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02. 花言葉











とりあえず、己の耐久性には感謝した。





全身と自分が入っていたらしきカプセルの焦げ具合からすれば、
考えられる原因はただ一つ。
否、考えずとも、その感覚はもう十二分に身に染み付いている。



「相変わらず厳しいお人どすなあ……。どこどすの、ここ……」



軽い火傷を負っているらしい全身を押さえながら周囲を見渡す。
ほとんど原形を留めていない、白銀の飛空艦の中だった。
目に映るのは、破壊された合金の山。
壊れた天井の上は、降るような星空…というより、異常なまでに近い宇宙。



「パプワ島…ではあるんでっしゃろか。なんやいつも以上に暑い気ぃもしますけど…」



呟いてから、ハッ、と気づいて、慌てて周囲を探る。

幸運なことに、目的の物、ならぬ人はすぐ見つかった。
多少、自分と同様に煤けてはいたが。



「トージ君も無事どすな。よかったどす~。―――ん?」



人形の脇、石礫に紛れて、
けれど確かに、その色彩をもって存在を主張していたのは一輪の花。
手にとって、まじまじと眺める。
既にもう大分しおれているし、花弁も数枚散ってはいるが。



「ま……っまさかシンタローはんが……ッ?」



淡い期待にも、恨むべきは冷静な思考。



「―――な、わけないでっしゃろなあ……」



ふっ飛ばしておいて、花を供える人間もいまい。
献花をイヤガラセととることもできるが、
順当に考えれば、あのファンシーヤンキーあたりの仕業だろう。



「ま、ええどすわ」



覚えのありすぎる全身の痛みは、そう遠くない場所に彼がいることを教えてくれる。

まずはそれだけで十分だ。





この花、花言葉はなんでっしゃろなあ。
友情とか愛とかそういうもんやったらええんどすけど。
大体、花言葉ってそないなモンばっかどすしな。






人差し指と親指でくるくると花の茎を廻しながら、また彼を追って歩き出す。








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01. 友情










紅茶の薫りは暖かくやわらかで。
窓の外に広がるのは穏やかな晴天。
仕事の合間の休憩というにも、あまりに平和な昼下がり。
そんなさなかに、

「シンちゃん、連想ゲームです。友情っていえば?」

と、のんきな顔のグンマに尋ねられて。
即座に出たのは

「パプワ」

の三文字。ここまでは、穏当。





「あ、うん。そうだね」

彼の島の友人の名前を聞いて、
グンマは花がほころぶように、にっこりと笑う。

「じゃあ、その次は?」
「……何が、言いてーんだよ」
「士官学校のハナシしてるのに、全然名前出てこないなーって」

笑顔の兄弟のその台詞に。
表情が凍りついたのは、敗北宣言も同じだった。





グンマは士官学校でもちょっと特殊な立場だったし、
俺らの同期生の当時のことはほとんど知らないみたいだったから。
せがまれるままにトットリやらミヤギ、コージの話は、確かにしてた。


にしても。
投げかけられたその言葉のイメージとして、
瞬間、降って湧いてきたのは、この上なく暑苦しい男の姿。


イタズラっぽい笑顔、なんて、なまじ顔だちがかわいらしいだけに、凶悪で。
なんとかその言葉に関する明るいイメージ
―――たとえば、士官学校での一コマだとか、戦場でのふとした交流だとか、
そういったものを必死で思い出そうとしてみるものの。
友情パワーと叫びつつ炎上するアイツの強烈過ぎるインパクトの前に敢え無く惨敗。
がしがしと髪を掻き毟る。


「あー……違う、もっとこう…ポジティブなイメージが……」
「あはは」


白いクリームに包まれたケーキにフォークを入れつつ、屈託なく兄弟は笑う。


「食い込まれちゃってるねえ、シンちゃん」


主語を入れずに言うその気遣いだか揶揄だかがムカついて。
思わずグーで殴ってしまった。久しぶりに。


グンマは前みたいに泣き出したりはせず、ひどいよーと言いながら尚、笑った。










友情なんて大層な言葉が相応しいわけじゃなく、コレはもうほとんど悪夢の条件反射。
俺はアイツのために何一つしてやったことはないし、
これからだって何一つしてやるつもりもない。けれど。










大体、鬱陶しいにも程があるだろ。





言葉ひとつで、何もかも許して笑う男なんて。



m7

 

 
      きのう、みた、ゆめ


 


 


 


 


 




 「なあ、もう泣くなよ」


ベッドの中で、横たわったまま背をそむけた男は微かに首を振り拒絶を表す。


嗚咽に引き攣る喉からは、小さく否定の言葉も漏れたが聞き取ることは出来なかった。ただ背を丸め、体を縮めて泣きじゃくる。まるで小さな子供のような仕草に胸は痛むが、どんな慰めの言葉も届かないと分かっているのも事実だ。


 「泣くなよ…」


途方に暮れ、ベッドの端に腰を下ろす。伸ばした指で髪を梳くと、それすら拒むように振られる頭が遣る瀬無い。望むすべてを叶えてやれない、それが当たり前の世の中だけれど納得させることの困難さも知っているから虚しくなる。


溜め息を、ひとつ。


 「ずっと一緒にいたいと思ってた。いられると思ってた。いまだってそれは変わらないしこの先もそうだと信じてる。だけど…だけどな、無理なんだよ。どうしても。どうしても無理なんだって…分かってくれ…」


 


激しく揺れる金の髪。


拒絶に振られる頭がその頑なさを教える。


一途に向けられる好意ゆえに強くなるその思い。それは自分だって同じなのに、分かろうとしない彼に腹が立つ。


だんだん。


本気で。


 


腹が立つ。


 


 


 「てめぇコノヤロッ!こっち向け!」


 「やだっ!」


ぶんぶんっと首が振られる。背を向けたままのマジックの肩を掴み、なんとかこちらを向くよう力を籠めるがいかんせん体格差に邪魔される。


 「ええい、この図体ばかりデカいガキが!こっち向けって言ってるだろ!」


 「私に振り向いて欲しいなら行かないって言って。じゃなきゃ絶対向かないよ」


 「べつに、べつにいーけど。俺はこのままだっていいんだ。ぜーんぜん構わねぇよ。あー構わないとも」


ぺしっ、と後頭部を叩き立ち上がる。


 「困るのはあんただからな」


 「なんで私が困るの?」


 「俺の顔を見ないでいいのか?見ておかなくて本当にいいのかよ」


 「え、」


 「いいんだな?じゃ、夕べ見た俺の記憶を最後に枕濡らして泣き寝入りでもなんでもしとけ」


 「え、え、……ええっ!」


ガバッと身を起こし振り返る。


 「シンちゃん!!やだよやだやだ、こっち向いてっ」


起き上がる気配と同時に立ち上がり後ろを向いてやったので、今度は彼から自分の顔を見ることが出来なくなる。まあ、シンタローとてマジックの顔を見られなかったのだから同じことだけれど、今更四日間見なかったところで痛くも痒くもないというのが本音だ。


 「見て!パパのこと見て!」


 「いいから寝てろよ。その図体で不貞寝なんて、可愛くもなんともないけど俺はいなくなるから鬱陶しいところを見ることもないし。好きにすれば?」


 「ひどい。ひどいよ…パパを置き去りにするうえにその言い草…冷たいよ、シンちゃん冷たすぎるよ、悲しいよ…」


 「置き去りじゃねぇ!」


振り向きそうになり、慌てて踏み止まる。売り言葉に買い言葉が習慣化した関係だけれど、ことシンタローに関するプライドなど持ち合わせていないマジックと違い、自分は理性も知性も忍耐もあるのだ。感情だけでは動かない。…と、思う。


 「置き去りだよ。楢山節考だよ!」


 「は?ならやま?」


 「姥捨て山の物語」


 「…ああ。つーかお前は“姥”か?」


 「ううん。私の代名詞はダンディだよ」


 「……へー」


突っ込みを入れたいが、背中を向けているので生温い相槌だけを打ってやる。ぞんざいに扱われることを嫌う彼だから、当然の如く文句を言ってよこすがそれも綺麗に無視して部屋を出るため前進する。


 「待って!シンちゃんこっち向いて!」


慌ててベッドを飛び出し、追い縋る気配に心の中でほくそ笑む。本当にこの男は、マジックというやつは扱いやすい。


そんな風に、自分に対し自信が持てるようになったのはつい最近のことだが、彼がシンタローのことを髪一筋の歪みもなく愛しているのが分かるから、こうしてからかうことも出来るのだ。


呆れるほど愛されている。


同じだけの気持ちを抱えているが、どうにも意地っ張りの自分ではその感情が素直に現れることがないらしく、その度に一喜一憂する彼には申し訳ないとも思うけれどそれでも大の大人を惑わせている感覚というのは面白いし、可愛いと思ってしまうのでやめられない。


 「シンちゃん、ね、待って。こっち向いて。パパのこと見て」


 「俺は行くんだよ。それが認められないならダメだ」


 「だって、だってシンちゃんがいなくなったら私はひとりだよ。一人ぽっちでこの家にいなきゃならない。そんなの堪えられない…堪えられないよ、寂しいよ、辛いよ、悲しいよ」


 「泣き落としは効かないぜ」


 「違うよ本当に泣いてるんだってば!」


確かに涙声の、縋る声音にまたひとつ笑いがこみ上げる。


まったくバカなんだから。


なにも分かっていない、バカなんだから。


ひとつ、大きく息を吸い、シンタローは振り向いた。


 


 「たかが四日の校外学習で、よくもそんな大袈裟に騒げるもんだ」


 


 


新入生が校内やクラスメイトに馴染んできた五月の連休前に行われる校外授業は、学校保有の避暑地にある施設に教室を移し、四泊五日、寝食を共にすることで更なる調和と親睦を深めることを目的として行われる伝統行事の一つだった。


生徒募集要項にもそう記されていたため、マジックが知らないはずもなく、また入学当初は『楽しみだねぇ』などと言っていたのだから当然了承しているものと思っていた。


ところがいざ実施日が近付き、様々な準備を整え始めたシンタローを目の当たりにすると“自分だけ置き去り”という現実に漸く気付きゴネ始めたのだ。


そんなことだろうと思った、と取り合わないシンタローに、あの手この手で不参加を進めてくるマジックには本気で呆れもしたが、まあこの寂しがりがそう易々と納得するはずもないと諦め根気よく言い聞かせてきたけれど。


結局、出発当日の今日になっても、彼の中でゴーサインは出ないまま。


 


 


 「全員参加だぞ。場所が変わるだけで授業はするんだから、行かなけりゃ休みになっちまうじゃないか」


 「いいよ、休みでいいよ」


 「アホか。俺は三年間皆勤と決めてるんだ」


 「そんな誓い誰に立てたの?パパは認めてません」


 「どこの世界に学校ズル休みを奨励する親がいるんだ!」


 「別にズルじゃないよ。孝行息子がパパの傍にいてあげようとする美談じゃないか」


 「行ってきます」


 「ああっ!シンちゃん!」


くるりと回れ右をしたシンタローの元へ駆け寄ると、逃げられないよう抱き締めてしまう。


 「行かせないよ!絶対に行かせないからね!」


 「離せ」


 「いやだぁ~」


 「離せってば!」


 「どうしても行くというなら、パパを倒してから行きなさい!」


 「…………バカだバカだと思ってたけど、本当の本物の、混じりけなし天然百パーセント濃縮還元なしのストレートバカだったとはな」


呆れてものも言えないとは言うが、言わない限り話が進まないのだから仕方ない。


こんなこともあろうかと、出発の二時間前からパフォーマンスをしておいてよかったと内心で胸を撫で下ろす。既に三十分を費やしているが、あと三十分あればどうにか落ち着くだろう。いや、落ち着かせなければならない。


学校までは車で送ってもらうのが常だ。だから本来であればここまで早起きすることはないのだけれど、グズグズ言い募るマジックの隣に座って移動するのは疲れるし、なによりそのままどこかへ連れ去られそうな気もするので今日は電車を使うことに決めていた。


それもまた機嫌を損ねる原因となるだろうが、背に腹はかえられない。


むぎゅむぎゅと抱き締めてくるマジックに聞こえないよう溜め息をつき、それからポン、と彼の腕を叩いた。


 「寂しいのは…俺だって同じだ」


 「シンちゃん?」


 「四日も逢えないなんて、そんなの、俺だって寂しいに決まってるだろ」


 「じゃあ行かないでいいじゃない。ここでパパと過ごそう?どこかに行きたいなら連れて行くから。だからここにいて」


 「そうできれば…俺だって、そうできればしたい。本当に、そう思ってるんだけど…」


 「しようよ。大丈夫、学校にはパパが連絡してあげるから。急におなかが痛くなっちゃいましたって言えば諦めるよ。ね?」


必死に言い募る彼が、愛おしいけど、ばかばかしい。


大の大人が言うに事欠いて仮病を使えと。おなか痛くなっちゃいましたと。


それを聞かされる俺の頭が痛くなる。


言葉にも表情にも出さず、シンタローは心の中で笑ってやった。本当に、こいつはどこまで自分のことが好きなのだろう。


我がことながら理解に苦しむ。


 「俺さあ、小学校の修学旅行って、行ってないんだよな」


 「え、なんで?」


 「金がないから」


事実だ。


 「予め積み立てしておくんだけど、俺、親が死んで転校したし、引き取り先も変わったりしてゴタゴタしてたんだよな。で、気付いたら修学旅行が近くなってて、でもそんな急には払えないって言われて、行けなかった」


蒼い瞳が細められる。


 「みんなが準備してるの見てた。出発の前に持ち物チェックするからって、学校に大きな鞄持ってきたりするの、ただ、見てた。友達もいなかったからひとりで、教室の隅でそれ、見てるだけだった」


着ていく服は新しく買ってもらったとか。お土産になにを頼まれたとか。消灯時間が来てもこっそり起きていようとか。


シンタローとは無関係に、楽しげに語らう級友をぼんやりと眺めるだけの時間。


 「不参加のときは普通に登校するって決まりだから、図書室で自習させられた。俺と、知らないやつがひとりいて、二人とも黙って本を読んでた。静か過ぎて気味が悪かった」


マジックの腕が緩み、癒すように抱き締めてくる。


 「帰ってきたあとはもっと惨めだったよ。元から俺だけ浮いてたのに、みんな益々仲良くなって旅行中の話で盛り上がって…なんで俺だけこんな目に遭うんだろうと思った。どうして俺はこうなんだろうって、死んだ両親のこと、恨んだりして…」


クラス全員からのお土産だといって渡されたキーホルダー。


哀れみの塊のようなそれを使うことができるはずもなく、机の中に入れてそれきりなくしてしまった。あのキーホルダーは、どんな形をしていただろう。


 「言っただろ。学校なんて、隙を見せたら終わりなんだ。一度流れに逆らったら外れるだけなんだよ。もうやだ。あんなの、もう二度と、嫌だ」


ぎゅっ、とマジックの胸元を掴むと、大きな掌が背中を包む。無言でただ、撫でてくれる。


 「いまのクラスはさ、俺のこと、変な目で見ることはなくなったけど、でもまだ話もしてないやついるし、よそよそしくされるし。だからチャンスなんだよ」


それも事実だ。


けれどシンタローは考え違いをしている。


クラスメイトたちはみな、成績も面倒見もよく、同い年でありながら包容力のようなものすら漂わせる彼に一目置いていたし、だからこそ近寄りがたいと思われているのだ。


まして彼の隣には、いつ何時であろうと“おまけ”が付いている。


アラシヤマという名の、鉄壁のディフェンスがへばりついている。


 「ここで休んだりしたらもうだめだ。取り戻せない」


 「シンちゃん…」


ぎゅうっと抱き締め、マジックは深く、長い吐息をつく。


 「辛かったね。どうして、と言っても仕方のないことだけど、それでも私は、どうしてそのとききみに出逢えていなかったのか、そのことを心から悔やむよ」


 「いいんだ。忘れるから。昔のことなんて思い出してもつまんないだけだし、忘れりゃいいんだから、そうする」


襟足を隠す髪を梳く指先が優しい。


マジックは優しい。


自分には、自分にだけは、無条件で。


 「私はシンタローの幸せが一番大事だよ。自分のことよりお前の進む先の方が大切だ。本当にそう思ってる。いつも、願ってる」


 「うん」


 「その幸せはすべて私が作ってあげたいけど、それだけでは足りないよね。二人の間だけじゃなく、シンタローのいる場所であればどこでも、誰からも差し伸べられるべきだ。お前にはそれを要求する権利がある」


 「権利とか…そんなの…」


 「あるよ。あるんだ。なにもかもを望みなさい。願って、そして叶えなさい」


唇が、つむじの辺りに触れる。


安心感が全身を包む。


 「行っておいで」


優しい声音が頭上から降り注ぐ。低いそれは心地よく、耳に、体に、染み渡る。


 「楽しい思い出をたくさん作りなさい」


 「…ありがとう」


子供のようにしがみついて、それから爪先立って彼の頬に口付ける。照れくさいそれもいまは抵抗なく与えられた。


とても幸せな気持ちになれた。


 


 


 


 


…話したことは事実だけれど、なんだか予定と変わっちゃったぞ。


こっそり覗き見る時計の針は予定より随分早い時間を示している。


 


策士、策におぼれるとはこのことか。


 


胸中で呟くその言葉に苦笑が漏れる。俺も汚れちまったもんだと嘯きながら、それでもマジックの温もりは本物だから、そっと目を閉じしがみつく力を強くした。


今日から四日間。


逢えない寂しさはシンタローも同様だということにマジックが気付いてくれるのは、一体いつになるのだろう。


 


 

 
      きのう、みた、ゆめ


 


 


 


 


 





 「席はここどす」


 


ふふ、うふふ…と薄気味悪い笑いを浮かべながらアラシヤマが手招きする。バスでの席は予め決められていて、嫌だと言っても今更変えようがないのが切ない限りだ。


大体、席順をどうするかを決めたのがクラスの副委員長であるアラシヤマなのだからその時点で逆らいようもないし、なにがなんでも隣に座ると涙目で言い張られた日には抵抗するのも虚しいだけだ。


自分は、その副委員長に唯一対抗できる委員長でありながら、既に彼に関するすべては諦め気味のシンタローにとって『んじゃそうするか』という言葉以外選びようがなかったのもまた事実で。


バスでの席順は“好きなもの同士”という、ここは女子高ですかと聞きたくなるような薄ら寒い表現で決められることとなってしまった。


因みに四人一組で作る班は、教師の提案で同じ数字を引いたものが組むという抽選方式が採られたが、ここでもシンタローは“四”という実に相応しい数を引き当て見事アラシヤマの隣席をしめることとなった訳であった。


 


 「ったく、誰が“好きなもの”だっつの」


 「なに?シンタローはん、なにか言いました?」


いそいそとショルダーバックの中を探っていたアラシヤマが耳聡く聞いてくる。


 「いーえ、なんも言ってません」


 「そうどすか?なあなあ、わて、お菓子ぎょうさん持って来ましたんえ。シンタローはんにも分けたげます」


 「ぎょうさんって、それ全部か」


 「へえ」


なんだか妙にもっさり膨らんだ鞄を訝しんではいたが、よもや中身がすべて菓子だとは思わなかった。持ってきたからと言って取り上げられる訳ではないだろうけれど、一応“おやつは五百円程度”と旅のしおりには記載されているし、読み合わせで音読したのはアラシヤマ本人だった。


 「わてな、こうしてお菓子やお弁当を親友と分け合うのが夢だったんどす」


 「…へー」


 「ほら、みとくんなはれ。おたべどす。シンタローはんはなに持ってきはりましたの?なにと交換するつもりどす?」


交換するつもり自体がない。


と、言ってやりたいがにじり寄る気配が恐ろしい。


大体、“おたべ”がおやつに含まれているというのがまずおかしいだろう。しかもその鞄の中のどこに、どういう風に詰まっていたのか。ペロリと摘まみ出されたそれを視界に入れぬよう顔を背けながら、極力抑えた声で『腹、減ってないから、あとで』と返す。


 「おたべは後どすか?ほんならなににしまひょ。瓦煎餅なんてどうやろ。雷おこしはわて、あんまり好きやないけど、東京に来た以上はこれも食べなあかんやろなあと、勇気を出して買うて来ましたんえ」


なんだ!


なんなんだ、その渋いチョイスは!


ぐおーっと喉元を掻き毟りつつ、それでもシンタローはどうにか堪えた。


この校外学習の旅を終えた頃、自分はいよいよクラスに馴染み誰とでも親しく、楽しく付き合えるようになっているはずなのだ。はずなのに!


 「シンタローはん?なんや、喉渇いたん?それならわての抹茶ミルク分けたげまひょ」


 「余計渇くわっ!」


 「なんやの、そないに大きい声だして。心配しなくてもわてはずーっと隣にいてるから。な?」


な、じゃない。


それが嫌なんだ!とはさすがに怒鳴れず、握った拳で自分の頭を叩くことでどうにか抑える。アラシヤマという人間と、自分を含めたほかの人類すべては違う時間を生きているのだ。そう思えば納得できる…ような気がする。


 「なんやのこの子は。わてと一緒にいられるのが嬉しいのは分かるけど、そないな喜びの表現は危険やわ。はいはい、手ぇ下ろして。塩飴あげるから落ち着きなはれ」


 「…し、しおあ………」


 


 


アラシヤマの宇宙は、広い。


 


 


 


 


都心を離れ南へと進むバスは、やがて窓を閉めていても潮の香りを感じるようになった。


目的地は高校保有の施設が所在するには珍しい、全国的に有名なマリーナに程近い高台にあった。数名の生徒は『ここには父のヨットが係留されている』と言っていたが、年間の管理費だけで郊外に家が建つという、シンタローからすれば愚行に近いような贅沢さだ。


この国にも特権階級というものが実在するということを初めて実感したものだが、その子供たちと机を並べている自分が言っても説得力はあまりない。


尤も、マジックが所有するのは高級車とはいえ自宅マンションの駐車場に並んでいる三台の車だけだから、彼らよりは慎ましい(?)暮らしをしていると思う。


…聞いたことがないけれど、恐らく、車しか持っていないはずだ。


 「でも…どうだろう。あいつ、なーんか色々ありそうだし」


隠している訳ではないのだろうが、自分から話をしない限り聞き出すことをしないシンタローの性格とうまい具合に重なって互いに知らない未知の部分というものがまだまだ存在しているような気がする。


それがいいことなのか、もどかしいと訴えるべきなのか、よく分からないけれど。


 「見て。見てシンタローはん。海やわぁ、綺麗やなぁ」


 「べつに…それほど珍しくないだろ」


 「わて、海を見るのはこれで二回目どす」


 「えっ!なんで」


 「京都に海はありまへんえ」


 「そりゃそうだけど…」


子供なら水遊びや海水浴は好きなものだろう。そう言おうとして思い留まる。箱入りなのは分かっていたが、加えて彼の生まれた家は個人の自由という考え方とは程遠いところに有りそうだし、なにより休日に家族サービスが行えるほど暇な父親ではないだろう。


まあそれを言うなら自分だって、暢気に海水浴を楽しめる環境にはなかったけれど。


 「あれは幼稚園のときどす。おーちゃんが遊びに行こうて海に連れて行ってくれたんやけど、わて、クラゲに刺されましてなぁ…」


フフ…フフフ…


と、顔の上半分に縦線が入ったような暗い表情で笑い出す。


 「わてはショックで意識不明の重体になるし、おーちゃん、慌ててクラゲを手ぇで引っ張りはって、それで自分もブツブツのビリビリですわ。覚えてへんけど、わてが死んだら自分も死ぬ言うてお父はんが暴れるから、なんや偉い人まで集まって大騒ぎになったそうどす」


おーちゃん…アラシヤマは三人兄弟の末っ子で、長兄は“おーちゃん”、次兄は“ちーちゃん”と呼んでいるらしい。因みに家族は彼のことを“あーちゃん”と呼んでいる。


このおーちゃんというのがアラシヤマの話の中に時折出てくるのだが、大抵は弟可愛さ故とはいえなにかしら騒動を起こしている要注意人物らしい。シンタローにとってはマジックの行き過ぎた溺愛だけで手一杯なのに、彼はそれに等しい愛情を二人分背負って生きているのだ。その点では十分同情の余地はあるし、戦友のような気さえする。


 「それ以来、海はあかんてお母はんが言わはるし、ちーちゃんには死にたくなかったらお父はんとおーちゃんには気をつけろ言われるし、散々やわ」


 「まあな、それはなんとなく分かる。うん」


シンタローが台所に立つと、やれ手を切るのじゃないか、やれ火傷を負うのじゃないかとウロウロするマジックに、余計に気が散って危ないからと怒鳴ったことは一度や二度ではない。心配は分かるけれど、炊事には慣れている自分にとって横から手を出される方が危険なのだ。親の心子知らずと言うけれど、子の心もまた親知らずと言えるだろう。


 「そやけど今度は大丈夫やわ。危ないことあったら、シンタローはんが身を挺して守ってくれはるし」


 「えっなんでっ!どうして俺が身を挺することになってんのっ」


 「それはぁ、シンタローはんがぁ、わてのことぉ~」


もじもじ。


 「す、き、や、か、ら」


きゃっ言ってしもた。


 


 


 


 


――――…タローはん


……ンタローはん


…シンタローはんっ


 


 「シンタローはん!」


 「はっ!」


ガバッと身を起こす。


 「あーびっくりした。シンタローはん、大丈夫どすか?」


 「え、あれ?俺、どうかした?」


 「いきなり気ぃ失いはったんどす。なんやろ、車酔いやろか。先生呼びまひょか」


 「いい!いいから、平気だから!つかもう俺に構うな、頼むからっ」


 「なに言うてはるの。どんなときでもわてらは一心同体、仲良しグループどすえ。なんの遠慮もいりまへん、さ、言うておくれやす。わてになにをして欲しいのか」


 「なんも。なーんもありません!あーっ近付くな、それ以上こっちに寄るなーっ!」


相変わらず仲良しですねぇ、という声が聞こえる。担任教師のその言葉が、言霊となり自分を呪縛していくようなこの感覚は果たして錯覚といえるだろうか。


 「シンタローはん、わてとシンタローはんの仲どす。遠慮はいりまへんえ」


 「ぎゃっー!腕を取るな!目を潤ませるなーっ!」


 「とんだシャイボーイどすなぁ。ほんま、かぁいらしこと」


 


殴ってしまいたい。


きっとここじゃない何処かにいる自分なら、思う存分、徹底的に殴りつけているに違いないのに。


逃げ場もなく、伸ばされる腕をどうにか躱しながらシンタローは我が身を呪う。


家ではマジック、学校ではアラシヤマ。無償の愛と呼ぶには激しすぎるこの求愛は、果たして幸せといえるのだろうか、それとも。


一人ぽっちはもう嫌だけど、こんな異常な境遇に甘んじるのもどうかと思う。


 


四日間を無事に乗り切る自信はなくなった。
これはなにかの天罰なのだろうかと思わず涙ぐむ切ないシンタローであった。

m6


 

 

 
      きのう、みた、ゆめ


 


 


 


 


魔の会談は、魔の会食にまで発展し、シンタローが開放されたのは午後九時を回ってからのことだった。


明日も通常通り授業があるので、予習復習を怠りなくしておきたいというのに、予定は完全に狂わされた。いや、それだけであれば本来怒るほどのことはない。


シンタローにとって教科書は二手ほど先んじるものだし、一週間休むことになったとしてもそれで後れを取ることはない。生来の負けず嫌いと、マジックに報いたいという気持ちを常に優先させる彼にとって、だからその程度のことであれば機嫌を悪くすることはないのだ。


本来であれば。


親バカの会とシンタローが勝手に名付けたおかしな集団と別れ車に乗ると、シンタローはそれ以前よりも口を閉ざし頑なに彼の方を見なかった。


マジックにとって、拷問ともいえるべき密室空間は恐ろしい沈黙に包まれ、いたたまれなさを倍増させた。機嫌よく『昨今の父親事情』を語っていられたうちはよかったが、二人きりになると冷戦状態にあった現状を嫌でも思い返させる。さすがの彼もその絶対的な無言の応酬には敵わぬらしく、ちらちらとシンタローの気配を窺いながらなにかきっかけは掴めないかと間合いを計っているようだった。


信号を越えて。


角を曲がって。


コンビニの前を通り過ぎるとき、なにか欲しいものがあるかと尋ねたがあっさり首を振られ撃沈する。


散歩中の犬を見付け、可愛いねと言ってみたが完璧なまでに無視された。


再度信号を越えて。


角を曲がって。


そうして自宅マンションの地下駐車場に到着すると、無言のまま車を降りたシンタローはさっさとエレベーターホールへと歩いていってしまった。


さすがにひとりで乗り込むことはしなかったが、俯いたまま“話しかけるな”というオーラを身に纏うことは忘れない。重力のかかるその小箱の中で、マジックは情けなく眉尻を下げたまま頑なな息子を見下ろしていた。


 


玄関を抜けると、さっと小走りに自室に向かう。


呼び止める暇もなかった。


出逢った頃より幾分伸びた髪は肩の辺りで柔らかく跳ね、その軌跡を見せ付けるかのように翻した後姿はあっさり扉の中に消える。見送るマジックは手を伸ばし、その細い背中を捕まえてしまいたかったが諦めた。無理強いをすればもっと頑なにさせてしまうだろう。それはよろしくない。


シンタローは難しいところのある子供だと分かっている。


マジックに対しては恐らく他の誰より心を許してはいるが、それだってつい最近までは他人だった自分にどう接していいのか計りかねる部分はまだまだあるだろう。寂しい時間を生きてきただけに、人の心を思いやることには長けている。だからこそ自分を見せることに躊躇いを感じるのだろうし、恐怖を抱くこともあるのだ。


それは、分かる。


マジックには。


痛いほどに分かってしまう彼には、だからこそ無理やり振り向かせることなど出来なかったのだ。触れられたくないところは誰しも持っていて、自分にも、正直伝えていない部分がいくつかあるのだから。


湿った、重たい溜め息をつきながら自室に向かう彼の背中は寂しげで、それはシンタローの姿によく似ていた。


同じ思いを抱えているのが分かるほどに、それはよく似た気配だった。


 


 


部屋に戻ったシンタローは、捻じ曲がった自分の臍を宥めるのに必死だった。


怒っているのは入学式当日のことであり、今日のことは腹を立てることではないという自覚は十分あるので、感情の軌道修正を図らなければならないのだ。


新入生と、式に出席した生徒会役員、教職員が居並ぶ晴れやかな舞台でかかされた恥は如何に世話になっている身とはいえ堪えがたいものであり、その点についてはまだまだ反省させたいところなのだ。だから口を利かないのはあの日のことが原因であり、それ以外には特に理由らしきものはない。


けれど疼く胸の中にある奇妙な感覚は明らかに今日の出来事に対して沸き起こったもので、その正体が自分でもよく分からないことがもどかしいのだ。


制服を脱ぎ、教えられた通りきちんとブラシを掛けてからベッドに座る。


アラシヤマの父親は、呉服界…というものがあるのかどうか知らないが、とにかく京都ではその名を知らぬもののない重鎮であり政治家にすら顔の利く大人物であるらしい。その実とんでもない親バカで、マジックと同等に渡り合える息子バカであることも分かったが、自分たちとははっきり違う点があることに気付かされた。


彼らは実の親子なのだ。


血の繋がりのある本物の父と息子であり、自分たちのような“作り上げようとしている”関係ではない。


だからなのか、アラシヤマは父親の言うこと、することをすべて無条件に、無意識に受け入れなんのてらいも抵抗もなかった。すべてにおいて自然だった。いっそ憎まれ口に近いような言葉であっても、彼が父に与えるそれは一欠けらの他意もなく、また父親もそれを正しく真っ直ぐに受け止めていた。


それに引き換え、自分たちはどうだろう。


冷戦中なのは確かだとして、話す言葉はギクシャクとぎこちなく、どこか噛み合わないことが幾度もあった。普段気にも留めなかったけれど、“完璧な親子”を前にすればその不自然さは嫌でも感じられそれを自覚することがどうにも我慢ならなかった。


マジックは優しい。


シンタローの拙い話でもきちんと耳を傾け、からかいながらも尊重してくれる。対等に扱ってくれる。


それは互いを認め合う行為であり、複雑な環境に育ったシンタローからすればとても有り難いことだったが、ふと、その根本にあるのは遠慮なのではないかと思い至ってしまった。


突如沸き起こったその考えは、あっという間に広まりいまやシンタローの思考を埋め尽くしている。


シンタローにとってマジックは唯一絶対の理解者だ。喧嘩はしていてもそれは変わらない。


けれど彼にとっての自分はどうだろう?


子供で、頼りなく、なにをおいても守るべき存在。その責任の所在を自ら求め、保護者という立場で自分を支配している。支配、といえば聞こえは悪いが、大人が子供に与える義務と責任を言い換えればそれこそ当然の関係だと思う。


シンタローが独り立ちするには時間が掛かる。


だからマジックには自分を庇護下に置く当然の権利がある。


対等に見てくれるのは、だからマジックの誠実さの現れであるだろうし、彼が日本人ではないということも関係しているのかもしれない。


負けず嫌いで一方的に世話になることをよしとしないシンタローを慮った上での態度なのだろうということも薄々ながら分かっている。


けれど。


それでも。


やはり本物ではないと、本物にはなれないと、まるで彼から突きつけられたようで。被害妄想でしかないその思いを、けれどゼロには出来なくて、辛い。苦しい。


悲しい。


シンタローが理事長室に到着したときには既に打ち解け合っていた息子バカ二人は、始終機嫌よく語らっていた。その中に時折、マジックのことを褒め称える言葉もあったがなにを差してそう言ったのかは理解できない。


アラシヤマの父は立派で、地位も名誉もある。マジックのように得体の知れない、日陰の仕事をしている人間とは違うのだ。それを知った上であのようなことを言うなら嫌味の限度を越えているし、知らずにいるなら気恥ずかしく、情けない気持ちになってくる。


複雑な感情に苛々している自分に気付きもせず、ヘラヘラと笑っているマジックが信じられなかった。結局第三者の前ではいい顔しかしていないのか、実などないのかとはらわたが煮える思いがこみ上げる。


誰に対して湧き上がる怒りか分からないけれど、とにかく腹が立って悲しくてやりきれないのだ。


どうしようもなく寂しくなる。


 


これではいけない、冷静になろうと深呼吸をしてみる。


自分の思考にはまりなにを考えているのかすら分からなくなりそうで、もう一度、きちんと順序だてて解釈すべきだと自分自身に言い聞かせた。


そして、指折り数える。


 「入学式のことでむかついてるのが、大前提。俺はこれで腹を立ててる。うん、間違いない」


次は、自分の知らないうちに呼び出しを受けていたこと。


登校時の車中ではなにも言わなかったのに、実は前日の午前中には理事長から連絡を受けていたという。アラシヤマの父親が急遽上京することとなり、その際、愛息の友人とその両親にぜひ会っておきたいという申し出があったからだと聞かされた。


お前は何様だ、と言ってやりたかったがそれは抑えた。確かに、名門に生まれたお坊ちゃまのご学友ともなれば氏素性は把握しておくに越したことはないだろう。事実、シンタローの生まれはごくありふれた家庭であったし、育った環境はかなり粗悪なものだった。


なんだか馬鹿にされたような話であり、シンタローとしては尊大な態度に腹が立つ。マジックにしても、自分の息子の調査をされるような扱いに憤るべきではないかと思うのだが、その辺は彼も自分の素性を卑しいと思っているのか気にした風は一切なく、それにはムカムカと胸の奥が疼くことを止められない。


シンタローはいつ、誰に過去を知られたところで構わなかった。いまの暮らしを妬まれたり、嘲笑われても構わなかった。隠し通そうとするより潔く曝したかった。曇りはないから。


その思いをマジックに裏切られた。そう感じて腹が立った。悲しかった。


自分のことを本当は持て余しているのかと、そんな風に思えて辛かった。


 「そうか、じゃあ結局、今日のことでも腹が立つんだ」


それから感情の両極端さに思い至る。


苛々して、むかついて、けれど寂しくて悲しい。


一目見て血縁であるとは思えない自分を息子を紹介するのはありがたい。けれどそれも度を越せば嫌味になる。常々話しても構わないと言ってきたシンタローにとって頑なに“我が子”と通されるのはまるで養子であることを恥じているかのような気にさせられ情けない気持ちになるのだ。


聞かれもしないのに話すことはないと思う。けれどそれではもやもやとした不快感が残るのだ。シンタローの我が侭でしかないのだろうが、その思いに冷たく胸を刺された。


合流する前に話していた可能性を考える。


なさぬ仲ではあることを、彼らが承知していたなら敢えて話題に出さないのも当然だろう。シンタローを前に『きみは実子じゃないのか』と話題を振るなどありえない。


だから、やはりこの苛々や寂しさは被害妄想の部類に入る。取り越し苦労だし、早合点だ。


曲がっていた臍が定位置に戻りつつある状態で、もう一度考える。


マジックは悪くない。


彼は自分を愛してくれる。悪いことなどひとつも言わず、自慢の息子だと胸を張って答えていた。相手からどう思われようが一切お構いなしに、いままで通りシンタローの方が恐縮しいたたまれなくなる賞賛と大きすぎる愛情を声高に言い切った。


だから、彼らが承知していようがいまいが、マジックにとってはなんら意味のないことなのだ。自分は愛されている。守られている。疑う余地はまるでない。シンタローが悲しむことなど、なにもない。


なにもない。


なにもない。


胸の中で反芻する。


マジックは絶対の愛情で接してくれる。それは嘘ではない。嘘などではない。


体裁ではない。


悲しむ必要はない。


あの、笑顔。


抱き締めてくれる力と温もり。


疑うことは裏切りだ。いくら腹を立てていたとはいえ、根本にあるものを疑うのは行きすきだろう。だってマジックは言ったではないか。大切だと。愛していると。


二人でいようと。


幸せになろうと。


そこまで考えて、今度はじわじわと押し寄せる自己嫌悪に囚われた。


 「結局…信じてないのは、俺か…」


実だとか義理だとか、生まれがどうだ環境がどうしたと気にしていたのはシンタローだけのことで、アラシヤマも、彼の父も、そんなことは微塵も考えてはいなかった。いや、思い至ることもないのだろう。


我が身を恥じたのはシンタロー自信であり、マジックにしても、たとえどんな仕事であろうがそれで生活を成り立たせているのなら卑下することはあるまい。得意げに話して聞かせることではないが、その恩恵を受け暮らしているシンタローが恥ずかしさを覚えるのは思い上がりもいいところだ。


公立の数倍もする学費を掛けてもらい、使いはしないが法外な小遣いを与えられ、有り余る物資の揃った環境に甘えるうち驕り高ぶった気持ちに浸りきっていたのだろうか。自覚はないが、そんな愚か者に成り下がってしまったのか。


がっくりと肩を落とし、更に自己分析を進めてみる。


 


考えるまでもなく高校に通えるのはマジックのお陰だ。


赤の他人の自分を育ててくれる、彼の大きな愛情があるから生きている。


自分のどこにそれほどの魅力があるのかサッパリ分かりはしないものの、マジックがいいと言うのだから彼にとって必要な存在となり得ているのだろう。それは最早疑う余地もない。


そのマジックが。


シンタローの入学を喜んで、あんなにバカみたいに感激して、その瞬間を残したいと願ってくれた。熱望してくれた。


行き過ぎだ、とはいまも思う。けれどそれを怒る権利が、果たして自分にあるのだろうか。


恥ずかしいのはシンタローの勝手だし、随分奢った考え方なのかもしれない。


いまの暮らしのすべてはマジックがいて初めて成り立つものだ。自分という存在は、頭の先から爪先まで、すべてが彼のものであるといっても過言ではない。意志はあっても逆らうことは出来ない。すべきでない、と言った方がいいだろうか。マジックとて操り人形を欲した訳ではないだろうから、その言い方は彼を傷付けるだろう。


この数時間で起きたことと、思ったことを理路整然と並べてみて、シンタローは漸く結論に辿り着いた。


つまり。


 「俺の…………我が侭、ってこと、…だよな」


その一言で片付けるのはなかなか承知し難いが、それでもマジックに非はないように思われる。思う、ではなくそうなのだろう。彼はなにもしなかった。言わなかった。


言わないことに対する疑念は残るものの、それでもこれまで過ごした時間を疑うことが出来ない以上、あとは彼に確かめて、真実を知るまで自分勝手に判断することは誤りであると思われる。


理屈より、動くことを優先させる自分が随分長いこと思案に暮れたがその結果には満足できた。自己弁護をしようと思ったわけではなく、ちゃんと、自分自身を分析できたことが嬉しかった。


そうか、と思い至ってしまえば納得できた。


要するに会話が必要なのだ。問いかけて、答えをもらう。気になることは聞けばいいし、聞いてもらえば答えられる。胸の中に抱えていても解決は出来ないし、不必要な疑念ばかり飼いならしたところでなんの特にもならないのだ。


帰宅したときとはまったく違う感情に自分でも呆れるがとにかくすっきりした。


人間は考える葦である、という言葉があるがまさにこれだと思った。意味はよく分からないけれど、恐らくこんなことなのだろうと決めてみる。


 「や、ちゃんと調べなきゃダメか」


辞書、辞書、と呟きながら立ち上がろうとしたところで、微かな物音に気が付く。


 


ドアを、叩く音だとすぐに分かった。


そして、それが誰の手によるものなのかということも。


 



 

 

 
      きのう、みた、ゆめ


 


 


 


 


 


ノックの音に若干たじろぎながら、返事をするかしないかを迷ったのはほんの一瞬だった。


二人暮らしの家の中でこの時間に訪ねて来るなどマジック以外考えられないし、口を利かなくなっても就寝時には必ず“おやすみ”の挨拶をしに来ていた。


寝るにはまだ早いが、今夜はシンタローの機嫌が更に悪くなったと踏んでなにかデザートでも作ったのかもしれない。これまで食べたことのない、手の込んだ甘い菓子類を喜ぶ自分に対し籠絡を迫るときの常套手段となりつつあるそれも、外食から帰宅したあとでは効果が半減するということまでは考えが至らないのか。


だとしたら気の毒なことだ。


そういうところが、マジックに対して感じるイライラの原因でもあるのかもしれない。


微妙にずれている感覚は、これから先、埋まることなどあるのだろうか。


不安になって、でもだからこそいま、歩み寄らなければならないと思い返す。立ち上がりドアの前まで進むその僅かな時間で、シンタローは腹をくくった。


一緒にいたい。


その気持ちに変わりはない。


深呼吸をして、それから扉を、ゆっくりと開け放った。


 


 


 「えーと、今日は急に外出の予定が入っちゃって、シンちゃんも疲れただろうなーと…」


だから、甘いもの、作ってみたんだけど。


大きな体を縮めつつ上目遣いに言うその手には花柄のトレーがあり、その上には大きめのカップに注がれた乳白色の液体が揺れている。


ミルクセーキだろう。柔らかな湯気とともにバニラの香りが漂ってくる。


 「いらない?もうおなかいっぱいだよね?はは、つい作っちゃったけどこの時間にこんな甘いの飲んだら眠れなくなっちゃうかな、あ、それコーヒーか、でもシンちゃんコーヒー好きだもんね、淹れ直そうか、それとも、」


 「ありがとう」


放っておけば限りなく言い訳を続けそうなマジックの手からトレーごと受け取り歩き出す。ドアは開けたまま、部屋のほぼ中央に置かれたローテーブルにそれを載せ回り込んで奥側の床に腰を下ろす。情けなさそうな顔のままこちらを見ているマジックは、無言でカップを取り上げたシンタローを確認するとオドオドした態度のままそれでも部屋に入ってきた。


傾けたカップから少しずつ、甘いそれを飲み込む。


無数に浮いているバニラの粒に、手の掛かったものであることを知らされ体も、心も温かくなる。


ご機嫌取りだとしても、それでも。


嫌われたくないと思っている、マジックの心が伝わり喉の下をくすぐられるような感覚に自然と口元が綻んだ。本当に、このひとは。


この愛らしい人は。


 「…甘い」


 「えっ、甘すぎた?ごめんね」


 「いちいち謝るな。っていうかビクビクすんな」


 「だって、ほら、シンちゃんまだ…怒ってるし…」


 「怒ってるよ」


やっぱり。


呟きは聞こえなかったけれど、下がった眉と肩が物語っている。もしマジックに耳と尻尾が付いていたなら、それは情けなく垂れ下がり『がっくりしてます』と全身で訴えかけてきたことだろう。


想像すると、かなりおかしい。


 「入学式で恥かかされて怒らない方がおかしい。未だに近付いてこないやつが山ほどいるんだからな。近付くかと思えば妙なやつしかいないし」


 「ごめんね。つい、ほんと、つい忘れちゃって、嬉しくて」


もじもじと指先をあわせ言い募る。子供のような仕草も微笑ましい。


自分の方が子供なのに、マジックの素直さというか、一途さにはなにを言ったところで敵わないと思う。


このひとのことが好きだと、改めて思い知る。


 「うるさく付きまとわれるのは嫌だけど、これから三年間毎日ずっと変な目で見られるのは俺なんだからな。そういうのが嫌だって、前に話したのを忘れたとは言わせないぞ」


 「うん、覚えてる。ちゃんと分かってるんだよ。でもあの時は、その…」


 「今日だって理事長に呼び出されたんだぞ。明らかに不審者扱いじゃねぇか」


 「あれはね、なんでもアラシヤマくんのお父さんが特に希望したからだって言ってたよ。でも溺愛しすぎだよね、どんな子供なのか、その家族まで見ておきたいなんてさ」


 「…あんたの口から“溺愛しすぎ”とか聞くと結構本気でぞっとする」


無自覚ほど恐ろしいものはない。


あんた、という呼び方に不服を唱えたいのだろう、少し唇が尖ったものの言えばせっかくの会話が途絶えるとでも思っているのか黙っている。


大の大人が自分の態度に一喜一憂、右往左往する様はかなり笑えるが、それを実行に移すほど驕っている訳ではない。


ミルクセーキを、また一口飲み込む。


 「なんか、言われた?」


 「なにかって?」


 「だから、…なんか、さ。馬鹿にされるようなこととか、そういうの」


 「え、シンちゃんが?」


 「違う。俺のことはどうでもいいんだ。俺じゃなくて、」


じっと見詰める。


 「私が?理事長に?」


不思議そうな顔で見詰め返され、言葉に出来ないもどかしさを感じる。けれど口に出して言えるほど表立った話ではないし、やはり、承知しているシンタローですら言いにくいことだ。


職業に貴賎はないというし、それで暮らしている身となれば文句の付けようもない。それでもこういうときには嫌というほど思い知らされることをしているのだ、彼は。しようとしていたのだ、自分は。


 「なにが言いたいのか…分からないんだけど」


降参、と言いつつ両手を少し、挙げてみせる。


少し迷って、けれど確認しなければならないことだと覚悟を決めシンタローは口を開いた。


 「向こうは人間国宝だぞ。わざわざ親まで呼び出して素性を知ろうとするってのは気に食わないけど、そんならしょうがねえかと思っちゃうようなやつだ」


 「そうだね。でもパパはシンちゃんのお友達とその父親に会えてよかったと思ってるよ。私としても親しく付き合うお友達がいるなら紹介してほしかったからね」


 「寂しそうに言うな、親友だと思ってるのあっちだけなんだから」


 「え、あんなに仲良さそうだったのに?」


 「…どこを見たらそう思えるんだ」


内心、というか全面的にすごくイヤ。


顔を顰めると面白そうに笑う。この部屋に来て、いや、入学式以来十日ぶりに見るマジックの笑顔になんだか少し、ほっとする。


 「嫌なこと…言われなかったか?その、仕事の、こととか」


 「仕事?…………………あー…」


首を傾け、心当たりを探っていたらしいマジックの目が漸く答えに行き当たったのか軽く細められた。小さく、二度ほど頷いている。


 「ああ、それね。はいはい」


 「言われたのか」


 「言われないよ。いや、言われたか」


 「言われたんじゃねぇかっ」


 「言われてないって。言われたけど」


 「言われたんだろ!」


 「言われてない。けど言われた」


 「だから言われたんだろーが!」


 「だから言われてないって。言われたけど」


 「遊んでるんじゃねえんだぞ!言われたんだろ!」


 「遊んでなんかないし言われてない。言われはしたけど」


 「あ――――っ!!」


どんっとカップをテーブルに戻し立ち上がる。マジックを見下ろす数少ない機会は、大抵このように言い合いをしているときに訪れるありがたくないポジションだ。


 「だあーからっ!言われたんだなっ!」


 「これこれ、ちょっと落ち着きなさい、説明するから」


上半身を乗り出し腕を伸ばされると、小さなローテーブルくらい簡単に越え腕を掴むことが出来る。体格の違いは僅かにコンプレックスを感じるが、大人と子供のことだから仕方がないと諦める。


無抵抗で捕まえられる。


 「もしかして、今日のご機嫌斜めはそのせいだったのかな」


言いながら腕の中に抱き込んで、いつものように膝の上に座らせる。いい加減慣れたものだが、それでも素直に従うのは悔しくて睨み付ける目だけは緩めない。


 「シンちゃんは優しいね」


 「なにがっ」


 「私のしてる仕事について、陰口を叩かれたり、蔑まれたりするのが嫌なんでしょう?」


 「そんなの、あ、当たり前だろ」


恩義ある人を中傷されれば誰でも腹が立つ。それにこれまではマジック自身の生き方だったそれも、今では“シンタローのため”という言葉が付き纏うのだ。生きるためには仕事というものを失う訳にはいかない。


 「俺、贅沢がしたいんじゃない。こんな広いところに住まなくてもいい。旨いものを食いたいなら自分で作った方が口に合うし、学校だってどこでもいい。だからあんたが嫌なら、本当は嫌だと思ってるならあんなことしないでいいし、俺は、」


 「俺、は?」


言葉を途切れさせたシンタローを視線で促す。


 「俺は、出来れば…俺の勝手だけど、出来ればあんな、ああいう仕事は、あんなのは、」


じっと見詰める蒼い瞳。


少し笑って、シンタローを見ている。


 「本当は…………辞めて、欲しい」


ずっと言いたかった。


辞めて欲しい。同じ道に進もうとした自分を止めてくれたその事実がなによりの証で、彼自身あの仕事を“よいこと”だとは思っていないはずなのだ。それを続けているのはそれなりの理由があってのことだろうが、もし、その中にたとえ僅かでもシンタローの身の保障が含まれているのなら堪えられない。申し訳が立たない。


それに。


 「他人になにを言われようと構わない。そんなことならなんとも思わない。だけどからかわれたり、嫌味を言われたり、そういうのは嫌だ。我慢できない」


 「誹謗でなければいいの?」


 「それ、だけじゃ…」


 「なに?聞かせて。どうして嫌なの?」


 「だって、…だって、さ」


初めの勢いは弱まり、見詰めていた視線も逸らしてしまう。この瞳はなにもかも見透かしてしまうのだ。隠したいことをすべて見通してしまう。不思議な蒼。


マジックの蒼。


綺麗で、少し悲しくて、怖い。


 「だって…」


 「言って」


 


蒼すぎて。


 


 「言って」


 


 


灼かれる。


 



 

 

 
      きのう、みた、ゆめ


 


 


 


 


 



そっと顎に当てられた指が、強引ではない力で向き直るよう促してくる。


暫し躊躇い、瞬きをして、それでも外れないそれに観念したように肩の力を抜くと恐る恐る視線を戻す。正面から。


見詰める。


 「やっぱり、ああいうのは…よくないと思う。自分だって、って言うだろうけど、俺のことは止めてくれた。だめだって言った。なのに、なのにさ、言ったあんたが続けてるのって俺のためでもあるだろ?だからさ、だから、」


 「シンちゃん、それはもう分かったから。私が聞きたいのは、どうしてお前がそこまで嫌だと思うのか。シンタロー自身の気持ちを聞かせて欲しいんだよ」


逃げることは許さないと言っている。目が。指が。纏う気配が。


真実を告げてくれと訴えている。


本当の思いを伝えて欲しいと言っている。


くるくると目の回るような感覚は不思議で、熱くて、少し痛い。


甘すぎる何かが喉に絡んで声が出ない。


 「私がその仕事をしているのが嫌な本当の理由って、なに?」


静か過ぎる瞳の奥に、けれど間違いようのない温もりを見つけた。蒼の中にある柔らかなそれは赤にも、紅にも、オレンジにも見えシンタローの気持ちを落ち着かせる。


 「…本当は」


 「うん」


 「本当は…金のために、そういうこと…してほしく、ないから…」


 「うん」


 「人前でそういうの…見せたり…あんたの、そういうの…観られたり、知られたり、そんなの、やだ…嫌だ…」


 「私の下世話な部分がいや?」


 「違う。あんたが、じゃなく…俺が…」


 「シンタローが、私の本来秘すべき部分を明かしていることが、嫌なんだ」


 「……ん」


こくり、と頷く。


途端にマジックの目が輝いて、悪戯っぽく細められた。


 「やきもち?」


 「は?」


 「パパの体が他人のものになるのはイヤーって、それってやきもち?」


 「ちっ、」


 「違うの?」


 「ちが、」


 「違う?そうじゃない?」


 「う、」


顎に掛かった指が外れ、両腕を腰に回される。


抱き締められる。


 「シーンちゃん」


 「ちが……………」


わ、ない。


 


恥ずかしさで死ぬことがあるなら、それはいまだ。


 


 「あーもうかわいい~、なんでこんなに可愛いの~」


両手で締め付けるように抱き締められ、いつもなら苦しいと文句を言って暴れるところなのに今日は出来ない。あまりの恥ずかしさに顔を上げることもできないのだ。


 「シンちゃんってば、パパのこと大好きで独り占めしたいんだ。好きでもない相手とキスしたり、セックスしたりするのが嫌なんだ~」


 「当たり前だろ!つか、はっきり言うなっ!」


抱えられているのを幸いに、マジックの胸に顔を伏せながら続ける。


 「親がえーぶいなんかに出演することを喜ぶ子供がどこにいるってんだ」


 「まあ、いないだろうねぇ」


 「だったら!だったら辞めろよ。辞めてくれよ。俺も働くから。学校だって転校すりゃいいんだから、な?」


 「シンちゃんを働かせるなんてとんでもないよ。ダメ。無理。大学か、院までだって行かせるつもりなんだからね」


 「それなら奨学金だってあるし、」


 「私が引き取ったのになんでそんなことさせなきゃならないの」


 「贅沢は敵だろ。俺が買ってもらったものはみんな売ってさ、足しにしろよ」


 「平気だって」


 「平気じゃないから言ってるんだ!」


恥ずかしいなどと言っていられない。慌てて顔を上げるとマジックの腕を指先で掴み、必死になって訴える。


 「生きるために必要なものって、本当は結構少ないんだ。俺なんかなにもないままここまで来たから、ゼロに戻っても全然困らない」


 「私は色々ないと困るよ」


 「あんたのものは取っておけばいい。俺も働くし、それはきっと大丈夫だよ」


 「その前にシンちゃん、あんた、じゃないよ」


 「そんなこと言ってる場合か!」


 「私にとっては最重要事項だ。はい、ちゃんと呼んで」


 「呼んだら辞めるな?辞めてくれるんだな」


 「うーん」


 「辞めるんだろ?な?」


 「まずは呼んでみてよ」


 「何度だって呼ぶから、ずっとそうするから。だから辞めるって言え。約束しろ」


 「だから、呼んでみてって」


 「父さん!辞めてくれ。頼むから辞めて!」


 「あー…いい響き」


うっとりと微笑んで、それから額にキスをひとつ。


 「呼んだからな。これで辞めるよな」


 「うん。…と、言いたいところだけど」


 「辞めないって言うのかっ」


 「うーん」


 「ずるいぞ!騙したのかっ」


 「騙してなんかないよ。でも、辞められないなぁ」


 「なんでだよ、どうしてだめなんだ?」


 「ダメなものはダメなんだよね。辞められない」


 「なんで…なんで…」


眦に滲んだ涙がたちまち盛り上がり、雫となって頬を伝う。こんなに頼んでいるのにどうして、と喉の震えとともに訴えかけても、マジックは嬉しそうにシンタローを見詰め、涙の痕にキスを送ったりしている。


 「だって、辞めようがないよ」


 「な、っんで?」


 「やってもいない仕事なら、辞めようもないでしょ」


ひっくひっくって、シンちゃん、赤ちゃんみたい。


笑いながら言われた言葉が理解できず、きょとん、と目を見開き彼を見詰める。


 「…え?」


 「もしかしてずーっとそう思ってたの?私がアダルトビデオ男優をしてるって?」


 「だ、って、だって、そうなん、だ、ろ?」


 「違うよ」


 「え、え、だって、だってさ、最初のときあんた、」


 「父さん。第一希望は、パ、パ」


 「や、だってあのとき、あのあともさ、仕事に行ってただろ?俺が学校に行ってる間に仕事してるって言ったじゃねえか」


 「そうだよ。シンちゃんが学校でお勉強している間が私の仕事時間。自宅にいるときは全部二人の時間にしたいでしょ、だからパパは頑張ってるんです」


 「ほらっ、ほらみろ、そんな時間で出来る仕事なんて限られてるだろ」


 「あとはシンちゃんがベッドに入って、可愛~くねんねしてるうちにやってますよ~」


 「えっ!夜中に出掛けてたのかっ」


 「出掛けてない」


 「は?だって仕事してるって、」


 「成績いいのに、意外と頭が固いね」


苦笑しつつ、でもそんなところも可愛い~と言いながら、また頬にキス。


 「でもこれで益々好きになったよ」


 「は?」


 「シンちゃんが、私のことを外見や身分で判断しているんじゃないってことが分かって、嬉しい。幸せ」


 「なにを言ってるのか、サッパリわかんねぇ」


言葉通り幸せそうに笑っているマジックを途方に暮れたように見上げる。


でも。


 「とにかく…違うんだな。違ったんだよな。俺の思い込みなだけで、そうじゃなかったってことだよな」


 「うん」


 「じゃあ…いい。うん。よかった」


 「いいの?本当はなにをしてるか聞かなくていいの?」


 「なにをしててもあんたが、…父さんが、なにをしてたところで変わりないだろ。危ないこととか、法律に触れることとか、悪口言われるようなことをしてるんだったらいまみたいに止めたくなるだろうけど、そうじゃないなら構わない。自分のやりたいことを仕事にしてるなら、それでいい。…それが、いい」


うん。


安心した所為か肩から力が抜け、抱えられているのをいいことにマジックの胸に凭れ掛かった。そこは広くて、温かで、いつでもシンタローのために開かれている。包んでくれる。


 「きみは…すごいね」


 「なにが」


 「言葉にするのは嫌だけど、私たちには血の繋がりはなく、まだまだ出逢ったばかりで分からないことがたくさんある。いまのような誤解もあって、もっと時間を掛け深く知っていく必要があるはずだと誰もが思う関係だろうに…そうじゃない」


両腕の力が増す。抱き締められる。けれどそれは苦しさを伴うものではなく、心を抱え込まれるような優しさで。


 「私は私だと言ってくれる。なにをしていても変わらないと言ってくれる。どんなことをしてきたか、いまなにをしているか、きみのいない時間になにを思ってなにを見て、どこで、誰と、なにをしても、それは知らなくてもいいという。興味がないからではなく、それが私たちの関係とは別のところにあることだから。気持ちは変わらないから。そう、言ってくれている。…そうだろう?」


 「べつに、そこまで考えた訳じゃないけど…でも、そうかな。…うん、そうだ」


 「すごいね」


 「すごい?」


 「こんなに小さいのに。幼いのに。きみは、なんて大きな存在だろう」


 「自分と比べるから小さいんだろ」


子供なのは確かだが、小さいとか、幼いと言われることには抵抗がある。少し膨れて言い返すと、静かな、低い笑い声がした。振動が胸から伝わる。


 「いままでも大好きだったけれど、もっと、もっと好きになった」


 「ふーん」


 「大好きだよ。愛してる。私のすべてで愛してる。生きている時間のなにもかも、きみのために使いたい。傍にいる」


 「なな、なに言ってんだ」


恥ずかしい。


恥ずかしいやつ。


ひとりで納得してひとりで感心して、ひとりで感動してひとりで結論付けて。


どんなロマンチストだよ。


どんなナルシストですか。


なんだこれなんだこれなんだこれ。


 


ドキドキと胸が高鳴り苦しくなる。


言われなくても好きだし、信じてるし、傍にいるし。


泣きたいほど幸せだし叫びたいほどくすぐったいし抱き締めたいほど求めてる。


 


マジックのことが、そのなにもかもが、愛おしい。


 


髪に額に口付けられ、鼓動はどんどん早くなる。


どうしよう、という自分でも意味の分からない感情がこみ上げてきて、思わず掴んでいたマジックの襟元を更にきつく握り締める。


なにがなんだか分からないけれど、とにかくひとつだけはっきりしていることがある。


マジックが自分を好きだと言ったこと。


自分が彼を、好きだということ。


このままでは壊れてしまいそうなほどの高鳴りをどうすれば沈められるのか。昂ぶった思考を冷ますにはなにか難しいことを考えればいいのだ。別の考えで紛らせてしまえばいい。


そう思い、試してみようとするがうまくいかず、抱き締められた体がどんどん熱くなっていくのを自覚するばかりで益々焦る。


泣けてくる。


赤面している自覚があるから、顔を上げることもままならない。


ぎゅっと抱き締められているから逃げることも叶わない。第一ここがシンタローの部屋で、逃げ込む先など他にないのだ。家を出るなどということは微塵も考えられない以上、ここで、こうしてなにやら甘い痛みに堪えることしか出来そうにない。


 「私はね、ずっとひとりで生きてきた。シンタローに逢うまでずっと。ずっとひとりきりだった。それを悲しいとは思ったけれど、寂しいとは思わなかった。なぜだと思う?」


 「…なんで?」 


 「いらないから。欲しいと思わないから。寂しいと思うのはなにかを求めたり期待したりするから生まれる感情で、私にはそう思う心すらなくなっていた。いらないんだよ。私には、自分のためになにかして欲しいと求めるような相手は要らない。時間や心を傾けろと言われれば、嫌悪は出来ても愛情を覚えることなどありえない。そんな関係ならない方がいいし、ひとりがいい。悲しいけれど、なにもなければ揺れ動くこともない。煩わされることもない」


 「そんなの…そんなの、幸せじゃない」


 「そうだね。そうだったのかも。でも幸せになりたいと思ったことはないからそれでよかった。シンタローに出逢うまでは、本当にそれでよかったんだ」


 「なにか…誰かに、いやな目に遭わされたのか」


 「さあ」


訥々と話す声に落ち着きを取り戻す。


暴れていた鼓動も徐々に静かになっていき、寄せた胸から聞こえるマジックの心音と同化する。


 「私はね、面倒なことが嫌いだよ。人も、物も、時間も。私になにかを求めてくるものは鬱陶しいとしか思えない。邪魔だとしか思えない。精神的に偏っているし、そんな風に思う方がおかしいということを分かってもいる。けれどそれでもひとりでいる方が楽だった。なにもなければ身軽だし、気楽だろう?動かなければ誰も私に気付かない。なにも求めてはこない。徹底的に排除して、すべてをなくせばそこで終わる。あとはゼロのまま」


髪に、頬が寄せられる。


 「死ぬことを選ぶのは自分に執着しているようでそれすらしなかった。そんな価値すらないものだったよ。きみに出逢うまでの、私は」


 


なにも言えず。


シンタローはなにも言えず、ただ彼にしがみつく指先に力をこめた。


無力な自分に嫌気は差したが、きっと、いまの彼に言葉は不要なのだと思う。ただここに、ただひたすらに彼の元にあればいい。身を寄せ合い、告げられる言葉を聴いていればいい。


マジックの求めるものはそれだから。


それこそが必要なものだから。


このひとは、きっと、本当はものすごく寂しくて、本当はものすごく人恋しくて、本当はものすごく傷付いて、惨めで、哀しい。


遣る瀬無い。


それから暫く、マジックは腕の中に抱えたシンタローのことをただ抱き締め、黙っていた。雛鳥をその翼の下で守るような温もりを感じたが、では、雛鳥はどちらかといえばシンタローにも分かりはしない。


ただ、その穏やかな空気を感じるだけでよかった。


 


 


ふ、と。


空気を吸い込む気配。


 


 「私は卑怯だよ。お前を手元におきたいのは、だから結局、自分のためだったんだ」


眠りすら誘われる、穏やかな声の中に含まれた痛みを感じ取る。


 「ひとりぽっちで、寂しくて、けれど強がって棘を纏って自分自身をも欺こうとしている。そんな姿を見て哀れだと思った。子供なのに、この子は私と似た思いを味わっているのじゃないかと。もしかしたら私より辛いかもしれない。悲しいかもしれない。可哀想に、可哀想に、かわいそうに…」


背中を撫でる大きな掌から流れ込む、思い。


 「なんて驕りたかぶった感情だろうね。この子に救いの手を差し伸べてやろう、私なら出来る、そう思ったんだよ。お前を助けることで自分の惨めさを紛らそうとした。もっと不幸なものはいくらもいる。…欺瞞だ」


きっとこれは独り言。


聞かなくてもいい。知らなくていい。


目を閉じて。


 「なんて卑怯で図々しい考えだろうね。初めて声を掛けたとき、あの日、私はそんなことを思っていたんだ。シンちゃんはなにも知らず、気付くことなく私を頼ってくれたのに。私を信じてくれたのに」


マジックの独白は続く。


 「引き取って、一緒に暮らすようになってからはまた別の考えが生まれた。似たもの同士のシンタローを愛することで自分を慰めようとした。私たちはとても似ていて、だから二人でいても寂しさは増えるだけだけど、ひとりきりでいるよりはましなんじゃないかと思うようになった。冷たい部屋に閉じこもるより、辛い時間でも重ねるうちには温まるような気がして…」


腕の中の体を抱きなおす。艶やかな髪に触れる頬の感触にうっとりと溜め息をつく。


 「でもね、そんな考えはすぐに消えていった。自分の卑怯さと図々しさに気付かされた。だってシンタローは一途に、本当に一途に私を見てくれたから。信じて、知ろうとしてくれた。私がなにをしても、言っても、いつだって真っ直ぐに見て、考えて、応えてくれた。私を心の中に迎えてくれた。愛してくれた。どれほど嬉しかったか、分かるかい?」


力の抜けた体は、決して弱くはないが強くもない。


守られるべきもの。


マジックが。


守るべき、唯一のもの。


 「お前のためにあるという思いは、だから、嘘ではないよ。卑怯な私はもういない。シンタローのためだけには、そんな薄汚い自分ではいられない。他のなにを捨てても、裏切っても、そんなことは問題にならない。なにもいらない。なにひとついらない。これから先、すべてのことはお前に続く。私という存在がある場所はお前の中で、そこでしか生きない。生きられない。ありたくない」


赤ん坊をあやすような仕草で背を叩く。腕の中の愛すべきものを確かめる。


見詰める。


 「…眠ってしまったの?どうりで静かだと思った。シンちゃんはいい子だけど、パパに対するつっこみがきついからね。でもそのときの顔が可愛くて、必死になってる様が愛おしくて、ついついからかいすぎてしまうよ」


かくり、と仰のいた首を支え、眠るシンタローを抱き締めなおす。


薄く開いた唇からは、穏やかな、穏やかな甘い息。


なにもかもを預ける心からの安堵を伝える。


 「私たちが似ているのは本当だよ。でも、相憐れむために出逢った訳じゃない。寂しさを埋めるためでもない。私たちは、ともにあることで幸せになるんだ。重ねるのではなくそれぞれの思いで見付けていくんだよ」


囁きかける。


眠る子供に。


いとし子に。


 


シンタローに。


  


 「いま、わかった。私が生まれてきたわけが。私が生きて、きたわけが」


  


柔らかな呼吸を繰り返す唇に、そっと、小さな口付けを落とす。


目覚めていたら、一体どんな顔をしただろう。


なんと言ってよこすだろう。


真っ赤になって。


きっと、真っ赤になって怒るのだ。


マジックのことを見詰め、真っ直ぐに見据えて怒るのだ。


瞳の中に、蒼を映して。


それ以外なにも入り込むことのない、あの、気高いまでに清らかな、一点の曇りもない漆黒の瞳で。


 


 


 「生まれの後先など問題じゃない」


 


 


そう。


時間にすら流されない。


 


 


 「私は、お前に逢うために生まれた」


 


 


シンタローが、ではなく、マジックが。


 


 


 


 「お前のために、生まれたんだよ」


 


 


 


 


 


愛してる。


 


 


 


 


 


 


第三章 了 NEXT


m5

 

 


      きのう、みた、ゆめ


 


 


 


 



マジックという男を一言で表すなら、“風林火山”。


 


 


入学式当日の朝、ウキウキと背広にブラシをかけている彼を横目に見ながらパンを齧る。


もう三度目のことだから、どんなに小さな埃だって付いていないだろうにしつこくかけ続けているのには訳がある。


アピールだ。


絶対に行くからね、という、アピール。


高校の入学式だから親が出席するのは珍しいことではないけれど、彼を父親と言って紹介するのはかなりの勇気を要することで、まだまだ不慣れなシンタローにとっては出来れば容赦して欲しいところだった。


けれど、来るな、とも言えない。


言えるはずがない。


だからここ数日無言で“来るのか”と視線を送っていたのだが、気づいた途端にあらゆるパフォーマンスが始まったのである。


靴を磨く。


スーツを選ぶ。


ネクタイかスカーフかで一日中悩む。


デジタルカメラとビデオカメラを購入する。


数台ある車のうち、どれを使うか相談してくる。


役員に立候補すべきかと、あれこれ調べ始める。


式のあとに寄り込むレストランをどこにするかで頭痛を起こす。


すべてに対し冷たい目で見てくるシンタローに涙目で返す。


よくもまあ、次から次へ思いつくものだと感心しつつ、あんまり浮かれているから釘を刺すことも躊躇われそのままにしてきたけれど、出発を目前にやはり一言だけでも言い聞かせておかなければならないと溜め息を吐いたシンタローは、あからさまに肩の跳ねたマジックの背後に立ちはだかると厳かに口を開いた。


 「言っておくけどな」


 「………」


 「こら、返事をしろ」


 「…パパ、一緒に行くからね」


 「それは分かった。もういい。来るなとは言わない」


 「ホントッ?」


何事か言われると身構えていたマジックが勢いよく振り向く。


パアッ、と輝く顔。


ああ、この人は自分よりずっと子供なんだ。だからこちらが大人になって、社会や人の道を説いてやらなければならない。それが自分の務めなのだ。


そう思わなければ彼と生活していくことは出来ないと、早々に気づいたシンタローは最近、声を上げて叱ることは極力控えるようにした。


本当に、どちらが大人なのか分からない。


 「一緒に来るのは構わないし、一緒に帰るのも構わない。でもな、式の間は離れて座るんだし、呼んだって返事なんか出来ないんだからな」


 「分かってるよ。おとなしくしてる。それに私だってシンちゃんの晴れ姿を撮影するのに忙しいからね、ほかのことを考えている余裕はないよ」


 「…その行動自体が注意されてるんだってことになぜ気付かない」


デジカメとビデオを手に入れてから、練習だの試し撮りだのと言いつつシンタローのあとをついて周り、既にアルバムだけでも五冊目に突入しているのだ。しかも、黙って撮影するならともかく『笑って』だの『手を振って』だのいちいち注文を付け、エスカレートしてくるとポーズ指導まで始めるのだから始末に終えない。


この勢いならば式の間にも駆けつけてくることは十分考えられる。


三年間がその一瞬で決まる大切な入学式に、ただでさえ目立つであろう自分が失態を犯すことなど許されないのだ。


 「あんたはいるだけで目立つんだからな。一度座ったら、次に席を立っていいのは式が終わったときだけだ」


 「ええっ!ダメだよ、シンちゃんの“新入生代表挨拶”は、なにがなんでも近くで撮影するんだから!」


 「バカみたいにズームが効くカメラなんだから、座ったままで十分撮れる。つーか、そんなビデオいらないっての」


 「シンちゃんが要らなくてもパパはいる」


 「ビデオなんて録画したら満足して、あとで見ないもんだろ」


 「見るよ。パパは穴の開くほど見るねっ」


鼻息荒く宣言されても困る。


この、手のかかる大人を納得させるだけの言葉を持ち合わせない自分がもどかしいが、こうなったら泣き落とすしかなさそうだ。


部活動に参加するつもりはないけれど、もしどこかに入るなら演劇部だな。真剣にそう思いながら全身の力を抜く。頼りなさげに見える表情を作り、マジックを見上げる。


 「学校って、大人が思うほど楽しいものじゃないよ」


 「え、」


 「俺、家庭の事情とかさ、色々あったから…いままで友達も殆どいなかったし、学校自体、好きじゃなかった」


寂しそうに言うと、ブラシを放り出したマジックはあっという間にシンタローを抱き締める。髪を撫でる。


 「人と違うことをしたり、目立つことをしたり、わざとやるやつもいるけど俺の場合はそうじゃない。珍しいって、面白がられるうちはまだいいけどそのうち浮いて、馬鹿にされて…好きでそうなった訳じゃないのに。俺だって普通の子供でいたいのに…」


 「シンちゃんは普通の子だよ。そして、とても幸せな子になるんだ」


たくさんのキスが降ってくる。


 「どんなことでも目を付けられるのはいやだ。入学式で挨拶するのだって、本当は嫌なのに」


 「どうして?主席入学だよ?名誉なことでしょ」


首を振る。


 「一番は嬉しかった。でも、それを知ってるのは…パパだけで、いい」


 


シンタローは伝家の宝刀を抜いた。


 


 「し、し、し、シンちゃ、」


マジックの体が小刻みに震える。ああ、まだ着替えないでいてよかったと心底安堵する。


 「シンちゃあぁぁぁぁぁぁぁんっ」


ぐわばーっ、と、音がするほどの勢いで抱き締められ目の前がチカチカする。一瞬で酸欠状態になったようなものだ。


 「パパはっパパはシンちゃんが大好きだよ!いつだってシンタローの一番でいるよ!なにもかも私だけが分かってる。シンちゃんのことは私だけが分かってあげられるんだよぉ~!」


 「パ、パ…くるし、」


 「ああっごめんねっ」


背中に回した拳でドンドンと叩くと、まだまだ華奢な体が悲鳴を上げていることに漸く気付いたらしい。慌てて力を緩め、いつものように抱き上げた。


身長差を思えば仕方ないが、この姿勢に慣れるのは非常に難しい。恥ずかしいし、子供扱いされるのはやっぱりかなり、腹が立つ。


それでも黙っているのは抵抗が虚しいことだと知っているからで、余計な体力を使い神経を磨り減らせるより、誰も見ていないのだからと自分を慰めた方が早いしマシだ。


これさえなければいいのに。


いや、これと、あれと、それと…自分に対する執着が、もう少し軽ければ完璧なのに。


こっそりと溜め息を吐くシンタローは気付いていない。


“完璧”と言い切ってしまえる信頼に。彼からマジックに与える執着の強さに。


新米パパと新米息子では仕方のないことだろうが、第三者がこの状況を見れば確実に呟くであろう言葉がある。


 『ごちそうさま』


 


すっかり上機嫌になったマジックはシンタローを抱き上げたままソファに移動し、向かい合うように膝の上に座らせた。


 「じゃあこうしよう。パパは父母席の一番前に座ってビデオを撮る。だからシンちゃん、壇上に上がって挨拶をするとき、ちゃんとカメラに視線を合わせてね」


 「…えー」


 「一度でいいから。ね?」


 「どこに座ってるか、…や、いい。分かった」


新入生とその家族と。全員が着席した中でただ一人を見つけることは困難なはずだが、相手がこのマジックであればそのような心配は無用だ。座っていても頭一つ抜き出るだろうし、なにより漂うオーラが只者ではない。


 「じゃあちゃんと見るから。だから大人しくしててくれ」


 「約束する?」


 「いい」


遠慮する。


以前、半年も先に公開予定だと告知している映画のポスターを見たとき、ぜひ一緒に行こうと言ったシンタローに“じゃあ約束”と返してきたからてっきり指きりだと思ったのに、正面から唇にチュッと可愛らしい音を立ててキスをされひっくり返るほど動転したのだ。


ファーストキスだったのに。


シンタローにとって記念すべき、人生初の、キスなのに。


三日ほどは本気で落ち込んだ彼の気持ちを理解することもなく、『シンちゃんと映画』と半年も先の約束をウキウキと語るマジックを呪ったとしても罪はあるまい。


以来、何事かの約束を交わすときには口頭のみ、または先に指を差し出すことにしているシンタローであった。


 「ああ、でも今日から高校生なんだね」


 「分かってるなら、こういう風にひょいひょい抱えるなよ」


 「それは無理。だって可愛いから」


 「世間一般では、高校生にもなった息子とは会話すらないのが当たり前なんだぞ」


 「シンちゃんと口を利かずに過ごすなんて考えられないね。こんなに大事なのに。こんなに好きなのに。いやだよ、私はずっと、ずーっとシンタローのこと抱っこするしキスも贈るよ。なんだってしてあげたいし、実際するから。私にして欲しいことがあるなら、それがどんなことでも言って。願う前に伝えて」


 「また…そういうこと…」


言い返したい。


よくもまあそんなことを真顔で言い募れるものだと呆れてやりたい。けれどマジックの蒼い目が、その言葉に嘘のないことを証明しているようでなにも言えなくなる。


胸が熱くて、苦しくなって、泣きたくなって。


 「本当の…息子でもないのに」


 「実とか義理とか、そんなこと私にとってはなんら意味のない分け方さ」


宥めるように、胸の中に抱き込まれる。こうされると小さな子供に返った気がして、沁みる安堵に恥ずかしさすら薄れていく。彼への信頼が、愛情が募る。


 「シンタローは私の元に来るために生まれたんだよ。悲しい別れも辛い時間も、耐えて頑張ってこられたのは、すべて私に逢うためだった。出逢うまでは辛くても、これからは幸せになる。いままでに感じた痛みの何倍も、何百倍も幸せになる。シンちゃんはそれを信じられない?」


 「信じ…たい、けど…」


 「信じて。私はお前を裏切らない。なにがあってもシンタローの幸せだけを優先させる。愛してる」


ふざけたことを言って、子供のようなことをして、けれど彼の言葉はいつだって真摯で真っ直ぐだ。疑うことは無意味だと、そんなことは疾うに知れている。分かっている。


幾度も繰り返し確かめるのは、それは自分に自信がない所為だ。


彼に愛してもらえるような、そんな自分であると胸を張って言えないからだ。


ちゃんと勉強して、きちんと仕事を持って、それで彼に恩返しが出来るようになりたい。生きていることを、生きていけることを。あなたのお陰でそう出来ているということを、身をもって示したい。見て欲しい。


寄りかかって、ぎこちなく彼の胸元に頭を預けると嬉しそうに抱き締めてくれる。なかなか素直になれない自分でも、こうして黙っているときくらい甘えた仕草で彼に依存する気持ちを表したいと思う。


もう、マジックのいない毎日など考えられない。


とても大切でとても大好きなひと。


シンタローに唯一許された宝物。胸元で煌く宝石よりももっと、ずっと。


 「…学校に行ってる間は、外しとかなきゃな」


 「なにを?…ああ、指輪?」


 「盗まれたら困るし」


 「そんな子がいるところじゃないと信じたいけど」


 「まあね」


 「出来ればパパは、つけたままでいて欲しいなぁと思うけど」


 「なくしたら…いやだし」


 「大丈夫、それ、私の分身だから。だからシンちゃんがその指輪をなくすことは絶対にないよ。保証する」


 「保証って」


得意げに言うからおかしくなる。彼が自信ありげに言うことは確かに真実味があるけれど、まるで子供の自慢のような声音に、きっとその表情もキラキラ輝いているのだろうと予想できる。


マジックのすべてを知っているわけではないけれど、出逢ってからいままでの時間で見てきた彼は全部がシンタローのものだ。彼の時間は自分を中心に回っていると言い切る自信は既にある。


だから、シンタローも嘘や誤魔化しだけはしないと心に誓っていた。


彼の傍にい続けるため、どんなときも真っ直ぐにいよう。なにもかも見せて、欲しいというものなら差し出そう。決して卑しい考えの下ではなく、そうすることが当たり前だから。二人で生きていくと決めたのだから、常に信頼を傾け合おう。


まだ恥ずかしくて、口にするには自信がなくて。


言葉には出来ないけれど伝わるように。


ちゃんと、真っ直ぐ、伝わるように。


 


ぎゅうっと抱き締められて、なんだか眠くなってくる。


彼の腕の中にいるとき、シンタローは驚くほど子供に返ってしまい実際自分の年齢を忘れそうになってしまう。それもこれもマジックの過度な子供扱いによるものだが、甘えたい盛りに頼る相手のいなかったことを突きつけられているようで、その覚束なさが助長させるのだろう。


まあいいか。


誰も見てないし。


眠いし。


 


幸せだし。


 


 


 「…シンちゃん」


 「………んー」


 「いいの?」


 「…なにが」


 「遅刻しちゃうよ?」 


 「遅刻?」


はて?


半分寝ていた意識の中で考える。


いまは春休みでずっと家にいるけど、マジックも“シンちゃんを残して働きになんか行かないよ~”と言って本当に仕事に出ないで、朝から晩まで二人きりで過ごしている。


で。


今日はいつもよりちょっと早起きをして。


朝食をとって。


出掛ける準備をして。


出掛ける。


準備を。


 


 「――――――っあぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 


入学式!!


 


 「ばばば、バカヤロウ!なんでもっと早く言わないんだっ」


 「えー、パパの所為なの?」


慌てて飛び起き自室に向かって走る。こういうとき、家が広いのは考え物だ。


 「あんたも早く着替えろ!」


 「アンタじゃないよぉ、パパだよ~」


情けなさそうな声を背中に聞きつつ、シンタローは自分の部屋に飛び込んだ。


 「俺の幸せと苦難は、いつでも表裏一体だ」


 


 


まだまだ硬いワイシャツのボタンホールと戦いつつシンタローがこぼした言葉こそ、これからの彼の人生を如実に表す真理だった。

 



 

 


      きのう、みた、ゆめ


 


 


 


 



 「シンタローはん、学食行きまひょ」


 


ああ。


 


 「シンタローはん、今日はなににします?わて、シンタローはんとおんなしもんをいただきますえ」


 


ああ。


 


 「昨日はカレーでしたやろ。その前は、あの、ちょっとおかしいシンタローはんのお父はん手製のお弁当やったし。うどんなんてどうやろ。こっちのうどんは、わての口にはよう合わしまへんけど、シンタローはんがどうしてもて言うんやったら我慢しますえ」


 「…我慢、しなくて、いい」


 「なんどす?なんや言わはりました?」


 「なんも言ってない」


 「そうどすか?シンタローはん、浮かない顔してはりますなぁ。おつむでも痛みますのん?」


 


ああ。


ああ、ああ、ああ!


 


浮かない顔にもなるだろう。


入学式で、新入生代表挨拶の呼び出しを受け立ち上がったシンタローのことを、穴の開くほど見詰めた隣席の生徒は名をアラシヤマといった。


式典後に教室に戻ったときも隣に座ったので一応愛想よく“一年間、よろしく”と挨拶をしたのだが、そのときも気味の悪いほど真剣な目で凝視されちょっと、いや大分怖い思いをした。


なにせ“おとなしくしていろ”と言い聞かせたマジックが、案の定これ以上はないというほどの悪目立ちをした直後だったので、憂鬱になるのも仕方のないこと。抵抗力の弱まっていたシンタローはその奇妙なクラスメイトにも出来る限り丁寧な態度を取ってしまったのが不運の始まりだった。


 「お父はん、今日も迎えに来はりますの?」


 「…来るんじゃねぇの」


 「わても迎えはありますけど、シンタローはんのところはお父はんですやろ。朝も昼も息子の送り迎えて、随分時間に余裕のあるおひとやなぁ思てましてん。仕事、なにしてはるんどすか?」


 「…さあ」


 「さあて。父親の職業、知らんのん?どこかの社長はんとかやあらしまへんの?」


 「知らないっつの」


いえるか。こんなお金持ち学校に息子を通わせたがるバカが“えーぶい男優”だなんて事実、口が裂けても公表できない。


 


呼び出されたシンタローが席を立ったとき、列席者全員が今年の主席入学者である自分を興味と羨望の眼差しで見詰めたその瞬間。


 『シーンちゃぁぁぁぁぁぁんっ!こっち向いてっ!!』


という絶叫が講堂中に響き渡った。


…多くは語るまい。


思い出すたび全身に震えの来るシンタローは、いま、共に暮らしているにもかかわらずマジックと口を利かないこと十日目を迎え、なおも記録更新中である。


 


びくびくオドオドしながら自分の周りをうろつくマジックに苛々し通しのシンタローは、せめて学校では息を抜きたいと思っていた。


彼の突飛で奇抜で呆れ果てその上救いがたい所業を受け、入学式当日から“只者じゃない”というお墨付きを貼り付けられた新入生に気の休まる暇もあまりないが、それでも“上流”と言われる家庭に育った生徒の多くはシンタローの一睨みで黙ってしまい、あの一件をからかう勇気のあるつわものは存在しないからまだ助かっているのだけれど。


どこにでもいるのだ。


変わり者というやつは。


 「どう考えても家業を知らんことはないやろ。跡を継ぐとか、そういう話もしてはらへんの?」


 「あんな仕事のなにを継げっつーんだ」


 「なに?いまなにを言いましたん?シンタローはん、声が小そうてよう聞こえまへんわ」


聞こえないように言ったのだ。


行過ぎる生徒はみな、シンタローの顔を見るとあからさまに目を伏せ歩み去る。からかわれるよりずっといいが、“平穏無事”を学生生活のテーマに据えようとしていたシンタローにとって初っ端から挫かれた痛手は大きい。


基本的におとなしい生徒ばかりの校内だが虐めがないとは言いがたいし、陰口を叩かれることは予測しておかなければならないだろう。


 『だったら、そっちがその気なら、俺にも考えがある』


そっち、が誰を指すものなのかシンタローにだって分かりはしないが、それでもなめられるより虚勢を張って、いっそ“あいつは怒らせちゃいかん”と思われた方がいいだろうという気持ちになりつつあった。


新生活が始まったばかりなのに。


なにもかもうまくやっていくつもりだったのに。


それもこれも全部マジックが悪い。マジックが台無しにした。言い聞かせたのに、約束したのに、絶対しないって誓ったのにアイツ!


アイツアイツアイツ!!


 「シンタローはん」


 「なんだよ!」


 「食堂、通り過ぎてますえ」


 「え、…あ」


広々とした明るいテラスは学生たちで溢れている。


定食や丼もの、麺類、軽食と喫茶コーナーが揃っていて、味も悪くはない。値段も市場価格の半額以下だし、申し分のない設備といえるだろう。


 「ほな、うどんでよろしおすか?」


 「勝手に決めるな!」


 「ひっ」


怒鳴られて、アラシヤマが立ち竦んだ。了承を求めてきたのだから“決めて”などいないのに、とんだとばっちりで叱られた彼はそれでもシンタローのことをおろおろと見上げるだけで逃げていくことはない。


輝かしき学生生活の幕開けに際して、シンタローの出鼻を挫く相手はもう一人、存在した。


 


入学式で隣に座った彼が、後に次席入学を果たした生徒だということを知り少なからず驚いた。


真っ黒な髪はさらりと肩の辺りで切り揃えられている。右目を隠すように長く伸びた前髪は彼でなければ鬱陶しいと感じるだろうが、なぜだかよく似合っていると思わせる雰囲気があった。


見かけは実におとなしそうで、というよりなんだか暗いイメージでシンタローとは正反対の人種に思えた。穴の開くほど自分を凝視していた彼は、漸く口を開いたかと思えばあろうことか“お友達になってもええどす”と言い放ったのだ。


友達は欲しい。


高校生活を快適に、有意義に過ごすための友人は確かに欲しい。これまでそういう存在に恵まれずに来たシンタローは、授業中にメモを回したり昼休みをともに過ごしたり、放課後は学校に内緒で映画を見に行ったりとそんな些細で楽しげな時間を夢見ていたのだ。


だから、変なやつ、という印象はあったものの初対面のクラスメイトに対してぞんざいな態度を取ることは得策ではないと思い、出来る限りにこやかに、優しげに微笑んでおいた。


一月もすれば友人関係は特定のグループに固まり始め、そのとき同じ輪の中に彼がいればよし、いなければそれもまたよし。


その時はそんな気持ちだったのだ。決めるのは感情というより流れだと思っていた。


それなのに彼は、アラシヤマは、微笑んだシンタローのことをまるで神でも見るような眩しげな目で見詰め、それからぶつぶつと何事かを呟き始めた。


そのときなにを言っていたのか未だに分からないが、彼の中では“シンタロー=友人”という図式が完全に形成され、そして二度と抜けない楔として心の一番奥深くに打ち込まれていたらしい。


シンタローのなにをもって、そこまでの執着に結びついたのかはよく分からないが、彼が自分より成績がよかったということと、気安く微笑みかけてきたということが起因しているのは確かなようだ。


この学校には、マジックが言った通り裕福な家庭に育った子供ばかりが在籍している。


人間、金じゃないと口にするのは大抵金銭に縁のない者で、苦労を知らない人々はもとよりそんなものに左右されることなく自分自身の時間を生きている。シンタローのように、“落し物の財布は額面に関わらず届けるが、現金であれば一万円までは天からの授かりもの”と思っているレベルではこの独特の空気に馴染むまでは時間が掛かるだろうと思われた。


まして入学式に起きた恐怖体験のせいで、周囲からは完全に浮き上がってしまっている。また繰り返すのかと泣きたい気持ちになった彼がマジックに辛く当たるのも、だから仕方のないことだった。


遠巻きに自分を見るクラスメートたちの気配に心を痛めるシンタローは、けれどその視線の中にある、これまでとは質の異なる視線に気付いてはいない。


確かに彼のことを毛色の違う生徒と思い目を合わせることすらしない生徒もいるが、それは他のクラスや上級生に限られ、級友たちはみな何事か起こるのではないかという期待感に満ちた眼差しで彼を見ていた。


なにせシンタローは理系、文系を問わず成績がよかったし加えて運動神経もいい。初めての体育の授業は百メートルダッシュとハードル、ハンドボール投げ、懸垂といった基礎体力を測るためのものだったが、そのすべてにおいてそつなくこなしてしまった上、転んだり泣き言を言ったりする生徒を言葉少なに励ましたりという如才ない一面も見せていたのだ。


異分子であることは間違いない。けれどそれは悪いものではなさそうだ。


思い切って声を掛けてみたいがそれもまだ怖いというような空気が教室中に流れていて、長年この学校に勤める担任教師も実はひそかに観察していた。


チャンスがあれば話しかけたいと思われていることなど知らぬシンタローは、今日もアラシヤマと連れ立ち食堂へとやってきた。


勿論、連れ立つつもりはないのだが、離れないのだから仕方ない。


嬉しそうに『うどんはあっちどす』と百も承知のことを言ってよこす彼に大袈裟な溜め息を吐いてやるが、そんなものは聞いてもいない。さっさと歩き出すとシンタローの分のトレーも抱え、うどん専用カウンターの最後尾へと走っていった。


聞いてもいないのに知ってしまった情報によると、アラシヤマは京都の老舗呉服店の三男らしい。長兄は既に専務だが常務だかを勤めていて、次男も着物デザイナーとしてその世界では知られた存在であるという。父親自体も国から“なんたら勲章”をいくつも受けているし、それどころか重要無形文化財――人間国宝だというのだから驚きだ。


兄たちの母は早くに亡くなり、父はその後暫くたってから秘書を勤めていたアラシヤマの母と再婚をした。二周りも年の差のある夫婦なので世間では祖父だと思われることが殆どだが、その可愛がり方も相当なものらしい。


母親に似たアラシヤマはほっそりとした美少女全とした佇まいを持っていることもあり、幼い頃彼は自分が本当に女の子なのだと思い込んでいたという。着せられるもの、持たされるもの、与えられた部屋すらも、すべてが女の子の好みそうな色やデザインで揃えられていたし、七五三のときに設えられたのは紋付袴ではなく色艶やかな振袖だったそうだ。


二人の兄も年の離れた弟を猫かわいがりして、文字通り彼は“箸より重いものを持ったことのない”人生を歩んできてしまったのだという。


どんな我が儘も通る状況であり、またそれを苦に思うものもない環境にあったにもかかわらず、アラシヤマは“金持ち喧嘩せず”の法則(?)を地で行く性格をしていたため、日々のんびりと、ぼんやりと過ごしていた。


けれど、中学に入学した辺りからその性格に拍車がかかり、マイペース過ぎる彼は団体行動に付いていけないようになった。本人に言わせれば『あほなお人とは付き合いきれまへん』ということだが、所詮気心の通わない他人に自分を理解できるはずもないのに、わざわざこちらから歩み寄る必要はないと言い切ったところ、母は、彼の記憶にある限り初めて声を上げて泣いたと言う。


何事にも優しく、慎み深い母があんまり泣くので慰めていると、『そのずれきったところが心配なのよ』と余計に泣かれ、意味が分からない彼は仕方なく自分も泣くことにした。


二人で泣き続けているところに帰宅した父と兄は、泣きじゃくる母からなんとか真相を聞き出したが、その原因の殆どを担っていた彼らは罰の悪い顔をしてともに泣いているアラシヤマを見守った。


母は、このままではアラシヤマにいいはずがないと主張した。


父としては、可愛い息子を手放すつもりは毛頭ないし、頃合を見て自分の決めた娘と結婚させ敷地内に居を構えさせると決めてすらいた。どんなに可愛くても娘じゃないんですよ!と叱られるので滅多なことでは口にはしないけれど、それだけは譲れないとも思っていた。


なにせ自分は老い先短い。可愛い息子を取り上げられてたまるか。


恐らく、彼はマジックと大変気が合うと思われる。


母の心配も分かるが、かといってどうすればいいのか。この家で母以外に唯一建設的な話の出来る長男が問いかけたところ、母は“東京で一人暮らしをさせたい”と爆弾発言を炸裂させた。


ビジネスの拠点として、いまの日本はやはり東京に進出するのが上策といえる。随分前から京都には本店、東京には本社という形で展開していたため自社ビルや借り上げ社宅などの環境も整っていたので独り暮らしをすることも無理ではないような気はした。気はしたがやはり父と兄は猛反対し、泣くことに飽きたアラシヤマは自室に本を読みに戻ってしまった。


だからその間、どのような会話がなされたのかは分からない。


けれど翌日、父の部屋に呼ばれたアラシヤマは、高校は東京にある父の知人が理事長を勤める私立校に通うよう言い渡された。さらに住居は長期滞在時に兄が使うマンションと定められ、通常は独りで暮らすようとも言われた。


月に一度、数日は必ず長兄が宿泊するし、母もまめに上京する。日常の雑務は専門の人材派遣サービスを利用するし、父も、出来る限り様子を見に来るという。


大変そうだな、とは思ったが、反論はしなかった。父に対し言い返すなどということは思いも付かない彼であったし、どこに行こうと自分が変わる訳ではないのだからどうでもよかった。


高校の三年間だけ。大学は京都に戻り、兄たちも卒業した国立へ行くようにと念を押される。『へえ、分かりました』と答えたアラシヤマに対し父の方が涙ぐむのだから始末が悪い。


 


そうしてアラシヤマはこの学校に通うこととなったのだ。


 


 「けど、入学早々シンタローはんとお友達になれるやなんて、わて、心配されることなんもおまへんでしたわ」


堂々と“友達”扱いをされるシンタローにとっては我が身の行く末が不安で仕方ない。


受け取ったきつねうどんのどんぶりをトレーに乗せながら、アラシヤマは少し、眉を寄せる。大方“真っ黒”な汁に対し不満を感じているのだろうが、口に出すような品のないまねはしなかった。郷に入っては郷に従えという言葉はシンタローにとっても身に沁みたものだし、日本人として残る数少ない美徳だとも思う。


まあ生まれ育った土地から遠く離れたことがないのでそれがどれほど浸透したことなのかは知らないが、育ちだけはいいらしきアラシヤマのそのような態度は好ましいと思える。


なにを言っても付いてくるから、カレーうどんを乗せたトレーを持ったシンタローは手近なテーブルへそれを置くとさっさと座ってしまう。


いつも通り、いそいそと向かいに席を定めたアラシヤマがシンタローの分の箸や水を用意し丁寧に食卓を整えてくれた。


そういう仕草は驚くほど繊細で、指先ひとつにまで神経を行き届かせているようにさえ見えた。シンタローとしても人目につく限りは極力体裁よく、また行儀よく振舞っているつもりではあるが彼の立ち居振る舞いを見るとがっくりすることがある。


マジックに連れられ高級という部類の店に行く機会が頻繁になったいま、これは見習うべきなのだろうかと真剣に悩んだりもするのだが、勿論そんなことはアラシヤマに言えるはずもない。


いただきます、と手を合わせ、箸を取り上げる仕草ひとつが美しい。


陰気で、なにを考えているのかサッパリ分からなくて、思い込みが激しく自分とは違う意味で浮きまくっている彼の唯一尊敬すべき点をさりげなく盗み見ながらシンタローもそっと箸に手をつけた。


 


 


 


午後の授業は眠気との戦いだった。


春の日差しは暴力的なまでの強引さで睡眠欲を叩きつけてくる。加えて彼の席は窓際、後ろから二つ目の絶好のポジションにあり、成績がいいことから教師の監視の目も甘い。


さらにシンタローのしている予習部分よりまだ大分手前にある内容は退屈だし、満腹のところに聞かされる漢詩は最早拷問に等しい。


文系の授業は嫌いではないが退屈なのは否めない。また数字はあくまで数字であり美しいと言われてもトンと理解できないシンタローははっきり理系とも言いがたい。


進路のことはこの先まだいくらも考える時間があるからとマジックに言われ、とりあえずいまは二年生の進級時に行われる選択授業の教科を決めるのが命題となっている。


眠い目をこすりながら、『とりあえずこの先生が担当なら文系はやばいかも』と思っていると、後ろのアラシヤマがとん、と背中をつついてきた。


 「なんだよ」


 「あれ、シンタローはんのお父はんやないの?」


 「あ?」


門のとこ、と囁かれ窓外に視線をやる。


正門から伸びた道は中央の噴水を囲むように分かれているが、その向かって右側を歩いている男が見える。


 「…あ、ほんとだ」


見間違いようのない、立派過ぎる体格をしたマジックがこれまた嫌味なほどに堂々と歩いてくる。瀟洒な造りの庭園を進むその姿はさながら映画俳優のようでもあり、洋画の撮影だといわれれば信じてしまう程度には美しかった。


あれが、自分の父親なのだ。


そう思うと言い知れぬ優越感が沸き起こるが、同時に先日の醜態をも思い返しシンタローのこめかみはキリキリと痛み始めた。


 「迎えにしては早すぎどすなぁ。シンタローはん、親が呼び出されるほどのことなんやしましたん?」


 「それをお前が言うか?毎日いやってほど、ホンットーに嫌ってほど俺にまとわり付いてるじゃねぇか」


身を乗り出し、背中に張り付かんばかりのアラシヤマを押しやり、校舎に近付くマジックを目で追う。


 「ほんとに…なにしに来たんだよ…」


いつになく真剣な表情のマジックが校舎の影に入り視界から消えても、シンタローはそこから目が離せなくなっていた。


 


 

 
      きのう、みた、ゆめ


 


 


 


 


父親が呼び出されたのだから、授業が終わればなんらかの知らせが入るだろうと思っていたシンタローだが無常にも六時間目の始まりを知らせるチャイムが高らかに響き渡り、結局訳のわからない焦燥感を抱いたまま生物の授業が始まってしまった。


国語や数学はいいとして、この生物だけはいただけない。


生き物が嫌いなわけではなく、犬猫を見れば必ず寄っていってしまう性質のシンタローだが“ミトコンドリアが~”とか、“デオキシリボ核酸は~”などといった話はサッパリ理解できないし、どこが面白いのかもよく分からない。


大体、ナマモノは嫌いなのだ。


自慢じゃないが虫も苦手で、夏にはセミの飛び交う姿を見ただけで逃げ出したことも一度や二度ではなかったし、生態系に影響がないならいまこの瞬間に消えてなくなってもいいと本気で思うほど嫌だった。


そして今日は、胸の中に広がる得体の知れない不安がその思いを増長する。


途中指名されたものの、質問そのものを聞いていなかったので不快な気持ちのまま“分かりません”と即答してやると、普段は出来すぎるほどに出来るシンタローのその意外すぎる対応に教室中がざわめきに包まれ、担当教師に至っては『保健室に行きましょう!』と額に手を当てながら叫ぶという有様だった。


 


結局保健室には行かなかったものの、終礼までの間は奇妙な緊張感をクラス全員に植え付けるという迷惑を掛け通したシンタローは、最後の挨拶が終わると早々に鞄を掴み教室を飛び出す。


職員室か、生徒指導室。進路指導はいくらなんでも早すぎるから、考えられるのはその二箇所だ。どちらにしても、最大限の注意を払っている自分には縁がないと思っていたのによもや父親が呼び出されるなどありえない事態だ。入学式の、あの恐ろしい光景が脳裏をよぎりちょっと泣きそうになってくる。


呼び出しは、もしかしたら自分ではなくマジックを対象としたものなのだろうか。あのバカがバカだから、厳重注意でも受けているのだろうか。


バカなのは百も承知だし、それが原因で口を聞かずに過ごすこと十日を数えているのだ。恥をかかされた報復は現在進行形で継続中だが、学校からの注意があるとすればもっと早い時期に呼び出されていたはずだろう。


それではなにか。


自分の知らないところでマジックがなにかしたのかもしれない。


学校に、教師に、生徒に。シンタローの知らないうち、妙なことでも言ったのだろうか。迷惑を掛け、それを隠していたりしたのだろうか。


それとも。


 


彼の仕事が、ばれたのだろうか。


 


人に話せることではないと、シンタローでさえ思っている。その仕事のお陰で、いままでからは想像も付かない生活を送れているのは確かだが、それがいいこと、正しいことだとは思えない。恩義を感じている自分ですら、それを日陰のことと捉えている。


この学校の生徒はみな裕福な家庭に生まれ、なに不自由なく育つ子供たちでその純粋培養振りは否応なく達観したシンタローにとって受け入れ難い面もあった。マジックのしていることに対し恐らく嫌悪しか抱かないような彼らとは、根本的に違うのだ。


世話になっているからだけではない。


自分もまた、その世界に足を踏み入れようとした経緯があるからこそ怖いのだし、それだけでマジックが卑下されるのは嫌だった。


途中、擦れ違った教師から『走らないで』と注意を受けたが、構わず走り通し職員室の前に着く。上がった息を整えながら、その扉を開こうとしたところでそっと、後ろから手を取られた。


 「なんやの、シンタローはん。いきなり走って、わてまで叱られましたえ」


 「ななな、なんだよ着いてくんな!」


 「そう言われても、シンタローはん、先生が呼び止めはったのに、ちょっとも聞かず行ってまうから」


 「え、マジでかっ」


シンタロー同様、息を乱したアラシヤマがさも困ったという顔で言い募る。自分の考えに囚われ、追ってきた彼の気配にも気付かなかったことに驚き、ばつの悪い顔で腕を振る。放っておけば彼がいつまでも自分に触れていることは既に学習したことだった。


 「先生、なんだって?」


 「わてとシンタローはん二人で、理事長室に行くようにて言うてました」


 「りじちょうしつぅぅ~?」


 「へえ」


職員室も生徒指導室もすっ飛ばして理事長室!


目の前が暗くなるのを感じつつ、それでも自分がめげてはいられないと思い直したシンタローは拳に力を籠め、のほほんと立っているアラシヤマを睨み付けた。


 「なんで俺たちが呼び出されるんだ」


 「さあ。心当たりはあらしまへんけど、理事長室で待ってはるのは理事長以外ありまへんやろ。はよ行かな」


 「…アイツとは別の呼び出しか?」


 「あいつ?」


 「なんでもねえよ」


呟きを拾われ、シンタローは慌てて打ち消した。もし、自分の素行とは別の要件で呼び出されたならアラシヤマに知られるわけにはいかない。


学校内の噂がどれほど早く広まるか身を持って知っているけれど、それでも隠せるものなら隠し通したいのは当然だろう。


 「シンタローはんのお父はんも来てはるし、なんの話やろ」


 「ささささ、さあなっ」


そうだ、もし彼の仕事についてのことならアラシヤマまで呼び出すのはおかしいだろう。それなら違うことかもしれない。


不用意に取り乱し、自ら尻尾を出すことは出来ないと思い返し、ひとつ深呼吸をすると理事長室に向けて歩き出した。


出来れば他愛ない、なんでもない話でありますようにと祈りながら。


 


 


 「失礼しますぅ」


ノックをして、間延びした声でアラシヤマが言う。


とことんマイペースの彼は“新入生が理事長室に呼び出される”ということの緊張感などまったく感じた気配もなく、その重厚な扉に手を掛けた。


学内の殆どは横にスライドさせる引き戸だが、ここは大企業の重役室かというような豪奢な扉がついており、恐らく、内部もそのような造りであると思われた。


覗き込んだ先に想像通りの装飾を見て、シンタローはそっと、二度目の溜め息をつく。こんなところに呼び出されるのは、自分の立てた学校生活の中で想定した“なにかで表彰される”ということ以外あってはならないのに。


 「あれお父はん」


 「おお、あーちゃん!待っとったで」


 「なんやの、来るなんて聞いてまへんえ」


やっぱり気の抜けた、けれど幾分嬉しそうな声音でアラシヤマが言う。


扉を開けたその先の光景に、シンタローは呆然としながらその会話を聞いていた。


 「入学早々お友達が出来たて聞いて、お父はんようやっと安心できたわ」


ささ、こっちおいで。


ウキウキと手招きをする、やたらと気品に溢れた和服の老人を見て思う。


 『…こいつ、誰かに似てる』


 「シンちゃぁ~ん、パパもっパパも逢いたかったよ!逢いたかったんだよぉ~!」


意識して視界に入れないようにしていた、これまた見た目だけは恐ろしく紳士的な大男が目に涙を滲ませながら両手を開き呼び立ててくる。


帰ろう。


なんだか分からないことには関わらない方がいい。


身についた処世術を発揮し、“間違えました”と言いながら扉を閉じようとすると、いつの間にか近付いていたらしい入学式のときに見たきりの理事長が慈愛に満ちた笑顔でポンと肩に手を置いた。


 「さあ、シンタローくんもお父さんの隣に座って」


 「え、や、あの、」


 「シンちゃん!パパのところに来て!来てったら来て!来ないとパパ、死んじゃうかもっ」


死ね、とはさすがに言えなかった。


いい子でいたい訳ではないが、心象のよろしくないであろう自分が更に目を付けられては堪らない。渋々扉から手を放すと、露骨に嫌な顔をしながらマジックの隣へと腰掛けた。


校長は小柄で、程よく髪の薄いメガネ着用の壮年という生粋の日本人であるのに対し、理事長はどこからどう見ても外国籍、恐らくアメリカ人であると思われる。どういう経緯でこの学校の理事を務めているのかは分からないが、達者すぎる日本語を操るところから見て永住しているのかもしれなかった。


 「なんだかとても素晴らしい光景だね」


マジックとは同世代であろう、けれど若々しい理事長がそう言うと、二人の父親は揃ってうんうんと頷いた。それぞれ自分の息子を熱い視線で見詰めながら。


こんなことなら真っ直ぐ帰ればよかった。


シンタローの思いは、この場の誰にも届きはしなかったけれど。


 


 


 「だから、私としてもシンタローくんとアラシヤマくんが友人付き合いをしているというのはとても嬉しいことなんだよ」


理事長の熱弁は長かった。


アラシヤマがこの学校に入学する経緯は既に承知していたが、それ以降のことまでシンタローが関知するところではない。


まして彼と“友人”と言われればこちらとしては異議を申し立てたいほどで、いまだってやたらと笑顔の理事長、マジック、そしてアラシヤマの父に対して真実をぶちまけたい気持ちで一杯だった。


 「どうやろ、うちのあーちゃんはええ子にしてますか」


 「…はあ」


 「うちのあーちゃんは見たまんまおとなしゅうて、引っ込み思案なとこがありますさかい友達が出来るか心配やったし、出来たとしてもほんまにこの子のこと任せられるかどうか気になって気になって眠れんほどやったんですわ」


 「……はあ」


 「せやけど、うちのあーちゃんももう高校生や。自分のことは自分で出来る子にならなあかん。ここは心を鬼にして、我が子を千尋の谷に落とす獅子の気持ちになって、ほんまはまだ無理やて思うけど、うちのあーちゃんは親から見てもよう出来た子ぉやから、余計な心配するより自主性を大事に、信頼して、ほんまは心配やけどいつまでもお父はんお父はんて言うてる訳にいかんいうことを自分で気ぃついてほしいし、それに、」


 「お父はん、まだ長なるの?」


ナイス突っ込み。


出会って初めてアラシヤマの存在に感謝した。


だが考えるまでもなく、このマジックレベルの親バカはアラシヤマの父親なので、とどのつまりはこいつと関わりを持ったことで巻き込まれたいわば二次災害のようなものだ。騙されてたまるか、と思いつつシンタローは油断のない目つきで周囲を見回した。


こうなると全員敵に見えてくる。


 「いやぁ、私の方もね、大事な一人息子に悪い虫がつかないかと日夜心配でこのところ寝つきも悪くなる有様だったのですが、アラシヤマくんのように出自のしっかりした良家のご子息と親しくしているということなら一安心です」


マジックが眠れないのは、シンタローに無視され続けおやすみのキスがもらえないからというバカらしい理由からだというのは伏せておく。


 「我が校は生徒の自主性を第一に、自立と良識を育む教育を志していますが、やはり集う子供たち一人ひとりが社会の一員であるということを自覚していなければ前進はありえません」


理事長にも息子がいると聞いたし、確か同じ学年だとも聞いた覚えがある。ただ、なぜだかこの学校に入学することがなかったそうでどんな子供なのかは分からない。


けれど、少なくとも“この父親たち”とは違う理念、教育を受けたのだろうから、至ってまともな子供だという推察だけはついた。少なくとも理事長におかしな部分は見付けられなかったから。


 「アラシヤマくんのお父上と私は古くからの付き合いがあってね。その縁で入学した訳だが、…ああ、間違っても縁故入学ということではないよ。きちんと試験を受け、見事な成績で合格した。残念ながらシンタローくんを上回ることは出来なかったが、アラシヤマくんとその次点の生徒ではかなりの開きがあった。つまり二人の優秀さが際立ったということなんだがね」


 「いややわぁ。理事長先生、そないに褒めはっても、わての親友の席にはもうしっかりシンタローはんが座ってはるんどすえ」


座ってない。


いまどき、大手企業に就職して、三年だけ働いてその間にブランド品を買いあさり海外旅行に最低四回は出向き、少なくとも部長までは昇進しそうな二、三歳年上の男を捕まえ寿退社しようと考えているおねえさんより腰掛けてない。


胃と頭が痛くなるのを堪えつつ、シンタローは全神経を集中させ“俺はここにいるけどいない”という怪しげな忍法の完成を試みた。残念なことにこれまで忍者修行などしたことのない彼にとって、それは気休めにもならなかったけれど少なくとも自分は被害者という意識だけはしっかり持てた。


 「いや、こう言うとシンタローくんを信用していないようでいい気はしないだろうが、大切な友人の息子を預かる身としてはやはり友達付き合いというものに神経を使わないわけにはいかなかったのだよ。お父上もそのところをなにより気にされていた。それで、入学以来アラシヤマくんが口にした生徒の名前を調べたところきみに行き当たってね。本年度の主席にして、入学式でちょっとしたセンセーショナルを巻き起こした生徒といえば私自身個人的な興味もある」


失礼な言い方ではないが、つまり自分は“調査”されたのだ。


 「きみの父上ともぜひ話をしてみたいと思っていたところに、こちらも上京されると聞いてね。それなら全員で対面してはどうだろうと急遽来校を願ったというわけさ」


 「はあ、そうですか」


珍妙な父親を持つ、成績だけはいい生徒。


癖のありすぎるアラシヤマの友人というレッテルを貼られるシンタローの言い分は一切聞き入れられないのだろう。バカらしいやら悔しいやらだが、一番心配していた事態に陥ることはなさそうなので、そのことだけを感謝し、また安堵した。


 「正直なとこ、入学式での一件は私も驚かされましたわ。けどなぁ、シンタローくんのお父上がこの方やったと知ったら、もうなんも心配することあらへん。安心してうちのあーちゃん、預けられますわ」


 「あのー、預かりたくない場合はどうすれば、」


 「いややお父はん、気が早いわー。わてまだ高校生どすえ?将来の約束とか、そんなんもっとじっくり付き合うてからでええですやろぉ」


 「なんや、あーちゃん恥ずかしやからお父はんが代わりに言うたったんやで」


 「そんなん自分で言えます。もお、お父はんわてのこといつまで子供扱いしはるのん」


 「はっはっは。アラシヤマくん、父親というのはね、いくつになろうとも息子というものが心配で心配で堪らないし、一から百まで全部知ってもまだ不安になるものなんだよ」


 「へー、そうなん?」


 「そうや。それにあーちゃんはお父はんお父はんて、いつまでも親離れで出来へん子ぉやし、なにより初心いからなぁ」


 「わて、もう十六になりますんえ?いつまでも子供や思われたら迷惑や」


 「ああ、そんな意味で言うたんとちゃう。あーちゃんはお父はんに似ず、しっかりした子供やいうことは、お父はんちゃーんと承知してるで」


 「うちのシンタローもね、年に似合わぬしっかりもので父親としては少々寂しいくらいですよ」


 「気ぃ付いたら、いつの間に成長してるもんですなぁ」


 「まったく」


 「われわれ教育者も、この年頃の子供には驚かされることばかりです」


 


わあっはっはっはっは


 


 


 


全員、消えろ。


 


忍法より黒魔術を身に付けたい。


シンタローの願いは十中八九、人道的だと思われる。


 


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