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 深い淵のほとりに、二人で立っていた。
 淵には深緑色の渦が逆巻いており、一度落ちたら二度と戻れないことは明らかだった。
 ああ、死ぬのだな、とぼんやりと思った。

「・・・・・・もう他に、方法がねーんだ」

 うつむいて、悔しそうに唇を噛み締めながら彼が言う。
 自分も彼も、身に着けているのは正規の軍服。
 自分は深緑。彼は紅。
 濃紺の闇に閉ざされた中で、彼の衣服は血に濡れたような艶を放つ。

「アラシヤマ・・・・・・」

 まっすぐな視線の強さはいつもとなんら変わらない。だが今は、その強さを更に上回る絶望が、瞳の中に居を同じくしている。
 その色はまるで嵐の中の凪のようで。
 こちらを見る彼の縋るような表情に、思わずこくりと喉が鳴った。

「・・・・・・そんなカオ、せぇへんといてや。わてはあんさんとやったら」

 たとえ地獄への道行きでも、喜んでお供するつもりなんどすから。
 そう言い切った言葉には、僅かの虚飾も含まれてはいなかった。
 彼は一瞬だけ泣き笑いのような表情を見せ、それから事前の約束どおり、その右手をゆっくりとアラシヤマのほうに差し出す。
 アラシヤマはその手をとり、自分の左手首に端切れで括りつけた。固く。何があっても解けないように。
 結ばれた手首から、彼の鼓動と体温が、直に伝わってくる。

「・・・今からでも、やめたい思わはったら・・・・・・」

 俯きがちにぽつりと呟くアラシヤマに、それ以上言わせまいとするように、彼はアラシヤマの言葉を自分の唇でさえぎった。
 酷くぶっきらぼうな口付けは、けれど確かな意思をアラシヤマに伝える。吐息を絡ませつつ離れると、こんな状況でも、彼は不敵な笑みを浮かべようとしていて。
 そんな彼の姿にアラシヤマは苦笑して、今度は自分から口付けた。そしてつながれていないほうの手に小刀を握りなおすと、彼の首筋に近づけ――。





 ぱちり、と瞼を開ければ、暗闇の中にいつもの自分の部屋の、灰色の天井が視界に入った。











『 黎明 』 











(――なんや、夢ですのん――・・・・・・て、当たり前か)

 急速に現実に引き戻されて、とりあえず枕もとの時計を見ると時刻はまだ六時だった。出勤予定時刻までは、一時間以上余裕がある。だが妙な夢を見たせいで二度寝する気にもなれなくて、アラシヤマはカシカシと髪を掻きながらベッドから身を起こした。
 まだ半分寝ぼけている頭を抱えて、漫然と浴室に向かう。
 意識した行動ではなく習慣としてシャワーの栓をひねり、頭から水を浴びると、徐々に頭がはっきりとしてくる。同時にそれまで見ていた夢のあまりのありえなさに、我が事ながら呆れてきた。
 確か昨日ベッドに入ったときにはすでに三時を回っていたので、眠れたのは実質三時間に満たない。それでも、夢の中では濃度の高いメロドラマが展開されていたようだ。
 シャワーから上がって髪を拭きつつ、その内容を反芻する。
 
(そもそも話自体、えらい陳腐やったなぁ・・・・・・。時代錯誤にもほどがあるっちゅうに)

 考えれば考えるほどつじつまの合わない夢だった。
 だが、そんな夢を見た原因ははっきりしている。昨日、一昨日と二日をかけて、任務の一環としてある要人に京の都を案内していた。もちろん護衛も兼ねた任務だったが、その中で一日目の晩に観たのが浄瑠璃の舞台だったのだ。
 追われ続けた主人公の男女二人が、最期は川に身投げをするという筋立てだった。
 案内役として解説できるよう事前に調べていたこともあって、存外話が頭に根付いていたということだろう。
 
(あの舞台は、確かに結構な凄みがあらはったしな。せやかて・・・)

 夢での配役は、かなり間違っていたと思う。
 仲間内では「俺様総帥」と異名をとるあのシンタローが、たとえ天地がひっくり返ろうとも、自ら死を選ぶようなマネをするはずがないのだ。更に言えば、自分をその道連れにと考えることは、輪をかけてありえない。
 それにもかかわらずああいった夢を見るとは。欲求不満か、と苦笑して、だが真面目にそれも否定は出来ないと思う。
 常に世界中を飛び回っている点は同じとは言え、シンタローとアラシヤマの任務や戦地が重なることはほぼ皆無に近かった。
 戦力の有効配分という観点からすれば、シンタローと自分を含む伊達衆が同じ場所に赴くのは、よほどの特殊な事情がない限り確かに非効率だ。ましてや最近はキンタローの存在もある。あの男が目付け役としてシンタローの傍近くに控えている限り、護衛としても自分が呼ばれる必要性はまずないだろう。
 そのことに関しては既にある程度割り切っている(もちろん顔を合わせるたびに嫌味を言ってはいる)と思っていたのだが、それでも一ヶ月以上の長期にわたって顔を合わせられないようなことが何度も続くと、さすがにつらいということなのか。
 
 ただ、今日は久しぶりに彼の顔が見られる予定だった。彼が率いた部隊が依頼を無事遂行したという報告は、昨夜本部に戻ってきたときに耳にしている。今度こそ延期はないはずだ。
 あんな夢を見たのは、それで浮かれていたせいもあったかもしれない。
 そんなことを思いつつ、アラシヤマはきれいにプレスのあたった深い緑色の制服に腕を通した。




***




 ちょうど午前の業務が終わりかけた頃に轟音とともに窓が揺れて、総帥帰還の報がガンマ団中を駆け抜けた。
 どよめく部下に対し、アラシヤマは即時休憩を言い渡す。自分の都合というばかりでなく(もっともそれだけのためにでもアラシヤマはその命令を出しただろうが)、部下の複数名は出迎えに行く必要があるのだ。それらの部下たちとデッキに出て一番に歓迎したい気分を抑えて、アラシヤマは一人、デッキから総帥専用通路でつながったエレベーターホールへと足を向ける。船着場は整然と並んだ団員で埋め尽くされていることだろう。戻ったばかりの彼とゆっくり確実に会話を交わすには、そこのほうがいいということをアラシヤマは熟知していた。

 ホールまで早足で移動し、しばらくのあいだそこで待つ。専用通路を抜けた先のデッキは総帥の凱旋に大騒ぎをしているようだった。それがひと段落着くまで待つこと数分。やがて銀色のリノリウムの通路に軍靴を響かせ、黒のコートを羽織ったシンタローが現れた。
 アラシヤマにとって都合のいいことに、シンタローは一人だった。きっと戦果報告や開発課への連絡をすべてキンタローに任せて、とりあえず総帥室に一度戻ろうと、ここまできたに違いない。

「おかえりどすぅvシンタローはん」

 まさか誰かが待ち構えているとは思わないこのホールで、いきなり京都弁の急襲に遭ったシンタローは、心底うんざりしたように顔をしかめた。

「チクショー、デッキで姿見えねえから油断してたらこっちかよ・・・・・」
「そら一月半ぶりの総帥のご帰還どすからなあv顔見てお祝いの一つも言いたくなるっちゅうもんでっしゃろ。――て、もしかしてわてのこと、探してくれはりましたの?」
「あーあーうぜえヤツがいる」
 
 誰にともなくそう言い放ち、スタスタとアラシヤマの横をすり抜けるとエレベーターのボタンを押す。シンタローの外出時から同階に止まったままだったらしい扉は、すぐに開いた。台に乗り込み、ちゃっかりと横についてきている根暗な「知人」の姿は視界に入らないよう努力する。しかし努力むなしく、普段ほとんど誰とも口をきかない(らしい)この男は、シンタローの前だと憎らしいほど饒舌になるのだ。

「ゆうべ、戦果報告書の内容聞きましたえ。さすがシンタローはん、あんだけの戦闘で敵にも死者にも死者ゼロ、味方にも重傷者二人、軽傷者数名なんて、ほとんど奇跡どすなv」
「まーな。それでも二人、出しちまったけど」
「そら高望みしすぎっちゅうもんですわ」

 十分すぎる戦果にも納得できていないシンタローに、アラシヤマは苦笑しながら答える。一個大隊にも匹敵するほどの連中を相手にしてあれほどの成果を出しておきながら、まだこの総帥は満足できていないらしい。
 ひととおり賞賛の言葉を口に上らせてから、ふと一週間前、総帥帰還延長の報を耳にしたときに感じた疑問をぶつけた。

「・・・・・・ただ」
「?」
「当初より、ちょっとだけ戻りの予定伸ばしはったんは、なんぞトラブルでもありましたん?」
「・・・・・・ああ」

 目敏いアラシヤマの質問に、ちょっとな、と答えるシンタローの表情がほんのわずか、曇る。同時に、かなりの高さまで上昇を続けていたエレベーターがようやく止まり、扉が開いた。
 アラシヤマの問いかけは出端をくじかれた形になり、二人並んで廊下に出て、総帥室に向かった。







 鈍く光る分厚い扉は、主の戻りをその網膜で知って瞬時に開いた。
 疲れているのだろうし、ソファで少し横にでもなればいいとアラシヤマは思うのだが、シンタローは迷いなく総帥室の黒い革張りの椅子に向かう。ただ疲れは疲れとして認識してはいるようで、崩れ気味に腰をかけた。机の上に片肘と顎を乗せ、もう片方の手で総帥の戻りを待ち構えていた書類の一部を、ぱらぱらとめくる。
 ココ
「本部で、特に変わったこともなかっただろ?」
「へえ。コレと言っては」

 アラシヤマは部屋の隅にあるミニバーでコーヒーを淹れながら答える。ま、わてやグンマはんらが留守預かっとるんですから当然どすけどな、とのたまうアラシヤマに、シンタローは「ずいぶん余裕じゃねーか」と唇の端を上げた。

「喜べヨ。来たる年末進行で、ちょっとでも滞った仕事全部オマエの部署にまわしてやるから」
「・・・ええどすけど、あんさん、ほんまにやりよりますからな・・・・・・」

 肩を落としつつアラシヤマは、濃い目に淹れたコーヒーにミルクを少しだけ垂らして、シンタローの前に置く。常にブラックを好む総帥は、カップの中身が白濁していることに軽く顔を顰めたが、嗜好はともかく疲れきった胃に直接のカフェインはよろしくない。と、ブラックをすすりながらアラシヤマは思った。

「で」
「ん?」
「さっきの話どすけど」
「ん――ああ」

 ミルク入りのコーヒーを飲みつつ書類をめくっていたシンタローが、おもむろに目線を上げる。

「初期の潜入工作も予定通りいったし、キンタローの奴の交渉のお陰で、向こうもうまい具合に頭に血が上ってくれて。おおむね順調だったんだけどよ」

 淡々と語るシンタローに、無言でアラシヤマは次をうながす。

「やっぱ、事前調査の甘さはあったな。次からはもーちょい厳しく言っとかねーと」
「それが、帰還が遅れた理由どすか?」

 腕組みをしてシンタローに片目を向けるアラシヤマの質問はあくまで直球だ。
 幾許かの逡巡のあと、さらに一、二回口を開きかけてはやめて。だが、いずれ詳細は団内の共有資料となるのだろうし、こうしたときのアラシヤマの追及からは逃れられないということに思い至って、シンタローは重い口を開く。

「――子供、が」

 そこで一旦区切って、アラシヤマの怪訝そうな視線を外すようにふいと顔を背けた。

「子供?」
「ちょうど、コタローくらいの年の子供が、『あっち』に居てさ」

 眼魔砲で一気に半殺しというわけにもいかなくなったのだとシンタローは言う。その口調と表情から、彼の言う「子供」が、民間人としてではなくその場にいたということはアラシヤマにもわかった。

「・・・・・・甘ぅおすなあ。あんさんは、ほんまに」
「知ってる」

 ため息を一つつき、遠慮なく本音を言ってのけると、シンタローは苦虫を噛み潰したような表情になる。
 途上国や、破滅を間際に迎えた小国を相手にしていれば、少年兵を相手にする機会など腐るほどあるだろう。元々彼らは「補充がきく」ということが何よりの存在価値だ。そこに彼らの意思がどういった形で介在している(あるいは介在していない)にせよ、あたら文明国ぶった常識にとらわれて年齢の幼さを情け容赦の対象とすることは、「少なくとも戦場では」間違っている。ガンマ団の敵はいまや、世間的にも認められる「悪者」のみと定義されているが、その対象がすべて職業軍人であるなどということはありえない。
 それらすべてを、アラシヤマは口にはしない。シンタローがそのようなマニュアルを知らないはずはなく、その上でどうしようもないということもまた、一応理解しているのだ。だが、漏れる嘆息を隠す気もなかった。

「そんなことばっか考えてはるから、また秘書課やらマジック様やらに過労の心配されるんどすえ」
「かもナ」
 
 シンタローはアラシヤマの小言を否定もせず、投げやりに机の上に上体を倒す。目を閉じ、組んだ両腕の上に片頬を乗せて呟くように言葉をつないだ。

「だけど、ああいうの見ると・・・・・・」

 一度閉じて、開かれた瞳は、ほんの一瞬だけ遠くを見るように茫漠とした色を映して。  

「この服着てからやたら痛てーこと多いし、今してることが本当に正しいのかどうかなんて、正直まだわかんねーけど」

 机に顎を乗せたまま、上目遣いにアラシヤマを見る。
 総帥の任についてからほぼ四六時中顰められているシンタローの眉が、ほんの少しだけ、情けなく下がった。


「やっぱ――殺せねぇわ。オレ」


 そしてシンタローは微苦笑する。
 その表情を目にした瞬間、アラシヤマはもう何も言うことができなくなった。

 理想論だという気は、如何として拭いがたい。彼とその父親と、上に立つものとしてどちらが正しいのか、アラシヤマにはまだ判断がつかずにいる。ただ、それでも。
 多くの運命を背負う彼の懊悩はけして軽いものではないはずなのに、その笑顔は、泣きたくなるほど明るくて。
 彼の思う未来は途方もなく険しくて――本当に、眩しい。

「――……」

 そのとき、やはり、今朝の夢は所詮夢だったと、アラシヤマは唐突に思った。
 あの夢には決定的な間違いがある。一月以上会わないうちに、こんな自明のことすら忘れていたというのか、と自らを哂いたくなるほどの。

 彼自身がそれを望むことがありえないという前提が一つ。
 だがたとえ、彼自身が心からそれを望んだとしても。


 何があっても、自分の目の前でこの人を死なすことなど、ありえない。

 
「なあ、シンタローはん?」
「んだよ」




「全部放り出して、死にとうなったら、どうかわてにゆうておくれやす」




 そのとき自分に、ひとかけらでも理性が残っているのなら。どのような手を使っても、自分は彼を生かそうとするだろう。たとえそれがどれほど残酷な行為でも。自分の命などいくらでも賭して。

 だから今朝見たのは、現実には起こりえない夢。

 それは、酩酊にも似て。目眩がするほどの幸福を感じた、あの瞬間の想いもまた、けして嘘ではなかったけれど。



「・・・・・・心中でもしようってのかよ?オマエ」



 シンタローは苦笑にも似た、不可解と呆れの入り混じった表情で自分を見る。

 その顔を目にしながら、アラシヤマはいつもの皮肉めいた笑いすら返さないまま、、そうさせてもらえれば本望どすわ、と静かに答えた。

























================================


すごい七転八倒的な変遷が随所にばれていて恥ずかしい。
最初はアラが心中迫るみたいな話だったんですが。あれ。
でもやっとなんか、矢島なりのアラシン観が見えてきたかもしれませぬ。
SSの書きかたも、ちょっとずつ思い出せてきてると、いいなあl。








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 目が覚めたら太陽は既に高く上っていて、遮光カーテン越しにもうっすらと入り込んでくる日差しの色でそれはわかったのだが、それがわかったところでどうすればいいのかはわからなかった。
 時刻は昼前。そして、これからの予定はない。
 それはアラシヤマにとって久しぶりの――本当に久しぶりの、完全なオフだった。









『休日』









 十月の後半、ガンマ団には一日の公休日が設けられている。
 世界各国から構成員を集めているガンマ団は、特定の地域や宗教に由来した休日を作っていない。一般の企業集団とは異なるその性質から、当たり前と言えば当たり前のことでもあるが、代わりに独自の公休日を年に幾日か設定していた。
 年間を通しても片手の指で足りるほどの日数。だがそれでも、一日の休みがあるとないとでは大違いだ。そのあたりの団員の心を、人身掌握術にも長けていた前総帥は、きっと見通していたのだろう。

 とはいえ、前線に赴いている人間たちにとっては知ったことかという日でもある。
 色々な連絡役を果たす人間やシステム関係の人間など、休みを取れない者達もいる。アラシヤマも今までの休日のほぼすべてをそれで潰してきた口だ。
 だが、今日ばかりは事情が違った。
 何せ総帥じきじきに言われてしまったのだ。
 「オマエ、今度くらいは休めば。てか休め。総帥命令」と。

 たとえその理由の大半が団員の勤務時間を掌る「管理部からの苦情」であったとしても、彼の総帥がほんのわずかでも自分の体を慮ってくれたのだと思えば、舞い上がるなと言うのが無理な話で。
 へえっ、と上ずった声で、よい子の返事をしてしまった。

 そして、今日に至る。
 とりあえず起き上がり、部屋着のまま簡単な朝食の用意をする。
 簡単なそれを摂りながら久しぶりにテレビなどつけてみた。
 アラシヤマは、普段、ほとんどテレビというものを見ない。寮の各室には三十インチの液晶テレビが据え付けられているが、アラシヤマの部屋のそれは、はっきり言って不遇な運命だ。
 たまにはいいかもしれないとつけてはみたものの、やはりというべきか、さして興味を引くものもなかった。
 国内外を問わず大きな事件などがあったときには、コトが起きた瞬間に各国の通信社や諜報部から直接、部屋に置いてある端末を通じて情報が流れるようにしてある。そのため、ニュースで報じられていることですら、すでに知っている内容ばかりだ。加えて「常に誰かがそばで喋っている」(ような気分になる)テレビの音がどうしても落ち着かない。
 結局、すぐに消してしまった。
 朝食の片づけを終え、これからどうしよう、と思ったときに途方に暮れた。休みというものがあまりに久しぶりすぎて、過ごし方がわからない。
 一日中寝て過ごすのもいいか、などという考えが頭をよぎるが、さすがに不毛すぎると思い直した。
 なにせシンタローからもらった休日なのだ。多少は充実させなくてはという思いはある。

(まあ、せっかくのええお天気やし・・・。散歩がてら、街にでも)

 考えに考えた挙句の結論は、ごくありきたりなものに落ち着いた。
 





 黒のパンツとジャケット、というよく言えば極めてシンプル、悪く言えば没個性な格好に着替え、表に出る。制服用の重い革靴ではなく、スニーカーを履いたのもだいぶ久しぶりで、やけに足が軽い気がした。
 団の施設を出て、てくてくと歩きながら一番近い公共機関の駅へと向かう。
 一番近いとはいえ、駅まで三キロほどの道のりはあり、通常は車を使って移動している。だが、今日は急ぐ理由もない。どうせ散歩がてらの外出なのだし、そのくらいは歩いてもいいと思った。
 風がさぁっと横を吹き抜けていき、半面を覆う長い前髪を弄る。気温は少し肌寒いくらいだが、秋が深まるこの季節が、なんとなくアラシヤマは好きだった。
 そして気持ちいいと思う分だけ、そんな日を一人で過ごしていることに、ついため息が出る。

(やっぱり、シンタローはんと過ごしたかったどすなあ・・・)

 休め、と言われたときに、ダメで元々と思いながらも、誘うだけは誘ってみたのだ。
 それなら、共に過ごしてはくれまいかと。
 だがシンタローの答えはきっぱりとしたもので。午前中は前線で働いている団員の元に視察に行く。戻る時間はわからない。もし早く戻れてもたまっている書類を片付けると、付け入る隙もなく断られてしまった。
 部署にも上がってくんじゃねえぞ電力消費の時間帯がおかしいって管理部から文句言われんのは俺なんだよ、と一息に言われ、せめて本部で待っててもいいかと尋ねようとしたアラシヤマの希望は、口にする前に潰えたのだった。


 
 のんびりと歩いて、それでも三十分足らずでアラシヤマは駅に着いた。支給されているパスで改札をくぐり、地下鉄で十五分ほどの近郊で一番近い都市に出る。
 平日の昼間という時間帯のせいか、思ったより人通りは多くない。スーツ姿の会社員や、普段は見慣れない色とりどりの洋服を着た若者達と時々すれ違うくらいだ。そんな中、黒の上下を着たアラシヤマはふらふらと歩く。
 この街の端には広大な敷地を持つ緑地公園がある。足は自然とそちらに向かっていた。
 公園にはアラシヤマがこっそり名づけた木々や岩石の「友達」がいて。
 彼らにもずいぶんとご無沙汰をしている。久闊を叙し、楽しい語らいの時間をとろうと考えたのだ。
 

 だが、それらの友達に出会う前に、アラシヤマはあるものに惹かれた。
 公園の一角にある広場で、何やら多くの露店が開かれている。どうやら今日はフリーマーケットの開催日だったらしい。
 対人コミュニケーションの極端に不得手なアラシヤマである。
 食材や薬剤などの買出しならともかく、服や雑貨の買い物などは特に苦手とするところだった。そのため普段から買い物は団を通しての通販に頼っている。だが。

(普通のデパートやらなんやらは緊張してなかなか入られへんけど、こういうとこやったら・・・!)

 綺麗に着飾ったマヌカンもいないし、何より屋外なので、逃げようと思えば簡単に逃げられる。
 フリーマーケットにしては静かな、その雰囲気にも後押しされて。
 アラシヤマは常にない積極性を持って、広場に足を踏み入れた。






 露店の数は大体百前後といったところだろうか。
 地面の上にシートを引き、衣服や雑貨などを並べている店を横目で眺めながら、アラシヤマは歩く。店によっては積極的に客と交渉をしているところもあるが、アラシヤマは極力そういうところは避けて見ていった。
 中には古書や、用途のわからない骨董を置いているような店もあり、そんな店は純粋に面白いと思う。ただ、やはり買い物に至るまでコミュニケーションをとることはアラシヤマにとってかなりの難題だった。
 ある店主不在の雑貨店の前で、珊瑚らしき石のついた耳飾を見ていたときは、師匠などによく似合うのではないかと考えていたのだが、

「それ、どう?似合うと思うわあ」
「ひえっ?!」

 唐突に背後から声を掛けられて、三十センチほど飛び上がった。
 戻ってきたばかりの若い女性の店主は、そんなアラシヤマの行動にも動じず、にこやかに商談に入ろうとする。

「おにーさんきれいな顔してるから、そういうシンプルなの、映えるわよぉ。ちょっと試してみない?」

 こうした場では極めて普通の会話であるが、アラシヤマの顔からは一斉に血の気が引く。

「わ」
「わ?」

「わわ、わ、わては、け、けっこうどすぅぅッ」
 
 数歩後ずさりながらそれだけをようやく言って、飛ぶようにその場から逃げ出した。


 そんなことを数回繰り返し、結局何一つ買い物は出来ないままにアラシヤマは広場をほぼ一周していた。

(はぁ・・・・・・やっぱり、人と話すんは苦手どす・・・・・・)
 
 ため息混じりに肩を落としながら出口に向かう。
 だがそのときあるものが目に付いて、アラシヤマはふと足を止めた。


 それは様々なガラクタの中に、ちょこん、と鎮座している黒猫の小さな置物だった。


(ん?なんか・・・・・・ええ味出しとりますな)

 店員を見てみると、丸いメガネをかけた人の良さそうな好々爺。
 その酷く細い目は起きているのか眠っているのかの判断もつかないほどで、それがむしろアラシヤマを安心させた。
 猫を手にとって、間近に見てみる。
 店主がのんびりと話しかけてきた。

「兄ちゃん、どうだね、それ」
「へえ。可愛いらしゅおすなあ」
「黒猫のくせに、憎めない顔をしてるじゃろ」
 
 にっ、と笑いながら店主は言い、つられてアラシヤマもつい表情を綻ばせる。

「中東のほうの工芸品だ。気に入ったなら、安くしとくよ」
「おいくらどす?」
「いくらなら出すね?」

 逆に問いかけられる。
 アラシヤマが少し考え込んだ後に装飾品として妥当だろうと思われる値段を言うと、それでいい、と老人はあっさりと了承した。
 やや拍子抜けしたものの、言い値でよいのなら、嬉しくないわけがない。
 じゃあいただきますわ、と告げて金額を差し出す。はいよ、と答えた老人は黒猫を小さな茶色い袋に入れて、紙幣と交換した。



 やっと一つの買い物が出来たアラシヤマは、広場を出た後、その場にあったベンチに座り、改めて戦利品を嬉々として眺めた。十センチメートルほどのその磁器は、飾り物にしては鋭い目つきをしているが、なんとも言えない愛嬌がある。
 だが、じっと眺めているうちに、アラシヤマはその置物に惹かれた理由がわかってしまった。
 この不敵な風貌には、「ある人間」の面影がある。
 それに気づいて、アラシヤマは思わず一人で笑う。

(なんやこれ、シンタローはんに似とるんどすわ・・・・・・)

 
 思い出してしまったのが、よくなかった。


(――あ)

 その瞬間、思いがけずにドクン、と心臓が跳ね上がった。
 まずい、と理性が警鐘を鳴らす。
 だが一度速度を増した鼓動は、もう自分の意思ではどうしようもなくて。

(――あかん) 

 だめだだめだと思いながらも、抑えきることが出来なくなった。






――――――――会いたい。









 思ったときには、すでにアラシヤマは駅に向かって歩きだしていた。



 来たときの倍以上の速さで駅まで戻り、ほんの二時間ほど前に来たばかりの路線を戻る。
 改札を抜ける瞬間、そばにいた中年の女性に肩がぶつかりそうになって、あわてて会釈した。
 どうやらかなり早足になっているらしい。
 気持ちばかりが逸って、抑えていなければ駆け出しそうだ。
 今の時間だったら、もしかしたらもう戻っているかもしれない。戻っていないかもしれない。それでも。
 


 駅前に止まっている車を捕まえ、団へと急ぐ。
 門の入り口で車を飛び降りて、セキュリティーカードを通すのももどかしく、通用門をすり抜けた。
 一度寮に戻って着替えてからのほうがいいか、という考えが瞬間的に頭をよぎったが、結局無視した。
 本部棟の、最上階をひたすらに目指す。
 すれ違う人間はほとんどいない。団にとっては年に片手の数もない公休と言うこともあり、私服姿のアラシヤマを咎める人間もいなかった。

 

 それでも、きっとあの人はそこにいるはずで。
 どうか視察が長引いたりしていないように、急なパーティなど入っていないように、と切実に願う。

 

 最上階でエレベーターを降り、早足で廊下を過ぎ去って、そして総帥室のドアの前。
 一回だけ深呼吸をして、それからノックもせずにその扉を開けた。

 果たして、紅い制服をまとった彼はそこにいた。






 書類の山を前にして、ぼんやりと紫煙を燻らせていた総帥は、目を丸くして予想外の来客を見る。

「アラシヤマ?!てめ、オレがあれほど・・・・・・!」
「へ、へぇっ!そうなんどすけど・・・」

 その叱責を耳にした瞬間、それまで逸る気持ちに任せて早足になっていた分も合わせてアラシヤマの顔に一気に血が上った。
 あれほど会いたかった人なのに、いざ顔を見てしまうと、いったい何を言えばいいのかもわからない。
 おろおろと常にも増して挙動不審になったアラシヤマは、ふと手の中にある紙袋の存在に気づいて、

「ここここれ!あげますわ」
「・・・・・・?」

 ばっ、とシンタローの前に先ほどもとめたばかりのそれを差し出した。
 シンタローは困惑した表情のまま紙袋を受け取って。とりあえず中を見て、よりいっそう戸惑いを深めた表情になり。
 その様子を見て、アラシヤマの顔がますます赤くなる。

「ありがとお・・・?て、コレ渡すためだけに来たのか?オマエ」
「や、いや、ええと。そうやなくて、どすな」

 わたわたと、手を振りながらシンタローの言葉を否定し――それから、がくりと肩を落として、やや俯きがちになる。
 呟くような小声で言った。


「シンタローはんに」


 ああもう、自分は本当におかしくなっている、と思う。
 それは白旗宣言にも等しい、今更の告白。


「会いとお、て」


 こんな、顔を見ただけで涙が出そうになるくらい、この人に、ただ、会いたかったのだ。
 

 そんなアラシヤマの衝動など理解できるはずもないシンタローは、呆れきったようにため息を吐く。

「アホか、明日になりゃ会議で嫌でも顔あわせんだろーが」
「せやけど」

 アラシヤマはふらり、と一歩を踏み出して。そして椅子に座ったまま自分を見上げるシンタローの前まで近づく。


「――ぎゅって・・・・・・しても、ええでっしゃろか」


 途方にくれた捨て犬のような目をして、アラシヤマはシンタローを見る。


「・・・・・・だめだっつったら、やめんの?」
「そんなん、無理に決まっとります・・・・・」
「じゃあ、聞くんじゃねェよ、アホ」



 その言葉を聴いた瞬間、アラシヤマは座ったままのシンタローを、かき抱くようにして抱きしめた。
 シンタローは少しの間目を開けたままアラシヤマの肩越しに総帥室の壁を眺めていたが、やがて目を閉じ。
 仕方ねえなといわんばかりにアラシヤマの背中に手を回し、ぽんぽんと幼子をあやすように叩く。
 それだけで、アラシヤマはあまりの幸せに本当に泣きそうになった。
 

 休日より何より。
 こうしてこの人の傍にいられることこそが、何よりの自分へのご褒美なのだ、と思いながら。













 黒猫はそれから幾度かの引越しを経て、総帥室の棚の中に居場所を見つけることになるのだが、それはまた後日の話。























================================






アラはfunnyでありそれ以上にmadでeccentricがいいんですが。
矢島が書くと単なるstupid(おばかなこ)になってしまうのがトホホのトホホたる所以です。
けど恋してしまえばこんなもん。かもしれない。(と言い訳してみる)






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 総帥室に足を踏み入れたとき、仄かに甘い薫りがした。

 花の薫りのような、薄いけれど、ふわりと漂う甘さ。

 だが室内に花の姿は見当たらない。

 それはある初夏の日のこと。











 『Cherry』











「総帥、なんや香水でもつけてはります?」


 普段そういったものを身につけてないと言うことは知っているが、とりあえず。
 
 机に向かっている紅い服の男に問いかけてみる。

 だが、彼からの返事はない。

 総帥は難しい顔をしたままあさっての方向を見て、なにやらもごもごと口を動かしている。


「・・・・・・シンタローはん?」


 再度の呼びかけにも答えずに。

 アラシヤマは諦めたように一つため息を吐いて、持ってきた書類をシンタローの前にどさりと置いた。

 そして腕組をしたまま待つこと一分ほど。

 ようやく発された総帥の言葉は、


「あーーだめだっ!できねぇ」


 ――だった。

 紙に何かを吐き出し足元のゴミ箱に放り込むと、ひどくつまらなそうな顔で机に突っ伏す。


「できないって、なにがどす」


 シンタローはその問いに直接的には答えずに、ただ手元に置いていたらしいガラスの器を、どん、と机の上に乗せる。


「ああ。さくらんぼでしたん、この薫り」

「さっき、秘書が実家から送ってきたって、持ってきたんだけどよ」


 ボウルほどの大きさのある厚手のガラスの器には、粒の揃った綺麗な朱色のさくらんぼが山と盛られている。


「昔、あっただろ?さくらんぼの柄を口ン中で結べるとキスがうまいって」

「はぁ、そうですの?わてはよく知りまへんけど」

「あったんだよ。で、ソレ思い出して。学生の頃はできなかったけど、今だったら、出来るようになってるかと思って」


 やってみたのだが、またもや撃沈した、ということらしい。

 その話を聞きながら、アラシヤマはほんの少しだけ考えるような素振りを見せ。

 それからひょい、とガラスの器に手を伸ばした。


「一つ、もらいますえ」


 実の部分を手でちぎって、柄だけを口に入れる。

 かかったのは、ほんの五秒ほど。

 べ、と出した舌の上にはきれいに中央に結び目のついたさくらんぼの柄が乗せられていて。


「早っ!」


 そのあまりのスピードと正確さに、皮肉を言うのも忘れてシンタローの目が丸くなる。


「思ったより、簡単どすな」

「・・・・・・~~ッッ」


 淡々としたその物言いに、それまでかなりの時間を同じ作業に費やしてきたシンタローの顔が、見て取れるほど不機嫌そうになった。

――アラシヤマのくせになんで出来んだヨお前こっそり隠れて練習とかしてたんじゃねぇのキモい。

 机に片肘を突いたままブツブツとそんなことを言うシンタローの表情は、まるで子供じみていて。

 アラシヤマから見るとなんともかわいらしい。

 思わず、シンタローのすぐ隣まで歩み寄って、す、と身をかがめた。

 
「別に、キスなんて、上手くなくてもええやないどすか」

「・・・・・・フォローにも何にもなってないぞ、オマエ」

「シンタローはんは、いっつも」


 ありありと不満げなシンタローの言葉はあえて無視して、その頭上、間近いところで囁く。


「たどたどしゅう応えてくれはるのが、あんまり可愛ゆうて、ドキドキしますえ」


 低音でゆっくりと告げられるその言葉の内容に、シンタローの顔が怒りと羞恥で赤くなった。

 だが、至近距離で睨みつけるシンタローの双眸ですら、アラシヤマは苦笑で流す。


「せやし、そう拗ねんといて。シンタローはん」

「誰が。拗ねてなんか・・・・・・」

「昔、師匠に言われましたわ。わては舌が普通よりちょっと長いから、器用なんやないかて」


 それだけのことどす、と言い、指をシンタローの顎にかけ、顔を自分のほうに向けさせた。

 シンタローの瞳はしっとりと、心持ちいつもより潤んでいるように見える。


「なんにせよ、わてにとっては、シンタローはんとのキスが一番、気持ちええんどすさかい・・・・・・・」

「アラシヤマ――・・・・・・」


 そしてその指はシンタローの顎から頬へとゆるやかな曲線を辿って滑り――


「――なんでマーカーが、お前の舌が器用だなんて、知ってんの?」

「へ?」


 シンタローの問いかけに、ぴたりと止まった。


 その行動と、二十センチと離れていないアラシヤマの目から導かれる結論は、明らかすぎるほど明らかで。

 シンタローは極上の笑みを浮かべ、ゆっくりと右手をかざす。



「オマエって、ほんとにいっつもツメが甘いよな。――――眼魔砲」










***










 ぶすぶすと燻るアラシヤマの残骸を足元に見下ろして、シンタローはつまらなそうに息を吐き、さくらんぼの実を一つ口に入れた。

 走りのさくらんぼの甘さは淡く、ほんの少しだけまだ酸味が残っている。

 正直、アラシヤマとマーカーの間に、そういったことがあったのかどうかなど知ったことではない―――ただ。

 師匠、と口に出すときの、らしくなく穏やかな自分の目の色に。

 たとえそれが自分の思い過ごしだとしても、これだけ指摘しているのだから、コイツもそろそろ気付いてもいいはずだ。



























===================================================




タイトルはそのまんまですが+「経験不足」(スラング)の意味で。
季節はずれのお約束テンプレートでごめんなさい。
でも楽しかったし書くの早かったヨ・・・。ベタな話が大好きです。


















cv



(彼に) 

 見て欲しい。
 触れて欲しい。
 名を呼んで欲しい。
 頼って欲しい。
 縋って欲しい。




 受け入れて欲しい。








(彼を)

 触りたい。
 口付けたい。
 守りたい。
 壊したい。
 狂わせたい。




 手に入れたい。 











 この欲を、あえて呼ぶならば、きっと。










 Si on juge de l'amour par la plupart de ses effets,
 il ressemble plus a la haine qu'a l'amitie.

















『その名を』


















(――あ、シンタローはんや)

 長い廊下を移動する最中。眼下に見えた中庭に、珍しくシンタローの姿があった。いつもどおりの紅い総帥服に、鈍い光沢を持つ黒皮のロングコートを颯爽と羽織り。長身の彼はきっと意図せずに、しかし傍から見るといかにも悠々と、芝生の中を一直線に走る舗装された道を闊歩している。
 傍らには補佐役として頭角を現しつつあるキンタローがついて、手に持つファイルを時折覗き込みながら、シンタローと何かを話している。首を軽く動かすたびに、陽光を浴びた明るい色の金髪がさらりと揺れた。今の時期だから、次の期の予算編成あたりの草案を練っているといったところだろう。

(移動中にまで、熱心なことどすなぁ)

 やや皮肉めかしてそんなことを思う。その対象はもちろんシンタローではなく、彼のそばでかいがいしく世話を焼くキンタローだ。
 四六時中行動を共にしていてなお、移動の時間すら惜しまなくてはならない。それだけの分量の仕事を二人が抱えていることなど百も承知で。それでも、こうして見ていると本当に秘書ででもあるかのようなキンタローの影ぶりに、ついそう思わずにいられなかった。

 アラシヤマの視線の先、遥か下方で、キンタローがふとシンタローの耳元に口を寄せ、何かをささやく。
 それにシンタローは苦笑を返し。キンタローの持つファイルの一ページを指差しつつ何かの説明を始める。

 その光景を目にした瞬間、ほんの少しだけ、側頭部にずんとした重みが加わったような気がした。

(なんやの、これ。―――別に、いつものことやないの)

 その重さを、嫉妬などという幼い感情だとアラシヤマは思いたくなかった。
 キンタローは紛れもないシンタローの「家族」であり、そして過去の全てを共有した「もう一人のシンタロー」でもある。あの島から帰還した後、それなりの紆余曲折はあったが、いまやキンタローは時として一人で走り出すきらいのある新総帥の補佐役を、アラシヤマでも認めざるを得ないほど見事に務めていた。
 それでも、この世に現れてまだ数年という経験不足から時に出る疑問は、稚児にも似た無邪気さで。それがシンタローを和ませる役割を果たしていることも、知っている。
 青の一族の堅固な結束はアラシヤマも嫌と言うほど理解させられており、今更二人の間をどうこう言うほど、分別を失っているつもりもない。―――と、いつもは、そう思っていたのだ。確かに。
 
 紅い総帥服の男とダークグレーのスーツを着た男の二人は、明るい緑の中を子犬がじゃれあうように歩いていく。
 その姿が別棟の中に入り完全に見えなくなるまで、アラシヤマは言いようのない重みを頭に抱えたまま、リノリウム張りの廊下に佇んでいた。








***








「ひきこもり、おるだぁか?」
「……その呼び方、失礼ちゃいますん?忍者はん」

 午後一番の部署への来訪者に、アラシヤマは机の上に肘をつき、ペンを手にした態勢のまま顔を上げる。
 昼休みを返上して先ほどまで専念していた仕事にようやく片がつき、次の件に取り掛かろうとした矢先のことだ。集中力を途切れさせられたことに対し、明確な棘を含ませた声で来訪者に不快感を示す。だが手に何冊かのファイルを抱えた童顔の同僚は、そんな棘など一行に気にならない様子で、つかつかと部屋の再奥に位置するアラシヤマの机へ歩み寄ってきた。
 これからシンタローんとこに報告書持ってかんといかんのだけど、と前置きしてから、同僚は手に持つ書類の一束をバンッと音を立ててアラシヤマの机に置く。

「そん前に今日という今日はヒトコト言わせてもらうっちゃ――アラシヤマ、さっきよこしたこれぁ、一体どういうつもりなんだいや」
「質問の、意味がわかりまへんな」
「この、次の合同任務のおめぇんとこからまわされてきた事前調査書。特に、備考欄」

 アラシヤマはちら、とその書類を一瞥し。それからまた童顔の同僚に目を向ける。

「簡潔に、よぉまとまっとるやないの」
「簡潔すぎるんだっちゃ。普通の人間に読めるもんじゃないわいや」

 十センチの身長差から、時折口論をする際はいつも上目遣いに睨みつけてくるトットリは、今は冷ややかな視線でアラシヤマの顔を見下ろしている。すっと伸ばした指で卓上を示して、先ほどアラシヤマが打ち込んだばかりの書類に苦情を寄せる。

「ミヤギ君やコージに回す分には気色悪いくらい丁寧に書き込んどいて、なんで僕んとこだけこんなワケのわからん数字と記号の羅列なんだらぁか」
「あれはあんお人らの頭に合わせて書いとったらそうなっただけどす。――ああ、そうそう、あんさんは多少は見込みがあるってことでっせ」

 明らかな仏頂面をする年下の忍者に、アラシヤマは口の端だけを引き上げる独特の表情で返した。
 調査書の書き方自体は団内のセオリーから外れているわけではない。ただ一般的なそれよりも、間を補う言葉が少ないだけだ――ほんの少しばかり、極端に。
 多少は故意でしている部分はあるが、過失ではない。それが最も効率のよい書き方であることも、真理ではある。トットリの抗議はある程度は想定内ではあったが、お門違いの文句と言い張ることもできた。

「それにどすな」

 軽く弄んでいたペンを机の上に置き、組み合わせた指の上に顎を乗せて口元に薄っすらと低温の笑みを刻む。

「わんこの調教はまず記号から、て昔、士官学校でも習いましたやろ」
「……残念だっちゃね。今手持ちが少ないけ、そげな粗末なケンカを買うとる余裕はないっちゃ」

 もうすぐにでもシンタローの元へ行き、せめて自分のところの調査書の内容を説明しないといけない、とトットリは言う。それはトットリ自身の都合もあれば、シンタローの寸暇なく詰めこまれたスケジュールのせいでもあるということは明白で。あと五分足らずでぴったりと数字に短針を止める腕時計に視線を走らせてから、トットリはアラシヤマに向き直った。

「とにかく、おめぇんとこの部分の説明は後から改めて書面起こすなり何なりしてシンタローに渡しときいや。僕ぁそんな暗号の解読は出来ん」
「新総帥なら、これ見ればすぐ理解しはると思いますけど……まあええわ」
 
 最後通牒のように言い放ったトットリにほんの少しだけ眉を上げ。机の上に叩きつけられた書類を手にして、アラシヤマは椅子から立ち上がる。 

「後からやなんて二度手間や。丁度こっちのキリもええとこやし、わてがシンタローはんに直接説明します。もし必要だったら、どすけどな」
「……」
「なんどすの、その露骨に嫌そうなカオ」
「……アラシヤマなんて連れて行ったら、ただでさえぴりぴりしとるシンタローの機嫌が、余計悪くなるっちゃ」
「燃えとき――と言いたいところどすけど、紙無駄にしたら元も子もあらへんよって、後にしてあげますわ。ほな、行きまっせ」
 
 ブツブツと小声で文句を言い続ける忍者の抱えているファイルの上に、つき返された書類を改めて乗せる。そして自分は胸ポケットにペン一本だけを差し込んで、アラシヤマは本部最上階の総帥室へと足を向けた。








***








「あれ?ミヤギくーーんv」
「トットリぃ!……と、アラシヤマ?何でおめ、トットリと一緒に居るんだべ」
「あんさんの『べすとふれんど』が、調査書の読み方もわからへんて、わてに泣きついてきたんどす」

 総帥室の中に入るまでもなく、シンタローとキンタローは部屋の前の廊下で立ち話をしていた。
 そこにはもう一人意外な人物もいて、その姿を認めた瞬間、隣に居たはずのトットリが親鴨を見つけた小鴨のように彼の元に駆け出す。アラシヤマも、久々に顔を合わせる総帥に同じように駆けつけようかと一瞬考えたのだが、先を越されて出端をくじかれたこともあり、なんとなく無言でその後を追ってしまった。
 金髪と黒髪の自称ベストフレンド同士は、どうやら久々の邂逅だったらしく、TPOを完全に無視してきゃっきゃっとじゃれ合っている。二人のその様子を苦笑するように眺めていたシンタローが「オイ」と一声かけると、我に返ったようにミヤギがシンタローに向き合って、軽く手を振った。

「オラの用はもう終わりだべ。てことでシンタロー、あとはよろすぐな」
「ああ、ご苦労さん。で、次はトットリか。それ、資料だよな」
 
 シンタローが小脇に抱えるファイルを指差しつつ確認すると、トットリもようやくシンタローのほうに注意を向け、仕事中の表情に戻る。

「そうだっちゃ。こっちが終わった任務の報告書。で、こっちが次の任務の件、アラシヤマが調べた分と、僕んとこの合わせて渡すっちゃね」
「終わったほうは大体もう聞いてるからいいとして、次のヤツだけ、ここで確認していいか?悪ィけど、ちょっと時間なくてな……」
「僕ぁ構わんけど……」 

 正直、説明なしでわかるとは思えないっちゃ、とトットリはチラリと横に立つ同じ制服姿の男に目をやる。アラシヤマは涼しげな表情で、トットリのほうに視線すらよこさず、ぱらぱらと書類をめくるシンタローを見ていた。
 全部で十七枚に渡る上層部用の書類。その後半部分、つまりアラシヤマが担当した箇所を読んでいたときに若干眉を顰めたが、それでも最後のページまで目を通したらしいシンタローは、書類の表表紙をとん、と右手の甲で叩き、

「ん。そんじゃコレは受け取っとくぜ」

 さらり、と言った。

「ええ?!ほんとにわかったんだわいや?」
「と、思うぜ?――けど、根性悪い書き方してやがんな」

 まあアラシヤマの書く文章なんて大抵こんなもんだろ、とシンタローは平然と言う。その横ではミヤギが「オラんとこにくんのはえらいわかりやすいべ」と不可解そうな顔をしていた。アラシヤマはそら見たことか、とトットリを一瞥する。根性の悪い書き方という言われようには、多少の自覚があっただけ、ほんの少しバツの悪い思いをしたが。
 トットリは僕には理解できんっちゃ、とまだ納得のいかない表情をしていたが、すぐに思考の半分以上をミヤギに向けたために、それ以上蒸し返すこともしなかった。 

「そっでも、もし細かいとこで説明とか直しとか必要だったら、また連絡してほしいっちゃ」 
「おー……ま、多分大丈夫だろ」

 口元に笑みを浮かべながら、シンタローは答える。それを打ち合わせが速やかに終了した符号と認識してか、キンタローが仕立てのいいスーツの袖から覗く腕時計を、ちらりと見た。

「シンタロー」

 その呼びかけだけで、シンタローはキンタローの意図するところを察して頷く。
 そしてアラシヤマを一顧だにせず、次の移動場所へと向かう―――キンタローに促されるままに。
 無言でそれを見送るしかないアラシヤマの隣では、飽きもせず自称ベストフレンド同士がじゃれあいを続けており。

「ミヤギ君、この後仕事は一杯だかいや?」
「いや、十五分くらいなら空けられるべ」
「じゃあ、食堂でお茶でもすっだわいや」

 そんなことを楽しげに話し合いながら、エレベーターホールへと足を向けようとしている。

(―――いつもの、ことや)

 なのに今日はどうして、これほどまでにこの親友たちの声が、耳に障るのだろう。




 それは考えた行動ではなく。
 気付けばアラシヤマはトットリの襟元を掴み、強く引き寄せていた。










「んンッ……!?」

 その行動は、その場に居た者全員にとって、完全に予測がつかないものだったといっていい。
 当然のごとく油断しきっていた童顔の忍者の顔を、襟首を掴むという方法で力づくで引き寄せたアラシヤマは、噛み付くような強さでその唇に口付け、乱暴に口内に舌を挿し入れた。

 アラシヤマの行為は、あまりに常軌を逸していた。最初は何の冗談かと目を丸くしていたミヤギとキンタローだったが、やがてその口付けがあまりに長く、しかも冗談では済まないくらいに深いこと、トットリが本気で苦しそうな表情をしていることに気づき。
 まずミヤギが我に返り、顔色を変えた。
 アラシヤマの肩を、思わず手加減なしで掴む。それでもアラシヤマは、執拗にトットリの口内を荒らそうとするのをやめずに。

「…男同士のキスシーンを見るのは初めてだ」
「アホなこと言うとらんで手伝うべキンタロー!」

 相変わらず呆然と事の成り行きを見守っているキンタローに、いつもなら上層部に一応の礼儀を示しているミヤギの口調が、一瞬だけでもあの島に居た頃のように戻った。それにようやくすべきことを理解したキンタローが加勢に加わり、二人がかりの腕力にものをいわせ、やっとアラシヤマを引き剥がすことに成功する。
 
 シンタローは木偶のようにその場に突っ立ったまま、呆然とその光景を眺めるしかなかった。
 ぜえぜえと荒くなった呼吸をなんとか回復させたトットリが、口元をなんども拭いながら怒りに顔中を朱に染めて叫ぶ。

「な、なにするんだっちゃわいや!!」
「大丈夫け?トットリぃ」

 怒るべきなのか笑い飛ばすべきなのか、困惑した表情で親友を見るミヤギ。キンタローもまた、常時泰然としている表情を崩して、眉を顰めている。

「アラシヤマ、今のはなんだ?俺の認識が正しければ、それは冗談にしても随分悪質の類だ。いいか、冗談でも……」

 だが、それら自分を咎める声は耳にすら入っていないような様子で、アラシヤマの視線は、ただシンタローのみに向けられていた。
 シンタローは何も言うことができなかった。正直に言えば、わけがわからなかった。アラシヤマがいったい何を思って今の行為をして、そして何を考えてそれほど縋るような目で自分を見ているのか。
 わかるのはただ、やたら気分が悪いということ。
 苦いものを無理やり飲み込まされたような気分で、だが唇は強張って何を言葉にすることもできない。ふざけるのもいい加減にしろと怒鳴ってやればいいのだろうか。それとも、いつものように、無言で眼魔砲を?
 だが、どの対応も、この場にふさわしいものではないと思った。むしろこれは―――応じたら、負けだ。
 
 硬直した場の空気を読んでか読まずにか、はあ、とキンタローが呆れたようなため息をついた。

「タチの悪い冗談に付き合っている暇はないな……シンタロー、行くぞ」
「……あァ」
 
 直立したまま微動だにしないシンタローの背中を押すように、キンタローが歩みを促す。そして歩き出したシンタローの顔は、まるで非日常的なことなど何も起こりはしなかったと言うかのように、無表情だった。

 後に取り残されたの三人のうち一人は、悪ふざけを仕掛けた犯人に今となっては明らかな怒りを爆発させており、被害者であるもう一人は、一時の怒りをやり過ごした後は、むしろ親友を宥めていた。そして加害者である最後の一人は、この状況になってもまだ、消えていった紅い総帥服の背中を、視線で追うようなそぶりを見せており。そんな様子が、親友に悪趣味極まりない悪戯を仕掛けたと怒り心頭の男にとっては、火に油を注ぐ結果になる。

「アラシヤマぁっ!どういうつもりだべ!答え次第じゃ」
「いいんだっちゃ、ミヤギくんが怒ることはないわいや」 
「トットリぃ!おめ、悔しくないんか?あンな……」
「こげな妄想の世界にしか生きられん根性悪の悪ふざけに、いちいち怒ってなんてられんわいや」
 
 な?と、無理やりに明るい表情を作って、黒髪の童顔忍者は親友に笑いかける。

「だけぇ、ミヤギくんにも気にしてほしくないっちゃ」
 
 その親友の気遣いに、さすがに気付いたミヤギがなんとか怒りの矛先をおさめる。こんなところで幹部同士がケンカなどしていれば、確かにそれは大事になる可能性がある。しかも、原因が原因だ。理由を問われたところで報告書にも書けないだろう。

「おめが、そう言うんだったら……」

 ようやく落ち着いたらしいミヤギの姿にトットリは安堵の表情を見せる。そして同時に、何かを思い出したようにミヤギに問いかけた。

「ミヤギくん、随分長いことここにおるっちゃけど……時間、大丈夫だわいや?」
「あっ」

 ふと気付けば、時計の長針は丁度地面に垂直になっている。戻ろうと決めてから二十分近くをこの場で過ごしていた事になる。あたふたと書類を抱えなおすミヤギの様子を見て、トットリは苦笑しつつため息を吐く。

「お茶は、また今度だっちゃね」
「トットリぃ……」

 らしくもなく情けない表情をするミヤギに、トットリは今度こそ掛け値のない笑顔を見せ、悪戯っぽく指を一本立てる。

「そん代わり、せっかく珍しくミヤギくんが本部におるんだけぇ、よかったら晩御飯を一緒にするっちゃ。後の時間気にして急いでお茶するより、僕ぁそっちのほうがいいわいや」
「おう、それもそっだべな!」

 その善後策にぱっと明るい表情になり、ミヤギは、バンッと勢いよくトットリの背中を叩いてから自分の部署へと駆け出す。

「じゃ、連絡待っとるべ!」

 笑顔で手を振りながら、その場を去る。
 金糸のような髪を揺らしながら去っていく背が廊下の先の角を曲がって、見えなくなった、と思った刹那。
 アラシヤマの首筋にひやりとした質感が当たった。
 


 音もなく、トットリはアラシヤマの横から斜め後ろへと移動しており。その手に握られた苦無が、アラシヤマの頚動脈の上に薄紙一枚の隙間も残さず正確に置かれているのだった。

「……あんさん、また迅くならはりましたなあ」
「お褒めに預かって光栄だけぇ―――次、同じことしたら、今度は一瞬でこん首掻き切ってやるっちゃよ」

 トットリの視線とその口調は、それまでの彼と同一人物とすら思えないほどの明確な殺意を含んでおり。
 アラシヤマはホールドアップの姿勢をとり、珍しく素直に頷いた。

「ないと思いますけど……肝に銘じときますわ」

 その返答に、ようやく殺気を緩めた(それでも完全に消えたわけではなかったが)トットリは短い刃物を柄の部分でくるりと回して、腰元の隠しに収める。アラシヤマも胸元まで上げていた手の片方を下ろし、もう片方で、かり、と自分の頬の辺りを掻いた。

「……――なんちゅうか、すんまへん、な」
「謝るくらいだったらすなや、こンだらずがァ」

 衆目の手前、とりわけミヤギの前ということもありあの場では穏便に済ましたが、やはり内心は殺したいほど腸が煮えくり返っていたと言うことだろう。確かに、あれだけの侮辱を受けておいて穏やかにコトを収めるほど、この忍者の気質は柔弱ではないことは知っている。どこか違和感を、感じてはいたのだ。親友を巻き込むまいと、ここまで堪えていた忍耐力にむしろ感心する。
 まあ自分が同じ立場でも、きっと相手を殺したくなるだろうな、とまるで他人事のように思った。

「他人のストーカー行為の手伝い、勝手にさせられるほど不愉快なことはないわいや」

 吐き捨てるように言うその目に、先ほどの明るい表情は欠片も見えない。

「ストーカー、て。ほんのちょっと度がすぎた冗談どすやろ」
「サカリのついた野犬みたいなカオして、何言うとんだぁか」
「口が悪おすなぁ……。あの頭に金の花咲かせた飼い主はんが聞いたら仰天しますえ」
「僕かて、相手見て言うとる。あと、ミヤギ君とのことを揶揄すんのはやめぃや」
「別に、誰とは言うてまへんけど」 

 だまれ、とでも言うように、トットリは片眉を上げたままアラシヤマを睨みつける。こういった表情を、きっとあの金髪の美形は一生目にすることなどないのだろうな、とアラシヤマは内心でほんの少しだけおかしく思った。 

「僕が言いたいことは、それだけだっちゃ……やっぱり、アラシヤマ連れてくんじゃなかったわや」

 随分時間無駄にしたけぇ、はや戻らんと、と呟きながらトットリはアラシヤマを残して歩き出す。

「こげに自己中な男に好かれてるシンタローには、心底同情するわいや」

 その去り際の皮肉には珍しく毒を返すことなく、アラシヤマはただ苦く笑った。










 
***











 昼間にも訪れた、団でも最高クラスに厳重なセキュリティーが施された扉の前までは、あと十歩。
 団内の各所で回るサーチライトが窓ガラス越しに入り込み、ゆるやかに鈍色の廊下を舐める。
 過ぎ去った後にはまた、非常灯のみがかろうじて足元を照らす灰色の闇。 
 
 あと五歩。

 コツ、とゆっくり床を打つ軍靴の音は、闇とは確かに相容れないものとして、硬質な響きを残す。

 三歩。
 二歩
 一歩。
 
 ノックはあえてせずに、扉に片手を置いて、アラシヤマはその部屋の主に声をかけた。

「―――総帥」

 低く抑えた声は、それでも中にいる彼には届いたはずだ。扉の向こうで、微かに気配が揺らいだ気がした。
 いつものようにすぐに扉が開かないのは、予想の内だった。それでもアラシヤマは訥々と、言葉をつなぐ。

「昼間のこと、謝ろう思いましてん」
「……謝るんなら、トットリにだろ」

 部屋の内側から、シンタローの苦りきったような声が返された。なんとか声だけは聞けた、とそれだけのことにアラシヤマは酷く安堵する。

「総帥の前で、無礼な真似しましたわ。……廊下でする話やあらしまへんさかい、中に入れてもらえまへんやろか」
「……」

 シンタローからの返事はない。そのまま、二十秒近くが経過した。その沈黙から感じられるのは、躊躇いと戸惑い。それと―――怒りだろうか。
 やはり無理か、とアラシヤマが思いかけた時、シュン、と銀色に鈍く光る扉が開いた。振り返ろうとしたアラシヤマがそのままそこに体を滑り込ませると、扉は即座に閉められる。 
 室内には電灯がつけられていなかった。部屋の再奥、執務机の背後の窓から入る月明かりだけで、シンタローの外形がようやくわかる。
 非常灯が灯されていた廊下よりなお暗い室内の闇に目が慣れるまで、ちょうど光源を背にしたシンタローの表情はほとんど見えなかった。

「シンタロー、はん」
「……近寄んな。そこから一ミリでも近づいたら、殺す」

 執務机の向こう側から、入室した男を睨みつけつつ、シンタローは抑揚のない口調で言う。
 アラシヤマは扉の前から一歩も動かずに、俯きがちにその場で佇んでいる。鬱陶しい黒髪に顔の半分を覆われたその表情も、シンタローからはわからない。
 互いに言葉を発すことの出来ない張り詰めた空気が部屋中に充満する。その沈黙を破ったのは、ハッというシンタローの口先だけの嗤いだった。頑丈だが冷たい質感の机の上で、ほどよく日に灼けた長い指をゆっくりと組みかえる。

「なに、アレ。俺に、嫉妬でもさせようと思ったワケ?」

 残念だったなあ、ただ気色悪ぃだけだったぜ、と剣呑な目つきを崩さずに口元だけで笑みを象る。その唇に刻まれているのは、失笑でも苦笑でもなく、冷笑。
 そんなシンタローの様子に、アラシヤマは相変わらず淡々と言葉を紡いだ。
 
「そんなこと……考えてもみまへんどしたわ」

 そう、本当にそんなことを考えていたわけではないのだ、とアラシヤマは思う。もっと言えば、何かを意図して行ったことですらなかった。そんなことを考えている余裕なんて、あの時の自分には、きっとなかった。
 あえて言うならば、ただ。

「ただ、ほんのちょっとでも……あんさんが」

 キンタローのことも、トットリとミヤギのことも、何もかもがどうでもよくて。

「わてのこと、見てくれはるかなあ、思うて」


 それを口にした瞬間、薄々わかっていたことながら、あまりの情けなさに自分でも驚いた。
 それはシンタローも同様だったようで、扉の前で佇む男から告げられた信じがたいほど馬鹿げた理由に、呆けたような表情を見せる。
 再び満ちる沈黙。
 シンタローはどうして灯りをつけようとしないのだろう、とアラシヤマは今更に思う。だが、それはきっと、自分にとってはありがたいことなのだろうということも、なんとなく理解していた。
 月明かりに慣れた目はほとんど普段と変わりないほどに物の形を捉えはじめているが、間に距離を残す人物の表情の陰影までは読み取れない。きっとお互いにそんなものは、認めたくないと思っている。


「―――は、ハハ」

 そして、からからに渇いたシンタローの喉から、漏れたのは笑い声。それを、シンタローはまるで自分のものではないかのように感じた。

「それで、アレかよ」

 本当に、この男の思考回路は一体どうなっているのだろうとシンタローは思う。全くもって理解できない。この先も理解したいとも、できるとも思えない。
 
 それでいて。それだけのことをしておきながら。今きっと、この男は自分が傷つけられたような顔をしているのだ。勝手に不可解な行動をして、人を不快にさせておきながら、全く鉄面皮にもほどがある。
 組んだ手の甲に額を押し当てたまま、シンタローはくっくっと肩を震わせる。

「アラシヤマ」

 その呼びかけは、シンタロー自身の耳にもやけに冷たく届いた。
 自分は嗜虐的になっているのか、それとも被虐的になっているのか。どうしてアラシヤマを部屋に入れてしまったんだろう。どうしていつも、最後のところで突き放しきれないのだろう。受け入れるつもりなど、さらさらないのに。
 自分の一言を受けるたび、アラシヤマがほとんど苦痛を堪えるように眉根を寄せる。そんな様子など、見えなくてもシンタローには手にとるようにわかる。


「お前のソレは、親友とかそういうんじゃ、ねえ」


 その言葉に、男がびくりとその身を慄わせた気配が、粘度でも持っているかのような室内の空気を通して伝わってきた。
 そこにはいつもある、傲岸不遜とも呼べるふてぶてしさは微塵もなくて。それでも、シンタローはなおも言葉を止めようとはしなかった。――怒りたいのか、泣き喚いてやりたいのか、それとも目一杯殴りつけてでもやりたいのか。それすらもわからないのに、ただ身の内に渦巻く静かな激情は、少なくとも理性で止められるようなものではなく。


「てめーの、ソレは」
「言わんといて」


 光の届かないそこに佇む、アラシヤマの表情は相変わらず見えない。ただ、喘ぐような低声で、シンタローの言葉のその先を遮る。


「言わんといて……」


 そしてアラシヤマは片手で、表に出している半顔を覆う。節の目立つ長い指は、もしかしたらそのとき震えていたかもしれない。
 
 それはきっととても無駄な抵抗で。わかってはいたのだが、せずにはいられなかったのだ。

 わてな、ただ、と蚊の鳴くような声を絞り出して。






「あんさんのそばにいたいんや、シンタロー」










 呟いたその言葉は、あまりにも絶望的に濃藍の中に吸い込まれた。





































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Si on juge de l'amour par la plupart de ses effets,
il ressemble plus a la haine qu'a l'amitie.
(恋はその作用の大部分から判断すると、友情よりも憎悪に似ている)

『ラ・ロシュフコー箴言集』より











BACK


xc
 
  ところどころに赤茶けた土を露出している草原を挟んで、三十メートルほど前方。一面にどこまでも広がるのは、背の高い花畑。細い鮮やかな緑の葉の上には、可憐な紅の花が今が盛りと咲き誇っている。人の身長ほどもあるそれらの群れは、時折吹く風になびいて潮騒のような音を立てる。
 草原の上には、果ての見えない瑠璃色の空。ところどころに白い雲が一条の線を引いている。

(――風景としてみれば、綺麗なモンどすな)

 目の前の景色をそう評して、濃紫色の中国服にも似た衣服を身に着けた男は、右手の人差し指をぺろりと舐める。そうして風に翳し、風向きを再度確認。予想と違わず、先刻とわずかも変わってはいない。雲の流れ方から見ても、これから二、三時間は同じであろうと思われた。
 どちらにせよこの花畑から半径二キロメートル以内に人がいないことは事前に調査済みだ。捕縛しておいた、総勢たった三名の警邏兵は多少手荒な真似をして眠らせた後、薬を嗅がせて完全に意識を失わせてある。浅く掘った地面の底にころがしておけば、煙を被る可能性はまずなかった。それら全てのことを先の二十分で済ませたアラシヤマは、もう一度、赤い海原に目を向ける。

「あんさんら自身に、罪はあらしまへんのやけど―――堪忍、な」

 その景色は、きっとすぐにアラシヤマの記憶からは消え去ってしまうけれど。それでも確かに、今この時点でのそのコントラストは、美しいと感じたので。
 だが感傷に浸るのはほんの数秒。鮮やかな色彩を眼裏に焼き付けるように軽く瞑った眼を、ゆっくりと開き、すう、と右手を上げる。

「平等院鳳凰堂、極楽鳥の舞」

 体の内から生まれた炎は肘から指先を螺旋を描くように駆け抜け、前方の花畑を一瞬にして飲み込んだ。
















『ポロメリア』
















 遠方で、光点が見えた。と思うとその光は段々とその色を鮮明にしつつ、凄まじい勢いで周囲を侵食する。極力煙を出さないように温度を上げたらしい白色に近い黄金色の炎は、貪欲な爬虫類の舌を思わせる獰猛さで。ここからだと真紅の絨毯のように見える花畑を嘗め、呑み込んでいく。

(―――思ったより、早かったな)

 発火地点から二キロメートルほど離れた山中の、裾野に程近いところ。鬱蒼と茂る木々の枝を日よけ代わりに寝転んでいたシンタローは、光点が発生したことを目認して、側に置いておいた双眼鏡を手に取った。研究課のグンマがこのたび開発したというこの双眼鏡はなかなかに優秀で、二キロメートルくらいの距離であれば人影程度まで目視できる。だが、草原の付近に人間らしき形は見えなかった。炎を放った主は既にこちらに向かって撤収してきているらしい。
 特に連絡もなかったということは、思わぬアクシデントなどもなかったということだろう。シンタローはイヤホン型の衛星通信機のスイッチを入れる。

「……ああ、オレだ。任務は無事終了。敵味方とも死傷者ゼロ。煙も思ったほど出てねぇから、準備が出来次第ヘリをこっちに向かわせてくれ」

 了解致しました、という電波を通した本部通信兵の硬質な声を耳にして、回線はプツリと途切れる。それだけの作業を済ませて、シンタローはまた森の中に寝転んだ。
 遠くから獣が低く唸るような音が聞こえる。それが風の声なのか、それとも消え行く草木の悲鳴なのかはシンタローにはわからなかったが、この森の中はとりあえず平和だ。土地の持ち主がその炎に気付き対応するにはもうしばらくの時間がかかるだろうし、万が一警邏兵がこの山の中にも潜んでいたとしても、半径百メートル以内にはおよそ考えられる限りの罠を張り巡らしてある。
 チチ、とすぐそばで小鳥の囀る声が聞こえる。
 ほんの二キロ先では、地獄の業火もかくやというほどの炎が草花を嘗め尽くしているというのに。ここでは、求愛を交わす小鳥の声すらも聞こえるのだ。だが結局自然とはそういうものかもしれない。さわさわと風に揺れる梢の隙間から見える陽光を手首で遮って、シンタローは軽く眼を閉じる。





 それから二十分ほどが経過した頃だろうか、わざとらしくがさがさと草を踏み分ける音がしたかと思うと、この場には不似合いな(否、ある意味では非常に似合った)能天気な声が頭上から降ってきた。

「シンタローはぁんvただいまどすえ~」
「……お前、任務中にどすえはねーだろ」

 瞼を覆っていた手をどけて寝転んだまま呆れたようにそう言ってやれば、アラシヤマは苦笑を返し、おもむろにすっと背筋を伸ばして指をそろえた手を四十五度の角度で額にあてる。

「ガンマ団団員アラシヤマ、帰還致しました。任務遂行時間は15:42。完了時間は現在より約十分後と思われます。只今より撤収作業に……」
「やっぱヤメロ」

 制服姿ですらないアラシヤマの、その格好と姿勢のあまりの似合わなさに、皆まで言わせず手を振ってシンタローが言葉を遮った。

「予想以上にキモかった」
「俺様酷ッ」
「撤収っつってもここでただヘリ待ってるだけだしな」
「ま、そういうことどすな」

 さらりと言うその声音で、先ほどの芝居がかった仕草は明らかに自分をからかったものだということがわかる。面白くねえな、と思って少し口を尖らせながら、シンタローはアラシヤマを睨みつけた。もっとも寝転んでいるところを見下ろされているこの状況では、それは思うような効果は発揮しなかっただろうが。

「ちゃんと、うまくやったんだろ?」
「もちろんどすえーv命令どおり、ガンマ団が関おうとることもばらしとりまへん」

 アラシヤマがそれまでの経緯をごく簡単にかいつまんで説明すると、シンタローは表情も変えずにそっか、ごくろーさんだったな、と口にした。そんな素っ気無いシンタローの対応などどこ吹く風で、アラシヤマの顔は眼に見えて嬉しそうだ。

「に、しても。なんだよ、いつもにも増したその異常な浮かれっぷりは」
「そらもう、あんさんとの二人任務言うだけで、わてはウッキウキどすえ~~♪」
「……お前、煙吸い込んでんじゃねーの」
「ややわぁ、風向きの計算は、ちゃぁんとしとりましたやろ?」

 薬の効果ナシでここまでなれるのもある意味才能だよな、とは心の中だけで呟き、シンタローは表面上はただうんざりしたような目つきでアラシヤマを見るにとどめた。

「ちなみに、二人任務でもねーよ。今回の任務に関しては、オレは完璧なオブザーバーだからな。単なる見届け役だ」
「ほな、見届け役としての評価は、いかがどす?」

 アラシヤマの問いは直截的だ。シンタローはしばらく考え込むと、やがて前髪の辺りをがしがしと掻いて、言った。

「まあ、ナパーム弾いきなりぶち込むよりゃあ、大分マシだな……」

 その身もふたもない言い方に、だがアラシヤマは満足したように笑う。

「あんさんも、ようやっとわての使い方、わこてきはったちゅうことどすな」

 そして両腕を枕代わりにしているシンタローの横に腰を下ろした。やや膝を立て気味にした胡坐のような座り方で、交差させた両足首を両手で掴む。鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌は変わらない。

「直接的に、人が関わらへん仕事は気楽でええどすわ」
「まぁな……」
「この後の『人道支援』やらなんやら考えると頭痛ぅなりますけど」
「言うナ」

 そんなことは言われなくても百も承知で。ただできれば、せめて今くらいは考えたくはないことだった。
 炎によって失われた花畑は、確かに悪ではあったけれど、それも許しがたいほどの害悪を撒き散らしてきた存在ではあったけれど、本当に憎むべきは育成者ではなくそれを命じ、売りさばいてきた人間どもだ。花を育てることによってようやく日々を生き繋いできた人々もいる。そういった人々へのフォローは、総帥の代替わりに伴い大転換を果たしたガンマ団では仕事の内だった。
 寝転んだままごそごそと胸ポケットを探り、シンタローは潰れかけた煙草の箱を取り出す。残りは三本。まあ迎えが来るまでなら足りるだろうと考えて、一本を口にはさむ。

「寝煙草は、行儀がよろしゅうないどすえ」
「お前の顔見ると喫いたくなんだよ、なぜか」

 やっぱストレスか?と口元に煙草を咥えたまま真顔で言ってやると、人のこといつもライター代わりにしすぎやからや、と返された。それでも渋々といった様子でアラシヤマがシンタローの唇の先に指先を持っていく。ボッという小さな音と共に、ほのかに甘い薫りと紫煙が立ち上った。

「山火事は勘弁しとくれやす。わては火ぃつけるのは得意やけど、消すほうはでけへんさかい」
「フーン、それって……」

 お前の性格そのまんまだナ、と言いかけたが、そうすると言外に余計な意味まで含まれてしまいそうなことに気付き、シンタローはそれ以上言葉を続けなかった。

「ちなみに、迎えはいつ頃来る予定なんどすか?」
「お前が来る二十分くらい前に本部に連絡とっといたから、あともう十分ちょいてとこか」
「残念どすなあ、せっかく二人っきりになれましたんに」
「オレは一刻も一分も一秒も早くこの状況から抜け出したい」

 甘い響きを持たせようとするアラシヤマの言葉を一蹴して、シンタローはふぅ、と煙を吐く。上空のほうで長く尾を引くような鳥の鳴き声が聞こえた。
 濃緑の翳をその顔に受けながら、シンタローはぼそりと呟く。

「―――あとどんくらい焼けば、終わるんだろうな」

 それが今回の一件のみを指しているのではないということは、さすがに聞き返さずともわかった。苦笑しながら、アラシヤマは未だ燃え盛っている遠方の草原の方向を見遣る。

「さあ……。少なくとも、全部は難しいどっしゃろな」 

 世界各地に散らばる、麻薬の栽培畑。合成薬物がこれだけ蔓延る現代になっても、古来からの麻薬が絶えることはない。阿片、大麻、コカ。マフィアやギャングといった集団犯罪組織や時には国家の重要な財源となるそれらが、どれだけの地域に広がっているのか正確に把握することはおそらく不可能だろう。

「お前、ここにこんなデカいケシ畑があるって知ってたか?」
「シンジケートからの情報としては、一応。せやけど、同じくらいの規模のもんが他にどれくらいあるのかなんて、想像もつきまへんわ」
「こういうときばっかは、腹が立つくらい広いんだよな、この世界も」

 言いながら、二本目の煙草を咥えた。アラシヤマは今度は、先ほどのように指先をそっと近づけるやり方ではなく、やや投げやりにシンタローの目の前でぱちんと指を鳴らすように二本の指を合わせて火を点ける。その仕草には、おそらくあの島から戻って、すっかりヘビースモーカーになったシンタローへの、微かな非難が含まれている。自分とて時折喫っているくせに、シンタローのそれにいい顔はしないのだ。

「世界、か……そーいやお前、昔、やたら言ってたな。世界が欲しいって」
「よう覚えとりまんな、そないなこと」
「あんだけ散々聞かされたら、嫌でも覚えんだろ」

 そう、この男は士官学校の頃からやたら上昇志向が強く、それだけでなく目指すところが途方もなかった。せめてマジックの後釜を狙って団を牛耳るとか、それならまだわかるのだ。だが一足飛びに世界とは、あまりにも発想が突飛ではないか。
 しかしそんなシンタローの疑問など、考えるだけ無駄と思わせるほどの淡白さでアラシヤマはけろりと言う。

「わてな、世界くらいしか欲しいもんなかったんどすわ」
「……。欲深なのか、そうじゃねーのか、よくわかんねえな、ソレ」

 中空に目をやったまま、なんとも微妙な表情でシンタローは口元を歪める。そうどすなあ、と独言のように答えながら、あの頃の自分も、強さや名声といったものに対する執着は人並以上に強かったとアラシヤマは思い出す。
 ただ、何が欲しいのか、と問われて即答できる答えを自分は持っていなかった。
 だから、とりあえず世界が欲しいと言ってみた。目標があればきっと強くなれると思っていたから。それだけのこと。
 
「ただ……なんとのう、世界が手に入れば、大事なもんはぜぇんぶ傍近うに置いておけると思うとりましたな」
「大事なモン?そんなもんあったわけ?お前に」

 その質問には答えずに、アラシヤマは薄く笑う。今となっては、あの頃の自分が欲したものはただ一つだったのだと理解している。しかも、まるで駄々をこねる子供のようにソレを渇望していた。ただ、その唯一の欲求を明確な言葉で表現できるほど、自分は物を知らなかったのだろう。それはきっと、自分にとって(そして、彼の人にとっても)幸運なことだったに違いない。

「―――今は、どうなんだよ?」

 シンタローの問いかけに、アラシヤマは知らず浸っていた回想から現実に引き戻される。そして、相変わらず口元に笑みを浮かべたまま答えた。

「欲しいどすなあ、世界」

 躊躇いもせず言い切られたその返答は、シンタローにとって予想外のものだった。今更アラシヤマがガンマ団総帥の座を狙っているなどとは、どう考えても思えなかったからだ。
 その思考が表面に現れて怪訝そうに眉を顰めたシンタローに、覆いかぶさるようにアラシヤマは上体をかがめる。

「せやけど、今は」

 反面を覆う長い前髪が、シンタローの頬にさらりと落ちる。シンタローの口元から半分程度になった煙草を取り上げて。

「世界手にしてあの棟の最上階に座る、紅い服の男はんが、もっと、欲しい」

 代わりに落としたのは、触れるだけの口付け。
 そして手にした煙草はしかめっ面にも隠し切れない朱を上した総帥の唇には戻さず、自分ですぅ、と一息吸って、指先で消した。

「……オレには、親父と違って、世界征服の野望なんてねーぞ」
「武力で制圧するばかりが征服やおまへんでっしゃろ。こないな各地の小競り合いにも、国家間の戦争にも、ガンマ団が出張ればどうしょうもない……そないな状況になれば、世界はあんさんのもんも同然やないどすか」
「人殺しもしない、正義のオシオキ軍団がか?お前、時々突拍子もねーこと言いだすよな……」

 そうシンタローが言い終えるのとほぼ同時に、バラバラと雹でも降るような音が遠方から段々と近づいてくるのが耳に入ってきた。行くぞ、とシンタローが立ち上がり、ヘリとの合流場所として指定しておいた草原へと移動を始める。 
 開けた草原にはヘリを降ろせるだけの広さはあった。シンタローとアラシヤマの二人を確認し低い位置で八の字を描くように飛び続けるヘリに、風圧に長い黒髪をなびかせたシンタローが通信機で操縦士と何かを相談している。やがてヘリはホバリングを始め、上から縄梯子が下ろされた。どうせ二人とも軽装だし、着陸させる時間が惜しいからいいよな、とシンタローは風に弄る髪を抑えながらアラシヤマを振り返る。もとより否やもなかった。まずシンタローが梯子に足を掛け、アラシヤマが後に続く。
 二人が梯子の半ばまで上がったところで、ヘリは上昇を始めた。眼下に見える地上の炎はほとんど燻るばかりになっていたが、それと入れ替わるように燃え立つような色に染まっていたのは、空。
 火焔のような紅の空にオレンジ色の雲がたなびいている。
 
「―――わても、夢見とるんどすわ」
「…ん?なんか言ったか?」

 耳を劈くようなプロペラ音にアラシヤマの呟きはかき消されて。振り向いて問い返したシンタローに、なあんもどすー、とアラシヤマは声を張り上げる。

「綺麗どすなあ、夕焼け」
「まぁな―――ちょっと、思い出すな」
「せいぜい、約束破らんようにお気張りやす」
「言われるまでもねーよ、馬鹿」

 不敵に笑ったシンタローの表情に、アラシヤマは眩しいものでも見るかのようにほんのわずか、目を細めた。
 夢物語は、叶うと信じ続けることこそが何よりの楽しみなのだと、そんな、かつての自分ならば一笑に付していたようなことを本気で考えていることが、少しおかしくて。けれどその思いは、彼の笑顔を見るたびに確信に変わっていくから。
 せめて今だけでも、彼を中心に据えたその未来を夢見ることができる自分は、この上ない幸せ者に違いないと、強く思う。


 赤と黄色、橙で染め上げられた空の彼方では、真白い太陽が、並ぶ山々の向こう側に落ちようとしている。
 遥か遠い稜線は、赤と見事な対比を示す目の覚めるような濃紺で縁取られていて。それはまるで漆黒の闇の到来を、ほんの少しだけ留めているように、アラシヤマには見えた。




























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Coccoのベスト盤2枚目は
1、焼け野が原、2、ポロメリア、3、あなたへの月となっていて
矢島は学生の頃この並びがとても好きでした。















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