まさか――――――。
誰もそんなことは予想にもしなかった。
苦しげに抑えられた喉。
唇から零れた赤い液体。
崩れ落ちる身体。
異変は即座に皆が知る。
けれど、手遅れだった。
何も出来なかった。
彼に触れた時、それを実感するしかなかった。
わずかな時で、永遠に失ってしまったのだ。
――――――彼はもう、二度と目は覚まさない。
「シンタローはん」
アラシヤマは、白いシーツの上に横たわるシンタローの前に立った。
黒髪に縁取られた精悍な顔立ち。気の強さを示す眉。意思の強さを表す唇。
どれも自分にとっては、見知ったものがそこにある。
けれど、唯一見ることができないのは、その固く閉ざされた瞼の奥に存在する漆黒の輝きだった。
そこにはもうあの輝きはなく、二度と見ることはできない。
「シンタローはん」
大気を微かに振るわせるほどの呼びかけ。
それでも、シンと静まり返った部屋では、躊躇うほどよく通る。
誰もいない部屋のようだった。
ここには、自分の他に、彼も存在しているというのに、それを感じさせてくれないのだ。
それが当然なのだとは、思いたくはない。
「シンタローはん」
何度呼びかけても、相手は、反応を返さない。
わかっていても、呼びかけずにはいられない。
痛みをこらえるように唇を軽く噛むと、アラシヤマは、彼に向かって手を伸ばした。
穏やかな寝顔のそれに触れる。
その輪郭を確かめるように、指先で、ゆっくりとなぞる。
その指先に触れる冷たさが、言いようのない憤りを覚えた。
こんな冷たさなんて、自分は認めない。
人を拒絶するほどの冷たさなど、許せない。
もしも可能ならば、自身の熱を全て彼に移してもよかった。
それでもいいから、彼の中の温もりを返して欲しかった。
ついさっきまでは、確かに彼の中にもあったものなのだから。
「なして…?」
幾度となく呟かれた言葉。
どうして、こんなことになったのだろうか。
わかっていても。分かりたくはなかった。
彼は、毒に倒れたのだ。
誰にも倒されないと誰もが信じきっていた彼は、あっさりと敵対する者の手が盛った毒を飲み、その命を果てた。
「わてがいたのに―――――」
そこには、アラシヤマもいた。
彼の親族もいた。
彼の仲間もいた。
それなのに、誰もがいる目の前で、彼は倒れた。
誰も何もできぬまま、彼は、二度と起き上がってはくれなかった。
強いと呼ばれる人々がそこに集っていても、誰も彼を助けることはできなかったのである。
「あんまりどすわ」
指先が、唇に触れた。
何度も触れたことのあるそれ。
ひかれるように、自身の唇をよせた。
冷たい口付け。
もれる吐息。
だが、相手からの呼吸は感じられなかった。
「白雪姫なら、ここでお目覚めどすえ? シンタローはん」
祈るようにもう一度唇を寄せるが、相手が再び呼吸し始めることはない。
何度口付けをしようとも、固く閉じられた唇からは、何も零れてこない。
『毒リンゴを食べたお姫様は、王子様のキスで目を覚ましました』
それは、御伽噺でしかないのだ。
現実は、そこにある。
こんなにもあっさり行くとは思わなかった。
こんなにも簡単に奪われるとは思わなかった。
「…………目を開けてくれなはれ」
ポトリ。
白い肌に、水滴が落ちる。
ポトリ…ポトリ。
一つ、二つ。
それは、冷たい頬に落ち、すべり落ちていく。
まるで、彼が流している涙のようだ。
「泣きたいのはわての方どす」
実際泣いているのは自分だが。
そうでも思わなければ、やりきれない。
何も言わずに、言えずに、相手は逝ったのだ。
今、何を思っているのかなど、自分には想像することはできても、本心を悟ることはできない。
「シンタローはん」
頬に手を滑らせ、自分の涙で濡れたそれを手でぬぐいとる。
「シンタローはん」
もう二度と応えてはくれない。
どれほど叫んでも、相手は何も言ってくれはしない。
「シンタローはん」
現世(ここ)にいる限り、彼とは出会うことはない。
自分を置いて、彼はもう逝ってしまったのだ。
「酷すぎますわ」
一緒にいると。いつまでも傍にいると誓ったのは、遠い昔の話ではない。
なのに、相手は先にいってしまった。
自分を置いてきぼりにしたまま。
「約束は守りますえ?」
ならば、これからすることは決まっている。
いってしまったのならば、追いかけていけばいい。
自分から、彼の元へ行けばいい。
きっと彼も待っていてくれているはずだ。
アラシヤマは、晴れやかに微笑んだ。
「―――――――待っておくんなはれ」
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「我慢するのもええ加減にしておくれなはれ」
「…………関係ねえだろ、お前には」
「せやけど…」
躊躇いがちにアラシヤマの手が、目の前にいるシンタローに向かって伸びる。
だが、その手を一瞬睨みつけると、シンタローは、振り払うように、アラシヤマに背中を向けた。
「お前には関係ない」
そのまま、振り返らずに、キッパリ拒絶の言葉を吐かれる。
全てを拒否する態度。
アラシヤマは、行き場の無くなった自分の手を眺め、仕方なくそれを元に戻すと、向けられた背中に視線を向けた。
自分と変わらない体格と広い背中。どうみても逞しい男の背中だ。
それでもそれを愛しいと感じるのは、自分が恋という病にわずらっているためだろうか。
けれど、今はそんなことはどうでもいい。
ただ、まるでヤマアラシのようにトゲを出して自分を威嚇しているかのように見えるその背中を、アラシヤマは、やんわりと言葉を向けた。
「――――シンタローはん。ほんまにそう思うとりますの?」
関係ないと、その一言で、自分をそう跳ね除けるのだろうか。
確かに、それは自分とは関係ないことだった。
総帥として、彼の責任であり、負うべき任務でもあった。そこに、自分が介入することは許されてない。それでも、全てを彼が背負う必要もないはずだった。実際の仕事面では無理でも、心情的に自分に頼ることは、決して許されないことではない。
彼の意に添わない、それでもやらなければいけなかった嫌な仕事をした時に、その気持ちを少しばかり吐露したところで誰が、彼を攻めるというのだろうか。
なのに、一度たりとも彼は、そんな弱音を吐いたことはなかった。ずっと……どれほど願っても、彼は自分の内に全てを押し込んで、なんでもないフリをする。
「ああ、そうだ」
自分の思いなど気づかずに、彼は、トゲを含んだ冷たい言葉で返してくる。
傍に近づけさせないように、必死でトゲをむき出し、距離を置こうとしているのが分かる。
その頑固な性格や意地っ張りな性格を嫌いではない。けれど、今はその性格が歯がゆさを覚える。
なぜ、自分にまでそのトゲを向けるのか。
「わての存在なんてその程度ですのん?」
「……………」
哀しくなる。
自分が必要とされてない気がして。
自分の存在すらも否定される気がして。
なんのために、自分がここにいると思っているのだろう。
「わてがシンタローはんを心配するのもいけへんといいますの?」
「………………」
「また我慢する」
何か言いたいことがあるのだろうに、黙って背中を見せるだけだ。
小さな溜息をこれみよがしについて見せるが、反応は何もない。
今日は、かなりの頑固を見せてくれる。
頑なな相手の態度はくずれそうになかった。
それが必死の虚勢だとしても、自分にはどうしようもなかった。
そのトゲトゲの背中を眺めることしかできなくて、アラシヤマは、切なさをにじませ瞳を緩ませた。
「シンタローはん。もう、ええどす」
苦い笑みを一つ浮かべると、その背中に、そう言い放った。
その台詞とともに、一歩、シンタローの傍から離れる。
(もう、ええ…か)
頑張ってトゲを出す姿は、見ているこちらも痛い。
それならばいっそ彼の望むどおりにして、楽にしてあげようとすら思えるほど。
「わてが必要でないといわはるんなら…………もう、ええどす」
突き放すような声。
たぶん、こんな風に言うのは、彼と出会ってからは、初めてのことだろう。相手の方からは何度もあったけれど、自分からは、彼から離れようとしたのは初めてのことだ。
けれど、そう決意したら、躊躇いはなかった。
靴音を響かせ、後ろに下がる。
彼の背中がその音を聞いて、震えた。
けれど、振り返りもしなかった。何の言葉も言わない。
本当にその我慢強さには呆れてしまう。
それが彼なのだと言い切ってしまえば、それで終わりなのだけれど、少しだけ自分には違うのではないかと期待をしてしまっていた。
でも、彼は他の人と変わらぬ態度で自分に接する。
それならば、これも仕方ない結果であった。
「シンタローはん。さいなら…」
そう呟くとアラシヤマは、シンタローに背中を向けて歩いていった。
後ろは一度も振り返らなかった。
けれど、相手も振り返る気配は見せてくれなかった。
胸を直接つかまれるような痛みに耐えながら、アラシヤマはシンタローに別れを告げた。
ポタリ。
シンタローの足元に雫の跡がつくられた。
それは一つだけではなかった。
ポタリ。ポタリ。ポタリ。
断続に落ちる雫。
一つの点が大きな沁みになって床に広がっていく。けれど、シンタローはその場から動かなかった。
じっと何かに耐えるように、その場に立ち尽くす。
両側の手が握り拳をつくり固く握られる。それが、細かに震えていた。
ゆっくりと唇が開いた。小さくわななく。
「ア………っ」
何かを叫ぶように声がこぼれたが、すぐにそれを飲み込むように閉じられた。
そして、閉じた唇が開かないように、きつくそれを噛みしめた。血がにじんでも緩むこともなく、それを噛みしめ続ける。
瞳からこぼれる水は、まだ止まらなかった。
全てを押し殺したまま、俯いた頭を小さく振る。
耐えられない何かを必死になって耐えるように。
それでも、決して後ろを振り返ることはなかった。
「―――――――負けましたわ、あんさんには」
シンタローは、行き成り暖かなぬくもりに包まれた。
「っ!?」
驚いて顔を上げれば、柔らかな笑みを浮かべたアラシヤマの顔が目の前にあった。
信じられないといった表情のシンタローに、アラシヤマの目がいさめるように、細められた。
「もう、ええどす。わての負けどすから。もう…こんなことはやめてくれなはれ」
アラシヤマは、シンタローの固く閉ざされ、血を滲ませる唇に指を這わした。
「…っ」
その指先が傷口に当たり、痛みに口を開くと、すかさずその唇がふさがれた。
指ではなく、それよりも暖かく柔らかなものに。
それは、激しいものではなくて、優しい口付けだった。癒すような口付け。その最後に、そっと傷口を舐められた。
それも離れ、目を開くと悲痛な表情のアラシヤマの顔が間近にあった。
「自分で自分自身を傷つけるのはやめなはれ。あんさんだけでなく、見ているこっちも痛いですわ」
「な………んで」
信じられないといった顔を向ける相手に、アラシヤマは小さな笑みを浮かべてみせた。
「あんさんも意外に阿呆どすなあ。わてが、あんさんを見限ることなんてあるはずないでっしゃろ? 帰ったのはただのフリどす」
別に意地悪をするつもりはなかった。
ただ、そこにいれば、彼はトゲを出した背中しか向けてくれないことがわかったから、アラシヤマは、いったんそこから離れたのだ。
離れるフリをしただけのこと。
けれど、こっそり中を覗いても、こちらを振り返ることもなく、その場で耐え続けるシンタローを眺めることしかできなくて、アラシヤマは、降参するしかなかった。
ここまでされれば、自分が折れない限りどうしようもないだろう。
「っ…」
シンタローの唇が震えた。
その顔が一瞬泣きそうにゆがみ、その手が、アラシヤマの服を握り締める。
俯き、何かに耐えるように震えるその身体に、アラシヤマは優しく包み込んだ。
「シンタローはん……我慢したければ、我慢すればいいですわ」
素直に自分の気持ちを放出できないというならば、無理をさせるわけにはいかなかった。
それでも、自分にできることは、やってあげたかった。
真正面から、彼を見つめ、その身体を抱きしめる。そうして、手を背中に向けた。
トゲのある背中。
けれど、前から抱きしめれば、そのトゲで傷つけることもできない。
どれほど拒絶しようとも、その身体を抱きしめることが出来る。
それは、比喩でしかないのだけれど、こうして、拒絶を見せないところを見ると、案外正解だったのかもしれない。
そう言えば、自分はちゃんと彼の目の前で、告げたことはなかった。
いつも、向けられた背中に言葉を投げつけただけだった。
「けど、哀しい時は、ちゃんと泣きなはれ。そうせんと、いつか身体だけでなく、心も壊れてしまいますわ」
一体何度、どのくらい、彼は我慢し続けたのだろうか。
一人で、それに耐えることを覚えた彼。誰にも、その辛さや悲しみをぶつけないようにと、必死にでトゲを出して相手を拒絶していた。
けれど、もうそれをする必要はないのだ。少なくても、自分には。耐える必要はない。
ヤマアラシのようなトゲを出していた彼の背中を優しく撫でる。
何度も何度も、もうそれは必要ないのだと教え込むように。
融通のきかない彼には、時間をかけないと無理なのだと悟ってしまったから。
「わてには関係ないと言うなら、別に何を言ってもかまいはしまへんやろ? 愚痴も文句も、関係ないわてに八つ当たりしなはれ。わてならかまいまへんから」
だから、自分を必要として欲しい。
切なる思いを込めて、アラシヤマは告げた。
ギュッと再び服を掴まれる感触が伝わってきた。
いつしか、彼の瞳にあたる部分に触れていた服が熱い雫で濡れだした。
「アラ…シヤマ」
小さな嗚咽に混ざりながら、自分を呼ぶ声。
「はい」
返事をすれば、自分の背中に回していた彼の腕の力が強くなる。
その存在を確かめるために。
「ここに…いろ」
命令的なのに、弱々しい口調。
それが切なくて、愛しくて、何よりも恋しい存在をアラシヤマはしっかりと抱きしめ、誓いを口にした。
「―――はい。ずっと、お傍におりますわ」
傍らの温もり
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パチリ。
目が覚める。
時計を見ると深夜2時。まだ眠っていい時間だ。
明日も早いとはいえ、まだ4時間は眠れる。
そう思いつつ、ベットの中でごろごろと動いた。
一人用にしては大きすぎるベットの中で、何かを探るように手を動かす。だが、そこには何もなかった。
ただ、冷たいシーツの感触だけが伝わってくる。
それでようやく気づいたように、その手を止めた。
「何やってんだ、俺は…」
無意識の行動に溜息をついてシンタローは、身を起こした。
眠気が飛んでしまっていた。
そのままじっとしていても眠れそうになくて、服を着込むと外に出た。
ガンマ団本部とは別に作られた棟は、ガンマ団に勤務している人達の宿舎の一つである。その中でも幹部以上の団員のみに与えられる場所にシンタローは寝起きしている。
一応自宅もあるのだが、そちらの方にはあまり帰っていない。理由は簡単だ。帰れば、あの親父が引っ付いてくるからである。仕事で疲れているのに、それをされては休まる暇がないのだ。
シンタローは下にではなく、屋上にあがった。
別に理由はない。あるとすれば、下へ行くよりも上の方が近かったからだ。
最上階丸ごと与えられた総帥用の部屋から屋上は直ぐである。
屋上に出ると建物の端に移動する。そこには、転落防止のためにシンタローの胸のあたりまでの高さの柵が巡らされている。
シンタローはそこに腕を置くと、体重をかけるよにもたれかかった。
季節は初夏。
屋上にあがると生温さと湿気を帯びた風が、シンタローの長い髪に絡まりつつ通り過ぎる。
梅雨に入っており、最近ぐずついた天気ばかりで、昨日も一日中雨が降っていた。だが、上を見上げたシンタローは、思わず溜息をついた。
「へぇ、凄い」
深夜の上、雨上がりのせいだろうか、珍しく澄んだ星空が頭上に展開されていた。
それは、久しぶりにみる星空だった。
「でも、あそこで見た星空の方が凄かったよな」
シンタローは、懐かしむように視線を細めた。
あそこ――――それは、シンタローにとって大切な場所――――パプワ島のことだ。
人工的な光が一切ない島は夜がくれば完全な闇が覆う。そこから見上げた星空は、本当に降ってくるような、という表現が似合うほどの無数の星々が見えた。
シンタローは、幾度となくその星空を見上げ、そして眠りについた。
パプワやチャッピーと一緒に暖かなぬくもりにつつまれて…。
仰向いていた視線を今度は下に向けた。自分の手を見つめる。
「探して…しまってた」
寝ぼけた自分がベットでさぐっていたのは、その手に触れる暖かなぬくもりだった。
あの島では当たり前に触れられた体温。
だが、今は当然あるはずがなかった。
ここはパプワ島ではない。
あの温もりがあるはずなかった。
「眠れねえ」
無意識のうちに、あの温もりで自分は眠りについていたのだ。
気づいてしまったら、もう駄目だった。
自分は眠れない。
温もりが傍にないと眠りにつけない…。
「シンタローはん?」
突然背後から聞こえてきた声に、シンタローは慌てて振り返った。
「アラシヤマ…なんでここに?」
「はあ。ちょっと寝付けられへんので風にあたろうかと思うて。シンタローはんこそ、どうしてここにいるんどすか?」
入り口近くにいたアラシヤマは、そういいながらこちらに近づいてくる。
「俺も……眠れなかったんだよ」
「そうどすか」
シンタローの直ぐ隣に立ったアラシヤマは、同じように柵にもたれかかった。それから、少し前のシンタローと同じように頭上を見上げた。
「綺麗な星空どすなあ」
「ああ」
「せやけど、ここの星空より、パプワ島で見た星空の方がずっと綺麗だった気がしますわ」
「ああ」
天上を仰ぐアラシヤマの隣で、シンタローは前を向いたまま、生返事をする。
ちらりと視線を走らせるとぼんやりした表情で、前を見つめるシンタローの横顔が見える。
(眠たいんやろうか?)
それならば、こんなところにいないでさっさと部屋に戻った方がいいと思うのだが。
それでも、そう言う気配も見せず、さりとて綺麗な星空を見上げもしないシンタローに訝しげに思いつつ、アラシヤマはまた、声をかけた。
「シンタローはん?」
「ああ」
「いい天気どすなあ」
「ああ」
「わてのこと好きでっしゃろ?」
「いーや」
「………なんで、そこだけ否定しますのん」
聞いてないと思ったのだが、一応耳には入れていたようである。
ちょっとだけ、嘘だと思っても聞いて頷いて欲しかった質問をあっさりと否定され、落ち込みが入る。
しかし、相手の方も様子がおかしかった。人が眠りにつく深夜だからというのもあるとは思うが、どことなく空ろな様子を見せる。
時折身体が船をこぐように揺れるのを見て、アラシヤマは眉をひそめた。
「シンタローはん? どうしたんどすか。眠いなら、部屋に戻った方がよろしゅうおますが」
「眠れない……」
シンタローは、億劫げに口を開きながらそう告げる。
眠れるはずがない。帰っても温もりが傍にないのだから。
けれど、なぜか眠気は訪れていた。
もたれかけていた腕にさらに体重がかかる。
「はあ。でも…」
困ったような声が耳元で聞こえてくる。
けれど、目を開けてられなくなって、シンタローは目を閉じる。
「部屋に戻ったら眠れない」
一人ぼっちのあの部屋にいたら、また自分の目はさえてくるだろう。
しかし、確かに今は、眠たかった。
ここには、温もりがあるからだ。
直ぐ傍に、暖かな体温が触れている。それはわずかなものだったが、それでも自分には心地良くて、眠りを誘う。
小さくあくびをすれば、アラシヤマに見咎められた。
「ここなら寝むれますのん?」
「んんっ」
違うと返事をしようとしたが、くぐもった声にしかならなかった。
すでに思考能力は働いてはいない。あくびがまたこぼれた。
眠くならないはずはないのだ。激務をこなしている自分だ。眠気がおとずれさえすれば、すぐに身体は深い眠りに入ろうとしていく。
「シンタローはん。もう部屋に戻った方がいいですわ。こんなところで眠りはったら風邪引きますえ」
どう見ても眠る態勢のシンタローに声をかける。
「………………」
だが、今度は返事がなかった。
「シンタローはん?」
首を傾げつつ、アラシヤマは、そっとシンタローの肩に置いた。
そのとたん、その身体が驚くほど簡単に傾いだ。
慌ててそれを抱きとめ、自分の身体にもたれさせる。
「なんやの、このお人は。もう寝てはりますやん」
覗いて見れば完全に熟睡状態のシンタローがいた。
軽く強請ってみるが、起きる気配はまったくない。
ガンマ団総帥にしては、あまりにも豪快な眠りっぷりであった。
「こんなに無防備でどないするんやろ」
呆れたように呟きながらも、そのまま放置することなどできるはずはなく、アラシヤマはその身体を抱え上げると、屋上を後にした。
「やれやれですわ」
アラシヤマは抱えてたシンタローをベットの上に寝かせた。
ここは自分に与えられた部屋の寝室である。
最初は当然総帥の部屋に行ったのだが、当然ながらしっかりとロックされており、開けるためのパスワードも知らないために、仕方なく自分の部屋に運んだのだ。
「わてはソファーにでも寝るしかありまへんな」
シングルサイズのそれには大人一人が寝てしまえば、後はあまりスペースはない。
仕方なく、ソファーの置いてあるリビングの方へ移動しようとしたアラシヤマは、けれど、その足を止めた。
「んっ」
その前に、シンタローが小さなうめき声をあげながら、無意識のように手を動かし、触れたアラシヤマの腕を掴んだのである。それだけならばまだしも、アラシヤマに触れたとたん、行き成り強い力でひっぱった。
「シンタローはんっ!?」
突然のことでバランスを崩したアラシヤマは、当然のようにベットの上に転がった。
もっとも、とっさに空いている腕を突き出したために、どうにか寝ているシンタローの上に落ちることだけは免れる。
それでも事態はそれほどよくなったわけではなかった。
「なんですのん?」
真上からシンタローを見下ろすはめになったアラシヤマは、困惑げに自分の腕を見た。
まだ、手は掴まれたままだ。
しかも、かなりしっかりと握られていて、離すのには苦労しそうだった。
自分の今の姿を省みて、アラシヤマは苦笑する。
「ふう。こんなんあのマジック様にでも見られたら、良くて減給へたすれば、抹殺されますわ」
どう見ても、今の状況は、自分がシンタローの寝込みを襲っている姿にしか見えないのである。息子を異常なまでに溺愛しているあのマジックが見れば、間違いなく自分の運命は最後にしか思えなかった。
それでも無理やり起こしてまでその手を振り払えないのは、目の前の寝顔が無防備すぎるからだ。
安心しきった子供のように眠られてしまえば、起こすのも忍びなく感じる。
「せやけど、この態勢はキツイしどうにかせなあかんやろうな」
とりあえず掴まれた手はそのままに、そろそろと動かし、ベットの上から降りようとしたアラシヤマだが、その気配に気づいたのか、今度は、もう一方の手がアラシヤマを掴んだ。
「うわっ」
またもや不意をつかれる。
その手は、アラシヤマの首に回り、そのままぐぃっと引き寄せられた。眠っているためか手加減のない凄い力だ。
今度は、なし崩しのままシンタローの胸の中に抱きこまれてしまっていた。
「シンタローはん。ちょっと、起きてくれなはれっ!!」
さすがにこれはまずいと抗議の声を上げたアラシヤマに、けれど返ってきたのは、完全に寝ぼけた声だった。
「こらパプワ。暴れないで、大人しく寝てろっ」
そう言うと、さらに、アラシヤマの背中をぽんぽんと宥めるように叩く。
「なんですって?」
その寝言に思わず声を上げるが、相手は再び眠りについていた。
アラシヤマはしっかりと抱きしめたままに。
そのままたっぷり一分ほどその状況にいて、アラシヤマはようやく口を開いた。
「………もしかして、わてをパプワはんと思うとりますの?」
もちろん返事はない。
しっかりと抱き込まれたまま、アラシヤマが出来ることと言えばじっとしているだけだ。
離してくれる気配が全然ないのだからしかたない。
「あんさん、実は思いっきり寂しがり屋でしたんやなあ」
こうして傍にいるとよくわかる。
シンタローは、今までに見たこともないほど、安心した表情で眠っていた。
士官学校の時代でも、総帥である今も、一度としてそんな表情は、見たこともない。
自分が覚えているのは、どこか寂しげな彼の顔。
それでも、彼の周りに人が絶えたことはない。
「一人ぼっちにはあんまりなれてないんどすな」
眠れないと言っていたくせに、自分が傍にいたとたんに眠むってしまったのは、たぶん、そんな理由だろう。
推測でしかないが、それでもあの寝言とその後の行動で確信がついた。
自分のことをパプワだと思っているのだろう彼は、しっかりとその温もりを腕に抱きしめていた。
眠れないのだと、一人屋上にいたくせに、この眠りっぷりを見ればわかる。
人の温もりが恋しくて、欲しくて、眠れなかったのだ、彼は。
「それじゃあ、しょうがありまへんなあ。今日は、このままでいましょうか。………朝が恐ろしいことになりそうやけど」
たぶん、彼は今晩のことを覚えてないだろう。
そうなれば、目覚めた時、この状況では彼がパニクるのも想像がつく。なにせ、自分は、彼に愛の告白をこの間したばかりなのだから。
もっとも、即効断られてしまったが。
「そやけど……ちょっとは脈ありと見てもええかもしれへんなあ」
人肌が恋しいとはいえ、そうそう人前で簡単に眠りにつく人ではない。
それでも、こうも簡単に無防備に眠りについてくれたのは、少なくても信用はされていると見てもいいのではないだろうか。
「まあ、いいどす。答えはまた後からでも出しましょう」
そろそろ自分も眠くなってきた。
思考能力も危ぶまれてきたし、ここは眠りに身を任せた方がよさそうだった。
「おやすみどす。シンタローはん」
少々窮屈ではあるが、アラシヤマも気持ちのいい温もりに包まれながら、眠りについた。
明朝。
ズドォーン!
突如として、幹部の宿舎である建物の一角が吹っ飛んでいた。
― 蛇 足 ―
(これは一体どういうことだ?)
シンタローは朝からつきつけられた信じられない現実に対応しきれずに、何度もそれを見つめていた。
自分の腕の中にいるアラシヤマの存在を。
(ちょっとまて…なんでアラシヤマがいるんだ? つーか、この部屋アラシヤマの部屋じゃねえかよ)
目が覚めた時には違和感があった部屋もよく見れば、見たことのある人物の部屋だった。
(昨日、何があった?)
とりあえず、状況はそのままでシンタローは記憶を探る。
(えーっと、確か俺は眠れなくて屋上にいたんだよな………で、そこにアラシヤマがきて………隣にあいつがあって……それから……………………………記憶がねぇ!?)
そこからぷつりと記憶が途切れていた。
(まさか、そこからアラシヤマに無理やり部屋に連れ込まれたとか………)
腕の中にいるこの人物に愛の告白を受けたのは、まだ記憶に新しいことだ。
だが、シンタローは今の状況を見ると首をひねらせた。
(けど、抵抗した覚えないし……第一、なんでこんな態勢になってるんだ? 逆なら理由もつくが)
どう見ても、自分の方がアラシヤマを抱きかかえているのである。
これを見れば、自分がアラシヤマに襲われたとは思えない。
(えーっと……もしかして、俺、眠ったのか?)
記憶を堀り起こしてみれば、なんとなくそんな記憶がかすかだが残っている。
(じゃあ、アラシヤマはここにわざわざ運んでくれたわけか)
そうなるど合点がいく。自分の部屋はパスワードがなければ開かないのだから、当然だろう。
(で、この格好は………ぬくもりか)
伝わってくる暖かさを感じつつシンタローは、苦笑を浮かべた。
自分が眠れなかった理由を思い出したのだ。
この格好は、あのパプワ島の時の自分とパプワによく似ている。たぶん、寝ぼけた自分が、やってしまったことなのだろう。
「けど、お前、本当に俺のこと好きなのか?」
好きな人とこんなにも密着した状態で、よくもまあぐっすり眠るれるものだと呆れてしまう。
けれど、反対にこの温もりなら眠ってしまっても仕方ない気がする。
本当に心地いいのだ。
また眠気も出てくるが、そろそろ起きる時間である。
(久しぶりぐっすり眠れたし、まあ、いいか)
ようやくシンタローが大きく身動きし、アラシヤマを抱いていた腕を離すと、アラシヤマもそれに気づいたのが身動ぎし、目を開いた。
ぼんやりした寝起きの視線がシンタローに向けられる。
「おはよう、アラシヤマ。昨日は、悪かったな」
とりあえず、そう謝ったシンタローに、だが、アラシヤマは行き成り抱きついてきた。
完全に寝ぼけている状況だ。
「おいっ」
だが、引き離そうとするよりも先に、アラシヤマの行動の方が早かった。
「シンタローはん。好きどす」
チュッ!
抵抗しそこねたシンタローの唇に、アラシヤマのそれが重なった。
「何しやがるっ!」
だが、それは、即座にシンタローによって引き離された。
そのままアラシヤマの身体を力いっぱい押し、その勢いでベットの上から転がったアラシヤマは、床にしたたかに頭を打った音が聞こえるが、もちろんシンタローは同情する気はなかった。
「くそぉ。不覚だ…」
ぶつぶつと文句を吐き出しつつ、先ほど触れられた口元をごしごしと袖でぬぐっていると、ようやく覚醒したのか、アラシヤマが打ちつけた後頭部をさすりながら身を起こしてきた。
「…………アラシヤマ。てめぇ~、よくも」
「へっ? 何ですの」
怒り収まらず、ベットの上から睨みつけるシンタローに、アラシヤマは、自分の今の状況も理解できぬまま、とりあえず無難な挨拶をした。
「えーっと。あ、シンタローはん、おはようどす。今、朝になったんどすな。………………それじゃあ、さっきのは夢やったんか。シンタローはんとキスする夢」
最後のは、独り言のようだったが、それは思いっきり蛇足だった。
その言葉に、シンタローの頬が大きく引き攣った。
「夢…ね。てめえは、一生夢を見てろ。―――眼魔砲っ!!」
ズドォーン!!
明朝、幹部の宿舎である建物の一角が吹っ飛ぶこととなった。
BACK
書斎で、残っていた仕事を片付けていれば、躊躇いがちなノック音が聞こえてきた。かすかなそれは、シンとした静寂が支配する部屋でなければ、拾うことも出来なかっただろう。ひとつ音立てて、一拍置いた後、みっつ、それは続いた。
それを耳にしたとたん、マジックは、壁にかけられていた時計を見やり首を傾げ、それから外にいる相手に聞こえるように声を出した。
「入っていいよ、シンちゃん」
そう告げると、オーク材の重厚な扉がゆっくりと開いた。扉の向こう側から感じた気配は間違いはなく、そこからちょこんと顔を出したのは、マイスイートハニー――もとい、愛息シンタローであった。
こっちへおいで、というようにマジックは手招きしてあげる。お許しをもらったため、マジック手製の黒ねこさんパジャマ姿で、とてとてと傍へと近づいてきた。
「どうしたんだい? シンちゃん」
ここへ来ているシンタローは、けれど二時間も前にベッドの上でマジック自身が寝かしつかせたはずであった。ぐっすり寝ているのを確認してから、ここへ戻ってきたのだ。しかし、どうやらあれから起きてしまったようである。
寂しくないように、という思いで作った、マジック人形を腕にしっかり抱いて、愛らしい黒ねこさんが、じっとマジックを見つめたまま、ことりと首を傾げて問いかけた。
「パパは、まだ寝ないの?」
「ん?」
それはどういう意味だろうか。時計の針は、深夜0時をそろそろ指す時刻である。しかし、マジックにとってはこの時間帯は、まだ眠り時刻ではない。もちろん、10時就寝のシンタローは、知らないだろうが、それでも父親が夜遅くまで起きていることは分かっているはずである。
とりあえず、マジックは椅子から立ち上がると、息子の前へとしゃがみこんだ。しっかりと目線を合わせると、綺麗な漆黒の瞳が、こちらの様子を伺うように見ていた。
何か言いたいことがあるのだろう。
それを言わせるために、柔らかく微笑んで見せれば、シンタローは、おずおずと言葉を紡いだ。
「あのね………パパ。僕と一緒に寝て?」
「ッ!」
その言葉を聞いた瞬間、マジックは大量の鼻血を噴出しかけたか、そこは、さり気なく鼻を摘んで――さり気なくなっていたかどうかは突っ込んではいけない――ごくりと飲み込んだ。
「一緒に…かい?」
思いがけない言葉に震えた声で訊ね返せば、
「……うん」
作り物の猫ミミが上下にゆれ、躊躇いがちに頷かれた。その恥らう姿は、あまりにも初々しく、マジックは再び鼻を摘んで、鼻血を飲み込んだ。
(シンちゃんからお誘いなんて、なんて大胆なんだい、シンちゃん!! パパ、信じられないよッ!)
信じられないのは、マジックの思考回路である。どこでどう接続されると、そういう解釈ができるのだろうか。しかし、今更そこを指摘したところで、どーしようもないことである。
表面上は優しい父親の顔を見せながら、内では大興奮なパパを前に、シンタローは、甘えるように父親の服の一部をそっと掴んだ。
「怖い夢見たの…だから、一緒に寝て欲しいの」
その言葉と仕草に、さらに妄想の高みへとトリップしてしまったマジックだったが、怯えたシンタローの顔に、すぐさま現の世界へと戻ってきた。
妄想パパでも、息子第一には変わりないのである。
(シンちゃんの大胆発言は、怖い夢を見たせいか…)
なるほど、そういう理由があれば、先ほどの言葉も頷けた。シンタローは、怖い話や本というのがとても苦手なのだ。それなのに、そんなものを夢で見てしまえば、怯えるのも無理はなかった。
しっかりとパパ人形を抱きしめているのも、夢の怖さを紛らわすためなのである。だが、それがさらに息子の可愛さを強調させてて、パパに強烈パンチを食らわせていることは、もちろん本人は永遠に知らなくてもいいことであった。
「そっか。怖い夢見ちゃったんだね」
安心させるように優しい笑みで、そう告げれば、こくりと可愛く頷かれる。同時に抱いていたマジック人形をさらにギュッと強く抱きしめる仕草に、思わず、脳天を貫かれたようにのけぞってしまった。
(ああ、なんて可愛いんだい、君は。私を悩殺させられるのは、君だけだよ!)
まことにもって、迷惑極まりない事実である。
その海老反りになった背中は、シンタローが顔を上げる前に、常に鍛え上げられている――当然シンタローがらみで――背筋によって元に戻された。そうして、何事もなかったかのような顔をしてマジックは、シンタローを見つめた。
「それで、おねしょはしなかったかい?」
そういうこともよくあるから、ちょっとばかりからかい口調で訊ねてみれば、とたんにシンタローはむっと口元をへの字に曲げた。
「しなかったもん! 僕は、もう6歳だよ!」
きっと鋭い視線を投げつけられるが、マジックにとっては、流し目や上目遣いと同じぐらい、誘っているような視線に見えて仕方がなかった。もちろん、シンタローにそのつもりは、欠片もないのは、地球が丸いのと同じくらい当然のことである。網膜にあるマジックフィルターが、勝手にそう改変するだけだ。仕方がないというものである。
「そっか、ごめんね。シンちゃんは、もう赤ちゃんじゃないもんね」
二週間ほど前に、おねしょを一回してしまったのは、言ってはいけないことだ。案の定、そんなことは忘れているシンタローは、両手に拳を作って力いっぱい否定してくれた。
「違うもん!」
その仕草も、とても可愛らしく、パパはまたしても鼻血である。すでに総帥服の袖は、色は変わっていないにもかかわらず、ぐっしょりと濡れていた。
「うん。ごめんごめん。パパが悪かったよ……それじゃあ、一人でも寝れるよね?」
息子があんまりにも可愛くて、ついつい悪戯心が湧き上がり、そんなことを言ってしまえば、とたんにその顔が泣く一歩手前にように、くしゃくしゃに歪んでしまった。
「………パパぁ」
すがり付くような声と眼差し。うるっと涙を溜めた瞳で、一心に自分を求めるその姿に、マジックはぐらりと傾ぎ、がくりと両膝を床につけた。そのまま、床をバンバンと叩く。
(くぅ~~~~!! どーして、君はこんなに可愛いんだい? この地球上で…いや、宇宙の中でも君ほど可愛い子はいないよッ!! パパ、保障するからねッ!)
必要ない保障である。
床も、あまりに力いっぱい叩いたために、わずかながらだが凹んでしまった。普段ならば、ここまでの力は出せないだろうが、シンタローの威力は絶大である。
まったく必要ないところで出る力である。
「パパ? どうしたの」
「いや、茶色の虫がいたんだよ」
さすがに、その突然の奇行に息子が突っ込めば、爽やかに誤魔化して、マジックは一呼吸つき内なる興奮を宥めた。
真夜中でも、シンちゃんのためなら一気にボルテージが上がるパパなために、静めるのも大変である。
ようやく落ち着きを取り戻すと、マジックは、ぽふっと愛息の形のいい頭に手を乗せた。猫耳の間を、ひと撫ぜする。
「それよりも、さっきの言葉は冗談だからね? シンちゃん。パパも、シンちゃんと一緒に寝たいよ。今日は、一緒に寝てもいいかな?」
片付けるべき仕事は残っていたが、そんなものはどうでもいいことである。シンタローと共寝の前にそれは瑣末な事柄でしかなかった。
「うん!」
潤んだ瞳と薔薇色に上気させた頬で、嬉しそうに頷くその姿に、マジックは決意を固めた。
(シンちゃん……今夜、お互いひとつになろうね。そして、夜明けのコーヒーを一緒に飲もう――)
本当に、どーしようもないパパである。
再びあっさりと妄想世界へ行ってしまった父親は、今回はなかなか戻ってくる気配はなかった。
「ふふっ…初夜か――」
すっかり遠くまで行ってしまったようである。
(今晩は優しくするよ、シンちゃん)
めくるめく薔薇色の世界を夢見ているマジックを前に、幸いというべきか、その妄想世界を見ることが出来ないシンタローは、素朴な疑問を口にした。
「パパ、『しょや』って何?」
子供は知らなくてもいい言葉である。しかし、マジックにとっては重要な言葉だった。
「ん? それは、後でじっくりと教えてあげるからね、シンちゃんv」
そう焦らずとも、まだ夜はたっぷりと残っている。にこやかに笑みを浮かべつつ、今夜の花嫁を抱き上げようとしたマジックだが、その手は空気を抱くだけだった。
「ぬぉッ!?」
驚くマジックの前で、美貌の主がシンタローを抱き上げていた。
「それはね、『しょーがない奴』の略だよ、シンタロー」
「サービス叔父さん! こんばんわ」
突然現れた叔父を前に、シンタローは満面の笑みを浮かべた。さらに嬉しそうにキュッとその首に抱きついくシンタローに、サービスもやんわりと笑みを浮かべた。
「こんばんわ、シンタロー」
マジックから、シンタローを攫ったのはサービスだった。さらに、仲の良い様子を見せ付けられたマジックは、ジェラシーで悶えつつ、末の弟に言い放つ。
「サービス、一体いつからここに! 入る時はノックしなさい!」
せっかくの親子団欒(?)を邪魔されて、憤慨を露にすれば、呆れた顔のサービスが言葉を返した。
「したけど、兄さんが気付かなかっただけだろ。随分前から僕はここにいたよ」
その通りである。もう五分ほど前からここにいるのだが、頻繁に妄想の世界へ飛んで行っていたマジックが、気付かなかっただけだ。シンタローが気付かなかったのは、背後に立っていたためである。
「仕方がないじゃないか! シンちゃんの可愛さにメロメロになっていたんだからな。―――それで、何しに来たんだ」
本当に呆れるしかない理由を告げて、当たり前の質問をしてみれば、サービスは、やれやれと言わんばかりの溜息をひとつ落として、言った。
「いや、シンタローがこの部屋に入っていったのが見えたからね。何か起こるだろうと思って不安にね――案の定だし――ついでに、お休みを言いにきたんだ。―――お休み、兄さん」
すっと持ち上げられる右手。即座にその手の中心に集まる膨大な熱量。
「眼魔砲」
ちゅどーんッ!!
「お前は、永遠に私を眠らせる気かぁ~~~~~~~!!」
タメ無しMAX眼魔砲を放ったサービスのそれをまともに受けたマジックは、部屋の壁もろとも、錐もみ状態で外へと飛んで行った。
「叔父さん。また、パパを飛ばしたの?」
もうもうと立ち上がっていた砂煙も落ち着き、あたりに静寂が取り戻されると、シンタローはぴょんと、猫のようにサービスの腕から飛び降りた。それから、ぽっかり空いた書斎の穴を眺める。そこはすっかり風通しのいい部屋になっていた。
しかし、シンタローの顔に驚きはない。それは、別に珍しいことではないせいだった。週一ぐらいで、起こっていることなのだ。心配することはなかった。
「ああ。必要だからね」
さらりと恐ろしいことを告げるサービスだが、否定する相手がいないので、問題はない。もちろん、シンタローは、それを素直に受け入れた。
心残りは、吹き飛ばされる前に、パパにお休みなさいを言い損ねたことだが、一度、怖い夢で起きる前に言ったので、諦めることにした。それに、朝になってから改めて「おはよう」の挨拶をすればいい。今は、いないけれど、すぐに復活してくる不死身のパパなのである。シンタローにとっては、それも自慢のひとつだ。
「そっか! パパには必要なことなんだね。だったら、早く僕も出来ないかなぁ」
サービスの放つ『眼魔砲』というのは、蒼白い光を放っていて、とても綺麗なのである。自分の手からそれを出せれば、とても気持ちいいに違いなかった。それに何よりも、『マジックに必要』という部分が重要だった。
「大きくなったら、君も打てるようになるよ」
その言葉に、シンタローは、顔を輝かせた。
「ほんと? そうしたら、今度は僕がパパにそうしてあげたいな」
パパには『眼魔砲』が必要なのだと、サービスが言うのならば、きっとそうなのだろう。そう信じ込んでいるシンタローが、嬉しそうにそう言えば、サービスもうっすらと笑みを浮かべて頷いた。
「そうだね。そうしてあげるといい」
無責任な言葉を言い放つサービスに、シンタローは大きくしっかりと頷いた。
「うん♪」
絶対に、大きくなったらパパに眼魔砲を打つことを決めたシンタローである。本当に十数年後には、全然違う意味で、眼魔砲を父親に放つことになるとは―――もちろん知る由もないことである。
「早く眼魔砲を打てないかな!」
はしゃぐように、そう言うシンタローの肩をぽんと叩いた。
「そうだね。すぐ打てるようになるよ。でも、今晩はもう遅いから、寝ようかシンタロー。今晩は、叔父さんが付き添ってあげるよ」
「うわぁ~い。ありがとう、サービス叔父さん!」
大好きな叔父さんと寝れば、今度こそ悪夢などは見なくてすむだろう。
シンタローは、サービスと手をつなぎながら、大きな穴の開いた書斎を後にした。
一方、マジックは―――。
「ふふっ……ああ、私を迎えに来た天使が見えるよ。……でも、シンちゃんの方が何倍も…いや、何万倍も可愛いよ。っていうか、シンちゃん…お願い、パパを迎えに来て――しくしくしく」
どこぞの木の枝に引っかかったまま、朝露よりも先に緑の葉に塩辛い雫を落としていたのだった。
澄んだ青空に燦々と輝く太陽。秋も深まるこの季節には珍しい、穏やかな陽気で包まれている中、仲睦まじげな親子が、白い玉砂利を踏みしめながら歩いていた。大きく見上げなければ天辺が見えないほど高い朱色の鳥居の下を行く。
子供の方は五歳ぐらいだった。
凛々しげな羽織袴姿。けれど、着慣れていないせいか、時折ギクシャクした様子を見せていた。それでも、楽しそうに玉砂利を草履で踏みしめ、楽しげな音立てさせている。
よくよく周りを見れば、その子供と似たような格好の男の子達や綺麗な着物に身を包んだ女の子達がいた。
今日は、十一月十五日。
七五三と言われる行事の日だ。そのために、子供の健やかな成長を祝って、晴れ着を着た子供達やその家族達が、続々とこの神社に集まってきているのであった。
左右には赤く色付いた紅葉が並び、今日のこの日を祝っているかのようである。その紅葉と同じように頬を真っ赤にさせた子供達が笑い合いながら行く。
もちろん、この親子も同様だった。
「いい天気でよかったね、シンちゃんv」
そう息子に話かけたのは、『息子命』を日々モットーに大量出血大判ぶるまいしているガンマ団総帥、マジックである。
本日の出で立ちは、息子と同じように和服――と言いたいところだが準備が間に合わず、愛息とペアルック★という美味しい(何が?)チャンスを諦めて、落ち着いた色合いのスーツ姿で決めていた。今日の主役は息子のため、いつものど派手な総帥服やピンク色のスーツはご法度なのである。
「うん♪ そうだね、パパv」
そう言って、シンタローは嬉しそうに頷いて、ぴょんと石段を駆け上った。
初めての羽織袴姿が嬉しいのか、先ほどから大はしゃぎで、まるで仔兎のように跳ね回っている。
こけるのが心配で、父親の方はその姿を常に追っていたのが、それと同時に、ちらりと袴の裾から覗ける白い足首に、父親はしっかりと握りこぶしを作っていた。
(ふふっ。ナイス★チラリズム!)
普段、息子には半ズボンをはかせて、ピチピチツルツルの可愛い足を堪能しているにも関わらず、本日は、踝がちらりと見えるだけで、すでに鼻血である。もちろん、0.3秒という早業で、それはぬぐっている。鮮やかな赤い色のハンカチは、元は別の色だったという噂だが、そんなことは気にしてはいけない。代えはいくらでも持っているのだ。
「やはり和服は最高だな」
うんうんと頷き、しみじみと納得である。
こんなところで賞賛されても和服も嬉しくはないだろうが、とにもかくにも、本日の目的である七五三参りへと突入であった。
外国人がいてもおかしくない京都という場所柄のせいか、マジックの姿はあまり浮いてはいなかった。ガンマ団トップの証である真っ赤な総帥服は脱ぎ、大人しいグレーのスーツのせいもあるせいだろう。
しかし、視線はどこからともビシバシと飛んでくきていた。大概が、女性である。マジックの行く先々で、わざわざ足を止めて、その姿を眺める女性の姿が後を絶たない。中には図々しくも携帯・デジカメでその姿を映す人達もいる始末だが、もちろんマジックは欠片も気にはしなかった。
そんなことは外へ出かければいつものこと、何よりも、マジックの目はいつだって、可愛い息子へと一身に注がれているのである。瑣末なことなどは綺麗さっぱり無視だ。
それよりも大事なのは、愛息シンタローを常に視界に納めておくことだった。
(今日も可愛いよ、シンちゃん! 和服が良く似合って。イイ! イイよ、着物は!――あ、着物姿と言えば、『あ~れ~お代官様おたわむれを~』が定番だろうか……でも、男物では出来ないか。やはり帰ってから女物も着せるべきだな。そして脱がす時には、帯を引っ張って…そうしてくるくると回るシンちゃん…もちろんそこには布団があって…フフっ)
いったい何を考えているのだろうか、というより、どこまで行くのだろうか。頭の中ゆえに、突っ込むものがいないので、幸いというか最悪というべきかは、各々の判断に負かすしかなかった。
「パパぁ~v 早くぅ!」
「シンちゃ~ん。今行くよぉ~vvv」
そんな風に、うっかり妄想世界にトリップしていれば、シンタローは随分と上の方へと昇っていた。その石段の上から、前かがみになるようにして、自分へのお誘いである。
周りの紅葉をさらに赤く染め上げながら――当然鼻血で――ハイスピードでスキップしていく、ナイスミドルの姿に、その場にいた女性の全ての表情が凍りついたのは言うまでもなかった。
すでに事前にお願いしてあったため、速やかに神官に出迎えられ、本殿に上げられた。そこでお祓いと祝詞をあげてもらい、子供の無事の成長を願うのだ。それが終われば、恒例の千歳飴を手渡される。
「ありがとうございました」
他の子同様に、神官から千歳飴を受け取り、それをぎゅっと大切そうに握り締めて、シンタローはぺこり、と礼儀正しく頭を下げる。特別教育しているわけではないが、大人たちに囲まれて生活しているせいだろう。目上に対する礼儀は、しっかりと理解していた。
「良い子ですな」
にこにこ顔の神官に、こちらも親として鼻が高い。だが、内心シンちゃんの可愛い姿を見たという時点で、ちょっぴり抹殺したくなるパパであったが、やはりそれはいけないことだろう。(十分いけません)
とはいえ、これ以上息子の愛らしい姿をどこぞの誰とも知らぬやからに、見せ続けるのも気に食わないマジックは、早々にここからお暇することに決めた。
「さ、シンちゃん。お家に帰ろうね」
「うんv」
いそいそとマジックが手を差し伸べれば、きゅっと握ってくれる小さな手。至福を味わいつつ、鼻血も流しながら、息子とともの来た道を戻る。
しかし、シンタローの視線は、前よりも受け取ったばかりの千歳飴ばかりを見ていた。どうやら、初めてもらったそれが、よほど気になるらしい。
「……パパぁ。飴さん、食べてもいいかな?」
そっと上目遣いで、遠慮がちに訊ねる息子に、当然のごとく『おねだり』に瞬殺されたパパは、一瞬天国を垣間見る。しかし、神業的に舞い戻ったマジックは、何事もなかったかのように、にこりと笑って見せた。
「いいよv」
本当は食べ歩きは行儀が悪いので、いつもならば許可しないのだが、ここで駄目だと言えば、余計に飴に視線が集中する気がして、今日は特別に許可してあげた。
それに、初めてもらったそれに、こちらを見てくれないのが悔しかったのである。千歳飴にまで嫉妬できる器用なパパなのだ。
「うわぁ~い♪」
お許しを頂き、シンタローは嬉しそうに、袋の中から、長くて白い棒を取り出した。それにぺろりと舌を這わせる。赤い舌がちろちろと扇情的に動く。
ごくり。
(こ…これは、かなりクるな)
何が? とは、聞いてはいけない。それを眺めるために高まっていく熱は、一箇所に集中しだしていた。ドキドキと動悸も早まってくる。
(いかん……)
ちょっとピンチなパパである。
「シ、シンちゃん……美味しいかい?」
意識をどこかへ向けようと、そんなことを訊ねれば、
「うんv とっても甘いよ、パパ★」
素敵な笑顔で、再びぱくっと飴を口いっぱい頬張る息子。唾液がツッと口の端や飴を伝っていくのが見える。
ドキン! と心臓が大きく音をたてた。同時に、プツッと何かが音を立てて切れる。何が切れたのかは、言うまでも無い。
(パパ……もう限界だよ――シンちゃん)
いつの間にか、シンタローの前に回り込み、その肩をしっかりと掴んだ。偶然なのか、計画的なのか、周りには人気はなかった。
「………シンちゃん。もっと別のものを頬張ってみないかな?」
「なぁに?」
無邪気な息子の問いかけ。赤い舌が、誘うように口の端から覗く。
「パパの―――」
「兄さん。真昼間からいい加減にしてくださいね――眼魔砲!」
チュドーン★
「どわぁ~~~~~~~ッ!」
聞きなれた爆発音と同時に青い空に吸い込まれていく鳥――いや、パパは、綺麗な放物線を描き、その場から速やかに――強制的に退場された。
「パパ?」
その場にひとり残されたシンタローは、最初はきょとんとしていながらも、そこに美貌の叔父を見つけるとパァと輝いた笑顔を見せた。
「あ、サービス叔父さん♪」
その姿に、先ほど飛んでいった父親のこともすっかり忘れ、とてとてと嬉しそうにシンタローは近づいていけば、サービスは、腰を屈め、可愛い甥の頭を撫ぜてあげた。
「やあ、シンタロー。袴姿似合ってるよ」
「えへへ。ありがとうv」
大好きな叔父さんに褒められれば、シンタローは嬉しい限りである。テレながらも、くるりとその場で一周回ってみせれば、もう一度「よく似合う」と褒められた。
そうなれば、すっかりご機嫌である。父親のことなど、欠片も頭には残っていない。
頬を真っ赤にさせながら、誰にもあげないつもりだった千歳飴を叔父に差し出してみせた。
「叔父さんも飴食べる? とっても美味しいよ!」
「そうだな。兄さんがいないところで、それを食べようか」
「パパ? ここにはいないよ?」
先ほど景気よく叔父が飛ばしてくれたのだ。
もちろん、どこへ行ったのかは知らない。知らないが、父親ならばすぐに自分のところに戻ってくるので心配はなかった。
こういうことは、いつものことなのだ。
「そうだね。じゃあ、頂こうか」
「うん♪」
そうして、二人は何事もなかったかのように、仲良く千歳飴を頬張りながら、帰っていったのだった。
「もしもし?」
先ほど帰ったばかりの七五三参りの保護者が一体何があったのか、本殿の前に戻ってきて、あげくに瀕死の状態である。そんな相手に、神官は恐る恐る声をかけてみた。
「あの……申し訳ないですが、うちは葬式出せませんが…?」
「出されてたまるかッ!」
即座に突っ込むその叫びは、赤い鳥居を飛び越え、蒼天へと響き渡った。