しゅるりとかすかな衣擦れの音に、シンタローは目を覚ました。
どこから出た音なのか、判断しようと、うつ伏せに寝ている身体に、腕を立て起き上がる。
同時に、肩までかかっていたシーツがするりと肌から滑り落ちた。
「起こしてしまはりましたか?」
同時に、聞きなれた方言の独特な柔らかい音が耳に響く。
それに、はっと慌てたように横に首を向ければ、素肌に白いシャツを羽織るアラシヤマの姿が見えた。
先ほどの衣擦れの音は、彼がシャツを着る音だったようである。
相手は、シャツのボタンを留めながら、起き上がったシンタローに、はんなりと笑みを浮かべた。
「まだ、寝ててもよろしゅう時間やあらしまへんか?」
その言葉に、ちらりと視線をベッド脇の棚に向ければ、デジタル時計は5時少し前を示している。確かに、まだ寝ててもいい時刻である。
ブラインド越しにうっすらと覗ける外は、漆黒しか見受けられない。
朝はまだ訪れていない。
それを見受けると、シンタローは、むっと不機嫌そうな表情を作った。
「お前は、どこ行くんだよ」
その質問に、意外そうな表情をちらりと走らせたアラシヤマは、けれどすぐに苦笑を浮かべて、少しばかり乱れている髪に手を当てた。
「わては、部屋に戻らせてもらいますわ。朝イチに仕事が入っとりますから」
朝イチと言えば6時ぐらいだろうか。まだ、一時間ばかり時間は残っている。もちろん身支度をしていれば、そんな時間はすぐに無くなるだろう。
ピッと時計の文字が変わった。一つ数字が増えた。
曖昧なアナログ時計とは違い、デジタルは、几帳面に時刻を示す。薄暗い部屋の中、蛍光色に縁取られた文字が、時間の流れを告げる。
また少しだけ相手といる時間が減った。
壊れてしまえば………そのまま止まってしまえばいいのに。
正確に刻まれる時刻にかすかに眉根を寄せ、シンタローは、アラシヤマの方へと視線を戻した。すでに身支度を整えた彼が、そこにいる。
「そやから先に失礼させてもらいますわ」
腰掛けていたベッドの上から立ち上がるアラシヤマに、シンタローは、はっと目を見張らせ、すがるような視線で相手の背中を見つめた。
「別にまだ…」
まだ、いいだろうが。
けれど、そう言うつもりだった言葉を、慌てて呑んだ。伸ばしかけた手も気づかれないうちに戻した。
馬鹿なことだ。
そんなことは、ただの迷惑なワガママでしかない。
それは、相手の仕事の邪魔になるだけだ。
そんな無様な真似は許せない。
(格好悪ぃ…)
声に気づいたのか、アラシヤマがこちらに振り返るのがわかる。けれど、バツが悪くてそっぽを向いてしまった。
未遂とはいえ、あまりにも女々しいことを口にしかけたのが、恥ずかしい。
それでも思わずそんな言葉を口に出しかけたのは、傍にあった温もりが遠のくのを寂しく思ったからだ。もちろんそんな正直な気持ち相手に告げる気はない。
ぶるりと身体が震えた。
朝方の空気は冷える。
晒された素肌に、熱は急激に失っていっていく。
つい数刻前までは、溶けるかと思うほどの熱さに翻弄させられていたというのに、そんな熱は今は微塵も感じられない。
シンタローの震えに気づいたのか、アラシヤマは、こちらに手を伸ばし、腰まで落ちていたシーツを引き上げ、シンタローの肩に乗せた。それから、ぽんぽんと軽く肩を叩き、その身体を押す。
「もう少し休みなはれ、シンタローはん」
ぽふんとスプリングがきいたベッドの上に倒れさせ、その上から覗き込めば、相手は、未だに機嫌を損ねている顔で見上げてきた。
「俺は、眠くないぞ」
僅かに唇を尖らせ、駄々をこねる子供のようにそう言う彼に、アラシヤマは、思わず零れた笑いを噛み締め、シーツを少しばかりめくった。
「そんなはずはあらしまへんやろ? 昨晩は少々無理させすぎましたし」
ツツッとなぞるのは、昨晩の情交の痕。
服を着れば見えない場所とはいえ、くっきりと刻み込まれているそれに、シンタローは、顔を赤くした。
寝ている自分には見えないが、それでも昨日、そこに丹念と刻みいれられたいたことは覚えている。
「わてのことは気にせずに、眠っておきなはれ。あんさんの方が、忙しい人なんやから」
そうして額に口付けを落とされる。
まるで幼子に対する母親のような態度だ。
大人しく寝なはれ、とまで言われてしまえば、決定的だろう。
「わかったよっ」
そこまで言われて、未だにぐずぐずと相手を引き止めていれば、本当にワガママなガキでしかない。
ぼふっと頭から毛布の中にもぐりこむ。
さっさといけばいい。自分はここでまだ惰眠をむさぼってやる。広々としたキングサイズのベッドで、手足を伸ばして気持ちよく眠ってやる。
そう思っているのに、ギュッと丸々ようにして毛布に包まっていた。
手足を伸ばすと冷たさに凍えるから、僅かな温もりを求めるようい丸くなっていた。
アラシヤマは、出て行ったのだろう。
気配は、いつのまにか消えている。
「馬鹿野郎。俺を置いていくなよ」
誰もいないから、零れ落ちた本音。
置いていくも何も、彼は仕事に出かけるために、仕方なしに出ていったまでのこと。ガキでもあるまいし、そんなことはもちろん承知している。
わかっているけれど、理解するのと感情とはまた別ものだ。
心細いというのは少し違うけれど、一人残される感じがして寂しさが募る。
冷たいベッドの中で、どこかに温もりはないだろうかともぞもぞと動いていれば、何か暖かなもが上から覆いかぶさってきた。そして、声。
「わては、いつだってあんさんの傍におりますえ」
ガバリッ!
行き成り耳元で囁かれた言葉に、シンタローは、慌てて毛布から顔をだした。そこには先ほどと同じ姿勢のままのアラシヤマがいた。
「お……お前、出て言ったんじゃ」
「あんさんが、眠りにつくまで傍にいてはろう思うて、ここにいましたえ?」
くすりと笑いを零すアラシヤマに、シンタローは、くしゃりと顔を顰めた。
不覚だ。
完全に気配を消されていたために気づかなかった。
「ほらほら良い子は、素直に眠りなはれ」
肩を押され、もう一度横へとさせられる。完全にお子様扱いだ。さらりと額を撫でられ、髪をあげられた。
「心配へんでも、わてはいつでもここにおりますわ。身体がしばし離れていても、心はいつもそこに存在しとります。忘れんといてくだはれ」
そうして、誓うようにされた額への口付け。
確固たる想いを刻み込まれる。
「………忘れねぇよ」
忘れる気はない。
相手が告げた言葉は、自分が望むことだ。
たがえることは、自分が許さない。
「けど、今はここにいろ―――俺が眠るまで」
命じる声に、相手は苦笑する。
「ワガママどすなあ。あんさんは」
それでも、お前はいてくれるんだろ?
そこに留まる温もりに、シンタローは、安堵の溜息とともに、ゆっくりと瞼を閉じた。
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「アラシヤマっ!!」
間近に聞こえる切羽詰った声。
その声と共に、そこにあった身体を深く抱きこんだ。
その刹那、背中に当る強い衝撃と凝縮された熱。
(間に合った)
その想いとともに、
「ぐっ……!」
歯が食いしばられ、それに耐えようと身体が反応する。
背中から迫った痛みと熱さ。
「アラシヤマ! アラシヤマっっ!!」
悲痛な声が、耳元にかかる。
抱きしめていたはずの身体が、いつのまにか反対に抱きしめられたいた。
力は、すでになかった。身体がひどく重く感じる。脳天を突き破るほどの痛感に、発狂しそうなほどだ。
けれど、明確な意識は、まだ残っていた。
「シ…タロー……は、ん。無事……どすか?」
喉の奥からくぐもった声が吐き出される。
(あんさんは、無事だろうか…)
遠征中での出来事だった。
全面降伏に応じた敵に、出撃していた団員達も総帥であるシンタローも、退去する最中のこと。
突如行われた、不意打ちの攻撃。刃物をもって少年の乱入。
狙いは、ガンマ団総帥。
その子供がまだ十五にもならないほどの幼さだったためだろう。誰もが即攻撃を躊躇い、対応が間に合わず、一番近くにいたアラシヤマが、とっさにその身でかばう結果となった。
その刃物は、アラシヤマの背中に深々と刺さっていた。
視界が、かすれている。
意識も、次第にぼやけてくる。
「あっ…ああ。でも、お前が………」
声が、遠い。
聞こえない。
「よかったどす……」
ただ、唇は動いて、それだけは言えた。
本当によかった。
(あんさんが、無事であればそれで十分ですわ)
ほっと安堵した体は、すでに機能することもままならず、そのまま意識を手放した。
草木も生えぬ荒れ野。
どこまで続くかもわからぬ、地平線の果てまで見渡せる世界。
自分は、そこに立っていた。
「ここは、どこどすか?」
気がつけば、そこにいた。
風もない。
音もない。
静寂が支配する地だ。
何も無い。
けれど、寂しさは感じなかった。
心地よさすらも感じられる。
一人には、慣れていた。
慣れすぎるほど慣れてしまっていた。
だから、こんな世界も、自分にとっては煩わしさが一切ない理想の世界の一つに思えた。
「なんや、居心地のええ場所どすな」
立っているのも飽きて、そこに座り込む。
空を見上げると、灰色の薄雲が覆っていた。
陰鬱といってもいい空模様だが、けれど気にはしない。
そんな空の方が、自分らしい気がする。
「でも、なんで、わてはこんなところにいるんやろ?」
何か忘れている気がする。
大切な何かを。
「なんでっしゃろ?」
けれど、思い出せない。
思い出そうとすれば、頭の中に霞がかかる。
イライラともどかしい思いを掻き立てられる。
こんなに居心地のいい場所にいるのに、なぜ自分は、そんなに気にしているのだろうか。
『大切なこと』
違う―――――そうではなくて…………大切な………大事な。
ぽとり…。
「えっ?」
肩に触れたそれに、手をやれば、指先がかすかに濡れた。
「なんですのん?」
上を見上げた。
それは頭上から降ってきたものだ。
(雨?)
雨を降らしそうな雲ではないが、それ以外に水滴が零れてくる要因は見つけられない。
(けど……)
「なんですのやろ。なんか気になるわ」
雨ならば、そのまま放っておけばいい。
まだ、酷くないのだ。
少しばかり雨に打たれても気持ちいいかもしれない。
ぽとり…。
また、水滴が落ちてくる。
今度は頬に触れた。
それをすぐに手でぬぐう。
それはなぜか心の琴線に触れる、気になるものだった。
また、空を仰いだ。
ぽとり…。
水滴が額を打つ。
ぽとり…。
手を伸ばせば、その上にも落ちる。
冷たさは感じずになぜか温もりをもった雫。
それが、荒野に降り注ぐ。
ほとほとと静かに零れ落ちてくる。
天が泣いているようだった。
誰かの涙のような雨。
(誰の……涙?)
自分の前で、泣くような人間などいないはずだった。
そんな人は思い浮かばない。
けれど――――。
「あっ………まさか、シンタローはん?」
不意にその名前を思い出したとたんに、アラシヤマは、すくっと立ち上がった。
急激に頭の中の霞が晴れ、記憶を取り戻す。
少し前までの記憶。
自分が、彼を庇って刃を受けたことを。
「わて、こんなところにいてる場合じゃあらしまへんのやっ!」
きっと泣いている。
誰よりも大切な人が。
この荒野を潤す雫は、彼の涙で間違いなかった。
誰が、泣かしているのか―――――。
(わては大丈夫でっせ、シンタローはん)
アラシヤマは、目覚めるために、荒野の中を一歩足を踏み出した。
ぽとり…。
最初に感じたのは、頬に落ちた暖かい雫。
目を開くよりも先に、
「涙…でしゃろっか?」
かすれた声で、そう呟けば、ぐいっとシーツか何かで濡れた頬をぬぐわれた。
「痛っ」
その痛みに顔を顰めつつ、うっすらと瞼を開く。
光が眩しい。
それでも、徐々に目を開けば、滲む視界に赤色が写る。
像が上手く結ばない。
歪む視界の中で、目を細めれば、赤色が消え、黒いものがぱさりと目の前に落ちてきた。
「馬鹿が。ようやくお目覚めかよ」
そうして間近で聞こえてきたのは、なぜか怒りを含んだもので、アラシヤマは、可笑しくなって笑みを浮かべた。
「何笑ってんだよ」
さらに不機嫌さをました声に、アラシヤマは、くくくっと喉を振るわせる。
乾ききった喉には、それは辛いものだったけれど、なぜか笑いがこみ上げるのだから、仕方がない。
嬉しいのかもしれなかった、この状況をどこかで、喜んでいる自分がいるのだ。
今の状況が、どんな状況であるのかは、まだよくわかっていなかったけれど、けれど、ここに彼がいることに喜ばない自分はいない。
「おいっ! もしかして、頭がどっかイカれたか?」
どことなく焦りを含んだ声に、アラシヤマはようやく笑いを止めて答えた。
「そんなことあらしまへんで」
聞き苦しいガラガラ声で、即座にそう返せば、相手は、一瞬眉間のしわを深くして、それから、後ろを振り返り、用意していたのか水をなみなみと注いだコップを手にした。
もうアラシヤマの目も通常に戻っていた。
そこにいたのが、やはりというべきかシンタローだった。
瞳が潤み、充血しているのに気づいたが、それについては指摘せずに黙っていた。
問いかけなくても、その瞳の赤さが自分のせいだと分かっているためだ。
「……水、飲めよ」
「おおきに」
ぐいっと差し出されたそれを素直に受け取って、アラシヤマは、一気に煽った。
喉が、急激に潤されるのがわかる。
「ふぅ~。生き返ったどす」
「ああ、本当にな」
しかめっ面で告げられるその言葉に、再び笑みがまたこぼれる。
同時にむっと相手の唇がへの字を作り、空っぽになったコップをひったくるように、取って行ってしまった。おかわりが欲しかったが、どうせ言ったところでもらえはしないだろう。彼は、見てわかるぐらい苛立っていた。
「笑うなよ! てめぇ、自分がどんな状況だったかわかってるのか?」
「さあ?」
笑うなと言われために、出てくるそれを噛み殺しながら、アラシヤマは、首をかしげた。
本当に、どんな状況かは、知らない。
自分が目の前の彼を庇って刺されたというとこまでは、覚えている。
状況から見れば、ここは病室だろう。刺されてから治療のために病院に運ばれただろうことあ、すぐに想像はつく。
しかし、痛み止めが効いているのか、痛いという感覚は、今は身体に残っていない。けが人という意識は、自分には、まったくなかった。彼の口ぶりからすれば、命にかかわるようであったが、実感はなかった。
「………あれから、集中治療室で三日。それから、意識が戻るまで二日かかってるんだぞ」
「はぁ、そんなにわては寝てたんどすか」
そう言われれば、どことなく筋肉も体力もぐっと落ち込んでいる気がする。
とはいえ、未はまだ、少しの動作しかしてないために、自覚はあまりない。
後のリハビリが大変やな、とは思うものの、それほど自分の命が危機にさらされていたことには、やはり感慨はなかった。
「お前なぁ………まあ、無事ならいいんだけどさ」
あまりにも平然とした顔をしていたせいだろうか、相手が呆れたような表情で、頭をかく。それから、眠そうにひとつ欠伸をした。
「あんさんは、寝てないんでっか?」
アラシヤマは、手を伸ばし、目の前の顔に触れた。
そっと頬から、目元に指先を触れさせる。
顔色が悪い。そして、触れたその目元には、痛々しいほど深い隈が出来ていた。
「っ!――――仕事が、忙しかったんだよ」
ふいっと顔をそらされ、指先が宙に浮いた。
所在投げに指先が揺れる。アラシヤマは、苦笑を浮かべた。
(シンタローはんらしい、答えやな)
彼の言葉は、真実だろう。けれど、それはたぶん真実の一部。
仕事が忙しいにもかかわらず、たぶん、彼はここに来てくれていたのだ。何度も……それこそ、眠る時間すら削って。
それくらいは、すぐにわかる。
けれど、そのことについては、何も言わなかった。言えば、頑固で照れ屋な彼のこと、必死で否定するに決まっていた。
「そうでっか」
一言だけそう呟くと、その手を自身の方へ戻したアラシヤマは、ふわりと笑った。
「けれど、あんさんが、無事でよかったどす」
そう。それだけで、自分は満足だった。
自分が望んでいたのは、目の前の人物の命の存続。
あの時、身を挺して彼を庇ったのは、そのためだ。
大切な存在は、確かにここにある。
満足げな笑みを浮かべるアラシヤマに、シンタローの顔が歪む。そして、それがアラシヤマの視界から消えた。
「っ!?」
気がつけば、シンタローが、ベッドの上に乗りかかるようにして、抱きついてきていた。
ギシリと二人分の体重がかかったベッドが苦しげに悲鳴をあげる。
けれど、それを気にするヒマなどなかった。唐突なそれに、とっさに身じろぎしようとすれば、それを許さないかのように、ギュッと強く抱きしめられる。
驚いているアラシヤマの耳元で、苦しげな声が聞こえてきた。
「馬鹿が……なんで……なんで、俺なんかを庇うんだよ」
「し、シンタローはん?」
これはどうすればいいのだろうか。
反対の状況は、実のところ結構あったりもするのだが、こうして、彼から抱きついてきたことは、あまりない。
どうすればいいのかわからずに、オタオタとみっともないほど焦ってしまう。
けれど、相手の方はそんなことなどお構いなしである。
「俺は、別にお前なんかに庇って欲しいなんて思っていない。俺のために、命を張って庇うなよっ!!」
怒鳴りつけるように告げられた言葉に、アラシヤマは、カッと身体が熱くなるのを感じた。
ぐいっと抱きつかれた体を離すようにして、彼の両肩に手を置くと、痛々しいほど歪んでいる顔をにらみつけた。
「阿呆なこと言わんといてくだはれ。あんさんの命は、わての命に比べられんぐらい大切なものでっせ? あんさんが死んだら、このガンマ団はどうなると思うとりますのん!」
一気にそう言うと、はあ、とため息を一つつく。
身体が苦しい。息があがる。
体調がまだ戻ってないせいだ。
覗き込んだ顔が、一瞬泣きそうな表情を見せ、伏せられた。
「…………だから、庇ったのか? 俺がガンマ団総帥だから」
部下の役目として当然のことだから。
消え入りそうに呟かれた言葉は、奇跡的に、聞き取ることができた。
はあ、ともう一度ため息をつく。けれど、それはつまらぬ勘違いをする彼に対する呆れまじりのもの。
「それは、喩えどすわ。そんなわけ、あらしまへんやろ。あんさんが、何の肩書きももたない人でも、わては、命はって助けましたわ。あんさんは、わてにとっては、唯一無二の人なんでっから」
何者にも変えられぬ尊い存在。
そんなものを自分が得られるとは思っても見なかった。
夢で見た、荒れ果てた荒野。
それは、自分の心が反映した姿。
そんな中に居た自分に、潤いをくれたただ唯一の人である。
大切で大切で、命よりも大事な存在。
けれど、だからこそ、自分のために、彼にそんな辛そうな表情はして欲しくなかった。
「シンタローはん。すんまへん」
ぺこりと頭を下げる。
「なんで行き成り謝るんだよ」
それに驚いたように顔を上げたあと、顔をしかめた相手に、アラシヤマは笑みを向けた。
「あんさんを泣かしてしまいましたやろ?」
「……そんなこと」
「シンタローはん。おおきに。わてなんかに、涙を流してくれはって」
そう告げたとたんに、彼の手が伸ばされた。襟元をつかまれ、ぐいっと引き寄せられる。
またしても、目の前につきつけられた顔は、怒りを含んだ、泣きそうな顔だった。
「あたっ……当り前だ、馬鹿! 当然だろう。お前が………お前が、死ぬかもしれないと思ったから……意識もなかなかもどらねぇし………」
ぽとり…。
感情が高ぶったのか、綺麗な漆黒の瞳から、雫が零れ落ちた。
ぽとり…ぽとり…。
止められないのか、何度もそこから流れ落ち、その下にある、自分の服をぬらしていく。
アラシヤマは、自由な手を動かして、その涙が落ちる地点に手を広げた。
ぽとり…。
また、一つ零れ、手にはじけるように落ちた。
覚えのある感触。
あの夢で感じた温もりを含む優しい液体。
荒野を潤うしてくれた、雨。
自分のために流される、涙。
それを心地よいと思うのは罪なのだろうか。
止めるのも、なんだかもったいない気がして、頬に触れようとした手を頬の傍を流れる髪へと移動させた。
存外に柔らかな髪を梳くように、掬い上げ、口付けをひとつ、そこに落とす。
「わては、幸せもんどす」
こうやって、自分のために泣いてくれる存在がいる。
それだけで、幸福に包み込まれる気がする。
無神論者であるにもかかわらず、神に感謝したい思いでいると、ぐいっと髪を握っていた手が、引っ張られた。
「?」
むぅと唇を曲げた彼の顔が近づいた。
「一人だけ、幸せになるなよ。俺には………それをくれないのかよ」
なんとなく不貞腐れているような感じがするのは気のせいだろうか。
まじまじと彼を見つめていると、それに恥じ入るように、瞼が落とされ、口内で呟くように、唇がかすかに震えた。
「俺は――――お前が傍にいてくれるだけで、幸せなのに」
それでも、間近であるために、しっかりと聞こえてしまった言葉に、アラシヤマは、目を見開いた。
「シンタローはん……本気でっか?」
思わず、彼の肩に手をかけると、逃げるように引かれる。それでも、本気で逃げる気はないのか、軽く背をそらし、視線を反らされるだけで、そこに留まってくれた。
それから、酷く不服げな顔で、ぼそりと呟かれる。
「………………聞くなよ、んなこと」
(シンタローはんっ!!!)
「わて、その言葉だけで死んでもええどすっ!」
叫んだとたんにギロリと睨まれる。
「あ、嘘どす。嘘でっせ」
慌てて、パタパタと手を振って否定して見せた。
今の状況で、『死』という言葉を使うのはまずい。相手が過敏に反応してしまう。
掴んでいた肩を引き寄せる。
あっさりと自分の胸に戻ってきてくれた彼に、刻み込むように言葉を送る。
「シンタローはん。わては、ずっとあんさんの傍にいますよって、ええどすか?」
こんな風に、彼を泣かしてしまうことがあるかもしれない。
それでも自分のために、彼は必要だった。
あの荒れ果てた地には、潤いをもたらす優しき雨が必要だから。
希うように、問いかける。
「ああ。許してやる」
そうして返ってきたのは傲慢にも思える言葉で、アラシヤマの口元から笑みがこぼれた。
真っ赤になりつつ言われたところで、威厳などあったものではないのだ。
「おおきにどす」
何よりも愛しき存在を胸に抱き、アラシヤマは、感謝の気持ちを込めて天を仰いだ。
うろこ雲が流れる秋空に手をかざす。いつのまにか遠くにいってしまった空は、濃さが薄れたのと同時に透明感がました。肌に触れる風が冷たさを帯びだしたのはいつからだろうか。気がつけば乾いた秋風が髪を梳いて過ぎ去っていた。
「アラシヤマ」
その名が口から零れた瞬間、シンタローは顔を顰めた。困惑をも含むのは、彼の名を呼ぶつもりはなかったせいだ。
朝からのデスクワーク続きに、少々嫌気もさしてきて、息抜きのつもりで外へ出てみれば、目の前に丁度彼がいた。こちらに気付いていないのか、少し先を歩くその後ろ姿を目にしたのと同時に、自分の口は開き、彼の名前を呼んでいた。とりたてて用事はなかったというのに。
もちろん気安い――とはいわないまでも、親しげな会話をするぐらいの仲だ。姿を見かけたから、声をかけたというのもおかしな話ではない。それでも、彼の名を呼んだ刹那、後悔していた。言いようのない胸のざわつきを奥の感じたせいだ。それは今も続いている。
(なんだ…これ?)
最近頻繁に感じるこれに、シンタローも戸惑ってしまう。けれど、戸惑うだけで、理由は分からないままだった。
名前を呼ばれた相手がゆっくりと振り返る。激務のおかげで久しぶりに見るその顔。その瞳が、こちらを見止めた瞬間―――その眉間に皺が寄った。それは一瞬のことで、見間違いかと思ったが、それでも、勘がそうではないと告げた。
疎まれた……。
頭の中によぎったのはそんな言葉。
ただ声をかけただけだ。
確かに、声をかけたことで、何かの邪魔をしてしまったということはありえる。けれど、見た限りでは、ただ散歩しているようにしか見えなかった。それでも、そんな表情を浮かべたというのならば、原因は、ただひとつ―――自分が声をかけたせいだということ。
(なんだよ…それ)
そんな顔をされるほど、自分がアラシヤマに疎まれているとは思っていなかった。
とたんに胸のうちでムカムカとした気持ちが沸きあがってくる。苛立ちというものだろうか、瞳がかすかに険しさを帯びる。しかし、気持ちを全て出し切ることはできなかった。
目の前には、振り返ったアラシヤマがいる。その彼が浮かべた、僅かな表情だけで気分を害したことなど、気付かれたくなかった。
だから――。
「何か用どすか? シンタローはん」
と、当然の問いかけをされると、
「悪ぃ。姿見えたから、ちょっと声をかけただけだ」
と、当たり障りのない言葉をそっけなく返した。彼の存在など、こちらは気にしてはいないという態度を貫く。
けれど、そのとたん、相手からふっともらされたのは笑みで、またもやこちらの想像範疇外のことだった。
(なんだよ…あれ)
その笑みがひどく気にかかる。
相手が何を考えているのかわからなかった。もしかしたら、それは他愛のないことで、こちらが気にする必要のないことなのかもしれないのだろう。それでも……。
(何かおかしいことでもあったか?)
それを気にしてしまう。
そう言えば――と、思う。いつのころからか、自分は目の前の彼に対して、その言動や様子を気にし出していた。それは、おそらく士官学校よりもずっと彼が近づいてきて、何よりも、彼の存在が、今のガンマ団にとってなくてもならない大切な団員になったせいだろう。だから、気になってしまうのだ。それが理由……たぶん…きっと…そう――。
今も彼から目が離せない。
もう彼には用事はない。最初に声をかけたのだって、はずみのようなもの。理由はなかった。
もしかしたら……最近の自分は、少しおかしいのかもしれない。彼に対してだけ……ほんの少しだけ…そう思う。
おそらく…それは何か理由があって、それはやはり大したことでもなくて、分かってしまえば、すぐに納得して、終わってしまうことなのだろうに……今はまだ、分からない。謎のまま。
「そうどすか。ほな、わては、行くところありますよって、失礼させてもらいますえ」
「ああ」
確かに、理由がないまま呼び止めてしまったのだから、これ以上彼を拘束はできない。その言葉に、一抹の寂しさを感じた事実を、慌てて消し去って、立ち去るアラシヤマに視線を向ける。
再び踵を返し、背中を見せるその姿すらも自分は凝視していた。ゆっくり立ち去るその姿。
ギクッ!?
「なッ!」
なのに、前触れもなく、アラシヤマが振り返った。
それはわずか一秒足らずのこと。けれどそこには、まるで獲物を手にする瞬間の肉食動物のような笑みがあった。
まるで、こちらの考えを全て読み取り、そしてその理由さえも分かっているかのような、そんな含みのある笑み。ただ、それだけを見せ、声なくままに、その姿は元へと戻り、その背はさらに小さくなった。
「なんだよ………なんだよ…あれは」
その姿が完全に消えてから、ぼやいてみても、何も変わらない。
胸のざわつきは収まらない。
そうして、未だわからない…その理由。
騒ぎ立てる胸を押さえつけ、小さく嘆息する。
「きっと………」
いつかそれは分かるのだろう……そんな気がする。だが、おそらくそれが分かった時点で、自分の中の何かが変わるだろうことも予測ついて、秋晴れの空を眺め、そっと顔を顰めた。
ひらり…。
手の平の上で、生み出された炎の蝶が踊る。
「行きなはれ」
そう告げ、手を振れば、まるで意思を持ったかのように、迷いなく炎の蝶は飛んでいく。行く先は、かすかに見える、あの人の元。
ここからでは小さな背中しか見えず、手を伸ばせば握りつぶせそうなほどで、実際は、そんなに容易く潰されるような人ではないことはわかっていても、生まれる不安は、さらに増大する。
紅蓮の炎を纏った蝶がゆらりと闇夜を舞う。
深く沈んだ闇の中を、明々と照らす確かな灯火。けれど、光を満たすためのものではなかった。
ただの明かりとりではないそれは、触れれば人一人を消し炭に出来るほどの力を込められたもので、それ故に、生み出すごとに体力までも削りとられる。ひとつ生み出すたびに、身体が重たく感じた。それでも、構わなかった。
ひとつだけでは足りぬと、さらにふたつ…みっつと生み出される。業火を纏い羽を広げ、飛び立っていく。
今の自分には、これに託すしかない。
だから、自分の代わりに数多くの炎の蝶を送った―――彼の人を守れと、願いを込めて。
「ほんまは、わてが傍にいたかったんやけど……」
それは、許されなかった。
敵対していた某グループとの和解のための交渉。
その交渉には、彼一人のみを選んだ。それ以外は、認めない。
罠であることなど分かりきっているのに、彼は、単独でそこへ乗り込んだ。部下達を騙し、家族の者達までも騙して、ここへ来たのである。馬鹿馬鹿しいほど正直に、ただ一人きりで。
おそらく、1パーセントの確率であろうとも、これ以上互いの被害なく和解できる可能性を潰したくなかったのだろう。同時に、彼自身の強さも過信しているはずだった。
確かに彼は強い。
けれど、何が起こるかを、全て予測できるものはいないのだ。まして、一人の身で出来ることは限られている。
それでも、町の中央にある広場に、彼は堂々と立っていた。
そこが交渉の場であった。
つい先日、戦禍が通り過ぎたばかりそこは、荒れ果てた廃墟と化したまま。それを担ったのは、ガンマ団で、『半殺し』と言っておきながらも、それでも二度と同じ姿には戻れぬほどに打ち砕かれたその姿を見た時のシンタローの顔は、苦渋で歪んでいた。
仕方がないこととはいえ、それでも明らかに人が息づいた場所が、墓地と変わらぬ静けさと虚ろさを帯びたことに、優しい彼が、苦痛を感じないはずがない。
相手はそれを知った上で、ここを指定したのだった。
相手は、まだ見えていない。だが、そこで彼を撃ち殺すのは簡単だった。待ち伏せしていれば、気配も悟られづらい。真正面にある半分ほど瓦解した無人ビルの窓から、弾を撃ち込めばいいだけだった。
それは単なる想像である。
けれど、それほど間違ってはいないはずだった。自分の勘には自身を持っている。
アラシヤマは、またひとつ蝶を生み出した。
揺らぐ炎の蝶の行く先を見つめ、そっと指先を唇にあてる。
そうするだけで、先ほどここに触れたその柔らかさをまざまざと思い浮かばすことができた。
彼の唇。
それは、突然の行為で、初めての行為でもあった。意思の疎通などなく、あちらから仕掛けられたもの。
(この意味…教えてもらいますえ)
それは生きて戻ってくれなければ、聞き出せないことで、だからこそ、彼には生きて帰ってもらう理由があった。
『なんでてめぇが、ここにいるわけ?』
驚いた表情に、飄々とした表情で返す。
『あんさんの考えることなどお見通しどすえ』
馬鹿正直に、一人で交渉の場に向かうことなど分かっていた。そして、他の者が止めるだろうことを予想して、その全ての可能性を潰して、ここへ来ることも分かっていた。それならば、さらに先回りすればいい。
交渉の場をどれほど変更されようとも、そこは蛇の道は蛇。知る手立ては皆無ではない。そうして、情報を得られれば、後は簡単である。彼の前に姿を現せばよかった。
とたんに、険しい表情をされ、鬱陶しげな視線を投げつけられるが、それでも構わなかった。
『罠どすえ?』
『わかってるさ』
そんなことは今更だ、と笑って告げられる。あっけらかんとしたその表情は、こちらの深刻な気分をもさらって言ってしまいそうだが、それが上辺だけのものであることは、分かっていた。
『死にたいんどすか?』
『まさか―――俺は、いつだって生きて帰るつもりだぜ』
真っ直ぐと見つめられる。その眩しさに、思わず眼を細めてしまった。
いつでも、自分はその輝きに敵わない。その光に、惹きつけられ、魅入らされ、心奪われるのだ。その隙に、彼は思うとおりしてしまう。そうして、全てが終わった後、笑うのだ。『大丈夫だっただろ』と。
こちらの心配など、彼は必要としていないのだ。
それを感じるたびに、胸が焦げる。
『それに、お前だって信じてるだろ?』
―――俺が生きて帰ることを。
『そうどすな』
彼の望む言葉を返してあげる。
けれど、彼が思うような意味ではなかった。
彼が死んだ後のことなど想像したくないから、そんな考えは常に捨てるようにしているだけだ。彼がいなくなれば、自分の存在など、この世にある必要がなくなってしまうからである。
だから、生きて帰ってくれなければ、困る。自分はまだ、死ぬ気ではないのだから。
けれど、そこまでの思いは彼は知らない。知らなくてよかった。自分の命まで、彼に背負わされる気はない。
『なら、そこでいい子で待ってろよ』
――ちゃんと帰ってくるからさ。
なんのつもりだろうか、そう言った瞬間、胸元を捕まえられ、引き寄せられた。唐突すぎるそれに対応は遅れ、傾く自分の顔に、何かが重なる。
ふわっ。
柔らかな感触が唇に触れた。それが、相手の唇だと気付いたのは、彼の顔が遠ざかってからだった。
『シンタロー…はん?』
なぜ、キスを?
その疑問には、彼は応えてくれなかった。ただ、
『行って来る』
そう告げ、そしてこんな時にも関わらず、まがい物ではない満面の笑顔を自分に向けてくれた。
その眩しさに、やはり自分は眼を細める。そして止め損ねる。
『……おきばりやす』
自分に言えるのは、それだけだった。
唇には、まだ先ほどの感触が残っている。柔らかい――けれど、少し乾燥した唇。そこに込められたものはなんだったのだろうか。
彼に尋ねたかったが、その時間もなさそうだった。
交渉時刻までは、もうそれほど残っていない。
『じゃあな。お前は、絶対に姿見せんじゃねぇぞ』
後ろを振り返り、交渉の場に視線を向けた相手を、アラシヤマは痛みを堪えるかのような表情で見つめた。きっと彼にはわからない。これから、彼を待つものの苦しみなど。
彼の身に何かあれば、自分を抑えられる自身はない。抑え付けていた力は全て解放され、この辺りは炎の海と化すだろう。そして、彼の死が確認された時には――その火は全て自分に襲い掛かるのだ。
それは当たり前すぎて、彼が死んだ後など、自分は存在してないことは容易に分かることだから、その思考は、あっさりと飛ばす。
代わりに、彼を生かすことだけを考える。
自分は傍にはいけない。心はすでに、彼の元へと飛んでいるけれど、心だけでは彼は守れない。
だから―――。
ひらり。
炎の蝶を生み出した。
交渉は、まだ始まらない。だが、不穏な空気は刻々と周囲を包み込んでいる。思ったとおりだ。
それならば、こちらも遠慮することはなかった。
次々と生まれる炎の蝶は、シンタローの周りを取り囲む。彼も、蝶の主を知っているだろうが、こちらへ振り返ることはなかった。ただ、真っ直ぐと毅然とした態度のまま、そこに立ち尽くしている。
彼のその潔い姿は、自分の胸を常に熱くする。そして、何よりも欲してしまう。
ちろり。
アラシヤマは、唇の上を舐めた。
そこには、彼を帰らせる理由がある。何よりも、自分は彼をまだ、手放せない。
「ほな、いきまひょか」
にぃと口の端を持ち上げて、綺麗な笑みを形作る。彼の屈託のない笑みには敵わないが、対抗するつもりもない。
交渉決裂。
戦闘開始。
予想通りだ。
傍には近寄らない。けれど、先に送った蝶達が、自分の役目を担ってくれる。
「シンタローはんに群がる、うざったい虫けらどもは、燃え尽きなはれ」
ひらり。
見据える先から、炎の柱があがった。
さらり…。
梳いた指の合間から、滞ることなく流れる金糸の束に、唇がへの字に曲がる。
「何やってんだ、てめぇは」
何度目だろうか、不満が言葉となって溢れ出る。それに対する相手の言葉はない。表情を見れば、うんざりしたもので、何度も何度も似たような言葉を紡いだおかげで、無視することを選んだようだ。
「ッたく。馬鹿が」
そう告げて、シンタローは、立ち上がる。
まだ少し湿っているその髪に、ドライヤーよりも自然乾燥を選んで、暖かな日差しが差し込む窓を開けた。
さわり…。
心地よい南風が入り込み、シンタローの頬を撫ぜ、髪を書き上げ、後方へ向かう。パタパタ、と机の上に置きっぱなしの、未処理の書類が飛びそうになって、慌ててそれを押さえに走った。昼食後、彼是一時間は経ったが、午後から片付けるべき仕事は、まだひとつも片付いていない。
今日も徹夜か、と思うと胡乱な眼差しが宙を漂う。
その視線が、金色の輝きを目に留めて、そうしてやはり、また口を開いてしまった。
「助けるつもりなら、きちんと助けろ…。余計な仕事増やしてどうするんだ、キンタロー」
何度目かの文句に、とうとう今まで押し黙っていたキンタローも口を開いた。
「………煩い。こんなことなら助けなければよかった」
「ああ、そうだよ。あんなもん、俺は避けれたんだからな」
ことの起こりは、一時間前。昼食後、天気もいいし散歩しようと外へと出てきた。キンタローもついてきて、二人で歩いていたまではよかったのだが、ちょうど壁の塗り替えをしており、その真下を通った時、不運に出会った。
「うわぁッ!」
上空からのその叫びに顔をあげれば、真上からペンキ缶が降ってきて、右に避けようとしたその時だった。
「シンタローッ!」
その右側からキンタローが飛び出してきて、避ける間もなく、キンタローと激突したあげく、
バシャンッ!
見事ペンキを被ったのだった。
もっとも、シンタローの方は、服にわずかばかり白い水玉模様が出来ただけである。酷いのは、キンタローの方だった。
「……生きてるか?」
「ああ。生きてる」
思わずそう尋ねたくなるほど、頭の上から、きっちりペンキを被ってしまい、真っ白に染まったキンタローがそこにいた。
それから、急いで風呂に入り、ペンキを落とそうとしたが、中々落ちるものでもなく、何度もシャンプーをして、お湯ですすいで、と繰り返して、ようやくもとの金色の髪を取り戻したのだった。
「ったく、あんなに髪を洗って、かなり痛んだだろうな」
ペンキを落とすために、かなり強く洗ったのである。今のところ見た目は、それほど分からないが、せっかくの綺麗な髪が台無しだ。
「馬鹿が…」
また零れてしまった暴言に、けれどキンタローは、再び反論はしなかった。髪を拭いてもらうために座っていた椅子から立ち上がる。
窓の傍へ近寄ってくると、そうしてそこに立っていたシンタローの漆黒の髪をひと束手にとった。
「それでも、お前のこの髪がペンキで汚されるよりはよかった」
心底そう思い、告げてくれる言葉に、シンタローの唇はさらに折り曲がる。
自分の中にあるのは、理不尽な怒りだった。先ほどから出る文句も、そのためのもの。ただの八つ当たりでもあるのだ。
(……俺なんかどうだっていいだろうが)
あの時、キンタローのペンキまみれの髪を見たとたん、すぐに眉が顰められた。汚い、と思ったわけではなく、汚れたことに対する怒りがこみ上げたせいだ。綺麗な金色の髪が、なぜ汚されなければいけないのか、という。しかも、自分を助けたせいで。
もっと上手く避けていれば、そんなことにはならなかったのではないかと思ってしまうから、余計に悔しくて、苛立って、キンタローに八つ当たりまでしてしまうのだ。
「シンタロー」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
日差しにキラキラと煌く金色の髪が揺れている。ペンキの白は、どこにも見つからなかった。執拗に洗い落としたのだから当然だろう。全ては元通りである。キンタローが、シンタローを庇ってペンキを被ったという過去さえなければ。
それが一番気に食わないことだけれど。
それでも、もう起こってしまったことに、どれほど怒りを覚えても仕方がないことだから。
「きちんと助けられずにすまなかったが、お前が無事でよかった」
そう告げる相手に、シンタローはかすかに目を見張り、それから視線をそらした。
(まったく、こいつは……)
本当にそう思ってくれているのだから、おめでたいというか、ありがたいというか。
―――心底、感謝すべきなのだろう。
自分をそこまで思ってくれる者が、傍らにいてくれることを。
ようやくその考えまでたどり着けて、曲げていた口も機嫌も直し、シンタローは照れくささを滲ませながらも、その言葉を紡いだ。
「………ありがとう」