ぬばたまの夜がそこにあった。
平安の闇は深い。一歩闇に足を踏み込めば、そこはあやかしの領域という場合すらある。それほどに、平安の時代の闇は、得たいの知れぬ濃密さを含んでいた。
それでも、闇全てにあやかしが存在しているわけではない。それが潜むのは、ほんの極わずかだ。
だからこそ、それが目の前にあったとしても、シンタローは恐れることもなかった。
漆黒の瞳に映るのは、夜の帳に覆われ生まれた闇。今夜は生憎の曇りで、天空の月も星もその姿を隠されていた。遠くを見通すことの出来ぬ闇が、果てのない壁のように周囲を取り囲む。しかし、それはいつものことであった。この闇の中には何も居ない。何も棲んでいない。何も怖くない。
パチリ。
その音に、すぐ傍にあった篝火に視線が向かう。煌々とした明かりを放つその中で、小さな火種が乾いた空気と交じり爆ぜたのだ。天上を焦がすほどに長く伸びる炎から逃れ、細かな火の粉と化したそれは、風に舞う桜の花びらのごとく儚げに散った。
それを見やり、シンタローは、深い漆黒の瞳を細くした。暗闇に慣れた目には、闇を払拭させる力を持つそれは、あまりにも眩しかったからだ。おののくようにそこから数歩退くと、トンと背中に何かが当たった。
「なにやっとるんじゃ、シンタロー」
暖かな感触。背後からの声。
「ん? ああ、コージか」
首だけを後ろへと回せば、ぶつかったと思われる太い二の腕が見える。さらにもうひと動作を加え、顎を上に持ち上げると、ようやく自分よりも頭ひとつ分ほど高い相手の顔を臨めた。
「別になーんにも」
ありません、と軽い口調で返せば、特にそれを咎めることもなく、「ほぉか」と気安い相槌一つで終わる。
さぼっていると見られてもおかしくないのだが、コージの方は注意を口にしなかった。
この仕事がかなり退屈なものだということは、同じ場所で働く相手には、十分承知しているからだ。昼間ならまだしも、夜中の警護となれば、立ちながら寝るという器用なワザを見せてくれるものも少なくは無い。
シンタローらの身分は、宮中の警護をする武士だった。
内裏にある清涼殿の東北。滝口と呼ばれる場所に詰め所を持ち、昼夜を問わずに、帝を外部からの侵入者から守るために、気を張り詰め、警備しているのである。
そう言えば、聞こえはいいかもしれないが、実際のところ面白味がまったく無い役職であった。
武士というのは、地位も低ければ、単調でキツイ仕事というイメージも強い。
内裏内を警護するのは、滝口の武士と呼ばれる者の他に、衛府に務める者達がいるのだが、こちらは階級の低いシンタローらとは違い、貴族と呼ばれる出の者達がほとんどで、内裏警護の他に、行幸や行啓を供するという重要な任務を持っており、華々しい活躍の場を与えられているのだ。
しかし、滝口の武士の役目は、ただひたすらその場所を警護のみ。つまらぬ役職だと思っても仕方がないことだろう。
けれど、持って生まれた身分柄、その違いは仕方が無かった。生まれで自分のつける役職はほぼ決まってしまうのだ。
今更それで不服を言っても仕方が無かった。ただ、こんなふうに退屈なのがいただけないだけである。
「それよりも、トットリはどうしたんだよ。今日は姿が見えねぇけど」
シンタローは、きょろりと辺りを見回した。
詰め所である滝口の陣には、その姿が見当たらない。今日は、同じ時刻での仕事であるはずだが、彼の姿はまだ確認してなかった。そろそろコージとともに宮中内を見回りする時間だが、本来ならば、ここにトットリもいなければいけないのだ。
「まさか、あのバカが風邪とかいわねぇよな?」
季節は清々しい初夏である。まだ、鬱陶しい梅雨も来ていないこの時期に、風邪をひく者は少ない。
それをあえてひくのが馬鹿なのかもしれないが、それでも一昨日見た時は、病魔など近寄ることはないだろうと思えるほど、相変わらずの能天気ぶりを見せていた。それなのに、今日は風邪で寝込んでいるとは思えなかった。
しかし、シンタローの言葉に、コージは、思わせぶりな態度をとった。先ほどまで浮かべていた笑みを消し、行き成り辺りを左右背後と忙しく見回ったと思うと、軽く腰をかがめシンタローの傍に近寄ってきた。
「どうしたんだよ?」
らしくない、辺りをはばかる行為に、怪訝な声をかければ、コージはさらに、周りにいる他の同僚達を警戒するように、背中を丸め、こちらとの距離をほぼゼロまでに縮めた。
「おんしなら、話しても大丈夫じゃと思うから話すがな」
「ああ?」
行き成り声のボリュームを下げたコージに、眉間の皺がひとつ寄る。声がとたんに聞き取りにくくなった所為だ。
仕方なく顔を正面に向けていたシンタローは、耳を横へと向けて、コージの口元に寄せた。そこに囁くようなコージの声が聞こえてくる。
「トットリのやつはのォ。昨晩『鬼』に出会って、物忌み中じゃ」
………はぁ?
一瞬シンタローの思考が止まる。
だが、頭が正常に動き出すよりも先に、口はぱかっと開かれていた。
「鬼ぃ~~?」
あまりに意外な言葉のために、高くなってしまった声は、とたんに周りにいた者達をざわめかした。
言葉を発した自分に向けて、視線があちらこちらから飛んでくる。だが、その表情は一様に怯えを含んだ、固い緊張したものだった。
無理もない。『鬼』という言葉は、人にとっては畏怖の対象であり、悪戯に口に出していい言葉ではないのだ。
だが、シンタローは、その言葉を思い切り大声で叫んでしまったのである。
ヤバイ、と思い、反射的に口元を押さえようとしたが、それよりもコージの方が、行動が早かった。大きな手のひらがこちらの口を塞ぎ、首に腕を巻きつけると地面近くまで引きずり倒された。
「シィーーーーーーッ! 声を低めぇや、シンタロー」
「わ、悪ぃ」
そう言うもののすでに手遅れである。話の内容全てはわかってないだろうが、周りにいる同僚達の視線を一身に集めてしまっていた。ざわつきもまだ収まっておらず、何人かの者が、こちらへ向かってくるのが見えた。
「場所を移動すっど」
とたんに、首に回されている腕に力がこもる。さらに、また余計なことを言うとでも思ったのだろうか、口は、コージのでかい手で再びふさがれてしまった。そのために、うんともすんとも言えぬまま、シンタローは、篝火の届かない屋敷の角裏へと強制連行となった。
「んんんッ!」
その間中、ずっと息が出来ぬままのシンタローの顔は、すでに真っ赤だった。口だけならともかく、その大きな手は、鼻の頭まで塞いでくれていたのだ。
「お? 悪るかったのぉ」
パシパシと、かろうじて自由になっている手でコージの身体を叩き、必死にそれを訴えかけていたが、その手が放されたのは、人気のない場所へと移動されてからだった。
「ぷッはぁ~!」
新鮮な空気を肺の底から吸い込み、ようやく人心地がつける。同時に解放された首をコキッと鳴らした。相手の馬鹿力に翻弄されたおかげで、肩を痛めてしまったのだ。
しかし、文句も言えなかった。最初にミスを起こしたのは自分の方である。
「大丈夫か、シンタロー」
「ああ」
シンタローは、そう返事をしながら、周囲を見やった。そこは、確かにあまり人の来ないような場所だった。それ故に、辺りは光というものがまったくなかった。
薄暗いのはあまり気持ちのいいことではないが、同僚の姿が見えなくなっただけでもよしとしなければいけない。
人の気配がないことを確認すると、シンタローは、改めてコージに訊ねた。
「で、それ本当なのか?」
トットリが、鬼に出会ったという話は、冗談にしては性質が悪かった。けれど、本当ならばさらに悪い。
この時代、鬼や怨霊は、もっとも恐れられている存在だ。ゆえに、人はそれらが潜むとされる闇に常に怯えていた。このこわもて達が警護する内裏とて例外でない。いたるところに篝火が立てられ、絶やすことなく炎を灯し、闇を消そうとしているのもそのためである。
「ああ、本当じゃ」
昼頃、用事がありトットリの部屋に訪れていたコージは、全てを聞いていた。否、そこで寝込んでいたトットリが、行き成り昨日あった出来事をしゃべり出したのである。
おそらく恐怖のために、誰かにそのことを話さなければ、気が治まらなかったのだろう。
そうコージはシンタローに告げた。
「けど、トットリは生きているんだろ?」
鬼に会って食われて死んだという話は、決してありえない話ではなかった。
現に三ヶ月ほど前には、身分違いから駆け落ちした姫と若者が、西の外れの空き家に身を潜めていたものの、そこは鬼の住処で、姫は哀れその鬼に食われてしまい、若者は命からがら逃げ出したのだという話が、伝わっていている。
真偽のほどは確かではない、この手の話は事欠かなかった。
幸いなことにシンタローは、この目で物の怪を見たこともなく、あまり関わりを持たずにすんでいたが、間近な人間―――よく知っている者が実際に体験したとなれば話は別である。
まずは、安否の確認とばかりにコージに詰め寄れば、落ち着け、と肩を叩かれた。
「大丈夫じゃ。命に別状はないらしい。ただ、ちーっとばかし驚きが過ぎよって、そのせいで熱が出たけん、今日は休むっちゅー話じゃ」
「本当に大丈夫かよ? よく妙なもんに出会ってから、原因不明の高熱が出た後ポックリつーのも、よくある話じゃねぇか」
それでも不安で顔を曇らせれば、顎に手を置き、摩りながらコージは言った。
「そうじゃのォ。けど、ありゃあ見たとところ大丈夫そうじゃぞ? 寝込んじょるなら見舞いに何か買ってやろうかと聞いたら『桃が食べたいっちゃ!』、とぬかしよったけんのォ」
「桃って……あれは秋の実だろ?」
今は、四月の半ばだ。七月頃に収穫されるものが今、出回っているはずがない。
そんな馬鹿なことを言い出すということは、本当に熱で頭が馬鹿になっているのではないかと不安に思ってしまうのだが、
「だから、そんな無茶な我侭いえるぐらいは元気だってことじゃのォ」
「なるほどね」
自分の眼でトットリの様子を見てないために、つい最悪な方向を考えてしまうのだが、どうやらそれは杞憂のようである。
コージが見て、大丈夫だと判断したならば、トットリに関しては平気だろう。
「ま、けどことがことじゃけん、おんしには一応言っておいたが、他のもんには言うなぁや?」
先ほどの人の反応を見ればわかるが、下手に話を広げていけば、いらぬ混乱と不安を招いてしまうことは、間違いなかった。
それどころか、鬼に会ったというだけで、トットリ自身が不吉な存在と見られ、敬遠されかねないのである。
「分かってるって。だからさ、コージ」
ぽん、とコージの肩に、シンタローは手を置いた。
「ん?」
首を傾けたその顔に、自分の顔を寄せる。それから周囲に視線を走らせた。これは他の者には、絶対に聞かれては困るのだ。
トットリが鬼と出会っても大丈夫だと聞いてから、シンタローの胸中にひとつの思いが浮かんでいた。
それを実現させるために、シンタローは、腰を曲げて近づいたコージの耳元にこそっと囁いた。
「トットリが、どこでその鬼に会ったか、もうちょっと詳しく聞かせろよ」
「おんしッ!」
弾かれたように顔を上げたコージの見開かれた瞳の中には、にぃと悪戯を仕掛ける前のガキのような笑みを浮かべるシンタローがいた。
「一丁鬼退治をしてみようかなと思ってね♪」
冴え冴えとした光をまとう月が夜空にかかっていた。満ち足りたその姿で、鷹揚に深い闇を渡っている。
シンタローは、決して闇に飲み込まれることのないその凛とした明りに励まされるように、鬼があられたと聞き込んだ場所まで訪れた。
一条戻橋。
ここが、コージから無理やり聞き出した、鬼が出たという場所であった。
淋しいところにそれはあった。あたりにこれといった屋敷は見当たらず、堀川の上にかかる戻橋だけが、ぽつんとそこにあった。
ただでさえ人気のない侘しさに、月の光が生み出す深い影の中に、何かが潜んでいる気がしてくる。
なによりも、戻橋という場所そのものが、いわくありの場所のために、『何か』があってもおかしくなかった。
戻橋という名の由来は、少し前にさかのぼる。
延喜十八年(九一八)に文章博士三善清行が亡くなったのだが、その訃報を聞いた息子が任地より急ぎ戻ったところ、丁度この戻橋でその葬列に出会ったのだという。その橋の上で、息子は棺を前に、父の死に際を見取ることも出来なかったと嘆き哀しんでいると、その父が一時であるが、冥府より舞い戻り、息を吹き返し、語らうことが出来たという話があった。
そのために、このような名がつけられたのだというのである。
嘘か真かは知らないが、そんなことがあったと言われるこの場所だった。
その話を思い出すと、シンタローは、とたんに落ち着きなく周囲を見回し始めた。
もちろん何の異常もない。それでも生まれた怯えは、早々消えるものでもなかった。
だが、ここまで来て、さようなら、と戻るわけにもいかない。
ここへ来ることを話したのは、コージだけなのだが、今日も夜間務めなければいけない仕事を代わって貰ったのである。明日、コージに会った時に、怖くて帰りました、とは言えるはずがなかった。
「んじゃ、鬼待ちをしましょうか」
軽い口調にしたものの、言葉から出る覇気は薄かった。
肝が据わっていると自分では思っていたのだが、それでも鬼という異形の存在に対する恐怖は、しっかりと植えつけられていた。
腰に帯びた太刀に無意識に触れ、少しばかり早い鼓動を抑えつつ、シンタローはゆっくりと橋の上に足を乗せた。
自分の体重だけで壊れるほどの脆い橋ではない。ただ、いつ鬼が襲ってくるか分からないその緊張感から、慎重に足は運ばれる。
鬼退治――と勢い込んで出て来たが、もちろんシンタローは、鬼退治など生まれてこの方一度として、そんなことはしたことはなかった。
けれど、興味は前々からあった。
知り合いに陰陽師がいて、その手の話題をいくつか耳にしていたシンタローとしては、一度その目で、物の怪というものを見たかったのである。
興味本位というのが一番強いのかもしれない。それから、自負だろうか。
宮中警護とはいえ、身分は貴族たちに比べ格段に低い武士ではあるが、それでもその剣の強さだけは、負けず劣らずだと思っているシンタローである。その腕っ節を物の怪という強敵で試してみたかったのである。
橋の中央部に辿りついた。
そこで足を止めると、欄干に腕を置き、川を眺めるように身体を持たれかけさせた。
目を落とすと、そこには深い闇があった。
堀川に流れる水は、少ない。梅雨時になれば、そのかさも増すが、今は梅雨前ということもあって、流れる水は、大人の足で飛び越えられるほどだ。
けれど、その溝は深く、見下ろす先は見えず、底のない谷間を覗いているような錯覚を覚えた。
ざわり。
土手に植えられている柳の木が、風に煽られ大きくしなった。
びくっ。
身体がひとつ跳ねた。
「なッ……なんだよ。風程度でビクついてどうするんだよ」
自分で自分を鼓舞するように突っ込むものの、その視線は忙しなく辺りを見回し、異常がないかを確かめてしまう。
(肝ちっせーの…)
たかが風ひとつで、こんなにも反応してしまう自分に苦い笑いが込み上げてくる。
四月の風は、心地良いものだといわれるが、それは明るい日差しの下であり、淡い月明かりの元で受ける風は、臆病風へとなってしまいそうなものだった。
「ああ、早く鬼でも何でもいいから、出て来いよ」
こんな心臓の悪い思いをいつまでも続けるぐらいなら、鬼でもいいからさっさと出てきて欲しいものである。
「お~によ来い。は~やく来い」
思わずそんな、即興の歌が口から零れ出ていた。
すでに一刻ほど時間は経過していた。しかし、まだ鬼は現れなかった。それどころか、人一人通っていない。
ここに鬼が出たという噂が広まっているのだろう。都の住民は、そういうことには敏感だ。我が身可愛さで、怪しいところは敏感に避けて通る。それは、魑魅魍魎が平気で跋扈する場所だからこその処世術ともいえた。
しかし、待ち人―――いや、待ち鬼来たらずのシンタローとしては、不満たらたらである。仕事を休んでまでここまで来たのだ。出てきてくれないと困る。
少々身勝手なことを思いつつ、シンタローは再び口を開いた。また単調な歌を口ずさむ。
「お~によ来い。は~やく来い」
「……来たらどうするんだ?」
「ん? そりゃあ、鬼退治を―――って、ああ?」
なんでこの独り言のような歌に返事が返って来るのだろうか、と訝しげに振り返ったシンタローは、そのまま数秒凍りついた。
「………!」
そこには、異形の者が存在していた。
初めに眼に飛び込んだのは、澄んだ金の輝きを放つ髪だった。
月の欠片が落っこちてきたのだろうか。そんな馬鹿な考えが頭によぎってしまったほど、そこにあったのは、その光に酷似した髪だった。
漆黒の中に、凛然とその輝きを見せ付けるそれは、まさに天上の月同じだった。
「鬼……」
シンタローの唇から、その言葉が漏れた。
人ではありえない。即座にそう思った。
人は、あんなにも美しい色は持たない。
月の色をした髪など、シンタローは一度たりとも見たことが無かった。
そして、その眼もまた、自分達とはかけ離れた色をしていた。
まるで真っ青な夏空をそこに閉じ込めたような、濃く澄んだ青。そのイメージは、闇に棲むはずの鬼には似つかわしくない気がしたけれど、それでもそれが一番近い色だった。
闇にくっきりと浮かび上がる白い肌の上で、その色彩は存在しており、絶妙なバランスを持って互いを引き立てあっていた。
ざわっ。
一陣の風が鬼の身体を通りぬける。
煽られるそれに、真昼の空が閉じられ、地上の月光が闇に靡いた。それまるで、金や銀を練りこんだ色鮮やかな絵巻物がそのまま存在するかのようで、
(綺麗だな……)
シンタローは、自然にそう感じ、魅入られるように呆然とその場に立ち尽くしていた。
「どうしたのだ?」
けれど、それに終止符を打ったのは、その当人だった。とたんに、自分の立場に気付く。
「ッ!」
刹那の瞠目。頭を振って、すぐさま意識を切り替えた。
「そうだった。鬼なんかに見蕩れてる場合じゃねぇ!」
自分を叱咤するように言い放ち、シンタローは、自分の目的を思い出した。目の前に存在する鬼を退治するためにここに来ているのである。
(何やってるんだよ!)
自分の失態を毒づきながら、シンタローはその場で身構えた。
平安の闇は深い。一歩闇に足を踏み込めば、そこはあやかしの領域という場合すらある。それほどに、平安の時代の闇は、得たいの知れぬ濃密さを含んでいた。
それでも、闇全てにあやかしが存在しているわけではない。それが潜むのは、ほんの極わずかだ。
だからこそ、それが目の前にあったとしても、シンタローは恐れることもなかった。
漆黒の瞳に映るのは、夜の帳に覆われ生まれた闇。今夜は生憎の曇りで、天空の月も星もその姿を隠されていた。遠くを見通すことの出来ぬ闇が、果てのない壁のように周囲を取り囲む。しかし、それはいつものことであった。この闇の中には何も居ない。何も棲んでいない。何も怖くない。
パチリ。
その音に、すぐ傍にあった篝火に視線が向かう。煌々とした明かりを放つその中で、小さな火種が乾いた空気と交じり爆ぜたのだ。天上を焦がすほどに長く伸びる炎から逃れ、細かな火の粉と化したそれは、風に舞う桜の花びらのごとく儚げに散った。
それを見やり、シンタローは、深い漆黒の瞳を細くした。暗闇に慣れた目には、闇を払拭させる力を持つそれは、あまりにも眩しかったからだ。おののくようにそこから数歩退くと、トンと背中に何かが当たった。
「なにやっとるんじゃ、シンタロー」
暖かな感触。背後からの声。
「ん? ああ、コージか」
首だけを後ろへと回せば、ぶつかったと思われる太い二の腕が見える。さらにもうひと動作を加え、顎を上に持ち上げると、ようやく自分よりも頭ひとつ分ほど高い相手の顔を臨めた。
「別になーんにも」
ありません、と軽い口調で返せば、特にそれを咎めることもなく、「ほぉか」と気安い相槌一つで終わる。
さぼっていると見られてもおかしくないのだが、コージの方は注意を口にしなかった。
この仕事がかなり退屈なものだということは、同じ場所で働く相手には、十分承知しているからだ。昼間ならまだしも、夜中の警護となれば、立ちながら寝るという器用なワザを見せてくれるものも少なくは無い。
シンタローらの身分は、宮中の警護をする武士だった。
内裏にある清涼殿の東北。滝口と呼ばれる場所に詰め所を持ち、昼夜を問わずに、帝を外部からの侵入者から守るために、気を張り詰め、警備しているのである。
そう言えば、聞こえはいいかもしれないが、実際のところ面白味がまったく無い役職であった。
武士というのは、地位も低ければ、単調でキツイ仕事というイメージも強い。
内裏内を警護するのは、滝口の武士と呼ばれる者の他に、衛府に務める者達がいるのだが、こちらは階級の低いシンタローらとは違い、貴族と呼ばれる出の者達がほとんどで、内裏警護の他に、行幸や行啓を供するという重要な任務を持っており、華々しい活躍の場を与えられているのだ。
しかし、滝口の武士の役目は、ただひたすらその場所を警護のみ。つまらぬ役職だと思っても仕方がないことだろう。
けれど、持って生まれた身分柄、その違いは仕方が無かった。生まれで自分のつける役職はほぼ決まってしまうのだ。
今更それで不服を言っても仕方が無かった。ただ、こんなふうに退屈なのがいただけないだけである。
「それよりも、トットリはどうしたんだよ。今日は姿が見えねぇけど」
シンタローは、きょろりと辺りを見回した。
詰め所である滝口の陣には、その姿が見当たらない。今日は、同じ時刻での仕事であるはずだが、彼の姿はまだ確認してなかった。そろそろコージとともに宮中内を見回りする時間だが、本来ならば、ここにトットリもいなければいけないのだ。
「まさか、あのバカが風邪とかいわねぇよな?」
季節は清々しい初夏である。まだ、鬱陶しい梅雨も来ていないこの時期に、風邪をひく者は少ない。
それをあえてひくのが馬鹿なのかもしれないが、それでも一昨日見た時は、病魔など近寄ることはないだろうと思えるほど、相変わらずの能天気ぶりを見せていた。それなのに、今日は風邪で寝込んでいるとは思えなかった。
しかし、シンタローの言葉に、コージは、思わせぶりな態度をとった。先ほどまで浮かべていた笑みを消し、行き成り辺りを左右背後と忙しく見回ったと思うと、軽く腰をかがめシンタローの傍に近寄ってきた。
「どうしたんだよ?」
らしくない、辺りをはばかる行為に、怪訝な声をかければ、コージはさらに、周りにいる他の同僚達を警戒するように、背中を丸め、こちらとの距離をほぼゼロまでに縮めた。
「おんしなら、話しても大丈夫じゃと思うから話すがな」
「ああ?」
行き成り声のボリュームを下げたコージに、眉間の皺がひとつ寄る。声がとたんに聞き取りにくくなった所為だ。
仕方なく顔を正面に向けていたシンタローは、耳を横へと向けて、コージの口元に寄せた。そこに囁くようなコージの声が聞こえてくる。
「トットリのやつはのォ。昨晩『鬼』に出会って、物忌み中じゃ」
………はぁ?
一瞬シンタローの思考が止まる。
だが、頭が正常に動き出すよりも先に、口はぱかっと開かれていた。
「鬼ぃ~~?」
あまりに意外な言葉のために、高くなってしまった声は、とたんに周りにいた者達をざわめかした。
言葉を発した自分に向けて、視線があちらこちらから飛んでくる。だが、その表情は一様に怯えを含んだ、固い緊張したものだった。
無理もない。『鬼』という言葉は、人にとっては畏怖の対象であり、悪戯に口に出していい言葉ではないのだ。
だが、シンタローは、その言葉を思い切り大声で叫んでしまったのである。
ヤバイ、と思い、反射的に口元を押さえようとしたが、それよりもコージの方が、行動が早かった。大きな手のひらがこちらの口を塞ぎ、首に腕を巻きつけると地面近くまで引きずり倒された。
「シィーーーーーーッ! 声を低めぇや、シンタロー」
「わ、悪ぃ」
そう言うもののすでに手遅れである。話の内容全てはわかってないだろうが、周りにいる同僚達の視線を一身に集めてしまっていた。ざわつきもまだ収まっておらず、何人かの者が、こちらへ向かってくるのが見えた。
「場所を移動すっど」
とたんに、首に回されている腕に力がこもる。さらに、また余計なことを言うとでも思ったのだろうか、口は、コージのでかい手で再びふさがれてしまった。そのために、うんともすんとも言えぬまま、シンタローは、篝火の届かない屋敷の角裏へと強制連行となった。
「んんんッ!」
その間中、ずっと息が出来ぬままのシンタローの顔は、すでに真っ赤だった。口だけならともかく、その大きな手は、鼻の頭まで塞いでくれていたのだ。
「お? 悪るかったのぉ」
パシパシと、かろうじて自由になっている手でコージの身体を叩き、必死にそれを訴えかけていたが、その手が放されたのは、人気のない場所へと移動されてからだった。
「ぷッはぁ~!」
新鮮な空気を肺の底から吸い込み、ようやく人心地がつける。同時に解放された首をコキッと鳴らした。相手の馬鹿力に翻弄されたおかげで、肩を痛めてしまったのだ。
しかし、文句も言えなかった。最初にミスを起こしたのは自分の方である。
「大丈夫か、シンタロー」
「ああ」
シンタローは、そう返事をしながら、周囲を見やった。そこは、確かにあまり人の来ないような場所だった。それ故に、辺りは光というものがまったくなかった。
薄暗いのはあまり気持ちのいいことではないが、同僚の姿が見えなくなっただけでもよしとしなければいけない。
人の気配がないことを確認すると、シンタローは、改めてコージに訊ねた。
「で、それ本当なのか?」
トットリが、鬼に出会ったという話は、冗談にしては性質が悪かった。けれど、本当ならばさらに悪い。
この時代、鬼や怨霊は、もっとも恐れられている存在だ。ゆえに、人はそれらが潜むとされる闇に常に怯えていた。このこわもて達が警護する内裏とて例外でない。いたるところに篝火が立てられ、絶やすことなく炎を灯し、闇を消そうとしているのもそのためである。
「ああ、本当じゃ」
昼頃、用事がありトットリの部屋に訪れていたコージは、全てを聞いていた。否、そこで寝込んでいたトットリが、行き成り昨日あった出来事をしゃべり出したのである。
おそらく恐怖のために、誰かにそのことを話さなければ、気が治まらなかったのだろう。
そうコージはシンタローに告げた。
「けど、トットリは生きているんだろ?」
鬼に会って食われて死んだという話は、決してありえない話ではなかった。
現に三ヶ月ほど前には、身分違いから駆け落ちした姫と若者が、西の外れの空き家に身を潜めていたものの、そこは鬼の住処で、姫は哀れその鬼に食われてしまい、若者は命からがら逃げ出したのだという話が、伝わっていている。
真偽のほどは確かではない、この手の話は事欠かなかった。
幸いなことにシンタローは、この目で物の怪を見たこともなく、あまり関わりを持たずにすんでいたが、間近な人間―――よく知っている者が実際に体験したとなれば話は別である。
まずは、安否の確認とばかりにコージに詰め寄れば、落ち着け、と肩を叩かれた。
「大丈夫じゃ。命に別状はないらしい。ただ、ちーっとばかし驚きが過ぎよって、そのせいで熱が出たけん、今日は休むっちゅー話じゃ」
「本当に大丈夫かよ? よく妙なもんに出会ってから、原因不明の高熱が出た後ポックリつーのも、よくある話じゃねぇか」
それでも不安で顔を曇らせれば、顎に手を置き、摩りながらコージは言った。
「そうじゃのォ。けど、ありゃあ見たとところ大丈夫そうじゃぞ? 寝込んじょるなら見舞いに何か買ってやろうかと聞いたら『桃が食べたいっちゃ!』、とぬかしよったけんのォ」
「桃って……あれは秋の実だろ?」
今は、四月の半ばだ。七月頃に収穫されるものが今、出回っているはずがない。
そんな馬鹿なことを言い出すということは、本当に熱で頭が馬鹿になっているのではないかと不安に思ってしまうのだが、
「だから、そんな無茶な我侭いえるぐらいは元気だってことじゃのォ」
「なるほどね」
自分の眼でトットリの様子を見てないために、つい最悪な方向を考えてしまうのだが、どうやらそれは杞憂のようである。
コージが見て、大丈夫だと判断したならば、トットリに関しては平気だろう。
「ま、けどことがことじゃけん、おんしには一応言っておいたが、他のもんには言うなぁや?」
先ほどの人の反応を見ればわかるが、下手に話を広げていけば、いらぬ混乱と不安を招いてしまうことは、間違いなかった。
それどころか、鬼に会ったというだけで、トットリ自身が不吉な存在と見られ、敬遠されかねないのである。
「分かってるって。だからさ、コージ」
ぽん、とコージの肩に、シンタローは手を置いた。
「ん?」
首を傾けたその顔に、自分の顔を寄せる。それから周囲に視線を走らせた。これは他の者には、絶対に聞かれては困るのだ。
トットリが鬼と出会っても大丈夫だと聞いてから、シンタローの胸中にひとつの思いが浮かんでいた。
それを実現させるために、シンタローは、腰を曲げて近づいたコージの耳元にこそっと囁いた。
「トットリが、どこでその鬼に会ったか、もうちょっと詳しく聞かせろよ」
「おんしッ!」
弾かれたように顔を上げたコージの見開かれた瞳の中には、にぃと悪戯を仕掛ける前のガキのような笑みを浮かべるシンタローがいた。
「一丁鬼退治をしてみようかなと思ってね♪」
冴え冴えとした光をまとう月が夜空にかかっていた。満ち足りたその姿で、鷹揚に深い闇を渡っている。
シンタローは、決して闇に飲み込まれることのないその凛とした明りに励まされるように、鬼があられたと聞き込んだ場所まで訪れた。
一条戻橋。
ここが、コージから無理やり聞き出した、鬼が出たという場所であった。
淋しいところにそれはあった。あたりにこれといった屋敷は見当たらず、堀川の上にかかる戻橋だけが、ぽつんとそこにあった。
ただでさえ人気のない侘しさに、月の光が生み出す深い影の中に、何かが潜んでいる気がしてくる。
なによりも、戻橋という場所そのものが、いわくありの場所のために、『何か』があってもおかしくなかった。
戻橋という名の由来は、少し前にさかのぼる。
延喜十八年(九一八)に文章博士三善清行が亡くなったのだが、その訃報を聞いた息子が任地より急ぎ戻ったところ、丁度この戻橋でその葬列に出会ったのだという。その橋の上で、息子は棺を前に、父の死に際を見取ることも出来なかったと嘆き哀しんでいると、その父が一時であるが、冥府より舞い戻り、息を吹き返し、語らうことが出来たという話があった。
そのために、このような名がつけられたのだというのである。
嘘か真かは知らないが、そんなことがあったと言われるこの場所だった。
その話を思い出すと、シンタローは、とたんに落ち着きなく周囲を見回し始めた。
もちろん何の異常もない。それでも生まれた怯えは、早々消えるものでもなかった。
だが、ここまで来て、さようなら、と戻るわけにもいかない。
ここへ来ることを話したのは、コージだけなのだが、今日も夜間務めなければいけない仕事を代わって貰ったのである。明日、コージに会った時に、怖くて帰りました、とは言えるはずがなかった。
「んじゃ、鬼待ちをしましょうか」
軽い口調にしたものの、言葉から出る覇気は薄かった。
肝が据わっていると自分では思っていたのだが、それでも鬼という異形の存在に対する恐怖は、しっかりと植えつけられていた。
腰に帯びた太刀に無意識に触れ、少しばかり早い鼓動を抑えつつ、シンタローはゆっくりと橋の上に足を乗せた。
自分の体重だけで壊れるほどの脆い橋ではない。ただ、いつ鬼が襲ってくるか分からないその緊張感から、慎重に足は運ばれる。
鬼退治――と勢い込んで出て来たが、もちろんシンタローは、鬼退治など生まれてこの方一度として、そんなことはしたことはなかった。
けれど、興味は前々からあった。
知り合いに陰陽師がいて、その手の話題をいくつか耳にしていたシンタローとしては、一度その目で、物の怪というものを見たかったのである。
興味本位というのが一番強いのかもしれない。それから、自負だろうか。
宮中警護とはいえ、身分は貴族たちに比べ格段に低い武士ではあるが、それでもその剣の強さだけは、負けず劣らずだと思っているシンタローである。その腕っ節を物の怪という強敵で試してみたかったのである。
橋の中央部に辿りついた。
そこで足を止めると、欄干に腕を置き、川を眺めるように身体を持たれかけさせた。
目を落とすと、そこには深い闇があった。
堀川に流れる水は、少ない。梅雨時になれば、そのかさも増すが、今は梅雨前ということもあって、流れる水は、大人の足で飛び越えられるほどだ。
けれど、その溝は深く、見下ろす先は見えず、底のない谷間を覗いているような錯覚を覚えた。
ざわり。
土手に植えられている柳の木が、風に煽られ大きくしなった。
びくっ。
身体がひとつ跳ねた。
「なッ……なんだよ。風程度でビクついてどうするんだよ」
自分で自分を鼓舞するように突っ込むものの、その視線は忙しなく辺りを見回し、異常がないかを確かめてしまう。
(肝ちっせーの…)
たかが風ひとつで、こんなにも反応してしまう自分に苦い笑いが込み上げてくる。
四月の風は、心地良いものだといわれるが、それは明るい日差しの下であり、淡い月明かりの元で受ける風は、臆病風へとなってしまいそうなものだった。
「ああ、早く鬼でも何でもいいから、出て来いよ」
こんな心臓の悪い思いをいつまでも続けるぐらいなら、鬼でもいいからさっさと出てきて欲しいものである。
「お~によ来い。は~やく来い」
思わずそんな、即興の歌が口から零れ出ていた。
すでに一刻ほど時間は経過していた。しかし、まだ鬼は現れなかった。それどころか、人一人通っていない。
ここに鬼が出たという噂が広まっているのだろう。都の住民は、そういうことには敏感だ。我が身可愛さで、怪しいところは敏感に避けて通る。それは、魑魅魍魎が平気で跋扈する場所だからこその処世術ともいえた。
しかし、待ち人―――いや、待ち鬼来たらずのシンタローとしては、不満たらたらである。仕事を休んでまでここまで来たのだ。出てきてくれないと困る。
少々身勝手なことを思いつつ、シンタローは再び口を開いた。また単調な歌を口ずさむ。
「お~によ来い。は~やく来い」
「……来たらどうするんだ?」
「ん? そりゃあ、鬼退治を―――って、ああ?」
なんでこの独り言のような歌に返事が返って来るのだろうか、と訝しげに振り返ったシンタローは、そのまま数秒凍りついた。
「………!」
そこには、異形の者が存在していた。
初めに眼に飛び込んだのは、澄んだ金の輝きを放つ髪だった。
月の欠片が落っこちてきたのだろうか。そんな馬鹿な考えが頭によぎってしまったほど、そこにあったのは、その光に酷似した髪だった。
漆黒の中に、凛然とその輝きを見せ付けるそれは、まさに天上の月同じだった。
「鬼……」
シンタローの唇から、その言葉が漏れた。
人ではありえない。即座にそう思った。
人は、あんなにも美しい色は持たない。
月の色をした髪など、シンタローは一度たりとも見たことが無かった。
そして、その眼もまた、自分達とはかけ離れた色をしていた。
まるで真っ青な夏空をそこに閉じ込めたような、濃く澄んだ青。そのイメージは、闇に棲むはずの鬼には似つかわしくない気がしたけれど、それでもそれが一番近い色だった。
闇にくっきりと浮かび上がる白い肌の上で、その色彩は存在しており、絶妙なバランスを持って互いを引き立てあっていた。
ざわっ。
一陣の風が鬼の身体を通りぬける。
煽られるそれに、真昼の空が閉じられ、地上の月光が闇に靡いた。それまるで、金や銀を練りこんだ色鮮やかな絵巻物がそのまま存在するかのようで、
(綺麗だな……)
シンタローは、自然にそう感じ、魅入られるように呆然とその場に立ち尽くしていた。
「どうしたのだ?」
けれど、それに終止符を打ったのは、その当人だった。とたんに、自分の立場に気付く。
「ッ!」
刹那の瞠目。頭を振って、すぐさま意識を切り替えた。
「そうだった。鬼なんかに見蕩れてる場合じゃねぇ!」
自分を叱咤するように言い放ち、シンタローは、自分の目的を思い出した。目の前に存在する鬼を退治するためにここに来ているのである。
(何やってるんだよ!)
自分の失態を毒づきながら、シンタローはその場で身構えた。
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ひらり…ひらり……。
舞い散るその姿が美しかった。月の光を浴びながら、淡い白の光を纏い、散り行くその姿に目が放せなかった。
「きれぇ~」
稚拙で簡素な、けれど一番真実に誓い純粋な言葉で、その姿を賞賛する。
今年の年明けとともに十になったシンタローは、何度目になるだろうか、その言葉を呟きながら、庭に佇む桜の木を眺めていた。すでに盛りを過ぎたその桜は、心得ているかのように、絶えることなくはらはらとその花形を崩していく。今宵の風は少し強く、それ故に散らす花びらの数も多かった。さらに天空の望月が煌々と庭を照らし、その様を幽玄の美へと仕立て上げていた。
ここは、平らかに安らかに穏やかな都であるように、と願いを込めてその姿を形にされた平安京。その中でももっとも尊き高貴な者が住まう内裏の中の一画。
「んんっ」
しばらくその姿を魅入っていたが、それも飽きてきたのか、シンタローは腕を伸ばし、小さな手をいっぱいに広げた。風に誘われ遠くまで流れてくるその花びらを、どうにか受け止めることは出来ないかと、欄干の上に身を乗り出す。
そんなことをしなくても、すぐ横には地面へと降りる階がある。そこを降りればもっと近くにいけた。だが、履物もない上に、勝手に外へ出ては叱られる。そのため、部屋の外側にある渡り廊下として作られた簀子の位置がシンタローにとっては精一杯だった。
板張りの簀子の上には、すでに花びらが点々と床に落ちていた。風に乗ってここまでやってきた花びらもあるのだ。けれど、シンタローは舞い落ちる花びらが欲しかった。
床に落ちているのとは、そう大差はないと思うのだけれど、自分の手のひらに掴んだ桜の方が、何倍も美しいものだと信じているように、シンタローは、一生懸命手を伸ばして、薄紅色の欠片を手にいれようした。地面に落ちていない、汚れてない綺麗な花びらを手に入れたかったのだ。だが、
「あっ…ああッ!」
身を乗り出しすぎた身体は、不意にバランスを崩し倒れ込む。気付いた時は、すでに遅かった。
すってんころりん…。
欄干を飛び越え、見事シンタローは、前のめりして転げ落ちてしまった。
「いったぁ~」
「……痛いのはこっちだ、チビ」
あれ?
つい口から零れた言葉。けれど、思ったほど衝撃はなかった。それよりも、おかしなことに、自分の身体の真下から声が聞こえてくる。シンタローの顔が、きょとんとした表情に変わった。
「地面がしゃべった?」
「んなわけねぇだろうが」
低く唸る音。お尻の下の地面が大きく波打ち、そのまま隆起するように盛り上がった―――ように見えたが、実際のところは、シンタローが下に敷いていた相手が、上半身を起こしただけである。
「うわッ!」
驚くシンタローを上に、その下にいた人物は、最初のドスの効いた声とは違い、柔らかい声をかけてきた。
「ったく、あんなところから落ちやがって。怪我はねぇかよ、ちみっこ」
「ん~~と……ないッ!」
その質問に、シンタローは元気良く答えた。
簀子の上から地面までは、一メートル以上の段差がある。けれど、シンタローには傷ひとつなかった。もちろんそれは、たまたま下にいた相手の上に、見事落っこちたおかげである。
「そりゃよかったな――――よッ! と」
すとん。
身体が浮き上がったと思ったら、先ほどまでいた簀子の上に置かれた。そうされて、ようやく自分が何の上に落ちたのか分かった。
そこにいたのは金色の髪に青い瞳を持つ人の形をしたものだった。
黒い髪と黒い瞳を持つ自分とはまったく違う色を持つ相手。けれど、シンタローには、その色を恐れる理由はなかった。なぜなら、自分の父親も自分の叔父も従兄弟も、その色を持っているからだ。むしろ、自分の色の方が異端とも言われる中で、その色は全然怖くない。
威風堂々とした面構えをその人はしていた。まるで獅子のようである。獅子は寝所である帳台の前に災厄を除くものとして狛犬とともに置かれているために、シンタローにとっては親しみのあるものであった。
「でも、だぁれ? ……桜の鬼さん?」
シンタローは、目の前の相手にじっと視線を定め、怪訝そうに言い放った。
獅子のような姿をした相手だが、シンタローは初めてみる人だった。けれど、人であるかどうかをまず疑った。
なぜなら、あのような場所に人がいたことなど今まで一度もなかったのである。不意に現れた人を人と見るよりは、あやかしのモノだと思った方が自然だった。
「桜の鬼だぁ?」
けれど、シンタローの言葉に、今度は相手の方が怪訝な表情になる。言われた意味がまったく通じていない。
「桜鬼じゃないの? 桜鬼はね、桜の木の下にいる鬼なんだよ。だから、花びらいっぱいつけてるの」
ことりと首を傾げて不思議そうに言うシンタローを前に、ハーレムは改めて自分の姿を見やった。
確かに、指摘どおりその姿は桜の花びらだらけである。服の隙間には花びらが、幾枚も入り込んでいた。けれど、それはずっと縁の下で寝転がっていたせいだ。久しぶりに内裏の中を散歩していれば、見事な桜に出会い、そこでひとり花見をしていたのはいいが、ついうっかり深酒しすぎ、そのまま熟睡していたのである。そのために、すっかり桜の花びらに埋まってしまっていた。
その姿に、どうやらこの幼子は勘違いしたらしい。
「それでね、夜になったらお外で桜を見ている悪い子を攫って、バリバリって食べちゃうんだよ。だからね、夜はお外に出たら、いけないの」
「って、お前ぇは出てるじゃねぇか」
それはよくある子供に夜更かしを禁じる教訓である。けれど、その話を知っているこの子供は、平気そうに外へ出ていた。おかげで、わざわざ欄干を乗り越えてまで、簀子の上から転げ落ち、自分の腹の上にご丁寧にも落ちてきたのである。
「…うん。だから―――僕を食べる?」
さっきまで、平気な顔をしていたくせに、自分で言っていて怖くなったのだろうか、行き成りおどおどと、こちらに大きな瞳を向けてくる。その幼さに、桜鬼と称されたハーレムは、その手のひらをすっぽりと収まる頭に置いた。
「誰が、てめぇのようなマズそうな奴を食べるんだよ。大体、食べられたくねぇなら、さっさと寝ろ」
そのままがしがしっと髪をかき混ぜてあげる。それが、荒々しい仕草だったせいか、むぅと顔が不機嫌そうになってしまった。
「いたい……」
「優しく撫ぜてやっただけだろ?」
「……パパは、そんな風に撫ぜないもん」
「パパ?」
そう言えば、こいつの父親は……と、ハーレムは思考を巡らし行き着いた先で、とたんに蒼ざめた。
(やっべぇ……。もしかして、こいつ『シンタロー』か?)
目の前の黒髪黒目のちみっこに、ハーレムはひやりと背筋に汗をながした。
『シンタロー』。その名をこの宮中で知らないものはいないだろう。今上帝であるマジックの子であり、珍しくも帝自らが手元で養っているという異例の子供なのだ。しかも、かなり溺愛しており、他の者の前には、めったに見せないため、その子がどういう姿形をしているのか、性別すらも知るものはほとんどいなかった。年だけは、東宮であるグンマと同じ年ということだけは、伝わっていたが、それだけである。
ハーレムとて、こうして「シンタロー」を見たのは初めてだった。自分の双子の弟は、頻繁に会っていたようだが、自分は興味もなかったために、ずっと会わずにいたのだ。
だが、眼前には愛らしい色合いの女装束に身を包んだ少女がいる。
(女だったわけか……どうりで溺愛するわけだ)
確かに、目の前の実物を見れば、兄の盲愛ぶりも少しは納得できる。生意気な口調が少し鼻をつくが、容姿は文句なかった。形のいい小ぶりの頭に、品よく整った目鼻立ち、真っ赤に熟れた果実のように色付いた愛らしい唇。何よりも、目に惹いたのは、その色だった。闇に染められたような漆黒の髪と瞳。それは、自分達一族では、誰一人持たないはずの色だったが、目の前のシンタローは、その深い色一色に染められていた。
しかし、それに違和感はなかった。むしろ、その色こそ、この幼子に相応しく、その容姿をより深く美しく見せていた。
将来美人になることを約束されたような容姿を持って、春らしい桜襲(表は白・裏は赤)の装束を身に纏った少女は、確かに部屋の奥底に隠しておきたくなるような至宝の玉である。
そんなマジックの愛娘がいる部屋とは知らずに、うっかり目に付いた桜の木の前で花見をしていたのは、少しまずかった。これが、兄に見つかればどれほど叱咤されるか分かったものではない。
幸いなのは、ここにその兄がいないということだった。
「どぉしたの?」
あどけない口調でこちらを問いかけるシンタローに、ハーレムはそろりと一歩後ろに下がった。
「あ~、俺はもう帰るわ」
いつまでもここにいては命が危険にさらされる。バレる前にトンずらすべきだと、心に決めたハーレムは、ゆっくりとあとずさりをしようとしたが、その姿に、シンタローはとたんに眉を顰めて泣きそうな表情を浮かべた。
「……かえるの?」
「はぁ? お前は、鬼が怖いんだろうが」
それならば、引き止められる理由はないはずである。
「でも……僕を食べない…でしょ?」
もちろん自分は鬼ではないのだから、食べることなどしない。しかし、だからと言って、引き止められる理由にもならない。
ぐずぐずしてはいられないのだ。噂しか聞こえてこないが、たぶん兄は毎晩、この子供の元に訪れているはずである。鉢合わせしてしまえば、自分の命など消し飛びかねない。
しかし―――あまり見慣れない漆黒の瞳を潤ませて、ひたりと見つめる幼子を前に、ハーレムは退く足を止めていた。
「なんで帰ったら悪いんだ?」
話し相手が欲しいのだろうか。
確かにそれはありえるかもしれない。見たところ、父親は、話し相手になりそうなものを傍に置いていなかった。普通ならば、高貴な者の周りには、女房と呼ばれる身の回りを世話する女性がいつも何人か付き添っているはずである。幼い子であるシンタローならば、なおさら誰かがついているべきである。しかし、そう言った気配はひとつもなかった。
「パパ……今日はいない…の」
ぽそりと告げたその一言に、シンタローは押し込めていた想いまで零してしまったように、ぎゅっと服を握り締め、その大きな瞳から、涙をぽろりと落とした。
「おい! こら泣くな、んなことで」
せっかく離した距離は、それで、また縮まってしまった。思わず手を伸ばし、自分の袖口で、零れた涙を乱暴にふき取ってしまう。
どうも、自分はこの小さな子供に弱いようだった。
(ったく、何やってんだ兄貴は)
そう言えば、昨日辺りから朝議からして慌しいかった。何か厄介ごとでも起こったのだろう、ぐらいしか興味はなかったが、どうやらそれをさばく帝の方は、こちらへ渡れないほどの忙しさになったようである。
「ひとり…ヤなの」
その言葉で、自分を帰らせたくない理由は分かった。心細かったのだ、この子供は。
確かに、だだっ広い部屋にひとり置かれるのは、この幼い子にとっては怖いと思うものである。見知らぬ―――鬼とも分からぬ相手にすがりつくぐらいに。
(どうすっかなぁ…)
兄貴が、今夜はここに来ないのはわかった。わかってしまえば、ここから即座に退く理由はなくなる。そこまで考えれば、もう答えなど出ていた。
普段の自分なら在り得ないことなのだけれど、その手は伸ばされ、再びさわり心地のいい黒髪の上に乗せられていた。
「わーったよ。お前が寝るまでは傍にいてやる」
自分でもどうかしている、と思わずにはいられない台詞が吐き出されていた。
シンタローに手を引かれるようにして、部屋へと入っていったハーレムは、用意されていた褥の中に、シンタローを入れた。
くすくす……。
小さな笑い声が耳元で聞こえる。
柔らかな温もりが、すぐ傍から伝わってくる。何かがおかしいとは思ったが、ここまで来れば引き下がることなどできずに、ハーレムは、小さなその身体を腕に抱いていた。
(……兄貴)
自分とて、ここまでする気はなかった。ただ、褥に横たわった幼子の横に座って、それが眠りにつくまで傍にいるつもりだったのだ。けれど、「パパと同じように一緒に寝て!」という要求をついつい受け入れてしまったのが悪かった。それでもまだ、シンタローの横に添い寝する程度だと思っていたのだが―――まさか、自分の腕を枕にして、抱き込むようにして眠るのが日常だったとは。
というわけで、ハーレムの腕の中にはすっぽりとシンタローが収まりこんでおり、先ほどから嬉しそうに笑いを零してくれていた。かなりのご満悦の様子である。それはそうだろう。ひとりで寝るのが嫌で、けれど誰もおらず、結局眠れずに夜更かしをしていたのだ。
(しっかし、この光景…兄貴に見られたら確実に殺されるな)
言い訳無用の状況である。
「……おい、ちみっこ。本当に、マジに、絶対に! 今夜のことはお前の父親には言うなよ」
「うん、大丈夫だよ」
そう約束してくれるが、どこまで信用していいのやら…。
そんな心配するぐらいなら、ここまでやらなければいいのだろうが―――どうにも自分は、その瞳に弱いみたいだった。
「お前が、もうちーっと育ってくれてればな」
今の状況も、微笑ましいものではなくなっていただろう。もちろん、そちらの方が自分としては歓迎したい。
このまま順調に育ってくれれば、恐らく都中の貴族達からの噂の的になるに違いない。
その前にツバをつけられただけ幸運ということだろうか。もっともこれほど幼ければ、まったく意味はないだろうが。
ハーレムは腕の中にいる童女に視線を向けた。いつのまにか大人しくなったと思ったら、すでに夢の世界の住人になっている。すやすやと安心しきった顔で眠るその姿は、やはり年相応にあどけない。これに色艶が加わるのは、もう少し先のことで、そうなったら改めて誘って欲しいと願うばかりである。
さらりとその小さな額を撫ぜる。
「早く美人になれよ、ガキ」
冗談交じりでそう呟くとハーレムは、そっとその身を起こした。
ふわっ…と大きく口が開いて欠伸が漏れた。
「いい天気だなぁ~」
目じりに浮かんでくる涙を感じながら、シンタローは、のんびりと言葉を吐く。
頬に触れる日差しは、いつのまにか暑いと感じるほどの温もりをもっている。触れる風は柔らかく、くすぐるようにして、首筋を通り過ぎていた。
春だ。
それをようやく実感できることが出来たのは、ここ数日のことである。それまでは、暦の上では春だといえども、その兆しを探すのは難しかった。しかし、今日は特にその春めいた陽気を感じることができる。
「桜もようやく咲いたしな」
今年は、桜の咲きが遅かった。冬がいつまでも居座ってくれていたせいだろう。けれど、目に入った枝に視線を移せば、見慣れた枝に、淡い衣を纏った花が風に誘われ揺れている。まだ綻んでいない蕾たちも、少しつつけば花開きそうなほどの膨らみである。
それを見つめ、シンタローは思わず顔を綻ばせた。
桜の花は、小さな頃から好きだった。飽くことなく見続けるのは、毎年のことだ。今年も、盛りとなれば見事な光景を見せてくれるだろう予感をさせるその花に、そっと指先を触れせれば、背後から声がかかった。
「そんなところで、何をしているんだ、シンタロー」
「キンタロー?」
その声に振り返れば、そこには見慣れた姿があった。春の日差しを受けて煌く金の髪に、春の青空よりも深い色をした瞳の持ち主は、こちらへ向かって、足早に近寄ってくる。
「まったく、なかなか来ないと思ったら、こんなところでサボっていたのか」
職務怠慢だぞ、と相変わらず口うるさいことを告げられる。
キンタローは、シンタローにとって従兄弟にあたると同時に、職場にて上司と部下の関係でもあった。二人とも、弾正台と呼ばれる警察機関に所属している、シンタローの方はその中のトップ、だんじょういん弾正伊を勤め、キンタローがその次官であるだんじょうすけ弾正弼である。
「仕事、たってたいしたもんねぇし。いいじゃねぇかよ」
弾正台の仕事は、役人の罪悪告発したり、治安維持を勤めたりといった仕事である。そのトップとなれば、仕事がたんまりとありそうだが、実際のところ、今の弾正台はほとんどお飾りに近い職場だった。警察機関といわれているが、その主な職務は、すでに剣非違使の方へ移っている。弾正台の職務についているのは、ほとんどが上流貴族階級のもので占めており、名誉職のようなものだった。
当然そんな職場にシンタローが望むほどの仕事はない。
「ったく、帝の息子っていう肩書きもつまんねぇーよな。ろくな仕事が回ってこねぇ」
シンタローが任じられている弾正伊というのは、親王によく与えられる役職であり、つまり、無能でもかまわない官だった。
もっと面白い仕事をやってみたかったのだが、それは帝であるマジックが決して許してくれなかった。小さい頃は気にしてなかったが、過剰すぎるほどの過保護っぷりを見せるその父親は、愛息子に、危険な仕事など一切させる気はないようで、元服するのと同時に弾正伊の官を与えたのである。
仕方なく、その仕事を受ければ、さらにお目付け役としてキンタローまで直属の部下としてつけられてしまった。これでは、おおっぴらに羽目ははずせない。
「仕事は仕事だ。まったくないわけではないのだからな。いいか、仕事はちゃんとあるのだ。それを片付けてから文句を言え」
「へーいへいへい」
気のない台詞を口にして、シンタローは桜の木から離れた。
まったくつまらないと思う。時折、自分がなぜここにいるのかわからなくなる。他のものに比べれば、確かに自分は恵まれていて、何不自由のない暮らしをしているのだろう。それを分かっていても、不意に息苦しくなることがあった。あまりにも狭い世界に自分が閉じ込められているような気がして、呼吸困難に陥るのだ。
喘ぐように空を眺めてつつ、歩いていれば、隣を歩いていたキンタローが言った。
「そう言えば、シンタロー。あの話を聞いたか?」
「どの話だよ」
宮中では、一言に話といっても、常に真偽交えて数多くの話が飛び交うために断定しづらい。今朝から聞いた噂話などを含めた話題の中で、キンタローがわざわざ自分に告げるような話はどんなものだろうか。そう考えていれば、キンタローは、『あの話』というものをしゃべりだした。
「サービス叔父に双子の兄がいただろ?」
「ああ、いるぜ。ハーレムだろ? どうしたんだ、それが」
キンタローの口から、ハーレムという言葉が行き成り出て、シンタローは驚きつつもそう答えた。キンタロー自身は、とある理由から十三年間ほど都から離れた場所にいたため、自分の叔父であるハーレムとは面会したことがなかった。そのキンタローが、なぜハーレムのことを口にするのだろうかと思っていれば、思わぬことを告げられた。
「俺は会ったことがないから分からないが、そのハーレム叔父貴が帰ってきているらしい」
「え……?」
その言葉に、シンタローは足をぴたりと止めた。そのまま横にいた相手を見やる。
「マジ?」
「ああ。さっきお前を探す途中で高松に会ってな。そう聞いた。一昨日の夜あたりから帰ってきているらしい」
「ふ~ん。あのおっさん生きてたんだ」
久しぶりに懐かしい名前を聞いた。
ハーレムは、自分にとっては父親の弟にあたる人である。大納言と兼任し近衛右大将を勤めているが、その役職などおかまいなしに、自由奔放の見本のごとく、勝手に外へ飛び出しては、何年も行方知れずになることが多々あった。最後にハーレムが内裏にいたのは、もう七年も前のことである。
その叔父が久しぶりにここへ帰ってきているというのだ。にわかに信じられない話であったが、それでも、情報源が、叔父の友人である高松となれば、間違いでもなさそうだった。
しかし、それを知ったとたんにシンタローの胸にもやもやとした感情が生まれていた。
(………帰ってきているんなら、なんで俺のとこにも会いに来ないんだよ)
一昨日の夜で、今日の昼である。会いに来る時間がまったくなかったはずはないだろう。
もしかして、俺のこと忘れてるとか?
それはありえることだった。
自分が彼と出会った回数は、片手ほどでしかない。それでも、あの頃の自分はめったに父親以外の人とは会うことはなく、夜にこっそりと訪れてきてくれたハーレムに、すっかり懐いていたのだ。
ハーレムが、都を出て遠い地方へ行ってしまったと聞かされた時には、しばらくショックでご飯も食べれず、父親を困らせたほどである。
(……でも、今考えるとすげぇよな、俺)
出会った初端から、添い寝をしてもらったうえに、訪れるたびに、抱っこをせがんだり、夜の庭で散歩をねだったりしていたのだ。当時は、父親によくしてもらっていたこともあり、おかしなことだとは思わなかったのだが、今思えば、かなり恥ずかしい思い出である。
それでも、シンタローの中では、ハーレム叔父の存在は、大きなものになっていた。久しぶりに帰ってきているならば、会いたいと思うほどである。
「で、ハーレムは今どこにいるんだよ」
「さあな。そこまでは知らん。俺も一度、ハーレム叔父に会ってみたいと思ったが、高松も昨日の夜に挨拶に来られて知っただけで、どこにいるかは分からないらしい」
「そっか…」
会ってどうするというわけでもないのだけれど、なんとなく無性に会いたい気分になっていた。だが、向こうの方は、自分に会ってくれる気があるかわからない。帰ってきても、報せすらくれなかったのだ。
「どうしたんだ? ハーレム叔父に何か用事でもあるのか?」
なんとなく気落ちした様子を見せるシンタローに、怪訝そうにキンタローが尋ねてきた。
そう言えば、この従兄弟は知らないのだ。自分とハーレムが会っていたことを。
幼い時には、キンタローはこの都にはいなかった。キンタローが生まれる少し前に、両親共に大宰府へと移ったためである。その後、父親はすぐに亡くなったが、母親とともに、そのまま大宰府で暮らしており、その母親も没し、近くに身寄りもないため、四年前、都に呼び戻されたのだった。そうしてその後は、従兄弟として一緒にすごして来たが、ハーレムとのことは、すでに本人がいなかったこともあり、話題にあがらなかったのである。
「いや、なんでもねぇ」
それでも今すぐ探して会いに行くことはやめた。それは単純な理由で、自分のことをすっかり忘れられていたら悲しいからだ。自分にとっては大切な時間であったけれど、相手にとっては、ただの暇つぶしであった可能性も高いのである。
現に、彼が訪れていた期間は短くて、庭の桜の花が、すっかり葉桜に変わったころには、もう訪れることはなかった。
「やる気が出たのはいいことだが、張り切りすぎて失敗はするなよ。お前はおっちょこちょいだからな。いいか、お前はすぐに―――」
「はーいはいはい。二度押しは結構です。いいから、行くぞ!」
やはり小煩い部下を置いて、シンタローはさっさと歩く。
その背後では、春風が、ようやく綻び出したその淡い紅色の花達に優しく触れていた。
舞い散るその姿が美しかった。月の光を浴びながら、淡い白の光を纏い、散り行くその姿に目が放せなかった。
「きれぇ~」
稚拙で簡素な、けれど一番真実に誓い純粋な言葉で、その姿を賞賛する。
今年の年明けとともに十になったシンタローは、何度目になるだろうか、その言葉を呟きながら、庭に佇む桜の木を眺めていた。すでに盛りを過ぎたその桜は、心得ているかのように、絶えることなくはらはらとその花形を崩していく。今宵の風は少し強く、それ故に散らす花びらの数も多かった。さらに天空の望月が煌々と庭を照らし、その様を幽玄の美へと仕立て上げていた。
ここは、平らかに安らかに穏やかな都であるように、と願いを込めてその姿を形にされた平安京。その中でももっとも尊き高貴な者が住まう内裏の中の一画。
「んんっ」
しばらくその姿を魅入っていたが、それも飽きてきたのか、シンタローは腕を伸ばし、小さな手をいっぱいに広げた。風に誘われ遠くまで流れてくるその花びらを、どうにか受け止めることは出来ないかと、欄干の上に身を乗り出す。
そんなことをしなくても、すぐ横には地面へと降りる階がある。そこを降りればもっと近くにいけた。だが、履物もない上に、勝手に外へ出ては叱られる。そのため、部屋の外側にある渡り廊下として作られた簀子の位置がシンタローにとっては精一杯だった。
板張りの簀子の上には、すでに花びらが点々と床に落ちていた。風に乗ってここまでやってきた花びらもあるのだ。けれど、シンタローは舞い落ちる花びらが欲しかった。
床に落ちているのとは、そう大差はないと思うのだけれど、自分の手のひらに掴んだ桜の方が、何倍も美しいものだと信じているように、シンタローは、一生懸命手を伸ばして、薄紅色の欠片を手にいれようした。地面に落ちていない、汚れてない綺麗な花びらを手に入れたかったのだ。だが、
「あっ…ああッ!」
身を乗り出しすぎた身体は、不意にバランスを崩し倒れ込む。気付いた時は、すでに遅かった。
すってんころりん…。
欄干を飛び越え、見事シンタローは、前のめりして転げ落ちてしまった。
「いったぁ~」
「……痛いのはこっちだ、チビ」
あれ?
つい口から零れた言葉。けれど、思ったほど衝撃はなかった。それよりも、おかしなことに、自分の身体の真下から声が聞こえてくる。シンタローの顔が、きょとんとした表情に変わった。
「地面がしゃべった?」
「んなわけねぇだろうが」
低く唸る音。お尻の下の地面が大きく波打ち、そのまま隆起するように盛り上がった―――ように見えたが、実際のところは、シンタローが下に敷いていた相手が、上半身を起こしただけである。
「うわッ!」
驚くシンタローを上に、その下にいた人物は、最初のドスの効いた声とは違い、柔らかい声をかけてきた。
「ったく、あんなところから落ちやがって。怪我はねぇかよ、ちみっこ」
「ん~~と……ないッ!」
その質問に、シンタローは元気良く答えた。
簀子の上から地面までは、一メートル以上の段差がある。けれど、シンタローには傷ひとつなかった。もちろんそれは、たまたま下にいた相手の上に、見事落っこちたおかげである。
「そりゃよかったな――――よッ! と」
すとん。
身体が浮き上がったと思ったら、先ほどまでいた簀子の上に置かれた。そうされて、ようやく自分が何の上に落ちたのか分かった。
そこにいたのは金色の髪に青い瞳を持つ人の形をしたものだった。
黒い髪と黒い瞳を持つ自分とはまったく違う色を持つ相手。けれど、シンタローには、その色を恐れる理由はなかった。なぜなら、自分の父親も自分の叔父も従兄弟も、その色を持っているからだ。むしろ、自分の色の方が異端とも言われる中で、その色は全然怖くない。
威風堂々とした面構えをその人はしていた。まるで獅子のようである。獅子は寝所である帳台の前に災厄を除くものとして狛犬とともに置かれているために、シンタローにとっては親しみのあるものであった。
「でも、だぁれ? ……桜の鬼さん?」
シンタローは、目の前の相手にじっと視線を定め、怪訝そうに言い放った。
獅子のような姿をした相手だが、シンタローは初めてみる人だった。けれど、人であるかどうかをまず疑った。
なぜなら、あのような場所に人がいたことなど今まで一度もなかったのである。不意に現れた人を人と見るよりは、あやかしのモノだと思った方が自然だった。
「桜の鬼だぁ?」
けれど、シンタローの言葉に、今度は相手の方が怪訝な表情になる。言われた意味がまったく通じていない。
「桜鬼じゃないの? 桜鬼はね、桜の木の下にいる鬼なんだよ。だから、花びらいっぱいつけてるの」
ことりと首を傾げて不思議そうに言うシンタローを前に、ハーレムは改めて自分の姿を見やった。
確かに、指摘どおりその姿は桜の花びらだらけである。服の隙間には花びらが、幾枚も入り込んでいた。けれど、それはずっと縁の下で寝転がっていたせいだ。久しぶりに内裏の中を散歩していれば、見事な桜に出会い、そこでひとり花見をしていたのはいいが、ついうっかり深酒しすぎ、そのまま熟睡していたのである。そのために、すっかり桜の花びらに埋まってしまっていた。
その姿に、どうやらこの幼子は勘違いしたらしい。
「それでね、夜になったらお外で桜を見ている悪い子を攫って、バリバリって食べちゃうんだよ。だからね、夜はお外に出たら、いけないの」
「って、お前ぇは出てるじゃねぇか」
それはよくある子供に夜更かしを禁じる教訓である。けれど、その話を知っているこの子供は、平気そうに外へ出ていた。おかげで、わざわざ欄干を乗り越えてまで、簀子の上から転げ落ち、自分の腹の上にご丁寧にも落ちてきたのである。
「…うん。だから―――僕を食べる?」
さっきまで、平気な顔をしていたくせに、自分で言っていて怖くなったのだろうか、行き成りおどおどと、こちらに大きな瞳を向けてくる。その幼さに、桜鬼と称されたハーレムは、その手のひらをすっぽりと収まる頭に置いた。
「誰が、てめぇのようなマズそうな奴を食べるんだよ。大体、食べられたくねぇなら、さっさと寝ろ」
そのままがしがしっと髪をかき混ぜてあげる。それが、荒々しい仕草だったせいか、むぅと顔が不機嫌そうになってしまった。
「いたい……」
「優しく撫ぜてやっただけだろ?」
「……パパは、そんな風に撫ぜないもん」
「パパ?」
そう言えば、こいつの父親は……と、ハーレムは思考を巡らし行き着いた先で、とたんに蒼ざめた。
(やっべぇ……。もしかして、こいつ『シンタロー』か?)
目の前の黒髪黒目のちみっこに、ハーレムはひやりと背筋に汗をながした。
『シンタロー』。その名をこの宮中で知らないものはいないだろう。今上帝であるマジックの子であり、珍しくも帝自らが手元で養っているという異例の子供なのだ。しかも、かなり溺愛しており、他の者の前には、めったに見せないため、その子がどういう姿形をしているのか、性別すらも知るものはほとんどいなかった。年だけは、東宮であるグンマと同じ年ということだけは、伝わっていたが、それだけである。
ハーレムとて、こうして「シンタロー」を見たのは初めてだった。自分の双子の弟は、頻繁に会っていたようだが、自分は興味もなかったために、ずっと会わずにいたのだ。
だが、眼前には愛らしい色合いの女装束に身を包んだ少女がいる。
(女だったわけか……どうりで溺愛するわけだ)
確かに、目の前の実物を見れば、兄の盲愛ぶりも少しは納得できる。生意気な口調が少し鼻をつくが、容姿は文句なかった。形のいい小ぶりの頭に、品よく整った目鼻立ち、真っ赤に熟れた果実のように色付いた愛らしい唇。何よりも、目に惹いたのは、その色だった。闇に染められたような漆黒の髪と瞳。それは、自分達一族では、誰一人持たないはずの色だったが、目の前のシンタローは、その深い色一色に染められていた。
しかし、それに違和感はなかった。むしろ、その色こそ、この幼子に相応しく、その容姿をより深く美しく見せていた。
将来美人になることを約束されたような容姿を持って、春らしい桜襲(表は白・裏は赤)の装束を身に纏った少女は、確かに部屋の奥底に隠しておきたくなるような至宝の玉である。
そんなマジックの愛娘がいる部屋とは知らずに、うっかり目に付いた桜の木の前で花見をしていたのは、少しまずかった。これが、兄に見つかればどれほど叱咤されるか分かったものではない。
幸いなのは、ここにその兄がいないということだった。
「どぉしたの?」
あどけない口調でこちらを問いかけるシンタローに、ハーレムはそろりと一歩後ろに下がった。
「あ~、俺はもう帰るわ」
いつまでもここにいては命が危険にさらされる。バレる前にトンずらすべきだと、心に決めたハーレムは、ゆっくりとあとずさりをしようとしたが、その姿に、シンタローはとたんに眉を顰めて泣きそうな表情を浮かべた。
「……かえるの?」
「はぁ? お前は、鬼が怖いんだろうが」
それならば、引き止められる理由はないはずである。
「でも……僕を食べない…でしょ?」
もちろん自分は鬼ではないのだから、食べることなどしない。しかし、だからと言って、引き止められる理由にもならない。
ぐずぐずしてはいられないのだ。噂しか聞こえてこないが、たぶん兄は毎晩、この子供の元に訪れているはずである。鉢合わせしてしまえば、自分の命など消し飛びかねない。
しかし―――あまり見慣れない漆黒の瞳を潤ませて、ひたりと見つめる幼子を前に、ハーレムは退く足を止めていた。
「なんで帰ったら悪いんだ?」
話し相手が欲しいのだろうか。
確かにそれはありえるかもしれない。見たところ、父親は、話し相手になりそうなものを傍に置いていなかった。普通ならば、高貴な者の周りには、女房と呼ばれる身の回りを世話する女性がいつも何人か付き添っているはずである。幼い子であるシンタローならば、なおさら誰かがついているべきである。しかし、そう言った気配はひとつもなかった。
「パパ……今日はいない…の」
ぽそりと告げたその一言に、シンタローは押し込めていた想いまで零してしまったように、ぎゅっと服を握り締め、その大きな瞳から、涙をぽろりと落とした。
「おい! こら泣くな、んなことで」
せっかく離した距離は、それで、また縮まってしまった。思わず手を伸ばし、自分の袖口で、零れた涙を乱暴にふき取ってしまう。
どうも、自分はこの小さな子供に弱いようだった。
(ったく、何やってんだ兄貴は)
そう言えば、昨日辺りから朝議からして慌しいかった。何か厄介ごとでも起こったのだろう、ぐらいしか興味はなかったが、どうやらそれをさばく帝の方は、こちらへ渡れないほどの忙しさになったようである。
「ひとり…ヤなの」
その言葉で、自分を帰らせたくない理由は分かった。心細かったのだ、この子供は。
確かに、だだっ広い部屋にひとり置かれるのは、この幼い子にとっては怖いと思うものである。見知らぬ―――鬼とも分からぬ相手にすがりつくぐらいに。
(どうすっかなぁ…)
兄貴が、今夜はここに来ないのはわかった。わかってしまえば、ここから即座に退く理由はなくなる。そこまで考えれば、もう答えなど出ていた。
普段の自分なら在り得ないことなのだけれど、その手は伸ばされ、再びさわり心地のいい黒髪の上に乗せられていた。
「わーったよ。お前が寝るまでは傍にいてやる」
自分でもどうかしている、と思わずにはいられない台詞が吐き出されていた。
シンタローに手を引かれるようにして、部屋へと入っていったハーレムは、用意されていた褥の中に、シンタローを入れた。
くすくす……。
小さな笑い声が耳元で聞こえる。
柔らかな温もりが、すぐ傍から伝わってくる。何かがおかしいとは思ったが、ここまで来れば引き下がることなどできずに、ハーレムは、小さなその身体を腕に抱いていた。
(……兄貴)
自分とて、ここまでする気はなかった。ただ、褥に横たわった幼子の横に座って、それが眠りにつくまで傍にいるつもりだったのだ。けれど、「パパと同じように一緒に寝て!」という要求をついつい受け入れてしまったのが悪かった。それでもまだ、シンタローの横に添い寝する程度だと思っていたのだが―――まさか、自分の腕を枕にして、抱き込むようにして眠るのが日常だったとは。
というわけで、ハーレムの腕の中にはすっぽりとシンタローが収まりこんでおり、先ほどから嬉しそうに笑いを零してくれていた。かなりのご満悦の様子である。それはそうだろう。ひとりで寝るのが嫌で、けれど誰もおらず、結局眠れずに夜更かしをしていたのだ。
(しっかし、この光景…兄貴に見られたら確実に殺されるな)
言い訳無用の状況である。
「……おい、ちみっこ。本当に、マジに、絶対に! 今夜のことはお前の父親には言うなよ」
「うん、大丈夫だよ」
そう約束してくれるが、どこまで信用していいのやら…。
そんな心配するぐらいなら、ここまでやらなければいいのだろうが―――どうにも自分は、その瞳に弱いみたいだった。
「お前が、もうちーっと育ってくれてればな」
今の状況も、微笑ましいものではなくなっていただろう。もちろん、そちらの方が自分としては歓迎したい。
このまま順調に育ってくれれば、恐らく都中の貴族達からの噂の的になるに違いない。
その前にツバをつけられただけ幸運ということだろうか。もっともこれほど幼ければ、まったく意味はないだろうが。
ハーレムは腕の中にいる童女に視線を向けた。いつのまにか大人しくなったと思ったら、すでに夢の世界の住人になっている。すやすやと安心しきった顔で眠るその姿は、やはり年相応にあどけない。これに色艶が加わるのは、もう少し先のことで、そうなったら改めて誘って欲しいと願うばかりである。
さらりとその小さな額を撫ぜる。
「早く美人になれよ、ガキ」
冗談交じりでそう呟くとハーレムは、そっとその身を起こした。
ふわっ…と大きく口が開いて欠伸が漏れた。
「いい天気だなぁ~」
目じりに浮かんでくる涙を感じながら、シンタローは、のんびりと言葉を吐く。
頬に触れる日差しは、いつのまにか暑いと感じるほどの温もりをもっている。触れる風は柔らかく、くすぐるようにして、首筋を通り過ぎていた。
春だ。
それをようやく実感できることが出来たのは、ここ数日のことである。それまでは、暦の上では春だといえども、その兆しを探すのは難しかった。しかし、今日は特にその春めいた陽気を感じることができる。
「桜もようやく咲いたしな」
今年は、桜の咲きが遅かった。冬がいつまでも居座ってくれていたせいだろう。けれど、目に入った枝に視線を移せば、見慣れた枝に、淡い衣を纏った花が風に誘われ揺れている。まだ綻んでいない蕾たちも、少しつつけば花開きそうなほどの膨らみである。
それを見つめ、シンタローは思わず顔を綻ばせた。
桜の花は、小さな頃から好きだった。飽くことなく見続けるのは、毎年のことだ。今年も、盛りとなれば見事な光景を見せてくれるだろう予感をさせるその花に、そっと指先を触れせれば、背後から声がかかった。
「そんなところで、何をしているんだ、シンタロー」
「キンタロー?」
その声に振り返れば、そこには見慣れた姿があった。春の日差しを受けて煌く金の髪に、春の青空よりも深い色をした瞳の持ち主は、こちらへ向かって、足早に近寄ってくる。
「まったく、なかなか来ないと思ったら、こんなところでサボっていたのか」
職務怠慢だぞ、と相変わらず口うるさいことを告げられる。
キンタローは、シンタローにとって従兄弟にあたると同時に、職場にて上司と部下の関係でもあった。二人とも、弾正台と呼ばれる警察機関に所属している、シンタローの方はその中のトップ、だんじょういん弾正伊を勤め、キンタローがその次官であるだんじょうすけ弾正弼である。
「仕事、たってたいしたもんねぇし。いいじゃねぇかよ」
弾正台の仕事は、役人の罪悪告発したり、治安維持を勤めたりといった仕事である。そのトップとなれば、仕事がたんまりとありそうだが、実際のところ、今の弾正台はほとんどお飾りに近い職場だった。警察機関といわれているが、その主な職務は、すでに剣非違使の方へ移っている。弾正台の職務についているのは、ほとんどが上流貴族階級のもので占めており、名誉職のようなものだった。
当然そんな職場にシンタローが望むほどの仕事はない。
「ったく、帝の息子っていう肩書きもつまんねぇーよな。ろくな仕事が回ってこねぇ」
シンタローが任じられている弾正伊というのは、親王によく与えられる役職であり、つまり、無能でもかまわない官だった。
もっと面白い仕事をやってみたかったのだが、それは帝であるマジックが決して許してくれなかった。小さい頃は気にしてなかったが、過剰すぎるほどの過保護っぷりを見せるその父親は、愛息子に、危険な仕事など一切させる気はないようで、元服するのと同時に弾正伊の官を与えたのである。
仕方なく、その仕事を受ければ、さらにお目付け役としてキンタローまで直属の部下としてつけられてしまった。これでは、おおっぴらに羽目ははずせない。
「仕事は仕事だ。まったくないわけではないのだからな。いいか、仕事はちゃんとあるのだ。それを片付けてから文句を言え」
「へーいへいへい」
気のない台詞を口にして、シンタローは桜の木から離れた。
まったくつまらないと思う。時折、自分がなぜここにいるのかわからなくなる。他のものに比べれば、確かに自分は恵まれていて、何不自由のない暮らしをしているのだろう。それを分かっていても、不意に息苦しくなることがあった。あまりにも狭い世界に自分が閉じ込められているような気がして、呼吸困難に陥るのだ。
喘ぐように空を眺めてつつ、歩いていれば、隣を歩いていたキンタローが言った。
「そう言えば、シンタロー。あの話を聞いたか?」
「どの話だよ」
宮中では、一言に話といっても、常に真偽交えて数多くの話が飛び交うために断定しづらい。今朝から聞いた噂話などを含めた話題の中で、キンタローがわざわざ自分に告げるような話はどんなものだろうか。そう考えていれば、キンタローは、『あの話』というものをしゃべりだした。
「サービス叔父に双子の兄がいただろ?」
「ああ、いるぜ。ハーレムだろ? どうしたんだ、それが」
キンタローの口から、ハーレムという言葉が行き成り出て、シンタローは驚きつつもそう答えた。キンタロー自身は、とある理由から十三年間ほど都から離れた場所にいたため、自分の叔父であるハーレムとは面会したことがなかった。そのキンタローが、なぜハーレムのことを口にするのだろうかと思っていれば、思わぬことを告げられた。
「俺は会ったことがないから分からないが、そのハーレム叔父貴が帰ってきているらしい」
「え……?」
その言葉に、シンタローは足をぴたりと止めた。そのまま横にいた相手を見やる。
「マジ?」
「ああ。さっきお前を探す途中で高松に会ってな。そう聞いた。一昨日の夜あたりから帰ってきているらしい」
「ふ~ん。あのおっさん生きてたんだ」
久しぶりに懐かしい名前を聞いた。
ハーレムは、自分にとっては父親の弟にあたる人である。大納言と兼任し近衛右大将を勤めているが、その役職などおかまいなしに、自由奔放の見本のごとく、勝手に外へ飛び出しては、何年も行方知れずになることが多々あった。最後にハーレムが内裏にいたのは、もう七年も前のことである。
その叔父が久しぶりにここへ帰ってきているというのだ。にわかに信じられない話であったが、それでも、情報源が、叔父の友人である高松となれば、間違いでもなさそうだった。
しかし、それを知ったとたんにシンタローの胸にもやもやとした感情が生まれていた。
(………帰ってきているんなら、なんで俺のとこにも会いに来ないんだよ)
一昨日の夜で、今日の昼である。会いに来る時間がまったくなかったはずはないだろう。
もしかして、俺のこと忘れてるとか?
それはありえることだった。
自分が彼と出会った回数は、片手ほどでしかない。それでも、あの頃の自分はめったに父親以外の人とは会うことはなく、夜にこっそりと訪れてきてくれたハーレムに、すっかり懐いていたのだ。
ハーレムが、都を出て遠い地方へ行ってしまったと聞かされた時には、しばらくショックでご飯も食べれず、父親を困らせたほどである。
(……でも、今考えるとすげぇよな、俺)
出会った初端から、添い寝をしてもらったうえに、訪れるたびに、抱っこをせがんだり、夜の庭で散歩をねだったりしていたのだ。当時は、父親によくしてもらっていたこともあり、おかしなことだとは思わなかったのだが、今思えば、かなり恥ずかしい思い出である。
それでも、シンタローの中では、ハーレム叔父の存在は、大きなものになっていた。久しぶりに帰ってきているならば、会いたいと思うほどである。
「で、ハーレムは今どこにいるんだよ」
「さあな。そこまでは知らん。俺も一度、ハーレム叔父に会ってみたいと思ったが、高松も昨日の夜に挨拶に来られて知っただけで、どこにいるかは分からないらしい」
「そっか…」
会ってどうするというわけでもないのだけれど、なんとなく無性に会いたい気分になっていた。だが、向こうの方は、自分に会ってくれる気があるかわからない。帰ってきても、報せすらくれなかったのだ。
「どうしたんだ? ハーレム叔父に何か用事でもあるのか?」
なんとなく気落ちした様子を見せるシンタローに、怪訝そうにキンタローが尋ねてきた。
そう言えば、この従兄弟は知らないのだ。自分とハーレムが会っていたことを。
幼い時には、キンタローはこの都にはいなかった。キンタローが生まれる少し前に、両親共に大宰府へと移ったためである。その後、父親はすぐに亡くなったが、母親とともに、そのまま大宰府で暮らしており、その母親も没し、近くに身寄りもないため、四年前、都に呼び戻されたのだった。そうしてその後は、従兄弟として一緒にすごして来たが、ハーレムとのことは、すでに本人がいなかったこともあり、話題にあがらなかったのである。
「いや、なんでもねぇ」
それでも今すぐ探して会いに行くことはやめた。それは単純な理由で、自分のことをすっかり忘れられていたら悲しいからだ。自分にとっては大切な時間であったけれど、相手にとっては、ただの暇つぶしであった可能性も高いのである。
現に、彼が訪れていた期間は短くて、庭の桜の花が、すっかり葉桜に変わったころには、もう訪れることはなかった。
「やる気が出たのはいいことだが、張り切りすぎて失敗はするなよ。お前はおっちょこちょいだからな。いいか、お前はすぐに―――」
「はーいはいはい。二度押しは結構です。いいから、行くぞ!」
やはり小煩い部下を置いて、シンタローはさっさと歩く。
その背後では、春風が、ようやく綻び出したその淡い紅色の花達に優しく触れていた。
平安の時の物語
ひらり……。
目の前を淡い紅が通り過ぎる。それはいくつもいくつも、数限りなく、舞い落ちてくる。
柔らかな風が、踊るように足元を過ぎ、空を扇ぎ、頭上の花を散らしている。白い水干に身を包んだシンタローの上にもそれは降り注いでいた。まるでその無垢な色を淡い春色に染めるように、いくつもいくつも舞い落ちる。
止め処ないその巡りに、再びシンタローの唇をかするように、花びらが一枚、ひらりと落ちた。それを合図のように、ずっと沈黙を保っていたそれが、ゆっくりと開いた。
「行くのかよ…」
シンタローは、一言そう言い放つ。感情を押し殺し、抑揚もなく告げられたそれに、軽装である狩衣姿の相手は、顔をそらすようにして視線を空へと向け、その言葉に応えた。
「行くぜ」
もう決めたことだしな――。
横顔しか見えぬその顔に、けれど揺らぎない決意を見てしまう。凛とした雰囲気を放つ柳の襲(表は白、裏は青色)となっているその肩にも淡い紅が振り積もっていた。
「そっか」
そう言われるのはわかっていたけれど、実際に言葉にされれば、胸の奥からじわりと熱がこみ上げてきて、それが涙の元を溶かしていく。滲み出すそれは目じりにたまり始めたが、けれどそこで堪えた。
お別れを告げに、来てくれた。
その相手に、涙で引き止めることはできなかった。そんなことをすれば、もう二度と、彼は、自分の前に現れない気がしたのだ。
(泣いたら、駄目だ!)
必死に自分自身へ、そう言い聞かす。
相手は、四つの頃からの友達だった。普通なら、友達関係などは築き難い相手だ。なぜなら、年が一回り以上違うのである。しかも出会った時は、自分はほんの幼い子供だった。それでも、ずっと自分の遊び相手になってくれて、時には対等に扱ってくれた大好きな人である。
その彼が、ずっと前から望んでいた旅に出るというのに、自分が幼子のように、泣いて引きとめるようなことは出来なかった。
旅に出る前に、自分のところへ来てくれた。それだけで、満足しなければいけないのである。
気まぐれな彼なのだ。数ヶ月音沙汰がないことは、何度もあった。もちろん、何の言葉もなく。そして、ひょっこりと何事もなかったかのよう会いに来る。
けれど、今日の別れは違っていた。
事前に、旅に出ることを相手は教えてくれて、しかも、今日という旅立ちの日に、会いに来てくれたのである。それは、数ヶ月という単位での別れではないことを意味していた。
だからこそ、笑って送り出してあげたかった。
十一になった年、相手はもうすぐ三十路を迎える年齢。それでもやっぱり自分と同じ子供のように屈託もなく笑ってくれる相手は、自分にとって大切な友人と言えるものだった。
だから、頬が引きつる感じを覚えながらも、笑顔を作った。
「途中でくたばるなよ。おっさん」
それだけはやめてもらいたい。
死ぬなら死ぬと告げてくれればいいが、遠く離れた地ではそれは望めない。それならば、途中で死ぬようなことは絶対にして欲しくなかった。
「誰にいってるんだ、くそガキ」
そんな思いを全てお見通しだと言わんばかりに、くしゃり、と髪をかきまぜるように撫ぜられる。対等に扱ってもらえる時があると思えば、こんな風に出会った当時のまま、小さな子供扱いもされる。けれど、それは決して嫌ではなかった。
「心配すんな。俺はちゃんと帰ってくるぜ」
「待ってねぇけどな」
「ぬかせッ」
軽口を叩けば、いつもと変わらぬ口調で返ってきて、ぽこっ、と軽く頭を叩かれる。こんな時までまったく変わらないのだから、きっとこれから数年はなれたとしても、お互いの関係は変わらないのだろう。
せめて、それぐらいは願いたかった。
ひらり…ひらり……。
桜の花びらが散っていく。もう盛りは過ぎてしまって、わずかな風でもそれは零れ落ち、薄紅色が地面を埋めつくす。
ふっと上向くと、それを狙ったように前髪に花びらがぴたりと張り付いてしまった。上目で見れば、ぼんやりとその桜色が目に映る。
「とってやるよ」
自分が手を伸ばすよりも先に、目の前にいた相手の手が動いた。確かにそちらの方が早いかもしれない。近づいてくる手に安心して、目を閉じ、それを待っていれば、さらりと前髪を撫でるように、手が触れる。
慣れ親しんだ手だ。その手に何度も頭を撫ぜられた。
その手が、優しく頬を掴む。
それも慣れたものである。心地いい温もりに、目を閉じたまま、笑みを浮かべた。先ほどの作り笑いとは違う、ほっと一息つくことで漏れた笑み。
このぬくもりがもうすぐ傍から消えることは、今は考えない。
そう思っていたら、唇に何か柔らかなものを押し当てられた。
(えっ?)
それは、初めての感触で、いったい何だろうかと確認するために急いで目を開けてみれば、そこには暗闇があった。
「ハーレム?」
怪訝な声が漏れる。当たり前だろう。不思議なその感触を確認しようと思ったら、視界をハーレムの手にさえぎられていたのだ。けれど、すぐにそれも取り除かれて、そうすれば、先ほどと変わらぬ距離に、相手がいた。
ただ、目を瞑る前と比べると、どこか決まり悪げな表情をしているのは気のせいだろうか。しかし、それよりもシンタローは、先ほどの唇に覚えた感触が気になって仕方なかった。
「なあ、さっき何が触れたんだ?」
そう問いかけてみれば、
「――さあな。桜じゃねぇか」
「……桜?」
さらりとそう言われてしまった。だが、それでもシンタローは、納得いかずに首を傾げた。
桜があんな柔らかで暖かな感触をするのだろうか。むしろあれは、人肌に近いものがあった気がする。
けれどハーレムは、それ以上何も言わなかった。変わりに違うことを口にする。
「じゃあな。俺は行くぜ」
そのとたん、シンタローは弾かれたように、ハーレムに顔を向けた。
そうだった。今は、そんなことを考えている場合ではないのである。この友人を見送らなければいけないのだ。
しばらく会えなくなる。それがいつまでかは分からないけれど、きっと帰ってくると約束してくれたのだから、寂しさも我慢できる。
「元気でいろよ」
「ああ――お前もな」
最後に頭に触れてくれるかと思ったけれど、それはもう先ほどで終わっていたようだった。
そのままくるりと背を向けたハーレムは、振り返ることなく消えていった。
ひらり…ひらり…ひらり……。
別れの幕引きのように流れ落ちる桜の花びらに、シンタローは、そこでようやく涙を零した。
さわっ…。
上質の絹織物に触れているような柔らかな風が頬をくすぐっていく。目を閉じてそれを感じれば春の気配を垣間見ることができた。
穏やかな午後の時。部屋の端に差し込む陽光の御簾を潜り抜け、舞い込んできた優しい春風。けれど、眼前に座る相手の言葉を耳にしたとたん、それは寒風へと変貌を遂げたかのように凍えるような冷たさを、その部屋の主であるシンタローは感じた。
部屋も一気に零度近まで温度が下がったかと思うほど、凍てつく冷気に覆われたように感じてしまう。
そんな中で、シンタローはこわばった顔を相手に向けた。
「……本気かよ、あんた」
そう確認してしまうのは、先ほどの相手の言葉を信じたくないためである。否定を望む気持ち。けれど、あちらはあっさりと肯定の意味を含めて頷いてくれた。
「本気に決まっている。――それはお前が一番よくわかっているだろう? シンタロー」
重々と響く低音の声。それが、ずっしりとこちらの胸に乗りかかる。
一瞬身動きできぬほどのもので、シンタローは、それを吹き払うために、ハンッ、と胸の息を吐き出すようにして笑った。
「んじゃ、正気じゃねぇな」
それを冗談でも戯言でもないとすれば、相手の正常な判断力を疑うしかない。実際、それを言われた時には、相手の頭のイカレ具合を本気で心配したのだ。
しかし、相手にその兆候はまったく見られなかった。常と変わらない威風堂々としたその姿。こちらが気圧されてしまうものである。
「いや、私はいたって真面目だ。すでに準備も整いつつある。お前は、安心して私に任せなさい」
優しく告げられる言葉。
先ほどから笑みを絶やさずにそう告げられるが、その瞳は獲物を逃さぬ猛禽類のような鋭い眼差しで、こちらをその場に押さえつけていた。
否定など許す気がないことは分かっている。だからこそ、シンタローも拒否ではなく、その言葉を真実だと受け止めないよう言葉を弄していた。
「任せなくてもいい。俺のことは俺が決めるからな」
「ダメだよ、シンちゃん。君は、パパのものなのだからね」
確かに、子は親の物であることは間違いない。親の命令に従うことが、子の義務であり、役目である。けれど、今回ばかりは、それを受け入れることなど出来なかった。
「俺は、まだそんなことをする気はないぜ? 第一、元服もしてねぇし」
「もぎ裳着は、すぐに手配するから気にしなくていいよ」
なんでもないように告げられた言葉。けれど、そこには明らかな誤りがあった。
元服は、男子の成人を祝う儀式であり、裳着は逆に女子の成人を祝うためのものである。
「………わかっていると思うが、俺は、男だ」
そう。シンタローは、紛れもなく男と性別されるものである。
そうして、当然男であるシンタローならば、元服をしなければいけなかった。けれど、父親が望むのは、別のものなのである。
「そうだね。でも、その姿はとっても似合っているよ」
そう言って、こちらを上から下まで見下ろす。にこやかに見つめられ、シンタローは、とたんに苦々しい顔になった。
「似合ってどうする―――俺は女じゃねぇ」
しかし、その姿で、その台詞はどうにも格好がつかないものだった。
シンタローが着ている服は、どうみても男物には見えないものである。小袿と呼ばれる装束で、衣を何枚も重ねて着込み、裾を長く引く袴を身につけている。襲は春らしい桜(表は白、裏は赤)だった。
動きにくいことこの上ないその服装は、めったに自分で行動することのない貴族の姫君が着るような服装である。
しかし、シンタローは事あるごとに、これを着せられていた。すっかり着なれてしまって、普通に行動する分にはこける心配はなくなったということが哀しいものである。
もちろん好きで来ているわけではない。いつも猛烈な反対をしているのだ。にもかかわらず、目の前のクソ親父が、泣いたり脅したり、とこちらの弱みにつけこむのでなし崩しでこの格好をしてしまっているのである。
しぶしぶながらもマジックの前では、この姿で耐え忍んでいるというのだ。
もっとも、訪れるたびに拳や蹴りを見舞っているので、本当に耐えているかは疑問だが、この服のおかげで、一度もヒットしたことがないのも悔しい出来事だった。
けれど、自分とて、それがいつまでも続くとは思っていなかった。もうシンタローも十六である。十六となれば、とっくに成人していなければいけない身で、男ならなんらかの役職に付いて仕事をし、女なら結婚している年なのだ。
しかし、未だにシンタローは、その許しをマジックからもらっていなかった。
「それなら俺は、出家するぜ!」
いつまでも、元服できないのならば、最後の道はそれしかない。もちろんそれが望む道ではないが、これ以上の不自由な生活も耐えられない。
囚われの身……そんな言葉さえ浮かんでくるのだ。そこから脱却する道は、それしかなかった。
だが、それさえもすんなりと行きそうになかった。
「そんなことは、パパが許すわけがないでしょ? それは諦めなさい」
もしも、自分がそんな行動を取ろうとすれば、どんな手段を使っても、連れ戻すことを言外に滲ませる。
「……じゃあ、元服させろよ」
「だから、元服じゃなくて裳着をさせてあげるっていってるでしょ。シンちゃんは、裳着をしないといけないんだよ!」
「裳着をさせてどうするんだよ?」
頑なな主張。それの意味することは、一つだった。
「もちろん、その後、パパのお嫁さんになるんだよ♪」
初めにそう言ったでしょ。
そう告げられて、シンタローは強烈な眩暈を覚えた。
確かに、マジックは来た早々、そう言ったのだ。
いつもよりも真面目な顔をして訪れたことに、嫌な予感を覚えていれば、それは的中してしまった。
開口一番に、とんでもない発言をしてくれたのである。それは、吉日を選び、自分の元に入内(天皇の后として内裏に入ること)させるということと、すでにそのための根回しや準備は整っているのだということだった。
(本気か…本気だよな。けど、入内って、俺はすでに内裏の中に住んでいるし……ってそんなことは、今は関係なくって………俺が、こいつの嫁になる?)
改めて言われると、ひしひしとその恐ろしさが身の内からこみ上げてくる。
「パパのことを『アナタ』♪ って呼んでね、シンちゃん」
その言葉に、今まで抑えてきた糸が、プツッと音を立てて切れた。ガバッと立ち上がり、その場で仁王立ちになる。
「とうとうボケたか、アーパー親父ッ。どこの世界に、息子を嫁入りさせるところがあるんだ!」
いい加減にして欲しかった。女物の服を、息子に着せるだけでは飽き足らず、さらには結婚をするとまで言うのである。そんなことまで付き合い切れなかった。
「ここにあるに決まってるでしょ!」
「んなことは有り得ないだろうがッ!」
「だから、ここに有り得るでしょ。もう! 過去の前例を気にするなんて、シンちゃんらしくないよ?」
………らしくない、うんぬんではなく、それ自体絶対に有り得てはいけないことだと思うのは気のせいだろうか。
というよりも、絶対にあって欲しくない。何よりも自分自身のために、阻止するべきことだった。
その思いを込めて、シンタローは、溜めることなく眼魔砲を放った。
(まったく、あのクソ親父は何を考えているんだッ)
苛立ちが収まらず、マジックが仕事のために部屋から出て行った後、シンタローは簀子まで出ると、その場で腰を下ろした。
眼魔砲は、威力は極力抑えたおかげで、マジックの背後にあった几帳一つが、真っ黒焦げというよりは塵と還り、消え去っただけで終わりである。もちろんそれは、マジックがあっさりと避けてくれたせいだった。
無傷のままさっさと帰られてしまったせいで、胸のうちにはまだ怒りが燻ったままである。
「ちっくしょぉ~!」
どうしようかと、そればかりが頭の中を巡る。このままここにいれば、確実に言葉どおりのことを実行されるだろう。
最後の方はいつもの戯言のような雰囲気であったが、しかし実際のところ本気であることは間違いなかった。自分の本気を告げたから、最後はあのような雰囲気で終えられたのだ。
ぶるり。
最初に伝えられた時のことを思い出し、シンタローは震えた。
あの時、肌が粟立つほどに、こちらの意に従えと、世をすべる天皇の圧力をかけてきた。その場で、否、と告げれば命など消し去れてもおかしくないものがあった。そんな中にあって、こちらが逆らえるわけがない。
しかし、ここから逃げるのも至難の技だった。ここは大内裏の中にある御所。帝の住まいである。もちろん帝というのはマジックのことだから、シンタローは彼の掌中にあるのだ。
大事にされていることはわかっている。それについては感謝していた。けれど、これとそれとは別だ……別でありたい。
(どうすりゃいいんだ…)
答えはまだ出ず、シンタローは、ぼんやりと庭を見つめるしかなかった。
シンタローが住まわせてもらっているのは、飛香舎であった。帝の寝所である清涼殿に、もっとも近い場所だ。自分がそんなところにいても良いわけではないのだが、それでも長年そこにいた。
藤壺とも呼ばれるそこは、文字通り藤が植えられている。けれど、まだ垂れ下がる房は見えず、蕾は小さい。春も終わりにならなければ、その見事な紫紺の花は見られないのである。
それよりも先に春を告げているのは、藤の花の邪魔にならないように、西の端に植えられている桜の木だった。
そこにはすでに濃紅色の蕾がいくつも見つけることができる。ほころぶのは、今日か明日かという具合である。
それを眺めていれば、幾分か気持ちが和らいでくる。
シンタローは、ここに植えられた桜が好きだった。内裏には、紫宸殿の前に右近の橘、左近の桜と呼ばれる場所があり、左近の桜には当然桜の木が植えられている。それは威容の姿で、誰もが魅了される、圧巻ものである。樹齢もかなりのものだと聞いていた。大してここに植えられている桜は、樹齢は四十年ほどである。まだ幹もシンタローの腰周りよりも一回りほど細いぐらいだった。
それでも毎年、その枝々の先までしっかりと花をつけてくれるそれは、小さな頃からこの場所にいるシンタローにも見慣れたもので、どの桜の花よりも開花を待ち望んでいるものだった。
何とはなしにそれを見ていたら、正面から春風が吹き込んでくる。極自然にその匂いをかぐようにして鼻を鳴らしたシンタローは、けれど即座に息を止め、その鼻の頭に皺を寄せた。
「んッ!」
先ほどならば甘い花の匂いがしていたその風が、強烈な別の匂いに変わっている。シンタローは、即座に視線をめぐらし、折角の春風を台無しにしてくれた相手を睨みつけようとした。が、その元凶を目に写したとたん、鋭く細めたそれは大きく見開かれた。
「あ………」
思わず声にならない声が漏れた。
それが耳に入ったように、そこにいた人物が振り返る。
「よお!」
声が聞こえる。
シンタローは、何か言いたくて声を開いたが、結局閉じてしまった。
(ハーレム?)
いつの間にいたのだろうか。こんなところに、彼がいることが信じられなかった。
(夢……とかじゃねぇよな?)
だが、それは現実だった。そこにいたのは幻でなければ、数年前に別れた友―――ハーレムに間違いなかった。
記憶の中よりも、年を重ねたぶん、顔つきが変わっている。それでも、彼のまとう雰囲気は、まったく変わりなかった。
「なんだ、どうした?」
ニカニカと笑う、意地悪げな笑みは、そのままだ。こちらがひどく驚いているのが楽しいのだろう。久しぶりにあったというのに、あちらは余裕の様子であった。
こちらの動揺を楽しむ笑顔。それでも、シンタローはまだにわかには信じ難い思いだった。
「ハーレム?」
「ハーレムだぜ? 大体、こんなイイ男は、俺しかいねぇだろうが」
自信ありげにそう言う相手に、シンタローは一瞬鼻白め、呆れた表情を見せたが、すぐにそれを拭い去り、笑みを零した。
「そうだよな。そんな馬鹿なことをほざくのは、あんた以外いねぇよ」
記憶にあるあの頃のままである。
「ちっとも変わってねぇな、あんたは」
「お前は大きくなったな――シンタロー」
ぽんと頭の上に手が置かれて、わしゃわしゃと髪をかき混ぜられた。丹念に櫛梳いていた髪が台無しである。
そう思いながらも、離れていた年月を改めて実感させられずにはいられなかった。あの頃は、ハーレムの大きな手の中に、すっぽりと頭が入っていたのに、今では、その大きな手が少ししかはみ出さないほどになっていたのだ。
「しかも、まあ、綺麗になっちまいやがって」
「あッ!」
そうだった…。
その言葉と同時に、じろじろと舐めるような視線を全身へ走らされ、シンタローは、ようやく自分の姿が、通常とは違う、おかしな格好をしていることを思い出した。
うっかり女物の装束を身にまとっていたのを、忘れていたのである。着慣れたせいで、すっかり感覚が鈍っていたのだ。とはいえ、今更この格好をナシには出来ない。
開き直るつもりでハーレムを見上げたものの、それでも羞恥を帯びた紅色の頬は隠せぬまま、シンタローは言い放った。
「…驚かないのかよ、この格好」
「あ~~。お前の父親に散々自慢されたからな。『うちのシンちゃんってばすっかり美人なお姫様になってね。だからお前にも見せられないよ』ってな」
「――しっかり、見てんじゃねぇかよ」
久しぶりの友人と会えるとわかっていたら、こんな阿呆な格好なんてしなかった。さっさと男者の装束に着替えていた。しかし、もう手遅れだ。しっかりと堪能されてしまった。
「見せてくれねぇなら、勝手に見に行くしかねぇだろう? 結構似合ってるぜ、それ」
悪びれなくそう告げる相手に、シンタローは、苦笑のような笑いをもらした。他の者に、そんなことを言われれば、烈火のごとく怒っただろうが、ハーレムだとそういう気が起きないのはなぜだろうか。
「そりゃどうも。お礼に、親父には黙ってやるよ」
確かにハーレム相手に、何かを禁じるのは難しい。そうしたいと思えば、禁忌であろうと、あっさりとそれを乗り越えていくのだ。
(ほんと、変わってねぇな、このおっさんは)
だから小さな頃は、よくそう言う場所にもハーレムと一緒にもぐりこんだ。帝以外立ち入ることを禁じられた場所や女性専用の場所まで、興味が向けば、どこにでも顔を出したのである。もちろん見つければ、叱責を受けたけれど、一緒に探検というのが楽しくて、今では、叱責も含めていい思い出だ。
ぐびり、と鳴る音が聞こえてきた。ハーレムの方からだ。瓢箪の上の部分を口につけて、何かを飲んでいる。何か、といってもひとつしかないだろう。そこから漂ってくるのは、間違いなく酒の匂いだけなのだ。
「相変わらず、アル中だな。おっさんは」
数年たってもそれは変わっていない。大体、近寄ってくれば明らかにハーレム自身から酒の匂いがしてくるのだ。常に飲んでいるに間違いなかった。
「ああ? 美味い奴を欲して、何が悪ぃんだよ」
そう言って美味しそうに飲むのだから、シンタローの視線もついそちらへ向かう。それに気づいて、ぐいっと瓢箪を差し出された。蓋のされていない瓢箪の口からは、甘い酒気が漂っている。
「飲むか?」
「……………」
どうしようかと躊躇った。けれど、結局シンタローはそれを受け取った。ハーレムの顔が嬉しそうにほころぶ。
「ちったぁ酒が飲めるようになったか? ガキ」
自分の酒を受け取ってくれたのが原因のようである。
そう言えば、別れた頃までは酒など口にしたことはなかった。まだ、大人だと認めてもらえない年である。それは当然だった。
けれど数年の時が、立場を変えてしまった。
今では、シンタローとて酒を嗜むようになった。強い方だから、結構酒量も多い。もっとも目の前の相手には、到底敵わないほどである。
シンタローは、くん、と瓢箪の口に鼻を寄せ、ひと嗅ぎした。かすかに眉間に皺が寄る。それだけでも下戸ならば辛いほどの酒の香りだ。しかしシンタローは、勢いをつけ、ぐいっとそれを一口、口に含んだ。
「あ…れ?」
一気に喉を通っていったそれは、思ったほどキツイものではなかった。それどころか、甘い口当たりである。
「美味いだろ? ちょっとばかし甘すぎるが、花見には丁度いい甘さだ」
「花見?」
「山中の桜は、まだ固い蕾が多いが、こっちはもう大分ほころんで来ているな」
目を細めるようにして、先ほどまでシンタローが眺めていた桜に目を移す。
そう言えば、ハーレムはこの桜を気に入っていた。自分が生まれた時に祝いとして移植されてきたのだという。自分とともに育ったその桜をハーレムは、友と呼び、毎年花の咲く時期になれば、ここに入りびたり、愛でていた。
七年前、別れを告げた時も、この場所だった。桜は盛りを過ぎていて、雨のように散り落ちていた。
「――そう言えば、あんたは、どうして今頃戻って来たんだよ」
ハーレムが何をしに、都から離れたのかは分からない。理由までは告げてもらえなかったし、マジックに尋ねても曖昧な答えしかもらえなかった。
外の世界に興味があるから旅をしてくる。
告げられたのは、たったそれだけなのである。
都にいればなんでも手に入るが、それは箱庭の世界のようなものでしかない。まだまだ外には広い世界があって、自分の足でどこまで行けるか試してみたい。ずっと前から、そう思っていたのが、叶いそうだから行って来る。そう言ったのだ。
そうして言葉通り、数人の供とともに、都を出たのである。
当てのない旅だから、いつ戻るか分からないと言っていた。それが、戻ってきてくれたのは嬉しいけれど、それならば旅は終わったということなのだろうか。
そう尋ねれば、否定するように、首は横へと振られた。
「いや。まだ、俺はこっちには戻る気はねぇよ。つーか、戻りたくもねぇな。ここは息苦しい」
「………そっか」
確かに、ハーレムのような人間には、宮中生活など狭苦しく窮屈に感じるものであろう。ここに居た時も、いつも仕事をサボってふらふらと好き勝手していたように思える。だから、一緒に遊んでもらえたのだ。
「じゃあ、なんでここに来たんだよ?」
「面倒臭ぇが、兄貴から呼ばれたんだよ。『近々めでたいことがあるから、お前も出席しろ』ってな。何があるかは教えてくれなかったが、兄貴の命令じゃあ仕方ねぇから、戻ってきた」
その言葉に、一気にシンタローは蒼ざめた。
その『めでたいこと』がなんであるかは、すぐに分かったからだ。それはたぶん、自分とマジックの祝言のことだ。
幸いなことに、ハーレムは、まだそれに気付いてはいなかった。
「ハーレムは……こっちで寝ているのか?」
それは止めて欲しかった。まだ、何があるか気づいていないハーレムに、当日まで――そんなことはあって欲しくはないのだが――知らないでほしかった。
無駄な願いだと思いつつ、自分が女として、しかも父親の元に嫁ぐなど、この友人には知られたくない。そう思ったのだ。
しかし、ここで寝泊りすれば、気づかれるのも時間の問題だった。準備もすでに始まっているし、何よりも口さがない女達の言葉が耳に入らないはずがないのだ。
しかし、それの答えは、シンタローを安堵させるものだった。
「いや。ねぐらは、ここには移してねぇよ。郊外に小せぇ屋敷があるから、そこにいる。こんな煩ぇとこに、いたくもねぇからな」
そう言うと、シンタローから取り上げた酒を、再び喉の奥に流し込んだ。存在自体騒々しい人で荒事大好きなものだから、誤解するものも多いが、普段は物静かな場所を好む。
他人からあれやこれやと言われるのが嫌いだからだ。気に入った人間が傍にいて、暴れたい時に暴れればそれでいいだけで、そうでなければ、酒を飲んでいればご機嫌なのだ。
「おっと、そろそろ戻らねぇとな。やっかいな相手に捕まりたくもねぇし」
夜こそ貴族の活動時間だ。ハーレムがいれば、誰か彼かが、彼を宴会に誘うだろう。酒好きな彼にとっては嫌がるものではないのだが、貴族達の宴は堅苦しくて、大嫌いなのである。
「じゃあ、もうここには…」
来ないだろう。
ここにいれば、煩い人間など山ほどいる。今日は、兄のマジックに呼ばれたから来ただけで、ここへ来るのはおそらく、『めでたい日』であろう。
無意識に、しょんぼりとした表情をしてしまったシンタローに、
ポンと頭に手が乗せられた。それは、ハーレムの手だった。
「また、花見に来るわ」
そう告げられる。
「けど……」
ここは、ハーレムとって好ましい場所ではないはずである。
「表から入らなけりゃいいだけだろ? 大体、この桜は俺の友だからな。来てやらねぇと寂しがる」
桜のため。
「…そっか」
それでもよかった。まだ、ハーレムとは、何も話していないのだ。七年という空白を埋めることもしていない。昔のように、馬鹿みたいに笑い転げるような話もしたかった。
「んじゃ、また来いよ。酒の用意ぐらいしてやるぜ?」
「おっ、ちったぁ気が利きだしたな」
頭に乗せられたままの手が、くしゃくしゃとかき乱される。せっかく手櫛でなんとか見られるように整えたのが台無しだ。それでも、シンタローは肩すくめるようにして笑った。
「そんじゃ、またな」
片手を振り上げ、去っていく。
「ああ。またな」
その背中を数年ぶりに、笑って送り出すことが出来た。
ひらり……。
目の前を淡い紅が通り過ぎる。それはいくつもいくつも、数限りなく、舞い落ちてくる。
柔らかな風が、踊るように足元を過ぎ、空を扇ぎ、頭上の花を散らしている。白い水干に身を包んだシンタローの上にもそれは降り注いでいた。まるでその無垢な色を淡い春色に染めるように、いくつもいくつも舞い落ちる。
止め処ないその巡りに、再びシンタローの唇をかするように、花びらが一枚、ひらりと落ちた。それを合図のように、ずっと沈黙を保っていたそれが、ゆっくりと開いた。
「行くのかよ…」
シンタローは、一言そう言い放つ。感情を押し殺し、抑揚もなく告げられたそれに、軽装である狩衣姿の相手は、顔をそらすようにして視線を空へと向け、その言葉に応えた。
「行くぜ」
もう決めたことだしな――。
横顔しか見えぬその顔に、けれど揺らぎない決意を見てしまう。凛とした雰囲気を放つ柳の襲(表は白、裏は青色)となっているその肩にも淡い紅が振り積もっていた。
「そっか」
そう言われるのはわかっていたけれど、実際に言葉にされれば、胸の奥からじわりと熱がこみ上げてきて、それが涙の元を溶かしていく。滲み出すそれは目じりにたまり始めたが、けれどそこで堪えた。
お別れを告げに、来てくれた。
その相手に、涙で引き止めることはできなかった。そんなことをすれば、もう二度と、彼は、自分の前に現れない気がしたのだ。
(泣いたら、駄目だ!)
必死に自分自身へ、そう言い聞かす。
相手は、四つの頃からの友達だった。普通なら、友達関係などは築き難い相手だ。なぜなら、年が一回り以上違うのである。しかも出会った時は、自分はほんの幼い子供だった。それでも、ずっと自分の遊び相手になってくれて、時には対等に扱ってくれた大好きな人である。
その彼が、ずっと前から望んでいた旅に出るというのに、自分が幼子のように、泣いて引きとめるようなことは出来なかった。
旅に出る前に、自分のところへ来てくれた。それだけで、満足しなければいけないのである。
気まぐれな彼なのだ。数ヶ月音沙汰がないことは、何度もあった。もちろん、何の言葉もなく。そして、ひょっこりと何事もなかったかのよう会いに来る。
けれど、今日の別れは違っていた。
事前に、旅に出ることを相手は教えてくれて、しかも、今日という旅立ちの日に、会いに来てくれたのである。それは、数ヶ月という単位での別れではないことを意味していた。
だからこそ、笑って送り出してあげたかった。
十一になった年、相手はもうすぐ三十路を迎える年齢。それでもやっぱり自分と同じ子供のように屈託もなく笑ってくれる相手は、自分にとって大切な友人と言えるものだった。
だから、頬が引きつる感じを覚えながらも、笑顔を作った。
「途中でくたばるなよ。おっさん」
それだけはやめてもらいたい。
死ぬなら死ぬと告げてくれればいいが、遠く離れた地ではそれは望めない。それならば、途中で死ぬようなことは絶対にして欲しくなかった。
「誰にいってるんだ、くそガキ」
そんな思いを全てお見通しだと言わんばかりに、くしゃり、と髪をかきまぜるように撫ぜられる。対等に扱ってもらえる時があると思えば、こんな風に出会った当時のまま、小さな子供扱いもされる。けれど、それは決して嫌ではなかった。
「心配すんな。俺はちゃんと帰ってくるぜ」
「待ってねぇけどな」
「ぬかせッ」
軽口を叩けば、いつもと変わらぬ口調で返ってきて、ぽこっ、と軽く頭を叩かれる。こんな時までまったく変わらないのだから、きっとこれから数年はなれたとしても、お互いの関係は変わらないのだろう。
せめて、それぐらいは願いたかった。
ひらり…ひらり……。
桜の花びらが散っていく。もう盛りは過ぎてしまって、わずかな風でもそれは零れ落ち、薄紅色が地面を埋めつくす。
ふっと上向くと、それを狙ったように前髪に花びらがぴたりと張り付いてしまった。上目で見れば、ぼんやりとその桜色が目に映る。
「とってやるよ」
自分が手を伸ばすよりも先に、目の前にいた相手の手が動いた。確かにそちらの方が早いかもしれない。近づいてくる手に安心して、目を閉じ、それを待っていれば、さらりと前髪を撫でるように、手が触れる。
慣れ親しんだ手だ。その手に何度も頭を撫ぜられた。
その手が、優しく頬を掴む。
それも慣れたものである。心地いい温もりに、目を閉じたまま、笑みを浮かべた。先ほどの作り笑いとは違う、ほっと一息つくことで漏れた笑み。
このぬくもりがもうすぐ傍から消えることは、今は考えない。
そう思っていたら、唇に何か柔らかなものを押し当てられた。
(えっ?)
それは、初めての感触で、いったい何だろうかと確認するために急いで目を開けてみれば、そこには暗闇があった。
「ハーレム?」
怪訝な声が漏れる。当たり前だろう。不思議なその感触を確認しようと思ったら、視界をハーレムの手にさえぎられていたのだ。けれど、すぐにそれも取り除かれて、そうすれば、先ほどと変わらぬ距離に、相手がいた。
ただ、目を瞑る前と比べると、どこか決まり悪げな表情をしているのは気のせいだろうか。しかし、それよりもシンタローは、先ほどの唇に覚えた感触が気になって仕方なかった。
「なあ、さっき何が触れたんだ?」
そう問いかけてみれば、
「――さあな。桜じゃねぇか」
「……桜?」
さらりとそう言われてしまった。だが、それでもシンタローは、納得いかずに首を傾げた。
桜があんな柔らかで暖かな感触をするのだろうか。むしろあれは、人肌に近いものがあった気がする。
けれどハーレムは、それ以上何も言わなかった。変わりに違うことを口にする。
「じゃあな。俺は行くぜ」
そのとたん、シンタローは弾かれたように、ハーレムに顔を向けた。
そうだった。今は、そんなことを考えている場合ではないのである。この友人を見送らなければいけないのだ。
しばらく会えなくなる。それがいつまでかは分からないけれど、きっと帰ってくると約束してくれたのだから、寂しさも我慢できる。
「元気でいろよ」
「ああ――お前もな」
最後に頭に触れてくれるかと思ったけれど、それはもう先ほどで終わっていたようだった。
そのままくるりと背を向けたハーレムは、振り返ることなく消えていった。
ひらり…ひらり…ひらり……。
別れの幕引きのように流れ落ちる桜の花びらに、シンタローは、そこでようやく涙を零した。
さわっ…。
上質の絹織物に触れているような柔らかな風が頬をくすぐっていく。目を閉じてそれを感じれば春の気配を垣間見ることができた。
穏やかな午後の時。部屋の端に差し込む陽光の御簾を潜り抜け、舞い込んできた優しい春風。けれど、眼前に座る相手の言葉を耳にしたとたん、それは寒風へと変貌を遂げたかのように凍えるような冷たさを、その部屋の主であるシンタローは感じた。
部屋も一気に零度近まで温度が下がったかと思うほど、凍てつく冷気に覆われたように感じてしまう。
そんな中で、シンタローはこわばった顔を相手に向けた。
「……本気かよ、あんた」
そう確認してしまうのは、先ほどの相手の言葉を信じたくないためである。否定を望む気持ち。けれど、あちらはあっさりと肯定の意味を含めて頷いてくれた。
「本気に決まっている。――それはお前が一番よくわかっているだろう? シンタロー」
重々と響く低音の声。それが、ずっしりとこちらの胸に乗りかかる。
一瞬身動きできぬほどのもので、シンタローは、それを吹き払うために、ハンッ、と胸の息を吐き出すようにして笑った。
「んじゃ、正気じゃねぇな」
それを冗談でも戯言でもないとすれば、相手の正常な判断力を疑うしかない。実際、それを言われた時には、相手の頭のイカレ具合を本気で心配したのだ。
しかし、相手にその兆候はまったく見られなかった。常と変わらない威風堂々としたその姿。こちらが気圧されてしまうものである。
「いや、私はいたって真面目だ。すでに準備も整いつつある。お前は、安心して私に任せなさい」
優しく告げられる言葉。
先ほどから笑みを絶やさずにそう告げられるが、その瞳は獲物を逃さぬ猛禽類のような鋭い眼差しで、こちらをその場に押さえつけていた。
否定など許す気がないことは分かっている。だからこそ、シンタローも拒否ではなく、その言葉を真実だと受け止めないよう言葉を弄していた。
「任せなくてもいい。俺のことは俺が決めるからな」
「ダメだよ、シンちゃん。君は、パパのものなのだからね」
確かに、子は親の物であることは間違いない。親の命令に従うことが、子の義務であり、役目である。けれど、今回ばかりは、それを受け入れることなど出来なかった。
「俺は、まだそんなことをする気はないぜ? 第一、元服もしてねぇし」
「もぎ裳着は、すぐに手配するから気にしなくていいよ」
なんでもないように告げられた言葉。けれど、そこには明らかな誤りがあった。
元服は、男子の成人を祝う儀式であり、裳着は逆に女子の成人を祝うためのものである。
「………わかっていると思うが、俺は、男だ」
そう。シンタローは、紛れもなく男と性別されるものである。
そうして、当然男であるシンタローならば、元服をしなければいけなかった。けれど、父親が望むのは、別のものなのである。
「そうだね。でも、その姿はとっても似合っているよ」
そう言って、こちらを上から下まで見下ろす。にこやかに見つめられ、シンタローは、とたんに苦々しい顔になった。
「似合ってどうする―――俺は女じゃねぇ」
しかし、その姿で、その台詞はどうにも格好がつかないものだった。
シンタローが着ている服は、どうみても男物には見えないものである。小袿と呼ばれる装束で、衣を何枚も重ねて着込み、裾を長く引く袴を身につけている。襲は春らしい桜(表は白、裏は赤)だった。
動きにくいことこの上ないその服装は、めったに自分で行動することのない貴族の姫君が着るような服装である。
しかし、シンタローは事あるごとに、これを着せられていた。すっかり着なれてしまって、普通に行動する分にはこける心配はなくなったということが哀しいものである。
もちろん好きで来ているわけではない。いつも猛烈な反対をしているのだ。にもかかわらず、目の前のクソ親父が、泣いたり脅したり、とこちらの弱みにつけこむのでなし崩しでこの格好をしてしまっているのである。
しぶしぶながらもマジックの前では、この姿で耐え忍んでいるというのだ。
もっとも、訪れるたびに拳や蹴りを見舞っているので、本当に耐えているかは疑問だが、この服のおかげで、一度もヒットしたことがないのも悔しい出来事だった。
けれど、自分とて、それがいつまでも続くとは思っていなかった。もうシンタローも十六である。十六となれば、とっくに成人していなければいけない身で、男ならなんらかの役職に付いて仕事をし、女なら結婚している年なのだ。
しかし、未だにシンタローは、その許しをマジックからもらっていなかった。
「それなら俺は、出家するぜ!」
いつまでも、元服できないのならば、最後の道はそれしかない。もちろんそれが望む道ではないが、これ以上の不自由な生活も耐えられない。
囚われの身……そんな言葉さえ浮かんでくるのだ。そこから脱却する道は、それしかなかった。
だが、それさえもすんなりと行きそうになかった。
「そんなことは、パパが許すわけがないでしょ? それは諦めなさい」
もしも、自分がそんな行動を取ろうとすれば、どんな手段を使っても、連れ戻すことを言外に滲ませる。
「……じゃあ、元服させろよ」
「だから、元服じゃなくて裳着をさせてあげるっていってるでしょ。シンちゃんは、裳着をしないといけないんだよ!」
「裳着をさせてどうするんだよ?」
頑なな主張。それの意味することは、一つだった。
「もちろん、その後、パパのお嫁さんになるんだよ♪」
初めにそう言ったでしょ。
そう告げられて、シンタローは強烈な眩暈を覚えた。
確かに、マジックは来た早々、そう言ったのだ。
いつもよりも真面目な顔をして訪れたことに、嫌な予感を覚えていれば、それは的中してしまった。
開口一番に、とんでもない発言をしてくれたのである。それは、吉日を選び、自分の元に入内(天皇の后として内裏に入ること)させるということと、すでにそのための根回しや準備は整っているのだということだった。
(本気か…本気だよな。けど、入内って、俺はすでに内裏の中に住んでいるし……ってそんなことは、今は関係なくって………俺が、こいつの嫁になる?)
改めて言われると、ひしひしとその恐ろしさが身の内からこみ上げてくる。
「パパのことを『アナタ』♪ って呼んでね、シンちゃん」
その言葉に、今まで抑えてきた糸が、プツッと音を立てて切れた。ガバッと立ち上がり、その場で仁王立ちになる。
「とうとうボケたか、アーパー親父ッ。どこの世界に、息子を嫁入りさせるところがあるんだ!」
いい加減にして欲しかった。女物の服を、息子に着せるだけでは飽き足らず、さらには結婚をするとまで言うのである。そんなことまで付き合い切れなかった。
「ここにあるに決まってるでしょ!」
「んなことは有り得ないだろうがッ!」
「だから、ここに有り得るでしょ。もう! 過去の前例を気にするなんて、シンちゃんらしくないよ?」
………らしくない、うんぬんではなく、それ自体絶対に有り得てはいけないことだと思うのは気のせいだろうか。
というよりも、絶対にあって欲しくない。何よりも自分自身のために、阻止するべきことだった。
その思いを込めて、シンタローは、溜めることなく眼魔砲を放った。
(まったく、あのクソ親父は何を考えているんだッ)
苛立ちが収まらず、マジックが仕事のために部屋から出て行った後、シンタローは簀子まで出ると、その場で腰を下ろした。
眼魔砲は、威力は極力抑えたおかげで、マジックの背後にあった几帳一つが、真っ黒焦げというよりは塵と還り、消え去っただけで終わりである。もちろんそれは、マジックがあっさりと避けてくれたせいだった。
無傷のままさっさと帰られてしまったせいで、胸のうちにはまだ怒りが燻ったままである。
「ちっくしょぉ~!」
どうしようかと、そればかりが頭の中を巡る。このままここにいれば、確実に言葉どおりのことを実行されるだろう。
最後の方はいつもの戯言のような雰囲気であったが、しかし実際のところ本気であることは間違いなかった。自分の本気を告げたから、最後はあのような雰囲気で終えられたのだ。
ぶるり。
最初に伝えられた時のことを思い出し、シンタローは震えた。
あの時、肌が粟立つほどに、こちらの意に従えと、世をすべる天皇の圧力をかけてきた。その場で、否、と告げれば命など消し去れてもおかしくないものがあった。そんな中にあって、こちらが逆らえるわけがない。
しかし、ここから逃げるのも至難の技だった。ここは大内裏の中にある御所。帝の住まいである。もちろん帝というのはマジックのことだから、シンタローは彼の掌中にあるのだ。
大事にされていることはわかっている。それについては感謝していた。けれど、これとそれとは別だ……別でありたい。
(どうすりゃいいんだ…)
答えはまだ出ず、シンタローは、ぼんやりと庭を見つめるしかなかった。
シンタローが住まわせてもらっているのは、飛香舎であった。帝の寝所である清涼殿に、もっとも近い場所だ。自分がそんなところにいても良いわけではないのだが、それでも長年そこにいた。
藤壺とも呼ばれるそこは、文字通り藤が植えられている。けれど、まだ垂れ下がる房は見えず、蕾は小さい。春も終わりにならなければ、その見事な紫紺の花は見られないのである。
それよりも先に春を告げているのは、藤の花の邪魔にならないように、西の端に植えられている桜の木だった。
そこにはすでに濃紅色の蕾がいくつも見つけることができる。ほころぶのは、今日か明日かという具合である。
それを眺めていれば、幾分か気持ちが和らいでくる。
シンタローは、ここに植えられた桜が好きだった。内裏には、紫宸殿の前に右近の橘、左近の桜と呼ばれる場所があり、左近の桜には当然桜の木が植えられている。それは威容の姿で、誰もが魅了される、圧巻ものである。樹齢もかなりのものだと聞いていた。大してここに植えられている桜は、樹齢は四十年ほどである。まだ幹もシンタローの腰周りよりも一回りほど細いぐらいだった。
それでも毎年、その枝々の先までしっかりと花をつけてくれるそれは、小さな頃からこの場所にいるシンタローにも見慣れたもので、どの桜の花よりも開花を待ち望んでいるものだった。
何とはなしにそれを見ていたら、正面から春風が吹き込んでくる。極自然にその匂いをかぐようにして鼻を鳴らしたシンタローは、けれど即座に息を止め、その鼻の頭に皺を寄せた。
「んッ!」
先ほどならば甘い花の匂いがしていたその風が、強烈な別の匂いに変わっている。シンタローは、即座に視線をめぐらし、折角の春風を台無しにしてくれた相手を睨みつけようとした。が、その元凶を目に写したとたん、鋭く細めたそれは大きく見開かれた。
「あ………」
思わず声にならない声が漏れた。
それが耳に入ったように、そこにいた人物が振り返る。
「よお!」
声が聞こえる。
シンタローは、何か言いたくて声を開いたが、結局閉じてしまった。
(ハーレム?)
いつの間にいたのだろうか。こんなところに、彼がいることが信じられなかった。
(夢……とかじゃねぇよな?)
だが、それは現実だった。そこにいたのは幻でなければ、数年前に別れた友―――ハーレムに間違いなかった。
記憶の中よりも、年を重ねたぶん、顔つきが変わっている。それでも、彼のまとう雰囲気は、まったく変わりなかった。
「なんだ、どうした?」
ニカニカと笑う、意地悪げな笑みは、そのままだ。こちらがひどく驚いているのが楽しいのだろう。久しぶりにあったというのに、あちらは余裕の様子であった。
こちらの動揺を楽しむ笑顔。それでも、シンタローはまだにわかには信じ難い思いだった。
「ハーレム?」
「ハーレムだぜ? 大体、こんなイイ男は、俺しかいねぇだろうが」
自信ありげにそう言う相手に、シンタローは一瞬鼻白め、呆れた表情を見せたが、すぐにそれを拭い去り、笑みを零した。
「そうだよな。そんな馬鹿なことをほざくのは、あんた以外いねぇよ」
記憶にあるあの頃のままである。
「ちっとも変わってねぇな、あんたは」
「お前は大きくなったな――シンタロー」
ぽんと頭の上に手が置かれて、わしゃわしゃと髪をかき混ぜられた。丹念に櫛梳いていた髪が台無しである。
そう思いながらも、離れていた年月を改めて実感させられずにはいられなかった。あの頃は、ハーレムの大きな手の中に、すっぽりと頭が入っていたのに、今では、その大きな手が少ししかはみ出さないほどになっていたのだ。
「しかも、まあ、綺麗になっちまいやがって」
「あッ!」
そうだった…。
その言葉と同時に、じろじろと舐めるような視線を全身へ走らされ、シンタローは、ようやく自分の姿が、通常とは違う、おかしな格好をしていることを思い出した。
うっかり女物の装束を身にまとっていたのを、忘れていたのである。着慣れたせいで、すっかり感覚が鈍っていたのだ。とはいえ、今更この格好をナシには出来ない。
開き直るつもりでハーレムを見上げたものの、それでも羞恥を帯びた紅色の頬は隠せぬまま、シンタローは言い放った。
「…驚かないのかよ、この格好」
「あ~~。お前の父親に散々自慢されたからな。『うちのシンちゃんってばすっかり美人なお姫様になってね。だからお前にも見せられないよ』ってな」
「――しっかり、見てんじゃねぇかよ」
久しぶりの友人と会えるとわかっていたら、こんな阿呆な格好なんてしなかった。さっさと男者の装束に着替えていた。しかし、もう手遅れだ。しっかりと堪能されてしまった。
「見せてくれねぇなら、勝手に見に行くしかねぇだろう? 結構似合ってるぜ、それ」
悪びれなくそう告げる相手に、シンタローは、苦笑のような笑いをもらした。他の者に、そんなことを言われれば、烈火のごとく怒っただろうが、ハーレムだとそういう気が起きないのはなぜだろうか。
「そりゃどうも。お礼に、親父には黙ってやるよ」
確かにハーレム相手に、何かを禁じるのは難しい。そうしたいと思えば、禁忌であろうと、あっさりとそれを乗り越えていくのだ。
(ほんと、変わってねぇな、このおっさんは)
だから小さな頃は、よくそう言う場所にもハーレムと一緒にもぐりこんだ。帝以外立ち入ることを禁じられた場所や女性専用の場所まで、興味が向けば、どこにでも顔を出したのである。もちろん見つければ、叱責を受けたけれど、一緒に探検というのが楽しくて、今では、叱責も含めていい思い出だ。
ぐびり、と鳴る音が聞こえてきた。ハーレムの方からだ。瓢箪の上の部分を口につけて、何かを飲んでいる。何か、といってもひとつしかないだろう。そこから漂ってくるのは、間違いなく酒の匂いだけなのだ。
「相変わらず、アル中だな。おっさんは」
数年たってもそれは変わっていない。大体、近寄ってくれば明らかにハーレム自身から酒の匂いがしてくるのだ。常に飲んでいるに間違いなかった。
「ああ? 美味い奴を欲して、何が悪ぃんだよ」
そう言って美味しそうに飲むのだから、シンタローの視線もついそちらへ向かう。それに気づいて、ぐいっと瓢箪を差し出された。蓋のされていない瓢箪の口からは、甘い酒気が漂っている。
「飲むか?」
「……………」
どうしようかと躊躇った。けれど、結局シンタローはそれを受け取った。ハーレムの顔が嬉しそうにほころぶ。
「ちったぁ酒が飲めるようになったか? ガキ」
自分の酒を受け取ってくれたのが原因のようである。
そう言えば、別れた頃までは酒など口にしたことはなかった。まだ、大人だと認めてもらえない年である。それは当然だった。
けれど数年の時が、立場を変えてしまった。
今では、シンタローとて酒を嗜むようになった。強い方だから、結構酒量も多い。もっとも目の前の相手には、到底敵わないほどである。
シンタローは、くん、と瓢箪の口に鼻を寄せ、ひと嗅ぎした。かすかに眉間に皺が寄る。それだけでも下戸ならば辛いほどの酒の香りだ。しかしシンタローは、勢いをつけ、ぐいっとそれを一口、口に含んだ。
「あ…れ?」
一気に喉を通っていったそれは、思ったほどキツイものではなかった。それどころか、甘い口当たりである。
「美味いだろ? ちょっとばかし甘すぎるが、花見には丁度いい甘さだ」
「花見?」
「山中の桜は、まだ固い蕾が多いが、こっちはもう大分ほころんで来ているな」
目を細めるようにして、先ほどまでシンタローが眺めていた桜に目を移す。
そう言えば、ハーレムはこの桜を気に入っていた。自分が生まれた時に祝いとして移植されてきたのだという。自分とともに育ったその桜をハーレムは、友と呼び、毎年花の咲く時期になれば、ここに入りびたり、愛でていた。
七年前、別れを告げた時も、この場所だった。桜は盛りを過ぎていて、雨のように散り落ちていた。
「――そう言えば、あんたは、どうして今頃戻って来たんだよ」
ハーレムが何をしに、都から離れたのかは分からない。理由までは告げてもらえなかったし、マジックに尋ねても曖昧な答えしかもらえなかった。
外の世界に興味があるから旅をしてくる。
告げられたのは、たったそれだけなのである。
都にいればなんでも手に入るが、それは箱庭の世界のようなものでしかない。まだまだ外には広い世界があって、自分の足でどこまで行けるか試してみたい。ずっと前から、そう思っていたのが、叶いそうだから行って来る。そう言ったのだ。
そうして言葉通り、数人の供とともに、都を出たのである。
当てのない旅だから、いつ戻るか分からないと言っていた。それが、戻ってきてくれたのは嬉しいけれど、それならば旅は終わったということなのだろうか。
そう尋ねれば、否定するように、首は横へと振られた。
「いや。まだ、俺はこっちには戻る気はねぇよ。つーか、戻りたくもねぇな。ここは息苦しい」
「………そっか」
確かに、ハーレムのような人間には、宮中生活など狭苦しく窮屈に感じるものであろう。ここに居た時も、いつも仕事をサボってふらふらと好き勝手していたように思える。だから、一緒に遊んでもらえたのだ。
「じゃあ、なんでここに来たんだよ?」
「面倒臭ぇが、兄貴から呼ばれたんだよ。『近々めでたいことがあるから、お前も出席しろ』ってな。何があるかは教えてくれなかったが、兄貴の命令じゃあ仕方ねぇから、戻ってきた」
その言葉に、一気にシンタローは蒼ざめた。
その『めでたいこと』がなんであるかは、すぐに分かったからだ。それはたぶん、自分とマジックの祝言のことだ。
幸いなことに、ハーレムは、まだそれに気付いてはいなかった。
「ハーレムは……こっちで寝ているのか?」
それは止めて欲しかった。まだ、何があるか気づいていないハーレムに、当日まで――そんなことはあって欲しくはないのだが――知らないでほしかった。
無駄な願いだと思いつつ、自分が女として、しかも父親の元に嫁ぐなど、この友人には知られたくない。そう思ったのだ。
しかし、ここで寝泊りすれば、気づかれるのも時間の問題だった。準備もすでに始まっているし、何よりも口さがない女達の言葉が耳に入らないはずがないのだ。
しかし、それの答えは、シンタローを安堵させるものだった。
「いや。ねぐらは、ここには移してねぇよ。郊外に小せぇ屋敷があるから、そこにいる。こんな煩ぇとこに、いたくもねぇからな」
そう言うと、シンタローから取り上げた酒を、再び喉の奥に流し込んだ。存在自体騒々しい人で荒事大好きなものだから、誤解するものも多いが、普段は物静かな場所を好む。
他人からあれやこれやと言われるのが嫌いだからだ。気に入った人間が傍にいて、暴れたい時に暴れればそれでいいだけで、そうでなければ、酒を飲んでいればご機嫌なのだ。
「おっと、そろそろ戻らねぇとな。やっかいな相手に捕まりたくもねぇし」
夜こそ貴族の活動時間だ。ハーレムがいれば、誰か彼かが、彼を宴会に誘うだろう。酒好きな彼にとっては嫌がるものではないのだが、貴族達の宴は堅苦しくて、大嫌いなのである。
「じゃあ、もうここには…」
来ないだろう。
ここにいれば、煩い人間など山ほどいる。今日は、兄のマジックに呼ばれたから来ただけで、ここへ来るのはおそらく、『めでたい日』であろう。
無意識に、しょんぼりとした表情をしてしまったシンタローに、
ポンと頭に手が乗せられた。それは、ハーレムの手だった。
「また、花見に来るわ」
そう告げられる。
「けど……」
ここは、ハーレムとって好ましい場所ではないはずである。
「表から入らなけりゃいいだけだろ? 大体、この桜は俺の友だからな。来てやらねぇと寂しがる」
桜のため。
「…そっか」
それでもよかった。まだ、ハーレムとは、何も話していないのだ。七年という空白を埋めることもしていない。昔のように、馬鹿みたいに笑い転げるような話もしたかった。
「んじゃ、また来いよ。酒の用意ぐらいしてやるぜ?」
「おっ、ちったぁ気が利きだしたな」
頭に乗せられたままの手が、くしゃくしゃとかき乱される。せっかく手櫛でなんとか見られるように整えたのが台無しだ。それでも、シンタローは肩すくめるようにして笑った。
「そんじゃ、またな」
片手を振り上げ、去っていく。
「ああ。またな」
その背中を数年ぶりに、笑って送り出すことが出来た。
ひゅっ。
氷の刃物を押し当てられたような冷気が背後から、髪をかき上げ、首筋を通っていった。
「っ! さびぃ~」
身体を震わせ、コートの襟を手で握りしめるようにして締め付けると、シンタローは、背後を振り返ってぼやいた。
しんと冬の冷たい空気が辺りに沈殿している。それゆえに少しの風でも、身を切られるぐらいの鋭い冷気を感じてしまう。空を見上げれば、星一つ見せぬ漆黒が重たげに澱んでいた。誰かが、今晩は雪だと言っていたが、その予報は、はずれていないかもしれない。
首筋が寒かった。コートの襟を立てても、僅かな温もりを得られるだけで、風が吹けば、それすらも奪い去られてしまう。
(マフラーが欲しいな)
その寒さに触れた時から、それは思っていたのだけれど、自分の首にはそれが存在していなかった。もちろん、最初はマフラーをして行くつもりだったのだ。だが、出かけに差し出されたそれを、自分が、拒絶してしまったのである。
寒くないからと、突っぱねたわけではない。そんな理由ではなく―――――。
「あいつが、まともなマフラーをくれれば……」
いまさら言っても無駄なのだが、思い返すたびに苛立ちと怒りはこみ上げてくる。
それは、つい半時ばかりの出来ごとだった。
『出かけるなら、このマフラーをしていってね♪』と言って、玄関で差し出されたのは、真っ白なマフラー。初お目見えのそれは、手編みであることは間違いないのだが、差し出された人物の腕が、かなり達者なために、売り物だといわれても納得できる出来栄えである。ならば、それを首に巻いたところでさしたる問題はないように思えた。ただ―――――その白いマフラーに丁寧に入れられていた文字がいかんともし難いものだった。
真っ赤な毛糸によってデカデカと綴られた言葉は『マジック命』。
どこの誰が、そんなマフラーをして出かけられるだろうが。もちろん、首にぐるぐると巻けば見えないようにすることもできるが、うっかり落として、見知らぬ誰かにそれを見られた日には、真冬のドーバー海峡の中を泳いでも足りにないほどの、居たたまれない熱にうなされるだろう。
そんなことは真っ平ごめんである。
結果、そのマフラーをその場で、地に叩き付け、真冬の外出にもかかわらず、マフラーなしで出かけるはめになったのだった。
もっとも、その寒さももうすぐの辛抱だ。
「さてと、何買おうかな」
もう少し歩けば、目当てのデパートにたどり着ける。久しぶりの外出で、少し気分が浮き立っているのか、口元には笑みが作られている。
道行く人達の足は、通りを吹き荒ぶ北風のせいか皆一様に忙しなく、店や街路樹に飾られたイルミネーションの光の中を進んでいた。シンタローも、どちらかと言えば足早に、肩を丸めるようにして歩いている。それでも、通りに面した店から覗けるディスプレーには、目が惹かれていた。
華やかに彩られ飾り立てられた品々と、店の奥から流れる明るい曲は、今の時期特有のもので、目や耳に触れるたびに、小さな子供の頃に戻ったように心をはずませる。
「もう明日がクリスマス・イブだもんな」
今日は、十二月二十三日。クリスマス前夜のさらに前夜である。店が両脇に並ぶこの通りでは、すでにクリスマス一色に染め上がっていた。
「グンマとキンタロー。それから………まだ、寝てるけど、コタローにあげる物は目星をつけているんだけどなぁ」
兄弟や従兄弟に買う予定の品を頭の中でリフレインさせ、シンタローは、よしっ、と小さく頷いた。
ガンマ団総帥がここにいる理由。それは、家族や従兄弟にあげるクリスマスプレゼントを買うためであった。
おかしなことだと思うだろうが、庶民的なシンタローには、それが普通のことだった。クリスマス前、家族のプレゼントを調達するため、一人で出かけ、買いに行くのは、すでに毎年の恒例となっているのである。
もっともガンマ団総帥になってからは、さすがに部下達に止められた。一人で街中に出歩くには、危険だと言うのだ。
確かにそうだろう。
だが、そんなことで、あっさりといつもの習慣をやめるほど聞き分けのいい人間ではない。説得というよりは、単なる我侭を押し通し、シンタローは、こうしていつもどおり一人で出かけてきていた。
それが前日ギリギリになったのは、年末の忙しさのあまり、この日の夜しか、空かなかったせいである。明日になれば、クリスマス・イブ。今年も、お祭り騒ぎ大好き、イベント大好き親父の呼び出しをくらい、一族総出でクリスマスパーティが行われるだろう。その後に、めいめいプレゼント交換がいつもの流れだった。
兄弟や従兄弟のプレゼントはいい。
グンマの奴は、実用性皆無でも、ちょっと変わった―――どこがかは自分には理解できないが―――魅力がいっぱいなキャラクターのくっだらないオモチャをあげれば喜んでくれるだろう。
反対にキンタローは、実用性一点にかかっている。しかも自分の気に入っているメーカーでなければ使わないという融通の聞かない頑固者だが、プレゼントはしやすい。いつもキンタローの傍にいれば、自ずと今年のプレゼントは決まってくる。
コタローには――クリスマス・イブが誕生日だということもあるから、毎年恒例の手作りケーキと、そしていつ起きても大丈夫なように身体にぴったりと合った服をあげている。半分以上、自分の望みが混じってしまっているが、それを着て一緒に出歩けるように願いを込めて服を贈る。
こんな風に、あげるプレゼントは決まっているのに、一人だけ、頭を悩ませる存在がいた。
「あいつのはどうすっかなあ」
毎年のことだけれど、いつも考え込んでしまう。
北風にさらわれた黒髪を押さえるように、後頭部に手をあて、ガリガリとかきむしり、悩む頭を刺激する。自然顔は、しかめっ面に変わっていた。
脳裏にちらつくのは、いつも余裕綽々の笑みを浮かべる元ガンマ団総帥の男であり、シンタローの父親であるマジックの姿。
「親父の奴、気に入らないもんをあげると使わねぇからな」
自分がくれたものだからと、その場では、物凄く喜んでくれるのだが、それがマジックの趣味にあわないものだったりすると、使わずにただ飾っておくだけなのである。
幼い頃は、それに気づかなかったが、ある日そのことに気づいてしまった時のショックはかなり大きかった。
それ以後、シンタローはそんな屈辱を受けないためにも、不本意ながら、マジックに贈る品だけは、かなり吟味するようになったのである。
贈ったからには、使ってもらいたいのは当然の心理だろう。
だが、難しいことに、ただ使えるものを贈ればいいというわけでもなかった。
「マジックが使うもので、こっちの被害にならないものっと……」
それが最重要である。
以前高性能なデジタルカメラを贈った時には、その機能を駆使され、信じられない場所での写真撮影がされていた。知った時には、その場で眼魔砲を放ち、ぶち壊してやったが、風の噂では、さらにその後にでた、それ以上の機能をもつ新機種を自腹で買ったらしい。しかし、また壊されることを用心しているのか、それはまだ見たことなかった。
とにかく、善意で贈ったものでこちらに被害があってはたまったもんではないのである。
そうなると、なかなか品物を決めかねる。
認めたくないが、ガンマ団総帥を退いたあの父親は、今ではすっかり愛息のシンタロー中心に回っているのである。もちろん、以前もそうだったが、あの頃は、自分の他に世界征服という野望もあったために、こちらに目が向けられないこともあった。だが、今は違う。
大人しく隠居爺になっておけばいいのに、下手をすれば四六時中付きまとわれる。
『趣味は?』と問えば、『手芸』。しかも、その趣味で作られるのは、シンちゃん人形と呼ばれる、愛息シンタローそっくりの人形である。もちろんそれ以外にも色々作っているようだが、実態がどうなっているのか、確認したくはない。噂では、かなりの力作が多々あるようだが、自分を模って作られた品など見たくなかった。下手につつけば、手痛いしっぺ返しも食らうし、こういうのは、無視を貫くのが一番である。
とにもかくにも、彼のプレゼントは未定のままだ。
「まあいいや。中に入れば、いいやつも見つかるだろう」
悩むのは、暖房のきいた暖かな場所がいい。こんな寒いところで考えても脳に血が巡りにくく、いい考えも浮ばない。
風になびくコートをさばき、足を進めたシンタローだが、不意にその足を止めた。
「んっ?」
通り過ぎようとしたビルとビルに少しばかり隙間がある。大人一人が入れるぐらいの幅しかないその奥に、周りの暗闇よりもさらに真っ黒な塊が見えた。シンタローは、それに視線を凝らした。四角いシルエットは、ダンボール箱のようだが、口が開かれたそこから、何かが動いているのが見えたのだ。
「猫…か?」
鳴き声は聞こえてこないが、もしかしたら心無い者が捨てた子猫かもしれない。そう思うと、そのまま見なかったふりも出来ずに、シンタローはそれに近寄った。
(捨て猫なら拾って帰ってやろう。そうしたら団員の中で飼ってくれる奴がいるだろうし)
意外に思うかもしれないが、団内では、猫など愛玩動物を飼うものは多い。殺伐とした職場に身を置いているためか、心のよりどころにしている者も数多くいるのだ。
癒しを求めるその行為をシンタローは、否定していない。
だから、ダンボールの中のものが動物だった場合は、拾って持ち帰っても差し障りは無かった。飼い主募集の張り紙をすれば、すぐに見つかるだろう。それに、持ち帰ったのが総帥となれば、無下に扱う者は、名乗りでないはずだった。
「何がいるんだ?」
そう言いつつも猫だと信じきっていたシンタローは、その中を見たとたん、しばし硬直した。
自分の目が信じられず、まじまじとその中を凝視する。
「…………嘘だろ?」
思わず自分自身で問いかけてみるが、誰もそれを否定してくれるものはいないし、肯定してくれるものもいない。
自分で結論を出さなければいけないのだが、結論も何も、その目に映っているのは、紛れのない事実であった。
どこぞの宅急便の会社名が入ったダンボール箱の中、真っ白な毛布に包まれて、そこにいるのは確かに動物で、しかし猫や犬などいうペットになりえるものではなかった。
そこにいたのは―――――。
「なんで、こんなところに赤ん坊が寝てるんだよっ!」
柔らかなホッペに、小さな手。どうみても、人間の形をしたその小さな生き物は、寒風吹き込むビルの谷間の中、スヤスヤと安らかな寝顔を見せていた。
「信じらんねぇ…誰だよ、こんなところに赤ん坊を捨てやがったのは!」
ベビーカーや揺り篭ならともかく―――それでも、こんなところで一人置き去りにされていれば変だが―――段ボール箱に入れられている赤ん坊というのは、どう見ても誰かが故意に捨てたものであろうことを容易に予想がつく。
(冗談じゃねぇ! 誰が、んなところに、赤ん坊を捨ててんだよ)
憤慨しつつ、シンタローは、辺りを見回してみる。だが、それは無駄なことだった。もちろん近辺に人影などなく、それらしい人物を見つけることはできなかった。
この赤ん坊に関することで何か手がかりになりそうなものはないかと、中を覗き込んで見てみるが、夜で視界が悪い上に、ここには常に風が吹いてきている。ぱっと見では、何も見つからなかった。
もしも、手紙が置かれていたとしても、赤ん坊の身体の下などに置かれてなければ、吹き飛ばされていてもおかしくない。
「どうするかなぁ」
顔をくしゃりと曲げて、シンタローは、その前にしゃがみこんだ。赤ん坊は、以前としてぐっすりと眠っている。気温はたぶん零度以下だというのに、たいしたものである。
けれど、そのままにしておくことも出来なかった。
「泣くなよ~?」
そう断りを入れて、シンタローは、そっとその中に手を差し込むと、その赤ん坊を抱き上げた。
「うわぁ」
柔らかな弾力に、冷え切った指先に伝わる温もり、腕にかかる確かな重み。
夢や幻ではなく、現実の感覚だ。
(赤ん坊を抱くなんて久しぶりだな…)
恐る恐るというのがぴったりな感じで、それを自分の胸に寄せた。
懐かしい感覚だった。弟のコタローが生まれた時には、自分が亡くなった母親の代わりに常に抱いてあげていたが、それもかなりの昔のことになってしまった。
それでも、自分の手はまだ、赤ん坊の抱き方というのを覚えてくれていたようで、たいして危なげなく、それは腕の中に納まってくれた。
パチッ。
同時に、赤ん坊の瞳が開く。
「あっ…」
そこにあったのは、髪と同じ漆黒色の瞳だった。
赤ん坊のくせに釣りあがり気味の瞳が、真っ向からシンタローを見上げた。後頭部に置かれた髪は、どちらかというと固めで突っ立っている。
なんとなく、どこかの誰かを彷彿させてくれるような赤ん坊だった。
そう思うと、こんな状況でマイペースに睡眠をとっていた、ふてぶてしいとも言える姿に納得してしまう。
今も、見知らぬ自分が抱いているというのに、泣きもせずに大きな瞳でじっとこちらを見ていた。
(パプワの赤ん坊の頃もこんなんだったのかな)
昔、彼の育て親のカムイに聞いた時は、パプワ島についたとたんその赤ん坊は、アナコンダで縄跳びした、と言っていたが、まさかこの子は、そんなことはしないだろう。
「あーあー」
初めて赤ん坊がしゃべった。それと同時に、小さな手が自分に向かって伸びてくる。どうやらあの寒さの中でも十分元気を残していたようである。
ばたばたと手が動き、シンタローの髪に手が触れると、行き成りそれを引っ張った。
「あてっ」
たいした痛みはなかったのだが、思わずそう呟くと、赤ん坊は一瞬ビックリしたような顔になり、それから、また二、三度引っ張ってくれた。
「ちょ、ちょっとまて。痛いって。なんだよ、てめぇは」
赤ん坊にしては愛想のない顔で、しきりに髪を引っ張る赤ん坊に、その手から髪を取り戻そうとすれば、偶然だろうが、空いていたもう一方の手が、シンタローの顎にヒットした。
「っ! ……てめぇは、マジにパプワか?」
そう疑いたくなるようなタイミングである。赤ん坊の手から、髪を奪い返す隙を失ったシンタローは、それから得心がいったように頷いた。
「ああ、わかった。お前、メシが欲しいんだろ? パプワの奴もメシ時になると凶暴性がアップしてたもんな」
それに目が覚めた後は、必ずメシだ。
そうだと言わんばかりに、赤ん坊は、「あー」と声を出して主張した。
とはいえ、男の自分に当然赤ん坊のメシになる乳など出るはずもない。ミルクを作ってあげるのが、妥当なところだが、ここにそんな設備も道具もなかった。
(どうすっかなあ)
さすがに人間の赤ん坊が捨てられているとは思ってもみなかったものだから、自分も少し動転しているのか、考えがまとまらない。
「いてっ」
考え込んでいれば、再び握られたままの髪が引っ張られる。やはり催促しているとしか思えない行動である。
「はーいはいはい、ちょっとまってなさいって」
しょうがねぇな。
腹をくくるしかなかった。シンタローは、赤ん坊を抱き上げると立ち上がる。ここにいつまでもいても仕方ないからだ。
片手に、赤ん坊が寝ていたダンボールを持ち、そのままネオンに照らされている大通りに近づいた。けれど、まだ通りには出ない。その前にやることがあった。さきほどいたビルの奥よりも、光が差し込む場所まで来ると、シンタローは、段ボール箱の中を探り始めた。
何か、赤ん坊の身元がわかるものはないかと調べるためだ。けれど、それらしき物は、残念ながら見当たらなかった。
中に入っているのは、真っ白な毛布と隅に転がっていたおしゃぶりだけだった。とりあえず、メシを催促するその子をゴマかすために、それを口に押し付け、シンタローは、入っていた毛布で赤ん坊の体にしっかりとくるんだ。
一応冬物の白いベビー服を着ていたが、もちろんそれだけではこの寒さは防げない。しっかりと防寒完備すると、
「よしっ。んじゃ、とりあえずまずは交番だな」
もう少辛抱してくれな。
赤ん坊の体を軽く揺すり、とんとんと背中を優しく叩くと、シンタローは、立ち上がった。
早く腹を満たしてやりたいが、そのまま団につれて帰るわけにはいかないだろ。こういう時は、早めの報告をした方が、親が見つかり易いはずだ。
シンタローは、赤ん坊を抱き、まだ必要になるかもしれないと、ダンボールをもって最寄りの交番に向かった。
氷の刃物を押し当てられたような冷気が背後から、髪をかき上げ、首筋を通っていった。
「っ! さびぃ~」
身体を震わせ、コートの襟を手で握りしめるようにして締め付けると、シンタローは、背後を振り返ってぼやいた。
しんと冬の冷たい空気が辺りに沈殿している。それゆえに少しの風でも、身を切られるぐらいの鋭い冷気を感じてしまう。空を見上げれば、星一つ見せぬ漆黒が重たげに澱んでいた。誰かが、今晩は雪だと言っていたが、その予報は、はずれていないかもしれない。
首筋が寒かった。コートの襟を立てても、僅かな温もりを得られるだけで、風が吹けば、それすらも奪い去られてしまう。
(マフラーが欲しいな)
その寒さに触れた時から、それは思っていたのだけれど、自分の首にはそれが存在していなかった。もちろん、最初はマフラーをして行くつもりだったのだ。だが、出かけに差し出されたそれを、自分が、拒絶してしまったのである。
寒くないからと、突っぱねたわけではない。そんな理由ではなく―――――。
「あいつが、まともなマフラーをくれれば……」
いまさら言っても無駄なのだが、思い返すたびに苛立ちと怒りはこみ上げてくる。
それは、つい半時ばかりの出来ごとだった。
『出かけるなら、このマフラーをしていってね♪』と言って、玄関で差し出されたのは、真っ白なマフラー。初お目見えのそれは、手編みであることは間違いないのだが、差し出された人物の腕が、かなり達者なために、売り物だといわれても納得できる出来栄えである。ならば、それを首に巻いたところでさしたる問題はないように思えた。ただ―――――その白いマフラーに丁寧に入れられていた文字がいかんともし難いものだった。
真っ赤な毛糸によってデカデカと綴られた言葉は『マジック命』。
どこの誰が、そんなマフラーをして出かけられるだろうが。もちろん、首にぐるぐると巻けば見えないようにすることもできるが、うっかり落として、見知らぬ誰かにそれを見られた日には、真冬のドーバー海峡の中を泳いでも足りにないほどの、居たたまれない熱にうなされるだろう。
そんなことは真っ平ごめんである。
結果、そのマフラーをその場で、地に叩き付け、真冬の外出にもかかわらず、マフラーなしで出かけるはめになったのだった。
もっとも、その寒さももうすぐの辛抱だ。
「さてと、何買おうかな」
もう少し歩けば、目当てのデパートにたどり着ける。久しぶりの外出で、少し気分が浮き立っているのか、口元には笑みが作られている。
道行く人達の足は、通りを吹き荒ぶ北風のせいか皆一様に忙しなく、店や街路樹に飾られたイルミネーションの光の中を進んでいた。シンタローも、どちらかと言えば足早に、肩を丸めるようにして歩いている。それでも、通りに面した店から覗けるディスプレーには、目が惹かれていた。
華やかに彩られ飾り立てられた品々と、店の奥から流れる明るい曲は、今の時期特有のもので、目や耳に触れるたびに、小さな子供の頃に戻ったように心をはずませる。
「もう明日がクリスマス・イブだもんな」
今日は、十二月二十三日。クリスマス前夜のさらに前夜である。店が両脇に並ぶこの通りでは、すでにクリスマス一色に染め上がっていた。
「グンマとキンタロー。それから………まだ、寝てるけど、コタローにあげる物は目星をつけているんだけどなぁ」
兄弟や従兄弟に買う予定の品を頭の中でリフレインさせ、シンタローは、よしっ、と小さく頷いた。
ガンマ団総帥がここにいる理由。それは、家族や従兄弟にあげるクリスマスプレゼントを買うためであった。
おかしなことだと思うだろうが、庶民的なシンタローには、それが普通のことだった。クリスマス前、家族のプレゼントを調達するため、一人で出かけ、買いに行くのは、すでに毎年の恒例となっているのである。
もっともガンマ団総帥になってからは、さすがに部下達に止められた。一人で街中に出歩くには、危険だと言うのだ。
確かにそうだろう。
だが、そんなことで、あっさりといつもの習慣をやめるほど聞き分けのいい人間ではない。説得というよりは、単なる我侭を押し通し、シンタローは、こうしていつもどおり一人で出かけてきていた。
それが前日ギリギリになったのは、年末の忙しさのあまり、この日の夜しか、空かなかったせいである。明日になれば、クリスマス・イブ。今年も、お祭り騒ぎ大好き、イベント大好き親父の呼び出しをくらい、一族総出でクリスマスパーティが行われるだろう。その後に、めいめいプレゼント交換がいつもの流れだった。
兄弟や従兄弟のプレゼントはいい。
グンマの奴は、実用性皆無でも、ちょっと変わった―――どこがかは自分には理解できないが―――魅力がいっぱいなキャラクターのくっだらないオモチャをあげれば喜んでくれるだろう。
反対にキンタローは、実用性一点にかかっている。しかも自分の気に入っているメーカーでなければ使わないという融通の聞かない頑固者だが、プレゼントはしやすい。いつもキンタローの傍にいれば、自ずと今年のプレゼントは決まってくる。
コタローには――クリスマス・イブが誕生日だということもあるから、毎年恒例の手作りケーキと、そしていつ起きても大丈夫なように身体にぴったりと合った服をあげている。半分以上、自分の望みが混じってしまっているが、それを着て一緒に出歩けるように願いを込めて服を贈る。
こんな風に、あげるプレゼントは決まっているのに、一人だけ、頭を悩ませる存在がいた。
「あいつのはどうすっかなあ」
毎年のことだけれど、いつも考え込んでしまう。
北風にさらわれた黒髪を押さえるように、後頭部に手をあて、ガリガリとかきむしり、悩む頭を刺激する。自然顔は、しかめっ面に変わっていた。
脳裏にちらつくのは、いつも余裕綽々の笑みを浮かべる元ガンマ団総帥の男であり、シンタローの父親であるマジックの姿。
「親父の奴、気に入らないもんをあげると使わねぇからな」
自分がくれたものだからと、その場では、物凄く喜んでくれるのだが、それがマジックの趣味にあわないものだったりすると、使わずにただ飾っておくだけなのである。
幼い頃は、それに気づかなかったが、ある日そのことに気づいてしまった時のショックはかなり大きかった。
それ以後、シンタローはそんな屈辱を受けないためにも、不本意ながら、マジックに贈る品だけは、かなり吟味するようになったのである。
贈ったからには、使ってもらいたいのは当然の心理だろう。
だが、難しいことに、ただ使えるものを贈ればいいというわけでもなかった。
「マジックが使うもので、こっちの被害にならないものっと……」
それが最重要である。
以前高性能なデジタルカメラを贈った時には、その機能を駆使され、信じられない場所での写真撮影がされていた。知った時には、その場で眼魔砲を放ち、ぶち壊してやったが、風の噂では、さらにその後にでた、それ以上の機能をもつ新機種を自腹で買ったらしい。しかし、また壊されることを用心しているのか、それはまだ見たことなかった。
とにかく、善意で贈ったものでこちらに被害があってはたまったもんではないのである。
そうなると、なかなか品物を決めかねる。
認めたくないが、ガンマ団総帥を退いたあの父親は、今ではすっかり愛息のシンタロー中心に回っているのである。もちろん、以前もそうだったが、あの頃は、自分の他に世界征服という野望もあったために、こちらに目が向けられないこともあった。だが、今は違う。
大人しく隠居爺になっておけばいいのに、下手をすれば四六時中付きまとわれる。
『趣味は?』と問えば、『手芸』。しかも、その趣味で作られるのは、シンちゃん人形と呼ばれる、愛息シンタローそっくりの人形である。もちろんそれ以外にも色々作っているようだが、実態がどうなっているのか、確認したくはない。噂では、かなりの力作が多々あるようだが、自分を模って作られた品など見たくなかった。下手につつけば、手痛いしっぺ返しも食らうし、こういうのは、無視を貫くのが一番である。
とにもかくにも、彼のプレゼントは未定のままだ。
「まあいいや。中に入れば、いいやつも見つかるだろう」
悩むのは、暖房のきいた暖かな場所がいい。こんな寒いところで考えても脳に血が巡りにくく、いい考えも浮ばない。
風になびくコートをさばき、足を進めたシンタローだが、不意にその足を止めた。
「んっ?」
通り過ぎようとしたビルとビルに少しばかり隙間がある。大人一人が入れるぐらいの幅しかないその奥に、周りの暗闇よりもさらに真っ黒な塊が見えた。シンタローは、それに視線を凝らした。四角いシルエットは、ダンボール箱のようだが、口が開かれたそこから、何かが動いているのが見えたのだ。
「猫…か?」
鳴き声は聞こえてこないが、もしかしたら心無い者が捨てた子猫かもしれない。そう思うと、そのまま見なかったふりも出来ずに、シンタローはそれに近寄った。
(捨て猫なら拾って帰ってやろう。そうしたら団員の中で飼ってくれる奴がいるだろうし)
意外に思うかもしれないが、団内では、猫など愛玩動物を飼うものは多い。殺伐とした職場に身を置いているためか、心のよりどころにしている者も数多くいるのだ。
癒しを求めるその行為をシンタローは、否定していない。
だから、ダンボールの中のものが動物だった場合は、拾って持ち帰っても差し障りは無かった。飼い主募集の張り紙をすれば、すぐに見つかるだろう。それに、持ち帰ったのが総帥となれば、無下に扱う者は、名乗りでないはずだった。
「何がいるんだ?」
そう言いつつも猫だと信じきっていたシンタローは、その中を見たとたん、しばし硬直した。
自分の目が信じられず、まじまじとその中を凝視する。
「…………嘘だろ?」
思わず自分自身で問いかけてみるが、誰もそれを否定してくれるものはいないし、肯定してくれるものもいない。
自分で結論を出さなければいけないのだが、結論も何も、その目に映っているのは、紛れのない事実であった。
どこぞの宅急便の会社名が入ったダンボール箱の中、真っ白な毛布に包まれて、そこにいるのは確かに動物で、しかし猫や犬などいうペットになりえるものではなかった。
そこにいたのは―――――。
「なんで、こんなところに赤ん坊が寝てるんだよっ!」
柔らかなホッペに、小さな手。どうみても、人間の形をしたその小さな生き物は、寒風吹き込むビルの谷間の中、スヤスヤと安らかな寝顔を見せていた。
「信じらんねぇ…誰だよ、こんなところに赤ん坊を捨てやがったのは!」
ベビーカーや揺り篭ならともかく―――それでも、こんなところで一人置き去りにされていれば変だが―――段ボール箱に入れられている赤ん坊というのは、どう見ても誰かが故意に捨てたものであろうことを容易に予想がつく。
(冗談じゃねぇ! 誰が、んなところに、赤ん坊を捨ててんだよ)
憤慨しつつ、シンタローは、辺りを見回してみる。だが、それは無駄なことだった。もちろん近辺に人影などなく、それらしい人物を見つけることはできなかった。
この赤ん坊に関することで何か手がかりになりそうなものはないかと、中を覗き込んで見てみるが、夜で視界が悪い上に、ここには常に風が吹いてきている。ぱっと見では、何も見つからなかった。
もしも、手紙が置かれていたとしても、赤ん坊の身体の下などに置かれてなければ、吹き飛ばされていてもおかしくない。
「どうするかなぁ」
顔をくしゃりと曲げて、シンタローは、その前にしゃがみこんだ。赤ん坊は、以前としてぐっすりと眠っている。気温はたぶん零度以下だというのに、たいしたものである。
けれど、そのままにしておくことも出来なかった。
「泣くなよ~?」
そう断りを入れて、シンタローは、そっとその中に手を差し込むと、その赤ん坊を抱き上げた。
「うわぁ」
柔らかな弾力に、冷え切った指先に伝わる温もり、腕にかかる確かな重み。
夢や幻ではなく、現実の感覚だ。
(赤ん坊を抱くなんて久しぶりだな…)
恐る恐るというのがぴったりな感じで、それを自分の胸に寄せた。
懐かしい感覚だった。弟のコタローが生まれた時には、自分が亡くなった母親の代わりに常に抱いてあげていたが、それもかなりの昔のことになってしまった。
それでも、自分の手はまだ、赤ん坊の抱き方というのを覚えてくれていたようで、たいして危なげなく、それは腕の中に納まってくれた。
パチッ。
同時に、赤ん坊の瞳が開く。
「あっ…」
そこにあったのは、髪と同じ漆黒色の瞳だった。
赤ん坊のくせに釣りあがり気味の瞳が、真っ向からシンタローを見上げた。後頭部に置かれた髪は、どちらかというと固めで突っ立っている。
なんとなく、どこかの誰かを彷彿させてくれるような赤ん坊だった。
そう思うと、こんな状況でマイペースに睡眠をとっていた、ふてぶてしいとも言える姿に納得してしまう。
今も、見知らぬ自分が抱いているというのに、泣きもせずに大きな瞳でじっとこちらを見ていた。
(パプワの赤ん坊の頃もこんなんだったのかな)
昔、彼の育て親のカムイに聞いた時は、パプワ島についたとたんその赤ん坊は、アナコンダで縄跳びした、と言っていたが、まさかこの子は、そんなことはしないだろう。
「あーあー」
初めて赤ん坊がしゃべった。それと同時に、小さな手が自分に向かって伸びてくる。どうやらあの寒さの中でも十分元気を残していたようである。
ばたばたと手が動き、シンタローの髪に手が触れると、行き成りそれを引っ張った。
「あてっ」
たいした痛みはなかったのだが、思わずそう呟くと、赤ん坊は一瞬ビックリしたような顔になり、それから、また二、三度引っ張ってくれた。
「ちょ、ちょっとまて。痛いって。なんだよ、てめぇは」
赤ん坊にしては愛想のない顔で、しきりに髪を引っ張る赤ん坊に、その手から髪を取り戻そうとすれば、偶然だろうが、空いていたもう一方の手が、シンタローの顎にヒットした。
「っ! ……てめぇは、マジにパプワか?」
そう疑いたくなるようなタイミングである。赤ん坊の手から、髪を奪い返す隙を失ったシンタローは、それから得心がいったように頷いた。
「ああ、わかった。お前、メシが欲しいんだろ? パプワの奴もメシ時になると凶暴性がアップしてたもんな」
それに目が覚めた後は、必ずメシだ。
そうだと言わんばかりに、赤ん坊は、「あー」と声を出して主張した。
とはいえ、男の自分に当然赤ん坊のメシになる乳など出るはずもない。ミルクを作ってあげるのが、妥当なところだが、ここにそんな設備も道具もなかった。
(どうすっかなあ)
さすがに人間の赤ん坊が捨てられているとは思ってもみなかったものだから、自分も少し動転しているのか、考えがまとまらない。
「いてっ」
考え込んでいれば、再び握られたままの髪が引っ張られる。やはり催促しているとしか思えない行動である。
「はーいはいはい、ちょっとまってなさいって」
しょうがねぇな。
腹をくくるしかなかった。シンタローは、赤ん坊を抱き上げると立ち上がる。ここにいつまでもいても仕方ないからだ。
片手に、赤ん坊が寝ていたダンボールを持ち、そのままネオンに照らされている大通りに近づいた。けれど、まだ通りには出ない。その前にやることがあった。さきほどいたビルの奥よりも、光が差し込む場所まで来ると、シンタローは、段ボール箱の中を探り始めた。
何か、赤ん坊の身元がわかるものはないかと調べるためだ。けれど、それらしき物は、残念ながら見当たらなかった。
中に入っているのは、真っ白な毛布と隅に転がっていたおしゃぶりだけだった。とりあえず、メシを催促するその子をゴマかすために、それを口に押し付け、シンタローは、入っていた毛布で赤ん坊の体にしっかりとくるんだ。
一応冬物の白いベビー服を着ていたが、もちろんそれだけではこの寒さは防げない。しっかりと防寒完備すると、
「よしっ。んじゃ、とりあえずまずは交番だな」
もう少辛抱してくれな。
赤ん坊の体を軽く揺すり、とんとんと背中を優しく叩くと、シンタローは、立ち上がった。
早く腹を満たしてやりたいが、そのまま団につれて帰るわけにはいかないだろ。こういう時は、早めの報告をした方が、親が見つかり易いはずだ。
シンタローは、赤ん坊を抱き、まだ必要になるかもしれないと、ダンボールをもって最寄りの交番に向かった。
バサッ―――。
落下する身体を止めるために大きく広げられた翼が、肌を粟立たせるほどの冷たい風をいっぱいに受け止め、羽音を立てた。それに煽られたように後方に白い点が降る。それは、先ほどの衝撃のために抜け落ちた羽だった。雪のように舞い散る数枚のそれ。風にのって彼方へと消える羽の行方を見送るように、シンタローの視線は動いたが、けれどすぐに移動させ、天上の青を視界に移しこんだ。
煽いだ空に、一瞬何かを惜しむように目元を緩ませたが、それを厭うように即座に視線は落とされ、地上へと向けられた。
すでに羽の影響で、緩やかな降下となり、望む着地点ははっきりと見えていた。伸ばしたつま先が望みの場所へと触れると、広げた翼でバランスをとるようにして半分ほど折りたたみつつ、その場に足を止める。
そこは、街を一望できる教会のてっぺんであり、掲げられている十字の先端部分だった。
「ん~、いい風だな」
眼下に広がるのは寂しげな灰色と茶色の風景。すでに季節は秋を深め、ほどなく到来するだろう冬を匂わすように、突き刺さるような冷たい風が肌をかすめていった。
天界の柔らかで温かな風とはまったく違うそれが、新鮮で心地いい。地上に降りるたびにそれは思うことだった。
その風を受け、身体が揺らぐ。シンタローが立っている場所は、あまりにも不安定なところで、上手くバランスをとっていなければ、そのまま逆さまに落下してしまうほどの高所であった。
だが、不安に感じるころはない。その背中には、白い羽がある。万が一落ちたとしても、羽さえあれば、なんの問題もなかった。
それよりもシンタローが注意するべきは別のことである。風に巻き上げられ、顔に張り付いた髪を掻き上げ、視界を良好にすると、シンタローは、注意深く地上を眺めた。
地上は闇に飲み込まれる最中であった。地表を照らす太陽は、西の果てに沈みかけ、東の果てから忍び寄る宵闇が支配の手を伸ばす。黄昏時と呼ばれる時間帯。包み込む薄明かりは、視界を危うくさせ、遠くまで見通すのが難しい。
探し物をしているシンタローにとっては、思わず顔を顰めるような状況だった。
「時間もねぇし。ちゃちゃっとやっちまいたいところなんだが……」
さっさとことを終わらせなければ、失敗に終わる可能性が高い。それだけは、なんとしても避けたいところだった。そうでなければ、なんのためにここへ降りてきたのかわからない。
確かここら辺りにいるはずだと、シンタローはさらに視線を凝らすようにして街中に視線を走らせる。感覚的には、ここにいるとわかっていても、視覚となると分かり辛い。さらに今の時間帯は、細かな部分は霞むように見づらかった。特に探し物は、闇に紛れ易いものである。
いっそその辺りを飛んで調べてみるか、と羽に力を込めたその時、それが視界に入ってきた。
(いたッ!)
自分と同じ背に翼を持つ者。
けれど、明らかに違うその存在。
「見つけたぜ」
ニヤリと零れる笑みを顔に、シンタローは白い翼を広げ、飛び立った。
バサッ―――。
闇の迫る夕暮れ時。キンタローは、一日の終焉を彩るがごとく朱金に染まる西の空に背を向けるようにして、その背にある黒い翼を広げた。一足先に、そこだけ闇を切り取ったような漆黒の羽が、人影のない小さな通りいっぱいを塞ぐ。
「今日も収穫なし……か」
内容に反して残念そうな声音はなく、キンタローは、淡々とその事実を認める言葉を形にした。
キンタローが求めていたのは人の魂だった。ほとんどの魂は、天界に住む天使たちが、人の死後天上へと導き連れていってしまう。だが、中には取りこぼされてしまい、あてもなく浮遊する魂もいたし、また、罪を犯しすぎあまりに穢れた魂は天使には触れられないため、放置された魂もあった。そういう魂は、悪魔が拾っていくのだ。
天使にとっては、人の魂は、神の意思に従い、再び新たな肉体を得られるまでの保護として天界へと連れ帰るだけの接点でしかないのだが、悪魔にとってそれは、食物であり装飾品でありランプ代わりの明りでもあるという、色々活用法ができる存在だった。
故に、地上へ出て魂を求める悪魔は数多くいた。中には、長い間肉体から離れすぎ弱った魂や明かりなどひとつも取れないどす黒い魂を嫌い、願いを叶えるのを条件に、新鮮な魂を得るものもいるほど、悪魔にとって人の魂は必要な存在だった。
キンタローも魂を手に入れるために地上へ出てきた悪魔のひとりであった。しかし、一度として魂を持ち帰ったことはなかった。魂に出会わないわけではない。つい先ほども、幼い子供の魂に出会っていた。けれど、手元にその魂はなかった。魂を持ち帰る前に、少しだけ話しをしていたら、天界へとひとりで昇っていったのだ。キンタローがやったのは道を少し指し示しただけである。
よって今日も収穫なしだった。
だが、残念がることはない。それはいつものことなのである。
まだ、夜は訪れたばかり、もう少しこの辺りを散策してこようかと思ったキンタローは、そこから飛び立つために、つま先に力を込めた。
「ん?」
その視線を天上に止めたまま、かすかに柳眉を顰めた。肌が少しざわつく気がする。キンタローは、自分と似通った、けれど異質なその気配を感じとった。
「天使…か?」
たぶん外れてはいないだろう。この気配は間違いようがない。
珍しい。
と、すぐに思った。あちらも自分の――悪魔の気配を感じ取っているはずである。それなのに臆することなくこちらに向かってきていた。本来ならば、悪魔と天使は相容れないもの。出会うことさえ厭い、傍に寄れば寄るほど互いに嫌悪を抱くものなのである。
とはいえ、キンタロー自身は、別に天使に対してそれを抱くほど強い反発感は抱いてはいなかった。それでも面倒ごとは避けたい。わざわざ天使と喧嘩するほど暇人でもなく、ここから移動をすることに決めた。しかし、どうやらそう簡単にはいかないようだった。
それは明らかにこちらを目指していたのである。
闇に溶け込む黒い翼を広げ、正反対へと飛び立ったとキンタローに、だが、それを許さぬとばかりに凄まじい怒号が聞こえてきた。
「ちょ~っと待ちやがれッ、そこの悪魔! 止まれ。止まらねぇと、眼魔砲を食らわすぞ」
空に響き渡る威勢のいい脅迫文句。
「……それが天使の言動なのか?」
耳に聞こえのいいとは到底いえぬ乱暴なそれに、その天使から逃げようとしていたキンタローの口からはぽつりとそんな言葉が漏らされる。いったいどんな天使なのだろうか。興味を惹かれ振り返り、そして驚いた。
(あれが天使…?)
それは何かの間違いではないんだろうか。視界に映る光景を見た瞬間、そう思えた。
キンタローの天使像は、世間一般的なものであった。
光を放つ金色の髪をし、生命の源である水を湛えたような青い瞳を持ち、白い衣を纏い、穢れない心を象徴する純白の羽を持つ者。常に慈愛に満ちた表情に満ち溢れ、人々に優しい手を差し伸べる――それである。実際、遠目で見たことのある天使は、そのような姿と行動をしていた。
が、その声に釣られ振り返り、その存在を青の双眸に映しこんだキンタローは、かなり珍しくそのままの状態でぽかんと口を開きそれを見ていた。
それは彼の天使像を見事に粉砕してくれた。
第一その髪は金色でなく、黒く染められており、慈愛に満ちていなければいけない顔は、憤怒と称していいほどの恐ろしい顔つきであった。そして何よりも、その手は、救済のために優しく差し伸べられるものではなく、自分に向かってなにやら不穏な構えをしている。手のひらに溜め込んだ青白い放電光で、いったい何をするつもりだろうか。その答えが分かりすぎて、欝な気持ちになりそうである。
しっかりとこちらに狙いを定めているそれに、キンタローは早々に諦めの表情を浮かべた。彼は完璧に本気である。
「仕方ない。どういう状況か、訳が分からないが、逃げ切ったところで、その理由が分かるわけでもなし、ここはいったん止まって、呼び止めた理由を直接聞いた方がいいだろう」
誰も聞いていないが、回りくどい言い方をしつつ、キンタローは、羽ばたかせていたその黒い翼の動きを止めた。器用に翼を操ると、スピードを落とし、ゆっくりと身体を下降させていく。
それが分かったのだろう。その少し後から続けて、バサバサとやたら乱暴な羽音とともに、天使が降りてくる気配がしてきた。幸いなことに生み出された放電光を投げられる気配もなかった。
一足先に地面に足を付けたキンタローは、それを見るために空を仰いだ。そうして、再び呆然とさせられた。
(驚いたな……近くで見るとこんなにも印象が違うものか)
間近となったその容姿はさほど変わりない。白い羽と黒い髪。けれど、こうして改めて見ると、その印象はまた違ったものに見えた。
闇の混ざる茜色の空を背に純白の羽と漆黒の髪の天使が舞い降りて来る。その姿に、自分の眼は釘付けにされていた。
天使でその色を見るのは、初めてだった。
だからだろうか、これは違う。即座にそう思えた。
何が違うのか具体的に説明することはできないが、ただ、何かに目を奪われるという行為は初めての出来事で、自分が見惚れるほどの存在を他の天使と同等の扱いなど出来るはずがなかった。
僅かに残る陽の欠片に、長く伸びた黒髪がてらりと艶を帯びた光沢を放つ。下降する力に従い扇状に広がったそれは、夕闇にくっきりと影のように浮かび上がっていた。近づいてきて分かった瞳の色もまた、闇に染まっていた。月明かりのない天空を覗き込んだようなその夜の色は、闇に惹かれる自分にとってあまりにも蟲惑的だった。
天使は、自分の前に降り立つと、止まってくれたことが嬉しかったのか、その顔に笑顔を浮かべた。そして悪魔の前だというのに、険悪さをかもし出すことなく、気さくに声をかけてきた。
「よぉ! お前、悪魔だよな?」
その声に、今までそれに見惚れていたキンタローは我に返った。元々あまり感情を面にださないのが幸いしたか、自分が彼に魅了されていたことは、気付かれずにはすんだようだった。
「そうだが。お前は天使だろ?」
取り繕うように、すぐさま言葉を返せば、黒い天使は、なにやら楽しげな表情を浮かべて、頷いて見せた。
「そうだぜ。今はな」
『今は』?
妙な言い方をするものであるが、とりあえず天使であることは間違いないらしい。翼を見れば、間違えるはずはないのだが、一昔前に、魔界でわずかな期間であったが、その黒い羽を白く変えることができる粉薬が、発売されたことがあった。お遊び感覚で手を出して見る者も多かく、一時期地上にも染めた羽のままで出かける悪魔がいたために混乱を引き起こしていた。もっとも、すぐにそれは発売中止になった。副作用で、使いすぎると羽が大量に抜け落ちたのだ。
だが一回二回では、さほど問題も無い。全て回収されたはずだが、こっそりと隠し持っていたそれを振りかけて、天使の真似をして近づいてきたという可能性もあったが――その気配を見る限り、魔界のものとは思えなかった。
「俺は、シンタロー。お前は?」
「キンタローだ」
自己紹介し返せば、相手は驚いたような表情を浮かべた。
「へぇ、偶然だな。名前が似てる。一字違いじゃねぇか」
「そうだな」
確かに偶然だろうが、この一致はなんとなく嬉しいものだった。悪魔と天使、まったく共通点のないそれに、わずかながらも接点を見つけられたからだろう。そこまで考えて、自分が目の前のシンタローと名乗った天使を随分と気にしていることに気付いた。
(妙だな)
キンタローは内心首を傾げた。
今まで、ここまで他人を気にしたことはない。けれど、今の自分は、シンタローの一挙一動を見逃すまいとするように、彼の動きを目で追っていた。そのくせ、こちらの視線に気付いて笑いかけてくれるのを見ると、なぜか慌てたように視線をそらしてしまう。
「どうかしたのか?」
「い、いや。なんでもない」
たぶん、天使という存在を見慣れないためだろう。もともと自分達は相容れない存在なのだ。それなのに、こうしてすぐ傍まで近づき、会話を交わしているのが稀なのである。もちろんキンタローとて、初めての経験だった。
「ところで、俺に何の用だ」
「あ、そうそう。行き成り、引き止めて悪かったな。ちゃんと用事があったんだよ」
ポンと胸の前で両手を合わしたシンタローは、どことなくウキウキした様子であった。
「なんだ」
天使から頼みごとをされるなんてことは初めてである。いったいどんなことを要求されるのだろうか。わざわざ必死の形相で追いかけて来たのだから、さぞかし重大な用件を持っているのかもしれないが、今のシンタローの表情からは、それがなんなのかは読み取れなかった。
色々と浮ぶ可能性に思考が捕らわれそうになるものの、相手の言葉をじっと待っていれば、しばらく間を置いて、はっきりとした口調で天使は、その用事を述べた。
「俺を悪魔にしてくれ」
「……………はっ?」
そのとたん、ぴきりとキンタローの顔が強張った。様々な用件を考えていた頭がぴたりと思考を停止させる。
(まさか……まさか、それが自分への用事?)
天使がわざわざ自分に頼み込んできた用件がそれだと?
信じられない。何を考えているのだろうか。
キンタローは、まじまじとシンタローを見つめた。だが、相手の顔は真剣そのもので、冗談で口にしているようにも思えなかった。
悪魔にしてくれ――という言葉の意味はすぐに理解できた。そして、それが自分にできることもわかっている。しかし、だからと言って、あっさりと「よし! 任せろ」と承諾できるものでもなかった。
「それはつまり………俺にあれをしろと?」
それでもまだ自分の聞き違いではないかと希望を持って尋ねてみれば、
「おう。あれをやってくれ」
しっかりと頷いてくれたシンタローを前に、キンタローは、腰を折り曲げ、前かがみになり額を押さえた。眩暈と頭痛がしそうである。いや、すでに体験中だ。
(冗談……ではなさそうだが、冗談だろ?)
思わず真剣にそう思うほど、それは突拍子もない用件だった。
昔から、天使が悪魔になるには、手っ取り早い方法があった。それは、穢れなきその身を汚すこと。ぶっちゃけて言えば、悪魔に犯されればそれで、万事OK☆なのである。それで、白い翼は黒く染まり、二度と天界の門をくぐれなくなる。真実かどうかはともかく、天使にも悪魔にも広く知れ渡っていることだった。
「そういうことだから、ま、一丁宜しく頼むわ!」
晴れやかに笑う天使を前に、悪魔は敗北したように、その場で膝をついた。
落下する身体を止めるために大きく広げられた翼が、肌を粟立たせるほどの冷たい風をいっぱいに受け止め、羽音を立てた。それに煽られたように後方に白い点が降る。それは、先ほどの衝撃のために抜け落ちた羽だった。雪のように舞い散る数枚のそれ。風にのって彼方へと消える羽の行方を見送るように、シンタローの視線は動いたが、けれどすぐに移動させ、天上の青を視界に移しこんだ。
煽いだ空に、一瞬何かを惜しむように目元を緩ませたが、それを厭うように即座に視線は落とされ、地上へと向けられた。
すでに羽の影響で、緩やかな降下となり、望む着地点ははっきりと見えていた。伸ばしたつま先が望みの場所へと触れると、広げた翼でバランスをとるようにして半分ほど折りたたみつつ、その場に足を止める。
そこは、街を一望できる教会のてっぺんであり、掲げられている十字の先端部分だった。
「ん~、いい風だな」
眼下に広がるのは寂しげな灰色と茶色の風景。すでに季節は秋を深め、ほどなく到来するだろう冬を匂わすように、突き刺さるような冷たい風が肌をかすめていった。
天界の柔らかで温かな風とはまったく違うそれが、新鮮で心地いい。地上に降りるたびにそれは思うことだった。
その風を受け、身体が揺らぐ。シンタローが立っている場所は、あまりにも不安定なところで、上手くバランスをとっていなければ、そのまま逆さまに落下してしまうほどの高所であった。
だが、不安に感じるころはない。その背中には、白い羽がある。万が一落ちたとしても、羽さえあれば、なんの問題もなかった。
それよりもシンタローが注意するべきは別のことである。風に巻き上げられ、顔に張り付いた髪を掻き上げ、視界を良好にすると、シンタローは、注意深く地上を眺めた。
地上は闇に飲み込まれる最中であった。地表を照らす太陽は、西の果てに沈みかけ、東の果てから忍び寄る宵闇が支配の手を伸ばす。黄昏時と呼ばれる時間帯。包み込む薄明かりは、視界を危うくさせ、遠くまで見通すのが難しい。
探し物をしているシンタローにとっては、思わず顔を顰めるような状況だった。
「時間もねぇし。ちゃちゃっとやっちまいたいところなんだが……」
さっさとことを終わらせなければ、失敗に終わる可能性が高い。それだけは、なんとしても避けたいところだった。そうでなければ、なんのためにここへ降りてきたのかわからない。
確かここら辺りにいるはずだと、シンタローはさらに視線を凝らすようにして街中に視線を走らせる。感覚的には、ここにいるとわかっていても、視覚となると分かり辛い。さらに今の時間帯は、細かな部分は霞むように見づらかった。特に探し物は、闇に紛れ易いものである。
いっそその辺りを飛んで調べてみるか、と羽に力を込めたその時、それが視界に入ってきた。
(いたッ!)
自分と同じ背に翼を持つ者。
けれど、明らかに違うその存在。
「見つけたぜ」
ニヤリと零れる笑みを顔に、シンタローは白い翼を広げ、飛び立った。
バサッ―――。
闇の迫る夕暮れ時。キンタローは、一日の終焉を彩るがごとく朱金に染まる西の空に背を向けるようにして、その背にある黒い翼を広げた。一足先に、そこだけ闇を切り取ったような漆黒の羽が、人影のない小さな通りいっぱいを塞ぐ。
「今日も収穫なし……か」
内容に反して残念そうな声音はなく、キンタローは、淡々とその事実を認める言葉を形にした。
キンタローが求めていたのは人の魂だった。ほとんどの魂は、天界に住む天使たちが、人の死後天上へと導き連れていってしまう。だが、中には取りこぼされてしまい、あてもなく浮遊する魂もいたし、また、罪を犯しすぎあまりに穢れた魂は天使には触れられないため、放置された魂もあった。そういう魂は、悪魔が拾っていくのだ。
天使にとっては、人の魂は、神の意思に従い、再び新たな肉体を得られるまでの保護として天界へと連れ帰るだけの接点でしかないのだが、悪魔にとってそれは、食物であり装飾品でありランプ代わりの明りでもあるという、色々活用法ができる存在だった。
故に、地上へ出て魂を求める悪魔は数多くいた。中には、長い間肉体から離れすぎ弱った魂や明かりなどひとつも取れないどす黒い魂を嫌い、願いを叶えるのを条件に、新鮮な魂を得るものもいるほど、悪魔にとって人の魂は必要な存在だった。
キンタローも魂を手に入れるために地上へ出てきた悪魔のひとりであった。しかし、一度として魂を持ち帰ったことはなかった。魂に出会わないわけではない。つい先ほども、幼い子供の魂に出会っていた。けれど、手元にその魂はなかった。魂を持ち帰る前に、少しだけ話しをしていたら、天界へとひとりで昇っていったのだ。キンタローがやったのは道を少し指し示しただけである。
よって今日も収穫なしだった。
だが、残念がることはない。それはいつものことなのである。
まだ、夜は訪れたばかり、もう少しこの辺りを散策してこようかと思ったキンタローは、そこから飛び立つために、つま先に力を込めた。
「ん?」
その視線を天上に止めたまま、かすかに柳眉を顰めた。肌が少しざわつく気がする。キンタローは、自分と似通った、けれど異質なその気配を感じとった。
「天使…か?」
たぶん外れてはいないだろう。この気配は間違いようがない。
珍しい。
と、すぐに思った。あちらも自分の――悪魔の気配を感じ取っているはずである。それなのに臆することなくこちらに向かってきていた。本来ならば、悪魔と天使は相容れないもの。出会うことさえ厭い、傍に寄れば寄るほど互いに嫌悪を抱くものなのである。
とはいえ、キンタロー自身は、別に天使に対してそれを抱くほど強い反発感は抱いてはいなかった。それでも面倒ごとは避けたい。わざわざ天使と喧嘩するほど暇人でもなく、ここから移動をすることに決めた。しかし、どうやらそう簡単にはいかないようだった。
それは明らかにこちらを目指していたのである。
闇に溶け込む黒い翼を広げ、正反対へと飛び立ったとキンタローに、だが、それを許さぬとばかりに凄まじい怒号が聞こえてきた。
「ちょ~っと待ちやがれッ、そこの悪魔! 止まれ。止まらねぇと、眼魔砲を食らわすぞ」
空に響き渡る威勢のいい脅迫文句。
「……それが天使の言動なのか?」
耳に聞こえのいいとは到底いえぬ乱暴なそれに、その天使から逃げようとしていたキンタローの口からはぽつりとそんな言葉が漏らされる。いったいどんな天使なのだろうか。興味を惹かれ振り返り、そして驚いた。
(あれが天使…?)
それは何かの間違いではないんだろうか。視界に映る光景を見た瞬間、そう思えた。
キンタローの天使像は、世間一般的なものであった。
光を放つ金色の髪をし、生命の源である水を湛えたような青い瞳を持ち、白い衣を纏い、穢れない心を象徴する純白の羽を持つ者。常に慈愛に満ちた表情に満ち溢れ、人々に優しい手を差し伸べる――それである。実際、遠目で見たことのある天使は、そのような姿と行動をしていた。
が、その声に釣られ振り返り、その存在を青の双眸に映しこんだキンタローは、かなり珍しくそのままの状態でぽかんと口を開きそれを見ていた。
それは彼の天使像を見事に粉砕してくれた。
第一その髪は金色でなく、黒く染められており、慈愛に満ちていなければいけない顔は、憤怒と称していいほどの恐ろしい顔つきであった。そして何よりも、その手は、救済のために優しく差し伸べられるものではなく、自分に向かってなにやら不穏な構えをしている。手のひらに溜め込んだ青白い放電光で、いったい何をするつもりだろうか。その答えが分かりすぎて、欝な気持ちになりそうである。
しっかりとこちらに狙いを定めているそれに、キンタローは早々に諦めの表情を浮かべた。彼は完璧に本気である。
「仕方ない。どういう状況か、訳が分からないが、逃げ切ったところで、その理由が分かるわけでもなし、ここはいったん止まって、呼び止めた理由を直接聞いた方がいいだろう」
誰も聞いていないが、回りくどい言い方をしつつ、キンタローは、羽ばたかせていたその黒い翼の動きを止めた。器用に翼を操ると、スピードを落とし、ゆっくりと身体を下降させていく。
それが分かったのだろう。その少し後から続けて、バサバサとやたら乱暴な羽音とともに、天使が降りてくる気配がしてきた。幸いなことに生み出された放電光を投げられる気配もなかった。
一足先に地面に足を付けたキンタローは、それを見るために空を仰いだ。そうして、再び呆然とさせられた。
(驚いたな……近くで見るとこんなにも印象が違うものか)
間近となったその容姿はさほど変わりない。白い羽と黒い髪。けれど、こうして改めて見ると、その印象はまた違ったものに見えた。
闇の混ざる茜色の空を背に純白の羽と漆黒の髪の天使が舞い降りて来る。その姿に、自分の眼は釘付けにされていた。
天使でその色を見るのは、初めてだった。
だからだろうか、これは違う。即座にそう思えた。
何が違うのか具体的に説明することはできないが、ただ、何かに目を奪われるという行為は初めての出来事で、自分が見惚れるほどの存在を他の天使と同等の扱いなど出来るはずがなかった。
僅かに残る陽の欠片に、長く伸びた黒髪がてらりと艶を帯びた光沢を放つ。下降する力に従い扇状に広がったそれは、夕闇にくっきりと影のように浮かび上がっていた。近づいてきて分かった瞳の色もまた、闇に染まっていた。月明かりのない天空を覗き込んだようなその夜の色は、闇に惹かれる自分にとってあまりにも蟲惑的だった。
天使は、自分の前に降り立つと、止まってくれたことが嬉しかったのか、その顔に笑顔を浮かべた。そして悪魔の前だというのに、険悪さをかもし出すことなく、気さくに声をかけてきた。
「よぉ! お前、悪魔だよな?」
その声に、今までそれに見惚れていたキンタローは我に返った。元々あまり感情を面にださないのが幸いしたか、自分が彼に魅了されていたことは、気付かれずにはすんだようだった。
「そうだが。お前は天使だろ?」
取り繕うように、すぐさま言葉を返せば、黒い天使は、なにやら楽しげな表情を浮かべて、頷いて見せた。
「そうだぜ。今はな」
『今は』?
妙な言い方をするものであるが、とりあえず天使であることは間違いないらしい。翼を見れば、間違えるはずはないのだが、一昔前に、魔界でわずかな期間であったが、その黒い羽を白く変えることができる粉薬が、発売されたことがあった。お遊び感覚で手を出して見る者も多かく、一時期地上にも染めた羽のままで出かける悪魔がいたために混乱を引き起こしていた。もっとも、すぐにそれは発売中止になった。副作用で、使いすぎると羽が大量に抜け落ちたのだ。
だが一回二回では、さほど問題も無い。全て回収されたはずだが、こっそりと隠し持っていたそれを振りかけて、天使の真似をして近づいてきたという可能性もあったが――その気配を見る限り、魔界のものとは思えなかった。
「俺は、シンタロー。お前は?」
「キンタローだ」
自己紹介し返せば、相手は驚いたような表情を浮かべた。
「へぇ、偶然だな。名前が似てる。一字違いじゃねぇか」
「そうだな」
確かに偶然だろうが、この一致はなんとなく嬉しいものだった。悪魔と天使、まったく共通点のないそれに、わずかながらも接点を見つけられたからだろう。そこまで考えて、自分が目の前のシンタローと名乗った天使を随分と気にしていることに気付いた。
(妙だな)
キンタローは内心首を傾げた。
今まで、ここまで他人を気にしたことはない。けれど、今の自分は、シンタローの一挙一動を見逃すまいとするように、彼の動きを目で追っていた。そのくせ、こちらの視線に気付いて笑いかけてくれるのを見ると、なぜか慌てたように視線をそらしてしまう。
「どうかしたのか?」
「い、いや。なんでもない」
たぶん、天使という存在を見慣れないためだろう。もともと自分達は相容れない存在なのだ。それなのに、こうしてすぐ傍まで近づき、会話を交わしているのが稀なのである。もちろんキンタローとて、初めての経験だった。
「ところで、俺に何の用だ」
「あ、そうそう。行き成り、引き止めて悪かったな。ちゃんと用事があったんだよ」
ポンと胸の前で両手を合わしたシンタローは、どことなくウキウキした様子であった。
「なんだ」
天使から頼みごとをされるなんてことは初めてである。いったいどんなことを要求されるのだろうか。わざわざ必死の形相で追いかけて来たのだから、さぞかし重大な用件を持っているのかもしれないが、今のシンタローの表情からは、それがなんなのかは読み取れなかった。
色々と浮ぶ可能性に思考が捕らわれそうになるものの、相手の言葉をじっと待っていれば、しばらく間を置いて、はっきりとした口調で天使は、その用事を述べた。
「俺を悪魔にしてくれ」
「……………はっ?」
そのとたん、ぴきりとキンタローの顔が強張った。様々な用件を考えていた頭がぴたりと思考を停止させる。
(まさか……まさか、それが自分への用事?)
天使がわざわざ自分に頼み込んできた用件がそれだと?
信じられない。何を考えているのだろうか。
キンタローは、まじまじとシンタローを見つめた。だが、相手の顔は真剣そのもので、冗談で口にしているようにも思えなかった。
悪魔にしてくれ――という言葉の意味はすぐに理解できた。そして、それが自分にできることもわかっている。しかし、だからと言って、あっさりと「よし! 任せろ」と承諾できるものでもなかった。
「それはつまり………俺にあれをしろと?」
それでもまだ自分の聞き違いではないかと希望を持って尋ねてみれば、
「おう。あれをやってくれ」
しっかりと頷いてくれたシンタローを前に、キンタローは、腰を折り曲げ、前かがみになり額を押さえた。眩暈と頭痛がしそうである。いや、すでに体験中だ。
(冗談……ではなさそうだが、冗談だろ?)
思わず真剣にそう思うほど、それは突拍子もない用件だった。
昔から、天使が悪魔になるには、手っ取り早い方法があった。それは、穢れなきその身を汚すこと。ぶっちゃけて言えば、悪魔に犯されればそれで、万事OK☆なのである。それで、白い翼は黒く染まり、二度と天界の門をくぐれなくなる。真実かどうかはともかく、天使にも悪魔にも広く知れ渡っていることだった。
「そういうことだから、ま、一丁宜しく頼むわ!」
晴れやかに笑う天使を前に、悪魔は敗北したように、その場で膝をついた。