クリスマス・キャロル
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誰かを愛したい。
ずっと。
ずっと、誰かを愛することに、憧れていたよ。
1. クリスマスの亡霊
--------------------------------------------------------------------------------
白い雪の海原だった。
悲鳴が掻き消された後の静寂が、その空間を支配している。
閃光の名残。色彩のコントラスト。赤濁した血。黒い残骸。
指先を掠める、錆びた鉄のように素っ気無い風。
溶けた金属片、弾けた機械油、一瞬前はそこに命があったという痕跡。
立ち込める硝煙と、焦げた生き物の肉の臭いと、薄闇に染まる空。
空。
その空を仰いだマジックは、僅かに眉を顰めた。
少しやりすぎた。
自らの足場さえ、消炭にしてしまう所だった。
暴力的な蹂躙こそが、戦場では一番簡潔で、美しかった。
ここには、死はすぐ側に存在したが、自分からは遠い存在でしかない。
群れた命は土に還り、またすぐに蠢き出すだろう。
自分は絶対者として、その永遠の生命連鎖を速めてやっているにすぎない。
奪う者が奪っただけのことだ。何の感慨もない。
ただ彼は、自らの力の不安定さだけが、気になった。
ここには制御力を増幅する秘石がないので、微妙な加減を見誤る。
マジックは、自分の手を見た。
それは、傷一つ無い、温色のない青ざめた形をしていた。
そう、この手が。
この手が常に触れていた、青い石がない。
奪われた。
……あの子に。
「……凄まじ……破壊……総帥! これで……版図に……」
背後で部下が確認報告をしている。
その声音に喜色を感じ、乾燥した砂を想い、睫毛の先に残り火を見る。
そうか。私は、この地も手に入れたのか。
そう思い、周囲の焦土を見渡してみたが、枯れた大地にはすでに何の魅力も感じなかった。
雪と、かつて命あったものの残骸で染まった大地。
ひとつの大地。それは、破壊するまでは、自分にとってはそれなりの価値があるように見えた。
しかし手に入れた瞬間、その価値は、途端に失われてしまう。
マジックの執着は、今この手に触れる淡雪のように、溶けて消える。
興味がなくなってしまう。そして次の獲物に関心が移る。
つまるところ自分は、物事の価値そのものよりも、それを手に入れることだけに憑かれているのだと思う。
熱情は、伸ばした指先が届かない所にしか、存在しない。
世界は、大地は。広すぎれば広すぎる程、自分を駆り立てるのだと思う。
だからきっと。
あの子をこうして奪うことができないということが、自分にとっての幸せなのかもしれなかった。
手に入れることができないから。私はいつまでもあの子を、愛することができる。
何かを欲しいと思っても、それはすぐに私の手の内に入ってしまうから。
熱は消え失せ、刹那的な執着は消え失せ、私の心はいつもお前へと還る。
何かを支配した後の空虚感、陶酔の後の徒労とやるせなさ。
溜息の世界。
そんな瞬間、いつも最後に私が行き着くのは、お前の面影。
お前にばかり。
私は焦がれて身を焼き尽くす。
日は落ち、海の下に堕ち、遠くなる戦場の鼓動。
船は翼を広げ、大地を飛び立ち、来た場所へと向かう。
陰陽の揺らめきでしかない日常。際限のない、繰り返しの日々。
地表で。暗い闇の中で。都市の光は明滅し、交錯し、享楽の華やぎと喪失の陰りを伝える。
極彩色のイルミネーション。眠らない街。
遥か上空、飛空挺の窓からマジックはそれを目にし、今日という日を知る。
そうか。今宵はクリスマス・イヴ。
しかし、現在の自分には、それは何の意味も持たない言葉だった。
微かに昔を思い出しかけたが、すぐにやめた。
息をつく。
それから、もう窓の外は見なかった。
本部に戻ると、彼は自室に何処か違和感を覚えた。先程と違う。
柔い絨毯を踏みしめた数歩先で、すぐにその原因を理解する。
デスクの上に、小さなクリスマスリース。
定番のヒイラギやネズエダを絡ませ、銀のリボンと赤い薔薇で作られた輪。
ティラミスとチョコレートロマンスの仕業だなと思ったが、今のマジックは、それを煩わしいとさえ感じる。
そんな気分ではなかった。
その後二人が、夜の定例報告に来たが、相手も心得たもので、全く表情にも出さない。
不機嫌な自分に対して、部下は部下なりに気を使っているようだ。
読み上げられる過去三時間分の戦況報告。
自軍損傷率と死傷率、そして航空偵察と衛星等から割り出した、敵軍の同じ台所事情。
南方戦線では、市街地に、武装勢力が市民を盾に強固な防御陣地を築いているとのことで、装甲車を突入させて、威力偵察の遂行を命じた。
最低でも、地雷原と築城構造物の位置情報だけは入手する必要があった。
自分の出陣時期は、それ次第。
……そして先刻、自分が敵主力を破壊したばかりの戦場では、敗残兵の掃討戦が佳境に入ったようだ。
あの国では、宗教による統治が行われていて、その最高権力者は自らを大司教と名乗っていた。
その大司教閣下の高貴なる御口には、身柄拘束の後に大量の自白罪を投与してあったが、数度目の致死ラインで、やっと情報を漏らし始めたという。
確かその宗教はキリスト教亜種で、彼らにとっても、クリスマスやイヴは特別な日であったはずだ。
救世主の祭日が、自らの最後の日。
皮肉なものだと、マジックはぼんやりと赤く燃える暖炉の火に、青い目をやった。
報告は淡々としてまだ続いている。
早く、一人になりたかった。
夜が更け、マジックは安楽椅子に身を埋め、ゆっくりと目を瞑る。
望んでいた一人の世界は静寂に満ちていたが、思考の掻き乱れる深淵だった。
浮かぶのは、微かな幸せの記憶。
暖炉の火が、ごうと燃えた。
赤い炎と、側の燭台の、蝋燭の揺らめき。窓の外の、夜の息使い。
自分が、こんな時。心に描くのは、いつもただ一人。
お前の顔。お前の記憶。
私から去ってしまった、愛しい影。
笑い声が聞こえる。浮かんでくる幼い顔。
遠い昔の出来事。
『パパー! こっちだよ! こっち!』
甘く脳裏に響く過去の声。それに自分は、語りかけずにはいられない。
ねえ、シンタロー。小さい頃はよく一緒に遊んだね。
追いかけっこ、したよね。笑い合いながら。
お前は、私を大好きって。私もお前を、大好きって。
楽しかった?
私は……楽しかったよ。
とても、楽しかった。幸せだと感じていた。
ほら、今だって。こうして、目を瞑って。
私は、その幸せの名残を懐かしむ。あの頃を――
ねえ……シンタロー。お前は……私といて、楽しかった……?
幸せだった……?
そんなの。お前は聞いても、答えてくれるかな。答えてはくれないよね。
そう空虚な内面に、いつも通りに問いを繰り返すと、目の前に、幼い黒髪黒目の子供が。
おぼろげだったその面影が、はっきりとその姿を現した。
明瞭な存在感が傍らにある。
今、小さなシンタローが自分の側にいる。
ああ、ここは夢の中の世界なんだと、マジックは思った。
「あのね、パパ」
3、4歳くらいだろうか。
過去のシンタローは、小さな手を一生懸命に振って、椅子から立ち上がった、背の高い自分に訴えかけてくる。
そんな姿を見て、マジックは、腰を屈めると、幼い子供に視線を合わせて、少し笑った。
いつもそうだね、シンちゃん。お前は、いつも、一生懸命。
いつも私を、真っ直ぐな瞳で見つめてくる。
一族誰もが持っていない、その黒いお前だけの瞳で。
「あのね、パパ」
そう、こうやって必死に、私に何か言おうとするのさ。
私はそんなお前が、好きだった。
今だって。でも今は。
大きくなったお前はもう、私に何か言うのを、やめてしまったんだね。
諦めて……去ってしまった。遠い南の島へと。
私を捨てて。
「あのね、パパは、ひどいことをしてるよ」
「……」
「そんなパパは、きらわれても、しかたないの」
「……」
マジックは、幼子の小さな動く口を見ていただけだった。
ああ、昔は。この口が次は何を喋るか、そればかりが楽しみで。
ずっと眺めていたよ。飽きなくて、飽きなくて。
可愛らしい声と、可愛らしい台詞と、可愛らしい唇。
もう、お前とは夢の中でしか、会えないんだね。
マジックは、その唇に手を伸ばし、そっと触った。
柔らかかった。
ねえ、シンちゃん。
歌うように口ずさみながら、指でその感触を確かめる。
大きくならないで、シンちゃん。
こんな、何も知らない小さいままでいて。
だって、大きくなったら、お前は私から、逃げてしまうよね?
「酷い? 何も、酷くなんてないさ」
自分の口が勝手に言葉を紡いで、幻に向かって返事をした。
何でもいいから会話を続けて、この存在を少しでも長く引き止めておきたかった。
「私は何も酷いことなんて、していない。酷いと言うなら、私から逃げたお前が一番酷いでしょ」
ねえ? シンちゃん。
そう言ってやると、幻の子供は黒い瞳を揺らめかせた後、また薄桃色の唇を開く。
マジックは、目を細めてそれを見守った。
「パパは、コタローに、ひどいことをしたの」
やはり、この黒髪の子供は、可愛い顔をしていると思う。
何を言っても可愛い。どんな台詞を言っても、同じ。
そして、自分はこの顔に笑って欲しいなと思うけれども。
子供は、懸命に喋っているので、それは望めなそうな雰囲気だった。
でも、この顔が。紅潮した頬が、もっともらしく顰めた眉が、真剣な黒い目が。
とても可愛い。
「パパ! きいて! シンタローのはなしを、きいて!」
「どうして。聞いてるよ。ちゃんと、聞いてる」
マジックは陶然として呟いた。
「いま、パパの、めのまえにいる、シンタローはね。むかしのね。シンタローが、パパを好きだったときの、こころだよ」
聞いてと言うから、ちゃんと聞いてみたが。
この子供は、おかしなことを言い出す。夢の中の存在の癖に。
昔、お前が、私を好きだったなんて。そんなことを言い出す。
マジックが黙っていると、また、パパ、きいて! と必死に言い募ってくるので、聞いていた証に、言葉を返す。
「……シンタローが私を好きだった時の……心?」
初めてまともに自分の反応を得た子供は、嬉しそうな表情を見せた。
それを見てマジックは、こうやって自分が答えてやると、この子の喜ぶ顔を見ることができるのかと思った。
「パパがひどいことをしたから」
だから、幼い声に優しく答えてやろうと決める。
「そうだね、酷いことをしたからね」
「パパがひどいことをしたから、シンタローは、パパを好きだったときのこころを、おとして、なくしちゃったの」
「そうだろうね、落として無くしちゃったんだろうね」
「だから、パパを好きだったときの、こころは、ずっと、こうやってまいごになってるの。ずっと、いくばしょがないの」
「大きくなったシンタローは、全てを捨てて南の島に去ってしまったからね……」
「ずっと、まいごなの」
小さなシンタローの黒目がちな瞳は、澄み切っていた。
細い肩と足が、懐かしかった。
その姿を見ていると、マジックは、その子を抱き締めたいという衝動に駆られる。
過去、よくしていたように。
しかし思い止まり、じっと子供を見つめている。
抱き締めると、幻の子供は、消えてしまいそうだったから。
だから、ただ、じっと。見つめる。
心の中で、語りかけるように。
でもね、シンタロー。
シンタロー。
私を大好きだと、確かに昔のお前は言った。
覚えているさ。懐かしい。
あの頃のお前に、私はこうして会いたくて堪らない。自分が哀れな程さ。
でもね。
お前が幼い頃に好きだったのは、本当の私の姿ではない。
私はお前を騙していたし。お前だって、見ない振りをしていた。
それでも何も知らない子供で、幼さしか持ち合わせていなかったお前は。
私しか頼るものがなくて、他に選択肢がなかったから。
私が父親という立場だったから。
それだけの理由で、無邪気に私を好きだと言っていたんだよね。
お前が本当に私を好きだったことなんて、一度だってないのだと、私は思う。
私は何十億人の中からだって、お前一人を選ぶけれども。
お前は、数人の中からだって、私を選ばないような気がする。
だから、私はお前を縛りたいと感じるけれども。
そうすれば、そうする程、私はお前に嫌われていくのだろう。
だけど、そうするしかないんだよ。
どうしてだろうね?
でも、私はそうする他に。
どうすることもできないんだよ。
「だからね、シンタローのこころは、かなしい」
目の前の懐かしい子供は、言葉を続ける。
悲しい。
マジックは、ゆっくりと口の中で、その言葉を反芻する。
哀しい。
私に騙されたことが……?
そうだろうね。
私は自分の特殊能力だって、眼のことだって、一族のことだって、あの……コタローのことだって……。
全て、お前に隠してきたよ。
それが最善の道だった等と、戯言を呟くつもりはない。
ああ、そうさ。怖かったからだよ。
お前に、少しでも長くの間、偽の私でもいいから、好かれたままでいたかった。
全てはつながっているから。一つ明かせば、全てを明かすことになる。
真実は鎖のように連なり繋がり、私とお前を縛るのさ。
その鎖の一端をお前が握ってしまえば、お前は、全てを知ろうとし、束縛を解こうとするだろう。
常に光の差す方へしか、歩めない子。
私はそんなお前が好きだよ。
だがね。そうしたら、きっとお前は、死んでしまうよ。
賭けてもいい。
お前は、その愛する弟に、殺される。
確実にコタローを助けようとするお前は、その暴走した力に、いつか殺される。
そんな残酷な未来を、私がお前に告げられると、思うかい……?
「パパ。パパ!」
幼子の黒い瞳は、自分を飲み込んでいくようだと、マジックは思った。
黒。
どうしてか、私はこの色に惹かれる……。
この色は、私を煽り、狂おしい想いを呼び起こす。
「パパ。パパ、クリスマスを思い出して」
その中で、言葉を繰り返す頑是無い声。
シンタロー。私の可愛い子。
思い出せと言われても。何を?
「パパ。パパ、コタローのこと、思い出して」
黒い睫毛が、忙しく瞬きをし、光を弾く。
だが弾けた光は、自分が指を伸ばすと、消えてしまう。
私には、一生届かない光。
それがお前の光。
「パパ、思い出して」
その必死な姿に、マジックは再び口を開く。
「……どうして。折角、忘れようとしているのに。お前もコタローのことは、忘れなさい」
「忘れないよ! シンタローは、コタローのことは忘れないよ!」
「私のことは忘れても、コタローのことは忘れないんだね、お前は」
「忘れない。シンタローは、みんな、忘れないよ!」
「可愛い顔をして、嘘ばかりさ、お前は……」
「パパ、聞いて」
黒髪の子は言い募る。握りしめた、小さな手を振る。
「シンタローのこころのじかんは、おわりかけてるの」
マジックは、この台詞には形の良い眉を顰めた。
「時間が……終わりかけている? それはどういうことかな」
彼は目の前の幻が消えようとしているのではないかと、そのことだけに焦りを持った。
「パパを好きだったときの、シンタローのこころが。きえそうなの」
子供が説明することは、よく理解ができなかった。
私を好きだった時の、シンタローの心が。
現在のシンタローが、落として無くしてしまった心が。
消えてしまう……?
「そうなったら、もう、おしまいなの。もう、もどれないの」
時間は終わる。
そうなったら、パパを好きだった時のシンタローに、もう戻れない。
そう、幻は告げた。
「シンタローは、それがいや。だから、きょう、ここにきたんだよ」
夢とは理解できないことで満ちている世界だから。
そうやってマジックは、この非現実的な状況に結論付けようとするのだが。
人は、夢を見て願望充足をするのだという心理学的知識が脳裏を掠め、うんざりした気持ちになった。
シンタローが、私を好きだった時。いや、少なくとも好きだという、言葉をくれたあの時に。
私は……。こんなにも戻りたいのだろうか。
何でもいいから、あの子の言葉が欲しい。
ああ、私は物乞いにまで堕ちてしまったのだと、マジックは溜息をつく。
しかし、今更のことだった。
自分は信じられないくらいに、惨めで、浅ましい人間だった。
あの子の気持ちを、手に入れることは不可能だということを、とっくの昔に、自分は受け入れていたはずだったのにと、自らを情けなく思う。
「あのね、パパのところに」
子供は、そんな自分の心境を他所に、言葉を続けていく。
「三人の亡霊が、やってくるよ」
「パパ、おねがい。その三人と、あって」
パパが三人の亡霊と会ってくれないと。
シンタローの心は、消えてしまう。
何を馬鹿馬鹿しい、とマジックは感じたが、必死な幼い顔を見ていると、胸が締め付けられた。
その黒い目の淵に、涙が溜まっていた。それは、とても綺麗な液体だと感じた。
お馬鹿さんだね、シンタロー。
いつだって。お前、すぐに、泣いちゃうんだね。
私は、すぐに、泣かせてしまう。
私はお前を泣かせたくて仕方なくて、そして泣かせたくなくて仕方がない。
お前が泣くのを見るのが、辛いんだ。
そして泣くのを見るのが、楽しいんだ。
そんな浮き沈み。感情の明滅と、甘い味と苦い味。
どちらにしても、私はお前に囚われる。お前が去った後も、囚われている。
「パパ……三人とあって……クリスマス、思い出して……」
潤んだ泣き声すら、自分は可愛いと感じる。
「……」
マジックは、微かに鼻で笑った。思い出すなんて。
私の人生は、忘れることばかりだよ。
ただ、お前のことだけを。
私は胸に浮かべ、夢の中に浸り続ける。
「シンタローは、また、パパとあいたい……」
会いたい? 私だって会いたいさ。
お前は自分から逃げ出した癖に、よくそんなことを言える。
しかも、あの青の石を私から奪って。
「もういっかい、パパを好きになりたい……」
また私に嘘をつけと?
そうしたら、お前は騙されてくれるの? 私が化け物だということを忘れてくれるの?
それは無理でしょ。いつも不可能なことばかりで、私を困らせないで。
お前は、我儘な子だね。
「だから、忘れたこと……ぜんぶ、思い出して……おねがい」
そう言って、泣くのを我慢しようと口を引き結んだ、幼い子供の幻は、小さな右手を上げた。
その瞬間、何処かから、音楽が聞こえたような気がした。
悲嘆と後悔の泣き声、混乱した物音、金属の冷たい擦過音。
幼いシンタローはその音楽にちょっとの間、耳を傾けてから、その悲しい嘆きの歌に自らも加わるように、すうっと体を浮き上がらせる。
マジックの背後の窓の方へと、冷たく暗い夜の中へと、溶けるように身を滑らす。
消えていく。
「……シンタロー! 何処へ……!」
彼は追いすがるように、窓へと駆け寄ったが、窓の外には、薄い霧に包まれた闇があるだけだった。
不意に安楽椅子の上で、意識が弾ける。
マジックは、瞑っていた目を開いた。
自室は薄暗く、ぼんやりと視界にうつろっている。いつもの空間。
暖炉の火は消え、蝋燭の灯は消え、静けさだけが夜の色だった。
傍らのデスクには、小さなクリスマスリース。
夢から覚めた後の疲労感と、乾いた舌。
幻の残滓。気怠い身体。
「……愚かな」
マジックは、そう自嘲を含んだ声音で呟くと、壁の掛時計に目をやる。
真鍮の振り子は規則正しく揺れ、鈍い輝きを放ち、何食わぬ顔で時を刻んでいた。
すでに午前三時を回っている。
窓から零れる、冷たい月明かり。青白い光。
マジックはしばらくその光の中で、目を瞑っていた。
そして立ち上がり、続きの間の寝室へと、向かった。
椅子の軋む音と、足音が、いやに耳についた。
彼は、やはり自分は愚かな男だと、思った。
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誰かを愛したい。
ずっと。
ずっと、誰かを愛することに、憧れていたよ。
1. クリスマスの亡霊
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白い雪の海原だった。
悲鳴が掻き消された後の静寂が、その空間を支配している。
閃光の名残。色彩のコントラスト。赤濁した血。黒い残骸。
指先を掠める、錆びた鉄のように素っ気無い風。
溶けた金属片、弾けた機械油、一瞬前はそこに命があったという痕跡。
立ち込める硝煙と、焦げた生き物の肉の臭いと、薄闇に染まる空。
空。
その空を仰いだマジックは、僅かに眉を顰めた。
少しやりすぎた。
自らの足場さえ、消炭にしてしまう所だった。
暴力的な蹂躙こそが、戦場では一番簡潔で、美しかった。
ここには、死はすぐ側に存在したが、自分からは遠い存在でしかない。
群れた命は土に還り、またすぐに蠢き出すだろう。
自分は絶対者として、その永遠の生命連鎖を速めてやっているにすぎない。
奪う者が奪っただけのことだ。何の感慨もない。
ただ彼は、自らの力の不安定さだけが、気になった。
ここには制御力を増幅する秘石がないので、微妙な加減を見誤る。
マジックは、自分の手を見た。
それは、傷一つ無い、温色のない青ざめた形をしていた。
そう、この手が。
この手が常に触れていた、青い石がない。
奪われた。
……あの子に。
「……凄まじ……破壊……総帥! これで……版図に……」
背後で部下が確認報告をしている。
その声音に喜色を感じ、乾燥した砂を想い、睫毛の先に残り火を見る。
そうか。私は、この地も手に入れたのか。
そう思い、周囲の焦土を見渡してみたが、枯れた大地にはすでに何の魅力も感じなかった。
雪と、かつて命あったものの残骸で染まった大地。
ひとつの大地。それは、破壊するまでは、自分にとってはそれなりの価値があるように見えた。
しかし手に入れた瞬間、その価値は、途端に失われてしまう。
マジックの執着は、今この手に触れる淡雪のように、溶けて消える。
興味がなくなってしまう。そして次の獲物に関心が移る。
つまるところ自分は、物事の価値そのものよりも、それを手に入れることだけに憑かれているのだと思う。
熱情は、伸ばした指先が届かない所にしか、存在しない。
世界は、大地は。広すぎれば広すぎる程、自分を駆り立てるのだと思う。
だからきっと。
あの子をこうして奪うことができないということが、自分にとっての幸せなのかもしれなかった。
手に入れることができないから。私はいつまでもあの子を、愛することができる。
何かを欲しいと思っても、それはすぐに私の手の内に入ってしまうから。
熱は消え失せ、刹那的な執着は消え失せ、私の心はいつもお前へと還る。
何かを支配した後の空虚感、陶酔の後の徒労とやるせなさ。
溜息の世界。
そんな瞬間、いつも最後に私が行き着くのは、お前の面影。
お前にばかり。
私は焦がれて身を焼き尽くす。
日は落ち、海の下に堕ち、遠くなる戦場の鼓動。
船は翼を広げ、大地を飛び立ち、来た場所へと向かう。
陰陽の揺らめきでしかない日常。際限のない、繰り返しの日々。
地表で。暗い闇の中で。都市の光は明滅し、交錯し、享楽の華やぎと喪失の陰りを伝える。
極彩色のイルミネーション。眠らない街。
遥か上空、飛空挺の窓からマジックはそれを目にし、今日という日を知る。
そうか。今宵はクリスマス・イヴ。
しかし、現在の自分には、それは何の意味も持たない言葉だった。
微かに昔を思い出しかけたが、すぐにやめた。
息をつく。
それから、もう窓の外は見なかった。
本部に戻ると、彼は自室に何処か違和感を覚えた。先程と違う。
柔い絨毯を踏みしめた数歩先で、すぐにその原因を理解する。
デスクの上に、小さなクリスマスリース。
定番のヒイラギやネズエダを絡ませ、銀のリボンと赤い薔薇で作られた輪。
ティラミスとチョコレートロマンスの仕業だなと思ったが、今のマジックは、それを煩わしいとさえ感じる。
そんな気分ではなかった。
その後二人が、夜の定例報告に来たが、相手も心得たもので、全く表情にも出さない。
不機嫌な自分に対して、部下は部下なりに気を使っているようだ。
読み上げられる過去三時間分の戦況報告。
自軍損傷率と死傷率、そして航空偵察と衛星等から割り出した、敵軍の同じ台所事情。
南方戦線では、市街地に、武装勢力が市民を盾に強固な防御陣地を築いているとのことで、装甲車を突入させて、威力偵察の遂行を命じた。
最低でも、地雷原と築城構造物の位置情報だけは入手する必要があった。
自分の出陣時期は、それ次第。
……そして先刻、自分が敵主力を破壊したばかりの戦場では、敗残兵の掃討戦が佳境に入ったようだ。
あの国では、宗教による統治が行われていて、その最高権力者は自らを大司教と名乗っていた。
その大司教閣下の高貴なる御口には、身柄拘束の後に大量の自白罪を投与してあったが、数度目の致死ラインで、やっと情報を漏らし始めたという。
確かその宗教はキリスト教亜種で、彼らにとっても、クリスマスやイヴは特別な日であったはずだ。
救世主の祭日が、自らの最後の日。
皮肉なものだと、マジックはぼんやりと赤く燃える暖炉の火に、青い目をやった。
報告は淡々としてまだ続いている。
早く、一人になりたかった。
夜が更け、マジックは安楽椅子に身を埋め、ゆっくりと目を瞑る。
望んでいた一人の世界は静寂に満ちていたが、思考の掻き乱れる深淵だった。
浮かぶのは、微かな幸せの記憶。
暖炉の火が、ごうと燃えた。
赤い炎と、側の燭台の、蝋燭の揺らめき。窓の外の、夜の息使い。
自分が、こんな時。心に描くのは、いつもただ一人。
お前の顔。お前の記憶。
私から去ってしまった、愛しい影。
笑い声が聞こえる。浮かんでくる幼い顔。
遠い昔の出来事。
『パパー! こっちだよ! こっち!』
甘く脳裏に響く過去の声。それに自分は、語りかけずにはいられない。
ねえ、シンタロー。小さい頃はよく一緒に遊んだね。
追いかけっこ、したよね。笑い合いながら。
お前は、私を大好きって。私もお前を、大好きって。
楽しかった?
私は……楽しかったよ。
とても、楽しかった。幸せだと感じていた。
ほら、今だって。こうして、目を瞑って。
私は、その幸せの名残を懐かしむ。あの頃を――
ねえ……シンタロー。お前は……私といて、楽しかった……?
幸せだった……?
そんなの。お前は聞いても、答えてくれるかな。答えてはくれないよね。
そう空虚な内面に、いつも通りに問いを繰り返すと、目の前に、幼い黒髪黒目の子供が。
おぼろげだったその面影が、はっきりとその姿を現した。
明瞭な存在感が傍らにある。
今、小さなシンタローが自分の側にいる。
ああ、ここは夢の中の世界なんだと、マジックは思った。
「あのね、パパ」
3、4歳くらいだろうか。
過去のシンタローは、小さな手を一生懸命に振って、椅子から立ち上がった、背の高い自分に訴えかけてくる。
そんな姿を見て、マジックは、腰を屈めると、幼い子供に視線を合わせて、少し笑った。
いつもそうだね、シンちゃん。お前は、いつも、一生懸命。
いつも私を、真っ直ぐな瞳で見つめてくる。
一族誰もが持っていない、その黒いお前だけの瞳で。
「あのね、パパ」
そう、こうやって必死に、私に何か言おうとするのさ。
私はそんなお前が、好きだった。
今だって。でも今は。
大きくなったお前はもう、私に何か言うのを、やめてしまったんだね。
諦めて……去ってしまった。遠い南の島へと。
私を捨てて。
「あのね、パパは、ひどいことをしてるよ」
「……」
「そんなパパは、きらわれても、しかたないの」
「……」
マジックは、幼子の小さな動く口を見ていただけだった。
ああ、昔は。この口が次は何を喋るか、そればかりが楽しみで。
ずっと眺めていたよ。飽きなくて、飽きなくて。
可愛らしい声と、可愛らしい台詞と、可愛らしい唇。
もう、お前とは夢の中でしか、会えないんだね。
マジックは、その唇に手を伸ばし、そっと触った。
柔らかかった。
ねえ、シンちゃん。
歌うように口ずさみながら、指でその感触を確かめる。
大きくならないで、シンちゃん。
こんな、何も知らない小さいままでいて。
だって、大きくなったら、お前は私から、逃げてしまうよね?
「酷い? 何も、酷くなんてないさ」
自分の口が勝手に言葉を紡いで、幻に向かって返事をした。
何でもいいから会話を続けて、この存在を少しでも長く引き止めておきたかった。
「私は何も酷いことなんて、していない。酷いと言うなら、私から逃げたお前が一番酷いでしょ」
ねえ? シンちゃん。
そう言ってやると、幻の子供は黒い瞳を揺らめかせた後、また薄桃色の唇を開く。
マジックは、目を細めてそれを見守った。
「パパは、コタローに、ひどいことをしたの」
やはり、この黒髪の子供は、可愛い顔をしていると思う。
何を言っても可愛い。どんな台詞を言っても、同じ。
そして、自分はこの顔に笑って欲しいなと思うけれども。
子供は、懸命に喋っているので、それは望めなそうな雰囲気だった。
でも、この顔が。紅潮した頬が、もっともらしく顰めた眉が、真剣な黒い目が。
とても可愛い。
「パパ! きいて! シンタローのはなしを、きいて!」
「どうして。聞いてるよ。ちゃんと、聞いてる」
マジックは陶然として呟いた。
「いま、パパの、めのまえにいる、シンタローはね。むかしのね。シンタローが、パパを好きだったときの、こころだよ」
聞いてと言うから、ちゃんと聞いてみたが。
この子供は、おかしなことを言い出す。夢の中の存在の癖に。
昔、お前が、私を好きだったなんて。そんなことを言い出す。
マジックが黙っていると、また、パパ、きいて! と必死に言い募ってくるので、聞いていた証に、言葉を返す。
「……シンタローが私を好きだった時の……心?」
初めてまともに自分の反応を得た子供は、嬉しそうな表情を見せた。
それを見てマジックは、こうやって自分が答えてやると、この子の喜ぶ顔を見ることができるのかと思った。
「パパがひどいことをしたから」
だから、幼い声に優しく答えてやろうと決める。
「そうだね、酷いことをしたからね」
「パパがひどいことをしたから、シンタローは、パパを好きだったときのこころを、おとして、なくしちゃったの」
「そうだろうね、落として無くしちゃったんだろうね」
「だから、パパを好きだったときの、こころは、ずっと、こうやってまいごになってるの。ずっと、いくばしょがないの」
「大きくなったシンタローは、全てを捨てて南の島に去ってしまったからね……」
「ずっと、まいごなの」
小さなシンタローの黒目がちな瞳は、澄み切っていた。
細い肩と足が、懐かしかった。
その姿を見ていると、マジックは、その子を抱き締めたいという衝動に駆られる。
過去、よくしていたように。
しかし思い止まり、じっと子供を見つめている。
抱き締めると、幻の子供は、消えてしまいそうだったから。
だから、ただ、じっと。見つめる。
心の中で、語りかけるように。
でもね、シンタロー。
シンタロー。
私を大好きだと、確かに昔のお前は言った。
覚えているさ。懐かしい。
あの頃のお前に、私はこうして会いたくて堪らない。自分が哀れな程さ。
でもね。
お前が幼い頃に好きだったのは、本当の私の姿ではない。
私はお前を騙していたし。お前だって、見ない振りをしていた。
それでも何も知らない子供で、幼さしか持ち合わせていなかったお前は。
私しか頼るものがなくて、他に選択肢がなかったから。
私が父親という立場だったから。
それだけの理由で、無邪気に私を好きだと言っていたんだよね。
お前が本当に私を好きだったことなんて、一度だってないのだと、私は思う。
私は何十億人の中からだって、お前一人を選ぶけれども。
お前は、数人の中からだって、私を選ばないような気がする。
だから、私はお前を縛りたいと感じるけれども。
そうすれば、そうする程、私はお前に嫌われていくのだろう。
だけど、そうするしかないんだよ。
どうしてだろうね?
でも、私はそうする他に。
どうすることもできないんだよ。
「だからね、シンタローのこころは、かなしい」
目の前の懐かしい子供は、言葉を続ける。
悲しい。
マジックは、ゆっくりと口の中で、その言葉を反芻する。
哀しい。
私に騙されたことが……?
そうだろうね。
私は自分の特殊能力だって、眼のことだって、一族のことだって、あの……コタローのことだって……。
全て、お前に隠してきたよ。
それが最善の道だった等と、戯言を呟くつもりはない。
ああ、そうさ。怖かったからだよ。
お前に、少しでも長くの間、偽の私でもいいから、好かれたままでいたかった。
全てはつながっているから。一つ明かせば、全てを明かすことになる。
真実は鎖のように連なり繋がり、私とお前を縛るのさ。
その鎖の一端をお前が握ってしまえば、お前は、全てを知ろうとし、束縛を解こうとするだろう。
常に光の差す方へしか、歩めない子。
私はそんなお前が好きだよ。
だがね。そうしたら、きっとお前は、死んでしまうよ。
賭けてもいい。
お前は、その愛する弟に、殺される。
確実にコタローを助けようとするお前は、その暴走した力に、いつか殺される。
そんな残酷な未来を、私がお前に告げられると、思うかい……?
「パパ。パパ!」
幼子の黒い瞳は、自分を飲み込んでいくようだと、マジックは思った。
黒。
どうしてか、私はこの色に惹かれる……。
この色は、私を煽り、狂おしい想いを呼び起こす。
「パパ。パパ、クリスマスを思い出して」
その中で、言葉を繰り返す頑是無い声。
シンタロー。私の可愛い子。
思い出せと言われても。何を?
「パパ。パパ、コタローのこと、思い出して」
黒い睫毛が、忙しく瞬きをし、光を弾く。
だが弾けた光は、自分が指を伸ばすと、消えてしまう。
私には、一生届かない光。
それがお前の光。
「パパ、思い出して」
その必死な姿に、マジックは再び口を開く。
「……どうして。折角、忘れようとしているのに。お前もコタローのことは、忘れなさい」
「忘れないよ! シンタローは、コタローのことは忘れないよ!」
「私のことは忘れても、コタローのことは忘れないんだね、お前は」
「忘れない。シンタローは、みんな、忘れないよ!」
「可愛い顔をして、嘘ばかりさ、お前は……」
「パパ、聞いて」
黒髪の子は言い募る。握りしめた、小さな手を振る。
「シンタローのこころのじかんは、おわりかけてるの」
マジックは、この台詞には形の良い眉を顰めた。
「時間が……終わりかけている? それはどういうことかな」
彼は目の前の幻が消えようとしているのではないかと、そのことだけに焦りを持った。
「パパを好きだったときの、シンタローのこころが。きえそうなの」
子供が説明することは、よく理解ができなかった。
私を好きだった時の、シンタローの心が。
現在のシンタローが、落として無くしてしまった心が。
消えてしまう……?
「そうなったら、もう、おしまいなの。もう、もどれないの」
時間は終わる。
そうなったら、パパを好きだった時のシンタローに、もう戻れない。
そう、幻は告げた。
「シンタローは、それがいや。だから、きょう、ここにきたんだよ」
夢とは理解できないことで満ちている世界だから。
そうやってマジックは、この非現実的な状況に結論付けようとするのだが。
人は、夢を見て願望充足をするのだという心理学的知識が脳裏を掠め、うんざりした気持ちになった。
シンタローが、私を好きだった時。いや、少なくとも好きだという、言葉をくれたあの時に。
私は……。こんなにも戻りたいのだろうか。
何でもいいから、あの子の言葉が欲しい。
ああ、私は物乞いにまで堕ちてしまったのだと、マジックは溜息をつく。
しかし、今更のことだった。
自分は信じられないくらいに、惨めで、浅ましい人間だった。
あの子の気持ちを、手に入れることは不可能だということを、とっくの昔に、自分は受け入れていたはずだったのにと、自らを情けなく思う。
「あのね、パパのところに」
子供は、そんな自分の心境を他所に、言葉を続けていく。
「三人の亡霊が、やってくるよ」
「パパ、おねがい。その三人と、あって」
パパが三人の亡霊と会ってくれないと。
シンタローの心は、消えてしまう。
何を馬鹿馬鹿しい、とマジックは感じたが、必死な幼い顔を見ていると、胸が締め付けられた。
その黒い目の淵に、涙が溜まっていた。それは、とても綺麗な液体だと感じた。
お馬鹿さんだね、シンタロー。
いつだって。お前、すぐに、泣いちゃうんだね。
私は、すぐに、泣かせてしまう。
私はお前を泣かせたくて仕方なくて、そして泣かせたくなくて仕方がない。
お前が泣くのを見るのが、辛いんだ。
そして泣くのを見るのが、楽しいんだ。
そんな浮き沈み。感情の明滅と、甘い味と苦い味。
どちらにしても、私はお前に囚われる。お前が去った後も、囚われている。
「パパ……三人とあって……クリスマス、思い出して……」
潤んだ泣き声すら、自分は可愛いと感じる。
「……」
マジックは、微かに鼻で笑った。思い出すなんて。
私の人生は、忘れることばかりだよ。
ただ、お前のことだけを。
私は胸に浮かべ、夢の中に浸り続ける。
「シンタローは、また、パパとあいたい……」
会いたい? 私だって会いたいさ。
お前は自分から逃げ出した癖に、よくそんなことを言える。
しかも、あの青の石を私から奪って。
「もういっかい、パパを好きになりたい……」
また私に嘘をつけと?
そうしたら、お前は騙されてくれるの? 私が化け物だということを忘れてくれるの?
それは無理でしょ。いつも不可能なことばかりで、私を困らせないで。
お前は、我儘な子だね。
「だから、忘れたこと……ぜんぶ、思い出して……おねがい」
そう言って、泣くのを我慢しようと口を引き結んだ、幼い子供の幻は、小さな右手を上げた。
その瞬間、何処かから、音楽が聞こえたような気がした。
悲嘆と後悔の泣き声、混乱した物音、金属の冷たい擦過音。
幼いシンタローはその音楽にちょっとの間、耳を傾けてから、その悲しい嘆きの歌に自らも加わるように、すうっと体を浮き上がらせる。
マジックの背後の窓の方へと、冷たく暗い夜の中へと、溶けるように身を滑らす。
消えていく。
「……シンタロー! 何処へ……!」
彼は追いすがるように、窓へと駆け寄ったが、窓の外には、薄い霧に包まれた闇があるだけだった。
不意に安楽椅子の上で、意識が弾ける。
マジックは、瞑っていた目を開いた。
自室は薄暗く、ぼんやりと視界にうつろっている。いつもの空間。
暖炉の火は消え、蝋燭の灯は消え、静けさだけが夜の色だった。
傍らのデスクには、小さなクリスマスリース。
夢から覚めた後の疲労感と、乾いた舌。
幻の残滓。気怠い身体。
「……愚かな」
マジックは、そう自嘲を含んだ声音で呟くと、壁の掛時計に目をやる。
真鍮の振り子は規則正しく揺れ、鈍い輝きを放ち、何食わぬ顔で時を刻んでいた。
すでに午前三時を回っている。
窓から零れる、冷たい月明かり。青白い光。
マジックはしばらくその光の中で、目を瞑っていた。
そして立ち上がり、続きの間の寝室へと、向かった。
椅子の軋む音と、足音が、いやに耳についた。
彼は、やはり自分は愚かな男だと、思った。
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