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『on the wild world』  act.4 












 一方、ガンマ団本部から二千キロメートルほど離れたとある国。その上空はるか高みに浮かぶ戦艦の内部では、小型の機械とイヤホンを片手に一人のイタリア人が懊悩していた。

「うーー……、マジかぁ~……」

 皮製のソファの上で、大きな上体を猫背に屈め、個室に一人、「やっぱり」と「でも」を繰り返している。
 ちょうど狙い済ましたかのようにそこに現れたのは、まさしく今の懊悩の対象となっている人物だった。普段なら飛びつきたいほどなのだが、今はできることなら顔も見ず一目散に逃げ出したい相手である。
 やってきた中国服の麗人は、真っ直ぐに伸びた背筋に、西洋人ではまず滅多に見られない柳腰。あぁ今日も美人だよなァなどと埒も無く思いながら、ロッドは捨て犬のような上目遣いでその名を呟いた。

「マーカーぁ……」
「なんだロッド、その情けない顔は。鬱陶しい」

 涼しげな眉根を微かに顰め淡々と発されるその声に、ロッドは、ううう、と唸りながら金の髪を掻き毟る。その様子にさすがにいつもと違う何かを感じたのか、マーカーは皮製のソファに腰掛けることもせずに。腕組みをしたまま、精密機器を手にしている大柄な男の姿を、冷ややかな瞳で見下ろす。

「できれば、あんまし言いたくないンだけどね~。でも後からバレて、末代まで恨まれんのもヤダし……」
「……今の時点で燃やされるのは確実なのだから、せめて一刻も早く吐いて私の機嫌を取り、焼死は免れるのが賢い選択だぞ」

 その科白が脅しではないということは、身をもって知っている。だがそれをわかっていてもなお、金髪のイタリア人は数秒間沈黙を守っていた。しかし、やがてどうやっても逃げ道はないと悟ったのか、

「―――あのさ」

 どこか諦めたような顔でロッドは切り出す。

「マーカーのお弟子ちゃん、任務の最中で捕まったって」
「……なに……?!」

 普段は無表情か冷笑か不機嫌の三パターンの表情しか見せないマーカーの白皙の面に、明らかな「感情」が現れる。その顔を目にしてしまったロッドは、諦観をよりいっそう深くして。渋々といった様子ながら、傍受した会議の内容をそのままマーカーに伝えた。
 アラシヤマが任務の最中に副官の裏切りにあって敵に捕らえられたこと。交換条件として敵方が出してきた法外な要求。そしてそれを呑めないという前提のもと行われた会議で、新総帥の口からはっきりと下された、救出隊すら出さないという決定。
 それら全てをほんの僅かに眉を顰めた表情で聞き終えたマーカーは、―――そうか、と。それだけを口にした。
 そして寸暇も待たず、くるりと反転しその足を部屋の出口に向ける。
 「え、おい、ちょッ…、待てって」と追いかけるロッドの声は、完全に無視して。
 話を聞き終えた段階で既に固まっていた今後の行動指針に沿って、一分の躊躇いも無くマーカーは己の上司の元へと歩みを進めた。



***



 目指す上司はメインフロアにいた。酒瓶を片手に、起きているのか眠っているのかわからない様子で、ひたすらに競馬情報を流すテレビの前のソファに横たわっている。

「隊長、ご相談に上がりたいことが」
「……ンだぁ?かしこまって。言っとくが金ならねーぞ」

 がしがしと頭を掻きながら、長い金髪を乱れさせた男は億劫そうに起き上がり、ふあぁ、と一つ大きな欠伸をしてマーカーに上体を向ける。同時に常には無いその細い輪郭の上の微妙な変化に気付いて、やや眼光を強めた。
 すぅ、と短く呼吸を整え。マーカーは前もってその胸に決めていた希望を言葉にする。

「どうか、私に離隊命令をいただきたいのですが」
「―――はァ?」

 ハーレムの寝起きの顔が、理解しがたいものを耳にしたというように顰められた。聞き間違い、あるいは何かの冗談かと数秒待つが、マーカーは真っ直ぐにハーレムを見つめたまま、微動だにしない。

「……隊を、抜けたいと。そうぬかしやがったのか?今」
「―――ええ」
「理由は」
「一身上の都合です。隊長のお耳に入れるほどのことではありません」
「ソレで、通るとでも思ってんのか」

 眉間に皺を寄せ、濃い睫毛に縁取られた眼を細めながら、白い開襟シャツ姿の上司はマーカーを睨めつけた。明らかに偽物ではない殺気を含んだ剣呑な目つきと、抑えられながらもドスのきいた、その声に込められた際限の無い迫力。それに感じる背筋の冷たさは、何度受けたとしても、決して薄れることはないだろう。

「いいから言えッつってんだよ。さもなきゃ、今、この場でブッ殺すぞ」
「……―――」

 だが、今にもこちらの喉笛を噛み切りそうな猛獣の目をしたその上司の恫喝にも、しばらくマーカーは何も答えなかった。絶え間ないエンジン音がこだまする室内に、触れれば指先が切れそうに緊張した空気が流れる。
 ほんの数秒間の、それでもその中に身を置く者にとっては永劫にも近いような沈黙。
 根負けしたのは部下のほうだった。はぁ、と小さく息を吐く。どう足掻いたところで敵う相手ではないことなど本当は、数十年前から、理解している。

「……非常に、この上なく、腹立たしいこと極まりないのですが」
 
 屈辱に満ちた色をその面に浮かべながら奥歯を噛み締めて。マーカーはその科白を口にする。実際、マーカーにとってそれは身内の恥以外の何物でもなかったのだ。

「私の、後にも先にも持つことは無いだろう不肖の弟子が、敵方に捕えられるという不始末をしでかしました」

 ハーレムの張り詰めた表情が、その言葉を聞いた瞬間、呆けたようなものになった。
 弟子っつーと、あの兄貴から無理やり押し付けられた陰気なガキか?あの島で再会して、その頬の傷をつけやがった……
 正直、これだけ長い間付き合ってきた部下と上司の間柄ながら、この男がそれほどの弟子に対する庇護欲を持っていたとは信じがたいのだが。いや、それでもあの島では確かにそれらしき行動もとってやがったなぁ……と、ハーレムの頭は予想外の混乱の中フル回転する。
 だが師弟愛というよりはむしろ―――責任感か、と思い直し。なんとかマーカーのその言動に合点がいった。
 にしてもよぉ……と、ハーレムは彼にとっては極めて珍しく頭痛がするような心持ちで思う。戦場ではあれだけの冷酷さを見せ、任務とあればどれだけ卑怯な振る舞いも厭わないくせに。どこまで律儀な男なんだコレは、と目の前に直立する黒髪の中国人を見る。

「……それで、師匠のテメーがカタぁ付けに行くってか」

 呆れながら独り言のように吐き出されるその声に、マーカーは黙ってコクリと頷いた。そして断罪を待つような心境で、そのまま目を閉じてハーレムの次の言葉を待つ。
 
 叱責は覚悟の上だ。二、三回殴られる程度で済むのなら上出来だとすら思う。下手をすれば命を落としても仕方ないような、そんな類の願いを、自分は口にしている。

 だが、やや項垂れているようにも見えるマーカーを急襲したのは、叱責の言葉でも堅い拳でもなく。
 べしっと、あまりにもいい音をたてて、ハーレムはマーカーの頭をはたいた。
 予想もしていなかった事態に切れ長の目を丸くするマーカー。そんな表情を見てハーレムは一瞬だけ、マーカーには気付かれないように満足そうな顔をし―――それから長い金の髪をざっくりと片手でかき上げながら、口元を不愉快そうに歪ませた。

「ッたくよぉ、弟子も馬鹿なら、師匠も大馬鹿だぜ」
「……―――ッ」
「たとえ親が死のうが子が死のうが、そんなん離隊の理由になるワケねぇだろーが」

 それはある意味では予想通りの返答ではあった。だがその内容と先ほどの行動との落差にマーカーの困惑は深まるばかりだ。
 そんな普段なら決して目にすることはできない部下の様子を、ハーレムは内心でこの上なく面白がりながら、天井を見上げる。そして―――ただ、と言いながらニィと笑った。

「あのクソ生意気な甥っ子に、恩売っとくのは悪くねェ。―――おい、マーカー」
「……はい」
「オメー、十年休暇、まだとってねーだろ」
「―――は?」
「永年勤続休暇ってヤツだ。……二日間だけやる。里帰りでもしてきやがれ」

 それだけを告げるとマーカーに背を向けて、ソファにどっかと座りなおし。さっさと行っちまえ、とでも言うようにひらひらと左手を振る。

「隊長……」
「ンだよ、なんか文句でもあんのかぁ?」
「―――申し訳、ありません」
「ケッ……。お前が謝るなんてこりゃ、槍の豪雨が降るな」

 白いシャツを一枚羽織っただけの広い背中に向かって、マーカーは深々と頭を下げる。その仕草を肩越しの気配で感じながら、―――オレも随分部下にゃ甘くなったモンだ、と苦笑するような気持ちでハーレムは唇の片端だけを引き上げた。



***



 マーカーが支度を整えるため自室に戻ると、扉の前でロッドが待ち構えていた。その様子はまるで叱られて立たされている悪ガキのようだ。いつもと変わらない平静そのもののマーカーの顔を見ると、唇を尖らせて、あ~あ、とため息を吐いた。

「結局、行くことになっちゃったんだ?」
「ああ―――隊長の厚情で、『休暇』扱いということになったがな」

 淡々と告げられたその言葉に、ロッドはやや表情を和らげる。あのオヤジもたまには粋なことをするらしい。どうやら最悪の状況だけは回避されたようだ。
 自室に入るマーカーに当たり前のようにロッドはついてきて、隅に据え付けられている簡素なベッドに腰をかけた。パイプ製のベッドの脚がギィッと軋む。そんな男の動きなど空気の一部であるかのごとく扱いつつ、マーカーは着々と身支度を始める。
 だが、ふと気付いたようにその手を止め、

「私が留守にする間の隊長のお世話は任せたぞ、ロッド」

 これだけは、とでも思ったのか、ロッドに向かってそう言った。

「なンでオレが、あのオッサンのお守りしなきゃなんねーの……」

 ぷぅ、と頬を膨らませながら不満たらたらという態度を隠さずに、ロッドは各棚から様々な暗器を取り出し身に付けていくマーカーを見遣る。オレの好みはサラサラ黒髪の東洋美人なんだあンな派手好きの金色した獅子舞じゃねェよぉ~、などとわめきたてるその姿を一顧だにせず、マーカーは数分間で、ほぼ完全に身支度を終えた。
 そして最後の仕上げと、ベッドの下に置いてあるらしい小型銃を取りにロッドの近くまで歩み寄る。
 そのとき、その中国服の筒型の袖をぐいっと引っ張って、ロッドが細身の身体を自分の元へ引き寄せた。

「なー、マーカー」

 捕まれた腕をいかにも邪魔そうに、自分を見るその眼差しにも、ロッドは全く動じずに。

「オレ、京美人ちゃんのコト、割と気に入ってンだけど」

 でも、と言いながら、ゆっくりと、マーカーの頬に残る火傷の跡を指でなぞる。

「それでまたオマエが怪我でもしたら。今度こそ、殺しちゃうかもしんないから、さ」

 だから無事で戻ってきてね、とロッドはこの世の大半の女の心を蕩かすような極上の顔でにっこりと笑った。そのあまりに見事な笑顔に、マーカーは炎を出そうとした片手を掲げたまま、ぐっと詰まる。
 気付けば戸口にはハーレムとGの姿もあって。

「とっとと行って、テメーの馬鹿弟子のケツ、ひっぱたいてこいや」

 金の鬣を持つ上司は、そう言ってニヤリと笑う。Gも珍しく苦笑のような顔を作って、普段は人形にも似たその白磁の顔に、戸惑った表情を浮かべているマーカーを見ていた。
 ロッドが一時のお別れの挨拶、とでもいうようにマーカーを背後から強く抱きしめ、耳元で囁く。

「早く帰ってきてね―――待ってるよンv」

 ほんの少し掠れたような低く甘い声が耳の中で反響する。その刹那だけ、イタリア人の太い両腕の内側で、マーカーは薄く目を閉じて。
 それから容赦なく、その腕の主を燃やした。
 そんな二人の様子など日常茶飯事といった風情のGは、平生どおりの落ち着いた低声で「……気を付けてな」とだけ、告げた。




『on the wild world』  act.5 












 ジャラリ、と耳に障る重たい金属音が、狭く薄暗い岩壁の部屋に鈍く響く。
 この砦で最も堅固と言われていた牢は、アラシヤマたちが切断した錠の修復がまだ済んでいないらしい。そのせいもあり、アラシヤマはかつては虜囚の拷問用だったこの部屋で散々痛めつけられた後、岩壁に鉄鎖で繋がれたままになっている。
 一応は証拠として団側に姿を見せるつもりだったらしく、顔にはさほど目立つ外傷はつけられなかった。しかしその分、今は戦闘服に隠された胴体への暴力は執拗で。アバラの一、二本にはひびが入っているようだ。
 意識して痛みを散らす訓練は受けている。だが、吊り下げられるように立たされているこの姿勢では、どうしても苦痛は増すばかりである。それでも息をするたびに痛む胸部を無理やり感覚の外に追いやりながら、アラシヤマは先刻の己の行動を反芻した。

(シンタローはんやったら、きっと交渉は全部自分でしてはったと思うけど……わての言うたこと、ちゃんと伝わったやろか)

 部屋の一隅に取り付けられている監視カメラは、初めから隠されてすらいなかった。散々痛めつけておいて、その上でなんらかの薬物―――おそらく麻酔薬―――を筋肉内に注射し念押しのように経口薬を飲ませた以上、それらへの気遣いすら無用と思ったに違いない。
 それは確かに適切な判断ではあっただろう。相手が、アラシヤマという男でさえなければ。
 アラシヤマはそういった薬物への耐性の強さには、団でも有数という自信がある。実際に意識を失っていたのはほんの数十分というところだろう。そして意識の無い捕虜を装ったまま、アラシヤマは機会を待っていた。

 メッセージはおそらく伝わっていると思う。だとすれば懸念の一つはなくなった。
 しかし、とアラシヤマは繋がれてさえいなければその場で蹲りたいほどの気分で思う。

(ああもう失態も失態。どえらい失態や……)

 ひびが入ったか折れたかしている肋骨や全身の打撲傷の痛みより何より、この己の姿の無様さが、一番こたえる。

(シンタローはん、怒ってはるやろなあ……。こない無能な男信用しはってって、お偉い方にいけず言われてへんとええけど)
 
 そうアラシヤマが自己嫌悪の渦中に沈んでいたとき、遠くからやけによく響く足音がこちらに向かってきた。かと思うと、一言二言、牢番と誰かが言葉を交わし、鉄枠のついた重い木製の戸が軋みながら開く。
 入ってきたのは二人。スーツ姿の中年男の背後には、かつての副官だった砂色の髪をした男が、影のように控えている。
 その中年男の姿には見覚えがあった。確か前政府の中枢にあって唯一新政府の追捕の手を逃れ続けている国防次官補だ。
 男は無表情のままアラシヤマの近くに歩み寄り、容赦ない力を込めてその頬を殴りつけた。

「―――いつから、気付いていた」
 
 おそらくは通信を開始した当初より意識は明瞭としていて、微かなカメラのズーム音に気付き、メッセージを送ったに違いなかった。それを理解していながらも、そのせいで数少ない切り札を一枚失った男の怒りが冷めることはない。その怒りの程度に、アラシヤマは自分の試みが成功したことを知る。

「さぁ……?シンタローはんの声が、聞こえたような気がしたからかなあ」

 にぃ、と口に端を上げながら答える。相手を馬鹿にしているとしか思えない返答に、男はさらにもう一発、抑え切れない怒りを拳を乗せてアラシヤマに叩き込んだ。
 素人の拳の重みなどたかがしれているが、ダメージを軽減しようにも身動きが取れないのは厄介だ。切れた口内の血を、アラシヤマは地に吐き出した。

「口のきき方には気をつけろ」

 懐から取り出したハンカチで手を拭いながら、スーツ姿の男は言う。

「全く、上司も上司なら部下も相当なものだな。あの若造め、小憎らしい顔をしおって……しかし今頃どれほど慌てていることか―――その姿が見られんのは、惜しいな」

 独言のようなその言葉。アラシヤマは、やはり交渉の場にはシンタロー自身が出て来たのだと確証を持った。そして、この男が今回の件の総元締めなのだな、とも。

「―――交換条件、何出しはったん」
「貴様が知る必要はない」
「いや、なんにせよ阿呆なこと言うたんやろな、としか思えへんよって」
 
 その言葉が明らかな挑発だということには、さすがに男も気付いたようだ。だが、今更この場で何を知ったところでどうすることもできまいと、罪人に温情を与える憐み深い施政者のような態度でそれを告げた。

「現在、国を牛耳っている輩の始末。それに加え、米ドルで三億だ。貴様の団なら、払えない額ではないだろう」
「三億ドル―――?.……て、京都タワー買えるんやないの」
「なんだと?」
「いや、こっちの話……にしても高ぅ見てもらえたもんどすなぁ、わても」

 暗にあまりに馬鹿げた要求だという嫌味を含ませつつ、アラシヤマは呟く。

「謙遜するな。貴様と新総帥が、学生時代からの旧友ということも調べはついている」
「旧友……?ハハ、あんさん、おかしなこと言わはりまんな」

 そうか、自分とシンタローとの関係はそのように他からは見えていたのか、とアラシヤマは嗤いたいような気分で思う。お門違いもいいところだ。ほんの数年前まで倒すことしか頭になかった相手だというのに。そして今だとて―――友人などと呼べるような、そんな関係では、ないというのに。
 あの時、彼自身が何を思ってその言葉を口にしたのかなど、さすがにもう気付いている。気付いているその上で、なお想っているのだ。自分の彼への感情は、旧友などという一言で括れるようなそんな気軽で、ありふれた気持ちではない。
 むしろその程度の情報の流れ方であれば大したことはないなと、腹立たしくも安堵するような気分だった。ただそういった思考の流れは一切表に出さずに、アラシヤマは口元に浮かべた笑みを残したまま、目に不穏な光を宿しながら男を見据える。

「まあ百歩譲ってそうとしても、あんお人は、そない情に流されるような甘ちゃんやあらしまへんで」

 その眼光の鋭さに、男は一瞬だけたじろぐ様な素振りを見せた。そんな姿に僅かにでも溜飲を下げながら、あえてアラシヤマは話題を変える。

「―――あんけったくそ悪ぅなるような悪趣味な毒。主成分はリシン、原料はヒマっちゅうとこか。お手軽でええどすな」

 あの研究施設で目にしたレポートの束を思い出す。あそこに書かれていたのはある一つの毒の生成式だった。アラシヤマが読むことができたのはほんの一部分、完成に至るまでの過程でしかなかったが、そこに書かれていた単語や組成図からそれがどういった効果を持ち、どのような用途で使われようとしているのか大体の見当はつく。

「あんだけ毒性強めたら、小国の首都全滅させるくらいは簡単どっしゃろなあ。あの理論どおりに精製できる工場さえ作れれば、の話やけど」

 そのアラシヤマの言葉に、スーツ姿の男の眉がぴくり、と動いた。

「―――工場など、ほぼ完成している。あの研究所を見て、気付かなかったのか」
「なんやて……?」
 
 一応カマはかけてみたものの、返ってきた台詞は予想以上のものだった。
 もはやアラシヤマの口元に笑みは浮かんでいない。真剣そのものの表情で、信じがたいものを見るような目で、アラシヤマは男を糾弾する。

「自分らの国壊滅させて、国民虐殺して、それでどないするつもりや。そないなことで権力の中心に返り咲けるとでも思とるんか」

 拘束されているという事実すら一瞬忘れ、繋がれている両腕の鎖がジャッと鋭い音を立てた。

「あんさん―――それほど阿呆な男には見えへんかったけどな」

 その言葉は、男の後ろに控えるかつての副官のみに向かって発されたものだった。だが、目の前のスーツ姿の男はそれにすら気付かぬ様子でただ、嗤う。

「なんとでも言うがいい。その姿で何をほざいたとしても、所詮は負け犬の遠吠えに過ぎん。化け物じみた貴様の炎でも、鉄を溶かすほどの高熱は出せない。部下からの報告で、そのように受けている」

 勝ち誇ったように男は言い、そして踵を返した。革靴の底をあえて石の床に打ち付けるような、絵に描いたような権力者らしい歩き方で部屋から出て行く。
 かつての副官もまた一言も口にせず、その足音を追い、去っていった。



***



 それからどのくらいの時が経過しただろうか。外光の射し込まないこの部屋で正確な時間はわからないが、この場に拘留されてからおそらく十時間以上は経っている。
 肋骨の痛みはすでに吐き気に変わっていた。もとより変えることのできない体勢のまま、アラシヤマはただじっと目を閉じている。そのあまりの静かさに、牢番は最初こそ死んでいるのではないかと思い中を覗き込んだが、何度か同じ行為を繰り返すうちに気力を失っているだけだという結論に達したらしく、それ以上は何の処置もとろうとはしなかった。
 そんな状況が何時間か続いたあと、ほとんど居眠りをしかけていた牢番は、先触れなしに現れた己の上官の姿に、目をこすりながら慌てて立ち上がる。そしてアラシヤマの耳に、がちゃり、という扉の鍵を開ける音が聞こえてきた。
 そこに立っていたのは、昼には一言も話すことのなかったかつての副官だった。

 男は丁寧に扉を閉めてから、部屋の隅に行くと、そこに伸びている複数の電気コードのうち一本を引き抜いた。怪訝そうな顔でその行動を見守るアラシヤマに向き直って、相変わらずの無表情で淡々と告げる。

「監視カメラは切りました。これで、この部屋で話すことがほかに漏れることはありません」
「……」
「貴方と、二人で話したいことがあったので」

 その言葉で、先ほど抜かれたコードがカメラに通じる何かだったということを知る。だがその行為が何を示すものかまでは、アラシヤマにはまだ理解できなかった。

「あんさん……」

 この男に対してはもはや何から口にすればいいのかわからない。今更女々しい恨み辛みを連綿と述べるつもりはなかった。自分の失態は、陥れた張本人よりも己自身に対して唾を吐きたい気分だ。しかし素直によく出来ましたと褒めてやる気にももちろんなれず、結局、小さくため息をつくだけに留まる。

「よおもこんだけの期間、韜晦しとったもんやな」

 少なくともその言葉は嘘ではなかった。この国の出身であるというそれだけで疑われる要素はあったはずなのに、その有能さと誠実な人柄から、男は支部内でも目立たぬ程度で最大限の信頼を周囲から得ていた。

「これでも『人を無闇に信じない』ゆうのがわてのポリシーなんやけどな」
「……お褒めの言葉と、受け取っておきましょう」

 口元には笑みを刻み、しかしその声には明らかな棘を含ませて自分を見るアラシヤマにも、元副官はただ苦笑するような顔を返しただけだった。なんやわて、また人間不信酷ぅなりそうや、と言いながらアラシヤマは顔にかかる髪を払うように首を振る。

「もっとも、私があなた方の団にお邪魔していたのは、元はそちらの軍事技術を学ばせていただくためだったのですがね」

 思わぬ仕事をすることになってしまいました、と他人事のようにこの男は言う。

「本性は、アレの側近ちゅうことか」

 アラシヤマには既に確信があった。いつだって、ヒントはその気になればすぐ目の前に転がっていたのだ。

「暗殺なんて裏稼業やったら、銀の銃身なんて使うはずがあらへんわな。なんやおかしいと思うたんは、それか」

 男はすぐには答えない。
 だがやがて、アラシヤマの問いかけの直接的な答えとは別のことをぼそりと呟いた。

「―――あの方も、以前はああではなかった」

 常に穏やかそうに見えて実際は何も映し出してはいなかったその瞳が、一瞬だけ、どこか遠くを見るような色に変わる。

「私は生まれたときから、あの方の側近となるべく育てられてきました」

 上層階のどこかから風が入り込んでいるのだろうか。それとも島を取り囲む海の波の音がここまで聞こえてくるのだろうか。ほんの微かな潮騒のような音の中で、男の静かな口調が、薄暗い岩壁にこだまする。

「初めて記憶にあるのは、五歳くらいの時でしょうか。あの方はちょうど三十前で、軍部からこの国の政権の一隅に参画を始めたばかりだった。功績より家柄で選ばれた政治家と後ろ指をさされながらも、努力を積み重ねて得たその優秀さで、誹謗中傷をすべて捩じ伏せて」

 男はそこにアラシヤマがいることなど忘れたかのように、独白のように台詞を繋ぐ。

「―――何より、あの方の描く未来は、我々国民すべてにとって、初めて持つことができた夢だった」



 この世の全てが干上がりそうな、灼熱の陽光が降り注ぐ真夏の盛りの日。
 見たことも無いような一張羅を着せられて初めて出会った「主人」は、日に灼けて声の大きな、精悍な顔をした男だった。

――― この子が、将来私の片腕となってくれる部下か。

 そう言って、ほんの五歳に過ぎなかった自分と目線を真っ直ぐに合わせ、

―――私の歩く道はおそらく平坦ではないだろう。―――苦労させるかもしれんが、よろしく頼む。

 澄み切った笑顔を浮かべた後、子供の砂色の髪をクシャクシャと撫でた。
 


「迷いなど一つも無かった」

 自らは表舞台にはほとんど立つことなく、たとえどれほど危険な仕事を一身に請け負う運命の下に生まれようとも。その先にある眩いばかりの未来を思えば、この身などいくらでも投げ出すと決めた。

「あの方は、この国を正しく繁栄に導こうと。先進諸国にも劣らぬような、近代国家に成長させようと、心の底から願っておられた。その夢に邁進され、日々粉骨砕身、働いていらした」
「……あんさん……?」
「この国の政治は、本当に何の希望も無いものだった。あの方は唯一の希望だった。そのお役に、少しでも立てるのなら何でもよかった。私の本来の役目はあの方の護衛でしたが、あの方がお命じになることでしたらなんでもやりましたよ。暗殺、誘拐、洗脳―――それこそ、あなたがたの団が、以前請け負っていたような裏の仕事すべてをね」

 男は自嘲するでもなく、ただ事実としてそれを口にした。褐色の肌にどこかインテリらしき風貌を持つ男の表情には、微かな変化すら現れない。しかしアラシヤマは、その手がいつしか堅く握り締められていることに気付いていた。

「それなのに―――」

 たとえどれほど汚い仕事を命じていても、彼の目指すところは揺るがなかった。そのはずだった。しかし徐々に、やむをえないときだけの「最後の手段」であったそれらの仕事は数を増していき。そのひとつひとつが、確かに彼の精神を蝕んでいった。心のバランスが徐々に荒廃に傾いていくのを目の当たりにしながら、止めることもできずに。
 夢のための手段は、やがて目的に変わっていた。
 幾度、叱責を覚悟で進言しただろう。だがそのたびに、己が主人は笑って言うのだ。これは仕方の無いことなのだ、と。どういった未来を描くにせよ、まず権力を手に入れれなくては何一つ変えることはできないのだと。そして、当初の主な仕事であったはずの護衛任務から、外される回数が増えた。
 思えば、その時からもう、何かが狂い始めていたのだ。
 そして、国民の支持を失い、何もかも失った今となって。
 彼が求めたのは、己を否定したこの国のすべてを、無に帰すことだけだった。

「……貴方だったら、どうしました。自分が身も心も捧げて、ただこの人のためだけに生きようと決めた方が、そうした行動をとるようになったら」

 男は、苦笑するような表情のまま、アラシヤマにそう問いかける。
 ただ黙して元部下の独白を聞いていたアラシヤマの顔に、初めて明らかな不愉快の表情が刻まれた。

「―――あない狸親父とわての麗しのシンタローはん、一緒にせんといてや」

 そうして、砂色の髪をした男の目を、真正面から見据える。口にする言葉には僅かの迷いも見られない。

「シンタローはんは大丈夫どす。あんお人は、そういう自分の弱さを、誰よりよう知っとる」

 しかしそんなアラシヤマの姿を、まるで痛ましいものでも見るかのような表情で男は言う。

「この世に『絶対』などはありえない―――どれほど信じていたとしても、人は変わる。権力の前に、この世界の醜さの前に、そして何より、自らの夢の前に。貴方の敬愛する総帥がそうならないという保障など、どこにもない」

 男は過去の自分の姿に、アラシヤマを重ねて見ているのだ。盲目的に己が主を敬愛し、疑うことすら知らなかった過去の自分に。
 
「そうなったとき―――、貴方はいったい、どうするんです?」



 
 ほんの少しの間、重い沈黙が部屋に流れる。だがその問いかけに対してアラシヤマが何かを答える間もなく、男は無線機での呼び出しを受けて部屋から出て行った。
 
 男の言ったことを、アラシヤマは愚問だと思った。所詮この現状を招いた敗者の詭弁に過ぎないと。しかし何もかもを諦め、まるで自問するようだった男の言葉は、なぜか耳から離れない。
 だが、アラシヤマは今はあえてそのことを考えないようにした。  
 砂色の髪の男は急ぎ足で去った―――監視カメラの配線に手を触れることもせずに。
 それが故意であるのか、それともただ単に忘れただけなのかはアラシヤマにはわからない。どちらかといえば前者の可能性が高いだろう。罠かもしれないとは思う。それでも。

(わての、諦めの悪さは。同期の間じゃ有名だったんどすえ)
 
 何せ、誰もが敵わないと認めていたシンタローに、最後まで挑みかかるのをやめなかった唯一の男なのだ。
 あの男はアラシヤマの出せる炎の限界が、せいぜい有機物を燃やすのに十分な程度だと認識しているらしい。それはある意味では正しかった。アラシヤマは支部の人間にすら、己の「奥の手」の存在は明かしていない。過去の任務で自らの炎で切り抜けられなかった場合にも、その局面に応じて爆薬や武器を利用してきた。あの島以来ただの一度もそれは使ったことがないし、そもそもその技は、明かすような類のものでもない「禁じ手」だ。

(―――火事場の馬鹿力って、こっちの言葉でなんてゆうんやろな)

 そんなことを思いながら、徐々に体温を上げていく。狭い場所だが、岩石を積み上げられて作られたこの部屋ならば、隙間風は十分に入ってくるのでなんとかなるだろう。よしんばならなかったとしても、今この状況では他の選択肢は無い。
 
 鉄製の手錠が内側から熱される。
 紅の、太陽のプロミネンスにも似た炎が、ゆらりとアラシヤマの身体から立ちのぼった。

(純度百の鉄の融点は、摂氏1535度……変形させるだけやったら1450で十分や)




『on the wild world』  act.6 












 会議が終了し、出席者が各々自分の取り仕切る部署へと戻っていく。シンタローもまた総帥室へと戻った。傍らにはまだキンタローがついている。
 総帥室の執務机の前に腰を下ろしたシンタローは、さすがに疲れたようにやや顔を仰向けたまま閉じた両目を片手で覆った。まったく、ほんの数時間前までは家族水入らずの楽しい昼食を思い浮かべていたというのに。今のこの状況の変わりぶりは一体なんだというのか。
 そんなシンタローの様子に、キンタローはあえて自分からは声をかけなかった。ほんの少しの間でも、シンタローの心を休ませてやりたいという思いがあったからだ。
 だがそうした甘やかしに応じるシンタローではなく、目を閉じたまま、キンタローに話しかけた。
 
「キンタロー。あのよ……」

 言いづらそうに発されるその声に、皆まで言わせずキンタローは首肯する。

「わかっている。ただちにυ支部に向かい、当面のアラシヤマの代行指揮を執ろう」
「ん……、悪ィな」

 今この状況で、シンタローの傍から離れるのは正直不安ではあったけれど。しかしこうした現状の下に、自分以上の適任者がおそらくいないというのも、キンタローは理解していた。

「―――無理は、するな」
「……」

 キンタローのその言葉には、複数の意味が込められていた。だがシンタローはあえてそ知らぬふりをして、不敵な笑みを浮かべてみせる。

「なんの、話だ?」

 そんなシンタローに、キンタローは眉根を寄せて。だがそれ以上は何も言わずに出立の準備を整えるため、シンタローと別れ本来の自分の部署へと向かった。



 その日の午後の仕事を、キンタローという有能な補佐を失したまま、驚くべき集中力でシンタローは完了させた。そして、今日は疲れたからと言い残して、いつもに比べれば早々に自宅へと引き上げる。
 シンタローがずっと待ち続けた、夜がやってきたのだ。



***



 団のすぐ隣にある私邸に帰ってから、シンタローは簡単な夕食をとった。それから使用人たちに、今日はもう寝るから誰も部屋に近づかないようにと念をおして、自室に篭る。
 時刻は午後十時過ぎ。ほぼ予定通りの時刻だ。
 広い部屋の隅に置かれたベッドの横。足触りのいいカーペット敷きの床の上に、部屋着姿のシンタローは胡坐をかいている。その前に広げられているのは、昼間くすねておいた一枚の見取り図。それを頭に入れながら、シンタローは脳内で無数のシュミレートを行っていた。
 だが、そうしていたのはほんの僅かな時間に過ぎない。結局は、行ってみなければ何もわかりはしないという結論に達した。
 何かを飲み込むように、シンタローは一度、目を閉じて。
 さて、と思いながらゆっくりと開いた目には、それまでとは全く異なる種類の光を宿していた。
 とりあえず、部屋に常備してある戦闘用の道具の数々を、片っ端からベッドの上に並べる。

(一応、一通りは揃ってる。……細々したモンはしょーがねえし、あとは勘で何とか……)

 モニターの中であの男は言った。「そちらが妙な動きをした際には、容赦なくあの男の首を落とす」と。

(あんだけ言い切るってのは、ハッタリか、それとも別の内通者がもう本部にも入り込んでるってことか……。どっちにしろ、本部でアレコレ動くのはさすがにヤバイよな)

 一般団員にまで懸念を抱かせたくなかったし、他の幹部連に自分の取ろうとしている行動を気付かれたらそれこそコトだ。
 少なくとも目的地に着くまでは、誰かに邪魔をされては困る。その後のことは、今夜中にティラミスとチョコレートロマンスに置手紙でもしておけば、あの有能な二人のことだ。内心はどうあれ、半日くらいは何とかごまかすだろう。
 その手紙を目にしたときの二人の様子が目に見えるようで、さすがのシンタローの良心も痛む。しかし今回ばかりは目をこぼしてもらうしかない。

(―――だって、ほかに、どうしようもねーし)

 並べられた救急キットや拳銃の類を前にぼんやりとそう思う。
 だがその次の瞬間、不意に聞こえたコンコン、というノックの音に、思わずびくりと身を起こした。
 使用人たちにはかなり厳重に言い聞かせておいたはずなのに。武器類を慌てて布団の下に隠しながら、「だ、誰だよ」と問いかけると、深みのある渋い、だがどこか暢気な声が返ってきた。

「誰だとはご挨拶だね―――パパだよ」
「お、おお親父ぃ?」
 
 思わぬ来訪者に、シンタローは焦る。なんでこんなときに、と、なんでいるんだ、が頭の中で二重に混乱を引き起こしていた。たしか三日後くらいまで、なんとかミドル大会だとかファンクラブイベントだとかで日本に出張しているはずではなかったのか。
 そんなシンタローの心境を知ってか知らずか、マジックは飄々とした声音を一切変えずに、部屋の中へと問いかける。
 
「入ってもいいかい?」

 いつもならば自然な流れであるその要望にも、今のシンタローは応じることはできない。
 非常に悔しい話で、また情けない話でもあるのだが。顔を合わせてしまえば、もう隠しきれる自信はなかった。

「だ、ダメだダメだダメだ!今は立ち入り禁止!!」
「フーーーン。つれないね。シンちゃんの顔が見たい一心で、急いで帰ってきたのに」

 言いながら、マジックは閉ざされたドアに軽く背を凭れさせた。シンタローもまた、マジックに意地でも部屋に入らせまいと、入り口を閉ざすかのように、ドアの内側を背にすとんと腰を下ろす。
 扉一枚を隔てたこちら側と向こう側で、親子は会話を続ける。

「昼間の会議、ティラミスたちが褒めていたよ。終始落ち着いていて、非常に立派な態度だったって」

 やっぱりパパの子供だねぇ、鼻が高いよ、とマジックは満悦の態で言う。だが、さすがにそんな事を告げるためだけにわざわざ日本からとんぼ返りをしてまでここに来たのだとは、シンタローにも思えない。
 マジックの言わんとしていることは、多分もうわかっている。だがそれにどう対処していいのかがわからずに、シンタローは無言の返事を返すしかない。
 そんなシンタローの心境を察したのか、マジックが苦笑するような声で、ゆっくりとシンタローに語りかけた。

「シンちゃん」

 それは幼い頃によく耳にした、優しく穏やかな、しかし心のどこかにこの男には絶対に敵わないという諦観を呼び起こす声。

「―――パパの助けは、必要かい?」

 ああ、だからコイツのことは好きじゃないんだ、シンタローは思う。それとも、世間の一般的な男というものも、いつまでも父親という存在には敵わないものなのだろうか。
 ドアの内側に背を凭れさせながら、シンタローは小さくため息をついた。

「……できれば、頼りたくなかったんだけどな」

 この薄い障壁が自分と親父の間にあってくれてよかったと思いながら、シンタローはその希望を口にする。

「明日の正午まで、あの部屋に居てくれ。―――紅いジャケットは、預ける」
「正午までだね、わかった」

 マジックはシンタローの台詞など見越していたように、この、ある意味では途方も無い息子の願いを、さらりと承諾する。

「それ以上は一分でも待たないから、遅れないよう気をつけて」
「……悪ィ、な」
「シンちゃんのためだったら、仕方ないさ」

 シンタローの珍しい真剣な感謝の言葉に、マジックはあえておどけたような口調で返す。その感謝を言われる原因があの男だというのは実にシャクだけどね、とあながち冗談ではなく思いながら。
 それでも、これだけは言っておかなくては、とマジックは無人の廊下に、かつて戦場で見せていたような冷たい光を宿した視線を投げかける。

「ただ、シンちゃんにもしものことがあったら」

 シンタローの背後から聞こえるその声は、とても穏やかで―――

「―――私はあの男を、一生許さないよ」

 そのくせ、声だけで、人の背筋を寒くさせるような迫力を含んでいた。
 いっそあの馬鹿に直接言ってくれ、と内心で思いながら、シンタローは一人、天井を見上げる。これは何が何でも無傷で帰ってこないことには、あの根暗男は、もしかしなくても一生捕虜のほうがまだマシだったという目に遭わされそうだ。
 マジックとの会話が終わり、その足音が遠ざかっていく。
 だが、どうやら今日はアポなしの訪問者の多い日らしい。マジックの気配が完全に感じられなくなったその時、カチャリ、と微かな、しかし確かにどこかの鍵を開ける音がした。
 それはそれまでマジックがいたドアのほうではなく、その反対側に位置する窓のほうから聞こえてきて。シンタローは条件反射のように身構え、音が聞こえてきた窓に向かっていつでも眼魔砲を放てるような態勢をとった。
 
 しかし、そこに現れたのは、シンタローが頭の片隅にすら、欠片も予期していなかった人物で。


 すらりとしたその身に中国服をまとい、夜を背景にして、開いた窓枠に立て膝をつくような姿勢で両足と片手とをかけているのは、あの傍若無人な叔父の、腹心とも言える部下.。―――マーカーだった。



***



「夜分に失礼いたします、新総帥」

 言いながら、呆然としているシンタローを後目に、トン、と部屋の中に降り立つ。シンタローの手の中に集められていたエネルギーの塊が、やり場を失って四散した。

「新総帥にお会いする前に、他の方々のお顔を拝見したくはなかったもので。不躾な訪ね方をして申し訳ありません」

 しかしガンマ団総帥の私邸のセキュリティーは流石ですね、ここまでたどり着くのに大分骨を折りました、と汗一つ浮かべていない涼しげな顔で男は言う。
 シンタローは一難去ってまた一難、の心境そのままに、ただ酸欠の金魚のように口の開閉を繰り返す。だがそんなシンタローの戸惑いや困惑などまるで気にしていないらしいマーカーは、あくまでマイペースに。己の言いたいことだけを飄々と述べていく。

「なにぶん、時間がないもので、早々に用件に入らせていただきます。―――私の、不肖の弟子が、敵方に囚われるという醜態を晒しているとか」

 その言葉を聞いて、シンタローの顔色が変わった。

「な、なんでアンタ、それを……」
         ハム
「我が隊には、無線いじりが趣味のイタリア猫がおりましてね」

 まだ混乱から立ち直れずにいるシンタローの問いかけに一瞥を投げかけ、濃紫の中国服の男は、すぅ、と流れるような動きで足を進める。

「弟子の不祥事の後始末は、どうか、私に」
「……え?」

 思いもよらない人物の思いもかけない申し出に、シンタローの頭は容易にはついていけない。

「だっ……て、アンタ、特戦は―――もう」

 特戦部隊は事実上、もはやガンマ団の下にはない。三億円と共に団を去った部隊は、まれに団の燃料補給地点に現れ艦の燃料を強奪していくという話は聞いていたが、表面上でもまた事実としても、ガンマ団とは互いに完全な没交渉の状態にある。
 団は特戦の動きに口を出さない。そして、特戦もまた、ガンマ団には関与しない。そうした暗黙の了解 は、犯さざるべき不文律としてそこにあったはずだ。

「ええ。……ですので、この件に携わる間、私は隊を離れております」

 シンタローの困惑は深まるばかりだ。隊を離れる?自分が物心ついたころには、既にあのアル中オヤジの片腕となっており、今に至るまで、おそらくほとんどの人生をあの叔父の傍らで過ごしてきた男が?
 
「つまり、今回の件は私個人との契約となりますが。―――いかがなさいますか?新総帥」

 とても信じられない気分で目を白黒させるシンタローに、マーカーは背筋をピンと伸ばし。無意識に染み付いているのだろう無駄の全くない優美な動きで、己の胸を手のひらで押さえる。

 アラシヤマとこの男が長く師弟関係だったことは、もちろんシンタローも知っている。その絆は(両名の気質も原因して)通常の武術の師弟関係などというものとは異なる、おそらく他者には理解の出来ない類のものだということも。
 だが、それにしても、この男が隊を離れてまで弟子を救いに行くと言い出すとは考えもつかなかった。
 アラシヤマにとってのこの男の存在も、この男にとってのアラシヤマの存在も、それがどのような意味を持っているのか、自分はきっと推測すらできていない。
 単純な師弟愛、などというものでは、きっとないのだろう。自分という存在が引き金になったとはいえ、過去に本気の殺し合いを演じた二人の間にあるのは、そんな生易しい感情では、おそらくない。それでも、互いを慮る何らかの情が、やはりそこにはあるというのだろうか。 
 この男の真意が、シンタローには、読めない。
 上目遣いにじっとりとマーカーの細面をにらみつけ、シンタローは慎重に言葉を口にする。

「―――アンタには、頼まねぇっつったら?」
「でしたら、仕方がありませんね。私一人で向かうまでのことです」
「そんで、助け出せたら……アイツはどうすんだ」
「さあ……。連れて行くか、その場で始末するかは、あの馬鹿弟子の顔を見て決めましょう」

 尊敬する美貌の叔父とは違う。女顔というわけではないのに、確かに譬えようの無い艶やかさを持つこの男は、その顔色一つ変えず、のうのうと言ってのける。

「どちらにせよ、死んだものとお思いください。こちらにお戻しすることはないでしょうから」

 シンタローは、しばらくの間、一体どうしたものかと頭を抱えるしかなかった。まさかこんな展開が待ち受けているとは、昼間の時点では予想もしていなかった事態だ。これは自分がしようとしていることにとって吉なのか凶なのか、と本気で考え込む。
 しかしやがて、覚悟を決めた。
 ぐっ、と顔を上げて、マーカーに向かって、自暴自棄のように言う。

「―――俺が、行くんだよ!」
「……は?」

 今度はマーカーのほうが目を丸くする番だった。

「貴方が……。新総帥ご自身が、ですか?」
「……ああ」
「割ける手駒がないから、見捨てられるとおっしゃったのでは?」
「だから、『駒』は、ねェよ」

 吐き捨てるようにそう言う若き新総帥の顔には、心なしか朱が上っているような気がした。

「……それで、将自らが動かれる、と?……―――ク、クク……ハハハ」

 どう見ても笑い上戸なタイプには見えず、そして現実に笑っている顔といえば皮肉めいたものしか思い浮かばない男が、シンタローの言葉にこらえきれなくなったように、声を出して笑い出す。
 それはマーカーにとって、この場にマーカーが現れたことに対するシンタローの驚きと同じかそれ以上に、意外なことだったらしい。
 シンタローは己の行動の無茶を笑われているような気になったせいか、それともあんなヤツのために単身敵地に乗り込もうとしていたことを告白する羽目になったせいか―――否、おそらくはその両方で、もはや自分でもよくわからない破れかぶれの感情に奥歯を食いしばった。
 ただ、とやや強めの語調で言ってマーカーを指差す。

「アンタとも契約する。契約期間はアラシヤマ救出まで。報酬は日本円で二百万だ。後でアイツの給料から全額差っ引くとしても、それ以上俺の預金口座からアイツのために動かす金なんざねぇ」
「十分です。隊長の一週間分の酒代くらいにはなるでしょう」

 まだ笑いの余韻を残した表情で、マーカーは答える。
 もうどうにでもなれ、というような心持ちで、シンタローはマーカーにもうしばらくの間待つようにと命じた。そして、ガンマ団の戦闘服ではなく、あえてあの南国で着慣れていた白いトレーニングシャツと黒のカンフーパンツを身につける。長い黒髪をギュッと後ろで一つに括り、肩に小さなリュック一つをかけて、シンタローの準備は整う。

 そして、よっしゃ行くゼ!と意気揚々とドアを開けた、そこに立っていたこの夜最後の来訪者は。
 すでにかわいらしい寝巻き姿に着替え、ナイトキャップまで身につけているグンマだった。



***



 勢いよく飛び出してきた部屋の主にぶつかりそうになったことにグンマはまず驚き、その後にシンタローの背後に控えているマーカーの姿に気付き、さらに驚いたようだった。だがすぐに、そっか、と言って納得したように微笑う。
 その両腕には、格好に不似合いな無骨な機器がいくつも抱えられている。

「グンマ……」
「あのね、シンちゃん」

 にっこりと笑いながら、グンマはシンタローのその服装にも、こんな時間からどこに行くのかということにも何一つ触れず。ただ、はい、と言って手に持つ荷物をシンタローに渡した。

「それ、新開発の暗視スコープ。光量増幅型じゃなくて、潜水艦のソナーみたいに音波の反射を拾うタイプだから、光にも強いよ」

 なんともいえない表情のまま機器類を受け取ったンタローに、それらの使い方を一つ一つ説明する。

「そっちの小型赤外線スコープと組み合わせられるから、一緒に持っていって。で、こっちは高松の研究室からもらってきた、一時的に代謝を高めて怪我の直りを早くする傷薬と、大体の毒に効くっていう中和剤。お礼は帰ってからの研究協力だってさ」

 そして最後に、ポケットから小さなものを出して、それをシンタローのカンフーパンツの腰紐に結わえ付けた。

「で、あとコレ。日本の有名な神社のお守りだよ。おとーさまと、さっきちょっと話したんでしょう?そのとき渡せなかったからって」

 なくさないでね、と心配そうに言う。呆けたような表情でグンマのなすがままになっていたシンタローは、やがて、ゆっくりと片眉を上げて。見ようによっては情けないと呼べなくもない表情を作ってから、仕方なく苦笑した。

「……そんな、バレバレだったか?俺」
「僕たちにとっては、ね。大丈夫、他の団員や幹部の人たちにはばれてないから」

 何もかもお見通しってワケか、とバツの悪そうにシンタローは言う。

「言っとくけど……あのバカだから、ってんじゃねーからナ」
「うん、知ってる。アラシヤマじゃなくても、僕らの知ってるシンちゃんだったら、どんなときでも『仲間』を見捨てられるはずがないもの」

 ―――でも、きっとこれが他の人だったら、もっと丁寧に計画を練って、いろんなひとに相談してからにするよね?アラシヤマだから、自分で行っちゃうんだよね?という言葉は心の中だけで呟いて。寂しさに少しだけ似た色をその顔に現した後、シンタローの背後に黙って控えているマーカーに目を移した。

「マーカー……、シンちゃんを、よろしくね」

 その面差しの中に、かつてはなかった「兄」としての表情を、マーカーは見つける。

「―――承知いたしました。私の名に誓って、お守りいたします」

 頷きつつ口にした言葉は、その場凌ぎのものではなく。
 シンタローとグンマという二人と実際に顔を合わせたことで、やはりあの人と血を同じくする一族なのだと実感し。それなら十分に、守るに値する相手だと確信を深めたのだ。
 





 夜が、更ける。



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 新体制の発足後少しして、あの島で共に戦った彼ら四人を、世界各地の主要な支部に派遣した。それは支部長という立場でこそなかったが、実質はその目付け役であり、新たな総帥の意思を各地に伝える指導役として。固い絆で結ばれている彼らを、散り散りに派遣すると決めたのはほかでもない自分だった。
 

 傍らに居て助けとなって欲しいという欲求は、もちろんないわけではなかったけれど。総帥になって初めてわかった。真に信頼できる人間とは、いかに得難いものなのかということを。そして、この団がいかに巨大な規模を有するものだったかということを。本当に今更だと自嘲しながらも、ようやく単なる知識としてではなく、シンタローはそれを理解したのだ。



 別れの挨拶に割ける時間はさほど多くはなくて。五人揃うことができたのは、出発間際の各人が乗り込む艦が用意されたデッキの上、ほんの十分程度のことだった。
 互いの心はもう確認するまでもなく。ただ、らしくもない感傷と友と離れる純粋な寂寞感に、全員が確固たる意思を映した表情の下に少なからぬ淋しさを隠しながら、それでも明るい笑顔で、最後まで馬鹿話に興じていた。



 ただ、最後の最後。それぞれがそれぞれの地に向かうほんの寸前、シンタローのそれまでの笑顔が、急に歪み。その表情が、余裕を宿した総帥のそれから、士官学校時代から言葉に出来ないほどの経験を共有してきた四人の、仲間としての感情を露わにしたものになる。
 耐え切れなかった。言葉を、今更とわかっていながらも抑えきれない想いを、吐き出す。


「―――他の事は、全部お前らの判断に任す。任地についてからの差配に、基本的に俺は口を出さない。ただ」


 抑えられた低い声。その眼差しは痛切なまでに真剣で。


「何があっても、死ぬな。それだけは―――約束しろ」


 命令を下した自分の立場に対するその言葉の欺瞞や、口にすることの気恥ずかしさも重々承知していながら、どうしても言わずにはいられなかったのだ。
 出発の準備が整った艦が、エンジンを回し始める。巻き起こされた強い風に、シンタローの長い黒髪と、軍用コートの裾がなびく。







 ミヤギは、「言われるまでもねぇべ。オラにどーんとまがせとけ」と胸を叩いた。


 トットリは、「シンタローにそんなこと言われるなんて、明日は大雪だっちゃね」と悪戯っぽく目を細めた後、「忍者は逃げるのが本領だわいや」と破顔した。


 コージは、「おんしにゃぁ敵わんかもしれんが、体の頑丈さには自信があるけんのぉ」と豪快に笑った。


 そして、アラシヤマは――――――





















『on the wild world』  act.1





















 その日、ガンマ団本部では珍しく穏やかに時間が流れていた。積み上げられた書類の山の頂上に最後の一部を乗せたシンタローは、総帥室の豪奢な椅子の上で、んーーーと大きな伸びをする。革張りの重厚な椅子が、ギィッとほんの少しだけ軋んだ。
 午前の仕事はこれで終わりだ。午後にもまた仕事は山積しているが、それでも常に比べれば余裕がある。いつもなら次から次へとやってきて皮肉を浴びせる重鎮連中の特攻もなければ、巧妙にその意図を隠しつつ、それでも明らかな新総帥への嫌がらせを含ませた穴空きの報告書も来ていない。その分だけ仕事は滞りなく済んだ。

「あー、なんか、今日は色々うまくいった」

 傍らに付き添ってシンタローの仕事ぶりに目を光らせていたキンタローに、そう言いながら笑いかける。キンタローもまた口元に微かな笑みを刻んで首肯した。

「フ……そうだな。午前の仕事がちゃんと午前中に終わったのも、かなり久しぶりだ」
「んだよ、ソレ。嫌味のつもりかぁ?オメーも随分口が達者になってきたじゃねーか」
「そういった意味合いを含ませたつもりはない。ただ、お前はいつも仕事を詰め込みすぎだとは思っているがな」

 言いながら、シンタローが決裁を終えた書類を整えなおし。提出された部署に再度戻すものと、保管に回すものにてきぱきと仕分けていく。
 その様子を、シンタローは頬杖をついた姿勢で気楽な表情のまま眺める。ほんの数分の後に書類は綺麗に分類され、あとは秘書たちに持っていかせるばかりになった。

「しかしひっさしぶりに時間空いたなあ。研究課行ってグンマと飯でも一緒すっか」

 折りしも時刻は昼飯時。今すぐに迎えに行けば、あの天才肌で、そのくせ『仕事』と名のつくものに対しては全く集中力に欠ける兄弟は、たとえ既に自分が昼食を終えていたとしても、二つ返事でうきうきと二人の食事に付き合うだろう。もっともそれは、彼がまだ研究室から抜け出して遠方までは行っていないということが前提だが。

「ああ。お前が総帥に就いてからロクに話も出来んと、この前またスネていたからな。顔を見せれば喜ぶだろう」

 キンタローの同意を得て、シンタローは善は急げとばかりに椅子から立ち上がる。だがそうして研究課に足を向けようとした二人は、総帥室から足を踏み出した瞬間、思わぬ速さで駆けつけてきた「何か」と危うくぶつかりそうになった。
 屈強な男二人の手前に数センチを残し、慌てて足を止めたのは、赤茶の髪をした細身の団員。

「も―――申し訳ありません」

 両手でバインダーを抱えるようにしてその場で頭を下げた団員は、前総帥の秘書であり、現在もその職務を全うしながら、古参団員として団の総務を取り仕切るティラミスだった。

「んだぁ?ティラミスじゃねーか。珍しいな、お前がそんな慌ててんの。あの阿呆親父がまたなんかやらかしたか?」
 
 だがそんな軽口にもティラミスは表情を変えず。極限まで抑えられ、それでもまだ隠し切れない動揺をその面に浮かべたまま、シンタローに向き直る。

「―――新総帥に、急ぎ伝えねばならないご報告が」

 その口調と、常には見られない冷静さを欠いたティラミスの表情から、さすがにシンタローの顔が険しいものに変わる。間近に人が居たため開け放されていた扉はそのままに、首を一振りしてその内側を指し示した。

「……中で聞く。入れ」





***





「―――先ほど、当地時間11:58、υ支部から緊急の通信が入りました」

 手にした書類には目をやることなく。ただシンタローを真っ直ぐに見据えて、ティラミスはその報告を口にした。

「υ国前政権過激派の拠点に向かっていたアラシヤマ氏と、その部下一名が―――消息不明です」

 その齎された予想外の事実に、シンタローは思わず息を呑む。ティラミスの発した言葉のその意味を正しく把握するまでに、数秒かかった。
 そのときシンタローに湧き上がった感情は、怒りでも焦りでもなく。
 ただ信じられないという、それだけだった。

(―――あの、アラシヤマが?どっかで引きこもってるとかじゃねーのか?)

 そう内心だけでも茶化してみたが、普段から冗談すら口にすることの少ないティラミスの視線の前に、その試みがいかに空虚なものであるかを悟る。
 眼前の総帥のわずかな表情の変化に気付いたか気付かなかったか、ティラミスは努めて淡々と報告を続けた。

「υ支部からの通信は繋いだままにしておりますので、取り急ぎこちらにお回しします。直接の報告は任務に同行していた支部団員から」

 ティラミスの言葉が途切れるのと同時に、総帥室のモニターに年若い団員の姿が映し出される。自分の遥か高みに位置する総帥の前だというにも関わらず、その団員は焦燥と動揺にまみれたその内面を取り繕うことすらできず、もはや完全に顔色をなくしていた。

「シ、シンタロー新総帥……。申し訳ありません!!アラシヤマ上官が……!!」
「……まず、落ち着いて経緯を話せ」

 早口でまくし立て始める団員のその姿に一つ短い息を吐き。簡素ながら重厚な机の上に肘を立て、シンタローはゆっくりと両の手を組み合わせた。そしてそのまま、モニターの中の団員の顔を正面から見据える。
 厳しいわけではないのにどこか射竦めるようなその眼差しに、気圧されたかのように、団員の頭に上っていた血が若干下がった。
 時に吃り、筋を前後させながらもなんとか事情の説明を始める。





 υ国にクーデターが起こり、新政府が成立したのはほんの一ヶ月前のことだ。元々政情不安定な国で、民主国家との体裁をとりながらも現実にはほぼ完全な独裁体制が敷かれていた。その圧政は諸外国から見ても明らかで、さほど大きな国ではないにもかかわらず各国報道機関が週に一度は必ず何らかのニュースを流すというほど、その政情は劣悪なものだった。
 いつ何が起こってもおかしくはないという状況下にあったのが、二ヶ月前、当時の反政府組織の旗幟的存在であったある人物を政府が拉致・殺害したことにより、国民の大半の不満が一気に爆発した。反政府組織は民間だけで数万人に膨れ上がり、さらに軍部の過半も巻き込んだ。国際社会の世論もその背中を押し、クーデターが勃発して三日で前政権の首脳陣を全員解雇。それから一ヶ月間で国民投票の元、新政府が発足した。
 圧倒的な勢力の差から結果的にほとんど戦闘は行われなかったため、クーデターそのものにガンマ団は直接的に関わってはいない。ただほんの僅かに、前政府へ流れていく情報の撹乱、或いはその首脳陣の探索という形で手を貸していた。それはガンマ団にとっての正義であり、またその国の未来への先行投資でもあったので。
 ただ戦闘自体がなければ、ガンマ団の出る幕はさほど多くはない。とりあえずυ支部も新政権の今後の足取りを静観する構えだった。
 そんな折、新政府からガンマ団に正式な依頼が舞い込んできたのが三日前。相談の内容は、現政権の要人が拉致されたというものだった。その要人はすでに齢七十を超えており、穏やかな物腰とどこか威厳のある態度から、現政権ではまとめ役として一目置かれている。
 拉致した相手は前政府過激派の残党。さほど多くはないその数は、もし殲滅するのであれば新政府軍でも十分対応可能なものだった。ただ、立てこもっているのがある孤島の堅固な砦であったことと、破れかぶれになっている残党どもが、政府の軍を動かすことでどういった動きを見せるかわからないということ。この二つがネックとなり、隠密行動にも優れた人材を持つガンマ団に、お鉢が回ってきたのだった。
 ―――ここまでは、シンタローも既に書面上で把握していた部分である。



 要請を受けることが決まって半日で、υ支部では任務のための小隊が編成された。隊長は同地で前線指揮官としては最も高い任務成功率を誇るアラシヤマ。切れ者と支部でも定評のある二十代後半の団員が副官に就き、あとは爆発物処理の専門者と、各種通信機器や乗り物の扱いに長けた男―――このモニターに映っている団員―――が選ばれたという。
 
 砦への潜入は驚くほどスムーズにいった。警備兵の人数はさほど多くはなく、また、先陣を切るアラシヤマの前に、それらはほぼ他の団員の手を借りることなく次々と無力化されていった。ただ、時折アラシヤマが何かを考え込んでいるようなそぶりを見せていたのが、今となっては何かの予兆だったのかもしれない、とモニターの中の団員は語った。
 拉致された要人が捕らえられているその独房にも予定していた時刻通りに辿り着き。だがそこで、アラシヤマの行動におかしな点が現れたという。
 任務は完了しており、あとは撤収するのみとなったそのとき。アラシヤマは部下たちに捕虜を連れて船まで戻るよう命令して、自分はもうしばらくここに残ると言い出したのだ。
 もっとも、アラシヤマも一人残っての探索にそれほど長い時間をかけるつもりはなかったのだろう。おそらくはすぐ戻る、というその言葉を団員二人は疑わなかった。ただ、その際に副官だけは強硬にアラシヤマを一人残して戻ることに反対し、その後に付いて行ったという。
 団員二人が人質と共に船に戻ったのが任務開始から約三時間後の06:45だった。
 そして、アラシヤマとその副官は、戻ってこなかった。団員は事前に、07:50までには必ず船を出すようにとの指示をアラシヤマから受けていた。戻らぬ二人を心配し始めた団員が07:40にアラシヤマに連絡をとろうとし、そのときはじめて、アラシヤマとの通信が完全に途切れていることに気付いた。
 団員は僅かな希望を持って、万が一戻ってきたとしても叱責されるのを承知で8:00まで待った。
 

 だがそれでも、二人は戻ってこなかった。







「現在もまだ通信は途切れております。そして、あの島からはヘリか船がなければ脱出は不可能です……」
「―――そうか」

 報告を聞き終えたシンタローは、その両手の指をゆっくりと組みかえる。傍らに控えるキンタローの表情は緊迫していた。その状況で考えられる結論といえば―――アラシヤマとその副官が、敵の手に落ちたというそれ以外にない。
 だが、それを聞いているシンタローの顔色には、僅かの変化も見られない。

「依頼主への、人質の返還は既に済んでいるんだな?」
「え?あ、は……はい」

 唐突に、あまりにも当たり前、というか今となっては些事としか思えない確認の質問を受け、団員のほうが戸惑う。

「一先ずは任務の完了、ご苦労だった。上官の命令を違えなかったのは、正しい判断だ」
「……お言葉、身に余る光栄です。―――しかし」

 苦痛をこらえるように、何とか形式どおりの謝辞を口にした団員は、僅かに俯いてその表情を影にし。
 それからキッと、思いつめたような表情で顔を上げた。

「どうか―――どうか、捜索任務のご指示を!シンタロー新総帥!!」

 若い団員は必死の形相でシンタローに訴える。そこにいるのは、平静を欠いた一兵卒というよりは、まるで必死になって親を探す迷い子のようだった。もし眼前にいたとすれば、その胸倉に縋り付いて来んばかりの切迫した表情で、団員はシンタローに切々と語りかける。

「支部の者たちは皆、非常な不安を抱えております。もちろん、極力冷静になるよう支部長からの命令は出ておりますし、そのように動くよう努めておりますが―――。これまでここを率いてこられたのは、実質はアラシヤマ上官お一人でした。このままでは我々は―――」

 口にする内容は、彼にとっては掛け値のない本音だったのだろう。確かに、上がってくる報告書の類を見ていれば、υ国での節目節目の動きには必ずアラシヤマが何らかの形で関与してきていた。人間性はともかく、あれで仕事に関しては信頼の置ける男なのだ。そして、常に政情不安の中で明日をも知れぬ日々を送っていたυ支部で求められていたのは、何よりその能力だったということだろう。
 しかし、それを知っておきながら尚返されたシンタローの答えは、団員にとっては失望にしかなり得ないものだった。

「―――指示は、待機。当面はそれだけだ」

 団員の目が、信じがたいものを聞いたというように大きく見開かれる。

「そんな!こうしている間にもアラシヤマ上官は……」
「敵の目論見が、まだ見えてこねぇ。アラシヤマの現状もさっぱりだ。もし捕まってるとして、アイツを盾にとって何か交渉を仕掛けてくるつもりなのか、それともただ単に入り込んだ鼠を始末したつもりなのか―――そもそも、アイツがまだ生きてるっていう確証も、ないだろーが」

 ほとんど恐慌を来たしているかのような団員の態度に対して、シンタローの姿勢はあくまで平静そのものだった。冷たささえ感じられるその口調で発されるその言葉は、だが確かに正論である。
 納得出来ない、という顔でシンタローを見つめる団員に、シンタローは追い討ちのように言葉を重ねる。

「そんな段階で動くのは、あまりにもリスクが高い」
「―――……」
「先のことは追って本部から連絡する。取り急ぎ、アラシヤマの代わりとなる人員をそっちに向ける。それまでは通常業務をこなしてろ」
「し、しかし……っ!」
「これは総帥命令だ。いいか、何があってもお前たちの独断で動くんじゃねーぞ。テメーらの隊長がそれを望んでるとでも思うのか?アイツの意思を裏切るようなマネは、すんな」

 それだけ念を押して、まだ何か言いたそうな表情の団員を残しシンタローは支部との通信を切った。ふぅ、と短い息を吐いたシンタローに、キンタローが精悍な眉を顰めながら目を向ける。その唇が開きかけて何かを言おうとしたその瞬間、駆け足でこちらに向かう足音が聞こえてきた。
 現れた新たな来訪者は、蒼褪めた顔色のチョコレートロマンスだった。乱れた呼吸を整えるのと同時に総帥室の扉の前で略式の敬礼をし、急ぎ報告に入る。

「総帥……只今、υ国からの通信が入りました」
「……」
「―――前政府過激派の一味と思しき者が、団幹部との対話を要求しております」

 無音の室内に、チョコレートロマンスの控えめな、だがよく通るバリトンの声が響く。先刻、この室内の温度がこれより下がることはあるまいとシンタローが思っていたのは、どうやら見通しが甘かったらしい。
 誰にも気付かれない程度の刹那だったが、しかし確かに現れてしまった激情を、シンタローは奥歯を噛み締めて殺し。
 意識的に無機的な表情を作り上げ、入り口に直立するチョコレートロマンスに指示を出す。

「第二通信室のモニターに繋げ。通話の記録は会話開始と同時、逆探知のスタートは四秒後」

 そして総帥専用の重厚な椅子から、ゆらりと立ち上がる。黒皮のコートを肩にかけ、その裾を翻しながら歩き出したシンタローの表情は、もはや完全な『ガンマ団総帥』としてのそれだった。

「―――俺が出る。来い、キンタロー」














『on the wild world』  act.2 












 船をつけた岸壁は高さ三十メートルはあっただろうか。
 哨戒線を潜り抜けここまでやってくるため用意されたのは、ごく小さな潜水艇。島に着くほんの数十メートル前に浮上して着岸し、その崖を上って四名は島に上陸した。
 全員が戦闘服を身につけ、腰にはいざというときの救急キットや細かな作業用のドライバ類を入れたポーチを下げている。小型の無線機はイヤホン型で、拳銃を下げたホルスターは胸や太股など各々自分の最も使いやすい位置に装備していた。
 ロープやカラビナ、ロックハンマーなどを用いて着いた崖の上。ターゲットとなる砦は島の中央部に、闇の中にもくっきりとその黒い影が浮かび上がらせている。中世の遺跡を利用して作られたという砦は、新月の夜を背景に、常より一層禍々しい。

(―――ただ、人自体はそれほどおらんような感じやな……これならまあ、それほど難しいこともないか)

 そんなことを考えつつ、アラシヤマは視線を砦から部下の一同に移した。その戦闘準備がすっかり整っていることを確認し、淡々とした低声で語りかける。

「時計合わせ始めるで。55、56、57、58、」

 迷彩色の三人はそれぞれ利き手とは逆の手首に巻いた時計を見る。
                   ゴー
「作戦開始、04:04。ほな、行きなはれ」



***



 潜入は二手に分かれる。事前に依頼主から渡されていた内部の図面を見た結果、そうするのがもっとも適切と判断したからだ。砦の中は通路が狭く、集団行動にはまるで向いていない。そして砦自体はさほど大きいわけではないが、迷路のように入り組んでいる。アラシヤマと通信機器担当の人間、副官と爆発物担当の男がコンビとなり、二方向から砦に潜入。要人が収容されたとみられる地下二階の独房の前で落ち合う手順だった。

 アラシヤマに同道した団員も、ガンマ団の一員である以上一国の兵士レベルの戦闘訓練は受けている。だが、それでも本業は工作員だ。各所に配置された警邏兵の対応は、もとよりアラシヤマが行うつもりだった。
 砦の内部には細い道や階段が続く。基本的な構造はほぼ全て、中世のまま残されているようだった。その上で各所に電気のコードやボイラーらしきパイプが通されている様子は、いかにもちぐはぐな光景だ。
 出来る限り警邏の兵の目はかいくぐりながら進んできたが、ある吹き抜けになったホールのような部屋の前で、アラシヤマとその団員は足を止める。ホールにはマシンガンを手にした男が二人。そしてその部屋に、隠れる場所はない。
 アラシヤマが団員と目をあわせ、

(―――ここで、待っとき)

 唇の動きだけで待機を命じる。団員がうなずくのと同時に、アラシヤマは部屋の一隅に炎を放った。

 部屋の隅に突如燃え上がった炎に、警邏兵の注意が向く。その隙にアラシヤマは二人の背後に近づき、手に持つ銃器を叩き落した。
 落としたそれは部屋の入り口で待つ部下の下に蹴り飛ばす。これで、飛び道具への対処は完了だ。
 何が起こったのかも理解できていないような兵士二人を横目に、地面にとん、と手をつく。
 腕の力だけで、右前方に跳躍。
 左足を矮躯の男の側頭部に叩き込む。
 反転。
 着地時に飛び込んできた蹴りは地を滑るように屈んでかわし。
 そのまま足払いで転ばせて、尻餅をついた状態の男の喉笛と頚動脈を片手で締め上げた。

「―――終わり、や」

 その言葉と同時にアラシヤマの手の内にある男は意識を失い、ガクリと頭を地面に落とす。後方で待機していた団員は、倒れた二人の男の口に本部から支給されている強力な睡眠薬の錠剤を含ませ嚥下させると、念のため猿轡を噛ませ、手近にあったパイプに手足を束縛した。

 そのように敵を無力化しつつ、二人は砦の最深部へと向かう。到着するまでにやむなく対応したのはせいぜい九人といったところだろうか。過半は避けてやりすごしているとはいえ、一応は一勢力の拠点であるべき砦にしては、ここに配されている人間自体は少なかった。
 それはアラシヤマの当初の見込みどおりでもある。―――ただ。

(―――なんどっしゃろな、この、違和感)

 あえて言えば、静か過ぎる。
 人質に被害が及ばないよう、侵入自体は気付かれないために細心の注意を払っている。とはいえ、要人を拉致している拠点として、この警備体制はあまりにお粗末に過ぎはしないか。
 それとも、落ち延びた過去の権力者の力など所詮はこんなものなのだろうか。確かに前政府の首脳部に近い立場にあった人間は、ガンマ団の助けもあってそのほとんどが新政府の手の内で、かつての独裁体制時に行った数々の犯罪を裁かれている最中である。過激派の残党といっても名ばかりで、この砦とて、新政府の手が届かなかったというだけで選ばれた、破れかぶれのものかもしれない。
 そう色々と理屈をつけては見るものの、アラシヤマの内面に沸き起こる暗雲は晴れない。一体何が、こうも気になるというのか。

 アラシヤマたちが事前に決めておいたミーティングポイントである独房の前に辿り着いたとき、副官たちはすでにその扉を開ける工作をしていた。足元には看守らしき三人の男が倒れ縛り上げられている。 おそらくは侵入しやすいであろうルートを任せていたとはいえ、その迅速な行動にアラシヤマは満足し、二人の下に歩み寄った。

「隊長!」
「おつかれさん。全員、無事どすな」

 それなりの戦闘をこなしてきたであろうその二人にも、さしたる外傷はない。それを確認したうえで、アラシヤマは辺りの様子に気を配りながらも、鋼鉄製の錠前部分をレーザーで焼ききろうとしている部下の手際を見守る。
 数分も経たずに錠前は破壊され、そのほかになんのトラップも仕掛けられていないことを確かめた後、アラシヤマともう一人の団員が中に入る。そこには椅子に縛り付けられる形でうなだれた要人の姿があった。
 その生気のない姿に一瞬だけひやりとするが、近寄ってみれば微かな呼吸音が聞こえた。おそらくは拉致からの数日間、ロクな食事なども与えられていなかったのだろう。気力を失い、意識を保っていられなかったとしてもそれはごく普通の人間らしい反応といえる。
 取り急ぎ縛られている縄を切り、椅子から崩れ落ちてきた要人をアラシヤマは一旦支え、

「なんとか息はあるみたいやな。よし、あんさんらは、こんお人連れて早よ撤収しぃ」

 それを爆発物処理担当の、四人のうちで最も体格のいい男に渡した。人質を受け取った団員が、呆けたような顔をしてアラシヤマを見直す。

「へ?隊長は……」

 その問いかけに、アラシヤマは苦笑だけを返した。
 任務完了後の迅速な撤退は戦場の基本だ。そんなことは誰に言われなくても、アラシヤマ自身が十二分に理解している。
 だが。
 杞憂であればそれでいい。だがアラシヤマはこれまで幾度となく戦場をかいくぐってきた己の勘を、完全に無視することは出来なかった。

「わてはちょお……気になることがあるさかい、もーちょい残らせてもらうわ」
「そんな、でしたら我々も……!」
「そんお人、だいぶ衰弱してはるやろ。早いとこ艦に収容して介抱してやり」

 アラシヤマの言葉は正論である。確かに、その様子を見れば人質には明らかに適切な処置が必要だった。それも早急に、だ。
 しかしそれでも、部下たちはアラシヤマの指示に不安の色を隠せない。 

「大丈夫や、すぐ戻る。ただ―――わかっとるやろけど、万が一わてが戻らんでも段取りはそのままどすえ。人質の返還が最優先や」

 戸惑いは消しきれないようだったが、それでもアラシヤマの確固たる「命令」に、団員二人は了承の意を示し、それまで来た道を引き返し始めた。
 だが、彼らをアラシヤマの代わりに指揮していくはずの副官だけは。
 その場から一歩も動こうとせず、ただ己の上官のほうを向いている。
 ある意味では反抗的なその態度に、アラシヤマが眉根を寄せて、小憎らしいほどの平静を保った表情のその部下を見遣る。

「撤収せぇ、ゆうたのが聞こえんかったか」

 その目つきに明らかな剣呑さを含ませて言うアラシヤマの問いかけに、しかし副官は首を横に振った。

「お聞きできません。私は、隊長のお供を」
「……上官の命令に……」
「往路での人員配置の粗雑さを考えれば、人質の収容はあの二人だけで十分なはず」
「……」
「お付き合いさせてください、隊長」

 微笑すら浮かべながら言うその眼差しは、真剣そのものだ。
 現状と副官の意見を冷静に鑑みながら、とうとうアラシヤマが折れた。

「―――勝手にせぇや。せやけど、死ぬんやないで」

 その言葉は決してアラシヤマの親切心から出たものではなく。あくまで新総帥の意思の代弁だということはわかっていたが、それでも副官は諾としてアラシヤマの後を追った。



***



 独房の前から、アラシヤマが向かったのは更に奥の方角だった。事前に入手した見取り図ではこの砦は地上五階、地下二階の構成となっている。地下一階は食糧庫や武器庫など、砦の人員が出入りするためというよりは物質の貯蔵庫として使われており、地下二階は捕虜の収容所となっていたらしい。
 だが、かつてはそれだけの用途として使われていたという地下二階には、図面上には空白となっている部分も多かった。何かがあるとすればそこだと、アラシヤマの第六感が告げている。
 独房から更に進み、曲がりくねった矮路を抜けて、突き当たりまでアラシヤマはたどり着く。そこで勘は確証に変わった。見取り図で言えば、この先にはまだ大きな、何の目的もないまま放置されている部屋があったはずだ。
 そばにある壁を手探りで調査すれば、床に程近い部分に他の部分に比べやや艶の出ている石がある。それをずらしたところに、手前に引く方式のレバーがあった。

「―――まあ、砦ゆうなら、こんくらいの仕掛けはあらへんとな」

 呟きながらレバーを強く引くと、それまで突き当たりであった壁面が横にスライドする。そうして現れたのは大きなホールと、さらにその奥に見える一つの扉だった。
 ホールは地下一階部分までの吹き抜けになっているらしく、二階分の天井の高さがある。そしておそらく地下一階からつながっているのであろう、上部の外周には人一人が歩けるくらいの通路が付けられていた。
 とりあえずホールの内部に人の姿は見えなかったが、アラシヤマと副官は慎重に足を踏み入れ、なんの反応もないことを確認してからほぼ円形のその部屋の壁面に沿って駆け出す。
 そして、出口に当たる奥の扉に手をかけたそのとき。
 かたっ、という微かな音が背後、入り口の方向から聞こえた。

「隊長!」

 アラシヤマがそれに反応するより一瞬早く、弾丸を放ったのは背後についてきていた副官だった。
 銃身の短い拳銃から発されたその弾は、二十メートル以上離れた敵の右手を正確に撃ちぬいている。どうやら、アラシヤマたちが入ってきた入り口の上の部分にもう一つの進入口があり、狙撃者はそこからライフルでアラシヤマを狙ったらしい。
 その場に配置された狙撃兵というわけではなく、ただ単に、アラシヤマたちの後を追ってきた警邏兵の一人のようだ。その男以外に、人間の気配はなかった。それを確認した後に、二人は手を掛けた扉を開け、その先に続く通路に抜ける。
 駆けながら、アラシヤマが言った。

「ええ腕やな」
「恐縮です」
「何、使うとるん?団からの支給品やないどっしゃろ、ソレ」
「銃ですか?」

 任務中にもかかわらずアラシヤマがついそう尋ねたのは、その副官が用いたのがガンマ団では珍しいリボルバーだったからだ。戦場での任務を主とするガンマ団では、拳銃はほとんど装弾数が多く連発が可能なフル・オートが主流である。団からの支給品も特別な要請がない限りオートマティックのものだ。団の士官養成学校でも、どちらの扱いも習ったものの、どちらかといえばオートマティックのほうに重点を置いていた気がする。
 副官はアラシヤマに寄り添うように走りつつ、ホルスターにおさめかけた銃をアラシヤマの前に見せた。銀色の短い銃身が鈍い白光を放つ。

「S&W M640ですが」
「M640……センチニアルか」

 M640は米スミス&ウェッソン社の名銃M36をベースにした、小型のステンレス製リボルバーだ。服の中から抜き出す際に引っかからないよう撃鉄をフレームに内蔵してあり、携帯しやすいのが特徴だが、そのためダブルアクションでしか作動しない。グリップ部分に独自の安全装置は付いているが、本来乱戦に不向きのリボルバーの中でも、とりわけ戦場向きの銃ではない。
 初代モデルはもう五十年以上前に完成されており、その年がS&W社の創立百周年に当たったためセンチニアルの愛称がある。
 
「せや。あんさんは外部組でも、軍隊出身やなかったんやな」
「……ええ。元は暗殺請負業でした。やはり使い慣れたものが一番ですので」

 言いながら、副官は胸元のホルスターに銃をおさめる。

「サブではフル・オートも携帯しておりますよ、一応」
「ふーん」
「アラシヤマ上官も、リボルバーですね」
「ああ……わては別に、使い勝手じゃどの銃でも大して変わらへん」

 敵地にありながら、そして常人であれば五秒で息切れがするような速度で駆けながら、二人の会話はまるで団の食堂で交わすような暢気さだ。

「雑魚蹴散らすんなら炎で十分やし、脅しなら自動でも回転式でも大差ないどすやろ。ただ炎で壊せんもんがあったとき色んな弾薬が使えると便利やちゅう、それだけの話や」

 普段、仕事以外ではさして会話もしたことがない相手になぜこんな饒舌になっているのかと、どこか冷静な頭でアラシヤマは思う。だがなんとなく―――本当になんとなくでしかないのだが、この副官にはどこか自分と似た匂いを感じるのだ。

 
 独房までの道より明らかに入り組んでいる通路を抜けると、更に階下への階段が見つかった。それを降りようとしたときに、先ほど艦に返した団員の片方から通信が入り、人質は無事艦に収容されたことを知る。これで、とりあえず任務の成功は揺ぎ無いものとなった。

(深入りはせんでもええ。もうちょい、ここの用途さえわかれば)

 そう自分に言い聞かせるように心の中で呟きつつ、アラシヤマは階段を下りる。



***



 そこにあったのは、ただ一つの部屋だった。
 そこまでの遺跡交じりの砦とは、明らかに異なる空間。煉瓦作りの壁などどこにも見えはしない。扉さえない。
 鈍い白銀一色の、箱のような部屋は、白い実験用の長い机とガラスケースにだけ区切られており。それらの上、あるいは中には数え切れないほどの実験器具がそろっている。

 地下三階は、その階全体が、一個の研究施設になっていた。

(地下、実験施設……兵器……?ちゃう、これは)

 奇妙なことに、その場にいるべき研究員の姿は、一人も見当たらなかった。アラシヤマは多くの実験器具の合間を足音を消して歩き、奥の壁に据え付けられている合金製の棚に目をつける。その棚には厳重な鍵がかかっていた。おそらくは鉄以上の融点を持つそれは、アラシヤマの通常の炎では熔かせそうにない。
 先刻話していた内容をこんなにすぐ実践することになるとは、と思いながら、アラシヤマは同行している副官に下がっているように命じた。自分も三メートルほど下がり、銃のシリンダーから弾薬を一つ引き抜くと、あいた場所に腰のポーチから取り出した別の弾薬を詰めて再セットする。そして撃鉄を起こすと、錠前に対し角度をつけて引き金を引いた。
 さすがの堅固な錠前も、至近距離のマグナム弾の直撃には耐え切れない。ひしゃげた戸を無理やり外して、アラシヤマは中の書類を手に取る。
 そこに保管されていたのは、膨大な量の研究レポートだった。おそらくは数百枚はくだらない白い紙の束が、いくつもにファイリングされて収められている。
 アラシヤマが何気なく選んだファイルの中から、まず目に飛び込んできたのは、なんらかの化学式だった。五角形や六角形の線の間にいくつかの元素記号が書き込まれている。その図の合間に書き込まれている英文の内容は―――

(――……ッ!)

 その意味を理解したとき、アラシヤマの顔色がさすがに変わった。
 さらに詳細な資料を求めて、他の段を漁る。だがその次の瞬間。

 本能的に感じた危険に、アラシヤマはバッと勢いよく振り向いた。同時に上方から打ち下ろされる何かを防御しようと、両手を頭上で交差する。
 だがその防御は何の効力も持たず。打ち下ろされたそれが腕に触れた瞬間、雷を浴びたような衝撃を受け、眼前が白く染まった。

 その意識を失う間際。目に入ったのはガンマ団では見たことがない種類の武器―――おそらくはスタンガン―――を手にし唇を歪めている、つい三分前まで己の従順な部下であったはずの男だった。

「……あ……んさ……」
「―――本当は、もう少しあなたにお付き合いしていたかったのですが」

 尖った輪郭に浮かぶ表情は、皮肉なようにも、心底残念そうに思っているようにも見える。

「ご安心ください。あの人質は本物です。そもそもあんな旧時代の遺物は、我々の本来の目的ではない」
「……―――」
「私は、あなたの指揮ぶりは、一応尊敬しておりましたよ。隊長……」


 その褒め言葉の最後までアラシヤマが耳にすることはなく。
 どさり、と地面に崩れ落ちた己が隊長の姿を、かつて副官だった男は口元に笑みを浮かべつつ、この上なく冷ややかな目で見下ろした。









『on the wild world』  act.3 












 万が一のときのことを考え、通信課の一般団員はすべて席を外させてある。今この室内にいる課の者は主任のみ。細かな機器類はティラミスとチョコレートロマンスが担当し、キンタローが補佐に回る。
 団の、重要機密に属する扱いということだった。
 キンタローの手元には現状集められる限りのυ国と前政権に関するデータがそろえられている。


 そのメインモニターの前の席に着いたとき、シンタローは自分でも不思議に思うくらい落ち着いていた。例えばこれが他の一般団員が捕虜として扱われているような状況だったら、あるいはもっと焦慮は深かったかもしれない。先刻の一瞬の激情が過ぎ去った後、誰よりも身近に居た仲間の一人の生死がかかっているというこの局面で、シンタローの頭は驚くほど冷えている。
 それは、捕まっているのがアラシヤマという男だからなのだろうか。アイツだから大丈夫だ、などという信頼ではそれはない。シンタロー自身にも、己の心境がよくわからなかった。

「通信、再開します」

 シンタローが着席してすぐに、後方でヘッドホンを着けたティラミスがそう告げる。同時にシンタローの眼前に広がる大型モニターに、五十がらみの中年男の姿が映った。その身には仕立てのいいスーツをまとっており、襟元にはυ国でかつて政治家であったことを示すバッヂが付けられている。
 キンタローの持つ資料を見るまでもなかった。テレビで何度も報道されたことのあるその顔には、シンタローですら見覚えがある。前政権の国防次官補であった男だ。やや肥満気味のその体の上に乗せられた顔には一見柔和そうな笑みが浮かんでいるが、目に軍関係者特有の消しきれない陰惨さがあった。

「お初にお目にかかりますな、ガンマ団新総帥。ご機嫌麗しいようで何よりです」
「あァ、そちらさんもな。とても権力の座から追われて逃げ回ってる悪党にゃ見えねーぜ」

 皮肉の応酬は、交渉の前哨戦にもならない、ほんの挨拶代わりだ。ただ、この手の男の顔を見続けるのも不愉快で、シンタローは口の端に笑みを刻みながら、早々に本題に入った。

「くだくだしい前置きはいらねぇ。まずそっちの言い分を聞かせてもらおうか」

 その直截な物言いに若さを見たとでも思ったのか、モニターの中の男は手に持つ葉巻を咥え高価そうなライターで火を点けると、ゆっくりとその煙を吐き出した。

「こちらが望む条件は二つ。まず一つ目として、現在の暫定政府のナンバー2を殺していただきたい」
「……<新政府>、のブレインてことだな」

 あえて言い直したのは、当て付けですらなかった。新政権が樹立してまだ一ヶ月。にも関わらずこれだけの国民に支持を得ているその姿を見て、なお暫定などと言い張るそのくだらないプライドを、シンタローは笑止と思う。
 そんなシンタローの心境を察したのか、男はほんの少しだけ片眉を上げ。不穏な気配を醸しながらも、それでも表面上は何も無かったかのように次の要求を口にする。

「二つ目は、アメリカドルで三億。本来ならば今後一切のわが国への不干渉も約束していただきたいところだが、さすがに団員一人にそこまではできないでしょうな。妥当な取引と行きましょう」

 その出された法外な額の要求に、後ろで機器類の調整をしているティラミスが思わず気色ばむ。それは至極まっとうな反応だった。団員一人の命と三億ドルを秤にかけるような馬鹿な要求は、まともな神経であればまず考えられない。
 だがシンタローはそんなティラミスを手で制して、無表情のまま男に言った。

「ウチの団員が、そこにいるという証拠を見せろ。持ち物の類じゃ信用できねぇ、本人を出せ」

 そのシンタローの要求はあらかじめ予測されていたものだったらしい。男は手元にある中型のモニターの角度を変え、シンタローに見せつけるように画面を正面に向けた。

「意識はないので、声はお聞かせできませんがね。映像だけでよければお見せしましょう」

 そこに映し出されているのは、岩壁に囲まれた殺風景な部屋―――おそらくは独房―――と、両腕に鉄製の枷を嵌められ、吊るされた様な体勢にある黒髪の男の姿だった。
 一応地に足はついているものの、その体重を支えているのはほとんど掲げられた両腕に付けられた枷のようだ。深緑色のガンマ団の戦闘服の各所には、赤黒い染みができている。
 項垂れたその面は乱れた前髪によってほとんど陰になっており、ただその血の気のない蒼白な唇だけがかろうじて視認できる。
 それは、見間違いようの無い、あの根暗男の姿だった。
 後方でティラミスとチョコレートロマンス、さらにはキンタローですらも、息を呑む。
 だが、シンタローの注意は男の無残な姿より、半分以上が陰となっているその顔に向けられていた。

 動くはずがないと断定されたその唇が―――微かに動いた気が、した。

 繋がれた一縷の望みは、だがその表情には決して現さずに。眉を顰めてあくまで部下を案じる総帥の顔を崩さず、シンタローは言う。
 
「―――そんなんじゃ、アイツ本人だっていう確証はねーな。もう少しカメラ近づけろよ」

 シンタローの要求に、余裕を含んだ表情を浮かべるモニターの中の男は、後方に何らかの指示を出す。同時に、アラシヤマの映像がズームアップされた。
 その面がディスプレーの上に大きく映し出されたとき、アラシヤマの口がわずかに、本当にわずかに動いた。そしてその唇がゆっくりと、しかし確かな言葉を象る。この時点で、後方の三人もシンタローの意図を完全に理解した。
 シンタローは己の視線の先を気取られないよう細心の注意を払いながらも、その動きを凝視して、アラシヤマの伝えんとするところを察する。
   
(副官…内通者……その部下ってヤツか……!)

 そのメッセージをシンタローが読み取ったのとほぼ同時に、υ国の男が誰かから声をかけられたような素振りを見せ、顔色を変えた。アラシヤマを映し出していたモニターの映像が、ぷつりと途切れる。

「……」

 おそらくは、アラシヤマを監視していた部下からの注意を受けたのだろう。男は数秒間憎憎しげな色をその面に上していたが、やがて再び咥えた葉巻から煙を吐き出し、シンタローに皮肉な笑みを向けた。

「全く、あれだけの薬を使わせておいて、まだ意識があるとは。あなた方は一体、どういった教育を兵に施されておられるのか」

 感嘆というよりは呆れたような声音で太り肉の男は言う。

「しかしこれであの男の真偽は明らかになったはず。ガンマ団の新総帥は人道主義で知られておられる。よもや大事な部下をお見捨てになられたりはしないでしょう」

 (―――別に人道主義だなんて看板掲げた覚えはねぇし。そもそも、アイツが「人」のうちに入るかよ)という悪態を、シンタローは心の中だけで吐く。その様子を悔しがっていると受け取ったのか、モニターの中の男は愉快そうな笑みを唇に刻んで、

「回答期限は二十四時間後。交渉決裂や、それまでにそちらがおかしな動きを見せられた際には、その瞬間にあの男の首を落とします」

 それだけを告げると、シンタローの返答を待たずに回線を切った。目の前のモニターが灰色のノイズに覆われる。通信が完全に途切れたことを確認した後、課の主任技師がメインモニターの電源を落とした。
 シンタローが椅子の背もたれにどさりと体重を預けると同時に、キンタローが傍にいるチョコレートロマンスに声をかけた。

「逆探知の結果は」
「はっ……。断定はできないのですが、おそらくはアラシヤマ氏が向かわれた砦の内部かと……」
 
 その返答を聞いたシンタローは、がしがしと黒髪を掻いて渋面を作った。

「つまり、アイツらは他に拠点にできるとこは持ってねぇってことだな。……ッたく、背水の陣ってよりは単なるヤケクソじゃねーか」
「……まあ、そういうことになるな。しかしシンタロー。そういう相手ほど、厄介なのではないか?」

 眉間に深い縦皺を刻んだままのキンタローが、椅子に埋もれかかっている紅い背中に向かってそう告げる。だがその問いかけにはシンタローは直接は答えずに、

「てことは、あのバカが捕まってんのもあそこの可能性が高いってことか……」

 とだけ、小声で呟いた。
 ヘッドホンを外したティラミスが、通信機の前からシンタローに進言する。

「シンタロー新総帥……この事態は、幹部会を開かれたほうが……」
「……あーもー、メンドクセーな」

 口調には明らかな不機嫌さが含まれている。しかしその行動は迅速だった。
 すっくとモニター前から立ち上がり、後ろに控えるティラミスとチョコレートロマンスの二人に指示を与える。

「緊急幹部会議を開く。今、この本部にいる幹部は全て収集。近隣国にいる上級幹部とはネット回線を繋げ。開始時刻は14:10だ」



***



 そして開かれた幹部会への出席者は、青の一族であり研究課を統括するグンマ博士などを含む十名強。
 そこに前総帥であるマジックの姿はない。代わりに、というべきか、現在は団の科学顧問の肩書きで本部から離れているドクター高松が、どこからかネットを通じて出席していた。どうやら事態を重く見たグンマが、常の冷戦状態を解除して急ぎ連絡を取ったらしい。
 
 会議はまず、相手の要求は呑めないということを前提として始まった。当然だな、とシンタローは思う。テロリストとはどういった場面であれ、交渉をしないというのが鉄則だ。一度要求を受け入れた前例を作ってしまえば、際限なく同じ事態が繰り返される。
 ましてや今回のような明らかに人質とその交換条件が見合わないケースであれば、その選択肢は初めから無いも同然だった。つまり、会議の論点はアラシヤマのために救出チームを派遣するか否かというその一点に尽きる。
 そしてその議論の方向性すら、初めからほとんど決まっていたようなものだった。アラシヤマは団内では伊達衆と呼ばれ、ある意味象徴的な存在ともなりつつある一人だが、立場としては一支部の支部長補佐でしかない。軍隊で言えば中尉クラスだ。
 そして高松の、 
 
「自白剤の類を気にしてるんでしたら、心配いりませんよ。―――あの子は、そういった訓練は随分受けていたみたいですからねぇ」

 飄々と発された、元団員の健康管理係のその意見が、議論の向きをほぼ完全に決した。
 会議の参加者の視線が、何かを求めるように一斉にシンタローに向けられる。それらを一身に受けながら、シンタローは表情を変えずに言葉を舌に乗せた。 

「任務は完了してる―――υ国前政府残党に関しては再調査が必要だが、それはまた別の話だ」
 
 最初から最後まで低調だったその会議を締めくくったシンタローの決定は、ほんの僅かな揺るぎも見られないもので。

「ただでさえ人が足りないこの時期に、アイツ一人のために、貴重な人員を死地に送り込むことは、出来ない」

 眉一つ動かすことなく、紅い服の新総帥はそう言いきった。
 



 そのほとんど何の色も持たない硬質な表情に、ある「決意」が隠されていたことには―――会議の参加者のうちほんの数名だけが、気付いた。
















NEXT→act.4


BACK→act.2













n





 あ、と思ったときにはもう遅かった。



 かなりの高さからフローリングの床に落ちたその磁器は、ぱりん、と嫌味なほど鮮明な音を立てて、きれいに二つに割れた。
 その音に何事かと、ダイニングにいたアラシヤマがキッチンを覗き込む。その視線に、床に落ちている磁器の破片が入ってきた。

「あ……割れてもうたんどすか」

 床にそれを落とした体勢のまま、どうしようもなくその場に佇んでいるシンタローをさておいて、地面に落ちている破片をひょいひょいと拾いながら、アラシヤマはそれを洗い場の横に置く。それから、バツの悪そうな顔で自分を見ているシンタローに問いかけた。

「怪我とか、してはりまへん?」
「イヤ、それはねーけど……ソレ……」
「まあ、古いもんどしたしな。それに接ぎにでも出せば多少跡は残っても直りますさかい」

 気にせんといておくれやす、と淡々と言うアラシヤマを見るシンタローは、心中穏やかではなかった。
 珍しく深い色をした青磁の湯呑み。それはアラシヤマがマーカーと二人で暮らしていたころの、数少ない大事な思い出の品だと、以前何かのときに聞いた覚えがある。だからこそ、普段使わない棚の奥深い場所に仕舞ってあるとも。

「床はあとから片付けときます。破片でも踏んだら危のうおすから、とりあえずダイニングに移りまひょ。お茶はないどすけど、水でも構へんどっしゃろ?」

 言いながらアラシヤマは洗い場に上がっていたグラス二つを取り出すと、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを出してダイニングに移動した。シンタローも無意識にその後を追う。
 水を注いだグラスの片方をシンタローに渡しながら、ダイニングテーブルの端に軽くもたれるようにしてアラシヤマは訊ねた。

「あないなところ、なに探してはったんどす?」
「いや、ちょっと……そろそろ寒くなってきたし、どっかに土鍋とかねーかな、と……」

 その返答にアラシヤマは苦笑しながら言う。

「食器類はともかく、ウチの調理器具が増えたんは、シンタローはんが来てくれはるようになってからどすからなあ。入り用ならまた買い足しときますえ」

 それにしても、鍋どすかあ……これからの季節にぴったりどすなぁ……とうっとりと呟くアラシヤマに、シンタローは首を振って怒鳴った。

「じゃ、なくて、湯呑みだよ!」
「へ?」

 頭の中ではすっかりシンタローと二人仲良く鍋をつつく図を浮かべ、陶然としていたアラシヤマの目が丸くなる。

「せやから、気にせんでええて……」
「……俺の気が、済まねーんだよ、それじゃ。アレ、テメーの師匠との思い出なんだろ」

 まるでシンタローのほうが拗ねているかのように言う。
 まあ、思い出てゆえばそうどすけど、湯呑みは所詮湯呑みどすしなあ、と本心からそう言っているようなアラシヤマのその表情にもどこか腹が立って、シンタローはアラシヤマの胸を人差し指で突いた。

「落とし前はキッチリつける―――今から、オマエの言うこと、一つだけ何でも聞いてやる」













『 without  limit 』













「なっ……ななな何でも?!」

 思わぬシンタローの発言に、アラシヤマの挙動があからさまに不審になる。信じられないようなその言葉を頭の中で反芻すると、おろおろと左右を見回し、挙句顔を真っ赤にしたまま阿呆のように口をあけてシンタローを凝視した。
 そんなアラシヤマの様子を呆れたように眺めていたシンタローは、あっさりとアラシヤマの希望を軽く打ち砕くような台詞を追加した。

「あ、でもエロ系は禁止な」

 その言葉に、期待を一身に込めた目でシンタローを見ていたアラシヤマの肩が、見事に落ちる。

「……。今、わての野望の八割方費えましたえ……」
「八割って……オマエいっぺん高松にアタマん中見てもらって来い」

 まあ、それでもアラシヤマにとって僥倖は僥倖だ。背の高いテーブルに軽く腰をかけるようにしながら、アラシヤマはしばらく中空を眺めながら思案する。
 そして、やがて何かを思いついたようにシンタローに目を向けた。

「そんじゃ、ま」

 その口元には、気が利いた悪戯を思いついたような悪趣味な笑みが浮かんでいた。

「たまには、シンタローはんのほうから、キスしてほしいどすなあ」
「キ……っ!」
「軽いので構いまへん。そんくらいどしたら、簡単どっしゃろ?」

 挑発するように、アラシヤマは小首をかしげる。それにシンタローもまた、苦虫を噛み潰したような表情で、かろうじて口の端だけを上げて返した。

「……まーナ」

 そして、手に持つグラスをゆっくりとテーブルの上に置く。
 テーブルに後ろ手をついた体勢のアラシヤマの正面にシンタローは立ち、軽く身をかがめて、自分もテーブルの端に両手をかける。
 たかが口と口を合わせるだけ。今更それに過度の意味を持たせるような年でもない。
 キス自体はこれまでに何度だってしてる。ただ―――大抵の場合せがんでくるのも仕掛けてくるのもコイツで、自分はそれに応えていればいいだけだったのだが。
 アラシヤマはじっとシンタローを見上げたまま、微動だにしない。その髪の隙間から見える視線がなんとなく気になってしまい、シンタローはぶっきらぼうに言う。

「……目、つぶれよ。とりあえず」
「へぇ。ほな、なんも見えんのも不安どすし、手ぇ繋ぎまひょ」

 言うなり、シンタローの両手をとり、指を絡める。そして顔をやや仰向かせたまま、アラシヤマは目を閉じた。
 その途端、これまでイヤというほど見てきた男の顔が、まるで別人のようにシンタローの目に映る。

(―――案外、睫毛長ぇな……てかこんなまっとうなカオしてんの最後見たのいつだよ……)

 そう意識しはじめると、どうにも簡単なその「行為」が、なぜかとてつもなく困難なものに思えてきた。目を閉じたアラシヤマを間近に見ながら、シンタローはそこから僅かも動けない。
 あまりに長い間、空気すら動かないその状況が続いたため、アラシヤマが小声で呟いた。

「……早よ済まさんと、余計辛うなってきますえ」
「わぁってるよ!」

 ヤケクソのようにそう怒鳴りながら、やっぱり手を繋いだままというのはどうにもマズった、とシンタローは思う。速まっている動悸も、うっすらとかきはじめている汗も、全て手のひらを通して伝わってしまう。
 だがとりあえずこれを外して……とほどきかけた手は、ぐっと、更に強く、アラシヤマにつかまれた。
 目を閉じたまま、どこか楽しそうに、アラシヤマは言う。

「お手伝い、しまひょか」

 そのあまりに人を小馬鹿にした物言いに、シンタローの頭に一気に血が上った。

「ウルセー動くな黙ってろ!!」

 一瞬だけ息を呑んで、それから覚悟を決めたようにシンタローがゆっくりとその顔を近づける。長い前髪と、微かな吐息がアラシヤマを掠める。


 そして柔らかなその唇が触れたのは、
 
 アラシヤマの瞑った左瞼の上だった。

 
 その唇の感触が完全に薄れてから、アラシヤマが目を開き、シンタローをまじまじと見る。

「……シンタローはん?今の……」
「―――~~!キスにゃ、かわんねーだろーが!」
「……―――」

 シンタローはそれでも顔を真っ赤にしたまま、口をへの字に結んでそっぽを向いている。アラシヤマはといえば、シンタローの唇が触れた左目を片手で軽く押さえたまま、ぼんやりとしていた。

「……んだよ。文句あンのか」
「いや、ある意味、えらい不意打ちどすわ……」

 言いながら、アラシヤマはゆっくりと、花瓶一つ置かれていないダイニングテーブルの上に仰向けに倒れこむ。そして両腕を交差させるように、瞼を覆った。
 ほんの少し、本当に僅かだけ彼の唇が触れた左の瞼が、熱い。しかもそれは、その瞼をじわじわと灼いているかと思うほど熱いのに、同時にとんでもない多幸感をアラシヤマに与えるのだ。
 その予想外の感覚に、アラシヤマの口から、はは、と笑いが漏れる。
 そしてふてくされたような表情のシンタローに向かって、両腕で目を覆ったままアラシヤマは口を開いた。

「シンタローはん」
「ぁン?」

「わて、あんさんのことどんどん好きになってきます」

 それは愛の告白というよりは、半ば呆然としたような響きを持っていた。
 シンタローはテーブルに倒れているアラシヤマの横に、軽く腰を掛ける。

「初めは見てるだけで、声聞けるだけで十分や思とったんに、それだけじゃ足りへんようになって、こっち見て欲しい、触りたいて、そればっかり思うようになって……」

 ぽろぽろとその口から零れ落ちる独白のような言葉を、シンタローはアラシヤマのほうに目も向けずに、ただ聞いている。

「自分でも、もうどこまで抑えがきくんかわからへん。―――せやから」

 それが掛け値なしの本気で、だからこそ、それを言葉にしてしまうことは、アラシヤマにとってはとてつもない覚悟を要するものだったけれど。

「もし、ほんまに、シンタローはんが冗談やなく、わてのこといらんて思わはったら……」

 どうかそうゆうておくれやす、と懇願するような声で、アラシヤマは言った。

 ほとんどモノトーンでまとめられた室内に、僅かな静寂が訪れる。
 しかしアラシヤマの本心からのその言葉を聞いたシンタローは、つまらなそうに片眉を上げて。
 そして、ポケットから出した煙草におもむろに火をつけた。ふ、と中空に煙を吐き出す。空気が止まったような室内に、薄い白煙がゆらりとのぼっていく。

「ふーーーん。で、ナニ。俺にそう言われたら、オマエ傷心の旅にでも出ンの」
「へぇ?しょ、傷心の旅て……いや、そらちょっとは出るかもしれまへんけど、結局は本部詰めどすしなあ……」
「そんで―――忘れられんのか?俺のこと」
「……」

 沈黙の返答は、どう考えても否定でしかないのに。アラシヤマはそれ以上何も言おうとはしない。
 その曖昧な態度にシンタローは苛ついて、咥え煙草のまま、表情を隠すように両目を覆うアラシヤマの両腕を力ずくで外し、テーブルの上に押さえつける。
 間近に覗き込むようにこちらを見るシンタローの漆黒の双眸。その視線からなんとか逃げようとアラシヤマは己の目線を横に流しつつ、しどろもどろになりながら答える。

「そ、そらまあ、時間は…かかりますやろけど……その、できるだけ目に入らんように……イヤ、その、まあ……努力は、しますえ」

 半ば意地になっているかのようなその言葉に、シンタローは押さえつけていた手を離し、起き上がると傍らにある灰皿に煙草の灰を落とした。
 そして、呆れたような声で言う。 

「だったら、今までどおり、そばにいろ」

 まだテーブルに倒れたままのアラシヤマに見えるのは、少し猫背になったシンタローの広い背中だけだ。その背中はややげんなりと疲れているようではあったが、だがけして拒絶の意を示しているようには見えなかった。

「ワケのわかんねーところから陰気な怪電波飛ばされるよりゃ、目の届くところでストーカーされてたほうがまだマシだ」

 自分の本音を、どこまで堕ちるかもわからないその執着を、あまりに簡単に受け入れられてしまって、アラシヤマは安堵するより先に気が抜ける。

「シンタローはん、わてな」

 テーブルの上に仰向けに倒れて天井を見上げたまま、その両手を腹部の上で組むようにしてアラシヤマは言う。

「こう見えて、案外しつこいんどすわ」
「イヤ、『こう見えて』も『案外』もいらねェ」
「後悔しても、知りまへんえ?」
「そんなモン、あの島にいる時からとっくにしてる」

 アラシヤマの言葉はことごとくシンタローに茶化されながらも、けして拒まれはしない。
 そして、吸い終わった煙草を灰皿に押し付けてから、シンタローは上体を振り向かせた。

「ま、いくらでも来いよ。テメーなんざ、本気で愛想尽かしたら全部返り討ちにしてやっから」

 そう言って、シンタローは笑った。ニヤリ、とまるであの島にいたときのような、悪戯めいた笑顔で。
 その表情があまりに無垢で自信に満ちていて、アラシヤマを安心させるものだったので、


(―――あんさんの覚悟より、もっとずっと、重たいもんかもしれまへんえ)


 そう思ったことは、あえて口にはせずに。

 また片腕で目を覆い。そしてもう片方の腕で置いてけぼりを恐れる子供のように、アラシヤマはシンタローの上衣の裾を強く握りしめた。 
































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『潮騒』の岡甚様に捧げますアラシン小噺です。
カウント3389(ささ、早く)で「何かをシンタローさんに促すちょっと気持ち悪い系統のアラシヤマを…」
とのリクエストをいただき(強奪・・・?)、その瞬間思い浮かんだままに書き綴りました。
当サイト過去最高に糖度高いです内容もベタベタですみません。
リクエストにお応えできたかとても不安ですが、どうか受け取っていただければ幸甚です。

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 純粋に意外だ、と思ってしまった。








***




「……――,Lastly, I wish to ―― for his kind invitation. 
 Thank you for your atentions.」



 低すぎず高すぎず、抑揚は控えめだがけして平板ではないその声が途切れて一呼吸の後、会場内には一斉に拍手が沸き起こった。
 朗々と、普段の会話からは想像もつかないほど淀みなくスピーチを終えたのは、今は団の幹部の一員となっているアラシヤマ。かっちりとした黒いスーツに身を包んだ男は、割れんばかりの拍手に対して簡単な礼を返し、演台の前から舞台上に設置されたガンマ団幹部用の席へと戻ってくる。

 公的な場への一応の配慮からか、常に顔半分を覆っている鬱陶しい黒髪はきれいに後ろに撫で付けられており。隠しようもなくその身に染み付いている陰気な雰囲気すら無視すれば、男の姿はいかにも有能そうな美丈夫と言ってよかった。
 そう、普段の極端な挙動不審さえなければ、コイツもそこそこ見られる外見をしていたのだ。そんな腹立たしくも否定できない事実を、シンタローは思い出させられていた。
 いつもの素っ頓狂な祇園言葉が、英語になると余計なものを削ぎ落としきったような理路整然たる話し方になる。英国よりは米国に近い発音だが、父親からクイーンズイングリッシュを叩き込まれたシンタローが聞いても、その発音や文脈はきれいなものだった。
 
 会議はアラシヤマが行ったガンマ団の報告が最後の演目で。
 アラシヤマと入れ替わりに演台に立ったのは開催国であるアメリカの大統領。彼がいつもながらにまっすぐで力強い言葉で閉会の辞をくくり、第六十七回八カ国定例会議はつつがなく、幕を下ろした。
 














『 声 』















 ことの始まりは、ほんの軽い諍いからだった……と思う。

 確か総帥室にきたアラシヤマが自分の仕事について何か小言のようなことを言って。たまたま不機嫌だった自分がそれにやたらムカついて。で、気付けば自分の抱えている仕事をひたすら羅列して、それらがいかに面倒くさくて厄介なものかということをぶちまけていた。
 ただ、それら全部をアラシヤマはほんの少し片目を眇めながら聞いていて。何も口にはしなかったがそれが「せやけど、それがあんさんの仕事やないの」とでも言っているような表情だったので。

 じゃあオマエ、今度の年末の世界会議でオレが挨拶したあとの団の報告全部やれよ。

 と、その時抱えていた仕事の中で最も面倒と思われるものをアラシヤマに回したのだった。
 本気が少しも混じっていなかったかと問われると断言はできないが、半ば以上、単なる嫌がらせとして言ったことだった。
 それほど重要な場での報告、しかも現在微妙な端境期にある団の広報的な意味を含めたスピーチなど、純粋な英米人ですら難しいだろう。曲がりなりにも英国人の父親を持つシンタロー自身がやるか、もしくは英語圏に生まれ育ち専門の訓練を受けた人間に原稿を読ませるかの二者択一が当然の流れだった。
 が、アラシヤマは一瞬だけ逡巡はしたものの。
 存外気軽に、仕方のうおすなあ、と応じたのだ。そのあまりにあっさりとした対応に、かえってシンタローのほうが心配になった。

「は?え?って、オマエ……大丈夫なのかよ?」
「あんさんがゆうたんやないどすか。まあ、なんとかなりますやろ」
「……人前で話すんだぞ。それも、百人単位の」
「ナスやらカボチャやらが並んどると思たらええんどすやろ。……それに……フフ……知らんお人と一対一で人と話すほうが、よっぽど緊張しますわ・・・・・・」

 背後に人魂を一つ二つ浮かばせながらそう呟くアラシヤマに、本当にいいのか、と一抹の不安はあったものの、シンタローはそれ以上突っ込んだ質問はしなかった。どんな仕事であれ、アラシヤマが一度引き受けたものを反故にしたことは、とりあえず今までにはなかったので。



 そして今日のアラシヤマのスピーチに至ったのだ。非常にムカつくことながら、及第点を遥かに超えた出来、と認めざるを得ないスピーチに。




***




 用意された貴賓室は黒と焦げ茶でまとめられた非常にシックな造りだ。ぐしゃぐしゃと長い黒髪を掻きながら、紅い服の総帥は本革製の高級そうな椅子にどさりと掛ける。
 秘書たちにはすでに下がっていいという許可を与えてあるため、室内にいるのはシンタローとアラシヤマの幹部二人だけだった。
 室内のミニバーで入れられたブラックのコーヒーをアラシヤマから受け取り、ず、と一口すする。

「おつかれさんどした。あとは二時間後に始まる懇親会さえやり過ごせば、今回の出張は無事終了どすな」

 ぱらぱらと今日の日程表をめくりながら、アラシヤマもまたコーヒーを口にしつつシンタローに労わりの言葉をかける。
 だがそれに対するシンタローの返答はない。椅子の上にふんぞり返り、肘掛に片肘をついた姿勢で、胡散臭そうにアラシヤマのその姿を眺めている。
 両目が現れているアラシヤマというのも非常に違和感があるのだが、それ以上にシンタローが気にかかっていたのが先ほどの流暢な英語だ。
 やがて、なんとも形容しがたい表情で、ぼそりと呟いた。

「オマエが英語得意って、なんかすっげー違和感あるんだけど。しかも発音」

 確かに、ある意味では多国籍企業とも言えるガンマ団で、ある程度の英語が使えることは必須である。だが、それでも割り当てられた役職に応じ、事務に必要なだけ、或いは戦場で必要な分、覚えていれば仕事に支障はない。ネイティブの団員も少なくはないが、完全な日本びいきのマジックが引き抜いた人材が多数を占めるガンマ団では、正直それほど堪能な人間が多いというわけではない。
 いまだ信じられないというその顔を見て、アラシヤマは一つため息をつき、そして持っていた今日の日程表をシンタローの前の机の上にパン、と置いた。

「そら授業全部寝呆けてても、トリプルA以外もろたことないあんさんには敵いまへんけどなあ。これでも士官学校時代からのナンバー2どすえ」

 もっともサボリ居眠り常習犯のあんさんは授業中のわての発表なんて聞いたことあらへんのどっしゃろな、と表情も変えずにのたまう。
 確かに、英語の授業など退屈もいいところだったため、シンタローはほとんどまともに聞いていた覚えはない。グループでプレゼンテーションなどがあった場合にも、自分の義務はきちんと果たしたものの(それはもちろんリーダーとしてほぼ全てをこなしたということだ)、他のグループの発表なんて全く記憶に残っていない。

 だがまあ、今思えば聞けばそれなりに面白いものもあったのだろう。今より更に人見知りの酷かったコイツが一体どんな顔をして発表などしていたのかと思うと、それを見ておかなかったのは少しだけ惜しかったような気もする。
 そんなことを考えながら、シンタローは机の上に置かれている煙草入れからいかにも高級そうな紙巻煙草を一本取り出し、火をつける。

「いや……」

 そして、ふう、と一筋紫煙を吐き出しながら、比較的真面目な顔で言った。

「思ってたよりは、うまかったな」
「へぇ、そらおおきに」
「オマエ、普段から英語で会話すれば少しはマトモそうに見えんじゃねーの」
「酷ッ、わてはいつでもマトモどすえ!」

 ああ、本物の変人こそ自覚がないというのは正にコイツのことを指して言っているんだなあと、シンタローは最早呆れるまでもなく、ひきつったように唇の片端を上げる。

 ん?とそこまで冗談半分で話したところでふと、あることを思い出した。
 そういうえばコイツ、あの島でバーニング・ラブとか叫んでなかったっけ?いや、ライクの最上級がラブなんだし欧米じゃふつーに友人間でも使うし……ただ普通そのフレーズだと燃え上がる愛……
 と、そこまで考えたところでシンタローは思考を止めた。もし奴が正しい用法でそれを使っていたのだとすれば、そこには更に最悪な結論が待っているだけだ。

「ま、まぁとにかく、オマエの場合性格はどうしようもねえとしても、その話し方にもかなり問題があるよナ、きっと」

 京都弁というだけではなくほぼ完全な祇園言葉。それも、アラシヤマの場合かなり独自のアレンジがほどこしてある。今時、祇園の本業の舞妓ですらこれほどどすえどすえと連呼はしないだろう。
 だがその言葉を聞いたアラシヤマはほんの少しだけ片眉を上げて。
 そして、コーヒーを片手に持ったまま、つかつかとシンタローのそばに近づいた。

「・・・・・・へえ、せやったら…・・・」

 す、と身をかがめて、シンタローの耳元に唇を寄せる。



「こんな風に話したら、いつもきちんと聞いてくれるんですか?」



 関西風のイントネーションは全くなく、ただそのややゆっくりとした話し方だけが、ほのかにいつものアラシヤマの口調の俤だけを残している。静かで、穏やかな低音。

 その声が耳に触れた瞬間、自分でもそれとわかるほど、血液が顔に集中するのをシンタローは感じた。
 馬鹿なこと言ってんじゃねェ、と一笑してやりたいのに、唇がこわばって言葉が出ない。一体何が起こったのか自分でも理解ができない。
 ただ、その声が。声そのものはいつもとほとんど変わらないはずなのに、ただ本当に普通に、囁かれただけなのに。
 シンタローは僅かも動けずにいる。

 その緊張を破ったのは、他でもないアラシヤマの行動だった。
 自身の反応にとまどっていたシンタローの沈黙をどう解したのか、いきなりクッと噴き出したかと思うと、シンタローのそばから身を引いて笑い出す。

「あかん……自分でおもろなってまう」

 そして、やっぱ東京弁はこそばゆうて性に合わんわあ、などと言いながら、なおもケラケラと笑う。
 シンタローは通常の話し方に戻ったアラシヤマに一瞬あっけにとられたような表情をして、―――それからおもむろに机につっぷした。
 アラシヤマに相槌も突っ込みもいれず、シンタローはその体勢のまましばらく動かない。どうしたのかとアラシヤマが訝しみ始めた頃に、くつくつとその肩が震え始める。
 ふと机に上体を伏せたままの総帥服の襟元に目をやると、そこから覗くシンタローの首筋には見事な鳥肌が立っていて。
 それに気づいた瞬間、さすがにアラシヤマも眉を下げ、情けない表情になった。

「そない、サブイボ出すほど気味悪がらんかって……」

 だが、ため息とともにこぼれた本音は、言い終わる前に無理やり途切れさせられた。
 アラシヤマの目の前を真っ白な光が覆ったかと思うと、避ける間もなく、新総帥の手から放たれた光弾が直撃したからだ。

 
 他国の持ち物である貴賓室に大穴を開けないよう手加減はしたが、至近距離から受ければ常人なら三日は生死の境をさまよう威力の眼魔砲。ただ日ごろの免疫があるアラシヤマなら、おそらく二―三時間で目を覚ますだろう。
 たとえパーティーに間に合わないようであっても、どうせこいつは壁の花でいるしかないんだから問題はない、とあながち間違っていないだろう解釈の元に自己正当化を図る。
 焦げくさい匂いを立ちのぼらせながら床にのびたアラシヤマをあえて視野に入れないようにして、シンタローは机の上でまだ火照りの収まらない頭を抱えた。



「キモいにも程があんだよ……阿呆」





 耳朶に触れそうなほど近くで囁かれた、いつもと違う低音に。
 
 鳥肌が立つほどゾクゾクしたなんて、死んでも言えない。









































================================




 普段おちゃらけてる人が急に真面目な声出したりするとドキッとしませんか、という話。
(元アラシンお題15「自業自得」.)

cx




 今年最後という日、そしてこの時間帯にはたぶん人などいないだろうと思って、書類を持ったまま向かった団内の喫茶室で、思いもかけない背中を見つけた。
 比較的広々とした空間に、ぽつんと独りで。部屋の最奥、窓際の椅子ではなく机に直接腰をかけて、紅い背中は横柄に足を組みながらぼんやりと窓の外を眺めている。















『 祈 』















 軽い気分転換にと思っていたのに降ってわいた僥倖。それはともかく、何故この団の長たる男がこんな時間にこんなところにいるのかと、不思議に思いながらアラシヤマはその背に近づき、声をかける。

「何してはりますのん、こないなとこで」
「―――んだよ。よりにもよって、アラシヤマか」

 シンタローはあからさまに嫌そうな顔をしながら、向かいの椅子に腰をかけた制服姿の男に目を流す。そしてひとすじ、煙を吐き出しながら、休憩だきゅーけー、と言った。

「総帥室以外で、割と広くてタバコ喫えるとこ、ここくらいしかねーし」
 
 確かに、最近の大手企業などに倣い、「原則的に」団内の仕事場や廊下などは禁煙となっている。小さな喫煙スペースは各所に設けられているものの、そういったものはシンタローの好みにはそぐわないらしい。時折屋上などで喫っているのは知っていたが、さすがにこの寒さでは屋外に出る気にはならなかったようだ。
 机の上で足を組み後ろ手をつくような姿勢で、シンタローはアラシヤマに向かって不満そうな声で言う。

「テメエこそ、なんでいんだよ。ミヤギとコージは、この前顔合わせたとき正月は実家帰るっつってたぞ」
「わても、仕事中の気分転換どすわ。あんさんが、家族のおるもんは年末年始優先的に休暇出す言いはったから、その尻拭いでわてみたいな独りもんは休む暇もあらへんのどす」

 言いながら、アラシヤマは持っていた書類をばさりと机の上に広げる。そして胸元からボールペンを取り出して、なにやら作業の続きを始めた。
 ほんの少しだけ居心地が悪そうに、シンタローは口を堅く引き結んで、また窓の外に視線を向ける。そんな様子がおかしくて、アラシヤマは書類に向かったまま薄く笑いながら言った。

「冗談どす。心配せんでも、一月の終わりに三連休申請しとります。そんくらいのほうが静かで、わてにはええ……」
 
 かりかりと、アラシヤマが走らせるペンの音だけが、二人だけの空間にやけに大きく響く。
 ゆっくりと発されるその声は、あながちその場凌ぎの嘘というわけでもなさそうだった。確かに正月の京都といえば、なんとなく色々と行事などがあってせわしそうではある。印象の問題かもしれないが、そうした晴れやかな場よりはやや静かになった古都のほうがこの根暗男には似合いなのだろう、とも思った。

「シンタローはんこそ、家戻らんと、マジック様やらグンマはんやら淋しがっとんちゃいますか」

 アラシヤマのその問いに、あー、まあなぁと言いながら、ややバツの悪そうな顔でシンタローは視線を斜め上に向け、人差し指で頬を掻く。その様子を見れば、どうやらアラシヤマの言うとおり家族の面々からは相当なクレームを受けていたらしい。 

「ただ、年末年始ったって前線行ってるヤツらもいるしナ。クリスマスはコタローのこともあって休みもらったから、こっちくらいはいなきゃマズイだろ」
「へぇ、そら立派な心がけで」
「んだよ。嫌味な言い方しやがって」
「いや……」

 言いかけて、そのままアラシヤマは書き物をしていた書面から顔を上げた。
 そして、シンタローの顔をじっと見て、静かに微笑う。

「嬉しゅおす。こないな日に、シンタローはんの顔が見れて」
「……」

 あまりに真正面からそう言われたので、キモイと一笑に付すわけにもいかず。なんともいえない気まずさを感じて、シンタローはわざと視線をそらした。

「……オマエって、なんつーか、基本的に根性捻じ曲がってるくせに、時々直球だよな」
「返事に困る言われようどすな」
「ヤな投手だっつってんだよ」
 
 口の端に煙草を咥えたまま、苦虫を噛み潰したようにそう言うシンタローに、アラシヤマはふ、と笑って、

「捻じ曲がっとるついでに、もう一つ教えたげまひょ」

 シンタローの横顔を眺めながら机の上に肘を立て、組んだ両手の上に顎を乗せた。

「仕事たまっとるゆうのはホンマどすけどな。今日この時間まで残っとったんは、あんさんが残るて秘書はんから聞いたからどすわ」

 シンタローがほんの僅かだけ目を丸くして、アラシヤマを見る。

「年明けまでの仕事もまだ終わりきっとらんて聞いとりましたから、会えるかどうかもわかりまへんどしたけど。同じトコで年が越せるんなら、それでええかな、思うて」
「……」

 淡々と紡がれるその台詞に、シンタローは呆けたような表情をした。咥えた煙草の先から、ぽろりと一摘みの灰が落ちる。
 室内にあるのは、完全な静寂だ。その灰が地面に落ちて、散った音まで聞こえたかと錯覚するほどに。
 
「……オマエって、ホント……」

 呆けた表情のまま、シンタローは何かを言おうとし。そして軽く首を振って、眉根を寄せたいつもの顔に戻ると、それをやめた。

「いや、やっぱいーや。なんにせよアホでキモいのには変わんねぇ」

 そしてがしがしと、何かを追い払うように長い黒髪を掻く。



 そのとき、近くの壁に設置された時計が、微かに、だが確かにカチリと鳴った。
 長針と短針が、重なったのだ。

「ああ、日が変わりましたな」

 時計の方に目をやりながら、アラシヤマは言う。

「ほな、明けましておめでとさん。今年もよろしゅう」

 座ったまま律儀にぺこりと頭を下げるアラシヤマに、すでにいつもの調子を取り戻したシンタローは不敵に笑って、言葉を返す。

「ああ。去年以上にこき使ってやっから、覚悟しろヨ」

 それがこないな時間にも仕事してる人間に言う台詞どすか、と眉尻を下げながら言えば、ばーか、俺も同じだろうが、と悪戯っぽい笑顔で返された。 
 窓の外に広がるのは濃藍色の闇。遥か遠くに見える街の明りと時折走る団のサーチライトだけが、闇を不完全なものにし、生き物の存在をそこに感じさせる。
 シンタローの笑顔にアラシヤマも苦笑して、椅子から腰を上げた。そして机に直接腰掛けているシンタローの頬に手を当て、

「あんさんについてく、決めたんはわてどすから。―――仕方のうおすな」

 言いながら、ゆっくりとその顔を引き寄せる。
 シンタローも今日ばかりは特別と思ったのか、抵抗せずに目を閉じて、それを受けた。
 
 

 軽く舌を絡ませ、啄むようなキスをしながら、アラシヤマはその温度と感触を、ただ暖かい、と思う。そう、どれほどこの手を汚し、ごく稀に果てのない極寒の雪原にも似た孤独の影が心に射し込むことがあっても、シンタローのそばだけは、いつも驚くほど暖かいのだ。


 手のひらと唇に感じる確かな温度を愛おしみながら、今年もまた、どういった形であれこの人の傍らにいられますように、と、アラシヤマは祈るように願った。


































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こ、今年最後の更新は意地でアラシンで締めましたでも半分寝惚けながら書いたので意味不明な部分とかこんなんありえねえ!とかゆう部分とかだらけだったらゴメンナサイ(いつものことですが)あと色々(胡散)クサくてすみません。
管理人は届きそうで届かないアラシンも片思いのアラシンも好きですがやはりラブラブなアラシンも大好物のようです。







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