キミはキュートな子猫ちゃん
ガンマ団一多忙な二人の総帥と補佐官。
本日は久しぶりの一日オフだ。
「今日はおまえはどうするんだ?」
ついでだからと一緒に摂った朝食時にキンタローに聞かれ、シンタローは決まってるだろ、と答えた。
「一日ずーっとコタローの側にいる。」
「それはいいが、伯父貴もいるだろ? いいのか?」
キンタローのもっともな指摘にシンタローは顔を顰めたが予定を変更する気はさらさらなかった。
「まあ、それはイヤだけどさ。コタローの顔、ゆっくり見られるなんてめったにないからな。」
おまえはどうする?
聞かれて、キンタローは本を一冊取り出して見せた。
「高松に借りた本だ。ちょうどいいから読んでしまう。」
その厚さはおよそ10cmはあった。字の大きさを見ると、それこそ蟻のようなものがぎっしりと詰まっている。
シンタローも読書は嫌いな方ではなかったが、さすがにその内容量には辟易して視線を逸らした。
「ま、ゆっくり読書に励め、明日からはまた仕事だからな。」
そういうことで、シンタローは早速、コタローの眠る病室へと赴いたのだった。
―――ついてない。
30分後、シンタローは舌打ちしながら私邸へと引き上げてきた。
病室に着いてみると、スケジュールの変更により一日検査ということで、コタローとの面会はかなわなかったのだ。
コーヒーでも飲もうと、キッチンに向かってサイフォンをセットする。
琥珀色の液体がこぽこぽ音をたてている間、新聞に目を通していたが特に目新しいニュースはない。
世の中平和で大変結構なことだ。
がさがさと新聞を畳み直し、ふと目を上げると自室にいるはずのキンタローが何故かそこに座っている。
あの大きな本を抱えて。
「飲むか?」
「ん。」
目を離さず、短く答えるキンタローのカップを取り出し、自分の分と一緒に注いで渡してやった。
ちょうど、飲みたくなって降りてきたところに自分がいたから待っていたのだろう。
ちゃっかりしてるな。
シンタローは苦笑して、自分のマグカップを手にテラスへと移動した。
スプリンクラーがひゅんひゅん回って、青い地面に水を撒いているのが涼しげだ。
子供の頃はグンマと二人その飛沫の周りで遊んではびしょびしょになっていたものだ。
たまに早く帰ってきた父親かたいていは高松に発見されて強制的にシャワーと着替えの後の昼寝、それからかき氷が待っていた。
自分はみぞれが好きだったが、グンマは練乳と苺という甘ったるいシロップをたっぷりかけていた。
あれで虫歯にならないアイツの歯って、たいがい丈夫っつーか…。
風が頬をかすめシンタローは知らず微笑んだ。
この前まではほんの少し肌寒かったそれが心地よい。
あー、もう夏だな。
コタローに新しいパジャマとタオルケット用意してやんないと。
ずずっとコーヒーをすすって、ふと向かいの椅子を見ると何故かキンタローが座っている。
やっぱり読書の体勢のままで。
シンタローは首を傾げたが、そのうち日差しが強くなってきたので室内に戻った。
居間にカップを置いて、グンマが一週間前から冷凍庫にいれっぱなしのアイスクリームを取りに行く。
かき氷にはまだ早いが、ひんやりした甘さが、コーヒーで酸っぱくなった口にちょうどいいような気がしたからだ。
たくさん、買い置きはあるし、ひとつくらい食べても怒りはしないだろう。
冷凍庫の引き出しを開けて、その容器に印刷された可愛らしい色彩にシンタローはげんなりした。
「バナナ味にストロベリー…、せめて、チョコとかラムレーズンとかシンプルにバニラとかの選択肢はないのか、アイツ。」
少し、考えて一番マシそうなオレンジをとる。
某高級アイスのメーカーなので、ほかのものより甘さは控えめだろう。
アイスクリーム用のスプーンもあるが、冷たい金属が舌にあたる感触がいやので、グンマが捨てようとしたのをとっておかせた木のへらを探して、居間へ戻った。
――――そして、やはり、キンタローはそこにいた。
ソファーに座って相変わらず読書に夢中だ。
シンタローが戻ってきたことに気づいた様子もない。
……いいけどな、別に。
シンタローは彼にはとうてい理解できない、またしたくもない植物学の研究書に没頭している従兄弟の横にどっかりと腰を下ろした。
キンタローはちらっとも目を上げない。よっぽどおもしろいらしい。
アイスクリームのふたを開けて、その中に混ざり込んでいるオレンジ色の粒を警戒しつつ、食べてみると結構美味しい。つぶつぶはオレンジピールを細かく刻んだものらしく、これくらいならシンタローの許容範囲だった。
それにしても、と従兄弟を横目でちらっと見る。
さっきから、自分のいるところいくところに着いてくる。
かといって、話しかけるどころか目を合わそうともしない。まるっきり読書に夢中だ。
嫌がらせをしているわけでもないだろうに。
しばらく、考えたシンタローはあの島での生活を思い出した。
パプワもシンタローが料理をしている時、手伝いもせずに踊っていたり、洗濯物を始めると庭で忙しそうなシンタローに気を遣うこともなくチャッピーとテコンドーの練習をしたりと―――ようするに、いつもシンタローの周りで遊んでいたのだ。
そして、シンタロー自身も子供の頃、父親が家にいる時は一緒に遊んでもらう時以外でも、その姿が見えるところにいるようにしていた。
ちなみに、現在はというと、父親がシンちゃんシンちゃんとまとわりついてくるので鬱陶しい。
キンタローのこの行動は、ようするに小さい子供が無意識に親の近くにいようとするアレなのだ。たぶん。
シンタローは気づかれないようくすっと笑った。
クソ重たい本を小脇に、いつのまにかいなくなったシンタローを探して、きょろきょろ周りを見回しているキンタローの姿が目に浮かんで、おかしくなったのだ。
従兄弟はシンタローの微笑に気づいた風もなく、その目は膝の上の紙の上を熱心にたどっている。
さすがにネクタイはしめてはいないが、休日だというのにきっちりとした服装をしており、どこから見ても平均以上に立派な成人男子だ。とても、母親を捜してうろうろしている子供のような彼は想像がつかない。
パプワも必要以上に大人びてこましゃくれた少年だったが、そんなことに気が付いた時、ああ、やっぱりまだ子供だなぁと思って、愛おしいような切ないような気分になったりしたものだった。
……今、彼の側にいる生物たちは彼を子供として扱ってくれているだろうか。
いつも、はあの生意気な子供は好まないだろうから、たまに、でいい。
甘えることをしない彼が、本当は子供なんだと知ってくれているならそれでいい。
甘さ控えめといっても三分の一ほど食べるとさすがに飽きてきた。
最初は心地よく感じた甘さも今は舌にまとわりついてくるようだ。
かといって、食べ物を粗末にはできない主婦根性の染みついたシンタローだった。
あー、もういいや、グンマ帰ってこないかなー、押しつけるのに。
24時間甘いものオッケーの舌と胃袋の持ち主の早い帰宅を祈っていたシンタローは、ふとあることを思いついた。
「キンタロー。」
呼びかけたが、まったく無反応だ。
よほどおもしろい本らしい。
好都合だと、シンタローは半分溶けかけたアイスを掬って従兄弟の口元に持っていく。
「はい、ア~~ン。」
ぱく。
アイスのしずくが本へ落ちるのを防ぐためか、またはまったくの条件反射か、キンタローはその木のスプーンに食いついた。
「よしよし。」
シンタローはにんまりと笑って、そのスプーンをゆっくり引き抜く。
キンタローはというと、口の中の異物をまったく意に介していないように本から目を離さない。
それをいいことにシンタローは次から次へとキンタローの口元へとツバメの親のようにアイスを運び、彼もおとなしく口を開けた。
みるみるうちに甘ったるいアイスのかさは減っていき、ついには空っぽになった。
「はい、これでしまいな。」
うまくいった、とシンタローがひっこめようとした腕が、いきなりがしっと捕まれた。
キンタローがゆっくりと顔を上げる。
青い双眸がぴたりと自分を見据えていた。
その目に何かやばいものを感じたシンタローにキンタローは言う。
「足りない。」
捕まれている腕と反対側の肩に手を置かれ、シンタローはひきつった。
「いや、だって、もう無い…し…。」
「足りない、と言っている。」
なら、違うのとってきてやる、という提案はキンタローの口によって塞がれてしまった。
甘……、とシンタローが顔を顰めるにも構わず、そのオレンジ味のキスはかなり、長く、おまけに後をひくようなしろものだった。
唇が離れると少しだけ顔を赤くしたシンタローはキンタローを睨みつける。
「ガキはおとなしく勉強してろよな。」
「もうした。だから、『おやつ』の時間だろう。」
しれっと答えると、キンタローはその言葉通り本を閉じたのだった。
end
040607
改稿日050924
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ガンマ団一多忙な二人の総帥と補佐官。
本日は久しぶりの一日オフだ。
「今日はおまえはどうするんだ?」
ついでだからと一緒に摂った朝食時にキンタローに聞かれ、シンタローは決まってるだろ、と答えた。
「一日ずーっとコタローの側にいる。」
「それはいいが、伯父貴もいるだろ? いいのか?」
キンタローのもっともな指摘にシンタローは顔を顰めたが予定を変更する気はさらさらなかった。
「まあ、それはイヤだけどさ。コタローの顔、ゆっくり見られるなんてめったにないからな。」
おまえはどうする?
聞かれて、キンタローは本を一冊取り出して見せた。
「高松に借りた本だ。ちょうどいいから読んでしまう。」
その厚さはおよそ10cmはあった。字の大きさを見ると、それこそ蟻のようなものがぎっしりと詰まっている。
シンタローも読書は嫌いな方ではなかったが、さすがにその内容量には辟易して視線を逸らした。
「ま、ゆっくり読書に励め、明日からはまた仕事だからな。」
そういうことで、シンタローは早速、コタローの眠る病室へと赴いたのだった。
―――ついてない。
30分後、シンタローは舌打ちしながら私邸へと引き上げてきた。
病室に着いてみると、スケジュールの変更により一日検査ということで、コタローとの面会はかなわなかったのだ。
コーヒーでも飲もうと、キッチンに向かってサイフォンをセットする。
琥珀色の液体がこぽこぽ音をたてている間、新聞に目を通していたが特に目新しいニュースはない。
世の中平和で大変結構なことだ。
がさがさと新聞を畳み直し、ふと目を上げると自室にいるはずのキンタローが何故かそこに座っている。
あの大きな本を抱えて。
「飲むか?」
「ん。」
目を離さず、短く答えるキンタローのカップを取り出し、自分の分と一緒に注いで渡してやった。
ちょうど、飲みたくなって降りてきたところに自分がいたから待っていたのだろう。
ちゃっかりしてるな。
シンタローは苦笑して、自分のマグカップを手にテラスへと移動した。
スプリンクラーがひゅんひゅん回って、青い地面に水を撒いているのが涼しげだ。
子供の頃はグンマと二人その飛沫の周りで遊んではびしょびしょになっていたものだ。
たまに早く帰ってきた父親かたいていは高松に発見されて強制的にシャワーと着替えの後の昼寝、それからかき氷が待っていた。
自分はみぞれが好きだったが、グンマは練乳と苺という甘ったるいシロップをたっぷりかけていた。
あれで虫歯にならないアイツの歯って、たいがい丈夫っつーか…。
風が頬をかすめシンタローは知らず微笑んだ。
この前まではほんの少し肌寒かったそれが心地よい。
あー、もう夏だな。
コタローに新しいパジャマとタオルケット用意してやんないと。
ずずっとコーヒーをすすって、ふと向かいの椅子を見ると何故かキンタローが座っている。
やっぱり読書の体勢のままで。
シンタローは首を傾げたが、そのうち日差しが強くなってきたので室内に戻った。
居間にカップを置いて、グンマが一週間前から冷凍庫にいれっぱなしのアイスクリームを取りに行く。
かき氷にはまだ早いが、ひんやりした甘さが、コーヒーで酸っぱくなった口にちょうどいいような気がしたからだ。
たくさん、買い置きはあるし、ひとつくらい食べても怒りはしないだろう。
冷凍庫の引き出しを開けて、その容器に印刷された可愛らしい色彩にシンタローはげんなりした。
「バナナ味にストロベリー…、せめて、チョコとかラムレーズンとかシンプルにバニラとかの選択肢はないのか、アイツ。」
少し、考えて一番マシそうなオレンジをとる。
某高級アイスのメーカーなので、ほかのものより甘さは控えめだろう。
アイスクリーム用のスプーンもあるが、冷たい金属が舌にあたる感触がいやので、グンマが捨てようとしたのをとっておかせた木のへらを探して、居間へ戻った。
――――そして、やはり、キンタローはそこにいた。
ソファーに座って相変わらず読書に夢中だ。
シンタローが戻ってきたことに気づいた様子もない。
……いいけどな、別に。
シンタローは彼にはとうてい理解できない、またしたくもない植物学の研究書に没頭している従兄弟の横にどっかりと腰を下ろした。
キンタローはちらっとも目を上げない。よっぽどおもしろいらしい。
アイスクリームのふたを開けて、その中に混ざり込んでいるオレンジ色の粒を警戒しつつ、食べてみると結構美味しい。つぶつぶはオレンジピールを細かく刻んだものらしく、これくらいならシンタローの許容範囲だった。
それにしても、と従兄弟を横目でちらっと見る。
さっきから、自分のいるところいくところに着いてくる。
かといって、話しかけるどころか目を合わそうともしない。まるっきり読書に夢中だ。
嫌がらせをしているわけでもないだろうに。
しばらく、考えたシンタローはあの島での生活を思い出した。
パプワもシンタローが料理をしている時、手伝いもせずに踊っていたり、洗濯物を始めると庭で忙しそうなシンタローに気を遣うこともなくチャッピーとテコンドーの練習をしたりと―――ようするに、いつもシンタローの周りで遊んでいたのだ。
そして、シンタロー自身も子供の頃、父親が家にいる時は一緒に遊んでもらう時以外でも、その姿が見えるところにいるようにしていた。
ちなみに、現在はというと、父親がシンちゃんシンちゃんとまとわりついてくるので鬱陶しい。
キンタローのこの行動は、ようするに小さい子供が無意識に親の近くにいようとするアレなのだ。たぶん。
シンタローは気づかれないようくすっと笑った。
クソ重たい本を小脇に、いつのまにかいなくなったシンタローを探して、きょろきょろ周りを見回しているキンタローの姿が目に浮かんで、おかしくなったのだ。
従兄弟はシンタローの微笑に気づいた風もなく、その目は膝の上の紙の上を熱心にたどっている。
さすがにネクタイはしめてはいないが、休日だというのにきっちりとした服装をしており、どこから見ても平均以上に立派な成人男子だ。とても、母親を捜してうろうろしている子供のような彼は想像がつかない。
パプワも必要以上に大人びてこましゃくれた少年だったが、そんなことに気が付いた時、ああ、やっぱりまだ子供だなぁと思って、愛おしいような切ないような気分になったりしたものだった。
……今、彼の側にいる生物たちは彼を子供として扱ってくれているだろうか。
いつも、はあの生意気な子供は好まないだろうから、たまに、でいい。
甘えることをしない彼が、本当は子供なんだと知ってくれているならそれでいい。
甘さ控えめといっても三分の一ほど食べるとさすがに飽きてきた。
最初は心地よく感じた甘さも今は舌にまとわりついてくるようだ。
かといって、食べ物を粗末にはできない主婦根性の染みついたシンタローだった。
あー、もういいや、グンマ帰ってこないかなー、押しつけるのに。
24時間甘いものオッケーの舌と胃袋の持ち主の早い帰宅を祈っていたシンタローは、ふとあることを思いついた。
「キンタロー。」
呼びかけたが、まったく無反応だ。
よほどおもしろい本らしい。
好都合だと、シンタローは半分溶けかけたアイスを掬って従兄弟の口元に持っていく。
「はい、ア~~ン。」
ぱく。
アイスのしずくが本へ落ちるのを防ぐためか、またはまったくの条件反射か、キンタローはその木のスプーンに食いついた。
「よしよし。」
シンタローはにんまりと笑って、そのスプーンをゆっくり引き抜く。
キンタローはというと、口の中の異物をまったく意に介していないように本から目を離さない。
それをいいことにシンタローは次から次へとキンタローの口元へとツバメの親のようにアイスを運び、彼もおとなしく口を開けた。
みるみるうちに甘ったるいアイスのかさは減っていき、ついには空っぽになった。
「はい、これでしまいな。」
うまくいった、とシンタローがひっこめようとした腕が、いきなりがしっと捕まれた。
キンタローがゆっくりと顔を上げる。
青い双眸がぴたりと自分を見据えていた。
その目に何かやばいものを感じたシンタローにキンタローは言う。
「足りない。」
捕まれている腕と反対側の肩に手を置かれ、シンタローはひきつった。
「いや、だって、もう無い…し…。」
「足りない、と言っている。」
なら、違うのとってきてやる、という提案はキンタローの口によって塞がれてしまった。
甘……、とシンタローが顔を顰めるにも構わず、そのオレンジ味のキスはかなり、長く、おまけに後をひくようなしろものだった。
唇が離れると少しだけ顔を赤くしたシンタローはキンタローを睨みつける。
「ガキはおとなしく勉強してろよな。」
「もうした。だから、『おやつ』の時間だろう。」
しれっと答えると、キンタローはその言葉通り本を閉じたのだった。
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改稿日050924
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最強のアナタ
ガンマ団本部の体術専用道場の中央で、男がひとり立っている。
真っ赤の道着姿の彼の両目は閉じられ、静かに瞑想しているように見える。
しかし、その口元はかすかにだが両端が上がっており、無心ではないことを証明していた。
「はじめっ!!」
ふいのかけ声が道場に響き渡った瞬間、静けさは破られた。
「御免!」
鋭い気合いと共に顔面に繰り出された拳を彼は軽く受け流すと、右から襲ってきた男の背後に回る。
「ひとり。」
そう言いながら、その背中を肘でつくと彼は息がつまったような声を立て、その場に昏倒した。
一息つく間もなく、同時に二人が双方から同時にかかってくる。しかし、彼は左右双方、まったく隙を見せず、逆に両方を弾き飛ばす。
「三人、と……おい、おまえら、全員同時にかかってこいよ。まだるっこしくいけねぇ。」
両手を腰に当てた無防備な状態で、総帥は周りを取り囲む部下達をぐるっと見回す。
いくら上官とはいえ、あまりに失礼な言いぐさだったが、誰もそれを口にはしなかった。
立場的なものもあるが、何より、確かに彼の言うことが正しいと言う気がしたからだ。
それでも、命令である以上、彼の要望に背いて白旗を揚げるわけにはいかず、言われた通り、全員四方八方から彼に攻撃したのだった。
結果は、まったく予想通りで、それぞれ、「肩が弱い」「踏み込みが甘い」「足が短い」等々、ろくでもない『指導』をされ、心身共に大ダメージを負ったのである。
時間にして、およそ五分。
二十人ほどの男達が、それぞれ頭や足などを押さえ、うめき声をあげて寝っ転がっていた。
対してシンタローは一人涼しい顔だ。
「おい、おまえ、自分の間合いをちゃんと判断して動け。それからおまえは、タイミングが遅すぎる。」
それぞれの欠点の指摘や、改良点などを床の上の部下達に教える余裕すらある。
「わー、シンちゃん、すっごーい。十分かかってないよお~。」
「当然だろ。おい、キンタロー、おまえもこいつらの相手してやるか?」
「しない。スーツが皺になる。それに、そろそろ他の生徒の訓練の時間だろう。おまえも、さっさと上がってこい。」
キンタローのすげない返事に、シンタローはちぇっとふくれた。
総帥の座についてから、こういう訓練の時間をほとんど取れないうえ、幹部達には参加をやんわりと止められている。
十代の頃から日々のかなりの時間を鍛錬に費やしてきたシンタローは、最初の内はともかく、しばらく経つとなんとなく落ち着かなくなった。
それで、なんだかんだと理由をつけて『指導』という名の、飛び入り参加を強行したのだった。
ほぼ同等の力を持つキンタローが相手をすればよかったのかもしれないが、キンタローはあまりにも『近すぎ』て、手の内が分かりすぎる。
新鮮さを求めてのことだったが、いかんせん実力が違いすぎて不完全燃焼気味のシンタローに、グンマがなだめるように声をかける。
「しょーがないじゃん、今、本部にいる人間で、素手でシンちゃんより確実に勝てる人って一人しかいないでしょ。」
「……確実に勝てる?」
聞き捨てならない言葉にシンタローはぴくっと眉を上げた。
「オイ、『確実』ってなんだよ。叔父さんが留守だってのに、俺より強い奴がいるわけねぇだろーがっ!」
シンタローの剣幕に、グンマは慌ててもう一人の従兄弟の背中に隠れる。
「うわああん! キンちゃ~んっ。」
「シンタロー、グンマを脅すな。」
「うっせー! オイ、グンマ。俺より『確実』に強いっていうのは誰のこと言ってんだヨ。まさかと思うが、テメーのポンコツロボットじゃねぇだろうなぁ。」
「ポンコツじゃないもんっ! ガンボットは強いんだからっ、ねぇっ! キンちゃん。」
「………。」
あまりにも正直なキンタローの返事だった。
シンタローは、無言でボキボキと指を鳴らしている。七割は脅しだが、後の三割が本気であることをようく知っているグンマは観念して、吐いた。
「おとーさまだよっ!」
「……なんだと。」
思いもかけない人物の名にシンタローが目を見開く正面で、キンタローがあっさりと頷いた。
「ああ、確かにそうだな。」
どこまでも、正直なキンタローの発言が、次のシンタローの行動を誘発したと言っても過言では無いだろう。
「ええー、用事ってそんなことだったのかい? あんなに情熱的に『すぐ来い』っていうからパパ期待したのに……。」
内線電話で呼びつけられたマジックは、愛息に勝負を挑まれて、がっかりした声を上げた。
対してシンタローは父親の軽口に、さらなる怒りをかき立てられたらしく、手にした道着を父親の顔に向かってたたきつけた。
「てめーが期待した内容とやらは聞かないでいてやる。さっさとそれに着替えて、俺とここで勝負しろ。」
いっそ見事なまでに顔の正面で受け止めてしまった父親を見て、シンタローはグンマを横目で睨みつけた。
こんなののどこが、俺に十割勝率なんだ。
そりゃ、トータルで言えば親父の方が強いっていうのは認めるが、『確実』は無いだろうが、『確実』は。
「シンタロー……。」
「なんだよ。」
「これって、シンちゃんのなのかなっ?」
見るとしっかりと握りしめ、目をきらきらと輝かせている。
シンタローはがっくりと肩を落とした。
だから、なんでこれが十割……。
「私が着られる道着なんて、特注でもしない限り無いからね。ああ、シンちゃんの汗と匂いが染みついた道着……ありがとうっ! シンちゃん、こんな素敵なプレゼント……。」
「伯父さん、それは確かにシンタローの道着だが、未使用だから使用できそうな汗の匂いなどはまったくついていないぞ。」
「いけないよ、キンちゃん、こーゆうときは黙ってぬか喜びに浸らせてあげなきゃ。年寄りは先が短いんだし。」
正直者のキンタローを、バカ正直者のグンマが諫める。
二人の不穏当な発言内容より、道着がシンタローのもので無いことの方に、マジックは気落ちしたようだった。
「えー、じゃあ、いらない。パパ、道着似合わないしね。」
「いいからっ! さっさとそれ着て勝負しろ!」
「そんな……こんっっなにカワイイシンちゃんを虐めるなんて、パパにできるわけないじゃない…そりゃ寝技限定ならそうしてあげることにやぶさかじゃあないけれどね。もちろん、最後はちゃんと気持ちよくしてあげるし……。」
マジックの提案は言い終わる前にシンタローの拳によって、無に帰した。
見事にふっとんだ主人を見て、お供の一人が真っ赤になって肩で息をしている総帥に進言する。
「シンタロー様、勝負もついたことですし、そろそろお仕事に戻られた方が……。」
「これの、どこが勝負だっ!」
「はぁまぁ…いつもの痴話げんかですねぇ……。」
「だぁれが痴話喧嘩だっ!」
己の失言にチョコレートロマンスは慌てて口をつぐんだ。
髪を逆立てんばかりの勢いで怒鳴った総帥も怖いが、最近いろいろな単語の正確な意味を把握しだした副官の冷たい眼差しも怖い。
「とにかく、なんと言われようと、パパはシンちゃんと勝負なんかしないよ。なんだってシンちゃんの我が儘はきいてきてあげたけど、これだけはダーメ。」
人を食ったようなその返事に、シンタローはつかつかと歩み寄ると父親の手から、自分を模した例の人形を奪い取った。
「なんてことするんだいっ! シンタロー、返しなさい!」
「勝負してくんなきゃ、これは没収。」
「うっ……。」
さあ、どうする、と言わんばかりのシンタローの意地の悪い表情に、グンマは背伸びして隣の従兄弟に耳打ちした。
「あれって、いい大人がすることじゃないよねぇ……。」
従兄弟もさすがに呆れた顔で頷く。
「ああ、さすがに伯父貴もあの挑発にはひっかからんだろうな。」
キンタローの言葉通り、マジックは断腸の思いで顔を背けた。
「新しいのをまた作るからいいよ。」
発言の内容とうらはらに手がぶるぶると震えている。きっと最高傑作だったのだろう。
それでも可愛いシンちゃんと勝負するのは嫌らしいマジックに、息子は『これだけは使いたくなかった最終手段』を発動した。
「もし、やってくんないんなら、一生親父と口きかねぇ。」
いくつだ、あなたは。
とその場にいた四名は、そう思った。
ちなみにその場にいたのは、秘書両名、副官、博士、総帥、前総帥の六名である。
発言者のシンタローを除いて、つまり五名のうち、そう思わなかった人物が一名いたのである。
「わかりました。やります。やらせていただきます。」
しくしくと泣きながら、あっさりと白旗をあげる父親にシンタローは改めて、十割勝率発言の主に怒りが沸いたのだった。
「じゃ、やるぜ。開始線まで下がれよ。」
「わかった。チョコレートロマンス、このシンちゃん人形を預かっておきなさい。汚したりしたら承知しないからね。」
「はっ、かしこまりました。」
秘書の一人が、恭しく人形を預かり、それぞれが所定の位置に着いた時、待ったがかかった。
「お二方とも、眼魔砲はなしですよ。修理が大変ですから。」
「ベトコン戦法はすべて禁止だ、シンタロー。修理費用の予算がおりんぞ。」
「色仕掛けも駄目だよー、シンちゃん。鼻血で掃除が大変だからー。」
最後の発言者をぎろっと睨みつけるシンタローに、目の前のオヤジはうふふと笑いかけた。
「パパは色仕掛けしてくれても、全然構わないよ。むしろしてして。」
「誰がするかーーーっ! いいから、とっとと構えろ。」
くっそー、こんなヤツより評価が低いって……。
シンタローが牙をむかんばかりの状態で自分を見つめているのを、鼻の下のばさんばかりに見下ろしている父親に怒りは倍増する。
絶対たたきのめしてやる。
よく考えれば眼魔砲が使えないのも好都合というものだ。純粋に格闘だけで勝敗がつけられるから。
「では、私が、開始の合図をさせていただきます。お二方ともよろしいですね?」
頷く二人に、チョコレートロマンスは、人形を抱えていない方の手をまっすぐあげ、「始め」の合図と主に振り下ろした。
「行くぜ!」
ぐっと拳を固めるシンタローに父親は答えた。
「カマーン、ハニー! さ、パパの腕の中へ。」
両手いっぱいに腕を広げるマジックに、シンタローの血管は切れる寸前だった。
「こんのおおおお! アホオヤジぃぃ!」
がっ、と拳を突き出したシンタローは、あっさりそれをかわされて、たたらを踏んだ。
「はっ! やぁっ! はっ!」
気合いとともに繰り出されるパンチをすべてぎりぎりのところでかわしているマジックに、キンタローはため息を吐いた。
「やっぱりな。ただでさえ年期を積んでいる相手で、さらに恐ろしいことに体力も筋力もほとんど衰えていないんだから、シンタローに敵うはずもない。」
「まったく、バケモノ並だね。」
「お二方とも、それはあんまりなおっしゃり方では……。」
しかも、どっちかというと誉められているはずのマジックの評価が。
「そう言う、チョコレートロマンス達はどうなの? やっぱり、おとーさまが勝つと思ってるよね? おとーさま、一応最強だし。」
グンマに水を向けられ、チョコレートロマンスは「そりゃ、まあ…」と相棒の方を振り向いて肩をすくめると、ティラミスはくすっと笑った。
「この勝負にはお勝ちになると思いますよ。な?」
「ああ、まぁなぁ…。」
二人の意味ありげな苦笑の意味をグンマが考え込んでいる間に、勝負の行方は最終局面を迎えていた。
「せいっ!」
正拳突きと見せかけて、脇を狙った蹴りは、あっさりと止められる。
シンタローは徐々に焦りを感じ出していた。
シンタローが繰り出した技はすべて軽く、そう『軽く』かわされ、本人は息ひとつ乱していない。
チッ! ひらひらと逃げ回って。
シンタローはあがってきた呼吸を必死で鎮めた。
落ち着け、数打っても当たらないのなら、一発で決めればいいんだ。
シンタローは、必死で考えをまとめる。
さっきから打ち込んで、分かったことは、左手の前への動きが他と比べてやや遅いということだ。
だから、フェイントをかけて左に飛び込むと見せて、その後ろに回る。
シンタローは息をひとつ吐くと、反対側へと踏み込んだ。
予想通り、フェイクを見破った父親の身体が、左へと動く。
よしっ、とシンタローは予定通り、後ろへ回り込もうと大股で足を踏み出したのだった。
「はい、捕まえた。」
何がどうなったのか、後で考えてみてもよくわからない。
気づいた時には、ひょいと両脇を抱えられて持ち上げられるようにして、頬にキスをされていた。
そして、あろうことか、にっこり笑って父親はこう言ってのけたのだった。
「パパの勝ち。」
目をまん丸くして、父親の笑顔を見返したシンタローだったが、やがてぼそりと「放せ」と言い、解放された後、無言のままぽてぽてと歩いて部屋を出ていってしまったのだった。
そして、総帥室に籠城して二日目。
ドアの外では締め出しをくらった副官が、この日何度目かの投降を呼びかけていた。
「シンタロー、あけろ。何を拗ねてるんだ。」
しかし、中からは何のいらえも返ってこない。
「伯父貴に負けたことなんて、気にしなくていいだろう。あの場にいた連中は誰一人としておまえが勝つとは思ってなかったんだから、かっこわるくなんかない。」
今度もしーん、としている。
しかし、ドアの隙間から漏れてきた空気には怒りの気が含まれていた。
何が悪かったんだ、と真剣に考え込むキンタローだった。
「いつまでも、子供みたいなことをしていないで、俺だけでも入れろ。」
「あ、キンちゃんたら、どさくさに紛れてシンちゃんを独り占めしよーとしてる。」
ちょっとだけぎくりとして振り返ると、そこにはもう一人の従兄弟と、珍しい人物の姿があった。
四兄弟の麗しき末弟サービスである。
「叔父様が帰ってきてたから、連れてきたのー。えらい?」
グンマの問いに、キンタローは大きくため息をついて、「せっかくだが」と言った。
「シンタローは、拗ねて部屋に閉じこもったままだ。食事も睡眠もここでとっている。この俺が……いいか、この俺が何回、説得しようと意固地になって耳を貸そうとしない。会いにきてくれたのに、申し訳ないが、向こうでお茶でも飲んでいてくれ。」
しかし、グンマはキンタローの説明をまったく無視して大声で呼びかけた。
「シンちゃーん! サービス叔父様が帰ってきたよーお。」
コンマ三秒でドアが開かれ、久しぶりにシンタローが姿を見せた。
「おじさんっ! おかえりっ! 俺、ものすごーく会いたかったんだ。」
まるで幼子のように飛びついてきた青年を受け止めると、サービスは苦笑した。
「拗ねて、意固地になってると聞いたけど、大丈夫そうだな。」
「……へーえ、そんなことを叔父さんに言ったヤツがいるんだ。まぁ、誰が言ったかだいたい分かるけどね。」
視線を向けられたキンタローは、ぴきっと固まった。
従兄弟を金縛りにした後、シンタローは大好きな叔父に満面の笑顔を見せる。
「今、お茶入れるから入って。ちょうど休憩したかったんだ。」
「なら、おじゃましようかな。」
「叔父さんは邪魔なんかじゃないよ。……叔父さんはね。」
最後に極寒の視線でキンタローにとどめを刺して、シンタローは叔父を総帥室へと誘い、音を立ててドアを閉ざしたのだった。
その音で我に返ったキンタローが、ドアを再び叩き始めるより、ほんの少し早くグンマが彼の腕を捕まえた。
「キンちゃんも、そろそろ諦めなよ。シンちゃんの機嫌が直るまで何をしても無駄だってば。とりあえず、サービス叔父様に会えたから今日中には浮上するんじゃない?」
「シンタロー…。」
しゅーんとしたキンタローと、それをずるずる廊下を引きずって歩くグンマの姿はガンマ団の何人かに目撃され、しばらく本部内で物議を醸したのであった。
大好きな叔父を、室内に招き入れたシンタローはいそいそとお茶の用意を始めたが、叔父に止められた。
「お茶はいいよ。シンタロー。私はおまえに会いに来たんであって、お茶を飲みに来たわけじゃないから。」
綺麗な笑顔で、おいで、と呼ばれては一も二もなくそれに従うしかない。
叔父の正面のソファーに腰掛けようとすると、横を示された。
「誰も見ていないからこっちに座りなさい。近い方が落ち着いて話ができるからね。」
「う、うんっ。」
言われるがままに隣に座ると、髪を撫でられた。
「おまえが元気そうでよかった……と言いたいところだが、さっきのキンタローはどうしたんだい? 喧嘩でもしたのか。」
髪を滑る繊細な指の動きにうっとりとしていたシンタローだったが、叔父の心配そうな声に我にかえった。
自分たち従兄弟の運命に関して、人知れず自責の念を持っている叔父に負担をかけてしまったと、シンタローは反省する。
「してないよ。ただ、ちょっと今顔をあわせづらいんだ。グンマからちょっと聞いただろ?」
「ああ、兄さんに負けたって話かい?」
「――――うん……ああもう、どーしてこーなんだろーなぁ。」
シンタローは苦笑した。
「叔父さんや……まーいやだけどハーレムに負けても、ま、しゃーねぇかって思えるんだけどさ。わかっててもなんかむかつくっていうか……。」
子供の頃はもっと単純だった。
父親は世界で一番強いのが当たり前で、今だってそれはそうなのだが。
「全然歯が立たなくて、あいつへらへら笑っててさー。ちびの時の俺をあやしていたのと変わんねぇんだよ。」
すると、サービスは甥の肩を引き寄せてきゅうっと抱きしめた。
「お、おじさんっ!?」
シンタローの焦った声にも頓着せず、さらにサービスは甥の頭をぐしゃぐしゃと混ぜたうえ、真っ赤になった頬にキスまでやってのけたのだった。
憧れの美貌の叔父様にそんなことをされて、あわあわしているシンタローにサービスは笑いかけた。
「怒らないのか?」
「え? え?」
「私も今、おまえが小さい時と同じようにしたぞ。怒らないのか?」
「だって、べつにいまのは勝負とかそんなんじゃ…。」
「じゃあ、兄さんが同じことをしたら?」
「ぶっ殺す。」
真顔で答えた甥に、サービスは相変わらずのなぞめいた微笑みを向けた。
しばらく、無言で見つめ合った結果、降参したのは甥の方だった。
「うー、そうだよ、そうですよ! 俺がいちばんむかついてるのは…。」
がっくり肩を落として、無念そうな声で歯の間から絞り出すようにして告げる。
「親父に負けたことを、ほっとしている自分ですよっ! 子供扱いされててもいいんだっってどっかで思ってる俺に腹立ててるんだよ。」
「シンタロー。」
サービスはシンタローを自分の膝の上に座らせるて、子供をあやすような仕草でぽんぽんと肩を叩いてやった。
今度はおとなしくされるがままになっているシンタローは、叔父の肩に額をつけてぶつぶつと言った。
「なさけねーの…。」
「何が? 情けなくなんかないよ。」
「おじさんだって、俺に早く親父に追いつけって言ってたじゃん。俺だってそうしてたのに、負けた時悔しいのと同時にほっとしちゃったんだよ。」
「『目標を達成した後』が怖いのか?」
シンタローにとっては父マジックは常に越えられない壁だった。
少年時代の時はそれで絶望したことだって何度もあった。
今はあのころと比べものにならないほど強くなり、父親の後を継ぎそれなりにやってきた。
あの背中を追い越すという目標が、常に自分を支えていたからだ。
それを今達成してしまったら、次は何を目標にすればいいかきっとわからなくなってしまう。
けれど、ほっとしたのは目標を失わずに済んだからっていうわけじゃなくて。
「……親父が負けなかったから嬉しかったんだ。」
今、きっと甥は真っ赤になっているだろう、とサービスは思ったが、わざわざのぞき込むような無粋なまねはしなかった。
このあたりが長兄とは違い、甥に懐かれる大きな理由だろう。
かわりに背中を撫でながら、優しい声で彼の秘密を打ち明けた。
「私もね、父さんが今でも世界で一番強いと思っているよ。」
「…『おじいさん』のこと?」
写真でしか見たことのないもう一人の叔父とよく似た髪のひと。
記録を見る限りでは確かに歴代の総帥の中でも、屈指の実力の持ち主だったが、シンタローはよく知らない。
けれど、叔父の『父さん』と呼ぶ声に溢れている崇拝と愛情に、どんな人だったか分かるような気がした。
「おかしいだろう? もう、私は父さんの年齢を抜かしてしまったのに、父さんはマジックのような秘石眼の双眸を持っていたわけでもないのに、それでも、私の中では父さんは最強なんだ。たぶん、ハーレムも………兄さんもね。」
「おかしくなんかないよ……。」
シンタローはそう言って、ますます強くサービスにしがみついた。
「全然おかしくなんかない。」
そう言い切る甥に、叔父は今までで一番優しげな微笑みを浮かべて、「ありがとう」と、もう一度甥の、今度は額にキスを落としたのだった。
「シンちゃん、今頃、機嫌が直ってるかなぁ…。」
「そのためにわざわざサービス様をお呼びしたんでしょう。大丈夫ですよ。」
深い憂愁を込めた横顔を見せ、ため息をつく主人にティラミスはサーブした紅茶を出した。
チョコレートロマンスはその横にサブレを置きながら、呆れたように言う。
「こうなることは予想がついたんですから、なんだかんだと理由をおつけになってお断りすればよろしかったじゃないですか。」
「だって、シンちゃんに無視されるのも嫌だし、引き下がるような子じゃないからねぇ。」
もっともな理由だったが、チョコレートロマンスはなおも意見する。
「なら、あのような容赦ない勝ち方をされるからです。せめて、惜しいところで負けたとシンタロー様に思わせるような戦い方をすればよろしかったのに。」
「だって、悔しがるシンちゃんって可愛いんだもん。キスした時も目をまるくしてどうしたらいいのかわかんない顔してね、五歳の時、わんちゃんのぬいぐるみを買ってあげた時と同じ顔だったよ……ティラミス。」
「はっ、隠し撮りしておきました。こちらです。」
いささか悪趣味なハート形アルバムを取り出して、マジックに差し出した。
それは対決中の二人のショットがきちんとファイリングされている。
秘書としてとても有能なティラミスだったが、この主人に仕えるうちにカメラの腕まで磨いたらしい。
誰も気づかない間に超小型カメラで撮影したわりには、その数は優に50枚はあった。
「そうそう、これこれ~っ。かわいいなぁ~食べちゃいたいなぁ~。」
アイドル歌手のブロマイドを手にした女子高生のノリできゃっきゃっと、親子の交流記録をめくっている主人を前にして、二人はお互いの視線をかわしてため息をついた。
確かに、彼らの主人は最強だ。
おそらく地上の誰も敵わない。
けれど、たったひとり、黒髪の息子にはめろめろなのだ。
『おとーさま、一応最強だし。』
さてさて、グンマ様、優秀な秘書としてはそのご質問にお答えしかねます。
二人はこの場にいない青年に向かって、心の中でそう答えたのだった。
2005/3/12
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ガンマ団本部の体術専用道場の中央で、男がひとり立っている。
真っ赤の道着姿の彼の両目は閉じられ、静かに瞑想しているように見える。
しかし、その口元はかすかにだが両端が上がっており、無心ではないことを証明していた。
「はじめっ!!」
ふいのかけ声が道場に響き渡った瞬間、静けさは破られた。
「御免!」
鋭い気合いと共に顔面に繰り出された拳を彼は軽く受け流すと、右から襲ってきた男の背後に回る。
「ひとり。」
そう言いながら、その背中を肘でつくと彼は息がつまったような声を立て、その場に昏倒した。
一息つく間もなく、同時に二人が双方から同時にかかってくる。しかし、彼は左右双方、まったく隙を見せず、逆に両方を弾き飛ばす。
「三人、と……おい、おまえら、全員同時にかかってこいよ。まだるっこしくいけねぇ。」
両手を腰に当てた無防備な状態で、総帥は周りを取り囲む部下達をぐるっと見回す。
いくら上官とはいえ、あまりに失礼な言いぐさだったが、誰もそれを口にはしなかった。
立場的なものもあるが、何より、確かに彼の言うことが正しいと言う気がしたからだ。
それでも、命令である以上、彼の要望に背いて白旗を揚げるわけにはいかず、言われた通り、全員四方八方から彼に攻撃したのだった。
結果は、まったく予想通りで、それぞれ、「肩が弱い」「踏み込みが甘い」「足が短い」等々、ろくでもない『指導』をされ、心身共に大ダメージを負ったのである。
時間にして、およそ五分。
二十人ほどの男達が、それぞれ頭や足などを押さえ、うめき声をあげて寝っ転がっていた。
対してシンタローは一人涼しい顔だ。
「おい、おまえ、自分の間合いをちゃんと判断して動け。それからおまえは、タイミングが遅すぎる。」
それぞれの欠点の指摘や、改良点などを床の上の部下達に教える余裕すらある。
「わー、シンちゃん、すっごーい。十分かかってないよお~。」
「当然だろ。おい、キンタロー、おまえもこいつらの相手してやるか?」
「しない。スーツが皺になる。それに、そろそろ他の生徒の訓練の時間だろう。おまえも、さっさと上がってこい。」
キンタローのすげない返事に、シンタローはちぇっとふくれた。
総帥の座についてから、こういう訓練の時間をほとんど取れないうえ、幹部達には参加をやんわりと止められている。
十代の頃から日々のかなりの時間を鍛錬に費やしてきたシンタローは、最初の内はともかく、しばらく経つとなんとなく落ち着かなくなった。
それで、なんだかんだと理由をつけて『指導』という名の、飛び入り参加を強行したのだった。
ほぼ同等の力を持つキンタローが相手をすればよかったのかもしれないが、キンタローはあまりにも『近すぎ』て、手の内が分かりすぎる。
新鮮さを求めてのことだったが、いかんせん実力が違いすぎて不完全燃焼気味のシンタローに、グンマがなだめるように声をかける。
「しょーがないじゃん、今、本部にいる人間で、素手でシンちゃんより確実に勝てる人って一人しかいないでしょ。」
「……確実に勝てる?」
聞き捨てならない言葉にシンタローはぴくっと眉を上げた。
「オイ、『確実』ってなんだよ。叔父さんが留守だってのに、俺より強い奴がいるわけねぇだろーがっ!」
シンタローの剣幕に、グンマは慌ててもう一人の従兄弟の背中に隠れる。
「うわああん! キンちゃ~んっ。」
「シンタロー、グンマを脅すな。」
「うっせー! オイ、グンマ。俺より『確実』に強いっていうのは誰のこと言ってんだヨ。まさかと思うが、テメーのポンコツロボットじゃねぇだろうなぁ。」
「ポンコツじゃないもんっ! ガンボットは強いんだからっ、ねぇっ! キンちゃん。」
「………。」
あまりにも正直なキンタローの返事だった。
シンタローは、無言でボキボキと指を鳴らしている。七割は脅しだが、後の三割が本気であることをようく知っているグンマは観念して、吐いた。
「おとーさまだよっ!」
「……なんだと。」
思いもかけない人物の名にシンタローが目を見開く正面で、キンタローがあっさりと頷いた。
「ああ、確かにそうだな。」
どこまでも、正直なキンタローの発言が、次のシンタローの行動を誘発したと言っても過言では無いだろう。
「ええー、用事ってそんなことだったのかい? あんなに情熱的に『すぐ来い』っていうからパパ期待したのに……。」
内線電話で呼びつけられたマジックは、愛息に勝負を挑まれて、がっかりした声を上げた。
対してシンタローは父親の軽口に、さらなる怒りをかき立てられたらしく、手にした道着を父親の顔に向かってたたきつけた。
「てめーが期待した内容とやらは聞かないでいてやる。さっさとそれに着替えて、俺とここで勝負しろ。」
いっそ見事なまでに顔の正面で受け止めてしまった父親を見て、シンタローはグンマを横目で睨みつけた。
こんなののどこが、俺に十割勝率なんだ。
そりゃ、トータルで言えば親父の方が強いっていうのは認めるが、『確実』は無いだろうが、『確実』は。
「シンタロー……。」
「なんだよ。」
「これって、シンちゃんのなのかなっ?」
見るとしっかりと握りしめ、目をきらきらと輝かせている。
シンタローはがっくりと肩を落とした。
だから、なんでこれが十割……。
「私が着られる道着なんて、特注でもしない限り無いからね。ああ、シンちゃんの汗と匂いが染みついた道着……ありがとうっ! シンちゃん、こんな素敵なプレゼント……。」
「伯父さん、それは確かにシンタローの道着だが、未使用だから使用できそうな汗の匂いなどはまったくついていないぞ。」
「いけないよ、キンちゃん、こーゆうときは黙ってぬか喜びに浸らせてあげなきゃ。年寄りは先が短いんだし。」
正直者のキンタローを、バカ正直者のグンマが諫める。
二人の不穏当な発言内容より、道着がシンタローのもので無いことの方に、マジックは気落ちしたようだった。
「えー、じゃあ、いらない。パパ、道着似合わないしね。」
「いいからっ! さっさとそれ着て勝負しろ!」
「そんな……こんっっなにカワイイシンちゃんを虐めるなんて、パパにできるわけないじゃない…そりゃ寝技限定ならそうしてあげることにやぶさかじゃあないけれどね。もちろん、最後はちゃんと気持ちよくしてあげるし……。」
マジックの提案は言い終わる前にシンタローの拳によって、無に帰した。
見事にふっとんだ主人を見て、お供の一人が真っ赤になって肩で息をしている総帥に進言する。
「シンタロー様、勝負もついたことですし、そろそろお仕事に戻られた方が……。」
「これの、どこが勝負だっ!」
「はぁまぁ…いつもの痴話げんかですねぇ……。」
「だぁれが痴話喧嘩だっ!」
己の失言にチョコレートロマンスは慌てて口をつぐんだ。
髪を逆立てんばかりの勢いで怒鳴った総帥も怖いが、最近いろいろな単語の正確な意味を把握しだした副官の冷たい眼差しも怖い。
「とにかく、なんと言われようと、パパはシンちゃんと勝負なんかしないよ。なんだってシンちゃんの我が儘はきいてきてあげたけど、これだけはダーメ。」
人を食ったようなその返事に、シンタローはつかつかと歩み寄ると父親の手から、自分を模した例の人形を奪い取った。
「なんてことするんだいっ! シンタロー、返しなさい!」
「勝負してくんなきゃ、これは没収。」
「うっ……。」
さあ、どうする、と言わんばかりのシンタローの意地の悪い表情に、グンマは背伸びして隣の従兄弟に耳打ちした。
「あれって、いい大人がすることじゃないよねぇ……。」
従兄弟もさすがに呆れた顔で頷く。
「ああ、さすがに伯父貴もあの挑発にはひっかからんだろうな。」
キンタローの言葉通り、マジックは断腸の思いで顔を背けた。
「新しいのをまた作るからいいよ。」
発言の内容とうらはらに手がぶるぶると震えている。きっと最高傑作だったのだろう。
それでも可愛いシンちゃんと勝負するのは嫌らしいマジックに、息子は『これだけは使いたくなかった最終手段』を発動した。
「もし、やってくんないんなら、一生親父と口きかねぇ。」
いくつだ、あなたは。
とその場にいた四名は、そう思った。
ちなみにその場にいたのは、秘書両名、副官、博士、総帥、前総帥の六名である。
発言者のシンタローを除いて、つまり五名のうち、そう思わなかった人物が一名いたのである。
「わかりました。やります。やらせていただきます。」
しくしくと泣きながら、あっさりと白旗をあげる父親にシンタローは改めて、十割勝率発言の主に怒りが沸いたのだった。
「じゃ、やるぜ。開始線まで下がれよ。」
「わかった。チョコレートロマンス、このシンちゃん人形を預かっておきなさい。汚したりしたら承知しないからね。」
「はっ、かしこまりました。」
秘書の一人が、恭しく人形を預かり、それぞれが所定の位置に着いた時、待ったがかかった。
「お二方とも、眼魔砲はなしですよ。修理が大変ですから。」
「ベトコン戦法はすべて禁止だ、シンタロー。修理費用の予算がおりんぞ。」
「色仕掛けも駄目だよー、シンちゃん。鼻血で掃除が大変だからー。」
最後の発言者をぎろっと睨みつけるシンタローに、目の前のオヤジはうふふと笑いかけた。
「パパは色仕掛けしてくれても、全然構わないよ。むしろしてして。」
「誰がするかーーーっ! いいから、とっとと構えろ。」
くっそー、こんなヤツより評価が低いって……。
シンタローが牙をむかんばかりの状態で自分を見つめているのを、鼻の下のばさんばかりに見下ろしている父親に怒りは倍増する。
絶対たたきのめしてやる。
よく考えれば眼魔砲が使えないのも好都合というものだ。純粋に格闘だけで勝敗がつけられるから。
「では、私が、開始の合図をさせていただきます。お二方ともよろしいですね?」
頷く二人に、チョコレートロマンスは、人形を抱えていない方の手をまっすぐあげ、「始め」の合図と主に振り下ろした。
「行くぜ!」
ぐっと拳を固めるシンタローに父親は答えた。
「カマーン、ハニー! さ、パパの腕の中へ。」
両手いっぱいに腕を広げるマジックに、シンタローの血管は切れる寸前だった。
「こんのおおおお! アホオヤジぃぃ!」
がっ、と拳を突き出したシンタローは、あっさりそれをかわされて、たたらを踏んだ。
「はっ! やぁっ! はっ!」
気合いとともに繰り出されるパンチをすべてぎりぎりのところでかわしているマジックに、キンタローはため息を吐いた。
「やっぱりな。ただでさえ年期を積んでいる相手で、さらに恐ろしいことに体力も筋力もほとんど衰えていないんだから、シンタローに敵うはずもない。」
「まったく、バケモノ並だね。」
「お二方とも、それはあんまりなおっしゃり方では……。」
しかも、どっちかというと誉められているはずのマジックの評価が。
「そう言う、チョコレートロマンス達はどうなの? やっぱり、おとーさまが勝つと思ってるよね? おとーさま、一応最強だし。」
グンマに水を向けられ、チョコレートロマンスは「そりゃ、まあ…」と相棒の方を振り向いて肩をすくめると、ティラミスはくすっと笑った。
「この勝負にはお勝ちになると思いますよ。な?」
「ああ、まぁなぁ…。」
二人の意味ありげな苦笑の意味をグンマが考え込んでいる間に、勝負の行方は最終局面を迎えていた。
「せいっ!」
正拳突きと見せかけて、脇を狙った蹴りは、あっさりと止められる。
シンタローは徐々に焦りを感じ出していた。
シンタローが繰り出した技はすべて軽く、そう『軽く』かわされ、本人は息ひとつ乱していない。
チッ! ひらひらと逃げ回って。
シンタローはあがってきた呼吸を必死で鎮めた。
落ち着け、数打っても当たらないのなら、一発で決めればいいんだ。
シンタローは、必死で考えをまとめる。
さっきから打ち込んで、分かったことは、左手の前への動きが他と比べてやや遅いということだ。
だから、フェイントをかけて左に飛び込むと見せて、その後ろに回る。
シンタローは息をひとつ吐くと、反対側へと踏み込んだ。
予想通り、フェイクを見破った父親の身体が、左へと動く。
よしっ、とシンタローは予定通り、後ろへ回り込もうと大股で足を踏み出したのだった。
「はい、捕まえた。」
何がどうなったのか、後で考えてみてもよくわからない。
気づいた時には、ひょいと両脇を抱えられて持ち上げられるようにして、頬にキスをされていた。
そして、あろうことか、にっこり笑って父親はこう言ってのけたのだった。
「パパの勝ち。」
目をまん丸くして、父親の笑顔を見返したシンタローだったが、やがてぼそりと「放せ」と言い、解放された後、無言のままぽてぽてと歩いて部屋を出ていってしまったのだった。
そして、総帥室に籠城して二日目。
ドアの外では締め出しをくらった副官が、この日何度目かの投降を呼びかけていた。
「シンタロー、あけろ。何を拗ねてるんだ。」
しかし、中からは何のいらえも返ってこない。
「伯父貴に負けたことなんて、気にしなくていいだろう。あの場にいた連中は誰一人としておまえが勝つとは思ってなかったんだから、かっこわるくなんかない。」
今度もしーん、としている。
しかし、ドアの隙間から漏れてきた空気には怒りの気が含まれていた。
何が悪かったんだ、と真剣に考え込むキンタローだった。
「いつまでも、子供みたいなことをしていないで、俺だけでも入れろ。」
「あ、キンちゃんたら、どさくさに紛れてシンちゃんを独り占めしよーとしてる。」
ちょっとだけぎくりとして振り返ると、そこにはもう一人の従兄弟と、珍しい人物の姿があった。
四兄弟の麗しき末弟サービスである。
「叔父様が帰ってきてたから、連れてきたのー。えらい?」
グンマの問いに、キンタローは大きくため息をついて、「せっかくだが」と言った。
「シンタローは、拗ねて部屋に閉じこもったままだ。食事も睡眠もここでとっている。この俺が……いいか、この俺が何回、説得しようと意固地になって耳を貸そうとしない。会いにきてくれたのに、申し訳ないが、向こうでお茶でも飲んでいてくれ。」
しかし、グンマはキンタローの説明をまったく無視して大声で呼びかけた。
「シンちゃーん! サービス叔父様が帰ってきたよーお。」
コンマ三秒でドアが開かれ、久しぶりにシンタローが姿を見せた。
「おじさんっ! おかえりっ! 俺、ものすごーく会いたかったんだ。」
まるで幼子のように飛びついてきた青年を受け止めると、サービスは苦笑した。
「拗ねて、意固地になってると聞いたけど、大丈夫そうだな。」
「……へーえ、そんなことを叔父さんに言ったヤツがいるんだ。まぁ、誰が言ったかだいたい分かるけどね。」
視線を向けられたキンタローは、ぴきっと固まった。
従兄弟を金縛りにした後、シンタローは大好きな叔父に満面の笑顔を見せる。
「今、お茶入れるから入って。ちょうど休憩したかったんだ。」
「なら、おじゃましようかな。」
「叔父さんは邪魔なんかじゃないよ。……叔父さんはね。」
最後に極寒の視線でキンタローにとどめを刺して、シンタローは叔父を総帥室へと誘い、音を立ててドアを閉ざしたのだった。
その音で我に返ったキンタローが、ドアを再び叩き始めるより、ほんの少し早くグンマが彼の腕を捕まえた。
「キンちゃんも、そろそろ諦めなよ。シンちゃんの機嫌が直るまで何をしても無駄だってば。とりあえず、サービス叔父様に会えたから今日中には浮上するんじゃない?」
「シンタロー…。」
しゅーんとしたキンタローと、それをずるずる廊下を引きずって歩くグンマの姿はガンマ団の何人かに目撃され、しばらく本部内で物議を醸したのであった。
大好きな叔父を、室内に招き入れたシンタローはいそいそとお茶の用意を始めたが、叔父に止められた。
「お茶はいいよ。シンタロー。私はおまえに会いに来たんであって、お茶を飲みに来たわけじゃないから。」
綺麗な笑顔で、おいで、と呼ばれては一も二もなくそれに従うしかない。
叔父の正面のソファーに腰掛けようとすると、横を示された。
「誰も見ていないからこっちに座りなさい。近い方が落ち着いて話ができるからね。」
「う、うんっ。」
言われるがままに隣に座ると、髪を撫でられた。
「おまえが元気そうでよかった……と言いたいところだが、さっきのキンタローはどうしたんだい? 喧嘩でもしたのか。」
髪を滑る繊細な指の動きにうっとりとしていたシンタローだったが、叔父の心配そうな声に我にかえった。
自分たち従兄弟の運命に関して、人知れず自責の念を持っている叔父に負担をかけてしまったと、シンタローは反省する。
「してないよ。ただ、ちょっと今顔をあわせづらいんだ。グンマからちょっと聞いただろ?」
「ああ、兄さんに負けたって話かい?」
「――――うん……ああもう、どーしてこーなんだろーなぁ。」
シンタローは苦笑した。
「叔父さんや……まーいやだけどハーレムに負けても、ま、しゃーねぇかって思えるんだけどさ。わかっててもなんかむかつくっていうか……。」
子供の頃はもっと単純だった。
父親は世界で一番強いのが当たり前で、今だってそれはそうなのだが。
「全然歯が立たなくて、あいつへらへら笑っててさー。ちびの時の俺をあやしていたのと変わんねぇんだよ。」
すると、サービスは甥の肩を引き寄せてきゅうっと抱きしめた。
「お、おじさんっ!?」
シンタローの焦った声にも頓着せず、さらにサービスは甥の頭をぐしゃぐしゃと混ぜたうえ、真っ赤になった頬にキスまでやってのけたのだった。
憧れの美貌の叔父様にそんなことをされて、あわあわしているシンタローにサービスは笑いかけた。
「怒らないのか?」
「え? え?」
「私も今、おまえが小さい時と同じようにしたぞ。怒らないのか?」
「だって、べつにいまのは勝負とかそんなんじゃ…。」
「じゃあ、兄さんが同じことをしたら?」
「ぶっ殺す。」
真顔で答えた甥に、サービスは相変わらずのなぞめいた微笑みを向けた。
しばらく、無言で見つめ合った結果、降参したのは甥の方だった。
「うー、そうだよ、そうですよ! 俺がいちばんむかついてるのは…。」
がっくり肩を落として、無念そうな声で歯の間から絞り出すようにして告げる。
「親父に負けたことを、ほっとしている自分ですよっ! 子供扱いされててもいいんだっってどっかで思ってる俺に腹立ててるんだよ。」
「シンタロー。」
サービスはシンタローを自分の膝の上に座らせるて、子供をあやすような仕草でぽんぽんと肩を叩いてやった。
今度はおとなしくされるがままになっているシンタローは、叔父の肩に額をつけてぶつぶつと言った。
「なさけねーの…。」
「何が? 情けなくなんかないよ。」
「おじさんだって、俺に早く親父に追いつけって言ってたじゃん。俺だってそうしてたのに、負けた時悔しいのと同時にほっとしちゃったんだよ。」
「『目標を達成した後』が怖いのか?」
シンタローにとっては父マジックは常に越えられない壁だった。
少年時代の時はそれで絶望したことだって何度もあった。
今はあのころと比べものにならないほど強くなり、父親の後を継ぎそれなりにやってきた。
あの背中を追い越すという目標が、常に自分を支えていたからだ。
それを今達成してしまったら、次は何を目標にすればいいかきっとわからなくなってしまう。
けれど、ほっとしたのは目標を失わずに済んだからっていうわけじゃなくて。
「……親父が負けなかったから嬉しかったんだ。」
今、きっと甥は真っ赤になっているだろう、とサービスは思ったが、わざわざのぞき込むような無粋なまねはしなかった。
このあたりが長兄とは違い、甥に懐かれる大きな理由だろう。
かわりに背中を撫でながら、優しい声で彼の秘密を打ち明けた。
「私もね、父さんが今でも世界で一番強いと思っているよ。」
「…『おじいさん』のこと?」
写真でしか見たことのないもう一人の叔父とよく似た髪のひと。
記録を見る限りでは確かに歴代の総帥の中でも、屈指の実力の持ち主だったが、シンタローはよく知らない。
けれど、叔父の『父さん』と呼ぶ声に溢れている崇拝と愛情に、どんな人だったか分かるような気がした。
「おかしいだろう? もう、私は父さんの年齢を抜かしてしまったのに、父さんはマジックのような秘石眼の双眸を持っていたわけでもないのに、それでも、私の中では父さんは最強なんだ。たぶん、ハーレムも………兄さんもね。」
「おかしくなんかないよ……。」
シンタローはそう言って、ますます強くサービスにしがみついた。
「全然おかしくなんかない。」
そう言い切る甥に、叔父は今までで一番優しげな微笑みを浮かべて、「ありがとう」と、もう一度甥の、今度は額にキスを落としたのだった。
「シンちゃん、今頃、機嫌が直ってるかなぁ…。」
「そのためにわざわざサービス様をお呼びしたんでしょう。大丈夫ですよ。」
深い憂愁を込めた横顔を見せ、ため息をつく主人にティラミスはサーブした紅茶を出した。
チョコレートロマンスはその横にサブレを置きながら、呆れたように言う。
「こうなることは予想がついたんですから、なんだかんだと理由をおつけになってお断りすればよろしかったじゃないですか。」
「だって、シンちゃんに無視されるのも嫌だし、引き下がるような子じゃないからねぇ。」
もっともな理由だったが、チョコレートロマンスはなおも意見する。
「なら、あのような容赦ない勝ち方をされるからです。せめて、惜しいところで負けたとシンタロー様に思わせるような戦い方をすればよろしかったのに。」
「だって、悔しがるシンちゃんって可愛いんだもん。キスした時も目をまるくしてどうしたらいいのかわかんない顔してね、五歳の時、わんちゃんのぬいぐるみを買ってあげた時と同じ顔だったよ……ティラミス。」
「はっ、隠し撮りしておきました。こちらです。」
いささか悪趣味なハート形アルバムを取り出して、マジックに差し出した。
それは対決中の二人のショットがきちんとファイリングされている。
秘書としてとても有能なティラミスだったが、この主人に仕えるうちにカメラの腕まで磨いたらしい。
誰も気づかない間に超小型カメラで撮影したわりには、その数は優に50枚はあった。
「そうそう、これこれ~っ。かわいいなぁ~食べちゃいたいなぁ~。」
アイドル歌手のブロマイドを手にした女子高生のノリできゃっきゃっと、親子の交流記録をめくっている主人を前にして、二人はお互いの視線をかわしてため息をついた。
確かに、彼らの主人は最強だ。
おそらく地上の誰も敵わない。
けれど、たったひとり、黒髪の息子にはめろめろなのだ。
『おとーさま、一応最強だし。』
さてさて、グンマ様、優秀な秘書としてはそのご質問にお答えしかねます。
二人はこの場にいない青年に向かって、心の中でそう答えたのだった。
2005/3/12
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いつか終わるその日まで
あの島から帰って一ヶ月、二人が再会したのはガンマ団本部の第三棟からその隣の第五棟に抜ける道の上でのことだった。
細く人通りの少ないその道のうえではどうしたって避けては通れず、また別に避ける必要も無かった。
たとえ、ほんの少し前に殺し合った仲だったとしても。
「傷、残ってまいましたなぁ。」
久しぶりに会った師匠の頬に刻まれた模様のようなそれを見て、その加害者であるところの弟子は申し訳なさそうに言った。
「特選は隠密行動ではないからな。多少、目印が残ったところで問題は無い。」
素っ気ない師匠の答えにアラシヤマは苦笑する。
男が顔に執着するのもどうかと思うが、ここまで徹底的に興味がないのはどうだろう。
鏡を見なければ自分の顔の造作など忘れてしまうのではないだろうか。それはおおげさにしても、傷が無かった頃のことなどとうに頭からすっぽり抜けていることは、ほぼ間違いなさそうだ。
それにしても、自分はあの時傷どころか彼を確実に殺すつもりだったのだ。
―――あのひとの邪魔をさせないために。
なのに、目の前の師匠は仲間を庇いながらだったにも構わず、頬の傷ひとつで自分の命がけの技を防いだのだ。
ほんまにかなわんわ、と薄れゆく意識の中でそう思ったことを覚えている。
何があっても、何と引き替えにしても、あの人を守ろうと誓ったのに果たせなかったことが悔しくてたまらなかったことも。
自分はいつだって中途半端だ。
どれだけ技を磨いてもあのひとには勝てず、そして、あのひとを守りきることさえできなかった。
いや、そもそも守るという言葉をあのひとに使うこと自体がおこがましい。
それまで培ってきた人生も命も自我も奪われそうになっても、あのひとはそれをすべて取り戻し、そして他の人間達さえ救った。
自分を必要とすることなどこれから先も、きっとない。
そもそも彼は誰も『必要』とはしないのだから。
「本部にはいつまでおられますのん?」
「今日の夜には発つ。」
特戦部隊が帰還したのは確か今日の昼前だ。一日もじっとしていられないとは、つくづく好戦的な部隊らしい。
「先ほど隊長の代わりに、総帥に報告しにいった。」
「ええ~、わてなんか、ほとんど顔も見られへんのに、師匠はお話までできたやなんて……。」
「『お話』じゃない、報告だ。」
恨みがましい弟子の視線をあっさりと鉄面皮ではねつけて、マーカーは先ほどの会見の様子を思い出した。
マーカーの報告が進むにつれ、その眉根がだんだん寄せられ、自分が口を閉じた時には完全に険しい顔つきになっていた。
「俺は死者を出すなと言ったはずだ。」
「もうしわけありませんでした。」
マーカーが頭を下げると、逆に総帥はますます不愉快そうになった。
「えらく素直だが、おまえら改めるつもりはないんだろ?」
「改めるもなにも、私たちはハーレム隊長の命令に従うのみです。隊長が殺すなとおっしゃればそうするようにしますし、さもなければ。」
「つまり、ハーレムに納得させればいいんだな?」
遮るようにそう言われ、マーカーは頷いた。
「ええ、そういうことですね。」
総帥は唇を噛みしめた後、マーカーに下がるように命じた。
マーカーが部屋を出ようとすると、後ろから呼び止められる。
「おい、おっさんはどうした?」
「バーで休んでいらっしゃると思いますが……お呼びだとお伝えしましょうか?」
彼はしばらく黙ったがやがてため息をついた。
「いや、いい。俺の呼び出しくらいで、のこのこやって来てくれるような甘い性格じゃねぇ。」
さすが、身内、よくわかっている。
一応報告も本来なら隊長が行うものだが、前総帥の時でもマーカーが代行することが多かった。たとえ召喚状をもらったところで、気が向かなければそれで鼻をかんでおしまいだ。
「ならば、そういう性格にさせればよろしいのでは? 貴方があの方に勝る存在だと納得させることができれば、隊長を従わせることができますよ。」
ふと、思いついたことを言ってみると、彼は目を見開いた。
しかし、すぐにそれは怒りの表情に変わる。
「おまえはそんなこと無理だと思っているんだろ?」
「お答えしかねます。」
珍しく自分が笑っていることにマーカーは気づいた。
確かに、一族の証を持たないこの目の前の青年が、あの男……自分たちが認めた彼に勝てるとは思えない。
だが、何故だろう。もし、そうなったらということには興味がある。
自分の好まざる状況ではあるが、彼にそれができるのか、できるとしたらどうやってやり遂げるのかということを考えるのがおもしろいのだ。
本当ならこんなふうにやりとりするのも面倒くさがる自分なのに、どうしてだか彼の反応が見たくなってしまった。
自分が従い、敬う絶対の存在は彼であり、この青年になることは決してあり得ない。
だが、新しく総帥になったこの男には妙に人をわくわくさせる何かがあるのだ。
(らしくなさすぎる。)
マーカーが今度こそ退出しようとしたとき、総帥は一言だけ言った。
「その細い目をできるだけ開いて、よく見ておくんだな。」
何をとは聞かなかった。
ただ、黙って一礼だけしてその場を後にしたのだった。
「シンタローはん、赤い服がよう似合ってはって綺麗でしたやろ?」
アラシヤマにうっとりとした様子でそう尋ねられ、マーカーは少し迷ってから頷いた。
今までブロンドの人間しか袖を通したことのない制服が、何年もそうあったかのように彼に馴染んでいた。
金と赤の取り合わせは豪奢で輝かしいばかりだったが、黒と赤の鮮やかな対比は絢爛さはひけをとるものの、ある種の艶やかさが確かにあった。
「ええなぁ、師匠。」
「アラシヤマ。」
だらだら続きそうな弟子の言葉を遮り、マーカーは空を見上げて何気なく言った。
「あの人が欲しいか。」
あたかも、今日はいい天気だなとでも言うように、あたりまえのことを確認するためだけの質問にアラシヤマはやはり軽く頷いた。
「欲しいどすなぁ。」
アラシヤマは近くに植わっている木の枝に手を伸ばしながら、何気ない様子で答えた。
欲しい。
命をなげうってでもあの人が欲しい。
強い眼差し。
傲慢な性格。
圧倒的な実力。
彼が流す涙やたまに見せる弱ささえ、自分にとっては憧憬すべきもの。
全部欲しい。
「おまえのそれは月に恋するようなものだ。」
素っ気ない声にどこか案じるような響きがあるのは、自分の様子がそれほどに狂っているように師匠には見えるからだろうか。
言われなくてもよくわかっている。
あのひとは決して自分には振り向かない。
あの澄んだ瞳にこの姿が映ることはない。
あのひとはあの輝かしさですべてをあまねく照らす存在だ。多くの者に慕われ、自分の想いなど彼にとってその中のひとかけらにしか過ぎないのだろう。
「おまえが命がけであの人を守っても、あの人が手にはいることは決してない。」
かつて命がけの攻撃をアラシヤマに仕掛けられたことをマーカーは思い出す。
誰かのために、などそんな三流小説の迷い言を口にするような男を育てたつもりはなかった。
地べたをはいずり回っても生き延びるようなみっともない生き方を教えたこともない。
あの時、己の首に剣を突き立てなかったのは、その命をぎりぎりまで彼のためにだけ使うつもりだったからだろう。
「みっともない。」
師匠の吐き捨てるような叱責に、アラシヤマはそうどすなぁと同意した。
「あのときまで、わては自分の命が大事やなんて思たことありまへん。誇りの方がよっぽど重いもんどしたわ。」
でも、喉に冷たい刃をが当たった時、ふとあのひとの姿が浮かんだ。
泣きながら、自分は自分だと、強くなりたいと叫ぶ彼の声が聞こえた。
あの子供のように彼を救うことは自分には絶対できない。
自分の存在はあのひとにとってあまりにも無価値だ。
それでも……それでも、あのひとをこのままの状態で置いていくことなどできなかった。
生き延びることの恥も、怪我の痛みも、それに比べたら何ほどのことでもなかったのだ。
「あのひとのために使う命やと思たら価値がでてきましたんや。」
「しかし、それはどっちにしてもただの自己満足だ。」
非情にもそう切って捨てて、マーカーは弟子の横顔を鋭く見た。
「あのひとが一番愛しているのは弟君だ。そして、あのひとを一番愛しているのはマジック様だ。結局のところ、どうあがいてもおまえは二番手にしかなれない。」
アラシヤマの顔色が少しだけ変わった。
あのひとの愛情がどこに向かってもそれは自分が感知し得ることではない。
けれど、どれだけ彼を想っても、彼の父親になることができたあの男には勝てないことは、悔しいのだろう。
「それでも、あのひとが欲しいか?」
マーカーは一歩アラシヤマに向けて踏み出した。アラシヤマの肩が一瞬揺れたが彼は身をひくことはなかった。
低い声が、蛇のように地を這い彼の身体を上って耳に入り込む。
「なら、あのお二方のうちどちらかを殺してみろ。それこそ命がけでいけば、眠られているコタローさまなら殺せるかもしれないぞ。」
蛇が脳にぐるりと巻き付き、その鱗がついた躯で柔らかいそれを刺激した。
「死んでも、生き延びても、あのひとは決しておまえを許しはしない。寝ても覚めてもおまえのことばかり想うだろう。誰かを憎みきることができない甘ちゃんなあのひとの唯一特別な人間になれる。」
枝をつかんでいるアラシヤマの腕が小さく震えている。
想像上のあのひとの憎しみはそれこそ身を灼かれるほどに熱いのだろう。
それこそ、この弟子が一番欲しいものそのものなのだから。
あの命をかけた炎で一緒に燃え尽きたかったのは、たったひとり。
アラシヤマは目を伏せた。長いまつげが紗のように降り、そこに映し出された彼の内面を隠す。
―――――――長く思えたが、迷いはほんの数秒だった。
彼の手が離れ、自由になった枝がぴんとしなって大きく弧を描いた。
「やめときますわ。」
アラシヤマはため息をついて苦笑した。
「言いましたやろ。お師匠はん。わてはあのひとのためやったらなんだって捨てられます。自己満足で結構。」
別に二番手も構わない。
つまり、それほどにあのひとを愛してくれるなら、自分があのひとを想うよりあのひとを想ってくれる人間の存在なんて奇跡に近い。そう思うほどに、人がもてる限りのすべてをあのひとに傾けている自信がある。
あのひとが愛している存在をあのひとから取り上げるなんて、そんな悲哀をあのひとに味合わせることなんて決してできない。
「中途半端でええんどす。」
あのひとを守ってか恰好よく死ぬこともできず、あのひとの敵になることもできない半端な自分のままでいい。
そのスタンスのままで、あのひとについていくことができるなら。
あのひとの作る未来をこの目で見ることができるなら。
あのひとが幸福になるところを見ることができるなら。
それがかなうなら、せいぜいこの場所であがき続けていよう。
アラシヤマはきっぱりと言った。
「わては、それでええ。」
半分は自分に言い聞かせているかのような言葉だったが、アラシヤマがそう言い切るとマーカーはやはり何を考えているかわからない顔で受け止めた。
「わかった。それならそのまま愚かでいろ。」
冷たく言い放ち、彼は弟子に背を向けた。
アラシヤマは黙ってその姿を見送る。
数歩離れたところで彼が小さく呟いた言葉が、アラシヤマの耳に届いた。
「月は消えることは決してないからな。」
決して手が届かない存在。
それでも、それは空から消えることはない。
人が見上げさえすればそれはいつでもそこにある。
end
040605
2007/3/18
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あの島から帰って一ヶ月、二人が再会したのはガンマ団本部の第三棟からその隣の第五棟に抜ける道の上でのことだった。
細く人通りの少ないその道のうえではどうしたって避けては通れず、また別に避ける必要も無かった。
たとえ、ほんの少し前に殺し合った仲だったとしても。
「傷、残ってまいましたなぁ。」
久しぶりに会った師匠の頬に刻まれた模様のようなそれを見て、その加害者であるところの弟子は申し訳なさそうに言った。
「特選は隠密行動ではないからな。多少、目印が残ったところで問題は無い。」
素っ気ない師匠の答えにアラシヤマは苦笑する。
男が顔に執着するのもどうかと思うが、ここまで徹底的に興味がないのはどうだろう。
鏡を見なければ自分の顔の造作など忘れてしまうのではないだろうか。それはおおげさにしても、傷が無かった頃のことなどとうに頭からすっぽり抜けていることは、ほぼ間違いなさそうだ。
それにしても、自分はあの時傷どころか彼を確実に殺すつもりだったのだ。
―――あのひとの邪魔をさせないために。
なのに、目の前の師匠は仲間を庇いながらだったにも構わず、頬の傷ひとつで自分の命がけの技を防いだのだ。
ほんまにかなわんわ、と薄れゆく意識の中でそう思ったことを覚えている。
何があっても、何と引き替えにしても、あの人を守ろうと誓ったのに果たせなかったことが悔しくてたまらなかったことも。
自分はいつだって中途半端だ。
どれだけ技を磨いてもあのひとには勝てず、そして、あのひとを守りきることさえできなかった。
いや、そもそも守るという言葉をあのひとに使うこと自体がおこがましい。
それまで培ってきた人生も命も自我も奪われそうになっても、あのひとはそれをすべて取り戻し、そして他の人間達さえ救った。
自分を必要とすることなどこれから先も、きっとない。
そもそも彼は誰も『必要』とはしないのだから。
「本部にはいつまでおられますのん?」
「今日の夜には発つ。」
特戦部隊が帰還したのは確か今日の昼前だ。一日もじっとしていられないとは、つくづく好戦的な部隊らしい。
「先ほど隊長の代わりに、総帥に報告しにいった。」
「ええ~、わてなんか、ほとんど顔も見られへんのに、師匠はお話までできたやなんて……。」
「『お話』じゃない、報告だ。」
恨みがましい弟子の視線をあっさりと鉄面皮ではねつけて、マーカーは先ほどの会見の様子を思い出した。
マーカーの報告が進むにつれ、その眉根がだんだん寄せられ、自分が口を閉じた時には完全に険しい顔つきになっていた。
「俺は死者を出すなと言ったはずだ。」
「もうしわけありませんでした。」
マーカーが頭を下げると、逆に総帥はますます不愉快そうになった。
「えらく素直だが、おまえら改めるつもりはないんだろ?」
「改めるもなにも、私たちはハーレム隊長の命令に従うのみです。隊長が殺すなとおっしゃればそうするようにしますし、さもなければ。」
「つまり、ハーレムに納得させればいいんだな?」
遮るようにそう言われ、マーカーは頷いた。
「ええ、そういうことですね。」
総帥は唇を噛みしめた後、マーカーに下がるように命じた。
マーカーが部屋を出ようとすると、後ろから呼び止められる。
「おい、おっさんはどうした?」
「バーで休んでいらっしゃると思いますが……お呼びだとお伝えしましょうか?」
彼はしばらく黙ったがやがてため息をついた。
「いや、いい。俺の呼び出しくらいで、のこのこやって来てくれるような甘い性格じゃねぇ。」
さすが、身内、よくわかっている。
一応報告も本来なら隊長が行うものだが、前総帥の時でもマーカーが代行することが多かった。たとえ召喚状をもらったところで、気が向かなければそれで鼻をかんでおしまいだ。
「ならば、そういう性格にさせればよろしいのでは? 貴方があの方に勝る存在だと納得させることができれば、隊長を従わせることができますよ。」
ふと、思いついたことを言ってみると、彼は目を見開いた。
しかし、すぐにそれは怒りの表情に変わる。
「おまえはそんなこと無理だと思っているんだろ?」
「お答えしかねます。」
珍しく自分が笑っていることにマーカーは気づいた。
確かに、一族の証を持たないこの目の前の青年が、あの男……自分たちが認めた彼に勝てるとは思えない。
だが、何故だろう。もし、そうなったらということには興味がある。
自分の好まざる状況ではあるが、彼にそれができるのか、できるとしたらどうやってやり遂げるのかということを考えるのがおもしろいのだ。
本当ならこんなふうにやりとりするのも面倒くさがる自分なのに、どうしてだか彼の反応が見たくなってしまった。
自分が従い、敬う絶対の存在は彼であり、この青年になることは決してあり得ない。
だが、新しく総帥になったこの男には妙に人をわくわくさせる何かがあるのだ。
(らしくなさすぎる。)
マーカーが今度こそ退出しようとしたとき、総帥は一言だけ言った。
「その細い目をできるだけ開いて、よく見ておくんだな。」
何をとは聞かなかった。
ただ、黙って一礼だけしてその場を後にしたのだった。
「シンタローはん、赤い服がよう似合ってはって綺麗でしたやろ?」
アラシヤマにうっとりとした様子でそう尋ねられ、マーカーは少し迷ってから頷いた。
今までブロンドの人間しか袖を通したことのない制服が、何年もそうあったかのように彼に馴染んでいた。
金と赤の取り合わせは豪奢で輝かしいばかりだったが、黒と赤の鮮やかな対比は絢爛さはひけをとるものの、ある種の艶やかさが確かにあった。
「ええなぁ、師匠。」
「アラシヤマ。」
だらだら続きそうな弟子の言葉を遮り、マーカーは空を見上げて何気なく言った。
「あの人が欲しいか。」
あたかも、今日はいい天気だなとでも言うように、あたりまえのことを確認するためだけの質問にアラシヤマはやはり軽く頷いた。
「欲しいどすなぁ。」
アラシヤマは近くに植わっている木の枝に手を伸ばしながら、何気ない様子で答えた。
欲しい。
命をなげうってでもあの人が欲しい。
強い眼差し。
傲慢な性格。
圧倒的な実力。
彼が流す涙やたまに見せる弱ささえ、自分にとっては憧憬すべきもの。
全部欲しい。
「おまえのそれは月に恋するようなものだ。」
素っ気ない声にどこか案じるような響きがあるのは、自分の様子がそれほどに狂っているように師匠には見えるからだろうか。
言われなくてもよくわかっている。
あのひとは決して自分には振り向かない。
あの澄んだ瞳にこの姿が映ることはない。
あのひとはあの輝かしさですべてをあまねく照らす存在だ。多くの者に慕われ、自分の想いなど彼にとってその中のひとかけらにしか過ぎないのだろう。
「おまえが命がけであの人を守っても、あの人が手にはいることは決してない。」
かつて命がけの攻撃をアラシヤマに仕掛けられたことをマーカーは思い出す。
誰かのために、などそんな三流小説の迷い言を口にするような男を育てたつもりはなかった。
地べたをはいずり回っても生き延びるようなみっともない生き方を教えたこともない。
あの時、己の首に剣を突き立てなかったのは、その命をぎりぎりまで彼のためにだけ使うつもりだったからだろう。
「みっともない。」
師匠の吐き捨てるような叱責に、アラシヤマはそうどすなぁと同意した。
「あのときまで、わては自分の命が大事やなんて思たことありまへん。誇りの方がよっぽど重いもんどしたわ。」
でも、喉に冷たい刃をが当たった時、ふとあのひとの姿が浮かんだ。
泣きながら、自分は自分だと、強くなりたいと叫ぶ彼の声が聞こえた。
あの子供のように彼を救うことは自分には絶対できない。
自分の存在はあのひとにとってあまりにも無価値だ。
それでも……それでも、あのひとをこのままの状態で置いていくことなどできなかった。
生き延びることの恥も、怪我の痛みも、それに比べたら何ほどのことでもなかったのだ。
「あのひとのために使う命やと思たら価値がでてきましたんや。」
「しかし、それはどっちにしてもただの自己満足だ。」
非情にもそう切って捨てて、マーカーは弟子の横顔を鋭く見た。
「あのひとが一番愛しているのは弟君だ。そして、あのひとを一番愛しているのはマジック様だ。結局のところ、どうあがいてもおまえは二番手にしかなれない。」
アラシヤマの顔色が少しだけ変わった。
あのひとの愛情がどこに向かってもそれは自分が感知し得ることではない。
けれど、どれだけ彼を想っても、彼の父親になることができたあの男には勝てないことは、悔しいのだろう。
「それでも、あのひとが欲しいか?」
マーカーは一歩アラシヤマに向けて踏み出した。アラシヤマの肩が一瞬揺れたが彼は身をひくことはなかった。
低い声が、蛇のように地を這い彼の身体を上って耳に入り込む。
「なら、あのお二方のうちどちらかを殺してみろ。それこそ命がけでいけば、眠られているコタローさまなら殺せるかもしれないぞ。」
蛇が脳にぐるりと巻き付き、その鱗がついた躯で柔らかいそれを刺激した。
「死んでも、生き延びても、あのひとは決しておまえを許しはしない。寝ても覚めてもおまえのことばかり想うだろう。誰かを憎みきることができない甘ちゃんなあのひとの唯一特別な人間になれる。」
枝をつかんでいるアラシヤマの腕が小さく震えている。
想像上のあのひとの憎しみはそれこそ身を灼かれるほどに熱いのだろう。
それこそ、この弟子が一番欲しいものそのものなのだから。
あの命をかけた炎で一緒に燃え尽きたかったのは、たったひとり。
アラシヤマは目を伏せた。長いまつげが紗のように降り、そこに映し出された彼の内面を隠す。
―――――――長く思えたが、迷いはほんの数秒だった。
彼の手が離れ、自由になった枝がぴんとしなって大きく弧を描いた。
「やめときますわ。」
アラシヤマはため息をついて苦笑した。
「言いましたやろ。お師匠はん。わてはあのひとのためやったらなんだって捨てられます。自己満足で結構。」
別に二番手も構わない。
つまり、それほどにあのひとを愛してくれるなら、自分があのひとを想うよりあのひとを想ってくれる人間の存在なんて奇跡に近い。そう思うほどに、人がもてる限りのすべてをあのひとに傾けている自信がある。
あのひとが愛している存在をあのひとから取り上げるなんて、そんな悲哀をあのひとに味合わせることなんて決してできない。
「中途半端でええんどす。」
あのひとを守ってか恰好よく死ぬこともできず、あのひとの敵になることもできない半端な自分のままでいい。
そのスタンスのままで、あのひとについていくことができるなら。
あのひとの作る未来をこの目で見ることができるなら。
あのひとが幸福になるところを見ることができるなら。
それがかなうなら、せいぜいこの場所であがき続けていよう。
アラシヤマはきっぱりと言った。
「わては、それでええ。」
半分は自分に言い聞かせているかのような言葉だったが、アラシヤマがそう言い切るとマーカーはやはり何を考えているかわからない顔で受け止めた。
「わかった。それならそのまま愚かでいろ。」
冷たく言い放ち、彼は弟子に背を向けた。
アラシヤマは黙ってその姿を見送る。
数歩離れたところで彼が小さく呟いた言葉が、アラシヤマの耳に届いた。
「月は消えることは決してないからな。」
決して手が届かない存在。
それでも、それは空から消えることはない。
人が見上げさえすればそれはいつでもそこにある。
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2007/3/18
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やはり牢の外は広かった。
しかも、少年の持っている地図もところどころ微妙に間違っているようで、脱出は困難を極めた。
「まー、究極の話、あと一時間くれー見つからにゃーなら、いいんだけど。」
モニターを忙しく操作しながら、少年は情報班ちゃんとやれよ、とぶつぶつ言っている。
「見つかる前に薬を全員に飲ませるとしても、足りにゃーし……。」
その一言に皆、一気に青ざめる。
売り飛ばされるのと、蛇に変身させるのがどっちがマシかと聞かれても咄嗟には答えられない。
かなり歩いた時、少年は止まった。
ちょうど、明るい大きな道のつきあたりに面した場所だ。
「警備の人間のルートがそこだから、慎重に一人ずつ渡って向こうの廊下へ行け。」
そう言って、壁越しに確認すると、向かい側へ走った。
そして、あたりを見回してから、手振りで合図する。
「じゃあ、私から…。」
気の弱そうな男が、覚悟を決めたようにそう言って、一気に走り抜けた。
それに続いて、一人、また一人と少年の合図に従って、走る。
彼はというと、なんとなく出遅れて、とうとうラストになってしまった。
少年がやれやれとほっとしたように手招きしかけたが、その手が止まった。
顔がひきしまり、そっと巡回のあるという通路をのぞく。
彼も真似してこわごわと見てみると、向こうから銃を抱えた二人組がこちらを向いて歩いてくるのが見えた。
一気に駆け抜ければ全部見つかる。
しかも、ここから引き返せば自分も見つかってしまうのだろう。
だから、少年は危険を知っていながらもここを通ったのだ。
どうしよう、と今更ながらかけられた手錠が冷たく感じられた。
恐怖にぼんやりとかすむ視界に、少年が手で壁を示して、口をぱくぱくさせて何かを言っているのが映る。
頭の中が真っ白になっていたが、少年が指し示すまま彼は同じように手で壁を触る。
ざらっとした金網の感覚が彼の脳に、正気を取り戻させてくれた。
少年がこくこく頷くのに、頷き返すひまもなく、通気口のふたらしい金網を音をさせないよう気をつけて外す。
なんとか中にもぐりこんで、無我夢中で前に進む。
こんなの映画かゲームの中でのことだけだと思っていた、と彼は冷や汗をかいた。
四つん這いの状態で肘を使って移動するのはかなりきついうえ、たまに通風口近くを通る度、すぐ下に人がいるのが見えてびくびくする。
第一、いつここから出られるのかも分からないのだ。
最後に見た時、少年はまっすぐに進めと口と手振りで指示してきたように思ったが、今となってはそれも自信が無い。
一旦不安が浮かんできたらたまらなくなり、次第に進むのが遅くなっていった。
長い暗い通路がどれくらい続いただろう。
すっかり疲れ果て、彼はその場にうずくまってしまった。
もういやだ。
何故、俺がこんな目にあわなければならないんだ。
自分が招いたことだと分かっていても、それでも前に進む気力がわかない。
なにもかもどうでもよくなって、冷たい床に顔をつけると、ますますみじめな気持ちになってきた。
ああ、喉が渇いた。
朦朧とする意識の中で、人々のざわめきが聞こえてきた。
それも一人や二人ではない。
かなりの大人数が騒いでいる。
ぼーっと寝っ転がっていた彼は、はっとした。
もしかすると。
光がもれこむ方向へと這っていき、通風口から下をおそるおそるのぞき込んだ。
思った通り、いわくありげな男女が大勢、中央にある円台の方を向いて座っている。
客らしい彼らの服装は、あまりそういうものに興味が薄い彼でも、そうと分かる高価なものばかりだった。
彼らは連れの人間と小声でひそひそ話し、時折楽しそうに笑っている。
彼らにしてみれば、誘拐されたり、親に売られてきた人間の苦悩や恐怖など、まったく想像さえしないのだろう。
そこにあるから、そして自分が手に入れられるから、そうしているだけなのだ
罪悪感なんてかけらもない。
誘拐犯たちが、このオークションを余興だと言った意味がよくわかった。
この人達はおそらく、他人の人生を思うがままにあやつることができる地位にいるのだろう。
人間一人買うことなんて、日常からそうかけ離れたものでもないのかもしれない。
自分が逃げたことが今ばれたら、組織の人間はあっさりと起爆スイッチを押す。
こういう世界を相手にした商売をしているのだから。
身体をぶるっとふるわせた時、「それでは最後の商品です」というアナウンスが聞こえてきた。
最後って、確か……。
彼は顔の位置をずらして、円台の方を観ると、ちょうど、あの男が出てくるところだった。
細かい刺繍がたくさんはいったゆったりした袖口の白い上着で、前身頃をドレープのようにかきあわせて飾り紐で腰のあたりでまとめている。
上着の裾は長めで、その間から、踝より短い黒いスパッツのようなものを履いた足がのぞいている。
長い黒髪はポニーテールの要領でひとつに結い上げられ、簪を何本もさされており、目尻のあたりに紅をさして、よりいっそうきつい顔立ちを強調していた。
というか、元々目つきがやたらに鋭かった。
彼は大股でさっさと歩き、中央までたどり着くと、傲然と顔をあげて周囲をゆっくり見回した。
その姿は堂々として、卑屈さや恐怖などかけらもなく、そこらへんに座っている上流階級に属しているらしい人間たちより、よほど威厳にあふれていた。
司会の人間が男のセールスポイントらしいデータをあれこれ話しているのが耳に入ってくるが、そんなものより彼の一瞥が顧客達には何よりも効果があったようだ。
気のせいではなく、通風口から流れ込んでくる会場内の熱が五度は上がった。
「――では、百から。」
司会が開始を宣言するやいなや、いきなり『二百』と声がかかった。
見下ろすと、小さな帽子を斜めにかぶったまだ若い女性だった。
しかし、すぐに『二百五十』と、声があがり、それに被さるように『二百八十』と野太い男の声がかかる。
セリは白熱し、あっというまに三百を超えた。
ほかのセリ見ていないが、まちがいなく今日一番の盛り上がりなのだろう。
競争に加わっていない他の客達も身を乗り出して、戦いの行方を見守っている。
そんな中、勝手に値を付けられている本人だけが、我関せずといった態度で立っている。
冷たい目をして、明後日の方向を見ている男が何を考えているのか、彼には見当も付かなかった。
自分だったらあんな場所に立たされたら、逃げ出すこともできずにその場にへたりこんでしまうだろう。
あんな落ち着いた態度でいられる方がまれなのではないか。
多かったかけ声が少しずつ減り、五百七十という声以降、もうあがることは無かった。
確か値踏みをしていた男は五百はかたい、と言っていたが確かにあたっていた。
だてに、長年この仕事をしていたというわけではないということか。
「五百七十出ました。五百七十。他にどなたか、いらっしゃいますか?」
終了が近づく気配に、会場はざわつくものの、再び値をつける声はあがらない。
「では、五百七十で落札―――。」
今にも槌が振り下ろされそうになったその時、ふいに低いがはりのある男の声がそれを遮った。
「千。」
その時、わずかに男のこめかみがひっつれた。
このオークションのレートは知らないが、この会場に集まっている人間の裕福そうな様子や、あの男達の口振りから、五百という金額が相当の額であることがわかる。
それの倍ということは。
声の主を捜して、狭い窓に顔をくっつけると、皆の注目を浴びている席が見えた。
サングラスをかけたうら若い男だ。
くせがあるが、艶やかな金色の髪と、象牙の象のような整った横顔の青年で、仕立ての良いスーツの上からも分かる均整の撮れた体つき。
目元は濃い色のサングラスに覆われて見えないものの、どちらかというと、円台に立って値段をつけられる側に見えた。
これだったら、結構マシなんじゃないかと、目下の商品であるところの男に視線をうつすと、意外や意外、はっきりと不愉快そうな表情になっている。
確かに美少年にしてはトシ喰ってるし、ナイスミドルにしては若造だし、いろいろと不満があるのかもしれないが、他の油が浮きそうなヒヒオヤジや、化粧の厚さが4cmのサディズムっぽいおばさんよりはずっと普通そうだ。
しかし、青年がつけた金額は、セリを早く終わらせるどころが、かえって参加者の競争意識をあおり立て、先ほど下りた人間達も再び参加してきた。
「千百。」
「千百八十。」
「千二百五十!」
他の競争者も最後に来た大きなセリに興奮して、ひそひそと隣と話し合っている。
あのスーツの青年は諦めてしまうのだろうか、とどきどきしながら彼を見た時、ちょうど彼がサングラスを外すのが見えた。
同性の自分すらぞくっとくるような、美貌だが、彼が見とれたのは純粋に露わになったその瞳の色だった。
二ヶ月くらい前、通った国の有名な観光地の海の色とそっくりな美しい青。
別に青い目など珍しくもないはずなのに、それでもこんなに純粋な青は初めてだった。
「一万。」
その声に、我慢の限界とばかりに、血相を変えた男が台から飛び降りる。
両手を戒められているにも関わらず、素早い動作で監視員の手をかいくぐり、金髪の青年の席まで走っていくと、男は仁王立ちで『買い手』を見下ろした。
「えらく気前がいいが、俺は何もできねえぞ。それでも一万出すつもりか?」
ああ?とすごんで、金色の髪の男の顔をのぞきこむようにしたが、天井からかろうじて見える相手の男の表情は冷静なままだ。
「ああ、やってほしいことは今から教え込むさ。」
そう言うと、彼の手がするっと男の首の後ろに回り、乱暴に引き寄せる。
……………今、ひょっとして、キスしてる?
顔が重なっているので確かめられない、というか、重なっているということはつまりそういう距離なわけで……しかし、そういうシーン……同性間のだが……に免疫が無い彼の脳が拒否している。
でも確かに、この角度はまちがいなくキスシーンだ。
彼は思わずごくりと息を呑んだ。
漆黒の髪に、白く長い指が浮かび上がり、やけにくっきりした色の対比にどきりとする。
ふいに、二人が離れた。
男が勢いよく身体を起こし、長い髪がばさりと宙を舞う。
よく見ると、口の端に赤いものがついている。
慌てて、金髪の男を見ると指先でぐいっと唇をぬぐっていた。
表情は再びかけたサングラスで、大半が隠れている。
黒髪の男はそれを見下ろし、自分がやったことを相手に誇示するかのように舌を出して口元のそれを舐めた。
そして一言吐き捨てる。
「……まずいな。」
その時、ようやっと護衛が追いつき、逃げ出した『商品』の肩を押さえつけた。
「お客様、大丈夫ですか?」
「失礼いたしました。」
口々に謝って、彼を引っ立てていこうとするのを、彼は手を振って止めさせた。
「たいしたことはない。それより、主催者に話がある。この場に出てくるよう言ってくれ。」
客の要求に彼らは、明らかに戸惑った様子だが、顔を見合わせて携帯電話をどこかにかけた。
席を外していたらしい主催者が、間もなくやってきて、にこやかに彼に挨拶した。
「スペンサー氏から紹介された方ですね。初めてのお越し歓迎いたします。それで、私に何か――。」
「簡単なことだ。こいつの手錠のコードを無効化してほしい。」
コードの無効化、と言う言葉に思わず自分の手にかけられた手錠を見る。
黒く光るそれの上部に記された十桁の数字のことを言っているのだとすぐ分かった。
自分たちを縛り、追跡し、さらには殺すこともできる数字。
主催者は困った顔をして、首を横に振った。
「いくらなんでもそれは―――。」
「何故だ。私がこれの所有者だろう。それとも、先ほど提示した額以上に払う人間がいるか?」
そう言ってあたりを見回したが、誰一人として立ち上がる気配はなかった。
無理もない、あの金額だ。
それに……もし、いたとしてもこの男の威圧感に我こそは、と言える人間はそういないだろう。
「しかし、今、まだ正式にあなたが所有されているわけではありません。しかも、コードの有効無効は現在のすべてのコードに適用される仕組みになっているのです。つまり、一人を無効化すれば他のコードもすべて同じになってしまうわけで、到底お受けできません。」
主催者の慇懃な口調も、丁寧ながら押しの強い態度も、まったく男には通用しなかった。
「俺は今言った金額をその口座に今この場で振り込もう。そうすれば、俺のものの手錠を外してもらえるな。」
そう言って、携帯電話を取り出すと一言二言指示した。
「お待ちください! お客様!!」
強引さに主催者が抗議したが、男はけろっとしている。
主催者はほとほと呆れたというふうに、男に尋ねる。
「何もそうあせらずとも、半日も待てばコードは無効化されるのに。」
すると、男はふっと嗤った。
「しつけは早めにやる主義なんだ。」
「さようで。」
こういった手合いには慣れっこなのだろう。主催者は特に逆らわなかった。
やがて、ひとりが小走りに近づいてきて何か耳打ちすると、主催者は頷く。
それから彼に向かってにこやかに微笑んだ。
「ただいまご入金を確認させていただきましたので、所有者のあなたのご希望にそわせていただきましょう。」
そう言いながら、懐からリモコンを取り出すとボタンを押すのが見えた。
ピ、という小さな電子音に驚いて自分の手を見ると、数字の横で光っていた小さな赤いランプが消えている。
これで、知らない内に手首をふっとばされることは無くなったと、彼は心の底から安堵した。
しかし、自分をくくっていた戒めをほどいてくれた本人は、さらに堅固な新しい檻に放り込まれることになりそうだ。
金色の髪の男の強引さといい、男が代価に支払った金額から想像する彼に対する執着の深さといい、あの男から逃げ出すのは相当難しいだろう。
天井裏でやきもきしている観察者のことなど、階下の人間は誰一人として知るよしもなく、和やかに会談していた。
「まったく、私もこの商売を始めて相当になりますが、お客様のような方は初めてですよ。スペンサー氏に紹介していただいた御礼を是非申し上げねば。」
すると男は、真面目な調子でこう答えた。
「それには時間がかかるだろうな。現在、彼は我々が拘束しているから。」
「は? それはどいういった……。」
何を言っているのか飲み込めなかったらしい主催者が、まぬけな問い返しをしたと同時に破裂音が鳴り響いた。
主催者の手にあったリモコンが固い床に落ちて、バウンドする。
「こういうこと、だ。」
その音は、黒髪の男の手に握られている小さな黒っぽいもの―――拳銃から発せられたものだった。
「おまえ! そんなものをいつ手に入れた!?」
「俺が、さっき渡してやった。」
それしか無いだろう、と金髪の男は察しが悪い子供を説得するような口調で言いながら、サングラスを外してまっすぐ前を向いた。
主催者は現れた端正な顔立ちと、ことさらにその青い瞳をしげしげと見つめ、それからはっとしたように黒髪の男に視線を戻す。
「………っおまえは…!!」
すると、黒髪の男は、に、と笑った。
「へえ、俺の顔くらいは知っていたか。」
「なぜ、おま……『あなた』がこんなところにいるんだ!」
主催者の慌てぶりがあまりに凄まじいので、彼は驚いた。
こんな大きな建物を構える組織のトップが、狼狽するなんて何事なのか。
「そりゃあ、仕事だ。上の方でもいろいろあってな。おまえさんがいろいろ貢いでいた人物の失脚も時間の問題ってことになって、政府の介入が可能になった――っていうより、この摘発をとどめにしたいっていう対抗勢力の思惑もあるんだろうけどよ。で、『うち』に依頼がきたってこと。」
主催者は彼の説明を聞くにつれ、どんどん顔を青ざめさせていった。
しかし、なんとか無理矢理つくった笑顔を顔にはりつけた。
「なんのお話だか、いっこうに分かりませんな。なにか誤解があったのでしょう。それにしても、いくらお強いとはいえ、たったお二人で乗り込まれるとは大胆な。誤解を解くための話し合いも早く済みそうだ。」
確かに通風口から許せる限りの範囲で会場を見回すと、何人もの屈強な男達が一斉に二人の侵入者に銃を向けている。
いくらなんでも、この人数じゃ無理だ。
そう思いながらも、彼は不思議に冷静だった。
たった一人で、見張りの男達を圧倒していた男。
自分の命は自分で大事にしろ、という言葉。
あの男には『死』という言葉は、あまりに似合っていない。
こんな場面でもなんとかしてしまう。そんな気がする。
彼は自分が『勝てる』ことを『生きる』ことを知っているのだ。
自分の強さを信じているから、人から見れば無謀としか思えないことをやれるのだ。
そして、男はやはり主催者の言葉にちらりとも動揺した様子はなかった。
傲然と笑みを浮かべ、主催者に向けた銃を下ろすそぶりすら見せない。
かわりに動いたのは、金髪の男だった。
指を、ぱちん、と慣らす。
しん、とした会場にそれは思いの外響きわたった。
すると、東と西に二つあった入り口から、同じ軍服を着た兵士達が大勢流れ込んできた。
慌てて、その場を立ち去ろうとする人間達を、有無を言わさず席に戻している。
主催者はすっかり土気色になった顔をきょろきょろさせるが、逃げ場所などどこにも無いようだった。
さっきの魔法使いと同い年か、少し若いくらいの少年が駆け寄ってくる。
そして、金髪と黒髪の男の前で起立して、敬礼し報告した。
「総帥! 建物の周りを完全に包囲しました。」
彼と共にやってきた兵士達が、銃口を主催者たちにつきつける。
黒髪の男は自分の持っていた銃を下ろすと、少年兵の差し出した手にそれをのせた。
「お仕事、完了っと。」
組織の人間が連行され、参加者達も兵士達が誘導している。
その喧噪の中、黒髪の男の手にかけられた手錠を、少年が主催者から没収したマスターキーを使って外していた。
少年は真剣な顔つきで、それを黒髪の青年からそおっとのけて、ほっとした顔つきになった。
そして、ぺこっと頭を下げる。
「すみません。自分が、ついていながら総帥ば危ない目にあわせたと。」
少年に頭を下げられて、男は困ったようだった。
「何言ってんだ。あの女たちを逃がせ、と命令したのは俺だ。おまえは俺のいうことに従っただけだ。気に病むことはない。―――おまえは、よくやった。」
ぽん、と肩を叩き、顔を上げさせる。
その男の顔を見上げると、みるみるうちに彼の顔が明るくなるのが分かった。
「総帥……。」
「よし、元気でたな。じゃ、艦の連中に食事の用意を頼んできてくれ。ろくなもん食ってないから、腹が減って。」
「はいっ!」
少年は元気よく返事をすると、彼の命令を果たすべく、一目散に走って行ってしまった。
すると、それまで黙っていた金髪の青年がぼそりと呟いた。
「『よくやった』ね。」
ひっかかる言い方に黒髪の男は、彼に向き直った。
「そうだろ。じっさい、あいつはちゃんと誘拐されかけた被害者を保護し、おまえにきちんと報告した。よくやったじゃないか。」
「ああ、『総帥』の意に見事にそってくれたものな。」
青い瞳がぎらり、と光る。
「……『わざと』だろ。」
黒髪の男は肩をすくめた。
「まさか、俺だって散歩を兼ねた偵察で、そうそううまく現場にぶつかるとは思わなかったさ。」
しかし、それが嘘だとのぞき見していた彼にもすぐ分かった。
男はおそらく危険な地域を選んで、歩いていたのだ。
そして、それは金髪の男にはとっくにお見通しだったらしい。
「偵察? 『総帥』が斥候のまねごとなんぞしてどうする。」
すると『総帥』が反撃した。
「なら、補佐官がのこのこと敵の陣地に目立つ特徴抱えて乗り込んでくるのは、どうなんだよ。他のヤツに来させれば良かっただろーがっ!」
痛いところをつかれたのか、補佐官は彼に背を向けて俯いた。
「……おまえが誘拐されたと聞いて、俺がどんな気持ちだったと思ってる? そのうえ、持たせていた盗聴器が急に使えなくなって…。」
そんなもの持ってたのか、と上で聞いていた彼は驚いたが、そういえば、登録された時、端末の具合がおかしいとか言っていたが、それはこの男が所持していた盗聴器のせいではないだろうか、と思い当たった。
他にも、組織の人間がコードのことを説明したとき、身体をわざわざ、そちらに向けたりしていたのは、自分を通して情報を補佐の彼に伝えようとしていたのか。
「着替えさせられるときに見つかったらヤバイから、トイレに流したんだよ。」
「だから、おまえの様子がまったく分からないのに、俺が艦の中で待っていられると思うのか、と俺は聞いてる。」
強い口調でそう言ったが、握りしめた拳が小さく震えている。
その姿は事情を知らない自分でさえ、痛々しく感じるのだから、かなり親しい仲らしい黒髪の男ならなおさらだろう。
男はばつの悪そうな顔で、金髪の彼の方へ近づいて頭をかいた。
「うー、そのなー、俺も、止められるって思って、おまえに相談しなかったのは悪かったと思うけどさ、無駄なけが人は極力出したくなかったんだ。今度から、ちゃんと相談するから機嫌直せよ。なっ。」
「……俺が反対するような場合を除いて、だろ?」
鋭くつっこまれ、黒髪の男の目が宙を泳いだ。
「それは、おまえが何かっつーと、『危険だ』『よせ』を連発するから。」
金色の髪の男はしばらく沈黙した後、ゆっくり彼の方を振り向いた。
「…………手を出せ。」
「手?」
急に何を言い出すのかと思ったら、と彼は両手を差し出した。
「別に怪我なんてなにも……って、オイ!!」
突然の男の怒声に驚いて、彼が天井から目をこらすと、なんと彼の両手にまたもや手錠がはめられていた。
「何しやがる! さっさとはずせ!!」
「ふらふら出歩く勝手な上官には当然の処置だ。」
「ふざけんなっ!」
「俺はいつでもまじめだ。」
ぎゃあぎゃあ言い争っている二人を、残っていた部下達がまたかというふうに眺めている。
誰か止めないのかな、ともっとあたりを見ようとしたとき、ふいに、腰のあたりを強い力で引っ張られた。
「うわあああああああああああっ!」
必至で振り向こうとしたが、狭い通路をすごいスピードで引っ張られているため、かなわなかった。
どこからともなく聞こえてきた悲鳴に、総帥は顔をあげた。
「なんだ? 今の声……。」
もしかしたら敵がまだ潜んでいるのか、と彼は俄然はりきった。
「おい、これをはずせ、ちょっと様子を見てくるから。」
しかし、補佐官の返事はにべもなかった。
「だめだ。囮としてここに乗り込んだんだろ? なら、おまえの任務は終了だ。このまま俺と艦へ戻れ。」
勝手な総帥の躾は早い方がいい、と補佐官は固く決意しているようだった。
ぼとん、と廊下に転がり落ちた彼が、顔を上げると魔法使いの少年がはさみの柄のような持ち手を寄せると、自分を掴んでいたクリップが開いた。
そのまま、ハンドルをぱこぱこ動かすとクリップと柄の間の蛇腹状の腕部分が縮んでいく。
子供の頃はやったマジックハンドルとかいうおもちゃによく似ていた。
そんなもんで、人間一人引きずり出したのかよ、とその荒っぽさに断然抗議したかったが諦めた。
「おみゃーさんで最後ぎゃあ。あっちで他のみんなは手錠を外してるから、おみゃーさんも行くといいでよ。」
「あ、ああ。」
頷いて、尻をさすりつつ立ち上がると、先をすたすた歩いている少年になんとか追いついて質問した。
「あのさ、さっき会場でここの人間が捕まったりしてるとこ見たんだけど、あれって君の仲間?」
「そうだぎゃ。詳しいことは、たぶんそのうち新聞にでも載るけど、ワシらは依頼を受けてここをぶっつぶしに来たんだがや。」
彼が簡単に説明するところによると、彼の役目は『特技』を活かして基地内に潜入して、戦闘になった時、人質になるかもしれない被害者である自分たちを安全な場所に非難させておくことだったらしい。
「途中で、その手錠のことが分かって、どうするか迷ったけど、なんとか作戦通りにいったし、めでたしめでたしだぎゃあ。」
なるほど、だから変装してセリに参加するという、あんな回りくどい真似をしたの、と彼はやっと納得できた。
そして、さっきから気になってたことを聞いてみる。
「あの『総帥』ってひと、って、ひょっとして君達の……。」
すると、少年は何がおかしいのか、くっくっ、と笑い出した。
「絞られてたか? 『あの人』がものすごく怒ってたで。」
『あの人』ってあの金髪の青年のことなんだろうなぁ、と思って彼は頷いた。
やっぱりと、少年は今度は大声で笑った。
彼は不思議に思って、楽しそうに笑っている少年にためらいがちに声をかけた。
「『総帥』っていうからには、あの人はエライ人じゃないのか?」
「最高指揮官だぎゃあ。」
けろっとした表情で少年は答える。
「だから、そんな人が敵地に乗り込んでいいのか?」
「しょーがないだがや。あの人を止められるヤツなんてうちにはいにゃーで。」
確かにそんな感じだったなー、と、しみじみ頷いたところで、あの金髪の男のことを思い出した。
黒髪の男よりは紳士的に見えたが、『総帥』と二人でぶっつけ本番の大芝居をうってみせる度胸といい、あの歯に衣着せぬ口調といい、彼なら対等にわたりあえるのではないんだろうか。
少なくとも『総帥』に対して遠慮したりはしなさそうだ。
「あの補佐とかやってる人は? あの『総帥』も一目おいてるみたいだったぞ。」
「まあ、確かに、あの人なら総帥を止められるけど。」
ぽりぽりと鼻の頭をかきながら、少年はため息混じりに、言った。
「結局、最後にはたいてえ一緒に暴走しとる。」
困ったことだぎゃあ、と口で言いながら、少年の顔は楽しそうで、そして、とても誇らし気だった。
この事件は、かなり大々的に報道されたが、検査のため入院した施設ではそれを見ることはなかなかできなかった。
被害者の、テレビは部屋になかったし、新聞も届けられなかった。
確かに今はただ何も考えずに過ごしたいと言う人が大半で、必要最低限の事情徴収も拒否反応は凄まじかった。
けれどなかには、のど元過ぎればのタイプもいて、そういう人はテレビがおいてある管理人室に行って、繰り返し流れる映像を指さしてはああだこうだと興奮気味に話していた。
彼はというと、その会話に加わることもなく、自分に起こったできごと、そうなってしまうところだった人生、またそうなった人がいるということを、報道からわかりうる情報をすべて頭と心に刻みつけようとした。
それはまったく無意味なことだったのかもしれないが、それでも、そうしなければならないような気がしたのだ。
自分に起こったことを受け止めなければ、次へと歩いていけない、きっと。
「お、またあの軍服が出てきた。」
テレビなどで目立つのは、この国の軍人らしかったが、たまに違うデザインの制服の人間が出てくる。
「この国に雇われた傭兵みたいだな。こういうことを生業にしてるやつの気持ちってわっかんねぇなぁ。」
「そうだよな、いくら給料よくっても、あんなのが日常ってのは俺はやだぜ。」
「こういうことは一生に一度でたくさんだよな。なあ、あんた。」
テレビの画面に見入っていた彼だったが、急にふられて慌てて頷いた。
まったくだ。確かにあんなことは一度で充分。
画面の中の、男達を見る。
彼らもきっと、たまにはもうたくさんだ、と思う時もあるに違いない。
けれど。
「あっ!」
画面にちらっと一瞬映ったそれに、彼は思わず声をあげた。
「どうした? なにか映ってたか?」
「いや……ちょっと。」
身を乗り出してきた人に手を振ってごまかし、もう一度テレビを見るが、もう画面は切り替わっていた。
ほんの少しだが、遠くにあの漆黒の髪が映ったのだ。
髪と対照的な真っ赤な軍服に身を包んだその姿は間違いなく、あの男だった。
その横にはあの金髪の男が影のように付きそっている。
『給料の問題じゃないのかもな……。』
彼は、ふとそんなふうに思ったのだった。
月と太陽
なんとなく学校に入って、なんとなく帰宅部で、なんとなく大学に入って、となんとなく平穏な人生を送っていたある日、彼は唐突に考えた。
自分はこのまま何もなく、だらだらと無為の時を過ごして年をとっていくだけなのか?
何かもっと自分にふさわしい生き方が、待っているのではないだろうか。
ただ、それに出会っていないだけで。
就職活動もそろそろ始まろうというその時期に、心に突然発生したその考えは、あっといまに彼の頭の中を覆い尽くした。
勝手に休学届けを出した息子に親は呆れたが、「まあ、わかいうちだから」と父親が不承不承承諾したその日に彼は、ネットで航空チケットをとったのだった。
世界はとても広く、すべてのことが新鮮にうつった。
物語の中の世界のような場所や、見たこともない衣服、お腹をこわさないための水の選び方、ひとつひとつを自分の経験として蓄え、その日生きていくためのいろいろだけを考えて歩いていくという生活。
彼は故郷では味わえなかった一日一日の充実感を噛みしめ、あちこち旅し…………そして、ある日目が覚めると、人身売買組織に捕まっていた。
吐き気を堪えながら、寝台の上で身を起こすとそこはまったく覚えのない部屋だった。
小さな電球一つの窓一つ無い薄暗い部屋は、かすかに悪臭も漂っている。
「……ここ…は?」
昨日宿をとった覚えは無い。
彼は二日酔いでずきずき痛む頭で、必死に昨晩の記憶をたどった。
確か、街についてぶらぶら歩いていると、同い年くらいの若者に声をかけられた。
外国人である自分も知っている有名な学校の制服を着た学生は、閉鎖的な街では珍しい異国人に大変興味を持った様子だった。
どこから来たのか、留学生か、などと立ち話をしているうちに意気投合してしまって、彼の仲間がいるという酒場に半ば強引に、連れて行かれたのだった。
若者もその仲間も非常に感じが良く、すっかりいい気分になって飲み過ぎてしまい―――そこから後のことは覚えていない。
誰かに事情を聞きに行こうと立ち上がったが、ドアには鍵がかけられていた。
鋼鉄製の扉は見るからに重そうで、体当たりしたところで無駄だろう。
このときになって、ようやっと彼も自分が何かやばいハメに陥ったことに気が付いたのだった。
慌ててドアを叩き、大声でここから出せと咽の限りわめいた結果、現れた屈強な大男に殴られ長い間気絶することになった。
その際、大男と一緒にいた男の会話で、どうやら自分が人身売買組織に捕まったことや、しかも数日後に魚か何かのようにセリに出されてしまうらしいということを、朦朧とする意識の中知らされて、愕然とした。
都市伝説などでよく聞くホラ話が、自分の身にふりかかってきて、当然のことながら彼は焦り、怒ったが、もはやどうしようもない。
この国に来なければ良かった、いや、そもそも故郷でじっとしていればよかったと、今更の後悔にくれていたところに、その人物は現れたのだった。
それは、彼が閉じこめられて五日目の夕方だった―――ただし、時計も窓も無いこの部屋においては、はっきりとそうとは言い切れない。
がちゃがちゃと、鍵を開ける重い音に彼は身体を強張らせた。
おそらく夕食だろうとは思ったが、最初の日に暴行を受けて以来、扉を開ける音に神経質になっている。
いっそ、ここから出られるのなら、売られていった方が気持ちが楽になるとさえ、思ったくらいだ。
びくびくと目をやった扉が勢いよく開き、組織の人間に両側から手錠をされた腕をとられて男が立っていた。
髪の長い、並はずれた長身の男性だ。
身につけた白いシャツがあちこち破れていることから、自分の時と違ってここに連れてこられるまでに、相当争ったのだろうと思われる。
「入れ。」
背後で閉まる扉を振り返りもせず、男は空いている寝台へまっすぐ歩いていて、どっかりと腰掛けた。
おとなしく言われた通りにする男を確認した彼らは、幾分かほっとしたようだった。
強面で、しかも、三人もいるにも関わらず、この男に対して相当警戒してあまつさえ怯えているようにさえ見えて、彼は驚いた。
「ヤロー同士で、むさ苦しいことこのうえないが、今夜一晩はそこで辛抱しな。」
鍵をかけた扉の向こうから看守にそう告げられ、彼は明日がオークションの日だということを思い出した。
この男は自分が人身売買組織に捕まったことを知っているのだろうか、と振り返ってみると、男はつながれた手の上に顔を乗せて何事かを考え込んでいる。
「あ、あの……。」
いつまでたっても一言も喋らない男の態度に、業を煮やして彼はおそるおそる声をかけてみる。
「何?」
こちらに向けたその顔に、彼は思わずどきりとした。
入ってきたときもそう思ったのだが、よくよく見るとこの男、やっぱりものすごくカッコイイのだ。
鍛えられた体つきといい、濃い眉や鋭角な輪郭のライン、と、『男らしさ』の要素だけで構成された外見だが、白いシャツに、黒い髪がはらはらと散っている様はどこか艶めいたものを感じさせる。
鋭い眼差しに圧倒されながらも、何故か目が離せない。
なんといえばいいのか、存在感が今まで見たことのあるどんな人間とも違うのだ。
いわゆる名の知れたスポーツ選手とか政治家とか、そういう『特別な人間』だけが持っているオーラというかそんなものが、彼の周りを取り巻いている。
映画俳優かモデルかなにかなんだろうか。
思わずぽかんと口を開けて見とれていると、「だから、なんだよ?」と不機嫌そうな顔つきでもう一度聞かれた。
「あ、えーと、自分がどうなったか解ってますか?」
そう聞いたのは、彼が怒ってるようには見えても、怯えたりしてる風には見えなかったからだ。
こんなあり得ないような状況に陥って、こんなに落ち着いているものだろうか。
もしかして、喧嘩か何かに巻き込まれて、警察にでも捕まったとか、そんな風に考えているかもしれない。
しかし、男はその質問に何を言ってるんだ、コイツと言わんばかりの顔をした。
「ああ? この国で人身売買が行われているのは有名じゃねぇか。」
あたりまえのように、男が言ったその情報は彼にとっては初耳だった。
「ええっ!? 旅行雑誌ではそんなことちっとも…。」
男の顔がますます険しくなる。
「そんなもん、ガイドブックが書くわけねぇだろ。けれど、近隣の国にも噂は流れているし、今だったらネットなりなんなりで情報収集は可能だろうが。おまえ、なんの下調べも無しで知らない国に来たのかよ。」
男の指摘に、彼はぐっと言葉に詰まった。
確かに気の向くままに旅をしているので、ガイドブックでさえ買わないことも多い。
今回は閉鎖的な土地柄であることや治安もあまり良くないくらいは知っていたので、直前に滞在していた国で一番ポピュラーなガイドブックを買ったのだ。
そこで治安の良い場所を選んで旅すれば、大丈夫だろうと考えたからだ。
しかし、結局はこの体たらくだ。
用意が不十分だったといえばそうだが、人からそう言われて面白いわけはない。
だいいち、この男だって自分と同じ目に遭っているではないか。
「じゃ、じゃあ、ここが……そんな場所だって知ってるのにっ……なんでここに来たんですかっ?」
すると、男は冷たく彼を一瞥した。
「俺は仕事で来たの。」
「し、仕事? もしかして、映画撮影とか何か?」
「映画撮影……って、おまえ俺が俳優かなんかだって思ってる?」
「いや、ハンサムだからそうかなーって思って…。」
やたらえらそうだし、芸能人って俺様だってよく聞くし、と思ったことは黙っておいた。
「おまえ、夢見がちっていわれねぇ? 俺はフツーのサラリーマンで、ここには出張で来たんだよ。」
突拍子もない彼の誤解に呆れた顔をしながらも、男はまんざらでも無い様子で、彼が捕まった事情を教えてくれた。
「酔っぱらった旅行者風の女の子達が、どこかへ連れていかれそうになってたところにたまたま出くわしたんで、止めようとしたら逆に捕まっちまったの。以上、説明終わり。」
もうちょっと、人数が少なかったらなんとかなったのに、と男は悔しそうだ。相当腕に覚えがあるのだろう。
「あの子達は、俺の連れが逃がしたから大丈夫だろうけどよ。しっかし、まぁ、見ず知らずの男達の誘いに乗って、よく知らない土地の酒場なんかに行くかね、フツー。」
そのため息に、まったく同じような捕まり方をした彼はぎくりとした。
「ほら、その子達、一人じゃなかったんでしょ。だから、大丈夫かと思ったんじゃ……。」
そう、自分も『男』だからもしものことがあっても大丈夫だと思ったのだ。
だって、こんなことが起こるなんて、誰が予想できただろう。
普通の世界に生きている人間にとって、こんなことは映画やテレビの中のお話だ。
多少のリスクは覚悟して、見知らぬ人間との出会いを、期待するのも旅人としては当然のことだ。
だが、男は容赦なかった。
「ばーか、複数だと承知で、向こうは声をかけてきたんだ。なんとかできる目算があるからだろうが。」
「いや、だって、愛想良くて身なりもいいヤツらだったから、そんな、こんな組織の仲間だったなんて、思わないっすよ!」
うっかり、口走ってしまったことに気が付いて、口を閉じたがもう遅かった。
男は目を細め、ほー、と頷いている。
「なるほどね、ころっと騙されて連れてこられたわけだ。下調べもろくにしていない国へ来て、よく知らない相手のことを見かけだけで信用して、言われるがままに酒でも飲まされて、気が付いたらこうだった、と。」
ゆっくり、そう確認されて、彼はかっとなった。
確かに自分は不用心だったのかもしれないが、知らない相手を片っ端から警戒していたら、友人だってできないではないか。
「そうだよ! 安全だけを気にしてちゃ、なにもできないじゃん。狭い国に閉じこもってる生活に飽き飽きして、あちこち旅してきたんだ。観光ブックや情報にばっかり気をとられていたら、いろいろ見逃してしまったら、俺はなんのためにこんなとこまで来たんだか、わからない。」
強い口調でそう反撃したが、男は特に感銘を受けた様子も無かったが、かといって青臭いと馬鹿にする様子もなかった。
彼の言葉を否定するわけでも、諫めるわけでもなく、ただ淡々と彼に告げた。
「だけどさ、それを見つける前に死んじまったらイヤじゃね?」
死という言葉を、男はさらりと口にする。
説教する風でもなく、ただあたりまえのことを言っているだけの口調で。
―――なのに、それは彼の心に重くのしかかった。
「本当に欲しいものや大事なものを見つけたいなら、その前に絶対死ぬわけにはいかねえだろ。だから、そのためにてめえの命を大事にするこった。」
男はそう言って、ごろん、と横になった。
彼がなおも話しかけようとすると、男はつながれた手を心持ち持ち上げてひらひら振った。
「わりーけど、疲れてるんだ。このままじゃ、アイツらたたきのめすこともできねぇ。寝かせてくれ。」
「って、あんた、ここから逃げ出す気ですか?」
「逃げる気はねぇよ。ここをぶっつぶす。この俺様にこんな手錠はめやがった償いはキッチリさせてやる。」
「つぶす……って、そんなことができるわけないでしょうがっ!」
「いいから、おまえも寝ろよ。いざと言うとき動けるように、今は体力回復させとけ。こっから出て、もっといろいろ見に行くんだろ?」
にやり、と笑ったその顔は、不敵で自信に満ちていて、目にした途端聞きたかったいろいろなことが彼の頭からぽんって、抜けてしまった。
「んじゃな、おやすみ。」
男が目を瞑ってしばらくすると、安らかな寝息が隣から聞こえてきた。
こんな状況でよく眠られるな、などという感想なんてもう浮かばない。
この男にとっては、犯罪組織に捕まって売られそうになるなんて、『こんなこと』にしか過ぎないのだろう。
たぶん、きっと……ものすごく強い。
だから、あんな風に笑っていられるのだ。
―――きっとこういうのが『特別な』人間なのだ。
自分が夢見て……そしてなれない特別な人間……神様に選ばれたそういう人種。
あちこち旅して、色々な人間に出会ったが、こんなに強い印象を感じた人間はいない。
この旅に出てから、初めての種類の疲れを感じて、彼は男に倣ってかびくさい寝台に丸くなったが、いっこうに寝付けなかった。
何時間か経って、ようやっとまどろみはじめた時、再びドアが開いた。
「起きろ。時間だ。」
よく眠れなかったためにだるい身体を無理矢理起こすと、男はもう目を覚ましていた。
「へーいへい、今すぐ出てってやるよ。」
返事をしながら男が出ていくと、さっと銃口が向けられた。
「手錠までかけといて。」
男の口元が皮肉っぽくゆがめられる。
「いいから! 黙って歩け!」
銃口が黒い髪を押しのけ、その頭に突きつけられたが、男はしれっとして表情ひとつ変えない。
他の扉からも何人も連れ出されているが、皆一様にやつれ、青ざめていて、まともな状態の人間は一人もいなかった。
薄暗い廊下を歩いていると、さらに大きな扉が現れた。
先導していた男が首を振ると、他の男達が『賞品』たちにそれぞれ歩み寄って、最初からかけられていた同室だった男以外の手に、手錠をかける。
そして、一列に並べられ扉の前にいる男のところへ、一人ずつ歩いていかされた。
びくつきながら歩み寄る彼らに、その男は手に持っていた機械を、彼らの手錠にあててボタンで何やら打ち込んでいる。
そういえば、今まで実物を見たことはなかったが、五センチメートルくらいの太さのその手錠にはバーコードのようなものがある。
同じように疑問に思ったらしい黒髪の男が、近くにいた見張りの男に「おい」と声をかけた。
「あれは何をやってるんだ?」
喋るな、と怒鳴られるのではと隣にいた彼は慌てたが、見張りの男はそうはしなかった。
にやにやとしながら、あっさりと教えてくれたのだ。
「おまえらの『タグ』みたいなもんだ。」
「タグ~? 洋服屋のあれのことか?」
「ああ、おまえらを識別するために使うんだよ。あの機械で身体的特徴なんかを登録して、ランクに分ける。ついでに『紛失防止』を兼ねてるわけさ。発信器代わりにもなってるこれは、それぞれの行き先が決まるまでに、ここから逃げたり、下手な真似をしたら、遠隔操作で爆発させることができる。ちゃんと、腕が吹っ飛ぶ程度には抑えてあるから、今この場でもそれを試すことができるぜ。」
その残酷極まりないやり方を聞いてしまった周囲の人間におびえの色が走ったが、奴らが一番脅したかったであろう男は、少し眉を顰めただけだった。
「ま、行き先が決まったら、今回のコードは解除してやるから、後数時間の辛抱だ。」
げらげらと高笑いして、ヤツは男の腕を引っ張って、機械を持っている人間の方に押しやった。
「おい、こいつが一番やっかいだから、先に処理してくれ。」
「……ほう…、上玉じゃないか。」
不機嫌そうな男を見やり、係の者は感嘆の声をあげた。
「そうかぁ? まぁ、確かにツラはいいが、金持ちのババアが喜びそうな愛想が、全然ねえしなぁ。」
確かにただのハンサムと言い切るには凶悪な面構えだったな、と二人のやりとりを聞いていた彼は思った。
しかし、おそらく長いこと『鑑定』をしてきたらしいその男の見方は少々違ったらしい。
「だから、おまえらは甘いんだ。ツラは少々いじくればどんなものでもできるが、身体や骨格はそうそう変えられるもんじゃねぇ。コイツは身長もあるし、見栄えのする身体だ。」
身体をぱんぱん叩かれ、解説されている男は不機嫌そうだ。
確かに誉められてもこの状況じゃ全然嬉しくないだろう。
「それになぁ、こういうきかなさそうなのが好みってのが、結構いるんだよ。プライドが高くて負けん気が強いヤツを、あれやこれやの手で痛めつけて嬲るのが好きって趣味の金持ちのおっさんが。」
『おっさん』。その言葉にはさすがに男も動揺したらしく、口元をひきつらせた。
「……おい、冗談だろ。」
「冗談なもんか。セリに出したら、三百、いや、五百はかたいな。よし、おまえは最後にしよう。喜べ、おまえは目玉商品だ!」
「人を洗剤かパックの卵と同じ扱いしてんじゃねぇっ!」
そういう問題ではないだろう、と、その場にいた全員――誘拐した方も誘拐された方もそう思ったが、怒鳴った方はかなり本気だった。
「だいたい、なんでおっさん限定なんだ! せめてまつげの長い碧眼の十歳前後の美少年とか、艶やかなブロンドのナイスミドルとかいろいろあるだろっ! おっさんはやめろっ。おっさんは!!」
こだわりがあるような無いような男の主張に、
「ぜーたく言うな! だいたい『人間』を買いに来るような金持ちはジジババが多いんだよ。それに、おっさんも捨てたもんじゃねぇぜ。経験を踏んでいるからアッチの方はなかなかうまいって言うぞ。」
「『アッチ』ってどっちだ!?」
果てしなく続きそうな言い争いに、業を煮やした仲間が止めに入った。
「そんなもんはどっちでもいいから、さっさと入力しやがれっ! 着替えもさせなきゃならんだろうが。」
「ああ、そうだな。さっさと腕だせ。」
その場にいた全員――以下略は、先ほど交わされた会話になんとはなしに脱力してしまい、そのため、後はスムーズに進んでいってしまった。
途中機材のトラブルとかで、少しごたごたしていたが、それで中止になるわけもなかった。
すべての登録が終わり、扉が開かれると長い廊下がずっと向こうまで続いていた。
「さあ、おまえらはこっちだ。」
肩を乱暴に押され、彼はいやいやその冷たい床に足をつけた。
ちらっと肩越しに見ると、黒髪の男は何人かの人間と共にその場で止められていた。
違う場所に連れて行かれるらしい。
出会って間もないよく知らない人間なのに、男と離れることになって彼はなんとはなしに心細くなった。
あそこにずっと閉じこめられるくらいなら、いっそさっさと売られたいとまで思ったが、いざ現実的になってくると、身体が震えてくる。
「いっ。いやだぁぁぁ!」
次の瞬間、絶叫して闇雲に暴れ出していた。
わあわあ叫んで、押さえつけられそうになるのを、身をよじってかわしながら、足をばたばた動かす。
男の一人が呆れたように、例の機械を目の前で振ってみせ、「おい、これのことを忘れたのか?」と脅かしてきたが、構わなかった。
とにかく目の前の恐怖から逃げることで頭がいっぱいで、他のことは何も考えられる状態ではなかったのだ。
「はなせぇぇぇはな…っぐふっ…!」
いきなり鋭い一撃を腹に受け、彼はたまらずその場にしゃがみこんだ。
「ぐふぇげぇ…っぐっうう。」
苦い胃液がこみ上げてきて、咽がやけて熱くてたまらなかった。
涙にゆがむ視界に、はらっと黒い一筋の髪が落ちてきてゆれた。
「加減してやったから、内臓も大丈夫だろ。」
あの男に膝蹴りをされたのだと気が付いて、悔しいうえこみ上げてくる気持ち悪さで涙が止まらない。
しかし、男は彼のそんな様子を見ても悪いなどとは、いっこうに思っていないようだった。
「まぁ、多少怪我しても腕がふっとぶよりはマシだ。」
そして、周りの人間には聞こえないようにして、こう続けた。
「言っただろ。生きてなきゃ何もできねぇって。……生きるために最大限の努力をしろ。」
男の声は厳しかった。
けれど、どうしようもなく胸にしみて、彼は違う涙が溢れてくるのを感じていたのだった。
彼が連れて行かれた場所は、何も無い部屋だった。
集められた人間はそれぞれ不安げに部屋の中を歩き回ったり、床に座り込んだりしていた。
最後の一人を部屋に追いやった後、先導してきた男は『商品』に向かってこう告げた。
「持ち主が決まるまで、ここでおとなしく待ってろ。」
決まるまで……?
てっきり、大勢の人間の前に引き出されるのかと思っていたので、彼は拍子抜けした。
他の何人かの同じ境遇の人間も、いぶかしそうにその男を見たためか、出ていく前に男は簡単に説明した。
「オークションは、一種のお祭りだからな。特に高値で売れそうな数人しか出さない。後のヤツは後で客がモニターを見て選んでいく。」
確かにあの場に残された人間は、男女ともかなり見栄えがよかった。
たいしたことが無いと言われたようで、あまり気持ちはよくなかったが、オークション会場でさらしものにされるよりはマシだろうか。
いや、どちらにしても売られるのは違いないのだから、マシもなにもない。
はぁ、とため息をついて格子のはまった窓を見あげた。雲が流れていくのが見える。おそらく、ここは地上からかなり高い場所にあるのだろう。
おそらく、到底逃げ出すことなどできないくらいの……。
だいたい、あんな小さい窓、子供でも通り抜けるのは難しい。
もう一度ため息をつきかけた時、彼の視界に妙なものが飛び込んできた。
『……コウモリ……?』
なぜ疑問形なのかと言うと、それは図鑑などで見たそれらとは著しく違っていたからだ。
とにかく、普通のコウモリは帽子はかぶっていない。
それは、窓にはまった格子を、キイキイ騒ぎながらなんとかくぐり抜けようとしている。
しかし、まるっこいフォルムがあだになったのか、なかなかうまくいかないようだ。
最初は不安と恐怖で手一杯だった他の人達も、一人、また一人と気づいてコウモリの果敢な潜入作戦を口を開けて見物していた。
「きいーっ。きっきっ!」
コウモリが思い切り身体を突っ張らせた時、すぽん、とばかりにコウモリの身体が格子を抜けた。
しかし、そのまま勢い余って、その小さな身体は弾丸のようにすっ飛び、ちょうど窓の向かい側にあったドアにびたんと激突した。
ずず…と下に落ちかけたが、コウモリはなんとか踏ん張って、宙に浮かんだ。
それからドアの周りをしばらくうろうろしていたが、やがてがっくりきたように下を向いた。
そして。
何がどうなったのかさっぱりわからないが、こうもりが下を向いた次の瞬間、丸い物体は消え失せ、かわりに一人の少年が突然現れたのだった。
「こーゆー機械式のドアは苦手だなも。しょーがない。これを使うだぎゃ。」
ごそごそとポケットを探っている姿はどう見ても十代だ。
「あ、あのー…。」
おそるおそる声をかけると、少年は振り返ってこっちを見た。
「なんだ?」
なんだ、はこっちの台詞な気がしたが、とにかく、先に聞きたいことがあった。
「アンタ、何者?」
変なコウモリに、突然の出現、とにかく、普通じゃないことは確かだ。
当然の質問に少年は、ふふん、と笑った。
「魔法使い、だぎゃ。見てわからにゃーか?」
とんがり帽子に、それと同じ色のマント。
確かに、お伽噺か何かに出てくる魔法使いそのままのいでたちだ。
「ま、安心するだぎゃ。ワシは悪い魔法使いではにゃあで。」
『いい魔法使い』と言ってくれないのが、果てしなく不安だ。
その場にいた人間がかなりひいていることに気づいているのか、いないのか、少年はこころもち胸をそった。
「魔法使いにかかれば、ドアなんかにゃーも同然! 大船に乗ったつもりでおるがいいだがや。」
そう言うと彼は頭にかぶっていたとんがり帽子を脱いで、そこに手を突っ込んだ。
「ほいっ!」
かけ声と共に取り出したのは、巨大なハンマー。
………それって、魔法じゃなくて手品?
本人を除く、その場にいた全員がそう疑っていることなど、気が付きもせず、彼はそれを両手で持ち直し、野球のバットのような構えをとった。
…………まさか、それでたたき壊す……なんて、物理的手段じゃないよね?
と、本人を除くその場にいた全員のすがるような眼差しなど、どこ吹く風で、彼は思いっきり、それを振り切ったのだった―――。
ガーーーーーーーーーーーン!
その重い音に、彼らは飛び上がった。
おそるおそる扉を見たが、消え失せたり等していないばかりか、罅すら入っていない。
わんわんと余韻が響く中、ばたばたと誰かが走ってくる音が聞こえる。
途端、自分たちが腕にはめている爆弾を思い出して、彼らは一斉に青くなった。
「アンタ、なんてことしてくれたんだ!? アイツらがやってくるぞ!」
「子供だからって、やっていいことと悪いことがある!」
口々に彼を非難しながら、少年に飛びついてそのハンマーを奪おうとする。
彼らにこの不審な侵入者のことが知れて、自分たちまで巻き添えになってしまうなんて、冗談じゃない。
しかし、彼らの奮闘むなしく、扉は無情にも大きく開かれてしまった。
「うるせーぞっ!……って、誰だ? おまえ。」
見張りの男がいきなり増えた商品に、驚いて大声をあげるより、一瞬早く少年が動いた。
「だれ……! うわっ!!」
「ちょーっと黙ってもらうだぎゃ。」
少年の小さな身体が男に向かっていったかと思うと、男がくるりとひっくりかえって、床にたたきつけられていた。
そして、懐から取り出した小瓶を無理矢理彼の口に当てて飲ませる。
「うっ…がはっ…げほげほっ!」
「ほんの数時間のことだで心配すんな。」
にっこりと笑う少年の身体の下で、もがいていた男の姿が消えた。
「なっ!!」
驚いて後じさる人々の方に少年は振り返り、手に持ったそれを見せた。
「へび……?」
「これなら人を呼べにゃーぜ。」
そう言って、ご丁寧にもくるくると巻いて団子結び状にすると、そこにぽいっと放った。
「じゃあ、ちゃっとここを出るだがや。」
そう言って、手招きされたが全員一歩も進めない。
全員の目が床でころころ転がっている蛇に集中している。
「……これはどうなったんだ。」
「まさか、蛇になってしまったなんてありえない。」
ぐずぐずしている彼らに、少年は苛々したように先ほどの瓶を皆に向かってつきつけた。
「ちゃっちゃと出ろ! さもにゃーと、次はおみゃーさんにこの薬飲ませるだぎゃあ!」
「ひいいいっ!」
「蛇は嫌いなの!」
とんでもない脅迫に、一人また一人と外に出てゆく。
最後の一人になった彼に、少年は早くでるようにと促した。
「ほかの見張りがござるまえに、逃げださにゃーと。」
少年の命令を聞かないといけない立場にあることは、彼も重々承知していたが、どうしても気になることがあって、少年に告げた。
「この手錠だけど、ボタン一つでふっとばされるって話なんだよ。リモコンの範囲もわからないし、僕らが安全な場所に逃げる前に、ここにいないのがばれて起爆させられてしまったら……。」
「大丈夫だぎゃあ。それまでにはすべて片がついとるから。」
片がつく、その意味がよく分からない。
そして、もう一つ問題があるのだ。
「オークション会場には、あと何人かいるんだ。彼らが売られてしまう。」
すると、少年はにやっと笑った。
「そっちは絶対大丈夫だで、おみゃーさんはワシについてくればいい。」
「いや、だけど、財力のあるオヤジがテクニシャンで大変なんだ。」
「オヤジ?」
何を言ってるんだ、コイツ、と言わんばかり視線を向けられ、彼はしどろもどろになって、言葉をとぎれさせた。
確かに昨日会ったばかりで、しかも決していい印象はない。
けれど、なんとなくあのまっすぐな目をした男が、変なオヤジの手に渡るところを想像するのは愉快な気分ではなかった。
すがるような気持ちで言ってみたものの、彼の答えは、本当にあっさりきっぱりしたものだった。
「オークション会場は、ここより警備が厳しいんだがや。ワシ一人では無理。」
「だって、君魔法使いなんだろ?」
そんな突拍子もない職業を信じるなんて、我ながらどうかしてると思ったが、だいたい、今の状況がすでに普通じゃない。
魔法使いが棒をひとふりすれば、悪いヤツはすべてカエルかへびになって、ハッピーエンドになる、くらい期待してもいいだろう。
少年は、絶対無理、と言うと腕をつかんで彼を外へと引っ張り出した。
「ワシの仕事は、片がつくまでおみゃーさんらを安全な場所に匿うことだぎゃあ。」
中をもう一度確認した後、扉を閉めながら少年は言った。
「悪党をやっつけるんは、魔法使いの仕事じゃにゃーでよ。」
そう言って先頭に立って、懐からペーパーバックくらいの大きさのモニターを取り出した。
ちらっと見えるそれは、どうやらこの建物の内部の地図らしい。
こんなものを持っている少年はいったい何者なんだろう。
誰もが一瞬そう思ったが、すぐにその考えを放棄した。
聞いたところで返ってくる答えは決まっているからだった。
なんとなく学校に入って、なんとなく帰宅部で、なんとなく大学に入って、となんとなく平穏な人生を送っていたある日、彼は唐突に考えた。
自分はこのまま何もなく、だらだらと無為の時を過ごして年をとっていくだけなのか?
何かもっと自分にふさわしい生き方が、待っているのではないだろうか。
ただ、それに出会っていないだけで。
就職活動もそろそろ始まろうというその時期に、心に突然発生したその考えは、あっといまに彼の頭の中を覆い尽くした。
勝手に休学届けを出した息子に親は呆れたが、「まあ、わかいうちだから」と父親が不承不承承諾したその日に彼は、ネットで航空チケットをとったのだった。
世界はとても広く、すべてのことが新鮮にうつった。
物語の中の世界のような場所や、見たこともない衣服、お腹をこわさないための水の選び方、ひとつひとつを自分の経験として蓄え、その日生きていくためのいろいろだけを考えて歩いていくという生活。
彼は故郷では味わえなかった一日一日の充実感を噛みしめ、あちこち旅し…………そして、ある日目が覚めると、人身売買組織に捕まっていた。
吐き気を堪えながら、寝台の上で身を起こすとそこはまったく覚えのない部屋だった。
小さな電球一つの窓一つ無い薄暗い部屋は、かすかに悪臭も漂っている。
「……ここ…は?」
昨日宿をとった覚えは無い。
彼は二日酔いでずきずき痛む頭で、必死に昨晩の記憶をたどった。
確か、街についてぶらぶら歩いていると、同い年くらいの若者に声をかけられた。
外国人である自分も知っている有名な学校の制服を着た学生は、閉鎖的な街では珍しい異国人に大変興味を持った様子だった。
どこから来たのか、留学生か、などと立ち話をしているうちに意気投合してしまって、彼の仲間がいるという酒場に半ば強引に、連れて行かれたのだった。
若者もその仲間も非常に感じが良く、すっかりいい気分になって飲み過ぎてしまい―――そこから後のことは覚えていない。
誰かに事情を聞きに行こうと立ち上がったが、ドアには鍵がかけられていた。
鋼鉄製の扉は見るからに重そうで、体当たりしたところで無駄だろう。
このときになって、ようやっと彼も自分が何かやばいハメに陥ったことに気が付いたのだった。
慌ててドアを叩き、大声でここから出せと咽の限りわめいた結果、現れた屈強な大男に殴られ長い間気絶することになった。
その際、大男と一緒にいた男の会話で、どうやら自分が人身売買組織に捕まったことや、しかも数日後に魚か何かのようにセリに出されてしまうらしいということを、朦朧とする意識の中知らされて、愕然とした。
都市伝説などでよく聞くホラ話が、自分の身にふりかかってきて、当然のことながら彼は焦り、怒ったが、もはやどうしようもない。
この国に来なければ良かった、いや、そもそも故郷でじっとしていればよかったと、今更の後悔にくれていたところに、その人物は現れたのだった。
それは、彼が閉じこめられて五日目の夕方だった―――ただし、時計も窓も無いこの部屋においては、はっきりとそうとは言い切れない。
がちゃがちゃと、鍵を開ける重い音に彼は身体を強張らせた。
おそらく夕食だろうとは思ったが、最初の日に暴行を受けて以来、扉を開ける音に神経質になっている。
いっそ、ここから出られるのなら、売られていった方が気持ちが楽になるとさえ、思ったくらいだ。
びくびくと目をやった扉が勢いよく開き、組織の人間に両側から手錠をされた腕をとられて男が立っていた。
髪の長い、並はずれた長身の男性だ。
身につけた白いシャツがあちこち破れていることから、自分の時と違ってここに連れてこられるまでに、相当争ったのだろうと思われる。
「入れ。」
背後で閉まる扉を振り返りもせず、男は空いている寝台へまっすぐ歩いていて、どっかりと腰掛けた。
おとなしく言われた通りにする男を確認した彼らは、幾分かほっとしたようだった。
強面で、しかも、三人もいるにも関わらず、この男に対して相当警戒してあまつさえ怯えているようにさえ見えて、彼は驚いた。
「ヤロー同士で、むさ苦しいことこのうえないが、今夜一晩はそこで辛抱しな。」
鍵をかけた扉の向こうから看守にそう告げられ、彼は明日がオークションの日だということを思い出した。
この男は自分が人身売買組織に捕まったことを知っているのだろうか、と振り返ってみると、男はつながれた手の上に顔を乗せて何事かを考え込んでいる。
「あ、あの……。」
いつまでたっても一言も喋らない男の態度に、業を煮やして彼はおそるおそる声をかけてみる。
「何?」
こちらに向けたその顔に、彼は思わずどきりとした。
入ってきたときもそう思ったのだが、よくよく見るとこの男、やっぱりものすごくカッコイイのだ。
鍛えられた体つきといい、濃い眉や鋭角な輪郭のライン、と、『男らしさ』の要素だけで構成された外見だが、白いシャツに、黒い髪がはらはらと散っている様はどこか艶めいたものを感じさせる。
鋭い眼差しに圧倒されながらも、何故か目が離せない。
なんといえばいいのか、存在感が今まで見たことのあるどんな人間とも違うのだ。
いわゆる名の知れたスポーツ選手とか政治家とか、そういう『特別な人間』だけが持っているオーラというかそんなものが、彼の周りを取り巻いている。
映画俳優かモデルかなにかなんだろうか。
思わずぽかんと口を開けて見とれていると、「だから、なんだよ?」と不機嫌そうな顔つきでもう一度聞かれた。
「あ、えーと、自分がどうなったか解ってますか?」
そう聞いたのは、彼が怒ってるようには見えても、怯えたりしてる風には見えなかったからだ。
こんなあり得ないような状況に陥って、こんなに落ち着いているものだろうか。
もしかして、喧嘩か何かに巻き込まれて、警察にでも捕まったとか、そんな風に考えているかもしれない。
しかし、男はその質問に何を言ってるんだ、コイツと言わんばかりの顔をした。
「ああ? この国で人身売買が行われているのは有名じゃねぇか。」
あたりまえのように、男が言ったその情報は彼にとっては初耳だった。
「ええっ!? 旅行雑誌ではそんなことちっとも…。」
男の顔がますます険しくなる。
「そんなもん、ガイドブックが書くわけねぇだろ。けれど、近隣の国にも噂は流れているし、今だったらネットなりなんなりで情報収集は可能だろうが。おまえ、なんの下調べも無しで知らない国に来たのかよ。」
男の指摘に、彼はぐっと言葉に詰まった。
確かに気の向くままに旅をしているので、ガイドブックでさえ買わないことも多い。
今回は閉鎖的な土地柄であることや治安もあまり良くないくらいは知っていたので、直前に滞在していた国で一番ポピュラーなガイドブックを買ったのだ。
そこで治安の良い場所を選んで旅すれば、大丈夫だろうと考えたからだ。
しかし、結局はこの体たらくだ。
用意が不十分だったといえばそうだが、人からそう言われて面白いわけはない。
だいいち、この男だって自分と同じ目に遭っているではないか。
「じゃ、じゃあ、ここが……そんな場所だって知ってるのにっ……なんでここに来たんですかっ?」
すると、男は冷たく彼を一瞥した。
「俺は仕事で来たの。」
「し、仕事? もしかして、映画撮影とか何か?」
「映画撮影……って、おまえ俺が俳優かなんかだって思ってる?」
「いや、ハンサムだからそうかなーって思って…。」
やたらえらそうだし、芸能人って俺様だってよく聞くし、と思ったことは黙っておいた。
「おまえ、夢見がちっていわれねぇ? 俺はフツーのサラリーマンで、ここには出張で来たんだよ。」
突拍子もない彼の誤解に呆れた顔をしながらも、男はまんざらでも無い様子で、彼が捕まった事情を教えてくれた。
「酔っぱらった旅行者風の女の子達が、どこかへ連れていかれそうになってたところにたまたま出くわしたんで、止めようとしたら逆に捕まっちまったの。以上、説明終わり。」
もうちょっと、人数が少なかったらなんとかなったのに、と男は悔しそうだ。相当腕に覚えがあるのだろう。
「あの子達は、俺の連れが逃がしたから大丈夫だろうけどよ。しっかし、まぁ、見ず知らずの男達の誘いに乗って、よく知らない土地の酒場なんかに行くかね、フツー。」
そのため息に、まったく同じような捕まり方をした彼はぎくりとした。
「ほら、その子達、一人じゃなかったんでしょ。だから、大丈夫かと思ったんじゃ……。」
そう、自分も『男』だからもしものことがあっても大丈夫だと思ったのだ。
だって、こんなことが起こるなんて、誰が予想できただろう。
普通の世界に生きている人間にとって、こんなことは映画やテレビの中のお話だ。
多少のリスクは覚悟して、見知らぬ人間との出会いを、期待するのも旅人としては当然のことだ。
だが、男は容赦なかった。
「ばーか、複数だと承知で、向こうは声をかけてきたんだ。なんとかできる目算があるからだろうが。」
「いや、だって、愛想良くて身なりもいいヤツらだったから、そんな、こんな組織の仲間だったなんて、思わないっすよ!」
うっかり、口走ってしまったことに気が付いて、口を閉じたがもう遅かった。
男は目を細め、ほー、と頷いている。
「なるほどね、ころっと騙されて連れてこられたわけだ。下調べもろくにしていない国へ来て、よく知らない相手のことを見かけだけで信用して、言われるがままに酒でも飲まされて、気が付いたらこうだった、と。」
ゆっくり、そう確認されて、彼はかっとなった。
確かに自分は不用心だったのかもしれないが、知らない相手を片っ端から警戒していたら、友人だってできないではないか。
「そうだよ! 安全だけを気にしてちゃ、なにもできないじゃん。狭い国に閉じこもってる生活に飽き飽きして、あちこち旅してきたんだ。観光ブックや情報にばっかり気をとられていたら、いろいろ見逃してしまったら、俺はなんのためにこんなとこまで来たんだか、わからない。」
強い口調でそう反撃したが、男は特に感銘を受けた様子も無かったが、かといって青臭いと馬鹿にする様子もなかった。
彼の言葉を否定するわけでも、諫めるわけでもなく、ただ淡々と彼に告げた。
「だけどさ、それを見つける前に死んじまったらイヤじゃね?」
死という言葉を、男はさらりと口にする。
説教する風でもなく、ただあたりまえのことを言っているだけの口調で。
―――なのに、それは彼の心に重くのしかかった。
「本当に欲しいものや大事なものを見つけたいなら、その前に絶対死ぬわけにはいかねえだろ。だから、そのためにてめえの命を大事にするこった。」
男はそう言って、ごろん、と横になった。
彼がなおも話しかけようとすると、男はつながれた手を心持ち持ち上げてひらひら振った。
「わりーけど、疲れてるんだ。このままじゃ、アイツらたたきのめすこともできねぇ。寝かせてくれ。」
「って、あんた、ここから逃げ出す気ですか?」
「逃げる気はねぇよ。ここをぶっつぶす。この俺様にこんな手錠はめやがった償いはキッチリさせてやる。」
「つぶす……って、そんなことができるわけないでしょうがっ!」
「いいから、おまえも寝ろよ。いざと言うとき動けるように、今は体力回復させとけ。こっから出て、もっといろいろ見に行くんだろ?」
にやり、と笑ったその顔は、不敵で自信に満ちていて、目にした途端聞きたかったいろいろなことが彼の頭からぽんって、抜けてしまった。
「んじゃな、おやすみ。」
男が目を瞑ってしばらくすると、安らかな寝息が隣から聞こえてきた。
こんな状況でよく眠られるな、などという感想なんてもう浮かばない。
この男にとっては、犯罪組織に捕まって売られそうになるなんて、『こんなこと』にしか過ぎないのだろう。
たぶん、きっと……ものすごく強い。
だから、あんな風に笑っていられるのだ。
―――きっとこういうのが『特別な』人間なのだ。
自分が夢見て……そしてなれない特別な人間……神様に選ばれたそういう人種。
あちこち旅して、色々な人間に出会ったが、こんなに強い印象を感じた人間はいない。
この旅に出てから、初めての種類の疲れを感じて、彼は男に倣ってかびくさい寝台に丸くなったが、いっこうに寝付けなかった。
何時間か経って、ようやっとまどろみはじめた時、再びドアが開いた。
「起きろ。時間だ。」
よく眠れなかったためにだるい身体を無理矢理起こすと、男はもう目を覚ましていた。
「へーいへい、今すぐ出てってやるよ。」
返事をしながら男が出ていくと、さっと銃口が向けられた。
「手錠までかけといて。」
男の口元が皮肉っぽくゆがめられる。
「いいから! 黙って歩け!」
銃口が黒い髪を押しのけ、その頭に突きつけられたが、男はしれっとして表情ひとつ変えない。
他の扉からも何人も連れ出されているが、皆一様にやつれ、青ざめていて、まともな状態の人間は一人もいなかった。
薄暗い廊下を歩いていると、さらに大きな扉が現れた。
先導していた男が首を振ると、他の男達が『賞品』たちにそれぞれ歩み寄って、最初からかけられていた同室だった男以外の手に、手錠をかける。
そして、一列に並べられ扉の前にいる男のところへ、一人ずつ歩いていかされた。
びくつきながら歩み寄る彼らに、その男は手に持っていた機械を、彼らの手錠にあててボタンで何やら打ち込んでいる。
そういえば、今まで実物を見たことはなかったが、五センチメートルくらいの太さのその手錠にはバーコードのようなものがある。
同じように疑問に思ったらしい黒髪の男が、近くにいた見張りの男に「おい」と声をかけた。
「あれは何をやってるんだ?」
喋るな、と怒鳴られるのではと隣にいた彼は慌てたが、見張りの男はそうはしなかった。
にやにやとしながら、あっさりと教えてくれたのだ。
「おまえらの『タグ』みたいなもんだ。」
「タグ~? 洋服屋のあれのことか?」
「ああ、おまえらを識別するために使うんだよ。あの機械で身体的特徴なんかを登録して、ランクに分ける。ついでに『紛失防止』を兼ねてるわけさ。発信器代わりにもなってるこれは、それぞれの行き先が決まるまでに、ここから逃げたり、下手な真似をしたら、遠隔操作で爆発させることができる。ちゃんと、腕が吹っ飛ぶ程度には抑えてあるから、今この場でもそれを試すことができるぜ。」
その残酷極まりないやり方を聞いてしまった周囲の人間におびえの色が走ったが、奴らが一番脅したかったであろう男は、少し眉を顰めただけだった。
「ま、行き先が決まったら、今回のコードは解除してやるから、後数時間の辛抱だ。」
げらげらと高笑いして、ヤツは男の腕を引っ張って、機械を持っている人間の方に押しやった。
「おい、こいつが一番やっかいだから、先に処理してくれ。」
「……ほう…、上玉じゃないか。」
不機嫌そうな男を見やり、係の者は感嘆の声をあげた。
「そうかぁ? まぁ、確かにツラはいいが、金持ちのババアが喜びそうな愛想が、全然ねえしなぁ。」
確かにただのハンサムと言い切るには凶悪な面構えだったな、と二人のやりとりを聞いていた彼は思った。
しかし、おそらく長いこと『鑑定』をしてきたらしいその男の見方は少々違ったらしい。
「だから、おまえらは甘いんだ。ツラは少々いじくればどんなものでもできるが、身体や骨格はそうそう変えられるもんじゃねぇ。コイツは身長もあるし、見栄えのする身体だ。」
身体をぱんぱん叩かれ、解説されている男は不機嫌そうだ。
確かに誉められてもこの状況じゃ全然嬉しくないだろう。
「それになぁ、こういうきかなさそうなのが好みってのが、結構いるんだよ。プライドが高くて負けん気が強いヤツを、あれやこれやの手で痛めつけて嬲るのが好きって趣味の金持ちのおっさんが。」
『おっさん』。その言葉にはさすがに男も動揺したらしく、口元をひきつらせた。
「……おい、冗談だろ。」
「冗談なもんか。セリに出したら、三百、いや、五百はかたいな。よし、おまえは最後にしよう。喜べ、おまえは目玉商品だ!」
「人を洗剤かパックの卵と同じ扱いしてんじゃねぇっ!」
そういう問題ではないだろう、と、その場にいた全員――誘拐した方も誘拐された方もそう思ったが、怒鳴った方はかなり本気だった。
「だいたい、なんでおっさん限定なんだ! せめてまつげの長い碧眼の十歳前後の美少年とか、艶やかなブロンドのナイスミドルとかいろいろあるだろっ! おっさんはやめろっ。おっさんは!!」
こだわりがあるような無いような男の主張に、
「ぜーたく言うな! だいたい『人間』を買いに来るような金持ちはジジババが多いんだよ。それに、おっさんも捨てたもんじゃねぇぜ。経験を踏んでいるからアッチの方はなかなかうまいって言うぞ。」
「『アッチ』ってどっちだ!?」
果てしなく続きそうな言い争いに、業を煮やした仲間が止めに入った。
「そんなもんはどっちでもいいから、さっさと入力しやがれっ! 着替えもさせなきゃならんだろうが。」
「ああ、そうだな。さっさと腕だせ。」
その場にいた全員――以下略は、先ほど交わされた会話になんとはなしに脱力してしまい、そのため、後はスムーズに進んでいってしまった。
途中機材のトラブルとかで、少しごたごたしていたが、それで中止になるわけもなかった。
すべての登録が終わり、扉が開かれると長い廊下がずっと向こうまで続いていた。
「さあ、おまえらはこっちだ。」
肩を乱暴に押され、彼はいやいやその冷たい床に足をつけた。
ちらっと肩越しに見ると、黒髪の男は何人かの人間と共にその場で止められていた。
違う場所に連れて行かれるらしい。
出会って間もないよく知らない人間なのに、男と離れることになって彼はなんとはなしに心細くなった。
あそこにずっと閉じこめられるくらいなら、いっそさっさと売られたいとまで思ったが、いざ現実的になってくると、身体が震えてくる。
「いっ。いやだぁぁぁ!」
次の瞬間、絶叫して闇雲に暴れ出していた。
わあわあ叫んで、押さえつけられそうになるのを、身をよじってかわしながら、足をばたばた動かす。
男の一人が呆れたように、例の機械を目の前で振ってみせ、「おい、これのことを忘れたのか?」と脅かしてきたが、構わなかった。
とにかく目の前の恐怖から逃げることで頭がいっぱいで、他のことは何も考えられる状態ではなかったのだ。
「はなせぇぇぇはな…っぐふっ…!」
いきなり鋭い一撃を腹に受け、彼はたまらずその場にしゃがみこんだ。
「ぐふぇげぇ…っぐっうう。」
苦い胃液がこみ上げてきて、咽がやけて熱くてたまらなかった。
涙にゆがむ視界に、はらっと黒い一筋の髪が落ちてきてゆれた。
「加減してやったから、内臓も大丈夫だろ。」
あの男に膝蹴りをされたのだと気が付いて、悔しいうえこみ上げてくる気持ち悪さで涙が止まらない。
しかし、男は彼のそんな様子を見ても悪いなどとは、いっこうに思っていないようだった。
「まぁ、多少怪我しても腕がふっとぶよりはマシだ。」
そして、周りの人間には聞こえないようにして、こう続けた。
「言っただろ。生きてなきゃ何もできねぇって。……生きるために最大限の努力をしろ。」
男の声は厳しかった。
けれど、どうしようもなく胸にしみて、彼は違う涙が溢れてくるのを感じていたのだった。
彼が連れて行かれた場所は、何も無い部屋だった。
集められた人間はそれぞれ不安げに部屋の中を歩き回ったり、床に座り込んだりしていた。
最後の一人を部屋に追いやった後、先導してきた男は『商品』に向かってこう告げた。
「持ち主が決まるまで、ここでおとなしく待ってろ。」
決まるまで……?
てっきり、大勢の人間の前に引き出されるのかと思っていたので、彼は拍子抜けした。
他の何人かの同じ境遇の人間も、いぶかしそうにその男を見たためか、出ていく前に男は簡単に説明した。
「オークションは、一種のお祭りだからな。特に高値で売れそうな数人しか出さない。後のヤツは後で客がモニターを見て選んでいく。」
確かにあの場に残された人間は、男女ともかなり見栄えがよかった。
たいしたことが無いと言われたようで、あまり気持ちはよくなかったが、オークション会場でさらしものにされるよりはマシだろうか。
いや、どちらにしても売られるのは違いないのだから、マシもなにもない。
はぁ、とため息をついて格子のはまった窓を見あげた。雲が流れていくのが見える。おそらく、ここは地上からかなり高い場所にあるのだろう。
おそらく、到底逃げ出すことなどできないくらいの……。
だいたい、あんな小さい窓、子供でも通り抜けるのは難しい。
もう一度ため息をつきかけた時、彼の視界に妙なものが飛び込んできた。
『……コウモリ……?』
なぜ疑問形なのかと言うと、それは図鑑などで見たそれらとは著しく違っていたからだ。
とにかく、普通のコウモリは帽子はかぶっていない。
それは、窓にはまった格子を、キイキイ騒ぎながらなんとかくぐり抜けようとしている。
しかし、まるっこいフォルムがあだになったのか、なかなかうまくいかないようだ。
最初は不安と恐怖で手一杯だった他の人達も、一人、また一人と気づいてコウモリの果敢な潜入作戦を口を開けて見物していた。
「きいーっ。きっきっ!」
コウモリが思い切り身体を突っ張らせた時、すぽん、とばかりにコウモリの身体が格子を抜けた。
しかし、そのまま勢い余って、その小さな身体は弾丸のようにすっ飛び、ちょうど窓の向かい側にあったドアにびたんと激突した。
ずず…と下に落ちかけたが、コウモリはなんとか踏ん張って、宙に浮かんだ。
それからドアの周りをしばらくうろうろしていたが、やがてがっくりきたように下を向いた。
そして。
何がどうなったのかさっぱりわからないが、こうもりが下を向いた次の瞬間、丸い物体は消え失せ、かわりに一人の少年が突然現れたのだった。
「こーゆー機械式のドアは苦手だなも。しょーがない。これを使うだぎゃ。」
ごそごそとポケットを探っている姿はどう見ても十代だ。
「あ、あのー…。」
おそるおそる声をかけると、少年は振り返ってこっちを見た。
「なんだ?」
なんだ、はこっちの台詞な気がしたが、とにかく、先に聞きたいことがあった。
「アンタ、何者?」
変なコウモリに、突然の出現、とにかく、普通じゃないことは確かだ。
当然の質問に少年は、ふふん、と笑った。
「魔法使い、だぎゃ。見てわからにゃーか?」
とんがり帽子に、それと同じ色のマント。
確かに、お伽噺か何かに出てくる魔法使いそのままのいでたちだ。
「ま、安心するだぎゃ。ワシは悪い魔法使いではにゃあで。」
『いい魔法使い』と言ってくれないのが、果てしなく不安だ。
その場にいた人間がかなりひいていることに気づいているのか、いないのか、少年はこころもち胸をそった。
「魔法使いにかかれば、ドアなんかにゃーも同然! 大船に乗ったつもりでおるがいいだがや。」
そう言うと彼は頭にかぶっていたとんがり帽子を脱いで、そこに手を突っ込んだ。
「ほいっ!」
かけ声と共に取り出したのは、巨大なハンマー。
………それって、魔法じゃなくて手品?
本人を除く、その場にいた全員がそう疑っていることなど、気が付きもせず、彼はそれを両手で持ち直し、野球のバットのような構えをとった。
…………まさか、それでたたき壊す……なんて、物理的手段じゃないよね?
と、本人を除くその場にいた全員のすがるような眼差しなど、どこ吹く風で、彼は思いっきり、それを振り切ったのだった―――。
ガーーーーーーーーーーーン!
その重い音に、彼らは飛び上がった。
おそるおそる扉を見たが、消え失せたり等していないばかりか、罅すら入っていない。
わんわんと余韻が響く中、ばたばたと誰かが走ってくる音が聞こえる。
途端、自分たちが腕にはめている爆弾を思い出して、彼らは一斉に青くなった。
「アンタ、なんてことしてくれたんだ!? アイツらがやってくるぞ!」
「子供だからって、やっていいことと悪いことがある!」
口々に彼を非難しながら、少年に飛びついてそのハンマーを奪おうとする。
彼らにこの不審な侵入者のことが知れて、自分たちまで巻き添えになってしまうなんて、冗談じゃない。
しかし、彼らの奮闘むなしく、扉は無情にも大きく開かれてしまった。
「うるせーぞっ!……って、誰だ? おまえ。」
見張りの男がいきなり増えた商品に、驚いて大声をあげるより、一瞬早く少年が動いた。
「だれ……! うわっ!!」
「ちょーっと黙ってもらうだぎゃ。」
少年の小さな身体が男に向かっていったかと思うと、男がくるりとひっくりかえって、床にたたきつけられていた。
そして、懐から取り出した小瓶を無理矢理彼の口に当てて飲ませる。
「うっ…がはっ…げほげほっ!」
「ほんの数時間のことだで心配すんな。」
にっこりと笑う少年の身体の下で、もがいていた男の姿が消えた。
「なっ!!」
驚いて後じさる人々の方に少年は振り返り、手に持ったそれを見せた。
「へび……?」
「これなら人を呼べにゃーぜ。」
そう言って、ご丁寧にもくるくると巻いて団子結び状にすると、そこにぽいっと放った。
「じゃあ、ちゃっとここを出るだがや。」
そう言って、手招きされたが全員一歩も進めない。
全員の目が床でころころ転がっている蛇に集中している。
「……これはどうなったんだ。」
「まさか、蛇になってしまったなんてありえない。」
ぐずぐずしている彼らに、少年は苛々したように先ほどの瓶を皆に向かってつきつけた。
「ちゃっちゃと出ろ! さもにゃーと、次はおみゃーさんにこの薬飲ませるだぎゃあ!」
「ひいいいっ!」
「蛇は嫌いなの!」
とんでもない脅迫に、一人また一人と外に出てゆく。
最後の一人になった彼に、少年は早くでるようにと促した。
「ほかの見張りがござるまえに、逃げださにゃーと。」
少年の命令を聞かないといけない立場にあることは、彼も重々承知していたが、どうしても気になることがあって、少年に告げた。
「この手錠だけど、ボタン一つでふっとばされるって話なんだよ。リモコンの範囲もわからないし、僕らが安全な場所に逃げる前に、ここにいないのがばれて起爆させられてしまったら……。」
「大丈夫だぎゃあ。それまでにはすべて片がついとるから。」
片がつく、その意味がよく分からない。
そして、もう一つ問題があるのだ。
「オークション会場には、あと何人かいるんだ。彼らが売られてしまう。」
すると、少年はにやっと笑った。
「そっちは絶対大丈夫だで、おみゃーさんはワシについてくればいい。」
「いや、だけど、財力のあるオヤジがテクニシャンで大変なんだ。」
「オヤジ?」
何を言ってるんだ、コイツ、と言わんばかり視線を向けられ、彼はしどろもどろになって、言葉をとぎれさせた。
確かに昨日会ったばかりで、しかも決していい印象はない。
けれど、なんとなくあのまっすぐな目をした男が、変なオヤジの手に渡るところを想像するのは愉快な気分ではなかった。
すがるような気持ちで言ってみたものの、彼の答えは、本当にあっさりきっぱりしたものだった。
「オークション会場は、ここより警備が厳しいんだがや。ワシ一人では無理。」
「だって、君魔法使いなんだろ?」
そんな突拍子もない職業を信じるなんて、我ながらどうかしてると思ったが、だいたい、今の状況がすでに普通じゃない。
魔法使いが棒をひとふりすれば、悪いヤツはすべてカエルかへびになって、ハッピーエンドになる、くらい期待してもいいだろう。
少年は、絶対無理、と言うと腕をつかんで彼を外へと引っ張り出した。
「ワシの仕事は、片がつくまでおみゃーさんらを安全な場所に匿うことだぎゃあ。」
中をもう一度確認した後、扉を閉めながら少年は言った。
「悪党をやっつけるんは、魔法使いの仕事じゃにゃーでよ。」
そう言って先頭に立って、懐からペーパーバックくらいの大きさのモニターを取り出した。
ちらっと見えるそれは、どうやらこの建物の内部の地図らしい。
こんなものを持っている少年はいったい何者なんだろう。
誰もが一瞬そう思ったが、すぐにその考えを放棄した。
聞いたところで返ってくる答えは決まっているからだった。