? というか、レンタルでそんなもんあるのか!?」
「あははははっ。いってきま~す。」
「行くぞ! グンマ、俺たちが一番目だ。」
「待てーーーー!」
言いたいことだけを言って、夜の闇に逃げ込む二人を呼ぶシンタローの声がむなしく響く。
(キンタローの興味を日本文化から、はやく別の方向へうつさねえと……ひょっとして、身体を返す前、俺が日本へ行きたいってずっと思ってたから、その影響が残ってるのかもしれない。)
シンタローはがっくりと肩を落としながら、リビングへ戻った。
「二人は出かけたのかい?」
ソファーに座って、くつろいでいた父親に聞かれ無言で頷く。その時、彼の膝の上にアルバムが乗っているのを見て、一瞬ぎくりとしたが映っているのは子供の頃の自分だった。
ほっとした反動で、つい憎まれ口を叩いてしまう。
「まーた、アルバムかよ。好きだなー、過去振り返るの。」
「ああ、好きだよ。かわいかったもんねー、このころのシンちゃん。いっつも、パパ、パパってついてきてくれるし、イヤミ言ったり、暴力ふるったりしないいし。」
「あ、そ。」
にっこりと父親が笑った。
「なにより、この黄色のセーターを着ている小さな子供が、寝て目覚めて、また寝て、を繰り返して、ひとりで本を読めるようになったり、自転車にのれるようになったり、パパと遊園地に行ったりと、いろんなことを経験して、イヤミ言ったり、暴力ふるったりする赤い上着を身にまとった総帥になるんだって思うと、余計かわいくて仕方ない。」
親馬鹿丸出し発言に、こんなことにはいい加減慣れっこになっていたはずのシンタローだったが、前へつんのめりそうになった。
なんとか態勢を取り直して、「へえー」と無関心を装ったが、マジックは特に気にする様子もなく、なおも話を続けた。
「過去を振り返ったり、想い出を反芻することは、一概に後ろ向きなこととは言えないよ。『今』があるのは、『昔』があるからだろう。人間が思っているほど過去と現在の距離は遠くない。楽しかったり、悲しんだり、怒りを感じたり、いろいろな体験をして、今があるんだ。私は、おまえがどんなふうに過ごして、今のおまえ自身を創り上げたのか、ずっと見てきた。そうできたのは、私の一番の幸運だと思っている。」
父親はそこで言葉を切って、アルバムを閉じる。
「だから、実は悔しいんだ。―――――おまえの人生にとって重要な時間である『あの島』の日々を知らないことがね。」
現在を愛することは、過去をも愛おしむことと変わらない。
幼少時代の甘いお菓子のような日々も、どうしようもない苦しみに流した涙の数も、みな、今を創ってきた大事なパーツだ。
だから、今、自分に穏やかな笑顔を向ける父親を創ってきたものたち――――――自分が知らない父の時間にいるあの男の存在が悔しかったのだ。
そう、自分が嫉妬していたのは、あの笑顔にではない。
『自分がいない頃の時間』そのものに、焦燥を感じていたのだ。
ゴオ―――――――ン……。
「あ、鳴った。」
かすかに響く重低音に、二人は顔を上げた。
「本当に借りてきたのかよ。ああ、請求書が………レンタル料っていくらだろ。」
頭を抱えるシンタローにマジックがフォローをいれた。
「まぁまぁ、経費を使いたくないんなら、パパがあげるお年玉で払ったら?」
「う~~~ちっくしょー、ただ働きかよぉ~~。」
シンタローが唸ると、それに返事するように鐘が『がっ』と鈍い音を立てた。
「あれはグンちゃんだね~。間違いなく。」
マジックが確信を持ってそう言いきった。
撞木を撞く弾みにひっくりかえりそうになっている彼の姿と、おろおろしているその従兄弟の姿が目に浮かび、シンタローはやれやれと苦笑する。
きっと、痛いだ、寒いだとべそをかきながら帰ってくるだろうから、温かいココアか何か用意しておいてやるか、とシンタローはキッチンへ向かおうとした。
ドアを開いて、振り返ると再びアルバムを取り上げた父が目に映った。
優しい目をして自分たちの生きてきた時間を見つめるその横顔に、小さな声で囁く。
「………………来年もよろしく。」
あるか無きかの呟きのような声に、マジックが「何か言ったかい?」と聞き返した。
「べつに、たいしたことじゃねぇよ。」
焦ってそう言うと、後ろ手でドアを閉める。閉まる直前、その隙間から滑り込むようにして笑いを含んだ声が聞こえた。
「こちらこそ。」
(~~単なる社交辞令だっつーの!)
シンタローは扉越しに父親を睨むと、そこから離れた。
台所に向かうようなふりをして、こっそりとあの倉庫に入り込む。
時代だけ確かめた後、合致したその中から適当なアルバムを一冊抜いた。
ぱらぱらとめくり、空いている場所に持ち歩いていた例の写真をはりつけた。
笑顔の男に対しては今も複雑な気分だが、しょうがない。この男との間に何があったにせよ、それを通ってきて今の父親があるのだから。
過去のマジックは自分の父親じゃないけれど、二十五年前からずっと先の未来まで永遠に自分の父親だ。
年が暮れて、また新しい年がきて、それを何度も繰り返してきて、そしてこれからもずっと繰り返すのは自分たちなのだ。
ひゅるるるーっと遠くでそう聞こえたかと思うと、どーんという響きと共に、窓の外がぱっと明るくなった。
新年の合図の花火だ。
新しい世界の始まりだ。
「……長生きしやがれ。」
ちゅっ、と開いたページの一枚の写真に新年の挨拶を贈る。
過去に焦ったり―――――どう考えても他にもいろいろありそうな男だから――――寂しくなったりするけど、それもひっくるめて未来に新しい記憶や想い出を創っていって、人生でトータルして自分たちとの歴史の割合を増やしてやる。
とりあえず、朝が来たらお節を食べて、自家用ジェットで日本まで飛んで初詣してもいいな。コタローを病室から自宅へ移して、一緒にお正月を過ごして――――三日間家族で過ごそう。いつか目が覚めるとき、そのことを話してやろう。
(……年が明けたら、ゴミ処理場に電話しないとな。)
年末ぎりぎりに集められたゴミが、処理機に放り込まれる前に取り戻さなければ。
玄関ホールから「ただいまー」というグンマの声が聞こえてきた。
「外寒かったよー。シンちゃーん、どこー? ミルクココア飲みたい~。」
「はーいはいはい。」
アルバムを閉じて棚に戻すと、シンタローは倉庫を出て居間に戻った。
鼻の頭を赤くしたグンマと、逆に白くなっているキンタローがソファーの前に立っている。
父親が入ってきたシンタローを見て、笑顔の状態で口を開いた。
その様子に二人は後ろを振り返り、シンタローを見つけ、同じように唇をほころばせる。
しかし、シンタローの方が一呼吸早かった。
「あけまして、おめでとう―――――――――。」
2007/2/23
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時は師走の初め。
どうにも仕事が立て込んでいるので、正月中も働くというガンマ団新総帥の宣言に、前総帥は猛反対した。
というか駄々をこねた。
「お正月返上で仕事、だなんてそんな寂しいこと、パパの目が黒いうちは絶対に許しません!」
「あんたの目は青だろーが。そもそも、とっくの昔に成人した俺の行動にいちゃもんつける権限は親父にもねぇ! だいたい、後継者として日々励んでいる息子を激励するならともかく邪魔するって、前任者としても親としてもどうなんだ。」
とことん正論だった。
しかし、ときとしてまっとうな正論は強い欲の前に無視されがちな傾向にある。
「いつだって、パパはシンちゃんを応援してるよ。本当なら365日本部というかパパの隣にいてほしいのに、我慢してるじゃないか! そんな健気なパパのささやかなお願いを無視して仕事だなんて……ひどいっ、パパはそんな薄情な子に育てた覚えはないよ。」
わあっと泣き真似をする五十歳になったばかりの男を、シンタローは冷たい目で見た。
「……参考までに聞くが、どんな『子』に育てたつもりだったんだ?」
「えー、そりゃ『パパ大好き』って毎日言ってくれて、おはようおやすみそのほかもろもろのキスも忘れなくて、パパにべったりなパパっこに英才教育したのに!!」
「…………失敗したことを天に感謝しろ。」
息子のひきつり笑顔もてんで意に介す様子もなく、マジックはさらにシンタローの神経を逆なですることを言った。
「だいたい、パパも忙しかったけどさ、それでも大事な行事はなるべくシンちゃんと一緒に過ごせるように、仕事調整したのに、シンちゃんがなぜできないんだい?」
シンタローは内心ぶちっと切れる。
(俺が仕事できないってのか!? 第一、なるべくいたって言ったって、八歳の誕生日のときも途中で抜けたし、十二歳のクリスマスのときはイブにいなかったし、十四歳のときは逆に当日いなかったし! ほかにも細かいのがいろいろあったし! 毎回ちゃんと全部いたわけじゃないだろーがっ!)
結構執念深く覚えているシンタローだった。
けれど、それを口にすることはできない。
そんなことを言おうものなら『じゃあ、今からその分を取り戻そうよ』などと言うに決まってるからだ。
記念日やら思い出など、当日でなければ意味がないのに、これでは単に拘束の口実を与えてしまうだけだ。
「キンちゃんも、お正月くらいのんびりしたいよね??」
無言の息子に業を煮やしたのか、側にいた彼の補佐官に水を向ける。
家に持ち込んだ書類のチェックをしていたキンタローは、呼ばれて一応顔を上げた。
しかし、仕事大事の部分まで精神双子の彼の返事はマジックの期待を大きく裏切った。
「仕事が終わってからのんびりした方が、精神的に効率的だと思います。」
「ほーらな。親父もいい加減騒ぐのやめろ。ヒマになったら、構ってやらないこともないかもしれないと思うのもやぶさかではない。」
「……ものすごく、実現性の弱い約束より、お正月を一緒に過ごすために力づくで引き留める道をパパは選ぶね。」
マジックの目が怪しく光る。
しかし、シンタローは余裕綽々とばかり、従兄弟の首に手をかけ引き寄せた。
「ふん、俺たち二人とやりあって勝てるならな。」
「……別に俺は伯父と争う気はないが?」
「おまえ、仕事これ以上遅らせたくないだろ? 第一俺の補佐官だろ? なら、俺の敵はおまえの敵だ。」
「そうなのか。」
納得しかける甥に、マジックはにこやかに呼びかけた。
「キンちゃん、キンちゃんはお正月、初めてだったよね。」
「? はい。」
「おい……。」
きょとんとした顔で素直に頷くキンタローに、マジックは頷く。
「だよねぇ。お正月を一回経験したら何がなんでもゆっくり楽しみたいと思うよ。おせち料理やお雑煮がでるし、『はねつき』とか『カルタ』とか対戦試合もあるし、工作が大好きなキンちゃんならきっと、この中央の塔まで届く凧を揚げることができるよ。それにね、お正月にはシンちゃんが着物を着てくれるし。」
ひとつひとつ並べられていくにつれ、不遇な幼少時代を過ごしたキンタローがだんだん身を乗り出していった。
シンタローは慌てて、キンタローの肩をゆさぶる。
「しっかりしろ! キンタロー! 家族でカルタ大会やってもつまんねぇぞ! それに雑煮くらい作ってやるから!」
「着物は?」
「え……荷物になるし、外に持ってくのはちょっと……。」
「伯父上、俺も正月したいです。」
「待てえええい!!」
(そういや、最近あちこちの民俗学の本を読みあさってたっけコイツ…。)
あっさり寝返った補佐官にシンタローはくらりときたが、なんとか気を取り直し、憤然と二人に背を向けた。
「わかった、勝手に凧揚げでも百人一首でもやってろ! 俺は仕事する!」
「お年玉出すよ。」
「は?」
今にも外へ出ようとしていたシンタローの足がぴたりと止まる。
「だから、一緒にお正月するならお年玉あげるよ。」
……こうして、ガンマ団は正月休みを取ることになったのである。
しかし、だ。
やるとなれば徹底的にやるのが、パプワ島元主夫シンタローなのである。
三十一日の朝、惰眠を貪っていた父親の部屋に乗り込んできて、「起きろーー!」という叫びとともにシーツをひっぺがした。
ベッドから放り出された形のマジックは、サイドテーブルの上にかけてあったナイトガウンを身体に羽織りながら抗議の声を上げる。
「ひどいよ、シンちゃん。夜這いするんならもっとやさしくしてくれなきゃ。」
シンタローはエプロンした腰に両手を当て、父親を睥睨した。
「もう、朝だ……ほらよ。これ。」
渡されたものを目にしてマジックは怪訝そうな顔になる。
「これって……『バケツ』と『ぞうきん』?」
「はい、ご名答~。だから、これ。」
「いや、なんで?」
するとシンタローは、だんっ! と、床を鳴らした。
「正月らしいことしたいんだろ? だったら、『年末の大掃除』も手伝え!」
シンタローの予想外の命令に、マジックは当然抗議の声をあげた。
「ええええええ~!! 掃除なんて、毎日、使用人達がやってるじゃないか。今更どこを掃除しろと言うんだい?」
しかし、シンタローは引き下がるつもりはなかった。
仕事を休みにした以上、前々からやろうと思っていたことをやっつけてしまうつもりなのだ。
それにはまず一日中まとわりつくであろう父親を、部屋に釘づけにしておく必要がある。
「ガラクタの要不要は本人しかわからないから、みんなノータッチだろ。だから、今日を機会にガラクタ全部片づけちまえ。」
「ガラクタ?」
マジックの問い返しに、シンタローは片手をびしっと伸ばしぐるっと周りを指した。
「そ、こういう余計な『コレクション』は捨てろ!! なんなら俺が代わりにやってやる!」
シンタローが指し示したものは、いわずとしれた絵やら人形やらの『シンタローグッズ』。
マジックは蒼白になり、立ち上がって息子にすがりつこうとした……直前にさっと避けられてその場に倒れこむ。
しかし、必死で起きあがりコレクションを背で庇うように手を広げた。
「いくらシンちゃんでもこれだけは許さないよ! これはパパの命と家族の次に大事な宝物なんだからね! いわばシンちゃんとパパの愛のメモリーそのもの。どうしても壊すならパパを押し倒してからにしてくれ!」
「誰が押し倒すか!!!!!!」
シンタローはくわっと口を開いたが、父親の決意が固いのを感じたのか、ふう、とため息を吐いた。
「わかったよ、じゃあ、ここの掃除は親父がちゃんとしろよ。……キンタロー。」
肩越しに振り返って従兄弟を呼ぶと、はたき、洗剤、雑巾など、お掃除グッズを手にしたキンタローが部屋に入ってきた。
「じゃ、頼むぞ。」
「わかった。俺に任せろ。」
シンタローが部屋を出ていきながら、念を押すとキンタローは頷いた。
そして、はたきを手にしてあちこちの埃を払い始めたので、初めは怪訝そうな顔をしていたマジックも合点がいった。
「あ、キンタローに手伝ってもらうよう、頼んでくれたんだね。さすがシンちゃん、パパ想いなんだから。」
「………任務を全うすると、三が日俺が着物を選んでいいということになったんです。」
キンタローの答えにマジックは目を丸くした。
「ええっ。ちゃっかりしてるなぁ、キンちゃんは。ま、いっか。私のアルバムにまた多くの記録が残るわけだし。」
るんるん、と文字通り歌い出しそうな勢いで、マジックがシンタローの肖像画のガラスを拭く姿に、キンタローはちょっぴり罪悪感を覚えていた。
実は、先ほどのキンタローの答えは微妙にずれている。
意図的にずらしたのだ。
なぜなら、本当のキンタローの任務は『掃除の助手』ではなく、『監視』だったのである。
マジックが、ことが終わるまで寝室から出ないように見張ること、これが正月休み中着せ替え人形になることと引き替えに総帥が補佐官に与えた重要任務だった。
「うわ~~~~~~想像はしてたけど、『想い出の品』もこれだけ保存たら、壮観だねぇ。」
おせち料理に激甘二色卵十巻追加することを条件に、手伝いにかり出されたグンマはその部屋の光景に呆れとも感嘆ともつかない感想をもらした。
彼を連れてきたシンタロー自身はといえば、グンマの感想を無視し、がさがさとゴミ袋を広げ始めた。
ここは、先日、シンタローが見つけた父の書斎の隠し部屋の中だ。
かなり広く作られたそこは四方に棚が作られ、過去の機密書類らしきものが隠されていたが、問題はプライベートなものの割合が異常に高く、その内容もちょっぴり異常だった。
「うわっ、シンちゃんが小さい時履いてた靴じゃん……全部とってあるんだ。この分じゃ、服はもちろん、水着やら下着とかも絶対おいてそう。」
手前の小さい棚の引き出しにその言葉通りのものを見つけてしまったグンマは、口を噤んだ。
(見なかったことにしよう。)
即座にそう決断したグンマは、ぱたん、と引き出しを締めた。
シンタローをこっそり振り返ったが、彼はこちらに背を向けていたので恐怖のコレクションには気が付かなかった。
(正月前に身内を病院送りというのは、さすがに縁起が悪いもんねー。あとで、釘打って封印しとこう。それともいっそ部屋毎破壊するよう、シンちゃんをたきつけた方が早いかな。でもそんなことしたらおとーさまが半狂乱になって秘石眼暴走させたりしたら、めんどうだしー。)
「だーーーっ! もうっ!!」
シンタローの叫びに、脳内でいろいろ画策していたグンマはびくっと飛び上がった。
振り向くと、書類の棚の整理をしていたシンタローがそこに無限に並ぶ自分の『成長記録』に苛立ちを爆発させているところだった。
ものがものだけに、シンタローもさっきからなんとか整頓しようと奮闘していたのだが、あまりの量の多さにうんざりしてしまった。
「本部にいるときヒマさえあればカメラとビデオ持ち歩いてたから、想像はしてたけどな。いくらなんでも、これは多すぎじゃねーか。」
「高松もそんなもんだから、普通じゃない?」
「言っておくが、高松も普通じゃないから。」
びしっと突っ込んでおいて、シンタローはばらばらとアルバムをめくる。
なんだかんだいっても、ちょっとは懐かしい気分もあるのだ。
が、次の瞬間『コワイ話を聞いておねしょしちゃいました』写真が目に飛び込んできたので、ばたんとアルバムを閉じる。
「なにー? なんかおもしろいのあった?」
グンマがのぞき込もうとするのを押し戻して、シンタローはそのアルバムをゴミ箱につっこんだ。
「あーーっ! だめだよ、シンちゃん! ほかのものはともかく、アルバムは捨てちゃだめ! 大事な昔の記録なんだから。」
そう言って、ゴミ箱からそれを拾い上げて、シンタローをめっと睨む。
「そんなもん、大事じゃねぇ! 返せ! さっさと捨てる!」
シンタローが伸ばした手からなんとか逃げたグンマが、目を細めた。
「あのねー、シンちゃんだってコタローちゃんの写真山ほど撮ってるでしょ? それはどうなの?」
「うっ……!」
痛いところをつかれて、シンタローが口ごもるのをグンマはここぞとばかりに攻めた。
「おとーさまにとって、これは他のなにより大事な宝物なんだよ。シンちゃんが生まれて一緒に過ごした記録っていうのは。これの一枚一枚に、あのときはああだった、こんなことがあったという想い出の地図があるんだと思う。だから、アルバムの中身はそのままにしておいたげようよ。」
「うん……。」
シンタローが不承不承頷くと、グンマはにっこり笑った。
「よしっ、じゃあ、ボク、あっちを見てくるね。」
そう言って大きな棚の影へ消えていくグンマを見送りながら、シンタローはおいていったアルバムを拾い上げた。
もう一度中をめくると、幼い頃の自分が大好きな叔父に抱き上げられはしゃいでいる写真が出てきた。
その隣はもう一人の叔父と泥団子のぶつけ合いをやっている。庭の芝生を泥だらけの水浸しにしてしまい、ちょうど帰宅した父に見つかってたいそう叱られたことを覚えている。そんな時でもぱちりと一枚撮るのを忘れないのは、怒りを通り越してお見事と言うしかない。
このころは、毎日が楽しかった、とシンタローは思った。
今日よりもっとよいことが明日起こると信じて疑わないくらい一日が満たされていた。
自分が誰にも似ていないという事実がたまに胸を指すことがあるけれど、まだその意味がよくわかっていなかったし、家族の誰かがそのことで自分を非難したりすることもなかった。
従兄弟と一日中遊んだり、たまに叔父が帰ってきたり、毎日がいつもきらきらと輝いていた。
何より、大好きな父親がいてくれたから。
ちらっと、右隣の棚を見る。隅の方にあるそのアルバムは、ほんの数年前の日付が書いてある。ちょうど、コタローと引き離された時代だ。
父親を憎んで許せなくて、それでも離れることもできなくて、もがき苦しんでいた自分はどんな顔で写真に写っているんだろう。
そう思うと、今手にしている写真に写っている自分の無知さが苦々しく思える。
この先、どんなことが待ち受けているか知らず、与えられた幸福が永遠だと信じているこの頃の自分が。
作業に戻ろうと、アルバムを閉じて棚に戻した時、その列の端に並んでいた別のアルバムが十冊ほど床に音を立てて落ちた。
どうやら、場所を詰められたことによってバランスが崩れてしまったらしい。
「あーあ。」
アルバムから落ちた写真を拾い集め、アルバムをめくってそれらしき場所に入れていく。落ちたのは数枚だが、結構な手間だ。
(それもこれも、こんなに写真をとりだめてるあのバカ親父が悪いんだ!)
半分言いがかりのような文句を頭の中で言いながら、しばらくの間、せっせと写真を戻していたシンタローの手が、ぴたっと止まった。
「……誰だ、これ……。」
写真に写っていたのは、まだ少年の父親と、その部下たちだった。
シンタローの視線が集中したのは、父親の左後方に控えている若い男だった。
年の頃は二十代そこそこ、ノンフレームの眼鏡をかけた線の細い蜂蜜色の髪の持ち主だ。
ガンマ団の制服を着ているし、別に取り立てて変な所はない。けれど、一目見て違和感を覚えた。
――――――その男は、父の近くに立ちながら、嬉しそうに微笑んでいたのだ。
「シンちゃん、どうしたの? 美味しくない?」
ぼんやりとフォークでチキンをつっついていたシンタローは、父親に声をかけられて慌てて顔を上げた。
朝の早い内から精を出したおかげで、なんとか作業の目処がたったので、全員で遅い昼食をとっている最中だった。
「そんなことねーよ。」
「でも、さっきから食が進んでいないみたいだが。」
二人の会話に並んで席に着いていたキンタローとグンマも、シンタローの方を見る。
三組の青い目に注目されて、シンタローは誤魔化そうとした。
「……仕事のこと考えてただけだ。」
マジックは腑に落ちないようだったが、グンマは「もう」とむくれた。
「シンちゃんは仕事のしすぎ! 目標があるのはいいことだけど、いそぎすぎると達成する前に身体を壊すよ。」
確かに今年はほとんど遠征に出ていて、休暇など数えるほどしかとっていない。けれど、きっと来年も自分は走り続けるんだろうな、とシンタローは思う。
この世界のどこかにいるはずの『トモダチ』に会ったときに、恥ずかしくない自分でいたいから、自分は立ち止まるわけにはいかない。
この世界にさんざん傷つけられた弟が、夢の世界から安心して戻ってこられるところを自分は作らなければいけないから、何があっても突き進まなければいけない。
けれど、口に出したのはそんな正直な想いより、家族を安心させてやる『嘘』だけだった。
「まあな、今年は思ったより成果が上がったから、来年は少しはゆっくりするさ。」
「そうなの? よかったぁー。キンちゃんは?」
「総帥がそう言うなら俺に依存はない。」
「副官ぽい言い方だねぇ~。」
グンマの軽口に、シンタローははっとした。
(あのメガネ! 『秘書』って雰囲気じゃないとは思ったけど、あの位置から考えるともっと対等に限りなく近い『副官』とかじゃねーのか。)
しかし、その思いつきをシンタローはあっさりと却下した。
自分の知る限り、父親が『副官』という者を側においたことはない。『補佐』なんてものこの父親に必要ないからだ。
なんでも自分の一存で決めて、またそれを押し通す力を持っている男。
それがシンタローの知る『マジック総帥』だ。
誰かの助言を乞うとか、サポートしてもらうとか、そんな発想が頭の中にあるとは思えない。
けれど、あの男がただの部下とはとても思えない。
なぜなら、父の隣に立つその男が笑顔だったからだ。
一族の中でもずば抜けた力を持ち、残酷、冷血と呼ばれた覇王の隣に、こんな気安く立つ人間なんて自分は知らない。
秘書の二人はおろか、実の弟であるサービスやハーレムですら、父の側にいるときはかすかに緊張していた。そう見せないよう振る舞っているが、シンタローには分かる。
叔父達とは違う意味ではあるが、自分だってそうだった時があるからだ。
幼い頃は父を怖いなどと、思ったことは一度も無かった。強くて優しくて、なにより、母親が不在の自分にとって父親はたった一人の家族だった。
それが変わり始めたのは、父の瞳に宿る冷たい輝きを知った頃、けれど、その時はとまどいこそあれ、恐怖など感じなかった。家族であり、慈しんでくれる相手を恐れる理由なっどなかったからだ。
だが、弟を監禁したとき―――――止める自分をも殴ったとき、自分は怒りとともに、はっきりと恐怖を感じていた。
父を誰より理解していると、いや、知らないことなんてないと思っていた。
なのに、目の前にいる男の考えていることがわからない。
家族という絆を自らの手で壊すこの人間は誰なんだ。
二十四年間、自分の父親であり、誰より近しい人間の、その『知らない』部分があるということが怖かった。
今はもう、そんなものは感じないけれど、自分でさえ一度は恐れた男の横で、にこにこと笑っているあの男の存在が信じられなかった。
「……ちゃん…シンちゃん、ねぇっ!」
「あ? なんだ?」
大声を出されてシンタローが顔をそちらに向けると、グンマはため息をついた。
「言ってる側からこれだ。ほんとーに、お正月はゆっくりするんだよ。電話も受けちゃだめだからね。」
「わかったわかった。なら、ゆっくりするため、掃除の続きしてくっか。」
そう言って席を立つと、食堂を出た。
しかし、掃除に戻ったものの、頭からどうにもあの写真のことが離れない。
(髪の色や雰囲気からして、一族の人間だろうな……。)
祖父の代の資料などを見ると、昔はもう少し一族の数も多かったらしい。それが、いつの間にか、かなりの数の人間が減っている。父の代から、さらに力を増してきた……つまり、征服した国の数が爆発的に増えているので、それに伴って犠牲の数も増加したということだろう。
この男も、そうした犠牲の一人になったのだろうか。
その時、父は悲しんだのだろうか、それとも、弱い者はいらん、とあの酷薄な笑みを浮かべたのだろうか。
(……気分わりぃ……。)
後者であることを自分が密かに願っていることに気づき、シンタローは自己嫌悪に顔をゆがめた。
「スチームクリーナーとってくる。」
シンタローが立ちあがると、奥にいたグンマが怪しい着ぐるみの熊をひきずりながら出てきた。
「ボク、とってこようか? ちょうど水飲みたかったし。」
「いや、俺が行く。ついでだから、なんか探してきてやるよ。」
クリーナーを取りに行くのは単なる口実で、本当はこの『過去』がたくさん詰まった部屋にいることが息苦しくなってきたからだ。
自分の過去がしまわれている同じ場所に、自分が会ったことのない父親の過去が共存している。それはその部屋の主の心そのものだ。
それに耐えきれない苛立ちを感じ、シンタローはその場から逃げ出すことによって、その嫌な気分からも逃げようとしたのだった。
とりあえず台所に行き、残っていた使用人にクリーナーを出してもらった。彼らが掃除を申し出てくれたが、あの部屋に他人を入れるわけにはいかず、シンタローは断った。
それに、彼らも今日から休暇に入る。何人かは、もう出発しているし、残っている者たちも殆ど仕事を済ませているようだ。手伝わせるのも気の毒だ。
「俺たちも自室だけだから、手伝ってもらうほどのこともない。一年間、ご苦労さん。来年もよろしくな。」
そうねぎらうと、全員深々と頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いします。」
「じゃ、これ、借りてくぜ。」
シンタローはその掃除機にも似た機械を片手に持つと、もう片方の手にオレンジジュースのペットボトルを掴み、部屋へと戻ろうとした。
しかし、その途中でよりにもよって、苛々の原因と出くわしてしまったのである。
壁にもたれかかって、いかにも自分を待っていたという風情のマジックをシンタローはじろっと睨んだ。
「おい、さぼってんじゃねーぞ。さっさと部屋へ帰れよ。」
「ちゃんと終わらせたよ。キンタローも自分の部屋へ戻った。」
「そうかよ、じゃあ、あんたも部屋に帰っておとなしくしてな。」
素っ気なくそう言って、シンタローはその場を通り過ぎようとしたが、ふいに背後から伸びてきた手に後ろに引き戻された。
「うわっ てめ……!」
仰向けにひっくり返りそうになったシンタローを、広い胸が抱き留める。
「――――倒れてもいいよ。シンちゃん。」
いきなり言われたその言葉にシンタローは、目を見開いた。
両肩に置かれた手は温かく、力強い。
「やりたいようにやりなさい。おまえはそういう子だ。もしそれで倒れるようなことがあっても、私が――家族がいる。ちゃんと支えてあげるから、好きなだけ走りなさい。」
さっきの食堂でのグンマの苦言のことを言っているのだと、シンタローはすぐに気づいた。
胸が詰まりそうになるが、素直に礼を言うのも癪だった。
「えらそーに、なんでも分かってるみたいなこと言いやがって……。」
「知ってるよ。なんていったって、シンタローを二十五年間見守って育ててきたのはこの私なんだから、シンちゃんのことで知らないことなんてひとつもない。」
『シンちゃんのことで知らないことなんてない』、その言葉に、緩んでいたシンタローの頬がびしっと強張った。
「………ざけんな。」
「え?」
地を這うような低い呟きに、マジックは怪訝に思って、よく聞こうと身を乗り出した。
しかし、その行為が彼の命取りになったのだった。
「ふっざけんじゃねぇええ!!」
シンタローが勢いをつけて上体をそらす、容赦のない頭突きが背後にいたマジックの顔面に炸裂した。
「ぐわっ!」
鼻筋を強く打って、後ろによろける父親から素早い動きで数歩離れると、シンタローは振り返って怒鳴った。
「確かに、俺を育てたのはアンタだけどな、俺のことをなんでも知ってるなんてうぬぼれんのもいい加減にしろっ! 俺はもう何もできない子供じゃねーんだよ! どこにだって行けるし、あんたが知らない人間とつきあったりするし、えらそーに言われる筋合いはねぇっ!」
「? シンちゃん?」
鼻を押さえながら、きょとんとした顔をする父親と目があって、シンタローはかあっと顔を赤くした。
(うわ、俺サイテーじゃん。)
これでは単なる八つ当たりだ。
もしくは嫉妬。
理不尽だと分かっているが、自分の知らない人間を側に置いていた父親に腹がたってたまらない。
くるっと踵を返し、大股で部屋へと急ぐ。
(だって、むかつくものはしょーがねーじゃん!)
一族の人間で、他人を信用しない父親の側に平気な顔でよりそうことができて、しかもそれを父が許している
そんな人間は、自分くらいだと思っていたのに。
単なる過去だと分かっていても気に入らない。
記憶の中―――――少なくとも、写真の中に、この男はいまだに残っている。
「くそっ…!」
シンタローは唇を噛むと、力任せにドアを開けた。
「わっ! どうしたのシンちゃん!」
脚立に腰掛けて、アルバムをめくっていたグンマが驚いて顔を上げた。
シンタローはむくれたまま、手に持っていたペットボトルをグンマに放ってやる。
「どうもしない。それより、掃除さぼってんなよ。」
「さぼってないよー。殆ど終わったからシンちゃん待ってたんじゃん。」
確かに、部屋の中はすっきり片づき、後は床を磨くくらいだ。シンタローが処分すると決めた洋服やそのほか一切は、それぞれ分類して袋に入れてある。
「後は処理場に運ぶだけだけど……本当に捨てちゃうの? シンちゃん。」
「何を今更。」
おおかた面倒くさくなったんだろうと、シンタローが呆れるとグンマはんー、と己の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「確かにここにあるものは、『過去の遺物』なんだろうけどさ。おとーさまにとっては、ある意味現在進行形のものなんだよ。」
「どういう意味だよ。」
「アルバム見てて思ったんだけどさ、今も昔も、おとーさまにとっては、シンちゃんは総帥というより大事な『子供』のままなんだ。そりゃ、もうシンちゃんはあひるの帽子なんかかぶらないけど、おとーさまにとってそれはシンちゃんのものだった帽子、じゃなくて、シンちゃんの帽子、なわけ。……だからさー、別にいいじゃん。うち、こんなに広いんだし、わざわざ処分しなくたって。」
「………。」
「ね?」
グンマはなだめるように、シンタローの顔をのぞき込んだ。
しかし、シンタローはそれから目を反らし、スチームクリーナーを床の上に置いた。
「処分しなけりゃ、いつまでたっても片づかない。」
「も~! 頑固なんだから。」
グンマの非難を背中に受けて、シンタローはスイッチを入れた。
独特の臭気を放つ蒸気が勢いよく辺りに広がる。
その白い蒸気の中、顔を伏せシンタローは黙々と床をこすった。
ポケットの中で写真ががさがさと動いて気持ち悪い。
『処分しなけりゃ、いつまで経っても片づかない』
本当は―――――処分したいものは、こんなモノじゃなくて、過去そのものなのだ。
自分のいない父親の二十五年間、生きてきた時間の半分。
父にとっても、あまり振り返りたくない種類のものらしい。
父の父、つまり祖父が若くして戦死した後、父が何を想い、どう生きてきたのか、シンタローは父の口から聞いたことがほとんど無い。
聞いたとしても、おそらくはぐらかされるだけだろう。
自分だって、弟や小さな友人に戦場での経験なんて話したくなかったから、その気持ちは理解できる。
自分でも正視したくない過去。
思い出しても苦しいだけの記憶。
なら、処分してもいいのではないだろうか。
ポケットの中でさっきから身動きするたび、がさがさと存在を主張するそれに指が伸びそうになる。
それから気を逸らそうと、シンタローは一心に床を磨くことに専念した。
熱い蒸気に埃が浮かび上がり、雑巾に水滴毎吸い込まれていく。
染みをすべてこそげ落とそうと、シンタローは腕に力を込めた。
夕食に年越し蕎麦を食べたあと、グンマとキンタローがいそいそと出かける準備をし始めたので、怪訝に思ったシンタローが行く先を尋ねると、顎がはずれそうな答えが返ってきた。
「除夜の鐘を鳴らしに行く。」
「はぁ?」
まさか、日本まで行くのだろうか、とシンタローは不安になった。
いくらなんでもそんな馬鹿な、と思うが、なにせこの二人だ。「面白そうだから」「興味があるから」と、日本の寺まで突っ走っていきかねないことは、経験上よく知っている。
シンタローの心配を読みとったのか、グンマは「ちがうよー」と笑った。
「僕らが日本まで行っちゃうんじゃないかと心配してるみたいだけど、そんなことするわけないでしょ。基地の広場だよ。レンタルの鐘を、残ってる団員たちと撞くんだー。」
「そっか、なるほど……って、その費用はどっから!? というか、レンタルでそんなもんあるのか!?」
「あははははっ。いってきま~す。」
「行くぞ! グンマ、俺たちが一番目だ。」
「待てーーーー!」
言いたいことだけを言って、夜の闇に逃げ込む二人を呼ぶシンタローの声がむなしく響く。
(キンタローの興味を日本文化から、はやく別の方向へうつさねえと……ひょっとして、身体を返す前、俺が日本へ行きたいってずっと思ってたから、その影響が残ってるのかもしれない。)
シンタローはがっくりと肩を落としながら、リビングへ戻った。
「二人は出かけたのかい?」
ソファーに座って、くつろいでいた父親に聞かれ無言で頷く。その時、彼の膝の上にアルバムが乗っているのを見て、一瞬ぎくりとしたが映っているのは子供の頃の自分だった。
ほっとした反動で、つい憎まれ口を叩いてしまう。
「まーた、アルバムかよ。好きだなー、過去振り返るの。」
「ああ、好きだよ。かわいかったもんねー、このころのシンちゃん。いっつも、パパ、パパってついてきてくれるし、イヤミ言ったり、暴力ふるったりしないいし。」
「あ、そ。」
にっこりと父親が笑った。
「なにより、この黄色のセーターを着ている小さな子供が、寝て目覚めて、また寝て、を繰り返して、ひとりで本を読めるようになったり、自転車にのれるようになったり、パパと遊園地に行ったりと、いろんなことを経験して、イヤミ言ったり、暴力ふるったりする赤い上着を身にまとった総帥になるんだって思うと、余計かわいくて仕方ない。」
親馬鹿丸出し発言に、こんなことにはいい加減慣れっこになっていたはずのシンタローだったが、前へつんのめりそうになった。
なんとか態勢を取り直して、「へえー」と無関心を装ったが、マジックは特に気にする様子もなく、なおも話を続けた。
「過去を振り返ったり、想い出を反芻することは、一概に後ろ向きなこととは言えないよ。『今』があるのは、『昔』があるからだろう。人間が思っているほど過去と現在の距離は遠くない。楽しかったり、悲しんだり、怒りを感じたり、いろいろな体験をして、今があるんだ。私は、おまえがどんなふうに過ごして、今のおまえ自身を創り上げたのか、ずっと見てきた。そうできたのは、私の一番の幸運だと思っている。」
父親はそこで言葉を切って、アルバムを閉じる。
「だから、実は悔しいんだ。―――――おまえの人生にとって重要な時間である『あの島』の日々を知らないことがね。」
現在を愛することは、過去をも愛おしむことと変わらない。
幼少時代の甘いお菓子のような日々も、どうしようもない苦しみに流した涙の数も、みな、今を創ってきた大事なパーツだ。
だから、今、自分に穏やかな笑顔を向ける父親を創ってきたものたち――――――自分が知らない父の時間にいるあの男の存在が悔しかったのだ。
そう、自分が嫉妬していたのは、あの笑顔にではない。
『自分がいない頃の時間』そのものに、焦燥を感じていたのだ。
ゴオ―――――――ン……。
「あ、鳴った。」
かすかに響く重低音に、二人は顔を上げた。
「本当に借りてきたのかよ。ああ、請求書が………レンタル料っていくらだろ。」
頭を抱えるシンタローにマジックがフォローをいれた。
「まぁまぁ、経費を使いたくないんなら、パパがあげるお年玉で払ったら?」
「う~~~ちっくしょー、ただ働きかよぉ~~。」
シンタローが唸ると、それに返事するように鐘が『がっ』と鈍い音を立てた。
「あれはグンちゃんだね~。間違いなく。」
マジックが確信を持ってそう言いきった。
撞木を撞く弾みにひっくりかえりそうになっている彼の姿と、おろおろしているその従兄弟の姿が目に浮かび、シンタローはやれやれと苦笑する。
きっと、痛いだ、寒いだとべそをかきながら帰ってくるだろうから、温かいココアか何か用意しておいてやるか、とシンタローはキッチンへ向かおうとした。
ドアを開いて、振り返ると再びアルバムを取り上げた父が目に映った。
優しい目をして自分たちの生きてきた時間を見つめるその横顔に、小さな声で囁く。
「………………来年もよろしく。」
あるか無きかの呟きのような声に、マジックが「何か言ったかい?」と聞き返した。
「べつに、たいしたことじゃねぇよ。」
焦ってそう言うと、後ろ手でドアを閉める。閉まる直前、その隙間から滑り込むようにして笑いを含んだ声が聞こえた。
「こちらこそ。」
(~~単なる社交辞令だっつーの!)
シンタローは扉越しに父親を睨むと、そこから離れた。
台所に向かうようなふりをして、こっそりとあの倉庫に入り込む。
時代だけ確かめた後、合致したその中から適当なアルバムを一冊抜いた。
ぱらぱらとめくり、空いている場所に持ち歩いていた例の写真をはりつけた。
笑顔の男に対しては今も複雑な気分だが、しょうがない。この男との間に何があったにせよ、それを通ってきて今の父親があるのだから。
過去のマジックは自分の父親じゃないけれど、二十五年前からずっと先の未来まで永遠に自分の父親だ。
年が暮れて、また新しい年がきて、それを何度も繰り返してきて、そしてこれからもずっと繰り返すのは自分たちなのだ。
ひゅるるるーっと遠くでそう聞こえたかと思うと、どーんという響きと共に、窓の外がぱっと明るくなった。
新年の合図の花火だ。
新しい世界の始まりだ。
「……長生きしやがれ。」
ちゅっ、と開いたページの一枚の写真に新年の挨拶を贈る。
過去に焦ったり―――――どう考えても他にもいろいろありそうな男だから――――寂しくなったりするけど、それもひっくるめて未来に新しい記憶や想い出を創っていって、人生でトータルして自分たちとの歴史の割合を増やしてやる。
とりあえず、朝が来たらお節を食べて、自家用ジェットで日本まで飛んで初詣してもいいな。コタローを病室から自宅へ移して、一緒にお正月を過ごして――――三日間家族で過ごそう。いつか目が覚めるとき、そのことを話してやろう。
(……年が明けたら、ゴミ処理場に電話しないとな。)
年末ぎりぎりに集められたゴミが、処理機に放り込まれる前に取り戻さなければ。
玄関ホールから「ただいまー」というグンマの声が聞こえてきた。
「外寒かったよー。シンちゃーん、どこー? ミルクココア飲みたい~。」
「はーいはいはい。」
アルバムを閉じて棚に戻すと、シンタローは倉庫を出て居間に戻った。
鼻の頭を赤くしたグンマと、逆に白くなっているキンタローがソファーの前に立っている。
父親が入ってきたシンタローを見て、笑顔の状態で口を開いた。
その様子に二人は後ろを振り返り、シンタローを見つけ、同じように唇をほころばせる。
しかし、シンタローの方が一呼吸早かった。
「あけまして、おめでとう―――――――――。」
2007/2/23
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俺の言うことを聞け!
眩しいひかりが鼻を掠めた。
「――もう、朝か」
重い体を起こし、ベッドの上でシンタローは髪をかき上げた。
寝汗が背に貼り付いて気持ちが悪い。
総帥服を脱いで、プライベートの時間ともなれば長い髪は一つに括るのが常だった。眠る時さえも。
けれど昨日のように一人寝でない日は別だ。
昨夜、髪を梳かれながら解かれたゴムをシンタローはサイドテーブルに発見した。
「ふん」
黒いゴムは同色のシンタローの髪と違い、サイドテーブルの白の上では酷く目立つ。
おまけにそれをあの男の指が抜き取ったかと思うと重い下肢が疼いた。
「ちっ」
舌打ちしながらシンタローは横を見る。
シーツの皺を指でなぞるとそこは冷たい。支度をしに自室へと戻ったのか、と理解してシンタローはこの部屋から朝帰りをした従兄弟の名前を呟いた。
「ったく、キンタローのヤツ……」
どこが明日に差し支えないようにすればいいんだな、だ!差し支えありありじゃねえか。
途中から人のいうこと聞かずにいいようにしやがって。そりゃ、先に誘ったのは俺だから自業自得なんだけれども。
腰が痛ぇ、とぼやきながらシンタローはベッドを下りた。
*
先週半ばに行われた士官学校の入学式とは打って変わって、ガンマ団の入団式は厳粛なものだ。
士官学校では、きらきらとした目に期待と不安を浮かべていた彼らが数年立つとこうも表情が変わるのかと感慨深く思える。
一糸乱れることなく整列した彼らの目は子どもだった学生の頃とは違う。
敬礼の姿勢を取ったまま微動だにせず、彼らは一様に真剣な眼差しでシンタローを見つめていた。
式典ということもあり、そう硬くなるなとも言えずシンタローは祝辞を述べるべく前へ進んだ。
父親である前総帥が引退後、初めてこの場に立ったときは柄にもなく緊張したものだったが、今はそうでもない。
(ま、ちっとは慣れてきたしな)
式典だけでなく総帥業全般に。まだまだ父親であるマジックに並び立てたとは言えないけれども。
(……だいたい団員になったのもそんな昔じゃねえしな)
ずらりと並ぶ新団員たちを見回しながらシンタローはふうっと息を吐いた。
彼らのように入団式に臨んだ頃は自分がこんなにも若く総帥に就くとは思ってもいなかった。
人生って分からねえよな、とマイクに手をやりながら思う。
(後悔なんてしてねえけど)
やるっきゃねえし!とシンタローはきりっと前を見た。今この瞬間も総帥としてやるべきことをしなければならない。
大勢の瞳に見つめられながら、シンタローは口を開いた。
**
「だー!疲れたぜ」
式典なんて肩が凝る、とシンタローは首を回した。それから、はーっと大きく息を吐いてソファにどかっと座る。
祝辞を読んだ後も士官学校を首席で卒業した新団員の宣誓があったり、各部隊の訓示があったりと気の休まる時間はなかった。
自分が入団したとき依頼何度も聞いているような話とはいえ、総帥の立場もあってうたた寝するわけにも行かず気を張っていた。
式が終わり、舞台の袖から退出する折に、裏で寝こけていたコージを発見して蹴りつけたのは言うまでもない。
おまえ、護衛だろ!寝てんじゃねえよと文句は言ったものの大らかなコージは殺気がしたら起きると笑って返すだけだった。
「……昼メシん時も休めねえんだよな」
シンタローはソファに体を投げ出したまま、常に己の傍に控えている補佐官へと視線をやった。
「ああ。いつもどおり士官学校の教官と会食だ」
今更聞くまでもないだろう、と補佐官である従兄弟のキンタローは手元の書類から目を話さずに言う。
「なんだよ?おまえ、それ。休憩のときはちゃんと休めよな」
「急ぎのものだ。後でおまえの判もいる」
「……おい、聞けよ」
シンタローがじっと睨みつけてみてもキンタローは視線を合わせようとしなかった。
そればかりか、読み終えた書類の束を目も合わさぬままほいとばかりに手渡してくる。
癪に障ってシンタローは受け取らないでいたが、書類を掴んだ片手が何時までもそのままだったため、仕方なく受け取った。
「ああ――これか」
渡された書類はセキュリティシステムの見直しについての企画案だった。
ガンマ団本部の情報は堅牢に守られているとはおよそ言いがたい。
今は総帥であるシンタローも実力ナンバーワンだったとはいえ易々とコタローの幽閉されている場所を探り当てることが出来たし、何より有耶無耶に誤魔化されたとはいえ特戦部隊が傍受していたらしい疑惑もある。味方だからいいが、総帥と跡取りの不在が敵国にでも知られていたかと思うとぞっとする。
ぺらぺらと紙の束をめくるとシンタローは人知れずため息を吐いた。
ガンマ団お抱えの科学者と技術者が提言する新システムについての記述は疲れた頭を差し引いても理系でないシンタローの目を滑っていく。
(ンなもん渡されたって分からねえよ)
最後まで一応目を通すと――本当に目を通しただけだ――シンタローは紙の束をテーブルへと放った。
「こういうのはお前に一任してあるはずだろ」
「……」
投げられた書類にちらりと視線を送っただけでキンタローはまた手の中の書類へと没頭していた。
「ずーっと前から言ってるだろ。こういうのはお前やグンマが専門なんだしよ」
ハンコだけ押せといわれたほうが良い。そうシンタローが文句を言うとキンタローは
「――ハーレム叔父貴の詐欺に引っかかるぞ」
と言った。おまえが空の手形にサインをしたいなら止めはしないが、と淡々と返すキンタローにシンタローは何も言い返せない。
たしかにいつの間にか書類の束に紛れ込まされたら分からないだろう。
一族から借金どころか横領までしでかしている放蕩者の叔父の姿を思い浮かべてシンタローはため息を吐いた。
だいたいすべての書類に目を通すのは指摘されるまでもなく総帥として当たり前のことだ。自分と同じく科学畑でない父のマジックもこなしてきていた。
当然といえば当然なのだが……。
(やっぱ、性に合わねえもんは合わねえんだよ)
テーブルに放り出した書類に目をやりながらシンタローは口をぎゅっと引き結んだ。企画案のタイトルに含まれている単語も難しい。
横文字じゃなくて日本語にしろよな、と内心毒づきながらシンタローがぶすっと黙っているとキンタローは次の紙の束を寄越した。
渡されたそれをしぶしぶ受け取りながらシンタローは
「これでオシマイだろうな?」
と念を押す。
「これ読んだら教官が来るまで休むからな」
「ああ。好きにしろ」
言いながらキンタローはジャケットから手帳を取り出していた。何かを書き付けているキンタローを見ながらシンタローは「おまえもだぞ」と口にした。
「いいか!俺が読み終わったらお前も休憩だからな!」
休むのも大事なんだよ、といいながらシンタローは書類を捲る。
キンタローから返事はなく、ペンを動かす音だけが耳に届いてきてシンタローは3枚目の紙に差し掛かったときに何気なく呟いた。
「さっきから人の話を聞いてるんだか聞いてねえんだか……」
「聞いている」
「……ああ?」
返ってきた言葉に顔を上げるとシンタローは胡乱げに従兄弟を見た。
見ればキンタローも手を止めてじっとシンタローを見つめている。
「お前の言う事はいつも聞いている」
きっぱりと言い切られてシンタローはたじろいだ。
ウソだ、聞いてなかっただろ!と文句を付くこともできずにうっと詰まっているとキンタローは微かに口角を上げ笑った。
「昨日など言うことを聞きすぎたと思っているが」
俺もお前と同じく寝不足だ、とにやりと笑う従兄弟にシンタローはカーッと頭に血を上らせた。
「嘘つけよ!途中から好き放題してくれたのはお前じゃねえか!大体、俺のほうが負担が大きいんだよ!
俺はもう無理だって言っただろ!それをおまえがあんなことするから!」
「あんなこと?」
「―-ッ、ともかく!お前が俺の言うこと聞かねえからだ!」
ふざけんなっ!とシンタローは従兄弟に掴みかかった。テーブル越しの無理な体勢で重い腰に負担がかかる。
眉を顰めながらシンタローは従兄弟に向かって
「今度するときはちゃんと俺の言うこと聞けよ!!」
と叫ぶ。
「いいか!分かったな!」
指を突きつけたシンタローにキンタローは「ああ。分かった」としらっと口にした。
「ちっとも分かってねえだろ!その顔は!」
もうちっと反省しろ!とシンタローは突きつけていた指を開き、従兄弟の頭を叩いた。
ぱしんと小気味のよい音が鳴る。避けることもしなかったキンタローは打たれた瞬間、目を細めていたが痛がることはせずにさり気なく従兄弟の手を取った。
「――"今度"するときもお前の言うことを聞けばいいんだろう」
重々分かっていると微笑みながらキンタローはシンタローの指に軽くくちづけを落とした。
掠める微妙な感触にシンタローはうわっと仰け反る。
「し、仕事中だ――」
「休憩中だろう」
慌てるシンタローの言葉を遮るとキンタローはにやりと笑った。あまりにも堂々としたその反応にシンタローの方が詰まってしまう。
「そうじゃなくて!あーだから!」
ともかくお前は俺の話を聞け!とシンタローは怒鳴った。
問題を摩り替えるんじゃねえ!と真っ赤な顔で怒鳴るシンタローと意にも返さないキンタローの言い争いは控え室のドアをノックされるまで平行線を辿るのだった。
End
初出:2007/04/13
Rehydration
午後の予定が何もなくてよかった、とシンタローは秘書に渡されていた書類の最後の一枚にサインをしながら思った。
頭が重くてなんとなくだるい。適当に片付けるとシンタローは椅子から立ち上がった。
立ち眩みこそしなかったものの、つきんと頭に痛みが走る。
部屋に帰って寝るか、と脱いであったジャケットを片手に総帥室を後にするとエレベーターを待つ間に「おい」と声がかかった。
「なんだ?キンタローか」
なんか用か、とシンタローは尋ねた。この時間、オフになるのは自分だけのはずだった。
グンマは外の学会に行っているし、父親も外出している。キンタローの予定は確か研究室で高松の監督の下、簡単な実験を行っているはずだった。
「高松がグンマに呼ばれて暇になった。手合わせしろ」
有無を言わさぬ口調のキンタローにシンタローは苦笑した。
本部に戻ったころはいちいちそんなことにムッときていたものだがもう慣れている。それにキンタローの方も徐々に打ち解けてくれていてかつてのような刺々しい殺気はなくなっていた。
手合わせを求められてシンタローはこの前コイツとやりあったのはいつだっけ?と考えた。
考えてみると継いだばかりの総帥の仕事が忙しくてキンタローの相手どころかジムにも足が遠のいていた。
何度か遠征にも赴いたがどれも総帥の初陣を飾るべくガンマ砲一発で片付くような簡単なもので、デスクワークばかりの体は鈍っているといってもよかった。
「何か用事があるのか?嫌ならいい」
黙っているシンタローにキンタローはそう声をかけた。
こいつ、最近人のこと気を遣い始めるようになったよな、と高松の教育の成果をシンタローは認める。
「いや。やる。今からだろ」
体を動かせば頭痛も取れるかもしれない。
知恵熱じゃねえけどストレスが溜まってたのかもな、とシンタローは頭に手をやった。
触れた髪がばさばさと動いてシンタローははっとした。
「なあ、紐かゴムねえと……」
髪が邪魔でやり辛いから部屋まで取りにいく、とシンタローが口にする前にキンタローはスーツのポケットをまさぐった。
「ちゃんと持ってきている」
用意がいいな、と思いながらシンタローは黒いゴムを受け取った。
フィットネスマシーンが置かれていないだだっ広いフロアでシンタローとキンタローは向かい合った。
左側の壁には鏡が貼られている。
武道の型やボクシングのフォームを確認するためだ。
フロアの壁にかけられている時計の針が12を指したらはじめようぜ、というシンタローの提案にキンタローも乗った。
レフリーがいないから仕方がない。この前手合わせしたときはグンマに頼んでいた。
だが、従兄弟はいないし、この時間、ジムを使っている団員もいなかったのでこの方法しかない。
かち、かち、と時計の針が動くのを横目で見ながらシンタローはぶるりと身を震わせた。
士官学校を卒業したての時でもないのに武者震いが止まらない。
コイツとやり合うのは楽しんだよな、と思いながらシンタローはぺろりと己の口唇を舐めた。
時計の針が12の1と2の間をまっすぐに差した。
「かかってこいよ、キンタロー」
上体をガードしながらそう言い放ったシンタローにキンタローは望むところだと言わんばかりにフロアの床を蹴り上げた。
何度か攻防を繰り返したもののなかなか隙が見えてこない。
キンタローを鏡に追い詰めながらも今一歩踏み出せなくてシンタローは舌打ちした。
前に出るどころか体はよっぽど鈍っているようでなんだかふらふらする。気を張って構えているもののこんな調子じゃ前線で足手まといになる。
どこでもいいから突破口を開こうと、シンタローはキンタローをじっくりと見た。ブロンドの少し上に裏返しに映った時計が見えた。
時計の短針は4に近いところを示している。20分足らずで息が上がるなんて情けねえ、シンタローはじりじりと歩を進めながらそう思った。
足払いしてみるか。避けられてもきちんとガードしていれば次の攻撃は防げる。
痺れを切らして攻めるのは失策に繋がることが多いが隙が見つからない以上どうにもならない。このままだと自分のボロが出そうでシンタローは腰をすっと落とした。いきなり動いたシンタローにキンタローが首を傾げる。
このまま間合いを詰めればうまくいくとシンタローは足を伸ばした。伸ばしたけれども。
フロアの照明がなぜか真正面に見えたのを最後に意識を失った。
*
冷たくて気持ちがいい。
一番最初に思ったのはそれだった。
けれど、それが一体何なのか考える前に冷たさが取り除かれなにかが額に触れた。
(……誰かの手?誰のだ?)
額に手が当てられている。シンタローは何でそんなことをするのか、と思った。
こんなことをされたのは士官学校に入る前以来だ。コタローも生まれていない。
それでも額に触れていた手がふっと離れるとなんだか体が熱を持っていることに気づいた。
人の手すらも何もしないよりは冷たく感じるらしい。
冷たさを求めて薄目を開けるとぼんやりと金色と青が飛び込んできた。
金色が従兄弟の髪の毛で、青が彼の目の色だということが理解できたのは額同士がくっついてしばらく経ってからだった。
「……きんたろ?」
ぼやっとした頭で呟くとキンタローはほっとしたように息を吐いた。
呼気が触れ合うほどに近づいていた距離も解消される。俺はどこに寝てるんだ、とシンタローは天井を見た。
自分の部屋と同じ壁紙だけれどもどことなく違和感がある。
起き上がって確かめようと身を捩るとキンタローは慌てて止めた。
「起きるな」
疲労から来る風邪だそうだ、とキンタローは淡々と告げた。
それから「体調が悪いのなら俺の誘いなど断れ」と付け加える。
「いきなり倒れたから驚いた。病気で倒れる人間は初めて見た」
当身を食らって気絶する人間と大して変わらないんだな、と真顔で言うキンタローにシンタローは笑った。
「はは。そりゃ、なあ」
倒れるには変わりねえんだし、と続けようとしてシンタローは声の異変に気づく。
喉がいがらっぽい。さっきまではそんなことなかったのに。
それになんだか滑舌が悪い気がする。
「……やはり風邪のときは声も変だな」
キンタローも同じことを思ったようで興味深そうな顔をしていた。
「高松が戻ったらすぐに見てもらえ。ああ、それから」
風邪のときは温かい飲み物がいいんだろう、とキンタローは言った。
「待ってろ。何か用意する」
シンタローがいらないというよりも早くキンタローはベッドルームから出て行ってしまった。
*
がちゃり、とドアノブが回る音にキンタローは目を覚ました。
もぞもぞと起き上がろうとするキンタローに入ってきた人間は慌てて駆け寄る。
「あー、寝てろって。まだ熱下がってねえだろ」
入ってきた人間、従兄弟のシンタローの言葉にキンタローは大人しく従わずに上体を起こすと従兄弟の手を引いた。
無理やりに己の額に指を触れさせる。
「下がっているだろう。もう平気だ」
指で触れさせられていたシンタローはキンタローの言葉に「ンなわけねえだろ」と答えた。
「俺が濡れタオル取っ替えてやったばかりだからそう感じるんだよ」
ほら、と掛け布団に落ちたタオルを取り上げてシンタローは従兄弟の腿の辺りをぽんぽんと叩く。
「今起きて動いたらまた酷くするぞ」
大人しく布団に入ってろ、と宥めるように言われてキンタローはため息を吐いた。
「寝汗はかいたか?気持ち悪ぃんならパジャマ着替えさせてやるぜ」
「いいや」
ふるふると首を横に振ってみて、キンタローはこめかみに走る痛みに顔を顰めた。
薬を飲んで何時間も寝たはずなのに頭痛が取れていない。
大人しく従兄弟のいうことを聞くべきか、と諦めてキンタローは布団に手をかけた。
「じゃあ、とりあえず水分取るか?風邪のときはこまめに水分補給しねえとな」
言うなり、シンタローはにやっと笑った。
「ホットミルクなんかどうだ?ちゃんと蜂蜜入りで作ってやるぜ」
おまえが俺に作ってくれたときは牛乳温めただけだったもんなあ。初めて作ったからしょうがないけどな。
まあ、それでもいいんだけど甘い方が飲みやすいぜ。風邪のときは甘いホットミルクが一番だ。
にやにやと笑いながらシンタローはそんな言葉を続けていく。
「少し待ってろよな」
揶揄されてムッとしたキンタローが「いらん。もう少し寝る」と言い出す前にシンタローはかつて自分が寝込んだときのキンタローと同じようにとっとと部屋を退散した。本当は人肌以上に熱いただの牛乳が今まで床についた中で最高の看病だったのだけれども。
そんなこと照れくさくて一生言ってやらねえ、と思いながらシンタローは冷蔵庫を開けた。
初出:2006/09/13
いしたけいこ様に捧げます。
I don't know...why?
シンタローが帰還したという一報が入ったそのとき、本部に残っていた一族の人間は俺しかいなかった。
シンタローが総帥に就任してからまだ日は浅い。
前総帥の伯父は引継ぎのために世界中を飛び回っているし、双子の叔父もそうだ。
あの島から帰ってきて以来、俺は高松の元で色々なことを学習するようになったが、その高松は現在もう一人の従兄弟とともに国外の学会へと赴いていた。
帰還の知らせを受け取る親族は俺しかいなかったとはいえ、正直腹立たしい。
学習漬けの毎日が彼らの不在でつかの間の休息を得られたのだ。
高松から課題は出されていたもののいつもより量は少なく、すぐに済ませることが出来た。
だからこそ伯父から譲られた父のアルバムをゆっくり見ようと考えていたのだ。
今日ならば、誰の目も気にせず部屋に篭れる。皆がいれば、午後のお茶だのなんだのと呼びつけられるのだ。
この機会を満喫しようと考えていたのに、タイミングを打ち砕くように内線電話が鳴り響いて、俺は気分を害していた。
「……別にあの男が帰って来た事はどうでもいいんだが」
迎えに行く気はないぞ、と言うと電話の向こうの団員が勿論ですとも、と阿るような返事をした。
「出て行ったヤツが帰るのは当然だろう。くだらんことをいちいち報告してくるな」
常日頃から俺とアイツが反目しあっているのは一般団員まで知れ渡っている。
伯父やグンマにならばまだしも俺にわざわざ報告してどうするというのだ。気が利いた人間ならば報告など見合わせるだろう。
ちっ、と舌打ちすると電話の向こうで慌てて申し訳ありませんと言う返事が返ってくる。
「……もういい、切るぞ」
緊急の用件以外は連絡するな、と言いつけて俺は受話器を置いた。
シンタローが遠征した国はジャングルに覆われた亜熱帯の国らしい。
暑いのに半袖着れないんだぜ、と蚊を媒介した風土病やジャングルに仕掛けられた罠の存在をグンマに言っていたのを聞いた。
これまでのシンタローを通した経験と書物での知識でしか測ることは出来ないが、きっと彼が懐かしむ島と同じで濃い大気と灼熱の大地を持っているだろう。
たいして、このガンマ団本部はもう秋が終わりへと向かっている。今日などは肌寒い風が時折窓へと枯れた葉を運んできた。
時差だけでなく寒暖の差が疲労をもっと濃いものにしてしまうだろう。
(非常に不本意だが、仕方がない。俺しかいないのだからな。俺しか!)
バスタブに栓を落として俺は蛇口をひねった。熱めの湯が、バスタブを叩いて飛沫を上げていく。
湯が溜まると、俺は出しておいたアルバムを仕舞って私室を後にした。
*
本部棟から住居スペースへと通じるエレベーターには一族以外の人間はこちらが招かない限り乗ることが出来ない。
したがって、一族の人間が使用するとき以外ランプが点灯することはないのだ。
本部棟の表示にオレンジ色の光が灯ると、数十秒の後にドアが開く。
帰ってきたシンタローは出迎える人間が誰もいないとばかり思っていたのだろう。俺の姿を認めて、ぽかんと口を開けたまま突っ立っている。
「……降りないのか」
声をかけると、
「……あ、ああ」
とどもったようにシンタローは返事をした。
「……えっと、親父とグンマはいないんだったよな?」
恐る恐るシンタローは俺に聞いてきた。
何を聞いているんだ。彼らの予定はおまえも聞いていただろう
そんな表情でシンタローを見ると、彼は慌てて誤魔化すようになんでもないと手を振った。
「……風呂の用意は出来ているぞ」
飛空艦の仲でシャワーを浴びたのだろうけれど、どことなくシンタローは薄汚れているように見えた。
赤い総帥服でなく、見慣れぬ野戦服の所為かもしれない。
狐につままれたような表情をシンタローは浮かべたが、俺は構わず自室へと向かった。
後から慌てたようについてくるシンタローの足音が廊下に響いたけれども、騒々しいと咎める人物はいない。
内心、俺はいらねえよと拒絶されると思っていたのだが、それが杞憂に終わってほっとしていた。
気まぐれとも言っていい行動だがいけ好かない相手とはいえ拒否されるのはやはり腹立たしい。
食事に呼びにこられたことはあるが、自室へとシンタローを招き入れたことはなかった。
遠慮がちに入ってきたシンタローを湯気の立つバスルームへと押し込め、タオルとバスローブとを用意する。
洗濯方法の分からない野戦服は脱衣籠に突っ込んだままにしておいた。
シャワーの水音が止み、しばらくするとドアが軋んだ音を立てた。
「キンタロー!なあ、これ借りていいのかよ?」
「ああ。タオルは洗濯機に入れておけ」
呼び声に肯定すると、シンタローは分かったと返事を叫んだ。
バスローブをまとって現れたシンタローの頬は赤みが差していた。目の下に薄くクマがあるものの顔色はよい。
「風呂借りたぜ。悪かったな」
「べつに」
そう言うとシンタローはふっとため息を吐く。
「それを飲んだら寝ろ。ベッドは貸しておいてやる」
座れ、とソファを勧めるとシンタローは俺の顔を凝視した。
「飲まないのか?喉が渇いているだろう」
シンタローはソファに腰掛けると、ぬるめに淹れた緑茶を恐る恐る口にした。
「不味いのか?」
シンタローの態度に眉を顰めると彼は慌てた。
「いやッ、美味いけど!!」
「そうか」
ならいい、と視線を逸らすとシンタローはほっとしたように息を吐いた。
「ええと……ごちそうさま」
「そこに置いておけ。俺が片づける」
空のカップを持って立とうとするシンタローを制する。彼の好きにさせてもよかったが、あまりバスローブ1枚の姿でうろうろとされたくなかった。
「いや……でもな」
「いいから、とっとと寝ろ」
寝室はこっちだと、顎をしゃくるとシンタローは困ったような顔をした。
「疲れているんだろう。弱ったおまえに興味はない。とっとと体力を回復させろ」
「疲れて……って、今回の遠征はあいつらが頑張ってくれたから俺はそんなに」
疲れていない、と言うシンタローを鼻で笑うと彼はむっとした。
「あいつら、というのはいつもの4人か。どうせ、おまえを見かねて気を使ったんだろう」
想像するのは容易い。当初はシンタローの命を狙ったというのに、島での生活を通してやつらはシンタローの友人へと変わっていった。
いくら気の置けない仲間とはいえ5人でジャングルへ行って何が楽しいんだと思う。
仕事とプライベートを切り離さないシンタローと彼らに俺はどうしてだか苛立ちを感じていた。
モヤモヤとした気分のまま、難儀なことだ、と呟くとシンタローは口を開く。
「たしかに俺のことを考えてくれて行動してくれたんだけどなッ!」
おまえにそういわれる筋合いはない、とシンタローは俺を怒鳴りつけてから、しまったという表情を浮かべた。
カップに込められた力加減から俺の顔色を窺う様子が見て取れる。
「あの4人もあれだけの実力を兼ね備えていながらおまえのお守りとは……少しは人の使い方を覚えたらどうだ」
気にせず俺はシンタローにそう言った。
お守り、と揶揄したときシンタローは再び眉を寄せたが、続く俺の言葉に動揺した態度を見せる。
ぎくりとしたように体を強張らせ、黒い目の奥を頼りなげに揺らめかせる彼に俺はうすく笑った。
「あの4人は一個隊くらい率いられるだろう。その方が勢力を分散できて効率的なはずだ」
「それは……」
考えたことがないわけはなかったのだろう。
島から帰ってきて前線へと復帰してからも、総帥を継いでからもずっとシンタローは彼らとチームを組んできた。
シンタローや一族の人間には劣るとはいえ、平の団員より秀でた能力を持った男たちだ。
ところどころで5人で行動していくことに実感はしていたのだろう。
「あいつらは俺の方針を分かってくれてるし……信用できるんだ」
俺から視線を逸らしてシンタローは言う。彼の言葉はもっともだ。
あの島で一緒に過ごし戦友となった彼らが信頼できるのは当然だ。けれども。
「それは分かるがな。あいつらを重用するおまえの態度が一部で反感を生むのも事実だ」
「……ああ」
そうだな、と言ってシンタローはぎゅっと瞼を閉じた。
仲間と離れなければいけないことを考えて堪えるような表情を見せる彼になぜだか罪悪感が湧く。
当然のことを指摘しただけで俺は悪くないというのに、針を刺したようなわずかな痛みが心に走った。
「……この話は終わりにしよう。おまえは、疲れている」
沈黙の後、これ以上追求するのは憚られて俺は会話を打ち切った。
この男は因縁の相手だ。敵と言ってもいいほどの。
傷つけても俺が気にすることはないというのに、それでも彼の沈む表情は思いもかけず俺を戸惑わせた。
安堵していいのか、どうしていいのか分からない表情でシンタローは俺を見た。
「とりあえず寝ろ。……ああ、それから次の遠征からは俺も出る」
「おまえが?」
シンタローは不安げな表情を打ち消して怪訝そうな表情を浮かべた。
「ああ。久しぶりに体を動かしたい」
何か問題でもあるか、と尋ねるとシンタローは考え込み、
「いいけど、高松の許可は取っておけよ」
と笑う。今日はじめて笑顔を見せた彼に、心に刺さるトゲが和らいだ気がして、俺も笑った。
自室へと戻ると言ったシンタローに風邪を引く、と俺は無理やりベッドルームまで引きずった。
ここまで世話を焼く必要はない。むしろ帰還の報せを受けた当初のとおり、出迎える必要もなかった。
彼の帰還が早まったとはいえ、誰も俺がこういう行動をとるとは考えないだろう。
俺自身も家族が不在だから仕方ないとはいえ、実行までに至った自分が不思議だった。
先ほど飲ませた茶には念のため軽い睡眠導入剤が混入してある。高松が作ったそれは味がなく、しかも安全な薬だ。
いいって、とシンタローはベッドルームでも何度も拒否していたが、力ずくで布団を被せると大人しくなった。
積もっていた疲労もあるのだろう。
横になって体の力が抜け、次第に瞼がとろんとしてきた。
「そのまま寝てろ。夕飯には起こしてやる」
「夕飯っておまえが作るのかよ……?」
眠気のこもる声でシンタローは俺を見上げた。
「当たり前だろう。俺はわざわざおまえと2人で外食に行く気などないぞ」
何を言っていると見つめるとシンタローは嘆息した。
「おまえって……わかんねえ」
天井を見上げてシンタローはそう言った。見下ろす形の俺はそんなことを言うシンタローの方こそよく分からない。
「当然だろう。おまえと俺は同じ人間じゃない」
他人だ、と付け加えて部屋の照明を落とす。
微かに笑う気配の後、ベッドルームを後にしようとする俺にシンタローは声をかけた。
「馬ー鹿。他人じゃねえよ。従兄弟同士だろ」
「……そうだな」
ここに彼がいることは、俺が世話を焼いているのは不本意なことだったはずだ。
それなのに、どうしてだか最初から拒絶することが出来なかった。むしろ、いつも以上にシンタローを受け入れている。
タラップを降りる彼を迎えることはさすがに拒否したけれども。
従兄弟だという、シンタローの言葉を肯定してから俺は動揺した。
今まで認める気などなかったのに、常になく殺し合いでない言葉を交わしてからどうにも調子が狂っている。
ベッドのシンタローをじっと見つめると俺の答えに彼は微笑んだ。
(どうして、そんな顔で俺を見るんだ……!)
眼を逸らし、俺に微笑みかけるシンタローの姿を打ち消したくて、俺は照明を急いで落とした。
明るかった部屋からひかりが追いやられて、もたらされた微かな暗がりにシンタローの黒髪が溶け込む。
暗がりから見えるはずはないというのに、それでも浮かび上がる彼の笑顔の残像に惑わされながら、俺はそっとドアを閉じた。
従兄弟同士だろ、というやわらかな言葉の響きがなぜだか耳をついて離れなかった。
初出:2005/11/16