濡れた髪をバスタオルでガシガシと水気と取りつつ、リビングへと戻ってくると、そこには先客がいた。
仕事から帰ってきて、風呂に入る時にはいなかったはずである。だが、小一時間ほどして出てくると、そこには、当然のように、リビングの床に片膝を立てて座りこみ、分厚い書類の束を眺めている従兄弟のキンタローの姿があった。
「来てたのか」
声をかければ、書類に向けられていた視線があがり、こちらに向けられる。
「ああ」
だが、短い応えとともに、視線はまた元に戻ってしまった。
どうやら今は、シンタローよりも書類の方が大事なようである。
(明日は学会か?)
何度かこの姿は見たことある。決まってその次の日が学会のある日だった。
そう言えば、前にそんなことを言っていたのを思い出す。だが、忘れて当然だ。それを告げられたのは、一週間以上も前のことである。
それから後は、今日まで会ってなかったために忘れていたのだ。
ここ最近キンタローは、ずっと研究室へこもりっきりだったのである。
だが、それも仕方ないだろう。その前までは、遠征だ、出張だと自分が各国に足を運んでおり、キンタローもそれに同行していたのである。
そのために研究の方は、ずっと中止していたのだ。
別に、キンタローがいなくてはいけないというわけではもないのだが、常に彼は自分の傍らにいる。
ついて来ずに、好きな研究を本部でやっていてもいいのだと再三行っても聞いてはくれないのだ。
自分の傍にいることが、自分の望みなのだと、ガンとしてその意志を貫き通そうとするものだから、今では、好きにさせている。
その代わり、自分がガンマ団本部でデスクワークに励んでいる時には、彼は、ほとんど研究室に入っていた。
おかしなことに、同じ職場にいる方が、相手と離れている時間が長くなるのである。
とはいえ、たまには、こんなこともある。
ふらりと互いの部屋に遊びに行ったりするのだ。
だが、互いに何も言わずに、相手を受け入れている。
まだ、水気を含んだままの髪を再びガシガシとふき取りながら、シンタローの足は、キッチンへと向かっていた。
とりあえず、キンタローはそのまま放置しておいてもいい。
いつものことだ。
あちらもこちらも、相手のことを気にせずに、来たい時に来て、したいことをしている。
だが、不思議と相手を鬱陶しいとか邪魔だとかは思わなかった。
たぶん24年間、知らないこととはいえ、ずっと一緒であったことが関係しているのだろう。傍にいることが、当たり前のようなことになっているのだ。
バタン。
冷蔵庫の中から、お目当ての物を見つけると、それを閉め、再びリビングへと戻ってくる。
タオルは、肩にかけ、テーブルの上に無造作に投げ捨てられていた髪ゴムを見つけると、それを一まとめにくくり、アップにする。
女のようだが、こうすると首が涼しくていいのだ。
そのままリビングの床に座った。ポジションは、キンタローの背後である。そのまま背中合わせで、相手の方に体重をかけた。自分の体は決して軽いものではない。けれど、相手は、何も言わずにしっかりとその重みを受け止めてくれた。
プシュッと小さな音とたて、缶を開けると、それを一気に喉に流し込んだ。喉の奥ではじける炭酸の刺激と舌に残る苦味。
昔は、これが嫌で、倦厭していたのに、これを美味しく感じるようになったのは、いつの頃からだろうか。
半分ほど減ってしまったそれを、弄ぶようにゆらゆら揺らしながら、ボケッと天井を見上げる。それもすぐに飽きる。
ちらりと肩越しに相手を覗いてみると、視線は、書類に向けられたままだった。
(頑張ってるなぁ~)
と、思いつつも、残っているそれを口につけようとすると、バサリと背後から音がした。
「ん?」
後ろを振り返ると、床には先ほどの分厚い書類の束が置かれている。
「終わったのか?」
「いや、休憩だ」
尋ねるシンタローに、キンタローは、そう返す。
同時にずしっと背中に重みがかかる。相手も、自分の方へ体重をかけてきたのだ。
尻をずらして少しばかりバランスを調整すると互いが互いを支えあうようにして、背中をもたせかける。
そのまま、まだ残っているそれを流し込もうと、缶に唇をつけると、
「俺にも少しくれ」
と、後ろから声がかかった。
一口含んだだけで、それ以上飲むのをやめ、これが欲しいのか、とチャプンと音を立てるように振って問いかければ、相手は、一つ縦に頷いた。
「けど、新しいのがあっちにあるぞ」
もう半分も残っておらず、生ぬるくなりかけのそれよりも、よく冷えた新しい缶が、まだ冷蔵庫の中にある。
だが、それには相手は、首を横に振った。
「別にそんなに喉は乾いてないから、それでいい」
そう言うならば、これでもいいだろう。
それほど酒好きでもないシンタローは、つまみもない状況でビールを飲むのもそろそろ飽きてきたのだ。
「んじゃ、ほらよ」
「ありがとう」
軽く振り返り、その缶を手渡せば、相手はそれを受けとり、そうしてぐいっと天井へと仰向いた。
そのまま喉が上下する。
慌てたのはシンタローのほうだった。
「てめぇ、全部飲むのかよっ」
少しだけというから、渡したのだ。自分ももう少し飲んでおきたいという気持ちはあったのである。
しかし、この勢いだと一口も残っていないようだった。
「ひでぇ」
そう口にしたとたん、トンと缶が床におかれ、そして、肩越しに見ていたキンタローの顔が近づき、あっというまに唇をふさがれた。
「うぐっ」
声をあげられたのはそこまでだった。
不意打ちのそれに、逃げる隙を逃してしまった。
ぴたりと唇同士が重なりあったとたんに、少しばかり開いていたそこから、半ば強引に液体が注ぎ込まれた。
ビールだ。
舌にしびれるような苦味。思わず顔を顰めたとたんに、注ぎ込まれる液体とともに滑りこんだ舌が、その上をなぞる。
うわっと身体を震わすのに気づかなかったのか、相手は、さらに深くそれを押し込んでくる。
先ほどまでの苦味は逃げ去り、代わりに熱い吐息と絡む舌が口内を支配していく。
それから逃れることもできずに、味合わされ、ようやく解放されれば、相手は、申し訳なさそうな顔をして、シンタローに向かって問いかけてきた。
「すまなかったな。これでいいか?」
「げほっげほっ…………いいわけねぇだろ。妙なボケすんなよ、お前」
少しばかり器官に入っていたビールに、苦しげにせきこんでから、シンタローは、脱力した顔で、相手を力なくにらみつけた。苦しさゆえか、先ほどの濃厚キスのおかげか、涙目になっていたために、余計迫力はないのは、自分でもわかるが、それでも、睨むなという方が難しい。
これでも一応怒っているのだ。
確かに全部飲むなとはいったが、飲んでいる途中の奴を戻せとはいってはいない。というか、普通の人間なら、そんなことはしない。
さらに濃厚キスまでおまけをする奴など、もっといないだろう。
………いや、中にはいるかもしれないが、それは絶対に確信犯だ。だが、奴のは―――――目の前の従兄弟殿は、至極真面目にやってくれるのである。もちろん確信的なものは欠片もない。
本当に、ビールを全部飲むなといったシンタローのために、一口分を口移しでくれたのである。
「まだ、飲みたかったか?」
だが、そう真剣に問いかけられれば、苦笑せずにはいられない。
結局彼に悪気や悪戯心など一切ないのである。
「それはもういい」
あんなことをされた後では、もうビールを飲む気もすっかりなくなってしまっていた。
「それよりも、メシを作るよ。何か食べるだろ、お前も」
「ああ。お前が作るなら食べる」
「よしっ。いい返事だ」
こくりと頷いてみせるキンタローの頭をぽんと叩くようにして、シンタローは、立ち上がった。
その顔に、先ほどの苦笑は消え、くったくのない笑みが浮かんでいる。
先ほどまでの怒りは、もうなくなっていた。
この程度で怒ってなんていられない。
いつものことだ。
これが日常茶飯事というものなのである。
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目を覚ます。
だが、瞼を開いたそこに広がるのは一片の光もない闇だった。
漆黒に覆われた視界に、キンタローは、ぎくりと身体を震わした。けれど、すぐに原因に気づく。
「……………お前の髪か」
自分の視界を覆っていたのは、隣に眠る人物の黒髪であった。
眉宇をしかめると、べっとりと瞼の上に覆いかぶさるようにして掛かっていたそれを丁重に横へと流す。
そうすることで、やっと光が灯らぬ部屋の中とはいえ、視界が広がった。
「驚かせるな」
声に出せば、相手が目覚める可能性もあるから、出てきた文句は口内でごちる。
もっとも昨晩――――というよりもまだ数時間前でしかないのだが、久しぶりということもあり、相手に相当無理をさせてしまったので、ちょっとやそっとのことでは、目を覚ますこともないとは思うが、それでも、もしものことを考えて、動作は慎重になった。
ゆっくりと身を起こすと、無意識に詰めていた息をふっと吐き出した。
薄暗い視界に、緊張していたようだった。
暗闇は、実のところ好きではない。
こうして、少しながらでも周りが見えるぐらいならば、それでも我慢はできるが、何も見えない真の暗闇は、今も苦手だった。
押入れの中が怖くて泣く子供ではないが、それでもそれに近い恐怖心がある。
キンタローにとっては、24年間、押入れの中に押し込められているような状態であったためだ。
光の差さぬ暗闇の中、存在していたのである。
それが、しっかりと今でもトラウマになっているらしい。
くしゃりと髪をかき上げ、キンタローは、しっかりと目を見開く。
見慣れた部屋がモノトーンの世界のように映し出されている。
夜の闇がひっそりと部屋に沈滞しているが、ここは、何もなかったあの世界ではない。
自分は、ここにいる。確かに在る。
そして――――。
「お前に触れることもできる…」
ゆっくりと身体を横へと傾けると、ぐっすりと眠り込む従兄弟の髪に触れた。
その髪は、嫌いな漆黒の色に染め上げられている。
けれど、これだけは………この髪と今は閉じて覗くことのできぬ瞳は別だった。
否、別格といった方がいい。
それは、自分にとって、光と同等の位置を占めているといってもよかった。
24年間、自分は彼の中にいた。
今は、自分の身体となっていたが、以前は彼がこの身体を支配していたのだ。
自分は、その中に閉じ込められていた。
深い深い暗闇の奥。
彼が学び見ることは、自分もまた同じように吸収することはできるけれど、けれど、自分の自由は、深い闇に捕らわれたままだった。
それはまるで、柔らかい膜に包まれているようで、なのにどれほど破ろうと試みてみても、強固な殻のように敗れることは不可能だった。
外に触れることはできなかった。
どれほど望んでも、自分は彼には触れられなかったのだ。
内側にいるものは、どれほど願っても決して外側に触れることはできない。
そんなジレンマの中に自分はいた。
もちろん憎しみもあった。
途方もないほどの怒りもあった。
理不尽をしいられるこの状況に、常に苛立ちと憤りを感じていた。
それでも、自分は見ていたのだ。
彼の生き様を。
歯を食いしばり、前を見て、傷つきながらも歩んでいく彼の姿を。
そして優しさから零れる涙さえも。
「殺さなくてよかった」
そう思える自分が、おかしかった。
自分の体を取り戻すことで、一度は、シンタローをこの肉体から追い出し、殺したのだ。
けれど、それでもシンタローは生きていた。
そして、あの島で、再びシンタローは体を手に入れ、自分の前に姿を現した。
そして再び、自分は彼を殺そうとしたのだ。
あの時は、本気だった。
今までつもりに積もっていた負の感情が一気に爆発したためだ。
―――――けれど、殺せなかった。
本気で挑んだはずなのに、彼を殺すことは叶わなかった。
なぜだか、今もわからない。
彼が強かったからかもしれない。それもあるだろう。
けれど――――自分の中の何かが、彼を殺すことを躊躇ったのかもしれないと、今は思う。
もっとも、そんなことはもうどうでもいいことだ。
自分には、彼を殺す気は、もうない。殺意など、もう二度と生まれることはない。
誰よりも何よりも大事な存在だと、気づいてしまったのだから。
彼は殺さない。
そして、誰にも彼を殺させは――――傷つけさせはしない。
それが、自分の中で決めた誓約。
誰にも―――――シンタロー自身でさえも、その誓約を消すことはできない。
それが、彼を殺さないと決めた時に、誓った約束。
「ん……キンタロー?」
薄い暗闇の中で、宙を睨みつつ、少しばかり自身の中に入り込んでいれば、かすれた声が、耳朶を打った。
どうやら、相手が目覚めてしまったらしい。
下を向くと、うっすらと瞼を持ち上げ、こちらを見ているシンタローと視線が合う。自分が起きているのに少しばかり驚いているようだった。キンタローは、彼になんでもないというように笑いかえると、その額に手を伸ばした。梳くように額を撫でる。
「まだ寝てろ。時間じゃない」
キンタローに触れられ、気持ちよさそうに目を閉じるシンタローは、けれど唇を開く。
「ああ…うん。でも、お前は?」
「ちょっと目が覚めただけだ。俺も寝る」
「んっ、わかった」
その言葉に安心したか、眠たげに欠伸を一つすると、再び目を閉じてくれた。
安心しきった顔をして傍らで眠りにつく愛しい存在に、キンタローの口元に笑みが灯る。
彼が、こういうふうに眠りにつくのは、自分の隣だけである。
今は、という言葉がつくが、一生誰にも、この場所は譲る気はなかった。
どれほどの犠牲が払われようとも、誰にも渡せられない場所である。
そして自分は、ここで彼を守るのだ。
柔らかい膜で彼を包み込み、強固な殻で全てのものからも守りぬく。
それが、自分の中の誓約である。
揺ぎ無い想い。
ふっと視線を細め、自分の中の恐怖と立ち向かうように、部屋の隅に凝っていた闇を睨みつけると、ベッドを軽く揺らし、その横に滑りこんだ。
「おやすみ、シンタロー」
そうして、その身体を闇から守るように抱きこむとキンタローは、再び眠りについた。
紫煙が天へと昇る。
目に眩しい蒼天に、たなびく雲のよう燻る。
吐き出されたばかりのそれを目で追いながら、シンタローは、後ろへと体重をかけた。しっかりと背中が支えられると、そのまま軽く首を後ろへと回した。
「なあ…」
「なんだ?」
呼びかければすぐに帰ってくる声。
それは、背中の向こう側から聞こえてくる。
少し振り返れば、細い金糸のような髪が頬をくすぐる。
そこにいるのは、キンタローだ。
ガンマ団の敷地内にある棟の一つの屋上で、むき出しのコンクリートの床に座り込み、二人で休憩と称してタバコを吸っていた。
仕事はもちろんたんまりとある。
だが、急ぎのは全て済ませてきた。
こんなのも気持ちいい秋晴れの下で、陽光の差し込まぬ部屋にいて仕事尽くめなのももったいない。
そう思ったからここにいた。
たまには、こういう息抜きも大切なのである。
風が通りすぎる。
夏の絡みつくような風ではなく、いつのまにか、さらりと心地よい冷たさすらも孕んだ秋風と変わっていた。
季節は確実に移ろっている。
デスクワークのみだけではないが、それでも季節を感じるのを忘れるほど仕事に忙殺されていて、もう秋なのだと気づいたのは、今日だった。
こうして二人で、ゆったりと外にいるのも本当に久しぶりなのだ。
背中合わせで座った状態で、最初は、他愛のない話をしていた。
最近の親父はどうだとか、グンマが妙なもんを作っているとか、コタローはまだ目覚めない……とか。
それから、少し会話が途切れて、心地よい沈黙が二人の間を漂い、少しばかりタバコの吸い上げるスピードが上がった。
そして、新しいタバコに火をつけたのと同時に、沈黙を破って、シンタローが声をかけた。
「たいしたことじゃねぇけどさ」
指先に挟んでいたタバコを口に銜え、吸い込んだ。
こんなにいい天気で、久々にのんびりできていて、だから、時々疑問に思いつつも忘れていた言葉を、相手に問いかけることにした。
「ああ」
「俺は、なんでお前が好きなんだ?」
それがつい忘れてしまう疑問。
吸い込んだ煙とともに、吐き出された言葉に、即座に背中側から声が帰ってきた。
「俺だからだろ」
「なんだよ、そりゃあ」
あっさりとした答え。
彼らしいと言えばらしすぎる、どこかボケたその答えに、シンタローは、くくっと喉を鳴らした。
揺れる身体に、タバコの灰がぽろぽろと零れていく。
次を吸わなければいけないのだが、それも忘れて、シンタローは、肩を小刻みに揺らした。
可笑しい。
可笑し過ぎる。
どうやらツボにまではまったようで、前屈みになって、腹筋を痛めるほど、しばらく笑っていたのだが、相手は、何も言わずにじっとしていた。自分が笑われたことに気づいているのか気づいてないのか、どっちにしても彼ならば、それほど態度は変わらないだろう。
涙が目じりから零れるほど笑った後で、ようやくそれが収まった。
うつむいたことで、前に流れてきた髪をシンタローはかきあげた。
澄み渡った青空が目に映る。
照りつける陽光に目を細め、シンタローは、ふっと笑み浮かべた。
「で、俺はお前だから惚れたってか?」
「違うのか?」
「さあな」
不思議そうな顔をされ、問い返されるが、シンタローは、首を横へと振っていた。
わからない。
本当に謎だったのだ。
だから、聞いてみたのだが、どうやら無駄な質問だったようである。
キンタローも、その答えを知らないのだ。
「けど、俺だってしっかり彼女はいたんだぜ?」
「知っている。その時、俺は、お前の中にいたんだからな」
24年前までは、キンタローは、シンタローの中にいて、全てを見聞きしていたのである。
当然、シンタローが過去付き合った女性の数やら初体験の状況などは、彼にはモロわかりというなんとも恥ずかしく居たたまれない事実がそこにある。初めてその事実を知った時には、これ以上ないというほど赤面し酷く狼狽しまくったあげくに、相手に向かって眼魔砲を連射した覚えがあるのだが、今は、いい思い出である―――ということにしている。
「あっ、そうか――――なら、分かるだろう? なんで、俺がお前に恋するんだよ」
異性を恋人にしていた自分が、なぜ、彼を選んだのか、わからない。
だが、シンタローのその疑問に、さらにキンタローが疑問で返してきた。
「恋をしたのか?」
それは思っても見なかった言葉で、けれど、その問いかけに、シンタローは、ぽんと近くの膝を手で叩いてみた。
なるほど。言われてみれば、そうである。
「あっ……してないか」
「してないだろ?」
「してないなぁ」
くすくすくす…。
また、笑いがこみ上げてくる。
確かに、自分はこの背中の相手に恋というものをした覚えはないのだ。
所謂、トキメキという奴を彼に感じたことはない。
『痘痕もエクボ』『恋は盲目』というが、彼をそんなふうに、美化して見た覚えは、自分にはない。
手を繋ぐこともキスすることさせ、緊張を覚えたことはなかった。
これは恋じゃない。
それは恋とはいえない。
だから、自分は彼に『恋をした』わけではないのだ。
「そっか……。気づかなかったな」
「そうだな。でも、別にかまわないだろ。そんなこと」
「まあな」
そんなことは、たいしたことではない。
恋が大事だとは思わない。
それよりも大切にしなければいけないのは、そこに含まれる想い。
「お前は、俺を愛してくれているのだから」
「そうだよな」
断言するようなキンタローのその言葉に、シンタローは、躊躇いもなく肯定する。
確かに、自分は彼を愛している。
それは、もう分かっていることだった。
秋風が二人の間を吹き抜ける。
漆黒の髪と黄金色の髪が、絡まるように混じりあう。
髪の一部を押さえつけ、空を見上げたシンタローに、同じように空を見上げたキンタローの後頭部と軽く打ち合った。
こうして互いが傍にいることが、当たり前のように感じつつも愛しく思えるのは、自分が彼を愛しているからなのだろう。
「それでいいんじゃないか?」
「いいのか?」
「いいんだろ。俺は、お前が俺を愛してくれているなら、それでいい」
きっぱりと言い切られてしまえば、それはそれでいいのだと納得せずにはいられない。
「まあ、そうだけどさ。んじゃ、今までの恋はどうなるんだよ」
彼を愛しているのはいい。
それならば前の恋人達には、愛がなかったのだろうか。
そうだともいえるし、そうじゃないともいえる。
恋がない愛。
それは、『有り』だ。今の自分達がそうなのだから。
だが、愛のない恋はあるのだろうか。
それとも、恋と愛は、やはり全然別のものだろうか。
シンタローは、紫煙を空に向かって吹き上げる。
それで、タバコを吸い終わってしまった。携帯灰皿に、それを丁寧に押し込める。
もう、やめようとは思っていたのだが、解決しない疑問に、むしゃくしゃする気分を晴らそうと、タバコの箱を出すために、胸ポケットから、それを取り出したが、すぐに、くしゃりと握り締めた。空っぽだ。
そう言えば、あれが最後の一本だったのだと今更思い出してしまった。
眉を顰め、チッと舌打ちすれば、ポンと頭上から何かが落ちてくる。
「ほらっ」
とっさにそれを受け止めれば、見覚えのあるパッケージ。
「サンキュ」
それはキンタローがいつも吸っているタバコの銘柄だ。
「マルボロか――――『Man always remember love because of romance only』だっけ」
「何を行き成り」
普段は日本語しか話さないくせに、行き成り英語を口にしたシンタローに、キンタローは、振り返り、珍しく驚いたように片眉を持ち上げて見せた。
それでもその表情から、意味はちゃんと把握しているらしいことは見て取れる。
ニヤリと笑みを一つ刻むと、パッケージから、一本タバコをもらい、ポンと先ほどと同じように、箱をほうり投げて返す。
「昔、叔父さんに教わった言葉だよ。その頭文字をとって、『マルボロ』って言うんだと」
ポッとタバコの先端に火を灯す。再び紫煙がゆるゆると天に燻らす。
「なるほどな」
確かにその通りだと、納得したように頷くキンタローがいる。
その背後で、タバコを銜えつつ、シンタローは、一人頷いた。
「ああ。なんか、わかった気がする」
先ほどの疑問の答え。
自分が、なぜキンタローに恋をしなかったのか、そして、愛しているかの答え。
不意に納得できる回答が浮かんだ。
「そうか」
「そう。お前に教えてもらったみたいなもんだな」
それは、キンタローが投げてくれたタバコの箱が、決め手だった。
マルボロの意味が、それを教えてくれたのだ。
恋に恋した時期は、もう終わっていたのだということ。
そして、その恋があったから、彼を深く愛せたのだということ。
これで、疑問は解決である。
とりあえずは、自分はその答えで満足しているのだから、それでいいのだろう。
「お前のおかげだな」
あっけなく見つかってしまった答えに、なんとなく呆けたような口調で、そう呟けば、相手がおかしそうに肩を揺らした。
「それは光栄だな」
「ああ、誇りに思いやがれ」
丁重に言葉を返し、同時に込み上がった笑い声とともに二つの紫煙が天へ昇った。
『Marlboro』=『Man always remember love because of romance only』=『人は本当の愛を見つけるために恋をする』
視界が開ける。
飛空艦の入り口の前でシンタローは、立ち止まった。
見上げた上空は、眩しいほどの青空が広がっている。
ゴォーと風が吹き抜け、長い髪が絡まるように背後になびいた。
「あー、ようやくついたな」
暴れる髪を押さえつけながら、シンタローは、目にさす光に瞳を細める。
広さと快適さを誇る総帥専用の飛空艦内に今までいたとはいえ、長時間も乗っていれば、肩も凝るし、息が詰まる感じがする。
やはり外は気持ちがよかった。
その開放感に浸りつつ、深呼吸をする。
異国の匂い。
もう数え切れないほどの国に足を踏み入れたシンタローだが、初めて嗅ぐその国独特得の匂いは、いつだって新鮮であり刺激的でもあり、気分が高揚する。
(よし、行くか!)
そう決意を込めたのと同時に背後から声がかけられた。
「おい。そろそろ時間だぞ」
「ああ、わかってるよ」
振り返れば、照りつける太陽に鬱陶しいほど煌く金髪が目につく。
キンタローだ。
「今、降りるところだよ」
キンタローが急かすのもわかる。
自分には、それほど悠長にできる時間はないのだ。
このC国への滞在も、依頼主であるこの国の国防長官に会って、依頼を受ければ、それでとんぼ返りである。
シンタローは、タラップに足を踏み出した。
カンカンカン。
自分のたてる足音。
カンカンカン。
その背後に同じような足音がする。だが、その音を耳にしたとたん、
くるり。
シンタローは、振り返った。
「なんだ?」
それに驚いたように眉をあげたのは、キンタローである。
当然のように、シンタローの背後に立っていたキンタローに、けれど、シンタローは、彼に向かってひらひらと手を振った。
「お前は、ついてこなくていい」
「どうしてだ?」
きっぱりと言い放ったシンタローの言葉に、キンタローは怪訝に首を傾げる。
それも当然である。
シンタローが遠征や各国に出張する時には、常に傍らにいたのだ。
最初の方は、嫌がっていたシンタローもここ最近では、慣れてきたようで、それを容認している感じだった。にもかかわらず、行き成りコレである。
理由を求めるキンタローに、シンタローは、一瞬言葉を詰まらせ、けれどため息混じりに吐き出した。
「……はぁ。それはだなぁ、お前が、いらんことを言うからだろうが」
先日のことを思い出し、シンタローは、苦い表情を浮かべた。
あの時を思い出すと、恥ずかしいやらいたたまれないやらで、心中大騒ぎである。
「いつ、俺がいらぬことを口にした?」
だが、本人は、まったく気づいていないようであった。
キンタローだから、仕方ない。
納得するが、だからと言って許すわけでもない。
はっきりいってこの間のようなことは二度と起きて欲しくないのだ。
ぐるりと身体ごと振り返ったシンタローは、キンタローの鼻先に指をつきつけた。
「この間のG国でだよ! お前、あの時何を言ったかわかってるのか?」
「何かまずいことでも言ったか?」
「言ったんだよ!」
あれは、一昨日のことだ。
G国に根強く残る強大なテロリストへのお仕置きを依頼されたガンマ団は、国からの要望ということで直々に総帥であるシンタローが出ることになった。
そこまではいい。
あっさりと制圧し、彼らの基地を完膚なく叩き潰し、それはあっという間に終わった。
しかし、それが起ったのは、報告と報酬を受け取るために、G国の首相と対面している時だった。
「いやぁ。素晴しい手腕ですな。お若いのに、これだけの実力があるとは羨ましい」
「いえ、そんなことはありませんよ」
首相の言葉に、にっこりと外向きの面で笑みを浮かべて見せるぐらいは、すでに慣れである。
「さすがは、ガンマ団総帥ですな。しかし、聞いたところではまだ独身だとか。その若さで、そのルックスですし、お嫁に来たいという女性は多いのではないですか?」
「そんなことないですよ」
同じようににこやかに当たり障りのない言葉で、シンタローが返したまではよかった。
だが、その後である。
「ああ。それよりも『嫁にしたい』という奴らの方が多いな」
キンタローがもらした言葉に、場は一気に硬直してくれたのだった。
「………何かおかしなこと言ったか? 事実だろう」
「ああ、そうだな」
それがどこが変なのかと怪訝なキンタローに、どことなく遠くに視線を向けたシンタローは、ふっとため息まじりの息を吐く。
ガンマ団総帥シンタローを『嫁にしたい』。
そんなおぞましいことは、実のところガンマ団内部で、ひそやかに、けれど確実に囁かれていることだった。
とはいえ、それもこれもシンタロー自身のせいだと言ってもいい。
総帥として、ガンマ団に再び戻ってきたシンタローだが、ことあることに気晴らしだと手料理を作っては、幹部連中にふるまったり、あげくのはては、いい気分転換になるからと、定期的にやってくる清掃会社のおばちゃん連中と混じって、床や窓磨きに精を出していたりするのである。
パプワ島でしっかりみっちり染み付いてしまった癖が全然取れてなかったのだ。
しかし、はたから見ているものにとっては、ただの料理好きでお掃除上手の人間しか見えない。
男が圧倒的に多い、むさ苦しい中にいれば、『嫁にしたい』などと囁かれても当然である。
(それは確かにそうかもしれない………そうかもしれないが)
だからといって、あの場であの発言はないだろ。
あの発言の後、自分がどれだけ青くなり、焦ったりしたことか。
それでも、なんとかあの後誤魔化したからいいものを、うっかり国際級に、妙な……男にとってはおぞましいとしか思えない噂をたてられてはたまらない。
「お前は、場の空気が読めてねぇ! 勉強しなおして来いっ」
キンタローは、まだこの世界へと生み出されて一年を経過したばかりだ。
絶対的に経験値が足りないキンタローには、人の機微など察しろというのは、確かに難しいかもしれないが、それならば、それを身につけるまでは傍にはいさせられない。シンタローとて、そうそうフォローできるほどには、まだ経験値は足りてないのだ。
故に、今回はついてこなくていい宣言をしたのだが、当の本人は、気楽なものだった。
「それならば、しゃべらなければ、言いだけだろう?」
「んなこと、言ってもああ言うのは、ポロッと出てくるもんなの。別に今回のは、危険もないし、お前がついてこなくても大丈夫だよ」
しっしっと追い払う仕草をするが、キンタローの表情は変わらない。
それどころか、再びタラップを降りだしたシンタローの後ろから、しっかりとついてきていた。
「だが、お前の傍にいると決めたからな。それは無理だな」
「俺の許可なしで、決めるなっ!」
カンカンカン。
しっかりと二人分の靴音。
「仕方ないだろう。お前は危なっかしい」
その言葉に、ぐるりと首だけをシンタローは後ろに向けた。
「お前に言われたくは―――っ!」
その瞬間、シンタローの身体滑るように下降した。
足元が不安定に宙を蹴り、視線が空を映す。
(やべっ、落ちるっ!!)
どっと汗が噴出す。
だが、ガクンとそれは途中で止まった。
「大丈夫か?」
「あっ……ああ」
それを止めたのは、キンタローだった。
シンタローの二の腕をしっかりと握りしめて、滑り落ちるのを止めてくれたのである。
「で、誰が危なっかしいって?」
その言葉に、シンタローは、苦い表情を浮かべた。
しっかりと覚えていたのだ、先ほどの言葉を。
だが、思い切り足を踏み外してしまった今となっては、それほど大きなことはいえない。
「………まあ、俺かもしれないな」
「そのようだな」
くつくつと背後で笑われるのがむかつくが、未だに自分は、彼の手にすくわれている状況だった。
「余計なことしゃべんなよ」
ようやく体勢を立て直し、キンタローの手が腕からはずれると、ふんと鼻をならし、むくれるように軽く唇を尖らせる。とはいえ、それは照れ隠しにもなっていなかった。
まだ、キンタローの笑いは苛立つことに続いている。そうして、彼は、ぽんとシンタローの肩に手を置いた。
「ああ。そうだな、しゃべりそうになったら、お前が口をふさいでくれればいい」
「あぁ?」
何を言っているのだ?
と、つい首を回せば、段差のために、上から首を折り曲げるように、キンタローの頭が前触れもなく、ふってきた。
そうしてぴたりと重なる唇と唇。
言おうとした言葉は、しっかりとキンタローのそれにふさがれしまっていた。
「てっ……めぇ」
唇が離れる。
キンタローは、ニヤリと笑みを浮かべ、当然のように言い放った。
「こんな風にすればいい」
ぼっ、と即座に真っ赤になったシンタローは、その上気した顔で、眉を吊り上げ、大声を上げた。
「できるかぁああっ!!!」
至極まともなその言動だが、相手に通じたかどうかは、謎である。
なだらかな丘陵地。ここは、ガンマ団本部が置かれているこの敷地内で、もっとも静かで厳粛な雰囲気が漂う場所だった。
西から東側にかけてが一番緩やかな斜面を作っており、そこにはいくつもの見慣れた、けれど決して見慣れることなど望まないものが存在していた。
ここへ来るたびに、視線は下へではなく、上へ向けられる。
斜めを描く丘は、頂上を目指すようにすれば、自然と上を向くもので、それを理由に、慣れた道筋、危なげなく空を仰いでいられた。
今日は快晴だった。
視界を埋めつく色は一色。
そこにある色をどう表現しようか。
青の一族と呼ばれる者達が持つ、瞳のような色合いの空。
そんな言葉が浮んでくる。
深く濃い青。
けれど決して濁ることのない澄み切った青。
そこに燦然と主張するのは、目を細めるほどの眩しげな金の光に満ち溢れている太陽で、照らすその強い輝きは、全てを拭いとり消し去られるような気持ちにさせられた。
それでも、あくまでそれは『ような』がつくだけで、実際のところ、先ほどからずっとわだかまっている気持ちは、胸の奥にしこりのように存在していた。
それは、もしかしたら以前から存在していたのかもしれない。だが、それを認識したのは、今日が初めてだった。それは、この場所のせいであり、今日この日のせいであり、何よりも自分の前を歩く者のせいだった。
その姿を見るたびに、しこりのようなものは、疼きを感じる。
太陽の光よりも鮮烈な輝きと光を含むその金色の髪が、前で揺れていた。
梅雨入りしたての6月の風は、しっとりと湿気を含んでいるが、短いその髪を優しく包み込むように撫でていく。それは、まるで誘うような動きで、思わず触れたくなるが―――何度も触れたその髪の心地よい感触はすでに刻み込まれているし―――その誘惑を断ち切るように、胸に凝るものが、重みをました気がした。否、そうではない。それもあるが、相手の足が止まったためだ。
丘に緩やかなカーブを描きながら続いていた道も、ほとんどわずかしか残されていない丘の頂上付近に辿りついたのである。
前を歩いていたキンタローは、ひとつの石の前に足を向けていた。
下方では、それこそ隙間無くあったそれも、ここにくれば、僅かな数しかない。だが、そのどれもが下のものに比べて、大きさも違えば形も凝ったものになっていた。
太陽の光を反射して目を思わず細めるほどの白い石。手入れが行き届いているせいか、汚れがひとつも見当たらず、真新しさすら感じるそれに刻まれた文字を、丁寧に読み取る相手を、シンタローは、一歩後ろに下がったまま見つめていた。
それもわずかなことで、立ち尽くしたままのシンタローを置いて、キンタローは、その前に膝を折った。ずっと左手にもっていた白い花束を石版の上に置き、そのまま軽く首を垂れ、俯くような動作を加える。その一連の行動の間、こちらを振り返ることも、声をかけることもなかった。
そう言えば、キンタローと共にここに向かう時から、一言も会話を交わしてなかったことに気付いた。始終自分は、彼よりも一歩下がっていたし、あちらもそれを気にすることもなく、こちらを見ることなく、前を歩き続けていたのだ。
だが、たぶん話を交わそうとしても、上滑りするだけの気まずい会話だけで終わっていただろう。自然と零れるだろう話題は、今日この日のこの行動の意味で、けれど、それに対する自分の気持ちは、未だに整理などついていなかった。
それならば、なぜ、キンタローに付いてここまで来たのだろうか。
(今日が、ルーザー叔父の誕生日だからだけれど…)
今日は六月十二日。生誕を祝う言葉を捧げる日で、キンタローは、そうするために―――亡くなっていようとも、存在してくれたことを感謝することはできるし―――ここへとやってきたのだ。
彼がいなければ、キンタローは存在することはできなかった。
今日を祝うというのは、当然息子であるキンタローが行うべき行動で、自分にはまったく関係ないわけではないが、そうする必要性もない。だからこそキンタローも、今日の行動については、自分を誘うわけではなく、ただ報告の意味だけで、外出する直前に、今日のことを告げた。
けれど、いざ、外へ出てみれば、自分はキンタローの後ろにいる。
無意識だというつもりはない。そこには確かに理由があったような気がするのに、この場所へと訪れる合間に、その理由を手放してしまっていた。
それでも、よくよく考えれば、自分もここへいるべきだとは思っていた。
なぜなら、キンタローが存在していたからこそ、自分が存在するのであって、逆ではないのだ。
確かに自分の方が彼よりも24年間分ここに存在していたと言えるかもしれない。けれど、それはただ、彼のいるべき場所を自分が奪っていただけのことで、本来ならば、キンタローがシンタローとして、ここにいなければいけなかったのである。
それでも現実は、自分がいて、そうしてキンタローの名で彼がいる。
それは、自分が、キンタローという存在がいたからこそ生まれたためで、それならば、ルーザーという叔父の存在があったこそ、自分がいることができたのだと言っても間違いないはずだった。
(墓参りをしたかったのか?)
ここへ来たのは、酷く久方ぶりではあったが、初めてではなかった。小さい頃は、何度かここに足を運んでいた。それはいつも父親や叔父と共にで、静粛な雰囲気が漂う中で、笑い声をあげていたこともあった。それはただ、無知と無邪気なだけの行動で、その上、自分にとって、そこに眠るものは、ほとんどが見知らぬ存在であり、この墓石の中で眠る叔父とて、一度として会ったこともない、いわば、自分にとって他人と同様のものだった。正直に言えば、自分に『ルーザー』という叔父がいることも、日常生活ではほとんど忘れていたのだ。
けれど、そんな会うことはない叔父と対面する日が来るとは思わなかった。
あの島で、自分は確かに叔父の姿を見ていた。
今は無きパプワ島。そこで巻き起こった数々の信じられない出来事、辛すぎる真実。
『進め! 怖がらずに進め』
彼の言葉が耳の奥でトゲのように突き刺さっている気がする。
それほど、力強い言葉であった。
すでに亡き人であったにもかかわらず、アスによって蘇らされ、けれど意識は閉じ込められたまま、肉体を操られた人。それでも、彼は強かった。それに、甘んじることなくアスから逆に身体を奪い返し、最後には、アスを消し去った。
もっともその時の状況を把握できたのは全てが終わった後だったが。目まぐるしく変わっていったその情景で理解できたことは、彼が息子であるキンタローに、言葉と思いを託して逝ってしまったということだった。
(結局、俺は一度も言葉を交わしてないんだよな)
グンマも叔父と会話したはずである。けれど、自分だけはそんな余裕もあるはずがなく、遠目で、その光景を見るだけが精一杯だった。
それについて後悔しているつもりはなかった。そんな状況でもなかったし、何よりも、自分が叔父と交わす言葉は見つからない。
自分は、彼にとって肉体を支配した忌まわしい青の番人の影であり、そして何よりも、彼の息子であるキンタローの身体を乗っ取り24年という時間を奪い取った人間なのである。言葉を交わすことなど仮に出来たとしても、怖くて恐ろしくて何も言えなかっただろう。
自分は、そんなに強くない。
強くあろうと常に心に刻みこむ言葉は、未だに弱さを抱く自分を叱咤するもので、決して強さを得ているわけではない。自分が強く見られるとしたら、それはただの虚勢であり、はったりであり、その必要があるために、見せているだけの偽りだ。
弱さは常にここにあり、一歩足を進めるだけでも震え、怯える自分は存在する。
『ルーザー』に対しても、自分はそんな気持ちを持っていた。
心のわだかまりは、自分の中にある罪悪感が、そう感じさせるのだ。
(俺は……謝りたかったのだろうか)
両手を組み合わせ、祈りを捧げるキンタローを前に、視界を狭めるように目を細めた。
息子の身体を乗っ取ったことに対する謝罪を、ここでしたかったのだろうか。
(いや――)
そうではない気がする。その言葉は、ふと浮んだもので、自分の中から元々あったものとは思えなかった。
確かに、謝りたい気持ちはある。けれど、それは『ルーザー』に言うべきものではない気がする。第一、今更そのことを蒸し返したとして、誰も喜ばない。決着がついたのだとは言わない。全てが終わったことだと承諾するわけではない。ただ、謝罪は、謝る言葉を告げるだけのものではなく、そんな言葉はここには必要なかった。誰もそれは求めていない。謝罪の言葉は、もういらない。
(ただ、ここで叔父に会いたかっただけなのか?)
後ろ姿を見せるキンタローの短めに整えられた髪が、南天に向かおうとする太陽の日差しを受け眩しげな光を放つ。ルーザーの髪も同じ色をしていた。四兄弟とはいえ、微妙に金色の髪は色合いが違っているが、キンタローの髪の色は、あの時見たルーザーと同じ色をしていた。顔も似ている。息子なのだから当然だ。キンタローがこちらに戻ってきた後、その似通った容姿に、驚愕するものや涙を浮かべるものが大勢いた。
キンタローの中には、ルーザーがいる。
それは決して悪いことではなくて、むしろキンタローを安定させる礎の一つにもなっているように思えた。それはたぶん、彼が息子に与えた言葉ゆえだろう。
刻み込まれた彼からの言葉は、しっかりとその心に根付き、前へと進む指針の役割も担っていた。
だから、キンタローの中に彼がいると言っても間違いではない。もちろんキンタローの中だけではなく、彼を知っているものの全員の中に『ルーザー』は存在しているけれど、一番その姿を投影しやすいのはキンタローだろう。
そんな彼に、いつも自分は会っている。それなのに、今更彼に会いたいと思うのも何かおかしい気がした。
(わっかんねぇ)
とうとうシンタローは、思考をめぐらすことを放棄した。
どう考えても、自分がキンタローについていき、ここにいるべき意味がわからないのだ。
全てを投げ出して、キンタローやその前に刻み込まれた名前から目をそらすように、身体を捻らせ、別の方向へと顔を向ければ、その気配に気付いたように、ずっとその前に俯き黙祷を捧げていたキンタローが振り返った。それに、自分も顔を戻す。
青い視線が眼に映る。
「その顔はなんだ?」
「はあ?」
久しぶりに交わされた会話は、間が抜けたものになってしまった。自分の顔を見るなり、唐突に告げられたその言葉を理解することは不可能で、とりあえず自分の顔に手をやり、さすりながら、シンタローは尋ねた。
「どんな顔をしてるんだ? 俺は」
「分からないのか」
「ああ」
さっきまで、自身の感情が分からず戸惑っていたし、今はその全てを放置していた。そこから浮ぶ表情などわからない。
自分はどんな顔をして、キンタローの前にいるのだろうか。
鏡でもあれば確認できるのだけれど、生憎そんなものは身につけてないし、周りにもそれに代用できるものはない。
もう一度、顔をてらりと撫ぜてみるが、やはり自分の表情を読み取ることなどできなかった。
「何か言いたいことがありそうな顔をしているぞ」
言いたいこと……あるのだろうか?
そういわれても、戸惑いの感情しかわかなかった。顔の表情がわずかに動く。困ったように眉が少しばかり中央に寄せられた。
(言いたいこと…か)
何か自分の中にあるのだろうか。考えても分からなかったのに、そう指摘されても、頷くのに躊躇われる。
「言いたいことってなんだよ」
そう呟けば、
「俺が知るわけがなかろう」
あっさりと言葉を返されてしまった。
確かにその通りだ。自分でも分からないことを尋ねたからと言って、相手が知るわけが無い。それはそうなのだが、こちらも困惑しているのである。気持ちが決まらない。自分の想いがみつからない。
「でも、俺もわかんねぇんだけど」
こうして再び考えても、言いたい言葉は浮んでこなかった。
「そうか。それなら仕方ないな」
シンタローの言葉に、キンタローは深く考え込むこともなく、そう流した。
「仕方ないって…」
「分からないならば、そう割り切るしかないだろう。少なくても、俺にはお前の今の気持ちは読み取れない」
「それはそうだが――」
顔が不貞腐れるように歪む。そうきっぱりといわれたとたんに、無性に腹が立ったのだ。
けれど、その怒りをキンタロー自身に向けるわけにはいかなかった。浮んだ感情は、明らかにただの癇癪だある。子供のダダと同じだった。自分の気持ちが分かってくれなかったことにたいする身勝手な怒りを、自分のエゴだけで、キンタローにぶつけるわけにはいかないだろう。
理性が働き、それは止められる。
その葛藤を読んでいたのか、そう結論付けられるのと同時に、キンタローが口を開いた。
「それじゃあ、行くぞ」
キンタローは踵を返す。自分の横を掠めるように通り抜ける。
「まてっ」
とさっにそう声をかけた。その声に引かれるようにキンタローは振り返ってくれた。
同時に風に煽られて、金色の髪が頬に触れる。
幼い頃、無邪気に太陽の光を手に翳し、掴むようにその髪に手を伸ばして、握り締めた。
当然髪を引っ張られる形となった相手は、その痛みとともに、動きを静止させられた。
「イタッ…何をするんだ、シンタロー」
「あ、いや…その」
自分の行動の意味がわからずに、掴んだばかりのその手をすぐに離した。けれど、先ほどの不審な行動が忘れ去られるわけがない。怪訝な顔をする従兄弟に、シンタローは、どう説明すべきかと考えようとした。だが、それよりも先に身体が動いていた。
衝動。
それが一番相応しい。
目の前で揺れる金色と青色の存在に、シンタローは突き動かされるように求めた。
腕を伸ばして、目の前の存在に飛びつくようにそれを絡める。気がつけば、腕の中に掴んだ相手をしっかりと抱きしめる形になっていた。
「――何がしたいんだ、お前は」
それをなんなく抱きとめた相手は、拒絶することもなくその身体を受け入れてくれる。
その心地よさに甘えながら、ふわりと頭を掠めて行ったものに、シンタローは、反射的にパチッと目をしばたかせた。
答えが不意に湧き出したのだ。
(ああ、そうだった)
そう思ったとたんに、すとんと気持ちが落ち着いた。
「分かった」
「何をだ」
「ここで何を言いたかったのか思い出したんだ」
厳密に言えば、思い出したというのとは少し違うのだけれど。
思い出したというよりは、思いついたというものだろうか。それでも、その言葉はずっと自分の内にあった気がする。
「それで、何を言いたかったんだ?」
理解不能な行動を先ほどからとっているにもかかわらず、訝しげな表情を見せるものの、激昂するわけでもなく、優しくこちらに声をかける存在に、シンタローは、抱きしめていた身体に力を込める。
「お前を―――――」
「俺を?」
腕の中にある存在を感じる。
「ください……と」
「シンタロー?」
唐突な自分の告白に戸惑うその声を耳にし、シンタローは、力を緩め、キンタローの身体を解放した。身体を捻り、背を向けていた墓石へと真っ直ぐに向いた。
ルーザーの墓。
ここに、キンタローの父親が眠っている。彼の一部が存在している。全てではないために、ここでこれを告げることが正しいのかはわからない。それでも、これも彼の一部というならば、本体というものが存在しない以上、ここに告げてもおかしいことはないはずだった。
だから、シンタローはその前で告げた。
自分の中にあった形をもたなかった想いを。
否、形にすることを恐れていた思いを真っ直ぐに偽りなく、言葉として紡いだ。
「俺は、お前の24年間を奪ってきて、それを言う資格なんてないことはわかっているけれど、俺にはキンタローが必要だから……ここで報告したかった。俺は――これからも、貴方の息子の時間を奪います――と」
確定の言葉。『たぶん』や『きっと』はつかない。確かな事実。
だからこそ、ルーザーと刻まれた石の前で、シンタローは頭を垂れた。
深く、強く、地面までつきそうなほどに、身体を折り曲げる。
それは願い。
それは祈り。
『どうか、自分にキンタローをください』
自分の中にある想いは告げたから、後は許しを得るだけ。けれど、すでに亡き人の許しなど、どうやって得ることができるのだろうか。
分からない。
それでも、黙ってはいられなかった。
自分は咎人なのだ。
24年という時間を奪った罪人。
それを忘れたことはない。それでも―――その罪を受け入れても、自分は望むものがあった。赦して欲しかった。
いつまでそうしてただろう。
「いいそうだ」
背後から聞こえてきた言葉に、頭をあげる。ゆっくりと振り返れば、太陽を背にしたキンタローが、こちらを見つめていた。
太陽の影で、表情が暗く見え辛い。けれど、そこに浮んでいるのは、穏やかな笑みで、そうしていると、小さい頃見せてもらった写真に写っている生前のルーザーとよく似ていた。はっきりと細かなところまで顔が見えず、なおかつ、自分の眼には痛いほど陽光が差し込んできて、余計にそれを区別することが難しい。
「ルーザー」
思わず漏れた言葉に、相手の眉尻が軽く上がり、それから再び笑みが戻り、しっかりとした口調で、一言言われた。
「赦す」
それは、確かにルーザーの言葉で、そう信じたくて、信じることにして、シンタローはその瞬間、顔をくしゃりと歪めた。ジワリと瞳に浮ぶのは涙。嬉しいという感情が胸を熱くし、喉を焼き、さらに水を生み出し涙となって零れ落ちる。
自分は、罪深き言葉を言い放った。けれど、それを彼は赦すと言ってくれたのである。それは、喜ばずにはいられないものだった。
口元が左右に開く。けれど、開けば嗚咽が零れ落ちそうで、俯いた顔で口元を覆った。
(赦す)
耳をすり抜けていくその言葉は脳に滲み込み、血液の流れとともに全身を駆け巡り、胸に凝っていたしこりもゆっくりと溶かしていく。
「本当に赦して…くれるのか?」
とんと額が、相手の身体に触れる。それはたぶん肩。体重をかければ、がっしりと力強いそれで、受け止められた。
背中に回された手が、宥めるように叩かれる。
「ああ、赦す。だから―――」
叩く手が止まり、身体が前かがみになるように引き寄せられた。腕が背中を回り、全てを包み込むように抱きしめられる。
肩についていた顔は、滑るようにして相手の顔の横をかすめ、額の変わりに顎が、肩の上に置かれていた。
そんな体勢の中で、耳元にしっかりと言葉が吹き込まれる。
「お前はその言葉どおり、俺の時間を奪い続けろ」
『赦し』を得たのだ。
それならば、シンタローは自分の思うが侭にすればいい。自分の時間などくれてやる。
一言一句をその中に刻み込めというように、ゆっくりと言葉を紡ぐ相手に、シンタローは、相手の背中を同じように抱きしめて頷いた。キンタローの肩が邪魔で、しっかりとは頷けなかったけれど、それでも何度も頷いて、
「――――ありがとう」
最後に感謝を込めて、金と青が混ざり合う空を仰ぎ、それを見つめ、礼を告げた。
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ようやく完成……長かった(汗)
わけのわからぬ話です。思いつきから書き始めたために、最後どころか話の筋すらも決めてませんでしたので…。
それでもルーザーの誕生日だから! と書いていたはずなんですが……いや、誕生日関係ねぇ。
自分の話にしては、珍しくうだうだと心情を書いてみました。だから妙なものになったんですがね(涙)