渡ろうとした瞬間、信号が変わったので足を止めた。
彼の目の前を幾台もの車が流れていく。
数分の待ち時間を利用して、彼は何気なく周囲の人間を観察する。
手をつないだ親子連れ、携帯電話を手に熱心に会話する若者、疲れた顔でうつろに立っているスーツ姿の中年男性。
ありふれた光景がかえって新鮮だった。
ふと、慣れた匂いを嗅いだ気がして、まさか、という思いとともに思わず勢い良く周りを見渡す。
見つけたのは、小さな喫煙スペースで煙草を吸っている男性の姿だった。
交渉のため訪れた先で、本部とのちょっとした行き違いから帰国が一日延びた。
思いがけない異国での休日を彼は大いに喜び、軍服を脱いで部下に用意させたカジュアルな服に着替え、颯爽と街に出た。
警護は断った。いくら自分の身は自分で守れる力の持ち主だとは言え、補佐官がいれば万が一の危険性を説いて彼を止めたかもしれない。しかし従兄弟は学会のため今回は同行しておらず、彼を止められる者はいなかった。
舗装された道を、彼はのんびりと歩く。
視察の際に車内から見ていたが、自らの足で歩いたほうが街の空気が感じられるような気がした。
休日でもあまり出かけることのない彼にとって、普段あまり目にすることの出来ない一般の人々の生活を垣間見る、いい機会だった。
時折彼とすれ違った人が弾かれたように振り返るが、そんなことは気付かずに、あるいは気にせずに、初めての土地に対する不安など微塵も見せない足取りで、彼は堂々とマイペースに歩く。
途中ショッピングモールを見つけたので、家族へのお土産を買うため立ち寄った。適当に店をひやかしながら品物を物色する。何点か購入し、片手に紙袋を提げて、気ままに散歩を楽しんだ。
だいぶ歩いたので休憩のため目に付いた喫茶店に入った。店内に入るやいなや、店中の人間の視線が一斉に彼に集まったが、彼は無頓着な様子で空いていた道路に面した席に座り、紅茶を注文した。
店員が緊張しながら持ってきた紅茶をすすりながら、帰国後の予定を頭の中で羅列していく。当分仕事に忙殺されなことを確認し、少々食傷気味にカップをソーサーに置いた。
綺麗に磨かれたガラス越しに、道行く人々をぼんやりと眺める。平日の昼間と言うこともあり、人通りは多くも無く少なくも無い。道路をせかせかと忙しそうに歩く仕事中の社会人が大半を占めているように見える。どこの国も会社勤めは大変だ、と彼は共感と共に同情した。
やがて彼は紅茶を飲み干すと席を立ち、会計を済ませ、ありがとうございましたという上ずった店員の声に送られながら店の外に出た。
喫茶店から歩いてすぐの交差点の向こうに、規模の大きな酒の専門店を発見した。酒好きの彼は引き寄せられるように勢い込んで交差点を渡ろうとしたが、信号が変わったので仕方なく足を止めた。
同じように信号待ちのため足止めをくらった人々を観察しつつ、彼は再び信号が変わるのを待つ。
ふと、嗅ぎ慣れた煙草の匂いが鼻につき、まさかと言う思いを打ち消しながら、それでも狼狽しつつ辺りを見渡した。
見つけたのは喫煙スペースで幸せそうに一服する男性の姿だった。
違った、と安堵と落胆が入り混じった感情が彼の胸に去来する。
叔父と同じ銘柄を吸う男性は、傍若無人な叔父とは似ても似つかぬ上品な老人だった。
どうせ叔父はどこかで自棄酒でも呷っているに違いないのだから、こんな所にいるはずない。出て行ったきり音沙汰のない叔父と偶然出くわすことなどないと分かっているはずなのに、ほぼ反射的にその姿を思い浮かべた自分にうんざりした。
叔父の煙草だと匂いで分かった己が腹立たしく、追い出したことを後悔してもいないのに、その癖消息を気にしてしまうのは、一体どう言うことなのだろう。
答えが書いてあるわけも無いのに、彼はじっと老人を注視した。彼の不躾な視線に気付いた男性が、微笑を浮かべながら帽子をとって挨拶する。
我に返った彼はあわててそれに会釈を返した。歳の割りにがっちりとした身体をぴしりとツイードのスーツに包んだ洒落者の老人が、無言で彼のほうに煙草を差し出す。
彼が丁寧に礼を言ってそれを断っていると、信号が変わったのか、いっせいに人が動き出した。
彼はもう一度老人の方に向かって会釈をすると、人波を縫って交差点を渡り始めた。
飲み応えのある相手がいなくなったことを思い出した彼の目には、酒の専門店は信号を渡る前より魅力的には映らず、彼は店の前を通り過ぎて雑踏に混じって消えた。
(2006.3.16)
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鍵の外れる音がした。
研究室の個室のキーを持っている人は限定されており、その中でもノックもせず、ましてや事前に連絡もせずに入室してくる相手はほぼ決まっている。確率は二分の一。その内の一人は現在学会で留守をしているので、残るは一人。
などと道筋だって考えなくとも、何となく分かる。彼は嬉しそうにパソコンから顔を上げると、小走りに扉の方に近づいた。
「珍しいね、どうしたのシンちゃん」
入ってくると同時に声をかけられた従兄弟は、一瞬驚いたように目を丸くしたがすぐに態勢を立て直し、手に持った鉢植えを彼に差し出した。
「これ。遠征に行ってくるから、また預かっといてくれ」
「ん、分かった。今回も長いの?」
彼が観葉植物を受け取ってパソコンデスクの上に置くと、緑色の葉が小さく揺れた。従兄弟が育てているこの植物を預かるのは、これで何度目になるだろう。長期遠征の度に、律儀に世話を頼む従兄弟の大切は鉢植えは、どこか南国風の外観をしている。
「まーな。三週間か、一ヶ月か、そんくらい」
「そんなに? 今回はキンちゃんもいないんでしょ」
彼がどことなく心配そうな様子を見せると、従兄弟は心得たように小さく苦笑した。従兄弟は彼の個室に雑然と並べられた発明品を見渡して、相変わらず変なもんばっか作ってんな、と至極失礼なことを呟いくと、なおも心配そうな表情を消さない彼に向き直り、安心させるかの如くふっと表情を和ませる。
「キンタローとは向こうで合流。ま、任務自体そう難しいもんじゃねぇから、案外さっさと終るかもな。だからその間、それの世話頼むわ」
それ、と観葉植物を指差す従兄弟につられて、彼もデスクの上の鉢植えを見る。どこで手に入れたのか、それとも誰かに貰ったのか、彼の目からもあの島を思い出させるその植物は、人間達のやり取りなどお構い無しに、ただじっと静止している。
「まかせといて」
微笑みながら、いつからだろうと彼は考える。あの子供から託された花を押し花にしてからか、そもそもあの島から帰ってきてからか、従兄弟はやけに植物を好むようになった。元々世話好きなところはあったので、動物や植物の面倒を見る事は子供の頃から得意だったのだが、最近はそれに拍車が掛かっている。窮屈な団を逃げ出して島で一年を過ごした結果、従兄弟の変化した面を好ましく思う一方で、その差異は彼の心をざわつかせた。
壁に入ったヒビのようだ、と彼は思った。
研究室の打ちっぱなしのコンクリートの壁には、いつ入ったのか分からないほど小さなヒビが無数にある。普段はそこにあると気付かない、もしくは発表用のポスターなどで隠してしまえばいいだけのヒビ。決して亀裂までには至らない、取るに足らないささやかな、けれど知らないうちに毛細血管のように広がるヒビが、従兄弟を繋ぎとめておくものに入ってはいないだろうか。
「ねぇ、シンちゃん。手、貸して」
「はぁ? なんで」
「いいから」
渋々と差し出された右手を、彼はぎゅっと握り締めた。ひるんだ様に引っ込められそうになる手を逃がさないよう両手で強く握って、彼は祈ろうとしたが、何を祈れば良いのか分からなかった。
――どうか無事に帰ってきますように。
ありがちだよね、と彼が込み上がる自嘲を押し殺し目を上げて従兄弟の顔を確認すると、随分と当惑した表情が浮かんでいた。いつものように冗談めいた態度ではなく、少し改まった態度で接触をはかると、従兄弟はいつも居心地の悪そうな顔をする。その子供の頃とは変わっていない反応を嬉しく思いながら、彼はもう一度軽く握ってから、従兄弟の手を解放した。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
彼の一連の行動を、従兄弟は解せないと言った様子だったが、にこにこと笑う表情に問い質す気が失せたのか、じゃぁな、とあっさり別れを告げると早々に個室から出て行った。
ひらひらと手を振ってそれを見送って、彼は自分の手のひらを改めて見つめた。一族の中では小さめな手は、それでも成人男性としては標準的な大きさだ。自分はこれで何を繋ぎとめようとしたのだろう。
「帰ってきて欲しいのは、戦場からとか、視察先じゃないんだよね」
指を組みながら、じゃぁどこからと自問したが、答えを出すことなく打ち切った。思い出と戦っても勝ち目は無い、と最初に言ったのは誰なのか。嫌な事を言う。
「…一緒に留守番しようか」
彼はパソコンデスクの上の鉢植えの、鮮やかな緑色をした葉を軽くそっとなでると、日当たりの良い窓際に移した。
(2006.12.1)
文中の観葉植物=textのストレリチアorレギネーだったりしなかったり
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休憩所代わりにされた講堂は、いつにもまして賑やかで、缶ジュースやスナック菓子、発泡スチロールの薄いトレイに乗ったたこ焼きや焼きそばが、香ばしい匂いを振り撒きながら飛び交っている。
若者ばかりが集まった独特の熱気が渦を巻き、開け放しているとは言え外よりも空気のこもった室内は、外気より随分体感温度が高い。グラウンドからはノイズ混じの祭囃子が聞こえてきて、否応にも祭り気分を盛り上げていた。
仕官学校の生徒の中には訳ありの者も多く、夏季休暇に帰る場所のない生徒達のために、暇つぶしで催されたのが、この「夏祭り」の最初だと言う。広々としたグラウンドに夜店が並び、卒業生や現役の戦闘員達も顔を出す夏場のお祭りは、毎年中々繁盛していた。わざわざ浴衣に着替える洒落者や、いつもは無口なくせに慣れない酒を飲んで饒舌になっている者がいて、いつもの制服から解放された生徒達は、この時ばかりは無礼講とばかりに、そろいもそろって浮かれている。
教員も生徒も出払った構内は静まり返っていた。
いつもは気にしないはずの足音がやけに大きく廊下に響き、彼は何となく忍び足になった。グランドとは対象的に人気のない教室をいくつも通り過ぎながら、このしんとした感じは病院に似ていると、意味もなく考えていた。
「どーすっかな、これ」
彼は静寂に押しつぶされそうになったのか、わざと独り言を呟いた。目線の高さに持ち上げられた右手には、金魚の入ったビニール袋が提げられている。
「こんなもん、掬うんじゃなかったぜ…」
祭りの夜の高揚とした空気に感化されたのか、この団で生まれ育った彼もこの日ばかりは浮き足だって、色とりどりの屋台に目移りしつつ、同級生と夜店を冷やかして歩いていた。
屋台の焼きそばが不味いだの、ビールが高いだの、好き勝手な事を言いつつ、ひょいと覗きこんだ金魚掬いの屋台で、悪友のあまりの下手さにいらいらし、「かせっ」と掬い網を奪い取ったのが悪かった。
半分破れかけた紙で器用に金魚を一匹掬った彼に「おー」と後ろの観客歓声を上げたので、調子に乗って5匹掬ったところで完全に破けた。
一緒に回っていた同級生と戦利品の金魚を押し付け合ったが、「シンタローが掬ったんじゃろうが」「掬ったもんの物だべ」等と口々に言われて、結局彼が金魚の入った透明の袋を提げる羽目になった。
狭い寮でわざわざ飼うのも馬鹿らしく、中庭の池にでも放そうかと思ったが、生憎と皆考えることは同じらしい。いつから放置されているのか分からないくらい澱んだ水の池の中には、屋台の金魚が何匹も泳いでいた。先客の鯉だかフナだか分からない大きな魚に遠慮して、隅の方に固まる貧弱な金魚たちが何となく可哀想で、手にした金魚を持て余したまま構内に忍び込んで今に至る。
目的の生物室は三階の一番奥にあり、手にした鍵でドアを開けた。さらに奥の準備室に足を踏み入れると、メダカのような小さな魚が入った水槽が、隅で白い光を放っていた。これに混ぜてしまおうか、と一瞬考えたが、実験に使われる危険性があることに気付いて思い直す。
彼は水道の蛇口に金魚の入った袋を引っ掛けて、手ごろな空いた水槽がないか探し始めた。割れたビーカーやフラスコが乱雑に放り込まれた箱の隣に埃まみれの水槽を発見し、引っ張り出して綺麗に洗う。ついでに餌やエアポンプや塩素抜きの薬品も失敬し、それらをまとめて医務室に運んだ。
「で、何でここに持ってきたんですか?」
「実験には使うなよ、ドクター」
疑問にはあえて答えず、さらっと釘を刺した彼を、不機嫌そうに保険医が睨んだ。祭りの喧騒を逃れて医務室に避難していたらしい従兄弟に金魚の袋を押し付けて、彼はさっさと水槽の準備を開始する。
「へぇ、これシンちゃんが掬ったの?」
「おお」
呑気にわたあめをかじっている従兄弟は、金魚の目の高さまで持ち上げて物珍しげに観察していた。
「一、二、三…四五。五匹も凄いねー」
わたあめを片付けて、リンゴ飴に取りかかった甘党の従兄弟に胸やけを感じつつ、褒められたので得意げに「だろ」と返す。
「邪魔です」
「良いじゃん別に。屋台の金魚なんかどうせ長くは持たねーんだしさ」
「分かってるんなら、最初から金魚すくいなんてしなければ良いじゃないですか。私の手間を増やさないで下さい」
文句を言い募るドクターにうんざりして、彼は従兄弟に目で合図を送る。ぴんときたらしい従兄弟が、にっこり笑って「高松、僕からもお願い」と言うと、「グンマ様のお願いなら、仕方ありませんねぇ…」と鼻血をたらしながらあっさりと手のひらを返した。
ひとつ貸しね、と金魚の袋を返しながら耳元で囁いた従兄弟に、分かったってと了承の意味を込めてひらひらと手を上下させて、準備の整った水槽に金魚を放す。金魚達は突然の広い世界に途惑ったように右往左往していたが、すぐに優雅に泳ぎ始めた。
四匹の黄赤色の金魚に混じった一匹の黒い出目金が、やけに目立つ我が身を恥じているかのように、隅っこに移動する。
「俺と同じ奴がいるなー…」
後ろの二人に気付かれないよう小声で呟いて、彼はガラス越しに出目金をつついた。
(2006.9.2)
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昏い海原を月光が照らしている。
浪は規則正しく打ち寄せて、防波堤を洗っていた。青よりも黒に近い海の色は、淀んだようなもったりとした質感で、あの島の海とは似ても似つかない。
頬を撫でる湿気た生暖かい潮風も、からっとしていた南国の風とは違っていて、記憶を呼び起こすまでも無いはずなのに、ただ海の先にはあの子供達がいるのだろうかと思うと、いつも何となく自然に足が向いた。
交渉先に用意された豪奢な部屋で彼がネクタイを緩めてから隣の部屋を訪れると、予想通りそこにいるはずの従兄弟の姿は無かった。
乱雑にベッドに投げ出されたコートを拾うと、まだぬくもりが感じられた。窓辺に設置された丸テーブルのグラスの底にはわずかにアルコールが残っている。横のボトルは封を開けたばかりらしく、三分の一も減ってない。
つい先ほどまで部屋にいた気配は濃厚に残っているのに、従兄弟はどこに消えたのか。考えるまでもなく行き先の見当をつけた彼は、しばらく迷った後、コートを半分に折りソファの背にかけて長い溜息を吐いてから従兄弟の後を追った。
遠征中に時間が空くとふらっと出かけることは多々ある。
市民の生活をこの目で見たいと言うのが主な理由で、それはとても大切なことだと彼も分かっていたが、もう少し自分の立場を考えて自重して欲しかった。偵察ならば部下が十分に行っているのに、何事も自分でしなければ気がすまない従兄弟らしいといえば従兄弟らしいが、いくら護衛など必要の無い力の持ち主だとは言え、どこで命を狙われているかわからない身の上でそう軽々しく外出するのは補佐官として止めたいところだった。
せめて一言告げてからくれ、と苦言を呈した結果、彼には行き先を告げてから出かけるようになった。心配をかけていると言う自覚はあるらしい。治安が悪い国ならば意地でも阻止するし、そうでもない国ならば渋々送り出す。彼も時間が合えば一緒に出かけ、それはそれで新たな発見があり有意義なものだった。
だが今回のように沿岸の国を訪れた時は話が別だ。従兄弟は彼に行き先を告げることもせず、むしろばれないように慎重に夜更けに外出する。
最初不意にいなくなった従兄弟を探して海辺で発見した時、浜辺に佇む従兄弟を見て身体が固まってしまい、結局彼は声をかけることなくその場を去った。懐かしい目をしながら海を見つめる従兄弟は、何者をも拒んでいるように思えて、一番近しいはずの自分をも立ち入れない部分があると思い知らされ、彼は嫉妬のような敗北感のような感情を味わった。
その感情はやがて焦りに変わり、海で懐かしむ様子を目にするたびに、あの島を忘れられない従兄弟とそれを許せない自分自身に怒りが湧いた。
あの島の生活で従兄弟がどんなに救われたのか、それは彼が一番良く知っているはずだった。島で味わった喜びも悲しみも、従兄弟の感情の機微はその体内で、まさに手に取るように感じられていた。だからこそ、別々の肉体を得た現在、従兄弟が何をどう感じているか見通せないことが歯痒く、海を見つめながら何を考えているか分からないからこそ余計不安になる。
「冷えるぞ」
案の定海辺にぼんやりと立っていた従兄弟は、彼の声にびっくりしたように振りかえり、ばつの悪そうな表情を浮かべた。生ぬるい潮風は冷えるどころかむしろ汗ばむほどで、彼が迷った末に発した言葉は場違いなものだった。
「ばれたか」
従兄弟は苦笑いをしながら、再び海に目をやった。つられて彼も海を見る。
お世辞にも綺麗とは言えない色をした海は、木片や海草が漂っていて、数センチ先も見通せないくらい透明度が低い。共通点は凪いだように穏やかに響く波の音だけで、白い砂の代わりに護岸工事を施されコンクリートで固められた海岸は、彼の目からも酷く窮屈そうに思えた。
「お前の行く先くらい見当はつく」
こんな海にまであの島を重ねるほど、従兄弟は帰りたいのだろうか。
そんなことを考えながら、彼は従兄弟の横に立った。夜の海岸は月の光だけが頼りで、白い光は従兄弟の横顔を浮かび上がらせるには少々心もとない。
「悪ぃ」
しばらく無言で海を見ていると、潮騒にかき消されるほどの小さな声で突然従兄弟がぽつりと言った。この謝罪は、黙って出かけたことに対してだろうか、それとも海辺に向かわずにはいられない自らが抱え持つ郷愁に対してだろうか。
恐らくは後者だ。黙って出かけたのはむしろ自分に対する気遣いだと、彼は分かっている。従兄弟は彼の内心の不安にとうに気付いており、彼も従兄弟に不安を悟られていると気付いていた。
「謝るな。別に悪いことじゃない」
特に誰が悪いと言う事柄ではない。
どちらかに非があるようなことならば、早々に決着は着いていたはずだろう。島を懐かしむ従兄弟の想いも、従兄弟をこちら側に引き止めておきたい一族の人間の想いも、どちらも打算や思惑とは異なる自然な感情だった。
だからこそ、この問題を解決する方法が見つからない。
罪悪感を滲ませながらそれでも尚、海を見つめる従兄弟の横で、やり場の無い感情を抱えながら彼は足元の小石を蹴る。
ぽちゃんと音を立てて落ちた石の刺激で黒い海面に夜光虫の青い光が浮かび上がり、やがて消えていった。
(2006.6.20)
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(お題「不意に」のハーレム側。叔父甥です。女性向けです。ひっそりと裏風味です。苦手な方はご遠慮ください)
長い黒髪が、シーツの上に散っている。
ごそごそと身を起こして、男はナイトテーブルの上の煙草を掴んだ。ライターの火をつけようとすると、ガスかオイルが不足しているのか、シュッと言う音が虚しく響くだけで、中々点火しない。やっとついた火に煙草の先を近づけて、軽く息を吸い込むと炎は煙草に燃え移り、数回の点滅の後、少々癖の強い香りが室内に充満した。
暗い部屋の中で蛍のような頼りない光が、男の手の先で揺れている。おぼつかない光源により、一切の装飾をそぎ落としたような殺風景な寝室がわずかに浮かび上がった。生活感がまるでないその内装は、寝る暇も惜しんで働いている部屋の主の日常を物語っているようで、男はベッドの隣にいる甥に視線をやった。
先ほどからやけに静かだと思っていたら、甥は男の方を向いたまま瞼を閉じていた。耳を澄ますと微かな寝息も聞こえてくる。どうやら眠っているようだ。
男は予想外のものでも見てしまったかのように大きく瞬きを繰り返すと、煙草の穂先を甥の顔の方に向けた。煙草の明かりで垣間見た甥の寝顔は、男に苛立ちと少量の優越感を同時に与え、心の中に巣食った得体の知れない感情を増幅させた。
横にいるのに気を許して眠らないで欲しいと思ってる癖に、安心したように眠る甥を起こさないよう慎重に身動きしてしまう自らの矛盾に、男は自嘲気味に唇を歪ませた。
甥の象徴のような長い黒い髪が汗で頬に張り付いている。男は煙草を持っていない左手を何の気なしに伸ばし、髪を梳いて背中に流した。
甥が髪を伸ばし始めたのはいつからだったのだろうか。髪から手を放して、男は過去の記憶を辿る。
幼少期は短かった。あの島で久しぶりにまともに向き合ったときはすでに長かった。仕官学校に入ってからは極力顔を合わさないようにしていたので定かではないが、恐らくその辺り、たぶん二十歳前後に伸ばし始めたのだろう。
異端の色をした髪を伸ばす心境を推し量り、推し量ってしまった自分に腹を立てる。同情しながら疎んでいた黒髪を、男はもう一度後ろに梳いた。
乱暴に梳いたせいか、むき出しの肩に髪がかかって、汗のせいで張り付いている。力なく放り出された甥の腕の内側に、内出血のような赤紫色をした痕を目にして、気まずそうに視線を外した。甥に対する執着心が、その小さな痕に終結されているようで苛々する。
それでも外からは決してばれない位置に残す辺りが、理性を保っている証拠かもしれない。この状況で何の理性だ、と男は自らの考えを鼻で嗤い、自虐を込めて再度甥の黒髪に触れた。
何度も髪を梳かれて覚醒したのか、甥の身じろぎを察知して、男はとっさに灰皿に煙草を投げ込んで、うつぶせに寝転がり顔をクッションに埋めて隠した。
隠れなければならないようなことをしていないのに、寝顔を見ながら髪をなでる行為が、その背景にある感情がなんであれ、男にとっては酷く自分らしくないことのように思えたせいだ。
甥はしばらくぼうっとしていたようだったが、煙を上げる煙草を見ると身を乗り出してそれをもみ消した。その後も特に何をするでもなく、ベッドの上に座っている。時折感じる視線が気まずくて、男は寝たふりをし通すことに決めた。
遠くで水音が聞こえてくる。
甥がバスルームでシャワーを浴びている音を耳にしながら、男は再度煙草に手を伸ばした。ライターの火をつけると、今回は一度で上手く発火した。煙草に火を移すことなく、男はじっと炎によって明るくなった手元に見入っていた。
ライターを持つ左手に、黒い髪が一本絡み付いている。
男はその髪を払うこともせず、忌々しそうに舌打ちをしてから、漸く煙草に火を移した。
甥の黒髪も、汗ばんだ肌も、背中に立てられた爪の感触も、こうして一人で煙草を吸っていると幻のように思えた。
甥の部屋に染み付いた、愛煙している煙草の匂いに気付くたびに、どうしても狼狽する。組織の中で喧嘩を繰り返してばかりの日常に、この関係が地続きで存在しているものとはとても思えない。
それなのに中指と薬指にかけて蛇のように絡む黒髪は、ともすれば本人よりもその存在を知らしめて、これは間違いなく現実だと男に付きつけてくる。
自嘲と自己嫌悪に悩まされると分かっているのに、酒を飲むと言う口実で、甥の部屋を訪れることを辞めない自分は何なのか。
男が幾度となく自らに問いかけた質問に、とっくに答えは出ていると頭は告げている。そして、似たような考えをする甥も、恐らく答えに気が付いているだろう。けれどそれを認めるわけにはいかなかった。
誤魔化し続けて、嘘を付き、虚構によって成立している関係こそが相応しい。
「馬鹿じゃねえの」
考え込んで結論付けた解答に対して、吐き捨てるようにそう言い放つと、男は煙草を灰皿に投げ込んで、ベッドの中から這い出した。乱雑に散らばった衣服を身に付けて、寝室を後にする。
扉を閉める前に振りかえった視線の先で、消されぬままに残された煙草の煙が揺れていた。
(2006.6.29)
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