最後に見たのは赤い火で、それがまだ身体の中でくすぶっているかのように痛む。
何度も意識を引っ張られ、かと思うと突き落とされる。全身がひりひりするほど熱っぽいのに寒気が背筋の方から忍び寄って、熱いのか寒いのか判らない。誰かに何かを伝えたいような気がするのに、言葉にならない呻き声だけが咽喉から漏れる。
そんな状態でも、必死で誰かを探していたような気がした。
男が意識を取り戻したのは一週間前のことだった。
ようやく意識不明の状態から回復したとは言え、まだ男の火傷は癒えていない。生きたまま焼かれかけていたあの時よりも、今の状況の方がはるかに辛いようで、じくじくと長引く痛みは中々去ることをせず、その存在を主張し続けていた。
入院生活には慣れてもこの痛みには慣れないようで、血の気の失せた顔は痛みのせいかますます白い。点滴の針が何箇所もの痣を作り、幾分痩せた腕をさらに痛々しく見せている。狭くも無いが広くも無い個室の真ん中に置かれたベッドの上で、男はぼんやりとした表情で天上を眺めていた。
白く塗られた天井は、音を吸収するためなのか等間隔で小さな穴が空いている。
焦げと治療のために短くなった前髪のせいで、隠れていた右眼が晒されて、おかげで視界が広かった。穴の数を50まで数えたところで辞めた。天井を見るのにも飽きたが、寝返りをうつのにも一苦労だったため、男は目を閉じて天井を視界から追いやった。
男はある人物を待っていた。
意識を取り戻して以来、ある程度の頻度でやって来る見舞客の中に、その人物が混じることはない。目を覚ました時、その人がいなくて残念だった癖に、同時に安心した覚えがあった。
来て欲しい気持ちが八割で、来て欲しくない気持ちは二割程度。どちらかと言えば早くその顔を拝みたいのに、見たくない気もしないではない。つまり男はその人物の反応を怖がっていた。
命を捨てるつもりで望んだ戦いで生き残り、こうして清潔なベッドの上で呑気に天井を眺めている自分が妙に愚かしい気がして、男は嘲笑と憐れみが混じったような笑いを自分自身に向けた。
死ぬなと言われたのに死ぬつもりで挑んだ戦いでも、師匠に勝つことは出来ず、結局「彼」の命令に背いた罪悪感と、また余計なものを背負わせてしまったかもしれない後悔が、男の胸に残った。
他人のために力になりたい、と思って行動した結果がこれだ。なら初めからあんなことしなければ良かったのだろうかとあの時の出来事を振り返って見ても、やはり自分は自爆技を使っただろう、と言う同じ結論しか導き出せず、思考は迷路に入り込む。
堂々巡りの考えに決着を付けるためにも「彼」に会うに越した事はないのだけれど、その反応が怖い。命令に背き命を捨てようとした己は見限られても仕方ないが、いざそうされるかも知れないと考えると途端に目の前が暗くなる。
痛む体を無理やり反転させて嫌な考えを追い出していると、遠くから足音が聞こえてきた。音の無い病室にいる男には、遠方の音もやけにくっきり聞き取れて、近づいてくる足音はまっすぐこちらに向かっている。
どうせ医者か冷やかしに来た見舞客だと高を括って、男が入り口を睨むように見つめていると、小さなノックの後返事も待たずに開かれたドアから入室してきたのは恐れつつも待ち望んでいた「彼」だった。
「なっ…」
慌てて半身を起こしつつ言葉を失い目を泳がす男を尻目に、彼は来客用の折りたたみのイスを広げて座り、眉間に皺を寄せたままベッドの上の男をじろじろと眺めた。巻かれた包帯や点滴の痣を見るたびに、彼の目に浮かぶ怒りに良く似た感情を、男は呆然と見つめていた。
一通り男の容態を確認して気が済んだのか、彼は男と目を合わせると「馬鹿じゃねぇの」と吐き捨てた。馬鹿と言われて返す言葉も無く、男はただ目の前にいる彼を見つめ返そうとして、そして出来ずに目を逸らした。
「誰がそこまで頼んだ。他人のためにそこまでするキャラじゃねーだろお前。馬鹿じゃねぇの」
「へぇ、すんまへん」
吐き出される罵詈雑言に身を縮めながら恐る恐る彼の方を窺うと、自責の念を押し隠したような苦しく歪んだ表情があった。
「人のために死のうとしてんじゃねーよ」
それは違うと男は胸中で否定した。男は人のために死のうとしたのではなく、彼のために死のうとした。もっと正確に言うと死のうとしたのではなく、死んでも構わないと思っただけだった。
いくつも浮かんできた言い訳は言葉にならず、結局「すんまへん」と、それこそ馬鹿のように男は繰り返した。
「もういい」
怒りながら悲しんでいた彼は不機嫌な表情のままイスを立ち、男に背を向けた。見限られたと悟った男へ軽い目眩とともに絶望が忍び寄ってくる。
「死ぬほどコキ使ってやるから、さっさと治れ。俺のために馬車馬のように働け」
もう駄目だと思った瞬間、振り向くこともせず発せられた予想外の別れの挨拶に、男はベッドから身を乗り出した。点滴の管がゆらゆら揺れて倒れそうになり、痛む手で慌てて押さえていると、すでに彼の姿は無かった。
「…おおきに」
彼に対する礼の言葉は、誰に聞かれることも無く壁に吸収されて消えた。『働け』が『生きろ』に聞こえたのは気のせいばかりとも言えず、男は場違いな幸福に満たされながら、見慣れつつある天井を仰いだ。
(2006.6.5)
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(南国6巻44話の「殺すよ」の場面より)
今まで目の前に提示されていたにも関わらず、あえてそのままにしておいた問題を、まとめて突きつけられたのか。
息子を連れ戻すために訪れた暑い南国の島は、当初から些細な既知感をもたらす場所だった。今となれば、一族としての本能が反応したのだろうと思えるが、その脳裏を小さな針で引っかかれるような警報を見逃して――いや見逃していたのか気付いていたのに故意に無視したのか――息子のために再来訪したのが、そもそもの原因だったようだ。
だがその警報を察していればどうなったか、と言うことを考えると答えは一つしか出てこない。そこに至る過程の違いは多少あれど、息子のためにやはりこの島に足を踏み入れていただろう。例えそこが、赤の一族の聖地であっても。
対照的な色を持つかの一族に関しては、良い思い出は皆無である。末弟の目を奪い、兄弟間の絆を奪い、ひいてはすぐ下の弟の命までこの手から失った全ての元凶である「赤」を、恨むことは当然だろう。
赤にとってはこちらの方が全ての元凶だ、と言い分があるだろうが、概ねの事象は正誤も善悪も表裏一体であることを、私はすでに学んでいる。私にとっては彼らが悪であり、彼らにとっては私が悪だ。それについては何も言うことはない。見解の相違など、そこらに溢れている。
その悪である対象に良く似た面影を持つ息子を溺愛した自分は、異常だと罵られても仕方ないのかもしれない。表立って意見するものはいなかったが、影でそう囁かれていたことに気付かないとでも思っていたのか。小さなことが命取りになる、それを阻止するためにも常に冷静であれ、と行動して来たが唯一の例外が己の血を分けた息子だった。
自らの双眼とそれが齎す強大な力を、内心では疎んでいたのだ――と知らしめたのもまた息子だ。この目さえ無ければ、兄弟にはまた違った未来があったかもしれない。その可能性を模索していた最中に、忌々しい目を持たずに生まれてきた息子は、神の恩恵のように思えた。父が亡くなってから神を信じたことは無いが、齎された一筋の光を手放すような真似はしない。
希望だからこそ愛したのか、それともどこかで力を持たない息子が私が作り上げた現状を変えるかも知れない可能性をどこかで期待していたからこそ愛したのか――そしてそれは破滅願望に似たものだったのかも知れない。
いやよそう、気持ちを探ることほど愚かなことはない。そこに客観的な視点が入る余地は無いのだから。
成長するに従って「赤」との類似性が顕著になった息子だが、誓って息子に「赤」の面影を見たことは無かった。むしろそれを気にする息子に、より一層の愛情を抱いた。歪み過ぎると、むしろ真っ直ぐになるのはどうしてか。真っ直ぐな愛情はもう一人の息子にも注がれるべきものだったのだろう。
だが、忌まわしい私と同じ目と強大な力を持った次男を、私は――。
言い訳はすまい。私の心情がどうであれ、結果が全てである。二人の息子は私を憎んだが、これで最悪の未来は回避されたはずだ、と信じた。大事なところを読み間違えたのは、曇った愛情のせいだろうか。
いやそれすらも、全てがあの石の脚本だったのかもしれない。踊らされているのを見越して利用しているつもりだったのだが、定石通りに動いてしまったのか。
この島で、役者は全て揃ってしまった。
明らかになりつつある真実は、私を、いや私達一族をどこに連れて行こうと言うのか。
「赤」だと分かった今でも、私は息子を愛している。だが、私は青の人間でありそれは否定できない事実である。「兄」「父親」「総帥」と私の肩書きは多く存在しているが、この局面でどれを選べと言うのだろう。それは選べるものではなく、全てが平等に平行線上にある。
そしてそれら全てを総括しているものが「青の一族」と言う肩書きだ。私は生涯それに縛られるのだろう。だからこそ、それに縛られていない息子を愛したのだ。だが息子が忌々しい運命に私以上に縛られていると分かっても、胸の奥底にあるのは、やはり愛情だった。表面が変わっただけで本質に変化は見られない。
だから私は、自分自身の手で、息子を殺そうと思う。
それが「赤」だと分かった息子への、最後の愛の形である。
これから起こることを私は予測できない。
どっちを選ぶ?と差し出されて、両方得られないのなら両方破壊すれば良い。選べない私はずっとそうしてきた。この戦いが終結した時、私は何を手にしているのだろうか。全か無か。
その中間が無いことは、この場合不幸なのか。これを考えることも止しておこう。幸不幸もまた、善悪と同様に表裏一体であるのかもしれない。
時は来た。私は「父」として「兄」として「総帥」として、そして「青の一族」として行かなければ。
行かなければならない。
いやそれは義務ではない。私は先ほどから自分に言い聞かせているのだろうか。言い聞かせないと立ち上がれないのだろうか。それは違う。私は自分自身に言い訳をしているに過ぎない。最愛の息子をこれから自分の手で殺すことに、後暗い喜び――歓喜のような絶望のような――を感じている自分に対する言い訳を。過程は関係ない、問題にすべきは結果である。
私は、青として赤を――父として息子を――この手で殺そう。
(2006.10.9)
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(時間的に、お題「三つ数えて」の後の話です)
飛行船の窓からの眺めは、乱雑とした船内とは違い、切り取ったような一面の海と空の青が広がっていた。
境界が曖昧になるほど溶け合った海と空の色はいつになく穏やかで、つい先ほどまで行なわれていた戦いがなかったかのような平穏な景色を作り出していた。しかし彼が以前島から離れたときに、子供と犬が見送ってくれた岩山の頂上には、もはや何者の姿も無く、ただ荒涼とした岩肌だけが風に吹かれて砂埃を上げていた。彼の感情とはお構い無しに、飛行船は淡々と進み、島との距離を大きく広げている。
疲労し切っているにも関わらず身体を休めることをせず、彼はずっと壁にもたれ掛って窓辺に立ちながら、どんどん小さくなっていく島を無言で目に焼き付けていた。彼は子供から送られた一輪の花だけを傍らに置き、泣く事も叫ぶ事もなく、楽園との別れを惜しむように、全てを覚えておこうと飽きることなく島を見ていた。
島が小さな点になり、それがとうとう水平線に消えてしまっても、彼はそこを動こうとはしなかった。もし彼の目を覗き込む者がいれば、その中に突然の別れに対する驚きや、それに関しての様々な感情の波が過ぎ去った後の空白の奥底に、身を切られるような悲しみが沈んでいることに気が付いたかもしれない。しかし彼の背後で時折足音が止まることこそあったが、彫像と化した彼に声をかける者は誰もおらず、ただためらうような気配を残して去っていくだけに留まった。
空は刻々と色を変える。薄い雲が橙色に変化し、空全体が目に痛いような青から橙色に変化していった。沈みかけた夕日は海を鮮やかな黄金色に染め上げている。
疲労を忘れるのにも限度があった。酷使した体は必要に休息を求めている。彼はずっともたれ掛っていた壁からようやく身体を離したが、視線は相変わらず窓の外に固定されたままで、すでに見えなくなってしまった島に遠く想いを馳せていた。
「シンちゃん」
おずおずとした掛け声とともに、横から湯気の立つ紙コップを差し出されたのは、太陽がついに海に沈んだ時だった。誰かと会話する気分とはとても言えなかったが、それでも従兄弟を無視するわけにもいかなかったので、彼は窓の外の風景に対する未練を打ち切るために、静かに息を吐いた。インスタントコーヒーのわざとらしい香りが鼻腔を刺して、黒い水面に映る自分の未練がましい顔に苦笑しながらも、彼は従兄弟から紙コップを受け取った。
彼の右隣にぽつんと立っていた従兄弟は、憔悴しきった表情でちらりと窓の外に目をやったが、すぐに視線は伏せられた。続いてポケットから出されたミルクとシュガースティックは従兄弟の手に押しとどめて、いらない、と意思表示したが、従兄弟は勝手に彼の手の中のコーヒーに砂糖とミルクを入れてぐるぐるとかき混ぜ始めた。
「本当は、コーヒーじゃないほうが良いんだろうけど」
他にはお酒くらいしかなかったから、と語尾を濁した従兄弟の目元はかすかに浮腫み、疲労の度合いを示している。充血した瞳を持ち上げて、従兄弟は彼に視線を合わそうとしたが、不意に窓の外に逸れた。海に消えた夕日が、まだ存在を誇示するかのように水平線を淡く輝かせている。島の方向を見やっても、そこにはどこまでも続く海原だけが漠然と広がっていた。
「…とうとう見えなくなっちゃったね」
「ああ」
彼が久しぶりに発した声は、いくら取り繕っても虚ろな響きを帯びていた。しばし無言の時が過ぎる中で、何か言いたそうにしては彼の顔を見て黙る従兄弟に、いつもならすぐ促すために話しかけるところだったが、今回ばかりはそうはいかなかった。海に吸い込まれて行きそうになる意識を無理に浮上させると、このままではいけない、と彼は決心し甘ったるいコーヒーを飲み干して、ようやく従兄弟の方に向き直った。
「どうした?」
「さっきね、マジックおと…じさまに会ったよ。コタローちゃんに付き添ってたみたい」
「…そっか」
弟に付き添う父親が嬉しい反面、「父親」と言おうとして、こちらを気遣って「伯父」と言い直した不自然な空白に、彼は気付いていた。いずれ触れなければと思っていた問題に直面し、彼はうろたえ、そして覚悟した。
「マジックはお前の父親なんだから、好きに呼べよ。俺に遠慮すんな」
歪んでしまっていた家族は、あるべき姿に修正された。そこからはみ出てしまった自らの身の置き場は、こちらの希望だけでなく、他者の意思にも委ねられている。親族一同の濃淡の違うが同じ青い瞳を思い出し、それに混じる自らの黒の異質さに、彼はただ笑った。
黒に生まれついたコンプレックスは、全てを受け入れてくれた子供と島によって壊され、もうわずかしか残っていなかったが、それでも違いはそのままだ。自分の黒を皮肉って笑ったわけではなく、ただ「違う」と再認識すると、ふと肩の力が抜けて妙に笑えた。
「うん…でも、シンちゃんだってマジックお父様の息子でしょう。そして僕の従兄弟」
兄弟でも良いけど、と付け加えてから青い目が心配そうに彼を覗き込む。そこには懇願ともいえる感情が隠すことなく表れており、それに流されるように何がしかの言葉を発しようと口を開きかけた彼を、従兄弟が遮った。
「だって、あのとき、コタローちゃんを止めようとしたときマジックお父様が言ってたじゃない。『お前も私の息子だよ』って。僕だって同じ。シンちゃんも僕の従兄弟だよ」
いつもの気弱な様子など微塵も見せず猛然と言い立てる従兄弟を意外に思いながら、彼は手にした紙コップを握りつぶした。カップの底に残っていたコーヒーが零れ落ち、白い床に点々とした染みを作る。彼はそれを視界の隅で確認し、同じような斑点が自分の心の中に広がっていくのを感じていた。
「今回のことで色んなことが分かって、色んなことが変わったりしたけど、それだけはずっと変わらないから。家族の数は増えたけど、減ったりなんかしてない」
いつしか従兄弟は彼の袖を掴んでいた。離したらどこかに行ってしまうと信じているかのように、指に筋が浮くほどきつく握りしめ、否定されることを恐れるかの如く一気にまくし立てた。
だから、と続けた声が掠れたかと思うと、従兄弟は彼の袖を掴んだまま俯いた。泣くのを堪えているのか、くっと嗚咽のような音が喉からもれたが、従兄弟はいつものように彼に肩にもたれることはなく、立ったまま静かに肩を震わせていた。
彼はつぶれてしまった紙コップを酒瓶が山になっているあたりを目掛けて放り投げ、空いた右手を従兄弟の背中に置いた。宥めるように背中を叩いていると、従兄弟との思い出が次々と思い出された。こんな風に泣く従兄弟を、彼は初めて目にしていた。
「なぁグンマ。俺、親父の跡継ぐことにする」
従兄弟が弾かれたように顔を上げた。一番驚いたのは従兄弟ではでなく、思いがけない言葉が口をついで出た彼自身だった。だがこうして言葉にしてみると、もしも父親や従兄弟などのずっと家族だった誰かが、まだ自分を家族だと認めてくれるのなら、子供が残した世界といずれ目覚める弟のためにも、自らがそうしたいと考えていたことに気が付いた。
堪えていた涙を溜めたまま、目を見開いて驚く従兄弟の顔を眺めながら、重要なことを決定するのは案外こういう時なのかもしれないと内心苦笑していると、曖昧模糊とした構想がだんだん形になって見えたような気がした。
「たぶん、すげー面倒なことになるだろうけど、手伝えよ。従兄弟なんだろ」
「…うん」
従兄弟が笑うと涙が頬を伝った。その情けないような笑顔を見ながら、彼は出来るだけ子供が笑っておける世界にしたいな、とひとつ形になった構想を目に焼きついた島の光景と共に胸に刻みつけた。
白い波間に浮かんでいた彼方の島の方向に、彼は自ら出した答えを問うように視線を投げる。日の落ちた窓の外は黒と青が入り混じった深い紺青色が広がっていた。
(2006.9.16)
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子供にとってその叔父は、とても「叔父さん」とは思えない叔父だった。
もう一人の叔父の方は、知的な喋り方や身のこなし、そして完璧とも言える容貌の持ち主で、子供心に十分尊敬に値する叔父だった。
父親やそんな叔父と同じ兄弟なのが信じられないほど、もう一方の叔父はがさつで乱暴で、容貌も獅子舞そっくりだった。いつも父親に金をせびっている姿しか見ていないせいもあるかもしれない。とにかくあまり良い印象ではないことは確かだった。
とは言っても子供は人見知りする性格ではない。子煩悩とは言え、仕事が忙しい父親が構ってくれない時にその叔父が本部にやってくると、勝気だが人懐っこい笑顔を浮かべながら、叔父と一緒に遊ぼうとする。
子供を見るたびに、叔父の目に何か影のようなものが走るのに、子供自身は気が付いていない。
それは好ましいものの類では無いのだが、敏感な子供が気付かないよう隠しているあたり、子供が思っているほど叔父はがさつではないようだ。
「おーじーさん」
「あんだクソ餓鬼」
叔父を発見した子供は小走りに駆け寄って、その足元に飛びついた。
父親不在の暇を持て余した子供にとって、大人気ない親戚は絶好の遊び相手と言える。総帥の子供だからと壊れ物を触るように扱うことは無く、忙しいからと煙に巻いたりもしない。最初はぶつぶつ言いながらも、最終的には本気になって遊んでくれる叔父に、子供は何だかんだで懐いていた。
「遊んでよ」
「俺はそんな暇ねぇんだよ」
子供に纏わりつかれた叔父は、少々鬱陶しそうな表情で、それを振り払おうと努力している。
「嘘ばっかり、暇そうにしてたじゃない」
不服そうに見上げると、子供の黒い目に苦虫を噛み潰したような顔の叔父が映った。
「うっせぇな。俺はお前の親父に用があって来たんだよ。親父はどこだ、親父は」
「パパはお仕事だって。電話があってどこかに行っちゃった」
どこか諦めたような口ぶりでそう述べる子供に対し、叔父は一瞬憐れむような目を向け、すぐにふいっと逸らした。
「ちっ。入れ違いかよ」
忌々しそうな舌打ちに負けずと、子供は叔父の裾を引く。
「暇になったんなら遊んでー」
ぐいぐいと引っ張られて根負けしたのか、目線に合わせてしゃがみこんだ叔父に、子供は嬉しそうに笑った。笑顔を返されtが叔父は、居心地悪そうに眉間に皺を寄せ、ふと思いついたように子供に尋ねた。
「なぁお前、自分ちの稼業のこと知ってるか?」
思いがけない内容の質問に、子供は記憶を掘り返しているのか、ぐるりと目を上にやって考え込む。
「ううん、知らない。前にパパって何してるのって聞いたら、まだ知らなくて良いって」
「ふうん、兄貴も子供にゃ甘ぇな」
「叔父さんは知ってるの?」
「知ってるも何も、俺も一応部下だからしな。…教えて欲しいか?」
叔父の青い目に睨まれて、子供は一瞬怯んだが、勝気な性格がそうさせるのか「うん」と勢い良く頷いた。叔父は同情のような嫌悪のような感情を覗かせて、そんな子供の様子をじっと観察している。いつもと違う雰囲気を感じ取ったのか、子供は叔父の目を見つめ返すことをせず、うろうろと視線を彷徨わせた。
「やっぱ、やめた」
「…けち」
どこかほっとしながら、子供は一応文句を言ってみせる。何故だか理由は知らないが、父親がまだ知らなくて良いことなら、きっと知らなくて良いのだろう。子供は叔父の真面目な視線に不吉なものを感じた。
「おい、まだかガキ」
「まーだだよ。ちゃんと十数えてよー」
一族のみに開放されている広場のような場所で、二人はかくれんぼをして遊んでいた。遊びたがる子供に逆らえば、後で子供の父親に何を言われるか分からないと観念し、叔父はやる気無さそうに数を数えている。
子供はかくれんぼについていつも不満を持っていた。父と遊べば鼻血の痕ですぐ分かるし、従兄弟と遊べば中々見つけてくれず結局泣き出してしまうので、いつもまともにかくれんぼで遊んでくれる相手がいない。
やっとまともなかくれんぼが出来る、と子供はわくわくしながら出来るだけ発見されにくそうな場所を探し、小さな身体をより小さく縮めて隠れた。
幼い子供の目線は大人よりかなり低く、思いもよらない場所に隠れるものだ。絶対に見つからないと自信満々で子供は叔父がうろたえる様子を思い描き、にやりと笑った。
だが子供の予想は大きく外れ、五分も持たずに発見されてしまった。猫の子のように首根っこを持ち上げられて、叔父の得意げな顔が子供の眼前に広がる。
「甘いな」
大人気なく勝ち誇る叔父を見て、子供の勝気な性格が遺憾なく発揮された。隠れる側と見つける側を交代することなく、次こそは絶対見つからない、と意固地になって、必死で隠れる場所を探索した。
三回連続であっさり発見され、子供の苛立ちは限界に達した。
「何でそんなにすぐ見つけるんだよ!」
「すぐに見つかるお前が甘ぇ」
「一生懸命かくれたのに…」
ふて腐れて不満を漏らす子供の頭の上に、ぽんっと叔父の手が乗った。
「お前の隠れてる場所な、俺がガキん時使った場所と同じなんだよ」
「えーそれって、目のつけどころがハーレム叔父さんと似てるってこと?」
「じゃねぇの?光栄に思え」
「…サービス叔父様なら嬉しいけどナマハゲに似てるって言われても嬉しくない」
ぐしゃぐしゃと乱暴に髪をかき回されて、子供は抗議の悲鳴をあげた。慌てて叔父の手の下から逃げ出す。
「ほんっとーに可愛くねー甥っ子だな、お前。もう帰るぞ」
「もう?まだあそぼーよ」
「ガキは日が暮れたら家に帰れ。飯食って寝ろ」
「はーい」
不承不承肯いた子供を引き連れて、二人は帰路に着く。夕日を照り返しきらきらと輝く叔父の金髪を、子供はうっとりと見上げた。親戚の中でも特に黄色味が強い金髪を、子供は内心気に入っていた。
「叔父さん、髪の毛の色だけはキレイだよね」
「だけ、は余計だろ」
心底面白くなさそうな大人気ない返答にくすくすと笑いながら、子供は自分の真っ黒な髪の毛をつまんだ。
「僕もおっきくなったら、叔父さんみたいなキレイな色になるかなぁ」
叔父は顔を顰めて子供の方に振りかえり、何か言いたそうに口を開いたが、出てきたのは和やかなその場に似合わない重苦しい溜息のみだった。
「さぁな、知らね」
怒ったような物言いに子供がきょとんとしていると、叔父は乱暴に手をつなぎ、引っ張るように歩いた。子供の手をすっぽりと包みこむ大きな手はやけに冷たくて、その体温に子供は目を丸くしていた。
(2007.7.4)
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あの人がまさに落ちる瞬間を目に映したとき、身体の痛みも全て忘れて駆け出していた。
がっちりと掴んだ手のひらは大きくて、絶体絶命の場面で握り返してくれたことがやけに嬉しかった。
「そうなんだよなぁ…」
溜まった洗濯物を片付けながら、彼は溜息と一緒に誰にとも言えない独り言を呟いた。
「あの人、いつか島を出て行くんだよなぁ…」
洗濯物を洗う手を止め、彼はぼんやりと空を眺める。
今日もお姑さんと子供と犬は、仲良く出かけて行った。彼は一人家に残り、洗濯物と格闘している。
青年の存在に初めこそ途惑った彼だったが、今では青年と子供の仲をなるべく邪魔しないよう心がけ、今では料理や掃除の指導などもして貰っている。青年の姑のような微細かつ暴力的な指導には辟易することもあるけれど、概ね上手くやっていると言えるだろう。
金髪の少年が去って行ったときは悲しかったが、入れ替わりのように残った青年に、彼は親しみを抱いていた。家事が趣味、と言う点で気が合ったせいかもしれない。弟である少年の時にもそう思ったのだが、自分はどうも深入りし過ぎる、と彼は思っていた。
この島は聖域で、自分はその番人。
余所者には厳しい立場をとるべきだ、と彼としても解っているつもりなのだが、賑やかな島の住人達に囲まれていると、ついついそのことを忘れてしまうことがある。甘いと言われればそれまでだが、顔見知りの物騒な人達が島に訪れても島の皆と平和で楽しい日常を過ごしているところを見ると、それも良いかと思っていしまう。
自覚がない、と指摘されれば反論のしようがない。
『俺はいつか島を出る。しっかりやれよ、リキッド』
普段はヤンキーとしか呼んでくれないくせに、こういう時だけ名前を呼ぶのはずるいと思う。
そうだった、と彼が改めて青年の顔を眺めて見れば、そこにあるのは断固たる意志だった。当たり前のように子供の隣にいて、当たり前のように島の住人と遊び、当たり前のように子供と犬と一緒に青年は眠っていた。
そんな姿を最初から目の当たりにしていたためか、彼は青年がこの島にいることが日常だと思っていた。青年自身の口から『島を出る』と言われるまで、そのことを忘れていたのだ。
もしかしたら故意に忘れていたのかもしれない。青年が無愛想な子供のそばにいる事が当然のように見え、それが日常だと彼の目から見てもそうだったから。
「わう!」
突然横から犬の鳴き声がして、彼は思わず手にしたままの洗濯物を取り落とすところだった。帰宅したお姑さんが片付いていない洗濯物を目にした際の恐ろしい事態を勝手に予想し、彼は自然に防御の姿勢をとっていた。
しかしそこにいたのは茶色の毛並みをなびかせた犬だけで、一緒に出かけたはずの子供の姿も青年の姿もどこにも見えない。
「あれ?どうしたんだ、チャッピー」
彼は不思議そうに一人で家に帰って来た犬の背中に手を置く。先日青年からブラッシングをされたばかりの毛並みは艶々としており、手のひらに心地好い。
「わぉん」
この犬は島の生物でただ一匹、言葉を喋らない。一番子供の近くにいて青年とも親しんでいる存在と、意志の疎通が出来ないと言うのは、中々不便でもある。彼としてはこの愛犬が喋れればもっと色々知ることが出来て楽になるんだろうと、思わないでもなかった。
「うん?なんだ?俺がちゃんと洗濯してるか見張りにきたのか?」
「わぅ」
そんなもんだ、と気軽な返事を返されて、俺ってお姑さんに信用されてないのね、と彼は笑う。
笑いながら残りの洗濯を済ませ、手早く干した。洗濯物が空に映えて眩しい。彼は犬と共に家に戻ると、おやつの支度に取りかかり始めた。もうすぐ二人も帰ってくるだろう。
足元の犬が、オーブンから立ち昇る甘い香りに鼻を動かしながら尻尾を振っている。それを微笑ましく眺めながら、彼はすとんと犬の隣に腰を下ろした。
「なぁ、チャッピーはシンタローさんのこと好きだよな」
「わん」
何を当然のことを聞くのか、と言いたげに犬が訝しげに彼を見る。それに苦笑を返しながら、彼は犬の頭をなでた。耳の後ろをなでられて気持ち良いのか、犬は目を細めている。
「じゃぁさ、シンタローさんに、帰って欲しくないって思わねぇ?」
それを口に出した途端、彼は悟った。自分はあの口うるさいお姑さんにずっとこの島にいて欲しいのだ。もしかしたら憧憬に似た感情があるのかもしれないが、それよりも何よりも、あの二人を見ているのが好きだった。時間が限られていると解った今でも、あの二人には一緒にいて欲しかった。番人と言う立場から見ても、あの青年と子供の絆は胸が締め付けられる類のもので、あれほどまでにお互いを想い合っているにも関わらず、離れ離れになってしまうのはどうにも遣る瀬無い。
青年には帰る場所も待っている家族も、あちらの世界にいると頭では分かっていても、あの二人を目の前にしてしまえばそんな考えは吹っ飛んでしまう。
『いつか島を出る』
その『いつか』はいつだろう。ずっと来なければ良いと望むのはいけないことだろうか。
いっそ去って行った金髪の少年も、皆でこっちに移住すれば良い、と実現不可能な考えも一瞬脳裏に過ぎった。
「…わぅ」
彼の目の前の犬が、同情をその瞳に浮かべて、しかし左右に首を振った。
『同感だけど、それを口に出しては駄目』
そう言われているようで、彼は犬をなでる手を止める。
「そうだよなぁ…一番シンタローさんに行って欲しくないのは、パプワだもんなぁ」
あんな小さい子供が我慢していることを、犬にとはいえ、つい洩らしてしまった自分に呆れてしまう。
犬はじっと彼を窺うような目で彼を見ていたが、自分で答えを出した彼に、ほっとしたように尻尾を軽く揺らした。
「大人気ねぇなぁ、俺。黙っててくれよ、チャッピー」
気まずそうに頭を掻く彼の手に、もちろん、とばかりに犬は前足をのせた。自然に握手するような形となり、犬の肉球を手のひらに感じながら、彼は青年の手の感触を思い出していた。
いつか、あの手を離さなければならない日が来る。自分も子供も犬も。
それをどうも受け入れかねて自らの考えに落ち込み気味となってしまった彼を、犬が何か言いたげに横目でちらりと眺めたが、すぐに扉に向かって大きく尻尾を振り始めた。
「ただいまー」
「帰ったぞー」
並んで戻って来た青年と子供にばれないよう、慌てて「おかえりなさい」と返す。
あと何回おかえりなさいってお姑さんに言えるのかな、と彼が思っていると犬が後ろ足で蹴りを入れてきた。せっかくの楽しいおやつの時間を台無しにするな、との警告のようだ。
彼は気を取り直して、オーブンの中身を取り出すと、綺麗に盛り付けを始めた。随分腕が上がったはずだけれど、あの大きな手から作り出されるお菓子にはまだ敵わないんだろうなぁ、と彼は内心苦笑する。
敵わないのが嬉しいのは、一体どう言うことだろう。
「はいはい。じゃぁみんな手を洗って。おやつですよー」
家じゅうに、香ばしい甘い香りが漂っていた。三人と一匹が食卓を囲む、いつもの風景がそこにあり、彼は今の時間をせめて大事にしようとこっそり心に誓い、隣に座る犬の毛を軽くなでた。
(2006.8.12)
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