クリスマス休暇の最終日、シンタローが着替えを終えてダイニングに下りていくと、懐かしい匂いがした。柑橘系の冴え冴えとした匂いが自己主張する背後で、ほのかに鶏と根菜類が混じる。幼い頃、父親がつくってくれた正月料理のそれだった。
驚き半分、期待半分でキッチンをのぞき込むと、しかし目に入ったのは父親のものではない金髪の後ろ姿だ。いぶかしさに眉を寄せたちょうどそのとき、男が振り返って、目があった。青い瞳と向かい合うこと半瞬、先に口を開いたのは、相手の方だった。
「明けましておめでとうございます。――早かったな。いまちょうどお前を起こしに行こうと思っていたところだ。グンマはコタローのところへ顔を出している」
「これ、作ったのはおまえか?」
半ば相手の言葉を無視するように、シンタローは疑問を投げかけた。鍋の方を振り返って、キンタローはそれが指示語の対象物であると確認すると、静かに首を横に振った。
「作ったのは伯父貴だ。部屋になにか取りに行くあいだ、餅を見ていろと言われた」
言われた視線の先では、数個の丸餅が七輪にかぶせた網の上で転がっている。キンタローが器用に菜箸でころりと転がすと、ほどよく色づき張りのでた表面が見えた。
「箸、使えるようになったのか」
「グンマに教えてもらってな。慣れればフォークやトングよりこっちの方が扱いやすいものだな」
「そう、か…」
キンタローが「誕生」して島に渡り、ここに帰ってきて何ヶ月も経っていない。にも関わらず、キンタローの物覚えは早かった。
もとより自分のなかで様々なことを見聞きし、思考の下地ができていたこともあるのだろうが、砂地が水を吸い込むように知識を吸収している。シンタローが数ヶ月忙しくしていた間に、西欧式のマナーから軍事知識、一般常識はあらかた頭に入ったとは聞いていたが、このぶんでは日本の伝統的なしきたりまで理解しているに違いない。
有能すぎる従兄弟兼未来の右腕の姿にひっそりとため息をつき、シンタローはダイニングテーブルに着いた。卓の上には一瞬ここがどこだか忘れさせるような、純和風の食器が用意されていた。
普段使いのカトラリー類はどこかへしまわれ、代わりに袋に入れられた柳箸と屠蘇用の杯が並べられている。おそらく中身のぎっしり詰まっているであろう重箱も、ダイニングテーブルの端の方に見えた。これで雑煮が用意できれば、足りぬものとてないだろう。
「なあ、親父はなに取りに行ったんだ?」
いぶかしく思うままに疑問を言葉に乗せれば、キンタローは少し躊躇った様子で言いよどんだ。知っているのか、ともう一歩踏み込んで聞けば、キンタローは困った顔をしてみせる。
「言うなと言われた」
不満げな顔なのは、それ以上の追求をされたくないからなのだろうか。だが、そうして隠されると知りたくなるのが人というものだ。
「黙っててやるから、言ってみろ。ほら」
しつこく突っついてやれば、キンタローは仕方なさそうにため息をついて、肩をすくめた。どうやら諦めたようだった。
「ちょっと待っていろ」
言い置いて、七輪の上の餅を皿にうつし、椅子に座ったシンタローの方に近づいてくる。そして、まるで極秘事項であるかのように、耳打ちした。お年玉だ――と。
シンタローは一瞬だけ自分の耳を疑い、それから生まれたてと言っても過言ではない従兄弟の思考回路を疑った。お年玉なんて、子供のもらうものだ。いい年をした自分たちがもらうことがあり得るのだろうか。
そこまで考えて、シンタローは疑いの矛先を変えた。普通なら考えられないとしても、あの父親なら話は別だ。楽しそうなイベントなら、子供の年齢なんか考えないのがあの男だ。
「せっかく正月準備を頑張ったのに、肝心のものを用意し忘れた、大失態だ、と慌てていたな」
いちど吐いてしまえば後はどうでも良くなったのか、キンタローは補足するように言葉を紡いだ。
やはりか。シンタローは一瞬のめまいを覚え、瞑目した。
「あの馬鹿親父、いいかげんに子供扱いはやめろって言うのによォ…」
「しかし、日本の伝統なのだろう? 目上の者が目下の者に金銭を与えるというのは昨今になって変化した風習だが、かつては祭神に供えた餅を祭神の代理たる一族の長が一族のものに分け与えることによって、その加護を得てその年を健康に過ごすことができるよう祈念するという習慣だったはずだ。ならば成年であろうと未成年であろうとかまうことはないだろう」
どこからそのようなデータをインプットされたのか、小難しいことを言いながら小首をかしげる従兄弟の姿に、シンタローは反論する気力を失ってしまった。
それでも、せめてもの抵抗とばかりに「この年で親父からのお年玉って、ふざけやがって…」と呟いて肩を落とすと、キンタローが不思議そうな声を上げた。
「どうしてそんなにこだわるんだ、シンタロー」
「別にこだわる理由なんかねェよ」
ただ、成人して何年も経つのに子供扱いされるのがなんとなく許せないだけだ。そう反論しようとする前に肩をつかまれ、なかば無理矢理振り向かされた。
目の前には、至近距離にキンタローの瞳。一瞬どきりとして、気を取られた隙に顎を取られて口づけられた。と気がついたのは、キンタローの唇が離れてからのことだった。あまりの衝撃にぽかんと口を開けたままでいると、キンタローは少し口の端をつり上げた。
下心のようなものを持ち合わせているわけではないのだろうが、してやったりといわんばかりの表情に見えて、腹立たしさがこみ上げた。
「てめェ、何しやがる!」
「お年玉だ。伯父貴以外からなら問題ないんだろう?」
「なにがお年玉だ! だいたい、お前は0歳児じゃねぇェか!」
心外だといわんばかりに、キンタローは呆れた顔でシンタローを見た。
「忘れたか? 肉体年齢だけでいえば、俺はお前より6歳年上だ。お前があの島で乗っ取ったジャンの身体は、まだ18歳だったのだからな」
至極当然とでも言いたげな口調で数ヶ月前の奇妙な体験を指摘され、シンタローは一瞬だけ怒りに我を忘れそうになった。
「うるせえ、年下のくせに!」
子供扱いなんかされたくない、という言葉は、「ならば」という声を耳にした直後、キンタローの唇に飲み込まれた。
わずかに開けてしまった唇から無理矢理入り込むように口内に舌が進入してくる。あまりの唐突さに、とっさに抵抗することも忘れてされるがままになっていると、遠慮のかけらすらなく口内をまさぐられる。
「ちょ、ん……っ、んっ…」
ふだん触れる体表よりも高い体温が生々しい。上顎を舌先で撫でられると、くすぐったいような切ないような気持ちになってくるが、視界に映るのは金髪の己の半身の姿だ。それを意識すると、いたたまれない。なにより、グンマや父親がいつ戻ってくるか分からないというのに、こんな姿を見せられるはずがない。
嫌だという感情一種類だけが、頭の中を支配した。残された力のありったけを振り絞り、両肩を掴み。
「も、やめろ、って……っ!」
言うと同時に渾身の力で両腕を突き放した。両手の長さの分だけ離れた男を、シンタローは遠慮なく怒鳴りつけた。
「てめッ! いきなり、なに、しやがるッツ!」
怒りで乱れてしまった声の先で、キンタローはふだん通りの顔で立っている。ぶつけた怒りと押しのけた衝撃のぶんだけダメージを受けているはずだが、そんなそぶりさえなく平然としているのが、さらに腹立たしさを煽った。
「お年玉、だ」
「だからお年玉ってのは!」
「年長者が年少者に与えるもの、なのだろう」
まるで言いたい言葉を予測していたかのように、返ってくる解説。しかし、分かっているのではないかと言おうとした矢先に、思わぬ言葉がシンタローの耳に飛び込んだ。
「だから、お前は年下の俺からお年玉を貰うのは許せない。だが年下の俺がお年玉を貰う分には――お前の理屈からすれば、問題はないはずだ」
訳の分からない理屈が、まるで当たり前であるかのように口から飛び出してきて、シンタローは絶句するしかなかった。いったいこんな三段論法のような論理の暴走を許してきたのは誰だ。
考えられるのは、この男のやることなすことをすべて賞賛しそうなマッドサイエンティストか、いつまでも頭の中にお花畑が広がっていそうな暢気な従兄弟か、父性愛という言葉を大きく勘違いしているスキンシップ過剰の父親のいずれかだ。
怒りの代わりに沸々と疲労感がわき上がり始めるのを感じる。シンタローは己の中に残った冷静さをすべてかき集めて、聞いた。お年玉の概念は知っているくせに、お前はどうしてこんな行動に出たのか、と。
「0歳児にふさわしいものといえば金銭よりも菓子か何かなのだろうが、甘いものといったら他に見あたらなかった。キスは甘いものだ、と聞いていたからな。――もっとも、あまり甘いとは思わなかったが」
自称する年齢とは裏腹に、返答の言葉は0歳児にはふさわしくない出来だった。
シンタローはあの島が己の堪忍袋の緒を存外丈夫にしてくれていたのだということを、なによりも実感していた。昔だったら、この時点でこの部屋は影も形もなかっただろう。キンタローに対する怒りよりも、たった数ヶ月でこの男に妙なことを教え込んだ人間に対して。
どうやってこの男の思考回路を正してやろう。こんな行為は誰とでもするべきものじゃないと教え込んでやるのが先か、それとも、こんな馬鹿なことを吹き込んだ人間を聞き出すのが先か。
シンタローの動作が止まったのを不審に思ったか、きょとんとした表情でキンタローが首をかしげる。シンタローは黙ってその金色の髪を優しく撫でてやった。0歳児にしてやるように。
そして、決心したのだった。こいつは絶対に、俺がまともに教育をし直してやる――と。
驚き半分、期待半分でキッチンをのぞき込むと、しかし目に入ったのは父親のものではない金髪の後ろ姿だ。いぶかしさに眉を寄せたちょうどそのとき、男が振り返って、目があった。青い瞳と向かい合うこと半瞬、先に口を開いたのは、相手の方だった。
「明けましておめでとうございます。――早かったな。いまちょうどお前を起こしに行こうと思っていたところだ。グンマはコタローのところへ顔を出している」
「これ、作ったのはおまえか?」
半ば相手の言葉を無視するように、シンタローは疑問を投げかけた。鍋の方を振り返って、キンタローはそれが指示語の対象物であると確認すると、静かに首を横に振った。
「作ったのは伯父貴だ。部屋になにか取りに行くあいだ、餅を見ていろと言われた」
言われた視線の先では、数個の丸餅が七輪にかぶせた網の上で転がっている。キンタローが器用に菜箸でころりと転がすと、ほどよく色づき張りのでた表面が見えた。
「箸、使えるようになったのか」
「グンマに教えてもらってな。慣れればフォークやトングよりこっちの方が扱いやすいものだな」
「そう、か…」
キンタローが「誕生」して島に渡り、ここに帰ってきて何ヶ月も経っていない。にも関わらず、キンタローの物覚えは早かった。
もとより自分のなかで様々なことを見聞きし、思考の下地ができていたこともあるのだろうが、砂地が水を吸い込むように知識を吸収している。シンタローが数ヶ月忙しくしていた間に、西欧式のマナーから軍事知識、一般常識はあらかた頭に入ったとは聞いていたが、このぶんでは日本の伝統的なしきたりまで理解しているに違いない。
有能すぎる従兄弟兼未来の右腕の姿にひっそりとため息をつき、シンタローはダイニングテーブルに着いた。卓の上には一瞬ここがどこだか忘れさせるような、純和風の食器が用意されていた。
普段使いのカトラリー類はどこかへしまわれ、代わりに袋に入れられた柳箸と屠蘇用の杯が並べられている。おそらく中身のぎっしり詰まっているであろう重箱も、ダイニングテーブルの端の方に見えた。これで雑煮が用意できれば、足りぬものとてないだろう。
「なあ、親父はなに取りに行ったんだ?」
いぶかしく思うままに疑問を言葉に乗せれば、キンタローは少し躊躇った様子で言いよどんだ。知っているのか、ともう一歩踏み込んで聞けば、キンタローは困った顔をしてみせる。
「言うなと言われた」
不満げな顔なのは、それ以上の追求をされたくないからなのだろうか。だが、そうして隠されると知りたくなるのが人というものだ。
「黙っててやるから、言ってみろ。ほら」
しつこく突っついてやれば、キンタローは仕方なさそうにため息をついて、肩をすくめた。どうやら諦めたようだった。
「ちょっと待っていろ」
言い置いて、七輪の上の餅を皿にうつし、椅子に座ったシンタローの方に近づいてくる。そして、まるで極秘事項であるかのように、耳打ちした。お年玉だ――と。
シンタローは一瞬だけ自分の耳を疑い、それから生まれたてと言っても過言ではない従兄弟の思考回路を疑った。お年玉なんて、子供のもらうものだ。いい年をした自分たちがもらうことがあり得るのだろうか。
そこまで考えて、シンタローは疑いの矛先を変えた。普通なら考えられないとしても、あの父親なら話は別だ。楽しそうなイベントなら、子供の年齢なんか考えないのがあの男だ。
「せっかく正月準備を頑張ったのに、肝心のものを用意し忘れた、大失態だ、と慌てていたな」
いちど吐いてしまえば後はどうでも良くなったのか、キンタローは補足するように言葉を紡いだ。
やはりか。シンタローは一瞬のめまいを覚え、瞑目した。
「あの馬鹿親父、いいかげんに子供扱いはやめろって言うのによォ…」
「しかし、日本の伝統なのだろう? 目上の者が目下の者に金銭を与えるというのは昨今になって変化した風習だが、かつては祭神に供えた餅を祭神の代理たる一族の長が一族のものに分け与えることによって、その加護を得てその年を健康に過ごすことができるよう祈念するという習慣だったはずだ。ならば成年であろうと未成年であろうとかまうことはないだろう」
どこからそのようなデータをインプットされたのか、小難しいことを言いながら小首をかしげる従兄弟の姿に、シンタローは反論する気力を失ってしまった。
それでも、せめてもの抵抗とばかりに「この年で親父からのお年玉って、ふざけやがって…」と呟いて肩を落とすと、キンタローが不思議そうな声を上げた。
「どうしてそんなにこだわるんだ、シンタロー」
「別にこだわる理由なんかねェよ」
ただ、成人して何年も経つのに子供扱いされるのがなんとなく許せないだけだ。そう反論しようとする前に肩をつかまれ、なかば無理矢理振り向かされた。
目の前には、至近距離にキンタローの瞳。一瞬どきりとして、気を取られた隙に顎を取られて口づけられた。と気がついたのは、キンタローの唇が離れてからのことだった。あまりの衝撃にぽかんと口を開けたままでいると、キンタローは少し口の端をつり上げた。
下心のようなものを持ち合わせているわけではないのだろうが、してやったりといわんばかりの表情に見えて、腹立たしさがこみ上げた。
「てめェ、何しやがる!」
「お年玉だ。伯父貴以外からなら問題ないんだろう?」
「なにがお年玉だ! だいたい、お前は0歳児じゃねぇェか!」
心外だといわんばかりに、キンタローは呆れた顔でシンタローを見た。
「忘れたか? 肉体年齢だけでいえば、俺はお前より6歳年上だ。お前があの島で乗っ取ったジャンの身体は、まだ18歳だったのだからな」
至極当然とでも言いたげな口調で数ヶ月前の奇妙な体験を指摘され、シンタローは一瞬だけ怒りに我を忘れそうになった。
「うるせえ、年下のくせに!」
子供扱いなんかされたくない、という言葉は、「ならば」という声を耳にした直後、キンタローの唇に飲み込まれた。
わずかに開けてしまった唇から無理矢理入り込むように口内に舌が進入してくる。あまりの唐突さに、とっさに抵抗することも忘れてされるがままになっていると、遠慮のかけらすらなく口内をまさぐられる。
「ちょ、ん……っ、んっ…」
ふだん触れる体表よりも高い体温が生々しい。上顎を舌先で撫でられると、くすぐったいような切ないような気持ちになってくるが、視界に映るのは金髪の己の半身の姿だ。それを意識すると、いたたまれない。なにより、グンマや父親がいつ戻ってくるか分からないというのに、こんな姿を見せられるはずがない。
嫌だという感情一種類だけが、頭の中を支配した。残された力のありったけを振り絞り、両肩を掴み。
「も、やめろ、って……っ!」
言うと同時に渾身の力で両腕を突き放した。両手の長さの分だけ離れた男を、シンタローは遠慮なく怒鳴りつけた。
「てめッ! いきなり、なに、しやがるッツ!」
怒りで乱れてしまった声の先で、キンタローはふだん通りの顔で立っている。ぶつけた怒りと押しのけた衝撃のぶんだけダメージを受けているはずだが、そんなそぶりさえなく平然としているのが、さらに腹立たしさを煽った。
「お年玉、だ」
「だからお年玉ってのは!」
「年長者が年少者に与えるもの、なのだろう」
まるで言いたい言葉を予測していたかのように、返ってくる解説。しかし、分かっているのではないかと言おうとした矢先に、思わぬ言葉がシンタローの耳に飛び込んだ。
「だから、お前は年下の俺からお年玉を貰うのは許せない。だが年下の俺がお年玉を貰う分には――お前の理屈からすれば、問題はないはずだ」
訳の分からない理屈が、まるで当たり前であるかのように口から飛び出してきて、シンタローは絶句するしかなかった。いったいこんな三段論法のような論理の暴走を許してきたのは誰だ。
考えられるのは、この男のやることなすことをすべて賞賛しそうなマッドサイエンティストか、いつまでも頭の中にお花畑が広がっていそうな暢気な従兄弟か、父性愛という言葉を大きく勘違いしているスキンシップ過剰の父親のいずれかだ。
怒りの代わりに沸々と疲労感がわき上がり始めるのを感じる。シンタローは己の中に残った冷静さをすべてかき集めて、聞いた。お年玉の概念は知っているくせに、お前はどうしてこんな行動に出たのか、と。
「0歳児にふさわしいものといえば金銭よりも菓子か何かなのだろうが、甘いものといったら他に見あたらなかった。キスは甘いものだ、と聞いていたからな。――もっとも、あまり甘いとは思わなかったが」
自称する年齢とは裏腹に、返答の言葉は0歳児にはふさわしくない出来だった。
シンタローはあの島が己の堪忍袋の緒を存外丈夫にしてくれていたのだということを、なによりも実感していた。昔だったら、この時点でこの部屋は影も形もなかっただろう。キンタローに対する怒りよりも、たった数ヶ月でこの男に妙なことを教え込んだ人間に対して。
どうやってこの男の思考回路を正してやろう。こんな行為は誰とでもするべきものじゃないと教え込んでやるのが先か、それとも、こんな馬鹿なことを吹き込んだ人間を聞き出すのが先か。
シンタローの動作が止まったのを不審に思ったか、きょとんとした表情でキンタローが首をかしげる。シンタローは黙ってその金色の髪を優しく撫でてやった。0歳児にしてやるように。
そして、決心したのだった。こいつは絶対に、俺がまともに教育をし直してやる――と。
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「新たに技術課の生物分野からバイオ部門と製薬部門を独立させ、製薬部門の責任者は――ウィローに任せたいと思う」
その言葉に、会議室に集まった幹部達の中からどよめきが上がった。一気に部屋の空気が硬質なものへと変わっていくのが、手に取るように分かる。予想通りの反応だ。諸手をあげて賛同を得られるなど、元より考えてもいない。古参の幹部連中が総帥職を継いだばかりの自分を軽んじているのも、今の状態を居心地良く感じているのも知っている。
だが、組織には改革が必要なのだ。
「独立について反対意見があるなら言ってみろ。他に責任者に適任と思う人間がいれば推薦しろ。異議がないようなら、この案のまま、次回の幹部会で決定する」
今日の会議はこれで終わりだ、と言い置いて席を立つ。帰って、部門独立に必要な準備をしなくてはならない。反対派がどれだけごねようとも、両部門の独立は既に決定している。後は外堀をどう埋めるかだ。
補佐役に就任したばかりの従兄弟を促して、廊下へ出た。振り返りもせず足早に歩く後ろから、駆けてくる足音が二人分。何ごとかと思ってみれば、ティラミスに連れられたウィローの姿があった。いつもの魔法使いのような黒マントではなく、幹部会にふさわしい、ブレザーにきちんとタイを締めた正装だったが、頭にかぶった帽子は相変わらずだ。
「シンタロー総帥!」
叫ぶ声はひっくり返っている。明らかに運動不足だ。技術系の職員にも適度な運動を義務づける必要があるだろう、と隣で従兄弟が呟くのは、聞かなかったことにした。
「あんだよ、うるせぇな」
役職名に名前を付けた呼び方をされて、むっとする。どこぞの古狸どものようなマネをしてくれるな。にらみつけた視線に気づかないのか気にする余裕もないのか、ウィローは早口でまくし立てた。いつものしつこいくらいの名古屋弁に加速が付いて、もはやネイティヴスピーカーでもなければ聞き取れないレベルに達していた。
面倒だが、もう一度はじめから聞く以外に理解する方法はないだろう。それなりに方言を理解できるはずの従兄弟も、困惑顔だ。
「ああ、分かったよ。――分かったから、もういっぺん言ってみろ」
俺に分かる言葉で、と猫の鳴き声を思わせる言葉の波が収まるのを待って告げれば、ウィローは見事な緑色の髪を振り乱してがっくりと肩を落とした。
「総帥…フツーここまで喋らせてその反応はあれせんぎゃあ…」
「オメーが最初ッからまともに喋ってりゃ聞き返しもしねぇよ」
恨みがましく睨め付ける視線はしっかり無視した。いちいち気にしていては精神衛生上よろしくない。
「聞きてゃあのは製薬部門の件だぎゃあ。勝手にワシを責任者にせんとってちょー」
少しばかり譲歩した口調で呟くのを聞いて、思い出した。ウィローにこのことを全く話していなかったことを。それをそのまま口に出せば、父親の側近と従兄弟は頭を抱え、部下はぽかんと口を開けた。
「このたーけッ! おみゃー、なに考えとるんきゃあ?」
「……シンタロー様、そういうことは発表より先に本人に打診するものです」
片方には怒鳴られ、もう片方には心底呆れた顔で嘆かれ、言葉に詰まった。何も考えていなかった、などと口にすれば、今度は何を言われるのか。
「とにかく、ワシはそんな大層なもん任される気もにゃーで、誰か他を当たってちょ」
若い魔法使いは、面倒な肩書きをつけられるのは真っ平だと膨れたが、はいそうですかと簡単に引き下がるわけにはいかない。
製薬部門が独立して本格的に薬品の開発と精製に取り組むようになれば、この部門だけで団の年間経費の2割以上をまかなうことができる、という試算が出ている。新薬でも開発すれば、その利益率は飛躍的にのびるだろう。そうなったとき、製薬部門の責任者は大きな発言力を持つことになる。その人間が外部と通じていたり、上層部にたてついたりされては厄介だ。
どうしても責任者は信頼できる手駒の中から出す必要があったし、薬学の知識があって信用できる人間、という条件を満たす人間は、ウィローしかいなかった。
「さっきも言ったろ。お前じゃダメだって言うなら理由を示してみろよ。他に推したい人間がいるって言うなら話を聞いてやってもいいぜ」
そうでなければ、自動的にこの役職はお前のものになる、と言ってやれば、名古屋弁の魔法使いはうえぇ、とあからさまな不満の声をあげた。
奇特な人間だな、と隣で従兄弟が呟くのを、もっともだと思う。少しでも良い役職を手に入れようと、権力のある人間にごまをすりおべっかを使い追従する連中の中にあって、与えられようとしている役職を固辞しようとする人間は希少だ。しかしそういう人間に限って、その役職を与えられるにふさわしい能力を持ち得た人間だと言うことを、その本人が認識しておらず、それがますます苛立ちを募らせる。
せっかく役職をやるというのだ、ありがたくもらっておけばいいものを。
「ま、いーや。とりあえず第一候補者はお前ってことで進めるから」
そういうことでよろしく、と伝えると、ふざけないで話を聞けと怒鳴られた。きっと総帥にたてついて処分を受ける可能性なんて考えてもいないのだろう、頬を真っ赤に染めた名古屋人が荒く息をつくのに、ふざける気があるんだったら人事なんか全部あの古狸どもに任せてる、と返すと、やっと言っていることを理解できたのか、驚愕の表情を顔に貼り付けたまま固まった。
その混乱に乗じて、従兄弟に目配せして場を立ち去ることにする。去り際にも、馴染みの深い秘書官が一言も発さないのを不審に思ってのぞき込むと、彼もやはり、隣に並ぶ魔法使いと同様の表情で固まっていたのだった。
その言葉に、会議室に集まった幹部達の中からどよめきが上がった。一気に部屋の空気が硬質なものへと変わっていくのが、手に取るように分かる。予想通りの反応だ。諸手をあげて賛同を得られるなど、元より考えてもいない。古参の幹部連中が総帥職を継いだばかりの自分を軽んじているのも、今の状態を居心地良く感じているのも知っている。
だが、組織には改革が必要なのだ。
「独立について反対意見があるなら言ってみろ。他に責任者に適任と思う人間がいれば推薦しろ。異議がないようなら、この案のまま、次回の幹部会で決定する」
今日の会議はこれで終わりだ、と言い置いて席を立つ。帰って、部門独立に必要な準備をしなくてはならない。反対派がどれだけごねようとも、両部門の独立は既に決定している。後は外堀をどう埋めるかだ。
補佐役に就任したばかりの従兄弟を促して、廊下へ出た。振り返りもせず足早に歩く後ろから、駆けてくる足音が二人分。何ごとかと思ってみれば、ティラミスに連れられたウィローの姿があった。いつもの魔法使いのような黒マントではなく、幹部会にふさわしい、ブレザーにきちんとタイを締めた正装だったが、頭にかぶった帽子は相変わらずだ。
「シンタロー総帥!」
叫ぶ声はひっくり返っている。明らかに運動不足だ。技術系の職員にも適度な運動を義務づける必要があるだろう、と隣で従兄弟が呟くのは、聞かなかったことにした。
「あんだよ、うるせぇな」
役職名に名前を付けた呼び方をされて、むっとする。どこぞの古狸どものようなマネをしてくれるな。にらみつけた視線に気づかないのか気にする余裕もないのか、ウィローは早口でまくし立てた。いつものしつこいくらいの名古屋弁に加速が付いて、もはやネイティヴスピーカーでもなければ聞き取れないレベルに達していた。
面倒だが、もう一度はじめから聞く以外に理解する方法はないだろう。それなりに方言を理解できるはずの従兄弟も、困惑顔だ。
「ああ、分かったよ。――分かったから、もういっぺん言ってみろ」
俺に分かる言葉で、と猫の鳴き声を思わせる言葉の波が収まるのを待って告げれば、ウィローは見事な緑色の髪を振り乱してがっくりと肩を落とした。
「総帥…フツーここまで喋らせてその反応はあれせんぎゃあ…」
「オメーが最初ッからまともに喋ってりゃ聞き返しもしねぇよ」
恨みがましく睨め付ける視線はしっかり無視した。いちいち気にしていては精神衛生上よろしくない。
「聞きてゃあのは製薬部門の件だぎゃあ。勝手にワシを責任者にせんとってちょー」
少しばかり譲歩した口調で呟くのを聞いて、思い出した。ウィローにこのことを全く話していなかったことを。それをそのまま口に出せば、父親の側近と従兄弟は頭を抱え、部下はぽかんと口を開けた。
「このたーけッ! おみゃー、なに考えとるんきゃあ?」
「……シンタロー様、そういうことは発表より先に本人に打診するものです」
片方には怒鳴られ、もう片方には心底呆れた顔で嘆かれ、言葉に詰まった。何も考えていなかった、などと口にすれば、今度は何を言われるのか。
「とにかく、ワシはそんな大層なもん任される気もにゃーで、誰か他を当たってちょ」
若い魔法使いは、面倒な肩書きをつけられるのは真っ平だと膨れたが、はいそうですかと簡単に引き下がるわけにはいかない。
製薬部門が独立して本格的に薬品の開発と精製に取り組むようになれば、この部門だけで団の年間経費の2割以上をまかなうことができる、という試算が出ている。新薬でも開発すれば、その利益率は飛躍的にのびるだろう。そうなったとき、製薬部門の責任者は大きな発言力を持つことになる。その人間が外部と通じていたり、上層部にたてついたりされては厄介だ。
どうしても責任者は信頼できる手駒の中から出す必要があったし、薬学の知識があって信用できる人間、という条件を満たす人間は、ウィローしかいなかった。
「さっきも言ったろ。お前じゃダメだって言うなら理由を示してみろよ。他に推したい人間がいるって言うなら話を聞いてやってもいいぜ」
そうでなければ、自動的にこの役職はお前のものになる、と言ってやれば、名古屋弁の魔法使いはうえぇ、とあからさまな不満の声をあげた。
奇特な人間だな、と隣で従兄弟が呟くのを、もっともだと思う。少しでも良い役職を手に入れようと、権力のある人間にごまをすりおべっかを使い追従する連中の中にあって、与えられようとしている役職を固辞しようとする人間は希少だ。しかしそういう人間に限って、その役職を与えられるにふさわしい能力を持ち得た人間だと言うことを、その本人が認識しておらず、それがますます苛立ちを募らせる。
せっかく役職をやるというのだ、ありがたくもらっておけばいいものを。
「ま、いーや。とりあえず第一候補者はお前ってことで進めるから」
そういうことでよろしく、と伝えると、ふざけないで話を聞けと怒鳴られた。きっと総帥にたてついて処分を受ける可能性なんて考えてもいないのだろう、頬を真っ赤に染めた名古屋人が荒く息をつくのに、ふざける気があるんだったら人事なんか全部あの古狸どもに任せてる、と返すと、やっと言っていることを理解できたのか、驚愕の表情を顔に貼り付けたまま固まった。
その混乱に乗じて、従兄弟に目配せして場を立ち去ることにする。去り際にも、馴染みの深い秘書官が一言も発さないのを不審に思ってのぞき込むと、彼もやはり、隣に並ぶ魔法使いと同様の表情で固まっていたのだった。
「…食わねぇの?」
難しい顔をして考え込む男の前に置かれたトレーを示して聞けば、うんとかああとか、要領を得ない言葉が返ってくる。トレーの上には一口だけかじられたバーガーと、ほとんど手のつけられていないポテト、紙コップに入ったドリンクが置かれてある。自分の目の前のトレーには、同じものの空き容器だけが載っていた。
「冷めちまうぜ」
不味くならないうちに食べてしまえ、と声をかけても男はなにやら考え込んだまま、視線は周りの座席に座るサラリーマン風の男たちを追っている。
注目されるのが嫌いな従兄弟のために、せっかく学生の少ないオフィス街に近い立地の店を選んだのに、いったい何なのだとしびれを切らす直前に、キンタローがぼそりと呟いた。
「――この国の大人はこんなものばかり食べているのか?」
「は?」
なんだそりゃ、と返せば、まじめくさった顔でまた新しい疑問を投げかけてくる。
「食事としては糖分と塩分と油分が多すぎだ。それにこのオモチャ……」
指摘されて、そりゃそうだと頷く。彼の注文したセットは子供向けの商品だし、このチェーンの商品は一般的に若い世代に人気があるものだ。この店にサラリーマン風のいい年をした男性客が多いのは、オフィス街で他に食事ができるところが少ないうえに、今がちょうど昼休みの時間帯だからだ。
簡潔に説明してやると、男は頭を捻った。
「…だがグンマはこのセットが好きだと言ってた」
「お前、グンマを一般の成人男性と同じように考えるなよ」
三十路も目前になって、まだ恐い話をすると一人で眠れなくなるようなやつといっしょにされては、世間の男どももたまったものではないだろう。それに、グンマが好きなのは商品そのものではなくおまけのオモチャだ。
「……そうなのか?」
首をかしげる姿を見て、やはりグンマに一般常識を教え込ませたのは失敗だっただろうか、と思いながらストローに口を付ける。氷が溶けて薄まった炭酸飲料が不快でなく、どこか懐かしい気さえするのは幼い頃に何度か父親に連れてきて貰ったことがあるからだろうか。食品添加物やら栄養の偏りやらを理由に普段は許してくれなかったが、ねだれば時折、グンマもつれて3人で出かけることがあった。――ということは。
「――お前、来たことあるだろ? ガキの頃…」
つい先日まで同じ身体に同居していたのだ、覚えているだろう、と問えばそんな古い記憶はもう曖昧だと言いながら、キンタローはバーガーにかじりついた。
無表情で咀嚼し嚥下しポテトを口に運ぶのを、ジュースを飲みながら眺めていると、突然キンタローが静止した。なにやら考えているらしい視線は、トレーの上を見つめている。
「どうした?」
「これ、グンマの土産にしてもいいだろうか」
「――いいんじゃねぇの。アイツこういうの好きだし、喜ぶと思うぜ」
そうでなくても、キンタローの選んだものならグンマは何でも喜ぶだろうが。
「そうか」
ほっとしたように笑って、いきなり席を立とうとしたキンタローのコートの裾を、テーブル越しに慌ててつかむ。
「待て待て、どこ行くつもりだ」
「グンマの土産にするぶんを、追加するだけだが…」
「追加って、おい待て!」
己の手を振り払ってカウンターに向かおうとするキンタローを語気荒く呼び止める。口論とでも間違えたか、客の何人かが振り返った。
「お前、こんなもの本部まで持って帰るつもりか!?」
「…そうだが、なんだ。どうせもう一時間もすれば日本を離れるのだろう?」
訝しげにこちらを伺う男を怒鳴りつけたくなるのを、必死で理性で押しとどめる。端から見れば単なる諍いごとにしか見えないだろうし、警察なんぞ呼ばれるのも困る。この国では我々は異邦人だ。厄介ごとは極力避けたい。ややこしいのは御免だ。
「いいから、座れ。グンマへの土産はそれだけでいい」
絶対に喜ぶから、とたたみかけるように告げれば、キンタローは釈然としない様子を見せながらも大人しく席へ戻った。
「本当か?」
「ああ。俺が保証するから」
少なくとも冷え切ったバーガーとポテト、温くなって炭酸の抜けたジュースよりは犬のぬいぐるみ二つの方が良いに決まっている。このメニューが食べたかったのだ、と言われれば本部近くの店舗に連れて行ってやればいい。なにせこのチェーンは世界の約2/3の国に存在しているのだ。
「……よくわからんな、お前は」
それはこっちのセリフだ、と半ば呆れながら、シンタローは次の教育要員を誰にしようか、と思案をはじめていた。
難しい顔をして考え込む男の前に置かれたトレーを示して聞けば、うんとかああとか、要領を得ない言葉が返ってくる。トレーの上には一口だけかじられたバーガーと、ほとんど手のつけられていないポテト、紙コップに入ったドリンクが置かれてある。自分の目の前のトレーには、同じものの空き容器だけが載っていた。
「冷めちまうぜ」
不味くならないうちに食べてしまえ、と声をかけても男はなにやら考え込んだまま、視線は周りの座席に座るサラリーマン風の男たちを追っている。
注目されるのが嫌いな従兄弟のために、せっかく学生の少ないオフィス街に近い立地の店を選んだのに、いったい何なのだとしびれを切らす直前に、キンタローがぼそりと呟いた。
「――この国の大人はこんなものばかり食べているのか?」
「は?」
なんだそりゃ、と返せば、まじめくさった顔でまた新しい疑問を投げかけてくる。
「食事としては糖分と塩分と油分が多すぎだ。それにこのオモチャ……」
指摘されて、そりゃそうだと頷く。彼の注文したセットは子供向けの商品だし、このチェーンの商品は一般的に若い世代に人気があるものだ。この店にサラリーマン風のいい年をした男性客が多いのは、オフィス街で他に食事ができるところが少ないうえに、今がちょうど昼休みの時間帯だからだ。
簡潔に説明してやると、男は頭を捻った。
「…だがグンマはこのセットが好きだと言ってた」
「お前、グンマを一般の成人男性と同じように考えるなよ」
三十路も目前になって、まだ恐い話をすると一人で眠れなくなるようなやつといっしょにされては、世間の男どももたまったものではないだろう。それに、グンマが好きなのは商品そのものではなくおまけのオモチャだ。
「……そうなのか?」
首をかしげる姿を見て、やはりグンマに一般常識を教え込ませたのは失敗だっただろうか、と思いながらストローに口を付ける。氷が溶けて薄まった炭酸飲料が不快でなく、どこか懐かしい気さえするのは幼い頃に何度か父親に連れてきて貰ったことがあるからだろうか。食品添加物やら栄養の偏りやらを理由に普段は許してくれなかったが、ねだれば時折、グンマもつれて3人で出かけることがあった。――ということは。
「――お前、来たことあるだろ? ガキの頃…」
つい先日まで同じ身体に同居していたのだ、覚えているだろう、と問えばそんな古い記憶はもう曖昧だと言いながら、キンタローはバーガーにかじりついた。
無表情で咀嚼し嚥下しポテトを口に運ぶのを、ジュースを飲みながら眺めていると、突然キンタローが静止した。なにやら考えているらしい視線は、トレーの上を見つめている。
「どうした?」
「これ、グンマの土産にしてもいいだろうか」
「――いいんじゃねぇの。アイツこういうの好きだし、喜ぶと思うぜ」
そうでなくても、キンタローの選んだものならグンマは何でも喜ぶだろうが。
「そうか」
ほっとしたように笑って、いきなり席を立とうとしたキンタローのコートの裾を、テーブル越しに慌ててつかむ。
「待て待て、どこ行くつもりだ」
「グンマの土産にするぶんを、追加するだけだが…」
「追加って、おい待て!」
己の手を振り払ってカウンターに向かおうとするキンタローを語気荒く呼び止める。口論とでも間違えたか、客の何人かが振り返った。
「お前、こんなもの本部まで持って帰るつもりか!?」
「…そうだが、なんだ。どうせもう一時間もすれば日本を離れるのだろう?」
訝しげにこちらを伺う男を怒鳴りつけたくなるのを、必死で理性で押しとどめる。端から見れば単なる諍いごとにしか見えないだろうし、警察なんぞ呼ばれるのも困る。この国では我々は異邦人だ。厄介ごとは極力避けたい。ややこしいのは御免だ。
「いいから、座れ。グンマへの土産はそれだけでいい」
絶対に喜ぶから、とたたみかけるように告げれば、キンタローは釈然としない様子を見せながらも大人しく席へ戻った。
「本当か?」
「ああ。俺が保証するから」
少なくとも冷え切ったバーガーとポテト、温くなって炭酸の抜けたジュースよりは犬のぬいぐるみ二つの方が良いに決まっている。このメニューが食べたかったのだ、と言われれば本部近くの店舗に連れて行ってやればいい。なにせこのチェーンは世界の約2/3の国に存在しているのだ。
「……よくわからんな、お前は」
それはこっちのセリフだ、と半ば呆れながら、シンタローは次の教育要員を誰にしようか、と思案をはじめていた。
日付が変わって、もうかなりの時間が経つ。深夜と言うよりはもはや明け方に近いこの時間、あたりはひどく静かで、ただキーボードをタイプする音だけが耳に届く。
書きかけの文書を仕上げ、誤字脱字のチェックを兼ねてプリントアウトした用紙に目を通す。ミスの部分に朱を入れ、データを修正した後、用紙をシュレッダーにかける。
低いモーター音とともに原型を失っていく書類を見ながら、大きく伸びをする。用紙が数ミリ四方のチップ状にカットされたのを確認して、ディスクにデータを保存させたところで、ドアの向こうに人の気配を感じて、アラシヤマは振り返った。
間をおかず、部屋のインターフォンが鳴った。
「どちらはんどすか?」
返事はない。いや、なくても分かると言うべきか。こんな時間、しかも自分の部屋を訪ねて来る者など、一人しか心当たりがない。
もう数回、苛立ちを込めて連打された機械音に、相手を確信して腰を上げる。
「よォ」
「シンタローはん…」
開けたドアの向こうに見えた顔は、やはり想像したとおりの男のものだった。必要以上に目立つ赤いブレザーに、長い黒髪は今は無造作に後ろでひとつにまとめられている。
あの島にいたときのそれと同じ姿だ。そういえば、自分もいつの間にやら、あの島にいた頃の髪型に戻ってしまっていた。思い出してすぐに、それが酷く見苦しい感情だと気付いて自嘲する。そんなことを考えている場合ではないのに。
シンタローを招き入れ、椅子を勧め、自らはベッドに腰を下ろす。ちょうどいいタイミングで仕上がったばかりのディスクを、憮然とした表情の彼に手渡した。
「とりあえず、今回の件の顛末と始末書どす。あの――怒ってはる?」
問うた言葉に、男の眉間の皺が深くなるのがわかった。
「怒ってないわけねェだろ。前線から山ほどタグが届いて、その中からお前らの名前が入ったタグが見つかったって聞いて、それが手違いだったって分かるまで、俺がどんな気持ちでいたか」
しかもよくよく事情を聞いてみれば、原因はあいつらの初歩的な勘違いだって言うし、おまけにコージに睡眠薬盛られて生死の境さまよったって聞いて、もうどうしてくれようかと思った、と静かな口調で言われれば、もはや返す言葉もない。言葉を失って黙するアラシヤマを一瞥して、数瞬だけ躊躇する仕草をみせて、男は本題を切り出した。
「――お前、体調はどうなんだ?」
「へ、へぇ、おかげさまで。ドクターも異常あらへん、て言わはって」
残りの三人とともに総帥からこってりしぼられ、更に詳細な事実確認が行われた後、アラシヤマは医療班によって精密検査を受けさせられていた。何ごとにも大雑把な同僚が幸いにも記憶していた薬の特徴から、飲まされたのがかつて団員に支給されていた、強力な睡眠薬であることが判明したためだ。薬物に慣らされた人間向けに開発されたが、あまりにも強力すぎるうえに常用するとすぐに効果が薄れ、しかも中毒量と薬用量の差が小さく事故の起こる可能性が高いと言うことでしばらく後に使用が禁止され、回収・廃棄された薬剤だった。
それが、何をどう間違ったか、遠征用の薬品に紛れ、このたび運悪く使われてしまったらしい、とかつての保健医はアラシヤマの不運を笑いながら説明してくれたのだった。
「ならいい。現地の混乱も薬の方も、明日中には何とかなるらしいし、仕事も終わった」
「あ…」
こんな遅い時間までこの姿でいたのは、事後処理のためだったか、と気づいて急に申し訳なくなってくる。言われてみれば、いつもきちんと整えられていたブレザーは皺だらけで、目の下にはうっすら隈までできている。
「すんまへん、わて――。何でもしますさかい、堪忍え…」
なんでも?と、男は組んだ片ひざを抱えた体制で聞き返した。真っ黒な両の瞳に、心の中まで見透かされているような錯覚を覚えたまま、頷けば、男は口の端だけで微笑んだ。
「じゃあ、減給」
「はぁ?」
気の済むまで抱かせろだとか、かねてからやりたいと騒いでいた執務室でやらせろだとか、なにやら無体なことを言われるのではないかと身構えた肩の力が一気に抜けて、間の抜けた声が口をついて出た。
「減給80パーセント、6ヶ月」
が、やはりこの男の出す条件が無体なことに間違いはなかった。
「――本気どすか…?」
「だってオメー、何でもするって言ったじゃねぇか」
確かに言った。そして、自分たちが減給数ヶ月でも軽すぎるほどのことをしでかしたことも十分理解している。事実関係はどうあれ、結果的に命令を誤認し、友軍を混乱に陥れたのだ。普通なら良くて降格、悪ければ解雇、場合によっては軍法会議送りとなる場合もあることだって知っている。
「せやけど――」
それではあんまりだ、とアラシヤマは瞑目した。「一応」であっても幹部なのだから、見苦しくない程度に体裁を整えろと日頃から口うるさいのはどこの誰だ。そうするには、支給される衣食住の他に、幾ばくかの金は絶対に必要なのだ。
「せめて40パーセント12ヶ月くらいにまかりまへんやろか…」
「しょーがねぇなぁ、じゃあ50パーセント10ヶ月」
「減給総額、微妙に増えとらしまへん…?」
問えば、当然といわんばかりの口調で「俺に心配かけた分の慰謝料と、利子」と言い放たれて、言葉に詰まる。男の目が、にんまりと弧を描いた。
「――嘘だよ。始末書と二週間の謹慎。それと本部勤務に異動。体調のこともあるし、お前はそれで勘弁してやる」
キンタローにはもう承認を貰った、と言われて、思わず我が耳を疑った。
前回の異動からまだ半年。日々戦場を駆け回り命がけの毎日を送っていてさえ、総帥直属だというだけでお気に入りだの何だのと散々揶揄されてきたのに、更に安全な部署に引きこもることになれば、周囲はまた騒ぎ立てるに違いない。
身体を使って今の地位を手に入れたのだ、などとありもしないようなことを吹聴されるのも真っ平だし、己で勝ち取ったこの役職に、実力以外の何らかの要素が介在していると思われることすら我慢できない。さらに総帥が一部の人間を特別扱いしていると噂にでもなれば、今後組織を動かしていく上で、支障になるであろうことは容易に想像がつく。望んでいるのは、女のように守られることでも庇われることでもない。今回のことで既にこれだけの迷惑をかけているのに、これ以上この男の足を引っ張るのは嫌だ。
「嫌や」
シンタローの、弧を描いていた瞳に鋭い光が宿る。機嫌を損ねたと知っても、言葉は止まらなかった。
「わては、嫌や。謹慎はともかく、内勤は勘弁しとくれやす。戦えんわてに、何の存在価値がありますの? それに来週のK地区の件かて、わてやないと――」
「なら解雇だ」
「な! そないにいきなり殺生な!」
「うっせぇな。そんな勝手な部下手元に置いておけるか。退職金満額払ってやるから何処へなりと行っちまえ」
シンタローの口調は素っ気なく、とりつく島もない。
「せやかて、わての能力が役に立つんは戦場だけどす。それはシンタローはんかてご存じのはずや。わてはわての能力がいかせる場所で働きたいだけなんどす」
せめて、少しでも役に立てるように。
「ッざけんな!」
縋りつくように食い下がれば、低い怒鳴り声とともにシンタローの拳が壁を打った。
響く鈍い音に、アラシヤマは首をすくめる。一応の防音はしてあるとはいえ、隣室の人間には迷惑なことだろう。もっとも、隣室の住民は顔すら思い出すことができないけれど。
「副作用がいつ出るか分かんねェんだろ!?」
そんな言葉も、ドクターからの文書にはあったかもしれない。だがそれだって、ただ可能性があると言うだけのことだ。規定を大幅に越える二倍量の臨床試験なんて、当然行ってもいない一昔前の薬だ。副作用の症状だってはっきりとは分からない。意識障害か臓器不全か単なる発熱か悪寒か、或いはもっと別の症状か。それがおこるのは今なのか明日なのか来週なのか、それとも永遠にそのときは来ないのか、それすら定かではない。
そんな頼りないものを頭から信じ込んでいたら、ここではやっていけない、とアラシヤマは思う。この組織で生きることと生命の危機は、ほぼ同義だ。己のような戦闘要員であれば、なおのこと。
「そんな状態で戦場に出たい、だァ? それで前線で昏倒でもしたらどうする? お前の自己満足でいたずらに部隊を混乱に陥れるつもりか!? 何でもかんでも自分の好きなようにできると思うな! お前の指揮ひとつで部下が動くんだぞ!」
「ほな、わてにこの先二度と戦場に出るな言わはるん?」
「そんなこと言ってねぇだろ!」
「言わはったんと同じやあらしまへんか。はっきり言わはったらどうどすか? こんな間抜けな部下は恐ろしゅうて使われへん、て!」
「アラシヤマ!」
「ああ、総帥がそないにご心配なら、懲罰大隊に編入してくれはってもよろしおすえ。あそこならいっそ死んでも誰にも迷惑はかからへんし、勤務地は必ず前線やさかい!」
「てめぇ…ッ!」
怒りにまかせて同じようにアラシヤマが怒鳴り返せば、頬を紅潮させ、声を荒げる彼の片頬に一筋の涙が伝った。
「シンタローはん…?」
「触んな!」
予想外の反応に驚き、思わずさしのべた手が、子供のような仕草で払いのけられる。その拍子に、水滴が赤いブレザーにいくつもの染みを作る。
「人が心配してんのに、何なんだよテメェは! いつでもいいッつったのにこんな時間までこんなモン書いて、あげくに来週には戦場に出たい!? ああ、じゃあもう好きにすればいいだろ!」
ディスクがシーツの上に投げつけられるのを視界の端に見ながらアラシヤマは、耳に届いた単語のひとつを頭の中で反芻していた。たった4文字の単語が意識の全てを支配し、頭の中でぐるぐる回る。
理解しようと必死の意識とは裏腹に、理性がそれを認めようとしない。
「心配…?」
聞き取った単語の意図を、結局納得できないままに鸚鵡返しに復唱すれば、黒い瞳が射るような視線を向ける。
「ひょっとして、心配してくれはっとったん?」
「――それ以外にどうして欲しいんだ、お前は」
突っぱねたような物言いは、照れているせいだと長いつきあいから理解している。濡れた頬に手を伸ばし、水滴を指の腹でぬぐえば、その腕をつかまれ引き倒された。シンタローを押し倒すようなかたちでベッドに転がされ、抱きすくめられる。
「つ…ッ、シンタローはん!」
両腕に痛いほど力を込められ、身じろぎすることも許されない。
「お前が死んだって聞かされて、頭ン中が真っ白になった。いったい何をしていいのか、何をしたらいいのか、何をしてやれるのか、まるで分からなくなって――ただ、恐いと思った」
シンタローの顔はアラシヤマの肩口に埋められ、呟く表情は見えない。しかしそれは明らかに怯えの色を孕んでいた。普段の、自信に裏打ちされた力強さでもって言葉を紡ぐ総帥の面影は今はない。
「足が震えて、もう立てないんじゃないかと思うくらい膝に力が入らなくて、自分に何もできないことが歯がゆくて…俺には、自分を無力だと罵ることしかできなかった」
「……堪忍え、シンタローはん。そこまで心配してくれはったやなんて…わて、てっきり呆れられとるもんとばっかり…」
「いいから…だから――側にいろ。ここにいてくれ。何処にも行くな」
頼む、と呟く声は頼りない子供のようにも思えた。唯一自由になる片手で、アラシヤマは長い黒髪を撫で、耳元で囁いた。
「シンタローはんの命令以外では、二度と何処へも行かへんし――もちろん死んだりもしまへん。わてが従うのはあんさんだけやさかい」
「――嘘ついたらただじゃおかねぇからな」
「へぇ。覚悟しときまひょ」
布地越しにシンタローの体温を感じながら、アラシヤマは小さく微笑んだ。総帥の身が安全である限りは、と胸の内で呟きながら。
翌朝、秘書官から渡された「士官学校付き教官」の辞令を目にした伊達衆がパニックに陥る姿が複数の下士官達によって目撃されたが、その詳細は不明である。
書きかけの文書を仕上げ、誤字脱字のチェックを兼ねてプリントアウトした用紙に目を通す。ミスの部分に朱を入れ、データを修正した後、用紙をシュレッダーにかける。
低いモーター音とともに原型を失っていく書類を見ながら、大きく伸びをする。用紙が数ミリ四方のチップ状にカットされたのを確認して、ディスクにデータを保存させたところで、ドアの向こうに人の気配を感じて、アラシヤマは振り返った。
間をおかず、部屋のインターフォンが鳴った。
「どちらはんどすか?」
返事はない。いや、なくても分かると言うべきか。こんな時間、しかも自分の部屋を訪ねて来る者など、一人しか心当たりがない。
もう数回、苛立ちを込めて連打された機械音に、相手を確信して腰を上げる。
「よォ」
「シンタローはん…」
開けたドアの向こうに見えた顔は、やはり想像したとおりの男のものだった。必要以上に目立つ赤いブレザーに、長い黒髪は今は無造作に後ろでひとつにまとめられている。
あの島にいたときのそれと同じ姿だ。そういえば、自分もいつの間にやら、あの島にいた頃の髪型に戻ってしまっていた。思い出してすぐに、それが酷く見苦しい感情だと気付いて自嘲する。そんなことを考えている場合ではないのに。
シンタローを招き入れ、椅子を勧め、自らはベッドに腰を下ろす。ちょうどいいタイミングで仕上がったばかりのディスクを、憮然とした表情の彼に手渡した。
「とりあえず、今回の件の顛末と始末書どす。あの――怒ってはる?」
問うた言葉に、男の眉間の皺が深くなるのがわかった。
「怒ってないわけねェだろ。前線から山ほどタグが届いて、その中からお前らの名前が入ったタグが見つかったって聞いて、それが手違いだったって分かるまで、俺がどんな気持ちでいたか」
しかもよくよく事情を聞いてみれば、原因はあいつらの初歩的な勘違いだって言うし、おまけにコージに睡眠薬盛られて生死の境さまよったって聞いて、もうどうしてくれようかと思った、と静かな口調で言われれば、もはや返す言葉もない。言葉を失って黙するアラシヤマを一瞥して、数瞬だけ躊躇する仕草をみせて、男は本題を切り出した。
「――お前、体調はどうなんだ?」
「へ、へぇ、おかげさまで。ドクターも異常あらへん、て言わはって」
残りの三人とともに総帥からこってりしぼられ、更に詳細な事実確認が行われた後、アラシヤマは医療班によって精密検査を受けさせられていた。何ごとにも大雑把な同僚が幸いにも記憶していた薬の特徴から、飲まされたのがかつて団員に支給されていた、強力な睡眠薬であることが判明したためだ。薬物に慣らされた人間向けに開発されたが、あまりにも強力すぎるうえに常用するとすぐに効果が薄れ、しかも中毒量と薬用量の差が小さく事故の起こる可能性が高いと言うことでしばらく後に使用が禁止され、回収・廃棄された薬剤だった。
それが、何をどう間違ったか、遠征用の薬品に紛れ、このたび運悪く使われてしまったらしい、とかつての保健医はアラシヤマの不運を笑いながら説明してくれたのだった。
「ならいい。現地の混乱も薬の方も、明日中には何とかなるらしいし、仕事も終わった」
「あ…」
こんな遅い時間までこの姿でいたのは、事後処理のためだったか、と気づいて急に申し訳なくなってくる。言われてみれば、いつもきちんと整えられていたブレザーは皺だらけで、目の下にはうっすら隈までできている。
「すんまへん、わて――。何でもしますさかい、堪忍え…」
なんでも?と、男は組んだ片ひざを抱えた体制で聞き返した。真っ黒な両の瞳に、心の中まで見透かされているような錯覚を覚えたまま、頷けば、男は口の端だけで微笑んだ。
「じゃあ、減給」
「はぁ?」
気の済むまで抱かせろだとか、かねてからやりたいと騒いでいた執務室でやらせろだとか、なにやら無体なことを言われるのではないかと身構えた肩の力が一気に抜けて、間の抜けた声が口をついて出た。
「減給80パーセント、6ヶ月」
が、やはりこの男の出す条件が無体なことに間違いはなかった。
「――本気どすか…?」
「だってオメー、何でもするって言ったじゃねぇか」
確かに言った。そして、自分たちが減給数ヶ月でも軽すぎるほどのことをしでかしたことも十分理解している。事実関係はどうあれ、結果的に命令を誤認し、友軍を混乱に陥れたのだ。普通なら良くて降格、悪ければ解雇、場合によっては軍法会議送りとなる場合もあることだって知っている。
「せやけど――」
それではあんまりだ、とアラシヤマは瞑目した。「一応」であっても幹部なのだから、見苦しくない程度に体裁を整えろと日頃から口うるさいのはどこの誰だ。そうするには、支給される衣食住の他に、幾ばくかの金は絶対に必要なのだ。
「せめて40パーセント12ヶ月くらいにまかりまへんやろか…」
「しょーがねぇなぁ、じゃあ50パーセント10ヶ月」
「減給総額、微妙に増えとらしまへん…?」
問えば、当然といわんばかりの口調で「俺に心配かけた分の慰謝料と、利子」と言い放たれて、言葉に詰まる。男の目が、にんまりと弧を描いた。
「――嘘だよ。始末書と二週間の謹慎。それと本部勤務に異動。体調のこともあるし、お前はそれで勘弁してやる」
キンタローにはもう承認を貰った、と言われて、思わず我が耳を疑った。
前回の異動からまだ半年。日々戦場を駆け回り命がけの毎日を送っていてさえ、総帥直属だというだけでお気に入りだの何だのと散々揶揄されてきたのに、更に安全な部署に引きこもることになれば、周囲はまた騒ぎ立てるに違いない。
身体を使って今の地位を手に入れたのだ、などとありもしないようなことを吹聴されるのも真っ平だし、己で勝ち取ったこの役職に、実力以外の何らかの要素が介在していると思われることすら我慢できない。さらに総帥が一部の人間を特別扱いしていると噂にでもなれば、今後組織を動かしていく上で、支障になるであろうことは容易に想像がつく。望んでいるのは、女のように守られることでも庇われることでもない。今回のことで既にこれだけの迷惑をかけているのに、これ以上この男の足を引っ張るのは嫌だ。
「嫌や」
シンタローの、弧を描いていた瞳に鋭い光が宿る。機嫌を損ねたと知っても、言葉は止まらなかった。
「わては、嫌や。謹慎はともかく、内勤は勘弁しとくれやす。戦えんわてに、何の存在価値がありますの? それに来週のK地区の件かて、わてやないと――」
「なら解雇だ」
「な! そないにいきなり殺生な!」
「うっせぇな。そんな勝手な部下手元に置いておけるか。退職金満額払ってやるから何処へなりと行っちまえ」
シンタローの口調は素っ気なく、とりつく島もない。
「せやかて、わての能力が役に立つんは戦場だけどす。それはシンタローはんかてご存じのはずや。わてはわての能力がいかせる場所で働きたいだけなんどす」
せめて、少しでも役に立てるように。
「ッざけんな!」
縋りつくように食い下がれば、低い怒鳴り声とともにシンタローの拳が壁を打った。
響く鈍い音に、アラシヤマは首をすくめる。一応の防音はしてあるとはいえ、隣室の人間には迷惑なことだろう。もっとも、隣室の住民は顔すら思い出すことができないけれど。
「副作用がいつ出るか分かんねェんだろ!?」
そんな言葉も、ドクターからの文書にはあったかもしれない。だがそれだって、ただ可能性があると言うだけのことだ。規定を大幅に越える二倍量の臨床試験なんて、当然行ってもいない一昔前の薬だ。副作用の症状だってはっきりとは分からない。意識障害か臓器不全か単なる発熱か悪寒か、或いはもっと別の症状か。それがおこるのは今なのか明日なのか来週なのか、それとも永遠にそのときは来ないのか、それすら定かではない。
そんな頼りないものを頭から信じ込んでいたら、ここではやっていけない、とアラシヤマは思う。この組織で生きることと生命の危機は、ほぼ同義だ。己のような戦闘要員であれば、なおのこと。
「そんな状態で戦場に出たい、だァ? それで前線で昏倒でもしたらどうする? お前の自己満足でいたずらに部隊を混乱に陥れるつもりか!? 何でもかんでも自分の好きなようにできると思うな! お前の指揮ひとつで部下が動くんだぞ!」
「ほな、わてにこの先二度と戦場に出るな言わはるん?」
「そんなこと言ってねぇだろ!」
「言わはったんと同じやあらしまへんか。はっきり言わはったらどうどすか? こんな間抜けな部下は恐ろしゅうて使われへん、て!」
「アラシヤマ!」
「ああ、総帥がそないにご心配なら、懲罰大隊に編入してくれはってもよろしおすえ。あそこならいっそ死んでも誰にも迷惑はかからへんし、勤務地は必ず前線やさかい!」
「てめぇ…ッ!」
怒りにまかせて同じようにアラシヤマが怒鳴り返せば、頬を紅潮させ、声を荒げる彼の片頬に一筋の涙が伝った。
「シンタローはん…?」
「触んな!」
予想外の反応に驚き、思わずさしのべた手が、子供のような仕草で払いのけられる。その拍子に、水滴が赤いブレザーにいくつもの染みを作る。
「人が心配してんのに、何なんだよテメェは! いつでもいいッつったのにこんな時間までこんなモン書いて、あげくに来週には戦場に出たい!? ああ、じゃあもう好きにすればいいだろ!」
ディスクがシーツの上に投げつけられるのを視界の端に見ながらアラシヤマは、耳に届いた単語のひとつを頭の中で反芻していた。たった4文字の単語が意識の全てを支配し、頭の中でぐるぐる回る。
理解しようと必死の意識とは裏腹に、理性がそれを認めようとしない。
「心配…?」
聞き取った単語の意図を、結局納得できないままに鸚鵡返しに復唱すれば、黒い瞳が射るような視線を向ける。
「ひょっとして、心配してくれはっとったん?」
「――それ以外にどうして欲しいんだ、お前は」
突っぱねたような物言いは、照れているせいだと長いつきあいから理解している。濡れた頬に手を伸ばし、水滴を指の腹でぬぐえば、その腕をつかまれ引き倒された。シンタローを押し倒すようなかたちでベッドに転がされ、抱きすくめられる。
「つ…ッ、シンタローはん!」
両腕に痛いほど力を込められ、身じろぎすることも許されない。
「お前が死んだって聞かされて、頭ン中が真っ白になった。いったい何をしていいのか、何をしたらいいのか、何をしてやれるのか、まるで分からなくなって――ただ、恐いと思った」
シンタローの顔はアラシヤマの肩口に埋められ、呟く表情は見えない。しかしそれは明らかに怯えの色を孕んでいた。普段の、自信に裏打ちされた力強さでもって言葉を紡ぐ総帥の面影は今はない。
「足が震えて、もう立てないんじゃないかと思うくらい膝に力が入らなくて、自分に何もできないことが歯がゆくて…俺には、自分を無力だと罵ることしかできなかった」
「……堪忍え、シンタローはん。そこまで心配してくれはったやなんて…わて、てっきり呆れられとるもんとばっかり…」
「いいから…だから――側にいろ。ここにいてくれ。何処にも行くな」
頼む、と呟く声は頼りない子供のようにも思えた。唯一自由になる片手で、アラシヤマは長い黒髪を撫で、耳元で囁いた。
「シンタローはんの命令以外では、二度と何処へも行かへんし――もちろん死んだりもしまへん。わてが従うのはあんさんだけやさかい」
「――嘘ついたらただじゃおかねぇからな」
「へぇ。覚悟しときまひょ」
布地越しにシンタローの体温を感じながら、アラシヤマは小さく微笑んだ。総帥の身が安全である限りは、と胸の内で呟きながら。
翌朝、秘書官から渡された「士官学校付き教官」の辞令を目にした伊達衆がパニックに陥る姿が複数の下士官達によって目撃されたが、その詳細は不明である。
私の名はティラミス。ガンマ団前総帥・マジック様の忠実な側近である。
マジック様の専属の秘書官であり、その業務は、身の回りのお世話や雑用から、日常の警護・スケジュール管理・執務の補佐まで多岐にわたる。
あるとき、マジック様がお風邪を召された。
折悪く、キンタロー様は学会出席のため不在であり、入れ替わりに遠征から戻る予定であった新総帥・シンタロー様の帰還も悪天候の影響で戦闘が長引き、遅れていた。しかしながら、責任者が不在であっても決裁が必要な書類は減るものではなく、積み上がる書類を見かねて、マジック様が総帥代行を務められることになった。
体調が万全でないため、寝室を仮の執務室として書類を持ち込み、人の出入りを制限し、できるだけお体に負担をかけないようなかたちを取りはしたものの、マジック様の仕事量はシンタロー様のそれにも負けぬほどであった。それこそ、放っておけば目を覚まされてからお休みになるまでずっと書類と向き合っておられるため、我々は体調が悪化されるのではないかと気が気ではなかった。チョコレートロマンスと2交代制をとり、常にどちらかがお側に控えているようにしたのも、そのためである。
夕方から朝にかけてはチョコレートロマンスが隣室で仮眠を取りながら定期的にご様子を伺い、朝から夕方までは私が身の回りのお世話をしながら部下との橋渡し役を務める、という日が幾日か続いたある朝のことだ。チョコレートロマンスからの引き継ぎを済ませ、朝食をお持ちしたとき、マジック様は既に書類に向かっていらっしゃった。
「失礼します。お食事をお持ちしました」
朝食のトレーをワゴンに載せ、部屋へはいると、マジック様は寝間着のままベッドに上体を起こした体制で、書類に目を通されていた。おはよう、とかけられる声も、心なしか普段より嬉しそうなご様子だ。
「マジック様、あまり根を詰められますとお体に触ります」
「ああ、しかしこれくらいは終わらせておかないとね。シンちゃんが帰ってきたとき、疲れてるのに書類が山積みなのは可哀想だろう?」
手にした一葉にサインを入れ、シーツの上に置かれた数葉の書類をまとめながら、おっしゃる。シンタロー様が遠征へ出かけられる前夜、執務室が半壊するほどの壮絶な親子喧嘩をなさったことも、もう気にしていらっしゃらないようだ。あれだけぼろぼろにされていたのはたった半月ほどまえのことでしかないのに、素晴らしいまでの溺愛ぶりだ、と思う。
「それにほら、シンちゃんが私に、とお見舞いを送ってくれたからね」
微笑みながら指し示された窓際には、小ぶりの鉢植えが置かれてあった。
素焼きの素朴な鉢に植えられた背の低い植物は、葉を覆い隠さんばかりに花を咲かせている。細長い花弁をいくつも重ね、円形に広げたかたちの花の中心は白く、外側は赤で縁取られている。昨日の夜にでも届いたのだろう、鉢についたカードは出入りの業者のもので、宛名と贈り主の名前が書かれただけの素っ気ないものだったが、それでもマジック様には十分であったようだ。
「遠征が長引いてるっていうのに、わざわざ私のために花を手配してくれるなんて…普段あれだけ反抗してても、やっぱりシンちゃんは私のことが好きなんだねぇ」
そうだろうシンちゃん、と枕元の人形を撫でながら囁かれるマジック様は本当に嬉しそうで、私にはただその言葉を肯定することしかできなかった。
「――そ、それでは忘れず花に水をやるよう、係の者に申しつけておきます」
「ああいや、それには及ばないよ。シンちゃんが、わ・た・し・に・くれた花なんだから、面倒は私が見るつもりだ」
笑顔のまま、しかし有無を言わせぬ響きに、思わず背筋が伸びる。
「分かりました。それでは毎朝水をお持ちするようにいたします」
「そうだね。頼むよ。それから――これを」
差し出された書類を受け取り、代わりに朝食をベッドサイドテーブルに置き、私は部屋を辞した。決裁された書類に基づいて各部署に諸々の許可を出し、夕方に予定されている会議の用意もしなくてはならない。今日も忙しい。
しかしそれでも、私はこの状況が少しでも長く続けばいい、と思っていた。
私の名はティラミス。ガンマ団前総帥・マジック様の忠実な側近である。
ゆえに私は黙秘する。シンタロー様から届いた花が、サイネリアの鉢植えであったことを。
おそらくシンタロー様のお怒りは、まだ解けていないであろうことを。
マジック様の専属の秘書官であり、その業務は、身の回りのお世話や雑用から、日常の警護・スケジュール管理・執務の補佐まで多岐にわたる。
あるとき、マジック様がお風邪を召された。
折悪く、キンタロー様は学会出席のため不在であり、入れ替わりに遠征から戻る予定であった新総帥・シンタロー様の帰還も悪天候の影響で戦闘が長引き、遅れていた。しかしながら、責任者が不在であっても決裁が必要な書類は減るものではなく、積み上がる書類を見かねて、マジック様が総帥代行を務められることになった。
体調が万全でないため、寝室を仮の執務室として書類を持ち込み、人の出入りを制限し、できるだけお体に負担をかけないようなかたちを取りはしたものの、マジック様の仕事量はシンタロー様のそれにも負けぬほどであった。それこそ、放っておけば目を覚まされてからお休みになるまでずっと書類と向き合っておられるため、我々は体調が悪化されるのではないかと気が気ではなかった。チョコレートロマンスと2交代制をとり、常にどちらかがお側に控えているようにしたのも、そのためである。
夕方から朝にかけてはチョコレートロマンスが隣室で仮眠を取りながら定期的にご様子を伺い、朝から夕方までは私が身の回りのお世話をしながら部下との橋渡し役を務める、という日が幾日か続いたある朝のことだ。チョコレートロマンスからの引き継ぎを済ませ、朝食をお持ちしたとき、マジック様は既に書類に向かっていらっしゃった。
「失礼します。お食事をお持ちしました」
朝食のトレーをワゴンに載せ、部屋へはいると、マジック様は寝間着のままベッドに上体を起こした体制で、書類に目を通されていた。おはよう、とかけられる声も、心なしか普段より嬉しそうなご様子だ。
「マジック様、あまり根を詰められますとお体に触ります」
「ああ、しかしこれくらいは終わらせておかないとね。シンちゃんが帰ってきたとき、疲れてるのに書類が山積みなのは可哀想だろう?」
手にした一葉にサインを入れ、シーツの上に置かれた数葉の書類をまとめながら、おっしゃる。シンタロー様が遠征へ出かけられる前夜、執務室が半壊するほどの壮絶な親子喧嘩をなさったことも、もう気にしていらっしゃらないようだ。あれだけぼろぼろにされていたのはたった半月ほどまえのことでしかないのに、素晴らしいまでの溺愛ぶりだ、と思う。
「それにほら、シンちゃんが私に、とお見舞いを送ってくれたからね」
微笑みながら指し示された窓際には、小ぶりの鉢植えが置かれてあった。
素焼きの素朴な鉢に植えられた背の低い植物は、葉を覆い隠さんばかりに花を咲かせている。細長い花弁をいくつも重ね、円形に広げたかたちの花の中心は白く、外側は赤で縁取られている。昨日の夜にでも届いたのだろう、鉢についたカードは出入りの業者のもので、宛名と贈り主の名前が書かれただけの素っ気ないものだったが、それでもマジック様には十分であったようだ。
「遠征が長引いてるっていうのに、わざわざ私のために花を手配してくれるなんて…普段あれだけ反抗してても、やっぱりシンちゃんは私のことが好きなんだねぇ」
そうだろうシンちゃん、と枕元の人形を撫でながら囁かれるマジック様は本当に嬉しそうで、私にはただその言葉を肯定することしかできなかった。
「――そ、それでは忘れず花に水をやるよう、係の者に申しつけておきます」
「ああいや、それには及ばないよ。シンちゃんが、わ・た・し・に・くれた花なんだから、面倒は私が見るつもりだ」
笑顔のまま、しかし有無を言わせぬ響きに、思わず背筋が伸びる。
「分かりました。それでは毎朝水をお持ちするようにいたします」
「そうだね。頼むよ。それから――これを」
差し出された書類を受け取り、代わりに朝食をベッドサイドテーブルに置き、私は部屋を辞した。決裁された書類に基づいて各部署に諸々の許可を出し、夕方に予定されている会議の用意もしなくてはならない。今日も忙しい。
しかしそれでも、私はこの状況が少しでも長く続けばいい、と思っていた。
私の名はティラミス。ガンマ団前総帥・マジック様の忠実な側近である。
ゆえに私は黙秘する。シンタロー様から届いた花が、サイネリアの鉢植えであったことを。
おそらくシンタロー様のお怒りは、まだ解けていないであろうことを。