小さな空間で、三人と一匹が眠っている。
いや正しく言えば、二人と一匹は眠っていて、一人は寝たふりをしている。
時計と言うものが意味を持たない島なので、正確な時刻は判らないが、恐らく午前2時を過ぎている頃だろう。夜行性の生物がたてる微かな音が、やけに大きく聞えるほどの静かな夜だった。
彼は本日何度目かの寝返りをうった。
日中嫌と言うほど働かされたせいで身体は貪欲なまでに休息を求めているのにも関わらず、頭ばかりが冴えて眠れない。
寝返りをうち、かすかに目蓋を持ち上げる。わずかに開いた視界には、仲良く眠る二人と一匹が映っていた。
金髪の少年と入れ替わりに同居するようになった黒髪の青年は、少年と同じように子供と犬と一緒に眠っている。同居一日目から、まるでそうすることが当然のように同じ布団で眠っていた。
彼がこっそり行っている観察によると、並ぶ順番はさほど重要視されていないらしい。子供が真ん中だったり、犬が真ん中だったり、日によって違っていた。三人一緒に眠ることが重要なのだろう。今日は青年が真ん中で眠る日だった。
右側に子供、左側に犬。両手に二人を抱きかかえるようにして、青年は眠っている。
茶色のふさふさとした毛並み越しに見える青年の横顔は、安心しきっていた。彼の位置からは見えないが、子供も同じ表情で眠っている。
どうにか眠ろうと焦った彼は、その結果反対に覚醒してしまった頭で、彼らのことを考える。
四年と言う短いような長いような期間を経て再会した彼らは、傍目にも分かるほどに強い絆で結ばれていた。
例えば、青年が子供に向ける多彩な表情。無防備で素直な感情、たまに見せる慈しむような柔らかな笑顔。
彼はそれを初めて目にした時、あまりにも意外すぎて固まってしまった。以前自分が所属していた血生臭い集団の現総帥が、こんな表情も出来るのか、と。
第一印象があまり良くなかったせいもある。少年を連れ戻しに来た時のいざこざや、そのブラコン加減に俺様体質。その後の空中での戦闘で垣間見た総帥としての振舞い。そういう面しか見ていなかった。だから島で同居するようになって、青年が子供や犬に見せたその表情は、彼にとって酷く予想外だった。
そして青年は子供の無表情を読み取る。
彼が何年もかけてやっとある程度分かるようになった子供の喜怒哀楽を、青年はいとも簡単に、彼よりよっぽど細やかに察していた。
犬もそうだ。人を良く噛む犬は、実に嬉しそうに尻尾を振りながら青年の頭に噛みついている。その遠慮のない噛みつきっぷりは逆に青年への親愛を表しているように見えた。
日常的に二人と一匹の絆を見せられている彼にとって、最初感じたのは、疎外感に良く似たものだった。
少年と同居していた時は、そんなことは無かった。彼は子供達の保護者として、仲良く遊ぶ少年達を微笑ましく見ていた。同い年の子供達が仲良くするのは当然で、そこに疎外感が入る余地はない。
しかし現在同居している青年は彼よりも年上で、しかも子供の友達だった。
彼は暗闇に目を凝らして、青年の横顔を眺める。
日中の眉間に皺を寄せた不機嫌な表情と比べると、寝顔は幾分幼く見えた。
自分は何なのだろう。
青年の横顔を見つめたまま、彼は自問する。
同居人で、一応保護者という答えが浮かんでくる。番人なのは当たり前だった。かと言って、彼にとって子供は番人として守らなければならない保護対象としての存在だけではない。しかし友達かと聞かれると即答出来ない。友達と言い切ってしまうとニュアンスが異なるように思える。
青年は子供の友達だ。自分は友達と言い切れない。
それが青年と自分の違いなのだ、と彼は最近気付いた。
だから疎外感は消えた。
疎外感の次に来たのは、羨望だった。どちらに対して、と言うものではない。二人と一匹の関係が羨ましかった。そう言えば前の番人も似たようなことを言っていたな、と彼は少し苦笑する。
お互いがお互いを大切に想いあって、年月も距離も関係の無い、純粋な絆。
そんなものを見せられれば、誰だって羨ましくもなるものだ。
近頃では羨ましいを通り越して、このままずっとその絆を見守りたいとまで思えてきた。
だが恐らく時間は限られている。青年は帰らなければならない場所があり、いずれはそこに帰ってしまう。彼もそれは分かっていた。いずれ来る別れを見据えながら、青年と子供は一瞬一瞬を大切にしている。自分に出来ることと言えば、せいぜい二人の邪魔をしないくらいだろう。
本当に出来ることならあの二人をずっと一緒に居させてあげたい。出来ないと分かっているけれど。
彼は再び寝返りをうった。
窓からかすかに光が差し込んで、夜の終わりを告げていた。
寝坊したら起こられるんだろうなぁ。
彼はようやくうとうとしかけながら、今朝起こり得るであろう惨状を眠い頭で予想した。
(2006.3.7)
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(南国5巻より。扉の前で)
幽霊になってまで生意気そうな面してんな。
新しい甥っ子から死んだって聞いてたけどな。やっぱ生きてやがったと思いきや、幽霊かよ。
非常識な餓鬼だぜ全く。
一族に存在するはずのない『黒』を持って産まれただけでも非常識な癖に、あの兄貴に反抗して家出した挙句がこのザマかよ。
年々『アイツ』に似てきやがって。久しぶりに見たけど、そっくりじゃねぇか。
とことんヒトの神経逆撫でする『元』甥っ子だぜ。
新しい甥っ子はこの通り、金髪で秘石眼もある。テメェはこいつの『ニセモノ』なんだってな。
ニセモノだったから黒だったのか。だから秘石眼もなかったのか。だから、俺らと違ったのか。
俺ら一族の人間は、兄貴に反抗することなんて出来ねぇ。俺も、テメェの横にいるサービスも。
テメェだけが、兄貴に真っ向から反抗した。反抗して自分の弟を助け出そうとして脱走して、でも結局その兄貴をかばって弟に撃たれて死んだんだってな。
馬鹿じゃねぇの。救い様のねぇ馬鹿。
苛々すんだよ。
アイツにそっくりなその顔も。アイツとは似ても似つかない真っ直ぐなその性格も。
散々ヒトを苛立たせておいて、あっさり死んで。
それで、幽霊かよ。
何なんだテメェ。何者なんだよ。
ニセモノってどういうことだ説明しろこの野郎。
誰かさんと違って騙せるようなタマじゃねぇだろテメェは。この餓鬼。
ああ、クソ。
それにしても暑いな、この島。
新しい甥っ子がテメェを獲物だって言うから譲るけどな、二番に立候補したい気分だぜ。
やっぱりアンタ来たんだな。
仰々しく部下引き連れて飛行船で乗り込んで来て、格好つけた隊長面しやがって。
ああコタローと『ソイツ』も連れて来たのか。
ソイツに聞いたんだろ。俺は『ニセモノ』だって。満足したか?
一族の中で一番俺の『黒』にこだわってたの、アンタだったもんな。気付いてねぇとでも思ったか。
アンタが死ぬほど憎んでるどっかの誰かさんと、偶然とは言え似てるもんはしょうがねぇって思ってたけど、こうなると偶然じゃねぇみてぇだし。まだはっきりしねぇけど。
俺を通して『黒』を憎んでたのか、『黒』である俺自体を憎んでたのか。
何考えてんだか分かねぇ奴の多い一族の中で、アンタは結構分かりやすかったんだけどよ。
そこだけは、分からなかったんだよな。
それで、どっちだったんだ? いやどっちにしろ、あんまり変わらねぇか。
わざわざ特戦部隊連れて来たってことが答えみてぇなもんだし。
憎んでた甥っ子が死んで、アンタ清々したろ。
いやもう甥っ子じゃねぇか。叔父でも甥でもねぇし。
けど、残念だったな。俺は絶対生き返る。
約束したんだ帰ってくるって。
アンタが嫌な顔しようと、これだけは守らなきゃなんねぇ。
ああ、クソ。
いつもにまして暑いな、この島。
でもコタローを保護してくれたとこだけは感謝するぜ、おっさん。
(2007.1.10)
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(時間的に、お題「誄詞」の後の話です)
蒼空の下を飛行船は静かに進んでいる。
随分長い時間が経ったような気がして、彼が腕時計を見ると病室に入った時から三時間程経過していた。まだ、三時間なのか、もう、三時間なのか、判断がつきかねて、時間の感覚も状況によって随分変わるものなんだ、と彼は妙なところで感心していた。
自らの人生が根底から引っくり返された南国での出来事も、時間にして見ればわずか数日でしかない。たった数日で二十四年間の歳月を覆された彼は、今や衝撃と困惑を乗り越えたような、やけにすっきりとした顔をしていた。
彼が今いる部屋、つまり高松の病室で新しい従兄弟と言葉を交わしたせいかも知れない。彼の目から見た従兄弟は、島での振舞いが嘘だったかのように落ち着いて見えた。まだ色々わだかまりや問題は山積みだったが、とりあえず前に一歩進めた気がする。
ベッドに横たわるドクターを見ると、静かな寝息はそのままで、まだ目覚める気配はない。簡素な折りたたみイスに座りっぱなしでは足腰が鈍く痛み、彼は飲み物でも飲んで休憩しようと病室から外に出た。
飛行船は、飛行機や船と違って震動が少ない。
静か過ぎて本当に空を飛んでいるのかと彼としては疑いたくなるくらいだった。狭い通路は特戦部隊の私物や酒瓶が転がっていて、それらを避けながら歩いていると、右隣の扉が突然開いた。
そこから出てきたのは一族の長である男性だった。閉まる寸前彼が覗いた隙間からは、ベッドに寝かされた、金髪をした小さな頭が見えて、目の前の人物が末の息子に付き添っていたことが知れた。
「コタローちゃん、具合はどう?」
「眠ってるよ。ドクターによれば眠っているだけだそうだ」
男性は扉の外にいた彼にさして驚く様子も見せず、普段と変わらない様子で答えたが、その表情には疲労の色がくっきりと浮かんでいた。この人も疲れてるんだ、と思うとなぜか胸が詰まった。
「グンちゃんこそ高松の具合はどうなんだい?」
「怪我はそう酷いものでもないみたい。本人の診たてだからあんまり信用できないけど」
通路に立ったままで、ぼそぼそと会話を交わす。お互いに今一番隣にいるべき人の病室から出たところでかち合ってしまったらしく、怪我人の容態を尋ね合った。聞きたい事や話さなければならない事は他にも沢山あるのに、いざ本人を目の前にすると言葉は中々出てこない。何となく気まずい空気のままで、じゃぁまた後で、と言って二人はその場で別れた。
彼は男性に背を向けて歩き始め、五歩ほど歩いた後、くるりと後ろを振り返った。
「おじさま」
さほど大きい声を出さなくても、その声は届いたようだ。同じように背を向けて歩いていた男性が呼びとめられて足を止め、彼の方を振り向いた。
「何だい?」
「…おとうさま」
彼は事実を確認するため、その呼び方を口にした。
本当の父親に対する得体の知れない感情の波が押し寄せた、と言うわけでは決して無い。彼自身、自分は学会で研究を発表する時のように冷静だと思っていたはずだったのに、その声は少し震えて自らの耳に届いた。元々静かだった周囲の音が一切消えて、完全な無音となった気がした。
事実を確認するのにこんなに緊張するなんて、と彼は数々の騒動でどこか麻痺してしまった頭で、ゆっくり数を数え始めた。
「伯父」と呼んだときの返事はすぐ返ってきた。「父親」と呼んだときの返事はどうだろう。自分が「父親」と呼んだことを否定して欲しいのか、肯定して欲しいのか。結果が出るまで何秒かかるのか。
「何だい?グンマ」
わずか三秒の逡巡のあと、まっすぐにこちらを見つめて、淡い微笑と共に返ってきた言葉は、さきほどの自分の言葉と同じくらい震えて彼の耳に届いた。
「何でもないよ。おとーさま」
泣き笑いのような表情で、彼は結果を受け止めた。また後で、と先ほどと同様の挨拶をして、お互いに同時に背を向ける。今度は振り返らなかった。
目的の休憩室のような場所に辿り着くと、何か暖かい飲み物でも作ろうと、彼はお湯を沸かし始めた。
「結果が出ちゃったなぁ」
ケトルがお湯を吹き上げる音を聞きながら、彼はぼそっと呟く。
研究において、試行錯誤した過程は論文でも学会でも詳しく発表することはない。必要なのは正しい実験方法と、結果。それから導き出される結論と考察。さらにそこから発展させる応用や進むべき次の段階。それこそが意味を持つ。
結果は出た。結論は、まだはっきりとしたものではないけれど、ある程度固まりつつある。発展は、まだちょっと難しいかもしれない。他にも結果を出さないといけないことがある。それこそ、色々なことがまだ試行錯誤の過程だ。彼は湯気を見ながらあえて冷静に研究者としての判断を下した。
「それにしてもこれって、どんな研究より難しいよねぇ…」
不意に視界が曇った。島での出来事で突き付けられた事実に、困惑はしているが、悲しくはないはずなのに、周りの風景が滲む。新しい従兄弟と話して一度は納得したはずの、二十四年間信じてきた様々なことが一気に去来する。
二十四年間愛してくれた育ての親のこと。二十四年間死んだと聞かされていた父親のこと。二十四年間兄弟のように過ごしてきた黒髪の従兄弟のこと。
ずっと信じてきた二十四年の歳月はあまりにも長い。
彼は手の甲で目元をこすり、落ち着くためにゆっくりと深呼吸をする。
「でもまぁ、そのぶんやりがいがあるかもね」
彼の、家族を再構成するための実験は、まだ始まったばかりだった。
(2006.8.22)
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(お題「嘘つき」のグンマ視点)
この従兄弟は判り難いようで、判り易い。
総帥と言う立場からかポーカーフェイスはお手の物なんだろうけど、親しい人にしか分からない程度にどこかに綻びがある。元々感情の起伏が激しいほうだとは思うので、ちょっと気を付けて見てみると、意外なほど簡単に感情を読み取ることが出来る。
そんな従兄弟が、日夜世界中を飛び回って、恐らく数段も老獪な偉い人達を相手に交渉しているかと想像すると、時々大丈夫なのかと心配になる時もある。
この従兄弟は、嘘の吐けない人だと思う。
「何かあったの?」
総帥室に入るなり、血色の悪い憔悴しきった表情で迎えられ、思わずその顔を覗きこんだ。
「何でもねぇよ」
返ってきたのはそっけない返事だったけれど、今回の遠征先で何かあったんだとすぐ分かった。人を殺さない、と言う目標を掲げているとは言え、従兄弟の行く先は戦場で、敵も味方も一般市民も死者を出さないと言うのは、とても難しいことだと思う。ある程度は仕方ない、で片付けることの出来ない性分の従兄弟は、その度に酷く落ち込む。その癖、絶対に弱音を吐いたり愚痴を言わない。これも生まれ持った性分だ。
感情を言葉になおして誰かに話す。それによって立ち直ると言う方法もあるのに、いつまでも抱え込んで自分を責めている。
「またそうやってシンちゃんは…」
全部自分で背負おうとする。
そう言おうとして言葉を切った。どうせ言っても天邪鬼だから否定するに決まってる。本当に、たまには頼ってくれても良いと思う。もう一人の従兄弟と違って一緒に戦場に出ることはないけれど、それだからこそ話せる内容もあるはずだ。
非難を込めた目つきで睨んでいると、くすりと笑われてしまった。睨んでも効果のない頼りない外見は自覚しているけれど、心配しているのに笑われてはさすがにちょっと面白くない。それでも笑顔を浮かべてくれたことに安心した。
「何だよ」
「何でもない」
むくれていると、苦笑混じりに訊かれたので、さっきのお返しと言わんばかりに返事を返した。
そこで本来の目的を思い出したので、手にした研究報告書を渡す。専門用語や数値の多い報告書は、専門外の人には分かり難いので、いつ質問されても良いように、読み終わるまで部屋で待機する。大体いつも来客用のソファに座って時間をつぶすのだけれど、今回は思うところがあったので、従兄弟の背後に回った。
従兄弟は訝しげにちらっと視線を寄越したけれど、すぐに書類に目を通し始めた。後ろから眺める従兄弟の背中は広いけれど、どこか緊張していて強張っている。見ていられない。報告書に集中している隙をついて、従兄弟に腕を回して抱き締めた。
「ホント何なんだよお前…」
案の定、呆れたような声が耳のすぐ横から聞こえてきた。
「何でもないよ」
そう答えながら回した腕に力を込める。軽く腕を叩かれ放すように促されたが、「良いの」と流す。
「だって今は僕の方がお兄ちゃんだもん、甘やかさせてよ」
誕生日を向かえたのはつい先日で、従兄弟の誕生日までの数日間は、一応こちらの方がひとつ歳上と言うことになる。理由がないと甘やかさせてくれない従兄弟には、苦しいけれどわりと良い言い訳だと思った。
「どういう理屈だよ、そりゃ」
「お兄ちゃんって呼んでくれたら放してあげる」
「ぜってーやだ」
軽口を叩きながら、従兄弟を抱き締める。もしも、もっと歳上だったら、色々話してくれただろうか。いや、この従兄弟のことだから、やっぱり何もかも自分の胸の内に溜めてしまうだろう。吐き出せるのはあの子の前くらいかも知れない。
「ねぇシンちゃん…」
この場で言わないといけないような気がして、肩に顔を埋めながら出来るだけさりげなく伝えるために口を開いた。柄にもなく少し緊張する。
「だから何だって」
「僕はずっとここにいるからね」
だからここにいて、とは言わない。
純粋に本心から出た言葉でさえも、本来は生きて行きたい場所があったはずの従兄弟は、それに縛られてしまう。だからその言葉は飲み込んで、胸に仕舞って秘密にしておく。
「ばーか。知ってるよ」
耳に聞こえたのはやさしい声で、抱き締めた背中の緊張がほぐれるのが分かった。
本当に、この従兄弟はほっとけない。
(2006.5.23)
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時折水音にかき消されつつも、隣から調子はずれの鼻唄が聞こえてくる。
うるさい音を遮断すべく、彼は絶え間なくなく降り注ぐシャワーに顔を上げ、きつく目を閉じた。栓を全開にしたため水圧は強く、勢い良く降り注ぐ生ぬるい水は、規則的に彼の皮膚を跳ねて排水溝に流れていく。
弟のことで頭が一杯の今の状態で、習慣の用に半分無意識的に行った自主訓練は、身体を痛めつけることを目的にしたような厳しいもので、気が付くとぐっしょりと汗で濡れていた。不快な汗を流すために共同のシャワールームで水に打たれつつ、彼はこれからのことを考えていた。
弟が幽閉されて、1ヶ月になる。弟と引き離されたときの光景は彼の脳裏に焼き付いて、それから片時も忘れたことはない。
弟の泣き顔、必死で兄である自分を呼ぶ声。父の冷酷な顔、弟を危険だと言い切った冷たい声。
思い出すたび、見ていることしか出来なかった己の無力さに、やり場の無い後悔と怒りが湧いてくる。
ずっと伸ばし続けている髪が水を含んで重さを増した。目の前に垂れてくる黒色が鬱陶しくて彼は髪をかき上げたが、頭から浴びているシャワーのせいですぐに真っ黒な髪が視界に入った。一族の誰とも異なる髪色は、嫌でも異端児だと意識させられてしまう。弟のこともあいまって、そのまま思考がどこまでも沈んで行きそうになり、彼は強く下唇を噛んだ。
口の中に錆びた鉄の味が広がって、排水溝に向かって吐き出した。わずかに赤色が混じった唾液はシャワーによって流れて消えたが、マイナスの思考は消えることはなく、彼はいつまでも繰り返し己の無力を責めていた。
弟の行方を尋ねたとき父に殴られた頬の傷はとうに癒えていたが、あれからずっと彼の心は鋭い爪で引っ掻かれ続けている。
家族全員で一緒にいることが当たり前だと思っていたのは自分だけだったのか。父親と自分と弟で、三人で仲良く暮らすと言うのはもう不可能な夢なんだろうか。
それともそれは、異端児である己には過ぎた願いなのだろうか。
弟が連れ去られてから、父とはずっと口を利いていない。父と自分との間にあった絆のようなものは、あの出来事で決定的に壊れてしまった。もう何もかもが手遅れのような気がする。
強くなりたかった。
弟を取り戻せるほど、父親を止められるほど、強くなりたかった。
こんなにも何かを切実に望んだことの無いくらい、彼は強さを求めていた。
いつの間にか隣の鼻唄は止んでいる。栓を閉めて外に出ると、すでに誰もおらず、広いシャワールームで彼は一人ぽつんと濡れた髪のまま立ちすくんでいた。
偶然か意図的か、ドクターから与えられた情報は、彼を走り出させるには十分なものだった。
弟が、日本にいる。
真っ暗な闇の中に差し込んだ一すじの光は、周囲が見えなくなるほど明るくて、彼は逸る気持ちを抑えつつ、周到に計画を練り始めた。
父親の大切にしている石を勝手に持ち出し、弟の元へ向かう。単純な目的を果たすのは難しく、父や側近の目を盗んで石を手に入れなければ始まらない。
いずれお前の物になる、と父親が言った石を今持ち出しても悪いとは思わなかった。
悪いのは弟を閉じ込めた父と、それを止められなかった自分。
石を盗んだことで、何かが変わるとは思えなかったが、父に思い知らせてやりたかった。せめて、後悔させたかった。
逃げ出したいのではない。あるべき家族の形に戻したいだけだ。
計画は決まった。後は実行するのみだった。
「逃げたぞ!」「追え!」
慌てふためく団員の声を背中で聞きながら、彼は走っている。手にした石がやけに重く、必死で走っているにも関わらず前へ進んでいる気がしない。海までの逃走経路が永遠に続くかと思われた。
追っ手と応戦しながら走り続けていると不意に視界が開け、潮の匂いが鼻についた。彼は前もって準備していたボートに飛び乗ると、青い海に漕ぎ出した。
その日は航海を祝福するように晴れた日で、波に太陽の光が乱反射してやけに眩しく、父と弟の瞳と同じ色をした海面を、彼はまともに見ることが出来なかった。
(2006.4.14)
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