いくつか前の満月の晩、だったか。
見知らぬ、無気味な薄ら笑いを浮かべた男が、不法侵入をかましやがった。
そいつは俺の姿を上から下まで注視した後、気色悪いことを口走った。
「あんさんの血ぃ、おいしそうやな」
俺は当然のことながら、タメなし眼魔砲をお見舞いしてやる。
そして。
「惚れてまいそうやわ」
瓦礫の中から告げられた、全然めげていない言葉に、とどめを刺さなかったことを後悔したのだった。
それ以来、アラシヤマ――と名乗った自称吸血鬼は、月の出る晩には欠かさず俺の元を訪れて来る。
エフェメラリーな夜
羽織っただけの薄手のシャツが、ふわりとなびいた。
バルコニーと部屋を分かつガラス戸は、片方だけ開け放されていた。
湯冷めしないうちに、とっとと寝てしまおう。
窓際に近寄ると、冷気を含んだ突風が不意に吹き込んできて、俺は風呂上がりの温まった身を竦めて。
戸を閉めるために伸ばした腕の先、いつからいたのか、そこにある影にようやく気付く。
満月を背にしてバルコニーに佇む影は、俺の視線を受けて口許を緩めた。
「入ってもよろしおすか?」
躁とも鬱とも取れる妙に癇に触る声が、夜の空気を震わせる。
「やだ」
「そんな殺生な・・シンタローは~ん」
「・・泣くな、ガラスでツメ研ぐな。入ってきたきゃ入って、とっとと帰れよ」
どんなに邪険に扱ってやろうが、許可を出せば、アラシヤマは嬉々として部屋に入ってくる。
いつも、いつも。
「ちゃんと髪拭かないと、風邪引きますえ」
「ん」
適当に頷きながら、俺は寝酒を呷る。
強いアルコールは喉を焼き、少し冷めてしまった身体を内から熱くした。
「もう寝ますのん?」
「寝る。明日も早いし」
「そうどすか」
夜も更けた頃にやって来て、朝日が昇る前にどこぞへ帰って行くアラシヤマは、昼間の俺がなにをしているのか、知らない。
そして俺も、アラシヤマのことなんか、ほとんどなにも知らなかった。
◆ ◆ ◆ ◆
気泡が水の中から浮かび上がるように、ゆっくりと覚醒した。
ぼやけた視界に夜空と、それにアラシヤマの背中が映る。
月の位置は未だ高く、夜明けは遠そうだった。
「・・まだ帰ってなかったのか」
渇いた喉から絞り出した声は、掠れて小さなものだった、が、アラシヤマは耳聡く振り返る。
「堪忍、起こしてまいましたか」
「いや」
喉の調子を整えようと、意識的に咳をする。
そうすると次第に胸が苦しくなって、今度は本気で激しく咳き込みながら、ぎゅっと目を瞑って俺は身体を縮めた。
喉は引き攣り、閉じられない口唇からぱたぱたと唾液が垂れた。
「シンタローはん」
間近に聞こえた声に、いつの間にやらアラシヤマがすぐ傍にいることを、知る。
(自称)怪物だけあって、こいつは気配を消すのがうまいのだ。
背に押し当てられた手のひらが、比喩じゃなく氷のごとく冷たい。
思わず身体を震わせると、それが伝染したかのようにその手は震えて、ぱっと離れた。
「すんまへん」
「なに、が」
深呼吸を繰り返す合間に、問う。
喉の痛みを残して、咳は徐々に治まってきている。
アラシヤマは答えずに、ベッドサイドの水差しを取った。
グラスに添えられた、骨張った指先はいつもの通り青白く、闇の中に薄ぼんやりと浮かんでいる。
俺は口許から手を離して、自分の腕を見た。
アラシヤマのそれより太いし、張りもあるし、血色もいい。
咳の代わりに込み上げてきた深いため息を、そっと押し殺す。
「具合悪いんどすか」
「ちょっとむせただけだ」
首を振りながら、差し出されたグラスを受け取ろうとする。
と、タイミングが合わずに、お互いの手の甲が軽くぶつかった。
その拍子になみなみと注がれた水がこぼれて、俺の胸元にかかって。
「っ、」
慌てるアラシヤマの顔を横目に、冷たいな、と緩慢に思う。
さっき触れたアラシヤマの体温くらいだろうか、と。
義務的な動作でベッドから足を下ろすと、濡れたシャツがぺたりと肌に密着してくる。
不快感は、その感触にと、シャツ越しに透けて見える自分の体躯に対して。
(・・また、痩せたか)
薄闇の中で見る身体は、日中でのそれよりも、ずっと衰えが目立つ気がした。
「あの、シンタローはん」
「・・んだよ」
「着替えたほうが」
「わかってる」
アラシヤマに背を向けて、出て行けと言外に命じる。
戸が閉められる、小さな響きを待って、俺はシャツを脱ぎ捨てた。
あと幾日かで、再び月が満ちる。
わては身体に纏わりつく闇をかわしながら、目的の家へと一直線に向かっていた。
うきうきと胸は踊り、種族違いではあっても、なんだか月に向かって吠えてしまいたくなる。
ふ、と薄く笑い――シンタローはんに見られたら、気色悪ィ、と言われるかも――その大きな窓のあるバルコニーへと、音を立てずに着地した。
そっとガラス戸を叩けば、返ってきたのは、いかにも気怠げな許可。
「遠慮なく、お邪魔しますえ」
弾んだ声で告げて、鍵のかかっていないガラス戸を引き開ける。
途端、鼻をついた臭気に思わず顔を顰めてしまったのは、仕方のないことだと許してもらいたい。
俗に言うバケモノだけあって、普通の人間より鼻が利くのだ。
ああ、それでも。
己の身体は歓喜と欲望に、ぶるぶると震える。
久しぶりの獲物を見つけた時の、獣のような心持ちで。
◆ ◆ ◆ ◆
アラシヤマは部屋に入ってくるなり、独り言のように呟いた。
「不死なんて死ぬほどつまらないものですわ」
下らないジョークの類いだと思って、俺は笑う。
そのおかげで少しだけむせた。
軽く咳き込みながら視線を上げた先では、アラシヤマもやはり笑んでいた。
「つまらなすぎて、なにもかも億劫になって、生きるなんて本能も、全部、退屈で・・」
「の、わりには、お前よく笑ってるけどな」
「・・やっと退屈じゃないもの、見つけたんどす」
そう言ってアラシヤマの手が、俺に向かって伸ばされる。
ダンスの相手でも申し込むような仕種に、俺はようやく、身を起こした。
もちろん踊り出すわけでもなく、話している間に目が冴えてしまったから、こうしてベッドにいても意味がないと思っただけだ。
「なんか飲むか?ワインくらいなら、ご馳走してやるぜ」
「ワインよりシンタローはんが欲しいわ」
あほか。
怒鳴る気にもなれず手近にあった枕を投げつけてやると、アラシヤマはそれをたやすく受け取って。
逃げる、逃げないの問題じゃなく、身構える間すら与えられずに、腕を引っ張られる。
2人の身体に挟まれた枕がふかりと柔らかくて、それが妙に間抜けだから、俺は黙ってため息をつく。
「離せよ」
「死臭がする人間をおいしそうだなんて思うたん、初めてどすえ」
「・・んだ、それ」
「血液という生命の源を飲むことで、わてらは命を長らえることができます。つまり、死に冒された健康じゃない生命なんて、わてらにとっては猛毒みたいなものなんどす」
アラシヤマがなにを言いたいのか、わかる気がした。
だけどなぜ、今、それを言い出したのかはわからない。
わかるのは。
「お前、・・俺の身体のこと、知ってやがったのか。ずっと」
沈黙は肯定だ。
別に気を悪くしたわけでもないというのに、アラシヤマは深く俯いて、謝罪の言葉を口にした。
ただし、俺が問うたことに対して、じゃない。
「わては、初めて会うた時からずっと、ずっとシンタローはんが欲しくて・・」
自嘲を多分に含んだ笑い。
「・・死が欲しかったのかもしれまへん。でも、今は、死ぬのはいややと思い始めてますわ」
「・・わけわかんねえよ」
「それでええんどす。・・わて、シンタローはんが大好きやさかい」
◆ ◆ ◆ ◆
己の死と、焦がれる人の死。
どちらを選ぶか。
まさかこの自分がロマンチストだなんて感じたこと、今の今まであらしまへんけど――長過ぎた人生、1度くらいは恰好つけたい。
と、口にしたら、やっぱりシンタローはんは怒るやろか。
部屋の電灯を消しても、今夜は、過剰なほどの月光が部屋を明るく照らしている。
朝からずっと頭が痛くて、1日中ベッドに臥せっている。
ともすると感傷的な情景や思いが、勝手に脳裏に浮かんでは消え、どんどん心を昏いものにしていった。
微熱があるのかもしれない。
ドクターに貰った粉薬の袋を指先で弄り、・・結局飲まずに床に投げ捨て寝返りを打つ。
別に薬なんて、ただの気休めに過ぎないのだ、と、1つため息。
視界がやんわりと陰る。
首を捻れば、月光に照らされてバルコニーから伸びた影が、ベッドごと俺を侵食していた。
「・・なんの用だ」
「入ってもよろしおすか」
俺の返事を待たずに、アラシヤマはバルコニーの戸を開けた。
そんなことは初めてだったから、俺は戸惑い、戸惑いを隠すために平然とした顔を作りながら、重い上体をなんとか起こす。
忍ばせいてるはずのアラシヤマの、歩み寄ってくる足音が、妙に耳の奥に高く響く。
「なんや、すっかり警戒されてはるみたいどすな」
「あたり前、だろ」
アラシヤマはその一言だけで俺の調子を見抜いたのか、前髪に隠されていない片目を、きゅっと細めてみせた。
「シンタローはん」
軋んだベッド。
冷たい腕に絡め取られた俺の身体は、自分のものじゃないみたいな使い勝手の悪さで、満足に抵抗もできない。
手を置いた枕の、どこまでも沈んでいきそうな柔らさが、心許ない。
「冷たいでっしゃろ?」
囁きながらアラシヤマは、ますます腕に力をこめ、自然と倒れこんでしまった俺に覆い被さった。
「シンタローはんは、あったかいなあ」
耳をくすぐるため息が、なぜだか、ひどく寂しげなものに聞こえた気がした。
「・・離せ」
「もう眼魔砲も使えないんどすか?」
俺の両脇に肘をついて、アラシヤマは、そっとごちる。
「シンタローはん。まだ、生きていたいどすか」
「・・は?」
突拍子のない問いかけに、間抜けな声が出た。
アラシヤマの真剣な瞳には、困惑した顔の俺が映っている。
「答えて下さい」
生きていたい。
と、願うのは、至極当然のこと。
だけど願うことすら許されない――願いを諦めるしかない人間だっているのだ。
俺みたいに。
「・・なんでだよ」
「別に答えてくれたって、ええですやろ」
「よくねえよ、ばか」
だって。
答えて、しまったら。
「舌、噛むのは、なしどすえ」
強引に抱き起こされて、やっぱり強引に口付けられて。
気付けば、容赦なく身体を這い回る、細い指先。
「ちょっ、な、なに・・」
「この先の展開がわからないほど、子供じゃあらしまへんやろ?」
歯列を割って捩じ込まれた舌に口腔を弄られ、反論どころか、息継ぎさえもままならない。
どんなにやり過ごそうとしたところで、一方的に与えられるむず痒いような、もどかしいような刺激が、徐々に身体を熱くしていく。
「本当ならこんなこと、あんさんの身体の負担になるだけやさかい、いやなんやけど・・」
「じゃ、やめ、ろ・・よっ!」
「答えてくれたら、すぐにやめますよって」
めちゃくちゃな物言いにかっとなって、拳を振り上げる。
力ない拳はそれでも、鈍い音を立ててアラシヤマの顎に直撃した。
「・・強情なお人やなあ」
「ざけんなっ!!」
叫んで、俺は、目を疑う。
挑むような声色とは裏腹に、アラシヤマの瞳は濡れていた。
月光を反射してきらきらと光る目が、その青白い肌に不釣り合いに埋まっている。
アラシヤマは動きを止めて、それなのに俺は蹴り飛ばすことも逃げ出すこともできなくて、じっとお互い、黙り込んで。
遠くで鳥の啼き声。
俯いたアラシヤマの頭を、俺は衝動的に胸に引き寄せる。
昔、泣き出した弟や従兄弟にやってやったような、手荒い優しさで。
「・・シンタローはん?」
「泣くな。ウゼーから」
「だって、答えてくれはらないから」
「だから!」
答えてしまったら、言葉にしてしまったら、諦めたはずの感情がまたぶり返してしまう。
それはとても怖いことじゃないか。
そう説明しようかと逡巡し、結局、アラシヤマに説明したってしようのないことだと結論付ける。
だから、ただ一言。
「・・そう簡単に死にたく、は、・・ねえよ」
ふわりと。
アラシヤマが、笑う。
瞬間、俺を襲ったのは、身体の芯まで響く鈍い痛みと痺れだった。
「堪忍」
「・・ブ、殺・・す」
俺をそっと解放したアラシヤマの、薄い口唇が、妙に赤くて。
その赤に目を奪われている隙に降ってきた、軽い口付けは、濃厚な血の匂いがした。
「前に――言いましたやろ。不死は死ぬほどつまらないって」
ああ。
さっきのが、吸血ってやつか。
「それでもあんさんには、・・シンタローはんには、生きててほしいんどす」
頭がくらくらして、視界もぐらぐらして、もう、アラシヤマの言葉を言葉として認識できるほどに、意識を保っていられない。
「・・ねむい」
「寝て下さい」
言われなくても。
やっぱり冷たい指を頬に感じながら、自然と落ちてくる目蓋に逆らわずに、俺は視界を閉ざす。
「次に、目覚めた時には」
目覚めた時、には?
なんて問いかけも、もちろん口にすることは叶わなかった。
すっきりと未だかつてないほどに心地よい目覚めを迎えた俺の、それからの行動は、非常に迅速なものだった。
アラシヤマと会ってから、いくらか吸血鬼に関する資料を集めたのだ。
十二分・・とは胸を張れない程度だが、知識は頭に詰まっている。
「馬鹿が」
床に散った灰に向かってとりあえず文句を吐き捨てて、と。
ホウキとチリトリを使って、部屋の隅から隅まで床を掃き、丹念に灰を集める。
そしてその上に――ああもう、面倒くさいから手順は省いて、とにかく手のひらにナイフを刺して。
こんもり積もった灰の山に、血を、垂らす。
「早く起きろ、このタコ」
呪文だの祈りだの、そんなんいらねえだろ。
これで起きなきゃ見限ってやる。
ほら。
・・俺のために、とっとと復活しろよ。
「・・複雑な気持ちですわ」
「なんで。死にたくなかったんだろ?」
「それはそう・・やけど」
「てめーは死んで俺を生き残らせる、なんて、ただの自己満足じゃねーかよ」
「・・・・」
「第一、俺のために死ぬとか、重い。重すぎる」
「・・・・」
「ん?」
「・・シンタローはんのために、生きます」
「よし。・・許す」
見知らぬ、無気味な薄ら笑いを浮かべた男が、不法侵入をかましやがった。
そいつは俺の姿を上から下まで注視した後、気色悪いことを口走った。
「あんさんの血ぃ、おいしそうやな」
俺は当然のことながら、タメなし眼魔砲をお見舞いしてやる。
そして。
「惚れてまいそうやわ」
瓦礫の中から告げられた、全然めげていない言葉に、とどめを刺さなかったことを後悔したのだった。
それ以来、アラシヤマ――と名乗った自称吸血鬼は、月の出る晩には欠かさず俺の元を訪れて来る。
エフェメラリーな夜
羽織っただけの薄手のシャツが、ふわりとなびいた。
バルコニーと部屋を分かつガラス戸は、片方だけ開け放されていた。
湯冷めしないうちに、とっとと寝てしまおう。
窓際に近寄ると、冷気を含んだ突風が不意に吹き込んできて、俺は風呂上がりの温まった身を竦めて。
戸を閉めるために伸ばした腕の先、いつからいたのか、そこにある影にようやく気付く。
満月を背にしてバルコニーに佇む影は、俺の視線を受けて口許を緩めた。
「入ってもよろしおすか?」
躁とも鬱とも取れる妙に癇に触る声が、夜の空気を震わせる。
「やだ」
「そんな殺生な・・シンタローは~ん」
「・・泣くな、ガラスでツメ研ぐな。入ってきたきゃ入って、とっとと帰れよ」
どんなに邪険に扱ってやろうが、許可を出せば、アラシヤマは嬉々として部屋に入ってくる。
いつも、いつも。
「ちゃんと髪拭かないと、風邪引きますえ」
「ん」
適当に頷きながら、俺は寝酒を呷る。
強いアルコールは喉を焼き、少し冷めてしまった身体を内から熱くした。
「もう寝ますのん?」
「寝る。明日も早いし」
「そうどすか」
夜も更けた頃にやって来て、朝日が昇る前にどこぞへ帰って行くアラシヤマは、昼間の俺がなにをしているのか、知らない。
そして俺も、アラシヤマのことなんか、ほとんどなにも知らなかった。
◆ ◆ ◆ ◆
気泡が水の中から浮かび上がるように、ゆっくりと覚醒した。
ぼやけた視界に夜空と、それにアラシヤマの背中が映る。
月の位置は未だ高く、夜明けは遠そうだった。
「・・まだ帰ってなかったのか」
渇いた喉から絞り出した声は、掠れて小さなものだった、が、アラシヤマは耳聡く振り返る。
「堪忍、起こしてまいましたか」
「いや」
喉の調子を整えようと、意識的に咳をする。
そうすると次第に胸が苦しくなって、今度は本気で激しく咳き込みながら、ぎゅっと目を瞑って俺は身体を縮めた。
喉は引き攣り、閉じられない口唇からぱたぱたと唾液が垂れた。
「シンタローはん」
間近に聞こえた声に、いつの間にやらアラシヤマがすぐ傍にいることを、知る。
(自称)怪物だけあって、こいつは気配を消すのがうまいのだ。
背に押し当てられた手のひらが、比喩じゃなく氷のごとく冷たい。
思わず身体を震わせると、それが伝染したかのようにその手は震えて、ぱっと離れた。
「すんまへん」
「なに、が」
深呼吸を繰り返す合間に、問う。
喉の痛みを残して、咳は徐々に治まってきている。
アラシヤマは答えずに、ベッドサイドの水差しを取った。
グラスに添えられた、骨張った指先はいつもの通り青白く、闇の中に薄ぼんやりと浮かんでいる。
俺は口許から手を離して、自分の腕を見た。
アラシヤマのそれより太いし、張りもあるし、血色もいい。
咳の代わりに込み上げてきた深いため息を、そっと押し殺す。
「具合悪いんどすか」
「ちょっとむせただけだ」
首を振りながら、差し出されたグラスを受け取ろうとする。
と、タイミングが合わずに、お互いの手の甲が軽くぶつかった。
その拍子になみなみと注がれた水がこぼれて、俺の胸元にかかって。
「っ、」
慌てるアラシヤマの顔を横目に、冷たいな、と緩慢に思う。
さっき触れたアラシヤマの体温くらいだろうか、と。
義務的な動作でベッドから足を下ろすと、濡れたシャツがぺたりと肌に密着してくる。
不快感は、その感触にと、シャツ越しに透けて見える自分の体躯に対して。
(・・また、痩せたか)
薄闇の中で見る身体は、日中でのそれよりも、ずっと衰えが目立つ気がした。
「あの、シンタローはん」
「・・んだよ」
「着替えたほうが」
「わかってる」
アラシヤマに背を向けて、出て行けと言外に命じる。
戸が閉められる、小さな響きを待って、俺はシャツを脱ぎ捨てた。
あと幾日かで、再び月が満ちる。
わては身体に纏わりつく闇をかわしながら、目的の家へと一直線に向かっていた。
うきうきと胸は踊り、種族違いではあっても、なんだか月に向かって吠えてしまいたくなる。
ふ、と薄く笑い――シンタローはんに見られたら、気色悪ィ、と言われるかも――その大きな窓のあるバルコニーへと、音を立てずに着地した。
そっとガラス戸を叩けば、返ってきたのは、いかにも気怠げな許可。
「遠慮なく、お邪魔しますえ」
弾んだ声で告げて、鍵のかかっていないガラス戸を引き開ける。
途端、鼻をついた臭気に思わず顔を顰めてしまったのは、仕方のないことだと許してもらいたい。
俗に言うバケモノだけあって、普通の人間より鼻が利くのだ。
ああ、それでも。
己の身体は歓喜と欲望に、ぶるぶると震える。
久しぶりの獲物を見つけた時の、獣のような心持ちで。
◆ ◆ ◆ ◆
アラシヤマは部屋に入ってくるなり、独り言のように呟いた。
「不死なんて死ぬほどつまらないものですわ」
下らないジョークの類いだと思って、俺は笑う。
そのおかげで少しだけむせた。
軽く咳き込みながら視線を上げた先では、アラシヤマもやはり笑んでいた。
「つまらなすぎて、なにもかも億劫になって、生きるなんて本能も、全部、退屈で・・」
「の、わりには、お前よく笑ってるけどな」
「・・やっと退屈じゃないもの、見つけたんどす」
そう言ってアラシヤマの手が、俺に向かって伸ばされる。
ダンスの相手でも申し込むような仕種に、俺はようやく、身を起こした。
もちろん踊り出すわけでもなく、話している間に目が冴えてしまったから、こうしてベッドにいても意味がないと思っただけだ。
「なんか飲むか?ワインくらいなら、ご馳走してやるぜ」
「ワインよりシンタローはんが欲しいわ」
あほか。
怒鳴る気にもなれず手近にあった枕を投げつけてやると、アラシヤマはそれをたやすく受け取って。
逃げる、逃げないの問題じゃなく、身構える間すら与えられずに、腕を引っ張られる。
2人の身体に挟まれた枕がふかりと柔らかくて、それが妙に間抜けだから、俺は黙ってため息をつく。
「離せよ」
「死臭がする人間をおいしそうだなんて思うたん、初めてどすえ」
「・・んだ、それ」
「血液という生命の源を飲むことで、わてらは命を長らえることができます。つまり、死に冒された健康じゃない生命なんて、わてらにとっては猛毒みたいなものなんどす」
アラシヤマがなにを言いたいのか、わかる気がした。
だけどなぜ、今、それを言い出したのかはわからない。
わかるのは。
「お前、・・俺の身体のこと、知ってやがったのか。ずっと」
沈黙は肯定だ。
別に気を悪くしたわけでもないというのに、アラシヤマは深く俯いて、謝罪の言葉を口にした。
ただし、俺が問うたことに対して、じゃない。
「わては、初めて会うた時からずっと、ずっとシンタローはんが欲しくて・・」
自嘲を多分に含んだ笑い。
「・・死が欲しかったのかもしれまへん。でも、今は、死ぬのはいややと思い始めてますわ」
「・・わけわかんねえよ」
「それでええんどす。・・わて、シンタローはんが大好きやさかい」
◆ ◆ ◆ ◆
己の死と、焦がれる人の死。
どちらを選ぶか。
まさかこの自分がロマンチストだなんて感じたこと、今の今まであらしまへんけど――長過ぎた人生、1度くらいは恰好つけたい。
と、口にしたら、やっぱりシンタローはんは怒るやろか。
部屋の電灯を消しても、今夜は、過剰なほどの月光が部屋を明るく照らしている。
朝からずっと頭が痛くて、1日中ベッドに臥せっている。
ともすると感傷的な情景や思いが、勝手に脳裏に浮かんでは消え、どんどん心を昏いものにしていった。
微熱があるのかもしれない。
ドクターに貰った粉薬の袋を指先で弄り、・・結局飲まずに床に投げ捨て寝返りを打つ。
別に薬なんて、ただの気休めに過ぎないのだ、と、1つため息。
視界がやんわりと陰る。
首を捻れば、月光に照らされてバルコニーから伸びた影が、ベッドごと俺を侵食していた。
「・・なんの用だ」
「入ってもよろしおすか」
俺の返事を待たずに、アラシヤマはバルコニーの戸を開けた。
そんなことは初めてだったから、俺は戸惑い、戸惑いを隠すために平然とした顔を作りながら、重い上体をなんとか起こす。
忍ばせいてるはずのアラシヤマの、歩み寄ってくる足音が、妙に耳の奥に高く響く。
「なんや、すっかり警戒されてはるみたいどすな」
「あたり前、だろ」
アラシヤマはその一言だけで俺の調子を見抜いたのか、前髪に隠されていない片目を、きゅっと細めてみせた。
「シンタローはん」
軋んだベッド。
冷たい腕に絡め取られた俺の身体は、自分のものじゃないみたいな使い勝手の悪さで、満足に抵抗もできない。
手を置いた枕の、どこまでも沈んでいきそうな柔らさが、心許ない。
「冷たいでっしゃろ?」
囁きながらアラシヤマは、ますます腕に力をこめ、自然と倒れこんでしまった俺に覆い被さった。
「シンタローはんは、あったかいなあ」
耳をくすぐるため息が、なぜだか、ひどく寂しげなものに聞こえた気がした。
「・・離せ」
「もう眼魔砲も使えないんどすか?」
俺の両脇に肘をついて、アラシヤマは、そっとごちる。
「シンタローはん。まだ、生きていたいどすか」
「・・は?」
突拍子のない問いかけに、間抜けな声が出た。
アラシヤマの真剣な瞳には、困惑した顔の俺が映っている。
「答えて下さい」
生きていたい。
と、願うのは、至極当然のこと。
だけど願うことすら許されない――願いを諦めるしかない人間だっているのだ。
俺みたいに。
「・・なんでだよ」
「別に答えてくれたって、ええですやろ」
「よくねえよ、ばか」
だって。
答えて、しまったら。
「舌、噛むのは、なしどすえ」
強引に抱き起こされて、やっぱり強引に口付けられて。
気付けば、容赦なく身体を這い回る、細い指先。
「ちょっ、な、なに・・」
「この先の展開がわからないほど、子供じゃあらしまへんやろ?」
歯列を割って捩じ込まれた舌に口腔を弄られ、反論どころか、息継ぎさえもままならない。
どんなにやり過ごそうとしたところで、一方的に与えられるむず痒いような、もどかしいような刺激が、徐々に身体を熱くしていく。
「本当ならこんなこと、あんさんの身体の負担になるだけやさかい、いやなんやけど・・」
「じゃ、やめ、ろ・・よっ!」
「答えてくれたら、すぐにやめますよって」
めちゃくちゃな物言いにかっとなって、拳を振り上げる。
力ない拳はそれでも、鈍い音を立ててアラシヤマの顎に直撃した。
「・・強情なお人やなあ」
「ざけんなっ!!」
叫んで、俺は、目を疑う。
挑むような声色とは裏腹に、アラシヤマの瞳は濡れていた。
月光を反射してきらきらと光る目が、その青白い肌に不釣り合いに埋まっている。
アラシヤマは動きを止めて、それなのに俺は蹴り飛ばすことも逃げ出すこともできなくて、じっとお互い、黙り込んで。
遠くで鳥の啼き声。
俯いたアラシヤマの頭を、俺は衝動的に胸に引き寄せる。
昔、泣き出した弟や従兄弟にやってやったような、手荒い優しさで。
「・・シンタローはん?」
「泣くな。ウゼーから」
「だって、答えてくれはらないから」
「だから!」
答えてしまったら、言葉にしてしまったら、諦めたはずの感情がまたぶり返してしまう。
それはとても怖いことじゃないか。
そう説明しようかと逡巡し、結局、アラシヤマに説明したってしようのないことだと結論付ける。
だから、ただ一言。
「・・そう簡単に死にたく、は、・・ねえよ」
ふわりと。
アラシヤマが、笑う。
瞬間、俺を襲ったのは、身体の芯まで響く鈍い痛みと痺れだった。
「堪忍」
「・・ブ、殺・・す」
俺をそっと解放したアラシヤマの、薄い口唇が、妙に赤くて。
その赤に目を奪われている隙に降ってきた、軽い口付けは、濃厚な血の匂いがした。
「前に――言いましたやろ。不死は死ぬほどつまらないって」
ああ。
さっきのが、吸血ってやつか。
「それでもあんさんには、・・シンタローはんには、生きててほしいんどす」
頭がくらくらして、視界もぐらぐらして、もう、アラシヤマの言葉を言葉として認識できるほどに、意識を保っていられない。
「・・ねむい」
「寝て下さい」
言われなくても。
やっぱり冷たい指を頬に感じながら、自然と落ちてくる目蓋に逆らわずに、俺は視界を閉ざす。
「次に、目覚めた時には」
目覚めた時、には?
なんて問いかけも、もちろん口にすることは叶わなかった。
すっきりと未だかつてないほどに心地よい目覚めを迎えた俺の、それからの行動は、非常に迅速なものだった。
アラシヤマと会ってから、いくらか吸血鬼に関する資料を集めたのだ。
十二分・・とは胸を張れない程度だが、知識は頭に詰まっている。
「馬鹿が」
床に散った灰に向かってとりあえず文句を吐き捨てて、と。
ホウキとチリトリを使って、部屋の隅から隅まで床を掃き、丹念に灰を集める。
そしてその上に――ああもう、面倒くさいから手順は省いて、とにかく手のひらにナイフを刺して。
こんもり積もった灰の山に、血を、垂らす。
「早く起きろ、このタコ」
呪文だの祈りだの、そんなんいらねえだろ。
これで起きなきゃ見限ってやる。
ほら。
・・俺のために、とっとと復活しろよ。
「・・複雑な気持ちですわ」
「なんで。死にたくなかったんだろ?」
「それはそう・・やけど」
「てめーは死んで俺を生き残らせる、なんて、ただの自己満足じゃねーかよ」
「・・・・」
「第一、俺のために死ぬとか、重い。重すぎる」
「・・・・」
「ん?」
「・・シンタローはんのために、生きます」
「よし。・・許す」
PR
体重をかけないように加減して崩れ落ちてくる身体を受け止めて、乱れた息を整える。
早鐘を打つ胸の動きが直接、身体に響く。
中に埋まっていたものが引き抜かれた奇妙な感覚、それに濡れた音を立てて太股にこぼれた液体の感触に眉を顰め、俺はようやく、ヤツの肩を拳で叩いた。
「出したんなら、とっとと退けよ」
「出した・・ってシンタローはん・・」
余韻に浸らせてくれたって、と、情けなく呟きながらもアラシヤマは、身体を起こす。
汗で頬に張り付いた髪を指で弾いて、ついでに俺の髪も一房奪い、恭しく口付けてみせて。
目を、細める。
「うるせー、ヘタクソ」
そのままの状態で絶句してしまったアラシヤマを横目に、ベッドを降りてバスルームに向かった。
深夜のひたすら静かな空気が、肌を震わせる。
ざんざん降り注ぐ温い湯にうたれ、考えるのは明日(いや、既に今日か)のスケジュール。
思い浮かぶはしから優先順位をつけて、頭の中に並べていく。
もっとも身体に残された痕跡を見つけるたびに集中は途切れ、どんなに時間をかけたところで、その作業ははかどりそうになかった。
「らしくねーな・・」
独りごちて、ため息を1つ。
いつまでもそうしているわけにもいかず、とりあえず今すべきことに取りかかることにした。
力を抜いて、下肢へと指を這わせれば、容易にそこは侵入を許した。
己の身体が、己の指を飲み込んでいく。
自慰とも違う、緩やかに上っていく感覚をつとめて冷静にやり過ごし、掻き回すようにして指を動かす。
体内からあふれた他人の精液はタイルの上でくるくると回り、排水溝に吸い込まれていった。
(流すくらいだったら、いっそ高松にでも提供したほうが役に立かもな)
たわいないことを思いながらシャワーの音に耳を澄ます。
じっとタイルを見つめているうち、濡れそぼつ前髪から落ちた水滴が睫毛に当たり、咄嗟に目を瞑る。
途端に意識を手放しかけてしまいそうになり、慌てて頭を振った。
そして。
「シンタローはん」
突然、湯気のベールを破り響いた声に、息を飲む。
振り向くまでもなく当然、背後の擦りガラスの扉には、アラシヤマのシルエットがある。
「わて、もう戻りますわ」
緊急召集が、とかなんとか聞き終える前に扉を開けた俺は、なにか言おうと試みたはずなのに、いざアラシヤマを前にすると喉に膜が張ってしまったかのようで、確かな言葉が出てこない。
2度目のため息は細く、静かに。
言葉の代わりにきっちり結ばれたネクタイを鷲掴み、冷たい口唇に、自分のそれを寄せる。
「またな」
不意を突かれた顔を至近距離に見て、少しだけ、胸がすいた。
早鐘を打つ胸の動きが直接、身体に響く。
中に埋まっていたものが引き抜かれた奇妙な感覚、それに濡れた音を立てて太股にこぼれた液体の感触に眉を顰め、俺はようやく、ヤツの肩を拳で叩いた。
「出したんなら、とっとと退けよ」
「出した・・ってシンタローはん・・」
余韻に浸らせてくれたって、と、情けなく呟きながらもアラシヤマは、身体を起こす。
汗で頬に張り付いた髪を指で弾いて、ついでに俺の髪も一房奪い、恭しく口付けてみせて。
目を、細める。
「うるせー、ヘタクソ」
そのままの状態で絶句してしまったアラシヤマを横目に、ベッドを降りてバスルームに向かった。
深夜のひたすら静かな空気が、肌を震わせる。
ざんざん降り注ぐ温い湯にうたれ、考えるのは明日(いや、既に今日か)のスケジュール。
思い浮かぶはしから優先順位をつけて、頭の中に並べていく。
もっとも身体に残された痕跡を見つけるたびに集中は途切れ、どんなに時間をかけたところで、その作業ははかどりそうになかった。
「らしくねーな・・」
独りごちて、ため息を1つ。
いつまでもそうしているわけにもいかず、とりあえず今すべきことに取りかかることにした。
力を抜いて、下肢へと指を這わせれば、容易にそこは侵入を許した。
己の身体が、己の指を飲み込んでいく。
自慰とも違う、緩やかに上っていく感覚をつとめて冷静にやり過ごし、掻き回すようにして指を動かす。
体内からあふれた他人の精液はタイルの上でくるくると回り、排水溝に吸い込まれていった。
(流すくらいだったら、いっそ高松にでも提供したほうが役に立かもな)
たわいないことを思いながらシャワーの音に耳を澄ます。
じっとタイルを見つめているうち、濡れそぼつ前髪から落ちた水滴が睫毛に当たり、咄嗟に目を瞑る。
途端に意識を手放しかけてしまいそうになり、慌てて頭を振った。
そして。
「シンタローはん」
突然、湯気のベールを破り響いた声に、息を飲む。
振り向くまでもなく当然、背後の擦りガラスの扉には、アラシヤマのシルエットがある。
「わて、もう戻りますわ」
緊急召集が、とかなんとか聞き終える前に扉を開けた俺は、なにか言おうと試みたはずなのに、いざアラシヤマを前にすると喉に膜が張ってしまったかのようで、確かな言葉が出てこない。
2度目のため息は細く、静かに。
言葉の代わりにきっちり結ばれたネクタイを鷲掴み、冷たい口唇に、自分のそれを寄せる。
「またな」
不意を突かれた顔を至近距離に見て、少しだけ、胸がすいた。
濃い錆の匂いに、思わず顔を顰めた。
「麻痺してますねん」
感覚が、と小さく付け足して、アラシヤマは薄く笑った。
左腕から、今なお血を滴らせながら。
「こんなの、慣れっこやさかい」
「そうかよ」
「心配してくれはらんでも」
「頼まれてもしねーよ」
本心から心配を不要だと言う人間に対して、心配、なんて、そんな無駄なこと。
誰がするか。
あまり意味のないため息を吐きながら、眼を伏せる。
馴染んだデスク、艶消しの焦茶が頭を冷やした。
そして半ば啓示のような思いつきに乗じて、おもむろに手を伸ばして。
使い込んだ小振りのペーパーナイフを、握る。
刃先を素早くしっかりと左の手のひらに差し込めば、その途端、首を傾げて俺を見守っていたアラシヤマが、慌ててデスクに身を乗り出す。
「なに、を」
「麻痺」
「は?」
「麻痺、してんじゃねえの?」
「・・シンタローはんの怪我には、麻痺してまへん」
心外だとでも言いたげに呟くアラシヤマの、力なく垂れ下がった腕。
白い包帯に、滲んだ、朱。
「俺だって、このくらい慣れてる」
どくどくと脈打つ傷口からは血が溢れ、手の甲さえも濡らしていくけれど。
(別にこんなの)
確かに痛みは感じるし、その生温かさが不快だとも思うけれど。
(こんなの、どうでも)
血まみれの手でアラシヤマの頬に触れると、アラシヤマも一瞬の迷いの後、傷ついた腕を俺の肩に回した。
混じりあった血の匂いに胸がむかついて、結局なにもわかっていない男の口唇に、思いきり歯をたてる。
「麻痺してますねん」
感覚が、と小さく付け足して、アラシヤマは薄く笑った。
左腕から、今なお血を滴らせながら。
「こんなの、慣れっこやさかい」
「そうかよ」
「心配してくれはらんでも」
「頼まれてもしねーよ」
本心から心配を不要だと言う人間に対して、心配、なんて、そんな無駄なこと。
誰がするか。
あまり意味のないため息を吐きながら、眼を伏せる。
馴染んだデスク、艶消しの焦茶が頭を冷やした。
そして半ば啓示のような思いつきに乗じて、おもむろに手を伸ばして。
使い込んだ小振りのペーパーナイフを、握る。
刃先を素早くしっかりと左の手のひらに差し込めば、その途端、首を傾げて俺を見守っていたアラシヤマが、慌ててデスクに身を乗り出す。
「なに、を」
「麻痺」
「は?」
「麻痺、してんじゃねえの?」
「・・シンタローはんの怪我には、麻痺してまへん」
心外だとでも言いたげに呟くアラシヤマの、力なく垂れ下がった腕。
白い包帯に、滲んだ、朱。
「俺だって、このくらい慣れてる」
どくどくと脈打つ傷口からは血が溢れ、手の甲さえも濡らしていくけれど。
(別にこんなの)
確かに痛みは感じるし、その生温かさが不快だとも思うけれど。
(こんなの、どうでも)
血まみれの手でアラシヤマの頬に触れると、アラシヤマも一瞬の迷いの後、傷ついた腕を俺の肩に回した。
混じりあった血の匂いに胸がむかついて、結局なにもわかっていない男の口唇に、思いきり歯をたてる。
静まり返った空港、珍しく2人きりで、並んでソファに座っている。
数時間前に遅れると連絡があったきり、迎えの飛空艦からはなんの音沙汰もない。
「ちょっと休む」
ふいにそう小さく呟いて、多忙の新総帥はわずかに首を傾げ、目蓋を落とした。
思えば島から戻って以来、幾度となく同衾したにもかかわらず、ほとんど寝顔を拝んだことがないのだった。
改めて気付かされた悲しい事実にうっかり凹みかけて、すぐに、そんな場合じゃないと気持ちを立て直す。
なんたって。
今現在、つい肩先には、その稀少価値の魅惑的な寝顔、が。
寝息なんかも必然的に聞こえちゃったりして、むしろ聞き耳たてないわけがないって状況なわけで。
ごくり、と喉が鳴った。
こんな機会なのだから、どんなに見つめたって悪くはないはず。
常に存在を誇示している眉間の深い皺が消えると、外見に現れた4年という短くはない時間の経過が、妙に目立つ。
「働き過ぎやさかい、明らかに」
まあ、どんなにくたびれていようとも、愛しい(改めて言うと照れますなぁ・・)ことに代わりはないのだけれど。
(カメラ持ってへんのが悔やまれるわ)
試しに、ついと指を伸ばしてみる。
爪先に触れた漆黒の髪の、さらさらした感触に、胸が高鳴った。
一旦触れてしまえば、自然と身体は抗えない力で引き寄せられてしまうもの。
(さすがに・・それはあかんやろ・・とわかっていながらも押さえられないのが人の欲望)
少し痩せたような頬に手のひらを添え、おそるおそる撫でてみる。
起きない。
思いきって頬に口付けようとすれば、やはり悪い企みはそうそう成功しないということなのか、あと数センチの距離で突如、鋭い眼差しに射竦められて。
慌てて身を引こうとして、しかし、それを止めたのは。
「シ、・・シンタローはん・・?」
据わりきった眼の中に映る自分は、当然、怯えている。
しかし、妥当に眼魔砲、運がよければ鉄拳だと覚悟を決めるよりも早く、どっちにしろ予想を裏切る行動によって、思考は強制ストップをかけられた。
とりあえず、口唇を奪われて。
口内で舌が蠢いたりして。
そのまま体重をかけられて。
まだ熱烈なキスは続いて。
ぎゅうと抱きしめられて。
まだまだ熱烈なキスは続いて。
絡み合う視線。
惜しいことにゆっくり離れていく、未だ半開きの口唇が、とてつもなく艶かしい。
「・・アラシヤマ・・・・」
吐息混じりに囁かれ、うっとりと頷いてみせる、と。
「・・寝惚けた、わりぃ」
「はああいっ!?」
再び、なにごともなかったかのように元通りの体勢に戻られてしまえば、それ以上なにか言えるはずもない。
「・・なんや、めっちゃ複雑な気分どす・・シンタローはん・・・」
数時間前に遅れると連絡があったきり、迎えの飛空艦からはなんの音沙汰もない。
「ちょっと休む」
ふいにそう小さく呟いて、多忙の新総帥はわずかに首を傾げ、目蓋を落とした。
思えば島から戻って以来、幾度となく同衾したにもかかわらず、ほとんど寝顔を拝んだことがないのだった。
改めて気付かされた悲しい事実にうっかり凹みかけて、すぐに、そんな場合じゃないと気持ちを立て直す。
なんたって。
今現在、つい肩先には、その稀少価値の魅惑的な寝顔、が。
寝息なんかも必然的に聞こえちゃったりして、むしろ聞き耳たてないわけがないって状況なわけで。
ごくり、と喉が鳴った。
こんな機会なのだから、どんなに見つめたって悪くはないはず。
常に存在を誇示している眉間の深い皺が消えると、外見に現れた4年という短くはない時間の経過が、妙に目立つ。
「働き過ぎやさかい、明らかに」
まあ、どんなにくたびれていようとも、愛しい(改めて言うと照れますなぁ・・)ことに代わりはないのだけれど。
(カメラ持ってへんのが悔やまれるわ)
試しに、ついと指を伸ばしてみる。
爪先に触れた漆黒の髪の、さらさらした感触に、胸が高鳴った。
一旦触れてしまえば、自然と身体は抗えない力で引き寄せられてしまうもの。
(さすがに・・それはあかんやろ・・とわかっていながらも押さえられないのが人の欲望)
少し痩せたような頬に手のひらを添え、おそるおそる撫でてみる。
起きない。
思いきって頬に口付けようとすれば、やはり悪い企みはそうそう成功しないということなのか、あと数センチの距離で突如、鋭い眼差しに射竦められて。
慌てて身を引こうとして、しかし、それを止めたのは。
「シ、・・シンタローはん・・?」
据わりきった眼の中に映る自分は、当然、怯えている。
しかし、妥当に眼魔砲、運がよければ鉄拳だと覚悟を決めるよりも早く、どっちにしろ予想を裏切る行動によって、思考は強制ストップをかけられた。
とりあえず、口唇を奪われて。
口内で舌が蠢いたりして。
そのまま体重をかけられて。
まだ熱烈なキスは続いて。
ぎゅうと抱きしめられて。
まだまだ熱烈なキスは続いて。
絡み合う視線。
惜しいことにゆっくり離れていく、未だ半開きの口唇が、とてつもなく艶かしい。
「・・アラシヤマ・・・・」
吐息混じりに囁かれ、うっとりと頷いてみせる、と。
「・・寝惚けた、わりぃ」
「はああいっ!?」
再び、なにごともなかったかのように元通りの体勢に戻られてしまえば、それ以上なにか言えるはずもない。
「・・なんや、めっちゃ複雑な気分どす・・シンタローはん・・・」
珍しい類いの表情に感じられた。
落ち着いた、冷静な、と言えば聞こえはいいけれど、それよりは・・沈んだ、に近い。
しかし沈んだ表情にしては、苛立ちの色が目立ちすぎていた。
「総帥」
恐る恐るの呼びかけに対する反応は、まったくない。
代わりに、横にぴたりと張り付いていた人間が、その強張った肩を叩いて。
ようやく視線が交わった瞬間、複雑な表情の中に、小さな驚きが新たに浮かび上がった。
邪険にされるとわかりながらもわざわざ出迎えたのは、近日中にサインが必要な書類があるから。
・・という建て前の元、久々に本部に戻ってきた総帥の姿を拝める事実に感謝していた。
でも、喜んでいる場合じゃなく、こんなのは明らかに様子がおかしすぎる。
説明を求めるより早く、キンタローが口を開く。
「一時的な聴覚障害だ」
「・・・は?」
「突然、シンタローの横で爆発が起きた。怪我はなかったが、瞬時に聴力が低下した」
「・・そ、れ、大事ないんどすか」
「時間の経過と共に回復する、・・らしい」
なんで組織のトップがそんな目にあうのか、と言い募ろうとして、・・やめた。
本人よりもたぶん、きっと、狼狽しているのは周囲だ。
場が急に静まり返る。
「アラシヤマ」
時間にして数秒程度の、それでも十分重い沈黙を破ったのは、声量こそ大きいものの妙に張りのない、おかしな調子の自分の名前だった。
「はい」
聞こえないとわかっていても答えてしまうのは、条件反射としか言い様がない。
「・・ついて来い」
低く細い命令の、抜群の威力。
落ち着いた、冷静な、と言えば聞こえはいいけれど、それよりは・・沈んだ、に近い。
しかし沈んだ表情にしては、苛立ちの色が目立ちすぎていた。
「総帥」
恐る恐るの呼びかけに対する反応は、まったくない。
代わりに、横にぴたりと張り付いていた人間が、その強張った肩を叩いて。
ようやく視線が交わった瞬間、複雑な表情の中に、小さな驚きが新たに浮かび上がった。
邪険にされるとわかりながらもわざわざ出迎えたのは、近日中にサインが必要な書類があるから。
・・という建て前の元、久々に本部に戻ってきた総帥の姿を拝める事実に感謝していた。
でも、喜んでいる場合じゃなく、こんなのは明らかに様子がおかしすぎる。
説明を求めるより早く、キンタローが口を開く。
「一時的な聴覚障害だ」
「・・・は?」
「突然、シンタローの横で爆発が起きた。怪我はなかったが、瞬時に聴力が低下した」
「・・そ、れ、大事ないんどすか」
「時間の経過と共に回復する、・・らしい」
なんで組織のトップがそんな目にあうのか、と言い募ろうとして、・・やめた。
本人よりもたぶん、きっと、狼狽しているのは周囲だ。
場が急に静まり返る。
「アラシヤマ」
時間にして数秒程度の、それでも十分重い沈黙を破ったのは、声量こそ大きいものの妙に張りのない、おかしな調子の自分の名前だった。
「はい」
聞こえないとわかっていても答えてしまうのは、条件反射としか言い様がない。
「・・ついて来い」
低く細い命令の、抜群の威力。