2006 シンタロー誕生日記念
マジックの部屋を大捜索し、不在が疑いのないものとなると慌てて自室へ取って返す。
以前、久しぶりに手に入れたたった一日の休日を彼の『かくれんぼしよう!』の台詞でふいにした苦々しい記憶が甦ったためだ。
やらないと言ったのにさっさと鬼に決められて、まあ視界から消えてくれるならそれもいいかと放置しておいたらその後三日も見つからなかった。何処とは言えないが一族の者は全員体に認証IDタグを取り付けているから、それを使えば世界中何処に潜んでいてもたちどころに発見される。
かくれんぼと言っていたし、屋敷の外に出た形跡もない。けれど比率で言えば限りなく百に近い確率で恨まれ、命を狙われる彼が行方不明になったのだから、数時間経って異変に気付いてからはすぐに探索が実行された。だが。
高をくくっていたけれど、それから三日、マジックは見付からなかったのだ。
気が遠くなった。
本当にだめかと思った。
もし、万一のことがあれば自分はどうするだろう。どうなるだろう。とても正気ではいられない恐慌の中、先陣を切って捜索に出向きたいのに足が震えて立てなくなった。見かねたキンタローに留められ、自室で安定剤を処方されるという失態を演じた挙句それでもどんな気力も沸かず情けない自分を呪いながら横になるベッドに拳を叩き付けた。
ぼすん、という音と、それから“響くよぉ”という情けない声。
聞きたかった声。
ベッドの下からそろりと出てきた彼は、“なんだか大事になっちゃって、どうしようかなーと思ってたんだよねー。シンちゃん、ちゃんと謝るからみんなにとりなしてくれる?”と、言った。
その後の記憶は曖昧だ。気を失うなど、あとにも先にもあの時が最初で最後の経験だろう。
自室に駆け込み、まずベッドの下を覗く。残念ながら今回そこに目的の人物は見つけられず、次に浴室を徹底的に調査した。シンタローの入浴を覗くため、壁を二重に改造した事のある男だ。勿論すぐに気付いて元通りに直したが、性懲りもなく再挑戦している可能性はなくもない。
その調子で部屋中をくまなく探してみたけれど、残念ながら今回彼の姿は何処にもなかった。初めから分かっていた結果ではあったが、その事実は余計にシンタローを落ち込ませる。
自分がいなくなれと言ったから彼は消えたのだ。鬱陶しいと言ったから、誕生日くらい静かに過ごしたいと言ったから、だから本当にいなくなってしまった。今日一日は決して顔を見せないだろう。意志は固く、いっそ頑なと言って差し支えない性格の持ち主だ。拒絶されると追わないのが彼だし、情が薄いところがあるのも悲しいかな事実だった。
結局のところ、シンタローには彼に踏み込めない領域があることが悔しい。いかなるときも受け入れて欲しいと言い募るくせに、自分はなにも見せないところがもどかしい。知っているつもりでいると簡単に足元を浚われて、こんな風に情けない思いをさせられる。意地っ張りな性格を誰より理解しているはずの彼があっさり身を引く瞬間に、どれほど傷付けられているか分かろうともしないマジックに腹が立つ。
誕生日なのに。
ひとりにされて、思いに囚われて。苦しくて。
泣きたくなる。
何処にいるのか見当もつかず、結局探すことを諦めベッドに転がったままぼんやり窓の外を見ていた。それは視界に入っているだけのことであり、特別なにかを見ようと思ってしたことではない。
鳥が横切るのが見える。
低く流れる雲が風の速度を教える。
静かで、静か過ぎて自分の呼吸する音がやけにはっきりと聞こえた。それだけ。
それだけの、時間。空間。
人一倍なんでも器用にこなすはずの自分なのに、こと時間に関する配分だけはどうしようもない。本を読むとか、片付けをするとか、思いつくことはあるがどれも実行に移す気になれない。騒がしいのは本来好まぬ性格だけれど、静か過ぎるのにも当然慣れてはいなかった。
うとうとしていたのだろう。
ふと気付くと日差しが真昼より少し、傾いている。思ったよりも怠惰に過ぎていく時間を惜しむ気持ちはあったがかといってやはり動くのも億劫で。
空腹も感じない。
夜になって、グンマとキンタローが戻れば騒々しいパーティーが開かれるのだろう。あの、リボンのついたトンガリ帽子がよもや自分の頭に載せられることだけはないよう祈りつつ、投げ出した体をくん、と伸ばす。それから丸くなる。
胎児のように手足を縮め、全身でいじけているポーズをとってみた。
我ながら馬鹿らしいとは思うが、こういうときはとことん落ち込んだ方がいいかもしれない。自分のことを可哀想だと思い込み、理解してくれない周囲に責任を擦り付ける。この場合周囲というよりマジック単体に対する恨みだが、日頃から迷惑を掛けられ通しの自分には十分その権利があると思う。うん、絶対ある。自己弁護。
再びうつらうつらしてきたのをいいことに、そのまま眠りについてしまう。
寝ていれば余計なことは考えずに済むし、もしかしたらそのまま誕生日なんて過ぎてしまうかもしれない。
そうだ、こんな日、来なくたっていい。
誕生日なんてものがあるからマジックがいないのだ。一番いて欲しい時にいないなんて、そんな馬鹿げたことは許されるはずがない。
来年から、誕生日なんて廃止してやる。
支離滅裂に陥りつつあるのは既に意識が寝ているから。
薄く開いた唇から微かな息が漏れると、シンタローは本格的に眠りの世界へと落ちていった。
「シンちゃん、起きて!」
耳元で叫ぶ声はグンマのものだ。
「もー、まさかと思うけどずっと寝てたの?」
ぼんやり映る視界いっぱいに頬を膨らませたグンマがいて、鬱陶しさから思わず両手で顔を押しのけてしまった。
「ひどいよ、僕、パーティーの支度ができたって呼びにきてあげたんだよ。主役がやる気ないと盛り下がっちゃうじゃない」
「いま何時だ」
「六時半」
起き上がりながら、強張った四肢を伸ばしてみる。休んでいたのに却って肩が凝っている気がして、両腕を回しながらベッドを降りた。
聞きたいけれど、聞けない。
だから無言で部屋を出た。
ダイニングは、まるでプライマリースクールの教室のような有様だった。
やるだろうとは思っていたが、幼稚な飾りつけはグンマの趣味そのもので、あちこちに造花や風船が取り付けられ手書きのパネルには几帳面な字で“祝誕生日”と綴られている。これは指摘するまでもなくキンタローの仕業だろう。
食卓には、パーティーというだけあって様々なオードブルやメインらしいローストビーフなどが並び華やかさを演出している。小ぶりのケーキはそれでもきちんとホールで用意され、チョコのプレートには“シンちゃんおめでとう”と不器用な文字がのたくっている。これはグンマの手によるものだ。
ありがたいと思う。来年は廃止する予定の“さよなら誕生会”だけれど、それでも二人が心から祝おうとしてくれているのが良く分かり、それには素直に礼が言えた。
「シンちゃん、元気ないね」
「それは肝心なものを受け取っていないからだろう」
「そっか。そうだね。やっぱり誕生日といったらアレだよね」
恐らく、彼らは“ひそひそ話し”をしているつもりなのだろう。いつものことながらグンマの声は通りがよく、答えるキンタローにいたっては常と変わらぬ張りのある低音でハキハキと返しているのだから始末が悪い。
「ごめんね。でも焦らしてた訳じゃないんだよ」
「その通り。俺たちはお前の生まれたことに感謝して、その気持ちをどうすれば最大限に活かせるかここ一月思案に思案を重ねてきたのだ。そしてついにある一つの結論に達したのだが、俺が閃いた、いいか、この俺が閃き考案した策こそ史上最大のバースデー企画であり、後世まで語り継がれること間違いなしのサプライズになるのだ!」
「うん、でもキンちゃん何度も言うけど自分だって誕生日だからね。そこは忘れないでね」
突っ込みを入れるべきかどうか迷っていたが、取り敢えずグンマもそこは忘れていなかったらしい。
「変なんだよ、キンちゃん。自分だって誕生日なのに、驚かされるのは絶対に嫌だからパーティーは辞退するって聞かないの」
「俺は常に、創造する側にいたいんだ」
「仕事してるんじゃないんだからさぁ」
「その件についてはもう何度も話し合っただろう。俺を祝いたいなら俺の好きなようにさせろ。お前からのプレゼントは、シンタローサプライズ企画を俺に任せることじゃなかったのか」
「それはそうだけどぉ」
「なんでもいいからさっさとプレゼント渡せよ」
この二人に任せておくと話が進まない。ありがたいとは思うものの、気乗りのしないパーティーほど虚しいものはないのだ。フォークに刺したプチトマトを口に運びつつ、適当に食べて適当に驚いてやったら部屋に戻ろうと密かに思う。
「じゃあ気を取り直して。シンちゃん、今年のプレゼントはほんっとにすごいよ!」
「目にものを見せてくれる」
脅迫されているような状況で受け取るプレゼントにどんな期待をしろというのか。この二人のことだからどうせろくなものではないに決まっている。
なんとかロボとか、ホニャララ兵器とか、そんなもの。
「では、改めましてシンちゃん!お誕生日おめでとう!」
「遠慮なく驚け!」
「あーあびっくりした大したもんだ」
口先だけで言いながら、甘酸っぱいトマトを飲み込み視線だけでそちらを見る。
ダイニングに入った時から気付いてはいたが、プレゼントを隠しておくのは当然なので気付かない振りをしてやっていた、かなり大きな山に掛けられた白いシーツが二人の手によって取り去られる。
ぱさり、と。
床に落ちるサテンの白。照明に照らされ光っている。
「――――、げっ、」
シンタローは、確かに驚いた。
2006 シンタロー誕生日記念
「な、な、な、」
「やった!シンちゃん驚いてるよ!」
「俺の企画力の勝利だ」
驚いた。
確かにシンタローは、これ以上ないほどに驚愕している。
しかし。
「わーい、さすがキンちゃんだよぉー」
「シンタローに絡むことは即ち叔父貴に絡むことだからな」
「アホかーーーーーーーーッ!」
驚いたが、それは両手を挙げて“オウッ、サプライズ!”とか言っていられるレベルの驚きではない。驚愕だ。いままでの生涯で堂々第三位にランクインを果たした超弩級の驚きにあたる。
因みに第一位は実の父親に言い寄られたこと、第二位はその苦悩をあっさり裏切ってくれた血縁関係がないという真実を知ったときである。
「おいっ生きてるのかっ」
「やだなぁ、なんで僕たちがお父様を亡き者にしなきゃならないのさ」
「シンタローは身内だという油断から、時々無礼なことを平気で言い放つがな、それはやはり良くないぞ。親しき仲にも礼儀ありという言ってな、つまり、」
「うるせえ黙れ馬鹿でこぼこコンビ!」
「む。いまのはなかなか難しい早口言葉だぞ」
「うるせえ、だまればかでこぼん、ほんとだよく舌噛まないね」
駆け出したシンタローは、振り向きざま小さ目の眼魔砲を撃った。食卓と室内に被害はないが、でこぼこの頭は取り敢えずモコモコになった。
「しっかりしろ!親父!」
「…む、ぐ、ん?」
台車の上に乗せられたマジックは、後ろ手に縛られ猿轡まで咬まされている。冗談にしては行き過ぎた扱いに手加減をしたことを後悔しつつもう一声怒鳴ろうとしたが、薄目を開けて自分を見るマジックの救出が先だと拘束を解くことを優先させた。
「なんでこんなことされてるんだよっ」
「シンちゃん、ちょっと、大声は勘弁して。頭が痛い」
「ああ、すまん」
反応を見る限り、睡眠薬でも使われたのだろう。顰めた顔が本当に辛そうで、ムカムカと怒りがこみ上げてくる。
「お前たち、なんでこんな真似した!」
マジックを手近な椅子に座らせると、突如ファンキーなヘアスタイルにイメージチェンジさせられた二人がふらふらしつつもどうにか支え合い、シンタローに向かって口を尖らせる。
「ひどいよシンちゃん、僕らはシンちゃんのためにやったのにぃ~」
「何処の世界に自分の親父を拉致監禁する馬鹿がいる!」
「拉致はしたけど、監禁まではいってないって」
「そうだぞ。俺たちは、取り敢えず一服盛って眠らせはしたが、叔父貴にはプレゼントとして活躍してもらっている間研究所の仮眠室で大切に保護していたんだからな」
「なんだそりゃ!分かるように話せっ」
「シンちゃん大声出さないでってば」
「アンタこんな目に遭わされて言うことねぇのかよ!」
「そりゃ私だって怒るときは怒るけど。なんでこんなことしたの?」
こめかみを擦りつつマジックが尋ねると、恐ろしいほど不似合いなアフロを揺らしつつキンタローが答えた。
「お前は常日頃、叔父貴が近付くとうるさい鬱陶しいと邪険にしていただろう。確かに世の一般的な父親像から比べれば常軌を逸した言動、行動だというのはわかる。そこで俺は考えた」
曰く。
“静かにしろ、放っておけ、あっち行け、と毎日のように言っているシンタローが年に一度の誕生日を迎えるに当たり、反比例してボルテージの上がるマジックを隔離することにより、心静かに寛げる一日を提供する”
「名案だろうが」
「そうだよ。これじゃシンちゃん、言ってることとやってることが逆だよ」
「そんな計画を立ててたの?ひどいなぁ、お陰で私は、私だけの特権を行使し損ねたじゃないか」
「お父様の特権ってなぁに?」
「勿論、日付が誕生日に変わった瞬間、ぎゅーっと抱きしめておめでとうを言うことだよ」
「ああ~、そうだねぇ、毎年それやって毎年眼魔砲撃たれるのがお父様の楽しみだったんだよね。ごめんなさい気付かなくて」
「眼魔砲を撃たれるのは不本意なんだけどね」
「うむ、確かに。今年はおめでとうもバースデー眼魔砲も俺たちが奪ってしまった形になるわけだな。それは悪いことをした」
「だから、眼魔砲はいいんだって」
和やかな会話になっている。
精神的にも肉体的にも、あの程度のことならばダメージなど殆どないであろうマジックは早くも復活したのか、豪勢な食卓を見て感心している。
「まあ言いたいことはあるけど、二人がシンちゃんのために計画したことなら仕方ないね。こんなに素敵な支度もしてくれていることだし、改めてみんなでお祝いしよう」
「ケーキは僕が作ったんだよ」
「グンマ、それは正しい表現ではない。正確には、お前が作ったのは“ケーキを作るロボット”だ」
「細かいことはいいじゃない」
「開発費用はちっとも細かくなかったぞ」
「おや、また公費流用だね。それはシンちゃんに叱られる種だからやめておくか隠し通さなきゃダメだよ」
「あーっ!そうだよキンちゃん、なんで言っちゃうのさ!」
「いずればれる。シンタローはどんな庶務雑務書類でも欠かさず目を通すからな。特に経費計上面はシビアだ」
「それもこれも愚弟の所為だからね。私も心が痛むよ」
「ハーレム叔父様も、人は悪くないような気はするんだけどねぇ」
「悪くはないが良くないことも確かだろう」
和気藹々。
「…………に、しろ」
「ん?なんだいシンちゃん」
「勝手にしろ!」
怒鳴って、立ち上がる。扉に向かう。出て行く。
壊れないかどうかの配慮など考えられず叩き付けたドアには気の毒だが、仮に壊れたとしても直す責任は自分にはない。
自室に戻り、寝室へ直行するとそのままベッドに潜り込み布団を被った。釈然としない様々な思いが渦巻き、目を閉じると余計にぐるぐる回る。頭の中を、巡る。
誕生日なのに。
一年に一度、祝福される日なのに。
ほしいものが与えられる日なのに。
ほしいものはあったのに。
素直になれなかったのは確かに自分だけれど、それでもこんな風に悲しくなるような、情けなくて胸の痛む思いをするような日じゃないはずだ。少なくとも今日は、何事に対しても幸せでいられるはずたった。
願っても、咎められるはずのないささやかな。
誰が悪いのか、順序をつければ自分だって上位に入る。というより全員一律で同罪だといっても過言ではない。各々の思惑がうまい具合に擦れ違って、結果招いた結末がこうであったというだけのこと。
だからグンマを、キンタローを責めることは出来ない。
マジックを責めることも出来ない。
それでも悔しいのは、悲しいのは、今日という一日はもう戻らないということ。取り返せないということ。
ただ傍にいたいだけで、特別変わったことなど必要ないのだ。しつこくされるのが嫌だというのは、普段と変わりなければそれでいいということだとどうして分かってくれないのだろう。なんで悲しくさせるのだろう。
女々しいなぁ、俺。
頭の中でぽつんと呟き、深く湿った溜め息を吐く。
今頃、主役を欠いたパーティー会場はいたたまれない空気に包まれていることだろう。いい気味だと悪態を吐いてやりたいが、そうするにはシンタローは家族思いすぎたから、結局ひどい自己嫌悪に苛まれ益々深みにはまっていく。
こんなときは。
「…寝よ」
寝るに限る。考えても名案が浮かばないなら、そのときは思考を切り替え一旦保留してしまうのが一番だ。正常な動作をしなくなった電子機器も、一度電源を落とせばうまく繋がったりするあれに似ている。人間の思考は電波でもあるから、寝て、覚めれば状況も変わっているかもしれない。
第一、引き摺るような問題ではないから。
些細なことだ、本当にくだらないこと。すぐに忘れていいようなこと。
眠れるはずがないと思いながら、それでもシンタローは目を閉じた。硬く瞑って、頭の中にある黒い影を出来る限り隅に追いやる。
がんばれ俺。眠るんだ俺。
無駄な努力を一晩続けることになりそうな予感も押さえ込み、必死に自己暗示を掛け続けた。
寝る。
コン。
寝る寝る。
コンコン。
寝る寝る寝る。
コンコンコン。
「シンちゃん…起きてるでしょ?入るよ」
逢いたくて、逢いたくない彼の気配が近付いてくる。
2006 シンタロー誕生日記念
頭から被っている布団の上から、ぽんぽん、と叩かれる感触がする。
「シンちゃん、怒らないで。機嫌を直して顔を見せてよ」
誰が。
どのツラ下げてそんなことが出来るというのだ。
シンタローの寝室に入ってきたマジックは、真っ直ぐ彼のいるベッドまでやってくると圧迫しないように気を付けながら腰をかけ、両手を回して彼の体を抱き締めた。
布団にくるまっているから、欲しいようには抱き締めてもらえないもどかしさに苛立つ。けれどそんなことを言えるはずもないシンタローは無視するように沈黙し、身動きをしないよう体を固くしていた。
自分が悪い。彼が悪い。自分は悪くない。彼も悪くない。
誰もが悪いし、誰も悪くない。分かってる。
「ねえ、機嫌を直して。パパ、まだちゃんとおめでとうって言えてないんだよ?今年は言わせてくれないの?」
言いたきゃ勝手に言えばいい。口に出そうと思って、でも出来なくて。
「シンタローが生まれた日だよ。私にとっては一番大切な日だ。なにより大事な一日を棒に振ってしまったことは確かにショックだし、本音を言えばグンちゃんもキンちゃんも、ちょっとばかり恨んでるけど…でもあの子たちだってシンちゃんのためを思ってしたことだし、私の日頃の行いの所為だからね。叱れないでしょ」
それも分かってる。言われなくても分かってる。
「毎年シンちゃんになにをあげようかって考えて、でも思いつくものはどれも本物じゃなくて、仕方なく本人に尋ねても答えてくれないし、結局なにもいいものが浮かばなくて。品物じゃない限り、上げられるのは私自身しかないからね。それに…」
金で買えるもので心底欲しいと願ったものなんてひとつもない。
彼から受け取りたいのは、捧げて欲しいのは。
「お前が、本当に求めているのは私だってことくらい」
ちゃんと、分かっているんだよ。
屈んで、いつの間にか捲られた布団の隙間から直接囁きが注がれる。耳に湿った空気。それだけで背筋に灼けた鞭を振り下ろされたような心地になる。
いつだって逆らう力を奪うマジックの声。熱。腕の強さ。ほしかった。
「ばか…言うな」
「違うの?違わないよね。お前は私のことを愛しているよ。私だけを欲しがってる」
言葉とともに、くるまっていた布団を剥がれ徐々に暴かれてしまう。体も、心も、奪われてしまう。怖くて、嬉しくて、恥ずかしくて、切なくて。
「ほら、抵抗出来ない。お前はいつだってそうだよ。私のことが好きで、私を束縛したくて、そのくせプライドが邪魔して素直になれない。言いたいことが言えなくて、苛ついて八つ当たりして好きじゃないって、嫌いだって言いながら泣きそうな目で見詰めてくる。私が悪いと責めてくる」
「そ、なこ、と…な、い」
「ほらまたそうやって否定する。でもご覧、お前の体、動かないよ。私に抱かれて大人しくしているよ。もっと強くと思っているの?早く、と思ってるの?」
「ちがうっ」
「違うの?本当に?じゃあ私が納得して、離れてしまったらどうする?二度と触れなくなったらお前、そのまま私を忘れるの?忘れられる?熱も、恋も、愛も、捨てられると言うの?」
「、っ」
蒼い目が。
薄暗い部屋の中で、彼の目だけが、光っている。
「おれ、はっ」
「うん」
「俺はっ」
「うん」
「お、れはっ」
射竦める瞳の力。彼の目は確かに特殊な能力を秘めているが、シンタローを捕らえて離さないのはその所為ではない。
彼が秘石眼の持ち主であろうがなかろうが関係はない。
マジックがマジックであること。
自分が、自分であること。
「俺はっ」
声も、体も、心も震えて止まらない。
こんなの自分じゃない。正気じゃない。
堪えられない。
「――ごめんね。意地悪言ったね。でも泣かないで。全部私が悪いんだよ。お前はなにひとつ悪くない。なにからなにまでシンタローは間違ってない。これまでも、これからも、困らせるのは私でお前はいつでも正しいから。そう信じていいんだから」
「ばか、やろっ」
抱き締めて。
好きなのは事実。
愛しているのも事実。
でもそんな言葉を軽々しく言えるほど思いは軽いものではない。
気持ちは、軽いものではない。
気付いたときには手遅れで、シンタローにとってマジックは唯一絶対の支配者でありそれは父としてもそうだし、愛するものとしてもそうだった。血縁だとか、家族同様だとか、そんなことは今更なんの基準にもならない。それで揺らぐ思いじゃない。
言えないから、伝えられないから。
心の中に降り積もる、憎しみすら含んだ愛で許容量は既に超えているのだ。だから新しいものを受け入れる隙間はないし欲しいとも思わない。なにもかもが彼で満ちている。彼だけで出来ている。二つの体であることが、もどかしいと思うほどには愛してる。
言えないけれど。
言葉に出来ないけれど。
それはプライドとか自制心とか、そんなものがかけている歯止めではなく切なさが。
あまりに強すぎて、強くなりすぎて凝り固まってしまった心の重みで。
愛の重みで。
身動きも出来ないほど。
「お前が生まれて、私の元に来てくれて本当に嬉しいよ。悲しい過去は消せないけれど、そんなことどうでもいいんだ。なにがあっても離さないし、どうなろうと離れないよ。シンちゃんはこの話になると決まって誤魔化そうとするけど、私がお前より先に逝くのは変えられない。それだけは逃れられない。でも、でもね、だからこそ傍にいたいよ。いつでも触れていたいよ。抱き締めて欲しいし、愛して欲しい。時間は前に進むだけだから、二人で進んでいきたい。進むしかないなら片時だって離れずに、お前と歩いていきたいんだよ」
よくもまあ、と。
いつものように憎まれ口を利いてやりたい。歯の浮く台詞を並べ立て、お前は恥ずかしくないのかと。情けなくないのかと。
けれど抱き締められた腕の中は温かく、抵抗するには今日の自分は弱すぎた。
たった一日ひとりでいただけでこんなになるなんて信じられないけれど、それが自分なのだと改めて思い知らされた。認めるもんかと歯を食いしばっても虚しいだけで、いまだけだからと目を閉じた。
いまだけだ、こんなの。
らしくない自分は今日だけだ。
誕生日だから。
なにももらえない、奪われるだけの誕生日だから、だったらこの弱い自分も持っていけばいい。浚って、どこか遠くに追いやってくれればいい。
今日だけ。
いまだけ。
今夜だけ。
伏せていた顔を、顎にかけた指が押し上げる。
拗ねて甘えた表情になっている自覚はあったが、今更取り繕うことも馬鹿らしくてそのままじっと見詰めていた。
苦笑して、可愛いねと囁いたマジックはとんでもないバカだが、自分だって大概どうしようもないと思う。思うけれど止められない。
もういいや。なんでもいいどうでもいい。今日の俺は俺じゃない。忘れる。忘れてやる。
こんな誕生日、自分史上から抹殺してやる。
今日一日はなかったことにしてやるーっ!
心の中で力の限り叫ばれた台詞が成就したかどうかは…
気の毒なので、言わないでおこう。
おまけ
2006 シンタロー誕生日記念
「シンちゃんはパパのこと、好きだよね」
「…好きじゃねぇ」
「好きだよね。愛してるよね」
「…好きじゃねぇ。愛してねぇ」
「好きだし愛してるし一緒にいるんだよね。ずーっと離れないよね」
「好きじゃないし愛してないし一緒にいないし…」
「ん?」
「好きじゃないし愛してないし一緒にいないし…」
「んん?なに?」
「っ、好きじゃないしっ!愛してないしっ!一緒にいないしっ!いない、しっ」
「んんん?」
「くっ、親父のバカヤローーーーーーーーッ!!」
「あ、逃げた。シンちゃーん、パパまだおめでとうって言ってないよーっ」
好きだし。
愛してるし。
一緒にいるし。
ずっと傍にいるし。
離れないし。
「初志貫徹!来年から誕生日は廃止!!」
爽やかな朝に不似合いな、シンタローの叫びがこだまする。
お誕生日、おめでとう。
END
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2006 シンタロー誕生日記念
『シンちゃんがいま、一番欲しいものって、なに?』
ウキウキ、わくわく、ドキドキ、そわそわ。
思いつく形容詞はどれも子供染みて、しかもその喜色満面に輝いた表情を見れば条件反射でウンザリする。
毎年自分の誕生日が近くなるたび繰り返された光景だから、今更それについては特にコメントもない。欲しいものを言おうが言うまいが結果は同じで、祝われる側であってもより嬉しいのは一方的に相手なのだから、それに付き合わされる面倒が増えただけの状況を喜ぶことなど出来ようはずもないのだった。
いや、正確に言えば勿論、嬉しい。
一つ年を取ることに喜びを感じるほど若い訳ではないけれど、生まれたことを感謝される日はシンタローにとりなによりも嬉しいことだ。存在の不確かな自分を息子と呼び、諸々問題はあれど愛されている身の上なのだ、そのことについてはなんら不満も不都合もない。
けれどシンタローは、その日が近付くにつれ“ウンザリ”するように出来ている。
パブロフの犬だ。
美味しい餌をもらえると涎を垂らす姿はある意味悲哀を感じるが、それでももらえないよりマシだし不幸ということはない。けれどシンタローは犬ではなく、プライドとか世間体とか自分自身への言い訳とかなんとか厄介な感情を持て余しているタイプなのでこの状況は如何ともしがたい。
総帥として、また経営者として団の運営に支障をきたすほどの巨額の損失を生み出したのが身内とあっては贅沢は敵だ。元来慎ましい生活を苦とせず、悪く言えばがめつい気質を持つ彼にとって“借りることはいいこと”であり、“出すものは舌でも嫌がる”のが心情だ。ついでに言えば借りた場合、返さないのが秘訣だというのは誰にも言わない秘密だけれどこの際それは置いておいて。
とにかく、もらえるならありがたく頂戴したいところのプレゼントというやつを、彼は毎年最大限の警戒をしつつ受領検討せねばならないのだ。こんな馬鹿げたことはないだろう。
今年も間もなくやってくるその日に向けて、いよいよ諸悪の根源が動き出した。
ジロリと睨み付ける視線をものともせず、だらしなく笑った父親の顔を心底嫌そうに眺めながら、子供なら吹き飛ぶほどの盛大な溜め息を吐いてやった。
「シンちゃんが欲しいものって、なにかな?パパに教えてくれる?」
「……………」
「あれ?聞こえてない?おーい、シンちゃーん、パパだよー」
「黙れ」
目に刺さる近さで振られた手を叩き落す。
あー嫌だ。なんでこいつ、こうなんだろう。毎年毎年毎年毎年…エンドレスで毎年!しつこい、ウザい、暑苦しいの三拍子揃って耐え難い鬱陶しさを力の限りぶつけてきやがって!
人相が悪くなる。シンタローにとって自分は常に格好良く、青空に白い歯がキラリ、が似合うタイプなのだ。ナマハゲオヤジの如く人に不快感を与えるだけの顔などしたくはないのだ。
けれどこいつだけは違う。
諦めたと思いつつ、それでも律儀に相手をしてしまっている自分にも気付いているから余計に腹立たしくて、だからポーズだけでも拒絶の色は崩さず平常心を装いながら手元の書類に目を落とした。
そうだ、いまは執務中なのだ。それなのに、のこのこやってきてヘラヘラ笑って、神経を逆撫でて自己満足をしている彼が、父親が、マジックが信じられない。それが毎年。
「忙しいのは分かるよ。でもだからこそパパも“あれが欲しい”って一言で言って欲しいんだよね」
「…まずサプライズ、って意味、辞書で調べてから自分の行動について考えろ。俺の返事はそれからだ」
プレゼントといえば普通はなにを贈るか、なにが贈られるかを双方が楽しみにするものだろう。欲しいものを与えられるのはそれは当然嬉しいけれど、自分のためにあれこれ考えてくれたという喜びに勝るものはないはずだ。
どんなに忙しくてもシンタローは誰かになにかを贈るときは自分で考えたし、受け取ってくれた瞬間の笑顔を見るのが楽しみだった。だから彼にも、何度もそう言ったのだ。子供心に父からもらえるものならなんでも嬉しいと、繰り返し言い聞かせてきたのにいまだ実行に移されたことは数少ない。
「パパはね、シンちゃんが欲しいものを贈りたいんだよ。そりゃ考えるのも楽しいけど、見当違いのものをあげてガッカリさせたくないし、なによりシンちゃんが必要とするものをあげたいと思うのが、パパにとっての最善なんだよ」
理屈は尤もだ。そうは思う。けれど元来物欲の少ないシンタローはあれこれ欲しがる性質ではないし、自分が欲しがればその分奪われる立場に曝される人間が少なくないことを突きつけられるてきたトラウマで、なにかを要求するということは避けているといっても過言ではなかった。
小さな頃はとにかく父親が傍にいればそれでよかった。あとはなにもいらなかった。ひとりにされるのが嫌で、怖くて、願うことはいつだって父親を中心に回っている。パパと一緒に遊びたい、一緒に食事がしたい、手作りのカレーがいい、お風呂に入って髪を洗ってほしい、笑ってほしい抱き上げてほしい優しく名前を呼んでほしい、パパ、パパ、パパ。
思えば恥ずかしいことこの上ない過去だが、変えられないのだから仕方ない。それにそれこそが自分の原点であることは嫌というほど分かっている。自覚がある。
結局、この父と離れられないのは、束縛されている訳ではなく自ら望んでのことなのだ。本当に嫌ならいくらでも逃れる術はあったし、実際それを躊躇う彼ではなかった。
だからこそもどかしいのだ。
毎年“なにがほしい”と聞かれるのが嫌なのだ。
答えられるはずもない自分の気持ちを突きつけられて、認めさせられて、顔から火を噴きそうな現実に人知れず耐えるその甘く疼く屈辱をこれ以上味わわせないでほしいのだ。
だから、シンタローは無視をする。諦めていなくなるまで仕事に没頭した振りをする。そうすれば一時的には諦め、次は自分の秘書やシンタローの同期に助けを求めそちらに迷惑をかけ始める。美貌の叔父にだけは絶対に相談しないのが彼のなけなしのプライドなのだろうが、基本的に父に関して素っ気無い態度を崩さないシンタローなので周囲も諦めているからそうなればこっちのものだった。
大体三日前くらいまでは纏わりつかれるものの、それを過ぎれば誰かしらから仕入れた知恵か、もしくは伝家の宝刀を抜き払って当日を迎える。前者はそれなりの品物に化けてのことだが、後者はいわゆる“ご奉仕”だ。
一番いらないもの、とシンタローは吐き捨てているが、後腐れがないしそれなりに悪くもないので文句を言いつつ収めてやっているのだ。勿論、マジックには言わないけれど。
父とどうこう、という仲であることに対し未だ完全に納得している訳ではない。血の繋がりがないと分かって安堵したのはその点についてのみだが、このあたりの事情は考えると落ち込みそうになるので極力触れないようにしている。シンタローはデリケートなのだ。タブーを承知で声高に愛を叫べるほど無神経ではない。
と、そんな苦悩を知ってか知らずか、恐らく分かってはいても理解するつもりのないマジックは日々彼を追い求めることにすべてをかけている。ほかにいくらもやらねばならぬことはあるはずなのに、二言目には“シンちゃん愛してる”で万事片付けようとする。
総帥職を譲ったのも、実は息子ストーキングを徹底するためだったのだろうと真顔でキンタローに言われたことがあるが、あながち嘘とはいえない。怪しげな芸能活動に割く時間とシンタローにかまける時間は頭一つシンタローに軍配が上がっている。逆になればなったで腹が立つものの、決して嬉しいとは言えない日常に疲れているのが正直なところだった。
さて、無視し続けること数分の間に、マジックはなんとか会話の糸口を掴もうと必死に言葉を並べ立てていた。
いっそ気の毒だが甘い顔を見せれば付け上がる。誕生日なのに、寝室から出られなくされるのは今年こそ避けたいというのも本心で、いい加減なにか適当なものを要求しようかとも思った。
酒とか。…酒とか。酒とか。
繰り返すがシンタローは物欲が少ない。もらってありがたいのは消費してしまうものくらいで、中でも酒なら自分に付き合って飲む者もいるし一石二鳥の品である。しかもこれなら、不自然にならずさりげなく、マジックを誘うことも出来るのだ。
彼ならそれが濁りきった池の水であろうと、シンタローに誘われたという事実に目が眩み甘露甘露と飲み干すことも出来るだろう。この辺に感情のずれがあるのだが、なにせシンタローはシャイなのだ。
デリケートでシャイ。かなり鬱陶しいよね。
とは、濡れた障子紙ほども頼りないと酷評する兄であるグンマから叩かれる陰口であったが、当然“陰”なのでシンタローの耳には入っていない。よかったね、グンちゃん。
そんな家族の思惑を踏まえ、段々とおとなしくなってきたマジックに溜め息を吐きつつ“じゃあ酒”と言おうとした。
その瞬間。
「…パパには、なにも願ってくれないの?」
タイミングが悪い。
悪すぎる。
シンタローは器用ではないのだ。言葉や思いは頭の中にグルグル渦巻いているのに、それを音に変換するには時間がかかる。感情を素直に伝えるには精神的に未熟だった。この年になっても、マジックに関わることはすべて、なにもかもが苦手だった。
一番大きく、なにより影響を持つ存在だから。マジックだから。
勿論それも言えないので、開きかけた口を所在無くモグモグと動かしていると、暗い目つきになったマジックが媚びる様な視線でシンタローを見詰めてきた。
「なにかあるでしょ?パパにしか出来ないこと、して欲しいこと、あるでしょ?」
甘えろ、という言葉のくせに甘えているのは彼の方。シンタローだって寄りかかりたいのに、そうできない性格が邪魔をして損ばかりしている。なのにマジックは寄りかかることを当然とでも思っているのか、すべてをシンタローに投げかけ自分はヘラヘラと笑っている。頭にくる。
出鼻を挫かれたそれだけのことにこんなに腹が立つのは、いつまで経っても進歩しない自分たちの関係を見せ付けられた気がするから。
マジックの態度がもどかしいから。
理解しあえない距離感が切ないから。
「…………が、いい」
「え?なになに、なにかほしいものあったの?」
「アンタがいないのが、いい」
「…え、と、それはどういう意味かな」
「毎日しつこくてウザくてうるせえから、誕生日くらいは静かに過ごしたい。アンタがいないのが、いい」
「私が、シンちゃんの前に、現れないのが、いいの?」
「ああ」
ひどい!
シンちゃん、パパの愛を試してるのかい?
それだけは嫌だっ!それ以外でもう一声!
またまたぁ、そんなこと言って本当はパパのこと大好きなくせにぃ~。
「…そう」
猫なで声で、擦り寄って。
「そう。分かった」
腕を伸ばして隙があれば抱きついて。
「誕生日だもんね。欲しいものがあるなら、プレゼントしないとね」
抱きしめて。
「――え、お、おい」
キスをして。
ゆっくりと閉じていく扉を呆然と見送る。
なにが起きたのか理解するのに、情けないが数秒を要した。分かってからも暫くは、掛けた椅子から立ち上がることも出来なかった。指先が、微かに震えている。
突き放すのは自分の役目だ。
嫌がるのは、疎むのは、拒絶するのはいつだってシンタローの側であり、溢れるほど与えようとして失敗するのがマジックの愛だった。
それなのに。
「なんだよ…なんで引き下がるんだよ…」
呟きが、室内にこだまする。
焦燥感に息も詰まりそうだった。
2006 シンタロー誕生日記念
「喧嘩したの?」
「…誰と」
「シンちゃんが喧嘩する相手って言えば、お父様か僕かアラシヤマくらいしかいないじゃない」
「最後のは喧嘩になんかならん」
はなから相手にしていない。
苛々と爪を噛んでいるところを目敏く見つけたグンマがひそひそと話しかけてくるが、この場合“ひそひそ”にまったく意味はない。悲しいかなこんなときに限って仕事も一段落してしまい、経費削減を呼びかけている折から自分が居残ることも出来ずすごすご帰宅する羽目になった。
誕生日は明日に迫っている。
先日、妙な雲行きになって以来、危惧した通りマジックの態度は一変してよそよそしくなった。普段が図々しすぎる男なのでこれくらいが丁度いいというのは決して負け惜しみではないけれど、それにしてもシンタローと目も合わせない状況は傍から見れば異常とすら言えるだろう。
グンマは、大方シンタローにちょっかいを出して叱られているに過ぎないと思っていたが、それだけにしてはどうもマジックの覇気がなさ過ぎる。年甲斐もなく無駄に生命力溢れる男なのだ、父親ながら飽きれたりもするけれどそれでも元気がない様子は心配になって当然だろう。
態度も体格も大きな弟は、父に対する遠慮という配慮を持っていない。あれだけ溺愛されれば仕方のないことかもしれないが、だからこそこういう場合、自分が間に立ってフォローアップに勤めなければならないという使命感がムクムクと沸いてくる。らしい。
分相応とか、そういう現実問題は棚の上に放り上げておいて。
「明日はシンちゃんの誕生日だし、なにかすっごい企画でも立ててるんならいいんだけどね。そうじゃないならあのお父様の憔悴振りってかなり深刻だと思う」
「俺は、そういうことを本人目の前にして、聞こえないと思い込みつつ語れるお前の方があらゆる面で深刻だと思う」
大きな食卓とはいえ、左右二人ずつ向かい合って座っている状況なのだ。因みにシンタローの左手がグンマ、向かいがマジックで彼の右隣がキンタローの席になっている。末の弟の席も勿論あるが、食事の支度はしていない。陰膳は戦争や旅に出た者の無事を祈るためのものだという、全人生かき集めても片手に満たない男の主張は尤もだが、もう少しマシな喩えをしてほしかった。
とにかく。
どんより濁った空気が漂う食卓も今日で三日を数え、いよいよ明日がシンタローの誕生日なのだ。今日の昼休みに訪ねた研究室で、トンガリ帽子に大きなリボンを取り付けながら微笑んだグンマは“盛大なパーティー”に期待しろと息巻いていたが、いまやその盛大さが恐怖に感じられて仕方ない。
喋らないマジック…有り得ない。
存在感のないマジック…有り得ない!
自分が手の届く近くを無防備に歩いていても、決して触れないマジックなんて有り得ない!
ぼそぼそと食事を終え、小さな声で“ごちそうさま”と呟いたマジックは背を丸めた寂しげなシルエットを隠すよう、足早にダイニングを出ていった。
「あーあ、ほら、完全に拗ねちゃってるよ」
「俺の所為か」
「お父様のことに関して、なにかあったらぜーんぶシンちゃんの管轄でしょ」
「なんでっ」
「なんでって…ねぇ」
「うむ」
分かっているのかいないのか、キンタローにまで深々と頷かれ余計に腹が立った。どうして自分が責められなければならないのかと、少しの罪悪感の影で感じていた苛立ちが吹き出して、心配する気持ちを凌駕した。
「自分の思い通りにならないとすぐ腐って、それでみんながちやほやすると思ってやがるんだアイツはっ!」
「確かに子供っぽいところはあるけど、でもそれだけシンちゃんが好きだってことだよ」
「好きならなにをしてもいいのか?あーホンットお前は父親思いのいい子だねー、俺とは大違いの孝行息子だよバカのくせにっ」
「シンちゃ、」
「大人げないぞシンタロー。グンマはお前たちのことを心配して言っているんだ、それぐらい分かっているだろう」
「うるせえ!」
説教は嫌いだ。マジックのことで誰かに、たとえ身内であっても自分より分かった風なことを言われるのはもっと嫌だ。
誰より知っている。解っている。その彼のことを解っていないと言われるのだけは許せない。認められない。
椅子を倒す勢いで立ち上がると、ドアに向かって真っ直ぐ進む。いっそ眼魔砲で吹き飛ばしてやろうかと思ったが、それが苛立ちで悔しさで寂しさだと知られるのは嫌だから思い止まり手で押し開けると自室へ向かう。
飛び込んだ室内は薄暗く、温もりの感じられない空虚だけが降り積もっているようだった。
いつもなら、部屋へと戻る自分の後を追ってうるさく話しかけ付きまとってくるマジックがいない。もう三日もこんな気持ちを強いられている。ひとりでいる。
原因は自分かも知れないけれど、それでもこんな風に放り出されるのは嫌だった。彼のいない時間など欲しくない。いらない。求めてない!
ベッドに俯せで倒れ込む。
気分が悪い。
胸が痛い。
苦しい。苦しい。苦しい。
「あーくそ、腹立つ」
声に出し悪態を吐いて、自分を乱す相手の顔を思い浮かべる。
誕生日なのに。
年に一度、憚ることなく甘えられる日なのに。預けられる時なのに。
そんなこと、口に出して言うことは出来ないけれどそれでも自分にとっては必要な、大切な時間なのだ。言えないけれど。言えないけど。
傍にいてくれれば、それでいいのに。
そんな風に思う自分が恥ずかしくて、悔しくて、本当は自分だけが思っているような、好きなような気がして。そうとしか思えなくなって。
デリケートでシャイなのだ。俺は。ついでに言えば人知れずロマンティック、さりげなくペシミスト。どうしようもなくロンリーネス。
正気の時に思ったのなら、聞くものがなくとも顔を真っ赤にするようなことを平気で考えられる辺り相当落ちている証拠だろう。ことマジックに対しシンタローは面白いほどに打たれ弱い。これはある種の条件反射なのだろうか、強気な態度で、傍若無人に振る舞っているようでその実彼にだけはとんでもなく臆病なのだ。本心をぶつけるなどと簡単に出来ることではない。
どうしてだろう。
なんで擦れ違うのだろう。
素直ではない自分の所為か、追い求める割に本当は興味などないとしか思えぬほどあっさり手を引くことのあるマジックの所為だろうか。
よく、解らない。
「…誕生日なのにな」
呟きが、ぽつん、と零れる。それは涙の粒のようで、余計に情けなくなったシンタローはきつく唇を噛み締め声を漏らさぬようにした。
あと、数分で、自分の生まれた日を迎える。
2006 シンタロー誕生日記念
朝起きて、ダイニングに行くとグンマとキンタローが真っ先に“おめでとう”を言ってくれた。仕事が終わったら真っ直ぐ帰ると何度も言って、そして二人は出掛けていった。
バースデー休暇なんてものを誰が団規に定めたのか。
自分ではないからマジックかも知れないし、見たことのない祖父かも知れない。なんにしても今年ほどこのぽっかり空いた時間を恨めしく思ったことはなかった。貧しくもないのに貧乏性のシンタローは、体を動かしていないと落ち着かない性質であり、休日の過ごし方が下手なのは自分でも嫌と言うほど理解していた。
だから起きてきたところですることなどないし、ガッカリするのは嫌だったから本当は自室に籠もっていたかったのだ。
けれど一縷の望みをかけて、そーっとリビングを覗いたけれど案の定そこは無人で、話し声の聞こえたダイニングにもグンマとキンタローの二人がいるだけだった。
時間が合いにくい夕食と違い、朝食は全員が揃う大切なコミュニケーションの場だ。家族としてともに暮らす以上、最低限のルールとして集うことを決めている。口にした訳ではないが、誰もがそう感じている。だからこそこの家の朝食は賑やかで、その団欒の中心には人一倍喋るマジックの存在が不可欠だった。
なのに、いない。
出掛けるとは聞いていないし、どうしても外せない仕事以外に彼が自分の誕生日に離れていることなどなかったのだからその不在は意図的なものであると判断するしかなかった。
一日、静かに過ごしたい。
アンタがいないのが、いい。
言ったのは確かに自分だ。この口が綴ってしまった。意味も後先も考えず、いつもの調子で鬱陶しいと。放っておけと。そう言うつもりでいった言葉。本心なんかじゃなかったのに。
後悔はあとからするから後悔で、既に一晩、嫌と言うほど味わった落ち込みに気分が悪くなってきた。
なにをする気力も起きず、といって部屋に戻ることも出来ず。仕方なく所在なく、シンタローはリビングのソファに腰を下ろした。白々しい朝の光が目に染みる。完全に寝不足だった。
「べ、別に祝って欲しいとか、そんなんじゃないんだ」
なんとなく口をついて出た言葉。
寂しくて、独り言を言ってしまうガンマ団総帥。我ながら寒い!と拳を固めるがその力もすぐに抜ける。
「うるさいのは確かなんだ。しつこいのもそうだし、変態なのもそうだし。物事の八割はアイツが悪いと相場が決まってるんだ。俺は悪くない。…悪くないのが八割だ。うん」
あとの二割は改善の余地があると、認めてやらないこともない。
やらなくはないけどでもだからといって認めた訳ではなくつまりは世間一般の常識から言って真っ当なオレサマが悪いなどと言うことが有り得ないので謝るのは筋違いと言うものだけどそれでも人間として出来ているから考えてやらなくもないということでつまり。
ワンブレスで繋いだ言葉。
うん、俺ってばボキャブラリーも豊富。やっぱり天才。カッコイイ。
ぱちぱち、と手を叩いて、それから盛大な溜息をひとつ。虚しい。ひとり遊びは性に合わないのだ。
座っていた姿勢からズルズル滑って寝転がる。天井は見慣れた模様を描いているけど、よそよそしく感じるのは何故だろう。ここはうちなのに。自分の生まれ育った家なのに。我が家なのに。
血の繋がりがないことを気に病むには、周囲の人間がアッケラカンとしすぎていた。本当は各思うところはあるだろう。けれどそれがシンタローに伝わるような言動を取るものはなく、誰もが当然という顔で受け入れた。いや、変わらなかったというのが正しいだろう。
シンタローはマジックの息子であり、グンマとコタローの兄弟であり、キンタローの従兄弟だ。本当は人間ですらなかった命を、家族として認めてくれた。守ってくれた。包んでくれた。
ここにいたい。一緒にいたい。応えたい。
だからこそシンタローはそれを引け目に感じることを自分自身によしとはしなかったのだ。本当の家族であろうとしてくれる彼等に対し、それほどの非礼はないと思ったからだった。
以来、この家では相変わらず“自信家のシンちゃん”、“いばりんぼのシンちゃん”は健在で、なにを言ってもしても許される状況を自然のこととして通してきた。これからもそれは変わらないと思う。
それなのに。
一言拒絶されたくらいで諦めるとは何事だ。
全てにおいてオレサマ気質のシンタローは、夕べから何度も巡る思考をまた頭の中心に据え文句を並べ立ててみる。
しつこいくせにたまに妙に引き際がよくて、こっちの罪悪感を煽るだけ煽ってけれど実際は大して気にしていた訳じゃなく、仕方なしに折れてやれば調子に乗って擦り寄ってくるくせに。
うざいんだよ。ウザ!ほんとウザ!アイツってばマジでウザ過ぎ。耳伸ばしてピョンピョン跳ねさせて“ウザぎ”とか新種の動物にしてやりたいほどムカツク。ってゆーかいまのは自分の思考にもムカついた。なにを考えているんだ俺。ウザぎって、そんなの有り得ねぇ。つかいたら怖い。体長二メートル級の小動物。こわっ!それ本気でコワッ!
「……………もしかしなくても、いまの俺ってば、バカ?」
天井はなにも応えない。当たり前だ、平面の、白く塗り付けられた天井が『そんなことないヨ、シンタローくん』などと言いだした日にはホラー嫌いのシンタローなど一目散に逃げ出して、すぐさま新居を構えてしまう。
じゃなくて。
そうじゃなくて、俺!
ソファーの上を転がり、器用に俯せになってみる。足をゆらゆら揺らしながら、もう一度落ち着いて考える。
誕生日になにが欲しいか、それは聞かれても困るものだと生まれてこの方毎年欠かさず言ってきたことだ。うんと小さな頃から父の与えてくれるものを疑いなく受け取ってきたし、それらはいつだって自分を満足させるに足る品々だった。けれどそれはあくまで“物”として言っているだけのことで、本当は父そのものさえいればあとはなにもいらなかった。ほかを与えられることに引き替えられてしまうことの方が嫌だった。
いらないのだ、なにも。
それでもどうしてもなにかを贈りたいというなら自分で考えればいい。相応しいと思うものを持ってくればいい。照れ隠しに文句は言うが、それなら必ず受け取れる。有り難いと、幸せだと感じられる。それなのに。
酒なら、酌み交わすことが出来る。
だからそれでよかった。しつこいから、今年はそれで手を打つつもりだった。傍にいたいという願いを叶えるアイテムなのだ、シンタローにとって酒は悪いプレゼントなどでは決してない。
なのにしつこくて。早合点して。嘘でしかない言葉に引っ掛かって、傷付いて、離れて。
何年一緒にいると思ってるんだ。こんな自分を作ったのは、一体誰だと思ってるんだ。一秒、一分、一ヶ月、一年十年と時を重ね、こんな人間に作り上げたのは彼ではないか。不器用で意地っ張りで、往生際の悪い男に仕立て上げたのは自分じゃないか。それを今更、こちらの所為だと言わんばかりの拒絶を…そうだ、これは拒絶だ。拒まれている以外の何ものでもない。理不尽だ。
こんな勝手が許されるなら、いっそ殴り込んでやってもいいかも知れない。
「…そうだよ、なんで俺ばっかこんな目に遭ってなきゃいけねぇんだ」
はたと気付き目を見開く。
そうだ、文句を言えばいいのだ。祝う祝うと言っておいて、誕生日になった瞬間の“おめでとうシンちゃん大好きだよ愛してる私の宝物マイスゥイート・ダーリン悪戯子猫ちゃん”が今年はなかった。ウザいけど。ムカつくけど。聞いてて痒くなるけどでも毎年恒例のそれを聞いてないから誕生日を迎えた実感がない。嬉しくない。楽しくない。釈然としない。
愛されて、ない。
思い立ったらとにかく腹が立って、ソファから身を起こすと転げるようにリビングを出た。ドタバタと怒りに満ちた足音を立て、マジックの部屋の前まで駆け付けた。
息を荒げるほどではないが、興奮しているため鼻息は荒い。幸せで満ち足りた一日になるはずの今日を、最低最悪の気分にさせた報いは受けてもらうぞ。意気込みは堅く握る拳も闘志に満ちている。
チクショウ目にもの見せてやるぜ。
思わず悪人面になりかけながら、シンタローは突き出した拳でドアを叩いた。本当はそのまま突き破ってやりたいが、彼だってキンタローなどには負けない紳士なのだ。一応の礼儀くらいは持ち合わせている。
ドン。
ドンドン。
ドンドンドン。
ドンッ!
「てめぇ、居留守使うつもりかっ」
悔し紛れにそれから連続二十回、力の限りノックしてやったドアはそれでも開くことがなく、静まりかえった廊下に立つシンタローは漸く事態を飲み込んだ。
「いない…のか?」
真鍮のノブを掴んで回してみると、それは抵抗なくかちゃりと軽い音を立て回る。鍵がかけられていることもあるこの扉があっさり開くのは主が不在の時が殆どで、いま、それが成されるということは即ちマジックの外出を告げているのと同意で…
室内に、彼の求める人の姿はなくただ静まりかえった室内はやたらと綺麗に片付いていた。元より散らかったところを見たことのない部屋だが、その寒々しさは長いこと使われていないかのような錯覚を抱かせるほどでゾッとする。
もしかしたら、夕べからいないのかも知れない。
整った室内を見回し、隣の寝室を覗きそう結論付けた。きちんとメイクされたベッドは昨夜使われた形跡はなく、部屋着も、きちんと折り畳まれナイトテーブルの上に置かれたままになっていた。
ぽつんと立ち尽くし、シンタローは考える。
突然一人きりにされた自分というものを理解するのに数瞬を要した。
「ほんとに、いない、のか」
いなくなれと言った。
確かに、言った。
けれど。
でも。
枕元に座らされた、自分を模したぬいぐるみが笑っている。
窓の外では小鳥のさえずる声が響いていた。
NEXT
差
部屋に入ると、あのバカ親父が何やら紙を見てヘラヘラ笑っていた。
何を見ているのだろうと目をやると。
それは数日前に仕官学校で行われた身体検査の結果を表にしたものだった。
「てめーー!!!ナニ見てやがる!!!!!」
怒鳴り声を上げても、親父は平然と微笑んでいる。
「いや~、シンちゃんがどの位成長したのかな~ってパパ、知りたくてさ~vvv」
「見るな!!」
紙をひったくろうとしたが、ヒョイと避けられてしまった。
「う~ん、さすがシンちゃん。抜群のプロポーションだね!スリーサイズが見事に理想的。」
「気持ち悪い事言うなッッ」
再び紙を奪い取ろうとしたが、それもあっさり避けられる。
頭に血がのぼったところで、親父は紙から目を離した。
「シンちゃん、身長もかなり伸びてるね~!もっと伸びるかな?」
などと言い出したのでオレは、当たり前だッと意味も無くふんぞり返る。
「もっとデカくなってテメェなんかあっという間に追い越してやる!!!」
「・・・」
オレの言葉に親父は無言になり、マジマジと見つめて来た。
「シンちゃん、パパより大きくって・・・バスケットの選手にでもなる気かい?」
「・・・」
確かに親父は2m近く身長があり、それを追い抜くなら相当な背の高さになるだろう。
というかそれでは・・・巨人、かもしれない。
「う・・うるせぇなッッどうでもいいだろ!!」
そう言って誤魔化すと、親父は突然オレの腕を掴み引っ張った。
そのまま思いきり抱き締められて、オレはいつも通り暴れるが。
いつも通り、親父はそれでも構わず抱き締めてくる。
「どうでもよくないよ。シンちゃんにはパパの跡を継いで貰いたいんだから。そんなモノになってもらっちゃ困るよ。」
「・・・」
また勝手な事を言う、バカなヤツ。
オレはお前のモノなんかじゃない。
オレの将来はオレだけのモノなんだ。
そう言ってやろうとして。
だけどそれより先に。
「ま~、取り敢えずシンちゃんが健康でいてくれればパパは一安心だよ。」
オレを片手で抱きつつ、もう一度紙に目を落してる親父がそんな事を言う。
健康状態優良マークの付いたソレを微笑みながら見る親父の横顔を見つめていると
何も言葉が出て来なくなってしまった。
まだ、親父との差は沢山あって。
その差は腹立たしい事になかなか縮まらない。
それでも、いつか。
「でもさ、シンちゃん。大きくなってもいいけど、あまり大きくならないでね。」
「・・・言ってる事が」
矛盾だらけだろ。
このアホ、と言いかけたが抱きすくめられ口付けられる。
身動き一つ許さない、このバカ力を振り切る事も出来ずにいるオレと。
どんなにオレが抗っても絶対逃がすつもりのない親父と。
その差は
多分
縮まらない。
でも。
案外そこには
差など存在しないのかもしれない。
相変わらず‥‥ウチのマジシンはバカップル‥‥だナー(遠い目)
結局、シンちゃんはお父様が大好きなのです。←ソレばっかり。
ちなみにスタイルシートで絵が見えない方は コチラ
『on the wild world』 act.10
一瞬の空白の時間の後、マーカーを地面に縫いとめているその両腕から、ふっと炎が消えた。
同時に、アラシヤマの表れている片目が師の姿をそこに映し出し、丸くなる。
「……―――?…お……師匠、はん……?」
途切れがちに、呆けたように発される声。そのアラシヤマの目の色に、マーカーは知らず苦笑を返す。
―――暗示が、解けた。
「この、馬鹿弟子、が……」
その言葉が耳に入ったかどうか、ぷつりと糸が切れたかのようにアラシヤマの全身から力が抜けた。
ゆっくりと、マーカーの上に、その身が覆いかぶさるように崩れ落ちる。マーカーはその身体を、跳ね除けるのも面倒というように受け止めて、ようやく張り詰めていた気を緩め、短く息を吐く。
そしてアラシヤマを抱えたまま半身を起こし、駆け寄ってきたシンタローに、まだ動く右手で男を渡した。
アラシヤマの呼吸は微かで、その体温も、極炎舞の反動からか、通常に比べればかなり低い。それでも、確かにそれは生きているという実感を伴った重みだった。
シンタローが支えるアラシヤマを、左手首を抑えて見上げながら、マーカーは呆れたように言う。
「まったく、本能の勝利というか、煩悩の勝利というか……。新総帥、貴方は大分厄介なものを抱え込んでいるようですよ」
「……アンタでも、シャレ言うことがあるんだな」
むしろそちらのほうに驚きつつ、シンタローはリュックの中から高松謹製という傷薬と包帯を取り出し、マーカーに放った。
受け取ったマーカーは地に腰を下ろしたまま器用に膏薬の蓋を口を使って開けると、人差し指に取った分を軽く舐め、成分を確認した上で(非常に賢明な判断だとシンタローは思った)左手首の火傷に塗りこむ。
シンタローの目にちらと入ったその火傷は、つかまれた指の跡そのままに赤黒く染まっていた。だがそんな痛みなど全くと言っていいほど表情には出さず、マーカーはまた口と片手を使って、手早く包帯を巻いていく。
その作業が終わった後も、シンタローの腕の中にいる男には、微塵も目覚める気配はなかった。
マーカーは火傷を負った腕を、わざとらしいまでにいつまでももう片方の腕で抑えつつ、憮然とした表情のシンタローを眺めている。
「……当分。起きそうにねえよな、コイツ」
「極炎舞は元より自爆技。臨界まで達せずとも、発動すれば術者の命を削るだけの体力を消耗します。拷問と監禁に加えてのそれでは、さすがにこの馬鹿弟子でも、そう簡単には目覚めないかと」
立ち上がりながら、あまりに冷静に言うその口調に、シンタローの顔があからさまに歪んだ。
「……~~~っ!俺に、このクソ重い馬鹿男、背負っていけってか?!」
様々な感情が入り混じり、結果としてふざけんじゃねぇという心境に達しているのだろうシンタローのその思いなど、おそらく全て見透かしながら、マーカーはしらっと微笑を投げてよこす。
「申し訳ありませんが、この腕では私にその役目は無理なようです。先行し敵の攻撃や罠への対処はいたします。その愚か者への仕置きは、どうぞ戻ってからゆっくりと」
***
アラシヤマをその肩に抱えたシンタローとマーカーは、砦のさらに奥を目指して進んだ。あともう一つ、確認すべきは、「この馬鹿が一体何をそれほどまでに気にしていたか」だ。
だがそうして疾駆していくうちに、あることに二人は気づいた。
「おい、マーカー」
「……ええ」
兵の気配が、消えている。それはどこかに潜んでいるとかそういったレベルの話ではなく、人そのものの存在する気配がない。
そうした空気をやや不気味に思いながらも、しかし二人に引き返すという選択肢はない。そして入り組んだ道の奥、一つの階段を下りた場所で、二人は眼前に広がるそれを見つけた。
まだ薄く煙の燻る、一面の瓦礫の山。 おそらくは何かの研究施設であったのだろうということは、割れた試験管や、融けながらも微かにその形をとどめている金属製の机の残骸によって推測できた。
「コイツが、深入りした理由は、コレか……」
その荒涼とした風景を前にして、シンタローが低声で呟く。後ろに控えているマーカーがその背に向かって声をかけた。
「それ以上、近づくのはおやめください。ここで一体何を行っていたのかは、戻ってから馬鹿弟子に尋けばすむことです。大抵の細菌兵器や毒であればもはや滅しているでしょうが、万が一ということもある」
「あぁ、わかってる」
そのとき、背後からカタッという微かな音が聞こえた。シンタローとマーカーがゆっくりと振り向く。
階上の小部屋から、逃げ出さんと這い出しているのは、ほんの半日前にモニターの中で悠然と葉巻を咥えていたあの男だった。
「アンタ……」
もはや足腰すら立たない状況で、それでももう逃げられないと悟ったのか、スーツ姿の男はそこに腰を据えたままシンタローたちを睨み付ける。その周囲に、本来あるべき警邏兵の姿はない。
「取り巻きは、どうしたんだよ。―――勝ち目がねぇと悟って、置いてけぼりか」
男は答えない。それは肯定と同義だった。この上ない憎しみを込めた視線も、シンタローにはもう憐れみを誘うものでしかない。
「惨めだな……。同情は、できそうにねーけどよ」
そのあまりに孤独な姿を完全に蔑んだ目で見下ろしたあと、シンタローは男を放置して引き返そうとする。だが、そんなシンタローの後ろを、マーカーは追おうとはしなかった。その場に佇み、冷涼な眼差しで男を見ている。
そして、何かを口にしようとしたシンタローを制するように、マーカーは言った。
「貴方との"契約"は、アラシヤマ救出までという話でした」
脅えきった男を前に、マーカーが歩みを進める。その右腕に、絡みつく美しい蛇にも似た青白い炎が生み出される。
シンタローは、止めなかった。目をそむけることも、しなかった。
それが一瞬の出来事だったのは、マーカーのせめてもの慈悲というよりは、新総帥の目前であるということを慮った結果だったのだろう。
蒼い炎の蛇は一息に男を呑み込み、そして後にはただ、真白な石灰石にも似た骨片のみが残った。
入り組んだ通路を二人は駆ける。
そして先刻アラシヤマと対峙したホールまで戻ってきたとき、一つの人影が目に入った。
それは砂色の髪をした年若い男で。あちこちに激しい戦いの痕跡を残したホールの中央で、ただ独り、立っている。
もはや生き物の気配を完全になくした砦の中で佇む男に、シンタローとマーカーは怪訝な顔をしながら歩み寄った。
そして、二人がその近くまできたとき。
男が穏やかな声で問いかけた。
「あの方は、逝かれましたか」
「―――ああ」
そうですか―――と、男は痛みを堪えるような、しかしどこか安心したような表情で言う。それはこの状況にはとてもそぐわないような静かな顔だった。
潮騒のような風の音が聞こえる。表はもう夜が明けかけている頃だろうか。
男はシンタローとマーカーに、微笑を向ける。
「人もおらず、施設も破壊された。―――もはや、この砦の存在する理由が無い」
そして、その表情のまま、二人に戦慄を覚えさせる事実を告げた。
「この砦は、あと十分足らずで消滅します」
淡々と口にされたその言葉に、シンタローとマーカーの眉間に皺が刻まれる。
「構造は単純ですが、半径一キロメートルを巻き込む大規模な気化爆弾です。今からでは脱出は不可能でしょうね」
「―――クソッ……マジか……?!」
火薬ではなく酸化エチレンなどの燃料を空気と撹拌させて爆発させるその爆弾は、通常は仕掛ける側が巻き込まれることを恐れて、高高度のヘリコプターや音速のジェット機から落とすものだ。爆鳴気の爆発は強大な衝撃波を発生させ、十二気圧に達する圧力と三千度近い高温を発生させる。
シンタローは、手のひらにじっとりと嫌な汗をかくのを感じた。
だが、どうせ自分たちを巻き込むつもりならば、どうしてそんなことを親切に教えるのかという疑念も同時に湧く。敵わぬ敵を追い払うためのハッタリというには、男の目はあまりに真摯だ。ただ単に、死の間際にその恐怖を煽ろうとするような馬鹿馬鹿しい理由とも思えない。
その時、ようやくシンタローの頭の中で、書類の中で見た顔とその男の顔が一致した。
「そうか、お前……アラシヤマの」
「いえ、私はυ国前首脳部の秘書ですよ」
もう二十年も前からのね、とどう見てもまだ三十前にしか見えない男は微笑う。そして、シンタローの肩に担がれているかつての上官の姿を見遣り、ゆっくりと歩みを進める。
「もし……もしも」
シンタローとマーカーの横をすれ違いながら、男は淡々と言葉を繋ぐ。なぜかシンタローは男を止めることができなかった。
「あなた方が生きてこの島を出、そしてその方が目覚められたら……」
―――自分にはもう、かつて目指した場所は遠すぎて見えないけれど。
「『あなたの仰っていたことが、少しだけ理解できました』と。不肖の部下が申し上げておりましたと、お伝えください。―――その方は、最後まで一人も殺めはしなかった」
「ちょッ……オイ待てコラぁっ!」
周囲の空気を一切動かさないような静かな歩みで、男はそれまでシンタローたちが来た方向、今やあの男の骨しか残っていない階下へと向かう扉をくぐった。隠された操作盤でもあったのか、その直後に扉は閉められる。
閉ざされた扉は、二度と開こうとはしなかった。
今からそれを破壊し、追っている時間はない。
何が原因かもわからなかったが、どうしようもないやりきれなさにシンタローは拳を堅く握り締め。だが、すぐにキッとその眼差しを前に向けた。
「とりあえず地上に出んぞ。こんなまどろっこしい道、通ってらんねーからな」
言いながら、右手に意識を集中させ、蒼い光球を作り上げる。背後でマーカーが身構えるような姿勢をとった。
シンタローが手に集めた高密度のエネルギーの塊を、頭上に向かって放つ。
「眼魔砲――――ッ!!」
岩と煉瓦によって組み上げられた遺跡は、その衝撃にはとても耐え切れず、頭上に巨大な穴が空く。邪魔となる部分をすべて眼魔砲で撃ち崩し、落ちてきた瓦礫の山をちょうどよく足場代わりにしながら、二人は地上を目指す。そのやり方を見ながら、後方を追うマーカーが笑ったような気がした。
「……あンだよ」
「いえ、血は争えない、と思いまして」
「?」
「派手好きの」
「あのオッサンどもと一緒にすんな……よッ!」
絶え間なく落ちてくる石礫を手の甲で払いながら、まったくこの状況でも軽口が叩けるというのは、どういう神経をしているのだと、シンタローは呆れたような、しかし反面心強いような気分になる。
置かれている立場としては、けして笑って済む類のものではない。どれほど最短の道を選んでも、砦を脱出し、島端にたどり着くまで最低でも七分はかかる。そこからボートを呼び寄せ、一キロ以上先まで逃げ出すのは奇跡でも起こらない限り不可能だ。
(―――チクショウ。ここまで、来たってのに)
どうすることもできねーのか、とシンタローは歯噛みする。
だが、二人が最後の外壁を破り、その頭上を見上げたとき。
朝焼けの薄明の空に見えたのは二艇の巨大な戦闘艦だった。
***
一方は円の中に五芳星とGのマークをつけた、楕円形の白銀の艦。もう片方は、どう見てもアレの趣味としか思えない、白鳥かアヒルかもわからないような外形の、得体の知れない浮遊物。
後者のほうから、拡声器を通した声がシンタローたちの元に届く。
「助けに来たよぉ~、シンちゃんv」
「グンマぁっ?!」
「俺らもいるぜェv」
シンタローたちの切迫した状況などお構いナシに発されるその能天気な声たちは、まごうことなき兄弟と、おそらく今もアルコールの匂いにまみれているのだろう叔父のものだった。
その時になって、シンタローはハッと気付き、腰紐に付けられた小さな錦の袋に目を向ける。太い楷書体で「家内安全」と表書きされたその存在を、シンタローは今になってようやく思い出した。
作法も何もかなぐり捨てて袋の口を開いてみれば、中から小さな集音マイクのような機器が転がり落ちる。
(お守りって……どー見たって発信機じゃねーか!)
「シンちゃんたちがアラシヤマ助けたあたりから、この辺のレーダーが乱れ始めたってキンちゃんから報告が入ってね。なんかおかしいな、と思ったから近くで待機してたんだ~」
あ、叔父さまたちは連れてきたんじゃないよ、来たらもういたんだよ、と言い訳のようにグンマの声は言う。
「おとーさまが、どーしても、って」
「あのヤロー……俺がなんのために……それに費用は……」
「だいじょーぶ、ぜーんぶ、おとーさまのポケットマネーだから」
その言葉を聞いた瞬間、シンタローの口が顎が外れるかと思うほど大きくカクンと開いた。これだけの戦闘艦をこれだけの短期間で整備し、動かすには一体何億、何十億かかると思っているのか。
「アラシヤマのためだったら絶対やだけど、シンちゃんのためだったら仕方ないってー」
「あンッのクソ親父……!」
どこまで親馬鹿なんだ、と顔が赤くなる思いでシンタローは拳を握りしめる。そのせいで実際救われているという現状にも、もはや感謝より怒りのほうが先立っていた。
だがそんな感情に今は左右されている場合ではない。艦から身を乗り出すようにこちらを見下ろしているグンマに向かって大声で叫ぶ。
「って、ンなこと言ってる場合じゃねぇ!さっさと縄梯子下ろせ!あと三分もねーぞ!」
さすがにその状況は把握しているのか、すぐさま艦から梯子が投げ下ろされた。拡声器の雑音に混じって、くだんの酔いどれオヤジの残念そうな声が聞こえる。
「ンだよ、暴れらんねーのか。つまんねぇナ」
「オッサン暴れんならほかでやれーーー!」
シンタローの掛け値なしの怒声に、だがハーレムは咥えタバコのままにやりと笑って、部下の一人の背を叩いた。
「そんじゃま、俺様の可愛い部下返してもらうぜぇ~、甥っ子」
その言葉と同時に、白銀色の艦からロープ一本に腕と片脚を絡めたロッドが降下してくる。そして、まるでどこぞの姫でも迎えにきたかのように、恭しくその片手をマーカーに差し出した。
マーカーはうんざりといった表情で腕組みをしながらそんな男の様子を眺めている。
「……なぜ貴様が降りてくる必要がある。ロッド」
「え~~。いーじゃんコレくらい。どんだけオレが心配したと思ってンの」
せっかくの演出にも予想通り冷たい反応しか返ってこなかったことに、金髪の男はややスネたような顔する。だが、そのいつもどおりのマーカーの表情を確認し、悪戯っぽく笑いかけた。
「それにさ、カッコよくね?アジアンビューティー抱えてロープで退場なんて、007みてーじゃんv」
「イタリア男が何抜かす。くだらんことを言っている暇があればさっさと引き上げろ」
不承不承ではあったが、片腕の怪我もあり、マーカーがやむなく男の手を取る。そして引き上げを待っていたそのとき、ふと何かを思い出したようにシンタローに声をかけた。
「新総帥」
「ん?」
アラシヤマを背負ったまま、同じく下ろされた縄梯子に足を掛けたシンタローが振り返った。
「報酬の振込みは、後ほど連絡いたします私の口座まで。―――それと」
去り際にまであくまで現実問題を忘れずに、ただ一瞬だけちらりとその弟子に視線を流し。
そしてマーカーは見蕩れるほど艶やかに口の端を上げる。
「その馬鹿弟子が目覚めたら、私の分まで、どうぞ入念な仕置きを宜しくお願いいたします」
「―――あぁ、まかせとけ」
交わした視線は、その質こそ違え、確かに同じ思いを抱いていた。
シンタローは不敵に笑い、そして小声で、ありがとな、と言った。
ロッドを含めた三人が艦に収容され、そして二艇の艦は全速力でその場を離脱する。
艦がぎりぎりで爆風に巻き込まれないだけの場所に着いたとき。
その後方で閃光と轟音が、黎明の大気を劈いた。
『on the wild world』 -epilogue-
―――瞼を開いて、まず感じたのは、白色の光だった。
まぶしさにやや目を眇めると、その視界の片隅に長い黒髪が入ってきた。
「……よォ、やっと目ぇ覚ましやがったか」
「…へ……?あ……シシ、シンタローはん?!」
思わず飛び起きそうになって、瞬間的に走った全身の痛みに表情を顰める。
それは団の医務室でも、重傷者が収容される個室だった。白い部屋の中央に置かれたパイプ製のベッドの上にアラシヤマは横たわり、その腕には数本の点滴の針が刺さっている。
シンタローはベッドの横に置かれた簡素な椅子の上に腰掛けて、アラシヤマを見下ろしていた。
現状の把握すら出来ていないアラシヤマに、オマエ、五日間眠りっぱなしだったんだぜ、とシンタローは言う。「まさか、ずっとついててくれはったんどすか?!」と目を輝かせるアラシヤマに、シンタローはたまに、仕事の合間に時間が出来たときに、気が向いたら寄っていた程度だと答えた。
そして、当人が眠っていた間のことはさておいて(その期間にもアラシヤマが危篤状態に陥ったりそのせいで高松が急遽呼び出されたり、キンタローが逃げ出した残党の処理に奔走したりとごたごたはあったのだが)、砦で起こったことをシンタローは簡単に解説する。
思わぬマーカーとの共闘や、グンマやマジックによる援助、内部で起こった出来事。瓦礫の山と化していた研究所を発見したことと、首謀者の死。脱出時のあまりの派手さを聞いた時には、さすがにアラシヤマも目を剥いた。
アラシヤマもまた枕を丸めて背もたれのようにし、砦の中で起こっていた事実のみを淡々と報告した。見抜くことができなかった副官の裏切りと、前政権が目論んだ陰謀。そして、あの研究施設で行われていたことの詳細。
もっとも、暗示をかけられてからのことはさっぱり覚えていないらしい。
かろうじて一瞬だけシンタローの声が聞こえ、師匠の顔が目に入ったことしか記憶にはないという。それすらも、今の今まで夢かと思っていた、と正直に白状した。
起き抜けでやや掠れがちのその声の報告が済んだあと、アラシヤマはへらりと情けない笑みを浮かべて言った。
「シンタローはん、なんやおとぎ話の王子様みたいどすなぁ」
「で、助け出した姫がコレって。そんな報われねー王子がいてたまるか」
掛け値なしの本音を言いながらシンタローは立ち上がり、近くの棚に置かれている果物カゴから林檎を一つ取り出す。この見舞い、グンマ達からだけど貰うゼ、と言いながら、ナイフで器用にその皮を剥いていく。
そして、綺麗に切り分けたその一つをシャクッと齧りながら、思い出したように言った。
「ああ、そーだ。あともうひとつ」
「?」
「オマエの『副官』から、伝言」
シンタローはあのホールで聞かされた言葉を、一言一句違わずアラシヤマに伝える。
それを聞いたアラシヤマはしばらく黙ったままでいて。やがてゆっくりと天井を見上げた。
「あの男……ホンマは、誰かに壊してもらいたかったんやないかと思うんどすわ」
「結局、ていよく利用された、ってワケか」
「どうでっしゃろな。壊したないゆう気持ちもほんもんで、せやから―――わてらに賭けたんかもしれまへん」
言いながらアラシヤマは、けして短くはない期間、己の下にいた男のことを少しだけ思い出す。
頭の回転が速く腕が立ち、誠実で、軍人の鑑のようだった男。そして、あまりにも真面目で―――それがゆえに、哀れなほど弱くなってしまった男。
せめてその終焉を共にしたことで、あの男は己の良心と、最後の忠誠のどちらをも全うすることができたのだろうか。
そんなことをやや感傷めいて考えていたアラシヤマを現実に引き戻したのは、シンタローの完全に呆れ返った声だった。
「しっかし、オマエ、今回ほんっとマヌケだったな。マーカーへの報酬と親父への借金で、この先二年はほとんどタダ働き決定だぜ」
「えええッ?!せ、せめて生活費くらいは残しといておくれやす」
けして冗談ではない総帥の言葉に、アラシヤマは本気で焦る。そんな様子を面白そうに眺めながら、―――ただ、とシンタローが言った。
「最後まで……団の方針守ったその根性は、褒めてやる」
「……ハハ。あんさんに褒められたん、初めてかもしれんどすな」
その言葉にアラシヤマは、おろおろと挙動不審だった動きを止め、短く息を吐きながら顔を仰向けた。
―――せやけど、今だけ堪忍な、と前置いて。
身を起こしたアラシヤマは、キッ、とシンタローに向かって眦を吊り上げる。
「……どこの世界に、たかが一団員助けるために一人で敵陣突っ込む総帥がおるんや、こん阿呆!」
そのいきなりの剣幕に、一瞬だけシンタローの目が丸くなった。
そしてむくれたような表情で視線を横に流す。他の人間(それはティラミスが最も強かったが)が口にしたくてたまらない、という顔をしながらそれでも抑えていたその説教を、ああコイツは言うんだな、とぼんやりと考えながら。
ったく、鬱陶しいと片眉を顰めながら、シンタローはぼそりと呟く。
「……一人じゃねーだろ。マーカーもいた」
「し、師匠は……師匠にも色々思うことはあんねんけど、今はあんさんのことどす!」
その台詞に出された唯一の鬼門に瞬間怯みながらも、アラシヤマはシンタローへの面責を止めようとはしない。
「あんさんの情が深いんは嫌てほど知っとるわ。せやけど団員の一人や十人、いざっちゅう時には平然と切り捨てはるのが総帥ちゅうもんどっしゃろ。そないなことすらわかっとらんほど、あんさんの頭が悪いとは思うとりまへんどしたえ。ましてこんな―――つッッ」
「オラ、暴れんなよ。テメーアバラ二本折った上に全身火傷と打撲だらけで、全治三ヶ月の重体患者だろーが」
うんざりしながら、それでも一応最後までその小言を聞いていたシンタローは、胸のあたりを押さえて言葉を詰まらせたアラシヤマの口に、小さく切り分けた林檎を放り込んだ。
それ以上何も言えなくなったアラシヤマは、微妙な表情でなんとかその果実を嚥下する。そして、あてつけがましく長いため息をついた。
「……わての言いたいのは、そんだけどす」
起こしていた身を、どさりとまたベッドに沈める。身体への衝撃をできるだけ和らげるためなのか、分厚い枕は羽毛入りのようで柔らかく、アラシヤマの上体を包み込むように沈めた。
そんなアラシヤマを横目で見ながら、シンタローもまた、抑えた声でそれを口にする。
「俺も、一つ。どうしても言っておきたかったことがある」
「なんどす?」
「―――泣かねーよ。テメーが死んだくらいじゃ」
はじめは何を言われたのかわからずきょとんという表情をしたアラシヤマが、やがて記憶と合点がいき、苦笑しながら静かに答えた。
「そうどすか」
「あぁ」
真白な病室に、静謐な空気が流れる。いくら換気しても消しきれない薬の匂いの中に、林檎のほんの少しだけ甘酸っぱい薫りが漂っている。
アラシヤマは何も言わない。シンタローは二切れめの林檎を口に入れた。シャクシャクとささやかな音をたてながら、薄く切られたそれを二口で食べ終える。
そして、ぼそりと言った。
「泣かねーけど。でも、その間抜け面蹴っ飛ばしに行く」
アラシヤマが俯かせていた顔を上げて、シンタローを見る。
「どうせテメーのことだから、前線で英雄的に華々しく散るってよりは、なんか色々裏工作やって、そこでしょーがねぇって自分の命使うタイプだろ」
「……はは」
むかつくことに、この男は困ったように笑うだけでシンタローの言葉を否定もしない。
「たとえそれがどんだけ団のためになって―――俺のためになったとしても。俺はそんなのは認めねぇ。特進どころか団員資格剥奪。遺体だって白骨になるまで放置だ」
「酷おすなぁ……」
まるで叱られた子犬―――否、大型犬のような表情で、それでもアラシヤマは口元の苦い笑いを消そうとはしなかった。
その表情は、それも仕方ないとどこか諦めているかのようで。
そういった顔がどれほどシンタローを苛つかせるのかなど、きっと百回言ったところで、この男には理解できないに違いない。
「いいか、もし死んだら。一番にその死体蹴っ飛ばすのは、俺だ」
「へぇへ、そんな念押さんでも……」
耳にタコができる、とでもいうかのようにアラシヤマは視線を逸らそうとする。そんなアラシヤマの胸倉を、シンタローは何の遠慮もない力で掴んで引き寄せた。
怪我の痛みを訴えるその眉間の皺も何もかもを無視して、シンタローはアラシヤマと二十センチと離れていない間際で、その目を真っ直ぐに睨み付けて、言う。
「それが戦場のど真ん中でも、どんなヤバい組織の最深部でも。だから―――もし俺を心配しようって気があんなら、少なくとも、俺の目の届かないところで、死ぬな」
「……―――」
吐き出すようにそれだけ告げて、シンタローはそのままベッドにアラシヤマを突き倒す。
骨に響くその行為に一瞬だけ顔を顰めながらも、アラシヤマは思わず込みあがってくる笑いを噛み殺すのに苦労した。
「……シンタローはん。それって、えらい愛の告白みたいどすえ」
「ばーか、深読みすんな」
「せやけど」
「それ以上なんか言ったら、トドメ刺すぞ」
シンタローはけしてアラシヤマに顔を向けようとはしない。だが、その反らした首筋に朱が上っているのは、アラシヤマの目にもはっきりとわかった。そんなものを見せ付けられて、どうしてこらえきれるというのだろう。
アラシヤマは、ぐい、と紅い総帥服の袖を引く。
そして包帯だらけのその腕で、シンタローを強くかき抱いた。
「―――愛してますえ、シンタローはん」
笑みを含みながら、しかしこの上なく真摯な響きをもって告げられたその声に。
憮然とした表情のシンタローはやがて薄く目を閉じて―――知ってる、と呟いた。
微かな医療機器の作動音だけが聞こえる白い部屋の中で、その時確かに、自分にとっての時間が再び流れ出したのをシンタローは感じた。
これからもきっとこの馬鹿は、無謀な戦場に赴き、そして自分のために何度でも命を懸ける。時には大怪我をすることもあるだろう。
だが、それでも、こうして共にいられる今を。
悔しいと歯噛みしながらも、シンタローは幸せだと認めるしかなかった。
そしてまた、いつもの「日常」が始まる。
Fin.
==========================================================
BGM(順不同):Cocco, 椎名林檎(東京事変), Aerosmith, The Stone Roses,
Cornershop,Thee michelle gun elephant, RADWIMPS, スキマスイッチ,
BUMP OF CHICKEN, jamiroquai, Sarah Brightman, Underworld
一瞬の空白の時間の後、マーカーを地面に縫いとめているその両腕から、ふっと炎が消えた。
同時に、アラシヤマの表れている片目が師の姿をそこに映し出し、丸くなる。
「……―――?…お……師匠、はん……?」
途切れがちに、呆けたように発される声。そのアラシヤマの目の色に、マーカーは知らず苦笑を返す。
―――暗示が、解けた。
「この、馬鹿弟子、が……」
その言葉が耳に入ったかどうか、ぷつりと糸が切れたかのようにアラシヤマの全身から力が抜けた。
ゆっくりと、マーカーの上に、その身が覆いかぶさるように崩れ落ちる。マーカーはその身体を、跳ね除けるのも面倒というように受け止めて、ようやく張り詰めていた気を緩め、短く息を吐く。
そしてアラシヤマを抱えたまま半身を起こし、駆け寄ってきたシンタローに、まだ動く右手で男を渡した。
アラシヤマの呼吸は微かで、その体温も、極炎舞の反動からか、通常に比べればかなり低い。それでも、確かにそれは生きているという実感を伴った重みだった。
シンタローが支えるアラシヤマを、左手首を抑えて見上げながら、マーカーは呆れたように言う。
「まったく、本能の勝利というか、煩悩の勝利というか……。新総帥、貴方は大分厄介なものを抱え込んでいるようですよ」
「……アンタでも、シャレ言うことがあるんだな」
むしろそちらのほうに驚きつつ、シンタローはリュックの中から高松謹製という傷薬と包帯を取り出し、マーカーに放った。
受け取ったマーカーは地に腰を下ろしたまま器用に膏薬の蓋を口を使って開けると、人差し指に取った分を軽く舐め、成分を確認した上で(非常に賢明な判断だとシンタローは思った)左手首の火傷に塗りこむ。
シンタローの目にちらと入ったその火傷は、つかまれた指の跡そのままに赤黒く染まっていた。だがそんな痛みなど全くと言っていいほど表情には出さず、マーカーはまた口と片手を使って、手早く包帯を巻いていく。
その作業が終わった後も、シンタローの腕の中にいる男には、微塵も目覚める気配はなかった。
マーカーは火傷を負った腕を、わざとらしいまでにいつまでももう片方の腕で抑えつつ、憮然とした表情のシンタローを眺めている。
「……当分。起きそうにねえよな、コイツ」
「極炎舞は元より自爆技。臨界まで達せずとも、発動すれば術者の命を削るだけの体力を消耗します。拷問と監禁に加えてのそれでは、さすがにこの馬鹿弟子でも、そう簡単には目覚めないかと」
立ち上がりながら、あまりに冷静に言うその口調に、シンタローの顔があからさまに歪んだ。
「……~~~っ!俺に、このクソ重い馬鹿男、背負っていけってか?!」
様々な感情が入り混じり、結果としてふざけんじゃねぇという心境に達しているのだろうシンタローのその思いなど、おそらく全て見透かしながら、マーカーはしらっと微笑を投げてよこす。
「申し訳ありませんが、この腕では私にその役目は無理なようです。先行し敵の攻撃や罠への対処はいたします。その愚か者への仕置きは、どうぞ戻ってからゆっくりと」
***
アラシヤマをその肩に抱えたシンタローとマーカーは、砦のさらに奥を目指して進んだ。あともう一つ、確認すべきは、「この馬鹿が一体何をそれほどまでに気にしていたか」だ。
だがそうして疾駆していくうちに、あることに二人は気づいた。
「おい、マーカー」
「……ええ」
兵の気配が、消えている。それはどこかに潜んでいるとかそういったレベルの話ではなく、人そのものの存在する気配がない。
そうした空気をやや不気味に思いながらも、しかし二人に引き返すという選択肢はない。そして入り組んだ道の奥、一つの階段を下りた場所で、二人は眼前に広がるそれを見つけた。
まだ薄く煙の燻る、一面の瓦礫の山。 おそらくは何かの研究施設であったのだろうということは、割れた試験管や、融けながらも微かにその形をとどめている金属製の机の残骸によって推測できた。
「コイツが、深入りした理由は、コレか……」
その荒涼とした風景を前にして、シンタローが低声で呟く。後ろに控えているマーカーがその背に向かって声をかけた。
「それ以上、近づくのはおやめください。ここで一体何を行っていたのかは、戻ってから馬鹿弟子に尋けばすむことです。大抵の細菌兵器や毒であればもはや滅しているでしょうが、万が一ということもある」
「あぁ、わかってる」
そのとき、背後からカタッという微かな音が聞こえた。シンタローとマーカーがゆっくりと振り向く。
階上の小部屋から、逃げ出さんと這い出しているのは、ほんの半日前にモニターの中で悠然と葉巻を咥えていたあの男だった。
「アンタ……」
もはや足腰すら立たない状況で、それでももう逃げられないと悟ったのか、スーツ姿の男はそこに腰を据えたままシンタローたちを睨み付ける。その周囲に、本来あるべき警邏兵の姿はない。
「取り巻きは、どうしたんだよ。―――勝ち目がねぇと悟って、置いてけぼりか」
男は答えない。それは肯定と同義だった。この上ない憎しみを込めた視線も、シンタローにはもう憐れみを誘うものでしかない。
「惨めだな……。同情は、できそうにねーけどよ」
そのあまりに孤独な姿を完全に蔑んだ目で見下ろしたあと、シンタローは男を放置して引き返そうとする。だが、そんなシンタローの後ろを、マーカーは追おうとはしなかった。その場に佇み、冷涼な眼差しで男を見ている。
そして、何かを口にしようとしたシンタローを制するように、マーカーは言った。
「貴方との"契約"は、アラシヤマ救出までという話でした」
脅えきった男を前に、マーカーが歩みを進める。その右腕に、絡みつく美しい蛇にも似た青白い炎が生み出される。
シンタローは、止めなかった。目をそむけることも、しなかった。
それが一瞬の出来事だったのは、マーカーのせめてもの慈悲というよりは、新総帥の目前であるということを慮った結果だったのだろう。
蒼い炎の蛇は一息に男を呑み込み、そして後にはただ、真白な石灰石にも似た骨片のみが残った。
入り組んだ通路を二人は駆ける。
そして先刻アラシヤマと対峙したホールまで戻ってきたとき、一つの人影が目に入った。
それは砂色の髪をした年若い男で。あちこちに激しい戦いの痕跡を残したホールの中央で、ただ独り、立っている。
もはや生き物の気配を完全になくした砦の中で佇む男に、シンタローとマーカーは怪訝な顔をしながら歩み寄った。
そして、二人がその近くまできたとき。
男が穏やかな声で問いかけた。
「あの方は、逝かれましたか」
「―――ああ」
そうですか―――と、男は痛みを堪えるような、しかしどこか安心したような表情で言う。それはこの状況にはとてもそぐわないような静かな顔だった。
潮騒のような風の音が聞こえる。表はもう夜が明けかけている頃だろうか。
男はシンタローとマーカーに、微笑を向ける。
「人もおらず、施設も破壊された。―――もはや、この砦の存在する理由が無い」
そして、その表情のまま、二人に戦慄を覚えさせる事実を告げた。
「この砦は、あと十分足らずで消滅します」
淡々と口にされたその言葉に、シンタローとマーカーの眉間に皺が刻まれる。
「構造は単純ですが、半径一キロメートルを巻き込む大規模な気化爆弾です。今からでは脱出は不可能でしょうね」
「―――クソッ……マジか……?!」
火薬ではなく酸化エチレンなどの燃料を空気と撹拌させて爆発させるその爆弾は、通常は仕掛ける側が巻き込まれることを恐れて、高高度のヘリコプターや音速のジェット機から落とすものだ。爆鳴気の爆発は強大な衝撃波を発生させ、十二気圧に達する圧力と三千度近い高温を発生させる。
シンタローは、手のひらにじっとりと嫌な汗をかくのを感じた。
だが、どうせ自分たちを巻き込むつもりならば、どうしてそんなことを親切に教えるのかという疑念も同時に湧く。敵わぬ敵を追い払うためのハッタリというには、男の目はあまりに真摯だ。ただ単に、死の間際にその恐怖を煽ろうとするような馬鹿馬鹿しい理由とも思えない。
その時、ようやくシンタローの頭の中で、書類の中で見た顔とその男の顔が一致した。
「そうか、お前……アラシヤマの」
「いえ、私はυ国前首脳部の秘書ですよ」
もう二十年も前からのね、とどう見てもまだ三十前にしか見えない男は微笑う。そして、シンタローの肩に担がれているかつての上官の姿を見遣り、ゆっくりと歩みを進める。
「もし……もしも」
シンタローとマーカーの横をすれ違いながら、男は淡々と言葉を繋ぐ。なぜかシンタローは男を止めることができなかった。
「あなた方が生きてこの島を出、そしてその方が目覚められたら……」
―――自分にはもう、かつて目指した場所は遠すぎて見えないけれど。
「『あなたの仰っていたことが、少しだけ理解できました』と。不肖の部下が申し上げておりましたと、お伝えください。―――その方は、最後まで一人も殺めはしなかった」
「ちょッ……オイ待てコラぁっ!」
周囲の空気を一切動かさないような静かな歩みで、男はそれまでシンタローたちが来た方向、今やあの男の骨しか残っていない階下へと向かう扉をくぐった。隠された操作盤でもあったのか、その直後に扉は閉められる。
閉ざされた扉は、二度と開こうとはしなかった。
今からそれを破壊し、追っている時間はない。
何が原因かもわからなかったが、どうしようもないやりきれなさにシンタローは拳を堅く握り締め。だが、すぐにキッとその眼差しを前に向けた。
「とりあえず地上に出んぞ。こんなまどろっこしい道、通ってらんねーからな」
言いながら、右手に意識を集中させ、蒼い光球を作り上げる。背後でマーカーが身構えるような姿勢をとった。
シンタローが手に集めた高密度のエネルギーの塊を、頭上に向かって放つ。
「眼魔砲――――ッ!!」
岩と煉瓦によって組み上げられた遺跡は、その衝撃にはとても耐え切れず、頭上に巨大な穴が空く。邪魔となる部分をすべて眼魔砲で撃ち崩し、落ちてきた瓦礫の山をちょうどよく足場代わりにしながら、二人は地上を目指す。そのやり方を見ながら、後方を追うマーカーが笑ったような気がした。
「……あンだよ」
「いえ、血は争えない、と思いまして」
「?」
「派手好きの」
「あのオッサンどもと一緒にすんな……よッ!」
絶え間なく落ちてくる石礫を手の甲で払いながら、まったくこの状況でも軽口が叩けるというのは、どういう神経をしているのだと、シンタローは呆れたような、しかし反面心強いような気分になる。
置かれている立場としては、けして笑って済む類のものではない。どれほど最短の道を選んでも、砦を脱出し、島端にたどり着くまで最低でも七分はかかる。そこからボートを呼び寄せ、一キロ以上先まで逃げ出すのは奇跡でも起こらない限り不可能だ。
(―――チクショウ。ここまで、来たってのに)
どうすることもできねーのか、とシンタローは歯噛みする。
だが、二人が最後の外壁を破り、その頭上を見上げたとき。
朝焼けの薄明の空に見えたのは二艇の巨大な戦闘艦だった。
***
一方は円の中に五芳星とGのマークをつけた、楕円形の白銀の艦。もう片方は、どう見てもアレの趣味としか思えない、白鳥かアヒルかもわからないような外形の、得体の知れない浮遊物。
後者のほうから、拡声器を通した声がシンタローたちの元に届く。
「助けに来たよぉ~、シンちゃんv」
「グンマぁっ?!」
「俺らもいるぜェv」
シンタローたちの切迫した状況などお構いナシに発されるその能天気な声たちは、まごうことなき兄弟と、おそらく今もアルコールの匂いにまみれているのだろう叔父のものだった。
その時になって、シンタローはハッと気付き、腰紐に付けられた小さな錦の袋に目を向ける。太い楷書体で「家内安全」と表書きされたその存在を、シンタローは今になってようやく思い出した。
作法も何もかなぐり捨てて袋の口を開いてみれば、中から小さな集音マイクのような機器が転がり落ちる。
(お守りって……どー見たって発信機じゃねーか!)
「シンちゃんたちがアラシヤマ助けたあたりから、この辺のレーダーが乱れ始めたってキンちゃんから報告が入ってね。なんかおかしいな、と思ったから近くで待機してたんだ~」
あ、叔父さまたちは連れてきたんじゃないよ、来たらもういたんだよ、と言い訳のようにグンマの声は言う。
「おとーさまが、どーしても、って」
「あのヤロー……俺がなんのために……それに費用は……」
「だいじょーぶ、ぜーんぶ、おとーさまのポケットマネーだから」
その言葉を聞いた瞬間、シンタローの口が顎が外れるかと思うほど大きくカクンと開いた。これだけの戦闘艦をこれだけの短期間で整備し、動かすには一体何億、何十億かかると思っているのか。
「アラシヤマのためだったら絶対やだけど、シンちゃんのためだったら仕方ないってー」
「あンッのクソ親父……!」
どこまで親馬鹿なんだ、と顔が赤くなる思いでシンタローは拳を握りしめる。そのせいで実際救われているという現状にも、もはや感謝より怒りのほうが先立っていた。
だがそんな感情に今は左右されている場合ではない。艦から身を乗り出すようにこちらを見下ろしているグンマに向かって大声で叫ぶ。
「って、ンなこと言ってる場合じゃねぇ!さっさと縄梯子下ろせ!あと三分もねーぞ!」
さすがにその状況は把握しているのか、すぐさま艦から梯子が投げ下ろされた。拡声器の雑音に混じって、くだんの酔いどれオヤジの残念そうな声が聞こえる。
「ンだよ、暴れらんねーのか。つまんねぇナ」
「オッサン暴れんならほかでやれーーー!」
シンタローの掛け値なしの怒声に、だがハーレムは咥えタバコのままにやりと笑って、部下の一人の背を叩いた。
「そんじゃま、俺様の可愛い部下返してもらうぜぇ~、甥っ子」
その言葉と同時に、白銀色の艦からロープ一本に腕と片脚を絡めたロッドが降下してくる。そして、まるでどこぞの姫でも迎えにきたかのように、恭しくその片手をマーカーに差し出した。
マーカーはうんざりといった表情で腕組みをしながらそんな男の様子を眺めている。
「……なぜ貴様が降りてくる必要がある。ロッド」
「え~~。いーじゃんコレくらい。どんだけオレが心配したと思ってンの」
せっかくの演出にも予想通り冷たい反応しか返ってこなかったことに、金髪の男はややスネたような顔する。だが、そのいつもどおりのマーカーの表情を確認し、悪戯っぽく笑いかけた。
「それにさ、カッコよくね?アジアンビューティー抱えてロープで退場なんて、007みてーじゃんv」
「イタリア男が何抜かす。くだらんことを言っている暇があればさっさと引き上げろ」
不承不承ではあったが、片腕の怪我もあり、マーカーがやむなく男の手を取る。そして引き上げを待っていたそのとき、ふと何かを思い出したようにシンタローに声をかけた。
「新総帥」
「ん?」
アラシヤマを背負ったまま、同じく下ろされた縄梯子に足を掛けたシンタローが振り返った。
「報酬の振込みは、後ほど連絡いたします私の口座まで。―――それと」
去り際にまであくまで現実問題を忘れずに、ただ一瞬だけちらりとその弟子に視線を流し。
そしてマーカーは見蕩れるほど艶やかに口の端を上げる。
「その馬鹿弟子が目覚めたら、私の分まで、どうぞ入念な仕置きを宜しくお願いいたします」
「―――あぁ、まかせとけ」
交わした視線は、その質こそ違え、確かに同じ思いを抱いていた。
シンタローは不敵に笑い、そして小声で、ありがとな、と言った。
ロッドを含めた三人が艦に収容され、そして二艇の艦は全速力でその場を離脱する。
艦がぎりぎりで爆風に巻き込まれないだけの場所に着いたとき。
その後方で閃光と轟音が、黎明の大気を劈いた。
『on the wild world』 -epilogue-
―――瞼を開いて、まず感じたのは、白色の光だった。
まぶしさにやや目を眇めると、その視界の片隅に長い黒髪が入ってきた。
「……よォ、やっと目ぇ覚ましやがったか」
「…へ……?あ……シシ、シンタローはん?!」
思わず飛び起きそうになって、瞬間的に走った全身の痛みに表情を顰める。
それは団の医務室でも、重傷者が収容される個室だった。白い部屋の中央に置かれたパイプ製のベッドの上にアラシヤマは横たわり、その腕には数本の点滴の針が刺さっている。
シンタローはベッドの横に置かれた簡素な椅子の上に腰掛けて、アラシヤマを見下ろしていた。
現状の把握すら出来ていないアラシヤマに、オマエ、五日間眠りっぱなしだったんだぜ、とシンタローは言う。「まさか、ずっとついててくれはったんどすか?!」と目を輝かせるアラシヤマに、シンタローはたまに、仕事の合間に時間が出来たときに、気が向いたら寄っていた程度だと答えた。
そして、当人が眠っていた間のことはさておいて(その期間にもアラシヤマが危篤状態に陥ったりそのせいで高松が急遽呼び出されたり、キンタローが逃げ出した残党の処理に奔走したりとごたごたはあったのだが)、砦で起こったことをシンタローは簡単に解説する。
思わぬマーカーとの共闘や、グンマやマジックによる援助、内部で起こった出来事。瓦礫の山と化していた研究所を発見したことと、首謀者の死。脱出時のあまりの派手さを聞いた時には、さすがにアラシヤマも目を剥いた。
アラシヤマもまた枕を丸めて背もたれのようにし、砦の中で起こっていた事実のみを淡々と報告した。見抜くことができなかった副官の裏切りと、前政権が目論んだ陰謀。そして、あの研究施設で行われていたことの詳細。
もっとも、暗示をかけられてからのことはさっぱり覚えていないらしい。
かろうじて一瞬だけシンタローの声が聞こえ、師匠の顔が目に入ったことしか記憶にはないという。それすらも、今の今まで夢かと思っていた、と正直に白状した。
起き抜けでやや掠れがちのその声の報告が済んだあと、アラシヤマはへらりと情けない笑みを浮かべて言った。
「シンタローはん、なんやおとぎ話の王子様みたいどすなぁ」
「で、助け出した姫がコレって。そんな報われねー王子がいてたまるか」
掛け値なしの本音を言いながらシンタローは立ち上がり、近くの棚に置かれている果物カゴから林檎を一つ取り出す。この見舞い、グンマ達からだけど貰うゼ、と言いながら、ナイフで器用にその皮を剥いていく。
そして、綺麗に切り分けたその一つをシャクッと齧りながら、思い出したように言った。
「ああ、そーだ。あともうひとつ」
「?」
「オマエの『副官』から、伝言」
シンタローはあのホールで聞かされた言葉を、一言一句違わずアラシヤマに伝える。
それを聞いたアラシヤマはしばらく黙ったままでいて。やがてゆっくりと天井を見上げた。
「あの男……ホンマは、誰かに壊してもらいたかったんやないかと思うんどすわ」
「結局、ていよく利用された、ってワケか」
「どうでっしゃろな。壊したないゆう気持ちもほんもんで、せやから―――わてらに賭けたんかもしれまへん」
言いながらアラシヤマは、けして短くはない期間、己の下にいた男のことを少しだけ思い出す。
頭の回転が速く腕が立ち、誠実で、軍人の鑑のようだった男。そして、あまりにも真面目で―――それがゆえに、哀れなほど弱くなってしまった男。
せめてその終焉を共にしたことで、あの男は己の良心と、最後の忠誠のどちらをも全うすることができたのだろうか。
そんなことをやや感傷めいて考えていたアラシヤマを現実に引き戻したのは、シンタローの完全に呆れ返った声だった。
「しっかし、オマエ、今回ほんっとマヌケだったな。マーカーへの報酬と親父への借金で、この先二年はほとんどタダ働き決定だぜ」
「えええッ?!せ、せめて生活費くらいは残しといておくれやす」
けして冗談ではない総帥の言葉に、アラシヤマは本気で焦る。そんな様子を面白そうに眺めながら、―――ただ、とシンタローが言った。
「最後まで……団の方針守ったその根性は、褒めてやる」
「……ハハ。あんさんに褒められたん、初めてかもしれんどすな」
その言葉にアラシヤマは、おろおろと挙動不審だった動きを止め、短く息を吐きながら顔を仰向けた。
―――せやけど、今だけ堪忍な、と前置いて。
身を起こしたアラシヤマは、キッ、とシンタローに向かって眦を吊り上げる。
「……どこの世界に、たかが一団員助けるために一人で敵陣突っ込む総帥がおるんや、こん阿呆!」
そのいきなりの剣幕に、一瞬だけシンタローの目が丸くなった。
そしてむくれたような表情で視線を横に流す。他の人間(それはティラミスが最も強かったが)が口にしたくてたまらない、という顔をしながらそれでも抑えていたその説教を、ああコイツは言うんだな、とぼんやりと考えながら。
ったく、鬱陶しいと片眉を顰めながら、シンタローはぼそりと呟く。
「……一人じゃねーだろ。マーカーもいた」
「し、師匠は……師匠にも色々思うことはあんねんけど、今はあんさんのことどす!」
その台詞に出された唯一の鬼門に瞬間怯みながらも、アラシヤマはシンタローへの面責を止めようとはしない。
「あんさんの情が深いんは嫌てほど知っとるわ。せやけど団員の一人や十人、いざっちゅう時には平然と切り捨てはるのが総帥ちゅうもんどっしゃろ。そないなことすらわかっとらんほど、あんさんの頭が悪いとは思うとりまへんどしたえ。ましてこんな―――つッッ」
「オラ、暴れんなよ。テメーアバラ二本折った上に全身火傷と打撲だらけで、全治三ヶ月の重体患者だろーが」
うんざりしながら、それでも一応最後までその小言を聞いていたシンタローは、胸のあたりを押さえて言葉を詰まらせたアラシヤマの口に、小さく切り分けた林檎を放り込んだ。
それ以上何も言えなくなったアラシヤマは、微妙な表情でなんとかその果実を嚥下する。そして、あてつけがましく長いため息をついた。
「……わての言いたいのは、そんだけどす」
起こしていた身を、どさりとまたベッドに沈める。身体への衝撃をできるだけ和らげるためなのか、分厚い枕は羽毛入りのようで柔らかく、アラシヤマの上体を包み込むように沈めた。
そんなアラシヤマを横目で見ながら、シンタローもまた、抑えた声でそれを口にする。
「俺も、一つ。どうしても言っておきたかったことがある」
「なんどす?」
「―――泣かねーよ。テメーが死んだくらいじゃ」
はじめは何を言われたのかわからずきょとんという表情をしたアラシヤマが、やがて記憶と合点がいき、苦笑しながら静かに答えた。
「そうどすか」
「あぁ」
真白な病室に、静謐な空気が流れる。いくら換気しても消しきれない薬の匂いの中に、林檎のほんの少しだけ甘酸っぱい薫りが漂っている。
アラシヤマは何も言わない。シンタローは二切れめの林檎を口に入れた。シャクシャクとささやかな音をたてながら、薄く切られたそれを二口で食べ終える。
そして、ぼそりと言った。
「泣かねーけど。でも、その間抜け面蹴っ飛ばしに行く」
アラシヤマが俯かせていた顔を上げて、シンタローを見る。
「どうせテメーのことだから、前線で英雄的に華々しく散るってよりは、なんか色々裏工作やって、そこでしょーがねぇって自分の命使うタイプだろ」
「……はは」
むかつくことに、この男は困ったように笑うだけでシンタローの言葉を否定もしない。
「たとえそれがどんだけ団のためになって―――俺のためになったとしても。俺はそんなのは認めねぇ。特進どころか団員資格剥奪。遺体だって白骨になるまで放置だ」
「酷おすなぁ……」
まるで叱られた子犬―――否、大型犬のような表情で、それでもアラシヤマは口元の苦い笑いを消そうとはしなかった。
その表情は、それも仕方ないとどこか諦めているかのようで。
そういった顔がどれほどシンタローを苛つかせるのかなど、きっと百回言ったところで、この男には理解できないに違いない。
「いいか、もし死んだら。一番にその死体蹴っ飛ばすのは、俺だ」
「へぇへ、そんな念押さんでも……」
耳にタコができる、とでもいうかのようにアラシヤマは視線を逸らそうとする。そんなアラシヤマの胸倉を、シンタローは何の遠慮もない力で掴んで引き寄せた。
怪我の痛みを訴えるその眉間の皺も何もかもを無視して、シンタローはアラシヤマと二十センチと離れていない間際で、その目を真っ直ぐに睨み付けて、言う。
「それが戦場のど真ん中でも、どんなヤバい組織の最深部でも。だから―――もし俺を心配しようって気があんなら、少なくとも、俺の目の届かないところで、死ぬな」
「……―――」
吐き出すようにそれだけ告げて、シンタローはそのままベッドにアラシヤマを突き倒す。
骨に響くその行為に一瞬だけ顔を顰めながらも、アラシヤマは思わず込みあがってくる笑いを噛み殺すのに苦労した。
「……シンタローはん。それって、えらい愛の告白みたいどすえ」
「ばーか、深読みすんな」
「せやけど」
「それ以上なんか言ったら、トドメ刺すぞ」
シンタローはけしてアラシヤマに顔を向けようとはしない。だが、その反らした首筋に朱が上っているのは、アラシヤマの目にもはっきりとわかった。そんなものを見せ付けられて、どうしてこらえきれるというのだろう。
アラシヤマは、ぐい、と紅い総帥服の袖を引く。
そして包帯だらけのその腕で、シンタローを強くかき抱いた。
「―――愛してますえ、シンタローはん」
笑みを含みながら、しかしこの上なく真摯な響きをもって告げられたその声に。
憮然とした表情のシンタローはやがて薄く目を閉じて―――知ってる、と呟いた。
微かな医療機器の作動音だけが聞こえる白い部屋の中で、その時確かに、自分にとっての時間が再び流れ出したのをシンタローは感じた。
これからもきっとこの馬鹿は、無謀な戦場に赴き、そして自分のために何度でも命を懸ける。時には大怪我をすることもあるだろう。
だが、それでも、こうして共にいられる今を。
悔しいと歯噛みしながらも、シンタローは幸せだと認めるしかなかった。
そしてまた、いつもの「日常」が始まる。
Fin.
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BGM(順不同):Cocco, 椎名林檎(東京事変), Aerosmith, The Stone Roses,
Cornershop,Thee michelle gun elephant, RADWIMPS, スキマスイッチ,
BUMP OF CHICKEN, jamiroquai, Sarah Brightman, Underworld
『on the wild world』 act.7
敵がどういった方法でこちらを監視しているのかわからないため、本部の輸送機器は使えない。シンタローは団の裏手に止めてあったマーカーが乗り付けてきたという車に同乗し、取り急ぎ最も近い民間の空港に向かった。前総帥時代から隠し持っている青の一族専用の小型ジェット機に乗り込み、υ国の近隣国まで飛ぶ。
そこまで辿りつけば、当地の支部から船を借りられる。さすがの密偵も、各国に散らばるガンマ団の支部のすべてに監視の目を光らせるのは不可能なはずだ。
ガンマ団本部とυ国の時差は約三時間。時計の針は本部のほうが進んでいる。リスクを考え多少の遠回りをしても、今から向かえば、未明には現地に着くことができるだろう。
小型艇を借り受け敵地に向かうまでは、ほぼ予定通りの段取りで速やかに進んだ。唐突に支部に現れた総帥は、その入り口で最初に眼にした団員を捕まえてすでに帰宅していた支部長を呼び出させ、有無を言わせず近くの港に船を用意させた。関与した団員と支部長には、どのような相手に対しても、今夜のことは他言無用と「総帥」の表情で十分に言い含める。責任は全て自分がとるとも。
乗組員は二名だけだ。せめてボートの操縦役に一人くらいは、と必死の表情で言い縋ってきた支部長の申し出は、ありがたく辞退した。どうせ航路の設定さえしてしまえばあとはほとんどオートで進むのだし、シンタローもマーカーも、小型船舶の運転くらいはできる。シンタローは一人として団員をこの件に関して動かしたくはなかったし、マーカーにしてみれば話はもっと単純で、足手まといは不要という心境だったのだろう。
まるでコールタールのようにどろりと粘着質な動きを見せる黒い海に、細い細い三日月と空を覆う星々の光が映っている。シンタローたちの乗る小型のモーターボートは、ところどころに立ち上がる白い波頭を一直線に切り裂きながら進む。
シンタローは乗船してすぐに、人一人がようやく入れるサイズの小さな操舵室で機器類の調整をしていた。だが作業にはそれほどの時間もかからず、五分程度でマーカーのいるデッキに現れる。
「よし、設定終了っと。到着まで約四十分てトコか」
「お疲れ様です」
船牆に軽くもたれるように腕組をして立っているマーカーは、シンタローの姿を認め、簡素な労りの言葉を口にした。マーカーよりやや船首側に腰を下ろして、シンタローは今後の方針についてようやく話し始める。
「んで、あっちに着いてからのことだけどよ」
「何か、お考えが?」
「いーや。基本、出たトコ勝負」
その聞きようによっては無鉄砲なシンタローの言葉に、だがマーカーもゆっくりと頷いた。
「―――それしかないでしょうね。見取図はすでに頭に入れてあります。アレの近くまで行くことができれば、あとは私の蝶が案内役を務めましょう」
「蝶?」
「炎の蝶です。貴方にはまだ、お見せしていませんでしたか」
それは炎使いという特質を持つ者同士を繋ぐ、一種の連絡方法だとマーカーは簡単に説明する。
「ただ、確かにあの空白部分は厄介ですね」
マーカーが言っているのは、シンタローが見せた砦内部の見取り図に関してのことだった。そもそもあの図面自体がすでに数年前のもので、どこまで信頼がおけるかもわからない。
しかし、今頼れるものがそれしかないというのも事実だった。前政府の残党たちに、それほど大掛かりな改修を施せるだけの余力がないことを願うばかりだ。
「そして、アレが残った理由というのも―――気になる」
確かにそれは、シンタローにとっても一番の謎だった。任務に関してはかなり割り切った考え方をする男だ。一体何が、あの男をさらに奥へと呼び込んだというのか。
「―――あのバカ、まだ生きてると思うか?」
「……さあ。確率は五分といったところでしょうか」
「ッたく……、余計なこと考えねーで、さっさと引き上げてくりゃよかったんだ」
今更言ったところで詮無いこととわかっていても、つい口をついて出る憎まれ口は抑えられない。その気持ちはマーカーにもわかるようで、うっすらと唇の端を上げた。
「おそらく、貴方の役に立ちたいあまりに、愚かにも己が立場すら忘れて深入りしたのでしょう」
「……俺のせいかよ」
「いえ、一ミリの弁解の余地もなく、あの馬鹿弟子の責任です」
「情でも、かけろってのか?」
「とんでもない。むしろ貴方のアレへの常の温情には、心より感服しておりますよ」
別に嫌味と言うわけでもなく、マーカーは薄い笑いを崩さずにそう言う。だが、それを言い終えた後、その白皙の面から、すっと、笑みは消えた。
「あの馬鹿弟子は―――自己への執着は過剰なほど強いくせに、己が命への執着は然程でもない」
「……どう、違うんだ?ソレ」
「おわかりになりませんか。それは貴方が健全な精神をお持ちだという証拠でしょうね」
相変わらずの飄然とした無表情。こうしてかなりの近さでつぶさに見ていても、シンタローにはマーカーのその微妙な表情の奥にあるものは見えてこない。
「生死の確率は五分と五分……ですが、自決の心配だけは、なさらなくとも結構かと」
マーカーのその確たる口調に、シンタローは僅か怪訝そうに眉根を寄せる。
「理由をお教えしましょうか?」
「……ぁンだよ」
上目遣いに己を見る新総帥に、マーカーはきっぱりと断言する。
「ここでアレがそうしたところで、貴方に何のメリットもないからですよ」
「メリット、だぁ……?」
「課された任務は完了している。たとえ交渉の道具に己が使われたとして、それに貴方が応じるはずがない。そこまで現状認識を誤るほどには、私はアレを愚かに育てたつもりはありません」
船牆に後ろ向きに両肘をかけ、やや上方、まるで星空を眺めるかのように中空に視線をやりながら、マーカーの薄い唇が動く。
「もとより自暴自棄になった憐れな負け犬どもの無謀な交渉です。あちらにはアラシヤマの身一つしか切り札はない」
それも、もはや切り札か捨て札かもわかりませんがね、と恐ろしく冷静に言いながら。
「たかが団員一人、命を落としたところで団が蒙る被害など微々たるもの。だからこそ、そこでおとなしく死を待つような真似を、アレがするわけもありますまい。生還は無理としても、せめて一糸報いようとは考えているはずですよ―――己の命と引き換えに、この組織を殲滅させるくらいのことは」
淡々とアラシヤマの心境を語るマーカーの言葉は、予想や憶測といったものではなく、まるで既に起こったことの報告であるかのようにシンタローに感じられた。
船上には僅かな沈黙。
マーカーの言葉を否定する材料を今のシンタローは持たない。だが、その言葉のどこかに、少しだけ反発したいような気分はあった。なぜかはわからない。それはもしかすると、マーカーがあまりに簡単に、弟子の死の可能性を口にしたからかもしれない。
マーカーが推察するアラシヤマが取るだろう行動には、確かにシンタローも納得するしかなかった。あの根暗男なら、きっとそうした考え方をするのだろう。だが、それでも。
(―――アイツは、死なねえ)
心のどこかで、そんな確信にも似た思いがある。
そう、アラシヤマについてマーカーが知らないことを、一つだけ、自分は知っている。
(約束したんだ、俺と)
もっとも、あの「約束」が―――約束と呼べるのかどうかすら危ういほどのあの言葉が―――どれほどの効力を持っているのかは、シンタローにすらわからなかったが。
シンタローはポケットの中から常に携帯している煙草を出し、一本咥えてライターで火をつけた。軽く立てた両膝に両腕を投げ出すように置きながら、満天の星空に向かって細く煙を吐き出す。そして、その姿勢のまま、マーカー、アンタ今は一応俺の下にいるって思っていいんだよな、と確認するように言った。
何を今更、と言わんばかりにそれを首肯したマーカーに、シンタローは目に厳しい光を宿して、命じる。
「だったらこれだけは言っとく。―――契約中は、できる限り、殺すな」
その言葉に、マーカーの片眉が上がる。
「……この状況で、仰いますか」
「ああ」
「敵は一人として殺さず、しかもアラシヤマ奪取までは潜入にも気付かれず―――。予想以上に、難易度の高い任務になりますね」
「できないと思ったら言わねーよ」
自分が口にしている内容の無茶は承知だ。だがそれでも、シンタローはにやりと不敵に笑ってみせる。
「もっとも、俺はそんな無能なヤツと、手ぇ組んだ覚えはねーんだけど?」
マーカーは一瞬だけ苦虫を噛み潰したような表情をし。それでも最終的には了承の意を示した。とはいえ、そのほとんど何の変化も現れていない顔には、器用にもありありと不服の二文字が刻まれていたが。
「んな呆れたような顔すんなって」
「感情として否定はいたしませんが、そうした表情をとっているつもりもありません。しかし、このような事態でも、貴方はその主義を徹底するのですね」
「……コレがなかったら、俺が今この立場にいる意味が、ねえからナ」
言いながら、シンタローはすでにフィルターの間際まで灰になっている煙草を消し、腰を上げた。船首の近くに立ち、目指す島の方向を確認する。
その背に向かって、マーカーが静かな声で問いかける。
「新総帥」
「ン?」
名を呼ばれて、シンタローは上半身だけで振り向いた。
その先にあるマーカーの視線は驚くほど冷涼だ。
「私からも、これだけはお聞きしたい。あの男を取り戻した後―――貴方はどうされるのか」
それは、少なくとも部下が上司に向ける瞳ではなかった。
「どうって……」
一瞬だけ気圧されたような気分になりかけ、だがあえてシンタローはそれを真っ向から受けとめる。多少無理があるな、と思いながらも、半ば意地で唇の端を歪めてみせた。
「今回の件についての処遇とか、そういう意味じゃねえんだろーな」
「そうです。アレは頭も性格も要領も何一つ良くはなかったが」
シンタローですら苦笑するしかないような手厳しい言葉は、この師にとっては特に辛辣という意識もないらしい。毛筋ほどの感情も表さずに、流麗にすら聞こえる音調で言葉を紡ぐ。
「殺しのセンスだけは、悪くなかった」
シンタローを見据えるマーカーの眼が、ほんの僅か細められた。
「今の貴方が抱えるには、リスクが大きすぎるのでは?」
「……」
マーカーの問いは、まるで研ぎ澄まされた刃のようだ。シンタローが常に心の奥底に、見えないよう封じている懸念を、的確に抉る。
「掌中の珠、というわけにはいきませんでしたがね。こう見えて、私はあの弟子に一片の可能性を見出した。―――手に負えなければ、引き取ってもいいのですよ」
シンタローをじっと見るマーカーの、その眼に浮かぶ色は希望でも揶揄でもなかった。マーカーの台詞は、アラシヤマを深く知る者としての、この上なく理性的な判断から導かれた「注進」だ。
しばらく無言でマーカーと睨み合いを続けていたシンタローは、やがて、ふ、とその視線をずらし。上体を前方に戻して、遠く、空との境界も曖昧な海の彼方に目を向ける。
目指す島はまだ見えてこない。顔に当たる強い風が、括りきれない長さの前髪を八方に弄る。ステップ気候に属するこの国では、これほどの深更であっても寒さを感じることはないが、さすがに猛スピードで疾駆する船の上では、それなりの風の冷たさはある。
シンタローは遥か水平線を見遣りながら二本目の煙草を咥え、ぼそりと言う。
「アイツは……焼き畑みたいなモンだ」
「……?」
あまりに唐突なその例えに、マーカーはやや面食らったような顔をする。さすがにそれだけでは説明になっていないと思いなおしたらしいシンタローが、苦い声で続きを口にした。
「それが原因で、山火事起こす可能性があんのはわかってる。やりすぎて被害出していいなんざ絶対思わねェ。だけど」
シンタローはただ前方のみを真っ直ぐ見据えて言葉を続ける。
「―――それで、生かされるモンがあるってのも、知ってる」
己には一切視線を向けず言うシンタローの背中を横目で見つつ、成程そういうことか、とマーカーは変に納得した気分で思い。そして過剰なまでに婉曲な言葉の内に、この新総帥があの男を手放すつもりはないことを知った。
マーカーもシンタローも、それ以上は何も言おうとしなかった。
二人は無言のまま、全速力で船を進ませる。船上に聞こえるのは、その能力を限界まで酷使されている船のモーター音と、耳のすぐ横を凄まじい速度で吹きぬける風の音だけだ。やがて前方に、目的となる砦を擁する島の影が浮かび上がる。
島までかなりの距離を残して、シンタローはボートを止める。これ以上近づくと、敵の哨戒線にかかる恐れがあった。前方に見える島の形から船の大体の位置を記憶し、その場に投錨する。多少潮に流されても、半径一キロメートル程度までなら遠隔操作も可能だ。
「よぉしッ。んじゃこっからは泳いでいくぜ!」
ボートの舳先に片足をかけ、腕組をした姿勢で勢いよくシンタローはそう宣言する。だが、目的の地まではまだ相当な距離が残っている上に、海上に姿を現しながら泳いでいけば、敵の目に触れないとも限らない。
そんなマーカーの懸念を見越したように、シンタローはごそごそと己のリュックサックの中を探ると、その中から二つの器機を取り出して、
「とりあえず、この前グンマとキンタローが見せに来た潜水装置の試作品引っつかんできたんだけどよ」
「……」
「俺こっち使うから、アンタはこっちな」
「……」
極めて不自然な明るさで、さも自然な流れのように、黄色のクチバシ型をした潜水装置をマーカーのほうに差し出した。
マーカーは眉一つ動かさず、絶対零度の視線でシンタローとその手に持つ装置を見つめている。
かと思うとくるりと方向を変え、進路設定などが可能な操舵室へとその足を向けた。
「アラシヤマ救出任務は失敗。やむを得ず撤退いたします」
「待てーぃ」
表情を強張らせたままシンタローが引き止める。そんなシンタローに向かい、腰に片手を当てて立つマーカーは当然だろうと言うかのように、整ったその面貌を微かに、しかし明らかに歪めながら言う。
「この私に、その奇怪なアヒルの嘴の如き物を身に付けろと?アレのためにそこまでしてやる義理はない」
「アンタ……命落とすかも知れねーってのは平然としてるクセになんなんだその判断基準……」
おとなうもの全てを飲み込むような夜の海上で、男二人はこの上なく真剣に対峙する。
だがやがて、シンタローの肩ががくりと落ちた。くっ、と未練があるように左手に持つ洗練された形をしばらく眺めていた後、思い切りマーカーに投げつける。至近距離で投げつけられたそれを、マーカーは軽々と片手で受け取った。
ハナ
「わぁったよ!いや最初からわかってました!俺がこっち使えばいーんだろォがチクショーー!!」
「理解のある上官で、嬉しく思います」
あンの根暗男取り戻したらまず一発ぶん殴る!とほとんどヤケっぱちで手元に残ったそれを装着したシンタローに。
よくお似合いですよ新総帥、と、この年齢不詳の男は腹が立つほど艶治な表情で、口の端を上げた。
***
険しい崖をロープと鎹の組み合わせのみを駆使して登り、島のところどころに配置されている警邏兵を上手くやり過ごしながらシンタローとマーカーは砦に接近した。
二人が目的地として想定しているのは、地下二階の図面上の空白部分である。そこに到るためにはいくつかのルートがあるが、その中でも最も兵の配置が少ないと思われるものをシンタローは既に頭の内に描いていた。構造上地下へと進むためにはどうしても避けて通れない箇所もあるが、あとは臨機応変に対処していくしかない。
「さぁて。こっからが本番てとこだな」
その黒い双眸を夜行性の獣のように煌かせながら、シンタローは言う。一度潮水に浸った長い髪は、乾燥した空気の前に早くも乾き始めていた。
「潜入しやすいとすれば、そこの壁ぶち破ってってのがイチバン理想なんだけどよ……」
砦の周囲に転がる大きな岩石と数少ない草木の蔭に身を潜めつつ、シンタローは狙う場所から百メートルほど先にいる二人の警邏兵を顎でさし示す。それを受けて、マーカーが肯いた。
「私が兵の衣服に火を放ちます。その混乱の間に」
小声でそう告げると同時に、指先に火を灯す。軽く手首を振るような動作で、それを遠方の警邏兵たちの身につけている上衣の裾に飛ばした。
何の火種もないと思われたところからいきなり燃え出した衣服に、予想通り兵たちは動揺する。広がりは遅いが軽く叩いた程度では消せない炎に焦りながら、二人の兵は水を求め走り去った。
その隙にすぐさまシンタローは砦の外壁に駆け寄り。その壁に耳を当て、内部から何の音も聞こえてこないことを確認した後、右手に集めた小さめの光球を、やや下方に向けて放つ。
岩壁の一部分が崩れ、ちょうど人間一人が身をかがめて入れる程度の穴があいた。
入り組んだ砦の中をシンタローとマーカーは疾駆する。
各所に配備されている警邏兵は、おそらくは元軍人だ。それもかなりの訓練を受けている。だがそんな屈強な男たちにも、マーカーは寸分も臆することなく。完全に気配を消しつつその死角まで近づくと、すれ違いざまその微かにあいている戦闘服の襟元から、まるで無生物を相手にしているかのような正確さで首筋に鍼を通す。その瞬間、兵の動きがまるで電池が切れたロボットのようにぴたりと止まり、その場にゆっくりと崩れ落ちる。
それはシンタローや、シンタローが普段知っているアラシヤマが使うものとは全く異なる種類の、無音の殺人術だった。
思わず眉を顰めたシンタローに、マーカーは駆けながら息も切らせず告げる。
「殺してはいません。ただ、あの鍼を抜いてもしばらくは身体に痺れが残り、声を出すことすら不可能でしょうが」
多少物音を立てても構わないと思われる状況では、的確に人体の急所に当たる複数の部分のどこかに強めの手刀か掌底を入れ、相手の意識を失わせた。
シンタローももちろん敵の何人かは担当し、マーカーと同じくほぼ音もなくそれらを無力化していった。だが、多くはマーカーの機械的なまでに正確で迅速な動きの前に、シンタローが手を下すまでもなく地に伏していく。目の前で披露されるそのあまりに見事な手際に、シンタローは素直に感心した。
話に聞いたところによると、あの島での決戦のときアラシヤマたちの相手をしたのは、ほぼマーカー一人だったという。あの四人がかりでも、まったく歯が立たなかった相手。それがこの目の前にいる特戦部隊という存在なのだ。
(あの負けん気だけは馬鹿みてーに強いアラシヤマが……手合わせする前から、敵わねぇって言うくらいだもんな)
おそらく自分でも、出会いがしらに眼魔砲でも食らわせない限り、一対一で対決すれば勝てる自信はほとんど無い。一度近づかれてしまえば、必殺のそれすらも当たることはなく、その完璧なまでの体術と自由自在な高温の炎の餌食となるだろう。
地下二階への階段を下りたところで、マーカーが足を止める。少なくともここまでは、図面と実際の造りとの間に大きな乖離はなかったため、道に迷うということもなかった。肝心なのはここからだ。
マーカーが胸の前で、両手に何かを持つような仕草をする。一体何を始めるつもりかとシンタローが見つめていると、その掌中に青白い明かりが灯った。
それは緩やかに姿を変えて揚羽蝶に似た形を象り、マーカーの細い指先からふわりと飛びたつ。
「ここまで近づけば、あとはコレがアラシヤマの元まで案内するでしょう」
放たれた蝶のあとを追うように歩き出しつつ、マーカーは言う。
もはや駆ける必要はない。すでに敵陣の奥深くまで二人はたどり着いている。むしろここからは迅速さよりも慎重さが肝要となる。
各所にむき出しの電球が灯されているだけの薄暗い通路を、前方をひらひらと舞う仄かな明かりを追いながらシンタローとマーカーは音もなく歩む。
敵兵の姿はほとんど見えない。十分に足りているとはとても思えない人員は、そのほとんどが敵の侵入を警戒して地上階に配置されていたようだ。
地下水が通っているのか、時折どこかから、ぴちょん、という微かな水音が聞こえる。それが鮮明に耳に入るほどに、この場は静かだった。
やがてシンタローが、落とした声量で、マーカーに問いかけた。
「―――なぁ」
何があっても対処できるようシンタローの右斜め前をゆくマーカーから返事はない。だが問いかけには気付いているようで、少しだけ歩く速度を緩めた。
「アンタ、なんで俺んトコ、来たわけ?」
それはシンタローの率直な感想であり、疑問でもあった。マーカーは振り向きもせずに答える。
バックアップ
「―――団の後援があるのとないのとでは、成功率が格段に変わります」
「ンな一般論聞いてんじゃねーんだよ。アンタなら、たとえ一人でも来られたハズだろ?俺におうかがいなんざたてなくても。もしアイツをどうにかしたいと考えてんだったら、とっとと掻っ攫ってきゃよかったじゃねーか」
その戦いぶりを目の当たりにしてわかる。この男はその気になれば、この程度の砦なら、おそらく何の支援を受けなくても易々と攻略する。シンタローの制約がなければ、更にそれは容易だっただろう。
シンタローのその直接的で、ある意味では真っ当な意見に、マーカーはちらりと視線を流し。だがすぐに前方に戻した。
「……まず一つ目として、我々は我々の生活費と隊長の酒代と馬代を稼がなくてはいけない。経費や報酬は取れるところから取れ、というのが隊の一貫した方針でしてね」
おそらく隊員たちにとっては死活問題なのだろうその本音には、微かな苦笑が含まれているような気がした。
だが、それだけではシンタローが満足する理由にはならない。無言のまま先を促す。
「二つ目は―――私は一応、アレの意思を尊重してやったのですよ」
「……?」
口にされたその意外な言葉に、シンタローは瞠目した。
そんなシンタローの感情の揺らぎなど完全に無視しながら、マーカーは歩調に一糸の乱れもみせず、進み続ける。
「どれほど馬鹿で、不出来で、無様であろうと」
前方を歩む男の表情は、シンタローからは見ることができない。常と変わらない無色透明な声音から、それを察することすらできなかった。
そこに浮かんでいるのはいつもの冷たい無表情か、皮肉な笑みか―――それとも。
「アレは、私の弟子ですから」
『on the wild world』 act.8
うとうとと半分眠りながら扉を守っていたその牢番は、最初それを砦内部のボイラーの故障かと思った。
やけに暑い、と気付けば汗が滴り落ちている額を戦闘服の袖で拭う。その熱の原因が背後の牢であることに気付くまで、そこからさらに数秒かかった。
一体何だと様子をうかがおうとするが、溢れ出るあまりの熱に扉の内側を覗き込むことすら敵わない。小さな格子窓から見える内部はほぼ紅一色に染まっている。
混乱の中、かろうじて残っている理性が、とりあえずこの異常事態を誰かに報告しなくてはと告げる。だが時はもう遅かった。既に高熱によって変形した鉄錠からアラシヤマの両腕は自由になっており、分厚い木製の扉の内側はほぼ炭化している。アラシヤマが軽く蹴飛ばすと、鉄の枠だけを残して簡単に砕けた。
これ以上はないというくらいに眼を見開き、ほとんど腰を抜かしている牢番を、アラシヤマは的確に急所を捉えた一打で地に沈める。
全身の打撲傷以上のダメージを身体に与えている極炎舞の影響にどうしようもない身体の重みを感じ、情けない姿だと自覚しながらも、とりあえず壁伝いに歩き始めた。目指す場所はただひとつだ。
しばらく岩壁を杖代わりに歩き続けるうちに、なんとか通常の呼吸を取り戻す。全身の重みも、今にも倒れんばかりという状況からはやや回復してきた。そう、まだ倒れるわけにはいかない。まだもう一つ、自分にはやり残した仕事がある。
もはや盾に取られて困る人質はいない。だが、それでも侵入時とは異なる理由で、アラシヤマは騒ぎを起こすわけにはいかなかった。今もし砦中の兵士を自分に差し向けられたら、さすがにその全てを捌ききる自信はない。哨戒中の兵士を見つけるたび、アラシヤマはまず意識してその呼吸を整える。そして兵士の側まで忍び寄り、死角から不意打ちの一撃目を狙った。
間近にアラシヤマの姿を認めた兵士はみな一様に、まるで幽霊でも見たかのような表情をする。だが、すぐに軍人らしい表情に戻り、なんとか応戦を試みてきた。
それら一人一人を仕留めるのに、アラシヤマは予想外に手間取った。それはアラシヤマ自身の状況の問題という以上に、相手の戦闘レベルの高さに起因している。
(息も絶え絶えの残党……コレが?いっそ笑えるわ)
その口元を歪めながら、アラシヤマは心の内で呟く。やはり潜入時に待ち構えていた警邏兵たちはほぼダミーに近いものだったらしい。まさかこんなとっておきが残されていたとは、考えが及ばなかった。
ただ己の認識の甘さは置いておくとして、それでもせめて捕まったのが自分でよかったと思う。
もはやその怪我の軽重は問わない。問えるだけの余裕をアラシヤマは持っていなかった。ただ邪魔となるものを排除する、それだけの理由でアラシヤマは敵となる兵士たちを薙いでゆく。せめてもの救いとして、その対象となる数はけして多くはなかった。
そうして辿り着いた、砦の最奥にある研究所の内部。白と銀色で構成された施設の中には、白衣姿の複数の研究員の姿があった。
「ヒィッ!…ガ……ガンマ団……」
研究員の数は七人。そこに戦闘員は一人も含まれていないようだった。その完全に落ち着きを失っている行動を見れば、戦いと切り離された場所に日常をおいている人間だと容易に想像はつく。全員が全員、恐怖に顔色を蒼白にしながら、少しでもアラシヤマから遠ざかろうと後ずさっていた。
「……ちゃうで。こないなとこに捕まるような間抜けが、あんお人の部下やなんて口にするんもおこがましいわ」
そんな男たちの姿がほとんど滑稽にすら思えて、アラシヤマはあえて彼らの恐怖を煽るかのように、ゆっくりと歩みを進め、男たちを部屋の隅に追いつめる。
「わてはもう、ガンマ団の人間やあらへん―――。これがどういうことか……あんさんらに、わからはるかなぁ?」
一歩、一歩とその足を前進させながら、アラシヤマは穏やかにそう問いかける。そして、優しげにすら見える笑顔を白衣姿の男たちに向けた。
「もう、何人殺しても、ええちゅうことや」
男たちは逃げ場を失い、部屋の一隅に固まってガタガタとその身を震わせている。
「久々に、血が滾るわぁ……一度きに焼き殺したるなんて、勿体のうてとてもできへん。さぁて……どいつから始末したろ……」
うっすらと微笑みながら上唇を舐めるアラシヤマのその狂気に満ちた表情に、研究員の顔が恐怖で引きつる。固まりの中央に位置する一人が、悲鳴のような声で叫んだ。
「命令で……仕方なかったんだ!どうか、命だけ、は……」
「命、なぁ」
この期に及んでまだ命乞いをする男の浅ましさに、アラシヤマの顔から冷笑すら消えた。その後に残るのは、どこまでも冷たい無機物を見るような眼差しだけだ。その瞳に完全に気圧されて、男たちはもう何も言うこともできず、ただ脅えきったネズミのようにアラシヤマの一挙一投足に過剰に反応する。
「あんさんら、自分が何作っとるか知ってて、そんでもまだそない阿呆なことぬかしてますのん」
人間の命を、たとえようもないほどの苦痛の中、徐々に、確実に奪う毒。老若男女、善人悪人の区別なく、全てを地獄絵図の中に投げ込む手段。
そんな代物をせっせと作り上げながら、一体どの口で己の命は惜しいと言えるのか。
「救い難いどすな……せやけど、所詮は小悪党、か」
吐き捨てるようにそう呟く。そして、く、と顎を動かしてアラシヤマは研究所の入り口を指した。
「去ねや。隠し持っとる船でも何でも使うて、この島から出て行き。そんでここには―――もう二度と、戻ってくるんやないで」
白衣姿の男たちはこけつまろびつしながら、這うように施設から逃げ去っていく。その後姿を冷ややかな視線で見送りながら、アラシヤマは自身もまた入り口のそばまで移動した。
正直なところを言えば、彼らを追うような体力すらアラシヤマには残されてはいなかった。そういった己の状態をわかっていながらも、これだけは果たしておかねばならない、とその視線をざっと施設内に走らせる。
先刻口にした言葉は間違いない本心だ。自分はもう団には戻れないだろうと、頭ではほぼ完全に理解している。それでも。
アラシヤマは、まだ一人も殺してはいない。
(―――この期に及んで、まだ、捨てきれてへんのやな)
あの人に、せめて一目でも会いたいという望みを。
自嘲しながらそんなことを思い、そしてアラシヤマは白い箱にも似た研究所の中央に向かって、ゆるりとその片腕を上げた。
***
その全てを炎の中に呑み込み、灰燼に帰す。かつては施設があり、今や廃墟と化したそこから僅かに移動した階段の上で、己の「仕事」がほぼ完了したことを確認したアラシヤマは、しばらく岩壁に背中を預ける。
その気配には、かなり前から気付いていた。だが、その方向に視線を向けることすらせず、何よりまず体力を少しでも回復させようと、アラシヤマは壁に凭れかかったまま顔を俯けて酸素を体内に取り込む。
やがて足音は間近で止まり、低い、静かな声が、アラシヤマにかけられる。
「まったく、大したことをしてくれましたね……ここもすっかり、閑散としてしまった」
「……―――お蔭さんで」
大規模な炎を放ち、さすがに立っているのもやっとの状態のアラシヤマは、ゆっくりと瞼を開いて、男の顔を見上げた。汗はその露わになっている片頬を幾筋も流れ落ち、乱れた呼吸は隠しようもない。
だが、それでもアラシヤマは不敵に笑う。砂色の髪をした元副官は、そんなアラシヤマを特に憎憎しげにというわけでもなく、ただその内にあるものを洩らさない無表情で見つめている。
アラシヤマが荒い吐息のもとで、徐に唇を開いた。
「あんさん、ええところにきはったわ。……さっきの、質問」
アラシヤマのその言葉に、男はほんの僅か、目を細める。
「今、答えたる」
炎を放った直後に比べれば、それでもまだ呼吸は落ち着いてきた。代わりに重度の疲労と、それを訴える眩暈がするような睡魔がアラシヤマを襲う。
それらを振り払うように、片手で乱暴に髪をかきあげて。わてやったら―――とゆっくりと言葉を舌に載せる。
「あんお人と刺し違える道、選びますわ」
本音を言えば、声を声として発するだけでも一苦労だ。だがそんな内情は極力見せないようにして、アラシヤマは淀みなく言葉を繋ぐ。
「世界なんてどうなったって構わへん。誰がどんだけ残虐なことしようと、人が何人死のうとわてには関係のないことどす。ただ、もしシンタローはんが」
その内容とは異なり、口調はけして投げやりではない。アラシヤマは、今のこの状況と対峙している相手を見れば場違いとすら思えるほどの誠実さをもって、彼にとっての回答を淡々と口にする。
「そないなことするようになったら、わてが命張って止めたる。それは、『今の』あんお人の望みや、間違いなくあらへんよって。それに、そうなったとき、あんお人を止められる人間は、団にも数えるほどしかおらんしな。
まっとうにやって勝てる気はせえへんけど、殺し合いやったらまだ多少はわてにも分があるわ」
無理心中、てなことになればそれはそれでわてにとっては案外幸せなんかもしれんどすなあ、とアラシヤマは冗談でもなく呟いた。
「―――せやけど、そんなんなる可能性は0.01%以下や」
気を抜けば崩れ落ちそうになる足を、後ろ手に隠したその指で壁を強く掴むことによって、かろうじて支える。短く整えられた爪が、岩肌に食い込むほど強く。
そして男の目を真正面から見据えながら、アラシヤマは言う。
「あんさん、『絶対』いうことはこの世にあらへんゆうたな。それはそうかもしれんどすわ。人は変わる。それも真理どすな」
口にする言葉には嘘も虚勢もない。男から聞かされた過去にもそこにあった葛藤にも、どこか相感ずるものはあった。実際、彼に自分と同じ匂いを嗅ぎ取ったことも、けして否定はしない。それでも。
これだけが、アラシヤマにとって言いきれる唯一のこと。
「ただ、わてが今、シンタローはんを信じるゆうこの気持ちだけは―――『絶対』や」
静かにそう断言したアラシヤマの声には、微塵の揺らぎもなかった。
その瞳に宿る光は信仰にも似た強さで。ただ神へのそれとの違いは―――アラシヤマは彼の弱さや負の可能性を十分了解した上でなお、その言葉を口にする。
男は何も答えなかった。冴え渡る静寂の中で、言葉を続けたのはアラシヤマのほうだった。
「……あんさん、そんだけ想うとるんやったら、なんでそないに、あの男のそば離れたんどす」
それはあからさまな、男に対する非難の口調。かすかに眉を顰めたままアラシヤマの言葉をその身に受けていた元副官の顔に、初めて動揺にも似た色が顕れる。
「怖かったんやろ。自分の信じる唯一のもんが、目の前で変わってくんが。それを間近で見とんのが辛うて辛うて耐え切れんかったから、ガンマ団への長期潜入やなんて、ていの良い追っ払いみたいな命令にものこのこ従ったんやろが!」
「……―――ッ!!」
一気に言い、やや上がってきた息のもと、アラシヤマはだがあくまで冷徹にそれに次ぐ言葉を口にする。
「どんだけ憎まれようが疎まれようが―――あんさんは、離れるべきや、なかったんどす」
裸の電球だけが小さく灯された仄暗い岩の通路。遠く聞こえる細波のような風の音の中で、アラシヤマのその声は、かすかに、だが確かな意思をもって響いた。
男の顔色は蒼褪めていた。どこか呆然としたような表情で、すべてを言い終えたアラシヤマを、ただ見つめている。
しばらくの間、男はその表情のまま口を噤んでいた。だがやがて、その瞳に、す、と別の色が浮かび上がる。
「……そうかもしれない。しかし、もう全ては遅すぎる」
そう口にしたとき、男の表情はすでに平時の、奥にあるものを覗かせない薄い皮膜一枚で覆われたようなものに戻っていた。
「実は、困ったことが起きているのはここだけではないんですよ」
そして、軽く肩を竦めるような動作をして、言う。
「定時連絡を義務付けている警邏兵のうち、二人の音信が途切れましてね」
その言葉の内容に、アラシヤマの眉がぴくり、と動いた。そんな僅かな変化も男は見逃さず、自虐的にも楽しそうにもみえる表情で、アラシヤマへの報告を続ける。
「どうやら、この砦にいる人間では太刀打ちが出来ない相手のようです」
「……」
「身を隠しながらかろうじて姿を視認した者の報告によれば、侵入者は二人。一人は炎を使い、もう一人は、どこかで見覚えのある長い黒髪の男だとか」
「―――な……っ?!」
思わずアラシヤマは男の胸倉に掴みかかる。そしてその詳細を聞き出そうとするが、疲弊しきったアラシヤマの腕は、かつての部下に簡単に抑えられた。間に二十センチも残さない距離で、アラシヤマは男の硝子玉のような瞳を睨み付ける。視線だけで人を殺めることができたなら、とこの時ほど痛切に思ったことはなかった。
それは男が初めて眼にした、感情を剥き出しにしたアラシヤマの表情だった。
男の唇がゆっくりと微笑を象る。
「あなたは常に……己にリミッターをかけていたのですね」
アラシヤマの瞳の奥底を覗き込むようにその視線を合わせたまま、囁くような声で男はそう呟く。
その次の瞬間、男を強く睨みつけていた筈の、アラシヤマの視界が、ぐらりと歪んだ。
「ならば、それを外して差し上げましょう。―――あなたが本当に求めている結末が、そこにあるかもしれませんよ」
『on the wild world』 act.9
鍵の壊された独房の前を通過し、隠し扉も難なく発見したシンタローとマーカーが辿り着いたのは、二階層が吹き抜けとなっている一つの大きなホールだった。
図面上には描かれていなかった円形のそのホールは、直径にして約五十メートルはあるだろうか。二階分の天井は高く、床はそれまでの凹凸の多い煉瓦から、綺麗に研磨され隙間なく敷き詰められた石に変わっている。
遮蔽物のないその空間に、二人は用心深く足を踏み入れた。
もう砦のかなり奥まで入り込んでいる。侵入開始時から昏倒させてきた警邏兵も、さすがにそろそろ誰かに見つかっていておかしくない頃だ。どこに伏兵が潜んでいるかわからない。
そんなことを考えつつ慎重に歩みを進める二人の目に、一つの影が入り込んできた。シンタローたちが入ってきた入り口のほぼ対面に位置する扉から現れた人影に、シンタローとマーカーはすわ敵かと一瞬身構える。
だが扉の陰からゆっくりと歩み出し、いまや完全に姿を見せた男は、予想していた警邏兵の類ではなく。
シンタローは思わず、その名を呼んだ。
「アラシヤマ!」
ガンマ団の戦闘服のあちこちに黒ずんだ血の痕を付け、俯きがちに佇んでいるその面は、長い前髪の陰になってほとんど見えない。
やはり怪我の程度が酷いのか、いつものようにアラシヤマはこちらに駆け寄って来ようとはしなかった。だが、思ったよりその姿勢に乱れはない。しっかりと両足を地につけたまま、アラシヤマはその場にただ、立っている。
シンタローは安堵というよりは怒ったような表情で、ずかずかとアラシヤマに歩み寄った。やや後方を、微かに怪訝な表情をしたマーカーが追う。
それまで先を進んでいた炎の蝶が、目指す相手を前に、不意に明滅したかと思うと、そのまま消えた。元はそういった動きをするはずのものではない。だがそんなマーカーの不審には気付かずに、シンタローはアラシヤマに語りかける。
「テメ、やっぱ自力で逃げ出してやがったのか。にしても……」
そのすぐそばまで近づき、呆れたように話し始めたシンタローの言葉に。
ほんの僅かだけ上げられたその顔に見えた、アラシヤマの口元が、ニィ、と歪んだ。
「……シンタロー様!」
マーカーはその細腕のどこにそんな力があったのかと驚くほど強く、シンタローの肩を掴み引き倒す。不意のその行動にシンタローが後方約五メートルほど飛ばされた瞬間。
それまでシンタローがいた場所に、炎の柱が上がった。
「なっ……?!」
幾何学的に敷かれている石畳の上に後ろ手をついた態勢のまま、シンタローはその炎を呆然と見上げる。それは、明らかにシンタローを狙ったものだった。人間一人を燃やし尽くしてなお余りある業火は天井にまで届き、室内の温度を一気に上げる。
マーカーの皎白の面が苦虫を噛み潰したかのように顰められた。
「……うつけが。正気ではないな―――催眠暗示、か……」
シンタローは強いて己を冷静にし、なんとか現状を把握しようとする。一瞬の油断を恥じながらも腰を上げ、いつでも行動が起こせるようしゃがんだまま地に片手をつけた。
アラシヤマは先刻いた場所から動かず、ただ虚ろな笑みを浮かべてシンタローとマーカーを眺めている。否、それは「眺める」などといった意思のある視線ではなかった。ただ前方にある異質なものに、その髪の合間から見える目を向けているというだけの行為だ。
「マーカー。アイツ……」
「どうやら、見ての通りの状況のようですね。あの馬鹿弟子は、我々を認識しておりません」
食い入るような眼差しでアラシヤマを見るシンタローの、あえて感情を抑えたその声の中にも、戸惑いは隠しきれるものではない。
そんな若い上官の不安を見透かしたかのように、マーカーは淡々とした声をかけた。
「弟子の技など、元より私には児戯にも等しきもの」
その言葉に嘘は無い。例え催眠状態にあっても、マーカーであれば力ずくでアラシヤマを押さえつけるために然程の苦労は要しないだろう。
しかしある一点、さすがに予想もしていなかったアラシヤマのその状況に、マーカーの声に一抹の感情が混じる。
「ただ、あれは……あれもまた、暗示だというのか……?」
独言のように呟くその台詞に、シンタローが眉根を寄せてマーカーを見上げる。
「……?どういうことだ……?」
マーカーもまた忌々しそうにアラシヤマを見据える。臨戦態勢は解かないままシンタローの傍らに片膝をつき、答えた。
「あの炎は、アラシヤマの出せる限界を超えております」
その言葉の意味するところに、シンタローの嫌な予感は更に深まった。
ホールの出口を背にして立つアラシヤマの全身には、まるで何かのオーラのように薄色の炎がまとわりついている。それは普段、男が炎を使うときにも見られないもので。
「言うならば、常に極炎舞の状態で戦っているということ。―――となると、多少、厄介なことになる」
シンタローとマーカーの間に、けして軽いとはいえない沈黙が流れる。
長引かせれば、アラシヤマが死ぬ。
止めるには暗示を解くか、完全にその意識を失わせるしかない。前者はその暗示の種類がどのようなものかわからないという点と、この男の性質的な問題からほぼ不可能に近いと思われた。
(ただの暗示ならば、手足でも折れば大人しくなるものを……)
アラシヤマの意識が僅かにでも残っている状態では、駄目なのだ。
触れることも出来ない高熱を身にまとうアラシヤマを、一瞬のうちに昏倒させなくては、たとえ両足を折られて動けない状態でもアラシヤマは炎を放ち続けるだろう。
マーカーがすっと腰を上げ、シンタローの前に立つ。目前を覆う濃紫の中国服のその背には、確たる意思が張り詰めていた。
「―――新総帥、どうか、お下がりください」
シンタローがそれに諾と答える前に、その前方を庇うように立っているマーカーに向かい、アラシヤマの足が地を蹴った。
一切の情を忘れ、アラシヤマはマーカーに牙を剥く。
攻撃はことごとく的確に人間を死に至らしめる急所を狙い、相手を怯ませ、またあわよくば焼き尽くさんとする炎を生み出すことにも躊躇は無い。
頚椎を狙って飛んできた踵をよければ、前傾姿勢になっているマーカーの顔にすれすれのところで反動をつけたもう片方の脚が空を切り裂く。寸分も待たずアラシヤマの掌から生み出される炎は、バランスを崩し気味になったマーカーの足元に向かって放たれた。それをバク転の要領でかわし、マーカーはひとまず間に距離を取る。
二撃めの蹴りを避けた際にかすったらしく、マーカーの右頬は微かに赤くなっており、その唇からは一筋の血が流れていた。
だが、マーカーはどこか嬉しそうに艶やかな口唇の血を舐める。
「フン……我を忘れてようやく思い出したか。……この私が教えた、戦い方を」
そして右腕に炎を生み出したマーカーの貌に垣間見えたその色は。
恐ろしいほど―――「歓喜」に、よく似ていた。
緊迫した空気を間に挟んで師弟は対峙する。
跳躍したのはほぼ同時。空中でアラシヤマの脚が風を薙ぎ、それを片腕で防ぎながらマーカーもまた、アラシヤマの空いた脇腹を狙って鋭い蹴りを放つ。二人とも相手の攻撃を紙一重で防ぎながら、それでも態勢を崩すことすらなく着地し、また互いに向かっていく。
技量はもとより対等ではない。しかしマーカーには課された制約があまりに多く、逆にアラシヤマはその全てから解き放たれている。
舞うような二人の攻防を追って、炎が軌跡を描く。
ほぼ白色に近い蒼の炎と、黄金にも似た橙の焔が交錯する。
それは、まるで夢幻のような光景だった。
だが、やはりその決定的な経験の差から、優位な立場を奪ったのはマーカーのほうだった。
瞬間の隙を捉え、アラシヤマを堅い石畳に叩きつける。動物はなんであれ、脊椎に強い衝撃を与えられればその後すぐに動くことはできない。
与えた衝撃をそのままに、マーカーはアラシヤマを地に組み敷いた。通常の戦闘であれば、完全なチェックメイトの状態だ。
だが、そうした状況にあってなお、アラシヤマは全身から放つ炎の温度を下げようとはしない。そのため、マーカーの両腕はアラシヤマを抑止するために働きを制限され、決定的な一打を打ち込めずにいる。
組み伏したその姿勢のまま、その間際でアラシヤマの炎を自らの炎で相殺しながら、マーカーはぎり、と奥歯を噛み締めた。これほどの炎を出し続け、その源となる命はあとどれだけ保つというのか。
「貴様の命は……こんな所で燃やし尽くすためのものではないだろうが……ッ」
限界という箍を外されたアラシヤマの炎は、マーカーですら長く抑え続けることはできない。弟子と戦いながら、初めて頬に一筋流れた汗を自覚する。
それでも、マーカーはアラシヤマを地に留めたまま、その無表情の面に向かって、一喝した。
「貴様が、命を賭してまで守りたかったものはなんだ!」
その瞬間、何も映すことのなかったアラシヤマの瞳が、僅かに、だが確かに―――揺らいだ。
しかしそれはほんの刹那。次の時、アラシヤマは右膝を師の腹部に入れようとし、それを避けようと抑えつけていた腕の力をやや弱めたマーカーを、反対に押し倒す。体勢が逆転する。
アラシヤマの超高熱をまとった右手がマーカーの左手首を掴んだ。ジュゥゥ、という肉の焦げる音がシンタローの元にまで届く。
「ぐ……っ」
「よせ!アラシヤマ!」
だがそんなシンタローの制止にも、苦痛を堪えるマーカーの表情にもアラシヤマは一向に反応を示さない。
二人の声はもう、アラシヤマには届いていない。
(―――聞こえねー、のか?なんで。テメエ、アラシヤマだろう?)
ストーカーで口が悪くて。性格も悪くて誰に対しても皮肉めいた顔して、人間の友達なんて一人もいなくて。
それでも自分が言うことならなんだって、ムカつくくらい嬉しそうに聞いて。
もし、万が一。マーカーが倒れることになって、奴が自分にすら向かってきたら。
その時、自分に残された手段は、この男が自分に牙を向けたその瞬間に殺すことしかない。その師ですら抑えきれなかったものを止めるには、シンタローにはそうするほかないだろう。
だが、そんな結末をシンタローはけして望んではいない。ふざけるな、と心の底から怒りが湧き上がる。
そう、約束したはずだ。あのときだって――――
***
ミヤギ、トットリ、コージの三人が笑顔でシンタローと約束を交わしたあと。アラシヤマはただ一人だけ、すぐにはそれに応じなかった。
深緑色の軍用コートのポケットに両手を突っ込んだまま、軽く俯いたその口元には皮肉な笑みが浮かんでいる。
シンタローが眉間に皺を寄せながら責めるようにそれを見ていると、アラシヤマは困ったような声で言った。
「―――わての命や。シンタローはんの頼みでも、そればっかりはなぁ」
「てめ……ッ!」
「それほど軽いもんでもないどすけど、あんさんになんかあったら、こんな命、いくらでも捨てたる思うてしまいますしな」
その時、ちょうど準備が整った艦から、四人に声がかけられる。
アラシヤマもまた、シンタローに背を向けて己が任地へ向かう艦へと歩き出そうとした。シンタローがその背中に向かってまだ何かを言おうとした、そのとき。
「ただ、できる限り、努力はしまひょ」
ひらひらと、ポケットから出した片手を何かの挨拶のように振りながら、アラシヤマは言い。
一度だけ、シンタローを振り向く。
艦のプロペラが巻き起こす風が、普段隠しているアラシヤマの両目を露わにして。
「あんさん、……泣かせたくはないどすよって」
らんぺき
そして藍碧の空と複数の輸送機器を背景に一瞬だけ見せた表情は、
いつもの根暗男と同一人物とは思えない、憎らしいほど鮮やかな笑顔だった。
***
充満する熱気。有機物の焦げる匂いが、シンタローの鼻をつく。おそらくつかまれた手首には酷い火傷を負っているのだろうマーカーは、下手をすればアラシヤマもろとも燃え尽きるのではないかというほどの炎を相殺するだけで、その場から動けずにいる。
その尖った顎から、前髪の先から汗を滴り落としながら、シンタローが叫ぶ。
「アラシヤマぁっ!テメエ心友なら、俺の声くらい聞きやがれぇぇぇ―――!!」
ホール中に響き渡る絶叫。
―――その時、その場の空気の流れが、すべて、静止した。
NEXT→act.10
BACK→act.8
敵がどういった方法でこちらを監視しているのかわからないため、本部の輸送機器は使えない。シンタローは団の裏手に止めてあったマーカーが乗り付けてきたという車に同乗し、取り急ぎ最も近い民間の空港に向かった。前総帥時代から隠し持っている青の一族専用の小型ジェット機に乗り込み、υ国の近隣国まで飛ぶ。
そこまで辿りつけば、当地の支部から船を借りられる。さすがの密偵も、各国に散らばるガンマ団の支部のすべてに監視の目を光らせるのは不可能なはずだ。
ガンマ団本部とυ国の時差は約三時間。時計の針は本部のほうが進んでいる。リスクを考え多少の遠回りをしても、今から向かえば、未明には現地に着くことができるだろう。
小型艇を借り受け敵地に向かうまでは、ほぼ予定通りの段取りで速やかに進んだ。唐突に支部に現れた総帥は、その入り口で最初に眼にした団員を捕まえてすでに帰宅していた支部長を呼び出させ、有無を言わせず近くの港に船を用意させた。関与した団員と支部長には、どのような相手に対しても、今夜のことは他言無用と「総帥」の表情で十分に言い含める。責任は全て自分がとるとも。
乗組員は二名だけだ。せめてボートの操縦役に一人くらいは、と必死の表情で言い縋ってきた支部長の申し出は、ありがたく辞退した。どうせ航路の設定さえしてしまえばあとはほとんどオートで進むのだし、シンタローもマーカーも、小型船舶の運転くらいはできる。シンタローは一人として団員をこの件に関して動かしたくはなかったし、マーカーにしてみれば話はもっと単純で、足手まといは不要という心境だったのだろう。
まるでコールタールのようにどろりと粘着質な動きを見せる黒い海に、細い細い三日月と空を覆う星々の光が映っている。シンタローたちの乗る小型のモーターボートは、ところどころに立ち上がる白い波頭を一直線に切り裂きながら進む。
シンタローは乗船してすぐに、人一人がようやく入れるサイズの小さな操舵室で機器類の調整をしていた。だが作業にはそれほどの時間もかからず、五分程度でマーカーのいるデッキに現れる。
「よし、設定終了っと。到着まで約四十分てトコか」
「お疲れ様です」
船牆に軽くもたれるように腕組をして立っているマーカーは、シンタローの姿を認め、簡素な労りの言葉を口にした。マーカーよりやや船首側に腰を下ろして、シンタローは今後の方針についてようやく話し始める。
「んで、あっちに着いてからのことだけどよ」
「何か、お考えが?」
「いーや。基本、出たトコ勝負」
その聞きようによっては無鉄砲なシンタローの言葉に、だがマーカーもゆっくりと頷いた。
「―――それしかないでしょうね。見取図はすでに頭に入れてあります。アレの近くまで行くことができれば、あとは私の蝶が案内役を務めましょう」
「蝶?」
「炎の蝶です。貴方にはまだ、お見せしていませんでしたか」
それは炎使いという特質を持つ者同士を繋ぐ、一種の連絡方法だとマーカーは簡単に説明する。
「ただ、確かにあの空白部分は厄介ですね」
マーカーが言っているのは、シンタローが見せた砦内部の見取り図に関してのことだった。そもそもあの図面自体がすでに数年前のもので、どこまで信頼がおけるかもわからない。
しかし、今頼れるものがそれしかないというのも事実だった。前政府の残党たちに、それほど大掛かりな改修を施せるだけの余力がないことを願うばかりだ。
「そして、アレが残った理由というのも―――気になる」
確かにそれは、シンタローにとっても一番の謎だった。任務に関してはかなり割り切った考え方をする男だ。一体何が、あの男をさらに奥へと呼び込んだというのか。
「―――あのバカ、まだ生きてると思うか?」
「……さあ。確率は五分といったところでしょうか」
「ッたく……、余計なこと考えねーで、さっさと引き上げてくりゃよかったんだ」
今更言ったところで詮無いこととわかっていても、つい口をついて出る憎まれ口は抑えられない。その気持ちはマーカーにもわかるようで、うっすらと唇の端を上げた。
「おそらく、貴方の役に立ちたいあまりに、愚かにも己が立場すら忘れて深入りしたのでしょう」
「……俺のせいかよ」
「いえ、一ミリの弁解の余地もなく、あの馬鹿弟子の責任です」
「情でも、かけろってのか?」
「とんでもない。むしろ貴方のアレへの常の温情には、心より感服しておりますよ」
別に嫌味と言うわけでもなく、マーカーは薄い笑いを崩さずにそう言う。だが、それを言い終えた後、その白皙の面から、すっと、笑みは消えた。
「あの馬鹿弟子は―――自己への執着は過剰なほど強いくせに、己が命への執着は然程でもない」
「……どう、違うんだ?ソレ」
「おわかりになりませんか。それは貴方が健全な精神をお持ちだという証拠でしょうね」
相変わらずの飄然とした無表情。こうしてかなりの近さでつぶさに見ていても、シンタローにはマーカーのその微妙な表情の奥にあるものは見えてこない。
「生死の確率は五分と五分……ですが、自決の心配だけは、なさらなくとも結構かと」
マーカーのその確たる口調に、シンタローは僅か怪訝そうに眉根を寄せる。
「理由をお教えしましょうか?」
「……ぁンだよ」
上目遣いに己を見る新総帥に、マーカーはきっぱりと断言する。
「ここでアレがそうしたところで、貴方に何のメリットもないからですよ」
「メリット、だぁ……?」
「課された任務は完了している。たとえ交渉の道具に己が使われたとして、それに貴方が応じるはずがない。そこまで現状認識を誤るほどには、私はアレを愚かに育てたつもりはありません」
船牆に後ろ向きに両肘をかけ、やや上方、まるで星空を眺めるかのように中空に視線をやりながら、マーカーの薄い唇が動く。
「もとより自暴自棄になった憐れな負け犬どもの無謀な交渉です。あちらにはアラシヤマの身一つしか切り札はない」
それも、もはや切り札か捨て札かもわかりませんがね、と恐ろしく冷静に言いながら。
「たかが団員一人、命を落としたところで団が蒙る被害など微々たるもの。だからこそ、そこでおとなしく死を待つような真似を、アレがするわけもありますまい。生還は無理としても、せめて一糸報いようとは考えているはずですよ―――己の命と引き換えに、この組織を殲滅させるくらいのことは」
淡々とアラシヤマの心境を語るマーカーの言葉は、予想や憶測といったものではなく、まるで既に起こったことの報告であるかのようにシンタローに感じられた。
船上には僅かな沈黙。
マーカーの言葉を否定する材料を今のシンタローは持たない。だが、その言葉のどこかに、少しだけ反発したいような気分はあった。なぜかはわからない。それはもしかすると、マーカーがあまりに簡単に、弟子の死の可能性を口にしたからかもしれない。
マーカーが推察するアラシヤマが取るだろう行動には、確かにシンタローも納得するしかなかった。あの根暗男なら、きっとそうした考え方をするのだろう。だが、それでも。
(―――アイツは、死なねえ)
心のどこかで、そんな確信にも似た思いがある。
そう、アラシヤマについてマーカーが知らないことを、一つだけ、自分は知っている。
(約束したんだ、俺と)
もっとも、あの「約束」が―――約束と呼べるのかどうかすら危ういほどのあの言葉が―――どれほどの効力を持っているのかは、シンタローにすらわからなかったが。
シンタローはポケットの中から常に携帯している煙草を出し、一本咥えてライターで火をつけた。軽く立てた両膝に両腕を投げ出すように置きながら、満天の星空に向かって細く煙を吐き出す。そして、その姿勢のまま、マーカー、アンタ今は一応俺の下にいるって思っていいんだよな、と確認するように言った。
何を今更、と言わんばかりにそれを首肯したマーカーに、シンタローは目に厳しい光を宿して、命じる。
「だったらこれだけは言っとく。―――契約中は、できる限り、殺すな」
その言葉に、マーカーの片眉が上がる。
「……この状況で、仰いますか」
「ああ」
「敵は一人として殺さず、しかもアラシヤマ奪取までは潜入にも気付かれず―――。予想以上に、難易度の高い任務になりますね」
「できないと思ったら言わねーよ」
自分が口にしている内容の無茶は承知だ。だがそれでも、シンタローはにやりと不敵に笑ってみせる。
「もっとも、俺はそんな無能なヤツと、手ぇ組んだ覚えはねーんだけど?」
マーカーは一瞬だけ苦虫を噛み潰したような表情をし。それでも最終的には了承の意を示した。とはいえ、そのほとんど何の変化も現れていない顔には、器用にもありありと不服の二文字が刻まれていたが。
「んな呆れたような顔すんなって」
「感情として否定はいたしませんが、そうした表情をとっているつもりもありません。しかし、このような事態でも、貴方はその主義を徹底するのですね」
「……コレがなかったら、俺が今この立場にいる意味が、ねえからナ」
言いながら、シンタローはすでにフィルターの間際まで灰になっている煙草を消し、腰を上げた。船首の近くに立ち、目指す島の方向を確認する。
その背に向かって、マーカーが静かな声で問いかける。
「新総帥」
「ン?」
名を呼ばれて、シンタローは上半身だけで振り向いた。
その先にあるマーカーの視線は驚くほど冷涼だ。
「私からも、これだけはお聞きしたい。あの男を取り戻した後―――貴方はどうされるのか」
それは、少なくとも部下が上司に向ける瞳ではなかった。
「どうって……」
一瞬だけ気圧されたような気分になりかけ、だがあえてシンタローはそれを真っ向から受けとめる。多少無理があるな、と思いながらも、半ば意地で唇の端を歪めてみせた。
「今回の件についての処遇とか、そういう意味じゃねえんだろーな」
「そうです。アレは頭も性格も要領も何一つ良くはなかったが」
シンタローですら苦笑するしかないような手厳しい言葉は、この師にとっては特に辛辣という意識もないらしい。毛筋ほどの感情も表さずに、流麗にすら聞こえる音調で言葉を紡ぐ。
「殺しのセンスだけは、悪くなかった」
シンタローを見据えるマーカーの眼が、ほんの僅か細められた。
「今の貴方が抱えるには、リスクが大きすぎるのでは?」
「……」
マーカーの問いは、まるで研ぎ澄まされた刃のようだ。シンタローが常に心の奥底に、見えないよう封じている懸念を、的確に抉る。
「掌中の珠、というわけにはいきませんでしたがね。こう見えて、私はあの弟子に一片の可能性を見出した。―――手に負えなければ、引き取ってもいいのですよ」
シンタローをじっと見るマーカーの、その眼に浮かぶ色は希望でも揶揄でもなかった。マーカーの台詞は、アラシヤマを深く知る者としての、この上なく理性的な判断から導かれた「注進」だ。
しばらく無言でマーカーと睨み合いを続けていたシンタローは、やがて、ふ、とその視線をずらし。上体を前方に戻して、遠く、空との境界も曖昧な海の彼方に目を向ける。
目指す島はまだ見えてこない。顔に当たる強い風が、括りきれない長さの前髪を八方に弄る。ステップ気候に属するこの国では、これほどの深更であっても寒さを感じることはないが、さすがに猛スピードで疾駆する船の上では、それなりの風の冷たさはある。
シンタローは遥か水平線を見遣りながら二本目の煙草を咥え、ぼそりと言う。
「アイツは……焼き畑みたいなモンだ」
「……?」
あまりに唐突なその例えに、マーカーはやや面食らったような顔をする。さすがにそれだけでは説明になっていないと思いなおしたらしいシンタローが、苦い声で続きを口にした。
「それが原因で、山火事起こす可能性があんのはわかってる。やりすぎて被害出していいなんざ絶対思わねェ。だけど」
シンタローはただ前方のみを真っ直ぐ見据えて言葉を続ける。
「―――それで、生かされるモンがあるってのも、知ってる」
己には一切視線を向けず言うシンタローの背中を横目で見つつ、成程そういうことか、とマーカーは変に納得した気分で思い。そして過剰なまでに婉曲な言葉の内に、この新総帥があの男を手放すつもりはないことを知った。
マーカーもシンタローも、それ以上は何も言おうとしなかった。
二人は無言のまま、全速力で船を進ませる。船上に聞こえるのは、その能力を限界まで酷使されている船のモーター音と、耳のすぐ横を凄まじい速度で吹きぬける風の音だけだ。やがて前方に、目的となる砦を擁する島の影が浮かび上がる。
島までかなりの距離を残して、シンタローはボートを止める。これ以上近づくと、敵の哨戒線にかかる恐れがあった。前方に見える島の形から船の大体の位置を記憶し、その場に投錨する。多少潮に流されても、半径一キロメートル程度までなら遠隔操作も可能だ。
「よぉしッ。んじゃこっからは泳いでいくぜ!」
ボートの舳先に片足をかけ、腕組をした姿勢で勢いよくシンタローはそう宣言する。だが、目的の地まではまだ相当な距離が残っている上に、海上に姿を現しながら泳いでいけば、敵の目に触れないとも限らない。
そんなマーカーの懸念を見越したように、シンタローはごそごそと己のリュックサックの中を探ると、その中から二つの器機を取り出して、
「とりあえず、この前グンマとキンタローが見せに来た潜水装置の試作品引っつかんできたんだけどよ」
「……」
「俺こっち使うから、アンタはこっちな」
「……」
極めて不自然な明るさで、さも自然な流れのように、黄色のクチバシ型をした潜水装置をマーカーのほうに差し出した。
マーカーは眉一つ動かさず、絶対零度の視線でシンタローとその手に持つ装置を見つめている。
かと思うとくるりと方向を変え、進路設定などが可能な操舵室へとその足を向けた。
「アラシヤマ救出任務は失敗。やむを得ず撤退いたします」
「待てーぃ」
表情を強張らせたままシンタローが引き止める。そんなシンタローに向かい、腰に片手を当てて立つマーカーは当然だろうと言うかのように、整ったその面貌を微かに、しかし明らかに歪めながら言う。
「この私に、その奇怪なアヒルの嘴の如き物を身に付けろと?アレのためにそこまでしてやる義理はない」
「アンタ……命落とすかも知れねーってのは平然としてるクセになんなんだその判断基準……」
おとなうもの全てを飲み込むような夜の海上で、男二人はこの上なく真剣に対峙する。
だがやがて、シンタローの肩ががくりと落ちた。くっ、と未練があるように左手に持つ洗練された形をしばらく眺めていた後、思い切りマーカーに投げつける。至近距離で投げつけられたそれを、マーカーは軽々と片手で受け取った。
ハナ
「わぁったよ!いや最初からわかってました!俺がこっち使えばいーんだろォがチクショーー!!」
「理解のある上官で、嬉しく思います」
あンの根暗男取り戻したらまず一発ぶん殴る!とほとんどヤケっぱちで手元に残ったそれを装着したシンタローに。
よくお似合いですよ新総帥、と、この年齢不詳の男は腹が立つほど艶治な表情で、口の端を上げた。
***
険しい崖をロープと鎹の組み合わせのみを駆使して登り、島のところどころに配置されている警邏兵を上手くやり過ごしながらシンタローとマーカーは砦に接近した。
二人が目的地として想定しているのは、地下二階の図面上の空白部分である。そこに到るためにはいくつかのルートがあるが、その中でも最も兵の配置が少ないと思われるものをシンタローは既に頭の内に描いていた。構造上地下へと進むためにはどうしても避けて通れない箇所もあるが、あとは臨機応変に対処していくしかない。
「さぁて。こっからが本番てとこだな」
その黒い双眸を夜行性の獣のように煌かせながら、シンタローは言う。一度潮水に浸った長い髪は、乾燥した空気の前に早くも乾き始めていた。
「潜入しやすいとすれば、そこの壁ぶち破ってってのがイチバン理想なんだけどよ……」
砦の周囲に転がる大きな岩石と数少ない草木の蔭に身を潜めつつ、シンタローは狙う場所から百メートルほど先にいる二人の警邏兵を顎でさし示す。それを受けて、マーカーが肯いた。
「私が兵の衣服に火を放ちます。その混乱の間に」
小声でそう告げると同時に、指先に火を灯す。軽く手首を振るような動作で、それを遠方の警邏兵たちの身につけている上衣の裾に飛ばした。
何の火種もないと思われたところからいきなり燃え出した衣服に、予想通り兵たちは動揺する。広がりは遅いが軽く叩いた程度では消せない炎に焦りながら、二人の兵は水を求め走り去った。
その隙にすぐさまシンタローは砦の外壁に駆け寄り。その壁に耳を当て、内部から何の音も聞こえてこないことを確認した後、右手に集めた小さめの光球を、やや下方に向けて放つ。
岩壁の一部分が崩れ、ちょうど人間一人が身をかがめて入れる程度の穴があいた。
入り組んだ砦の中をシンタローとマーカーは疾駆する。
各所に配備されている警邏兵は、おそらくは元軍人だ。それもかなりの訓練を受けている。だがそんな屈強な男たちにも、マーカーは寸分も臆することなく。完全に気配を消しつつその死角まで近づくと、すれ違いざまその微かにあいている戦闘服の襟元から、まるで無生物を相手にしているかのような正確さで首筋に鍼を通す。その瞬間、兵の動きがまるで電池が切れたロボットのようにぴたりと止まり、その場にゆっくりと崩れ落ちる。
それはシンタローや、シンタローが普段知っているアラシヤマが使うものとは全く異なる種類の、無音の殺人術だった。
思わず眉を顰めたシンタローに、マーカーは駆けながら息も切らせず告げる。
「殺してはいません。ただ、あの鍼を抜いてもしばらくは身体に痺れが残り、声を出すことすら不可能でしょうが」
多少物音を立てても構わないと思われる状況では、的確に人体の急所に当たる複数の部分のどこかに強めの手刀か掌底を入れ、相手の意識を失わせた。
シンタローももちろん敵の何人かは担当し、マーカーと同じくほぼ音もなくそれらを無力化していった。だが、多くはマーカーの機械的なまでに正確で迅速な動きの前に、シンタローが手を下すまでもなく地に伏していく。目の前で披露されるそのあまりに見事な手際に、シンタローは素直に感心した。
話に聞いたところによると、あの島での決戦のときアラシヤマたちの相手をしたのは、ほぼマーカー一人だったという。あの四人がかりでも、まったく歯が立たなかった相手。それがこの目の前にいる特戦部隊という存在なのだ。
(あの負けん気だけは馬鹿みてーに強いアラシヤマが……手合わせする前から、敵わねぇって言うくらいだもんな)
おそらく自分でも、出会いがしらに眼魔砲でも食らわせない限り、一対一で対決すれば勝てる自信はほとんど無い。一度近づかれてしまえば、必殺のそれすらも当たることはなく、その完璧なまでの体術と自由自在な高温の炎の餌食となるだろう。
地下二階への階段を下りたところで、マーカーが足を止める。少なくともここまでは、図面と実際の造りとの間に大きな乖離はなかったため、道に迷うということもなかった。肝心なのはここからだ。
マーカーが胸の前で、両手に何かを持つような仕草をする。一体何を始めるつもりかとシンタローが見つめていると、その掌中に青白い明かりが灯った。
それは緩やかに姿を変えて揚羽蝶に似た形を象り、マーカーの細い指先からふわりと飛びたつ。
「ここまで近づけば、あとはコレがアラシヤマの元まで案内するでしょう」
放たれた蝶のあとを追うように歩き出しつつ、マーカーは言う。
もはや駆ける必要はない。すでに敵陣の奥深くまで二人はたどり着いている。むしろここからは迅速さよりも慎重さが肝要となる。
各所にむき出しの電球が灯されているだけの薄暗い通路を、前方をひらひらと舞う仄かな明かりを追いながらシンタローとマーカーは音もなく歩む。
敵兵の姿はほとんど見えない。十分に足りているとはとても思えない人員は、そのほとんどが敵の侵入を警戒して地上階に配置されていたようだ。
地下水が通っているのか、時折どこかから、ぴちょん、という微かな水音が聞こえる。それが鮮明に耳に入るほどに、この場は静かだった。
やがてシンタローが、落とした声量で、マーカーに問いかけた。
「―――なぁ」
何があっても対処できるようシンタローの右斜め前をゆくマーカーから返事はない。だが問いかけには気付いているようで、少しだけ歩く速度を緩めた。
「アンタ、なんで俺んトコ、来たわけ?」
それはシンタローの率直な感想であり、疑問でもあった。マーカーは振り向きもせずに答える。
バックアップ
「―――団の後援があるのとないのとでは、成功率が格段に変わります」
「ンな一般論聞いてんじゃねーんだよ。アンタなら、たとえ一人でも来られたハズだろ?俺におうかがいなんざたてなくても。もしアイツをどうにかしたいと考えてんだったら、とっとと掻っ攫ってきゃよかったじゃねーか」
その戦いぶりを目の当たりにしてわかる。この男はその気になれば、この程度の砦なら、おそらく何の支援を受けなくても易々と攻略する。シンタローの制約がなければ、更にそれは容易だっただろう。
シンタローのその直接的で、ある意味では真っ当な意見に、マーカーはちらりと視線を流し。だがすぐに前方に戻した。
「……まず一つ目として、我々は我々の生活費と隊長の酒代と馬代を稼がなくてはいけない。経費や報酬は取れるところから取れ、というのが隊の一貫した方針でしてね」
おそらく隊員たちにとっては死活問題なのだろうその本音には、微かな苦笑が含まれているような気がした。
だが、それだけではシンタローが満足する理由にはならない。無言のまま先を促す。
「二つ目は―――私は一応、アレの意思を尊重してやったのですよ」
「……?」
口にされたその意外な言葉に、シンタローは瞠目した。
そんなシンタローの感情の揺らぎなど完全に無視しながら、マーカーは歩調に一糸の乱れもみせず、進み続ける。
「どれほど馬鹿で、不出来で、無様であろうと」
前方を歩む男の表情は、シンタローからは見ることができない。常と変わらない無色透明な声音から、それを察することすらできなかった。
そこに浮かんでいるのはいつもの冷たい無表情か、皮肉な笑みか―――それとも。
「アレは、私の弟子ですから」
『on the wild world』 act.8
うとうとと半分眠りながら扉を守っていたその牢番は、最初それを砦内部のボイラーの故障かと思った。
やけに暑い、と気付けば汗が滴り落ちている額を戦闘服の袖で拭う。その熱の原因が背後の牢であることに気付くまで、そこからさらに数秒かかった。
一体何だと様子をうかがおうとするが、溢れ出るあまりの熱に扉の内側を覗き込むことすら敵わない。小さな格子窓から見える内部はほぼ紅一色に染まっている。
混乱の中、かろうじて残っている理性が、とりあえずこの異常事態を誰かに報告しなくてはと告げる。だが時はもう遅かった。既に高熱によって変形した鉄錠からアラシヤマの両腕は自由になっており、分厚い木製の扉の内側はほぼ炭化している。アラシヤマが軽く蹴飛ばすと、鉄の枠だけを残して簡単に砕けた。
これ以上はないというくらいに眼を見開き、ほとんど腰を抜かしている牢番を、アラシヤマは的確に急所を捉えた一打で地に沈める。
全身の打撲傷以上のダメージを身体に与えている極炎舞の影響にどうしようもない身体の重みを感じ、情けない姿だと自覚しながらも、とりあえず壁伝いに歩き始めた。目指す場所はただひとつだ。
しばらく岩壁を杖代わりに歩き続けるうちに、なんとか通常の呼吸を取り戻す。全身の重みも、今にも倒れんばかりという状況からはやや回復してきた。そう、まだ倒れるわけにはいかない。まだもう一つ、自分にはやり残した仕事がある。
もはや盾に取られて困る人質はいない。だが、それでも侵入時とは異なる理由で、アラシヤマは騒ぎを起こすわけにはいかなかった。今もし砦中の兵士を自分に差し向けられたら、さすがにその全てを捌ききる自信はない。哨戒中の兵士を見つけるたび、アラシヤマはまず意識してその呼吸を整える。そして兵士の側まで忍び寄り、死角から不意打ちの一撃目を狙った。
間近にアラシヤマの姿を認めた兵士はみな一様に、まるで幽霊でも見たかのような表情をする。だが、すぐに軍人らしい表情に戻り、なんとか応戦を試みてきた。
それら一人一人を仕留めるのに、アラシヤマは予想外に手間取った。それはアラシヤマ自身の状況の問題という以上に、相手の戦闘レベルの高さに起因している。
(息も絶え絶えの残党……コレが?いっそ笑えるわ)
その口元を歪めながら、アラシヤマは心の内で呟く。やはり潜入時に待ち構えていた警邏兵たちはほぼダミーに近いものだったらしい。まさかこんなとっておきが残されていたとは、考えが及ばなかった。
ただ己の認識の甘さは置いておくとして、それでもせめて捕まったのが自分でよかったと思う。
もはやその怪我の軽重は問わない。問えるだけの余裕をアラシヤマは持っていなかった。ただ邪魔となるものを排除する、それだけの理由でアラシヤマは敵となる兵士たちを薙いでゆく。せめてもの救いとして、その対象となる数はけして多くはなかった。
そうして辿り着いた、砦の最奥にある研究所の内部。白と銀色で構成された施設の中には、白衣姿の複数の研究員の姿があった。
「ヒィッ!…ガ……ガンマ団……」
研究員の数は七人。そこに戦闘員は一人も含まれていないようだった。その完全に落ち着きを失っている行動を見れば、戦いと切り離された場所に日常をおいている人間だと容易に想像はつく。全員が全員、恐怖に顔色を蒼白にしながら、少しでもアラシヤマから遠ざかろうと後ずさっていた。
「……ちゃうで。こないなとこに捕まるような間抜けが、あんお人の部下やなんて口にするんもおこがましいわ」
そんな男たちの姿がほとんど滑稽にすら思えて、アラシヤマはあえて彼らの恐怖を煽るかのように、ゆっくりと歩みを進め、男たちを部屋の隅に追いつめる。
「わてはもう、ガンマ団の人間やあらへん―――。これがどういうことか……あんさんらに、わからはるかなぁ?」
一歩、一歩とその足を前進させながら、アラシヤマは穏やかにそう問いかける。そして、優しげにすら見える笑顔を白衣姿の男たちに向けた。
「もう、何人殺しても、ええちゅうことや」
男たちは逃げ場を失い、部屋の一隅に固まってガタガタとその身を震わせている。
「久々に、血が滾るわぁ……一度きに焼き殺したるなんて、勿体のうてとてもできへん。さぁて……どいつから始末したろ……」
うっすらと微笑みながら上唇を舐めるアラシヤマのその狂気に満ちた表情に、研究員の顔が恐怖で引きつる。固まりの中央に位置する一人が、悲鳴のような声で叫んだ。
「命令で……仕方なかったんだ!どうか、命だけ、は……」
「命、なぁ」
この期に及んでまだ命乞いをする男の浅ましさに、アラシヤマの顔から冷笑すら消えた。その後に残るのは、どこまでも冷たい無機物を見るような眼差しだけだ。その瞳に完全に気圧されて、男たちはもう何も言うこともできず、ただ脅えきったネズミのようにアラシヤマの一挙一投足に過剰に反応する。
「あんさんら、自分が何作っとるか知ってて、そんでもまだそない阿呆なことぬかしてますのん」
人間の命を、たとえようもないほどの苦痛の中、徐々に、確実に奪う毒。老若男女、善人悪人の区別なく、全てを地獄絵図の中に投げ込む手段。
そんな代物をせっせと作り上げながら、一体どの口で己の命は惜しいと言えるのか。
「救い難いどすな……せやけど、所詮は小悪党、か」
吐き捨てるようにそう呟く。そして、く、と顎を動かしてアラシヤマは研究所の入り口を指した。
「去ねや。隠し持っとる船でも何でも使うて、この島から出て行き。そんでここには―――もう二度と、戻ってくるんやないで」
白衣姿の男たちはこけつまろびつしながら、這うように施設から逃げ去っていく。その後姿を冷ややかな視線で見送りながら、アラシヤマは自身もまた入り口のそばまで移動した。
正直なところを言えば、彼らを追うような体力すらアラシヤマには残されてはいなかった。そういった己の状態をわかっていながらも、これだけは果たしておかねばならない、とその視線をざっと施設内に走らせる。
先刻口にした言葉は間違いない本心だ。自分はもう団には戻れないだろうと、頭ではほぼ完全に理解している。それでも。
アラシヤマは、まだ一人も殺してはいない。
(―――この期に及んで、まだ、捨てきれてへんのやな)
あの人に、せめて一目でも会いたいという望みを。
自嘲しながらそんなことを思い、そしてアラシヤマは白い箱にも似た研究所の中央に向かって、ゆるりとその片腕を上げた。
***
その全てを炎の中に呑み込み、灰燼に帰す。かつては施設があり、今や廃墟と化したそこから僅かに移動した階段の上で、己の「仕事」がほぼ完了したことを確認したアラシヤマは、しばらく岩壁に背中を預ける。
その気配には、かなり前から気付いていた。だが、その方向に視線を向けることすらせず、何よりまず体力を少しでも回復させようと、アラシヤマは壁に凭れかかったまま顔を俯けて酸素を体内に取り込む。
やがて足音は間近で止まり、低い、静かな声が、アラシヤマにかけられる。
「まったく、大したことをしてくれましたね……ここもすっかり、閑散としてしまった」
「……―――お蔭さんで」
大規模な炎を放ち、さすがに立っているのもやっとの状態のアラシヤマは、ゆっくりと瞼を開いて、男の顔を見上げた。汗はその露わになっている片頬を幾筋も流れ落ち、乱れた呼吸は隠しようもない。
だが、それでもアラシヤマは不敵に笑う。砂色の髪をした元副官は、そんなアラシヤマを特に憎憎しげにというわけでもなく、ただその内にあるものを洩らさない無表情で見つめている。
アラシヤマが荒い吐息のもとで、徐に唇を開いた。
「あんさん、ええところにきはったわ。……さっきの、質問」
アラシヤマのその言葉に、男はほんの僅か、目を細める。
「今、答えたる」
炎を放った直後に比べれば、それでもまだ呼吸は落ち着いてきた。代わりに重度の疲労と、それを訴える眩暈がするような睡魔がアラシヤマを襲う。
それらを振り払うように、片手で乱暴に髪をかきあげて。わてやったら―――とゆっくりと言葉を舌に載せる。
「あんお人と刺し違える道、選びますわ」
本音を言えば、声を声として発するだけでも一苦労だ。だがそんな内情は極力見せないようにして、アラシヤマは淀みなく言葉を繋ぐ。
「世界なんてどうなったって構わへん。誰がどんだけ残虐なことしようと、人が何人死のうとわてには関係のないことどす。ただ、もしシンタローはんが」
その内容とは異なり、口調はけして投げやりではない。アラシヤマは、今のこの状況と対峙している相手を見れば場違いとすら思えるほどの誠実さをもって、彼にとっての回答を淡々と口にする。
「そないなことするようになったら、わてが命張って止めたる。それは、『今の』あんお人の望みや、間違いなくあらへんよって。それに、そうなったとき、あんお人を止められる人間は、団にも数えるほどしかおらんしな。
まっとうにやって勝てる気はせえへんけど、殺し合いやったらまだ多少はわてにも分があるわ」
無理心中、てなことになればそれはそれでわてにとっては案外幸せなんかもしれんどすなあ、とアラシヤマは冗談でもなく呟いた。
「―――せやけど、そんなんなる可能性は0.01%以下や」
気を抜けば崩れ落ちそうになる足を、後ろ手に隠したその指で壁を強く掴むことによって、かろうじて支える。短く整えられた爪が、岩肌に食い込むほど強く。
そして男の目を真正面から見据えながら、アラシヤマは言う。
「あんさん、『絶対』いうことはこの世にあらへんゆうたな。それはそうかもしれんどすわ。人は変わる。それも真理どすな」
口にする言葉には嘘も虚勢もない。男から聞かされた過去にもそこにあった葛藤にも、どこか相感ずるものはあった。実際、彼に自分と同じ匂いを嗅ぎ取ったことも、けして否定はしない。それでも。
これだけが、アラシヤマにとって言いきれる唯一のこと。
「ただ、わてが今、シンタローはんを信じるゆうこの気持ちだけは―――『絶対』や」
静かにそう断言したアラシヤマの声には、微塵の揺らぎもなかった。
その瞳に宿る光は信仰にも似た強さで。ただ神へのそれとの違いは―――アラシヤマは彼の弱さや負の可能性を十分了解した上でなお、その言葉を口にする。
男は何も答えなかった。冴え渡る静寂の中で、言葉を続けたのはアラシヤマのほうだった。
「……あんさん、そんだけ想うとるんやったら、なんでそないに、あの男のそば離れたんどす」
それはあからさまな、男に対する非難の口調。かすかに眉を顰めたままアラシヤマの言葉をその身に受けていた元副官の顔に、初めて動揺にも似た色が顕れる。
「怖かったんやろ。自分の信じる唯一のもんが、目の前で変わってくんが。それを間近で見とんのが辛うて辛うて耐え切れんかったから、ガンマ団への長期潜入やなんて、ていの良い追っ払いみたいな命令にものこのこ従ったんやろが!」
「……―――ッ!!」
一気に言い、やや上がってきた息のもと、アラシヤマはだがあくまで冷徹にそれに次ぐ言葉を口にする。
「どんだけ憎まれようが疎まれようが―――あんさんは、離れるべきや、なかったんどす」
裸の電球だけが小さく灯された仄暗い岩の通路。遠く聞こえる細波のような風の音の中で、アラシヤマのその声は、かすかに、だが確かな意思をもって響いた。
男の顔色は蒼褪めていた。どこか呆然としたような表情で、すべてを言い終えたアラシヤマを、ただ見つめている。
しばらくの間、男はその表情のまま口を噤んでいた。だがやがて、その瞳に、す、と別の色が浮かび上がる。
「……そうかもしれない。しかし、もう全ては遅すぎる」
そう口にしたとき、男の表情はすでに平時の、奥にあるものを覗かせない薄い皮膜一枚で覆われたようなものに戻っていた。
「実は、困ったことが起きているのはここだけではないんですよ」
そして、軽く肩を竦めるような動作をして、言う。
「定時連絡を義務付けている警邏兵のうち、二人の音信が途切れましてね」
その言葉の内容に、アラシヤマの眉がぴくり、と動いた。そんな僅かな変化も男は見逃さず、自虐的にも楽しそうにもみえる表情で、アラシヤマへの報告を続ける。
「どうやら、この砦にいる人間では太刀打ちが出来ない相手のようです」
「……」
「身を隠しながらかろうじて姿を視認した者の報告によれば、侵入者は二人。一人は炎を使い、もう一人は、どこかで見覚えのある長い黒髪の男だとか」
「―――な……っ?!」
思わずアラシヤマは男の胸倉に掴みかかる。そしてその詳細を聞き出そうとするが、疲弊しきったアラシヤマの腕は、かつての部下に簡単に抑えられた。間に二十センチも残さない距離で、アラシヤマは男の硝子玉のような瞳を睨み付ける。視線だけで人を殺めることができたなら、とこの時ほど痛切に思ったことはなかった。
それは男が初めて眼にした、感情を剥き出しにしたアラシヤマの表情だった。
男の唇がゆっくりと微笑を象る。
「あなたは常に……己にリミッターをかけていたのですね」
アラシヤマの瞳の奥底を覗き込むようにその視線を合わせたまま、囁くような声で男はそう呟く。
その次の瞬間、男を強く睨みつけていた筈の、アラシヤマの視界が、ぐらりと歪んだ。
「ならば、それを外して差し上げましょう。―――あなたが本当に求めている結末が、そこにあるかもしれませんよ」
『on the wild world』 act.9
鍵の壊された独房の前を通過し、隠し扉も難なく発見したシンタローとマーカーが辿り着いたのは、二階層が吹き抜けとなっている一つの大きなホールだった。
図面上には描かれていなかった円形のそのホールは、直径にして約五十メートルはあるだろうか。二階分の天井は高く、床はそれまでの凹凸の多い煉瓦から、綺麗に研磨され隙間なく敷き詰められた石に変わっている。
遮蔽物のないその空間に、二人は用心深く足を踏み入れた。
もう砦のかなり奥まで入り込んでいる。侵入開始時から昏倒させてきた警邏兵も、さすがにそろそろ誰かに見つかっていておかしくない頃だ。どこに伏兵が潜んでいるかわからない。
そんなことを考えつつ慎重に歩みを進める二人の目に、一つの影が入り込んできた。シンタローたちが入ってきた入り口のほぼ対面に位置する扉から現れた人影に、シンタローとマーカーはすわ敵かと一瞬身構える。
だが扉の陰からゆっくりと歩み出し、いまや完全に姿を見せた男は、予想していた警邏兵の類ではなく。
シンタローは思わず、その名を呼んだ。
「アラシヤマ!」
ガンマ団の戦闘服のあちこちに黒ずんだ血の痕を付け、俯きがちに佇んでいるその面は、長い前髪の陰になってほとんど見えない。
やはり怪我の程度が酷いのか、いつものようにアラシヤマはこちらに駆け寄って来ようとはしなかった。だが、思ったよりその姿勢に乱れはない。しっかりと両足を地につけたまま、アラシヤマはその場にただ、立っている。
シンタローは安堵というよりは怒ったような表情で、ずかずかとアラシヤマに歩み寄った。やや後方を、微かに怪訝な表情をしたマーカーが追う。
それまで先を進んでいた炎の蝶が、目指す相手を前に、不意に明滅したかと思うと、そのまま消えた。元はそういった動きをするはずのものではない。だがそんなマーカーの不審には気付かずに、シンタローはアラシヤマに語りかける。
「テメ、やっぱ自力で逃げ出してやがったのか。にしても……」
そのすぐそばまで近づき、呆れたように話し始めたシンタローの言葉に。
ほんの僅かだけ上げられたその顔に見えた、アラシヤマの口元が、ニィ、と歪んだ。
「……シンタロー様!」
マーカーはその細腕のどこにそんな力があったのかと驚くほど強く、シンタローの肩を掴み引き倒す。不意のその行動にシンタローが後方約五メートルほど飛ばされた瞬間。
それまでシンタローがいた場所に、炎の柱が上がった。
「なっ……?!」
幾何学的に敷かれている石畳の上に後ろ手をついた態勢のまま、シンタローはその炎を呆然と見上げる。それは、明らかにシンタローを狙ったものだった。人間一人を燃やし尽くしてなお余りある業火は天井にまで届き、室内の温度を一気に上げる。
マーカーの皎白の面が苦虫を噛み潰したかのように顰められた。
「……うつけが。正気ではないな―――催眠暗示、か……」
シンタローは強いて己を冷静にし、なんとか現状を把握しようとする。一瞬の油断を恥じながらも腰を上げ、いつでも行動が起こせるようしゃがんだまま地に片手をつけた。
アラシヤマは先刻いた場所から動かず、ただ虚ろな笑みを浮かべてシンタローとマーカーを眺めている。否、それは「眺める」などといった意思のある視線ではなかった。ただ前方にある異質なものに、その髪の合間から見える目を向けているというだけの行為だ。
「マーカー。アイツ……」
「どうやら、見ての通りの状況のようですね。あの馬鹿弟子は、我々を認識しておりません」
食い入るような眼差しでアラシヤマを見るシンタローの、あえて感情を抑えたその声の中にも、戸惑いは隠しきれるものではない。
そんな若い上官の不安を見透かしたかのように、マーカーは淡々とした声をかけた。
「弟子の技など、元より私には児戯にも等しきもの」
その言葉に嘘は無い。例え催眠状態にあっても、マーカーであれば力ずくでアラシヤマを押さえつけるために然程の苦労は要しないだろう。
しかしある一点、さすがに予想もしていなかったアラシヤマのその状況に、マーカーの声に一抹の感情が混じる。
「ただ、あれは……あれもまた、暗示だというのか……?」
独言のように呟くその台詞に、シンタローが眉根を寄せてマーカーを見上げる。
「……?どういうことだ……?」
マーカーもまた忌々しそうにアラシヤマを見据える。臨戦態勢は解かないままシンタローの傍らに片膝をつき、答えた。
「あの炎は、アラシヤマの出せる限界を超えております」
その言葉の意味するところに、シンタローの嫌な予感は更に深まった。
ホールの出口を背にして立つアラシヤマの全身には、まるで何かのオーラのように薄色の炎がまとわりついている。それは普段、男が炎を使うときにも見られないもので。
「言うならば、常に極炎舞の状態で戦っているということ。―――となると、多少、厄介なことになる」
シンタローとマーカーの間に、けして軽いとはいえない沈黙が流れる。
長引かせれば、アラシヤマが死ぬ。
止めるには暗示を解くか、完全にその意識を失わせるしかない。前者はその暗示の種類がどのようなものかわからないという点と、この男の性質的な問題からほぼ不可能に近いと思われた。
(ただの暗示ならば、手足でも折れば大人しくなるものを……)
アラシヤマの意識が僅かにでも残っている状態では、駄目なのだ。
触れることも出来ない高熱を身にまとうアラシヤマを、一瞬のうちに昏倒させなくては、たとえ両足を折られて動けない状態でもアラシヤマは炎を放ち続けるだろう。
マーカーがすっと腰を上げ、シンタローの前に立つ。目前を覆う濃紫の中国服のその背には、確たる意思が張り詰めていた。
「―――新総帥、どうか、お下がりください」
シンタローがそれに諾と答える前に、その前方を庇うように立っているマーカーに向かい、アラシヤマの足が地を蹴った。
一切の情を忘れ、アラシヤマはマーカーに牙を剥く。
攻撃はことごとく的確に人間を死に至らしめる急所を狙い、相手を怯ませ、またあわよくば焼き尽くさんとする炎を生み出すことにも躊躇は無い。
頚椎を狙って飛んできた踵をよければ、前傾姿勢になっているマーカーの顔にすれすれのところで反動をつけたもう片方の脚が空を切り裂く。寸分も待たずアラシヤマの掌から生み出される炎は、バランスを崩し気味になったマーカーの足元に向かって放たれた。それをバク転の要領でかわし、マーカーはひとまず間に距離を取る。
二撃めの蹴りを避けた際にかすったらしく、マーカーの右頬は微かに赤くなっており、その唇からは一筋の血が流れていた。
だが、マーカーはどこか嬉しそうに艶やかな口唇の血を舐める。
「フン……我を忘れてようやく思い出したか。……この私が教えた、戦い方を」
そして右腕に炎を生み出したマーカーの貌に垣間見えたその色は。
恐ろしいほど―――「歓喜」に、よく似ていた。
緊迫した空気を間に挟んで師弟は対峙する。
跳躍したのはほぼ同時。空中でアラシヤマの脚が風を薙ぎ、それを片腕で防ぎながらマーカーもまた、アラシヤマの空いた脇腹を狙って鋭い蹴りを放つ。二人とも相手の攻撃を紙一重で防ぎながら、それでも態勢を崩すことすらなく着地し、また互いに向かっていく。
技量はもとより対等ではない。しかしマーカーには課された制約があまりに多く、逆にアラシヤマはその全てから解き放たれている。
舞うような二人の攻防を追って、炎が軌跡を描く。
ほぼ白色に近い蒼の炎と、黄金にも似た橙の焔が交錯する。
それは、まるで夢幻のような光景だった。
だが、やはりその決定的な経験の差から、優位な立場を奪ったのはマーカーのほうだった。
瞬間の隙を捉え、アラシヤマを堅い石畳に叩きつける。動物はなんであれ、脊椎に強い衝撃を与えられればその後すぐに動くことはできない。
与えた衝撃をそのままに、マーカーはアラシヤマを地に組み敷いた。通常の戦闘であれば、完全なチェックメイトの状態だ。
だが、そうした状況にあってなお、アラシヤマは全身から放つ炎の温度を下げようとはしない。そのため、マーカーの両腕はアラシヤマを抑止するために働きを制限され、決定的な一打を打ち込めずにいる。
組み伏したその姿勢のまま、その間際でアラシヤマの炎を自らの炎で相殺しながら、マーカーはぎり、と奥歯を噛み締めた。これほどの炎を出し続け、その源となる命はあとどれだけ保つというのか。
「貴様の命は……こんな所で燃やし尽くすためのものではないだろうが……ッ」
限界という箍を外されたアラシヤマの炎は、マーカーですら長く抑え続けることはできない。弟子と戦いながら、初めて頬に一筋流れた汗を自覚する。
それでも、マーカーはアラシヤマを地に留めたまま、その無表情の面に向かって、一喝した。
「貴様が、命を賭してまで守りたかったものはなんだ!」
その瞬間、何も映すことのなかったアラシヤマの瞳が、僅かに、だが確かに―――揺らいだ。
しかしそれはほんの刹那。次の時、アラシヤマは右膝を師の腹部に入れようとし、それを避けようと抑えつけていた腕の力をやや弱めたマーカーを、反対に押し倒す。体勢が逆転する。
アラシヤマの超高熱をまとった右手がマーカーの左手首を掴んだ。ジュゥゥ、という肉の焦げる音がシンタローの元にまで届く。
「ぐ……っ」
「よせ!アラシヤマ!」
だがそんなシンタローの制止にも、苦痛を堪えるマーカーの表情にもアラシヤマは一向に反応を示さない。
二人の声はもう、アラシヤマには届いていない。
(―――聞こえねー、のか?なんで。テメエ、アラシヤマだろう?)
ストーカーで口が悪くて。性格も悪くて誰に対しても皮肉めいた顔して、人間の友達なんて一人もいなくて。
それでも自分が言うことならなんだって、ムカつくくらい嬉しそうに聞いて。
もし、万が一。マーカーが倒れることになって、奴が自分にすら向かってきたら。
その時、自分に残された手段は、この男が自分に牙を向けたその瞬間に殺すことしかない。その師ですら抑えきれなかったものを止めるには、シンタローにはそうするほかないだろう。
だが、そんな結末をシンタローはけして望んではいない。ふざけるな、と心の底から怒りが湧き上がる。
そう、約束したはずだ。あのときだって――――
***
ミヤギ、トットリ、コージの三人が笑顔でシンタローと約束を交わしたあと。アラシヤマはただ一人だけ、すぐにはそれに応じなかった。
深緑色の軍用コートのポケットに両手を突っ込んだまま、軽く俯いたその口元には皮肉な笑みが浮かんでいる。
シンタローが眉間に皺を寄せながら責めるようにそれを見ていると、アラシヤマは困ったような声で言った。
「―――わての命や。シンタローはんの頼みでも、そればっかりはなぁ」
「てめ……ッ!」
「それほど軽いもんでもないどすけど、あんさんになんかあったら、こんな命、いくらでも捨てたる思うてしまいますしな」
その時、ちょうど準備が整った艦から、四人に声がかけられる。
アラシヤマもまた、シンタローに背を向けて己が任地へ向かう艦へと歩き出そうとした。シンタローがその背中に向かってまだ何かを言おうとした、そのとき。
「ただ、できる限り、努力はしまひょ」
ひらひらと、ポケットから出した片手を何かの挨拶のように振りながら、アラシヤマは言い。
一度だけ、シンタローを振り向く。
艦のプロペラが巻き起こす風が、普段隠しているアラシヤマの両目を露わにして。
「あんさん、……泣かせたくはないどすよって」
らんぺき
そして藍碧の空と複数の輸送機器を背景に一瞬だけ見せた表情は、
いつもの根暗男と同一人物とは思えない、憎らしいほど鮮やかな笑顔だった。
***
充満する熱気。有機物の焦げる匂いが、シンタローの鼻をつく。おそらくつかまれた手首には酷い火傷を負っているのだろうマーカーは、下手をすればアラシヤマもろとも燃え尽きるのではないかというほどの炎を相殺するだけで、その場から動けずにいる。
その尖った顎から、前髪の先から汗を滴り落としながら、シンタローが叫ぶ。
「アラシヤマぁっ!テメエ心友なら、俺の声くらい聞きやがれぇぇぇ―――!!」
ホール中に響き渡る絶叫。
―――その時、その場の空気の流れが、すべて、静止した。
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