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いくつか前の満月の晩、だったか。

見知らぬ、無気味な薄ら笑いを浮かべた男が、不法侵入をかましやがった。

そいつは俺の姿を上から下まで注視した後、気色悪いことを口走った。

「あんさんの血ぃ、おいしそうやな」

俺は当然のことながら、タメなし眼魔砲をお見舞いしてやる。

そして。

「惚れてまいそうやわ」

瓦礫の中から告げられた、全然めげていない言葉に、とどめを刺さなかったことを後悔したのだった。

それ以来、アラシヤマ――と名乗った自称吸血鬼は、月の出る晩には欠かさず俺の元を訪れて来る。



エフェメラリーな夜



羽織っただけの薄手のシャツが、ふわりとなびいた。

バルコニーと部屋を分かつガラス戸は、片方だけ開け放されていた。

湯冷めしないうちに、とっとと寝てしまおう。

窓際に近寄ると、冷気を含んだ突風が不意に吹き込んできて、俺は風呂上がりの温まった身を竦めて。

戸を閉めるために伸ばした腕の先、いつからいたのか、そこにある影にようやく気付く。

満月を背にしてバルコニーに佇む影は、俺の視線を受けて口許を緩めた。

「入ってもよろしおすか?」

躁とも鬱とも取れる妙に癇に触る声が、夜の空気を震わせる。

「やだ」

「そんな殺生な・・シンタローは~ん」

「・・泣くな、ガラスでツメ研ぐな。入ってきたきゃ入って、とっとと帰れよ」

どんなに邪険に扱ってやろうが、許可を出せば、アラシヤマは嬉々として部屋に入ってくる。

いつも、いつも。

「ちゃんと髪拭かないと、風邪引きますえ」

「ん」

適当に頷きながら、俺は寝酒を呷る。

強いアルコールは喉を焼き、少し冷めてしまった身体を内から熱くした。

「もう寝ますのん?」

「寝る。明日も早いし」

「そうどすか」

夜も更けた頃にやって来て、朝日が昇る前にどこぞへ帰って行くアラシヤマは、昼間の俺がなにをしているのか、知らない。

そして俺も、アラシヤマのことなんか、ほとんどなにも知らなかった。


◆ ◆ ◆ ◆


気泡が水の中から浮かび上がるように、ゆっくりと覚醒した。

ぼやけた視界に夜空と、それにアラシヤマの背中が映る。

月の位置は未だ高く、夜明けは遠そうだった。

「・・まだ帰ってなかったのか」

渇いた喉から絞り出した声は、掠れて小さなものだった、が、アラシヤマは耳聡く振り返る。

「堪忍、起こしてまいましたか」

「いや」

喉の調子を整えようと、意識的に咳をする。

そうすると次第に胸が苦しくなって、今度は本気で激しく咳き込みながら、ぎゅっと目を瞑って俺は身体を縮めた。

喉は引き攣り、閉じられない口唇からぱたぱたと唾液が垂れた。

「シンタローはん」

間近に聞こえた声に、いつの間にやらアラシヤマがすぐ傍にいることを、知る。

(自称)怪物だけあって、こいつは気配を消すのがうまいのだ。

背に押し当てられた手のひらが、比喩じゃなく氷のごとく冷たい。

思わず身体を震わせると、それが伝染したかのようにその手は震えて、ぱっと離れた。

「すんまへん」

「なに、が」

深呼吸を繰り返す合間に、問う。

喉の痛みを残して、咳は徐々に治まってきている。

アラシヤマは答えずに、ベッドサイドの水差しを取った。

グラスに添えられた、骨張った指先はいつもの通り青白く、闇の中に薄ぼんやりと浮かんでいる。

俺は口許から手を離して、自分の腕を見た。

アラシヤマのそれより太いし、張りもあるし、血色もいい。

咳の代わりに込み上げてきた深いため息を、そっと押し殺す。

「具合悪いんどすか」

「ちょっとむせただけだ」

首を振りながら、差し出されたグラスを受け取ろうとする。

と、タイミングが合わずに、お互いの手の甲が軽くぶつかった。

その拍子になみなみと注がれた水がこぼれて、俺の胸元にかかって。

「っ、」

慌てるアラシヤマの顔を横目に、冷たいな、と緩慢に思う。

さっき触れたアラシヤマの体温くらいだろうか、と。

義務的な動作でベッドから足を下ろすと、濡れたシャツがぺたりと肌に密着してくる。

不快感は、その感触にと、シャツ越しに透けて見える自分の体躯に対して。

(・・また、痩せたか)

薄闇の中で見る身体は、日中でのそれよりも、ずっと衰えが目立つ気がした。

「あの、シンタローはん」

「・・んだよ」

「着替えたほうが」

「わかってる」

アラシヤマに背を向けて、出て行けと言外に命じる。

戸が閉められる、小さな響きを待って、俺はシャツを脱ぎ捨てた。







あと幾日かで、再び月が満ちる。

わては身体に纏わりつく闇をかわしながら、目的の家へと一直線に向かっていた。

うきうきと胸は踊り、種族違いではあっても、なんだか月に向かって吠えてしまいたくなる。

ふ、と薄く笑い――シンタローはんに見られたら、気色悪ィ、と言われるかも――その大きな窓のあるバルコニーへと、音を立てずに着地した。

そっとガラス戸を叩けば、返ってきたのは、いかにも気怠げな許可。

「遠慮なく、お邪魔しますえ」

弾んだ声で告げて、鍵のかかっていないガラス戸を引き開ける。

途端、鼻をついた臭気に思わず顔を顰めてしまったのは、仕方のないことだと許してもらいたい。

俗に言うバケモノだけあって、普通の人間より鼻が利くのだ。

ああ、それでも。

己の身体は歓喜と欲望に、ぶるぶると震える。

久しぶりの獲物を見つけた時の、獣のような心持ちで。


◆ ◆ ◆ ◆


アラシヤマは部屋に入ってくるなり、独り言のように呟いた。

「不死なんて死ぬほどつまらないものですわ」

下らないジョークの類いだと思って、俺は笑う。

そのおかげで少しだけむせた。

軽く咳き込みながら視線を上げた先では、アラシヤマもやはり笑んでいた。

「つまらなすぎて、なにもかも億劫になって、生きるなんて本能も、全部、退屈で・・」

「の、わりには、お前よく笑ってるけどな」

「・・やっと退屈じゃないもの、見つけたんどす」

そう言ってアラシヤマの手が、俺に向かって伸ばされる。

ダンスの相手でも申し込むような仕種に、俺はようやく、身を起こした。

もちろん踊り出すわけでもなく、話している間に目が冴えてしまったから、こうしてベッドにいても意味がないと思っただけだ。

「なんか飲むか?ワインくらいなら、ご馳走してやるぜ」

「ワインよりシンタローはんが欲しいわ」

あほか。

怒鳴る気にもなれず手近にあった枕を投げつけてやると、アラシヤマはそれをたやすく受け取って。

逃げる、逃げないの問題じゃなく、身構える間すら与えられずに、腕を引っ張られる。

2人の身体に挟まれた枕がふかりと柔らかくて、それが妙に間抜けだから、俺は黙ってため息をつく。

「離せよ」

「死臭がする人間をおいしそうだなんて思うたん、初めてどすえ」

「・・んだ、それ」

「血液という生命の源を飲むことで、わてらは命を長らえることができます。つまり、死に冒された健康じゃない生命なんて、わてらにとっては猛毒みたいなものなんどす」

アラシヤマがなにを言いたいのか、わかる気がした。

だけどなぜ、今、それを言い出したのかはわからない。

わかるのは。

「お前、・・俺の身体のこと、知ってやがったのか。ずっと」

沈黙は肯定だ。

別に気を悪くしたわけでもないというのに、アラシヤマは深く俯いて、謝罪の言葉を口にした。

ただし、俺が問うたことに対して、じゃない。

「わては、初めて会うた時からずっと、ずっとシンタローはんが欲しくて・・」

自嘲を多分に含んだ笑い。

「・・死が欲しかったのかもしれまへん。でも、今は、死ぬのはいややと思い始めてますわ」

「・・わけわかんねえよ」

「それでええんどす。・・わて、シンタローはんが大好きやさかい」


◆ ◆ ◆ ◆


己の死と、焦がれる人の死。

どちらを選ぶか。

まさかこの自分がロマンチストだなんて感じたこと、今の今まであらしまへんけど――長過ぎた人生、1度くらいは恰好つけたい。

と、口にしたら、やっぱりシンタローはんは怒るやろか。


部屋の電灯を消しても、今夜は、過剰なほどの月光が部屋を明るく照らしている。

朝からずっと頭が痛くて、1日中ベッドに臥せっている。

ともすると感傷的な情景や思いが、勝手に脳裏に浮かんでは消え、どんどん心を昏いものにしていった。

微熱があるのかもしれない。

ドクターに貰った粉薬の袋を指先で弄り、・・結局飲まずに床に投げ捨て寝返りを打つ。

別に薬なんて、ただの気休めに過ぎないのだ、と、1つため息。

視界がやんわりと陰る。

首を捻れば、月光に照らされてバルコニーから伸びた影が、ベッドごと俺を侵食していた。

「・・なんの用だ」

「入ってもよろしおすか」

俺の返事を待たずに、アラシヤマはバルコニーの戸を開けた。

そんなことは初めてだったから、俺は戸惑い、戸惑いを隠すために平然とした顔を作りながら、重い上体をなんとか起こす。

忍ばせいてるはずのアラシヤマの、歩み寄ってくる足音が、妙に耳の奥に高く響く。

「なんや、すっかり警戒されてはるみたいどすな」

「あたり前、だろ」

アラシヤマはその一言だけで俺の調子を見抜いたのか、前髪に隠されていない片目を、きゅっと細めてみせた。

「シンタローはん」

軋んだベッド。

冷たい腕に絡め取られた俺の身体は、自分のものじゃないみたいな使い勝手の悪さで、満足に抵抗もできない。

手を置いた枕の、どこまでも沈んでいきそうな柔らさが、心許ない。

「冷たいでっしゃろ?」

囁きながらアラシヤマは、ますます腕に力をこめ、自然と倒れこんでしまった俺に覆い被さった。

「シンタローはんは、あったかいなあ」

耳をくすぐるため息が、なぜだか、ひどく寂しげなものに聞こえた気がした。

「・・離せ」

「もう眼魔砲も使えないんどすか?」

俺の両脇に肘をついて、アラシヤマは、そっとごちる。

「シンタローはん。まだ、生きていたいどすか」

「・・は?」

突拍子のない問いかけに、間抜けな声が出た。

アラシヤマの真剣な瞳には、困惑した顔の俺が映っている。

「答えて下さい」

生きていたい。

と、願うのは、至極当然のこと。

だけど願うことすら許されない――願いを諦めるしかない人間だっているのだ。

俺みたいに。

「・・なんでだよ」

「別に答えてくれたって、ええですやろ」

「よくねえよ、ばか」

だって。

答えて、しまったら。

「舌、噛むのは、なしどすえ」

強引に抱き起こされて、やっぱり強引に口付けられて。

気付けば、容赦なく身体を這い回る、細い指先。

「ちょっ、な、なに・・」

「この先の展開がわからないほど、子供じゃあらしまへんやろ?」

歯列を割って捩じ込まれた舌に口腔を弄られ、反論どころか、息継ぎさえもままならない。

どんなにやり過ごそうとしたところで、一方的に与えられるむず痒いような、もどかしいような刺激が、徐々に身体を熱くしていく。

「本当ならこんなこと、あんさんの身体の負担になるだけやさかい、いやなんやけど・・」

「じゃ、やめ、ろ・・よっ!」

「答えてくれたら、すぐにやめますよって」

めちゃくちゃな物言いにかっとなって、拳を振り上げる。

力ない拳はそれでも、鈍い音を立ててアラシヤマの顎に直撃した。

「・・強情なお人やなあ」

「ざけんなっ!!」

叫んで、俺は、目を疑う。

挑むような声色とは裏腹に、アラシヤマの瞳は濡れていた。

月光を反射してきらきらと光る目が、その青白い肌に不釣り合いに埋まっている。

アラシヤマは動きを止めて、それなのに俺は蹴り飛ばすことも逃げ出すこともできなくて、じっとお互い、黙り込んで。

遠くで鳥の啼き声。

俯いたアラシヤマの頭を、俺は衝動的に胸に引き寄せる。

昔、泣き出した弟や従兄弟にやってやったような、手荒い優しさで。

「・・シンタローはん?」

「泣くな。ウゼーから」

「だって、答えてくれはらないから」

「だから!」

答えてしまったら、言葉にしてしまったら、諦めたはずの感情がまたぶり返してしまう。

それはとても怖いことじゃないか。

そう説明しようかと逡巡し、結局、アラシヤマに説明したってしようのないことだと結論付ける。

だから、ただ一言。

「・・そう簡単に死にたく、は、・・ねえよ」

ふわりと。

アラシヤマが、笑う。

瞬間、俺を襲ったのは、身体の芯まで響く鈍い痛みと痺れだった。

「堪忍」

「・・ブ、殺・・す」

俺をそっと解放したアラシヤマの、薄い口唇が、妙に赤くて。

その赤に目を奪われている隙に降ってきた、軽い口付けは、濃厚な血の匂いがした。

「前に――言いましたやろ。不死は死ぬほどつまらないって」

ああ。

さっきのが、吸血ってやつか。

「それでもあんさんには、・・シンタローはんには、生きててほしいんどす」

頭がくらくらして、視界もぐらぐらして、もう、アラシヤマの言葉を言葉として認識できるほどに、意識を保っていられない。

「・・ねむい」

「寝て下さい」

言われなくても。

やっぱり冷たい指を頬に感じながら、自然と落ちてくる目蓋に逆らわずに、俺は視界を閉ざす。

「次に、目覚めた時には」

目覚めた時、には?

なんて問いかけも、もちろん口にすることは叶わなかった。
すっきりと未だかつてないほどに心地よい目覚めを迎えた俺の、それからの行動は、非常に迅速なものだった。

アラシヤマと会ってから、いくらか吸血鬼に関する資料を集めたのだ。

十二分・・とは胸を張れない程度だが、知識は頭に詰まっている。

「馬鹿が」

床に散った灰に向かってとりあえず文句を吐き捨てて、と。

ホウキとチリトリを使って、部屋の隅から隅まで床を掃き、丹念に灰を集める。

そしてその上に――ああもう、面倒くさいから手順は省いて、とにかく手のひらにナイフを刺して。

こんもり積もった灰の山に、血を、垂らす。

「早く起きろ、このタコ」

呪文だの祈りだの、そんなんいらねえだろ。

これで起きなきゃ見限ってやる。

ほら。

・・俺のために、とっとと復活しろよ。





「・・複雑な気持ちですわ」

「なんで。死にたくなかったんだろ?」

「それはそう・・やけど」

「てめーは死んで俺を生き残らせる、なんて、ただの自己満足じゃねーかよ」

「・・・・」

「第一、俺のために死ぬとか、重い。重すぎる」

「・・・・」

「ん?」

「・・シンタローはんのために、生きます」

「よし。・・許す」
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体重をかけないように加減して崩れ落ちてくる身体を受け止めて、乱れた息を整える。

早鐘を打つ胸の動きが直接、身体に響く。

中に埋まっていたものが引き抜かれた奇妙な感覚、それに濡れた音を立てて太股にこぼれた液体の感触に眉を顰め、俺はようやく、ヤツの肩を拳で叩いた。

「出したんなら、とっとと退けよ」

「出した・・ってシンタローはん・・」

余韻に浸らせてくれたって、と、情けなく呟きながらもアラシヤマは、身体を起こす。

汗で頬に張り付いた髪を指で弾いて、ついでに俺の髪も一房奪い、恭しく口付けてみせて。

目を、細める。

「うるせー、ヘタクソ」

そのままの状態で絶句してしまったアラシヤマを横目に、ベッドを降りてバスルームに向かった。

深夜のひたすら静かな空気が、肌を震わせる。



ざんざん降り注ぐ温い湯にうたれ、考えるのは明日(いや、既に今日か)のスケジュール。

思い浮かぶはしから優先順位をつけて、頭の中に並べていく。

もっとも身体に残された痕跡を見つけるたびに集中は途切れ、どんなに時間をかけたところで、その作業ははかどりそうになかった。

「らしくねーな・・」

独りごちて、ため息を1つ。

いつまでもそうしているわけにもいかず、とりあえず今すべきことに取りかかることにした。

力を抜いて、下肢へと指を這わせれば、容易にそこは侵入を許した。

己の身体が、己の指を飲み込んでいく。

自慰とも違う、緩やかに上っていく感覚をつとめて冷静にやり過ごし、掻き回すようにして指を動かす。

体内からあふれた他人の精液はタイルの上でくるくると回り、排水溝に吸い込まれていった。

(流すくらいだったら、いっそ高松にでも提供したほうが役に立かもな)

たわいないことを思いながらシャワーの音に耳を澄ます。

じっとタイルを見つめているうち、濡れそぼつ前髪から落ちた水滴が睫毛に当たり、咄嗟に目を瞑る。

途端に意識を手放しかけてしまいそうになり、慌てて頭を振った。

そして。

「シンタローはん」

突然、湯気のベールを破り響いた声に、息を飲む。

振り向くまでもなく当然、背後の擦りガラスの扉には、アラシヤマのシルエットがある。

「わて、もう戻りますわ」

緊急召集が、とかなんとか聞き終える前に扉を開けた俺は、なにか言おうと試みたはずなのに、いざアラシヤマを前にすると喉に膜が張ってしまったかのようで、確かな言葉が出てこない。

2度目のため息は細く、静かに。

言葉の代わりにきっちり結ばれたネクタイを鷲掴み、冷たい口唇に、自分のそれを寄せる。

「またな」

不意を突かれた顔を至近距離に見て、少しだけ、胸がすいた。
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濃い錆の匂いに、思わず顔を顰めた。

「麻痺してますねん」

感覚が、と小さく付け足して、アラシヤマは薄く笑った。

左腕から、今なお血を滴らせながら。

「こんなの、慣れっこやさかい」

「そうかよ」

「心配してくれはらんでも」

「頼まれてもしねーよ」

本心から心配を不要だと言う人間に対して、心配、なんて、そんな無駄なこと。

誰がするか。

あまり意味のないため息を吐きながら、眼を伏せる。

馴染んだデスク、艶消しの焦茶が頭を冷やした。

そして半ば啓示のような思いつきに乗じて、おもむろに手を伸ばして。

使い込んだ小振りのペーパーナイフを、握る。

刃先を素早くしっかりと左の手のひらに差し込めば、その途端、首を傾げて俺を見守っていたアラシヤマが、慌ててデスクに身を乗り出す。

「なに、を」

「麻痺」

「は?」

「麻痺、してんじゃねえの?」

「・・シンタローはんの怪我には、麻痺してまへん」

心外だとでも言いたげに呟くアラシヤマの、力なく垂れ下がった腕。

白い包帯に、滲んだ、朱。

「俺だって、このくらい慣れてる」

どくどくと脈打つ傷口からは血が溢れ、手の甲さえも濡らしていくけれど。

(別にこんなの)

確かに痛みは感じるし、その生温かさが不快だとも思うけれど。

(こんなの、どうでも)

血まみれの手でアラシヤマの頬に触れると、アラシヤマも一瞬の迷いの後、傷ついた腕を俺の肩に回した。

混じりあった血の匂いに胸がむかついて、結局なにもわかっていない男の口唇に、思いきり歯をたてる。
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静まり返った空港、珍しく2人きりで、並んでソファに座っている。

数時間前に遅れると連絡があったきり、迎えの飛空艦からはなんの音沙汰もない。

「ちょっと休む」

ふいにそう小さく呟いて、多忙の新総帥はわずかに首を傾げ、目蓋を落とした。



思えば島から戻って以来、幾度となく同衾したにもかかわらず、ほとんど寝顔を拝んだことがないのだった。

改めて気付かされた悲しい事実にうっかり凹みかけて、すぐに、そんな場合じゃないと気持ちを立て直す。

なんたって。

今現在、つい肩先には、その稀少価値の魅惑的な寝顔、が。

寝息なんかも必然的に聞こえちゃったりして、むしろ聞き耳たてないわけがないって状況なわけで。

ごくり、と喉が鳴った。

こんな機会なのだから、どんなに見つめたって悪くはないはず。

常に存在を誇示している眉間の深い皺が消えると、外見に現れた4年という短くはない時間の経過が、妙に目立つ。

「働き過ぎやさかい、明らかに」

まあ、どんなにくたびれていようとも、愛しい(改めて言うと照れますなぁ・・)ことに代わりはないのだけれど。

(カメラ持ってへんのが悔やまれるわ)

試しに、ついと指を伸ばしてみる。

爪先に触れた漆黒の髪の、さらさらした感触に、胸が高鳴った。

一旦触れてしまえば、自然と身体は抗えない力で引き寄せられてしまうもの。

(さすがに・・それはあかんやろ・・とわかっていながらも押さえられないのが人の欲望)

少し痩せたような頬に手のひらを添え、おそるおそる撫でてみる。

起きない。

思いきって頬に口付けようとすれば、やはり悪い企みはそうそう成功しないということなのか、あと数センチの距離で突如、鋭い眼差しに射竦められて。

慌てて身を引こうとして、しかし、それを止めたのは。

「シ、・・シンタローはん・・?」

据わりきった眼の中に映る自分は、当然、怯えている。

しかし、妥当に眼魔砲、運がよければ鉄拳だと覚悟を決めるよりも早く、どっちにしろ予想を裏切る行動によって、思考は強制ストップをかけられた。

とりあえず、口唇を奪われて。

口内で舌が蠢いたりして。

そのまま体重をかけられて。

まだ熱烈なキスは続いて。

ぎゅうと抱きしめられて。

まだまだ熱烈なキスは続いて。

絡み合う視線。

惜しいことにゆっくり離れていく、未だ半開きの口唇が、とてつもなく艶かしい。

「・・アラシヤマ・・・・」

吐息混じりに囁かれ、うっとりと頷いてみせる、と。

「・・寝惚けた、わりぃ」

「はああいっ!?」

再び、なにごともなかったかのように元通りの体勢に戻られてしまえば、それ以上なにか言えるはずもない。

「・・なんや、めっちゃ複雑な気分どす・・シンタローはん・・・」
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珍しい類いの表情に感じられた。

落ち着いた、冷静な、と言えば聞こえはいいけれど、それよりは・・沈んだ、に近い。

しかし沈んだ表情にしては、苛立ちの色が目立ちすぎていた。

「総帥」

恐る恐るの呼びかけに対する反応は、まったくない。

代わりに、横にぴたりと張り付いていた人間が、その強張った肩を叩いて。

ようやく視線が交わった瞬間、複雑な表情の中に、小さな驚きが新たに浮かび上がった。

邪険にされるとわかりながらもわざわざ出迎えたのは、近日中にサインが必要な書類があるから。

・・という建て前の元、久々に本部に戻ってきた総帥の姿を拝める事実に感謝していた。

でも、喜んでいる場合じゃなく、こんなのは明らかに様子がおかしすぎる。

説明を求めるより早く、キンタローが口を開く。

「一時的な聴覚障害だ」

「・・・は?」

「突然、シンタローの横で爆発が起きた。怪我はなかったが、瞬時に聴力が低下した」

「・・そ、れ、大事ないんどすか」

「時間の経過と共に回復する、・・らしい」

なんで組織のトップがそんな目にあうのか、と言い募ろうとして、・・やめた。

本人よりもたぶん、きっと、狼狽しているのは周囲だ。

場が急に静まり返る。

「アラシヤマ」

時間にして数秒程度の、それでも十分重い沈黙を破ったのは、声量こそ大きいものの妙に張りのない、おかしな調子の自分の名前だった。

「はい」

聞こえないとわかっていても答えてしまうのは、条件反射としか言い様がない。

「・・ついて来い」

低く細い命令の、抜群の威力。
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