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一つの真実
世界で一番カッコイイ人形。そう、僕の名前はシンタロー。
っていっても、本物のシンタローはちゃんといるよ?
僕を作ったのはシンタローのパパで、裁縫が得意な変態なんだって。(シンタローが前に言ってた)
僕は人形だから喋れないし、シンタローとパパの’確執’なんてよく分かんないけど。
僕、一つだけ知ってることがあるんだよ。
それはね。パパを愛せるのはシンタローだけなんだってこと。









一つの真実









今日はシンタローの誕生日。一年で一番家が壊れる日。
毎年パパがシンタローにまとわりついて眼魔砲が連発されるから。
でも。今年はそんなこと一つも起きなくて。
というよりパパが朝から家にいなくて。
静かに一日が終わりを迎えようとしている。

「ねーねーシンちゃん。おとーさま帰ってこなかったね。」
「・・・そうだな。」
「人形も置いてどこいったんだろ。今日はシンちゃんの誕生日だったのに!」
「・・・別にいいって。静かに過ごせたんだからよ。それよりグンマ、あんま人形さわんじゃねーよ。警報鳴っちまうだろ!」
「・・・はーい。・・・ねーシンちゃん。この人形さー、いつも思うんだけどフツーじゃないよねー。」
グンちゃんは僕を腕に抱きながらしみじみと言った。
そんなに僕って変?っていうか僕が変なんじゃなくて、作ったパパが変なんじゃないの??
「おい、そりゃ人形が変なんじゃなくて親父が変なんだよ!細工なんかしやがって・・・!!」
「えー?細工したのはシンちゃんでしょ?おとーさまが人形にいたずらして涎たらしてるのが寒気がする!って言って、変なとこ触ったらサイレンが鳴るようにしてその上どこにいるか分かるようにGPSまでつけさせたじゃん。」
「うっ・・・。」
そう、グンちゃんが言うとおり僕には色々細工がしてある。
最初はサイレンだけだったけど、パパが暴漢にあったとか言ってシンタローを何回も僕を使って呼び出すから、終いにはGPSと高性能小型内蔵マイクまでついてる。
だから僕をいつも肌身離さず持っているパパの居場所はすぐ分かるし、僕を通じて会話もできるんだ。
・・・ああ、自分で説明しててなんか悲しくなってきたよ・・・。

「あ、ティラミスからメールだ。えーと、『マジック様は先々代のお墓参りに行っていらっしゃるようです。』だって、シンちゃん。」
「グンマっ、また余計なことしやがって!!あんな奴放っておけばいいんだよ!!」
シンタローが怒鳴ると、何かを堪えているかの様にグンちゃんはそっと呟いた。


「シンちゃん、お父様と向き合わずに逃げてばっかりでいいの?それでいいの?」


シンタローの肩がびくっと揺れる。

「シンちゃんが意地っ張りだなんてよく知ってるし、心で思ってるコトはあんまり口にしないのも分かってるよ?
でも、お父様には」
「もういい」
バンッッ!!
グンちゃんが言い終わらないうちにシンタローは、僕をつかんで外に飛び出した。










シンタローが思ってるコトを口にしないように、パパも本心をあまり口にしない。
シンタローはパパが思ってる以上にパパのことで悩んでいるみたいだし、パパも誰にも見せない悩みを抱えている。
でもね、シンタロー。パパはいつか僕に言ったよ。
『シンタロー、おまえは私が嫌いかい?どんなに強請っても、おまえは私の望む言葉を言ってくれないね。
シンタロー、おまえは呆れているかい?おまえがなにを思って私を見ているのか知っているよ。
でも、こんな弱い私を見せられないでいる。全てを知りたいと思うおまえに、何もかも話せるとどんなにいいか!
しかし私はいつまでたっても臆病者なんだ。ああ、こんなにもおまえを愛しているのに、おまえの愛を信じられないでいる。
私の発した言葉が風に乗って、波の泡に’今’が溶けて、かき消され遠くなっていくけれど。
それでも伝えたい思いがあるから。いつまでも紡いでいくよ。
愛されたい、愛されたい、おまえに・・・。』
赤と紫の混じった涙が出そうなくらい綺麗な夕焼けを背にして、パパはほんの少しだけ、心の欠片をはき出した。
その日は晴れていたのに、なぜか降るはずのない雨がパパの瞼から溢れるのを僕は見た。
だからシンタロー、パパの傍にいてあげて。
二人には幸せになってほしいんだよ・・・。






僕がシンタローの腕に抱かれながらそんなことを考えている間に、墓地についたみたいだ。
シンタローはゆっくりと墓石の前に屈み込んでいるパパに近づいていく。

「・・・おい、アンタなにやってんだよ。」
「ああ、おまえか・・・。」
そういってパパは立ち上がった。
「・・この人形、忘れ物だろ。」
「いや、忘れたわけじゃないさ。置いていったんだから。わざわざ届けにきてくれたのかい?」
「・・・・・。」
シンタローは無言で僕をパパに差し出し、パパはぼくを腕に抱く。
「何してたんだよ、お、俺今日誕生日で・・・!」
「おまえは知らなくていい事だ。」
「・・・・っ!」
パパの拒絶の言葉に、空気が重くなった。
「・・・なんで!なんでアンタはいつもそうなんだよっ!
俺のことは知ろうとするくせに、なんで俺がアンタの事知りたがるとそーやって壁作るんだよっ!!
俺はっ、俺はっ、いつもアンタの事っ・・・・!!!」
「・・・すまない、シンタロー。」
僕を地面に置いて、パパはシンタローをかき抱いた。
二人の姿が暗闇に溶ける。
「言葉が悪かったよ、すまない。私は、私はいつもおまえに強請ってばかりで、おまえの誕生日ぐらい大人しくしていようとふと思ったものだから。
それが逆に不安にさせてしまったね・・・。
ああ、私はおまえの事となると失敗ばかりだ。どうしてだろう。」
「・・・父さん。」
「シンタロー・・・。子供は枯れない花というけれど、おまえはまるでヒマワリだ。まっすぐに太陽に向かって一生懸命に背を伸ばして。
私はそんなおまえの太陽にいつかなれるのだろうか。」
シンタローは返事の代わりにパパに回した腕にぎゅっと力を入れた。
「さあ、帰ろうか。シンタロー。遅い時間にすまなかったね。パパ、おまえにプレゼントをまだ渡していないから。日が変わる前に帰らないと。」
「・・・ん。」
パパは僕を右腕に抱いて、左手でシンタローの手を握る。
シンタローも心なしか力をいれてパパの手を握った。

二人の距離が縮まった。ほんのちょっとだけど縮まった。これから二人はゆっくりと歩み寄っていくんだろう。
こんな素晴らしい日に僕はここに居ることが出来て、とても嬉しい。
僕はいつまでも見守っているから。幸せを願っているから・・・。今度は僕とシンタローとパパの三人で、ゆっくりお昼寝でもしよう?










僕は世界で一番カッコイイ人形。そう、僕の名前はシンタロー。
っていっても、本物のシンタローはちゃんといるよ?
僕を作ったのはシンタローのパパで、裁縫が得意な変態なんだって。(シンタローが前に言ってた)
僕は人形だから喋れないし、シンタローとパパの’確執’なんてよく分かんないけど。
僕、一つだけ知ってることがあるんだよ。
それはね。パパとシンタローがいつまでも愛し合って生きてくってこと。










PR
z2



 好きだよ、好き。お前が好きだよ。
 愛している。命あるかぎり、お前を愛している。この世の果てでも、ずっと愛している。
 ねえ、シンタロー?
 きっと私たちの間には、とても長い長い時間が存在していて。
 今この瞬間、この世でお前と私が触れ合う時間は、その長い長い時間の内の、わずか一瞬にすぎないのだろうと思うことがある。
 私はその長い長い時間を苦しみの中に過ごし、お前を恋うて、求めてやまないのだろうと、本能的に感じている。
 そしてやっと、今やっと、巡り会うことのできた瞬間を、私は大事にしなければならないと、お前を大事に大切にしなければならないと、わかっているのに。
 でも、どうしたらいいのかがわからなくって、可愛がり方を知らなくって、いつでも過剰で過少で、気付かないところで冷酷で寂しがらせて、そして私はそのことを、お前の笑顔で初めて気付く。
 お前の頬を、どうやって撫でればいいのかさえ、私は迷うのだ。
 羽毛を揺らすほどに撫でればいいのか、皮膚を突き破り、肉を掻き毟るほどに撫でればいいのか、どちらがより私の愛情をお前に示すことになるのか…不安に襲われるんだよ。



 過ちを犯した。
 私は、あの子を。幼いコタローを、閉じ込めて。
 失敗を意識しなくなっていた私は、お前に泣かれても、必死に止められても、最初はその過ちに気付くことすら、できなかった。
 色々なことがあったね。
 お前が、私から秘石を奪って、南国の島に行って。
 青と赤の物語が、始まった。
 ――あのとき。
 お前が私をかばってくれたときのこと、覚えてる?
「父さん!」
 私の前に飛び出してきて、死んでしまったお前。
 この瞬間になって初めて私は、お前は私のことを、愛してくれているのかもしれないと感じた。



 だがその後すぐに私は、お前を殺そうと決めた。
 だってお前は、赤の番人なのだと思ったからね。あのときは。
 すぐにそれは間違いだったと気付いたから、良かったけれど。
 でもあのとき、私は、お前を殺そうと決めたんだったなあ。
 不思議なくらいに、何の躊躇もしなかったんだ。
 敵ならば、お前を殺すしかないと、それは夏の空に塗りたくられた青のように、一つの色しかない絶対的な答えだった。
 私は、お前を殺すことばかりを考えていた。
 今でも自問することがあるよ。
 お前が本当に赤の番人で、私が青の総帥で、そのままの立場であいまみえていたら、私はどうしていただろうか。
 ――おそらく、そのままお前を殺していたのだと思うよ。
 きっと私はそうする。
 だからあれ以来、そんな風に、私はお前を殺した夢を見る。



 いつも闇の中で、目を開いている。
 動悸を感じる、だが何故か意識の芯は冷静で、研ぎ澄まされたように静寂を感じている。
 血溜りの中で、目を見開いたお前の死体が、返り血を浴びた私の前にあった。
 まるであの男のように。その首は、がくんと垂れた。
 醒めて、良かった。
 夢で、良かった。
 目覚めてからそう息をつく夢は、際限なく私を苦しめる。
 私がお前を殺していた未来は、確実に存在するのだ。
 その未来とは、無の世界なのだろうけれど。
 シンタロー。
 これは愛といえるだろうか。私のこの想いは、本当に愛といえるのか?
 私はお前のことを、好きだと言い、好きだと言い、愛してるといい、愛してるといいと思う。
 その反面、殺すことができるんだ。
 おかしいよね。シンタロー。自分でもそう思う。
 でも、これだけは本当だよ。
 たとえこの気持ちが愛じゃなくたって、恋じゃなくたって、私はお前しか選べない。
 お前がいなければ、あらゆる存在が色褪せて動きを止めるほどの絶対的な、それは真実。
 お前のお陰で、すべての季節は、冬からお前の季節の夏へと変わり、冷たい雪は解けて花は咲き乱れ、私は甘い蜜の香りに身を委ねる。
 お前だけなんだよ。
 世界よりも、あまねくすべての金銀よりも、天よりも地よりも、私はお前が欲しい。
 私を救うことができるのは、お前だけ。
 焦がれる想いに身を焼くのは、お前だけ。
 愛でなくても恋でなくても、側にいて。



 ――そして、私たちは――
 あんなに抱き合ったのに。
 私はまた、お前に隠し事をしたんだ。お前の信頼を、裏切った。
 お前が再びいなくなってから。
 コタローが、私を青い瞳で見上げたんだ。綺麗な髪を短く切ったばかりの、小さな頭。
「とう、さん」
 私のことを『父さん』と呼び始めた子供は、必死な瞳で私に訴えた。
 強くなりたいのだと。強くなって、シンタローを助けたいのだと。すがるような表情をした。
 そして、細い腕をのばし、手を差し出す。
「父さん、約束」
 少しためらった後、コタローは言った。
「ゆびきり……」
 私は聞き返す。
「ゆびきり?」
 遠い昔の記憶が、黒髪の子供の表情と、目の前の金髪の子供の表情に、重なっていく。
 小さな口は動く。
「お兄ちゃんが、昔、教えてくれたんだ」



「父さん。一緒に、お兄ちゃんを、助けようよ」
 あんな過去を持っている子であるのに。どうしようもない父親の私に向かって。
 この子は真摯なまなざしで、私に言い募る。
「一緒に」
「……ああ」
 私は、手を差し出した。そして答える。
「一緒に、シンタローを、助けよう」
 私たちは、指先を絡ませて、約束をした。
 その後、子供は、サービスと修行に旅立った。



「知ってるかよ、兄貴。コタローの奴、あの島じゃあ、すっげえイイ笑顔で笑うんだぜ」
 ハーレムは、何かにつけてこう言う。
 私とコタローの間のことを心配してくれているのは、何もシンタローばかりではない。
 ハーレムばかりか、今回の特訓を引き受けてくれたサービスだって、そうだ。
「あいつ、強くなって帰ってくるぜ。なあ、兄貴、そうだろう」
 この奔放な弟にそう言われるたびに、私は、コタローの笑顔なんて見たことはないなと、考える。
 島から帰ってきてからのことを思い浮かべても。
 どこか、あの子は、私の前では肩肘を張っている。緊張している。震えている。
 気の強い子、しっかりした子であるはずなのに、私の前では。
 だが、あの瞬間。
 ゆびきりのとき、指を差し出してきたときだけは、違っていた。
 毅然として――



----------



「……ッ」
 長い夢から醒めた瞬間は、相変わらずの静寂だった。
 側にはやはり、お前はいなかった。
 私一人きりのベッド、暗い部屋。
 置時計は、床に転がったままだった。
 部屋の厚いカーテンは勿論閉めきられたままで、その合わせ目からは、もう夜の闇しか漏れ込んできてはいなかった。
 身を、よじる。
 未だ身体は重く、鈍く、頭の奥がじいんと痺れていた。
 どれくらい眠ったのだろうか。
 静寂は、雨音の静寂だった。
 まだ、降り続けているのか。



 しばらくベッドの中でうとうとした後、私は手を伸ばした。
 床から、置時計を拾い上げる。
 時計の針は、夜の10時から少し過ぎた辺りをさしていた。
 私は、サイドボードにそれを戻そうとして。
 日付表示に、気付いた。
 5月24日――
「……」
 他の年なら、決して失念している日付ではないのに。
 この世の何処かで、お前は、誕生日を迎えているのだろうか……?
 お前は今、何処にいるのか。
 生きてはいるのだと、そう信じているけれど。



 沢山の夢を――見た。
 いつものことなのだけれど。
 ぐっすりと眠ることのできない、断続的な意識の途切れ途切れに、私はいつも過去の夢を見る。
 過去や、あり得た悲しい未来の夢を見る。
 シンタロー。
 どうしてお前は生まれてきてくれたのだろうね? 奇跡でしかない。
 青と赤の秘石の思惑の狭間に、私を騙すために、お前は生まれて。作られて。
 そして私の元に、送られてきた。
 石のことはもういい、ただ、お前に、私は。
 生まれてきてくれて、ありがとうと、言いたいのだけれど。
 だけど、お前はここにはいないから。
 冷たいベッド。一人きり。
 そう感じる度に、私は悲しくなる。喪失感に、目を閉じる。
 好きだよ、シンタロー。
 私に限りのない悲しみと、限りのない喜びを与えてくれる、お前が好きだよ。



 もう一度会いたい。
 会えば、さらにもう一度会いたくなる。
 そうして私は永遠にお前に会いたくなるってこと、わかっているのにね。
 いつだって、私は、もう一度と。瞬間を望み、その瞬間を連ねることで永遠を願う。
 最初から永遠を願うことなんて、私にはできない。失うことが怖いから。
 お前は今、どこにいるの。
 会いたいよ。会いたい。
 お前に会いたい、シンタロー……



 置時計の隣で、携帯が鳴った。
 間を置いて。
 うつろな意識で、私は手を伸ばす。
 サービスからだと、心の切れ端で、考えた。
 内容は、いつものように定期的なコタローの鍛錬具合の報告だった。
 私は寝込んでいることを気取られないように、何でもないような声を作った。
 何でもない振り、というのは、心に陰りがあるときにするものなのだと、今更ながらに実感する。
 報告が終わり、珍しくその後、少しの間があった。
「どうした」
 私が聞くと、
「いえ」
 そしてサービスは、すぐに続けた。
「コタローが、兄さんにお話があると。代わってもいいですか」



 『ああ』と答えた私の声は、わずかに常より低かった。
 やがて少年の声が、聞こえてくる。
「父さん」
「……コタロー」
「父さん、あのね」
 子供の声は、やはり緊張に震えていた。すでに条件反射なのだと思う。
 無理もない。私はこの子に、怖がられるようなことをしたのだから、当たり前だと、考える。
「今日、お兄ちゃんの、誕生日だよね」
「ああ」
「グンマお兄ちゃんや、キンタローお兄ちゃんにも、電話したんだけど……」
「ああ」
「父さん、あの……」
 コタローは言いよどみ、思い切ったように、大きな声を出した。
「ゆびきり! ゆびきり、覚えてる?」



「……ああ」
 私はまた、同じ答えを返したのだけれど、すぐに言葉を付け足した。
「覚えているよ。お前が旅立つ前に、した約束。忘れてはいないよ」
 私が多くの言葉を口にしたことで、少し心が軽くなったのか、子供は明るい声で言う。
「僕、強くなるよ。父さん。僕、強くなる。だから」
 息を切って。
「一緒に、お兄ちゃんを助けようね! 絶対に助けようね! それで一緒に、お祝いしようね! ケーキ食べるんだ。プレゼントあげるんだ。おめでとうって、みんなで」
 そう一気に叫んだ。



「……父さん?」
 一向に答えを返さない私を不審に感じ、また不安になったのか、子供が声を落とした。
 でも。おかしいだろうか。
 私はただ、言葉が出なかったのだ。
「コタロー」
 やっと口をついて出た私の声は、もう作り物の声ではなかった。
 情けなくも発熱し、巡る夢にうなされて、それでいて青の一族で最も命を長らえている、ありのままの男の声だった。
「コタロー」
「なに。父さん、なに」
「ありがとう」
 剥き出しの私が、子供に言うことができたのは、たったそれだけ。
 しかし、最後に再び電話を代わった末の弟が、こう驚いたように言った。
「兄さん」
 私は、目を瞑った。
 耳元に携帯を当てたまま、遠い地を思い描き、ベッドに体を沈み込ませる。
「今、コタローは。笑ったよ。兄さんの言葉を聞いて、笑った」



 その瞬間、稲妻が走ったのだ。
 私は、目を開いた。
 不思議なことが起こっていた。
 世界が、変わっていた。
 閉ざされた世界の中に、突然、未来が広がっていた。



「……」
 これはどうしたことだろうと、私は自問する。
 携帯を切った後の私は、ひどく幸福だった。
 この感覚は、何だ。
 指先が、熱のためではなく、歓喜で震えている。
 自分で自分が信じられない。
 新鮮な驚き。術が解けてみれば、なんて単純なこと。
 今、私はすべてを理解した、と思った。
 私は、また彼に向かって語りかけた。
 シンタロー。信じられるかい。
 私は信じられない。
 今、私にかけられた呪いが、解けた――



 指先と笑顔の刻印が、コタローによって、打ち消されようとしている。
 私は、くつくつと一人笑った。
 おかしくてたまらなかった。
 どうして。こんなに、簡単なこと。
 ここに辿り付くまでの困難、そして最後は簡単なこと。
 それも私の力じゃない、あの金髪の子供の力。
 符号の鎖は、断ち切られた。
 今までの私の恐怖が、くつがえされようとしている。
 私は、ベッドに転がった。そして想う。



 シンタロー。今、何してる?
 寒くはないかい。風邪をひいてはいないかい。
 こちらは雨だ。ずっと雨が降っている。
 そして私はみっともなくも寝込んでしまった。熱を出したよ。散々さ。
 先刻まで、途方もなく寒かった。凍えていたんだ。どうしようもない、私だったよ。
 でもね。
 私は、一人きりじゃない。
 そう感じたら。
 あたたかい。とてもあたたかいよ。一人のベッドが、こんなにもあたたかいなんて。
 不思議だね。
 ――私は変わる。
 それは未来への予感。初めて指先と笑顔が、私に希望を、与えてくれた瞬間。
 なんてことだ。コタローの笑顔と、指先でかわした約束の、一瞬で。
 たった一瞬で。世界が変わった。いや、変わりつつあると表現した方が、正しいのかもしれないけれど。
 私の人生を陰で操ってきた、呪われた暗示が、消え去る予感。
 呪われた暗示とは、自己への不信、あきらめ、未来と結果へのくだらない理由付け。私の弱さ。
 運命を受け入れるだけで、それを変えようとはしなかった私。臆病だった私。
 だけれど、今、ある予感が私を襲い、捉えて離さない。
 愛がすべてを変える。いつか愛が、私をすっかり変えてしまうとしたら。
 やはりこれは、本物の愛なのだろうか。
 こんな私にも、愛は存在したのだろうか。
 愛なんて、一度得たら、失うばかりじゃなくて。
 いつでもどんな瞬間にも、私の内に住む感情だったのではないかと、ふと気付いた。
 変わることなどできないと思っていたから、私はその理由を、悲しい場面にはいつも存在した、指先と笑顔に求めていた。
 そんな私に、コタローは、自分で闘うことを教えてくれた。



 長い長い夜の中で、恋しい人がいることに気付く。
 シンタロー、私はお前に会いたい。
 すべてを投げ出して、お前に抱きしめて欲しい。お前を抱きしめたい。
 私に最後の瞬間が訪れる時には、ただお前に、側にいて欲しい。
 シンタロー。
 また会えたらね…私を愛してくれる?
 この金髪の子と一緒に、愛してくれる?
 シンタロー、私の話を聞いて。
 コタローが、私の言葉で、笑ったんだって。
 私とコタローが、ゆびきりをしたんだよ。
 指先を絡めて、お前を一緒に助けようって、誓った。
 力をあわせて、お前に会いたいって、願ったんだ。



 ――シンタロー。
 私には何かが欠けているのだと思う。弱い。馬鹿な男だ。いつも他の何かに、自分の運命の理由を求める。
 お前がいなければ、生きていくことすらできない。
 好きだよ。
 とても好きだよ。
 側にいるときは、あんなに不安を感じたお前の笑顔が、私は恋しくてたまらない。
 シンタロー。
 いつか会う日には。
 私を待っていてくれるかい、シンタロー。
 私に笑いかけてくれるかい、シンタロー。
 シンタロー。
 私は――お前に、嘘をついた。コタローのことで、嘘をついた。
 代わりにお前を失ったのは、罰だったのだと思う。
 それをつぐなうことは、できるだろうか。間違いを繰り返しても、またやり直すことができるだろうか。
 醜いこと、寂しいこと、辛いこと、後悔すること、すべてが、お前への愛に変わるのだと、そう信じられるだろうか。
 今度こそ、私は笑顔と指先を、信じることができるのだろうか。
 またお前に出会えたとき、すべてが解決したときに、その私の自縄自縛の呪いは、消え去るのだろう。



 幸せの中にある不安、失うことへの恐怖。
 輝きが失われる瞬間は、いつも指先と笑顔。
 私の脳裏に焼きつくそれは、死の予兆として私に穿たれた刻印。
 これまでの私にとって、指先とは、死の頁をめくる何物かだった。
 笑顔とは、私に隙を作らせ、より深い傷を与えるための道具だった。
 だけどね――
 今の私は、変わりゆく季節を感じている。
 雨の後に差す光を、感じている。
 今の私にとって。
 指先とは、コタローと交わした未来への約束。
 笑顔とは、まだ見ぬコタローの笑顔。
 私たちは、自分の力で運命を切り開いて、お前に会いたいと、そう感じているんだ。



 私の指先は、未来を自分で紡ぐことができたなんて。今まで、気付きもしなかった。
 知らない間に、ゆびきりは、私からお前へ、お前からコタローへ、そしてコタローから私へと、巡ってきたのだった。
 巡るのは悪い夢ばかりではない。明日への約束が、絡めた指を通して、巡る。
 電話越しではなく、いつか本当にあの子の笑顔が見られるといい。お前を救い出したときに、いつか必ず。
 ねえ、シンタロー。
 お前を愛してる。
 この子と一緒に、愛してる。
 私の熱は、明日になればひくだろう。そうなったら、またお前に会いに行くために、私は頑張るよ。ねえ、頑張るから。不安なんて感じる間もないほどに、頑張るから。
 待っていて。



 私は、ベッドの中で、また目を閉じる。
 辛い夢を見てもいい。辛い夢の後には、きっと、お前に会える幸せが待っているのだと、信じていたいから。
 窓の外から、もう雨の降る音は、しなかった。
 会いに行くよ。
 会いに、お前にかならず会いに行くよ、シンタロー。
 お前に、生まれてくれてありがとうと伝えるために、会いに行くよ。
 失ったお前を、この手に取り戻すために。
 そして、シンタロー。
 私の元に、帰ってきてくれる?
 私のいる場所、家族の待つ場所へと。
 そして、可愛い笑顔を見せてくれる?
 指先で私と、永遠の約束を、してくれる?





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「シンタロー! コタロー!」
「親父――ッツ!」
 私は金髪の子供の手を取り、抱きしめた。
 かわりに、お前の指先が空を切って、青の中に堕ちていく。
 これはきっと罰なのだと思う。
 私はお前に嘘をついた代わりに、お前を失った。
 それなのにお前は、笑った。自らは命を落すかもしれないのに、心底嬉しそうに笑った。
 また、繰り返す。あの痛みが。私を。
 指先と笑顔。





<指先と笑顔>





 さんざしの花が、咲いている。
 長雨の切れ間で、私道の石畳に残る透明の筋は、大地が流した涙のようだった。
 立ち昇る水蒸気。かげろうのように薄い景色。すぐにまた雨が来る、雲の向こうの予感。
 ここは私邸の庭だ。やさしい緑に、白に重なり咲き乱れる赤と青と黄。
 生垣の向こうには、霧でかすむ森。水の香り、ゆるやかな時間。
 ぼやける視界。綿毛の上を踏みしめるような、奇妙な感触。
 自分自身が透明な幽玄の存在になってしまったような、浮遊感。
 私は一歩、二歩、歩いてから、立ち止まった。
 霧の中から、小さな足音が聞こえたような気がしたからだ。
 目を見張る。
 もやが濃くなって、やがてかたちになって、黒髪の子供が駆けてくるのが見えた。
 私に向かって、駆けてくる。
 小鳥のはばたきのような、楽しげな足音がする。
 その黒い瞳。期待に満ちた無邪気な輝き。
 それはただ太陽から光を受けて視覚する凡百の瞳ではなく、自ら光を放つ強い瞳だった。
 一度見たら、目を逸らすことはできない。私を永遠に捉え続ける、その瞳。
 駆けてくる子の幼い唇が動く。
 私を呼ぶ声。愛しい響き。
 ――シンタロー。



 私の右腕は自然に上がり、手の平が揺れ、子供に答える仕草をしたのだけれど。唇は、言葉を紡ぎかけたのだけれど。
 同時に、頭の隅では、こう考えている。
 これは夢だ。夢でしかない。
 なぜならシンタローは、飛空艦から落ちて、ここにはいないのだから。
 私の目の前で、コタローを抱きしめる私を置いて、空に消えた。
 生死ですら、はっきりしない。
 これは夢だ。夢なのだ。このシンタローは幻なのだと。
 そう、私は理性で思うのだけれど。
 幼子のシンタローが、小さな足で走ってきて、小さな手を元気に振って、大きな瞳で私を見つめてくれば、どんどん、どんどんと、私の意識は歪んでいくのだった。
 歪む。歪んで、くにゃりと折れ曲がりそうになる。
 蝋細工が溶けるように、私の心が溶ける。溶解する。
 溶けて液体となって、私は溜息をつく。『ああ』と。
 液体の溜息も、おそらくは液体で、いつしかその声も床に這いつくばって、ぴちゃりぴちゃりと揺れている。
 そして長雨を飲み込んだばかりの石畳の隙間に、我先にと堕ちていくのだった。
 すべるように堕ちて、ぬるつく硬い石のはざま、暗闇の中で、私は寂しくなる。
 頭上からは、ぱたぱたとシンタローの可愛らしい足音が聞こえている。
 私が溶けてしまったものだから、そのまま通り過ぎて、遠くへと駆けていってしまったのだ。
 再び、溜息をつかずにはいられない。
『ああ』



 その瞬間に夢からさめて。
 私は現実へと戻るのだけれど、やはりここは暗闇であることには、変わりがないのだった。
 かすかに身をよじる。肩先まで落ちた毛布が、やわらかくしなる。
 ベッドの中。静寂だけが、暗い部屋を包んでいる。
 私は、一人きりだった。
 誰も私に向かって、駆けてきたりはしないのだ。
 喉が渇く。舌も乾ききっていた。
 ……今、何時なのだろう。
 部屋の厚いカーテンは閉めきられていて、その合わせ目からは淡い夕陽が、闇に薄い切れ込みを入れていたから、だいたいの予測はつくのだけれど。
 そう思って手を伸ばした、サイドボードの置き時計は、爪をかすって床へと落ちた。陶器が小さく悲鳴をあげる音。
 私は、まるで初めて出会った存在を見るように、自分の手に視線を遣った。
 指の感覚が、鈍い。
 老いた牝牛の肌のように、ざらつく世界の中に、私はいた。
 再び溜息をつこうとして……やめにした。



 私は、熱を出したのだった。
 睡眠不足と過労が原因だというのが医師の判断で、安静を言い渡され、この状態に至る。
 大事無いと主張したのだが、秘書たちに強制的に仕事を取り上げられ、自室に押し込められた。仕方なく、床についた。
 それがおそらくは昨晩のこと。
「……」
 自覚していた以上に、私は疲れていたようだ。こんなに眠っていたなんて。
 記憶を手繰り寄せれば、ずきずきと頭の奥が痛む。
 私は手の平で額を押さえ、あの昔は雛鳥のようだった秘書たちも強くなったものだ、いや私が一度引退して、弱くなったのかな等と、とりとめのないことを考えながら、再び深く枕に頭を沈めた。
 頭痛が酷い。耳鳴りまでが、洞窟の木霊みたいに押し寄せる。
 グンマやキンタローには、自分の体調のことは、知らせるなと言ってある。
 余計なことに神経を使わせたくはなかったからだ。
 開発にかかりきりの彼らは、いつものように研究室に泊り込みで、今夜も自宅には戻らないだろうから、支障はない。
 あの子たちも体を壊さないといい。シンタローを救い出す前に、こちらが参ってしまってはどうしようもないのだから。
 私たち家族は、廊下ですれ違うとき、仕事の合間に食事を共にするとき、忙しいさなかに、ふと思い出したように顔を見合わせるとき。
 短い言葉で、静かな目線で、わずかに動かす口元で。
 互いの意志を伝えあい、慰めあい、労わることで、お互いの存在を確認していた。
 それだけの関係をこの4年で築いてきたのだと考えれば、それは喜ばしいこと。
 それだけ切羽詰り、余裕がないのだと考えれば、それは物悲しいこと。
 シンタローを失ってからは、ナイフの刃先を渡るような、ぎりぎりの生活を私たちは続けてきた。



 私は、気だるく息を吐いた。
 小さく声が漏れて、やけに錆付いているなと思った。掠れていた。そして重かった。
 身の内に篭る熱が、じわじわと全身を侵食し苛みだす。
 手足の関節が、鉛を溶かし込んだように痺れた。
 ふと、それとは別に。
 胸がきしむような感覚に襲われた。
「……?」
 私は少しだけ背を丸め、その感情が自分から去るのを待った。
 じっと身を固くする。
 しかし感情は私を呑み込んだまま、高まりこそすれ、一向に去ろうとはしないのだった。
 私は、自問する。
 これは、何だ。
 だが、この胸の痛みには覚えがあると、私はぼんやりと感じている。



 幼い頃、四人の兄弟で暮らしていた頃、悲しいことがあると、泣くのを我慢していたことを思い出す。
 夕暮れ時には弟たちに食事をさせてからと思い、夜には寝かしつけてからと思い、結局は疲れて自分も寝入って朝になり、朝には朝で、では明日になったら泣こうと心の溝に蓋をする。
 悲しい気持ちは積み重なるばかりで、私の内に居座ったまま、出て行こうとはしないのだった。
 父さんが、早く帰ってきますように、と。
 ただ、そればかりを祈っていた、ちっぽけな自分。
 その時の気分と、今の気分は、よく似ていた。
 幾年経とうと、結局は私は成長してはいないのだと、自嘲気味に一人笑う。
 きっと私は、死ぬまでそうなのだ。
 どれだけ表面を飾ろうが、周囲がどう見ようが、本質的な私は何も変わってはいない。
 演技だけが上手くなり、上塗りの厚さだけが膨大になり、内側に隠れた本当の私はどんどんと臆病になっていく。
 ひどく臆病なのだ。臆病で、脆く弱くなっていく。
 私はそして、シンタローを求めてしまう。
 ――シンタロー。お前がいないと、こんなにも私は、無力。
 早く、帰ってきて。
 私は駄目になってしまう。早く、早く、帰ってきて。
 痺れた指を、私は唇でなぞる。
 指の冷たい温度と、乾いた唇の感触が、同時に、脳裏で重なる。
 誰もいない部屋で、私は呟いてみる。
「私は、お前のことを愛しているけれども」
 呟きは白い蝶のように、ひらりと闇に待って、闇の濃い場所に飛んで消えた。
「……これは……本当に愛なのかな……」
 もう、眠った方がよいのだろうと思う。
 だよね、シンタロー。お前がもしここに居たのなら、きっとそう言う。私以上に悲しい表情で、言うだろう。
 お前を失ってから、私は夜は眠ることができなかったから。
 常以上に精神の均衡を失っているのだろうかと、まどろむ意識の中で考えている。
 おやすみ、シンタロー。
 私は、目を閉じた。
 雨が、降っている――



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 これはきっと罰なのだと思う。
 あの日の朝、私は、コタローが出て行くのを見過ごした。
 そしてお前に嘘をついた。あの子はまだ寝ているよと、遠征中のお前を騙そうとした。
 私は愚かだ。
 南国のあの島以前――コタローを監禁したときと、何ら変わってはいないメンタリティ。
 私は醜い。
 いつだって同じ酷いことをする。
 私は、コタローに、逃げられたと感じた。
 いつかの秘石を奪って逃げたお前と、姿が重なった。あのときの衝撃が、私には忘れられない。
 自分は逃げられて当然の人間なのだと、私は思った。昔も、今も。



 ――この世界の初めには、まず美しさがあって。
 私は自分の醜悪さを意識するとき、必ずその美しさを基準に、自らがどれぐらいそこからかけ離れているかを考える。
 美に対して、私は醜かった。
 そして愛とは、私にとっては美の権化だったから、私は自分自身の身に潜む愛が、信じられなかった。
 いつも、まがい物ではないかと疑った。
 いつもいつも、シンタロー、お前に対して愛を感じていながら、必ず危ぶんだ。
 いつもいつもいつも、側にいたいと思うのに。片時も離したくないと、抱きしめていたいと、焦がれるように感じているのに。
 愛していると呟くたびに、自分がわからなくなる。
 お前が愛しくてたまらなくなるたびに、私は自己嫌悪の淵に堕ち込んで行く。
 自分勝手に救われようとしているだけなのではないかと、お前は私の自己保存のための道具にすぎないのではないかと、自問する。
 喜ばせたいと思ったときもある。
 泣かせたいと思ったときもある。
 そしてあのとき――お前の命が失われたのではないかと、気も狂いそうになった。
 これは、愛していると、いうことなのだろうか。
 花を見れば、花を美しいと感じるお前を思い出す。
 あの子を見れば、あの子を可愛いと感じるお前を思い出す。
 これは、愛、なのか?
 愛とはもっと、輝かしい、一点の曇りもない尊いものであればよいのに。
 私などが、抱くこともできないような、そんな高みにあるものであれば、よかったのに。
 いっそ、愛さなければ、よかったのに。
 瞼の裏にいつも映るのは、あの記憶。
 シンタローが、自分を犠牲にして、私がコタローを救うことを望み、笑顔で落ちていった記憶。
 のがした指先、最後の笑顔。
 ああ、また、この二つが私を。いつだって、指先と笑顔なのだ。
 私の背は、ぞくりと震えた。
 指先と、笑顔。
 私の醜悪に対して、シンタローの行為は美しさそのものだった。私がまねなどできないような、自己犠牲。
 シンタロー、お前が私の美であるならば、私などが抱くこともできないような、そんな高みにあるものであれば、よかったのに。
 うつらうつらと、とりとめのない思考が、巡る。眠る私を通り過ぎ、また戻り、記憶が巡る。過去と現在が、熱に浮かされた私の中を、巡っていく――



 ――私の父親は、太陽のような人であった。
 ずば抜けた長身、優れた体格に口数の少ない雄雄しい気質であったが、長い遠征から帰還の際には、出迎える私たちに向かって輝くような笑顔をくれた。
 力強い。優しい。暖かい。限りのない愛情。
 言葉に尽くすことのできない幸福のかたちをした彼の笑顔。
 彼の部下たちが、けして彼は他所では笑うことはないのだと口を揃えて言うたびに、私はその笑顔を自慢に思い、彼の息子であるという誇りそのものだと感じていた。
 父は、戦場では不死身と言われたそうである。私はついにその姿を見ることはなかった。
 私の心に残る彼の姿は、いつまでも笑顔のまま、黄金の輝きの中に佇んでいる。



 今、私が及ばずながらも親の立場になってみれば、おそらく彼は子供たちの記憶に、自らを笑顔のままで残したかったのだろうと思う。
 いつ果てるともしれぬ軍人、そのすべてを統率する総帥という職にある親であれば、誰でも皆そう考える。
 私もかつてはそう――考えていた。
 小さな頃の私は、失敗してばかりだった。
『私の留守中は、おまえが家族を守るんだ』
 肩に置かれた熱い手と共に、かけられたその言葉は、私の幼い心の支柱となった。
 それからの私の胸には、常にこの言葉があった。
 どうしたらいいのかわからないとき。迷ったとき。寂しくてたまらないときには。この言葉を思い出し、明日は泣こう、明後日は泣こうと、悲しみを先送りにして、ついには泣かない子供になった。
 年端もゆかぬ子供のことであるから、父は私に長男としての心構えを説いただけであったろうし、万全の期待など抱いていたはずはなかったろう。
 家庭の維持など、子供一人の力でできるはずもない。実際は周囲の大人たちの手を借りなければ、とてもやっていけるものではなかったし、そのことは当時の私とて、わかっていたことだった。
 それでも幼い私は、様々なことを気に病んだ。双子が風邪をひくことをまるで自分の責任のように感じ、すぐ下の弟の情操教育にやっきになった。
 レシピを見て料理を覚え、父の好きなプティングにスパイスを入れ忘れたと落ち込み、双子の靴下の汚れを気にするあまりに、自分は左右逆の靴下を履いて、ルーザーに指摘されたりする始末。
 父の遠征中に、花壇のクレマチスや蔓薔薇を枯らしたといっては謝罪の手紙を書き、帰還中には、食事の際に双子のマナーが悪いと叱りつけ、その勢いで自分が皿を落として割ってしまったりした。
 父が亡くなってからは、私は徐々に失敗することを忘れた。
 いや、失敗はしていたのだろうが、それを意識しなくなっただけのかもしれない。
 最近になって、ふと思うことがある。
 父は、私の失敗こそを、愛していたのかもしれないと。



 ――追憶が、雨糸となってしたたり落ちる音を、私は窓越しに聞いていた。
 遠い日のことばかり、思い出す。
 そう、あれも、雨が窓に銀の縞模様を入れていた日のことだ……
 ハーレムとサービスが、仔猫を抱えてきたことがあった。
 庭塀の隅で力尽きていたのだという。どこからか迷い込んできたらしい。
 屋根付きのテラスで遊んでいて、最初にサービスが汚れた塊に気付き、ハーレムが飛び出して、雨の中で抱き上げた。
 猫は、ずぶぬれになった毛糸の鞠のように見えたが、鞠ではない証拠に、うっすらと背中が膨らんだり萎んだりしていた。
 息をしているのだと、その上下運動を眺めて、私は遅まきながらに気が付いた。
 私は動物は好きな方だったけれど、家庭を預かる者には厳然たる優先順位というものがあり、私にとっては突然湧き出てきた猫などよりも、濡れ鼠になった双子の風邪を心配する方が、やはり先だった。
 猫より鼠。
 その頃の私は、憧れであった父に家族を任されたという気負いばかりで、生きていたのだから。



 双子の衣服を脱がせて、熱いシャワーを浴びせながら、私は浴室で、この鞠を洗った。
 人差し指でそっと泥を落とし、洗面器に張ったぬるめの湯で毛をさすり、それから乾いたタオルで拭き取った。
 灰色だと思った鞠は、乾かせば白い毛玉であったことが判明した。
 暖かいココアを飲みながら、双子は私に向かって、この物体を家で飼うのだと主張した。私は困って、首を傾げる。
 すると視界の端に、居間の隅のソファで事態を遠望していたルーザーが、肩を竦めるのが見えた。
 やれやれです。
 声には出さないが、やけに優美な仕草でそう聞こえた。実に彼らしかった。



 すでに夜だったから、明日の朝に獣医を呼べばいいだろう。
 広い居間の隅に、タオルでとりあえずの寝床を作ってやってから。私は家裏の倉庫に向かう。
 物持ちよく仕舞ってあった、双子が数年前まで使っていた哺乳瓶――ハーレムなどは哺乳瓶離れがサービスより遅かったのだが、このことは、双子の間の激しいケンカの種だった――を、取り出してくる。一番小さなものを選んだ。
 仔猫の周りをうろうろしていたハーレムは、哺乳瓶を見ると目を見開き、それから照れたような顔をし、サービスは今はからかっていいような場面ではないと考えたのか、賢く黙っていた。
 人間用のミルクでは栄養が足りないのだろうが、今はこれで間に合わせるしかない。
 湯で薄め、人肌程度にさましたものを、瓶に注ぐ。こぽこぽという懐かしい音がする。
 部屋に甘い香りが漂った。双子が、小さな鼻を鳴らした。



 しかし仔猫は、哺乳瓶の乳首には見向きもしない。
 口に押し付ければ、力をようよう振り絞って、くしゃくしゃの顔を背けるほどで。ますます、鞠みたいだ。
 ゴムの匂いが、いけないのだろうか。私はゴムを柔らかくもみほぐして、白く薄い液体を指に滲ませながら、考える。
 それから、今度は猫の歯のないぺったりした口をこじ開けてから、乳首を捻じ込んだ。
 だが生き物は、自ら顎を動かす元気もないのか、ゴムをくわえたまま、目をつむっているのだった。
 お手上げだ。
 『困ったね』と、私は、心配そうな双子に向かって、言ったのだったか、どうだったか。
 とにかく仔猫から目を離した隙に、ちろりとざらついた感触がしたのだ。
 猫が、私のミルクに濡れた指先の方に、吸い付いていた。



 猫は、それからいくらかのミルクを舐めて、ミイ、と小さく、鳴いた。
 双子が、それはそれは嬉しそうに笑った。
 仔猫の体力が削がれるから、あまりベタベタ触ってはいけない、手は出していけないという私の言いつけをよく守り、二人とも、不自然なきおつけの体勢をして、にこにこ笑っていた。
 精一杯に首を伸ばして、覗き込んでいる。
 私はこの白い鞠に愛情を感じたのは、双子のきちんと腰の横に揃えた指先を、見たときだったのかもしれない。
 その夜、仔猫は息を引き取った。



 私は今でも、猫の力なく垂れた髭や、半開きになった白い眼、温度の失われていく気配を思い出すことができる。
 柔らかい毛皮が、粘土のように冷たくなって乾いていく様を、思い出すことができる。
 私の傍らでは、双子はもう眠っている。ダメだというのに、自室から居間に毛布を持ち出してきていて、それに仲良く包まって、すうすうと幸せな寝息をたてているのだった。
 普段は喧嘩しいのくせに、こんなときは呆れるくらいに仲が良い。明日は早くに起きて、一緒に獣医に会うのだと。張り切っていた彼ら。
 なんと説明すればいいのか。
 すると、ふ、ふ、と。寝息の合間に、ハーレムとサービス、どちらかがたてた笑い声が、聞こえたような気がして。
 私が思い出すことができるのは――目に映った、眠る双子の笑顔。夢の中で天に召された仔猫と遊んでいるのだろう、その笑顔。
 そして、私の背後からすっと伸びて、仔猫の半開きになった目蓋を下ろした、ルーザーの指先。
 ……猫が生きているときは、近付こうとはしなかった癖に。
 私がそう呟くと、手をハンカチーフで拭いながら、弟は。
 死んだら別です、生き物は嫌いですが、それは物です、と静かに呟いた。



 私にとって、死とは、いつも指先でめくられていく何者かであり、笑顔の裏に潜む暗闇だった。
 笑顔にぬくもり油断しきった心に、死は不意をついて、私に痛みを与える。
 そのうちに、痛みを痛みとして感じなくなるぐらいに。
 何度も何度も、麻痺してしまうほどに。
 幸福の先に、必ず死は存在する。



 そう、あのときも――
 父の太陽のような笑顔があった。
 私たち兄弟を抱きしめようとする強い腕。
 ねえ、父さん。
 僕たちは、いつも、あなたを待っているんです。早く帰ってきてと。
 ずっとずっと待って、やっと父さんが帰ってきてくれた。私たちの待つ場所へと、帰ってきてくれたんだ。
 父さん。父さん、僕の話を聞いて。僕、ちゃんとできていますか。弟たちは元気です。
 一緒にこうして、お出迎えしています。みんな、いい子です。
 金色に輝く長い髪、燃える炎の色の軍服、僕たちの誇りの父さん。
 ずっと、待っていました……
 ゆっくりと光が、近付いてくる。
 兄弟は、その燦然とした輝きに包まれる瞬間を、予期した。



 懐かしい指先が、私の肩を掠めた。私は息を飲む。
 父の優しい長い指が、描く軌跡を、私はずっと見ていた。
 その軌跡が私の肩を通り過ぎ、すぐ下の弟の髪を通り過ぎ、ハーレムの不思議そうな唇を通り過ぎ、サービスの見開かれた瞳を通り過ぎ、地に落ちるまでを、丹念に視線で追っていた。
 父の最期の姿を、見逃すことのないように、
 私の肩を指先が掠めた瞬間、私には父が死ぬのだということが、わかっていた。
 それはどうしようもない直感で、本能で、血で深く結ばれた者同士だけが感じることのできる、引き裂かれるという鈍痛だった。



 幸せの中に潜む不安。漫然として、おぼろげに生活を包む恐怖。
 それは私に、指先と優しい笑顔というかたちで、暗示をかける。
 愛なんて、一度得たら、失うものなんじゃないのか。
 ねえ、シンタロー。
 失うのが怖い。
 いつか、私はお前を置いて死ぬのだと思う。
 だから、いつも感じているよ、今だけは私を愛してほしい。
 今だけでいいから一瞬でいいから、私に、愛していると言って。
 どうしてこんなに私はお前を愛してるのだろうね。わからないよ。
 ただ、風の冷たい春の日に、愛を感じた。
 愛してなお、自分を疑い続けている。



 ――あれはそう、前夜式を終えた後。
 牧師が父の棺の前で聖書を読んで、神の導きと助けを口にしていた。
 その記憶を辿りながら、喪服を着た私は、三人の弟たちと一緒に身を寄せ合っている。
 賛美歌のメロディが、鼓膜の内で木霊していた。
 広間の壁に掲げられた十字架。十字架が見下ろす、棺。
 手向けられた花さえ余所余所しい。その内に眠る体。かつて父親だった肉塊。
 しんと静まり返った大理石の床、なだらかなその向こうには、軍服を纏う男たちが深刻な顔を突合わせている。
 左胸、その喪章の輝きが、鈍い。
 彼らは、何事かを相談しながら、私の方をちらちら眺めていた。
 注がれる視線を感じながら、私は俯き、弟たちの金髪を撫でる。
 運命は動き、予想もしなかった運命の頁がめくられた。
 これからの打算と駆け引き、大人たちの計略の道具になるということ、利用されるということ、諦念と恐怖。
 明日は葬儀だった。
 この日が最後なのだと、私は感じていた。
 葬儀を終えれば、私はこの雛鳥たちを残して、別世界へと向かわなければならないのだった。
 喪服の裾を掴むハーレムの小さな手、俯くサービスのやわらかな金髪、憔悴したルーザーのいつにも増して青白い頬。
 今は同じぬくもりの中にいる私たち兄弟。
 このぬくもりを守らなければならなかったから、私は旅立たねばならないのだ。
 さよなら、だ。私の少年時代も、終わる。



 私は、陽は必ず昇るものだと思い込んでいた。
 陽は沈めども、地の裏側をぐるりと回り込み、旅をし、必ずまた私たちの住む世界の地平線を、赤く染めてくれるのだと信じていた。
 私を輝かしい光で照らしてくれる、強い強いあの人が。
 大理石の白く冷たい部屋の、棺の中で。闇に包まれる、光が闇に呑み込まれる、そんなこと。
 想像なんて、できなかった。
 私は広間の隅で、もう一度、弟たちの体を抱きしめる。彼らはもう笑わない。泣き過ぎた目元が、痛々しい。
 子供のやわらかい肌、その体温を感じながら、目を瞑れば――
 輝きが失われる瞬間、父の笑顔、指先。
 脳裏に焼きついて、それは死の予兆として私に穿たれた刻印。
 私は怯えながらも、弟たちの小さな身体を抱きしめながらも、ただ、座っていることしかできないのだった。
 そう、いつでも座して待つことしかできない。無力ばかりを。
 やがて来る未来に漠然とした不安を抱きながら、乾いた心で待つことしかできないのだった。



 いつだって。数十年の時を経ても。
 ――目を開くと。
 赤い光の中で、シンタローが、空き缶を蹴っていた。
 カラカラと缶は不恰好に回転を繰り返しながら、転がっていく。
 私が、ベンチに座ったままなものだから。
 口を閉ざしているものだから。
 お前は怒って。少し離れた場所で。
 たった一人で、錆ついた鉄柵に体を凭せかけて、沈む夕陽を見ていた。
 海の見える港の公園、今日は珍しく早く仕事がひけたと、お前が言ったから。
 ここに一緒にやってきたのだけれど。
 折角の二人きりなのに、私たちのムードは最悪。
 気まずい空間は、水鳥たちが、小さな羽音をたてるばかり。



 沈む太陽。
 視界の中、お前の背中は逆光に縁取られ、どこか荘厳。転じて私の愚鈍。
 可愛い背中。お前の背中。
 気のない振りをしていても、お前が背後を意識していることを、私に教えてくれる背中。
 いつだってお前は。どうしてか、私を意識しているんだよね。全身の毛を逆立てる動物のように。
 やがて、黄金に墨を掃いたように黒髪が散って、ひとすじひとすじが光を掠めて、揺れて、くるりと背中が振り向き、もっと可愛い顔が私を見つめてくる。
 可愛い顔。お前の顔。
 私はうっとりとして、その顔に見惚れている。心が吸い付けられる。優しくされたいと感じる。
 シンタローはたまりかねたといった様子で、ぶっきらぼうに口を開く。
「…なあ、なんで黙ってんだよ」
 私はそれでも沈黙していた。
 じっと相手の可愛い顔を見ていた。
 彼の機嫌はますます悪化し、唇がみるみる尖って、それから、呆れたというように両手が振りかざされて。
「チッ」
 舌打ちの音と一緒に、彼は両手をぶんと勢いよく振り下ろす。
 両手を振り下ろした後の彼は、振り下ろす前よりも、少し肩が落ちていた。
 怒り顔が、困り顔になっていた。
 しばらく私を見つめて、夕陽の中に立ち尽くした後、お前は。
 私の隣に、座ったんだったね。



「……どうしたんだよ」
 ほら。こうやって、少し首をかしげて、聞いてくれるんだ。
 優しいよね。
 私が黙っていると、お前は優しい。
 だからだよ。
 優しくされたくて、黙ってる。
「なあ、なんか言えよ」
「……」
「なあ」
「……」
「なあったら」
「……」
「なんかあったのかよ」
 次第に強気のヴェールが剥がれていくお前。きつい眉が、下がっていく。
 眺めていると、ごめんね、可哀想になってくるほどに可愛いよ。
 何でもない素振りで、お前はいつも私に認められたくて、一生懸命なのだった。
 私を知りたいと、感じてくれているのだった。
 知ってる? 私は、お前のこと、可哀想だって思うことがある。
 よくそう思うよ。
 私に好かれて、可哀想だなって、感じている。
「なあ……」
 そろそろ、違う表情も見たくなったから。
 私はやっと口を開いたのだけれど。
「さっき、ケンカしたばかりだから」
 そう、平凡な答えを返したら。
「フ、フン」
 ちょっと安心したのを悟られたくないのか、お前は急いで鼻で笑って、他所を向いた。
 私たちの目の前で、赤い夕陽がゆっくりと沈んでいく。
 沈む光。輝き。明日の朝、またこの太陽に出会うことができるのだろうか。



「…ぎゅっとしていい?」
 私がそう言うと、お前は振り向いて、ギッと私を睨みつけた。
「ああ? っていうか、さっきのケンカはアンタが悪いんだぜ! まずそれを謝れよ!」
 さっきのケンカ。
 でも私は、喧嘩をしたことは覚えているけど、何についての喧嘩だったかは、まるで記憶してはいないのだった。
 私の脳裏に残るのは、いつもお前の表情ばかり。
 喧嘩する顔、怒っている顔、困っている顔。たくさんたくさん、覚えているよ。
 お前の顔は、私は永遠に忘れない。生きている限り、忘れない。
「まーた、だんまりかよ」
「ぎゅっとしていい?」
「アンタ、な。いい加減に」
「ぎゅっと、したい」
「……」
 今度はお前が黙った。口をへの字に曲げている。
 それを勝手に了承と受け取って、私は、彼の肩を抱き寄せた。
 最初に薄いセーターの手ざわりがして、それからすぐにお前の肉体の感触。
 少し痩せた気がする。無理もない。不眠不休で働いているのだから。



 私の代わりに、総帥になってくれたんだよね。忙しいんだよね。
 わずかの時間でも、私とこうして一緒にいてくれることが、嬉しいな。
 心細い落日を、一緒に見てくれるのが、楽しいな。
 抱きこまれたお前は、大人しかった。
 近くで見たお前の顔は、やはり可愛いと思う。
 頬のなめらかさがいいね。のぞきこむ私に、伏し目がちになる様子がいい。耳たぶのかたちが、素敵だと思う。
 お前の匂いがする。距離が近い。私はそれだけで、どうでもよくなってしまう。
 時間が止まる。揺れていた木の葉は囁きを止める。風は凪ぐ。
 陽は水平線で立ち止まり、水鳥ははばたきと呼吸を止め、海の波も凝固する。
 私の心臓は凍りつき、今このまま砕け散ってしまうのではないかと、気も触れそうになる。
 シンタローの体を感じると、私は、もうそれだけでよくなってしまう。
 お前さえいればいいと。
 私はお前が生まれてからすべての日々に、そう感じている。感じ続けているんだよ。
 お前を強く抱きしめる。私は、それだけで。
「…アンタが、悪いんだぜ」
 俯いていた彼が、私を見上げた。そう口を開いて、黒髪が揺れた瞬間。
 時間が、動き出した。
 芽吹きの季節にゆっくりと伸びをする獣のように、時間は無から動へと鼓動を始める。
 陽は世界の裏へと滑り出し、水鳥は羽を散らし、波は寄せる。
 私は、息をする。
 シンタロー。
 お前だけが、私の時間を操ることができるんだ。
 お前だけが。今ここにある私の生と死を、過去を、未来を。無自覚に、支配していく――



 私は黙って、お前のすぐ側にある指先を見つめる。
 どこか遠くに行きたいけれども、けして行くことのできないもどかしさ、お前の指の先。
 爪のかたちが、可愛いと思う。
 特別な手入れをしている訳ではないのに、その爪は、日々お前が触れる何事か、何者か、何物かに擦れて削れて、自然のままに綺麗なかたちになる。私にとって、美しいかたちになる。ひどく健全だ。太陽の香りがする。
 不思議だ。私たちの前で、この世界の夕陽は沈もうとしているのに。
 お前のすべてからは、太陽の香りがする。沈みゆくはずの光が、今ここにある。
 お前を想うとき、私はいつもその香りに包まれて。
 目を、閉じる。



「愛しているよ」
 自然に私の唇からは、言葉が漏れ出でて。
 そんなときはいつも。
 一瞬の間の後、お前の怒ったような、拗ねたような、怯えたような声が、返ってくるのだ。
「くっ……誤魔化すな!」
 そう、いつだって、私たちはこんな調子だ。誤魔化してなんか、いないのに。
 私はお前の隣で、目を瞑るのが好き。
 お前の気配を感じながら、お前の動きを想像するのが好き。
 私の想像の中のお前が、好き。
 勝手な男だろう、好きになってごめんね。



「……この、目なんか閉じやがって」
 腹立たしげな声と共に、瞼を閉じた私の目元に、熱い感触がした。
 それはお前の指先なのだろう。
 お前が、私の目元を、触っている。悪戯半分、本気半分で、私の目蓋を開こうとしているのだ。お前の優しいのは、爪で私が傷つかないように、指の腹でちゃんと触れてくるところ。
 指が触れてくる。私は、心の中で、呟いてみる。
 ああ、これはお前の人差し指、皮膚が固くなっている、これは薬指。少し長い、これは中指……
 ――熱い。
 お前の指先は、まるでそれ自体が感情をもっているかのように、熱い。お前の内に溢れる感情のように熱い。
 お前は情熱家。他の人間の前では、理想の自分を演じてはいるけれど。私の前ではそれを演じきれずに、最後は感情を露にしてしまう。怒る。泣く。笑う……
 熱い指先を通して、お前は世界に触れる。
 私はそのたびに、嫉妬せずにはいられない。



 私は、自分がお前の指先だったらいいのにと、考えることがある。
 お前の指先になって、お前の黒髪を撫でられたらいいのにと思う。
 お前が怒ったときに、お前がどうしたらいいのかわからないときに、お前が寂しいときに。
 いつだって、撫でてあげたいのに。そうして、お前が心地よさに瞳を閉じる瞬間を、私は何度でも味わうのさ。
 指先だったら、私はいつもお前と一緒にいられるのに。
 お前の生活すべてを助けることができるのに。
 御飯だって食べさせてあげられるよ。寝るときに、シーツを整えてあげることだってできるよ。読書のときにはページをめくってあげるし、退屈なときには、テーブルをこつこつ叩いて、気を紛らわしてあげることだってできる。
 私が、お前の指先だったらいいのに。
 そうしたら、お前が生を終えるまで、ずっと共にあることができるのに。



 お前の側にいられる時間は短すぎて、私はまたどうすればいいのかわからなくなる。
 ただ、こうして座って――
 やがて来る未来に漠然とした不安を抱きながら、乾いた心で待つことしかできない――のだろうか?
 私は運命を受け入れるだけなのだろうか。
 愛しいものが、いつか失われるまで。
「……親父」
 ようやく、私の目蓋をこじ開けるのは無理だと感じたらしいお前が、私を呼んだ。
 困ったような声音に、私はまた可哀想になって、ゆっくりと目を開ける。
 視界に、目を閉じている間に沈みきった夕陽の残した淡い光と、お前の黒い瞳が映る。
 世界の陰影。濃くなり薄くなり、やがて輪郭となる。
 お前と私の視線が、出会う。火花も散らず、電流も走らず、ただ穏やかに、瞳が出会う。
 言葉。
「チッ……やっと、目、開きやがって」
 私はその瞬間、お前が口元をほころばせるのだと気付いた。
 唇が、優しいかたちに弧を描いて。動く……
 シンタロー。いけない。
 私は咄嗟に。
 そのやわらかい唇を、塞いだ。
 口付ける。



 笑わないで。
 シンタロー。そんな風に、笑わないで。
 不安になるから。怖い。私はお前が怖い。可愛いから、怖い。
 私に、笑顔を見せないで。
 私はこの恐怖に打ち勝てない。暗示のもたらす不安に恐ろしくなる。
 お前が消えてしまいそうで、怖い。
 いつか失われるお前。
 だからお前に口付ける。
 びっくりして目を丸くしたお前は、笑うのを止めて、かわりに目を閉じた。
 黒い睫毛。夕暮れの斜光を弾いて、近付くたびに意外なほどに長い。
 寄せた眉毛で、一生懸命な表情になるお前。
 それで、いい。
 そう思いながら、私も目を閉じた。



 ――会いたいよ。シンタロー。
 どうしてお前は、今ここにいないのだろう。あの空の狭間に、落ちて行ったのだろう。
 やはりお前は、失われてしまったのだ。指先と笑顔の余韻を残して、消えてしまったのだ。
 これは罰なのか。
 私が悪い。そうだ、私のために、お前はいつも自己犠牲を。
 シンタロー……
 実の子じゃなくたって、実の子のように愛しい、恋人のように可愛い、愛人のように身も心も投げ出したい。
 私とお前の関係って、どんなだろうね。
 出会った頃は父と子で、いつの間にか恋愛に堕ちた。



 思い出す――
 出会った頃の、まだ小さなお前、大きな黒い目、すぐ熱を出すお前。
 私はお前に会いたくて、一生懸命だったよ。私だってお前に負けないぐらい、本当は一生懸命なんだよ。お前が聞いたら驚くくらいに、一生懸命なんだ。
 総帥の職務の傍ら、お前の側へ行く時間を作るとか、そんなことは当然として。ねえ、シンタロー。
 私はお前に好かれたくって、一生懸命だった。
 親子関係は、私には慣れない。
 かつてはそれを、呆気なく失い、その幸せな思い出を忘れようとしてきたから、私の頭はからっぽだった。
 だからお前にどうしてあげればいいのかが、わからなかった。
 初恋みたいに、どうすればいいのかわからなかったんだよ。ただ愛しかった。
 小さなお前を愛しく感じれば感じるほど、私は不安になった。
 たとえば、亡き父を考えるに。
 私は自然に父を愛していたし、父も私を愛してくれていたのだと思う。
 だが、私の場合は。
 同じようにお前が、父として私を愛してくれる自信など、なかった。



 私は人殺しだったから、人を殺すために遠い地に行き、人を殺して帰ってくることを繰り返していた。
 別に楽しくもなく辛くもなく、特に感慨もなく、単純作業を繰り返していた。
 ただ、人を殺すときだけは、お前のことは考えなかった気がするね。
 なんだか考えれば、罪のような気がして。
 お前、このことは覚えているのかな。お前とは、こんな記憶を話し合ったことはないけれど、覚えているのかな。
 幼いながらに、私が人殺しであることを感じ取っていたお前は、私が仕事へ行くときに、何でもない顔をすることをまず覚えた。
 私が、本当にこの子は何でもないのかな、と思ってしまうぐらいに、上手に興味のない振りをした。
 でも、あるとき。
 遠征中の私に、部下から連絡が入って、心配になった私は予定を切り上げて、お前の元に戻ったんだ。


 お前は一人きりの部屋で、ベッドの中、ぬいぐるみを抱きしめて、震えていた。
 怯えたように私を見上げて、それから必死に『何でもない顔』をしようと努力していた。
 部下の連絡によれば、お前は、突然『パパがしんじゃう』と泣きじゃくり、部屋に閉じこもってしまったのだというのに。
 今の今まで、泣いていたのじゃないのか。
 お前は精一杯の努力の後、赤い目をして、私に言った。
「……パパ、おかえり」
 子供の白い喉は、ゆっくりと上下して、あの仔猫の鞠のような体を思わせた。
 私が困って、頷くと。
 お前はまた努力して、だけど安堵の入り混じった、泣きはらした顔で。
 笑ったんだ。



 ……幸せであるのに。
 私は、お前の笑顔と指先を見るたびに、どうしようもない不安に襲われる。
 お前を想うとき、私はとても幸せな光に包まれる。
 そんなとき、二度と人を殺すまいと思う。
 私はお前だけではなく、すべての家族を愛しているのだと感じる。
 この世界を愛しているのだと考える。
 嘘いつわりのない真情が、私の胸に満ちる。
 だが、お前がここにいないと感じるとき。
 私は冷たい世界に取り残された一本の立ち木のように、世のはかなさを感じる。
 この世すべてが凍りつき、風もひからびて色彩を失い、尖った修羅の心ばかりが私を襲う。
 お前がいないのなら、すべてが無に還ればいいのだと感じる。
 私とお前だけがいれば、いいのだと感じる。
 すべてが無価値。無価値なものが存在するのは不快だったから、消えればいいのだ。
 世界はお前を境目に、愛と憎悪に変わる。
 こんな私の気持ちをお前が知ったら、怒るだろうって、わかっているのにね。
 ごめんね。
 だが私は、お前がそうして怒ってくれないと、この気持ちを抑えることはできないのだと思う。
 お前がいてくれなければ。私は。
 お前を失う予感、それは自分自身を失う予感と同義。
「シンちゃん、ゆびきりをしよう」
 幼いお前を前にした私は、その笑顔を見た後に、こう言ったのだっけね。
「……ゆび、きり」
 小さな口が不思議そうに動いて、黒い目が私を見上げた。
 私はベッドに腰掛け、お前の小さな体を抱き上げて、膝に乗せる。
「約束を、するんだよ。小指と小指で、約束を」
「ん……」
「パパ、必ず帰ってくるから」
「……」
「きっと帰ってくるから。お前が待っていてくれるなら。約束だよ」
「……」
 お前の顔が、くしゃりと歪んで、それから大粒の涙が、ぽろりと落ちた。
m
『修正箇所が思ったより多くて今日は帰れそうもないよ~(>_<) シンちゃんごめんね。お詫びに美味しいケーキ買って帰るからね!』

 シンタローの携帯にグンマからの絵文字顔文字満載なカラフルなメールが受信された。
 ほぼ同時刻に、ほぼ同じ内容の、しかしもっとシンプルなメールがキンタローからも届いた。
 同じ所に出張してるのだからどちらか片方からの連絡だけで充分なのに。
「律儀なこったな」
 携帯の画面を見ながらシンタローは一人ごちる。

 今日はシンタローの誕生日でキンタローの誕生日でもある。
 平日なので家族だけで祝おうという事になっており、開発課でのグンマのお守りとシンタローの補佐という二束の草鞋を履いているキンタローがスケジュールをやりくりしてくれて、おかげでシンタローは午後からかなりの時間を持て余していた。
 そのくせ自分達は帰れないだと。
「じゃあ今日はあいつと二人っきりで晩飯かよ。あーあ」
 誰もいないのに嫌そうに呟いてみる。
 別にマジックと二人きりで夕食を取るのが嫌なわけではないが、二人っきりで誕生日を祝われると思うと気が重いのだ。
 いい年して過剰にお祝いされてもな…と思う。
 キンタローがいてくれれば、祝いも分散される。
 グンマがいれば、更に場の雰囲気があっちこっちに行くから気楽なのだ。
 しかし、最近ガンマ団開発課は副業で家電や外部の工業製品の受注を引き受けていて、メインで機械担当をしているグンマもキンタローも少々忙しい。
 出張や出向が多くなっている。
 貴重な収入源なのでありがたいのだがな、とシンタローは思う。
 
 と、その時再び携帯が鳴る。

『ロケが終わらないので今日中に帰れない。なるべく早く帰ります。ごめんね。 パパより』

 マジックからだった。
 いつもは必ずハートマークのひとつやふたつくっついてくるのだが、シンプルな文面だという事は本気で申し訳なく思ってるのだろう。
 妙な本の出版やファンクラブ活動や講演会やテレビ出演や雑誌のインタビューなどの広報活動で、総帥だった時よりも忙しく走り回ってるのが最近のマジックだ。
 シンタローとしては煩くなくていいと思うが、馬鹿らしくなるのでテレビも雑誌も見ていない。
 だから本当は何をしてるのかはよくわからない。
 聞く気もないが、こうして忙しくされるとなんだか面白くない。
「なぁーにが“パパより”だ!」
 近くにあったソファーの上のクッションを殴って八つ当たりをしてから、キンタローとグンマにメールを返信する。
 なんとなく面白くないのでマジックには送らなかった。 

「なんだか腹減ったな。気楽に一人で晩飯でも食うかなー」 
 誕生日には必ずマジックが何日も煮込んだ特製カレーを作ってくれるのだが、今回は全く準備がされていない。
 一週間も前から留守をしていて、そういえば『帰って来てから作るから』とメールが来ていた…ような気がする。
 確か三日ほど前にカレー用の特選素材が配達されて来ていたはずだ。
 三日前には帰るつもりだったらしい。
 薄情な息子だ、とシンタローは我ながら思うが、マジックが「この日に帰る」と言った日に帰ってくる事は子供の頃から滅多にないので、期待しないだけだ。
 でも、シンタローの誕生日には何があっても必ず帰って来ていたのだ。
 そして必ずカレーを作ってくれていたのだ。
 まあいいけど。

「そうだ、カレーでも作るか。いつもあいつが作るから俺作った事ねぇんだよな」
 材料はタップリある。
 買い物に行くのも面倒くさいし、一人で外食するのも面倒だ。丁度いい。
 明日には帰ってくるであろう兄弟と従兄弟に、一晩寝かせた俺様特製カレーを食わせてやれるしな。
 …まあ、マジックに食わせてやってもいいし。
 シンタローは張り切って台所に立った。




「…何が足りないんだ?…」
 味見をしたシンタローは首を傾げる。
 自慢じゃないがシンタローだって料理の腕にはかなり自信がある。
 その自分が丁寧に作ったカレーが、なんだか美味しくない。
 何か味が足りないのだ。
「出来立てだからか?…いやしかし…」
 作ってすぐのカレーも何回も食べた。
 若いカレーだってそれなりに美味いものだ。
 バナナと林檎をミキサーにかけて入れてみる。玉ねぎをすりおろしてみる。潰したホールトマトとトマトジュースを足してみる。99%カカオチョコを溶かし込んでみる。コーヒーを入れる。ハチミツを入れる。生クリーム、ニンニク、バター、ヨーグルト、マスタードなんかも入れてみた。新たにスパイスを足してみたりもする。…しかしなんだか物足りない。
 作り始めた時は明るかった外が真っ暗になって、さすがに空腹には勝てず物足りないカレーで夕食を取った。
 ひどくお腹が空いてるはずなのに食がすすまない。
「不味い…」
 呟いて、半分も食べずに手が止まる。

 クッションを一発引っ叩いて、食べかけの皿を放置したままソファーに寝転がる。
 今頃キンタローはグンマに誕生日を祝ってもらいながら食事でもしてるのだろうか。
 ボーっとそんな事を考えてしまう。
 別に羨ましいわけではないが。
 ほんの12日ほど前、グンマの誕生日を祝ったばかりだ。
 もういい加減お祝い事はたくさんだと思ったはずだ。なのに。
 そういえば子供の頃、親父が留守の時よくカレーを作って置いていってくれていた。
 カレーは大好物だけど、その時のカレーもやっぱり不味かった。
 俺の作ったカレーはあの時のカレーの味だ、とシンタローはボンヤリ考える。
 
 あの時のカレーの味だ。
 でも別に俺は寂しいわけじゃない。
 仕事が忙しかったり、南の島に家出していたりで誕生日を祝ってもらえなかった日なんか何度もあった。
 ただ自分だけが時間を持て余しているのがつまらないのだ。
 いると思ってた奴らがいないのが拍子抜けしてしまってるのだ。

 そのままシンタローはフテ寝してしまった。



 カレーの香りがして、シンタローは目を覚ました。
 起き上がるとパサリと乾いた音。
 寝ていたシンタローの体に上着がかけてあったらしい。
 上等な生地の、派手なピンクの。
 時計を見ると午後11時を回っている。
 キッチンのテーブルで、マジックがカレーを食べていた。
 シンタローの作った、あの不味いカレー。
「あ、起きた?まだ夜はたまに冷えるからね、こんな所で寝ちゃダメだよ」
「あ、ああ…」
「食べてる途中で寝ちゃったの?そんなに疲れてたの?お行儀悪いよ、シンタロー」
「あ、ああ…」
「キンタローとグンちゃんからね、メールが来たんだよ。『僕達帰れないから早く帰ってあげて』って。だから急いで帰ってきたの。メール来なくても帰るつもりだったけど、今日に間に合って良かった」
「…ふうん」
「シンちゃんがメールの返事をくれないから、怒ってるのか寂しがってるのかと思ったよ」
「…阿呆か」
 なんだかうまく返事が出来ない。
 帰ってくるとは思わなかった。
 それより。
「それ、不味くねぇか。無理して食うなよ」
「シンちゃんが作ったんでしょ。なんで?凄く美味しいよ。シンちゃんのカレーもいいね」
 不味いよ…とシンタローはもう一度呟いて少し寝呆けた顔でマジックの顔とカレーを交互に見つめてると
「ちょっと待ってなさい。座ってて」
とマジックが立ち上がった。
 言われたとおりキッチンのテーブルの席についてボーっとしていると、やがて香ばしい音と香りがカレーの香りと共に立ち上がり、シンタローの前に皿が差し出された。
「お誕生日おめでとう。ご馳走じゃなくてすまないね。急いで帰ってきたからケーキも買えなかったよ」
「ケーキはグンマが買ってくるってよ」
「そう、良かった」

 差し出された皿にはシンタローの作ったカレー。カレーライス。
 そしてそこには焼きたてのハンバーグが添えられていた。
 ハンバーグカレー。
「さっきシンちゃんが寝てる間に仕込んでおいたんだよ。これならきっと美味しいよ?」
 ニコニコとした顔でマジックが言う。
「おい…あんた、俺をいくつだと思ってんだよ。子供じゃねぇんだから、こんな事しても不味いモンは不味いんだよ」
「シンちゃんは…さ、子供の頃お留守番してると大好きなカレーもあんまり食べないで残してたよね」
 そうだったっけか…とシンタローは思う。そうだったような気もする。
「いつも必ず『美味しくない。不味かったから』って言ってて、作って置いてあったカレーにほとんど手をつけてなかったんだよね。でもそこにハンバーグとかコロッケとかウィンナーソーセージとか添えてあげると『美味しい美味しい』って全部食べちゃうの、覚えてる?」
 シンタローの顔を覗き込むようにしながらマジックが話しかける。
「そんなの覚えてねぇよ」
 と小さい声で答えながら、そういえばそうだった、美味かった…ような気がするとシンタローは思い起こす。
 でもあれは子供だったから。
 子供はハンバーグだのコロッケだのウィンナーだのが好きなもんだ。
 騙される。
 俺はもう大人なのだ、こんなもんで騙されない…と言い返そうと思ったが、やっぱりうまく言葉が出ない。
 シンタローは空腹だったし、皿からはとてもいい匂いがしていたから。
「牛肉と玉ねぎが残ってて良かった。さあ、食べて。でも本当にこのカレーは美味しいよ」
 
「…美味い」
 思わずシンタローは口に出す。
 カレーは本当に美味しかった。
 さっき食べた時は何かが足りなくて仕方なかったのに。
 子供の頃留守番してた時のカレーと同じように不味かったのに。
「カレーに何か入れたのか?」
「何もいれてないよ、温めただけ」
 じゃあやっぱりハンバーグが味の決め手なのだろうか。
 肉汁…とか?
 本当の答えはわかってるような気がするが、それは考えたくない。
 だって俺はもういい大人なのだ。

「あっもう24日が終わっちゃう」
 慌てたようにマジックが立ち上がりワインを持って来た。
「明日はキンタローと一緒にもう一度お祝いしようね。でも今日は二人でお祝いだよ」
 ワインを注いだグラスをシンタローに手渡す。
「誕生日おめでとう、シンタロー。お前がこの世に生まれて来てくれた事に感謝するよ」
 

 なんだかマジックの言葉がひどく嬉しくて、カレーもハンバーグも美味くて
「…サンキュ…」
 珍しく素直に、小さい声でシンタローは答えてみた。


■終■
xcz
ここからはとても眺めが良い。

カーテンを手で避けて、外を眺めれば星空のような夜景が下に広がっている。

だからここをこの子の部屋にしたんだけれど、今はまだ、意味がないみたいだね。

強大な力を秘めた目を閉じて、眠り続けている私の息子、コタロー。

コタローの寝ているベッドの横に、私は腰を下ろした。

「良い夢を見ているといいのだけれど…」

規則正しい寝息を聞きながら、安心したような寝顔を見つめた。

引退してからは時間が許す限りこの部屋で過ごすように、意識的にそうしている。
コタローが心配でもあったし、目覚めたときに傍に居てやることも父親の務めの一つだと思ったからだ。

ただ、コタローと私の、二人だけの空間にいると、思わなくてもいいような考えばかりが浮かんでくる。


この子が目覚めたら、私はなんと声をかけるのだろう?

とか

私はこの子の父親に本当の意味でなれるんだろうか?

とか、そういった類の、延々と出口のない問いばかりが巡る。

そんな思いの中、ジッとこの子の、私と同じ色をした髪を見つめる。


許されないことをしてしまったのだと。
自分の弱さゆえに、コタローに大きな傷を残してしまったのだと。

しっかりと自覚している。

それだけに、この子が目覚めた時にどうしたら良いのか、何をしてあげたら良いのか、本当は不安でたまらない。
目が覚めなければいいと、何処かで願っている自分がいるようで恐ろしくなる。


「…やっぱここか」


ふと声が聞こえて、振り返るとそこにはシンタローの姿があった。

シンちゃんの気配も分からないほど、私はぼんやりしていたのだろうか?

「…シンちゃん…」

「…最近随分コタローの傍にいるよな…羨ましいぜー」

と眠るコタローの傍に近寄って、目を細めながら、髪の毛をくしゃと撫でるシンタロー。
愛しくて、愛しくて、たまらないといった顔を弟に向けるシンタローを見て、笑った振りをした。

ちゃんとこの子と向き合って、ちゃんと父親になると言った以上、弱音を吐く訳にはいかなかった。

「なあ、もう夕飯だけど…今日は俺が作ったから、食おうぜ」

もうそんな時間だったんだ。
時計を見れば、確かにもう、夕食の時間で。

「シンちゃん、お仕事終わってからご飯の支度もしたの?言ってくれれば…」

「いーんだよ。今日は。行こうぜ…コタロー、またあとで来るからな~♪」

名残惜しそうにコタローに振り返ったシンタローに続いて、コタローの眠る部屋を出た。

コートを靡かせながら、先を歩くシンタローの後を追うように、ダイニングルームへと向かう。

いいから座ってろ、と言われ渋々席に着いて待つ。

ああ、シンちゃんはカレーを作ったんだ…
温めなおしているのだろう、スパイスの香りがキッチンから漂う。

2つお皿を持って、こちらに向かってくるシンタローが見えて、笑みを向ける。


「アンタのカレーよりは美味くないと思うが…まぁ、食えば」

そう言って、シンちゃんは無造作に私の前にカレーの皿を置いた。
私の前の席に腰を下ろす。

「何言ってるんだい?パパにとって一番美味しいのはシンちゃんの作ったカレーに決まってるよ?」

はしゃいでそう言っても、いつものようにシンタローは溜息を吐くでも、怒るでも、呆れるでもなくて。

「…コタローがカレー作ったら同じこと言ってやれよ」

シンタローの言葉には返事をせずに、カレーを口に運んだ。

「美味しいよ、シンちゃん」

そういって、カレーを一口、二口と食べていく。

黙って、食べ進めて、お皿の残りがあとちょっとといった所で、シンちゃんが口を開いた。

「…いいんじゃねぇの…カレー作ってやれば」

「…え?」

「コタローに…さ」

…この子は何を言ってるんだろう?

私が相当不思議そうな顔をしていたのだろう、あんまり言いたくなさそうではあったが、シンタローは更に言葉を続けた。


「何してやれるかとか、考えてるように見えたぜ、さっき…だから。カレー作ってやれよ。アンタのカレー…美味いからさ」



ああ、お前はいつも、どうして私の欲しい言葉が分かるんだろう?

私のことなんて、興味ないって顔をして、肝心な所ではちゃんとこうして、教えてくれる。

そんなお前にいつも、こうして何度も救われる。


家族なんて、同じ時間を沢山積み重ねていって出来るもんだろ、焦ることないんじゃねぇの?

ボソリと呟いて、視線を逸らしたシンタロー。



うん、そうだね、私達、皆で家族になろうね。



シンタローを真っ直ぐ見つめてそう言って、ご馳走様と手を合わせて、微笑んだ。
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