(双子誕。とちょっと甥っこ)
「せっかくの誕生日なんだから、帰って来なさい」
思いもよらない言葉を発した通信機を信じられないような目で見つめたが、回線越しに対応する兄の声は真面目すぎるほど真面目だった。
驚いて口ごもった男に対し、長兄はどこか面白がっているかのような口振りで「良いから帰って来なさい」ともう一度繰り返し、一方的に通信を絶った。
この年齢になって、誕生日を祝われるとは思ってもみなかった男は多少嫌がりつつも、本部に向かうよう部下に指示を出した。
毎年戦場で年齢を重ね、それで満足していたのに、どうしていまさら、と首をひねったが、家族の関係が修復されつつある今、さして断る理由もなかったので、男は大人しく兄の言うことに従うことにした。
表面上はいかにも面倒臭そうに文句を言っていたが、悪い気はしなかったのだろう。そんな男に、部下は背後で苦笑を漏らしていた。本部に到着し飛行船から出る際に、男は照れ隠しと言わんばかりに身近にいた部下の頭をはたいて行った。
ポートから続く長い廊下を歩き、やっと建物内に入ると、前方から双子の弟が歩いてやってくるのが見えた。
双子なので当然誕生日は一緒なのだから、当たり前と言っては当たり前すぎる弟の登場に、男は意外な感覚を覚えつつ、二人そろって誕生日を祝われるなど何年ぶりかと、その長い年月を思い出し、よくここまで修復できたものだと感慨に浸る。
きっかけは島での出来事であらゆることが明白になった結果、家族の絆は急速に修復されていった。元々家族思いの男だったので、当然それは嬉しく喜ぶべきことだったが、同時に少しくすぐったくもあった。
「よぉ」
「やぁ」
短く気安い挨拶を返し、二人は並んで歩き出す。
ぽつぽつとお互いの近状を報告しつつ男が「あの男」のことを不機嫌そうに訊くと、弟は苦笑を交えて勉強していると答えた。
男にとって憎い相手が弟の近くにいると言う状況は決して好ましくないが、相手が目の前に現れない限り、わざわざ出向いてどうこうしようとは思わない程度には許容している。
弟が幸せならばとりあえずそれで良かった。
次兄が死亡した一連の出来事の後、弟の精神の不安定さは目も当てられず、男は仕事を口実に極力見ない振りをしてやりすごしていた。
何十年も、男は弟とまともに顔も合わせなかったが、たまに会う長兄の口振りでは、甥の存在で多少は救われている部分があったようだ。甥を修行したのも弟だと聞いて、何を思って例の男にそっくりな甥を鍛えているのか不可解であったが、自分のように面影を重ねているのではないかと危惧し、何を心配しているのだろうと自嘲したものである。
それも過ぎ去った過去のことで、失ったはずの親友を再び近くに得た今、現在の弟は安定しているように見えた。
「オメェも兄貴から連絡があったのか?」
「いや、シンタローから連絡があってね、誕生日のお祝いするから帰ってきてって」
「へぇ」
兄からではなく、甥から呼ばれたと聞いて何となくむっとした男の気配に気づいたのか、弟は遠慮の無いからかいの笑みを浮かべた。
「シンタローは自分が呼んだんじゃ、ハーレムは素直に来ないと思ったんだよ」
「はっ。可愛い甥っ子なこって」
それから甥達についての話になった。新しく補佐官という立場を任された甥は随分張り切っているらしく、その報告はお互いに何度か聞いていたようだ。しばしその話題で盛り上がる。
「あの子達は、大人だね」
「はぁ?図体はでけぇが、中身はどいつも餓鬼じゃねぇか」
「私達が思っているより、よっぽど大人だよ」
会話の隙間にぽつりと呟いた弟を横目で確認し、男は苦いものでも飲み込んだかのような表情になった。
甥達の関係は未だによく理解出来ない複雑なもので、その根本に関わっているのは横にいる弟だった。取替え事件が発覚した時は正直驚愕したが、その後の展開もあり責任の追及はあやふやなまま終った。
取り替えられた当人達が、いともあっさりと新しい関係に順応したせいもある。かつては「伯父」と呼んでいた長兄を、現在は能天気に「父親」と呼んでいる甥の顔が、男の脳裏に浮かんだ。
「誰にも責められないのは、辛いね」
「恨んでねぇだろ、あいつらは」
「だから大人なんだよ。信頼を裏切ったはずの私を、あの子達は慕ってくれる。過去の責任を問わずに、前を見ている。過去を振りかえってばかりいた私とは大違いだ」
「餓鬼じゃねぇか、やっぱり」
時には落ち着いて振りかえるのも大事だ、と言おうとしたが、それは見当違いな意見だと思い、止めておいた。
「違うよ。ハーレムも解ってるんだろう?」
「さぁな」
肩を竦めて不機嫌な顔をする男に、弟は穏やかな顔で宣言した。
「私は、あの子達を全力で援助するよ。せめてもの償いとは別に、純粋に力になりたいと思うからね」
自分はどうだろう、と男は思ったが、現在も隊の戦い方について意見の対立している身としては、弟のように断言することは出来なかったので、返事を返すことも無く黙々と歩き続けた。
指定された部屋の前で二人は立ち止まった。料理の良い匂いが扉の外にまで漂っている。
「楽しみだな。シンタローの手料理は久しぶりなんだ」
「あいつに本格的な料理なんて出来るのかよ」
甥の料理の腕については長兄から聞き及んでいたが、高級嗜好な弟が楽しみだと言う程とは知らなかったので、怪訝そうに発せられた男の問いに、弟は得意げに答えた。
「愚問だね、料理は私が仕込んだんだよ」
「ま、酒が飲めれば何でも良いけどな」
大した叔父馬鹿だと呆れながら、男は部屋へと足を踏み入れる。
扉の向こうでは、彼らの家族が待っていた。
(2006.2.11)
(2006.5.30)
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己が属する部隊としては、少々手間取った任務を終え、ようやく本部に戻ると報告すべき長兄の姿は執務室に無かった。
秘書に訊くと正月休みだと言われ、そう言えば年が明けていたと初めて気付く。
今年も戦場で新しい年を向かえることになった。
一年の門出としてはまずますだと一人で悦に入りながらプライベートエリアへ足を運ぶ。到着したとたん、何やらいつもと違うエリアの雰囲気にたじろぎながら声のする部屋に入ってみると、ますます辟易することになった。
すっかり日本贔屓になりやがって。
思わず内心独り言ちる。
日本人と結婚して一男もうけた兄は、驚くほど日本の風習を好むようになっていた。
新年だからなのか呆れるほどに日本風の飾りつけが施され、何やらエキゾチックなしめやかな音楽が流れている。
英国出身のはずなのに妙に似合う紋付き袴を着た長兄は、最近の定番であるビデオカメラで愛息子の姿を映していた。
「獅子舞だー」
子供特有の舌足らずで甲高い声で、きゃぁきゃぁ言いながら近づいてきたのは、被写体である子供で、以前見た時よりも随分大きくなっていた。
この前見たのはいつだったかな、と計算してみると一年近く経っているようで、子供の成長は速いものだと不思議な気分だった。
「お年玉ちょうだい」
差し出された小さな手を邪険に叩き「そんなもんあるか」と言ってやると、甥はむっと脹れ面になった。
「獅子舞は縁起物なんだよ。てめぇこそ何かよこせ」
ひらひらと手を振りながらからかってやると、ますます機嫌を損ね、そのまま父親の元へ駆けていく。
「お正月から子供にたかるんじゃありません。この愚弟が」
相変わらず親馬鹿は健在のようで、息子のことになると冗談も通じない。
「鼻血は拭けよ兄貴。ところで今回の任務だけどな…」
とりあえず目的は果たそうと報告を始めると、瞬時に総帥の顔になった。こういうところはさすがと言うべきだろう。
「ああ、お前達にしては手間取ったな」
そのまま口頭で状況を説明しようとしたのだけれど、兄に止められてしまった。
「後で聞こう。今はシンタローがいるから」
「甘ぇんだな」
本当に自分の子供には甘いものだ。まだ小さいからと甥には何も教えてないらしい。いつまで隠すのか知らないが、いずれ自分達の稼業については話さないといけない。避けて通れるものではない。その時の甥の顔を見てみたいものだ。
わずかな憐憫も混じった嗜虐的な思考に陥りながら、兄に皮肉めいた視線を向けてみたが、一顧だにされなかった。
シュッとドアの空く音がして、双子の弟が入室してきた。
自分の時とは打って変わった嬉しそうな声を上げながら、甥は弟に駆け寄って行く。
新年だから挨拶に来たのだろう。弟はそういうところはそつが無かった。双子の癖に顔も似てなければ性格も似ていない。良く言われることだが当人である自分達が一番承知している。
兄弟が集まることは珍しかったが、顔を付き合わせているとロクなことが無いと自覚していたので、さっさと出て行くことにする。
本当は、弟と、弟に懐いている甥を見るのが嫌だったのかもしれない。
甥の、その色がどうしても許せない。
どうして兄も弟もあんなに可愛がれるのか。
そして、弟の、甥に向ける目が何かを懐かしんでいるような色を見せるのは気のせいか。
どっちにしても面白くない。
子供の歓声を背後に聞きながら、新年早々嫌な気分になってしまった。
(2006.1.3)
(2006.2.22)再up
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「──シンタロー、神は存在するのか?」
唐突な質問に、従兄弟は唖然とした表情になった。俺のことをいぶかしむように眺めながら向かいの長椅子に腰を下ろし、両手に持っていたマグカップのうちの一つを俺の前に置く。間を取るようにコーヒーを一口飲んでから、従兄弟は言った。
「そこの本に、答えが書いてなかったのか? それとも、俺の考えを訊きたいだけ?」
従兄弟は、俺の前に山積みになっている書籍に向かって顎をしゃくった。俺は曖昧にうなずく。
「これらの本に、答えらしきものが書いてないわけではない。──だが、俺にはどうも、納得できなかった」
だからお前がこのことについてどう考えているのか、知りたいのだと言うと、従兄弟は眉間に皺を寄せて、ふうんと気のない返事をした。
この世に改めて生まれ出てからというもの、俺は様々な知識の収集に夢中になっていた。それらの知識は亡き父の好んだようなものからもう一人の従兄が興味を持ちそうなものまで、雑多で広範囲に及んでいて、目の前の従兄弟の首を傾げさせたことも、一度や二度ではない。しかし置かれた環境のせいか、それとも身体に流れる血がものをいったのか、俺の興味の対象は、次第に亡父のそれと似たものになっていった。──そこで、今回の問題にぶちあたったというわけだ。
科学的な観点から言えば、神など存在しない。ただ、神の存在を疑わせるような、美しく端正な法則があるばかりだ。
だが、その科学を扱うのは人間で、人間の認識は、そう簡単に神の存在を否定するようにはできていない。実際、科学者の中にも、科学と信仰とは全くの別物だと考えている者も、大勢いるようだ。
そして俺自身、神話や神学書、哲学書、思想書などを読み漁ってみた結果、その点については、どうにも判断を下すことができない、という結論に達するしかなかった。少なくとも、人間が人間という枠の中に囚われている限り──言語という有限のものを使って全てを知覚せねばならない限り、仮に『神』と名づけられている超越者のことを、完璧に知ることはできないのだと。完全なる『超越者』とは、言語による認識を拒むものなのだ。
「……俺なんかに訊くより、他の奴に訊いたほうがいいんじゃねえの」
言ってから、従兄弟はその『他の奴』の面子を思い浮かべたらしく、少し渋い表情になった。
「一応皆にも訊いたぞ。……皆ばらばらの答えで、かえってわけがわからなくなったが」
俺の後見人は、「神の存在など非科学的」だときっぱり言った。自分は信仰心など持たないのだと。
もう一人の従兄は、「いたら楽しいし、便利かもしれないね」と微笑んだ。もしいるんだったら、コタローちゃんが早く目覚めるよう、絶対にお願いするのに、と。
叔父の一人は、「賭け事の神様ならいるぜ」といかにもなことを言った。もしかしたらその神の名は、ケンタウルスホイミというのかもしれない。
もう一人の叔父は、「神がいる、と考えた方が、納得できることが世の中には多いからね」と他人事のように言った。ただ、その神は慈悲深い神ではなく、残酷な、荒ぶる神だろうとも。
そして伯父は──これは従兄弟には打ち明けない方がいいだろう。きっと照れて怒るだろうから。
それぞれの意見を、従兄弟は興味なさそうに聞いていた。
「──要するに、神がいるかいないか、というより、その個人のものの見方が、神の認識にすでに多大な影響を与えているようなのだ」
これでは参考にしようがない、と言うと、従兄弟は呆れたように俺を見た。
「そんなの当然じゃねえかよ。人は自分が見たいものしか見ないんだぜ」
──それで、この上、俺の役に立たない意見も訊くの? と従兄弟は意地悪く言う。俺は頷いた。
「ああ、俺は、シンタローがこのことを、どういうふうに考えているのか、それが知りたい」
俺は、じっと従兄弟の目を見つめた。
「──シンタロー、神は、いるのか? いないのか?」
従兄弟は、まるで焦らすかのように、ゆっくりとコーヒーを口にした。
「……キンタロー」
「ああ」
「あのな、神はいるかいないか、じゃない。『いま』いるんだ」
神はあらゆるところに存在する。そう答えて、あるいは俺の神とも言える存在の従兄弟は、艶やかに笑った。
「シンタロー! いるかァ?」
怒鳴り声と共に扉をほとんど蹴破るようにして入ってきたのは、シンタローの敬愛する美貌の叔父の双子の兄・ハーレムだった。
たまたま士官学校が休みで、自室で本を読んでいたシンタローは、滅多に家によりつかない叔父の突然の登場を、唖然として見守る。シンタローの成長に伴い、父親の過剰な愛情表現を拒絶するべく、数々の攻防が行われた結果、修理がなされるたびに自宅は着実に頑強さを増しており、事実、泣く子も黙る特戦部隊隊長の一撃にも、扉に皹こそ入れ完璧に粉々になるということはなかった。今もぶち開けられ壁に激突した反動で、小刻みに震えながらゆっくり閉まろうとしているほどの健気さである。
以前に顔を見たのがいつのことだったか忘れるほど久しぶりに会った傍若無人な叔父は、シンタローの姿を見止めるなり、「いたな」とさも当然であるかのように頷いた。放浪癖のある叔父とは元々会う機会も少なかったのだが、シンタローが士官学校に入学してからは、その回数はさらに激減していた。通常であるならば、今の時間帯、シンタローは学校で授業を受けているはずである。今日が休校日だから良かったようなものの、そうでなかったらシンタローは、帰宅後に壊れた扉と荒らされた部屋を見ることになったかもしれない。しかしそのことと、珍しく自分に用があるらしい叔父に見つかってしまったこと、どちらがよりマシであるのかは、シンタロー自身にもよくわからなかった。
満身創痍の扉が閉まるのを待たず、ハーレムは大股にシンタローに近づく。相変わらずの咥え煙草で、かなり短くなってしまったそれから灰が落ちるのにもお構いなしである。だがシンタローの傍に来て、ようやくこの部屋には灰皿なんてありはしないことに気づいたハーレムは、大仰に顔をしかめ、手近にあった観葉植物の鉢の中に乱暴に煙草の火を押し付けて消してしまった。
その一連の行動をぼんやり見守ってしまったシンタローは、そこでようやく我に返り、無礼な叔父を遠慮なしににらみつけた。
「おい、オッサン! わざわざなにしに来たんだよ!? 煙草なら他所で捨てろ、他所で!」
まさかそのためだけに来たのではあるまいな、と疑いながら言うと、叔父は鼻で笑った。
「んなことでいちいちお前のとこになんか来るかよ。あれはついでだ。ついで」
ハーレムは、そもそもこの部屋に灰皿がないのか悪い、とでも言いたげだった。
「──知っていますか」
高松が、俺の髪を丁寧にタオルで乾かしながら、不意に言う。
そろそろ、日付が変わろうかという頃合だった。先の遠征で軽傷を負った俺を気にして、わざわざ仕事帰りに薬を持ってきてくれた高松が、なぜこんなふうに俺の髪を乾かす羽目におちいっているのかといえば、それは、手持ちのドライヤーが壊れたからだ。──もっと順を追って正確に言うならば、軽傷と侮ってなかなか診察に行こうとしない俺に業を煮やした高松が、はるばる自室まで乗り込んでみると、頭にタオルを巻いた俺に出くわしたというわけだ。俺は別に風呂上りというわけでもなく、いい加減寝ようかと考えていたところだった。ただ、なかなか髪が乾かないので、このまま寝ようかどうか、迷って踏ん切りがつかずにいたのだ。
高松は、部屋に入るなり滔々と今回の怪我についての文句と嫌味を述べ、最後に俺の姿を厳しく見咎めた。
「なんですか、その格好は。早く髪を乾かさないと、身体が冷えてしまうでしょう」
怪我のついでに風邪もひく気ですか。でもその方が医務室に監禁できて丁度いいかもしれませんね、と高松は口の端をかすかに上げて言う。
「……怪我のことは反省してるよ。今度からちゃんとするから……。そんで髪のことは、今日だけは見逃してくれ。明日キンタローに見せるなり、新しく買うなりするから」
俺の不摂生に関するドクターの見方は、総帥職に就いてからこっち、前科がたくさんあるだけに容赦がない。このままだと風邪をひいてもひかなくても、なんらかの理由をでっち上げられて、言葉通り医務室に監禁させられそうだったので、俺は慌てて言い繕った。
俺が珍しく素直に応対したからだろうか、高松は軽くため息を一つつくと、不穏な表情をほとほと呆れたといったものに変えた。いざとなったら心底恐ろしいドクターの追及をかわしたことで俺が秘かにほっとしていると、高松は無造作に右手を差し出した。
「なに? ドクター、まだなんか……」
不思議そうにする俺に、高松は眉間に皺を一つ刻んだ。
「なに、じゃないでしょう。タオルをよこしなさい。髪、そのままで寝るおつもりですか?」
高松の目がまたぞろ剣呑な雰囲気を宿し始めたので、俺は慌ててタオルを取りに行った。
高松にタオルを手渡すと、髪を下ろして椅子に座る。高松が苛立っているのはわかっていたから、さすがに今回は乱暴にされるかなと思いきや、その手つきはいつもと同じように──いや、いつも以上に優しく丁寧だった。それは苛立ちを押さえようという高松なりの防衛策なのかもしれないし、ただの俺の考えすぎなのかもしれない。どちらにしろ、高松の少し体温の低い手は相変わらず心地よくて、俺はいつの間にか忍び寄っていた睡魔に、半分以上意識を持っていかれていた。
そんなときだ。不意に高松が「知っていますか」と訊いてきたのは。
俺は、眠気の混じった曖昧な口調で「なにが?」と返す。その不明瞭な言葉に、高松は少し笑ったようだった。俺の髪を梳く手が、気持ち優しくなる。
「……髪には、人の心を縛る力があるのだそうですよ」
──ただし、女性の髪に限って、ですがね、という口調がどことなく不満そうで、俺は笑った。
「なに、うらやましいの?」
「……別に、うらやましいというわけではありませんが……迷信ですしね」
でも、と高松は続ける。
「もしそれが叶うのなら……試してみたいと思わないわけではありません」
「……気になることでも?」
「別に、そういうことでもないのですが」
とは言うものの、高松の口調は少し歯切れが悪い。
高松とかキンタローとか、頭のいいやつは、俺が思いもよらないことを考えていたり、心配していたり、悩んだりしていることが多い(ただグンマの場合は、また話が別だ)。むろんそれが役に立つ場面も多々あるのだが、今回の高松のそれは、俺にしてみれば、考えすぎては拙いのではないかと思えるような内容だった。
「……誰か、繋ぎ止めておきたい奴でもいるのか?」
訊きながら俺が思い浮かべていたのは、グンマとキンタローの顔だ。高松が引き止めておきたいと思う者のことなど、この二人以外には考えられない。
いわゆる《空の巣症候群》というやつだろうかと俺は思った。俺と分離してからというもの、失われた時間を埋めようとするかのように成長・変化共に著しいキンタローは、今や俺の片腕として、ガンマ団にもなくてはならない存在へと一気に上り詰めてしまった。そんな状況で、仕事が忙しいこともあってか、俺の知る限り、ここ数ヶ月は高松と顔を合わせることもほとんどなかったらしい。一方のグンマも現在は自分のやりたいことに没頭し、研究室にこもってばかりなのだと聞く。同じ学者肌とはいえ、グンマと高松では研究分野がまるで違うのだから、一度興味あることに集中してしまえば、こちらもまた、顔を合わせる機会はぐっと少なくなるようだ。一生巣立つことはないのだろうと思われていたグンマですら、少しずつとはいえ、高松の手を離れつつあるように見えた。
高松は馬鹿じゃないから、二人の自立を、理解しないことも、阻むこともしないだろう。それ以前に、そんなことをしようとする自分を許しはしないだろう。けれど、理性ではそう考えていても、感情がそれに添うとは限らない。その葛藤の欠片が、先の高松の言葉なのだろうかと、俺は少し重苦しい気分になった。──もしその考えが当たっているのだとしたら、高松から二人を奪ったのは──結果的にそうなるようにしてしまったのは、俺に違いないのだから。
俺が眉間に皺を寄せていると、高松が不意に、その部分に指で触れた。
「なにを突然、難しい顔をしているんですか」
ひんやりとした、しかし冷たすぎない心地よい指の感触に、緊張していた額の筋肉が、ゆっくり弛緩していくのがわかる。
「……難しいこと考えてんのかな、って」
俺はため息と共にそう吐き出した。
「人の心なんて、どうやったって縛れるようなもんじゃないだろう?」
言うと、高松はかすかに笑ったようだった。
「……ええ、確かに、そうです。他人の心など、どうこうすべくもない。わかりきったことです。どうにかしたいなどと、望むことすら愚かな」
やはり、と思う俺に対し、でも、と高松は続ける。
「でも……他人の心ならいざ知らず、己が心ぐらいは──」
「……高松?」
「自分の心が、知らぬうちに変わってしまうことの方が、よほど苛立たしいのですよ。そのような心配を、しなければならないこと自体が」
高松は、自嘲気味に言った。
「他人の心が変わってしまうのは、仕方のないことだと私には思えます。人はそれぞれ己の世界を持っていて、様々な物事から影響を受けている。変わるな、ということの方が無理です。まして、それを外から把握することなど」
だから、他人に関しては、どんな変化もありえないことではないと高松は言う。
「ですが、それはあくまで他人に関しての話──自分に関しては、と私は思うのです。私は自分自身のことを、なぜ全て把握できないのだろうかと。変化を予測する客観的な視点を、なぜ持たないのだろうかと」
高松は、俺の髪を優しく丁寧に梳く。
「変わりたくなどないのに──なぜ変わってしまうのだろうかと」
「……高松」
「ですから私は、自分の心を縛ってしまいたい。いつまでもこのまま、変わらずにいられるようにと──」
「変わるのが、嫌なのか?」
「ええ」
「それが良い変化でも?」
「そうですね……良い変化なら、大目に見ないこともありません。……ですが、良い変化があるということは、やがて悪い変化も起こり得る、ということです」
「……」
「この先、あなたは私を嫌いになるかもしれないし、私はあなたを嫌いになるかもしれない。どちらが先に起こるのか、それとも同時なのか、それが起きた場合、どう対処すべきなのか、そもそも対処する術があるのかどうか……そのようなことを冷静に考えられるほど、私は非情ではないので」
だから、と高松は希う。このままの状態がずっと続くように、変わることのないようにと──